<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<rss version="2.0"
     xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
     xmlns:itunes="http://www.itunes.com/DTDs/Podcast-1.0.dtd">
  <channel>
    <title>カンガルーは荒野を夢見る</title>
    <link>https://elleryqueen.seesaa.net/</link>
    <description>本、映画、日本語の面白さを深く掘り下げて情報発信していきます。</description>
    <language>ja</language>
    <docs>http://blogs.law.harvard.edu/tech/rss</docs>
    <itunes:subtitle></itunes:subtitle>
    <itunes:summary>本、映画、日本語の面白さを深く掘り下げて情報発信していきます。</itunes:summary>
    <itunes:keywords>読書,図書館,文学,ミステリー,評論,マンガ,本,書籍,書店,ノンフィクション,映画,育児,折り紙,将棋</itunes:keywords>
    
    <itunes:author>アスラン</itunes:author>
    <itunes:owner>    
       <itunes:name></itunes:name>
       <itunes:email></itunes:email>
    </itunes:owner>
        <itunes:explicit>no</itunes:explicit>
        <item>
      <link>https://elleryqueen.seesaa.net/article/521235323.html</link>
      <title>プロジェクト・ヘイル・メアリー　(2026年7月20日アマゾン・プライム)</title>
      <pubDate>Tue, 01 Sep 2026 16:45:53 +0900</pubDate>
            <description>、　すでに劇場公開前に原作(単行本)上下巻を読み終わっていた。その際の書評では、原作に対してちょっとした不満を感じていると書いた。原作の面白さについては同意できるが、「傑作」とまで言うには抵抗があったのだ。　映画が公開されると映画自体もおおむね好評で、どうせ映画を見るならば、まずは先に原作を読んでおく方がいいという感想を持つ人も続出していた。そこには「映画は面白いが、原作の方がその何倍も面白い」という意見と、「映画は公開前の予告編の時点で、原作の重要部分をネタバレしているので..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E38397E383ADE382B8E382A7E382AFE38388E383BBE38398E382A4E383ABE383BBE383A1E382A2E383AAE383BC.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="&#x30D7;&#x30ED;&#x30B8;&#x30A7;&#x30AF;&#x30C8;&#x30FB;&#x30D8;&#x30A4;&#x30EB;&#x30FB;&#x30E1;&#x30A2;&#x30EA;&#x30FC;.jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E38397E383ADE382B8E382A7E382AFE38388E383BBE38398E382A4E383ABE383BBE383A1E382A2E383AAE383BC-thumbnail2.jpg" width="150" height="68"></a>、
　すでに劇場公開前に原作(単行本)上下巻を読み終わっていた。その際の<a href="https://elleryqueen.seesaa.net/article/520246269.html" target="_blank">書評</a>では、原作に対してちょっとした不満を感じていると書いた。原作の面白さについては同意できるが、「傑作」とまで言うには抵抗があったのだ。

　映画が公開されると映画自体もおおむね好評で、どうせ映画を見るならば、まずは先に原作を読んでおく方がいいという感想を持つ人も続出していた。そこには「映画は面白いが、原作の方がその何倍も面白い」という意見と、「映画は公開前の予告編の時点で、原作の重要部分をネタバレしているので、本編も予告編も見ないで原作を先に読んだ方がいい」という意見とに二分されるようだった。ならば、両方とも確認したい。原作をもう一度読んで「映画より何倍も面白いのか(要するに「傑作」なのか)」。そして「映画は果たして面白いのか面白くないのか」と。

　結局、原作の方は再びチャレンジするために文庫版を図書館で借りて読み直した。すると僥倖とでもいうのか、ちょうど同じ頃にアマゾン・プライムで早々と映画が視聴できるようになった(かつては映画会社ごとの暗黙のルールで半年から一年は待たされる事が多いイメージだったが、レンタルショップを経てサブスク時代に突入すると、映画好きの記憶が薄れないうちにネットで思う存分見られるようになっていた)。なので文庫版の原作を再読している最中に、映画を見ておきたいという願いも叶ってしまった。

　そこで、ここから映画の話をする。映画と原作とを比べて論うのでネタバレも辞さない。もし未読・未視聴の方がいらっしゃったら、以後の感想を読まないようにご注意願います。

　一人の男が人工冬眠から目覚める場面から始まる。主人公は人工冬眠による技術的トラブルなのか記憶障害を引き起こしていて、自分の名前も、今この狭い室内に置かれている状況も、一切思い出せない。もちろん、既に予告編でも宇宙での物語である事は明かされている。原作にしたところで表紙は宇宙遊泳をする宇宙飛行士をモチーフにしているので、男が宇宙船の中にいることは観客には容易に想像がつく。ただし原作では、目覚めた主人公に介護ロボットがなんども「１＋１は？」と問いかけ、間違えるたびに安静のための処置を行うので、主人公はなかなか自由に動き回ることが出来ない。窓も一切ない密室なのでどこにいるかさえも分からない。てっぺんにあるハッチをあければ別室に出られると考えた主人公は、数日かけてなんとかたどり着くが、ハッチを解除するには「あなたの名前は？」という問いに答える必要がある。

　このもどかしい状況を一つ一つクリアしていくところが原作の最大の魅力と言っても良いだろう。ところが映画では、介護ロボットからの「１＋１は？」の問いを二度聞く事は無い。そのままロボットから逃れてベッドから落ち、筋力の回復を待つことなく、パスワードの自分の名前を思い出す事なく、上部に登り、窓から宇宙空間を見る事になる。この序盤は、原作を既に読んでいる本好きからすれば「もったいない」の一言だ。その後に幾度となく襲いかかる難題をクリアするために、主人公は超人的な能力を発揮する事なく、ストーリーの最初から最後まで失敗と成功とを繰り返しながら、まるでＲＰＧゲームのように一歩また一歩と前に進んでいくからだ。

　その意味では、原作にとって最も面白いと思われる描写をあきらめるところから、映画の脚本は構想されていると言ってよいだろう。映画は傍観者の視線で主人公に降りかかる状況を見ていく。原作のような一人称視点では見ていないので、原作どおりのストーリー構成など端から無理なのだ。映画好きの立場からこの作品を見ると非常にテンポよくドラマティックな場面に観客を誘導していると感じる。読者も観客も既に知っている事、つまり「主人公が今いるのは地球ではなく宇宙である」という事実に主人公が気づく瞬間にあっという間に立ち会う事で、観客は主人公の驚きと絶望とを一気に共有する事になるからだ。

　ちょっとわき道に逸れるが、漫画『ミステリと言う勿れ』の中で、映画やドラマでは日数をかけて何かに打ち込む人物を描く時に「何故、(映像をモンタージュして)省略してしまうのだろう。本当はその中身が重要なのに」と言うような事を、主人公の整(ととのう)が言う場面があった。確かにそのとおりなのだが、それはメディアの本質をあえて棚上げした上で難癖をつけているとも言える。小説ならばそれは可能だし、そう書かないで省略してあったら手抜きだ。一方、映画の場合は２時間前後でストーリー全体を語る(描く)ために、描かねばならない事以外は映像を省略したり圧縮したりする必要に迫られる。「あきらめる事」「より重要な部分を選択する事」は、まさに映像作家の腕の見せどころとなる。

　今回の作品で主人公ライランド・グレースは、かつては生物学で「生命に水素は必ずしも必須ではない」と自信満々に自説を展開し、学会の錚々たる重鎮らをこけおろし、挙げ句の果てに学会全体の不興を買い、アカデミックな世界から追われ、いまや小学校の理科(科学)の教師に甘んじている。そういった経歴の持ち主が、人類存亡の危機に立ち向かうプロジェクト「ヘイル・メアリー」(一か八かの計画)に関わる事になった経緯を詳しく描写し、失われた記憶を取り戻すうえで「計画の一端を担う一兵卒にすぎない自分が、何故宇宙船の乗員３名のうちの１名になったのか」という最大の謎を明らかにする事が原作の主眼であると思っている。これらを解き明かしていく過程で、ライランドはホームズのように高度な知性で瞬時に物事を解き明かしていくのではなく、ワトソンのように客観的な視線で物事を捉え、ひたすらスモールステップを繰り返し、トライアンドエラーにより答にたどり着く。これは言わばエンジニアの資質と言っていい。

　だからこそ、一つのエピソードを深掘りし、無数の実験や計算をして答を導出するライランドの姿を描くために、著者は文字数を費やす事を厭わない。しかし、そのこだわりを捨てる事ができないが故に、物語の終盤になって情緒的に心が揺さぶられる場面が増えてきても、原作は次の難関を飛び越えるために試行錯誤するライランドを描く手綱を緩めることはない。そのせいで、僕のような感情移入や思い入れの激しい読者は置き去りにされる。涙を誘う場面で心ゆくまで無く事ができないのだ。その点が読後に「傑作」という感想を持てなかった理由なのかもしれない。

　原作の障害となる部分を乗り越えるために、映画ではエピソードの絞り込み、映像の省略・圧縮などとともに、様々なストーリー上の改変を行っている。例えば、地球外生命であるロッキーとの出会いでは、会話を円滑に成立させるために音声情報から音声翻訳までが可能になるようにしている。原作ではまだWindows97搭載のPCしか出てこないような時代なのに、現在のレベルのAIがたちどころに音声翻訳やボイス生成を行い、ロッキーの見た目などアバターの一つに過ぎないかのように描かれる。原作では見た目は蜘蛛に近く、住む環境も人間の環境と比べると高温・多湿で、空気にはアンモニアが過剰に含まれ、なにより言語は人類の言語とはまったく異なり、音をフーリエ変換で音声スペクトラムに変換しないと理解できない。原作ですら実験や演算による分析にご都合主義を持ち込まざるを得ない。まして２時間の映画では、さらにご都合主義を上塗りしてハリウッド映画が得意とするヒーロー物のテンプレートに落とし込んでいく。これもまた、致し方ない。

　これ以外にも映画では重要な改変が行われている。これらの改変の是非については検討がぜひとも必要だ。一つは「ライランドは命がけの使命を全うする宇宙飛行士ではなく、まったくの素人にすぎない」という点だ。僕がこれまで多少なりとも読んできたＳＦは、発表当時の社会情勢を反映して「超管理社会」「超全体主義」「科学の進展に伴い人間性を失った人類」「人類対AI」「人類対知的生命体(神を含む)」などが大きなテーマだった。どれもこれもネガティブな世界観で満たされており、読む者を憂鬱にさせる内容が多い。それが苦手だった。かといって、脳天気なヒーロー物のスペースサーガを見たいわけでもなかった。その後、日本では『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』そして『機動戦士ガンダム』などのアニメが作られた。そう、少なくとも僕は宇宙を舞台にした人間ドラマが見たかったのだ。

　日本では「エヴァンゲリオン」に到って「素人が、宇宙もしくは宇宙から侵略を受けた地球を守る」というテーゼを着実に展開していくが、いずれも素人でありながら特殊な能力を持って戦うという日本式のドラマティックなヒーロー像を推し進めた結果だと言える。本作のように、本当に素人でありながら人類を救うという使命を託されるというのは、非常に興味深い設定に思われる。映画ではライランドは「ヘタレ」な人間として描かれる。どうせミッションが失敗すれば人類はすべて死滅するのだから、同じ死ぬならば「使命を全うする」事を選ぶべきではないのか。そういうロジックで、映画は「ヘタレ」な主人公を追い詰めていく。

　だが、原作で描かれるように「同じ死ぬならば、信頼されている生徒たちに囲まれて一人の理科の先生として死にたい」という主人公の望みは、決してヘタレだと非難されるようなものではない。そこが悲しい。悲しいと同時に美しい。強制されて美化されるよりも、凡庸でもいいから一人の人間として人生を生きたい。それが、実はミッション成功後の彼の境遇を裏側から照らしていく。映画では表側からしか彼の心情を描いてはいない。そこが物足りない。

　この「素人が強制されて使命を果たす」事を補完するために、映画は人間関係にも手を加えている。宇宙船が飛び立つ直前で起きた事故で、選抜され訓練済みの宇宙飛行士が数名亡くなった。そこで、最適な人物として選ばれたのがライランドで、そこにライランドの都合は加味されない。あくまで決定された事である。原作では、プロジェクトの最高責任者エヴァ・ストラットが無慈悲にも決断し、ライランド本人の希望を無視して強制的に人工冬眠させた後、宇宙船に乗せてしまう。そこにエヴァの心情が一切描写されないのは、僕としては不満なのだが、ライランドの心情に焦点を当てる事を著者は選択したのだと、一応は納得しておく。

　一方、映画ではエヴァの苦しい胸の内が描かれ、ライランドと心を通わす場面があるし、ちょっとした打ち上げ会で歌って人間らしいところを見せる場面もある。これはラストシーンの伏線になっている。ライランドはミッションを成功させ、地球にアストロファージを殲滅するための細胞と取り扱い説明書とを送り、同時に危機に陥った友ロッキーを助けにいく事で地球に帰還しないという重要な決断に迫られる。しかし、地球に届いた細胞と対処法で速やかな対応を指示していくエヴァが、ライランドの送った映像と言葉に耳を傾けて笑顔を見せるシーンは、ハッピーエンドで映画が終わる事を予告している。彼女の笑顔が無理なく引き出せるように、無慈悲で冷酷な素振りを見せるエヴァの人間味を描いておいたのだ。

　映画ではアストロファージの残量から「行ったきりで帰りのない」ミッションだったが、ロッキーの宇宙船に搭載された余剰のアストロファージを分けてもらって帰ることが可能になる。喜んだのもつかの間、危機に陥ったロッキーを助けに戻る事で地球には帰らないとライランドは決断する。ここは原作と同じなのだが、原作では事実上「地球に帰れなくなる」のに、映画では「地球に帰らずにロッキーの星でとりあえず暮らす」事になる点が大きく異なる。原作のポイントは、もはやミッションが成功したところで、ライランドが地球に戻る意味がないという事になる。地球との距離に加えて相対性理論の効果により、自分を信頼していた生徒たちは成人となっている。もう、ライランドが描いた穏やかな人生は取り戻せない。

　ところが、映画ではロッキーは命の恩人でもある友に最適な住環境を用意し、「帰りたければ地球に帰ってもいいよ」とライランドに声をかける。ハッピーエンドを貫くため、原作の科学的根拠は無視される。原作も映画もラストは、ロッキーの故郷エリダニ40の子供たちに理科の授業を行い、科学的問いを投げかける場面で終わる。原作は決してハッピーエンドではない。エリダニ40の子供たちはライランドの慰めにはなるが、遙かに遠い異星にただ一人の地球人として生きていく寂しさは消えない。映画は多くのハリウッド映画好きを満足させるためにハッピーエンドに改編したが、少なくともこの一点に関してだけは認めがたい。絵空事ではなく、強制されて人生を奪われた人間ライランドの切なさに共感できるようなエンディングにするべきだったように思う。<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E38397E383ADE382B8E382A7E382AFE38388E383BBE38398E382A4E383ABE383BBE383A1E382A2E383AAE383BC.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="プロジェクト・ヘイル・メアリー.jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E38397E383ADE382B8E382A7E382AFE38388E383BBE38398E382A4E383ABE383BBE383A1E382A2E383AAE383BC-thumbnail2.jpg" width="150" height="68" onclick="location.href = 'https://elleryqueen.seesaa.net/upload/detail/image/E38397E383ADE382B8E382A7E382AFE38388E383BBE38398E382A4E383ABE383BBE383A1E382A2E383AAE383BC-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a>、<br />　すでに劇場公開前に原作(単行本)上下巻を読み終わっていた。その際の<a href="https://elleryqueen.seesaa.net/article/520246269.html" target="_blank">書評</a>では、原作に対してちょっとした不満を感じていると書いた。原作の面白さについては同意できるが、「傑作」とまで言うには抵抗があったのだ。<br /><br />　映画が公開されると映画自体もおおむね好評で、どうせ映画を見るならば、まずは先に原作を読んでおく方がいいという感想を持つ人も続出していた。そこには「映画は面白いが、原作の方がその何倍も面白い」という意見と、「映画は公開前の予告編の時点で、原作の重要部分をネタバレしているので、本編も予告編も見ないで原作を先に読んだ方がいい」という意見とに二分されるようだった。ならば、両方とも確認したい。原作をもう一度読んで「映画より何倍も面白いのか(要するに「傑作」なのか)」。そして「映画は果たして面白いのか面白くないのか」と。<br /><br />　結局、原作の方は再びチャレンジするために文庫版を図書館で借りて読み直した。すると僥倖とでもいうのか、ちょうど同じ頃にアマゾン・プライムで早々と映画が視聴できるようになった(かつては映画会社ごとの暗黙のルールで半年から一年は待たされる事が多いイメージだったが、レンタルショップを経てサブスク時代に突入すると、映画好きの記憶が薄れないうちにネットで思う存分見られるようになっていた)。なので文庫版の原作を再読している最中に、映画を見ておきたいという願いも叶ってしまった。<br /><br />　<span style="color:#ff0000;">そこで、ここから映画の話をする。映画と原作とを比べて論うのでネタバレも辞さない。もし未読・未視聴の方がいらっしゃったら、以後の感想を読まないようにご注意願います。</span><br /><br />　一人の男が人工冬眠から目覚める場面から始まる。主人公は人工冬眠による技術的トラブルなのか記憶障害を引き起こしていて、自分の名前も、今この狭い室内に置かれている状況も、一切思い出せない。もちろん、既に予告編でも宇宙での物語である事は明かされている。原作にしたところで表紙は宇宙遊泳をする宇宙飛行士をモチーフにしているので、男が宇宙船の中にいることは観客には容易に想像がつく。ただし原作では、目覚めた主人公に介護ロボットがなんども「１＋１は？」と問いかけ、間違えるたびに安静のための処置を行うので、主人公はなかなか自由に動き回ることが出来ない。窓も一切ない密室なのでどこにいるかさえも分からない。てっぺんにあるハッチをあければ別室に出られると考えた主人公は、数日かけてなんとかたどり着くが、ハッチを解除するには「あなたの名前は？」という問いに答える必要がある。<br /><br />　このもどかしい状況を一つ一つクリアしていくところが原作の最大の魅力と言っても良いだろう。ところが映画では、介護ロボットからの「１＋１は？」の問いを二度聞く事は無い。そのままロボットから逃れてベッドから落ち、筋力の回復を待つことなく、パスワードの自分の名前を思い出す事なく、上部に登り、窓から宇宙空間を見る事になる。この序盤は、原作を既に読んでいる本好きからすれば「もったいない」の一言だ。その後に幾度となく襲いかかる難題をクリアするために、主人公は超人的な能力を発揮する事なく、ストーリーの最初から最後まで失敗と成功とを繰り返しながら、まるでＲＰＧゲームのように一歩また一歩と前に進んでいくからだ。<br /><br />　その意味では、原作にとって最も面白いと思われる描写をあきらめるところから、映画の脚本は構想されていると言ってよいだろう。映画は傍観者の視線で主人公に降りかかる状況を見ていく。原作のような一人称視点では見ていないので、原作どおりのストーリー構成など端から無理なのだ。映画好きの立場からこの作品を見ると非常にテンポよくドラマティックな場面に観客を誘導していると感じる。読者も観客も既に知っている事、つまり「主人公が今いるのは地球ではなく宇宙である」という事実に主人公が気づく瞬間にあっという間に立ち会う事で、観客は主人公の驚きと絶望とを一気に共有する事になるからだ。<br /><br />　ちょっとわき道に逸れるが、漫画『ミステリと言う勿れ』の中で、映画やドラマでは日数をかけて何かに打ち込む人物を描く時に「何故、(映像をモンタージュして)省略してしまうのだろう。本当はその中身が重要なのに」と言うような事を、主人公の整(ととのう)が言う場面があった。確かにそのとおりなのだが、それはメディアの本質をあえて棚上げした上で難癖をつけているとも言える。小説ならばそれは可能だし、そう書かないで省略してあったら手抜きだ。一方、映画の場合は２時間前後でストーリー全体を語る(描く)ために、描かねばならない事以外は映像を省略したり圧縮したりする必要に迫られる。「あきらめる事」「より重要な部分を選択する事」は、まさに映像作家の腕の見せどころとなる。<br /><br />　今回の作品で主人公ライランド・グレースは、かつては生物学で「生命に水素は必ずしも必須ではない」と自信満々に自説を展開し、学会の錚々たる重鎮らをこけおろし、挙げ句の果てに学会全体の不興を買い、アカデミックな世界から追われ、いまや小学校の理科(科学)の教師に甘んじている。そういった経歴の持ち主が、人類存亡の危機に立ち向かうプロジェクト「ヘイル・メアリー」(一か八かの計画)に関わる事になった経緯を詳しく描写し、失われた記憶を取り戻すうえで「計画の一端を担う一兵卒にすぎない自分が、何故宇宙船の乗員３名のうちの１名になったのか」という最大の謎を明らかにする事が原作の主眼であると思っている。これらを解き明かしていく過程で、ライランドはホームズのように高度な知性で瞬時に物事を解き明かしていくのではなく、ワトソンのように客観的な視線で物事を捉え、ひたすらスモールステップを繰り返し、トライアンドエラーにより答にたどり着く。これは言わばエンジニアの資質と言っていい。<br /><br />　だからこそ、一つのエピソードを深掘りし、無数の実験や計算をして答を導出するライランドの姿を描くために、著者は文字数を費やす事を厭わない。しかし、そのこだわりを捨てる事ができないが故に、物語の終盤になって情緒的に心が揺さぶられる場面が増えてきても、原作は次の難関を飛び越えるために試行錯誤するライランドを描く手綱を緩めることはない。そのせいで、僕のような感情移入や思い入れの激しい読者は置き去りにされる。涙を誘う場面で心ゆくまで無く事ができないのだ。その点が読後に「傑作」という感想を持てなかった理由なのかもしれない。<br /><br />　原作の障害となる部分を乗り越えるために、映画ではエピソードの絞り込み、映像の省略・圧縮などとともに、様々なストーリー上の改変を行っている。例えば、地球外生命であるロッキーとの出会いでは、会話を円滑に成立させるために音声情報から音声翻訳までが可能になるようにしている。原作ではまだWindows97搭載のPCしか出てこないような時代なのに、現在のレベルのAIがたちどころに音声翻訳やボイス生成を行い、ロッキーの見た目などアバターの一つに過ぎないかのように描かれる。原作では見た目は蜘蛛に近く、住む環境も人間の環境と比べると高温・多湿で、空気にはアンモニアが過剰に含まれ、なにより言語は人類の言語とはまったく異なり、音をフーリエ変換で音声スペクトラムに変換しないと理解できない。原作ですら実験や演算による分析にご都合主義を持ち込まざるを得ない。まして２時間の映画では、さらにご都合主義を上塗りしてハリウッド映画が得意とするヒーロー物のテンプレートに落とし込んでいく。これもまた、致し方ない。<br /><br />　これ以外にも映画では重要な改変が行われている。これらの改変の是非については検討がぜひとも必要だ。一つは「ライランドは命がけの使命を全うする宇宙飛行士ではなく、まったくの素人にすぎない」という点だ。僕がこれまで多少なりとも読んできたＳＦは、発表当時の社会情勢を反映して「超管理社会」「超全体主義」「科学の進展に伴い人間性を失った人類」「人類対AI」「人類対知的生命体(神を含む)」などが大きなテーマだった。どれもこれもネガティブな世界観で満たされており、読む者を憂鬱にさせる内容が多い。それが苦手だった。かといって、脳天気なヒーロー物のスペースサーガを見たいわけでもなかった。その後、日本では『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』そして『機動戦士ガンダム』などのアニメが作られた。そう、少なくとも僕は宇宙を舞台にした人間ドラマが見たかったのだ。<br /><br />　日本では「エヴァンゲリオン」に到って「素人が、宇宙もしくは宇宙から侵略を受けた地球を守る」というテーゼを着実に展開していくが、いずれも素人でありながら特殊な能力を持って戦うという日本式のドラマティックなヒーロー像を推し進めた結果だと言える。本作のように、本当に素人でありながら人類を救うという使命を託されるというのは、非常に興味深い設定に思われる。映画ではライランドは「ヘタレ」な人間として描かれる。どうせミッションが失敗すれば人類はすべて死滅するのだから、同じ死ぬならば「使命を全うする」事を選ぶべきではないのか。そういうロジックで、映画は「ヘタレ」な主人公を追い詰めていく。<br /><br />　だが、原作で描かれるように「同じ死ぬならば、信頼されている生徒たちに囲まれて一人の理科の先生として死にたい」という主人公の望みは、決してヘタレだと非難されるようなものではない。そこが悲しい。悲しいと同時に美しい。強制されて美化されるよりも、凡庸でもいいから一人の人間として人生を生きたい。それが、実はミッション成功後の彼の境遇を裏側から照らしていく。映画では表側からしか彼の心情を描いてはいない。そこが物足りない。<br /><br />　この「素人が強制されて使命を果たす」事を補完するために、映画は人間関係にも手を加えている。宇宙船が飛び立つ直前で起きた事故で、選抜され訓練済みの宇宙飛行士が数名亡くなった。そこで、最適な人物として選ばれたのがライランドで、そこにライランドの都合は加味されない。あくまで決定された事である。原作では、プロジェクトの最高責任者エヴァ・ストラットが無慈悲にも決断し、ライランド本人の希望を無視して強制的に人工冬眠させた後、宇宙船に乗せてしまう。そこにエヴァの心情が一切描写されないのは、僕としては不満なのだが、ライランドの心情に焦点を当てる事を著者は選択したのだと、一応は納得しておく。<br /><br />　一方、映画ではエヴァの苦しい胸の内が描かれ、ライランドと心を通わす場面があるし、ちょっとした打ち上げ会で歌って人間らしいところを見せる場面もある。これはラストシーンの伏線になっている。ライランドはミッションを成功させ、地球にアストロファージを殲滅するための細胞と取り扱い説明書とを送り、同時に危機に陥った友ロッキーを助けにいく事で地球に帰還しないという重要な決断に迫られる。しかし、地球に届いた細胞と対処法で速やかな対応を指示していくエヴァが、ライランドの送った映像と言葉に耳を傾けて笑顔を見せるシーンは、ハッピーエンドで映画が終わる事を予告している。彼女の笑顔が無理なく引き出せるように、無慈悲で冷酷な素振りを見せるエヴァの人間味を描いておいたのだ。<br /><br />　映画ではアストロファージの残量から「行ったきりで帰りのない」ミッションだったが、ロッキーの宇宙船に搭載された余剰のアストロファージを分けてもらって帰ることが可能になる。喜んだのもつかの間、危機に陥ったロッキーを助けに戻る事で地球には帰らないとライランドは決断する。ここは原作と同じなのだが、原作では事実上「地球に帰れなくなる」のに、映画では「地球に帰らずにロッキーの星でとりあえず暮らす」事になる点が大きく異なる。原作のポイントは、もはやミッションが成功したところで、ライランドが地球に戻る意味がないという事になる。地球との距離に加えて相対性理論の効果により、自分を信頼していた生徒たちは成人となっている。もう、ライランドが描いた穏やかな人生は取り戻せない。<br /><br />　ところが、映画ではロッキーは命の恩人でもある友に最適な住環境を用意し、「帰りたければ地球に帰ってもいいよ」とライランドに声をかける。ハッピーエンドを貫くため、原作の科学的根拠は無視される。原作も映画もラストは、ロッキーの故郷エリダニ40の子供たちに理科の授業を行い、科学的問いを投げかける場面で終わる。原作は決してハッピーエンドではない。エリダニ40の子供たちはライランドの慰めにはなるが、遙かに遠い異星にただ一人の地球人として生きていく寂しさは消えない。映画は多くのハリウッド映画好きを満足させるためにハッピーエンドに改編したが、少なくともこの一点に関してだけは認めがたい。絵空事ではなく、強制されて人生を奪われた人間ライランドの切なさに共感できるようなエンディングにするべきだったように思う。<a name="more"></a><div class="blogmura-link"><a href="https://blogmura.com/ranking/in?p_cid=10113262" target="_blank"><img src="https://b.blogmura.com/88_31.gif" width="88" height="31" border="0" alt="ブログランキング・にほんブログ村へ" />にほんブログ村</a>
<a href="https://blogmura.com/profiles/10113262?p_cid=10113262" target="_blank"><img src="https://blogparts.blogmura.com/parts_image/user/pv10113262.gif" alt="PVアクセスランキング にほんブログ村" /></a></div>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
            <category>記憶の映画・ドラマを探して</category>
      <author>アスラン</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,elleryqueen/521235323</guid>
            <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E38397E383ADE382B8E382A7E382AFE38388E383BBE38398E382A4E383ABE383BBE383A1E382A2E383AAE383BC.jpg" length="305528" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E38397E383ADE382B8E382A7E382AFE38388E383BBE38398E382A4E383ABE383BBE383A1E382A2E383AAE383BC.jpg" length="305528" type="image/jpeg" />
                      </item>
        <item>
      <link>https://elleryqueen.seesaa.net/article/520966585.html</link>
      <title>チャックの数奇な人生－イフ・イット・ブリーズ　スティーブン・キング(文藝春秋)</title>
      <pubDate>Fri, 03 Jul 2026 05:45:00 +0900</pubDate>
            <description>　僕はホラーが苦手だ。子供の頃に見てきたクリストファー・リー主演のドラキュラ映画や中川信夫監督「東海道四谷怪談」、山本薩夫監督「牡丹灯籠」などは、辛うじて怖いもの見たさに見る事ができた。そもそも、あれはホラーとは言わず恐怖映画とか怪談というジャンルだったはずだ。同じく子供の頃に読んだ水木しげる『ゲゲゲの鬼太郎』では、ドラキュラやフランケンシュタインは西洋の「妖怪」という位置づけだった。ところが70年代のオカルトブームを起点に「悪魔もの」や「サイコや狂信者による無差別殺人」が取..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E38381E383A3E38383E382AFE381AEE695B0E5A587E381AAE4BABAE7949F.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="&#x30C1;&#x30E3;&#x30C3;&#x30AF;&#x306E;&#x6570;&#x5947;&#x306A;&#x4EBA;&#x751F;.jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E38381E383A3E38383E382AFE381AEE695B0E5A587E381AAE4BABAE7949F-thumbnail2.jpg" width="101" height="150"></a>
　僕はホラーが苦手だ。子供の頃に見てきたクリストファー・リー主演のドラキュラ映画や中川信夫監督「東海道四谷怪談」、山本薩夫監督「牡丹灯籠」などは、辛うじて怖いもの見たさに見る事ができた。そもそも、あれはホラーとは言わず恐怖映画とか怪談というジャンルだったはずだ。同じく子供の頃に読んだ水木しげる『ゲゲゲの鬼太郎』では、ドラキュラやフランケンシュタインは西洋の「妖怪」という位置づけだった。ところが70年代のオカルトブームを起点に「悪魔もの」や「サイコや狂信者による無差別殺人」が取って代わり、ついには誰１人として救われることのない「絶対的に無慈悲な恐怖」が世界を席巻するに至った。恐怖の根源が多様化し時代とともに推移していく間に、いつの間にか恐怖映画は「ホラー」という言葉に置き換わった。

　それは単純に、60年代には「テレビ漫画」と呼んで見ていたものが、のちに「アニメーション」あるいは「アニメ」という言葉に収斂していったのと同じ事だったのかもしれない。何しろ「恐怖映画＝a horror movie」なのだから。現代から見ると「同じ事でしょ」という身も蓋もない話になってしまうが、呼び方が変わるだけでそれが指し示す実体が違ってくる。『エクソシスト』などはセンセーショナルな題材をリアルに描き出したホラーではあるが、その実、人間が生きて死んでいく過程で業(ごう)を意識せざるを得ないという、人間の内面を鋭くえぐったドラマが根本にあると気づいた。そうなるとホラーだからという理由だけで、果たして食わず嫌いを続けてよいものかと考えていた時期がある。というのも、映画好きを自認していながら、ホラーは対象からついつい外していたからだ。

　レンタルビデオ店の黎明期だった事もあり、遅ればせながら『ヘル・レイザー』だとか『エルム街の悪夢』『スクリーム』など比較的見やすそうなものを選んで見たような気がする。その中の一角に、スティーブン・キング原作の作品群が含まれた。ただし『キャリー』のようなショッキングな描き方をするものは好みではないので外した。僕にとってキングはゴリゴリのホラーを書く作家というイメージだったので、その中でもドラマ性が感じられるものを選択した。その当時、借りて見たのは『ダーク・ハーフ』『ペット・セメタリー』『IT/イット(テレビ版)』だった。『ダーク・ハーフ』はティモシー・ハットンが主人公を演じていた事もあり、非常に面白く見た。『IT』はテレビドラマだった事も関係しているかもしれないが、その後制作されることになった映画版ほどは恐怖に焦点があたってなく、子供の冒険心が大人になってからの悪夢に変わるという二部構成が、何とも想像力をかき立てる物語になっていた。そして『ペット・セメタリー』だ。

　『ペット・セメタリー』は、映画を見たことがキッカケになって原作も読んだ。驚いた事に映画も良かったが、原作はそれ以上に良かったのだ。人間は身近な人間の死に耐えきれず、時に愚かな事をしてしまう(つまりは一線を越えてしまう)。映画は結末を残酷なまま描いて終わる。というか『13日の金曜日』以降のホラー映画のお約束で、誰一人として報いから逃れられないラストだったが、原作はそうではない。たとえ甦った「何か」が元の人格ではないとしても、それを受け入れる事ができるのが人間なのだという感動的なシーケンスで終わる。それこそがホラーでなければ描く事のできないものなのではないか。キングから教えられたような気がした。

　そして、キングが描きフランク・ダラボンが演出で魔法をかけた『ショーシャンクの空に』を映画館で観たとき、ストーリーテラーとしてのキングの力量を十二分に知ることができた。ホラーではない「世にも奇妙な」物語が、人をどこまでも感動させる。自らの罪深さを永遠に悔いねばならない運命を背負った男と、自分だけが自分の無実を知っている男との奇妙な友情。そしてなにものにも拘束されない自由が、心の中に無限の広さで広がっている事を、この映画のラストで知る事になる。こういった映画に、こういった物語に出遭う事を僕は望んできたのだ。

　さて、いつものように前振りに力が入ってなかなか本題に入れなかったが、ようやくここから本書の感想について書くとしよう。
(ということで、ここからならば詮索好きの既読者だけが残っているだろうと思われるので、ネタバレ気味に感想を書く。未読・未鑑賞の方は読まない事をオススメする。)

　本書には『ハリガンさんの電話』『チャックの数奇な人生』という二つの中編が含まれる。すでに後半の『チャックの…』は『サンキュー・チャック』という映画の原作になっていて、日本でも公開されている(書いた時点では公開済みかもしれない)。訳者あとがきにも書かれているが、前半の中編もすでに2022年に『ハリガン氏の電話』というタイトルでNetflixにて配信されたようだ。さすがは売れっ子のキングだが、穿って考えれば、映像化に都合がいいような分量の物語をあらかじめ準備していたのかもしれない。

　前半の『ハリガンさんの電話』は、まさに世にも奇妙な物語だ。投資で社会的な地位を築いた老人ハリガン氏は、片田舎で何もないような場所に屋敷をあつらえ、終の棲家としている。同じく、そんな片田舎で、母を亡くし父と子とでひっそりと暮らしている主人公の少年との友情めいたものが描かれている。妻亡き後に息子が世に出ていくことに腐心していた父は、ハリガン氏が愛読書の朗読役に少年を選んだ事をひそかに喜ぶ。ハリガン氏が悪書を読ませない限りは、息子が大学を出て人並みに世の中を渡っていく足しにはなるだろう。ハリガン氏にしたところで、老い先短い隠遁生活に彩りを添える程度しか息子に関心はないだろう。だが、息子の朗読の才能が気にいれば実利以上の見返りを期待できるかもしれない。そんな父の思惑をよそにして、ハリガン氏と少年の関係はスマホという文明の利器ひとつで大きく動いていく。

　普通の物語であれば、ハリガンとの出会いが少年の人生を大きく変えていくという話になるはずだ。いつだって若者はこの世界におずおずと足を踏み入れ、まもなく退場していく老人が良きにつけ悪しきにつけ若者の羅針盤になってゆく。しかし、そんなありきたりな予想を裏切るかのように、老人が少年を導くのではなく少年が思いがけずに老人の残りの人生を大きく変えていく事になる。

　宝くじを当てた少年は日頃の感謝を込めてハリガンにiPhoneをプレゼントしようとするが、老人はこれを断り、文明の利器に踊らされる人生の愚かさを少年に説く。事前に父が忠告したとおりになったと思いつつも、少年はハリガンがまだ投資行為をすべて放棄していないのならば、どんなにiPhoneが役に立つかを説明した事で、ハリガンはまさに「木乃伊取りが木乃伊」になってしまう。ハリガンにとって少年は朗読係であると同時にスマホの先生となり、少年にとってはハリガンは利器に取り込まれた実例であると同時に先行きを心配するかけがえのない人間となる。

　ハリガンが亡くなった時もかたわらにはiPhoneを使っていた形跡があり、少年はハリガンの心残りを晴らすつもりで、埋葬される棺の中にそっとiPhoneをしのばせる。そこから起きる事は「奇妙」という程度を超えて「恐怖に満ちた」出来事になる。ハリガンのスマホに電話をすると留守電の自動音声の後、電話がつながるのだ。少年は恐怖を感じながらも、生前には相談できなかったような悩みを端的に打ち明ける。要は、イジメ相手など特定の人間がいなくなればいいと。その通りの事が起きて、ますます少年はハリガンの電話に縛られるようになる。

　もちろん、数々の恐怖を形にしてきた著者の事だから、ここから一編の長篇ホラー小説に仕立て上げる事などたやすいことだろう。しかし、この中篇の狙いはそこにはない。最後まで伏線が回収される事はなく、少年はやがてハリガンの残してくれた多すぎない遺産で大学まで進学し、父が望みハリガンが慎重に計画したとおりの人生を進む事ができるまでに成長した。ハリガンの助けはもう要らない。あとは自分の脚で生きるのみだ。ハリガンのスマホからの呪縛は解消され、それと同時に「とてつもなく恐ろしい恐怖」につながる伏線は回収しない事で、主人公の青年は「限りない自由」を手に入れるのだ。

　あえて「限りない自由」と書いたのは、それを仄めかす記述があるからだ。
…。かつては大きく思えばベッドが、いまはずいぶん小さく感じられた。部屋の向こうのケイティ・ペリーのポスターが目に入った。このポスターを貼ったころ、中学時代のぼくの目には、彼女はセックスシンボルそのものに見えていた。　　あの日、父さんいっしょにスプライトを飲みながらハリガンさんの〈ザ・ビッグハウス〉(それこそがハーロウの住人の呼び方だった―ハリガン邸を〈ザ・ビッグハウス〉と、まるでショーシャンク刑務所のことみたいに呼んだ)を見上げていた僕の説明は、こうだった。「人が配達してくれる手紙ってクールじゃん」　キングのサービス精神のなせる技か、あるいはキングの頭脳に収まっているすべての登場人物は作品の垣根を越えてつながっていると考えればいいのか。いずれにしても本作は『ショーシャンクの空に』(原作『刑務所のリタ・ヘイワース』)と同じ世界観で横串されているように感じた。

　後半は表題作『チャックの数奇な人生』だ。

　こちらは『ハリガンさんの手紙』ほどには語るべき事はないような気がする。出だしこそ不可解で世紀末的な状況が描かれているが、実は作品の構成は非常にシンプルで、ＳＦだとも言えるし、一種のファンタジーだとも言える。だが、一番しっくりくるのはやはり「世にも奇妙な物語」だろう。冒頭、この章の主人公マーティは「ありがとう、チャック！」と書かれた看板(billbard)をビルの上に見つける。最初はマーティだけの幻覚なのかと思ったがそうではない。身の周りの友人たちに聞いても同じように「ありがとう、チャック」というメッセージを目にしている。広告だと気にもとめない人もいれば、次第に度を超すくらいにあちこちのメディアで目にするようになると、さぞかし偉い立場の人を讃えたものなのだろうなとマーティだけでなく、多くの人が呆れている。

　そんな異常な出来事に、読者である僕が感じるほどには誰も動揺していないように感じられる。メッセージよりも深刻な事態が刻一刻とマーティーたちに迫ってきているからだ。巨大地震がなんども発生してカリフォルニア州の一部が「古い壁紙みたいにどんどん剥がれ」ている。この世の終わりが間近に迫っているとしか思えないのに、町の住人たちの最大の関心事はインターネットがつながるかどうかだ。何故、こうも人々は鈍感なのだろう。マーティは別れた妻の事が心配で、手遅れになる前に彼女の住まいに出かけ、文字どおり「この世界の最後の瞬間」をともに過ごす。

　こんな映画があったのではないか。アレックス・プロヤス監督の『ノウイング』がまさにそうだったような気もするが、あれは神の啓示めいた内容で今ひとつピンとこない。どちらかと言えば山本弘が書いたＳＦ『神は沈黙せず』の方が世紀末の描き方やテーマも類似しているような気がする。ただし、本編の一章を読み終えた段階で僕の念頭に浮かんだのは「ミクロの世界とマクロの世界が無限に続いている世界観」だ。

　今でこそ物質の成り立ちは量子に行き着く。量子というミクロ的存在がマクロ的な存在(宇宙)を規定するのは、ひとえに古典的力学からゲシュタルトチェンジした量子力学によるところが大きい。しかし、かつては物質は分子へ、分子から原子へと分割され、それ以上は分割されないと考えられた。そこから、実は一つの原子はそれ自体が一つの宇宙であって、各々の内部に広大な空間を抱えているというトンデモ説が考えられた。そして僕らが生きる世界も、その中の一つに過ぎないのだと。これは到底証明できないようなトンデモ説なので、かえって人々の心を捉えて放さない。著者の着想には、この魅力的な世界観が影響を与えているように思える。

　最初の章の「不可解」は回収されることがないまま、読者は次の章に突入する。いや、第二章ではなく第二幕と書かれている。それでは冒頭の話は何？と改めて確認すると、第一幕ではなく第三幕と書かれていた。つまり、この作品は、あからさまに戯曲仕立ての「幕」を遡っているのだ。にも関わらず、第三幕ではチャックは謎の人物のままであり、第二幕では普通に主人公として登場している。だとすると第三幕で描かれる世界もマーティたちも、チャックの頭の中にしか存在しないのではないか。そんな事を考えながら読み進めていくと、第二幕のチャックは言わば働き盛りの中年を迎えた人物として描かれる。

　チャックは年老いてもいないが、もちろん若くもない。特別な人生を歩んできたのでもなければ、ありきたりで退屈な人生を耐えてきたわけでもない。ただ、学生の頃に歌とダンスに熱中した記憶と、その時培った多少の技能を失う事なく持ち続けている。似たようなおぼえは誰にでもある事だ。だが、偶然待ちかまえていた街頭のセッションに、物怖じせずに、「年甲斐も無く」と卑下もせずに加わって、偶然がもたらした一期一会を心の底から楽しむ。まるで人生の意義とはそういうものだと見透かしているかのように。これは誰にでもあるとは言えまい。

　そして第二幕の最後にチャックを待ち受けているのは、３９歳にして妻と妻の兄と高校生の一人息子に看取られながら、今まさに病院のベッドで意識の無いまま、人工呼吸器を止められようとしている現実だ。「ありがとう、チャック！」　この言葉は義理の兄の言葉であり、それ以上の意味は無い。チャックの妻も息子も、そして彼知る多くの知人たちも同じ思いだろう。それが第一幕にも第三幕にもつながっている。説明はないが、それしか考えられないのだ。

　最後の「第一幕」。チャックの人生は最初から躓いている。やがて生まれてくる妹ともども両親を事故で失ったからだ。その後、彼は祖父母に育てられる事になる。この躓きゆえに社会から置き去りにされ、世界から取り残され、自分を見失う。そんな人生を送った人々の物語を思い描くことはたやすい。しかし、娘と娘の夫と、まだ生まれてもいない孫とを同時に失いつつも、残されたもう一人の孫を育てる事を選択した祖父母の悲しみは、チャックの人生よりも「躓いてはいない」と誰が言えるだろう。結局は誰もが自らの人生の主人公として生きていくしかない。自分の人生だけが躓いているなどと、考えるだけ無駄な事だ。

　さらに決定的なのは、祖父がある秘密を抱えて生きてきた事だ。祖父母の家には亡霊が見える部屋があり、開かずの間となっている。祖父はあるとき、チャックにそこで見た内容を打ち明ける。祖父はその秘密ゆえにチャックよりも大きな「つらさ」を抱えて生きている。祖母が逝き、次いで祖父が亡くなって、今度はチャックがその部屋に入って、あるものを見てしまう。本来であれば、それは絶望的につらく悲しい事に違いない。しかし、両親とまだ見ぬ妹と祖母と祖父を亡くした今、こうして祖父が準備してくれたものは、チャックにだけ残されたかけがえのない人生だ。

　「まだ持っていないもの」を手に入れる事が残された人生の意義ではない。「すでに持っているたくさんのもの」を抱きしめながら残りの人生をひたすら生きていく事。それこそが生きる事のすべてであって真実である。キングが読者に手渡そうとしているのは、そういう生き方の素晴らしさであり、美しさである。自分の見たものに驚くことなく「人生はすばらしい」と言えるチャックの生き方が、第二幕にて義理の兄からの「ありがとう、チャック！」というメッセージを生んだに違いない。第一幕、第二幕という順であればジワジワと染みてくる描写になっていたはずだが、逆順にすることで、唐突であるがチャックのダンスがどんなに美しいものであったかを読者は知る事になる。

　と同時に、第一幕から第三幕を通してわかるのは「ありがとう、チャック！」という看板や広告があちこちで増え、カリフォルニア州が次第に消えていき、やがては北斗七星まで消えていくのは、すべてがチャックの頭の中にある世界だったという事だ。マーティたちにとっては残酷な状況を皮肉ったかのような不可解なメッセージだったが、マーティの世界はチャックが生きる世界と交流する事なく、一方的に終わりを迎える。キングが『ペット・セメタリー』のエンディングで描いたように、残酷な世界でのみ垣間見る事ができる人間の美しさが、第一幕の最後の数行に圧縮されている。これはそういう物語だ。

　最後に「見てから読むか」「読んでから見るか」について私見を述べておく。原作をうまく映像化するだけでなく演出できていれば、どちらでも構わないというのが答だ。というのも、最初から３幕ものの順番を逆にした時点で、時間は経時的には流れていない事は自明である。そして映画は時として時系列を遡ったり、交互に入れ替えたり、ランダムに配置したりする事で、ドラマティックな演出効果をもたらす事がある。要するに、このキングの狙い自体が映画化を念頭においているように思えるのだ。

　まだ映画は見ていないので断定的な事は何ひとつ言えないし、言いたいとも思わないが、うまくいけばとても良い映画になりそうな予感はある。映画は説明過多でないのが僕の好みなので、伏線回収的な事をチャック自身に言わせたり独白させたりしないで、演出のみでなんとかタイトルバックまでたどり着いてほしいと思う。ラストのカットで映し出されるチャックの表情が、ポジティブにもネガティブにも見てとれるならば最高だ。どちらと受け止めるかは観客によるというのが、演出としてもちょうど良いように思う。原作ではチャックにストレートに言わせすぎている嫌いがある。それはキングの作家としての実直さの表れなのかもしれないが。<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E38381E383A3E38383E382AFE381AEE695B0E5A587E381AAE4BABAE7949F.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="チャックの数奇な人生.jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E38381E383A3E38383E382AFE381AEE695B0E5A587E381AAE4BABAE7949F-thumbnail2.jpg" width="101" height="150" onclick="location.href = 'https://elleryqueen.seesaa.net/upload/detail/image/E38381E383A3E38383E382AFE381AEE695B0E5A587E381AAE4BABAE7949F-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br />　僕はホラーが苦手だ。子供の頃に見てきたクリストファー・リー主演のドラキュラ映画や中川信夫監督「東海道四谷怪談」、山本薩夫監督「牡丹灯籠」などは、辛うじて怖いもの見たさに見る事ができた。そもそも、あれはホラーとは言わず恐怖映画とか怪談というジャンルだったはずだ。同じく子供の頃に読んだ水木しげる『ゲゲゲの鬼太郎』では、ドラキュラやフランケンシュタインは西洋の「妖怪」という位置づけだった。ところが70年代のオカルトブームを起点に「悪魔もの」や「サイコや狂信者による無差別殺人」が取って代わり、ついには誰１人として救われることのない「絶対的に無慈悲な恐怖」が世界を席巻するに至った。恐怖の根源が多様化し時代とともに推移していく間に、いつの間にか恐怖映画は「ホラー」という言葉に置き換わった。<br /><br />　それは単純に、60年代には「テレビ漫画」と呼んで見ていたものが、のちに「アニメーション」あるいは「アニメ」という言葉に収斂していったのと同じ事だったのかもしれない。何しろ「恐怖映画＝a horror movie」なのだから。現代から見ると「同じ事でしょ」という身も蓋もない話になってしまうが、呼び方が変わるだけでそれが指し示す実体が違ってくる。『エクソシスト』などはセンセーショナルな題材をリアルに描き出したホラーではあるが、その実、人間が生きて死んでいく過程で業(ごう)を意識せざるを得ないという、人間の内面を鋭くえぐったドラマが根本にあると気づいた。そうなるとホラーだからという理由だけで、果たして食わず嫌いを続けてよいものかと考えていた時期がある。というのも、映画好きを自認していながら、ホラーは対象からついつい外していたからだ。<br /><br />　レンタルビデオ店の黎明期だった事もあり、遅ればせながら『ヘル・レイザー』だとか『エルム街の悪夢』『スクリーム』など比較的見やすそうなものを選んで見たような気がする。その中の一角に、スティーブン・キング原作の作品群が含まれた。ただし『キャリー』のようなショッキングな描き方をするものは好みではないので外した。僕にとってキングはゴリゴリのホラーを書く作家というイメージだったので、その中でもドラマ性が感じられるものを選択した。その当時、借りて見たのは『ダーク・ハーフ』『ペット・セメタリー』『IT/イット(テレビ版)』だった。『ダーク・ハーフ』はティモシー・ハットンが主人公を演じていた事もあり、非常に面白く見た。『IT』はテレビドラマだった事も関係しているかもしれないが、その後制作されることになった映画版ほどは恐怖に焦点があたってなく、子供の冒険心が大人になってからの悪夢に変わるという二部構成が、何とも想像力をかき立てる物語になっていた。そして『ペット・セメタリー』だ。<br /><br />　『ペット・セメタリー』は、映画を見たことがキッカケになって原作も読んだ。驚いた事に映画も良かったが、原作はそれ以上に良かったのだ。人間は身近な人間の死に耐えきれず、時に愚かな事をしてしまう(つまりは一線を越えてしまう)。映画は結末を残酷なまま描いて終わる。というか『13日の金曜日』以降のホラー映画のお約束で、誰一人として報いから逃れられないラストだったが、原作はそうではない。たとえ甦った「何か」が元の人格ではないとしても、それを受け入れる事ができるのが人間なのだという感動的なシーケンスで終わる。それこそがホラーでなければ描く事のできないものなのではないか。キングから教えられたような気がした。<br /><br />　そして、キングが描きフランク・ダラボンが演出で魔法をかけた『ショーシャンクの空に』を映画館で観たとき、ストーリーテラーとしてのキングの力量を十二分に知ることができた。ホラーではない「世にも奇妙な」物語が、人をどこまでも感動させる。自らの罪深さを永遠に悔いねばならない運命を背負った男と、自分だけが自分の無実を知っている男との奇妙な友情。そしてなにものにも拘束されない自由が、心の中に無限の広さで広がっている事を、この映画のラストで知る事になる。こういった映画に、こういった物語に出遭う事を僕は望んできたのだ。<br /><br />　さて、いつものように前振りに力が入ってなかなか本題に入れなかったが、ようやくここから本書の感想について書くとしよう。<br /><span style="color:#ff0000;">(ということで、ここからならば詮索好きの既読者だけが残っているだろうと思われるので、ネタバレ気味に感想を書く。未読・未鑑賞の方は読まない事をオススメする。)</span><br /><br />　本書には『ハリガンさんの電話』『チャックの数奇な人生』という二つの中編が含まれる。すでに後半の『チャックの…』は『サンキュー・チャック』という映画の原作になっていて、日本でも公開されている(書いた時点では公開済みかもしれない)。訳者あとがきにも書かれているが、前半の中編もすでに2022年に『ハリガン氏の電話』というタイトルでNetflixにて配信されたようだ。さすがは売れっ子のキングだが、穿って考えれば、映像化に都合がいいような分量の物語をあらかじめ準備していたのかもしれない。<br /><br />　前半の『ハリガンさんの電話』は、まさに世にも奇妙な物語だ。投資で社会的な地位を築いた老人ハリガン氏は、片田舎で何もないような場所に屋敷をあつらえ、終の棲家としている。同じく、そんな片田舎で、母を亡くし父と子とでひっそりと暮らしている主人公の少年との友情めいたものが描かれている。妻亡き後に息子が世に出ていくことに腐心していた父は、ハリガン氏が愛読書の朗読役に少年を選んだ事をひそかに喜ぶ。ハリガン氏が悪書を読ませない限りは、息子が大学を出て人並みに世の中を渡っていく足しにはなるだろう。ハリガン氏にしたところで、老い先短い隠遁生活に彩りを添える程度しか息子に関心はないだろう。だが、息子の朗読の才能が気にいれば実利以上の見返りを期待できるかもしれない。そんな父の思惑をよそにして、ハリガン氏と少年の関係はスマホという文明の利器ひとつで大きく動いていく。<br /><br />　普通の物語であれば、ハリガンとの出会いが少年の人生を大きく変えていくという話になるはずだ。いつだって若者はこの世界におずおずと足を踏み入れ、まもなく退場していく老人が良きにつけ悪しきにつけ若者の羅針盤になってゆく。しかし、そんなありきたりな予想を裏切るかのように、老人が少年を導くのではなく少年が思いがけずに老人の残りの人生を大きく変えていく事になる。<br /><br />　宝くじを当てた少年は日頃の感謝を込めてハリガンにiPhoneをプレゼントしようとするが、老人はこれを断り、文明の利器に踊らされる人生の愚かさを少年に説く。事前に父が忠告したとおりになったと思いつつも、少年はハリガンがまだ投資行為をすべて放棄していないのならば、どんなにiPhoneが役に立つかを説明した事で、ハリガンはまさに「木乃伊取りが木乃伊」になってしまう。ハリガンにとって少年は朗読係であると同時にスマホの先生となり、少年にとってはハリガンは利器に取り込まれた実例であると同時に先行きを心配するかけがえのない人間となる。<br /><br />　ハリガンが亡くなった時もかたわらにはiPhoneを使っていた形跡があり、少年はハリガンの心残りを晴らすつもりで、埋葬される棺の中にそっとiPhoneをしのばせる。そこから起きる事は「奇妙」という程度を超えて「恐怖に満ちた」出来事になる。ハリガンのスマホに電話をすると留守電の自動音声の後、電話がつながるのだ。少年は恐怖を感じながらも、生前には相談できなかったような悩みを端的に打ち明ける。要は、イジメ相手など特定の人間がいなくなればいいと。その通りの事が起きて、ますます少年はハリガンの電話に縛られるようになる。<br /><br />　もちろん、数々の恐怖を形にしてきた著者の事だから、ここから一編の長篇ホラー小説に仕立て上げる事などたやすいことだろう。しかし、この中篇の狙いはそこにはない。最後まで伏線が回収される事はなく、少年はやがてハリガンの残してくれた多すぎない遺産で大学まで進学し、父が望みハリガンが慎重に計画したとおりの人生を進む事ができるまでに成長した。ハリガンの助けはもう要らない。あとは自分の脚で生きるのみだ。ハリガンのスマホからの呪縛は解消され、それと同時に「とてつもなく恐ろしい恐怖」につながる伏線は回収しない事で、主人公の青年は「限りない自由」を手に入れるのだ。<br /><br />　あえて「限りない自由」と書いたのは、それを仄めかす記述があるからだ。<br /><blockquote>…。かつては大きく思えばベッドが、いまはずいぶん小さく感じられた。部屋の向こうのケイティ・ペリーのポスターが目に入った。このポスターを貼ったころ、中学時代のぼくの目には、彼女はセックスシンボルそのものに見えていた。</blockquote>　<blockquote>　あの日、父さんいっしょにスプライトを飲みながらハリガンさんの〈ザ・ビッグハウス〉(それこそがハーロウの住人の呼び方だった―ハリガン邸を〈ザ・ビッグハウス〉と、まるでショーシャンク刑務所のことみたいに呼んだ)を見上げていた僕の説明は、こうだった。「人が配達してくれる手紙ってクールじゃん」</blockquote>　キングのサービス精神のなせる技か、あるいはキングの頭脳に収まっているすべての登場人物は作品の垣根を越えてつながっていると考えればいいのか。いずれにしても本作は『ショーシャンクの空に』(原作『刑務所のリタ・ヘイワース』)と同じ世界観で横串されているように感じた。<br /><br />　後半は表題作『チャックの数奇な人生』だ。<br /><br />　こちらは『ハリガンさんの手紙』ほどには語るべき事はないような気がする。出だしこそ不可解で世紀末的な状況が描かれているが、実は作品の構成は非常にシンプルで、ＳＦだとも言えるし、一種のファンタジーだとも言える。だが、一番しっくりくるのはやはり「世にも奇妙な物語」だろう。冒頭、この章の主人公マーティは「ありがとう、チャック！」と書かれた看板(billbard)をビルの上に見つける。最初はマーティだけの幻覚なのかと思ったがそうではない。身の周りの友人たちに聞いても同じように「ありがとう、チャック」というメッセージを目にしている。広告だと気にもとめない人もいれば、次第に度を超すくらいにあちこちのメディアで目にするようになると、さぞかし偉い立場の人を讃えたものなのだろうなとマーティだけでなく、多くの人が呆れている。<br /><br />　そんな異常な出来事に、読者である僕が感じるほどには誰も動揺していないように感じられる。メッセージよりも深刻な事態が刻一刻とマーティーたちに迫ってきているからだ。巨大地震がなんども発生してカリフォルニア州の一部が「古い壁紙みたいにどんどん剥がれ」ている。この世の終わりが間近に迫っているとしか思えないのに、町の住人たちの最大の関心事はインターネットがつながるかどうかだ。何故、こうも人々は鈍感なのだろう。マーティは別れた妻の事が心配で、手遅れになる前に彼女の住まいに出かけ、文字どおり「この世界の最後の瞬間」をともに過ごす。<br /><br />　こんな映画があったのではないか。アレックス・プロヤス監督の『ノウイング』がまさにそうだったような気もするが、あれは神の啓示めいた内容で今ひとつピンとこない。どちらかと言えば山本弘が書いたＳＦ『神は沈黙せず』の方が世紀末の描き方やテーマも類似しているような気がする。ただし、本編の一章を読み終えた段階で僕の念頭に浮かんだのは「ミクロの世界とマクロの世界が無限に続いている世界観」だ。<br /><br />　今でこそ物質の成り立ちは量子に行き着く。量子というミクロ的存在がマクロ的な存在(宇宙)を規定するのは、ひとえに古典的力学からゲシュタルトチェンジした量子力学によるところが大きい。しかし、かつては物質は分子へ、分子から原子へと分割され、それ以上は分割されないと考えられた。そこから、実は一つの原子はそれ自体が一つの宇宙であって、各々の内部に広大な空間を抱えているというトンデモ説が考えられた。そして僕らが生きる世界も、その中の一つに過ぎないのだと。これは到底証明できないようなトンデモ説なので、かえって人々の心を捉えて放さない。著者の着想には、この魅力的な世界観が影響を与えているように思える。<br /><br />　最初の章の「不可解」は回収されることがないまま、読者は次の章に突入する。いや、第二章ではなく第二幕と書かれている。それでは冒頭の話は何？と改めて確認すると、第一幕ではなく第三幕と書かれていた。つまり、この作品は、あからさまに戯曲仕立ての「幕」を遡っているのだ。にも関わらず、第三幕ではチャックは謎の人物のままであり、第二幕では普通に主人公として登場している。だとすると第三幕で描かれる世界もマーティたちも、チャックの頭の中にしか存在しないのではないか。そんな事を考えながら読み進めていくと、第二幕のチャックは言わば働き盛りの中年を迎えた人物として描かれる。<br /><br />　チャックは年老いてもいないが、もちろん若くもない。特別な人生を歩んできたのでもなければ、ありきたりで退屈な人生を耐えてきたわけでもない。ただ、学生の頃に歌とダンスに熱中した記憶と、その時培った多少の技能を失う事なく持ち続けている。似たようなおぼえは誰にでもある事だ。だが、偶然待ちかまえていた街頭のセッションに、物怖じせずに、「年甲斐も無く」と卑下もせずに加わって、偶然がもたらした一期一会を心の底から楽しむ。まるで人生の意義とはそういうものだと見透かしているかのように。これは誰にでもあるとは言えまい。<br /><br />　そして第二幕の最後にチャックを待ち受けているのは、３９歳にして妻と妻の兄と高校生の一人息子に看取られながら、今まさに病院のベッドで意識の無いまま、人工呼吸器を止められようとしている現実だ。「ありがとう、チャック！」　この言葉は義理の兄の言葉であり、それ以上の意味は無い。チャックの妻も息子も、そして彼知る多くの知人たちも同じ思いだろう。それが第一幕にも第三幕にもつながっている。説明はないが、それしか考えられないのだ。<br /><br />　最後の「第一幕」。チャックの人生は最初から躓いている。やがて生まれてくる妹ともども両親を事故で失ったからだ。その後、彼は祖父母に育てられる事になる。この躓きゆえに社会から置き去りにされ、世界から取り残され、自分を見失う。そんな人生を送った人々の物語を思い描くことはたやすい。しかし、娘と娘の夫と、まだ生まれてもいない孫とを同時に失いつつも、残されたもう一人の孫を育てる事を選択した祖父母の悲しみは、チャックの人生よりも「躓いてはいない」と誰が言えるだろう。結局は誰もが自らの人生の主人公として生きていくしかない。自分の人生だけが躓いているなどと、考えるだけ無駄な事だ。<br /><br />　さらに決定的なのは、祖父がある秘密を抱えて生きてきた事だ。祖父母の家には亡霊が見える部屋があり、開かずの間となっている。祖父はあるとき、チャックにそこで見た内容を打ち明ける。祖父はその秘密ゆえにチャックよりも大きな「つらさ」を抱えて生きている。祖母が逝き、次いで祖父が亡くなって、今度はチャックがその部屋に入って、あるものを見てしまう。本来であれば、それは絶望的につらく悲しい事に違いない。しかし、両親とまだ見ぬ妹と祖母と祖父を亡くした今、こうして祖父が準備してくれたものは、チャックにだけ残されたかけがえのない人生だ。<br /><br />　「まだ持っていないもの」を手に入れる事が残された人生の意義ではない。「すでに持っているたくさんのもの」を抱きしめながら残りの人生をひたすら生きていく事。それこそが生きる事のすべてであって真実である。キングが読者に手渡そうとしているのは、そういう生き方の素晴らしさであり、美しさである。自分の見たものに驚くことなく「人生はすばらしい」と言えるチャックの生き方が、第二幕にて義理の兄からの「ありがとう、チャック！」というメッセージを生んだに違いない。第一幕、第二幕という順であればジワジワと染みてくる描写になっていたはずだが、逆順にすることで、唐突であるがチャックのダンスがどんなに美しいものであったかを読者は知る事になる。<br /><br />　と同時に、第一幕から第三幕を通してわかるのは「ありがとう、チャック！」という看板や広告があちこちで増え、カリフォルニア州が次第に消えていき、やがては北斗七星まで消えていくのは、すべてがチャックの頭の中にある世界だったという事だ。マーティたちにとっては残酷な状況を皮肉ったかのような不可解なメッセージだったが、マーティの世界はチャックが生きる世界と交流する事なく、一方的に終わりを迎える。キングが『ペット・セメタリー』のエンディングで描いたように、残酷な世界でのみ垣間見る事ができる人間の美しさが、第一幕の最後の数行に圧縮されている。これはそういう物語だ。<br /><br />　最後に「見てから読むか」「読んでから見るか」について私見を述べておく。原作をうまく映像化するだけでなく演出できていれば、どちらでも構わないというのが答だ。というのも、最初から３幕ものの順番を逆にした時点で、時間は経時的には流れていない事は自明である。そして映画は時として時系列を遡ったり、交互に入れ替えたり、ランダムに配置したりする事で、ドラマティックな演出効果をもたらす事がある。要するに、このキングの狙い自体が映画化を念頭においているように思えるのだ。<br /><br />　まだ映画は見ていないので断定的な事は何ひとつ言えないし、言いたいとも思わないが、うまくいけばとても良い映画になりそうな予感はある。映画は説明過多でないのが僕の好みなので、伏線回収的な事をチャック自身に言わせたり独白させたりしないで、演出のみでなんとかタイトルバックまでたどり着いてほしいと思う。ラストのカットで映し出されるチャックの表情が、ポジティブにもネガティブにも見てとれるならば最高だ。どちらと受け止めるかは観客によるというのが、演出としてもちょうど良いように思う。原作ではチャックにストレートに言わせすぎている嫌いがある。それはキングの作家としての実直さの表れなのかもしれないが。<a name="more"></a><div class="blogmura-link"><a href="https://blogmura.com/ranking/in?p_cid=10113262" target="_blank"><img src="https://b.blogmura.com/88_31.gif" width="88" height="31" border="0" alt="ブログランキング・にほんブログ村へ" />にほんブログ村</a>
<a href="https://blogmura.com/profiles/10113262?p_cid=10113262" target="_blank"><img src="https://blogparts.blogmura.com/parts_image/user/pv10113262.gif" alt="PVアクセスランキング にほんブログ村" /></a></div>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
            <category>書評</category>
      <author>アスラン</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,elleryqueen/520966585</guid>
            <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E38381E383A3E38383E382AFE381AEE695B0E5A587E381AAE4BABAE7949F.jpg" length="390903" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E38381E383A3E38383E382AFE381AEE695B0E5A587E381AAE4BABAE7949F.jpg" length="390903" type="image/jpeg" />
                      </item>
        <item>
      <link>https://elleryqueen.seesaa.net/article/520867754.html</link>
      <title>ハリガンとチャックのはざまで</title>
      <pubDate>Sun, 07 Jun 2026 01:40:30 +0900</pubDate>
            <description>　昨日、書店に行ったらスティーブン・キングの「イフ・イット・ブリーズ」シリーズの新作を見かけた。いや、違うな。今読んでる『チャックの数奇な人生』の副題「イフ・イット・ブリーズ」が付いた別の単行本が出ていることに驚いたというのが正しい。どうやら副題は副題ではなく、『イフ・イット・ブリーズ』というタイトルを冠した”中編集”だと気づいたのだ。短編集というのはよく聞くが、中編集って言葉が当てはまるのかどうか。それに米国では中編集一冊にまとまっているのかどうかすら判らない。とりあえずは..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
　昨日、書店に行ったらスティーブン・キングの「イフ・イット・ブリーズ」シリーズの新作を見かけた。いや、違うな。今読んでる『チャックの数奇な人生』の副題「イフ・イット・ブリーズ」が付いた別の単行本が出ていることに驚いたというのが正しい。どうやら副題は副題ではなく、『イフ・イット・ブリーズ』というタイトルを冠した”中編集”だと気づいたのだ。短編集というのはよく聞くが、中編集って言葉が当てはまるのかどうか。それに米国では中編集一冊にまとまっているのかどうかすら判らない。とりあえずはシリーズ名として認識しておく。まあ、どういう意味があるのか判らないけれど。

　で、ミステリ好き(特にディクスン・カー好き)つながりの方から映画『サンキュー・チャック』を見る前に原作を読んでおいた方がいいとアドバイスをいただいたので、立川市立図書館で借りようと思ったが蔵書にない。ジリジリとしながらも毎日数回は検索をかけて入荷するのを待っていた。幸いな事にようやく先日新作が借りられるようになった。その日のうちに気づいて予約して、今手元にある。

　その間、これとは別に、今ハマっているテレビドラマ『月夜行路』の単行本を予約して順位が先頭になるのを待ちかまえていた。「何故、単行本？」と言う問いには、文庫の方は蔵書になってないからと答えておく。2023年には出版されているので、ひっそりと放置されつづけていたわけだ。ドラマの人気とともに入荷する可能性はあると思い、こちらも『チャック』同様ウォッチを続けてきた。当然と言えば当然なのだが、『チャック』が入れば『月夜行路』も動き出す可能性が高くなる。案の定、文庫が入荷して予約し、今手元にある。結果的に単行本よりも早く手に入った。その次に新作『月夜行路returns』が入り予約した。こちらも数日前に取り置き状態になっている。なので、いまやお祭り騒ぎなのだ。

　お祭りに浮かれて「読み終えずに返却」となっては本末転倒なので、営為『チャック』を読んでいる。既に「ハリガンさんの電話」は読み終えた。こちらは改めて感想を書くつもりだけれど、映画『ショーシャンクの空に』並みの、と言えばさすがに言い過ぎだが、あれと同列の感動と爽快さを与えてくれる快作だと思った。肝心の「刑務所のリタ・ヘイワース」を読んでない口で何を言うか、と言われそうだが。

　続いて、さっそく本命の中編「チャックの数奇な人生」を読み出した。だが、正直何が書かれているのか訳が分からない状態に陥った。何度も何度も冒頭の部分を読み返して、ようやくたどり着いたのが、このエッセイを書く事だった。だから、ここには作品の感想もなければ、ネタバレもない。ただ、その翻訳について、フライングだがちょっと書いておこうと思う。

　書き出しはこうだ。
マーティ・アンダーソンがそのビルボードを見たのは、インターネットが恒久的にダウンする前日だった。　え？どういう意味？　ビルボードって見るものなのか。僕らの知っているビルボードとは、あの音楽情報紙の事だろうし、なんとなく「ビルボード・ランキング」の事ぐらいに思った。インターネットがダウンする前だったから、ネットで見かけたという事か。

　そもそもキングの文章は圧倒的に細かい描写と心理描写、皮肉な物言い、ほのめかしが鏤められていて、何を言わんとしているかすぐには判らないように書かれている。だが、辻褄だけはきちんと整っているので、そうではない部分は違和感として残りながら先に進むことになる。

　続いて、鳥や魚と同じように「あるもの」が絶滅危惧種同然になっているという話題を挟んで、マーティが学校を出る。
　マーティが学校を出た時間は遅かった。高校教師にとってもっとも好ましからざる勤務日、保護者面談の一日だったからだ。ところがふたをあけてみれば、息子のジョニーや娘のジェイニーの学習の進展（あるいは進展のなさ）について聞きたがる保護者はほとんどおらず、…
　この時点でマーティが高校教師だと確信がもてれば、また違ったのだろうが、マーティは保護者の可能性も、生徒の可能性もあった(マーティとくればマクフライだろう)。直後に「息子のジョニー」が目に入って生徒の可能性は消えた。するとマーティは保護者で、同じ学校に通う息子と娘が一人ずついる事になるのか。ところが「保護者はほとんどおらず」と出てきて、初めの解釈が躓いた事が分かった。では、どこから？　この学校では男子学生はすべてジョニーという名前で、女子学生はすべてジェイニーという名前なのだろうか。近未来SFではあり得る設定かもしれない。

　そこで、はたと気づいた。ジョニーとジェイニーは日本語の「太郎と花子」なのではないか？　その想像はすぐに確認がとれた。だとすると、あまりに不親切な翻訳ではないか。英語ネイティブの人、あるいはバイリンガルな日本人には当たり前でも、僕ら一般人には分からない取り合わせだ。まさか太郎と花子を使うわけにはいかないとしても、何か工夫のしようがあったんじゃないだろうか。

　引き続き、マーティが保護者の一人なのか教師なのかについては確信が持てるような記述が無く、確かな事は何ひとつないという状況のまま、マーティが帰宅しようとする場面。
保護者面談のおかげで職場を出るのが三時ではなく五時、つまりラッシュアワーのピークになってしまい、以前なら二十分で済んでいた車での帰宅にすくなくとも一時間――あるいはもっと長く――かかりそうだった。信号機がいくつか消えていたせいもあった。　ここもいちいち悩ましい。このエッセイを書くまでに冒頭部分だけ十分に読み込んできたので、「マーティは保護者」という可能性は捨ててもいいだろうが、では教師ならば「職場」と言うかなぁと気になった。「職員室」とか「教員室」とか書くのが普通じゃないだろうか。まあ、穿ちすぎているかもしれないが。

　それよりも辻褄が合わないところがある。面談に手間取って二時間遅れで学校を出た結果、マーティは「ラッシュアワーのまっただ中に放り込まれる」。だから一時間以上もかかりそうな状況におかれているわけだ。だったら「以前なら二十分で済んでいた」ではなくて「本当なら二十分で済むところを少なくとも一時間――あるいはもっと長く――かかりそうだった」ではないのか。「以前なら」と書くと「今なら」どれくらい時間がかかるのかが知りたくなる。そして比較すべきはこちらの方のはずだ。本当に原文に書かれた通りに訳しているのだろうか。疑わしくなってきた。

　ひょっとしたら冒頭部分ならばアメリカのAmazonでサンプル文として読めるかもしれない。予想通り、原文が見つかった。
Thanks to the conferences, he'd left at five instead of three, at the height of rush hour, and a drive that would have taken twenty minutes in the old days would take at least an hour, probably longer because some of the traffic lights were out, as well.　なるほど、僕の予想とはちょっと外れていたけれど、そう思ってしまった原因はわかった。原文の辻褄はちゃんと合っている。

　まず「職場」という言葉は原文にはない。ここは曖昧に「学校に足止めを食らった」ぐらいでよさそうだ。それとa driveで始まる文はwouldを使って仮定法過去完了になっている。しかもwouldによる仮定法は２回出てくるので「かかりそうだった」と文末を整えるぐらいではダメなのでないだろうか。
(私訳) 保護者面談のおかげで、マーティは三時ではなく五時まで足止めを食らった。要するにラッシュアワーの真っ最中になるまで。たとえそうなったとしても、何年も前なら車を使って二十分で帰宅できただろうに、いまや少なく見積もっても一時間はかかるだろう。おまけに、信号機が何カ所かダメになっているから、もっとかかるかもしれない。
　そしてこの段落の最後がこう締めくくられる。
マーティも…交差点で十分ほど足止めを食らったので、〈ミッドウエスト・トラスト〉のビルのてっぺんにあるビルボードに気づく時間はたっぷりあった。　あっ！やっぱりか。これって電光掲示板？それとも街頭ビジョン、いや看板か？　調べるとランダムハウス英和大辞典では"bill board"の訳語として以下のように書かれている。
bill board
1.《特に米》(通例、屋外の大型)掲示板、広告板。
2. 〔ラジオ〕〔テレビ〕番組紹介、ビルボード。
◇タイトル名
[刊行物]Billboard 米国最大の週間音楽雑誌で、新曲のヒットチャートを掲載(1894-)。　僕は固有名詞のBillboardしか知らなかった事になる。

　一方、国語辞典では「ビルボード」を見出しとしているのは精選版日本国語大辞典のみで、広辞苑すら立項していない。日国の語釈はこうだ。
ビルボード
[一].《名》(英 billborad) 屋外に建てられた広告板。
[二]. (Billboard) アメリカの音楽週刊誌。ヒットチャートで有名。　このことから、ビルボードというカタカナ語は確かに「屋外広告板」を意味すると分かるのだが、同時に広辞苑も明鏡も新明解も日本語として熟れた単語とは認めていないという事も分かる。ちなみにこの直後の文で、「ビルのてっぺん」にあるビルボードは電光掲示板でも街頭ビジョンでもなく、ただの広告板(看板)である事がわかる。

　と、たかが２頁足らずの冒頭からこんなことに頭を悩ましていたのだ。おかげで、読み取りづらかった状況は解消した。一度分かってしまえば、次に読む時には違和感が少なくなっていて、そのうち何に悩んでいたのかさえ分からなくなってしまうのだろう。それに越した事はない。願わくば、このあとも「足止めを食らう」事がないように。それでは読書再開！　<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
　昨日、書店に行ったらスティーブン・キングの「イフ・イット・ブリーズ」シリーズの新作を見かけた。いや、違うな。今読んでる『チャックの数奇な人生』の副題「イフ・イット・ブリーズ」が付いた別の単行本が出ていることに驚いたというのが正しい。どうやら副題は副題ではなく、『イフ・イット・ブリーズ』というタイトルを冠した”中編集”だと気づいたのだ。短編集というのはよく聞くが、中編集って言葉が当てはまるのかどうか。それに米国では中編集一冊にまとまっているのかどうかすら判らない。とりあえずはシリーズ名として認識しておく。まあ、どういう意味があるのか判らないけれど。<br /><br />　で、ミステリ好き(特にディクスン・カー好き)つながりの方から映画『サンキュー・チャック』を見る前に原作を読んでおいた方がいいとアドバイスをいただいたので、立川市立図書館で借りようと思ったが蔵書にない。ジリジリとしながらも毎日数回は検索をかけて入荷するのを待っていた。幸いな事にようやく先日新作が借りられるようになった。その日のうちに気づいて予約して、今手元にある。<br /><br />　その間、これとは別に、今ハマっているテレビドラマ『月夜行路』の単行本を予約して順位が先頭になるのを待ちかまえていた。「何故、単行本？」と言う問いには、文庫の方は蔵書になってないからと答えておく。2023年には出版されているので、ひっそりと放置されつづけていたわけだ。ドラマの人気とともに入荷する可能性はあると思い、こちらも『チャック』同様ウォッチを続けてきた。当然と言えば当然なのだが、『チャック』が入れば『月夜行路』も動き出す可能性が高くなる。案の定、文庫が入荷して予約し、今手元にある。結果的に単行本よりも早く手に入った。その次に新作『月夜行路returns』が入り予約した。こちらも数日前に取り置き状態になっている。なので、いまやお祭り騒ぎなのだ。<br /><br />　お祭りに浮かれて「読み終えずに返却」となっては本末転倒なので、営為『チャック』を読んでいる。既に「ハリガンさんの電話」は読み終えた。こちらは改めて感想を書くつもりだけれど、映画『ショーシャンクの空に』並みの、と言えばさすがに言い過ぎだが、あれと同列の感動と爽快さを与えてくれる快作だと思った。肝心の「刑務所のリタ・ヘイワース」を読んでない口で何を言うか、と言われそうだが。<br /><br />　続いて、さっそく本命の中編「チャックの数奇な人生」を読み出した。だが、正直何が書かれているのか訳が分からない状態に陥った。何度も何度も冒頭の部分を読み返して、ようやくたどり着いたのが、このエッセイを書く事だった。だから、ここには作品の感想もなければ、ネタバレもない。ただ、その翻訳について、フライングだがちょっと書いておこうと思う。<br /><br />　書き出しはこうだ。<br /><blockquote>マーティ・アンダーソンがそのビルボードを見たのは、インターネットが恒久的にダウンする前日だった。</blockquote>　え？どういう意味？　ビルボードって見るものなのか。僕らの知っているビルボードとは、あの音楽情報紙の事だろうし、なんとなく「ビルボード・ランキング」の事ぐらいに思った。インターネットがダウンする前だったから、ネットで見かけたという事か。<br /><br />　そもそもキングの文章は圧倒的に細かい描写と心理描写、皮肉な物言い、ほのめかしが鏤められていて、何を言わんとしているかすぐには判らないように書かれている。だが、辻褄だけはきちんと整っているので、そうではない部分は違和感として残りながら先に進むことになる。<br /><br />　続いて、鳥や魚と同じように「あるもの」が絶滅危惧種同然になっているという話題を挟んで、マーティが学校を出る。<br /><blockquote>　マーティが学校を出た時間は遅かった。高校教師にとってもっとも好ましからざる勤務日、保護者面談の一日だったからだ。ところがふたをあけてみれば、息子のジョニーや娘のジェイニーの学習の進展（あるいは進展のなさ）について聞きたがる保護者はほとんどおらず、…<br /></blockquote>　この時点でマーティが高校教師だと確信がもてれば、また違ったのだろうが、マーティは保護者の可能性も、生徒の可能性もあった(マーティとくればマクフライだろう)。直後に「息子のジョニー」が目に入って生徒の可能性は消えた。するとマーティは保護者で、同じ学校に通う息子と娘が一人ずついる事になるのか。ところが「保護者はほとんどおらず」と出てきて、初めの解釈が躓いた事が分かった。では、どこから？　この学校では男子学生はすべてジョニーという名前で、女子学生はすべてジェイニーという名前なのだろうか。近未来SFではあり得る設定かもしれない。<br /><br />　そこで、はたと気づいた。ジョニーとジェイニーは日本語の「太郎と花子」なのではないか？　その想像はすぐに確認がとれた。だとすると、あまりに不親切な翻訳ではないか。英語ネイティブの人、あるいはバイリンガルな日本人には当たり前でも、僕ら一般人には分からない取り合わせだ。まさか太郎と花子を使うわけにはいかないとしても、何か工夫のしようがあったんじゃないだろうか。<br /><br />　引き続き、マーティが保護者の一人なのか教師なのかについては確信が持てるような記述が無く、確かな事は何ひとつないという状況のまま、マーティが帰宅しようとする場面。<br /><blockquote>保護者面談のおかげで職場を出るのが三時ではなく五時、つまりラッシュアワーのピークになってしまい、以前なら二十分で済んでいた車での帰宅にすくなくとも一時間――あるいはもっと長く――かかりそうだった。信号機がいくつか消えていたせいもあった。</blockquote>　ここもいちいち悩ましい。このエッセイを書くまでに冒頭部分だけ十分に読み込んできたので、「マーティは保護者」という可能性は捨ててもいいだろうが、では教師ならば「職場」と言うかなぁと気になった。「職員室」とか「教員室」とか書くのが普通じゃないだろうか。まあ、穿ちすぎているかもしれないが。<br /><br />　それよりも辻褄が合わないところがある。面談に手間取って二時間遅れで学校を出た結果、マーティは「ラッシュアワーのまっただ中に放り込まれる」。だから一時間以上もかかりそうな状況におかれているわけだ。だったら「以前なら二十分で済んでいた」ではなくて「本当なら二十分で済むところを少なくとも一時間――あるいはもっと長く――かかりそうだった」ではないのか。「以前なら」と書くと「今なら」どれくらい時間がかかるのかが知りたくなる。そして比較すべきはこちらの方のはずだ。本当に原文に書かれた通りに訳しているのだろうか。疑わしくなってきた。<br /><br />　ひょっとしたら冒頭部分ならばアメリカのAmazonでサンプル文として読めるかもしれない。予想通り、原文が見つかった。<br /><blockquote>Thanks to the conferences, he'd left at five instead of three, at the height of rush hour, and a drive that would have taken twenty minutes in the old days would take at least an hour, probably longer because some of the traffic lights were out, as well.</blockquote>　なるほど、僕の予想とはちょっと外れていたけれど、そう思ってしまった原因はわかった。原文の辻褄はちゃんと合っている。<br /><br />　まず「職場」という言葉は原文にはない。ここは曖昧に「学校に足止めを食らった」ぐらいでよさそうだ。それとa driveで始まる文はwouldを使って仮定法過去完了になっている。しかもwouldによる仮定法は２回出てくるので「かかりそうだった」と文末を整えるぐらいではダメなのでないだろうか。<br /><blockquote>(私訳) 保護者面談のおかげで、マーティは三時ではなく五時まで足止めを食らった。要するにラッシュアワーの真っ最中になるまで。たとえそうなったとしても、何年も前なら車を使って二十分で帰宅できただろうに、いまや少なく見積もっても一時間はかかるだろう。おまけに、信号機が何カ所かダメになっているから、もっとかかるかもしれない。</blockquote><br />　そしてこの段落の最後がこう締めくくられる。<br /><blockquote>マーティも…交差点で十分ほど足止めを食らったので、〈ミッドウエスト・トラスト〉のビルのてっぺんにあるビルボードに気づく時間はたっぷりあった。</blockquote>　あっ！やっぱりか。これって電光掲示板？それとも街頭ビジョン、いや看板か？　調べるとランダムハウス英和大辞典では"bill board"の訳語として以下のように書かれている。<br /><blockquote><strong>bill board</strong><br />1.《特に米》(通例、屋外の大型)掲示板、広告板。<br />2. 〔ラジオ〕〔テレビ〕番組紹介、ビルボード。<br />◇タイトル名<br />[刊行物]Billboard 米国最大の週間音楽雑誌で、新曲のヒットチャートを掲載(1894-)。</blockquote>　僕は固有名詞のBillboardしか知らなかった事になる。<br /><br />　一方、国語辞典では「ビルボード」を見出しとしているのは精選版日本国語大辞典のみで、広辞苑すら立項していない。日国の語釈はこうだ。<br /><blockquote><strong>ビルボード</strong><br />[一].《名》(英 billborad) 屋外に建てられた広告板。<br />[二]. (Billboard) アメリカの音楽週刊誌。ヒットチャートで有名。</blockquote>　このことから、ビルボードというカタカナ語は確かに「屋外広告板」を意味すると分かるのだが、同時に広辞苑も明鏡も新明解も日本語として熟れた単語とは認めていないという事も分かる。ちなみにこの直後の文で、「ビルのてっぺん」にあるビルボードは電光掲示板でも街頭ビジョンでもなく、ただの広告板(看板)である事がわかる。<br /><br />　と、たかが２頁足らずの冒頭からこんなことに頭を悩ましていたのだ。おかげで、読み取りづらかった状況は解消した。一度分かってしまえば、次に読む時には違和感が少なくなっていて、そのうち何に悩んでいたのかさえ分からなくなってしまうのだろう。それに越した事はない。願わくば、このあとも「足止めを食らう」事がないように。それでは読書再開！　<a name="more"></a><div class="blogmura-link"><a href="https://blogmura.com/ranking/in?p_cid=10113262" target="_blank"><img src="https://b.blogmura.com/88_31.gif" width="88" height="31" border="0" alt="ブログランキング・にほんブログ村へ" />にほんブログ村</a>
<a href="https://blogmura.com/profiles/10113262?p_cid=10113262" target="_blank"><img src="https://blogparts.blogmura.com/parts_image/user/pv10113262.gif" alt="PVアクセスランキング にほんブログ村" /></a></div>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
            <category>評論・エッセイ</category>
      <author>アスラン</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,elleryqueen/520867754</guid>
                </item>
        <item>
      <link>https://elleryqueen.seesaa.net/article/520715620.html</link>
      <title>遊園地ぐるぐるめ　青山美智子／田中達也(ポプラ社)</title>
      <pubDate>Sat, 23 May 2026 12:15:42 +0900</pubDate>
            <description>　　この小説、青山美智子作品の中でも最も問題作と言っていいのではないだろうか。読み始めてすぐに「何故遊園地なのか？」「何故ぐるぐるめと呼ばれているのか？」「何故本当の名前が山中青田遊園地なのか？」　などと次々に疑問が湧いてくるからだ。そしてそれは驚いた事に最後まで解消されない。その事に戸惑いながら読み終える作品だった。　こうまでしてピンとこない小説は、青山作品ではかつてなかった。きっと、そこには僕の与り知らぬ背景が隠されているはずだ。例えば、連載された雑誌の編集部から与えられ..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B499-99179.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="&#x8868;&#x7D19;.jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B499-99179-thumbnail2.jpg" width="104" height="150"></a>　<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928E5B8AFE4BB98E3818D29.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="&#x8868;&#x7D19;(&#x5E2F;&#x4ED8;&#x304D;).jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928E5B8AFE4BB98E3818D29-thumbnail2.jpg" width="104" height="150"></a>
　この小説、青山美智子作品の中でも最も問題作と言っていいのではないだろうか。読み始めてすぐに
「何故遊園地なのか？」
「何故ぐるぐるめと呼ばれているのか？」
「何故本当の名前が山中青田遊園地なのか？」
　などと次々に疑問が湧いてくるからだ。そしてそれは驚いた事に最後まで解消されない。その事に戸惑いながら読み終える作品だった。

　こうまでしてピンとこない小説は、青山作品ではかつてなかった。きっと、そこには僕の与り知らぬ背景が隠されているはずだ。例えば、連載された雑誌の編集部から与えられたテーマに沿って、連作となる短編が紡ぎ出されているのではないか。それをあらかじめ知っておかないと、十分には楽しめない作品なのではないか。そう考えると、今までも青山作品をほとんど単行本で読んできたが、書き下ろしなのか連載なのかを気にせずに読んできたのは、愛読者としては迂闊だったのかもしれない。そう思うようになった。

　そこであらためて借りてきた図書館の「抄録」を読むと、
とある町にある「遊園地ぐるぐるめ」。訪れた6人のお客さんと、そして-。小説家の青山美智子とミニチュア写真家・見立て作家の田中達也によるコラボ連作短編小説。『ウェブアスタ』連載に2編を加え、加筆修正。　と書かれていた。まず雑誌ではなく『ウェブアスタ』というサイトでの連載だと知った。調べてみると、児童書の出版で有名なポプラ社が運営するストーリー＆エッセイマガジンが『WEB asta（ウェブ アスタ）』だそうだ。ポプラ社はすでに紙媒体の雑誌『季刊asta』を出版している。この雑誌のテーマは「子どもの本と大人の本の架け橋」で、そのウェブ版とも言うべき『ウェブアスタ』では、幅広い読者に本や読書の楽しさを伝えるような内容からなる雑誌を目指しているとの事。

「何故遊園地なのか？」
　ハッキリとは分からないが、「何か楽しい場所を題材にした小説を連載してほしい」という運営側からの要望があったのかもしれない。とは言え、ディズニーランドやＵＦＪなどの巨大テーマパークではなく、青山作品に出てきそうな何かしら悩みを抱えている人々が昔から幾度となく訪れてきた地元の小さな遊園地を舞台にする事で、ファンタジックな青山ワールドが紡ぎ出されるのだ。

「何故ぐるぐるめと呼ばれているのか？」
　これは作品を読むと分かるが、このローカル遊園地を訪れた人々が自らの悩みから解き放たれるキッカケを作ってくれるのが、一風変わったピエロである事が関係している。ミッキーマウスのようにかわいげがあるキャラクターではないが、ピエロが引き連れているワゴンには様々な道具と食材が隠されていて、遭遇した人たちにポップコーンを始め、いろんなものを提供してくれる。それがオシャレでもカワイイでもない平仮名の「ぐるめ」の正体なのだろう。「この遊園地にいるあいだだけでも楽しんでほしい」という心のこもった「ぐるめ」なのだ。

　もう一つは「めぐる」という意味も隠されているような気がする。ここで「楽しんだ記憶・思い出」は、どこかの誰かに繋がっていく。青山ワールドは、まさに「めぐる」が叶えられる世界なのだ。その意図もこめて「ぐるぐるめ」と著者は思いついたのだ。これは小説中には明確に書かれていないので、僕の想像でしかないけれど。さらに言うと、この著者って誰だろう？ この答は次の問いと密接に関係している。

「何故本当の名前が山中青田遊園地なのか？」
　なんというか迂闊な事に、読んでいるときには全然気がつかなかった。非常に平凡な、いや平凡とも違うな、どこにでもある普通の地名か何かを冠にして、これっぽっちも格好つけていない事に驚いた。要するにテーマパークにつける名前としては全然輝いていないのだ。それをあえて付けた狙いは何だろう？と考えていたが、ついに最後まで明かされなかった。単に青山さんによる青山ワールドでの決め事なのかなと思ったのだが、その後青山さんへのインタビュー本を読んで、ようやく理解した。これは青山(美智子)さんと田中(達也)さんの苗字を組み合わせて作られていたのだ。

　それでいろいろな疑問が氷解した。この本は、これまで読んできた青山美智子さんの小説と変わらないと思ってきたが、実は田中達也さんとの共著なのだ(二人が著者になっているのは、この書評のタイトルを書くときに初めて気づいた)。図書館の抄録に書いてあったように、田中達也さんはミニチュア写真家であり見立て作家という肩書きをもつアーティストだ。「見立て」はひとまず置いておくとしてミニチュア写真とは何か。すでに青山さんの著作の多く(ほとんどと言っていい)の表紙が田中さんの手にかかったものだから、僕らにもすでにお馴染みだ。デザイン画でもないし、風景や人物の写真でもない。人物(人形)とアイテムを配置したミニチュアから出来ている。プラモデルでおなじみのジオラマのようでいて、田中さんのミニチュア写真には人物たちの日常や人生が透けて見えるようなドラマが感じられる。
<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E69CA8E69B9CE697A5E381ABE381AFE382B3E382B3E382A2E38292_E8A1A8E7B499.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="&#x6728;&#x66DC;&#x65E5;&#x306B;&#x306F;&#x30B3;&#x30B3;&#x30A2;&#x3092;_&#x8868;&#x7D19;.jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E69CA8E69B9CE697A5E381ABE381AFE382B3E382B3E382A2E38292_E8A1A8E7B499-thumbnail2.jpg" width="103" height="150"></a>　<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E69C88E69B9CE697A5E381AEE68AB9E88CB6E382ABE38395E382A7_E8A1A8E7B499.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="&#x6708;&#x66DC;&#x65E5;&#x306E;&#x62B9;&#x8336;&#x30AB;&#x30D5;&#x30A7;_&#x8868;&#x7D19;.jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E69C88E69B9CE697A5E381AEE68AB9E88CB6E382ABE38395E382A7_E8A1A8E7B499-thumbnail2.jpg" width="103" height="150"></a>　<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E3819FE381A0E38184E381BEE7A59EE6A798E5BD93E795AA_E8A1A8E7B499.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="&#x305F;&#x3060;&#x3044;&#x307E;&#x795E;&#x69D8;&#x5F53;&#x756A;_&#x8868;&#x7D19;.jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E3819FE381A0E38184E381BEE7A59EE6A798E5BD93E795AA_E8A1A8E7B499-thumbnail2.jpg" width="103" height="150"></a>　<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E3818AE68EA2E38197E789A9E381AFE59BB3E69BB8E5AEA4E381BEE381A7_E8A1A8E7B499.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="&#x304A;&#x63A2;&#x3057;&#x7269;&#x306F;&#x56F3;&#x66F8;&#x5BA4;&#x307E;&#x3067;_&#x8868;&#x7D19;.jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E3818AE68EA2E38197E789A9E381AFE59BB3E69BB8E5AEA4E381BEE381A7_E8A1A8E7B499-thumbnail2.jpg" width="104" height="150"></a>　<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E78CABE381AEE3818AE5918AE38192E381AFE6A8B9E381AEE4B88BE381A7_E8A1A8E7B499.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="&#x732B;&#x306E;&#x304A;&#x544A;&#x3052;&#x306F;&#x6A39;&#x306E;&#x4E0B;&#x3067;_&#x8868;&#x7D19;.jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E78CABE381AEE3818AE5918AE38192E381AFE6A8B9E381AEE4B88BE381A7_E8A1A8E7B499-thumbnail2.jpg" width="103" height="150"></a>　<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E38184E381A4E38282E381AEE69CA8E69B9CE697A5_E8A1A8E7B499.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="&#x3044;&#x3064;&#x3082;&#x306E;&#x6728;&#x66DC;&#x65E5;_&#x8868;&#x7D19;.jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E38184E381A4E38282E381AEE69CA8E69B9CE697A5_E8A1A8E7B499-thumbnail2.jpg" width="150" height="137"></a>　<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E4BABAE9AD9AE3818CE98083E38192E3819F_E8A1A8E7B499.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="&#x4EBA;&#x9B5A;&#x304C;&#x9003;&#x3052;&#x305F;_&#x8868;&#x7D19;.jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E4BABAE9AD9AE3818CE98083E38192E3819F_E8A1A8E7B499-thumbnail2.jpg" width="102" height="150"></a>
　こうして改めて田中さんが表紙を手がけた作品の一覧を作ってみると、出版社の垣根を越えている。よっぽど青山さんが田中さんのミニチュア写真を気に入っている事がよく分かる。本作もその一つだと僕が勘違いしたのも無理はない(と言い訳をしておく)。しかし、そうなると冒頭から検討してきた問いのすべてには、違った見方で答える事ができるような気がする。

　「何故遊園地なのか？」と言うと、本作では収録される短編一つ一つに田中さんの写真が挿入されるので、互いに持ち寄ったインスピレーションを共有しやすい舞台として遊園地が選ばれたのかもしれない。もっと言えば、田中さんから青山さんへのチャレンジの可能性だってありうる。「こういったイメージで短編を、ドラマを書けますか？」という問いかけに青山さんが答えたのではないか。

　「何故ぐるぐるめと呼ばれるのか？」については、〈遊園地×ぐるめ〉というアイディア自体、田中さんのもう一つの顔「見立て作家」から来ているのかもしれない。本書の表紙を見てわかるように、さまざまな食材やキッチン道具を使って遊園地に見立てている。あるいは〈遊園地×ぐるめ〉というお題に見立ててミニチュア写真を創り出したのかもしれない。

　どちらが正解ともいえないような不思議なコラボレーションが、この作品にはあるようだ。極めつけは本の帯だ。図書館で借りたので帯の事はまったく気にとめなかったのだが、Amazonなどで検索すると帯のかかった本の画像が見られる。そこには以下のような文言は書かれている。
田中さんの作品を見て、小説を書きました。――青山美智子
青山さんの小説を読んで、作品を作りました。――田中達也　「鶏が先か、卵が先か」のように、僕ら読者を煙に巻くような惹句だが、意外とお二方の間では絶妙な分担が出来上がっているのかもしれない。

　今回のコラボによる連作短編がうまく言っているのかといえば、正直微妙なところも感じる。これまでの青山作品の中での本作の位置づけは、『リカバリー・カバヒコ』のような幸運のお守り的なキャラクターや、『お探し物は図書館まで』のように不思議な力で導いては悩みから抜けだすきっかけを作ってくれるヒーロー／ヒロイン的存在が出てくるタイプの作品かと思った。まさにピエロがそんな存在に当てはまりそうだなとおもった。だが、ピエロ自身の短編もあり、彼もまた自分の存在意義について悩んでいる。

　珍しく統一感がないなぁと僭越な事を考えていたのだが、ふと「遊園地そのものがラッキーでミラクルな場所なのでは？」と思い至った。「山中青田遊園地、通称ぐるぐるめ」こそが悩みを抱える人々にとってお守り的な存在であり、ヒロイックな存在なのだ。それを二人の著者が才能を持ち寄って生み出した作品が、本書だった。このコラボには、まだまだ伸びしろがあるような気がする。全面的に田中さんのミニチュア写真のコンセプトから青山さんが文章を書くというコラボがあってもいい。逆もまたしかり。次回作はあるのだろうか。<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B499-99179.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="表紙.jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B499-99179-thumbnail2.jpg" width="104" height="150" onclick="location.href = 'https://elleryqueen.seesaa.net/upload/detail/image/E8A1A8E7B499-99179-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a>　<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928E5B8AFE4BB98E3818D29.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="表紙(帯付き).jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928E5B8AFE4BB98E3818D29-thumbnail2.jpg" width="104" height="150" onclick="location.href = 'https://elleryqueen.seesaa.net/upload/detail/image/E8A1A8E7B49928E5B8AFE4BB98E3818D29-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br />　この小説、青山美智子作品の中でも最も問題作と言っていいのではないだろうか。読み始めてすぐに<br /><blockquote>「何故遊園地なのか？」<br />「何故ぐるぐるめと呼ばれているのか？」<br />「何故本当の名前が山中青田遊園地なのか？」<br /></blockquote>　などと次々に疑問が湧いてくるからだ。そしてそれは驚いた事に最後まで解消されない。その事に戸惑いながら読み終える作品だった。<br /><br />　こうまでしてピンとこない小説は、青山作品ではかつてなかった。きっと、そこには僕の与り知らぬ背景が隠されているはずだ。例えば、連載された雑誌の編集部から与えられたテーマに沿って、連作となる短編が紡ぎ出されているのではないか。それをあらかじめ知っておかないと、十分には楽しめない作品なのではないか。そう考えると、今までも青山作品をほとんど単行本で読んできたが、書き下ろしなのか連載なのかを気にせずに読んできたのは、愛読者としては迂闊だったのかもしれない。そう思うようになった。<br /><br />　そこであらためて借りてきた図書館の「抄録」を読むと、<br /><blockquote>とある町にある「遊園地ぐるぐるめ」。訪れた6人のお客さんと、そして-。小説家の青山美智子とミニチュア写真家・見立て作家の田中達也によるコラボ連作短編小説。『ウェブアスタ』連載に2編を加え、加筆修正。</blockquote>　と書かれていた。まず雑誌ではなく『ウェブアスタ』というサイトでの連載だと知った。調べてみると、児童書の出版で有名なポプラ社が運営するストーリー＆エッセイマガジンが『WEB asta（ウェブ アスタ）』だそうだ。ポプラ社はすでに紙媒体の雑誌『季刊asta』を出版している。この雑誌のテーマは「子どもの本と大人の本の架け橋」で、そのウェブ版とも言うべき『ウェブアスタ』では、幅広い読者に本や読書の楽しさを伝えるような内容からなる雑誌を目指しているとの事。<br /><br /><strong>「何故遊園地なのか？」</strong><br />　ハッキリとは分からないが、「何か楽しい場所を題材にした小説を連載してほしい」という運営側からの要望があったのかもしれない。とは言え、ディズニーランドやＵＦＪなどの巨大テーマパークではなく、青山作品に出てきそうな何かしら悩みを抱えている人々が昔から幾度となく訪れてきた地元の小さな遊園地を舞台にする事で、ファンタジックな青山ワールドが紡ぎ出されるのだ。<br /><br /><strong>「何故ぐるぐるめと呼ばれているのか？」</strong><br />　これは作品を読むと分かるが、このローカル遊園地を訪れた人々が自らの悩みから解き放たれるキッカケを作ってくれるのが、一風変わったピエロである事が関係している。ミッキーマウスのようにかわいげがあるキャラクターではないが、ピエロが引き連れているワゴンには様々な道具と食材が隠されていて、遭遇した人たちにポップコーンを始め、いろんなものを提供してくれる。それがオシャレでもカワイイでもない平仮名の「ぐるめ」の正体なのだろう。「この遊園地にいるあいだだけでも楽しんでほしい」という心のこもった「ぐるめ」なのだ。<br /><br />　もう一つは「めぐる」という意味も隠されているような気がする。ここで「楽しんだ記憶・思い出」は、どこかの誰かに繋がっていく。青山ワールドは、まさに「めぐる」が叶えられる世界なのだ。その意図もこめて「ぐるぐるめ」と著者は思いついたのだ。これは小説中には明確に書かれていないので、僕の想像でしかないけれど。さらに言うと、この著者って誰だろう？ この答は次の問いと密接に関係している。<br /><br /><strong>「何故本当の名前が山中青田遊園地なのか？」</strong><br />　なんというか迂闊な事に、読んでいるときには全然気がつかなかった。非常に平凡な、いや平凡とも違うな、どこにでもある普通の地名か何かを冠にして、これっぽっちも格好つけていない事に驚いた。要するにテーマパークにつける名前としては全然輝いていないのだ。それをあえて付けた狙いは何だろう？と考えていたが、ついに最後まで明かされなかった。単に青山さんによる青山ワールドでの決め事なのかなと思ったのだが、その後青山さんへのインタビュー本を読んで、ようやく理解した。これは青山(美智子)さんと田中(達也)さんの苗字を組み合わせて作られていたのだ。<br /><br />　それでいろいろな疑問が氷解した。この本は、これまで読んできた青山美智子さんの小説と変わらないと思ってきたが、実は田中達也さんとの共著なのだ(二人が著者になっているのは、この書評のタイトルを書くときに初めて気づいた)。図書館の抄録に書いてあったように、田中達也さんはミニチュア写真家であり見立て作家という肩書きをもつアーティストだ。「見立て」はひとまず置いておくとしてミニチュア写真とは何か。すでに青山さんの著作の多く(ほとんどと言っていい)の表紙が田中さんの手にかかったものだから、僕らにもすでにお馴染みだ。デザイン画でもないし、風景や人物の写真でもない。人物(人形)とアイテムを配置したミニチュアから出来ている。プラモデルでおなじみのジオラマのようでいて、田中さんのミニチュア写真には人物たちの日常や人生が透けて見えるようなドラマが感じられる。<br /><a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E69CA8E69B9CE697A5E381ABE381AFE382B3E382B3E382A2E38292_E8A1A8E7B499.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="木曜日にはココアを_表紙.jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E69CA8E69B9CE697A5E381ABE381AFE382B3E382B3E382A2E38292_E8A1A8E7B499-thumbnail2.jpg" width="103" height="150" onclick="location.href = 'https://elleryqueen.seesaa.net/upload/detail/image/E69CA8E69B9CE697A5E381ABE381AFE382B3E382B3E382A2E38292_E8A1A8E7B499-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a>　<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E69C88E69B9CE697A5E381AEE68AB9E88CB6E382ABE38395E382A7_E8A1A8E7B499.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="月曜日の抹茶カフェ_表紙.jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E69C88E69B9CE697A5E381AEE68AB9E88CB6E382ABE38395E382A7_E8A1A8E7B499-thumbnail2.jpg" width="103" height="150" onclick="location.href = 'https://elleryqueen.seesaa.net/upload/detail/image/E69C88E69B9CE697A5E381AEE68AB9E88CB6E382ABE38395E382A7_E8A1A8E7B499-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a>　<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E3819FE381A0E38184E381BEE7A59EE6A798E5BD93E795AA_E8A1A8E7B499.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="ただいま神様当番_表紙.jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E3819FE381A0E38184E381BEE7A59EE6A798E5BD93E795AA_E8A1A8E7B499-thumbnail2.jpg" width="103" height="150" onclick="location.href = 'https://elleryqueen.seesaa.net/upload/detail/image/E3819FE381A0E38184E381BEE7A59EE6A798E5BD93E795AA_E8A1A8E7B499-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a>　<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E3818AE68EA2E38197E789A9E381AFE59BB3E69BB8E5AEA4E381BEE381A7_E8A1A8E7B499.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="お探し物は図書室まで_表紙.jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E3818AE68EA2E38197E789A9E381AFE59BB3E69BB8E5AEA4E381BEE381A7_E8A1A8E7B499-thumbnail2.jpg" width="104" height="150" onclick="location.href = 'https://elleryqueen.seesaa.net/upload/detail/image/E3818AE68EA2E38197E789A9E381AFE59BB3E69BB8E5AEA4E381BEE381A7_E8A1A8E7B499-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a>　<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E78CABE381AEE3818AE5918AE38192E381AFE6A8B9E381AEE4B88BE381A7_E8A1A8E7B499.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="猫のお告げは樹の下で_表紙.jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E78CABE381AEE3818AE5918AE38192E381AFE6A8B9E381AEE4B88BE381A7_E8A1A8E7B499-thumbnail2.jpg" width="103" height="150" onclick="location.href = 'https://elleryqueen.seesaa.net/upload/detail/image/E78CABE381AEE3818AE5918AE38192E381AFE6A8B9E381AEE4B88BE381A7_E8A1A8E7B499-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a>　<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E38184E381A4E38282E381AEE69CA8E69B9CE697A5_E8A1A8E7B499.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="いつもの木曜日_表紙.jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E38184E381A4E38282E381AEE69CA8E69B9CE697A5_E8A1A8E7B499-thumbnail2.jpg" width="150" height="137" onclick="location.href = 'https://elleryqueen.seesaa.net/upload/detail/image/E38184E381A4E38282E381AEE69CA8E69B9CE697A5_E8A1A8E7B499-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a>　<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E4BABAE9AD9AE3818CE98083E38192E3819F_E8A1A8E7B499.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="人魚が逃げた_表紙.jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E4BABAE9AD9AE3818CE98083E38192E3819F_E8A1A8E7B499-thumbnail2.jpg" width="102" height="150" onclick="location.href = 'https://elleryqueen.seesaa.net/upload/detail/image/E4BABAE9AD9AE3818CE98083E38192E3819F_E8A1A8E7B499-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br />　こうして改めて田中さんが表紙を手がけた作品の一覧を作ってみると、出版社の垣根を越えている。よっぽど青山さんが田中さんのミニチュア写真を気に入っている事がよく分かる。本作もその一つだと僕が勘違いしたのも無理はない(と言い訳をしておく)。しかし、そうなると冒頭から検討してきた問いのすべてには、違った見方で答える事ができるような気がする。<br /><br />　「何故遊園地なのか？」と言うと、本作では収録される短編一つ一つに田中さんの写真が挿入されるので、互いに持ち寄ったインスピレーションを共有しやすい舞台として遊園地が選ばれたのかもしれない。もっと言えば、田中さんから青山さんへのチャレンジの可能性だってありうる。「こういったイメージで短編を、ドラマを書けますか？」という問いかけに青山さんが答えたのではないか。<br /><br />　「何故ぐるぐるめと呼ばれるのか？」については、〈遊園地×ぐるめ〉というアイディア自体、田中さんのもう一つの顔「見立て作家」から来ているのかもしれない。本書の表紙を見てわかるように、さまざまな食材やキッチン道具を使って遊園地に見立てている。あるいは〈遊園地×ぐるめ〉というお題に見立ててミニチュア写真を創り出したのかもしれない。<br /><br />　どちらが正解ともいえないような不思議なコラボレーションが、この作品にはあるようだ。極めつけは本の帯だ。図書館で借りたので帯の事はまったく気にとめなかったのだが、Amazonなどで検索すると帯のかかった本の画像が見られる。そこには以下のような文言は書かれている。<br /><blockquote>田中さんの作品を見て、小説を書きました。――青山美智子<br />青山さんの小説を読んで、作品を作りました。――田中達也</blockquote>　「鶏が先か、卵が先か」のように、僕ら読者を煙に巻くような惹句だが、意外とお二方の間では絶妙な分担が出来上がっているのかもしれない。<br /><br />　今回のコラボによる連作短編がうまく言っているのかといえば、正直微妙なところも感じる。これまでの青山作品の中での本作の位置づけは、『リカバリー・カバヒコ』のような幸運のお守り的なキャラクターや、『お探し物は図書館まで』のように不思議な力で導いては悩みから抜けだすきっかけを作ってくれるヒーロー／ヒロイン的存在が出てくるタイプの作品かと思った。まさにピエロがそんな存在に当てはまりそうだなとおもった。だが、ピエロ自身の短編もあり、彼もまた自分の存在意義について悩んでいる。<br /><br />　珍しく統一感がないなぁと僭越な事を考えていたのだが、ふと「遊園地そのものがラッキーでミラクルな場所なのでは？」と思い至った。「山中青田遊園地、通称ぐるぐるめ」こそが悩みを抱える人々にとってお守り的な存在であり、ヒロイックな存在なのだ。それを二人の著者が才能を持ち寄って生み出した作品が、本書だった。このコラボには、まだまだ伸びしろがあるような気がする。全面的に田中さんのミニチュア写真のコンセプトから青山さんが文章を書くというコラボがあってもいい。逆もまたしかり。次回作はあるのだろうか。<a name="more"></a><div class="blogmura-link"><a href="https://blogmura.com/ranking/in?p_cid=10113262" target="_blank"><img src="https://b.blogmura.com/88_31.gif" width="88" height="31" border="0" alt="ブログランキング・にほんブログ村へ" />にほんブログ村</a>
<a href="https://blogmura.com/profiles/10113262?p_cid=10113262" target="_blank"><img src="https://blogparts.blogmura.com/parts_image/user/pv10113262.gif" alt="PVアクセスランキング にほんブログ村" /></a></div>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
            <category>書評</category>
      <author>アスラン</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,elleryqueen/520715620</guid>
            <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B499-99179.jpg" length="100994" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B499-99179.jpg" length="100994" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928E5B8AFE4BB98E3818D29.jpg" length="95491" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928E5B8AFE4BB98E3818D29.jpg" length="95491" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E69CA8E69B9CE697A5E381ABE381AFE382B3E382B3E382A2E38292_E8A1A8E7B499.jpg" length="156372" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E69CA8E69B9CE697A5E381ABE381AFE382B3E382B3E382A2E38292_E8A1A8E7B499.jpg" length="156372" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E69C88E69B9CE697A5E381AEE68AB9E88CB6E382ABE38395E382A7_E8A1A8E7B499.jpg" length="221665" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E69C88E69B9CE697A5E381AEE68AB9E88CB6E382ABE38395E382A7_E8A1A8E7B499.jpg" length="221665" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E3819FE381A0E38184E381BEE7A59EE6A798E5BD93E795AA_E8A1A8E7B499.jpg" length="230593" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E3819FE381A0E38184E381BEE7A59EE6A798E5BD93E795AA_E8A1A8E7B499.jpg" length="230593" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E3818AE68EA2E38197E789A9E381AFE59BB3E69BB8E5AEA4E381BEE381A7_E8A1A8E7B499.jpg" length="123500" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E3818AE68EA2E38197E789A9E381AFE59BB3E69BB8E5AEA4E381BEE381A7_E8A1A8E7B499.jpg" length="123500" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E78CABE381AEE3818AE5918AE38192E381AFE6A8B9E381AEE4B88BE381A7_E8A1A8E7B499.jpg" length="162227" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E78CABE381AEE3818AE5918AE38192E381AFE6A8B9E381AEE4B88BE381A7_E8A1A8E7B499.jpg" length="162227" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E38184E381A4E38282E381AEE69CA8E69B9CE697A5_E8A1A8E7B499.jpg" length="240695" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E38184E381A4E38282E381AEE69CA8E69B9CE697A5_E8A1A8E7B499.jpg" length="240695" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E4BABAE9AD9AE3818CE98083E38192E3819F_E8A1A8E7B499.jpg" length="162143" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E4BABAE9AD9AE3818CE98083E38192E3819F_E8A1A8E7B499.jpg" length="162143" type="image/jpeg" />
                      </item>
        <item>
      <link>https://elleryqueen.seesaa.net/article/520528165.html</link>
      <title>災厄の町[新訳版]　エラリイ・クイーン(ハヤカワ文庫)　(その3)</title>
      <pubDate>Fri, 08 May 2026 11:20:48 +0900</pubDate>
            <description>　本来なら『災厄の町』の書評に書く事ではないかもしれないが、今回、旧訳(青田勝訳)と新訳(越前敏弥訳)の比較を試みた際に、いままでは出来なかった下調べを生成AIにやってもらったので、エラリー･クイーンに関するその他の疑問についても生成AIの力を借りて、けりを付けようと思う。結論から言うと、『災厄の町』をキッカケにしてクイーンの特徴であるロジックミステリを文学(a novel)に高めようとした事が、現状に繋がったようなのだ。　まずは、エラリー・クイーンが現在、本国アメリカでどの..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E781BDE58E84E381AEE794BA28E696B0E697A7E8A8B3E58E9FE69BB829_E8A1A8E7B499.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="&#x707D;&#x5384;&#x306E;&#x753A;(&#x65B0;&#x65E7;&#x8A33;&#x539F;&#x66F8;)_&#x8868;&#x7D19;.jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E781BDE58E84E381AEE794BA28E696B0E697A7E8A8B3E58E9FE69BB829_E8A1A8E7B499-thumbnail2.jpg" width="150" height="83"></a>
　本来なら『災厄の町』の書評に書く事ではないかもしれないが、今回、旧訳(青田勝訳)と新訳(越前敏弥訳)の比較を試みた際に、いままでは出来なかった下調べを生成AIにやってもらったので、エラリー･クイーンに関するその他の疑問についても生成AIの力を借りて、けりを付けようと思う。結論から言うと、『災厄の町』をキッカケにしてクイーンの特徴であるロジックミステリを文学(a novel)に高めようとした事が、現状に繋がったようなのだ。

　まずは、エラリー・クイーンが現在、本国アメリカでどの程度読まれているのかをCopilotに聞いてみた。Goodreadsというレビューサイトがあり、特定の本や著者をアメリカ中の読者がどう評価しているかを知るためのデータを提供してくれる。そのGoodreadsで、どの程度クイーンの読者がいるのかを調べた。比較対象としてアガサ・クリスティ、ジョン･ディクスン･カーのデータも使用して、読者数(評価点をつけた件数)、平均評価(5点満点)、分析結果をまとめたものが以下になる。
【3作家の「平均評価」比較】(Goodreadsデータ)
1位：アガサ・クリスティ
　・平均評価：4.02（810万件以上の評価） 
　・代表作は 4.20〜4.27 など非常に高評価帯が多い。
2位：ジョン・ディクスン・カー
　・平均評価：4.06（約7万件の評価） 
　・代表作は 3.79〜3.89 程度で安定して高い。
3位：エラリー・クイーン
　・平均評価：3.69（約4万件の評価） 
　・代表作は 3.54〜3.88 程度で、クリスティ・カーより低め。　何故、この3人を比較するかと言うと、いわゆる「ミステリの黄金時代」に活躍した作家だからだ(加えて、僕の好みも選定の理由に入っている)。クリスティーが1920年デビュー。カーは1930年、クイーンは1929年の一年違いのデビューだ。一目瞭然だが、圧倒的にクリスティーの読者が多く、他の二人を大きく引き離している。しかも平均評価も高い。クイーンはクリスティーの20分の1程度の読者しか獲得できていないし、カーよりも読者数が少ないし、全体的な評価も低くなっている。日本でのクイーン人気と比べると、あまりに低すぎる。
 
　なぜ、このような順位になるのか。Copilotの分析はこうだ。
クリスティ：世界的知名度・読みやすさ・プロットの強さで安定して高評価。
カー：密室トリックの評価が高く、熱心なファンが多い。
クイーン：初期は高評価だが、中期以降で評価が割れやすい。　それぞれに深掘りできそうな分析だが、僕なりに考えると、クリスティーはとにかく読みやすさが第一に挙げられるのではないだろうか。場所といい人といい、取りたてて特別な人は出てこない。一アマチュアからキャリアを始めたお嬢さんが知るかぎりの世間から、海外の名所めぐりなど、現代人にも時代を超えて通じるような舞台と人物と内面とを描きながらも、驚きの結末を用意している。

　対してカーは舞台作りが重要で、尋常ならぬスポットを選んでは不可能犯罪に挑んでいる。特に密室トリックは生涯を賭けて取り組んだ最重要テーマだ。魔術や呪いといったダークファンタジーを「怖いもの見たさ」で読みたがる現代人のニーズにもうまくフィットしている。読者を選ぶ作品には違いないが、エンタメ性が際立っているという点ではクイーンよりも読みやすいのか。

　そして、クイーン。アメリカでも日本同様、初期の国名シリーズなどを評価する読者は存在するようだ。ただし、「中期以降で評価が分かれる」という事は、おそらく国名シリーズのようにハッキリと演繹推理による解決をとことんまで突き詰める作品から、映画界に進出しようと恋愛要素や都会の洗練さと題材にした中期の作品、さらには文学的な昇華を図ろうとした後期の作品の評価が良くないということか。

　そこで、いわゆるアメリカの一般読者にとっての各々の代表作Top10をリストアップしてみた。ここでいう「代表作」とは、評価数(評価点を記入した読者の数)が多いもののうちで平均評価が高い作品という意味だ。簡単に言えば、よく読まれていて、かつ評価が高い作品を指す。
【代表作Top10の比較】(Goodreadsデータ)
アガサ・クリスティ
　And Then There Were None(そして誰もいなくなった) — 4.27 (138万件)
　Murder on the Orient Express (オリエント急行の殺人)— 4.20 (63.2万件)
　The Murder of Roger Ackroyd(アクロイド殺し) — 4.26 (28万件)
　Death on the Nile(ナイルに死す) — 4.12 (38.3万件)
　The A.B.C. Murders(ABC殺人事件) — 4.03 (19.2万件)
　The Mysterious Affair at Styles(スタイルズ荘の怪事件) — 4.00 (20万件)
　A Murder Is Announced(予告殺人)— 4.01 (8.2万件)
　4:50 from Paddington (パディントン発4時50分)— 3.97 (7.3万件) 
→ トップ10平均：約 4.09

ジョン・ディクスン・カー
　He Who Whispers(囁く影) — 3.89 (1172件)
　The Burning Court(火刑法廷 )— 3.86 (899件)
　The Hollow Man(三つの棺) — 3.79 (4514件)
　The Crooked Hinge(曲った蝶番) — 3.80 (1178件)
　Till Death Do Us Part(死が二人をわかつまで) — 3.81 (1161件)
　The Problem of the Green Capsule(緑のカプセルの謎) — 3.81 (1422件) 
　Hag’s Nook(魔女の隠れ家) — 3.64 (1593件)
　The Mad Hatter Mystery(帽子収集狂事件) — 3.60 (1146件)
→ トップ10平均：約 3.80

エラリー・クイーン
　The Adventures of Ellery Queen(エラリー･クイーンの冒険) — 3.88 (1016件)
　Cat of Many Tails(九尾の猫) — 3.86 (1148件)
　The French Powder Mystery(フランス白粉の秘密) — 3.79 (1772件)
　Calamity Town(災厄の町)― 3.74 (748件)
　The Greek Coffin Mystery(ギリシャ棺の秘密) — 3.67 (1943件)
　The Chinese Orange Mystery(チャイナ蜜柑の秘密) — 3.64 (1817件)
　The Dutch Shoe Mystery(オランダ靴の秘密) — 3.63 (1635件)
　The Egyptian Cross Mystery(エジプト十字架の秘密) — 3.75 (1507件)
　The Siamese Twin Mystery(シャム双子の秘密)— 3.64 (1505件)
　The Roman Hat Mystery(ローマ帽子の秘密)― 3.54(3649件)
→ トップ10平均：約 3.70　クリスティーの代表作Top10に異論がある人は少ないだろう。読者それぞれに好みはあるとしても、映像化されている作品が上位に来ていて、どれも万人受けする内容だし、トリックといい驚きの結末といい、十分に満足させてくれる作品が多い。

　変えてカーは多作ゆえにコアなファンにとっても代表作が割れる作家なので、この結果に納得できない人も多いだろう。ただ、Copilotの分析では「密室トリックの評価が高い」「コアなファンからの支持が強い」という、まさにカーらしさを評価する読者が現在も少なくないようだ。

　クイーンのTop10(実は評価数が1000以上の作品に限定しているのでTop9だ)を見る限り、日本の読者とは違った傾向があることがわかる。
①第一短編集『エラリー･クイーンの冒険』の評価がかなり高い。
②『災厄の町』以降の1940代後半に書かれた『九尾の猫』の評価がかなり高い。
③初期の国名シリーズはいずれも安定して評価が高い。
④ドルリイ・レーン悲劇四部作が一つもランキングされていない。　この結果には、アメリカ独自の文化や民族としての気質が影響しているようだ。
①短編集の評価がかなり高い
　アメリカでは長編作家とは別に短編作家を評価する風土がある。Ｏ・ヘンリーなどはその代表だろう。『冒険』は初期の国名シリーズのような長編よりも“読みやすさ”と“完成度”が評価されたようだ。日本は逆の傾向があって、まず長編作家が評価され、次に短編作家の評価が準ずるという傾向がある。個人的には『冒険』『新冒険』の完成度は高いし、もっともっとこの完成度の短篇を書くべきだったんじゃないかと思っている(後の短編はショート・ショートのような軽いものが増えてくる)。

②『九尾の猫』の評価がかなり高い
　アメリカの研究者の間では1940年代後半の作品は、心理や社会を描く事を重視した作品と見なされ評価が高いそうだ。一方、一般読者にとっては「都会の不安」を描く社会派ミステリとして『九尾の猫』の評価が突出しているようだ。僕も久々に新訳版(越前敏弥訳)で読み直した際に、これってその後の連続殺人事件もの、サイコものという都会ならではミステリの嚆矢となる作品ではなかったかと思った。若い頃には初期作品に溺れていたので、そこまでの評価ができなかったのだ。

③初期の国名シリーズはいずれも評価が高い
　これはまったくその通りで、日本でも変わりはない。ただ、「(国名シリーズは)どれもこれも良い」という事は翻って「これが1番」というような代表作を見つけにくいという事でもある、と数十年前から言われ続けてきた。日本では『エジプト十字架』『ギリシャ棺』などが緻密なロジックで評価が高いが、アメリカでは『フランス白粉』が筆頭で『チャイナ蜜柑』『シャム双子』なども入っていて、日本とは傾向の違いがある。ちなみに『フランス白粉』は僕のお気に入りなので異論はない。

④ドルリイ・レーン四部作がランキングされていない
　これは、分類上バーナビー・ロスという仮名がアメリカではいまだ生きているからのようだ。ドルリイ・レーン悲劇四部作の著者は「バーナビー・ロス(仮名)とエラリー・クイーン」となっている。ところが、Goodreadsのエラリー・クイーンの著作リストには『レーン最後の事件』しか含まれていない。一方、『Ｘの悲劇』『Ｙの悲劇』『Ｚの悲劇』はすべてバーナビー・ロスの方にリストアップされていた。これは複数の著者の並びが関係しているようだ(『最後の事件』のみEllery Queen, Barnaby Rossの順で、残りの３作はBarnaby Rossが先になっている)。これが影響しているのか、『Ｘ』『Ｙ』『Ｚ』はエラリー・クイーンの著作としての認知度が低く、平均評価はかなり高いにもかかわらず評価数(読者数)が1000件未満で伸びない。これは現状のクイーンの評価に少なからず悪影響を与えているように思える。

　その点、日本では覆面作家エラリー・クイーンが創り出したもう一人の覆面作家がバーナビー・ロスだと戦後には明かされて、最初からエラリー・クイーンの作品として紹介された。だから、アメリカとは違ってクイーンの代表作の上位に位置する作品となる事ができた。さらには、自らミステリ作家でありながら、海外ミステリの紹介にも尽力した乱歩や横溝がクイーンの作風や個々の作品を評価したことが、日本でクイーン作品がよく読まれる原動力となった。とりわけ『Ｙ』の評価が海外ミステリのオールタイムベストとして君臨してきた時期が続いた。やがては新本格ミステリ作家に分類される次世代の作家たちに引き継がれていったせいで、アメリカでは「忘れられた作家」扱いなのに、日本では「いまだにロジックミステリの源流(お手本)となる作家」という位置を占めている。

　ここまでの分析だと、アメリカでは初期の作品群ばかりが評価され、いわゆる中期・後期の心理・社会派ミステリ路線は『災厄の町』『九尾の猫』を除くと評価されていないように見える。だが、アメリカのクイーン研究家・批評家の間では、心理・社会派(1940年代後半～)の評価が非常に高く、先に挙げた『災厄』『九尾』の他に『十日間の不思議』の評価が高い。

　ここまではCopilotが提供するデータと分析に沿って考えてきたが、ここからはGoodreadsのデータを直接加工する事にした。どうやら、最新の数値をうまく抽出できていないので、条件を変える度に抽出できるはずの作品が抜けたり、ある作品の平均評価や評価数が変わったりするからだ。生成AIはここ数年で急速に精度が向上し、あからさまなハルシネーションは起きなくなったと実感しているが、精緻な数値分析を行う際には注意を要するのは変わらない。そこで、以下の２点に基づくランキングを作成する。
・平均評価(average rating)と評価数(ratings)の両方を考慮するために荷重平均を用いる。
・悲劇四部作をすべてエラリー･クイーンの著作リストに含める。
【荷重平均に基づくエラリー・クイーンの著作ランキング(Goodreads 2026/5/4調べ)】
順位　　　　　　　　　タイトル　　　　　　　　　　　　　平均評価　評価数　荷重平均
 1　The Adventures of Ellery Queen(エラリークイーンの冒険)　　　3.88 1034　3.75 
 2　The Tragedy of Y(Ｙの悲劇)　　　　　　　　　　　　　　　　　4.01　494　3.75 
 3　Cat of Many Tails(九尾の猫)　　　　　　　　　　　　　　　　　3.85 1172　3.74 
 4　The French Powder Mystery(フランス白粉の秘密)　　　　　　　3.79 1806　3.73 
 5　The Tragedy of X(Ｘの悲劇)　　　　　　　　　　　　　　　　　3.87　680　3.72 
 6　The Egyptian Cross Mystery(エジプト十字架の秘密)　 　　　　　3.75 1537　3.70 
 7　The New Adventures of Ellery Queen(エラリークイーンの新冒険) 3.91 350 3.70 
 8　Inspector Queen's Own Case(クイーン警視自身の事件)　　　　3.90　322　3.69 
 9　The Spanish Cape Mystery(スペイン岬の秘密)　　　　　　　　3.75　988　3.69 
10　Calendar of Crime: Stories(犯罪カレンダー)　　　　　　　　　3.89　299　3.68 
11　The Dragon's Teeth(ドラゴンの歯)　　　　　　　　　　　　　3.80　523　3.68 
12　Ten Days' Wonder(十日間の不思議)　　　　　　　　　　　　　3.77　609　3.68 
13　Queens Full(クイーンのフルハウス)　　　　　　　　　　　　　3.88　272　3.68 
14　Halfway House(中途の家)　　　　　　　　　　　　　　　　　　3.77　555　3.67 
15　Calamity Town(災厄の町)　　　　　　　　　　　　　　　　　　3.74　775　3.67 
16　The Finishing Stroke(最後の一撃)　　　　　　　　　　　　　　3.76　576　3.67 
17　Drury Lane's Last Case(レーン最後の事件)　　　　　　　　　　3.86　253　3.67 
18　Queen's Bureau of Investigation(クイーン検察局)　　　　　　3.84　267　3.67
19　Q.E.D. Queen's Experiments in Detection(クイーン犯罪実験室) 3.84 206 3.66
20　A Study in Terror(恐怖の研究)　　　　　　　　　　　　　　　　3.71　687　3.66 
21　The Greek Coffin Mystery(ギリシャ棺の秘密)　　　　　　　　　3.67 1972　3.65 
22　Double Double(ダブル・ダブル)　　　　　　　　　　　　　　　3.71　558　3.65 
23　The Origin of Evil(悪の起源)　　　　　　　　　　　　　　　　　3.72　418　3.65 
24　The Murderer is a Fox(フォックス家の殺人)　　　　　　　　　3.70　485　3.65 
25　The Four of Hearts(ハートの４)　　　　　　　　　　　　　　　3.67　413　3.64 
26　The Chinese Orange Mystery(チャイナ蜜柑の秘密)　　　　　　3.64 1858　3.63 
27　The Door Between(境界の扉―ニッポン樫鳥の秘密)　　　　　　3.66　426　3.63 
28　There Was an Old Woman(靴に棲む老婆)　　　　　　　　　　3.64　457　3.63
29　The Tragedy of Z(Ｚの悲劇)　　　　　　　　　　　　　　　　　3.65　226　3.63 
30　The Siamese Twin Mystery(シャム双子の秘密)　　　　　　　　3.63 1526　3.63
31　The Glass Village(ガラスの日)　　　　　　　　　　　　　　　　3.64　217　3.63
32　The Player on the Other Side(盤面の敵)　　　　　　　　　　　3.62　467　3.62
33　The Dutch Shoe Mystery(オランダ靴の秘密)　　　　　　　　　3.62 1684　3.62 
34　The Fourth Side of the Triangle(三角形の第四辺)　　　　　　　3.60　373　3.62 
35　Face to Face(顔)　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　3.58　382　3.61 
36　And on the Eighth Day(第八の日)　　　　　　　　　　　　　　3.58　472　3.61 
37　A Fine and Private Place(心地よく秘密めいた場所)　　　　　　3.55　316　3.60 
38　The House of Brass(真鍮の家)　　　　　　　　　　　　　　　  3.55　371　3.60 
39　The King is Dead(帝王死す)　　　　　　　　　　　　　　　　　3.56　642　3.60 
40　The Devil to Pay(悪魔の報酬)　　　　　　　　　　　　　　　　3.53　389　3.60 
41　The Scarlet Letters(緋文字)　　　　　　　　　　　　　　　　     3.51　347　3.59 
42　The Last Woman in His Life(最後の女)　　　　　　　　　　　　3.45　347　3.58
43　Cop Out(孤独の島)　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　	　3.26　145　3.57
44　Roman Hat Mystery(ローマ帽子の秘密)　　　　　　　　　　　3.53 3737　3.55 
45　American Gun Mystery(アメリカ銃の秘密)　　　　　　　　　　 3.40　646　3.53 
　このランキングで、改めてアメリカの一般読者が評価するクイーン作品の傾向を見ていこう。
(A)短編集の評価が高い
　短編集は１位『冒険』、７位『新冒険』、10位『カレンダー』、18位『検察局』、19位『実験室』の５作品が入っていて、いずれも評価が高い。特に『冒険』は1000件以上の読者がいるため、ランキングの堂々１位になっている。

(B)ドルリイ・レーン悲劇四部作の評価は高いが、読者数が少ない。
　バーナビー・ロス(仮名)と紐づいている四部作は、見かけ上はクイーン作品として評価されていない。日本では国名シリーズと同等あるいはそれ以上に評価されているにもかかわらず、本国アメリカではいずれも読者数は1000未満だ。今回のランキングでは悲劇四部作をクイーン作品の中で評価した。すると、結局は悲劇四部作の評価は高く、2位『Ｙの悲劇』、５位『Ｘの悲劇』、17位『最後の事件』、29位『Ｚの悲劇』というランキングになった。『Ｚ』よりも『最後の事件』が上位に位置するというのは、やはりシェークスピアが題材だからだろうか。

　これらは最初からエラリー･クイーンの著作として広く認知されていれば、もっと上位に上がる可能性も考えられ、長編小説では『Ｙ』、『Ｘ』が１位、２位ということになっていたかもしれない。しかし現状ではバーナビー・ロスの著作と見なされていて、作家エラリー・クイーンの評価に繋がらないのは大変に残念な事だ。

(C)ライツヴィル期(1942年～1958年)の作品では、『九尾の猫』がきわめて評価が高い。ついで読者数は少ないが『十日間の不思議』『災厄の町』の評価がかなり高い
　ライツヴィルものは、12位『十日間』、15位『災厄の日』、16位『最後の一撃』、22位『ダブル・ダブル』、24位『フォックス家の殺人』、39位『帝王死す』という順になる。読者数がいずれも少ないのは一般読者にはA Novel(文学)的趣向が受け入れにくいからだろうが、エラリー・クイーンの研究者や批評家には、特に『十日間』『災厄の日』は心理や社会を描いたNovelとして評価が高い。

　ライツヴィルものではない作品は、3位『九尾の猫』、8位『クイーン警視自身の事件』、28位『靴に棲む老婆』、41位『緋文字』がある。前述したように『九尾の猫』は、一般読者受けするような題材(都会の不安、連続殺人、サイコ)をあつかっているのが高評価の理由だろうが、『クイーン警視自身』の方は何故に8位なのかは、かなり気になるところだ。

(D)国名シリーズは読者数が1000件を超える作品が多いが、評価にはバラツキがある
　これまでは読者数が多い事だけで代表作と見なしてきたが、荷重平均値を用いると国名シリーズの中でも評価が高いもの、低いもののバラツキが意外と大きい事がわかった。４位『フランス白粉』、６位『エジプト十字架』、９位『スペイン岬』、21位『ギリシャ棺』、26位『チャイナ』、30位『シャム双子』、33位『オランダ靴』、44位『ローマ帽子』、45位『アメリカ銃』と続く。日本では『エジプト十字架』『ギリシャ棺』の評価が高いが、アメリカでは『フランス白粉』が２作を抜きん出ていて、『スペイン岬』も『ギリシャ棺』よりも断然評価が高いのは驚きだ。

　逆に『ローマ帽子』『アメリカ銃』が極端に低評価だ。『ローマ帽子』は評価数(読者数)が3000件超なだけに平均評価の悪さが際立っている。クイーンのデビュー作であり、国名シリーズの第一作なので「試しに読んでみよう」という物見高い読者が、真っ先に第一作を選んでもおかしくはない。ただし、第二作『オランダ靴』の読者数が1635件に半減しており、国名シリーズのほとんどが2000件未満である事から、第一作で見切りをつけた読者が結構いたという事だろうか。僕の個人的な意見では、『ローマ帽子』はエラリーの緻密な推理が際立つというよりは、エラリーと父クイーン警視とが連携して事件を解決したという体裁になっている。ひょっとすると、著者の一人フレデリック・ダネイが敬愛するシャーロック・ホームズとワトソンのコンビにならって、父子で事件を解決するミステリにこだわったのかもしれない。だが、エラリー自身が解決を父に委ねるようなラストは、いまだにモヤモヤする作品だ。

　以上、荷重平均に基づくランキングからは、『災厄の町』(1942年)という作品はクイーンの聖典45作中15位という上位を占め、その後は「成長した探偵エラリー」が悩みながらも自らの本分(演繹的推理による真実究明)を全うしていくという、非常に痛々しい作風へとチェンジしていくきっかけとなった作品として、今も評価されていることがわかった。また、現在の一般読者には、国名シリーズや悲劇四部作のような作風は今なお評価されている一方、中期・後期の作風は受け入れにくいという事が、評価数(読者数)や荷重平均値から分かった。

　最後に、話をCopilotの分析に戻す。
　アメリカの一般読者(Goodreadsに基づく)の評価傾向は、「読者層の違い」「レビュー文化の特徴」という２点によって説明できるとCopilotは言っている。
【アメリカの一般読者のレビュー文化の特徴】
・率直な批評文化（良い点も悪い点もはっきり書く）
・レビュー本文を重視（星だけで判断しない）
・ネガティブレビューを積極的に読む（82%が悪いレビューを探す） 
・レビュー数の多さ・新しさを重視（97%が最近のレビューを考慮）　これは日本の一般読者にも当てはまるような気がしないでもないが、積極的に良いレビューを読み、ネガティブレビューは読みたがらないというのも日本の読者の傾向かもしれない。

　ではエラリー・クイーンの作品は、どうレビューされているか。
【エラリー・クイーンのレビュー傾向】
評価が低めになる理由：
・初期は高評価だが、中期以降は “読者を選ぶ” 作風に変化
・アメリカ読者は「テンポの遅さ」「心理描写の重さ」に厳しい
・後期作品で評価が割れ、星3〜3.7帯が多い
・レビュー文化が率直なため、難解さ・冗長さへの批判が目立つ　こういった理由で結果的にクリスティーやカーと比べて読者数や平均評価が低いようだ。

　これをさらに具体的な事例(ネガティブレビューの傾向)で見ていく。
【エラリー・クイーンのネガティブレビューの傾向】
主な批判点
・「テンポが遅い」「冗長」「説明が多すぎる」
・「エラリーが嫌味」「上から目線」
・「後期の作風が変わりすぎてついていけない」
・「トリックが不自然」「動機が弱い」
・「心理描写が重い」
特徴
・初期は高評価だが、中期以降で評価が割れ、
・星2〜3のレビューが目立つ
・“読者を選ぶ作家” として扱われる　実は「テンポが遅い」という批判は国名シリーズの頃からあったように思う。『ローマ帽子』などは冒頭で殺人が１件起きたきり、その後は誰一人として死なない。クイーンの作風である”論理的な謎解き”に到達するための証拠をひとつ、またひとつと集めていく事がエラリーの役割だが、クリスティーが新たな謎や意外な事実を次々に提示し、カーが不可思議な事実、怪奇な物語を紡いでいくのに比べると、「テンポが遅い」のみならず「冗長」や「説明が多い」という批判を招くことになる。そこに『災厄の町』以後の心理的・社会的な作風が加わるので、特に後期の作風を「重い」「ついていけない」と感じる読者が増えたのだろう。

　ここに年代別の評価の違いを加味していく。
【アメリカのＺ世代(〜25歳)の読書傾向】
傾向
・テンポ重視
・キャラクター重視
・SNS（BookTok）で人気作が再評価される
・古典への敬意はあるが、冗長さに厳しい
3作家の評価
・クリスティ：高評価（読みやすい・短い・映像化で馴染みあり）
・カー：中間（密室は好きだが文章が重いと感じる）
・クイーン：低評価（テンポの遅さ・説明の多さが合わない）

【アメリカのミレニアル世代(25〜40歳)の読書傾向】
傾向
・プロットの完成度を重視
・古典ミステリへの理解が深い
・長文にも耐性がある
3作家の評価
・クリスティ：安定して高評価
・カー：高評価（トリックの独創性を評価）
・クイーン：評価が分かれる（初期は高評価、後期は低め）　これらも日米の垣根を越えて共通するところがありそうだ。昨今の越前敏弥さんによる新訳プロジェクトでは、国名シリーズに「生意気な青年エラリー」というキャラクターの輪郭をハッキリさせた翻訳を用意して日本のＺ世代にアピールした。『災厄の町』以降のライツヴィル期の作品には重厚な文体を用意して、日本のミレニアル世代からシニア世代までを満足させようとしたのではないだろうか。

　そんな事を考えながら、次なるライツヴィルものを読んで、新たなライツヴィルと新たなエラリーに邂逅したいと思う。今年(2026年)出版されるという残りのライツヴィルものも視野に入れながら。(了)<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E781BDE58E84E381AEE794BA28E696B0E697A7E8A8B3E58E9FE69BB829_E8A1A8E7B499.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="災厄の町(新旧訳原書)_表紙.jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E781BDE58E84E381AEE794BA28E696B0E697A7E8A8B3E58E9FE69BB829_E8A1A8E7B499-thumbnail2.jpg" width="150" height="83" onclick="location.href = 'https://elleryqueen.seesaa.net/upload/detail/image/E781BDE58E84E381AEE794BA28E696B0E697A7E8A8B3E58E9FE69BB829_E8A1A8E7B499-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br />　本来なら『災厄の町』の書評に書く事ではないかもしれないが、今回、旧訳(青田勝訳)と新訳(越前敏弥訳)の比較を試みた際に、いままでは出来なかった下調べを生成AIにやってもらったので、エラリー･クイーンに関するその他の疑問についても生成AIの力を借りて、けりを付けようと思う。結論から言うと、『災厄の町』をキッカケにしてクイーンの特徴であるロジックミステリを文学(a novel)に高めようとした事が、現状に繋がったようなのだ。<br /><br />　まずは、エラリー・クイーンが現在、本国アメリカでどの程度読まれているのかをCopilotに聞いてみた。Goodreadsというレビューサイトがあり、特定の本や著者をアメリカ中の読者がどう評価しているかを知るためのデータを提供してくれる。そのGoodreadsで、どの程度クイーンの読者がいるのかを調べた。比較対象としてアガサ・クリスティ、ジョン･ディクスン･カーのデータも使用して、読者数(評価点をつけた件数)、平均評価(5点満点)、分析結果をまとめたものが以下になる。<br /><blockquote><strong>【3作家の「平均評価」比較】(Goodreadsデータ)</strong><br /><span style="color:#ff0000;">1位：アガサ・クリスティ</span><br />　・平均評価：4.02（810万件以上の評価） <br />　・代表作は 4.20〜4.27 など非常に高評価帯が多い。<br /><span style="color:#0000ff;">2位：ジョン・ディクスン・カー</span><br />　・平均評価：4.06（約7万件の評価） <br />　・代表作は 3.79〜3.89 程度で安定して高い。<br /><span style="color:#00cc00;">3位：エラリー・クイーン</span><br />　・平均評価：3.69（約4万件の評価） <br />　・代表作は 3.54〜3.88 程度で、クリスティ・カーより低め。</blockquote>　何故、この3人を比較するかと言うと、いわゆる「ミステリの黄金時代」に活躍した作家だからだ(加えて、僕の好みも選定の理由に入っている)。クリスティーが1920年デビュー。カーは1930年、クイーンは1929年の一年違いのデビューだ。一目瞭然だが、圧倒的にクリスティーの読者が多く、他の二人を大きく引き離している。しかも平均評価も高い。クイーンはクリスティーの20分の1程度の読者しか獲得できていないし、カーよりも読者数が少ないし、全体的な評価も低くなっている。日本でのクイーン人気と比べると、あまりに低すぎる。<br /> <br />　なぜ、このような順位になるのか。Copilotの分析はこうだ。<br /><blockquote><span style="color:#ff0000;">クリスティ</span>：世界的知名度・読みやすさ・プロットの強さで安定して高評価。<br /><span style="color:#0000ff;">カー</span>：密室トリックの評価が高く、熱心なファンが多い。<br /><span style="color:#00cc00;">クイーン</span>：初期は高評価だが、中期以降で評価が割れやすい。</blockquote>　それぞれに深掘りできそうな分析だが、僕なりに考えると、クリスティーはとにかく読みやすさが第一に挙げられるのではないだろうか。場所といい人といい、取りたてて特別な人は出てこない。一アマチュアからキャリアを始めたお嬢さんが知るかぎりの世間から、海外の名所めぐりなど、現代人にも時代を超えて通じるような舞台と人物と内面とを描きながらも、驚きの結末を用意している。<br /><br />　対してカーは舞台作りが重要で、尋常ならぬスポットを選んでは不可能犯罪に挑んでいる。特に密室トリックは生涯を賭けて取り組んだ最重要テーマだ。魔術や呪いといったダークファンタジーを「怖いもの見たさ」で読みたがる現代人のニーズにもうまくフィットしている。読者を選ぶ作品には違いないが、エンタメ性が際立っているという点ではクイーンよりも読みやすいのか。<br /><br />　そして、クイーン。アメリカでも日本同様、初期の国名シリーズなどを評価する読者は存在するようだ。ただし、「中期以降で評価が分かれる」という事は、おそらく国名シリーズのようにハッキリと演繹推理による解決をとことんまで突き詰める作品から、映画界に進出しようと恋愛要素や都会の洗練さと題材にした中期の作品、さらには文学的な昇華を図ろうとした後期の作品の評価が良くないということか。<br /><br />　そこで、いわゆるアメリカの一般読者にとっての各々の代表作Top10をリストアップしてみた。ここでいう「代表作」とは、評価数(評価点を記入した読者の数)が多いもののうちで平均評価が高い作品という意味だ。簡単に言えば、よく読まれていて、かつ評価が高い作品を指す。<br /><blockquote><strong>【代表作Top10の比較】(Goodreadsデータ)</strong><br /><span style="color:#ff0000;">アガサ・クリスティ</span><br />　And Then There Were None(そして誰もいなくなった) — 4.27 (138万件)<br />　Murder on the Orient Express (オリエント急行の殺人)— 4.20 (63.2万件)<br />　The Murder of Roger Ackroyd(アクロイド殺し) — 4.26 (28万件)<br />　Death on the Nile(ナイルに死す) — 4.12 (38.3万件)<br />　The A.B.C. Murders(ABC殺人事件) — 4.03 (19.2万件)<br />　The Mysterious Affair at Styles(スタイルズ荘の怪事件) — 4.00 (20万件)<br />　A Murder Is Announced(予告殺人)— 4.01 (8.2万件)<br />　4:50 from Paddington (パディントン発4時50分)— 3.97 (7.3万件) <br />→ トップ10平均：約 4.09<br /><br /><span style="color:#0000ff;">ジョン・ディクスン・カー</span><br />　He Who Whispers(囁く影) — 3.89 (1172件)<br />　The Burning Court(火刑法廷 )— 3.86 (899件)<br />　The Hollow Man(三つの棺) — 3.79 (4514件)<br />　The Crooked Hinge(曲った蝶番) — 3.80 (1178件)<br />　Till Death Do Us Part(死が二人をわかつまで) — 3.81 (1161件)<br />　The Problem of the Green Capsule(緑のカプセルの謎) — 3.81 (1422件) <br />　Hag’s Nook(魔女の隠れ家) — 3.64 (1593件)<br />　The Mad Hatter Mystery(帽子収集狂事件) — 3.60 (1146件)<br />→ トップ10平均：約 3.80<br /><br /><span style="color:#00cc00;">エラリー・クイーン</span><br />　The Adventures of Ellery Queen(エラリー･クイーンの冒険) — 3.88 (1016件)<br />　Cat of Many Tails(九尾の猫) — 3.86 (1148件)<br />　The French Powder Mystery(フランス白粉の秘密) — 3.79 (1772件)<br />　Calamity Town(災厄の町)― 3.74 (748件)<br />　The Greek Coffin Mystery(ギリシャ棺の秘密) — 3.67 (1943件)<br />　The Chinese Orange Mystery(チャイナ蜜柑の秘密) — 3.64 (1817件)<br />　The Dutch Shoe Mystery(オランダ靴の秘密) — 3.63 (1635件)<br />　The Egyptian Cross Mystery(エジプト十字架の秘密) — 3.75 (1507件)<br />　The Siamese Twin Mystery(シャム双子の秘密)— 3.64 (1505件)<br />　The Roman Hat Mystery(ローマ帽子の秘密)― 3.54(3649件)<br />→ トップ10平均：約 3.70</blockquote>　クリスティーの代表作Top10に異論がある人は少ないだろう。読者それぞれに好みはあるとしても、映像化されている作品が上位に来ていて、どれも万人受けする内容だし、トリックといい驚きの結末といい、十分に満足させてくれる作品が多い。<br /><br />　変えてカーは多作ゆえにコアなファンにとっても代表作が割れる作家なので、この結果に納得できない人も多いだろう。ただ、Copilotの分析では「密室トリックの評価が高い」「コアなファンからの支持が強い」という、まさにカーらしさを評価する読者が現在も少なくないようだ。<br /><br />　クイーンのTop10(実は評価数が1000以上の作品に限定しているのでTop9だ)を見る限り、日本の読者とは違った傾向があることがわかる。<br /><blockquote>①第一短編集『エラリー･クイーンの冒険』の評価がかなり高い。<br />②『災厄の町』以降の1940代後半に書かれた『九尾の猫』の評価がかなり高い。<br />③初期の国名シリーズはいずれも安定して評価が高い。<br />④ドルリイ・レーン悲劇四部作が一つもランキングされていない。</blockquote>　この結果には、アメリカ独自の文化や民族としての気質が影響しているようだ。<br /><strong>①短編集の評価がかなり高い</strong><br />　アメリカでは長編作家とは別に短編作家を評価する風土がある。Ｏ・ヘンリーなどはその代表だろう。『冒険』は初期の国名シリーズのような長編よりも“読みやすさ”と“完成度”が評価されたようだ。日本は逆の傾向があって、まず長編作家が評価され、次に短編作家の評価が準ずるという傾向がある。個人的には『冒険』『新冒険』の完成度は高いし、もっともっとこの完成度の短篇を書くべきだったんじゃないかと思っている(後の短編はショート・ショートのような軽いものが増えてくる)。<br /><br /><strong>②『九尾の猫』の評価がかなり高い</strong><br />　アメリカの研究者の間では1940年代後半の作品は、心理や社会を描く事を重視した作品と見なされ評価が高いそうだ。一方、一般読者にとっては「都会の不安」を描く社会派ミステリとして『九尾の猫』の評価が突出しているようだ。僕も久々に新訳版(越前敏弥訳)で読み直した際に、これってその後の連続殺人事件もの、サイコものという都会ならではミステリの嚆矢となる作品ではなかったかと思った。若い頃には初期作品に溺れていたので、そこまでの評価ができなかったのだ。<br /><br /><strong>③初期の国名シリーズはいずれも評価が高い</strong><br />　これはまったくその通りで、日本でも変わりはない。ただ、「(国名シリーズは)どれもこれも良い」という事は翻って「これが1番」というような代表作を見つけにくいという事でもある、と数十年前から言われ続けてきた。日本では『エジプト十字架』『ギリシャ棺』などが緻密なロジックで評価が高いが、アメリカでは『フランス白粉』が筆頭で『チャイナ蜜柑』『シャム双子』なども入っていて、日本とは傾向の違いがある。ちなみに『フランス白粉』は僕のお気に入りなので異論はない。<br /><br /><strong>④ドルリイ・レーン四部作がランキングされていない</strong><br />　これは、分類上バーナビー・ロスという仮名がアメリカではいまだ生きているからのようだ。ドルリイ・レーン悲劇四部作の著者は「バーナビー・ロス(仮名)とエラリー・クイーン」となっている。ところが、Goodreadsのエラリー・クイーンの著作リストには『レーン最後の事件』しか含まれていない。一方、『Ｘの悲劇』『Ｙの悲劇』『Ｚの悲劇』はすべてバーナビー・ロスの方にリストアップされていた。これは複数の著者の並びが関係しているようだ(『最後の事件』のみEllery Queen, Barnaby Rossの順で、残りの３作はBarnaby Rossが先になっている)。これが影響しているのか、『Ｘ』『Ｙ』『Ｚ』はエラリー・クイーンの著作としての認知度が低く、平均評価はかなり高いにもかかわらず評価数(読者数)が1000件未満で伸びない。これは現状のクイーンの評価に少なからず悪影響を与えているように思える。<br /><br />　その点、日本では覆面作家エラリー・クイーンが創り出したもう一人の覆面作家がバーナビー・ロスだと戦後には明かされて、最初からエラリー・クイーンの作品として紹介された。だから、アメリカとは違ってクイーンの代表作の上位に位置する作品となる事ができた。さらには、自らミステリ作家でありながら、海外ミステリの紹介にも尽力した乱歩や横溝がクイーンの作風や個々の作品を評価したことが、日本でクイーン作品がよく読まれる原動力となった。とりわけ『Ｙ』の評価が海外ミステリのオールタイムベストとして君臨してきた時期が続いた。やがては新本格ミステリ作家に分類される次世代の作家たちに引き継がれていったせいで、アメリカでは「忘れられた作家」扱いなのに、日本では「いまだにロジックミステリの源流(お手本)となる作家」という位置を占めている。<br /><br />　ここまでの分析だと、アメリカでは初期の作品群ばかりが評価され、いわゆる中期・後期の心理・社会派ミステリ路線は『災厄の町』『九尾の猫』を除くと評価されていないように見える。だが、アメリカのクイーン研究家・批評家の間では、心理・社会派(1940年代後半～)の評価が非常に高く、先に挙げた『災厄』『九尾』の他に『十日間の不思議』の評価が高い。<br /><br />　ここまではCopilotが提供するデータと分析に沿って考えてきたが、ここからはGoodreadsのデータを直接加工する事にした。どうやら、最新の数値をうまく抽出できていないので、条件を変える度に抽出できるはずの作品が抜けたり、ある作品の平均評価や評価数が変わったりするからだ。生成AIはここ数年で急速に精度が向上し、あからさまなハルシネーションは起きなくなったと実感しているが、精緻な数値分析を行う際には注意を要するのは変わらない。そこで、以下の２点に基づくランキングを作成する。<br /><blockquote>・平均評価(average rating)と評価数(ratings)の両方を考慮するために荷重平均を用いる。<br />・悲劇四部作をすべてエラリー･クイーンの著作リストに含める。</blockquote><br /><blockquote><strong>【荷重平均に基づくエラリー・クイーンの著作ランキング(Goodreads 2026/5/4調べ)】</strong><br />順位　　　　　　　　　タイトル　　　　　　　　　　　　　平均評価　評価数　荷重平均<br /><div style="text-align:left;"> <span style="color:#ff00cc;">1　The Adventures of Ellery Queen(エラリークイーンの冒険)</span>　　　3.88 1034　3.75 <br /> <span style="color:#ff0000;">2　The Tragedy of Y(Ｙの悲劇)</span>　　　　　　　　　　　　　　　　　4.01　494　3.75 <br /> <span style="color:#00cc00;">3　Cat of Many Tails(九尾の猫)</span>　　　　　　　　　　　　　　　　　3.85 1172　3.74 <br /> <span style="color:#0000ff;">4　The French Powder Mystery(フランス白粉の秘密)</span>　　　　　　　3.79 1806　3.73 <br /><span style="color:#ff0000;"> 5　The Tragedy of X(Ｘの悲劇)</span>　　　　　　　　　　　　　　　　　3.87　680　3.72 <br /> <span style="color:#0000ff;">6　The Egyptian Cross Mystery(エジプト十字架の秘密)</span>　 　　　　　3.75 1537　3.70 <br /> <span style="color:#ff00cc;">7　The New Adventures of Ellery Queen(エラリークイーンの新冒険)</span> 3.91 350 3.70 <br /> <span style="color:#00cc00;">8　Inspector Queen's Own Case(クイーン警視自身の事件)</span>　　　　3.90　322　3.69 <br /> <span style="color:#0000ff;">9　The Spanish Cape Mystery(スペイン岬の秘密)</span>　　　　　　　　3.75　988　3.69 <br /><span style="color:#ff00cc;">10　Calendar of Crime: Stories(犯罪カレンダー)</span>　　　　　　　　　3.89　299　3.68 <br />11　The Dragon's Teeth(ドラゴンの歯)　　　　　　　　　　　　　3.80　523　3.68 <br /><span style="color:#00cc00;">12　Ten Days' Wonder(十日間の不思議)</span>　　　　　　　　　　　　　3.77　609　3.68 <br />13　Queens Full(クイーンのフルハウス)　　　　　　　　　　　　　3.88　272　3.68 <br />14　Halfway House(中途の家)　　　　　　　　　　　　　　　　　　3.77　555　3.67 <br /><span style="color:#00cc00;">15　Calamity Town(災厄の町)</span>　　　　　　　　　　　　　　　　　　3.74　775　3.67 <br /><span style="color:#00cc00;">16　The Finishing Stroke(最後の一撃)</span>　　　　　　　　　　　　　　3.76　576　3.67 <br /><span style="color:#ff0000;">17　Drury Lane's Last Case(レーン最後の事件)</span>　　　　　　　　　　3.86　253　3.67 <br /><span style="color:#ff00cc;">18　Queen's Bureau of Investigation(クイーン検察局)</span>　　　　　　3.84　267　3.67<br /><span style="color:#ff00cc;">19　Q.E.D. Queen's Experiments in Detection(クイーン犯罪実験室)</span> 3.84 206 3.66<br />20　A Study in Terror(恐怖の研究)　　　　　　　　　　　　　　　　3.71　687　3.66 <br /><span style="color:#0000ff;">21　The Greek Coffin Mystery(ギリシャ棺の秘密)</span>　　　　　　　　　3.67 1972　3.65 <br /><span style="color:#00cc00;">22　Double Double(ダブル・ダブル)</span>　　　　　　　　　　　　　　　3.71　558　3.65 <br />23　The Origin of Evil(悪の起源)　　　　　　　　　　　　　　　　　3.72　418　3.65 <br /><span style="color:#00cc00;">24　The Murderer is a Fox(フォックス家の殺人)</span>　　　　　　　　　3.70　485　3.65 <br />25　The Four of Hearts(ハートの４)　　　　　　　　　　　　　　　3.67　413　3.64 <br /><span style="color:#0000ff;">26　The Chinese Orange Mystery(チャイナ蜜柑の秘密)</span>　　　　　　3.64 1858　3.63 <br />27　The Door Between(境界の扉―ニッポン樫鳥の秘密)　　　　　　3.66　426　3.63 <br /><span style="color:#00cc00;">28　There Was an Old Woman(靴に棲む老婆)</span>　　　　　　　　　　3.64　457　3.63<br /><span style="color:#ff0000;">29　The Tragedy of Z(Ｚの悲劇)</span>　　　　　　　　　　　　　　　　　3.65　226　3.63 <br /><span style="color:#0000ff;">30　The Siamese Twin Mystery(シャム双子の秘密)</span>　　　　　　　　3.63 1526　3.63<br />31　The Glass Village(ガラスの日)　　　　　　　　　　　　　　　　3.64　217　3.63<br />32　The Player on the Other Side(盤面の敵)　　　　　　　　　　　3.62　467　3.62<br /><span style="color:#0000ff;">33　The Dutch Shoe Mystery(オランダ靴の秘密)</span>　　　　　　　　　3.62 1684　3.62 <br />34　The Fourth Side of the Triangle(三角形の第四辺)　　　　　　　3.60　373　3.62 <br />35　Face to Face(顔)　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　3.58　382　3.61 <br />36　And on the Eighth Day(第八の日)　　　　　　　　　　　　　　3.58　472　3.61 <br />37　A Fine and Private Place(心地よく秘密めいた場所)　　　　　　3.55　316　3.60 <br />38　The House of Brass(真鍮の家)　　　　　　　　　　　　　　　  3.55　371　3.60 <br /><span style="color:#00cc00;">39　The King is Dead(帝王死す)</span>　　　　　　　　　　　　　　　　　3.56　642　3.60 <br />40　The Devil to Pay(悪魔の報酬)　　　　　　　　　　　　　　　　3.53　389　3.60 <br /><span style="color:#00cc00;">41　The Scarlet Letters(緋文字)</span>　　　　　　　　　　　　　　　　     3.51　347　3.59 <br />42　The Last Woman in His Life(最後の女)　　　　　　　　　　　　3.45　347　3.58<br />43　Cop Out(孤独の島)　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　	　3.26　145　3.57<br /><span style="color:#0000ff;">44　Roman Hat Mystery(ローマ帽子の秘密</span>)　　　　　　　　　　　3.53 3737　3.55 <br /><span style="color:#0000ff;">45　American Gun Mystery(アメリカ銃の秘密)</span>　　　　　　　　　　 3.40　646　3.53</div> </blockquote><br />　このランキングで、改めてアメリカの一般読者が評価するクイーン作品の傾向を見ていこう。<br /><span style="color:#ff00cc;">(A)短編集の評価が高い</span><br />　短編集は１位『冒険』、７位『新冒険』、10位『カレンダー』、18位『検察局』、19位『実験室』の５作品が入っていて、いずれも評価が高い。特に『冒険』は1000件以上の読者がいるため、ランキングの堂々１位になっている。<br /><br /><span style="color:#ff0000;">(B)ドルリイ・レーン悲劇四部作の評価は高いが、読者数が少ない。</span><br />　バーナビー・ロス(仮名)と紐づいている四部作は、見かけ上はクイーン作品として評価されていない。日本では国名シリーズと同等あるいはそれ以上に評価されているにもかかわらず、本国アメリカではいずれも読者数は1000未満だ。今回のランキングでは悲劇四部作をクイーン作品の中で評価した。すると、結局は悲劇四部作の評価は高く、2位『Ｙの悲劇』、５位『Ｘの悲劇』、17位『最後の事件』、29位『Ｚの悲劇』というランキングになった。『Ｚ』よりも『最後の事件』が上位に位置するというのは、やはりシェークスピアが題材だからだろうか。<br /><br />　これらは最初からエラリー･クイーンの著作として広く認知されていれば、もっと上位に上がる可能性も考えられ、長編小説では『Ｙ』、『Ｘ』が１位、２位ということになっていたかもしれない。しかし現状ではバーナビー・ロスの著作と見なされていて、作家エラリー・クイーンの評価に繋がらないのは大変に残念な事だ。<br /><br /><span style="color:#00cc00;">(C)ライツヴィル期(1942年～1958年)の作品では、『九尾の猫』がきわめて評価が高い。ついで読者数は少ないが『十日間の不思議』『災厄の町』の評価がかなり高い</span><br />　ライツヴィルものは、12位『十日間』、15位『災厄の日』、16位『最後の一撃』、22位『ダブル・ダブル』、24位『フォックス家の殺人』、39位『帝王死す』という順になる。読者数がいずれも少ないのは一般読者にはA Novel(文学)的趣向が受け入れにくいからだろうが、エラリー・クイーンの研究者や批評家には、特に『十日間』『災厄の日』は心理や社会を描いたNovelとして評価が高い。<br /><br />　ライツヴィルものではない作品は、3位『九尾の猫』、8位『クイーン警視自身の事件』、28位『靴に棲む老婆』、41位『緋文字』がある。前述したように『九尾の猫』は、一般読者受けするような題材(都会の不安、連続殺人、サイコ)をあつかっているのが高評価の理由だろうが、『クイーン警視自身』の方は何故に8位なのかは、かなり気になるところだ。<br /><br /><span style="color:#0000ff;">(D)国名シリーズは読者数が1000件を超える作品が多いが、評価にはバラツキがある</span><br />　これまでは読者数が多い事だけで代表作と見なしてきたが、荷重平均値を用いると国名シリーズの中でも評価が高いもの、低いもののバラツキが意外と大きい事がわかった。４位『フランス白粉』、６位『エジプト十字架』、９位『スペイン岬』、21位『ギリシャ棺』、26位『チャイナ』、30位『シャム双子』、33位『オランダ靴』、44位『ローマ帽子』、45位『アメリカ銃』と続く。日本では『エジプト十字架』『ギリシャ棺』の評価が高いが、アメリカでは『フランス白粉』が２作を抜きん出ていて、『スペイン岬』も『ギリシャ棺』よりも断然評価が高いのは驚きだ。<br /><br />　逆に『ローマ帽子』『アメリカ銃』が極端に低評価だ。『ローマ帽子』は評価数(読者数)が3000件超なだけに平均評価の悪さが際立っている。クイーンのデビュー作であり、国名シリーズの第一作なので「試しに読んでみよう」という物見高い読者が、真っ先に第一作を選んでもおかしくはない。ただし、第二作『オランダ靴』の読者数が1635件に半減しており、国名シリーズのほとんどが2000件未満である事から、第一作で見切りをつけた読者が結構いたという事だろうか。僕の個人的な意見では、『ローマ帽子』はエラリーの緻密な推理が際立つというよりは、エラリーと父クイーン警視とが連携して事件を解決したという体裁になっている。ひょっとすると、著者の一人フレデリック・ダネイが敬愛するシャーロック・ホームズとワトソンのコンビにならって、父子で事件を解決するミステリにこだわったのかもしれない。だが、エラリー自身が解決を父に委ねるようなラストは、いまだにモヤモヤする作品だ。<br /><br />　以上、荷重平均に基づくランキングからは、『災厄の町』(1942年)という作品はクイーンの聖典45作中15位という上位を占め、その後は「成長した探偵エラリー」が悩みながらも自らの本分(演繹的推理による真実究明)を全うしていくという、非常に痛々しい作風へとチェンジしていくきっかけとなった作品として、今も評価されていることがわかった。また、現在の一般読者には、国名シリーズや悲劇四部作のような作風は今なお評価されている一方、中期・後期の作風は受け入れにくいという事が、評価数(読者数)や荷重平均値から分かった。<br /><br />　最後に、話をCopilotの分析に戻す。<br />　アメリカの一般読者(Goodreadsに基づく)の評価傾向は、「読者層の違い」「レビュー文化の特徴」という２点によって説明できるとCopilotは言っている。<br /><blockquote><strong>【アメリカの一般読者のレビュー文化の特徴】</strong><br />・率直な批評文化（良い点も悪い点もはっきり書く）<br />・レビュー本文を重視（星だけで判断しない）<br />・ネガティブレビューを積極的に読む（82%が悪いレビューを探す） <br />・レビュー数の多さ・新しさを重視（97%が最近のレビューを考慮）</blockquote>　これは日本の一般読者にも当てはまるような気がしないでもないが、積極的に良いレビューを読み、ネガティブレビューは読みたがらないというのも日本の読者の傾向かもしれない。<br /><br />　ではエラリー・クイーンの作品は、どうレビューされているか。<br /><blockquote><strong>【エラリー・クイーンのレビュー傾向】</strong><br />評価が低めになる理由：<br />・初期は高評価だが、中期以降は “読者を選ぶ” 作風に変化<br />・アメリカ読者は「テンポの遅さ」「心理描写の重さ」に厳しい<br />・後期作品で評価が割れ、星3〜3.7帯が多い<br />・レビュー文化が率直なため、難解さ・冗長さへの批判が目立つ</blockquote>　こういった理由で結果的にクリスティーやカーと比べて読者数や平均評価が低いようだ。<br /><br />　これをさらに具体的な事例(ネガティブレビューの傾向)で見ていく。<br /><blockquote><strong>【エラリー・クイーンのネガティブレビューの傾向】</strong><br />主な批判点<br />・「テンポが遅い」「冗長」「説明が多すぎる」<br />・「エラリーが嫌味」「上から目線」<br />・「後期の作風が変わりすぎてついていけない」<br />・「トリックが不自然」「動機が弱い」<br />・「心理描写が重い」<br />特徴<br />・初期は高評価だが、中期以降で評価が割れ、<br />・星2〜3のレビューが目立つ<br />・“読者を選ぶ作家” として扱われる</blockquote>　実は「テンポが遅い」という批判は国名シリーズの頃からあったように思う。『ローマ帽子』などは冒頭で殺人が１件起きたきり、その後は誰一人として死なない。クイーンの作風である”論理的な謎解き”に到達するための証拠をひとつ、またひとつと集めていく事がエラリーの役割だが、クリスティーが新たな謎や意外な事実を次々に提示し、カーが不可思議な事実、怪奇な物語を紡いでいくのに比べると、「テンポが遅い」のみならず「冗長」や「説明が多い」という批判を招くことになる。そこに『災厄の町』以後の心理的・社会的な作風が加わるので、特に後期の作風を「重い」「ついていけない」と感じる読者が増えたのだろう。<br /><br />　ここに年代別の評価の違いを加味していく。<br /><blockquote><strong>【アメリカのＺ世代(〜25歳)の読書傾向】</strong><br />傾向<br />・テンポ重視<br />・キャラクター重視<br />・SNS（BookTok）で人気作が再評価される<br />・古典への敬意はあるが、冗長さに厳しい<br />3作家の評価<br />・クリスティ：高評価（読みやすい・短い・映像化で馴染みあり）<br />・カー：中間（密室は好きだが文章が重いと感じる）<br />・クイーン：低評価（テンポの遅さ・説明の多さが合わない）<br /><br /><strong>【アメリカのミレニアル世代(25〜40歳)の読書傾向】</strong><br />傾向<br />・プロットの完成度を重視<br />・古典ミステリへの理解が深い<br />・長文にも耐性がある<br />3作家の評価<br />・クリスティ：安定して高評価<br />・カー：高評価（トリックの独創性を評価）<br />・クイーン：評価が分かれる（初期は高評価、後期は低め）</blockquote>　これらも日米の垣根を越えて共通するところがありそうだ。昨今の越前敏弥さんによる新訳プロジェクトでは、国名シリーズに「生意気な青年エラリー」というキャラクターの輪郭をハッキリさせた翻訳を用意して日本のＺ世代にアピールした。『災厄の町』以降のライツヴィル期の作品には重厚な文体を用意して、日本のミレニアル世代からシニア世代までを満足させようとしたのではないだろうか。<br /><br />　そんな事を考えながら、次なるライツヴィルものを読んで、新たなライツヴィルと新たなエラリーに邂逅したいと思う。今年(2026年)出版されるという残りのライツヴィルものも視野に入れながら。(了)<a name="more"></a><div class="blogmura-link"><a href="https://blogmura.com/ranking/in?p_cid=10113262" target="_blank"><img src="https://b.blogmura.com/88_31.gif" width="88" height="31" border="0" alt="ブログランキング・にほんブログ村へ" />にほんブログ村</a>
<a href="https://blogmura.com/profiles/10113262?p_cid=10113262" target="_blank"><img src="https://blogparts.blogmura.com/parts_image/user/pv10113262.gif" alt="PVアクセスランキング にほんブログ村" /></a></div>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
            <category>　書評(エラリー・クイーン)</category>
      <author>アスラン</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,elleryqueen/520528165</guid>
            <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E781BDE58E84E381AEE794BA28E696B0E697A7E8A8B3E58E9FE69BB829_E8A1A8E7B499.jpg" length="127084" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E781BDE58E84E381AEE794BA28E696B0E697A7E8A8B3E58E9FE69BB829_E8A1A8E7B499.jpg" length="127084" type="image/jpeg" />
                      </item>
        <item>
      <link>https://elleryqueen.seesaa.net/article/520478086.html</link>
      <title>災厄の町[新訳版]　エラリイ・クイーン(ハヤカワ文庫)　(その2)</title>
      <pubDate>Sun, 26 Apr 2026 10:20:48 +0900</pubDate>
            <description>　(その1)の結論として「新訳版(越前敏弥訳)は、本書全体の雰囲気を考慮した文体や言葉の選択をあらかじめ考えて”文学的表現”に統一したことで、結果的に旧訳(青田勝訳)よりも重厚さが数段増した。」と書いた。では、もう旧訳は役目を終えたのだろうか。　越前さんは本書を訳すにあたって、ある人物の設定を旧訳から大きく変える決断をしている。これは青田訳が誤訳だったからではなく「英語と日本語の根本的な差異に基づくものであり、…訳者による判断が分かれることは…ときにはどうしても避けられないの..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E781BDE58E84E381AEE794BA_E8A1A8E7B499.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="&#x707D;&#x5384;&#x306E;&#x753A;_&#x8868;&#x7D19;.jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E781BDE58E84E381AEE794BA_E8A1A8E7B499-thumbnail2.jpg" width="103" height="150"></a>

　(その1)の結論として「新訳版(越前敏弥訳)は、本書全体の雰囲気を考慮した文体や言葉の選択をあらかじめ考えて”文学的表現”に統一したことで、結果的に旧訳(青田勝訳)よりも重厚さが数段増した。」と書いた。では、もう旧訳は役目を終えたのだろうか。

　越前さんは本書を訳すにあたって、ある人物の設定を旧訳から大きく変える決断をしている。これは青田訳が誤訳だったからではなく「英語と日本語の根本的な差異に基づくものであり、…訳者による判断が分かれることは…ときにはどうしても避けられないのです。」と訳者あとがきに書いている。そして、訳者による解釈の違いが話題となることで、新たな読者の開拓につながることもあれば、旧訳からの愛読者から批判されることもあるとは承知の上で、本書が「末永く読み継がれて」いってほしいと願っている。要するに新訳は、新たな読者の開拓と古くからの読者の再読とをうながす起爆剤としての役目を果たせばよくて、新訳か旧訳かという選択を迫るものではないというのが、越前さんの考え方だ。

　もちろん、新訳が待望されるのには「旧訳に誤訳が多い」とか「旧訳は今の時代に合わなくなった(訳文が古くさくなった)」などの理由が最もありそうな話だが、本書に限って言えば旧訳に大きなマイナス要素はない。今の読者が読みやすいかどうかと言えば、もしかすると青田訳の方に軍配があがるかもしれない。青田訳の軽さの方が「若い読者向き」かもしれないが、越前訳の重厚さは著者の意図を正しく汲み取った上で文章に反映させた結果である。新訳・旧訳のいずれを読んでもいいし、両方を読み比べてもいい。原作の良さを多くの人に味わってもらえればいいのだ。

　ただし、ちょうど一年前ぐらい(2025年3月)に出た越前敏弥著『翻訳百景ふたたび』で、エラリー・クイーンの多くの作品を翻訳するキッカケについて「翻訳作業の環境が大きく変わったこと」を越前さんは挙げている。角川文庫から『Ｘの悲劇』の翻訳を依頼され、すでに出版されていた四種類の旧訳(鮎川信夫、田村隆一、大久保康雄、宇野利泰四氏の翻訳の事か)を並べて「いいとこどり」すれば短時間で翻訳できるだろうと高をくくっていたが、検討を始めてすぐに「ドルリイ・レーン四部作すべてを新訳したい」と編集者に志願したそうだ。

　おそらく、四種類それぞれの解釈も文体もあまりに違いすぎるし、訳語の選択についても翻訳者それぞれの考え方や力量が反映していて差異が大きいという状況だったのではないか。ところが、今や翻訳するための下調べの環境はPCおよびネットワークの活用によって劇的に変化した。翻訳のテクニックという点ではブレが少なくなり、下調べの時間も短縮する事で訳語の精度は圧倒的に向上した。それよりも、最前線の翻訳家がやるべきことは更にその先にあると言う事を、越前さんは改めて認識したのではないだろうか。探偵ドルリイ・レーンの魅力を最大限に引き出すには四部作すべての世界観を受け止めて、統一した文体で新訳を作るべきだろうと。

　そして、それは青年エラリー・クイーンが探偵役を務める一連のシリーズについても当てはまる。国名シリーズ＋『中途の家』『境界の扉』では、若き日のエラリーの活躍を描き、『災厄の町』以降では三十代のエラリーを描いている。特に後半のエラリーの内面を解釈して旧訳を一手に引き受けてきたのが青田勝さんであるからには、ドルリイ・レーン四部作すべてを志願したのと同様に、ライツヴィルものを含む後期クイーン作品全体を見据えた新訳を提供すべきだという思いが越前さんにはきっとあるはずだ。その意味では青田勝さんの旧訳は、「役目を終えた」のではなく、越前さんの手際によって新訳に「発展的に解消されつつある」とも言えるのではないだろうか。

　その上で、青田さんの功績をあえて挙げるとすると、『災厄の町』の旧訳版の冒頭に地図を掲載した点だ。原作の初版が出版された当時、著者たちは従来からの路線変更となる本書が読者に受け入れてもらえるか確信が持てずにいたようだ。だから、その後も「ライツヴィルもの」を書き継ぐ事になろうとは思っていなかった。四作目の"Double, Double"で、ようやくライツヴィルの地図がついた。

　一方、日本では、ハヤカワ･ミステリ文庫での出版が原作の順序どおりではなく、二作目の『十日間の不思議』と四作目の『ダブル・ダブル』はすでに出版されていた。ただし、肝心の『ダブル・ダブル』に地図は付いていない。その後、一作目の『災厄の町』を出版するにあたって、編集部は四作目の原作に付いていた地図を一作目に合うように手直しして掲載する事を思いついた。そこらへんの事情は、旧訳版『災厄の町』の訳者あとがきに[付記]という形で、編集部からの説明がある。説明には「訳者の青田勝氏には、大変お骨折りいただいた」と書かれている。

　Littile Brown社から出版された"Double, Double"の初版はなんとかウェブ上で見つけた。ただし、本文全部が見られるわけではなく冒頭部分のプレビューのみが可能だった。それによると、どうやら地図は扉を開いた見返し(見開きの2頁)全体に印刷されていたようだ(以下、地図-01は見返し(見開き2頁)の全体図、地図-02は見返し(1頁ごと)の拡大合成図)。
[地図(Dobule, Double)-01]
<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E59CB0E59BB328Double20Double29-01.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="&#x5730;&#x56F3;(Double Double)-01.jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E59CB0E59BB328Double20Double29-01-thumbnail2.jpg" width="150" height="107"></a>
[地図(Dobule, Double)-02]
<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E59CB0E59BB328Double20Double29-02.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="&#x5730;&#x56F3;(Double Double)-02.jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E59CB0E59BB328Double20Double29-02-thumbnail2.jpg" width="150" height="116"></a>
　この地図はかなり詳細に描き込まれているが、『災厄の町』の本文には記述がない建物や通りも多い。さらには、一作目の時点と比べて、時の流れとともに入れ替わったものも含まれている。そこから必要なものだけを選り分けて『災厄の町』時点での必要最低限の情報を盛りこんだ地図を作ったのだから、かなり手間がかかった事だろう。

　新訳では旧訳の地図を流用しつつ、多少の修正を行っている。例えば旧訳版の「⑩ライトの旧邸宅」とか「⑭戦没者記念碑」「⑳石炭置場」、それ以外にも「郡警察署」「米軍楽隊演奏場」などは、本作時点で存在していたのか後日出来たのかが不明なものとして情報を落としている。青田さんが残してくれた地図に基づいて、越前さん(と解説の飯城勇三さん)は、二作目『フォックス家の殺人』以降も作品ごとに地図を成長させている。最終的には『ダブル・ダブル(新訳版)』で原作初版に付いた地図と合流する事になる。

　さて、ここまでが落語で言うところの「枕」だ。本題は(その1)で予告したように、著者クイーンが第一作『ローマ帽子の秘密』を発表して以来、ほぼ一貫して「A Problem in Deduction(ある推理の問題)」という副題が付されてきたのに、本作は「A Novel(ある小説)」という副題に変わった。そこにはどんな狙いがあったのかという点について考えてみたい。
<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/Calamity20Town28E6898929.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="Calamity Town(&#x6249;).jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/Calamity20Town28E6898929-thumbnail2.jpg" width="88" height="150"></a>
　訳者・越前さんは扉の表記から「A NOVEL BY ELLERY QUEEN」を副題と見なして「エラリイ・クイーンによる長篇小説」と訳した。これが何を意味するかと言えば、「エドガー・アラン・ポーが創造した探偵デュパンから、コナン・ドイルの探偵ホームズへと引き継がれた演繹的推理という手法を、自らが生んだエラリイ・クイーンという青年に引き継がせて、さらに洗練させていく事に努めてきたが、本作から方針を変えようと思う」という宣言に他ならない。もちろん、どう変えたかについては副題を見ただけではよく分からない。越前さんの訳は読者の想像に任せるかのように、あえて中立で控えめな副題にとどめてある。

　一方、解説の飯城勇三さんは副題には「文学」という意味が込められていると言う。「国名シリーズのようなパズル小説の時代は終わった」と著者が戦後に発言した事を根拠にして、著者は従来のパズル小説から文学へと舵を切ったと飯城さんは考える。具体的には「人間を描くミステリ」を指しているというのが飯城さんの結論だ(ただし、クイーン研究の第一人者らしく、「人を描く」のにクイーンならではの描き方を採用していると書いている。詳細は飯城さんの解説に書かれているので、ここでは省略する)。

　僕の考えでは、「人間を描くミステリ」という飯城さんの結論には大筋では同意するが、穿って考えると「国名シリーズでの青年エラリーのリハビリ」こそが著者の本意だったのではないかと思える。角川文庫の国名シリーズ(新訳版)では、旧訳での父親思いの好青年然としたエラリーではなく、いつも上から目線で生意気で、人を生身の人間としてではなくパズルのピースとしてしか見ていないかのような人物像を思い描いて訳文を構築している。『中途の家』あたりから人間性・社会性を問わない作品作りに著者が限界を感じていたのは確かだろう。そこから「人間を描くミステリ」という結論が出てくるのも肯けるが、それならエラリーが事件を解決するシリーズとは別に、新たな探偵による「人間を描くミステリ」を書く事も可能だったはずだ。

　ところが著者は、出版社をストークス社からリトル・ブラウン社に変えてまでもエラリーシリーズにこだわった。そこにはエラリー自身を分別ある大人へと成長させるという目的があったからに他ならない。だから、A Novelとは「エラリーが生身の人間として成長する姿を描くミステリ」だったのではないだろうか。そうであれば、当然ながらエラリーが触れるもの・見るもの・出会う人などは現実社会を反映した事物・存在でなければならない。結果的にはエラリーの目から見える社会や人間はことごとく人間くささを伴って現れる。それがライツヴィルであり、ライツヴィルの人々だ。生意気な青年が慣れ親しんだニューヨークが舞台ではない事の理由もそこにある。すでに多くの読者から好評を得ている初期作品の世界観を根こそぎ再構築するなどという事は、著者であっても許されなかった。リハビリの為には理想的な転地が必要だったのだ。

　初期の国名シリーズでは、演繹的推理を駆使したロジックの伽藍をあれほどの切れ味で明解に作りあげてきた二十代のエラリ－は、『災厄の町』では生身の人間として失敗を繰り返す。その痕跡を追うと、こんな場面が出てくる。

　町の名士であるライト家に居候する身となったエラリーは、三女のパットと親しくなり、パットの恋人カートをやきもきさせる。次女ノーラの婚約者で、三年前に突然姿を消したジムが戻ってきてからは、ジムが財産目当てで、妻となったノーラの殺害を目論んでいるという疑惑が浮上し、秘密裏に監視するという仕事をパットと共有する事になる。傍から見れば「逢い引き」ともとれるようなパットとの密会を、木陰に隠れていたカートが見ていて、パットをなじる場面だ。
[新訳版]( 9章P.106)ばかげている、とクイーン氏は思った。論理に生きる男なら、偶然とはいえこんな事態に巻きこまれるのは避けるべきだ。　かつての自分ならば演繹的推理に磨きをかけ、論理的に真実にたどり着こうとするはずなのに、今はパットのため、ライト家のために関係者としてかかわろうとしている。警察にも相談せずに。この独白を読んだ時点で、初期作品の愛読者たちは、エラリーに何が起きてしまったのだろうかと度肝を抜かれるに違いない(残念ながら、旧訳は、この部分の解釈を間違っている)。

[新訳版](10章P.133)エラリイは右の手のひらでその顎を押しあげた。カーラッティの頭がのけぞる。そして、よろめいたところを、エラリイがもう一方の手で腹にパンチを食らわせた。　カーラッティが営む酒場で酔いつぶれているジムを見つけて、パットとエラリーはジムを連れて帰ろうとする。パットと口論となったカーラッティが口汚くパットを罵るので、エラリーは冷静をよそおいながら相手を殴り倒す。前と同じくクイーンの愛読者ならば「おい、おい、エラリー、どうしちまったんだい？」と言いたくなるところだ。僕の目には、パズル小説と同時期に誕生し、最大のライバルと化していたハードボイルド小説に影響を受けているように映る。

　このように、恋愛をしたり、事件関係者に肩入れしたり、ハードボイルドの洗礼を受け入れたりと、およそエラリーらしくない内面や行動を見せる一方で、あの華々しい経歴の持ち主であると仄めかす場面をさりげなく挿入することも、著者は忘れてはいない。
[新訳版]( 14章P.187)　クイーン氏は芝居の観客よろしく自分の位置に坐したまま、見たり聞いたり考えたりしていた――ライツヴィルのデイキン署長は、ニューヨークのある警察官にそっくりだ。あの深く根づいた威厳…　ライツヴィルという小さな田舎町のベテラン署長でありながら、自らの信念に基づいて「警察官としてやるべきことをやる」という誠実さを見せるデイキンに、エラリーは父に似た親近感を感じている。

　あるいはジムに殺人の嫌疑がかけられて裁判になると、ジムの弁護士から被告の証人となる事を求められても、絶対に拒もうとする。
[新訳版](22章P.341)「ただ、僕が証言しても、ジムに対する疑惑を強めるだけで…(略)…そうなったら最高裁判所だろうと味方につくはずがない。僕は証言してはいけないんです」　ライツヴィルではエラリー・スミスという偽名で滞在を続けてきたが、もし正体がばれたら絶対的な信頼を伴って被告に不利な証言として原告側から利用されると、エラリーは分かっている。

　こういった場面は、リハビリを終えたエラリーが再び主戦場であるニューヨークに戻る事を読者に仄めかしているのだ。ライツヴィルは一方でエラリーのリハビリのための転地(理想の地)であると同時に、初期の無邪気で傲慢なエラリーにとっての地獄めぐりの地でもある。そこに文学的要素を見る事もできるだろうし、あくまでエラリーを自らの分身として最後まで手放さないと決心した著者たちの決意の表れと見る事もできそうだ。

　さて、(その2)で書きたかった事は一通り書いた。ここで終わってももちろんいいのだが、著者エラリーが副題に採用した「A Novel」という選択が何をもたらしたかについて、書いておく事も無駄では無いだろうと思う。だから、もう一回分、この書評を続けようと思う。(続く)<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E781BDE58E84E381AEE794BA_E8A1A8E7B499.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="災厄の町_表紙.jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E781BDE58E84E381AEE794BA_E8A1A8E7B499-thumbnail2.jpg" width="103" height="150" onclick="location.href = 'https://elleryqueen.seesaa.net/upload/detail/image/E781BDE58E84E381AEE794BA_E8A1A8E7B499-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br /><br />　(その1)の結論として「新訳版(越前敏弥訳)は、本書全体の雰囲気を考慮した文体や言葉の選択をあらかじめ考えて”文学的表現”に統一したことで、結果的に旧訳(青田勝訳)よりも重厚さが数段増した。」と書いた。では、もう旧訳は役目を終えたのだろうか。<br /><br />　越前さんは本書を訳すにあたって、ある人物の設定を旧訳から大きく変える決断をしている。これは青田訳が誤訳だったからではなく「英語と日本語の根本的な差異に基づくものであり、…訳者による判断が分かれることは…ときにはどうしても避けられないのです。」と訳者あとがきに書いている。そして、訳者による解釈の違いが話題となることで、新たな読者の開拓につながることもあれば、旧訳からの愛読者から批判されることもあるとは承知の上で、本書が「末永く読み継がれて」いってほしいと願っている。要するに新訳は、新たな読者の開拓と古くからの読者の再読とをうながす起爆剤としての役目を果たせばよくて、新訳か旧訳かという選択を迫るものではないというのが、越前さんの考え方だ。<br /><br />　もちろん、新訳が待望されるのには「旧訳に誤訳が多い」とか「旧訳は今の時代に合わなくなった(訳文が古くさくなった)」などの理由が最もありそうな話だが、本書に限って言えば旧訳に大きなマイナス要素はない。今の読者が読みやすいかどうかと言えば、もしかすると青田訳の方に軍配があがるかもしれない。青田訳の軽さの方が「若い読者向き」かもしれないが、越前訳の重厚さは著者の意図を正しく汲み取った上で文章に反映させた結果である。新訳・旧訳のいずれを読んでもいいし、両方を読み比べてもいい。原作の良さを多くの人に味わってもらえればいいのだ。<br /><br />　ただし、ちょうど一年前ぐらい(2025年3月)に出た越前敏弥著『翻訳百景ふたたび』で、エラリー・クイーンの多くの作品を翻訳するキッカケについて「翻訳作業の環境が大きく変わったこと」を越前さんは挙げている。角川文庫から『Ｘの悲劇』の翻訳を依頼され、すでに出版されていた四種類の旧訳(鮎川信夫、田村隆一、大久保康雄、宇野利泰四氏の翻訳の事か)を並べて「いいとこどり」すれば短時間で翻訳できるだろうと高をくくっていたが、検討を始めてすぐに「ドルリイ・レーン四部作すべてを新訳したい」と編集者に志願したそうだ。<br /><br />　おそらく、四種類それぞれの解釈も文体もあまりに違いすぎるし、訳語の選択についても翻訳者それぞれの考え方や力量が反映していて差異が大きいという状況だったのではないか。ところが、今や翻訳するための下調べの環境はPCおよびネットワークの活用によって劇的に変化した。翻訳のテクニックという点ではブレが少なくなり、下調べの時間も短縮する事で訳語の精度は圧倒的に向上した。それよりも、最前線の翻訳家がやるべきことは更にその先にあると言う事を、越前さんは改めて認識したのではないだろうか。探偵ドルリイ・レーンの魅力を最大限に引き出すには四部作すべての世界観を受け止めて、統一した文体で新訳を作るべきだろうと。<br /><br />　そして、それは青年エラリー・クイーンが探偵役を務める一連のシリーズについても当てはまる。国名シリーズ＋『中途の家』『境界の扉』では、若き日のエラリーの活躍を描き、『災厄の町』以降では三十代のエラリーを描いている。特に後半のエラリーの内面を解釈して旧訳を一手に引き受けてきたのが青田勝さんであるからには、ドルリイ・レーン四部作すべてを志願したのと同様に、ライツヴィルものを含む後期クイーン作品全体を見据えた新訳を提供すべきだという思いが越前さんにはきっとあるはずだ。その意味では青田勝さんの旧訳は、「役目を終えた」のではなく、越前さんの手際によって新訳に「発展的に解消されつつある」とも言えるのではないだろうか。<br /><br />　その上で、青田さんの功績をあえて挙げるとすると、『災厄の町』の旧訳版の冒頭に地図を掲載した点だ。原作の初版が出版された当時、著者たちは従来からの路線変更となる本書が読者に受け入れてもらえるか確信が持てずにいたようだ。だから、その後も「ライツヴィルもの」を書き継ぐ事になろうとは思っていなかった。四作目の"Double, Double"で、ようやくライツヴィルの地図がついた。<br /><br />　一方、日本では、ハヤカワ･ミステリ文庫での出版が原作の順序どおりではなく、二作目の『十日間の不思議』と四作目の『ダブル・ダブル』はすでに出版されていた。ただし、肝心の『ダブル・ダブル』に地図は付いていない。その後、一作目の『災厄の町』を出版するにあたって、編集部は四作目の原作に付いていた地図を一作目に合うように手直しして掲載する事を思いついた。そこらへんの事情は、旧訳版『災厄の町』の訳者あとがきに[付記]という形で、編集部からの説明がある。説明には「訳者の青田勝氏には、大変お骨折りいただいた」と書かれている。<br /><br />　Littile Brown社から出版された"Double, Double"の初版はなんとかウェブ上で見つけた。ただし、本文全部が見られるわけではなく冒頭部分のプレビューのみが可能だった。それによると、どうやら地図は扉を開いた見返し(見開きの2頁)全体に印刷されていたようだ(以下、地図-01は見返し(見開き2頁)の全体図、地図-02は見返し(1頁ごと)の拡大合成図)。<br />[地図(Dobule, Double)-01]<br /><a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E59CB0E59BB328Double20Double29-01.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="地図(Double Double)-01.jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E59CB0E59BB328Double20Double29-01-thumbnail2.jpg" width="150" height="107" onclick="location.href = 'https://elleryqueen.seesaa.net/upload/detail/image/E59CB0E59BB328Double20Double29-01-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br />[地図(Dobule, Double)-02]<br /><a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E59CB0E59BB328Double20Double29-02.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="地図(Double Double)-02.jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E59CB0E59BB328Double20Double29-02-thumbnail2.jpg" width="150" height="116" onclick="location.href = 'https://elleryqueen.seesaa.net/upload/detail/image/E59CB0E59BB328Double20Double29-02-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br />　この地図はかなり詳細に描き込まれているが、『災厄の町』の本文には記述がない建物や通りも多い。さらには、一作目の時点と比べて、時の流れとともに入れ替わったものも含まれている。そこから必要なものだけを選り分けて『災厄の町』時点での必要最低限の情報を盛りこんだ地図を作ったのだから、かなり手間がかかった事だろう。<br /><br />　新訳では旧訳の地図を流用しつつ、多少の修正を行っている。例えば旧訳版の「⑩ライトの旧邸宅」とか「⑭戦没者記念碑」「⑳石炭置場」、それ以外にも「郡警察署」「米軍楽隊演奏場」などは、本作時点で存在していたのか後日出来たのかが不明なものとして情報を落としている。青田さんが残してくれた地図に基づいて、越前さん(と解説の飯城勇三さん)は、二作目『フォックス家の殺人』以降も作品ごとに地図を成長させている。最終的には『ダブル・ダブル(新訳版)』で原作初版に付いた地図と合流する事になる。<br /><br />　さて、ここまでが落語で言うところの「枕」だ。本題は(その1)で予告したように、著者クイーンが第一作『ローマ帽子の秘密』を発表して以来、ほぼ一貫して「A Problem in Deduction(ある推理の問題)」という副題が付されてきたのに、本作は「A Novel(ある小説)」という副題に変わった。そこにはどんな狙いがあったのかという点について考えてみたい。<br /><a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/Calamity20Town28E6898929.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="Calamity Town(扉).jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/Calamity20Town28E6898929-thumbnail2.jpg" width="88" height="150" onclick="location.href = 'https://elleryqueen.seesaa.net/upload/detail/image/Calamity20Town28E6898929-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br />　訳者・越前さんは扉の表記から「A NOVEL BY ELLERY QUEEN」を副題と見なして「エラリイ・クイーンによる長篇小説」と訳した。これが何を意味するかと言えば、「エドガー・アラン・ポーが創造した探偵デュパンから、コナン・ドイルの探偵ホームズへと引き継がれた演繹的推理という手法を、自らが生んだエラリイ・クイーンという青年に引き継がせて、さらに洗練させていく事に努めてきたが、本作から方針を変えようと思う」という宣言に他ならない。もちろん、どう変えたかについては副題を見ただけではよく分からない。越前さんの訳は読者の想像に任せるかのように、あえて中立で控えめな副題にとどめてある。<br /><br />　一方、解説の飯城勇三さんは副題には「文学」という意味が込められていると言う。「国名シリーズのようなパズル小説の時代は終わった」と著者が戦後に発言した事を根拠にして、著者は従来のパズル小説から文学へと舵を切ったと飯城さんは考える。具体的には「人間を描くミステリ」を指しているというのが飯城さんの結論だ(ただし、クイーン研究の第一人者らしく、「人を描く」のにクイーンならではの描き方を採用していると書いている。詳細は飯城さんの解説に書かれているので、ここでは省略する)。<br /><br />　僕の考えでは、「人間を描くミステリ」という飯城さんの結論には大筋では同意するが、穿って考えると「国名シリーズでの青年エラリーのリハビリ」こそが著者の本意だったのではないかと思える。角川文庫の国名シリーズ(新訳版)では、旧訳での父親思いの好青年然としたエラリーではなく、いつも上から目線で生意気で、人を生身の人間としてではなくパズルのピースとしてしか見ていないかのような人物像を思い描いて訳文を構築している。『中途の家』あたりから人間性・社会性を問わない作品作りに著者が限界を感じていたのは確かだろう。そこから「人間を描くミステリ」という結論が出てくるのも肯けるが、それならエラリーが事件を解決するシリーズとは別に、新たな探偵による「人間を描くミステリ」を書く事も可能だったはずだ。<br /><br />　ところが著者は、出版社をストークス社からリトル・ブラウン社に変えてまでもエラリーシリーズにこだわった。そこにはエラリー自身を分別ある大人へと成長させるという目的があったからに他ならない。だから、A Novelとは「エラリーが生身の人間として成長する姿を描くミステリ」だったのではないだろうか。そうであれば、当然ながらエラリーが触れるもの・見るもの・出会う人などは現実社会を反映した事物・存在でなければならない。結果的にはエラリーの目から見える社会や人間はことごとく人間くささを伴って現れる。それがライツヴィルであり、ライツヴィルの人々だ。生意気な青年が慣れ親しんだニューヨークが舞台ではない事の理由もそこにある。すでに多くの読者から好評を得ている初期作品の世界観を根こそぎ再構築するなどという事は、著者であっても許されなかった。リハビリの為には理想的な転地が必要だったのだ。<br /><br />　初期の国名シリーズでは、演繹的推理を駆使したロジックの伽藍をあれほどの切れ味で明解に作りあげてきた二十代のエラリ－は、『災厄の町』では生身の人間として失敗を繰り返す。その痕跡を追うと、こんな場面が出てくる。<br /><br />　町の名士であるライト家に居候する身となったエラリーは、三女のパットと親しくなり、パットの恋人カートをやきもきさせる。次女ノーラの婚約者で、三年前に突然姿を消したジムが戻ってきてからは、ジムが財産目当てで、妻となったノーラの殺害を目論んでいるという疑惑が浮上し、秘密裏に監視するという仕事をパットと共有する事になる。傍から見れば「逢い引き」ともとれるようなパットとの密会を、木陰に隠れていたカートが見ていて、パットをなじる場面だ。<br /><blockquote><span style="color:#0000ff;">[新訳版]( 9章P.106)ばかげている、とクイーン氏は思った。論理に生きる男なら、偶然とはいえこんな事態に巻きこまれるのは避けるべきだ。</span></blockquote>　かつての自分ならば演繹的推理に磨きをかけ、論理的に真実にたどり着こうとするはずなのに、今はパットのため、ライト家のために関係者としてかかわろうとしている。警察にも相談せずに。この独白を読んだ時点で、初期作品の愛読者たちは、エラリーに何が起きてしまったのだろうかと度肝を抜かれるに違いない(残念ながら、旧訳は、この部分の解釈を間違っている)。<br /><br /><blockquote><span style="color:#0000ff;">[新訳版](10章P.133)エラリイは右の手のひらでその顎を押しあげた。カーラッティの頭がのけぞる。そして、よろめいたところを、エラリイがもう一方の手で腹にパンチを食らわせた。</span></blockquote>　カーラッティが営む酒場で酔いつぶれているジムを見つけて、パットとエラリーはジムを連れて帰ろうとする。パットと口論となったカーラッティが口汚くパットを罵るので、エラリーは冷静をよそおいながら相手を殴り倒す。前と同じくクイーンの愛読者ならば「おい、おい、エラリー、どうしちまったんだい？」と言いたくなるところだ。僕の目には、パズル小説と同時期に誕生し、最大のライバルと化していたハードボイルド小説に影響を受けているように映る。<br /><br />　このように、恋愛をしたり、事件関係者に肩入れしたり、ハードボイルドの洗礼を受け入れたりと、およそエラリーらしくない内面や行動を見せる一方で、あの華々しい経歴の持ち主であると仄めかす場面をさりげなく挿入することも、著者は忘れてはいない。<br /><blockquote><span style="color:#0000ff;">[新訳版]( 14章P.187)　クイーン氏は芝居の観客よろしく自分の位置に坐したまま、見たり聞いたり考えたりしていた――ライツヴィルのデイキン署長は、ニューヨークのある警察官にそっくりだ。あの深く根づいた威厳…</span></blockquote>　ライツヴィルという小さな田舎町のベテラン署長でありながら、自らの信念に基づいて「警察官としてやるべきことをやる」という誠実さを見せるデイキンに、エラリーは父に似た親近感を感じている。<br /><br />　あるいはジムに殺人の嫌疑がかけられて裁判になると、ジムの弁護士から被告の証人となる事を求められても、絶対に拒もうとする。<br /><blockquote><span style="color:#0000ff;">[新訳版](22章P.341)「ただ、僕が証言しても、ジムに対する疑惑を強めるだけで…(略)…そうなったら最高裁判所だろうと味方につくはずがない。僕は証言してはいけないんです」</span></blockquote>　ライツヴィルではエラリー・スミスという偽名で滞在を続けてきたが、もし正体がばれたら絶対的な信頼を伴って被告に不利な証言として原告側から利用されると、エラリーは分かっている。<br /><br />　こういった場面は、リハビリを終えたエラリーが再び主戦場であるニューヨークに戻る事を読者に仄めかしているのだ。ライツヴィルは一方でエラリーのリハビリのための転地(理想の地)であると同時に、初期の無邪気で傲慢なエラリーにとっての地獄めぐりの地でもある。そこに文学的要素を見る事もできるだろうし、あくまでエラリーを自らの分身として最後まで手放さないと決心した著者たちの決意の表れと見る事もできそうだ。<br /><br />　さて、(その2)で書きたかった事は一通り書いた。ここで終わってももちろんいいのだが、著者エラリーが副題に採用した「A Novel」という選択が何をもたらしたかについて、書いておく事も無駄では無いだろうと思う。だから、もう一回分、この書評を続けようと思う。(続く)<a name="more"></a><div class="blogmura-link"><a href="https://blogmura.com/ranking/in?p_cid=10113262" target="_blank"><img src="https://b.blogmura.com/88_31.gif" width="88" height="31" border="0" alt="ブログランキング・にほんブログ村へ" />にほんブログ村</a>
<a href="https://blogmura.com/profiles/10113262?p_cid=10113262" target="_blank"><img src="https://blogparts.blogmura.com/parts_image/user/pv10113262.gif" alt="PVアクセスランキング にほんブログ村" /></a></div>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
            <category>　書評(エラリー・クイーン)</category>
      <author>アスラン</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,elleryqueen/520478086</guid>
            <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E781BDE58E84E381AEE794BA_E8A1A8E7B499.jpg" length="160845" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E781BDE58E84E381AEE794BA_E8A1A8E7B499.jpg" length="160845" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E59CB0E59BB328Double20Double29-01.jpg" length="109975" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E59CB0E59BB328Double20Double29-01.jpg" length="109975" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E59CB0E59BB328Double20Double29-02.jpg" length="197535" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E59CB0E59BB328Double20Double29-02.jpg" length="197535" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/Calamity20Town28E6898929.jpg" length="52144" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/Calamity20Town28E6898929.jpg" length="52144" type="image/jpeg" />
                      </item>
        <item>
      <link>https://elleryqueen.seesaa.net/article/520416508.html</link>
      <title>災厄の町[新訳版]　エラリイ・クイーン(ハヤカワ文庫)　(その1)</title>
      <pubDate>Thu, 16 Apr 2026 08:50:06 +0900</pubDate>
            <description>　再読だ。2014年に越前敏弥訳で新たに出版された新訳版を最初に読んだときはあまり気にしなかったのだが、今回の再読ではあまりの重厚さに圧倒された。それもこれも僕自身がクイーンの作品(あるいはミステリー全般)に向き合う姿勢が変わったからだ。もちろん相変わらず国名シリーズや悲劇四部作などを偏愛する好みは変わらないが、高校生の自分は”後期クイーン作品&quot;と呼ばれた『災厄の町』以降の作品に、正直言ってある種の幻滅を感じていた。例えば、クイーンのお約束に過ぎないかもしれないが、劇場で起き..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E781BDE58E84E381AEE794BA_E8A1A8E7B499.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="&#x707D;&#x5384;&#x306E;&#x753A;_&#x8868;&#x7D19;.jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E781BDE58E84E381AEE794BA_E8A1A8E7B499-thumbnail2.jpg" width="103" height="150"></a>
　再読だ。2014年に越前敏弥訳で新たに出版された新訳版を最初に読んだときはあまり気にしなかったのだが、今回の再読ではあまりの重厚さに圧倒された。それもこれも僕自身がクイーンの作品(あるいはミステリー全般)に向き合う姿勢が変わったからだ。もちろん相変わらず国名シリーズや悲劇四部作などを偏愛する好みは変わらないが、高校生の自分は”後期クイーン作品"と呼ばれた『災厄の町』以降の作品に、正直言ってある種の幻滅を感じていた。例えば、クイーンのお約束に過ぎないかもしれないが、劇場で起きた殺人、都会の大病院で起きた殺人、スタジアムで数千、数万の観客の目の前で起きた殺人の舞台に対して、容疑者になりうる登場人物表には当初は2ダースを超える人物が記されていたのに、『十日間の不思議』にいたっては警察関係者(エラリー・クイーン本人とデイキン署長)を除けば、たったの七人しか記されない。これでは想定外の「誰が」に驚くミステリには到底なりえないし、厳密な演繹的推理に基づいて犯人以外の登場人物をすべて除外する事には到底なりえない。そんな事を高校生の僕は考えていたのだ。

　本作では『十日間の…』より登場人物表に出てくる人数は多いにしても、実質的に容疑者になりうる人物はほんの一握りにすぎない。しかし、すでに探偵は成長して分別を身につけている。劇場の売り子や案内係などの端役をすべて除外してからでないと手の内を明かさないという、若くて自信満々なインテリ青年が探偵ではない。事件の渦中となるライト家に傍観者として入り込む事で、探偵は論理的推論をもてあそぶ事から解放された。と同時に探偵は事件に介入して、傍観者であり続ける事もやめてしまった。その結果、関係者たちと同じ痛みを分かち合う事になる。

　この「痛み」を自分事として受け入れる探偵の姿を見届けることこそが"後期クイーン作品"を読む事において最も重要なポイントであると、ようやくこの歳になって分かってきた。ならば"後期クイーン作品"の読み直しこそが、クイーンの愛読者を全うする事になるのではないか。そんな風に考えながら改めて本作を読んでみると、これほどのボリュームで重いテーマを描いていた事に気づかされた。昔、青田勝さんが翻訳した旧訳に慣れ親しんだ世代なので、あの時はそれほどの重厚感を感じていなかったはずだ。いや、そもそも青田勝さんの翻訳ってどんなだったっけ？
<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E781BDE58E84E381AEE794BA28E697A7E8A8B329_E8A1A8E7B499.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="&#x707D;&#x5384;&#x306E;&#x753A;(&#x65E7;&#x8A33;)_&#x8868;&#x7D19;.jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E781BDE58E84E381AEE794BA28E697A7E8A8B329_E8A1A8E7B499-thumbnail2.jpg" width="106" height="150"></a>
　今日にいたるまで青田勝という翻訳家がどんな経歴の持ち主か詮索する機会をもたなかった。日本語や英語に特別な関心を持たない高校生の自分には、翻訳家によって出来不出来が決まるだけではなく、作品の持つ雰囲気さえもが変わることに気づいていなかった。今回、青田勝さんの事を調べようとしたが、一次史料、二次史料ともに参考となるものは見当たらず。Wikipediaにあたってみてビックリした。青田さんは1927年(昭和2年)に東京帝国大学文学部英文科を卒業したのちに、東京府立第五中学校の教師になっている(当時の中学校は今の高校に相当する)。なんと我が母校の前身ではないか。

　どのような経緯があったのかは不明だが、1950年(42歳)にユニバーサル映画の字幕翻訳家に転身して1969年(67歳)までの約二十年間続けた。Wikipediaに挙げられた翻訳リストによると、1956年(54歳)にクイーンの『エジプト十字架の秘密』(早川書房)の翻訳を手がけたのが最初で、以後、映画の字幕翻訳とミステリの翻訳との二足のわらじを履き続けたらしいのは恐れ入る。1981年(79歳)に『フォックス家の殺人』を手がけたのが翻訳家としての最後の仕事のようだ。

　そう言えば創元推理文庫から長らく絶版だった『ハートの4』が出た時(1979年)、我勝ちに買い求めて読んだ記憶がある。SNSで綾辻行人さんも自分と同じ想い出があると書いていて、非常に親近感が湧いた。ということは創元推理文庫もハヤカワ・ミステリ文庫も、どちらも旧訳で読んだ最後のクイーン作品は青田さんの翻訳だったわけだ。それほど僕らの世代ではクイーン作品＝青田勝訳と言っても過言ではないほどの存在だった。そして1986年(84歳)に亡くなられている。

　宇野利泰さんのように幅広いジャンル、様々な作家の作品を手がけたわけではなく、エラリー･クイーン、パトリシア・ハイスミス、フレドリック・ブラウンなどが主だった作家だった。とりわけエラリー･クイーンの作品それも後期クイーン作品をほぼ一手に引き受けている。それはもう圧倒的と言える。最近では青田勝さんと同様の存在感を示しているのが、越前敏弥さんだ。重なるところと重ならないところがあるので比較はなかなか難しいのだが、クイーンの全聖典で考えると、
青田さん: 長篇20冊＋短篇集3冊＝23冊(短篇集は『クイーン検察局』『クイーンのフルハウス』『クイーン犯罪実験室』)
越前さん: 長篇21冊　　　　　  ＝21冊(国名シリーズは越前さん＋αの共訳という形式)　となり、まだ全冊数では青田さんがトップの翻訳者だ。

　後期クイーン作品(『災厄の町』(1942年)以降の長篇のみでカウント)で考えると
青田さん: 長篇16冊(『靴に棲む老婆』『九尾の猫』『帝王死す』『恐怖の研究』『顔』を除く。)
越前さん: 長篇  6冊　となり、もう後期クイーン作品に関しては青田さんの独壇場である。ちなみに『災厄の町』以降の長篇で青田さんが翻訳を担当しなかった作品は、すでにハヤカワ・ポケット・ミステリ(HPB)で他の翻訳家による既訳が存在したものだけだ。

　出来れば越前敏弥さんには青田勝さんを超える後期クイーン作品の翻訳を期待したいところだが、ウェブ版「翻訳百景」では今年(2026年)から仕事をスローダウンさせると宣言されているので、個人的な「過大な期待」を背負わせるのは申し訳ない。あくまでライフワークにしていただけたらと願うのみだ。幸いな事に22冊目は今年出版されるという嬉しい報告もなさっている。想像するにライツヴィル物の残り『帝王死す』『最後の一撃』のいずれかではないか。『帝王死す』であれば、翌年以降の『最後の一撃』も視野に入れていると考えたくなる。『最後の一撃』であれば、後期作品の残りから最重点作品(例えば『悪の起源』『盤面の敵』『顔』『心地よく秘密めいた場所』など)を拾い上げて訳していくつもりではないかと、身勝手な想像を巡らしてしまいそうだ。

　話が横道に逸れてしまった。新訳版の本書の「重厚さ」はどこからくるのかを改めて考える。旧訳は従来の文庫サイズで386頁からなる本文であるが、手にしてみると活字がかなり小さい。若い頃はこれを平気で読み飛ばしてきたのだ。新訳はハヤカワ･ミステリ文庫が2000年から導入を進めてきたトールサイズ(縦長)に変わり、それに合わせて活字も大きくなって486頁からなる本文になった。比較すると
旧訳: 386頁×42(文字/行)×20行 ＝ 324,240文字
新訳: 486頁×40(文字/行)×17行 ＝ 330,480文字　となる。比率的には旧訳 : 新訳 ＝ 1: 1.019で、ほぼ同じ文字数になるが、わずかながら越前さんの新訳の方が多い。

　ただし、これは一頁全部に文字が埋まっている状態を前提に試算している。改行の位置などがどちらも原書に合わせてあれば、大きな食い違いは起きないはずだが、本書の解説で飯城勇三さんが指摘しているところでは、青田さんの底本とした原書はポケットブック版で「改行を減らしたり、長さを縮める処理がなされている」という話だ。たしかに旧訳は活字が小さいだけでなく、一頁に文字がたくさん埋まっているように感じられる。そこでこれもザックリとした勘定だが、『災厄の町』の初版(リトル・ブラウン社)を基準に考えると、ポケットブック版を基準にした旧訳で一頁あたりに改行が一つ減っていると見なして、新訳の19行に対して旧訳の18行が対応していると考える。つまり、旧訳に関しては見た目の行数20に対して、充填率19/18をかけた行数を仮想的に用いる事にする。
旧訳: 386頁×42(文字/行)×20行×19/18(率) ＝ 342,253文字
新訳: 486頁×40(文字/行)×17行 ＝ 330,480文字　こちらの文字数で比較すると、旧訳 : 新訳 ＝ 1: 0.966 となり、若干だが新訳の方が総文字数が少ない翻訳となっている事がわかった。

　以前に『Ｙの悲劇』を宇野利泰訳と越前敏弥訳とで比較した時には、圧倒的に越前訳の総文字数が少なくて「ドライビールのようにキリッとした翻訳」だと書いた事があるが、青田訳と越前訳ではそれほど大きな差が出ていない。つまり、そこに青田訳の特徴がある。Copilotに聞いてみると、以下のように二人の翻訳家の文体を分析してくれた。
共通する大枠
　• 	青田勝： 1950〜70年代のハヤカワ文体の中ではかなり読みやすい、簡潔寄りの訳。
　• 	越前敏弥： 原文のニュアンス・リズムを細かく拾い、現代日本語としての自然さも両立させるタイプ。
『災厄の町』の翻訳の比較
　• 	青田訳：
　　• 	文は比較的短く、説明は要点を押さえてスッと流す。
　　• 	会話は素直な口語で、テンポ重視。
　　• 	小都市の空気は出ているが、「社会小説」としての重さはやや軽めに感じられる。
　• 	越前訳：
　　• 	心理の揺れや、町の空気の“ねっとりした圧”を細かく言葉で拾う。
　　• 	比喩や言い回しが原文にかなり近く、陰影が濃い。
　　• 	「ミステリ」よりも「小説」としての読み応えが増している印象。
　そこで、実際の翻訳を比較してみる。まずは冒頭の一節。
[第一部 第1章]
(青田勝訳P.13)
1　クイーン氏のアメリカ発見
　ライツヴィル駅のプラットホームに立ったエラリイ･クイーンは、荷物の海にひざまでつかりながら思った。ぼくは提督になったようだ。コロンブス提督だ。駅は赤黒いれんが造りのずんぐりした建物だ。駅舎のひさしの下に置いてある錆だらけの手押車に、すり切れた青いオーバーオールを着た小さな男の子が二人ならんで腰をかけて、二人ともリズムを合わせてガムを噛みながら足をぶらぶらさせて、ぼんやりと彼を眺めていた。駅のまわりの砂利の上には馬糞が点々と落ちている。線路の片側には小さな木造の二階建ての家や、クラッカーのたるみたいなみすぼらしい小さな店がならんでひしめき合っている――こっち側が町らしい。
(越前敏弥訳P.13)
1　クイーン氏、アメリカを発見する
　エラリイ･クイーン氏は、ライツヴィル駅のプラットホームで膝の高さまで手荷物に埋もれて立ちながら、こう思った。こうしていると提督になった気分だ。コロンブス提督に。
　駅は赤黒い煉瓦のずんぐりとした建物だった。軒下に置かれた錆だらけの手押し車の上で、破れた青いオーバーオールを着た小柄な少年がふたり、そろって泥だらけの両脚をぶらつかせてガムを噛み、無表情にこちらをながめていた。
　駅のまわりの砂利道には馬糞が点々と落ちていた。窮屈そうな二階建ての木造家屋や、なんの変哲もないちんまりとした店が、線路の片側に寄り集まっている――そちらが町側だ。　なるほど、分かりやすさという点では青田訳の方が取っつきやすい。ただし、分かりやすさ・読みやすさを優先した分、エラリイが観光で訪れた大学生のバックパッカーのようにも感じられてしまう。

　冒頭の一節はその後の作品の雰囲気を左右する重要な部分だ。越前訳は、著者が『CALAMITY TOWN(災厄の町)』に「A NOVEL BY ELLERY QUEEN(エラリイ・クイーンによる長編小説)」と言う副題を付けた事の意味を考えながら、文体のトーンをどうするか考えてある。例えば明治の文豪たちの多くがたどり着いた自然主義の文体、あるいはやがて主流となっていく私小説のような内省をふまえた文体などを考慮しながら、エラリイが「アメリカの原点」にたどり着いた事の高揚感を描くと同時に、大都市ニューヨークに生まれ育った自分にとっては異国であるライツヴィルに感じる疎外感を予告するかのような不安をも表現した文章を、越前訳は作りだそうとしている。

　最後にもう一箇所。会話の部分を確認しておこう。家具つきの家を求めて不動産屋のＪ・Ｃ・ペティグルーに案内されて、エラリーがジョン・Ｆ・ライト夫妻に紹介される場面だ。
[第一部 第3章]
(青田勝訳P.13)
「ジョンさん、こちらはミスター・エラリイ・スミスです。家具つき貸家を捜しておいでです」とＪ・Ｃは緊張した様子でいった。「ミスター・ライト、ミセス・ライト、ミスター・スミス」
　ジョン・Ｆは、やや甲高い声で、よく来なさったといい、ハーミーは腕いっぱいに手を差し出して、「ミスター・スミス、ようこそ」といったが、ミスター・スミスは彼女のきれいな青い目の中に、氷のようにキラリと光るものを見て、ここにも男性よりも女性のほうが怖いものだという実例が一つあるなと思った。
　(中略)
「そこでわたしは」とＪ・Ｃはもったいぶって、「すぐにお宅のお隣りにお建てになった六部屋の離れ家のことを思いだしたのですがね、ジョン――」
「貸すなんてあたくしは不賛成ですね、ジョン」とハーミオンがいとも冷たくいってのけた。
「ペティグルーさん、なんだって――」
「スミスさんがどんな人かおわかりになりさえすればね」とＪ・Ｃは急いでいった。
ハーミーはびっくりしたらしい。暖炉のそばのひじ掛け椅子にかけていたジョン・Ｆが身体を乗りだした。「おや！」と、ハーミーは、「どなたですの？」ときいた。
「スミスさんは、有名な作家のエラリイ・スミスさんです」とＪ・Ｃがいってのけた。
「有名な作家ですって！」ハーミーはびっくりしたらしく(略)
(越前敏弥訳P.30)
「ジョン、こちらはエラリイ・スミスさん。家具つきの貸し家を探しておいでです」Ｊ・Ｃは緊張気味に言った。「ライトご夫妻です、スミスさん。こほん」
　ジョン・Ｆはスミス氏に会えて非常に光栄だと高い声で告げ、ハーミーは少し離れたまま手を差し出して「はじめまして、スミスさん」と柔らかく言ったが、その愛らしい青い目に冷ややかなきらめきを見てとった”スミス"氏は、この家でも男ではなく女のほうが容赦ないと悟った。
　　（中略)
「そういうわけでして」Ｊ・Ｃはかしこまって言った。「以前隣にお建てになった、あの美しい六室の家を瞬時に思い浮かべましてね、ジョン――」
「わたくしはまったく賛成しかねますわ」ハーマイオニーが冷淡きわまりない声で言い放った。「人に貸すだなんて、ジョン。考えもしませんわ、ペティグルーさ――」
「スミスさんがどのような方かお話しすれば、もしかしたら……」Ｊ・Ｃはあわてて言った。
　ハーミーは驚いたようだ。暖炉のそばの袖つき椅子に腰かけていたジョン・Ｆは身を乗り出した。
「まあ」ハーミーが言った。「どんなかたなの？」
「スミスさんは」Ｊ・Ｃはさりげなく言った。「エラリイ・スミスという著名な作家でいらっしゃいます」
「著名な作家ですって！」ハーミーは息を呑んだ。　場面の状況や当事者たちの内面をどちらもきちんと把握できているので、文脈のズレといったものは二つの訳文からは感じられない。あとは、ただ日本語として読者にどう読ませるべきかという問題に対して、それぞれの翻訳の考え方にズレがある。

　青田訳は場面状況は分かりやすい。驚いたのは、文末が言いさしで終わっている文をうまく表現するために、それぞれが違うアプローチを用いている点だ。
　(原文)　 'I don't at all like the idea,' said Hermione in her coolest voice,'of renting, John. I can't imagine, My Pettigrew―' 
　(青田訳)「貸すなんてあたくしは不賛成ですね、ジョン」「ペティグルーさん、なんだって――」
　(越前訳)「わたくしはまったく賛成しかねますわ」「人に貸すだなんて、ジョン。考えもしませんわ、ペティグルーさ――」　原文の言いさしが不動産屋の名前なので、越前訳はそのまま名前の言いさしに対応させているが、青田さんはそれだと伝わらないと考えて「ペティグルーさん、なんだって(私たちが賛成するとお思いになったのか)」という日本語に移し替えて括弧内を言いさしにしている。青田訳の臨機応変な対応は、字幕翻訳家としてのキャリアから来ているのだろうか。さすがだ。

　ただ、日本語として熟れた表現にするという点において青田訳には問題がある。初対面のエラリイを紹介する際に「ミスター○○」とか「ミセス△△」と日本語で会話を取り交わすとは到底思えない。さらに初対面どうしのエラリイとライト夫妻との間で「よく来なさった」という表現は敬語としては不適切だし、二者を仲介する形で不動産屋のＪ・Ｃがライト夫妻に対して殊更に敬語を用いているのだが、「お宅のお隣りにお建てになった六部屋の離れ家」のように日本語として熟れていない表現が見てとれる(まるで早口言葉のような日本語だ)。

　そもそも英語には日本語の敬語に相当する表現がないため、会話全体を「敬語」というフィルターを通して再構成する必要があるのだが、青田訳はところどころに敬語表現を取り混ぜているだけで、抜けている部分も多い。例えば「貸すなんてあたくしは不賛成ですね」とか「スミスさんは、有名な作家のエラリイ・スミスさんです」とかも越前訳のように尊敬の表現に差し替えるべきだろう。

　以上をまとめると、越前訳が本書全体の雰囲気を考慮した文体や言葉の選択をあらかじめ考えて”文学的表現”に統一したことで、青田訳よりも「重厚さ」が数段増している事がわかった。今回、それを意識しながら、あらためてライツヴィルものを読む事ができてよかったと思う。これで次作『フォックス家の殺人』も同じような視点で読んでいく事ができるからだ。しかし、その前にまだ考えねばならない事がある。著者クイーンが副題「A NOVEL」に込めた思いについて、だ。それについては書評の(その2)で考えてみたい。(続く)<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E781BDE58E84E381AEE794BA_E8A1A8E7B499.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="災厄の町_表紙.jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E781BDE58E84E381AEE794BA_E8A1A8E7B499-thumbnail2.jpg" width="103" height="150" onclick="location.href = 'https://elleryqueen.seesaa.net/upload/detail/image/E781BDE58E84E381AEE794BA_E8A1A8E7B499-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br />　再読だ。2014年に越前敏弥訳で新たに出版された新訳版を最初に読んだときはあまり気にしなかったのだが、今回の再読ではあまりの重厚さに圧倒された。それもこれも僕自身がクイーンの作品(あるいはミステリー全般)に向き合う姿勢が変わったからだ。もちろん相変わらず国名シリーズや悲劇四部作などを偏愛する好みは変わらないが、高校生の自分は”後期クイーン作品"と呼ばれた『災厄の町』以降の作品に、正直言ってある種の幻滅を感じていた。例えば、クイーンのお約束に過ぎないかもしれないが、劇場で起きた殺人、都会の大病院で起きた殺人、スタジアムで数千、数万の観客の目の前で起きた殺人の舞台に対して、容疑者になりうる登場人物表には当初は2ダースを超える人物が記されていたのに、『十日間の不思議』にいたっては警察関係者(エラリー・クイーン本人とデイキン署長)を除けば、たったの七人しか記されない。これでは想定外の「誰が」に驚くミステリには到底なりえないし、厳密な演繹的推理に基づいて犯人以外の登場人物をすべて除外する事には到底なりえない。そんな事を高校生の僕は考えていたのだ。<br /><br />　本作では『十日間の…』より登場人物表に出てくる人数は多いにしても、実質的に容疑者になりうる人物はほんの一握りにすぎない。しかし、すでに探偵は成長して分別を身につけている。劇場の売り子や案内係などの端役をすべて除外してからでないと手の内を明かさないという、若くて自信満々なインテリ青年が探偵ではない。事件の渦中となるライト家に傍観者として入り込む事で、探偵は論理的推論をもてあそぶ事から解放された。と同時に探偵は事件に介入して、傍観者であり続ける事もやめてしまった。その結果、関係者たちと同じ痛みを分かち合う事になる。<br /><br />　この「痛み」を自分事として受け入れる探偵の姿を見届けることこそが"後期クイーン作品"を読む事において最も重要なポイントであると、ようやくこの歳になって分かってきた。ならば"後期クイーン作品"の読み直しこそが、クイーンの愛読者を全うする事になるのではないか。そんな風に考えながら改めて本作を読んでみると、これほどのボリュームで重いテーマを描いていた事に気づかされた。昔、青田勝さんが翻訳した旧訳に慣れ親しんだ世代なので、あの時はそれほどの重厚感を感じていなかったはずだ。いや、そもそも青田勝さんの翻訳ってどんなだったっけ？<br /><a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E781BDE58E84E381AEE794BA28E697A7E8A8B329_E8A1A8E7B499.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="災厄の町(旧訳)_表紙.jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E781BDE58E84E381AEE794BA28E697A7E8A8B329_E8A1A8E7B499-thumbnail2.jpg" width="106" height="150" onclick="location.href = 'https://elleryqueen.seesaa.net/upload/detail/image/E781BDE58E84E381AEE794BA28E697A7E8A8B329_E8A1A8E7B499-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br />　今日にいたるまで青田勝という翻訳家がどんな経歴の持ち主か詮索する機会をもたなかった。日本語や英語に特別な関心を持たない高校生の自分には、翻訳家によって出来不出来が決まるだけではなく、作品の持つ雰囲気さえもが変わることに気づいていなかった。今回、青田勝さんの事を調べようとしたが、一次史料、二次史料ともに参考となるものは見当たらず。Wikipediaにあたってみてビックリした。青田さんは1927年(昭和2年)に東京帝国大学文学部英文科を卒業したのちに、東京府立第五中学校の教師になっている(当時の中学校は今の高校に相当する)。なんと我が母校の前身ではないか。<br /><br />　どのような経緯があったのかは不明だが、1950年(42歳)にユニバーサル映画の字幕翻訳家に転身して1969年(67歳)までの約二十年間続けた。Wikipediaに挙げられた翻訳リストによると、1956年(54歳)にクイーンの『エジプト十字架の秘密』(早川書房)の翻訳を手がけたのが最初で、以後、映画の字幕翻訳とミステリの翻訳との二足のわらじを履き続けたらしいのは恐れ入る。1981年(79歳)に『フォックス家の殺人』を手がけたのが翻訳家としての最後の仕事のようだ。<br /><br />　そう言えば創元推理文庫から長らく絶版だった『ハートの4』が出た時(1979年)、我勝ちに買い求めて読んだ記憶がある。SNSで綾辻行人さんも自分と同じ想い出があると書いていて、非常に親近感が湧いた。ということは創元推理文庫もハヤカワ・ミステリ文庫も、どちらも旧訳で読んだ最後のクイーン作品は青田さんの翻訳だったわけだ。それほど僕らの世代ではクイーン作品＝青田勝訳と言っても過言ではないほどの存在だった。そして1986年(84歳)に亡くなられている。<br /><br />　宇野利泰さんのように幅広いジャンル、様々な作家の作品を手がけたわけではなく、エラリー･クイーン、パトリシア・ハイスミス、フレドリック・ブラウンなどが主だった作家だった。とりわけエラリー･クイーンの作品それも後期クイーン作品をほぼ一手に引き受けている。それはもう圧倒的と言える。最近では青田勝さんと同様の存在感を示しているのが、越前敏弥さんだ。重なるところと重ならないところがあるので比較はなかなか難しいのだが、クイーンの全聖典で考えると、<br /><blockquote>青田さん: 長篇20冊＋短篇集3冊＝23冊(短篇集は『クイーン検察局』『クイーンのフルハウス』『クイーン犯罪実験室』)<br />越前さん: 長篇21冊　　　　　  ＝21冊(国名シリーズは越前さん＋αの共訳という形式)</blockquote>　となり、まだ全冊数では青田さんがトップの翻訳者だ。<br /><br />　後期クイーン作品(『災厄の町』(1942年)以降の長篇のみでカウント)で考えると<br /><blockquote>青田さん: 長篇16冊(『靴に棲む老婆』『九尾の猫』『帝王死す』『恐怖の研究』『顔』を除く。)<br />越前さん: 長篇  6冊</blockquote>　となり、もう後期クイーン作品に関しては青田さんの独壇場である。ちなみに『災厄の町』以降の長篇で青田さんが翻訳を担当しなかった作品は、すでにハヤカワ・ポケット・ミステリ(HPB)で他の翻訳家による既訳が存在したものだけだ。<br /><br />　出来れば越前敏弥さんには青田勝さんを超える後期クイーン作品の翻訳を期待したいところだが、ウェブ版「翻訳百景」では今年(2026年)から仕事をスローダウンさせると宣言されているので、個人的な「過大な期待」を背負わせるのは申し訳ない。あくまでライフワークにしていただけたらと願うのみだ。幸いな事に22冊目は今年出版されるという嬉しい報告もなさっている。想像するにライツヴィル物の残り『帝王死す』『最後の一撃』のいずれかではないか。『帝王死す』であれば、翌年以降の『最後の一撃』も視野に入れていると考えたくなる。『最後の一撃』であれば、後期作品の残りから最重点作品(例えば『悪の起源』『盤面の敵』『顔』『心地よく秘密めいた場所』など)を拾い上げて訳していくつもりではないかと、身勝手な想像を巡らしてしまいそうだ。<br /><br />　話が横道に逸れてしまった。新訳版の本書の「重厚さ」はどこからくるのかを改めて考える。旧訳は従来の文庫サイズで386頁からなる本文であるが、手にしてみると活字がかなり小さい。若い頃はこれを平気で読み飛ばしてきたのだ。新訳はハヤカワ･ミステリ文庫が2000年から導入を進めてきたトールサイズ(縦長)に変わり、それに合わせて活字も大きくなって486頁からなる本文になった。比較すると<br /><blockquote>旧訳: 386頁×42(文字/行)×20行 ＝ 324,240文字<br />新訳: 486頁×40(文字/行)×17行 ＝ 330,480文字</blockquote>　となる。比率的には旧訳 : 新訳 ＝ 1: 1.019で、ほぼ同じ文字数になるが、わずかながら越前さんの新訳の方が多い。<br /><br />　ただし、これは一頁全部に文字が埋まっている状態を前提に試算している。改行の位置などがどちらも原書に合わせてあれば、大きな食い違いは起きないはずだが、本書の解説で飯城勇三さんが指摘しているところでは、青田さんの底本とした原書はポケットブック版で「改行を減らしたり、長さを縮める処理がなされている」という話だ。たしかに旧訳は活字が小さいだけでなく、一頁に文字がたくさん埋まっているように感じられる。そこでこれもザックリとした勘定だが、『災厄の町』の初版(リトル・ブラウン社)を基準に考えると、ポケットブック版を基準にした旧訳で一頁あたりに改行が一つ減っていると見なして、新訳の19行に対して旧訳の18行が対応していると考える。つまり、旧訳に関しては見た目の行数20に対して、充填率19/18をかけた行数を仮想的に用いる事にする。<br /><blockquote>旧訳: 386頁×42(文字/行)×20行×19/18(率) ＝ 342,253文字<br />新訳: 486頁×40(文字/行)×17行 ＝ 330,480文字</blockquote>　こちらの文字数で比較すると、旧訳 : 新訳 ＝ 1: 0.966 となり、若干だが新訳の方が総文字数が少ない翻訳となっている事がわかった。<br /><br />　以前に『Ｙの悲劇』を宇野利泰訳と越前敏弥訳とで比較した時には、圧倒的に越前訳の総文字数が少なくて「ドライビールのようにキリッとした翻訳」だと書いた事があるが、青田訳と越前訳ではそれほど大きな差が出ていない。つまり、そこに青田訳の特徴がある。Copilotに聞いてみると、以下のように二人の翻訳家の文体を分析してくれた。<br /><blockquote><strong>共通する大枠</strong><br />　• 	<span style="color:#ff0000;">青田勝</span>： 1950〜70年代のハヤカワ文体の中ではかなり読みやすい、簡潔寄りの訳。<br />　• 	<span style="color:#0000ff;">越前敏弥</span>： 原文のニュアンス・リズムを細かく拾い、現代日本語としての自然さも両立させるタイプ。<br /><strong>『災厄の町』の翻訳の比較</strong><br />　• 	<span style="color:#ff0000;">青田訳：</span><br />　　• 	文は比較的短く、説明は要点を押さえてスッと流す。<br />　　• 	会話は素直な口語で、テンポ重視。<br />　　• 	小都市の空気は出ているが、「社会小説」としての重さはやや軽めに感じられる。<br />　• 	<span style="color:#0000ff;">越前訳：</span><br />　　• 	心理の揺れや、町の空気の“ねっとりした圧”を細かく言葉で拾う。<br />　　• 	比喩や言い回しが原文にかなり近く、陰影が濃い。<br />　　• 	「ミステリ」よりも「小説」としての読み応えが増している印象。</blockquote><br />　そこで、実際の翻訳を比較してみる。まずは冒頭の一節。<br /><blockquote><strong>[第一部 第1章]</strong><br /><strong>(青田勝訳P.13)</strong><br /><span style="color:#ff0000;">1　クイーン氏のアメリカ発見<br />　ライツヴィル駅のプラットホームに立ったエラリイ･クイーンは、荷物の海にひざまでつかりながら思った。ぼくは提督になったようだ。コロンブス提督だ。駅は赤黒いれんが造りのずんぐりした建物だ。駅舎のひさしの下に置いてある錆だらけの手押車に、すり切れた青いオーバーオールを着た小さな男の子が二人ならんで腰をかけて、二人ともリズムを合わせてガムを噛みながら足をぶらぶらさせて、ぼんやりと彼を眺めていた。駅のまわりの砂利の上には馬糞が点々と落ちている。線路の片側には小さな木造の二階建ての家や、クラッカーのたるみたいなみすぼらしい小さな店がならんでひしめき合っている――こっち側が町らしい。</span><br /><strong>(越前敏弥訳P.13)</strong><br /><span style="color:#0000ff;">1　クイーン氏、アメリカを発見する<br />　エラリイ･クイーン氏は、ライツヴィル駅のプラットホームで膝の高さまで手荷物に埋もれて立ちながら、こう思った。こうしていると提督になった気分だ。コロンブス提督に。<br />　駅は赤黒い煉瓦のずんぐりとした建物だった。軒下に置かれた錆だらけの手押し車の上で、破れた青いオーバーオールを着た小柄な少年がふたり、そろって泥だらけの両脚をぶらつかせてガムを噛み、無表情にこちらをながめていた。<br />　駅のまわりの砂利道には馬糞が点々と落ちていた。窮屈そうな二階建ての木造家屋や、なんの変哲もないちんまりとした店が、線路の片側に寄り集まっている――そちらが町側だ。</span></blockquote>　なるほど、分かりやすさという点では青田訳の方が取っつきやすい。ただし、分かりやすさ・読みやすさを優先した分、エラリイが観光で訪れた大学生のバックパッカーのようにも感じられてしまう。<br /><br />　冒頭の一節はその後の作品の雰囲気を左右する重要な部分だ。越前訳は、著者が『CALAMITY TOWN(災厄の町)』に「A NOVEL BY ELLERY QUEEN(エラリイ・クイーンによる長編小説)」と言う副題を付けた事の意味を考えながら、文体のトーンをどうするか考えてある。例えば明治の文豪たちの多くがたどり着いた自然主義の文体、あるいはやがて主流となっていく私小説のような内省をふまえた文体などを考慮しながら、エラリイが「アメリカの原点」にたどり着いた事の高揚感を描くと同時に、大都市ニューヨークに生まれ育った自分にとっては異国であるライツヴィルに感じる疎外感を予告するかのような不安をも表現した文章を、越前訳は作りだそうとしている。<br /><br />　最後にもう一箇所。会話の部分を確認しておこう。家具つきの家を求めて不動産屋のＪ・Ｃ・ペティグルーに案内されて、エラリーがジョン・Ｆ・ライト夫妻に紹介される場面だ。<br /><blockquote><strong>[第一部 第3章]</strong><br /><strong>(青田勝訳P.13)</strong><br /><span style="color:#ff0000;">「ジョンさん、こちらはミスター・エラリイ・スミスです。家具つき貸家を捜しておいでです」とＪ・Ｃは緊張した様子でいった。「ミスター・ライト、ミセス・ライト、ミスター・スミス」<br />　ジョン・Ｆは、やや甲高い声で、よく来なさったといい、ハーミーは腕いっぱいに手を差し出して、「ミスター・スミス、ようこそ」といったが、ミスター・スミスは彼女のきれいな青い目の中に、氷のようにキラリと光るものを見て、ここにも男性よりも女性のほうが怖いものだという実例が一つあるなと思った。<br />　(中略)<br />「そこでわたしは」とＪ・Ｃはもったいぶって、「すぐにお宅のお隣りにお建てになった六部屋の離れ家のことを思いだしたのですがね、ジョン――」<br />「貸すなんてあたくしは不賛成ですね、ジョン」とハーミオンがいとも冷たくいってのけた。<br />「ペティグルーさん、なんだって――」<br />「スミスさんがどんな人かおわかりになりさえすればね」とＪ・Ｃは急いでいった。<br />ハーミーはびっくりしたらしい。暖炉のそばのひじ掛け椅子にかけていたジョン・Ｆが身体を乗りだした。「おや！」と、ハーミーは、「どなたですの？」ときいた。<br />「スミスさんは、有名な作家のエラリイ・スミスさんです」とＪ・Ｃがいってのけた。<br />「有名な作家ですって！」ハーミーはびっくりしたらしく(略)</span><br /><strong>(越前敏弥訳P.30)</strong><br /><span style="color:#0000ff;">「ジョン、こちらはエラリイ・スミスさん。家具つきの貸し家を探しておいでです」Ｊ・Ｃは緊張気味に言った。「ライトご夫妻です、スミスさん。こほん」<br />　ジョン・Ｆはスミス氏に会えて非常に光栄だと高い声で告げ、ハーミーは少し離れたまま手を差し出して「はじめまして、スミスさん」と柔らかく言ったが、その愛らしい青い目に冷ややかなきらめきを見てとった”スミス"氏は、この家でも男ではなく女のほうが容赦ないと悟った。<br />　　（中略)<br />「そういうわけでして」Ｊ・Ｃはかしこまって言った。「以前隣にお建てになった、あの美しい六室の家を瞬時に思い浮かべましてね、ジョン――」<br />「わたくしはまったく賛成しかねますわ」ハーマイオニーが冷淡きわまりない声で言い放った。「人に貸すだなんて、ジョン。考えもしませんわ、ペティグルーさ――」<br />「スミスさんがどのような方かお話しすれば、もしかしたら……」Ｊ・Ｃはあわてて言った。<br />　ハーミーは驚いたようだ。暖炉のそばの袖つき椅子に腰かけていたジョン・Ｆは身を乗り出した。<br />「まあ」ハーミーが言った。「どんなかたなの？」<br />「スミスさんは」Ｊ・Ｃはさりげなく言った。「エラリイ・スミスという著名な作家でいらっしゃいます」<br />「著名な作家ですって！」ハーミーは息を呑んだ。</span></blockquote>　場面の状況や当事者たちの内面をどちらもきちんと把握できているので、文脈のズレといったものは二つの訳文からは感じられない。あとは、ただ日本語として読者にどう読ませるべきかという問題に対して、それぞれの翻訳の考え方にズレがある。<br /><br />　青田訳は場面状況は分かりやすい。驚いたのは、文末が言いさしで終わっている文をうまく表現するために、それぞれが違うアプローチを用いている点だ。<br /><blockquote>　(原文)　 'I don't at all like the idea,' said Hermione in her coolest voice,'of renting, John. I can't imagine, My Pettigrew―' <br />　(青田訳)「貸すなんてあたくしは不賛成ですね、ジョン」「ペティグルーさん、なんだって――」<br />　(越前訳)「わたくしはまったく賛成しかねますわ」「人に貸すだなんて、ジョン。考えもしませんわ、ペティグルーさ――」</blockquote>　原文の言いさしが不動産屋の名前なので、越前訳はそのまま名前の言いさしに対応させているが、青田さんはそれだと伝わらないと考えて「ペティグルーさん、なんだって(私たちが賛成するとお思いになったのか)」という日本語に移し替えて括弧内を言いさしにしている。青田訳の臨機応変な対応は、字幕翻訳家としてのキャリアから来ているのだろうか。さすがだ。<br /><br />　ただ、日本語として熟れた表現にするという点において青田訳には問題がある。初対面のエラリイを紹介する際に「ミスター○○」とか「ミセス△△」と日本語で会話を取り交わすとは到底思えない。さらに初対面どうしのエラリイとライト夫妻との間で「よく来なさった」という表現は敬語としては不適切だし、二者を仲介する形で不動産屋のＪ・Ｃがライト夫妻に対して殊更に敬語を用いているのだが、「お宅のお隣りにお建てになった六部屋の離れ家」のように日本語として熟れていない表現が見てとれる(まるで早口言葉のような日本語だ)。<br /><br />　そもそも英語には日本語の敬語に相当する表現がないため、会話全体を「敬語」というフィルターを通して再構成する必要があるのだが、青田訳はところどころに敬語表現を取り混ぜているだけで、抜けている部分も多い。例えば「貸すなんてあたくしは不賛成ですね」とか「スミスさんは、有名な作家のエラリイ・スミスさんです」とかも越前訳のように尊敬の表現に差し替えるべきだろう。<br /><br />　以上をまとめると、越前訳が本書全体の雰囲気を考慮した文体や言葉の選択をあらかじめ考えて”文学的表現”に統一したことで、青田訳よりも「重厚さ」が数段増している事がわかった。今回、それを意識しながら、あらためてライツヴィルものを読む事ができてよかったと思う。これで次作『フォックス家の殺人』も同じような視点で読んでいく事ができるからだ。しかし、その前にまだ考えねばならない事がある。著者クイーンが副題「A NOVEL」に込めた思いについて、だ。それについては書評の(その2)で考えてみたい。(続く)<a name="more"></a><div class="blogmura-link"><a href="https://blogmura.com/ranking/in?p_cid=10113262" target="_blank"><img src="https://b.blogmura.com/88_31.gif" width="88" height="31" border="0" alt="ブログランキング・にほんブログ村へ" />にほんブログ村</a>
<a href="https://blogmura.com/profiles/10113262?p_cid=10113262" target="_blank"><img src="https://blogparts.blogmura.com/parts_image/user/pv10113262.gif" alt="PVアクセスランキング にほんブログ村" /></a></div>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
            <category>　書評(エラリー・クイーン)</category>
      <author>アスラン</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,elleryqueen/520416508</guid>
            <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E781BDE58E84E381AEE794BA_E8A1A8E7B499.jpg" length="160845" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E781BDE58E84E381AEE794BA_E8A1A8E7B499.jpg" length="160845" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E781BDE58E84E381AEE794BA28E697A7E8A8B329_E8A1A8E7B499.jpg" length="19226" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E781BDE58E84E381AEE794BA28E697A7E8A8B329_E8A1A8E7B499.jpg" length="19226" type="image/jpeg" />
                      </item>
        <item>
      <link>https://elleryqueen.seesaa.net/article/520316841.html</link>
      <title>運命の時計－デ・ラ・メア ショートセレクション(理論社)</title>
      <pubDate>Tue, 31 Mar 2026 11:45:32 +0900</pubDate>
            <description>　本書は、最近読んだ『英米文学のわからない言葉』の著者・金原瑞人さんが翻訳した一冊だ。『英米文学の…』は、金原さんの長年の翻訳家としての経験から、翻訳に手こずった言葉の数々を取り上げたエッセイだ。取り上げた言葉は、日本人にはなじみがなくて理解しにくいもの、日本語(外来語)と英国・米国ではまったく違うもの、あるいは英国と米国でも意味が違っているものなど、様々だ。実例の多くは、金原さん本人が翻訳した小説から採取している。その中でも、特に印象深いエピソードがある作品のリストと解説が..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E9818BE591BDE381AEE69982E8A888E8A1A8E7B499.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="&#x904B;&#x547D;&#x306E;&#x6642;&#x8A08;&#x8868;&#x7D19;.jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E9818BE591BDE381AEE69982E8A888E8A1A8E7B499-thumbnail2.jpg" width="103" height="150"></a>
　本書は、最近読んだ『英米文学のわからない言葉』の著者・金原瑞人さんが翻訳した一冊だ。『英米文学の…』は、金原さんの長年の翻訳家としての経験から、翻訳に手こずった言葉の数々を取り上げたエッセイだ。取り上げた言葉は、日本人にはなじみがなくて理解しにくいもの、日本語(外来語)と英国・米国ではまったく違うもの、あるいは英国と米国でも意味が違っているものなど、様々だ。実例の多くは、金原さん本人が翻訳した小説から採取している。その中でも、特に印象深いエピソードがある作品のリストと解説が巻末に記載されていた。

　実は金原さんの翻訳した本は一冊も読んでないようだ。なので特に面白そうなものをリストアップして読んでみようと考えて、真っ先にあがったのが本書だ。当然ながらデ・ラ・メアという作家を僕は知らなかった。Wikipediaには以下のように紹介されている。
ウォルター・ジョン・デ・ラ・メア（Walter John De La Mare, OM CH、1873年4月25日 - 1956年6月22日）は、イギリスの小説家、詩人。優れた児童文学作家であるとともに、幻想味豊かな怪奇小説の書き手としても知られ、恐怖の対象を直接描かず、言外の意味を以て読者の恐怖感を喚起する手法、いわゆる朦朧法を用いた怪奇・幻想作品は高く評価される。 　小説家、詩人、児童文学作家、怪奇小説の書き手など、多方面への才能を開花させた作家のようだが、国語辞典や百科事典(マイペディア、ブリタニカ)ではどちらかというと「詩人にして幻想的な小説の書き手」という位置づけにとどまっている。ただ、1947年にカーネギー賞を受賞しているくらい、児童文学小説家としての評価も高いようだ。カーネギー賞が何なのかも知らなかったのだから、上っ面の理解に過ぎないが。

　ここで作家論をぶち上げたいわけではないので、これくらいにしておくが、いわゆる幻想小説(ファンタジー)にも詩にも興味がないので、これまで一度もお近づきになった事はなかったわけだ。ただ、ストーリーテリングとしての短篇を多く残しているため、日本では今回のような少年少女向けの短篇集がそれなりに翻訳されてきたようだ。

　本書は、その中から『アーモンドの木』『鼻』『どろぼう』『運命の時計』という４つの短篇を載せている。
<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E382A2E383BCE383A2E383B3E38389E381AEE69CA8.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="&#x30A2;&#x30FC;&#x30E2;&#x30F3;&#x30C9;&#x306E;&#x6728;.JPG" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E382A2E383BCE383A2E383B3E38389E381AEE69CA8-thumbnail2.JPG" width="105" height="150"></a>
　『アーモンドの木』は他の三篇とくらべるとかなりの頁数からなり、どちらかと言うと「中篇寄りの短篇」と言える。何度も翻訳されてきたので評価が高い作品のようだが、とにかく取っつきにくい。なにしろ、語り手である「ぼく」の友人で「伯爵」と呼ばれる男の身の上話が、なんとも悲惨なものだったからだ。それをサラッと他人事のように語る「伯爵」という男の得体の知れなさを、はたして少年少女がすんなりと受け入れられるものだろうか。少なくとも大人の僕でも「こんな作品から始めていいのか」と思ったくらいだ。しかし金原さんも書いていたように、重苦しい話が延々と続くのだが、最後には幸せの予兆のようなものを感じさせる結末が待ち受けている。これがひょっとすると「朦朧体」という手法なのだろうか。

　O・ヘンリーのような人生の皮肉や機微を表現するでもなく、星新一のように意想外の展開で読者を驚かせようとするでもない。ただ、人生には時として自分ではどうにもならない展開が待ち受けていて、それは喜怒哀楽のような明解なものではない事が多い。その事を読者にスパイスをちょっとだけ加えた一段落の文章で最後に表現してみせるのが、デ・ラ・メアの手際なのだ。

　この短篇に出てくるヨークシャー・プディングは、『英米文学のわからない言葉』のプディングの項目で紹介されている。この短篇では「ローストビーフの下に置いてあるやつ」で大好きだと「伯爵」に言わせているが、金原さん自身は『英米文学の…』で「あってもなくてもいい。あんなものを食べるよりはローストビーフをもう一枚食べたいと日本人の誰しもが思うのではないか」と、手厳しい事を言っている。
<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E9BCBB.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="&#x9F3B;.JPG" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E9BCBB-thumbnail2.JPG" width="103" height="150"></a>　<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E381A9E3828DE381BCE38186.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="&#x3069;&#x308D;&#x307C;&#x3046;.JPG" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E381A9E3828DE381BCE38186-thumbnail2.JPG" width="99" height="150"></a>
　続く二篇『鼻』『どろぼう』は、まさにデ・ラ・メアという非凡な作家が本領を発揮した短篇だろう。詩人であり短篇創作の妙手である彼が、出だしから主人公の人となりや暮らしぶりなどを手際よく克明に描いていく。そして、どうしたらそんな事になるのだろうと思われるような極端な展開を、これでもかこれでもかというくらい読者に見せつけてくる。僕のお気に入りは『鼻』だ。溺愛されて育った主人公が、両親の溺愛故の思い違いを真に受けて、自分の哀れな鼻を隠すために隠遁生活を二十年も続けてしまい、ようやく真実を知る事になるというお話だ。

　こうして要約してみるとバカみたいな話で、冗談にしか思えない。だが、デ・ラ・メアの手にかかると、ユーモアだとかジョークとは一線を画した、精緻で十分に説得されてしまうようなおぞましい現実としか思えなくなる。やがて訪れる絶望の日々。そこにこそ、著者のユーモアの効かせどころがある。絶望の果てに見えた「人生の意味」をそっと置き石のように僕らのために置いてくれる。著者は信じがたいほどにロマンティックな詩人なのだ。
<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E9818BE591BDE381AEE69982E8A888.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="&#x904B;&#x547D;&#x306E;&#x6642;&#x8A08;.JPG" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E9818BE591BDE381AEE69982E8A888-thumbnail2.JPG" width="97" height="150"></a>
　表題作である『運命の時計』は、４篇の中でも唯一、純粋なファンタジーに属する短篇かもしれない。時計という発明は、当初から「人生」や「運命」といった、人にとって抗えないものと関連付けられてきた。運命に彩られた時計。それが老時計職人の手元にわたったときに、職人は悪戯心からなのか、彼を慕う目の前の若い男に貸し出す。その行為は結末に著者が用意した残酷で甘美な自らの運命の予兆でもあった。これが表題作なのは肯ける。<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E9818BE591BDE381AEE69982E8A888E8A1A8E7B499.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="運命の時計表紙.jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E9818BE591BDE381AEE69982E8A888E8A1A8E7B499-thumbnail2.jpg" width="103" height="150" onclick="location.href = 'https://elleryqueen.seesaa.net/upload/detail/image/E9818BE591BDE381AEE69982E8A888E8A1A8E7B499-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br />　本書は、最近読んだ『英米文学のわからない言葉』の著者・金原瑞人さんが翻訳した一冊だ。『英米文学の…』は、金原さんの長年の翻訳家としての経験から、翻訳に手こずった言葉の数々を取り上げたエッセイだ。取り上げた言葉は、日本人にはなじみがなくて理解しにくいもの、日本語(外来語)と英国・米国ではまったく違うもの、あるいは英国と米国でも意味が違っているものなど、様々だ。実例の多くは、金原さん本人が翻訳した小説から採取している。その中でも、特に印象深いエピソードがある作品のリストと解説が巻末に記載されていた。<br /><br />　実は金原さんの翻訳した本は一冊も読んでないようだ。なので特に面白そうなものをリストアップして読んでみようと考えて、真っ先にあがったのが本書だ。当然ながらデ・ラ・メアという作家を僕は知らなかった。Wikipediaには以下のように紹介されている。<br /><blockquote>ウォルター・ジョン・デ・ラ・メア（Walter John De La Mare, OM CH、1873年4月25日 - 1956年6月22日）は、イギリスの小説家、詩人。優れた児童文学作家であるとともに、幻想味豊かな怪奇小説の書き手としても知られ、恐怖の対象を直接描かず、言外の意味を以て読者の恐怖感を喚起する手法、いわゆる朦朧法を用いた怪奇・幻想作品は高く評価される。 </blockquote>　小説家、詩人、児童文学作家、怪奇小説の書き手など、多方面への才能を開花させた作家のようだが、国語辞典や百科事典(マイペディア、ブリタニカ)ではどちらかというと「詩人にして幻想的な小説の書き手」という位置づけにとどまっている。ただ、1947年にカーネギー賞を受賞しているくらい、児童文学小説家としての評価も高いようだ。カーネギー賞が何なのかも知らなかったのだから、上っ面の理解に過ぎないが。<br /><br />　ここで作家論をぶち上げたいわけではないので、これくらいにしておくが、いわゆる幻想小説(ファンタジー)にも詩にも興味がないので、これまで一度もお近づきになった事はなかったわけだ。ただ、ストーリーテリングとしての短篇を多く残しているため、日本では今回のような少年少女向けの短篇集がそれなりに翻訳されてきたようだ。<br /><br />　本書は、その中から『アーモンドの木』『鼻』『どろぼう』『運命の時計』という４つの短篇を載せている。<br /><a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E382A2E383BCE383A2E383B3E38389E381AEE69CA8.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="アーモンドの木.JPG" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E382A2E383BCE383A2E383B3E38389E381AEE69CA8-thumbnail2.JPG" width="105" height="150" onclick="location.href = 'https://elleryqueen.seesaa.net/upload/detail/image/E382A2E383BCE383A2E383B3E38389E381AEE69CA8-thumbnail2.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br />　『アーモンドの木』は他の三篇とくらべるとかなりの頁数からなり、どちらかと言うと「中篇寄りの短篇」と言える。何度も翻訳されてきたので評価が高い作品のようだが、とにかく取っつきにくい。なにしろ、語り手である「ぼく」の友人で「伯爵」と呼ばれる男の身の上話が、なんとも悲惨なものだったからだ。それをサラッと他人事のように語る「伯爵」という男の得体の知れなさを、はたして少年少女がすんなりと受け入れられるものだろうか。少なくとも大人の僕でも「こんな作品から始めていいのか」と思ったくらいだ。しかし金原さんも書いていたように、重苦しい話が延々と続くのだが、最後には幸せの予兆のようなものを感じさせる結末が待ち受けている。これがひょっとすると「朦朧体」という手法なのだろうか。<br /><br />　O・ヘンリーのような人生の皮肉や機微を表現するでもなく、星新一のように意想外の展開で読者を驚かせようとするでもない。ただ、人生には時として自分ではどうにもならない展開が待ち受けていて、それは喜怒哀楽のような明解なものではない事が多い。その事を読者にスパイスをちょっとだけ加えた一段落の文章で最後に表現してみせるのが、デ・ラ・メアの手際なのだ。<br /><br />　この短篇に出てくるヨークシャー・プディングは、『英米文学のわからない言葉』のプディングの項目で紹介されている。この短篇では「ローストビーフの下に置いてあるやつ」で大好きだと「伯爵」に言わせているが、金原さん自身は『英米文学の…』で「あってもなくてもいい。あんなものを食べるよりはローストビーフをもう一枚食べたいと日本人の誰しもが思うのではないか」と、手厳しい事を言っている。<br /><a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E9BCBB.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="鼻.JPG" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E9BCBB-thumbnail2.JPG" width="103" height="150" onclick="location.href = 'https://elleryqueen.seesaa.net/upload/detail/image/E9BCBB-thumbnail2.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a>　<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E381A9E3828DE381BCE38186.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="どろぼう.JPG" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E381A9E3828DE381BCE38186-thumbnail2.JPG" width="99" height="150" onclick="location.href = 'https://elleryqueen.seesaa.net/upload/detail/image/E381A9E3828DE381BCE38186-thumbnail2.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br />　続く二篇『鼻』『どろぼう』は、まさにデ・ラ・メアという非凡な作家が本領を発揮した短篇だろう。詩人であり短篇創作の妙手である彼が、出だしから主人公の人となりや暮らしぶりなどを手際よく克明に描いていく。そして、どうしたらそんな事になるのだろうと思われるような極端な展開を、これでもかこれでもかというくらい読者に見せつけてくる。僕のお気に入りは『鼻』だ。溺愛されて育った主人公が、両親の溺愛故の思い違いを真に受けて、自分の哀れな鼻を隠すために隠遁生活を二十年も続けてしまい、ようやく真実を知る事になるというお話だ。<br /><br />　こうして要約してみるとバカみたいな話で、冗談にしか思えない。だが、デ・ラ・メアの手にかかると、ユーモアだとかジョークとは一線を画した、精緻で十分に説得されてしまうようなおぞましい現実としか思えなくなる。やがて訪れる絶望の日々。そこにこそ、著者のユーモアの効かせどころがある。絶望の果てに見えた「人生の意味」をそっと置き石のように僕らのために置いてくれる。著者は信じがたいほどにロマンティックな詩人なのだ。<br /><a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E9818BE591BDE381AEE69982E8A888.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="運命の時計.JPG" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E9818BE591BDE381AEE69982E8A888-thumbnail2.JPG" width="97" height="150" onclick="location.href = 'https://elleryqueen.seesaa.net/upload/detail/image/E9818BE591BDE381AEE69982E8A888-thumbnail2.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br />　表題作である『運命の時計』は、４篇の中でも唯一、純粋なファンタジーに属する短篇かもしれない。時計という発明は、当初から「人生」や「運命」といった、人にとって抗えないものと関連付けられてきた。運命に彩られた時計。それが老時計職人の手元にわたったときに、職人は悪戯心からなのか、彼を慕う目の前の若い男に貸し出す。その行為は結末に著者が用意した残酷で甘美な自らの運命の予兆でもあった。これが表題作なのは肯ける。<a name="more"></a><div class="blogmura-link"><a href="https://blogmura.com/ranking/in?p_cid=10113262" target="_blank"><img src="https://b.blogmura.com/88_31.gif" width="88" height="31" border="0" alt="ブログランキング・にほんブログ村へ" />にほんブログ村</a>
<a href="https://blogmura.com/profiles/10113262?p_cid=10113262" target="_blank"><img src="https://blogparts.blogmura.com/parts_image/user/pv10113262.gif" alt="PVアクセスランキング にほんブログ村" /></a></div>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
            <category>書評</category>
      <author>アスラン</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,elleryqueen/520316841</guid>
            <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E9818BE591BDE381AEE69982E8A888E8A1A8E7B499.jpg" length="42080" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E9818BE591BDE381AEE69982E8A888E8A1A8E7B499.jpg" length="42080" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E382A2E383BCE383A2E383B3E38389E381AEE69CA8.JPG" length="122874" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E382A2E383BCE383A2E383B3E38389E381AEE69CA8.JPG" length="122874" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E9BCBB.JPG" length="126806" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E9BCBB.JPG" length="126806" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E381A9E3828DE381BCE38186.JPG" length="113530" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E381A9E3828DE381BCE38186.JPG" length="113530" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E9818BE591BDE381AEE69982E8A888.JPG" length="110343" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E9818BE591BDE381AEE69982E8A888.JPG" length="110343" type="image/jpeg" />
                      </item>
        <item>
      <link>https://elleryqueen.seesaa.net/article/520246269.html</link>
      <title>プロジェクト・ヘイル・メアリー　アンディ・ウィアー(早川書房)</title>
      <pubDate>Fri, 20 Mar 2026 21:30:06 +0900</pubDate>
            <description>　 　いよいよ映画が公開される。いや、この書評を書き終えるまでに公開は過ぎてるからもしれないから「公開された」になるだろう。公開に先立って、SNSでは原作を絶賛する声が相次いでいる。「ぜひとも公開前に読んでおこう。それもなるべく早めに」という意見も多く見られ、読後の投稿者に対しては、くれぐれも「ネタバレ禁止」を守るようにと警告を出している人が続出している。　何故これほどまでに「ネタバレ禁止」が叫ばれているのか。まもなく公開される映画を見ようという映画好きからのクレームかと思え..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E58D98E8A18CE69CACE8A1A8E7B49928E4B88B29.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="&#x5358;&#x884C;&#x672C;&#x8868;&#x7D19;(&#x4E0B;).jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E58D98E8A18CE69CACE8A1A8E7B49928E4B88B29-thumbnail2.jpg" width="103" height="150"></a>　<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E58D98E8A18CE69CACE8A1A8E7B49928E4B88A29.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="&#x5358;&#x884C;&#x672C;&#x8868;&#x7D19;(&#x4E0A;).jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E58D98E8A18CE69CACE8A1A8E7B49928E4B88A29-thumbnail2.jpg" width="103" height="150"></a>
 　いよいよ映画が公開される。いや、この書評を書き終えるまでに公開は過ぎてるからもしれないから「公開された」になるだろう。公開に先立って、SNSでは原作を絶賛する声が相次いでいる。「ぜひとも公開前に読んでおこう。それもなるべく早めに」という意見も多く見られ、読後の投稿者に対しては、くれぐれも「ネタバレ禁止」を守るようにと警告を出している人が続出している。

　何故これほどまでに「ネタバレ禁止」が叫ばれているのか。まもなく公開される映画を見ようという映画好きからのクレームかと思えば、そうではなく、どちらかと言えば原作を読んだ人からのクレームのようだ。「こんなにも面白い小説なのにネタばらししてしまったら、これから読もうと思っている人たちの不利益になりかねない」というわけだ。ところが、話はそんなに単純なものではなく、なんと映画自体が「ネタバレ禁止」のルールを破っているのだ。いまテレビなどで放映されている予告編や、公式サイトでの惹句などを見れば重大なネタバレがあることは、原作を読んだ人には一目瞭然なのだ。

　『プロジェクト・ヘイル・メアリー』は2021年12月に単行本が、2026年1月に文庫が出版されている。それぞれに付された内容紹介は以下のようなものだった。
[内容紹介(単行本)]
大ヒット映画「オデッセイ」のアンディ・ウィアー最新作。映画化決定！
地球上の全生命滅亡まで三〇年……。全人類規模のプロジェクトが始動した！　世界的ベストセラー『火星の人』の著者が、遥か遠宇宙で人類存亡を賭けた不可能ミッションに挑む宇宙飛行士を描く傑作エンターテインメント。ハリウッド映画化進行中。解説／山岸真[内容紹介(文庫)]
ライアン・ゴズリング主演、2026年3月公開の映画原作！
未知の物質によって太陽に異常が発生、氷河期に突入しつつある地球。宇宙へ飛び立ったひとりの科学教師が、人類を救うミッションに挑む！　地球上の全生命滅亡まで30年、人類の命運を賭けた一大プロジェクトに挑む男の奮闘を描く、極限のエンターテインメント！　まずは単行本の内容紹介だが「地球上の全生命滅亡まで三十年」だという事と、人類を救うための「不可能ミッション」に宇宙飛行士が挑むという事だけで、詳細は何もあかされていない。『宇宙戦艦ヤマト』のようなストーリーを想像してもおかしくない。ミッションを遂行するのが「宇宙飛行士」というのもなんら驚くべき事ではないし、そもそも一人なのか複数なのかすら不明なのだ。

　一方、今年の１月に出版された文庫では、やや詳細を明らかにしている。人類を滅亡させる状況が太陽の異常にあること、それを解決するミッションに挑むのが宇宙飛行士ではなく、不思議なことに「ひとりの科学教師」であるという事。この本の読みどころは、「人類の命運を賭けた一大プロジェクトに挑む」のがたったの一人であり、なんと専門家ではなく単なる学校の教師だという興味深い設定にある。ただし、それ以上の詳細は決して明かさぬようにして、ネタバレを極力避けようという出版側の苦心の跡が見られる。

　ところが映画では出版社の配慮を一挙に飛び越えて、ある重要な事実をさもネタバレでもなんでもないかのように扱い、そこに本作品の主要テーマがあることを大々的に宣伝している。これでは日本中の読書好き、ＳＦ小説好きが怒りまくるのも無理はない。奇想天外なストーリー展開で、まだまだ隠されている事は多いとは言え、真っ当な読者であれば作品前半で最初に受ける衝撃が、このネタバレによって奪われてしまったのだ。僕自身は、映画公開が間近に迫って文庫が発売された事でブームに拍車がかかる直前に、単行本で本書を読んだ。今でも上下巻を通じて最大の衝撃はここだったと思う。ああ、そういう話だったのかと驚かされたのだ。今となってはつくづく昨年12月に読んでおいてよかったと思う。

　さて、ここまで書いたら、あまり書く事はない。感想を細かく書けば内容に触れざるを得ない。そうなると「ネタバレ禁止」のルールに抵触するのは必然なので、あとは「面白かった」という事ぐらいしか書けないのだ。主人公である教師(小学生か中学生か、どの学齢の教師だったかは忘れた)のざっくばらんな、いかにも米国人っぽい人物が、紆余曲折を経て人類存亡の危機に挑む唯一の人間になるまでの描き方も面白かったし、そこから如何にしてミッションをやり遂げようとするか、その悪戦苦闘の描き方も面白かった。

　著者の、あるいは翻訳の出来不出来によって、時々意味不明な言い回しが出てくるところが気になると言えば気になるが、それもご愛敬といったところか。
(P.172)　シリンダーがキラリと光るのが見えた。ゆっくりと回転しているシリンダーのたいらな両端が、ときおりタウ光を反射して光るのだ。
　ところで、"タウ光”という言葉はありだとぼくは思っている。タウ・セチが放つ光。これは”太陽光”ではない。タウ・セチは太陽ではない。だから……タウ光。　後半の文の意味が分かるだろうか。いや、意味は誰でもわかるが、意図はわかるだろうか。タウ・セチという恒星が放つ光だから「タウ光」なのは当たり前だろう。何故主人公はわざわざ「ありだと思っている」と書かねばならないのか。もしかすると前半の「タウ光を反射する」という部分は英語の定型として「太陽光」もしくは「恒星光」にあたる英語を使うのが一般的なのだろうか。原文が分からないので何とも言えない。

　先ほど主人公は科学の教師だと書いたが、実は僕がいまひとつ本書を絶賛したいと思わない理由がそこにある。彼がいわゆる「プロジェクト・ヘイル・メアリー」に関わる事になったのも教師だったが故だし、地球からはるか遠い宇宙の星に向かうという困難なミッションをなんとか乗り切る事ができたのも、教師だった経験と知識によるものだ。それは、この作品を面白くしている核心部分である事は確かだが、同時に分かりにくくしている部分でもある。いちいち面倒なのだ。
(P.183)「そもそも遠心力が生まれるようにするには、〈ヘイル・メアリー〉と釣り合う重量を追加しなければならない」ストラットはくちびるをすぼめた。
　(中略)
「重量をプラスする必要はありません」とロッケンがいった。…「現在のデザインを採用するのなら、クルー・コンパートメントと燃料タンクとのあいだで真っ二つにすれば、遠心力を生むのに格好の質量比になります」
　(中略)
「タウ・セチに着いたときには…(略)…ロッケンさんが選んだ分離地点だと、船の後方は前方の三倍程度の重さになります。うまくいくと思いますよ」　宇宙船に何故「遠心力」が必要なのかについては直前に詳しく書かれているが、それを確保するための質量がどれくらいなのか、宇宙を航海している間に質量比はどうなるかなどを、主人公は考えている。その答は周囲の人々を驚かせるが、それは教師らしく事前に様々な可能性を検討し、実験した上で出した答なのだ。

　そしてそれを周囲の人々(生徒)に伝える時には、教師らしく生徒の学びが得られるよう配慮して、噛んで含めるように説明していく。これが僕という生徒を戸惑わせる。
(P.???)「宇宙空間には、とても、とても、とても速い水素がある。光の速度に近いくらい速い。ずっと、ずっと、ずっと昔に星から生まれた」
　(中略)
「…宇宙空間には水素原子がある。とても、とても、速い水素原子」　「とても速い水素」が出てくる。はて？と思っていると「とても速い水素原子」が出てきてなるほどと思う。いや、待てよ？これって何の事？
(P.298)「こっちはちょっと厄介だ。ＧＣＲは何の略かというと――」
「銀河宇宙線(ギャラクティック・コズミック・レイ)」と彼女(ロッケン)がいった。「でもこれは宇宙線ではない、でしょ？」
「そのとおり。ただの水素イオン―陽子だ。しかし、すさまじい速さで動いている。光速に近い速度だ」
「電磁放射でもないのに、どうして宇宙線と呼ばれているの？」
「昔は宇宙線だと考えられていた。その名残で」　ロッケン博士を生徒にした授業で「すさまじい速さで動いている水素イオン(陽子)」が出てくる。これでようやく僕の知識が追いついた。いわゆる日本語で言われる「宇宙線」の事だ。そのほとんどが陽子であり、光速に近い速度であらゆる方向から飛んでくる。僕は「陽子」と覚えているが、つまりは原子番号１の水素から電子がとれた水素イオンの事であり、それは生徒の知識にあわせて「水素原子」とか「水素」という表現で代用される。

　こういう授業のような場面が作品全般に現れる。時には主人公の頭の中でも。それが僕をいちいち立ち止まらせる。教師としての戦略にまんまとハマってしまい、納得するまではなんどでも立ち止まるので読書を進める事ができない。きっと僕は出来は悪いが生真面目な生徒なのだろう。ＳＦ本来の想像力を駆使した理論や世界は「作品の中ではそういうものなんだ」と納得してしまえばいいのだが、授業の内容はすべて現実の事象であり理屈なのだから「分かって当然。分からないはずはない」と思ってしまう。

　しかも、映画公開前に本書を絶賛する声が跡を絶たないところをみると、自分のように立ち止まらされる人は少ないようだ。もしくは、ＳＦ小説好きの読者には、たやすく理解できることばかりなのかもしれない。やはり僕にはＳＦ小説は向いていないのだろう。しかし、穿って考えると、著者の方に「科学一般の内容を分かりやすく書く」という点で工夫もしくは力量が足りていないとも言える。『フェルマーの最終定理』の著者サイモン・シンのように誰もが分かりやすい書き方を採り入れる事はできなかったのか。

　以上が本書に対する数少ない不満の一つなのだが、ここに厄介な事がある。この不満には再現性がないのだ。一度「学び」が訪れると、二度目には立ち止まらされる事はなくなっていく。という事は、あらためてもう一回読めという事だろうか。そうすれば本書の良さが際立ってくるかもしれない。<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E58D98E8A18CE69CACE8A1A8E7B49928E4B88B29.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="単行本表紙(下).jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E58D98E8A18CE69CACE8A1A8E7B49928E4B88B29-thumbnail2.jpg" width="103" height="150" onclick="location.href = 'https://elleryqueen.seesaa.net/upload/detail/image/E58D98E8A18CE69CACE8A1A8E7B49928E4B88B29-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a>　<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E58D98E8A18CE69CACE8A1A8E7B49928E4B88A29.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="単行本表紙(上).jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E58D98E8A18CE69CACE8A1A8E7B49928E4B88A29-thumbnail2.jpg" width="103" height="150" onclick="location.href = 'https://elleryqueen.seesaa.net/upload/detail/image/E58D98E8A18CE69CACE8A1A8E7B49928E4B88A29-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br /> 　いよいよ映画が公開される。いや、この書評を書き終えるまでに公開は過ぎてるからもしれないから「公開された」になるだろう。公開に先立って、SNSでは原作を絶賛する声が相次いでいる。「ぜひとも公開前に読んでおこう。それもなるべく早めに」という意見も多く見られ、読後の投稿者に対しては、くれぐれも「ネタバレ禁止」を守るようにと警告を出している人が続出している。<br /><br />　何故これほどまでに「ネタバレ禁止」が叫ばれているのか。まもなく公開される映画を見ようという映画好きからのクレームかと思えば、そうではなく、どちらかと言えば原作を読んだ人からのクレームのようだ。「こんなにも面白い小説なのにネタばらししてしまったら、これから読もうと思っている人たちの不利益になりかねない」というわけだ。ところが、話はそんなに単純なものではなく、なんと映画自体が「ネタバレ禁止」のルールを破っているのだ。いまテレビなどで放映されている予告編や、公式サイトでの惹句などを見れば重大なネタバレがあることは、原作を読んだ人には一目瞭然なのだ。<br /><br />　『プロジェクト・ヘイル・メアリー』は2021年12月に単行本が、2026年1月に文庫が出版されている。それぞれに付された内容紹介は以下のようなものだった。<br /><strong>[内容紹介(単行本)]</strong><br /><blockquote><strong>大ヒット映画「オデッセイ」のアンディ・ウィアー最新作。映画化決定！</strong><br />地球上の全生命滅亡まで三〇年……。全人類規模のプロジェクトが始動した！　世界的ベストセラー『火星の人』の著者が、遥か遠宇宙で人類存亡を賭けた不可能ミッションに挑む宇宙飛行士を描く傑作エンターテインメント。ハリウッド映画化進行中。解説／山岸真</blockquote><strong>[内容紹介(文庫)]</strong><br /><blockquote><strong>ライアン・ゴズリング主演、2026年3月公開の映画原作！</strong><br />未知の物質によって太陽に異常が発生、氷河期に突入しつつある地球。宇宙へ飛び立ったひとりの科学教師が、人類を救うミッションに挑む！　地球上の全生命滅亡まで30年、人類の命運を賭けた一大プロジェクトに挑む男の奮闘を描く、極限のエンターテインメント！</blockquote>　まずは単行本の内容紹介だが「地球上の全生命滅亡まで三十年」だという事と、人類を救うための「不可能ミッション」に宇宙飛行士が挑むという事だけで、詳細は何もあかされていない。『宇宙戦艦ヤマト』のようなストーリーを想像してもおかしくない。ミッションを遂行するのが「宇宙飛行士」というのもなんら驚くべき事ではないし、そもそも一人なのか複数なのかすら不明なのだ。<br /><br />　一方、今年の１月に出版された文庫では、やや詳細を明らかにしている。人類を滅亡させる状況が太陽の異常にあること、それを解決するミッションに挑むのが宇宙飛行士ではなく、不思議なことに「ひとりの科学教師」であるという事。この本の読みどころは、「人類の命運を賭けた一大プロジェクトに挑む」のがたったの一人であり、なんと専門家ではなく単なる学校の教師だという興味深い設定にある。ただし、それ以上の詳細は決して明かさぬようにして、ネタバレを極力避けようという出版側の苦心の跡が見られる。<br /><br />　ところが映画では出版社の配慮を一挙に飛び越えて、ある重要な事実をさもネタバレでもなんでもないかのように扱い、そこに本作品の主要テーマがあることを大々的に宣伝している。これでは日本中の読書好き、ＳＦ小説好きが怒りまくるのも無理はない。奇想天外なストーリー展開で、まだまだ隠されている事は多いとは言え、真っ当な読者であれば作品前半で最初に受ける衝撃が、このネタバレによって奪われてしまったのだ。僕自身は、映画公開が間近に迫って文庫が発売された事でブームに拍車がかかる直前に、単行本で本書を読んだ。今でも上下巻を通じて最大の衝撃はここだったと思う。ああ、そういう話だったのかと驚かされたのだ。今となってはつくづく昨年12月に読んでおいてよかったと思う。<br /><br />　さて、ここまで書いたら、あまり書く事はない。感想を細かく書けば内容に触れざるを得ない。そうなると「ネタバレ禁止」のルールに抵触するのは必然なので、あとは「面白かった」という事ぐらいしか書けないのだ。主人公である教師(小学生か中学生か、どの学齢の教師だったかは忘れた)のざっくばらんな、いかにも米国人っぽい人物が、紆余曲折を経て人類存亡の危機に挑む唯一の人間になるまでの描き方も面白かったし、そこから如何にしてミッションをやり遂げようとするか、その悪戦苦闘の描き方も面白かった。<br /><br />　著者の、あるいは翻訳の出来不出来によって、時々意味不明な言い回しが出てくるところが気になると言えば気になるが、それもご愛敬といったところか。<br /><blockquote>(P.172)　シリンダーがキラリと光るのが見えた。ゆっくりと回転しているシリンダーのたいらな両端が、ときおりタウ光を反射して光るのだ。<br />　ところで、"タウ光”という言葉はありだとぼくは思っている。タウ・セチが放つ光。これは”太陽光”ではない。タウ・セチは太陽ではない。だから……タウ光。</blockquote>　後半の文の意味が分かるだろうか。いや、意味は誰でもわかるが、意図はわかるだろうか。タウ・セチという恒星が放つ光だから「タウ光」なのは当たり前だろう。何故主人公はわざわざ「ありだと思っている」と書かねばならないのか。もしかすると前半の「タウ光を反射する」という部分は英語の定型として「太陽光」もしくは「恒星光」にあたる英語を使うのが一般的なのだろうか。原文が分からないので何とも言えない。<br /><br />　先ほど主人公は科学の教師だと書いたが、実は僕がいまひとつ本書を絶賛したいと思わない理由がそこにある。彼がいわゆる「プロジェクト・ヘイル・メアリー」に関わる事になったのも教師だったが故だし、地球からはるか遠い宇宙の星に向かうという困難なミッションをなんとか乗り切る事ができたのも、教師だった経験と知識によるものだ。それは、この作品を面白くしている核心部分である事は確かだが、同時に分かりにくくしている部分でもある。いちいち面倒なのだ。<br /><blockquote>(P.183)「そもそも遠心力が生まれるようにするには、〈ヘイル・メアリー〉と釣り合う重量を追加しなければならない」ストラットはくちびるをすぼめた。<br />　(中略)<br />「重量をプラスする必要はありません」とロッケンがいった。…「現在のデザインを採用するのなら、クルー・コンパートメントと燃料タンクとのあいだで真っ二つにすれば、遠心力を生むのに格好の質量比になります」<br />　(中略)<br />「タウ・セチに着いたときには…(略)…ロッケンさんが選んだ分離地点だと、船の後方は前方の三倍程度の重さになります。うまくいくと思いますよ」</blockquote>　宇宙船に何故「遠心力」が必要なのかについては直前に詳しく書かれているが、それを確保するための質量がどれくらいなのか、宇宙を航海している間に質量比はどうなるかなどを、主人公は考えている。その答は周囲の人々を驚かせるが、それは教師らしく事前に様々な可能性を検討し、実験した上で出した答なのだ。<br /><br />　そしてそれを周囲の人々(生徒)に伝える時には、教師らしく生徒の学びが得られるよう配慮して、噛んで含めるように説明していく。これが僕という生徒を戸惑わせる。<br /><blockquote>(P.???)「宇宙空間には、とても、とても、とても速い水素がある。光の速度に近いくらい速い。ずっと、ずっと、ずっと昔に星から生まれた」<br />　(中略)<br />「…宇宙空間には水素原子がある。とても、とても、速い水素原子」</blockquote>　「とても速い水素」が出てくる。はて？と思っていると「とても速い水素原子」が出てきてなるほどと思う。いや、待てよ？これって何の事？<br /><blockquote>(P.298)「こっちはちょっと厄介だ。ＧＣＲは何の略かというと――」<br />「銀河宇宙線(ギャラクティック・コズミック・レイ)」と彼女(ロッケン)がいった。「でもこれは宇宙線ではない、でしょ？」<br />「そのとおり。ただの水素イオン―陽子だ。しかし、すさまじい速さで動いている。光速に近い速度だ」<br />「電磁放射でもないのに、どうして宇宙線と呼ばれているの？」<br />「昔は宇宙線だと考えられていた。その名残で」</blockquote>　ロッケン博士を生徒にした授業で「すさまじい速さで動いている水素イオン(陽子)」が出てくる。これでようやく僕の知識が追いついた。いわゆる日本語で言われる「宇宙線」の事だ。そのほとんどが陽子であり、光速に近い速度であらゆる方向から飛んでくる。僕は「陽子」と覚えているが、つまりは原子番号１の水素から電子がとれた水素イオンの事であり、それは生徒の知識にあわせて「水素原子」とか「水素」という表現で代用される。<br /><br />　こういう授業のような場面が作品全般に現れる。時には主人公の頭の中でも。それが僕をいちいち立ち止まらせる。教師としての戦略にまんまとハマってしまい、納得するまではなんどでも立ち止まるので読書を進める事ができない。きっと僕は出来は悪いが生真面目な生徒なのだろう。ＳＦ本来の想像力を駆使した理論や世界は「作品の中ではそういうものなんだ」と納得してしまえばいいのだが、授業の内容はすべて現実の事象であり理屈なのだから「分かって当然。分からないはずはない」と思ってしまう。<br /><br />　しかも、映画公開前に本書を絶賛する声が跡を絶たないところをみると、自分のように立ち止まらされる人は少ないようだ。もしくは、ＳＦ小説好きの読者には、たやすく理解できることばかりなのかもしれない。やはり僕にはＳＦ小説は向いていないのだろう。しかし、穿って考えると、著者の方に「科学一般の内容を分かりやすく書く」という点で工夫もしくは力量が足りていないとも言える。『フェルマーの最終定理』の著者サイモン・シンのように誰もが分かりやすい書き方を採り入れる事はできなかったのか。<br /><br />　以上が本書に対する数少ない不満の一つなのだが、ここに厄介な事がある。この不満には再現性がないのだ。一度「学び」が訪れると、二度目には立ち止まらされる事はなくなっていく。という事は、あらためてもう一回読めという事だろうか。そうすれば本書の良さが際立ってくるかもしれない。<a name="more"></a><div class="blogmura-link"><a href="https://blogmura.com/ranking/in?p_cid=10113262" target="_blank"><img src="https://b.blogmura.com/88_31.gif" width="88" height="31" border="0" alt="ブログランキング・にほんブログ村へ" />にほんブログ村</a>
<a href="https://blogmura.com/profiles/10113262?p_cid=10113262" target="_blank"><img src="https://blogparts.blogmura.com/parts_image/user/pv10113262.gif" alt="PVアクセスランキング にほんブログ村" /></a></div>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
            <category>書評</category>
      <author>アスラン</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,elleryqueen/520246269</guid>
            <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E58D98E8A18CE69CACE8A1A8E7B49928E4B88B29.jpg" length="223803" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E58D98E8A18CE69CACE8A1A8E7B49928E4B88B29.jpg" length="223803" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E58D98E8A18CE69CACE8A1A8E7B49928E4B88A29.jpg" length="184519" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E58D98E8A18CE69CACE8A1A8E7B49928E4B88A29.jpg" length="184519" type="image/jpeg" />
                      </item>
        <item>
      <link>https://elleryqueen.seesaa.net/article/520171474.html</link>
      <title>チョコレート・ピース　青山美智子(マガジンハウス)</title>
      <pubDate>Thu, 12 Mar 2026 01:10:38 +0900</pubDate>
            <description>　青山美智子さんの小説を読むようになってから、どのくらいになるだろうか。いったい僕は何をキッカケにして青山さんの小説を読むようになったのだろう。そう自分に問いかけても、デビュー作にして代表作『木曜日にはココアを』ではなかったかとしか思いつかない。そこでブログで書評を検索してみて、一番最初に読んだのが『木曜日には…』のスピンオフ作品『月曜日の抹茶カフェ』だと知れた。この小説の書評に経緯を書いておいたのだ。　2021年の本屋大賞で第２位になった『お探し物は図書室まで』を読もうと図..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E38381E383A7E382B3E383ACE383BCE38388E383BBE38394E383BCE382B9E8A1A8E7B499.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="&#x30C1;&#x30E7;&#x30B3;&#x30EC;&#x30FC;&#x30C8;&#x30FB;&#x30D4;&#x30FC;&#x30B9;&#x8868;&#x7D19;.jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E38381E383A7E382B3E383ACE383BCE38388E383BBE38394E383BCE382B9E8A1A8E7B499-thumbnail2.jpg" width="94" height="150"></a>
　青山美智子さんの小説を読むようになってから、どのくらいになるだろうか。いったい僕は何をキッカケにして青山さんの小説を読むようになったのだろう。そう自分に問いかけても、デビュー作にして代表作『木曜日にはココアを』ではなかったかとしか思いつかない。そこでブログで書評を検索してみて、一番最初に読んだのが『木曜日には…』のスピンオフ作品『月曜日の抹茶カフェ』だと知れた。この小説の<a href="http://elleryqueen.seesaa.net/article/486211439.html" target="_blank">書評</a>に経緯を書いておいたのだ。

　2021年の本屋大賞で第２位になった『お探し物は図書室まで』を読もうと図書館で予約をした。すでに長い待ち行列が出来ていて、その間、待っているだけでは芸がないので『月曜日の抹茶カフェ』を予約して読み出した。話の筋は非常に「ありきたり」と言ってはなんだが、誰もが(もちろん僕も)普通に抱えている、家族・友人・恋人・学校生活・仕事における悩みを題材にした物語が描かれる。生や死といった重いテーマはもちろんのこと、映画のようにドラマティックな展開はほとんどない。基本的には、誰もが一度は経験していそうな悩みを抱えた主人公が「何を悩み何に傷ついているか」を、本人の一人称話者で語らせるのが青山作品のお決まりのフォーマットであり、最大の特徴だ。

　これが毎度毎度、設定や人物、肩書きなどを変えて描かれるので、読者は語り手の独白に感情移入しやすい。「これは自分だ」「自分にも覚えがある」と思いながら読む人が多いだろう。そしてまた、見知らぬ人との何気ない出会いや、身近な人のちょっとした態度をきっかけにして、主人公はつい見失っていた大切な事に気づかされる。この気づきが明日への希望となって主人公を一歩前に進ませる事になる。ささやかではあるが本人にとってはかけがえのない一歩を描いて終わるのも、青山作品に不可欠なフォーマットだ。

　青山さんが描く優しくて柔らかな世界は、常日頃から何かに躓いては何とかやりすごしてきた人たちが一息つける憩いの場に違いない。優しくて世話好きなオーナーが営むマーブル・カフェを、止まり木にする人々を、デビュー作『木曜日にはココアを』で描いているのは、まさにそういった理由からだろう。

　もちろん欠点もある。本書も含めて、デビュー作から変わらぬお約束のフォーマットに従って作品が紡がれていくので、マンネリと取られかねない。いろいろと手を変え品を変えて本全体を貫くコンセプトに工夫を凝らしてはいるが、予定調和的に主人公には心地よい「気づき」が訪れる。そんなのご都合主義だろうという声も聞こえてきそうだ。

　僕はと言えば、昭和の頃のテレビの時代劇のように「マンネリ」のもつ力強さを知っている。マンネリこそ最強なのだ。それに飽きさせない手際が著者にはある。特に一つ一つの物語の主人公は年齢も性別も職業も違うけれど、本一冊を読み終わる頃には見事な相関図が出来上がる。その相関図を思い浮かべながら、もう一回読んでみたいという気持ちがわき上がってくる。最初は一つのエピソード、一人の主人公に惹かれたのに、最後になると、彼らの物語を紡ぎ出した世界そのものが愛おしくなってくるのだ。

　ただ、僕がいつもちょっとだけ気になるのは、話者である主人公の独白は年齢や性別や職業に依存する事なく、いつでも同じに感じられる点だ。明らかに老いを抱えた女性の口調がお婆さんじみていなかったり、十代くらいの少年・少女が主人公の口調が大人じみていたりする。つまりは、いつでも話者は著者自身なのだ。僕自身は男性なので、青山作品に登場する男性の主人公が独白する口調は、いつでもどこか優しく柔らかすぎる。欠点とまでは言わないが、毎回新しい本を読む度に、作品に没入できるようになるまでのちょっとした勾配を感じると言えばいいか。

　本書は、チョコレート・ピースという名前のとおり、箱詰めされた12個のチョコレートから一つ一つを取りだしては、それにふさわしいエピソードを描いていくという趣向だ。高校生の男女が文化祭でチョコバナナを作っては売る「チョコバナナ・コラボレーション」や、友人が新婚旅行のお土産に、定番のマカデミアナッツチョコを買ってきた「マカデミアナッツチョコ・スーベニア」、翌朝の会議に使う資料が難航している残業の夜に、外回りから帰ってきた同期の男性と何気ない会話をする「キットカット・オーバータイム」などなど。チョコレートの香りと甘さが登場人物たちにまとわりつき、魔法のような瞬間が訪れる。

　その他、本書には非常に凝った趣向が隠されていて、青山作品の中でもとりわけトリッキーな作品である(これまで書いてきた文章の中にヒントが隠されているのだが、気づく人はそうそういないだろう)。さらに、第１章Box１がPiece1～Peice12という構成で作品として完結しているのに、Shot1～Shot12から構成された第２章Box2が追加されているのも、なかなかよく出来ている(Shotはスナップ写真の事だろう)。当然ながらもう一度読み返したいがタイムアウト。文庫になるのはいつの事だろう。買っちゃいそうだ。<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E38381E383A7E382B3E383ACE383BCE38388E383BBE38394E383BCE382B9E8A1A8E7B499.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="チョコレート・ピース表紙.jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E38381E383A7E382B3E383ACE383BCE38388E383BBE38394E383BCE382B9E8A1A8E7B499-thumbnail2.jpg" width="94" height="150" onclick="location.href = 'https://elleryqueen.seesaa.net/upload/detail/image/E38381E383A7E382B3E383ACE383BCE38388E383BBE38394E383BCE382B9E8A1A8E7B499-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br />　青山美智子さんの小説を読むようになってから、どのくらいになるだろうか。いったい僕は何をキッカケにして青山さんの小説を読むようになったのだろう。そう自分に問いかけても、デビュー作にして代表作『木曜日にはココアを』ではなかったかとしか思いつかない。そこでブログで書評を検索してみて、一番最初に読んだのが『木曜日には…』のスピンオフ作品『月曜日の抹茶カフェ』だと知れた。この小説の<a href="http://elleryqueen.seesaa.net/article/486211439.html" target="_blank">書評</a>に経緯を書いておいたのだ。<br /><br />　2021年の本屋大賞で第２位になった『お探し物は図書室まで』を読もうと図書館で予約をした。すでに長い待ち行列が出来ていて、その間、待っているだけでは芸がないので『月曜日の抹茶カフェ』を予約して読み出した。話の筋は非常に「ありきたり」と言ってはなんだが、誰もが(もちろん僕も)普通に抱えている、家族・友人・恋人・学校生活・仕事における悩みを題材にした物語が描かれる。生や死といった重いテーマはもちろんのこと、映画のようにドラマティックな展開はほとんどない。基本的には、誰もが一度は経験していそうな悩みを抱えた主人公が「何を悩み何に傷ついているか」を、本人の一人称話者で語らせるのが青山作品のお決まりのフォーマットであり、最大の特徴だ。<br /><br />　これが毎度毎度、設定や人物、肩書きなどを変えて描かれるので、読者は語り手の独白に感情移入しやすい。「これは自分だ」「自分にも覚えがある」と思いながら読む人が多いだろう。そしてまた、見知らぬ人との何気ない出会いや、身近な人のちょっとした態度をきっかけにして、主人公はつい見失っていた大切な事に気づかされる。この気づきが明日への希望となって主人公を一歩前に進ませる事になる。ささやかではあるが本人にとってはかけがえのない一歩を描いて終わるのも、青山作品に不可欠なフォーマットだ。<br /><br />　青山さんが描く優しくて柔らかな世界は、常日頃から何かに躓いては何とかやりすごしてきた人たちが一息つける憩いの場に違いない。優しくて世話好きなオーナーが営むマーブル・カフェを、止まり木にする人々を、デビュー作『木曜日にはココアを』で描いているのは、まさにそういった理由からだろう。<br /><br />　もちろん欠点もある。本書も含めて、デビュー作から変わらぬお約束のフォーマットに従って作品が紡がれていくので、マンネリと取られかねない。いろいろと手を変え品を変えて本全体を貫くコンセプトに工夫を凝らしてはいるが、予定調和的に主人公には心地よい「気づき」が訪れる。そんなのご都合主義だろうという声も聞こえてきそうだ。<br /><br />　僕はと言えば、昭和の頃のテレビの時代劇のように「マンネリ」のもつ力強さを知っている。マンネリこそ最強なのだ。それに飽きさせない手際が著者にはある。特に一つ一つの物語の主人公は年齢も性別も職業も違うけれど、本一冊を読み終わる頃には見事な相関図が出来上がる。その相関図を思い浮かべながら、もう一回読んでみたいという気持ちがわき上がってくる。最初は一つのエピソード、一人の主人公に惹かれたのに、最後になると、彼らの物語を紡ぎ出した世界そのものが愛おしくなってくるのだ。<br /><br />　ただ、僕がいつもちょっとだけ気になるのは、話者である主人公の独白は年齢や性別や職業に依存する事なく、いつでも同じに感じられる点だ。明らかに老いを抱えた女性の口調がお婆さんじみていなかったり、十代くらいの少年・少女が主人公の口調が大人じみていたりする。つまりは、いつでも話者は著者自身なのだ。僕自身は男性なので、青山作品に登場する男性の主人公が独白する口調は、いつでもどこか優しく柔らかすぎる。欠点とまでは言わないが、毎回新しい本を読む度に、作品に没入できるようになるまでのちょっとした勾配を感じると言えばいいか。<br /><br />　本書は、チョコレート・ピースという名前のとおり、箱詰めされた12個のチョコレートから一つ一つを取りだしては、それにふさわしいエピソードを描いていくという趣向だ。高校生の男女が文化祭でチョコバナナを作っては売る「チョコバナナ・コラボレーション」や、友人が新婚旅行のお土産に、定番のマカデミアナッツチョコを買ってきた「マカデミアナッツチョコ・スーベニア」、翌朝の会議に使う資料が難航している残業の夜に、外回りから帰ってきた同期の男性と何気ない会話をする「キットカット・オーバータイム」などなど。チョコレートの香りと甘さが登場人物たちにまとわりつき、魔法のような瞬間が訪れる。<br /><br />　その他、本書には非常に凝った趣向が隠されていて、青山作品の中でもとりわけトリッキーな作品である(これまで書いてきた文章の中にヒントが隠されているのだが、気づく人はそうそういないだろう)。さらに、第１章Box１がPiece1～Peice12という構成で作品として完結しているのに、Shot1～Shot12から構成された第２章Box2が追加されているのも、なかなかよく出来ている(Shotはスナップ写真の事だろう)。当然ながらもう一度読み返したいがタイムアウト。文庫になるのはいつの事だろう。買っちゃいそうだ。<a name="more"></a><div class="blogmura-link"><a href="https://blogmura.com/ranking/in?p_cid=10113262" target="_blank"><img src="https://b.blogmura.com/88_31.gif" width="88" height="31" border="0" alt="ブログランキング・にほんブログ村へ" />にほんブログ村</a>
<a href="https://blogmura.com/profiles/10113262?p_cid=10113262" target="_blank"><img src="https://blogparts.blogmura.com/parts_image/user/pv10113262.gif" alt="PVアクセスランキング にほんブログ村" /></a></div>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
            <category>書評</category>
      <author>アスラン</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,elleryqueen/520171474</guid>
            <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E38381E383A7E382B3E383ACE383BCE38388E383BBE38394E383BCE382B9E8A1A8E7B499.jpg" length="123017" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E38381E383A7E382B3E383ACE383BCE38388E383BBE38394E383BCE382B9E8A1A8E7B499.jpg" length="123017" type="image/jpeg" />
                      </item>
        <item>
      <link>https://elleryqueen.seesaa.net/article/520141158.html</link>
      <title>英米文学のわからない言葉　金原 瑞人(左右社)</title>
      <pubDate>Sat, 07 Mar 2026 23:45:48 +0900</pubDate>
            <description>　エラリー・クイーンやダン・ブラウンの著書の翻訳で名高い翻訳家・越前敏弥さんが「自分もまさにやりたいと思っていた」という内容のエッセイ。著者は同じく翻訳家の金原瑞人さん。名前はずいぶん前からちょくちょく見かけるし、翻訳書のガイドブックなどの共著者として書店でもよく見かける。ただ、残念ながら明らかに金原瑞人訳という翻訳本を読んだ記憶はない。　サマセット・モームなどの文学的な作品から、ＹＡ小説、児童書、絵本に至るまで多岐にわたる翻訳を請け負ってきた、ベテラン翻訳家という印象があっ..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E88BB1E7B1B3E69687E5ADA6E381AEE3828FE3818BE38289E381AAE38184E8A880E89189_E8A1A8E7B499.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="&#x82F1;&#x7C73;&#x6587;&#x5B66;&#x306E;&#x308F;&#x304B;&#x3089;&#x306A;&#x3044;&#x8A00;&#x8449;_&#x8868;&#x7D19;.jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E88BB1E7B1B3E69687E5ADA6E381AEE3828FE3818BE38289E381AAE38184E8A880E89189_E8A1A8E7B499-thumbnail2.jpg" width="102" height="150"></a>
　エラリー・クイーンやダン・ブラウンの著書の翻訳で名高い翻訳家・越前敏弥さんが「自分もまさにやりたいと思っていた」という内容のエッセイ。著者は同じく翻訳家の金原瑞人さん。名前はずいぶん前からちょくちょく見かけるし、翻訳書のガイドブックなどの共著者として書店でもよく見かける。ただ、残念ながら明らかに金原瑞人訳という翻訳本を読んだ記憶はない。

　サマセット・モームなどの文学的な作品から、ＹＡ小説、児童書、絵本に至るまで多岐にわたる翻訳を請け負ってきた、ベテラン翻訳家という印象があった。ちなみにモームは『月と六ペンス』を半世紀前に読んだ記憶がある。当然ながら金原訳ではなく、中野好夫訳で読んだのだろう。Wikipediaで金原さんが翻訳した小説の一覧をざっと眺めても、どれもこれも読んでない本ばかりだ。一言で言うと僕の関心が向かないジャンルが多いという事だろう。

　書評なのにだいぶ失礼な事から書き出しているが、実はこの本を読み出してまもなく躓きそうになった事を言っておきたいからだ。著者は夏目漱石を取り上げているので「おぉ」と感心していると、中学のころから苦手で大人になってから読み直しても「やっぱりつまらなかった」という衝撃的な事を書いている。それでも『夢十夜』『草枕』『薤露行』は胸落ちしたらしい。とりわけ『薤露行』が気に入って「こんな翻訳みたいな中編を(漱石が)書くはずがない」と驚いたらしい。なるほど、英文学を志して翻訳家に行きついた人って、やっぱり成るべくして成ったという事なんだなと思った。

　『薤露行』は「アーサー王伝説」に登場する騎士ランスロットを題材にした中編で、まだ漱石がプロの小説家になる前の東京帝大講師時代の作品だ。漱石自身も英文学を専門としたが、漱石の時代の知識人は漢文の素養もあり、俳句をたしなむ人が多かったので、この『薤露行』の面白さも、英文学固有の幻想小説(ファンタジー)を美文調で書いたところにある。「アーサー王伝説」なんて僕は漱石で知ったくらいで、なによりも漱石の美文の名調子に惹かれ、そこに込められた作者・漱石の内面に引きつけられたと言っていい。言ってしまえば、金原さんが「つまらない」と一刀両断したものを、僕は「面白い」と感じたのだ。

　漱石に対する意見の相違で「こりゃ、ダメかも」と思いながら読み進めていくうちに、著者のざっくばらんな調子で書かれた文章に次第に慣れてきた。実は、日本人には容易に理解しがたい言葉について、専門家として理路整然と「こういうもの(こと)だ」という説明がキチッと書かれているのかと思っていたのだが、著者自身がわからない言葉に遭遇して、わからないなりに「たぶん、こういうことなんだろう」と推理していく過程が書かれている事が多い。これが滅法おもしろい。著者も「(翻訳者として)困った」ではなく「(一読者として)面白い」と感じながら、わからない言葉を楽しんでいる。これはそういう本だ。

　いくつか気になった言葉を拾ってみよう。例えばscone、muffin、buscuitといったお菓子。「スコーン」「マフィン」「ビスケット」と訳せれば楽でいいが、今では日本人でも少なからず「そうはいかない」事に気づいている。これらは英国と米国とで違っている事が多いからだ。特に最近では「ビスケット」と言えば、ケンタッキーフライドチキンで提供されるビスケットを想起する人が多いと思う。従来から日本人が知っているビスケットと全く違う事に、最初のうちは驚いた。著者も僕もその一人だ。これは英米の違いからくるものだ。そう言えば、本書には書かれていないが、ビスケットかクッキーかの定義も英国のビスケットとクッキーを元にして考えられている。日本では独自の定義があって、この二つは基本的に同じものだが「糖分と脂肪分の合計が全体の40%以上を占めるものはクッキー」という業界独自の基準が設けられている。

　建築用語も混乱の元となる。ベランダとバルコニーの違いについて本書で触れていたが、僕はかつてディクスン・カー『髑髏城』の本文で出てきたベランダがどの部分を指すのか、ポーチとは違うのかについて<a href="http://elleryqueen.seesaa.net/article/502309072.html" target="_blank">ずいぶん悩まされた</a>ので、興味深かった。アルコーヴについてもまっさきに取り上げられていたが、こちらも確かカーの『絞首台の謎』で考えた事があった。
　他に「フランス窓」が取り上げられていた。これまでは何気なくやり過ごしてきたが、まあ、洋館が出てくるとフランス窓もセットで登場する印象だ。だが、こと日本の住宅では「フランス窓」があると聞いた事がない。でも言わないだけで、現在の日本の住宅にも「フランス窓」は確実にありそうなのだ。広辞苑では「テラス・バルコニーなどに面して、下端が床と同じ高さの両開きのガラス窓」とある。自分の住まいを含め、一般的な西洋建築の住宅ではサッシュが使われる事が多いが、高級な住宅では「フランス窓」が設えてあってもおかしくない。
　一方、著者は独自の目線で辞書の語義に異議を唱える。広辞苑以外の日国、新明解では「両開き」ではなく「観音開き」が使われている。さらにfrench windowで英和辞典を引くと、リーダーズ、ランダムハウス、ジーニアスなどが「観音開き」と書かれている。その事に著者は引っかかる。今どき、観音開きは使わないだろうというわけだ。翻訳者ならではのきめ細かい指摘だ。

　プディングは日本でいうプリンではない。全然違う。そんなことを最初に知ったのは、やはりシャーロック・ホームズの短篇とかクリスティのミステリとかではなかっただろうか。なにしろデザートではなく食事として出されるのだから。でも、はたしてどんな見た目でどんな味なのかは、いまだに謎だ。本書ではいろいろあるプディングを説明してくれる。ヨークシャー・プディングは、ローストビーフのつけあわせで出てくるプディングで、甘くはない。肉汁に浸して食べると美味しいと西洋人は言うのだが、著者は「あんなもの食べる余裕があったら、ローストビーフをもうひと切れ食べたい」と手厳しい。フランス人に言ったら寿司と刺身との関係と同じじゃないか、シャリあってこその寿司だろうと逆襲されたらしい。どっちもどっちって感じだけれど、面白い。

　ペチカは、僕らの年代には童謡の「雪の降る夜は たのしいペチカ　ペチカ燃えろよ お話しましょ」でおなじみだが、もちろん見た事はなかった。なんとなく、ロシアでは暖炉の事をペチカというのだろうと思っていた。あながち間違いではないが、暖炉ではなく暖房装置だった。かまどの煙を煙道に逃がす事で建物内部を暖める仕組みだそうで、今で言うところの床暖房みたいなものだ。
　和英辞典の多くはa Russian stove(ロシア風の暖炉)としているが、研究社新和英大辞典ではa Manchurian stove(満州風の暖炉)となっている。著者もこれには驚いたらしい。日本国語大辞典では「ペチカ」の初出として童謡・ペチカ(1925年)の１フレーズが引用されている事から、著者は北原白秋が作った「ペチカ」誕生の経緯を推理していく。著者の名探偵ぶりはなかなかなもので、本書のクライマックスにふさわしい。

　大トリに控えているのは「羊皮紙」だ。何故、羊をつけてしまったのかと著者は嘆く。単に「皮紙」でよかったのではないかと。著者の師匠にあたる先生に「『この羊皮紙は子牛の皮でできている』となってしまう。どうすればいいかなぁ」と相談されたという話は、ユーモアをまじえながらも師匠と弟子との繋がりが見えてくる、いいエピソードだ。
　そこから著者は、羊皮紙の誕生と衰退を紐解いていく。言葉を生み出し後世に残していく事を生業としている人々と、そこからなにがしかの恩恵を受けたいと思っている人々にとっては一つの重要な道具であり文化であり歴史や思想でもあった羊皮紙が、役目を終えて消えていった事の意味を著者は考えようとしている。パピルスが羊皮紙に取って代わられ、さらに羊皮紙が紙に取って代わられた時代を経て、その紙がデジタル情報に取って代わられようとしている。まさに誕生と衰退の現場に僕らは立ち会おうとしているのだ。それがどのような結末をもたらすのか、渦中にいる僕らには永遠にわからない。

　漱石の件で躓きかけた本書だが、最後にはある種の感慨をもたらしてくれた。面白くて、最後には紙の書籍に愛着をもつ人たちの心をグッとつかむような、いいエッセイだった。
　最後の最後に、本書で採り上げた言葉を体感したい読者のために、著者自身が翻訳した本から選りすぐって解説している。編集部からの依頼に応えた内容なのだが、今さら訳者が解説しても面白くないだろうからと、翻訳した際のエピソードを紹介している。これが僕を含む読書好きの琴線に触れる。またまた読みたい本が増えてしまった。僕が次に読もうと思ったのは、以下の３冊だ。
デ・ラ・メア ショートセレクション　運命の時計 (金原瑞人訳)
サウスポー　ジュディス・ヴォースト (金原瑞人訳)
羊皮紙の世界－薄皮が秘める分厚い歴史と物語(*)　八木健治　(*)最後の本は巻末での紹介ではなく、羊皮紙の項で参考文献として挙げられていた『羊皮紙のすべて』の著者が書いた別の本である。<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E88BB1E7B1B3E69687E5ADA6E381AEE3828FE3818BE38289E381AAE38184E8A880E89189_E8A1A8E7B499.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="英米文学のわからない言葉_表紙.jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E88BB1E7B1B3E69687E5ADA6E381AEE3828FE3818BE38289E381AAE38184E8A880E89189_E8A1A8E7B499-thumbnail2.jpg" width="102" height="150" onclick="location.href = 'https://elleryqueen.seesaa.net/upload/detail/image/E88BB1E7B1B3E69687E5ADA6E381AEE3828FE3818BE38289E381AAE38184E8A880E89189_E8A1A8E7B499-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br />　エラリー・クイーンやダン・ブラウンの著書の翻訳で名高い翻訳家・越前敏弥さんが「自分もまさにやりたいと思っていた」という内容のエッセイ。著者は同じく翻訳家の金原瑞人さん。名前はずいぶん前からちょくちょく見かけるし、翻訳書のガイドブックなどの共著者として書店でもよく見かける。ただ、残念ながら明らかに金原瑞人訳という翻訳本を読んだ記憶はない。<br /><br />　サマセット・モームなどの文学的な作品から、ＹＡ小説、児童書、絵本に至るまで多岐にわたる翻訳を請け負ってきた、ベテラン翻訳家という印象があった。ちなみにモームは『月と六ペンス』を半世紀前に読んだ記憶がある。当然ながら金原訳ではなく、中野好夫訳で読んだのだろう。Wikipediaで金原さんが翻訳した小説の一覧をざっと眺めても、どれもこれも読んでない本ばかりだ。一言で言うと僕の関心が向かないジャンルが多いという事だろう。<br /><br />　書評なのにだいぶ失礼な事から書き出しているが、実はこの本を読み出してまもなく躓きそうになった事を言っておきたいからだ。著者は夏目漱石を取り上げているので「おぉ」と感心していると、中学のころから苦手で大人になってから読み直しても「やっぱりつまらなかった」という衝撃的な事を書いている。それでも『夢十夜』『草枕』『薤露行』は胸落ちしたらしい。とりわけ『薤露行』が気に入って「こんな翻訳みたいな中編を(漱石が)書くはずがない」と驚いたらしい。なるほど、英文学を志して翻訳家に行きついた人って、やっぱり成るべくして成ったという事なんだなと思った。<br /><br />　『薤露行』は「アーサー王伝説」に登場する騎士ランスロットを題材にした中編で、まだ漱石がプロの小説家になる前の東京帝大講師時代の作品だ。漱石自身も英文学を専門としたが、漱石の時代の知識人は漢文の素養もあり、俳句をたしなむ人が多かったので、この『薤露行』の面白さも、英文学固有の幻想小説(ファンタジー)を美文調で書いたところにある。「アーサー王伝説」なんて僕は漱石で知ったくらいで、なによりも漱石の美文の名調子に惹かれ、そこに込められた作者・漱石の内面に引きつけられたと言っていい。言ってしまえば、金原さんが「つまらない」と一刀両断したものを、僕は「面白い」と感じたのだ。<br /><br />　漱石に対する意見の相違で「こりゃ、ダメかも」と思いながら読み進めていくうちに、著者のざっくばらんな調子で書かれた文章に次第に慣れてきた。実は、日本人には容易に理解しがたい言葉について、専門家として理路整然と「こういうもの(こと)だ」という説明がキチッと書かれているのかと思っていたのだが、著者自身がわからない言葉に遭遇して、わからないなりに「たぶん、こういうことなんだろう」と推理していく過程が書かれている事が多い。これが滅法おもしろい。著者も「(翻訳者として)困った」ではなく「(一読者として)面白い」と感じながら、わからない言葉を楽しんでいる。これはそういう本だ。<br /><br />　いくつか気になった言葉を拾ってみよう。例えばscone、muffin、buscuitといったお菓子。「スコーン」「マフィン」「ビスケット」と訳せれば楽でいいが、今では日本人でも少なからず「そうはいかない」事に気づいている。これらは英国と米国とで違っている事が多いからだ。特に最近では「ビスケット」と言えば、ケンタッキーフライドチキンで提供されるビスケットを想起する人が多いと思う。従来から日本人が知っているビスケットと全く違う事に、最初のうちは驚いた。著者も僕もその一人だ。これは英米の違いからくるものだ。そう言えば、本書には書かれていないが、ビスケットかクッキーかの定義も英国のビスケットとクッキーを元にして考えられている。日本では独自の定義があって、この二つは基本的に同じものだが「糖分と脂肪分の合計が全体の40%以上を占めるものはクッキー」という業界独自の基準が設けられている。<br /><br />　建築用語も混乱の元となる。ベランダとバルコニーの違いについて本書で触れていたが、僕はかつてディクスン・カー『髑髏城』の本文で出てきたベランダがどの部分を指すのか、ポーチとは違うのかについて<a href="http://elleryqueen.seesaa.net/article/502309072.html" target="_blank">ずいぶん悩まされた</a>ので、興味深かった。アルコーヴについてもまっさきに取り上げられていたが、こちらも確かカーの『絞首台の謎』で考えた事があった。<br />　他に「フランス窓」が取り上げられていた。これまでは何気なくやり過ごしてきたが、まあ、洋館が出てくるとフランス窓もセットで登場する印象だ。だが、こと日本の住宅では「フランス窓」があると聞いた事がない。でも言わないだけで、現在の日本の住宅にも「フランス窓」は確実にありそうなのだ。広辞苑では「テラス・バルコニーなどに面して、下端が床と同じ高さの両開きのガラス窓」とある。自分の住まいを含め、一般的な西洋建築の住宅ではサッシュが使われる事が多いが、高級な住宅では「フランス窓」が設えてあってもおかしくない。<br />　一方、著者は独自の目線で辞書の語義に異議を唱える。広辞苑以外の日国、新明解では「両開き」ではなく「観音開き」が使われている。さらにfrench windowで英和辞典を引くと、リーダーズ、ランダムハウス、ジーニアスなどが「観音開き」と書かれている。その事に著者は引っかかる。今どき、観音開きは使わないだろうというわけだ。翻訳者ならではのきめ細かい指摘だ。<br /><br />　プディングは日本でいうプリンではない。全然違う。そんなことを最初に知ったのは、やはりシャーロック・ホームズの短篇とかクリスティのミステリとかではなかっただろうか。なにしろデザートではなく食事として出されるのだから。でも、はたしてどんな見た目でどんな味なのかは、いまだに謎だ。本書ではいろいろあるプディングを説明してくれる。ヨークシャー・プディングは、ローストビーフのつけあわせで出てくるプディングで、甘くはない。肉汁に浸して食べると美味しいと西洋人は言うのだが、著者は「あんなもの食べる余裕があったら、ローストビーフをもうひと切れ食べたい」と手厳しい。フランス人に言ったら寿司と刺身との関係と同じじゃないか、シャリあってこその寿司だろうと逆襲されたらしい。どっちもどっちって感じだけれど、面白い。<br /><br />　ペチカは、僕らの年代には童謡の「雪の降る夜は たのしいペチカ　ペチカ燃えろよ お話しましょ」でおなじみだが、もちろん見た事はなかった。なんとなく、ロシアでは暖炉の事をペチカというのだろうと思っていた。あながち間違いではないが、暖炉ではなく暖房装置だった。かまどの煙を煙道に逃がす事で建物内部を暖める仕組みだそうで、今で言うところの床暖房みたいなものだ。<br />　和英辞典の多くはa Russian stove(ロシア風の暖炉)としているが、研究社新和英大辞典ではa Manchurian stove(満州風の暖炉)となっている。著者もこれには驚いたらしい。日本国語大辞典では「ペチカ」の初出として童謡・ペチカ(1925年)の１フレーズが引用されている事から、著者は北原白秋が作った「ペチカ」誕生の経緯を推理していく。著者の名探偵ぶりはなかなかなもので、本書のクライマックスにふさわしい。<br /><br />　大トリに控えているのは「羊皮紙」だ。何故、羊をつけてしまったのかと著者は嘆く。単に「皮紙」でよかったのではないかと。著者の師匠にあたる先生に「『この羊皮紙は子牛の皮でできている』となってしまう。どうすればいいかなぁ」と相談されたという話は、ユーモアをまじえながらも師匠と弟子との繋がりが見えてくる、いいエピソードだ。<br />　そこから著者は、羊皮紙の誕生と衰退を紐解いていく。言葉を生み出し後世に残していく事を生業としている人々と、そこからなにがしかの恩恵を受けたいと思っている人々にとっては一つの重要な道具であり文化であり歴史や思想でもあった羊皮紙が、役目を終えて消えていった事の意味を著者は考えようとしている。パピルスが羊皮紙に取って代わられ、さらに羊皮紙が紙に取って代わられた時代を経て、その紙がデジタル情報に取って代わられようとしている。まさに誕生と衰退の現場に僕らは立ち会おうとしているのだ。それがどのような結末をもたらすのか、渦中にいる僕らには永遠にわからない。<br /><br />　漱石の件で躓きかけた本書だが、最後にはある種の感慨をもたらしてくれた。面白くて、最後には紙の書籍に愛着をもつ人たちの心をグッとつかむような、いいエッセイだった。<br />　最後の最後に、本書で採り上げた言葉を体感したい読者のために、著者自身が翻訳した本から選りすぐって解説している。編集部からの依頼に応えた内容なのだが、今さら訳者が解説しても面白くないだろうからと、翻訳した際のエピソードを紹介している。これが僕を含む読書好きの琴線に触れる。またまた読みたい本が増えてしまった。僕が次に読もうと思ったのは、以下の３冊だ。<br /><blockquote>デ・ラ・メア ショートセレクション　運命の時計 (金原瑞人訳)<br />サウスポー　ジュディス・ヴォースト (金原瑞人訳)<br />羊皮紙の世界－薄皮が秘める分厚い歴史と物語(*)　八木健治</blockquote>　(*)最後の本は巻末での紹介ではなく、羊皮紙の項で参考文献として挙げられていた『羊皮紙のすべて』の著者が書いた別の本である。<a name="more"></a><div class="blogmura-link"><a href="https://blogmura.com/ranking/in?p_cid=10113262" target="_blank"><img src="https://b.blogmura.com/88_31.gif" width="88" height="31" border="0" alt="ブログランキング・にほんブログ村へ" />にほんブログ村</a>
<a href="https://blogmura.com/profiles/10113262?p_cid=10113262" target="_blank"><img src="https://blogparts.blogmura.com/parts_image/user/pv10113262.gif" alt="PVアクセスランキング にほんブログ村" /></a></div>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
            <category>書評</category>
      <author>アスラン</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,elleryqueen/520141158</guid>
            <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E88BB1E7B1B3E69687E5ADA6E381AEE3828FE3818BE38289E381AAE38184E8A880E89189_E8A1A8E7B499.jpg" length="173339" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E88BB1E7B1B3E69687E5ADA6E381AEE3828FE3818BE38289E381AAE38184E8A880E89189_E8A1A8E7B499.jpg" length="173339" type="image/jpeg" />
                      </item>
        <item>
      <link>https://elleryqueen.seesaa.net/article/520099187.html</link>
      <title>『そして誰もいなくなった』新訳と改訳との違い(その3)</title>
      <pubDate>Wed, 04 Mar 2026 01:50:29 +0900</pubDate>
            <description>　　いよいよ週明けの2026年3月2日にアガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった〔改訳新版〕』が早川書房のクリスティー文庫から出版される(註: 本記事を書き出したのが前日の3月1日)。またもや、一つ前の記事と同じことを書いている。ところが、3月1日(日)に神保町まで行くことができて東京堂書店に入ったら、なんとフライングで出てるじゃないか！　改訳新版の平積みが目に入って、一も二もなくレジに持っていった。帰りの中央線の車内で、坐りながら手にとってみる。前回の(その2)で、書..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/CIMG0731.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="CIMG0731.JPG" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/CIMG0731-thumbnail2.JPG" width="112" height="150"></a>　<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/CIMG0732.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="CIMG0732.JPG" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/CIMG0732-thumbnail2.JPG" width="121" height="150"></a>
　いよいよ週明けの2026年3月2日にアガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった〔改訳新版〕』が早川書房のクリスティー文庫から出版される(註: 本記事を書き出したのが前日の3月1日)。またもや、一つ前の記事と同じことを書いている。ところが、3月1日(日)に神保町まで行くことができて東京堂書店に入ったら、なんとフライングで出てるじゃないか！　改訳新版の平積みが目に入って、一も二もなくレジに持っていった。帰りの中央線の車内で、坐りながら手にとってみる。前回の(その2)で、書く事は書き尽くしたと思ったので、あとは現物を読むだけと思っていた。今回の「改訳新版」の底本はなんと書かれているかなと巻末の頁をめくると「本書の底本にはHarperCollins社のハードカバー版を使用しています。」と書かれていた。いやぁ、そうきたかぁ。

　(その2)の結論としては「HarperCollins社のハードカバー2015年版を使用しています。」と書かれると思っていた。しかし、よくよく考えれば、すでに改訳作業は2025年に出版された「特装版」で行われ、今回の「改訳新版」の本文は特装版とまったく同じだと公表されている。だったら、いわゆる特装版を制作するにあたって装幀を含めた底本があるはずで、それがHarperCollins社のハードカバー版なのは当然だ。問題はハードカバー版の原文が、それ以前の何を底本としたのかという点である。しかし、特装版は装幀も特別仕立てで、函付きの豪華本となっている。立川図書館では蔵書にならなかったから、翻訳の底本として何と書かれていたかも確認できない。(その2)で終わったと思ったが、今度は原書(特にHarperCollins社)の版(Edition)の変遷を確認しなければいけないようだ。だが、その前にHarperCollins社とはどのような出版社なのかをひもとく必要がある。

[HaperCollins社について]
　HarperCollins社は英国ロンドンにある出版社だが、そもそも英国で『And Then There Were None』というタイトルで出版されるようになったのは高々40年前の事だ。そこらへんの経緯は(その2)でも次のように書いた。
アガサ・クリスティー『そして誰もいなくなった』は1939年に英国で「Ten Little Niggers」という題名で出版された。翌1940年に米国で『And Then There Were None』というタイトルで出版された。その後、1964年に米版では差別用語のNiggerを本文からも一掃し、NiggerからIndianに差し替えた。さらにIndianに差し替えた改編にもクレームが付き、西暦の記載はないがSoldiersに差し替える改編があった。　米国の変遷は書いたが、本国イギリスでは、初版(1939年)以降もずっと「Ten Little Niggers」というタイトルを使い続けた。「And Then There Were None」というタイトルでの出版は1985年で、イギリスのFontanaが初版をだしている。調べると、FontanaはWilliam Collins, Sons & Co Ltd(通称Collins)の社内ブランドだそうだ。その後Collinsは1990年に米国の出版社と合併し、現在のHarperCollins社になった。

　1984年Fontana版では、童謡や島の名前にNigger、Indian、Soldierのいずれが使われていたのかは調べきれなかった。そもそもNiggerやIndianを差別用語として排除したのは米国の国内事情によるもので、イギリスでは関心が薄かったと考えられる。1940年に米国で出版された際のタイトル「And Then There Were None」を英国でも採用するに当たって、本文のNiggerはSoldierにいきなり変更されたのかもしれない。よって、英国では1984年Fontana版は置いておくとして、1985年から今に至るまでのHaperCollins社版では、童謡や島の名前にはSoldier(兵隊)が使われてきたと思われる。

　そこでインターネットでいろいろと調べたところ、以下の版(Edition)の「And Then There Were None」が確認できた。
(a)HarperCollins社ペーパーバック版(2007年)
(b)HarperCollins社ペーパーバック版(2011年)
(c)HarperCollins社ペーパーバック版(2014年)
(d)HarperCollins社ペーパーバック版(2015年)
(e)HarperCollins社ハードカバー版(2024年)　これらについて詳細に見ていこう。

(a)HarperCollins社ペーパーバック版(2007年)
<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928HarperCoins2015_200729.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="&#x8868;&#x7D19;(HarperCoins2015_2007).JPG" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928HarperCoins2015_200729-thumbnail2.JPG" width="93" height="150"></a>
　扉の奥付(colophon)には、Agatha Christie Signature Editionと書かれている。表紙の作者名がクリスティー直筆の署名になっている版という事だ。2010年に日本で出版された「新訳版(青木久惠訳)」の巻末には「HarperCollins社のペーパバック版」を底本にしたと書かれているので、時期的には、この2007年版が底本ではないかと思われる。童謡や島の名前にはSoldier(兵隊)が使われている。

(b)HarperCollins社ペーパーバック版(2011年)
　HarperColllins社のサイトで検索すると2011年に出版されたペーパーバック版が2冊出てくる。どうやらペーパーバックには、Trade Paperback(大きめ・書店向け)とMass Market Paperback(小型・廉価版)という2種類のフォーマットがあり、米国では複数フォーマットを同時発売するのが一般的なのだそうだ。以下の2冊は紙質・サイズ・装丁は異なるが、本文は同一である。本文の手がかりとしては、検索結果の画像の下に「Read a sample(試し読み)」のURLリンクがある。ただし、これについては注意が必要。リンクをたどると、(c)ペーパーバック版(2014年)の表紙が出てくるので、実際の本文とは異なるかもしれない。推測だが、特に何かを記念して出版されたわけでもなさそうなので(a)ペーパーバック版(2007年)と同一なのではないだろうか。

1.Trade Paperback(通常サイズのペーパーバック)版
<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928HarperCoins20110118_TradePaperback29.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="&#x8868;&#x7D19;(HarperCoins20110118_TradePaperback).JPG" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928HarperCoins20110118_TradePaperback29-thumbnail2.JPG" width="99" height="150"></a>
・ISBN: 9780062073471
・大きい判型のペーパーバック
・書店向けの標準的なペーパーバックとして流通
・2011年1月18日発売

2.Mass Market Paperback(小型ペーパーバック)版
<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928HarperCoins20110329_MassMarketPaperback29.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="&#x8868;&#x7D19;(HarperCoins20110329_MassMarketPaperback).JPG" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928HarperCoins20110329_MassMarketPaperback29-thumbnail2.JPG" width="92" height="150"></a>
・ISBN: 9780062073488
・サイズが小さく、アメリカの一般的な廉価版ペーパーバック
・ページ数：320ページ（複数の販売サイトで一致）
・価格帯も安めで、携帯しやすい「ポケット版」
・2011年3月29日発売

(c)HarperCollins社ペーパーバック版(2014年)
<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928HarperCoins2014_75thAnniversaryEdition29.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="&#x8868;&#x7D19;(HarperCoins2014_75thAnniversaryEdition).JPG" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928HarperCoins2014_75thAnniversaryEdition29-thumbnail2.JPG" width="99" height="150"></a>
　75th Anniversary Editionとして出版された。英国では1939年に『Ten Little Niggers』の初版が出版され、そこから数えて2014年は出版75周年の年にあたるからだ。さきほど「Read a sample(試し読み)」のURLの話をしたが、本文を読むと(a)ペーパーバック版(2007年)とは明らかに違うところがある。75周年のこのタイミングで、著作権を所有するAgatha Christie Limitedが公式版の本文に手を加えた可能性は高い。

(d)HarperCollins社ペーパーバック版(2015年)
<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928HarperCoins201529.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="&#x8868;&#x7D19;(HarperCoins2015).JPG" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928HarperCoins201529-thumbnail2.JPG" width="92" height="150"></a>
　表紙をひと目見てわかるように(a)ペーパーバック版(2007年)とまったく同じだ。これが数日前に購入したEdition(版)だ。判型も変わらないが、紙質が違っていたり、頁数が少なくなっていたりする((a)317頁に対して(d)250頁)。その結果、本の厚みも薄くなり、同時に非常に軽くなっている。本文については(c)ペーパーバック版(2014年)に修正が入っている事が確認できた。詳しくは後述する。

(e)HarperCollins社ハードカバー版(2024年)
<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928HarperCollins2024_TheUltimateMysteryEdition29.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="&#x8868;&#x7D19;(HarperCollins2024_TheUltimateMysteryEdition).jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928HarperCollins2024_TheUltimateMysteryEdition29-thumbnail2.jpg" width="98" height="150"></a>
　The Ultimate Mystery Editionと呼称されるハードカバーである。これは何かを記念して作られた版ではなく、HarperColllins社が企画した「コレクター向けの豪華ハードカバー特別版」である。画像を見るとピンと来る愛好家が多いと思うが、日本で2025年に早川書房から出版された「特装版」と同じ表紙となっている。一年違いの同時期に出ているのは、この企画本が世界各国で同じ時期に同じ趣旨で作られているからだろう。
　特装版では本文の結末部分が解決編として封筒に封印されていて、本の巻末に貼り込まれている。まさに、このThe Ultimate Mystery Editionがそのような仕掛けになっている。

　一方で。異なる点もある。特装版は箱入りだが、The Ultimate Mystery Editionはハードカバー単体の仕様である。日本の「特装版」について一言言っておくと、1955年にハヤカワ・ポケット・ミステリで初めて『そして誰もいなくなった』が出版されたので、たまたまではあるが「日本刊行70周年記念」と謳う事ができたことになる。

　さて、以上でEdition(版)についての詳細が分かったので、再々度、新訳と改訳との違いについて検討する。今のところ、冒頭部分の原文がはっきりしているのはペーパーバック版((a)2007年、(c)2014年、(d)2015年)の3つである。これらを併記して比較する。
この比較検討に絶好な箇所がある。第1章第3節で、元陸軍大尉フィリップ・ロンバートが、ある仕事を依頼される場面だ。(その2)でも書いたが、この箇所では翻訳が原文通りに訳されていないと感じられたのだが、実はそうではないことが分かった。

　第1章第3節で、元陸軍大尉フィリップ・ロンバートが、(ユダヤ人の)男から「兵隊島での極秘の仕事」を仲介される場面がある。
[新訳](1章3節P.17)
でもあのユダヤ人にはそのことが、ちゃんとわかっていたのにちがいない。しゃくにさわるのは、そこだ。こと金に関する限り、やつらの目は絶対にごまかせない――すべて、お見とおしだ！
[改訳](P.17)
でもあの男にはそのことが、ちゃんとわかっていたのにちがいない。しゃくにさわるのは、そこだ。こと金に関する限り、やつの目は絶対にごまかせない――すべて、お見とおしだ！
[(a)2007年版](P.16)
He had fancied, though, that the little Jew had not been deceived – that was the damnable part about Jews, you couldn't deceive them about money – they knew!
[(c)2014年版](P.?)
He had fancied, though, that the little man had not been deceived – that was the damnable part, you couldn't deceive men like that about money – they knew!
[(d)2015年版](P.5)
He had fancied, though, that the little man had not been deceived!
　底本の更新に合わせて「ユダヤ人」が「男」に置き換わった。(a)2007年版は、おそらく新訳の底本となったペーパーバックなのでthe little Jew(あのユダヤ人)のままだ。しかし(c)2014年版ではthe little man(あの男)になっている。
　問題は後半の「やつらの目」が「やつの目」に改編されている箇所だ。the little Jewをthe little manに変更した結果、Jews(ユダヤ人全般)の特徴を論った挿入部分(ダッシュで括られた部分)がそのままでは使えなくなった。そこで原文では(d)のようにバサッと削除しているのに、何故か翻訳は「あのユダヤ人」の事として訳をひねり出していると感じた。何故、訳文も(d)に従わなかったのか。

　だが、実は(c)2014年版の原文にはその通りに書かれているのだ。(a)と(c)を直訳すると以下のようになる。
[(a)2007年版の私訳]
　あのチビのユダヤ人は、たぶん、こちらの見栄(＝財布の中がすっからかんなのを隠している事)に気づいていたはずだ。そこがユダヤ人ってやつらのいまいましいところだ。とりわけお金の事となると、やつらをペテンにかけるなんてできやしない――やつらは何でもお見通しなんだ！
[(c)2014年版の私訳]
　あの男は、たぶん、こちらの見栄に気づいていたはずだ。そこがあの手合いの男らのいまいましいところだ。とりわけお金の事となると、やつらをペテンにかけるなんてできやしない――やつらは何でもお見通しなんだ！
　一見すると、やはり改訳版の「やつの目」は「やつら(=men like that)の目」にすべきだったのじゃないかと考える人も多いと思う。だが、クリスティが最初に書いた文では、ロンバートの目の前にいる「あのユダヤ人」の態度から、挿入部分の「ユダヤ人全般」を揶揄する意図が強く感じられる。しかし、クリスティの死後、manに変更した事で、特定の民族への揶揄は無意味になった。同時に「あの男」に対するロンバートの苛立ちを「あのような男たち」というカテゴリに分類する事自体も無意味になったと考えるべきだ。

　だから、ここは読者の読みやすさを優先して「あの手合いの男」とカテゴリ分けしながらも、結局ロンバート自身は目の前の男をだますことはできないと考えたとする方がよい。その上でもう一度「改訳」を見てみると、「誰について」をもっとぼやかした感じでmenの痕跡を消している。ここで重要なのは前半の文なので、それを邪魔しない程度に挿入部分の訳が改編されているように思える。
[(c)2014年版の私訳2]
　あの男は、たぶん、こちらの見栄に気づいていたはずだ。そこがあのような男のいまいましいところだ。とりわけお金の事となると、やつをペテンにかけるなんてできやしない――やつは何でもお見通しなんだ！
[改訳](P.17)
でもあの男にはそのことが、ちゃんとわかっていたのにちがいない。しゃくにさわるのは、そこだ。こと金に関する限り、やつの目は絶対にごまかせない――すべて、お見とおしだ！
　そして公式版の原文では、(d)2015年版でついに挿入部分を全部削除した。今の時代にとって無意味で偏見に満ちた記述だという事だろう。

　ここまでの検討で「改訳新版」の底本は(d)ペーパーバック版(2015年)ではない可能性が高い事がわかった。改訳新版には、翻訳の底本が「ハードカバー版」だと書いてある以上、「特装版」(2025年)に先だって出版されたThe Ultimate Mystery Edition(2024年)の事を言っているのは間違いなさそうだ。このEditionの原文が何を底本にしているかと言えば、(d)2015年版ではなく(c)2014年版だと言うことになる。しかし、果たして、より最新の原文を底本として採用しないという事がありうるだろうか。
　一つ考えられるとすればThe Ultimate Mystery Editionで改編作業が行われ、上記の箇所については(c)と(d)の文を比較検討する事によって、また別の文になっているのかもしれない。これは想像に過ぎないが、以下のように改編されていれば「改訳新版」の訳は原文どおりという事になる。
He had fancied, though, that the little man had not been deceived – that was the damnable part, you couldn't deceive him about money – they knew!<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/CIMG0731.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="CIMG0731.JPG" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/CIMG0731-thumbnail2.JPG" width="112" height="150" onclick="location.href = 'https://elleryqueen.seesaa.net/upload/detail/image/CIMG0731-thumbnail2.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a>　<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/CIMG0732.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="CIMG0732.JPG" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/CIMG0732-thumbnail2.JPG" width="121" height="150" onclick="location.href = 'https://elleryqueen.seesaa.net/upload/detail/image/CIMG0732-thumbnail2.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br />　いよいよ週明けの2026年3月2日にアガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった〔改訳新版〕』が早川書房のクリスティー文庫から出版される(註: 本記事を書き出したのが前日の3月1日)。またもや、一つ前の記事と同じことを書いている。ところが、3月1日(日)に神保町まで行くことができて東京堂書店に入ったら、なんとフライングで出てるじゃないか！　改訳新版の平積みが目に入って、一も二もなくレジに持っていった。帰りの中央線の車内で、坐りながら手にとってみる。前回の(その2)で、書く事は書き尽くしたと思ったので、あとは現物を読むだけと思っていた。今回の「改訳新版」の底本はなんと書かれているかなと巻末の頁をめくると「本書の底本にはHarperCollins社のハードカバー版を使用しています。」と書かれていた。いやぁ、そうきたかぁ。<br /><br />　(その2)の結論としては「HarperCollins社のハードカバー2015年版を使用しています。」と書かれると思っていた。しかし、よくよく考えれば、すでに改訳作業は2025年に出版された「特装版」で行われ、今回の「改訳新版」の本文は特装版とまったく同じだと公表されている。だったら、いわゆる特装版を制作するにあたって装幀を含めた底本があるはずで、それがHarperCollins社のハードカバー版なのは当然だ。問題はハードカバー版の原文が、それ以前の何を底本としたのかという点である。しかし、特装版は装幀も特別仕立てで、函付きの豪華本となっている。立川図書館では蔵書にならなかったから、翻訳の底本として何と書かれていたかも確認できない。(その2)で終わったと思ったが、今度は原書(特にHarperCollins社)の版(Edition)の変遷を確認しなければいけないようだ。だが、その前にHarperCollins社とはどのような出版社なのかをひもとく必要がある。<br /><br /><strong>[HaperCollins社について]</strong><br />　HarperCollins社は英国ロンドンにある出版社だが、そもそも英国で『And Then There Were None』というタイトルで出版されるようになったのは高々40年前の事だ。そこらへんの経緯は(その2)でも次のように書いた。<br /><blockquote>アガサ・クリスティー『そして誰もいなくなった』は1939年に英国で「Ten Little Niggers」という題名で出版された。翌1940年に米国で『And Then There Were None』というタイトルで出版された。その後、1964年に米版では差別用語のNiggerを本文からも一掃し、NiggerからIndianに差し替えた。さらにIndianに差し替えた改編にもクレームが付き、西暦の記載はないがSoldiersに差し替える改編があった。</blockquote>　米国の変遷は書いたが、本国イギリスでは、初版(1939年)以降もずっと「Ten Little Niggers」というタイトルを使い続けた。「And Then There Were None」というタイトルでの出版は1985年で、イギリスのFontanaが初版をだしている。調べると、FontanaはWilliam Collins, Sons & Co Ltd(通称Collins)の社内ブランドだそうだ。その後Collinsは1990年に米国の出版社と合併し、現在のHarperCollins社になった。<br /><br />　1984年Fontana版では、童謡や島の名前にNigger、Indian、Soldierのいずれが使われていたのかは調べきれなかった。そもそもNiggerやIndianを差別用語として排除したのは米国の国内事情によるもので、イギリスでは関心が薄かったと考えられる。1940年に米国で出版された際のタイトル「And Then There Were None」を英国でも採用するに当たって、本文のNiggerはSoldierにいきなり変更されたのかもしれない。よって、英国では1984年Fontana版は置いておくとして、1985年から今に至るまでのHaperCollins社版では、童謡や島の名前にはSoldier(兵隊)が使われてきたと思われる。<br /><br />　そこでインターネットでいろいろと調べたところ、以下の版(Edition)の「And Then There Were None」が確認できた。<br /><blockquote>(a)HarperCollins社ペーパーバック版(2007年)<br />(b)HarperCollins社ペーパーバック版(2011年)<br />(c)HarperCollins社ペーパーバック版(2014年)<br />(d)HarperCollins社ペーパーバック版(2015年)<br />(e)HarperCollins社ハードカバー版(2024年)</blockquote>　これらについて詳細に見ていこう。<br /><br /><strong>(a)HarperCollins社ペーパーバック版(2007年)</strong><br /><a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928HarperCoins2015_200729.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="表紙(HarperCoins2015_2007).JPG" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928HarperCoins2015_200729-thumbnail2.JPG" width="93" height="150" onclick="location.href = 'https://elleryqueen.seesaa.net/upload/detail/image/E8A1A8E7B49928HarperCoins2015_200729-thumbnail2.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br />　扉の奥付(colophon)には、Agatha Christie Signature Editionと書かれている。表紙の作者名がクリスティー直筆の署名になっている版という事だ。2010年に日本で出版された「新訳版(青木久惠訳)」の巻末には「HarperCollins社のペーパバック版」を底本にしたと書かれているので、時期的には、この2007年版が底本ではないかと思われる。童謡や島の名前にはSoldier(兵隊)が使われている。<br /><br /><strong>(b)HarperCollins社ペーパーバック版(2011年)</strong><br />　HarperColllins社のサイトで検索すると2011年に出版されたペーパーバック版が2冊出てくる。どうやらペーパーバックには、Trade Paperback(大きめ・書店向け)とMass Market Paperback(小型・廉価版)という2種類のフォーマットがあり、米国では複数フォーマットを同時発売するのが一般的なのだそうだ。以下の2冊は紙質・サイズ・装丁は異なるが、本文は同一である。本文の手がかりとしては、検索結果の画像の下に「Read a sample(試し読み)」のURLリンクがある。ただし、これについては注意が必要。リンクをたどると、(c)ペーパーバック版(2014年)の表紙が出てくるので、実際の本文とは異なるかもしれない。推測だが、特に何かを記念して出版されたわけでもなさそうなので(a)ペーパーバック版(2007年)と同一なのではないだろうか。<br /><br /><strong>1.Trade Paperback(通常サイズのペーパーバック)版</strong><br /><a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928HarperCoins20110118_TradePaperback29.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="表紙(HarperCoins20110118_TradePaperback).JPG" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928HarperCoins20110118_TradePaperback29-thumbnail2.JPG" width="99" height="150" onclick="location.href = 'https://elleryqueen.seesaa.net/upload/detail/image/E8A1A8E7B49928HarperCoins20110118_TradePaperback29-thumbnail2.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br />・ISBN: 9780062073471<br />・大きい判型のペーパーバック<br />・書店向けの標準的なペーパーバックとして流通<br />・2011年1月18日発売<br /><br /><strong>2.Mass Market Paperback(小型ペーパーバック)版</strong><br /><a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928HarperCoins20110329_MassMarketPaperback29.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="表紙(HarperCoins20110329_MassMarketPaperback).JPG" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928HarperCoins20110329_MassMarketPaperback29-thumbnail2.JPG" width="92" height="150" onclick="location.href = 'https://elleryqueen.seesaa.net/upload/detail/image/E8A1A8E7B49928HarperCoins20110329_MassMarketPaperback29-thumbnail2.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br />・ISBN: 9780062073488<br />・サイズが小さく、アメリカの一般的な廉価版ペーパーバック<br />・ページ数：320ページ（複数の販売サイトで一致）<br />・価格帯も安めで、携帯しやすい「ポケット版」<br />・2011年3月29日発売<br /><br /><strong>(c)HarperCollins社ペーパーバック版(2014年)</strong><br /><a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928HarperCoins2014_75thAnniversaryEdition29.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="表紙(HarperCoins2014_75thAnniversaryEdition).JPG" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928HarperCoins2014_75thAnniversaryEdition29-thumbnail2.JPG" width="99" height="150" onclick="location.href = 'https://elleryqueen.seesaa.net/upload/detail/image/E8A1A8E7B49928HarperCoins2014_75thAnniversaryEdition29-thumbnail2.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br />　75th Anniversary Editionとして出版された。英国では1939年に『Ten Little Niggers』の初版が出版され、そこから数えて2014年は出版75周年の年にあたるからだ。さきほど「Read a sample(試し読み)」のURLの話をしたが、本文を読むと(a)ペーパーバック版(2007年)とは明らかに違うところがある。75周年のこのタイミングで、著作権を所有するAgatha Christie Limitedが公式版の本文に手を加えた可能性は高い。<br /><br /><strong>(d)HarperCollins社ペーパーバック版(2015年)</strong><br /><a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928HarperCoins201529.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="表紙(HarperCoins2015).JPG" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928HarperCoins201529-thumbnail2.JPG" width="92" height="150" onclick="location.href = 'https://elleryqueen.seesaa.net/upload/detail/image/E8A1A8E7B49928HarperCoins201529-thumbnail2.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br />　表紙をひと目見てわかるように(a)ペーパーバック版(2007年)とまったく同じだ。これが数日前に購入したEdition(版)だ。判型も変わらないが、紙質が違っていたり、頁数が少なくなっていたりする((a)317頁に対して(d)250頁)。その結果、本の厚みも薄くなり、同時に非常に軽くなっている。本文については(c)ペーパーバック版(2014年)に修正が入っている事が確認できた。詳しくは後述する。<br /><br /><strong>(e)HarperCollins社ハードカバー版(2024年)</strong><br /><a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928HarperCollins2024_TheUltimateMysteryEdition29.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="表紙(HarperCollins2024_TheUltimateMysteryEdition).jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928HarperCollins2024_TheUltimateMysteryEdition29-thumbnail2.jpg" width="98" height="150" onclick="location.href = 'https://elleryqueen.seesaa.net/upload/detail/image/E8A1A8E7B49928HarperCollins2024_TheUltimateMysteryEdition29-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br />　The Ultimate Mystery Editionと呼称されるハードカバーである。これは何かを記念して作られた版ではなく、HarperColllins社が企画した「コレクター向けの豪華ハードカバー特別版」である。画像を見るとピンと来る愛好家が多いと思うが、日本で2025年に早川書房から出版された「特装版」と同じ表紙となっている。一年違いの同時期に出ているのは、この企画本が世界各国で同じ時期に同じ趣旨で作られているからだろう。<br />　特装版では本文の結末部分が解決編として封筒に封印されていて、本の巻末に貼り込まれている。まさに、このThe Ultimate Mystery Editionがそのような仕掛けになっている。<br /><br />　一方で。異なる点もある。特装版は箱入りだが、The Ultimate Mystery Editionはハードカバー単体の仕様である。日本の「特装版」について一言言っておくと、1955年にハヤカワ・ポケット・ミステリで初めて『そして誰もいなくなった』が出版されたので、たまたまではあるが「日本刊行70周年記念」と謳う事ができたことになる。<br /><br />　さて、以上でEdition(版)についての詳細が分かったので、再々度、新訳と改訳との違いについて検討する。今のところ、冒頭部分の原文がはっきりしているのはペーパーバック版((a)2007年、(c)2014年、(d)2015年)の3つである。これらを併記して比較する。<br />この比較検討に絶好な箇所がある。第1章第3節で、元陸軍大尉フィリップ・ロンバートが、ある仕事を依頼される場面だ。(その2)でも書いたが、この箇所では翻訳が原文通りに訳されていないと感じられたのだが、実はそうではないことが分かった。<br /><br />　第1章第3節で、元陸軍大尉フィリップ・ロンバートが、(ユダヤ人の)男から「兵隊島での極秘の仕事」を仲介される場面がある。<br /><blockquote><strong>[新訳](1章3節P.17)</strong><br />でもあの<span style="color:#ff0000;">ユダヤ人</span>にはそのことが、ちゃんとわかっていたのにちがいない。しゃくにさわるのは、そこだ。こと金に関する限り、<span style="color:#ff0000;">やつらの目</span>は絶対にごまかせない――すべて、お見とおしだ！<br /><strong>[改訳](P.17)</strong><br />でもあの<span style="color:#0000ff;">男</span>にはそのことが、ちゃんとわかっていたのにちがいない。しゃくにさわるのは、そこだ。こと金に関する限り、<span style="color:#0000ff;">やつの目</span>は絶対にごまかせない――すべて、お見とおしだ！<br /><strong>[(a)2007年版](P.16)</strong><br />He had fancied, though, that <span style="color:#ff0000;">the little Jew</span> had not been deceived – that was the damnable part <span style="color:#ff0000;">about Jews</span>, you couldn't deceive <span style="color:#ff0000;">them</span> about money – they knew!<br /><strong>[(c)2014年版](P.?)</strong><br />He had fancied, though, that <span style="color:#0000ff;">the little man</span> had not been deceived <span style="color:#00cc00;">– that was the damnable part, you couldn't deceive <span style="color:#0000ff;">men like that</span> about money – they knew</span>!<br /><strong>[(d)2015年版](P.5)</strong><br />He had fancied, though, that <span style="color:#0000ff;">the little man</span> had not been deceived!<br /></blockquote>　底本の更新に合わせて「ユダヤ人」が「男」に置き換わった。(a)2007年版は、おそらく新訳の底本となったペーパーバックなのでthe little Jew(あのユダヤ人)のままだ。しかし(c)2014年版ではthe little man(あの男)になっている。<br />　問題は後半の「やつらの目」が「やつの目」に改編されている箇所だ。the little Jewをthe little manに変更した結果、Jews(ユダヤ人全般)の特徴を論った挿入部分(ダッシュで括られた部分)がそのままでは使えなくなった。そこで原文では(d)のようにバサッと削除しているのに、何故か翻訳は「あのユダヤ人」の事として訳をひねり出していると感じた。何故、訳文も(d)に従わなかったのか。<br /><br />　だが、実は(c)2014年版の原文にはその通りに書かれているのだ。(a)と(c)を直訳すると以下のようになる。<br /><blockquote><strong>[(a)2007年版の私訳]</strong><br />　あのチビのユダヤ人は、たぶん、こちらの見栄(＝財布の中がすっからかんなのを隠している事)に気づいていたはずだ。そこがユダヤ人ってやつらのいまいましいところだ。とりわけお金の事となると、やつらをペテンにかけるなんてできやしない――やつらは何でもお見通しなんだ！<br /><strong>[(c)2014年版の私訳]</strong><br />　あの男は、たぶん、こちらの見栄に気づいていたはずだ。そこがあの手合いの男らのいまいましいところだ。とりわけお金の事となると、やつらをペテンにかけるなんてできやしない――やつらは何でもお見通しなんだ！<br /></blockquote>　一見すると、やはり改訳版の「やつの目」は「やつら(=men like that)の目」にすべきだったのじゃないかと考える人も多いと思う。だが、クリスティが最初に書いた文では、ロンバートの目の前にいる「あのユダヤ人」の態度から、挿入部分の「ユダヤ人全般」を揶揄する意図が強く感じられる。しかし、クリスティの死後、manに変更した事で、特定の民族への揶揄は無意味になった。同時に「あの男」に対するロンバートの苛立ちを「あのような男たち」というカテゴリに分類する事自体も無意味になったと考えるべきだ。<br /><br />　だから、ここは読者の読みやすさを優先して「あの手合いの男」とカテゴリ分けしながらも、結局ロンバート自身は目の前の男をだますことはできないと考えたとする方がよい。その上でもう一度「改訳」を見てみると、「誰について」をもっとぼやかした感じでmenの痕跡を消している。ここで重要なのは前半の文なので、それを邪魔しない程度に挿入部分の訳が改編されているように思える。<br /><blockquote><strong>[(c)2014年版の私訳2]</strong><br />　あの男は、たぶん、こちらの見栄に気づいていたはずだ。そこがあのような男のいまいましいところだ。とりわけお金の事となると、やつをペテンにかけるなんてできやしない――やつは何でもお見通しなんだ！<br /><strong>[改訳](P.17)</strong><br />でもあの<span style="color:#0000ff;">男</span>にはそのことが、ちゃんとわかっていたのにちがいない。しゃくにさわるのは、そこだ。こと金に関する限り、<span style="color:#0000ff;">やつの目</span>は絶対にごまかせない――すべて、お見とおしだ！<br /></blockquote>　そして公式版の原文では、(d)2015年版でついに挿入部分を全部削除した。今の時代にとって無意味で偏見に満ちた記述だという事だろう。<br /><br />　ここまでの検討で「改訳新版」の底本は(d)ペーパーバック版(2015年)ではない可能性が高い事がわかった。改訳新版には、翻訳の底本が「ハードカバー版」だと書いてある以上、「特装版」(2025年)に先だって出版されたThe Ultimate Mystery Edition(2024年)の事を言っているのは間違いなさそうだ。このEditionの原文が何を底本にしているかと言えば、(d)2015年版ではなく(c)2014年版だと言うことになる。しかし、果たして、より最新の原文を底本として採用しないという事がありうるだろうか。<br />　一つ考えられるとすればThe Ultimate Mystery Editionで改編作業が行われ、上記の箇所については(c)と(d)の文を比較検討する事によって、また別の文になっているのかもしれない。これは想像に過ぎないが、以下のように改編されていれば「改訳新版」の訳は原文どおりという事になる。<br /><blockquote>He had fancied, though, that <span style="color:#0000ff;">the little man</span> had not been deceived <span style="color:#00cc00;">– that was the damnable part, you couldn't deceive <span style="color:#0000ff;">him</span> about money – they knew</span>!</blockquote><a name="more"></a><div class="blogmura-link"><a href="https://blogmura.com/ranking/in?p_cid=10113262" target="_blank"><img src="https://b.blogmura.com/88_31.gif" width="88" height="31" border="0" alt="ブログランキング・にほんブログ村へ" />にほんブログ村</a>
<a href="https://blogmura.com/profiles/10113262?p_cid=10113262" target="_blank"><img src="https://blogparts.blogmura.com/parts_image/user/pv10113262.gif" alt="PVアクセスランキング にほんブログ村" /></a></div>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
            <category>　書評(アガサ・クリスティー)</category>
      <author>アスラン</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,elleryqueen/520099187</guid>
            <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/CIMG0731.JPG" length="176476" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/CIMG0731.JPG" length="176476" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/CIMG0732.JPG" length="66322" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/CIMG0732.JPG" length="66322" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928HarperCoins2015_200729.JPG" length="113373" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928HarperCoins2015_200729.JPG" length="113373" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928HarperCoins20110118_TradePaperback29.JPG" length="27304" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928HarperCoins20110118_TradePaperback29.JPG" length="27304" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928HarperCoins20110329_MassMarketPaperback29.JPG" length="29892" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928HarperCoins20110329_MassMarketPaperback29.JPG" length="29892" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928HarperCoins2014_75thAnniversaryEdition29.JPG" length="18278" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928HarperCoins2014_75thAnniversaryEdition29.JPG" length="18278" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928HarperCoins201529.JPG" length="25664" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928HarperCoins201529.JPG" length="25664" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928HarperCollins2024_TheUltimateMysteryEdition29.jpg" length="132045" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928HarperCollins2024_TheUltimateMysteryEdition29.jpg" length="132045" type="image/jpeg" />
                      </item>
        <item>
      <link>https://elleryqueen.seesaa.net/article/520074173.html</link>
      <title>『そして誰もいなくなった』新訳と改訳との違い(その2)</title>
      <pubDate>Sun, 01 Mar 2026 04:00:20 +0900</pubDate>
            <description>　　いよいよ週明けの2026年3月2日にアガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった〔改訳新版〕』が早川書房のクリスティー文庫から出版される。一つ前の記事と同じことを書いている。前の記事のタイトルに(その1)をつけなかったのは、いわゆる「新訳」と「改訳」それぞれの成立事情および訳文の比較を終えて、けりが付いたと思ったからだ。ただ、心残りはあった。訳文の比較の際に、原文をつけなかった事だ。　たしか旧訳と新訳とを比較した記事を書く際に、原書から訳文を採取してきたのではなかったか..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928E694B9E8A8B3E696B0E7898829.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="&#x8868;&#x7D19;(&#x6539;&#x8A33;&#x65B0;&#x7248;).jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928E694B9E8A8B3E696B0E7898829-thumbnail2.jpg" width="101" height="150"></a>　<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928HarperCoins201529.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="&#x8868;&#x7D19;(HarperCoins2015).JPG" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928HarperCoins201529-thumbnail2.JPG" width="92" height="150"></a>
　いよいよ週明けの2026年3月2日にアガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった〔改訳新版〕』が早川書房のクリスティー文庫から出版される。一つ前の記事と同じことを書いている。前の記事のタイトルに(その1)をつけなかったのは、いわゆる「新訳」と「改訳」それぞれの成立事情および訳文の比較を終えて、けりが付いたと思ったからだ。ただ、心残りはあった。訳文の比較の際に、原文をつけなかった事だ。

　たしか旧訳と新訳とを比較した記事を書く際に、原書から訳文を採取してきたのではなかったか。そこで自室の積ん読本の山を崩して調べた結果、あると思った原書が見当たらない。訳文を比較するために、確かに原文に基づいて考察した記憶があるから、きっと見つかると思ったのに。だんだん自分の記憶が怪しくなってきたところで、別の本を探しにオリオン書房ノルテに立ち寄ったら最新の『And Then There Were None』を見つけてしまった。
　悩んだ。家捜しすれば見つかるかもしれない。でも、すぐに確かめたい。値段もそれほど高額ではない。
　再び悩んだ。そう言えば、神保町の羊頭書房の洋書コーナーに、割ときれいな”このペーパーバック"があったなぁ。安い値段で手に入るのに。
　三度悩んだ。でも、今の体調じゃ当分、羊頭書房はおあずけだなぁ。という次第で、買ってしまった。

　買ってから、まずは奥付(いや、海外では奥ではなく頭にあるから頭付け？)を見ると、HaperCollins社のペーパーバックなのは間違いないが、2015年出版となっている。という事は僕が持っているはずのペーパーバックとは別物だ。何故なら新訳版が2010年に出版されたときに、この原書はまだ世に出ていないからだ。新訳が底本としたのはこれではない。でも記憶にある表紙と一致しているんだよな。
　そこで、はたと思いついて立川市立図書館の蔵書検索をしたところ、2007年に出版されたHaperCollins社のペーパーバックがあるではないか！(その後、かつてはよく利用していた川崎市立図書館には、HaperCollins社のペーパーバック2007年版、2015年版どちらもある事が分かった。)　その後、『そして誰もいなくなった』に関する自分の記事をちゃんと読み直したら、最初は原書を一切参照せずに新旧の訳文だけを比較していたが、その後、正しい比較をするために「図書館で原書を借りた」という記述を見つけた。

　さっそく2007年版を立川で借りて分かったのは、二冊のペーパーバックの原文に違いがあるという点だ。そして、これは「改訳新版」が刊行されないと確認しようがないが、おそらく従来の「新訳版」は2007年版を底本とし、今回の「改訂新版」は2015年版を底本としているはずだ。
　そこで、あらためて翻訳の『そして誰もいなくなった』の変遷について書いておく。今回の比較に旧訳は関係ないが、とりあえず現時点で把握できた事を書き加えておきたい。
(1)旧訳(清水俊二訳) 1955年6月刊行　ハヤカワ・ポケット・ミステリ
　底本不明(1940年刊行の米版か？)　童謡「10人の小さな黒人」、島名「黒人島(?)」
(2)旧訳(清水俊二訳) 1976年1月刊行　ハヤカワ・ポケット・ミステリ
　底本不明(1964年刊行の米版か？)　童謡「10人の小さなインディアン」、島名「インディアン島」
(3)旧訳(清水俊二訳) 1976年4月刊行　ハヤカワ・ミステリ文庫
　(2)(3)の訳文はおそらく同一。いずれも「黒人(nigger)」から「インディアン(Indian)」に切り替え。
(4)旧訳(清水俊二訳) 2003年10月刊行　クリスティ文庫
　(3)の改訳。特定の人物の独白の一部が誤訳だとする異議申し立てを受け入れ、故清水氏に代わって誰かが訳を差し替え。
(5)新訳(青木久惠訳) 2010年11月刊行　クリスティ文庫
　底本はHarperCollins社ペイパーバック（2007年版)
(6)特装版(青木久惠訳) 2025年刊行　単行本
　底本はHarperCollins社ペイパーバック（2015年版)
(7)改訳新版(青木久惠訳) 2026年発行　クリスティ文庫
　(6)(7)の訳文は同一。　なお、旧訳については底本の記載が一切ないが、Wikipediaの「そして誰もいなくなった」の頁の「改題と改編」に関する記述が参考になる。
　アガサ・クリスティー『そして誰もいなくなった』は1939年に英国で「Ten Little Niggers」という題名で出版された。翌1940年に米国で『And Then There Were None』というタイトルで出版された。その後、1964年に米版では差別用語のNiggerを本文からも一掃し、NiggerからIndianに差し替えた。さらにIndianに差し替えた改編にもクレームが付き、西暦の記載はないがSoldiersに差し替える改編があった。

　これらの事から、(1)旧訳(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)は1940年の米版を底本としている可能性が高い。そして(2)旧訳(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)および(3)旧訳(ハヤカワ・ミステリ文庫)は1964年の米版が底本だろう。クリスティーは1976年に亡くなるまで現役だったので、これらの改編版の文責は著者にあると言っていいだろう。ただし、今回のHaperCollins社ペーパーバックの2007年版、2015年版でも原文に違いが見られるとなると、これは著者の知るところではない。日本だと巻末に「不適切な表現が含まれているが、発表当時の社会情勢や著者の意図などを尊重して原文どおりとした」という但し書きをつける事が多いが、海外だと著者の死後でもあっても容赦なく、著作権所有者の了解をとって原文を修正してしまうようだ。

　さて、これで準備はできた。この(その2)では、一つ前の記事と同じように新訳と改訳の比較を行うが、同時に底本となったHaperCollins社ペーパーバックの2007年版(原文1と呼ぶ)、2015年版(原文2と呼ぶ)の比較も行う。

　第1章第1節はウォーグレイヴ判事が列車内で兵隊島に関する新聞記事の内容を思い出している場面。オーエンという人物が買い取ったところからゴシップ記者の信憑性に乏しい推測が入った内容が取り上げられる。
[新訳](1章1節P.12)
〈風便配達人〉と名のるゴシップ記者は、あれはイギリス王室専用の別荘になるのではないか！などとそれとなくにおわせたし、〈好天好日〉記者は、例の島は新婚旅行用に買われたらしいという話を、小耳にはさんだと書いた。若き貴公子Ｌ卿の胸を、ついにキューピッドの愛の矢が射ぬいたのだ！　と。
[改訳]
〈東奔西走〉と称するゴシップ記者は、あれはイギリス王室専用の別荘になるのではないか！などと言葉巧みににおわせたし、〈本日は晴天なり〉記者は、自分が小耳にはさんだところでは、例の島は新婚旅行用に買われたらしいと書いた。若き貴公子Ｌ卿の胸を、ついにキューピッドの愛の矢が射ぬいたのだ！　と。
[原文1](P.12)
Busy Bee had hinted delicately that it was to be an abode for Royalty??! Mr Merryweather had had it whispered to him that it had been bought for a honeymoon – Young Lord L― had surrendered to Cupid at last!
[原文2](P.2)
(原文1と同一)
　ゴシップ紙なのかゴシップ欄なのか不明だが、記者は匿名でペンネームを使うのが通例だ。新訳ではBusy Bee(働き者、忙しい人)を「風便配達人」というペンネームに訳し、Mr Merryweatherを「好天好日」と訳しているが、今ひとつ分かりにくいと考えたのだろうか。改訳ではそれぞれ「東奔西走」「本日は晴天なり」に変えている。

　delicate(ly)には色々な語義があって、ランダムハウス英和辞典では「3（ほとんど感じられないほど）かすかな、6〈問題・仕事などが〉最新の注意を要する、9（正しい行為・作法などに）細かく気を配る、10〈言葉などが思いやりのある、よく気のつく〉」などが挙げられる。辞書で考える限り、「それとなく」は語義9に当てはまりそうだが、「言葉巧みに」という語義はない。機械であれば「5 精巧な、精密な」という語義はあるが、ここで言う「言葉巧みに」は読者を信じさせようとする一種の悪意が感じられるので、新訳のままの方がまだよかったように感じる。

　原文の"Mr Merryweather had had it whispered to him that it had been bought for a honeymoon"の部分は、
Mr Merryweather had had it whispered to him
　　　　　　　　　　　　　└ that it had been bought for a honeymoon　と解釈できる。that節の主語itはthe abode(住居)を指すので、直訳すれば「この住まい(別荘)は新婚の時期を過ごすために購入したという話を、ペンネーム〈好天好日〉記者は小耳にはさんだ。」となる。ただし、新聞のゴシップ欄にそう書かれているのをウォーグレイヴ判事が読んでいるのだから「この住まい(別荘)は新婚の時期を過ごすために購入したという話を小耳にはさんだと、ペンネーム〈好天好日〉記者は書いた。」となる。もちろん「小耳にはさんだ」の主格も「ペンネーム〈好天好日〉記者は」なのだが、どちらにも書くのはくどい。新訳のように「小耳にはさんだと書いた」に掛けようとすると、どちらに係るのか両方に係るのかが曖昧になる。これは日本語の問題なので、改訳のように変えた事で曖昧さは解消した。

　第1章第3節では、元陸軍大尉フィリップ・ロンバートが、列車内で、兵隊島に向かうように仕事を依頼された場面を回想している。
[新訳](1章3節P.17)
あのチビのユダヤ人、やたら謎めいたことを言っていたなあ。
[改訳]
あの男、やたら謎めいたことを言っていたなあ。
[原文1](P.16)
That little Jew had been dammed mysterious.
[原文2](P.5)
That little man had been dammed mysterious.　原文で著者クリスティーは「ユダヤ人」に対する揶揄を悪びれる事なく使っている。これはシェークスピアの時代から続いた悪弊と言えるかもしれない。「原文に忠実」をモットーとする青木さんは、新訳ではそのまま「チビのユダヤ人」と訳してきたが、さすがに社会的状況を鑑みて「男」と言いかえたか。
　最初はそう思ったのだが、底本のHarperCollins社ペーパバックを最新の2015年版に変えたのであれば、当然の変更だった。2015年版ではJew(ユダヤ人)を駆逐してしまったのだ。勢いのままlittle(チビの)まで訳から外してしまった。「あの背の低い男」とか「あの小男」とすればよかったんじゃないだろうか。

[新訳](1章3節P.17)
でもあのユダヤ人にはそのことが、ちゃんとわかっていたのにちがいない。しゃくにさわるのは、そこだ。こと金に関する限り、やつらの目は絶対にごまかせない――すべて、お見とおしだ！
[改訳]
でもあの男にはそのことが、ちゃんとわかっていたのにちがいない。しゃくにさわるのは、そこだ。こと金に関する限り、やつの目は絶対にごまかせない――すべて、お見とおしだ！
[原文1](P.16)
He had fancied, though, that the little Jew had not been deceived – that was the damnable part about Jews, you couldn't deceive them about money – they knew!
[原文2](P.5)
He had fancied, though, that the little man had not been deceived!
　ここも一つ前の変更と同じで、底本の更新に合わせて「ユダヤ人」が「男」に置き換わった。
　問題は後半の「やつらの目」が「やつの目」に改編されている箇所だ。前の記事では「ユダヤ人(＝モリス)」の事を指しているので「やつら」は単純なミスだと書いたのだが、そんな単純な話ではなかった。後半の文では、最初に「あのユダヤ人」が出てくる。次に、ダッシュ(–)で括られた挿入部分にJews(ユダヤ人全般)が出てくる。原文1は「あのチビのユダヤ人は、たぶん、こちらの見栄(＝財布の中がすっからかんなのを隠している事)に気づいていたはずだ。そこがユダヤ人ってやつらのいまいましいところだ。とりわけお金の事となると、やつらをペテンにかけるなんてできやしない――やつらは何でもお見通しなんだ！」と訳すところだ。だから新訳の「やつらの目は絶対にごまかせない」は正しい。

　ところが「ユダヤ人」を「男」に置き換えた事で、改訳では「ユダヤ人全般」の話は出来なくなってしまった。ここを「男全般」の話とする訳にもいかない。そこで改訳の方は、挿入部分を「ユダヤ人全般」ではなく「あのユダヤ人」の特徴を説明したものだと、話をねじ曲げてしまった。だから「やつの目」でないと辻褄が合わない。
　ただし、話の流れとして新訳は「ユダヤ人は何でもお見通しだから、あのチビのユダヤ人もきっと気づいていたはずだ」と言っているのに対して、改訳は「あの小男は何でもお見通しだから、きっと気づいていたはずだ」と言っている事になり、挿入部分は不要な説明になってしまった。これは一種のトートロジーだろう。しかもよくよく原文2を見ると、挿入部分を活かす事ができなくなったのでさっさと削除しているではないか。原文2は「あの小男は、たぶん、こちらの見栄に気づいていたはずだ！」と訳せばいい。改訳は何故、原文2をそのまま訳していないのだろう。

[新訳](1章3節P.18)
真面目くさって答えるモリスのユダヤ人らしい厚ぼったい唇に、薄笑いがかすかににじんだ。
[改訳]
真面目くさって答えるモリスの唇に、薄笑いがかすかににじんだ。
[原文1](P.17)
There had been a very faint smile on the thick Semitic lips of Mr Morris as he answered gravely:
[原文2](P.6)
There had been a very faint smile on the lips of Mr Morris as he answered gravely:
　Semiticは「セム族の、(特に)ユダヤ人の」を意味する形容詞だ。だからthick Semitic lipsは「ユダヤ人特有の厚ぼったい唇」という意味だろう。明らかに民族を肌の色で差別するのと同様で、民族特有の身体的特徴を揶揄している。原文2で削除されたので改訳からも削除された。

[新訳](1章3節P.19)
たしかに危ない橋を渡ったことも、一度や二度あったっけな。
[改訳]
たしかに危ない橋を渡ったことも、一度とは言わずあったっけ。
[原文1](P.17)
By Jove, he'd sailed pretty near the wind once or twice!
[原文2](P.6)
(原文1と同一)
　モリスから「何か不正があったら、手を引いていい」と言われて、ロンバート自身そんな事を気にする性格ではないとモリスに見透かされてると感じる。新訳では「一度や二度」と回数を限定したが、改訳では「何度かあった」という意味に変更されている。ただし、原文はonce or twiceとはっきり書かれている。回数を限定した新訳の方が適切なように感じる。今回の「改訳新版」における改訳の意義については以下のように書かれていた。
孤島で繰り広げられる事件の緊張感はそのままに、これから先も多くの方にお読みいただけるよう、文中の用語や文章のリズム感を見直しています。　だが果たして「一度とは言わずあったっけ」の方が多くの人にとって分かりやすいかどうか、ちょっと疑問だ。

　第1章第4節では老婦人エミリー・ブレントが禁煙席で背筋をしゃんと伸ばして座っている。
[新訳](1章4節P.19)
昔かたぎの軍人の父に厳しくしつけられたのだ。
[改訳]
昔かたぎの陸軍大佐の父に厳しくしつけられたのだ。
[原文1](P.18)
Her father, a Colonel of the old school, had been particular about deportment.
[原文2](P.6)
(原文1と同一)
　予想通り、原文にはa Colonelが使われていた。colonelは「《英》陸軍大佐」を意味するので、改訳の方がより正確な用語に改められた。日本語のいわゆる軍人は「軍籍に身を置く人の総称(新明解)」を意味し、陸・海・空軍の区別を問わず、階級も問わず使える。colonelは階級も意味するので、新訳の「軍人」はちょっと舌足らずの用語だった。

　第1章第5節では退役将軍のジョン・マッカーサーが、「この頃、周囲の人間が自分を避けているような気がする」のは、アーミテッジが”あの噂"をしゃべったからに違いないと勘ぐっている。
[新訳](1章5節P.23)
あの青二才め！　いったいなにをつかんだのだろう。
[改訳]
あの青二才め！　いったい何をつかんだのだろう。
[原文1](P.21)
Damned young pup! What did he know about it?
[原文2](P.9)
(原文1と同一)
　「なに」の前後に平仮名が続くので、漢字にした方が読みやすいと思い直したか。どちらでもよいように思えるが、「漢字と仮名のどちらにするか」に関する方針が新訳出版当時(2010年)と現在とで変わってきたのかもしれない。

[新訳](1章5節P.24)
　エクセター駅に着いたぞ！　ここで一時間待ちだ。将軍は待ちたくなかった。早いところ……。
[改訳]
　エクセター駅に着いたぞ！　ここで一時間待ちだ。将軍は待ちたくなかった。さっさと行きたい……。
[原文1](P.21)
Exeter! And an hour to wait! And he didn't want to wait. He wanted to get on . . .
[原文2](P.9)
(原文1と同一)
　本書では独白が非常に多く、著者はこれをトリックの一部として活用している。「言葉を濁す」という言い回しがあるが、ここでは最後に「言葉を濁した」かのような独白を心の中で言っている。日本語と英語では語順に違いがあり、特に述部が文末にくる日本語に対して、英語は主語の次にくる。なので「言葉を濁す」場合は日本語は述部を、英語は述部以外の目的語・補語・副詞などが「…」になる。それを考えると、新訳の「早いところ…」では読者に分かりにくいと考えたのだろう。

　元警部のウィリアム・ブロアもロンバート同様、偽の依頼で兵隊島に向かうような素振りを見せる。そして子供の頃に兵隊島の様子を見たことがあると述懐している。
[新訳](1章8節P.30)
カモメだらけでいかにもプンプン臭いそうな、岩ばかりの島だ。
[改訳]
カモメだらけでいかにも悪臭プンプンの、岩ばかりの島だ。人間の頭に似ていることから名付けられたらしい。
[原文1](P.26)
Smelly sort of rock covered with gulls – stood about a mile from the coast. 
[原文2](P.13)
Smelly sort of rock covered with gulls – stood about a mile from the coast. It had got its name from its resemblance to a man's head.
　「プンプン(ぷんぷん)」とは「強いにおいのたちこめるさま(日国)」を指す。転じて何かの気配がたちこめるさま」も指すので、「香水をぷんぷんさせる」「エリート意識がぷんぷんにおう」とも言える。ここではカモメの何が「プンプンとにおってくるか」をハッキリさせるために改訳しているようだ。

　改訳の「人間の頭に似ていることから名づけられたらしい」とは、兵隊島の名前の由来である。原文2で一文が追加されたので、その通りに翻訳を追加している。新訳版で訳しそびれていた訳ではなかった。ちなみに(4)旧訳(クリスティ文庫)では以下のように訳されている。
[旧訳](P.29)
インディアン島――彼は少年時代にインディアン島を知っていた。岩だらけの島で、鴎がいっぱい集まっていた。海岸から一マイルほどの距離だった。その由来は人間の頭に似ているところからきていた――アメリカ・インディアンの横顔に似ているのだった。　黒人島からインディアン島に改編した際の文責はクリスティーにあるから、この描写はクリスティーによるものだろう。その後、インディアン島が兵隊島に変更された際に、島の名前の由来を説明した文は削除されたようだ。だから原文2の追加部分は、以前の版で削除された文章の一部を復活したものと考えられる。

　第2章1節の冒頭で、「オークリッジ駅の前に数人のグループが、ちょっととまどった顔つきで立って」いる。彼らはウォーグレイヴ判事、ヴェラ、ロンバート、ミス・ブレントの四名だ。
[新訳](2章1節P.32)
後ろに駅のポーターが続いている。
[改訳]
後ろに駅のポーターが従っている。
[原文1](P.29)
Behind them stood porters with suitcases.
[原文2](P.15)
(原文1と同一)
　ポーターは「乗降客の手荷物を運ぶ人」を指す。昔の日本ならば「赤帽」だろう。原文を見る限り、それぞれの手荷物を運ぶポーターが後方に立っているという描写だ。新訳の「続いている」だと、一行が歩き出しているか、あるいは一列に並んでいるかのように感じられるので、改訳の「従っている」に変えたのだろう。

　まもなく到着する鈍行の乗客(マッカーサー)が予約したタクシーに同乗するために、ロンバートとヴェラがその場に残る。ロンバートがヴェラに向かって質問を投げかける場面。
[新訳](2章1節P.35)
　ありきたりな質問だが、ロンバートは尋ねてみた。
[改訳]
　いささか新鮮味にかける質問だったが、ロンバートは尋ねた。
[原文1](P.31)
With a slight lack of originality Lombard asked:
[原文2](P.17)
(原文1と同一)
　「このへんを、よくご存じですか」が質問の中身だ。「ありきたりな」も「新鮮味にかける」も似たり寄ったりの訳だ。ただし、後者の方が逐語訳なので、若い世代には分かりやすいのかもしれない。一方、単にLombard askedなので「尋ねてみた」というニュアンスはない。改訳の「尋ねた」の方が良い。

　引き続きロンバートとヴェラの会話。互いに相手から情報を引き出そうとして手探り状態になっている。島の所有者のオーエン夫妻とは「どんな方なのか教えてほしい」とヴェラから請われて、ロンバートが内心戸惑う場面。
[新訳](2章1節P.36)
”どうも妙な具合だな――おれはオーエン夫婦を知っていて、当然なのか”
[改訳]
”どうも妙な具合だな――おれはオーエン夫婦を知っていて、当然ということなのかな”
[原文1](P.32)
Lombard thought : Awkward, this – am I supposed to have met them or not?
[原文2](P.18)
(原文1と同一)
　ヴェラは早々と「自分はオーエン夫人の秘書だ」と名乗り、まったく面識もないのに「一通の手紙で雇いたいと言われて島に向かっている」と表明している。一方、ヴェラ自身は「ロンバートは島に招待された客の一人だからオーエン夫妻と面識があって当然だ」と思い込んでいる。ロンバートからすると、モリスを介して胡散臭い仕事のために島まで来たので「オーエン夫妻と面識があるとした方が自然なのか、あるいは不自然なのか」と心の中で葛藤している。新訳の「オーエン夫婦を知っていて当然なのか」という訳では、ロンバートの心の中の戸惑いや葛藤が見えにくいので、改訳はもうちょっと分かりやすく書き直してある。

　第2章第2節で、南アフリカ帰りの男の振りをしたブロアが判事たちの前で自己紹介をする。
[新訳](2章2節P.40)
　ウォーグレイヴ判事が、いやなやつだと言わんばかりに男のほうを見た。退廷を命じて、この男をこの場から追い払いたい気分なのだろう。
[改訳]
　ウォーグレイヴ判事が、いやなやつだと言わんばかりの目つきで男を見た。できることなら退廷を命じて、この男をこの場から追い払いたい気分なのだろう。
[原文1](P.35)
Mr Justice Wargrave looked at him with active malevolence. He seemed to be wishing that he could order the court to be cleared.
[原文2](P.20)
(原文1と同一)
　原文のMr Justice Wargrave looked at him with active malevolence.は「ウォーグレイヴ判事はしきりに意地の悪い目つきで男を見た。」という意味だ。looked atなので「言わんばかりに…見た」とするよりも「言わんばかりの目つきで…見た」あるいは「言わんばかりに…にらみつけた」などが訳として分かりやすい。ただし、新訳のままでも何となく意味は伝わってくるので、分かりにくいとは思わない。
　一方、「男のほうを見た」については明らかに「男を見た(にらみつけた)」とする方が良いと思う。

　さて、これでようやく「改訳新版」をお迎えする準備は整ったようだ。あれ？いつの間にか買う気になってる？<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928E694B9E8A8B3E696B0E7898829.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="表紙(改訳新版).jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928E694B9E8A8B3E696B0E7898829-thumbnail2.jpg" width="101" height="150" onclick="location.href = 'https://elleryqueen.seesaa.net/upload/detail/image/E8A1A8E7B49928E694B9E8A8B3E696B0E7898829-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a>　<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928HarperCoins201529.JPG" target="_blank"><img border="0" alt="表紙(HarperCoins2015).JPG" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928HarperCoins201529-thumbnail2.JPG" width="92" height="150" onclick="location.href = 'https://elleryqueen.seesaa.net/upload/detail/image/E8A1A8E7B49928HarperCoins201529-thumbnail2.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br />　いよいよ週明けの2026年3月2日にアガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった〔改訳新版〕』が早川書房のクリスティー文庫から出版される。一つ前の記事と同じことを書いている。前の記事のタイトルに(その1)をつけなかったのは、いわゆる「新訳」と「改訳」それぞれの成立事情および訳文の比較を終えて、けりが付いたと思ったからだ。ただ、心残りはあった。訳文の比較の際に、原文をつけなかった事だ。<br /><br />　たしか旧訳と新訳とを比較した記事を書く際に、原書から訳文を採取してきたのではなかったか。そこで自室の積ん読本の山を崩して調べた結果、あると思った原書が見当たらない。訳文を比較するために、確かに原文に基づいて考察した記憶があるから、きっと見つかると思ったのに。だんだん自分の記憶が怪しくなってきたところで、別の本を探しにオリオン書房ノルテに立ち寄ったら最新の『And Then There Were None』を見つけてしまった。<br />　悩んだ。家捜しすれば見つかるかもしれない。でも、すぐに確かめたい。値段もそれほど高額ではない。<br />　再び悩んだ。そう言えば、神保町の羊頭書房の洋書コーナーに、割ときれいな”このペーパーバック"があったなぁ。安い値段で手に入るのに。<br />　三度悩んだ。でも、今の体調じゃ当分、羊頭書房はおあずけだなぁ。という次第で、買ってしまった。<br /><br />　買ってから、まずは奥付(いや、海外では奥ではなく頭にあるから頭付け？)を見ると、HaperCollins社のペーパーバックなのは間違いないが、2015年出版となっている。という事は僕が持っているはずのペーパーバックとは別物だ。何故なら新訳版が2010年に出版されたときに、この原書はまだ世に出ていないからだ。新訳が底本としたのはこれではない。でも記憶にある表紙と一致しているんだよな。<br />　そこで、はたと思いついて立川市立図書館の蔵書検索をしたところ、2007年に出版されたHaperCollins社のペーパーバックがあるではないか！(その後、かつてはよく利用していた川崎市立図書館には、HaperCollins社のペーパーバック2007年版、2015年版どちらもある事が分かった。)　その後、『そして誰もいなくなった』に関する自分の記事をちゃんと読み直したら、最初は原書を一切参照せずに新旧の訳文だけを比較していたが、その後、正しい比較をするために「図書館で原書を借りた」という記述を見つけた。<br /><br />　さっそく2007年版を立川で借りて分かったのは、二冊のペーパーバックの原文に違いがあるという点だ。そして、これは「改訳新版」が刊行されないと確認しようがないが、おそらく従来の「新訳版」は2007年版を底本とし、今回の「改訂新版」は2015年版を底本としているはずだ。<br />　そこで、あらためて翻訳の『そして誰もいなくなった』の変遷について書いておく。今回の比較に旧訳は関係ないが、とりあえず現時点で把握できた事を書き加えておきたい。<br /><blockquote><strong>(1)旧訳(清水俊二訳) 1955年6月刊行　ハヤカワ・ポケット・ミステリ</strong><br />　底本不明(1940年刊行の米版か？)　童謡「10人の小さな黒人」、島名「黒人島(?)」<br /><strong>(2)旧訳(清水俊二訳) 1976年1月刊行　ハヤカワ・ポケット・ミステリ</strong><br />　底本不明(1964年刊行の米版か？)　童謡「10人の小さなインディアン」、島名「インディアン島」<br /><strong>(3)旧訳(清水俊二訳) 1976年4月刊行　ハヤカワ・ミステリ文庫</strong><br />　(2)(3)の訳文はおそらく同一。いずれも「黒人(nigger)」から「インディアン(Indian)」に切り替え。<br /><strong>(4)旧訳(清水俊二訳) 2003年10月刊行　クリスティ文庫</strong><br />　(3)の改訳。特定の人物の独白の一部が誤訳だとする異議申し立てを受け入れ、故清水氏に代わって誰かが訳を差し替え。<br /><strong>(5)新訳(青木久惠訳) 2010年11月刊行　クリスティ文庫</strong><br />　底本はHarperCollins社ペイパーバック（2007年版)<br /><strong>(6)特装版(青木久惠訳) 2025年刊行　単行本</strong><br />　底本はHarperCollins社ペイパーバック（2015年版)<br /><strong>(7)改訳新版(青木久惠訳) 2026年発行　クリスティ文庫</strong><br />　(6)(7)の訳文は同一。</blockquote>　なお、旧訳については底本の記載が一切ないが、Wikipediaの「そして誰もいなくなった」の頁の「改題と改編」に関する記述が参考になる。<br />　アガサ・クリスティー『そして誰もいなくなった』は1939年に英国で「Ten Little Niggers」という題名で出版された。翌1940年に米国で『And Then There Were None』というタイトルで出版された。その後、1964年に米版では差別用語のNiggerを本文からも一掃し、NiggerからIndianに差し替えた。さらにIndianに差し替えた改編にもクレームが付き、西暦の記載はないがSoldiersに差し替える改編があった。<br /><br />　これらの事から、(1)旧訳(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)は1940年の米版を底本としている可能性が高い。そして(2)旧訳(ハヤカワ・ポケット・ミステリ)および(3)旧訳(ハヤカワ・ミステリ文庫)は1964年の米版が底本だろう。クリスティーは1976年に亡くなるまで現役だったので、これらの改編版の文責は著者にあると言っていいだろう。ただし、今回のHaperCollins社ペーパーバックの2007年版、2015年版でも原文に違いが見られるとなると、これは著者の知るところではない。日本だと巻末に「不適切な表現が含まれているが、発表当時の社会情勢や著者の意図などを尊重して原文どおりとした」という但し書きをつける事が多いが、海外だと著者の死後でもあっても容赦なく、著作権所有者の了解をとって原文を修正してしまうようだ。<br /><br />　さて、これで準備はできた。この(その2)では、一つ前の記事と同じように新訳と改訳の比較を行うが、同時に底本となったHaperCollins社ペーパーバックの2007年版(原文1と呼ぶ)、2015年版(原文2と呼ぶ)の比較も行う。<br /><br />　第1章第1節はウォーグレイヴ判事が列車内で兵隊島に関する新聞記事の内容を思い出している場面。オーエンという人物が買い取ったところからゴシップ記者の信憑性に乏しい推測が入った内容が取り上げられる。<br /><blockquote><strong>[新訳](1章1節P.12)</strong><br /><span style="color:#ff0000;">〈風便配達人〉と名のる</span>ゴシップ記者は、あれはイギリス王室専用の別荘になるのではないか！などと<span style="color:#ff0000;">それとなく</span>におわせたし、<span style="color:#ff0000;">〈好天好日〉</span>記者は、<span style="color:#ff0000;">例の島は新婚旅行用に買われたらしいという話を、小耳にはさんだと書いた。</span>若き貴公子Ｌ卿の胸を、ついにキューピッドの愛の矢が射ぬいたのだ！　と。<br /><strong>[改訳]</strong><br /><span style="color:#0000ff;">〈東奔西走〉と称する</span>ゴシップ記者は、あれはイギリス王室専用の別荘になるのではないか！などと<span style="color:#0000ff;">言葉巧みに</span>におわせたし、<span style="color:#0000ff;">〈本日は晴天なり〉</span>記者は、<span style="color:#0000ff;">自分が小耳にはさんだところでは、例の島は新婚旅行用に買われたらしいと書いた。</span>若き貴公子Ｌ卿の胸を、ついにキューピッドの愛の矢が射ぬいたのだ！　と。<br /><strong>[原文1](P.12)</strong><br /><span style="color:#00cc00;"><em>Busy Bee</em></span> had hinted <span style="color:#00cc00;">delicately</span> that it was to be an abode for Royalty??! <span style="color:#00cc00;"><em>Mr Merryweather </em>had had it whispered to him that it had been bought for a honeymoon</span> – Young Lord L― had surrendered to Cupid at last!<br /><strong>[原文2](P.2)</strong><br />(原文1と同一)<br /></blockquote>　ゴシップ紙なのかゴシップ欄なのか不明だが、記者は匿名でペンネームを使うのが通例だ。新訳ではBusy Bee(働き者、忙しい人)を「風便配達人」というペンネームに訳し、Mr Merryweatherを「好天好日」と訳しているが、今ひとつ分かりにくいと考えたのだろうか。改訳ではそれぞれ「東奔西走」「本日は晴天なり」に変えている。<br /><br />　delicate(ly)には色々な語義があって、ランダムハウス英和辞典では「3（ほとんど感じられないほど）かすかな、6〈問題・仕事などが〉最新の注意を要する、9（正しい行為・作法などに）細かく気を配る、10〈言葉などが思いやりのある、よく気のつく〉」などが挙げられる。辞書で考える限り、「それとなく」は語義9に当てはまりそうだが、「言葉巧みに」という語義はない。機械であれば「5 精巧な、精密な」という語義はあるが、ここで言う「言葉巧みに」は読者を信じさせようとする一種の悪意が感じられるので、新訳のままの方がまだよかったように感じる。<br /><br />　原文の"Mr Merryweather had had it whispered to him that it had been bought for a honeymoon"の部分は、<br /><blockquote>Mr Merryweather had had it whispered to him<br />　　　　　　　　　　　　　└ that it had been bought for a honeymoon</blockquote>　と解釈できる。that節の主語itはthe abode(住居)を指すので、直訳すれば「この住まい(別荘)は新婚の時期を過ごすために購入したという話を、ペンネーム〈好天好日〉記者は小耳にはさんだ。」となる。ただし、新聞のゴシップ欄にそう書かれているのをウォーグレイヴ判事が読んでいるのだから「この住まい(別荘)は新婚の時期を過ごすために購入したという話を小耳にはさんだと、ペンネーム〈好天好日〉記者は書いた。」となる。もちろん「小耳にはさんだ」の主格も「ペンネーム〈好天好日〉記者は」なのだが、どちらにも書くのはくどい。新訳のように「小耳にはさんだと書いた」に掛けようとすると、どちらに係るのか両方に係るのかが曖昧になる。これは日本語の問題なので、改訳のように変えた事で曖昧さは解消した。<br /><br />　第1章第3節では、元陸軍大尉フィリップ・ロンバートが、列車内で、兵隊島に向かうように仕事を依頼された場面を回想している。<br /><blockquote><strong>[新訳](1章3節P.17)</strong><br />あの<span style="color:#ff0000;">チビのユダヤ人</span>、やたら謎めいたことを言っていたなあ。<br /><strong>[改訳]</strong><br />あの<span style="color:#0000ff;">男</span>、やたら謎めいたことを言っていたなあ。<br /><strong>[原文1](P.16)</strong><br /><span style="color:#00cc00;">That little</span> <span style="color:#ff0000;">Jew</span> had been dammed mysterious.<br /><strong>[原文2](P.5)</strong><br /><span style="color:#00cc00;">That little</span> <span style="color:#0000ff;">man</span> had been dammed mysterious.</blockquote>　原文で著者クリスティーは「ユダヤ人」に対する揶揄を悪びれる事なく使っている。これはシェークスピアの時代から続いた悪弊と言えるかもしれない。「原文に忠実」をモットーとする青木さんは、新訳ではそのまま「チビのユダヤ人」と訳してきたが、さすがに社会的状況を鑑みて「男」と言いかえたか。<br />　最初はそう思ったのだが、底本のHarperCollins社ペーパバックを最新の2015年版に変えたのであれば、当然の変更だった。2015年版ではJew(ユダヤ人)を駆逐してしまったのだ。勢いのままlittle(チビの)まで訳から外してしまった。「あの背の低い男」とか「あの小男」とすればよかったんじゃないだろうか。<br /><br /><blockquote><strong>[新訳](1章3節P.17)</strong><br />でもあの<span style="color:#ff0000;">ユダヤ人</span>にはそのことが、ちゃんとわかっていたのにちがいない。しゃくにさわるのは、そこだ。こと金に関する限り、<span style="color:#ff0000;">やつらの目</span>は絶対にごまかせない――すべて、お見とおしだ！<br /><strong>[改訳]</strong><br />でもあの<span style="color:#0000ff;">男</span>にはそのことが、ちゃんとわかっていたのにちがいない。しゃくにさわるのは、そこだ。こと金に関する限り、<span style="color:#0000ff;">やつの目</span>は絶対にごまかせない――すべて、お見とおしだ！<br /><strong>[原文1](P.16)</strong><br />He had fancied, though, that <span style="color:#ff0000;">the little Jew</span> had not been deceived<span style="color:#ff0000;"> – that was the damnable part about Jews, you couldn't deceive them about money – they knew</span>!<br /><strong>[原文2](P.5)</strong><br />He had fancied, though, that <span style="color:#0000ff;">the little man</span> had not been deceived!<br /></blockquote>　ここも一つ前の変更と同じで、底本の更新に合わせて「ユダヤ人」が「男」に置き換わった。<br />　問題は後半の「やつらの目」が「やつの目」に改編されている箇所だ。前の記事では「ユダヤ人(＝モリス)」の事を指しているので「やつら」は単純なミスだと書いたのだが、そんな単純な話ではなかった。後半の文では、最初に「あのユダヤ人」が出てくる。次に、ダッシュ(–)で括られた挿入部分にJews(ユダヤ人全般)が出てくる。原文1は「あのチビのユダヤ人は、たぶん、こちらの見栄(＝財布の中がすっからかんなのを隠している事)に気づいていたはずだ。そこがユダヤ人ってやつらのいまいましいところだ。とりわけお金の事となると、やつらをペテンにかけるなんてできやしない――やつらは何でもお見通しなんだ！」と訳すところだ。だから新訳の「やつらの目は絶対にごまかせない」は正しい。<br /><br />　ところが「ユダヤ人」を「男」に置き換えた事で、改訳では「ユダヤ人全般」の話は出来なくなってしまった。ここを「男全般」の話とする訳にもいかない。そこで改訳の方は、挿入部分を「ユダヤ人全般」ではなく「あのユダヤ人」の特徴を説明したものだと、話をねじ曲げてしまった。だから「やつの目」でないと辻褄が合わない。<br />　ただし、話の流れとして新訳は「ユダヤ人は何でもお見通しだから、あのチビのユダヤ人もきっと気づいていたはずだ」と言っているのに対して、改訳は「あの小男は何でもお見通しだから、きっと気づいていたはずだ」と言っている事になり、挿入部分は不要な説明になってしまった。これは一種のトートロジーだろう。しかもよくよく原文2を見ると、挿入部分を活かす事ができなくなったのでさっさと削除しているではないか。原文2は「あの小男は、たぶん、こちらの見栄に気づいていたはずだ！」と訳せばいい。改訳は何故、原文2をそのまま訳していないのだろう。<br /><br /><blockquote><strong>[新訳](1章3節P.18)</strong><br />真面目くさって答えるモリスの<span style="color:#ff0000;">ユダヤ人らしい厚ぼったい</span>唇に、薄笑いがかすかににじんだ。<br /><strong>[改訳]</strong><br />真面目くさって答えるモリスの唇に、薄笑いがかすかににじんだ。<br /><strong>[原文1](P.17)</strong><br />There had been a very faint smile on the <span style="color:#ff0000;">thick Semitic</span> lips of Mr Morris as he answered gravely:<br /><strong>[原文2](P.6)</strong><br />There had been a very faint smile on the lips of Mr Morris as he answered gravely:<br /></blockquote>　Semiticは「セム族の、(特に)ユダヤ人の」を意味する形容詞だ。だからthick Semitic lipsは「ユダヤ人特有の厚ぼったい唇」という意味だろう。明らかに民族を肌の色で差別するのと同様で、民族特有の身体的特徴を揶揄している。原文2で削除されたので改訳からも削除された。<br /><br /><blockquote><strong>[新訳](1章3節P.19)</strong><br />たしかに危ない橋を渡ったことも、<span style="color:#ff0000;">一度や二度あったっけな</span>。<br /><strong>[改訳]</strong><br />たしかに危ない橋を渡ったことも、<span style="color:#0000ff;">一度とは言わずあったっけ</span>。<br /><strong>[原文1](P.17)</strong><br />By Jove, he'd sailed pretty near the wind <span style="color:#00cc00;">once or twice</span>!<br /><strong>[原文2](P.6)</strong><br />(原文1と同一)<br /></blockquote>　モリスから「何か不正があったら、手を引いていい」と言われて、ロンバート自身そんな事を気にする性格ではないとモリスに見透かされてると感じる。新訳では「一度や二度」と回数を限定したが、改訳では「何度かあった」という意味に変更されている。ただし、原文はonce or twiceとはっきり書かれている。回数を限定した新訳の方が適切なように感じる。今回の「改訳新版」における改訳の意義については以下のように書かれていた。<br /><blockquote>孤島で繰り広げられる事件の緊張感はそのままに、これから先も多くの方にお読みいただけるよう、文中の用語や文章のリズム感を見直しています。</blockquote>　だが果たして「一度とは言わずあったっけ」の方が多くの人にとって分かりやすいかどうか、ちょっと疑問だ。<br /><br />　第1章第4節では老婦人エミリー・ブレントが禁煙席で背筋をしゃんと伸ばして座っている。<br /><blockquote><strong>[新訳](1章4節P.19)</strong><br />昔かたぎの<span style="color:#ff0000;">軍人</span>の父に厳しくしつけられたのだ。<br /><strong>[改訳]</strong><br />昔かたぎの<span style="color:#0000ff;">陸軍大佐</span>の父に厳しくしつけられたのだ。<br /><strong>[原文1](P.18)</strong><br />Her father, <span style="color:#00cc00;">a Colonel</span> of the old school, had been particular about deportment.<br /><strong>[原文2](P.6)</strong><br />(原文1と同一)<br /></blockquote>　予想通り、原文にはa Colonelが使われていた。colonelは「《英》陸軍大佐」を意味するので、改訳の方がより正確な用語に改められた。日本語のいわゆる軍人は「軍籍に身を置く人の総称(新明解)」を意味し、陸・海・空軍の区別を問わず、階級も問わず使える。colonelは階級も意味するので、新訳の「軍人」はちょっと舌足らずの用語だった。<br /><br />　第1章第5節では退役将軍のジョン・マッカーサーが、「この頃、周囲の人間が自分を避けているような気がする」のは、アーミテッジが”あの噂"をしゃべったからに違いないと勘ぐっている。<br /><blockquote><strong>[新訳](1章5節P.23)</strong><br />あの青二才め！　いったい<span style="color:#ff0000;">なに</span>をつかんだのだろう。<br /><strong>[改訳]</strong><br />あの青二才め！　いったい<span style="color:#0000ff;">何</span>をつかんだのだろう。<br /><strong>[原文1](P.21)</strong><br />Damned young pup! What did <em>he</em> know about it?<br /><strong>[原文2](P.9)</strong><br />(原文1と同一)<br /></blockquote>　「なに」の前後に平仮名が続くので、漢字にした方が読みやすいと思い直したか。どちらでもよいように思えるが、「漢字と仮名のどちらにするか」に関する方針が新訳出版当時(2010年)と現在とで変わってきたのかもしれない。<br /><br /><blockquote><strong>[新訳](1章5節P.24)</strong><br />　エクセター駅に着いたぞ！　ここで一時間待ちだ。将軍は待ちたくなかった。<span style="color:#ff0000;">早いところ</span>……。<br /><strong>[改訳]</strong><br />　エクセター駅に着いたぞ！　ここで一時間待ちだ。将軍は待ちたくなかった。<span style="color:#0000ff;">さっさと行きたい</span>……。<br /><strong>[原文1](P.21)</strong><br />Exeter! And an hour to wait! And he didn't want to wait. He wanted to get on . . .<br /><strong>[原文2](P.9)</strong><br />(原文1と同一)<br /></blockquote>　本書では独白が非常に多く、著者はこれをトリックの一部として活用している。「言葉を濁す」という言い回しがあるが、ここでは最後に「言葉を濁した」かのような独白を心の中で言っている。日本語と英語では語順に違いがあり、特に述部が文末にくる日本語に対して、英語は主語の次にくる。なので「言葉を濁す」場合は日本語は述部を、英語は述部以外の目的語・補語・副詞などが「…」になる。それを考えると、新訳の「早いところ…」では読者に分かりにくいと考えたのだろう。<br /><br />　元警部のウィリアム・ブロアもロンバート同様、偽の依頼で兵隊島に向かうような素振りを見せる。そして子供の頃に兵隊島の様子を見たことがあると述懐している。<br /><blockquote><strong>[新訳](1章8節P.30)</strong><br />カモメだらけでいかにも<span style="color:#ff0000;">プンプン臭いそうな</span>、岩ばかりの島だ。<br /><strong>[改訳]</strong><br />カモメだらけでいかにも<span style="color:#0000ff;">悪臭プンプンの</span>、岩ばかりの島だ。<span style="color:#0000ff;">人間の頭に似ていることから名付けられたらしい。</span><br /><strong>[原文1](P.26)</strong><br /><span style="color:#00cc00;">Smelly</span> sort of rock covered with gulls – stood about a mile from the coast. <br /><strong>[原文2](P.13)</strong><br /><span style="color:#00cc00;">Smelly</span> sort of rock covered with gulls – stood about a mile from the coast. <span style="color:#0000ff;">It had got its name from its resemblance to a man's head.</span><br /></blockquote>　「プンプン(ぷんぷん)」とは「強いにおいのたちこめるさま(日国)」を指す。転じて何かの気配がたちこめるさま」も指すので、「香水をぷんぷんさせる」「エリート意識がぷんぷんにおう」とも言える。ここではカモメの何が「プンプンとにおってくるか」をハッキリさせるために改訳しているようだ。<br /><br />　改訳の「人間の頭に似ていることから名づけられたらしい」とは、兵隊島の名前の由来である。原文2で一文が追加されたので、その通りに翻訳を追加している。新訳版で訳しそびれていた訳ではなかった。ちなみに(4)旧訳(クリスティ文庫)では以下のように訳されている。<br /><blockquote><strong>[旧訳](P.29)</strong><br />インディアン島――彼は少年時代にインディアン島を知っていた。岩だらけの島で、鴎がいっぱい集まっていた。海岸から一マイルほどの距離だった。<span style="color:#0000ff;">その由来は人間の頭に似ているところからきていた</span>――アメリカ・インディアンの横顔に似ているのだった。</blockquote>　黒人島からインディアン島に改編した際の文責はクリスティーにあるから、この描写はクリスティーによるものだろう。その後、インディアン島が兵隊島に変更された際に、島の名前の由来を説明した文は削除されたようだ。だから原文2の追加部分は、以前の版で削除された文章の一部を復活したものと考えられる。<br /><br />　第2章1節の冒頭で、「オークリッジ駅の前に数人のグループが、ちょっととまどった顔つきで立って」いる。彼らはウォーグレイヴ判事、ヴェラ、ロンバート、ミス・ブレントの四名だ。<br /><blockquote><strong>[新訳](2章1節P.32)</strong><br />後ろに駅のポーターが<span style="color:#ff0000;">続いている</span>。<br /><strong>[改訳]</strong><br />後ろに駅のポーターが<span style="color:#0000ff;">従っている</span>。<br /><strong>[原文1](P.29)</strong><br />Behind them stood porters with suitcases.<br /><strong>[原文2](P.15)</strong><br />(原文1と同一)<br /></blockquote>　ポーターは「乗降客の手荷物を運ぶ人」を指す。昔の日本ならば「赤帽」だろう。原文を見る限り、それぞれの手荷物を運ぶポーターが後方に立っているという描写だ。新訳の「続いている」だと、一行が歩き出しているか、あるいは一列に並んでいるかのように感じられるので、改訳の「従っている」に変えたのだろう。<br /><br />　まもなく到着する鈍行の乗客(マッカーサー)が予約したタクシーに同乗するために、ロンバートとヴェラがその場に残る。ロンバートがヴェラに向かって質問を投げかける場面。<br /><blockquote><strong>[新訳](2章1節P.35)</strong><br />　<span style="color:#ff0000;">ありきたりな質問だが</span>、ロンバートは<span style="color:#ff0000;">尋ねてみた</span>。<br /><strong>[改訳]</strong><br />　<span style="color:#0000ff;">いささか新鮮味にかける</span>質問だったが、ロンバートは<span style="color:#0000ff;">尋ねた</span>。<br /><strong>[原文1](P.31)</strong><br /><span style="color:#00cc00;">With a slight lack of originality Lombard asked:</span><br /><strong>[原文2](P.17)</strong><br />(原文1と同一)<br /></blockquote>　「このへんを、よくご存じですか」が質問の中身だ。「ありきたりな」も「新鮮味にかける」も似たり寄ったりの訳だ。ただし、後者の方が逐語訳なので、若い世代には分かりやすいのかもしれない。一方、単にLombard askedなので「尋ねてみた」というニュアンスはない。改訳の「尋ねた」の方が良い。<br /><br />　引き続きロンバートとヴェラの会話。互いに相手から情報を引き出そうとして手探り状態になっている。島の所有者のオーエン夫妻とは「どんな方なのか教えてほしい」とヴェラから請われて、ロンバートが内心戸惑う場面。<br /><blockquote><strong>[新訳](2章1節P.36)</strong><br />”どうも妙な具合だな――おれはオーエン夫婦を知っていて、<span style="color:#ff0000;">当然なのか</span>”<br /><strong>[改訳]</strong><br />”どうも妙な具合だな――おれはオーエン夫婦を知っていて、<span style="color:#0000ff;">当然ということなのかな</span>”<br /><strong>[原文1](P.32)</strong><br />Lombard thought : Awkward, this – <span style="color:#00cc00;">am I supposed to have met them or not?</span><br /><strong>[原文2](P.18)</strong><br />(原文1と同一)<br /></blockquote>　ヴェラは早々と「自分はオーエン夫人の秘書だ」と名乗り、まったく面識もないのに「一通の手紙で雇いたいと言われて島に向かっている」と表明している。一方、ヴェラ自身は「ロンバートは島に招待された客の一人だからオーエン夫妻と面識があって当然だ」と思い込んでいる。ロンバートからすると、モリスを介して胡散臭い仕事のために島まで来たので「オーエン夫妻と面識があるとした方が自然なのか、あるいは不自然なのか」と心の中で葛藤している。新訳の「オーエン夫婦を知っていて当然なのか」という訳では、ロンバートの心の中の戸惑いや葛藤が見えにくいので、改訳はもうちょっと分かりやすく書き直してある。<br /><br />　第2章第2節で、南アフリカ帰りの男の振りをしたブロアが判事たちの前で自己紹介をする。<br /><blockquote><strong>[新訳](2章2節P.40)</strong><br />　ウォーグレイヴ判事が、<span style="color:#ff0000;">いやなやつだと言わんばかりに男のほうを見た</span>。退廷を命じて、この男をこの場から追い払いたい気分なのだろう。<br /><strong>[改訳]</strong><br />　ウォーグレイヴ判事が、<span style="color:#0000ff;">いやなやつだと言わんばかりの目つきで男を見た</span>。<span style="color:#0000ff;">できることなら</span>退廷を命じて、この男をこの場から追い払いたい気分なのだろう。<br /><strong>[原文1](P.35)</strong><br />Mr Justice Wargrave <span style="color:#00cc00;">looked at him with active malevolence</span>. He seemed to be wishing that he <span style="color:#00cc00;">could</span> order the court to be cleared.<br /><strong>[原文2](P.20)</strong><br />(原文1と同一)<br /></blockquote>　原文のMr Justice Wargrave looked at him with active malevolence.は「ウォーグレイヴ判事はしきりに意地の悪い目つきで男を見た。」という意味だ。looked atなので「言わんばかりに…見た」とするよりも「言わんばかりの目つきで…見た」あるいは「言わんばかりに…にらみつけた」などが訳として分かりやすい。ただし、新訳のままでも何となく意味は伝わってくるので、分かりにくいとは思わない。<br />　一方、「男のほうを見た」については明らかに「男を見た(にらみつけた)」とする方が良いと思う。<br /><br />　さて、これでようやく「改訳新版」をお迎えする準備は整ったようだ。あれ？いつの間にか買う気になってる？<a name="more"></a><div class="blogmura-link"><a href="https://blogmura.com/ranking/in?p_cid=10113262" target="_blank"><img src="https://b.blogmura.com/88_31.gif" width="88" height="31" border="0" alt="ブログランキング・にほんブログ村へ" />にほんブログ村</a>
<a href="https://blogmura.com/profiles/10113262?p_cid=10113262" target="_blank"><img src="https://blogparts.blogmura.com/parts_image/user/pv10113262.gif" alt="PVアクセスランキング にほんブログ村" /></a></div>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
            <category>　書評(アガサ・クリスティー)</category>
      <author>アスラン</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,elleryqueen/520074173</guid>
            <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928E694B9E8A8B3E696B0E7898829.jpg" length="365566" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928E694B9E8A8B3E696B0E7898829.jpg" length="365566" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928HarperCoins201529.JPG" length="25664" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928HarperCoins201529.JPG" length="25664" type="image/jpeg" />
                      </item>
        <item>
      <link>https://elleryqueen.seesaa.net/article/520031118.html</link>
      <title>『そして誰もいなくなった』新訳と改訳との違い</title>
      <pubDate>Mon, 23 Feb 2026 23:25:25 +0900</pubDate>
            <description>　まもなく2026年3月2日にアガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった』が早川書房のクリスティー文庫から出版される。「改訳新版」と称している。翻訳者は青木久惠さんなので、僕が慣れ親しんできた清水俊二さんの旧訳を全面的に新しく訳し直した「新訳版」から、さらに訳文を改めた事になるのか。「そんなこと聞いてないよ。」という次第で、俄然気になってきた。　一方で昨年2025年に出版された「特装版」という単行本が存在する。早川書房公式サイトに掲載された改訳新版のお知らせでは、「特装版..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928E694B9E8A8B3E696B0E7898829.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="&#x8868;&#x7D19;(&#x6539;&#x8A33;&#x65B0;&#x7248;).jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928E694B9E8A8B3E696B0E7898829-thumbnail2.jpg" width="101" height="150"></a>
　まもなく2026年3月2日にアガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった』が早川書房のクリスティー文庫から出版される。「改訳新版」と称している。翻訳者は青木久惠さんなので、僕が慣れ親しんできた清水俊二さんの旧訳を全面的に新しく訳し直した「新訳版」から、さらに訳文を改めた事になるのか。「そんなこと聞いてないよ。」という次第で、俄然気になってきた。

　一方で昨年2025年に出版された「特装版」という単行本が存在する。早川書房公式サイトに掲載された改訳新版のお知らせでは、「特装版」の翻訳にも手を加えたかのような書き方だったので、「特装版」を購入した人はなおさら色めき立ったようだ。しかし、僅か四日後に早川書房は以下のような追記を付したお知らせを再度出した。
<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E694B9E8A8B3E696B0E78988E381AEE3818AE79FA5E38289E3819B.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="&#x6539;&#x8A33;&#x65B0;&#x7248;&#x306E;&#x304A;&#x77E5;&#x3089;&#x305B;.jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E694B9E8A8B3E696B0E78988E381AEE3818AE79FA5E38289E3819B-thumbnail2.jpg" width="121" height="150"></a>
　この追記によって、ようやく僕にも事情が呑み込めた。初めて読む方もいると思うので、まずは『そして誰もいなくなった』の変遷について確認しておこう。
(1)旧訳(清水俊二訳) 2003年発行　クリスティ文庫
(2)新訳(青木久惠訳) 2010年発行　クリスティ文庫
(3)特装版(青木久惠訳) 2025年発行　単行本
(4)改訳新版(青木久惠訳) 2026年発行　クリスティ文庫
(1)旧訳(清水俊二訳) について
　旧訳が初めて出版されたのはハヤカワ・ポケット・ミステリ(1955年)に遡る。以来、ハヤカワ・ミステリ文庫やクリスティ文庫でも同じ訳が使われ、半世紀以上もの長きに渡って読まれ続けてきた名翻訳である。ただし半世紀以上も使われ続けた故に翻訳が古びてきたのは確かだろう。また、それとは別の理由で旧訳の根幹に対する異議申し立てをする評論が現れた。詳しくは、僕が書いた以下の記事を参照の事。
<a href="http://elleryqueen.seesaa.net/article/6974299.html" target="_blank">ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18　小森収 編(その５)</a>
<a href="http://elleryqueen.seesaa.net/article/171087851.html" target="_blank">「明るい館の秘密(若島正)」の過失(その１)</a><a href="http://elleryqueen.seesaa.net/article/171379858.html" target="_blank">(その２)</a><a href="http://elleryqueen.seesaa.net/article/172798155.html" target="_blank">(その３)</a><a href="http://elleryqueen.seesaa.net/article/173861166.html" target="_blank">(その４)</a><a href="http://elleryqueen.seesaa.net/article/180396976.html" target="_blank">(その５)</a>
(2)新訳(青木久惠訳) について
　2010年にようやく新訳として『そして誰もいなくなった』が生まれ変わった。清水旧訳をどう変えたかは置いておくとして、ハッキリしている点が２つある。一つは定本をHarperCollins社のペイパーバック版とした点である。HarperCollins社は米国の出版社であり、本書の原題である"Ten Little Niggers"や”Ten Little Indians"ではなく別の題名”And Then There Were None"を用いている。当然ながらNiggers(黒人)やIndians(インディアン)に蔑称としての歴史的経緯があるためである。それとともに、舞台となる島の名前は「インディアン島」から「兵隊島」に変更された。
　さらにもう一つは、旧訳への異議申し立てで誤訳とされた箇所が全面的に書き改められている点だ。これは異議申し立ての主張を全面的に受け入れて、主張内で推奨された訳文をそのまま採用している。これに対する僕の反論は、さきほどの旧訳についての参照記事に書いた。

　当然ながら、新訳が全体的に旧訳とどう違うのかは僕の最大の関心事だったので、それについては2010年当時からいろいろと検討してきた。以下は、それをまとめた評論(エッセイ)記事である。
<a href="http://elleryqueen.seesaa.net/article/169326464.html" target="_blank">新訳「そして誰もいなくなった(アガサ・クリスティ)」の意義</a>
<a href="http://elleryqueen.seesaa.net/article/169546661.html" target="_blank">そして旧訳が残った ～旧訳「そして誰もいなくなった(アガサ・クリスティ)」の意義～</a>
<a href="http://elleryqueen.seesaa.net/article/172100298.html" target="_blank">清水俊二訳「そして誰もいなくなった(ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 1-1)」を探して</a>
<a href="http://elleryqueen.seesaa.net/article/185557726.html" target="_blank">「そして誰もいなくなった(アガサ・クリスティー作、青木久惠訳)」の翻訳について</a>
<a href="http://elleryqueen.seesaa.net/article/192955179.html" target="_blank">そして誰もいなくなった　アガサ・クリスティー著／青木久惠訳(クリスティー・ジュニア・ミステリ,2011/3/?読了)</a>

(3)特装版(青木久惠訳) について
　昨年2025年に出版された豪華装丁を施した函入りの単行本。早川書房公式サイトの検索では、何故この時期に出版したのか書かれていないのだが、探すと以下の記事が出て来た。ようするに、旧訳のハヤカワ・ポケット・ミステリ版(1955年)から数えて、昨年が70周年という節目の年だったという事だ。
<a href="https://www.hayakawabooks.com/n/n1b922b7c152b" target="_blank">日本刊行70周年記念『そして誰もいなくなった〔特装版〕』刊行！ファン必携の豪華函入り本が登場！</a>
　注意したいのは、冒頭でとりあげた「改訳新版のお知らせ」の追記だ。「〔特装版〕の制作にあたって、翻訳を見直す」ことになったという経緯が書かれているので、特装版の翻訳は新訳版(2010年)の「改訳」という事になる。どこが変わったかについては以下のように書かれている。
孤島で繰り広げられる事件の緊張感はそのままに、これから先も多くの方にお読みいただけるよう、文中の用語や文章のリズム感を見直しています。　どうやら大きな変更はなく、現在の社会状況なども考慮して一部手直ししたように受け取れる。

(4)改訳新版(青木久惠訳)について
　そして今回の「改訳新版」だ。追記には「(改訳新版と特装版の)本文は同一です」と書かれているので、本文にこだわる限り、特装版を購入した人は「改訳新版」を気にする必要はない。では特装版と改訳新版との違いは何かと言えば、この改訳を文庫本にも反映して「より多くの人に」読んでもらおうという点だろう。それと、どうやら特装版は構成上の問題(真相に触れた手紙が入った封筒が巻末に貼られている)で、解説を挿入しなかった(できなかった)らしい。今回の改訳新版では、文筆家・山崎怜奈の解説と、新訳版に収録されていた赤川次郎の解説との２つを収録した。

　これでようやく「改訳新版」にいたるまでの状況が把握できた。さて、これからが本題だ。「新訳と改訳との違い」は何かという点だ。これはもう「改訳新版」が出版されるのを待って、購入して比較するしかないかと思ったが、それにしても2011年当時760円だった「新訳版」にくらべて、「改訳新版」の1,815円はべらぼうに高いなぁと思っていた。ところが、なんと早川書房公式サイトでは「改訳新版」の冒頭(第１章～第２章の途中)を<a href="https://www.hayakawa-online.co.jp/reader/main.html?cid=614976&amp;u2=0000322080" target="_blank">試し読み</a>させてくれているではないか。これはまさに渡りに船。以前、旧訳と新訳の違いを調べた時も第１章に限定して比較したからだ。

　ではさっそく比較を始めよう。以下は訳文の手直しが発生した箇所を列挙している。
　第1章第1節はウォーグレイヴ判事が列車内で兵隊島に関する新聞記事の内容を思い出している場面。オーエンという人物が買い取ったところからゴシップ記者の信憑性に乏しい推測が入った内容が取り上げられる。
[新訳](1章1節P.12)
〈風便配達人〉と名のるゴシップ記者は、あれはイギリス王室専用の別荘になるのではないか！などとそれとなくにおわせたし、〈好天好日〉記者は、例の島は新婚旅行用に買われたらしいという話を、小耳にはさんだと書いた。
[改訳]
〈東奔西走〉と称するゴシップ記者は、あれはイギリス王室専用の別荘になるのではないか！などと言葉巧みににおわせたし、〈本日は晴天なり〉記者は、自分が小耳にはさんだところでは、例の島は新婚旅行用に買われたらしいと書いた。　ゴシップ紙なのかゴシップ欄なのか不明だが、記者は匿名でペンネームを使うのが通例だ。新訳では「風便配達人」「好天好日」というペンネームになっているが、今ひとつ分かりにくいと考えたのか、「東奔西走」「本日は晴天なり」にそれぞれ変えている。

　もう一つ「例の島は…」の部分は単純に「…という話を」が「小耳にはさんだ」に係るのか、「書いた」に係るのかが曖昧なので推敲が必要だと思ったのだろう。「小耳にはさんだ」のが記者当人である事は確かだから、改訳のように変えた事で曖昧さは解消した。

　第1章第3節では、元陸軍大尉フィリップ・ロンバートが、列車内で、兵隊島に向かうように仕事を依頼された場面を回想している。
[新訳](1章3節P.17)
あのチビのユダヤ人、やたら謎めいたことを言っていたなあ。
[改訳]
あの男、やたら謎めいたことを言っていたなあ。　原文で著者クリスティーは「ユダヤ人」に対する揶揄を悪びれる事なく使っている。これはシェークスピアの時代から続いた悪弊と言えるかもしれない。「原文に忠実」をモットーとする青木さんは、そのまま「チビのユダヤ人」と訳してきたが、さすがに社会的状況を鑑みて「男」と言いかえている。
　ちなみに旧訳では「モリス」という姓を使っている。「アイザック・モリス」という姓名が出てくるのがもう少しあとなので、先行して使用する事の違和感は多少あるが、重要なのは旧訳の時は蔑称を使わないという配慮があった事だろう。

[新訳](1章3節P.17)
でもあのユダヤ人にはそのことが、ちゃんとわかっていたのにちがいない。
[改訳]
でもあの男にはそのことが、ちゃんとわかっていたのにちがいない。　これも一つ前の変更を同じ。

[新訳](1章3節P.17)
こと金に関する限り、やつらの目は絶対にごまかせない
[改訳]
こと金に関する限り、やつの目は絶対にごまかせない　ここは「ユダヤ人(＝モリス)」の事を指しているので「やつら」は単純なミスで、「やつ」が正しい。

[新訳](1章3節P.18)
真面目くさって答えるモリスのユダヤ人らしい厚ぼったい唇に、薄笑いがかすかににじんだ。
[改訳]
真面目くさって答えるモリスの唇に、薄笑いがかすかににじんだ。　これも差別的な表現に対する配慮だ。「チビ」はそれ自体が差別的な言い方(ただし「ハゲ」は見過ごしているのはどうして？)だし、「ユダヤ人」は人種に対する偏見が見え隠れする。「厚ぼったい」は特定の人種の特徴を取り沙汰するハラスメントになっている。改訳では、この部分はすべて削除された。

[新訳](1章3節P.19)
たしかに危ない橋を渡ったことも、一度や二度あったっけな。
[改訳]
たしかに危ない橋を渡ったことも、一度とは言わずあったっけ。　モリスから「何か不正があったら、手を引いていい」と言われて、ロンバート自身そんな事を気にする性格ではないとモリスに見透かされてると感じる。新訳では「一度や二度」と回数を限定したが、改訳では「何度かあった」という意味に変更されている。

　第1章第4節では老婦人エミリー・ブレントが禁煙席で背筋をしゃんと伸ばして座っている。
[新訳](1章4節P.19)
昔かたぎの軍人の父に厳しくしつけられたのだ。
[改訳]
昔かたぎの陸軍大佐の父に厳しくしつけられたのだ。　ここは何故「軍人」から「陸軍大佐」に変えたのかは、よく分からない。今回、所有していた原書がどうしても見つからないので確かめようがないが、恐らくはcolonel(《英》陸軍大佐)
が使われていたのではないか。旧訳では「頭の古い大佐だった」と訳されているので「軍人」では物足りないと思ったか。

　第1章第5節では退役将軍のジョン・マッカーサーが、「この頃、周囲の人間が自分を避けているような気がする」のは、アーミテッジが”あの噂"をしゃべったからに違いないと勘ぐっている。
[新訳](1章5節P.23)
あの青二才め！　いったいなにをつかんだのだろう。
[改訳]
あの青二才め！　いったい何をつかんだのだろう。　「なに」の前後がひらがななので、漢字にした方が読みやすいと思い直したか。どちらでもよいように思えるが、漢字の開き方の方針が変わってきたのかもしれない。

[新訳](1章5節P.24)
　エクセター駅に着いたぞ！　ここで一時間待ちだ。将軍は待ちたくなかった。早いところ……。
[改訳]
　エクセター駅に着いたぞ！　ここで一時間待ちだ。将軍は待ちたくなかった。さっさと行きたい……。　本書では独白が非常に多く、著者はこれをトリックの一部として活用している。「言葉を濁す」という言い回しがあるが、ここでは最後に「言葉を濁した」かのような独白を心の中で言っている。日本語と英語では語順に違いがあり、特に述部が文末にくる日本語に対して、英語は主語の次にくる。なので「言葉を濁す」場合は日本語は述部を、英語は述部以外の目的語・補語・副詞などが「…」になる。それを考えると、旧訳の「早いところ…」では分かりにくいと考えたのかもしれない。

　元警部のウィリアム・ブロアもどうやらニセの仕事の依頼で兵隊島に向かうような素振りだ。そして子供の頃に兵隊島の様子を見たことがあると述懐している。
[新訳](1章8節P.30)
カモメだらけでいかにもプンプン臭いそうな、岩ばかりの島だ。
[改訳]
カモメだらけでいかにも悪臭プンプンの、岩ばかりの島だ。人間の頭に似ていることから名付けられたらしい。　「プンプン(ぷんぷん)」とは「強いにおいのたちこめるさま(日国)」を指す。転じて何かの気配がたちこめるさま」も指すので、「香水をぷんぷんさせる」「エリート意識がぷんぷんにおう」とも言える。ここではカモメの何が「プンプンとにおってくるか」をハッキリさせるために改訳しているようだ。

　「人間の頭に似ていることから名づけられたらしい」とは、兵隊島の名前の由来である。これまた原書で確認できないが、何かしら改訳のような英文が存在していて、新訳版では訳しそびれている可能性が考えられる。ちなみに旧訳では以下のように訳されている。
[旧訳](P.29)
インディアン島――彼は少年時代にインディアン島を知っていた。岩だらけの島で、鴎がいっぱい集まっていた。海岸から一マイルほどの距離だった。その由来は人間の頭に似ているところからきていた――アメリカ・インディアンの横顔に似ているのだった。　旧訳では「インディアン島」という名前だったが、どちらの名前であっても「人間の頭に似ている」という特徴は、島の名前の由来になり得る。

　第2章1節の冒頭で、「オークリッジ駅の前に数人のグループが、ちょっととまどった顔つきで立って」いる。
[新訳](2章1節P.32)
後ろに駅のポーターが続いている。
[改訳]
後ろに駅のポーターが従っている。　ポーターは「乗降客の手荷物を運ぶ人」を指す。昔の日本ならば「赤帽」だろう。「続いている」だと前方の「数人のグループ」(すぐ後にタクシーの運転手たちと知れる)とひとまとまりのような印象になるので、「従っている」に変えたのだろう。

　駅に降りたロンバートは、車内で対面に座っていたヴェラに向かって質問を投げかける。
[新訳](2章1節P.35)
　ありきたりな質問だが、ロンバートは尋ねてみた。
[改訳]
　いささか新鮮味にかける質問だったが、ロンバートは尋ねた。　「このへんを、よくご存じですか」が質問の中身だ。「ありきたりな」が分かりにくいというわけではないだろう。どちらでもよさそうに思える。

　引き続きロンバートとヴェラの会話。互いに相手から情報を引き出そうとして手探り状態になっている。
[新訳](2章1節P.36)
”どうも妙な具合だな――おれはオーエン夫婦を知っていて、当然なのか”
[改訳]
”どうも妙な具合だな――おれはオーエン夫婦を知っていて、当然ということなのかな”　ヴェラは早々と「自分はオーエン夫人の秘書だ」と名のっているので、ロンバートにはヴェラがオーエン夫妻の事を多少なりとも知っていると思っている。しかしヴェラ自身には何も知っている事がないので、仕事ではなく客として呼ばれているロンバートは、夫妻の事を知っているはずだと思っている。だから「(知っていて)当然ということなのか」というロンバートの独白になる。「当然なのか」でも意味は通じるが、より分かりやすくしたようだ。

　第2章第2節で、南アフリカ帰りの男の振りをしたブロアが判事たちの前で自己紹介をする。
[新訳](2章2節P.40)
　ウォーグレイヴ判事が、いやなやつだと言わんばかりに男のほうを見た。退廷を命じて、この男をこの場から追い払いたい気分なのだろう。
[改訳]
　ウォーグレイヴ判事が、いやなやつだと言わんばかりの目つきで男を見た。できることなら退廷を命じて、この男をこの場から追い払いたい気分なのだろう。　ブロアが自らの素性を隠したいが故に、過剰なほどにこやかに軽口を叩くのが、判事の癇にさわったようだ。新訳の「いやなやつだと言わんばかりに見た」では心情をうまく行為として表現できていない。「…言わんばかりににらみ付けた」なら分かりやすい。「にらみ付けた」まではしていないので、改訳のように「いやなやつだと言わんばかりの目つきで見た」と書きかえたようだ。

　今回、試し読みができる部分だけで判断する限り、確かに「文中の用語や文章のリズム感を見直しています」という程度の改訳になっている。先ほどの「ありきたりな質問」と「いささか新鮮味にかける質問」などは、ひょっとすると「リズム感の見直し」に該当するのかもしれない。ただし、見てきたように文意が曖昧もしくは正しくない場合に「構文の見直し(推敲)」も含まれているようだ。

　さて、いよいよ『改訂新版』の発売日(2026年3月2日)が迫ってきた。この分析内容からすると新訳版が手元にあれば充分だという結果になっている。ただし、表紙のイラスト(装丁)が変わり、解説も新たに追加される。それに1'815円を出すべきかどうか。うーむ、やはり店頭で実物を見るまではなんとも言えないな。うちの新訳版もずいぶんと読み込んでくたびれてきたし。<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
<a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928E694B9E8A8B3E696B0E7898829.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="表紙(改訳新版).jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928E694B9E8A8B3E696B0E7898829-thumbnail2.jpg" width="101" height="150" onclick="location.href = 'https://elleryqueen.seesaa.net/upload/detail/image/E8A1A8E7B49928E694B9E8A8B3E696B0E7898829-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br />　まもなく2026年3月2日にアガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった』が早川書房のクリスティー文庫から出版される。「改訳新版」と称している。翻訳者は青木久惠さんなので、僕が慣れ親しんできた清水俊二さんの旧訳を全面的に新しく訳し直した「新訳版」から、さらに訳文を改めた事になるのか。「そんなこと聞いてないよ。」という次第で、俄然気になってきた。<br /><br />　一方で昨年2025年に出版された「特装版」という単行本が存在する。早川書房公式サイトに掲載された改訳新版のお知らせでは、「特装版」の翻訳にも手を加えたかのような書き方だったので、「特装版」を購入した人はなおさら色めき立ったようだ。しかし、僅か四日後に早川書房は以下のような追記を付したお知らせを再度出した。<br /><a href="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E694B9E8A8B3E696B0E78988E381AEE3818AE79FA5E38289E3819B.jpg" target="_blank"><img border="0" alt="改訳新版のお知らせ.jpg" src="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E694B9E8A8B3E696B0E78988E381AEE3818AE79FA5E38289E3819B-thumbnail2.jpg" width="121" height="150" onclick="location.href = 'https://elleryqueen.seesaa.net/upload/detail/image/E694B9E8A8B3E696B0E78988E381AEE3818AE79FA5E38289E3819B-thumbnail2.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><br />　この追記によって、ようやく僕にも事情が呑み込めた。初めて読む方もいると思うので、まずは『そして誰もいなくなった』の変遷について確認しておこう。<br /><blockquote>(1)旧訳(清水俊二訳) 2003年発行　クリスティ文庫<br />(2)新訳(青木久惠訳) 2010年発行　クリスティ文庫<br />(3)特装版(青木久惠訳) 2025年発行　単行本<br />(4)改訳新版(青木久惠訳) 2026年発行　クリスティ文庫</blockquote><br /><strong>(1)旧訳(清水俊二訳) について</strong><br />　旧訳が初めて出版されたのはハヤカワ・ポケット・ミステリ(1955年)に遡る。以来、ハヤカワ・ミステリ文庫やクリスティ文庫でも同じ訳が使われ、半世紀以上もの長きに渡って読まれ続けてきた名翻訳である。ただし半世紀以上も使われ続けた故に翻訳が古びてきたのは確かだろう。また、それとは別の理由で旧訳の根幹に対する異議申し立てをする評論が現れた。詳しくは、僕が書いた以下の記事を参照の事。<br /><blockquote><a href="http://elleryqueen.seesaa.net/article/6974299.html" target="_blank">ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18　小森収 編(その５)</a><br /><a href="http://elleryqueen.seesaa.net/article/171087851.html" target="_blank">「明るい館の秘密(若島正)」の過失(その１)</a><a href="http://elleryqueen.seesaa.net/article/171379858.html" target="_blank">(その２)</a><a href="http://elleryqueen.seesaa.net/article/172798155.html" target="_blank">(その３)</a><a href="http://elleryqueen.seesaa.net/article/173861166.html" target="_blank">(その４)</a><a href="http://elleryqueen.seesaa.net/article/180396976.html" target="_blank">(その５)</a></blockquote><br /><strong>(2)新訳(青木久惠訳) について</strong><br />　2010年にようやく新訳として『そして誰もいなくなった』が生まれ変わった。清水旧訳をどう変えたかは置いておくとして、ハッキリしている点が２つある。一つは定本をHarperCollins社のペイパーバック版とした点である。HarperCollins社は米国の出版社であり、本書の原題である"Ten Little Niggers"や”Ten Little Indians"ではなく別の題名”And Then There Were None"を用いている。当然ながらNiggers(黒人)やIndians(インディアン)に蔑称としての歴史的経緯があるためである。それとともに、舞台となる島の名前は「インディアン島」から「兵隊島」に変更された。<br />　さらにもう一つは、旧訳への異議申し立てで誤訳とされた箇所が全面的に書き改められている点だ。これは異議申し立ての主張を全面的に受け入れて、主張内で推奨された訳文をそのまま採用している。これに対する僕の反論は、さきほどの旧訳についての参照記事に書いた。<br /><br />　当然ながら、新訳が全体的に旧訳とどう違うのかは僕の最大の関心事だったので、それについては2010年当時からいろいろと検討してきた。以下は、それをまとめた評論(エッセイ)記事である。<br /><blockquote><a href="http://elleryqueen.seesaa.net/article/169326464.html" target="_blank">新訳「そして誰もいなくなった(アガサ・クリスティ)」の意義</a><br /><a href="http://elleryqueen.seesaa.net/article/169546661.html" target="_blank">そして旧訳が残った ～旧訳「そして誰もいなくなった(アガサ・クリスティ)」の意義～</a><br /><a href="http://elleryqueen.seesaa.net/article/172100298.html" target="_blank">清水俊二訳「そして誰もいなくなった(ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 1-1)」を探して</a><br /><a href="http://elleryqueen.seesaa.net/article/185557726.html" target="_blank">「そして誰もいなくなった(アガサ・クリスティー作、青木久惠訳)」の翻訳について</a><br /><a href="http://elleryqueen.seesaa.net/article/192955179.html" target="_blank">そして誰もいなくなった　アガサ・クリスティー著／青木久惠訳(クリスティー・ジュニア・ミステリ,2011/3/?読了)</a></blockquote><br /><br /><strong>(3)特装版(青木久惠訳) について</strong><br />　昨年2025年に出版された豪華装丁を施した函入りの単行本。早川書房公式サイトの検索では、何故この時期に出版したのか書かれていないのだが、探すと以下の記事が出て来た。ようするに、旧訳のハヤカワ・ポケット・ミステリ版(1955年)から数えて、昨年が70周年という節目の年だったという事だ。<br /><a href="https://www.hayakawabooks.com/n/n1b922b7c152b" target="_blank">日本刊行70周年記念『そして誰もいなくなった〔特装版〕』刊行！ファン必携の豪華函入り本が登場！</a><br />　注意したいのは、冒頭でとりあげた「改訳新版のお知らせ」の追記だ。「〔特装版〕の制作にあたって、翻訳を見直す」ことになったという経緯が書かれているので、特装版の翻訳は新訳版(2010年)の「改訳」という事になる。どこが変わったかについては以下のように書かれている。<br /><blockquote>孤島で繰り広げられる事件の緊張感はそのままに、これから先も多くの方にお読みいただけるよう、文中の用語や文章のリズム感を見直しています。</blockquote>　どうやら大きな変更はなく、現在の社会状況なども考慮して一部手直ししたように受け取れる。<br /><br /><strong>(4)改訳新版(青木久惠訳)について</strong><br />　そして今回の「改訳新版」だ。追記には「(改訳新版と特装版の)本文は同一です」と書かれているので、本文にこだわる限り、特装版を購入した人は「改訳新版」を気にする必要はない。では特装版と改訳新版との違いは何かと言えば、この改訳を文庫本にも反映して「より多くの人に」読んでもらおうという点だろう。それと、どうやら特装版は構成上の問題(真相に触れた手紙が入った封筒が巻末に貼られている)で、解説を挿入しなかった(できなかった)らしい。今回の改訳新版では、文筆家・山崎怜奈の解説と、新訳版に収録されていた赤川次郎の解説との２つを収録した。<br /><br />　これでようやく「改訳新版」にいたるまでの状況が把握できた。さて、これからが本題だ。「新訳と改訳との違い」は何かという点だ。これはもう「改訳新版」が出版されるのを待って、購入して比較するしかないかと思ったが、それにしても2011年当時760円だった「新訳版」にくらべて、「改訳新版」の1,815円はべらぼうに高いなぁと思っていた。ところが、なんと早川書房公式サイトでは「改訳新版」の冒頭(第１章～第２章の途中)を<a href="https://www.hayakawa-online.co.jp/reader/main.html?cid=614976&u2=0000322080" target="_blank">試し読み</a>させてくれているではないか。これはまさに渡りに船。以前、旧訳と新訳の違いを調べた時も第１章に限定して比較したからだ。<br /><br />　ではさっそく比較を始めよう。以下は訳文の手直しが発生した箇所を列挙している。<br />　第1章第1節はウォーグレイヴ判事が列車内で兵隊島に関する新聞記事の内容を思い出している場面。オーエンという人物が買い取ったところからゴシップ記者の信憑性に乏しい推測が入った内容が取り上げられる。<br /><blockquote><span style="color:#ff0000;">[新訳](1章1節P.12)</span><br /><span style="color:#ff0000;">〈風便配達人〉と名のる</span>ゴシップ記者は、あれはイギリス王室専用の別荘になるのではないか！などと<span style="color:#ff0000;">それとなく</span>におわせたし、<span style="color:#ff0000;">〈好天好日〉</span>記者は、<span style="color:#ff0000;">例の島は新婚旅行用に買われたらしいという話を、小耳にはさんだと書いた。</span><br /><span style="color:#0000ff;">[改訳]</span><br /><span style="color:#0000ff;">〈東奔西走〉と称する</span>ゴシップ記者は、あれはイギリス王室専用の別荘になるのではないか！などと<span style="color:#0000ff;">言葉巧みに</span>におわせたし、<span style="color:#0000ff;">〈本日は晴天なり〉</span>記者は、<span style="color:#0000ff;">自分が小耳にはさんだところでは、例の島は新婚旅行用に買われたらしいと書いた。</span></blockquote>　ゴシップ紙なのかゴシップ欄なのか不明だが、記者は匿名でペンネームを使うのが通例だ。新訳では「風便配達人」「好天好日」というペンネームになっているが、今ひとつ分かりにくいと考えたのか、「東奔西走」「本日は晴天なり」にそれぞれ変えている。<br /><br />　もう一つ「例の島は…」の部分は単純に「…という話を」が「小耳にはさんだ」に係るのか、「書いた」に係るのかが曖昧なので推敲が必要だと思ったのだろう。「小耳にはさんだ」のが記者当人である事は確かだから、改訳のように変えた事で曖昧さは解消した。<br /><br />　第1章第3節では、元陸軍大尉フィリップ・ロンバートが、列車内で、兵隊島に向かうように仕事を依頼された場面を回想している。<br /><blockquote><span style="color:#ff0000;">[新訳](1章3節P.17)</span><br />あの<span style="color:#ff0000;">チビのユダヤ人</span>、やたら謎めいたことを言っていたなあ。<br /><span style="color:#0000ff;">[改訳]</span><br />あの<span style="color:#0000ff;">男</span>、やたら謎めいたことを言っていたなあ。</blockquote>　原文で著者クリスティーは「ユダヤ人」に対する揶揄を悪びれる事なく使っている。これはシェークスピアの時代から続いた悪弊と言えるかもしれない。「原文に忠実」をモットーとする青木さんは、そのまま「チビのユダヤ人」と訳してきたが、さすがに社会的状況を鑑みて「男」と言いかえている。<br />　ちなみに旧訳では「モリス」という姓を使っている。「アイザック・モリス」という姓名が出てくるのがもう少しあとなので、先行して使用する事の違和感は多少あるが、重要なのは旧訳の時は蔑称を使わないという配慮があった事だろう。<br /><br /><blockquote><span style="color:#ff0000;">[新訳](1章3節P.17)</span><br />でもあの<span style="color:#ff0000;">ユダヤ人</span>にはそのことが、ちゃんとわかっていたのにちがいない。<br /><span style="color:#0000ff;">[改訳]</span><br />でもあの<span style="color:#0000ff;">男</span>にはそのことが、ちゃんとわかっていたのにちがいない。</blockquote>　これも一つ前の変更を同じ。<br /><br /><blockquote><span style="color:#ff0000;">[新訳](1章3節P.17)</span><br />こと金に関する限り、<span style="color:#ff0000;">やつら</span>の目は絶対にごまかせない<br /><span style="color:#0000ff;">[改訳]</span><br />こと金に関する限り、<span style="color:#0000ff;">やつ</span>の目は絶対にごまかせない</blockquote>　ここは「ユダヤ人(＝モリス)」の事を指しているので「やつら」は単純なミスで、「やつ」が正しい。<br /><br /><blockquote><span style="color:#ff0000;">[新訳](1章3節P.18)</span><br />真面目くさって答えるモリスの<span style="color:#ff0000;">ユダヤ人らしい厚ぼったい</span>唇に、薄笑いがかすかににじんだ。<br /><span style="color:#0000ff;">[改訳]</span><br />真面目くさって答えるモリスの唇に、薄笑いがかすかににじんだ。</blockquote>　これも差別的な表現に対する配慮だ。「チビ」はそれ自体が差別的な言い方(ただし「ハゲ」は見過ごしているのはどうして？)だし、「ユダヤ人」は人種に対する偏見が見え隠れする。「厚ぼったい」は特定の人種の特徴を取り沙汰するハラスメントになっている。改訳では、この部分はすべて削除された。<br /><br /><blockquote><span style="color:#ff0000;">[新訳](1章3節P.19)</span><br />たしかに危ない橋を渡ったことも、<span style="color:#ff0000;">一度や二度あったっけな</span>。<br /><span style="color:#0000ff;">[改訳]</span><br />たしかに危ない橋を渡ったことも、<span style="color:#0000ff;">一度とは言わずあったっけ</span>。</blockquote>　モリスから「何か不正があったら、手を引いていい」と言われて、ロンバート自身そんな事を気にする性格ではないとモリスに見透かされてると感じる。新訳では「一度や二度」と回数を限定したが、改訳では「何度かあった」という意味に変更されている。<br /><br />　第1章第4節では老婦人エミリー・ブレントが禁煙席で背筋をしゃんと伸ばして座っている。<br /><blockquote><span style="color:#ff0000;">[新訳](1章4節P.19)</span><br />昔かたぎの<span style="color:#ff0000;">軍人</span>の父に厳しくしつけられたのだ。<br /><span style="color:#0000ff;">[改訳]</span><br />昔かたぎの<span style="color:#0000ff;">陸軍大佐</span>の父に厳しくしつけられたのだ。</blockquote>　ここは何故「軍人」から「陸軍大佐」に変えたのかは、よく分からない。今回、所有していた原書がどうしても見つからないので確かめようがないが、恐らくはcolonel(《英》陸軍大佐)<br />が使われていたのではないか。旧訳では「頭の古い大佐だった」と訳されているので「軍人」では物足りないと思ったか。<br /><br />　第1章第5節では退役将軍のジョン・マッカーサーが、「この頃、周囲の人間が自分を避けているような気がする」のは、アーミテッジが”あの噂"をしゃべったからに違いないと勘ぐっている。<br /><blockquote><span style="color:#ff0000;">[新訳](1章5節P.23)</span><br />あの青二才め！　いったい<span style="color:#ff0000;">なに</span>をつかんだのだろう。<br /><span style="color:#0000ff;">[改訳]</span><br />あの青二才め！　いったい<span style="color:#0000ff;">何</span>をつかんだのだろう。</blockquote>　「なに」の前後がひらがななので、漢字にした方が読みやすいと思い直したか。どちらでもよいように思えるが、漢字の開き方の方針が変わってきたのかもしれない。<br /><br /><blockquote><span style="color:#ff0000;">[新訳](1章5節P.24)</span><br />　エクセター駅に着いたぞ！　ここで一時間待ちだ。将軍は待ちたくなかった。<span style="color:#ff0000;">早いところ</span>……。<br /><span style="color:#0000ff;">[改訳]</span><br />　エクセター駅に着いたぞ！　ここで一時間待ちだ。将軍は待ちたくなかった。<span style="color:#0000ff;">さっさと行きたい</span>……。</blockquote>　本書では独白が非常に多く、著者はこれをトリックの一部として活用している。「言葉を濁す」という言い回しがあるが、ここでは最後に「言葉を濁した」かのような独白を心の中で言っている。日本語と英語では語順に違いがあり、特に述部が文末にくる日本語に対して、英語は主語の次にくる。なので「言葉を濁す」場合は日本語は述部を、英語は述部以外の目的語・補語・副詞などが「…」になる。それを考えると、旧訳の「早いところ…」では分かりにくいと考えたのかもしれない。<br /><br />　元警部のウィリアム・ブロアもどうやらニセの仕事の依頼で兵隊島に向かうような素振りだ。そして子供の頃に兵隊島の様子を見たことがあると述懐している。<br /><blockquote><span style="color:#ff0000;">[新訳](1章8節P.30)</span><br />カモメだらけでいかにも<span style="color:#ff0000;">プンプン臭いそうな</span>、岩ばかりの島だ。<br /><span style="color:#0000ff;">[改訳]</span><br />カモメだらけでいかにも<span style="color:#0000ff;">悪臭プンプンの</span>、岩ばかりの島だ。<span style="color:#0000ff;">人間の頭に似ていることから名付けられたらしい。</span></blockquote>　「プンプン(ぷんぷん)」とは「強いにおいのたちこめるさま(日国)」を指す。転じて何かの気配がたちこめるさま」も指すので、「香水をぷんぷんさせる」「エリート意識がぷんぷんにおう」とも言える。ここではカモメの何が「プンプンとにおってくるか」をハッキリさせるために改訳しているようだ。<br /><br />　「人間の頭に似ていることから名づけられたらしい」とは、兵隊島の名前の由来である。これまた原書で確認できないが、何かしら改訳のような英文が存在していて、新訳版では訳しそびれている可能性が考えられる。ちなみに旧訳では以下のように訳されている。<br /><blockquote><span style="color:#00cc00;">[旧訳](P.29)</span><br />インディアン島――彼は少年時代にインディアン島を知っていた。岩だらけの島で、鴎がいっぱい集まっていた。海岸から一マイルほどの距離だった。その由来は人間の頭に似ているところからきていた――アメリカ・インディアンの横顔に似ているのだった。</blockquote>　旧訳では「インディアン島」という名前だったが、どちらの名前であっても「人間の頭に似ている」という特徴は、島の名前の由来になり得る。<br /><br />　第2章1節の冒頭で、「オークリッジ駅の前に数人のグループが、ちょっととまどった顔つきで立って」いる。<br /><blockquote><span style="color:#ff0000;">[新訳](2章1節P.32)</span><br />後ろに駅のポーターが<span style="color:#ff0000;">続いている</span>。<br /><span style="color:#0000ff;">[改訳]</span><br />後ろに駅のポーターが<span style="color:#0000ff;">従っている</span>。</blockquote>　ポーターは「乗降客の手荷物を運ぶ人」を指す。昔の日本ならば「赤帽」だろう。「続いている」だと前方の「数人のグループ」(すぐ後にタクシーの運転手たちと知れる)とひとまとまりのような印象になるので、「従っている」に変えたのだろう。<br /><br />　駅に降りたロンバートは、車内で対面に座っていたヴェラに向かって質問を投げかける。<br /><blockquote><span style="color:#ff0000;">[新訳](2章1節P.35)</span><br />　<span style="color:#ff0000;">ありきたりな質問だが</span>、ロンバートは<span style="color:#ff0000;">尋ねてみた</span>。<br /><span style="color:#0000ff;">[改訳]</span><br />　<span style="color:#0000ff;">いささか新鮮味にかける</span>質問だったが、ロンバートは<span style="color:#0000ff;">尋ねた</span>。</blockquote>　「このへんを、よくご存じですか」が質問の中身だ。「ありきたりな」が分かりにくいというわけではないだろう。どちらでもよさそうに思える。<br /><br />　引き続きロンバートとヴェラの会話。互いに相手から情報を引き出そうとして手探り状態になっている。<br /><blockquote><span style="color:#ff0000;">[新訳](2章1節P.36)</span><br />”どうも妙な具合だな――おれはオーエン夫婦を知っていて、<span style="color:#ff0000;">当然なのか</span>”<br /><span style="color:#0000ff;">[改訳]</span><br />”どうも妙な具合だな――おれはオーエン夫婦を知っていて、<span style="color:#0000ff;">当然ということなのかな</span>”</blockquote>　ヴェラは早々と「自分はオーエン夫人の秘書だ」と名のっているので、ロンバートにはヴェラがオーエン夫妻の事を多少なりとも知っていると思っている。しかしヴェラ自身には何も知っている事がないので、仕事ではなく客として呼ばれているロンバートは、夫妻の事を知っているはずだと思っている。だから「(知っていて)当然ということなのか」というロンバートの独白になる。「当然なのか」でも意味は通じるが、より分かりやすくしたようだ。<br /><br />　第2章第2節で、南アフリカ帰りの男の振りをしたブロアが判事たちの前で自己紹介をする。<br /><blockquote><span style="color:#ff0000;">[新訳](2章2節P.40)</span><br />　ウォーグレイヴ判事が、<span style="color:#ff0000;">いやなやつだと言わんばかりに男のほうを見た</span>。退廷を命じて、この男をこの場から追い払いたい気分なのだろう。<br /><span style="color:#0000ff;">[改訳]</span><br />　ウォーグレイヴ判事が、<span style="color:#0000ff;">いやなやつだと言わんばかりの目つきで男を見た</span>。<span style="color:#0000ff;">できることなら</span>退廷を命じて、この男をこの場から追い払いたい気分なのだろう。</blockquote>　ブロアが自らの素性を隠したいが故に、過剰なほどにこやかに軽口を叩くのが、判事の癇にさわったようだ。新訳の「いやなやつだと言わんばかりに見た」では心情をうまく行為として表現できていない。「…言わんばかりににらみ付けた」なら分かりやすい。「にらみ付けた」まではしていないので、改訳のように「いやなやつだと言わんばかりの目つきで見た」と書きかえたようだ。<br /><br />　今回、試し読みができる部分だけで判断する限り、確かに「文中の用語や文章のリズム感を見直しています」という程度の改訳になっている。先ほどの「ありきたりな質問」と「いささか新鮮味にかける質問」などは、ひょっとすると「リズム感の見直し」に該当するのかもしれない。ただし、見てきたように文意が曖昧もしくは正しくない場合に「構文の見直し(推敲)」も含まれているようだ。<br /><br />　さて、いよいよ『改訂新版』の発売日(2026年3月2日)が迫ってきた。この分析内容からすると新訳版が手元にあれば充分だという結果になっている。ただし、表紙のイラスト(装丁)が変わり、解説も新たに追加される。それに1'815円を出すべきかどうか。うーむ、やはり店頭で実物を見るまではなんとも言えないな。うちの新訳版もずいぶんと読み込んでくたびれてきたし。<a name="more"></a><div class="blogmura-link"><a href="https://blogmura.com/ranking/in?p_cid=10113262" target="_blank"><img src="https://b.blogmura.com/88_31.gif" width="88" height="31" border="0" alt="ブログランキング・にほんブログ村へ" />にほんブログ村</a>
<a href="https://blogmura.com/profiles/10113262?p_cid=10113262" target="_blank"><img src="https://blogparts.blogmura.com/parts_image/user/pv10113262.gif" alt="PVアクセスランキング にほんブログ村" /></a></div>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
            <category>　書評(アガサ・クリスティー)</category>
      <author>アスラン</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,elleryqueen/520031118</guid>
            <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928E694B9E8A8B3E696B0E7898829.jpg" length="365566" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E8A1A8E7B49928E694B9E8A8B3E696B0E7898829.jpg" length="365566" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E694B9E8A8B3E696B0E78988E381AEE3818AE79FA5E38289E3819B.jpg" length="143876" type="image/jpeg" />
                  <enclosure url="https://elleryqueen.up.seesaa.net/image/E694B9E8A8B3E696B0E78988E381AEE3818AE79FA5E38289E3819B.jpg" length="143876" type="image/jpeg" />
                      </item>
        <item>
      <link>https://elleryqueen.seesaa.net/article/519990638.html</link>
      <title>Ｓ・Ｓ・ヴァン・ダイン『グリーン家殺人事件』を散策する(その3)</title>
      <pubDate>Wed, 18 Feb 2026 02:14:53 +0900</pubDate>
            <description>(この記事は、『グリーン家殺人事件』のネタバレになる引用が一部あります。未読の方はご注意ください。)　何と言っても、ファイロ・ヴァンスの長篇の特徴は、本文の至るところにつけられた原注だろう。これは第一作『ベンスン殺人事件』から踏襲されたフォーマットであり、最後の長篇で第十二作『ウインター殺人事件』を除けば、ほぼ全作に渡って続けられている。著者はどのような心づもりで原注を多用したのか。原注を散策していこう。[原注](1)補足情報　本文に書かれている事を補足したり、関係者以外は知..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
(この記事は、『グリーン家殺人事件』のネタバレになる引用が一部あります。未読の方はご注意ください。)

　何と言っても、ファイロ・ヴァンスの長篇の特徴は、本文の至るところにつけられた原注だろう。これは第一作『ベンスン殺人事件』から踏襲されたフォーマットであり、最後の長篇で第十二作『ウインター殺人事件』を除けば、ほぼ全作に渡って続けられている。著者はどのような心づもりで原注を多用したのか。原注を散策していこう。

[原注]
(1)補足情報
　本文に書かれている事を補足したり、関係者以外は知らないような内容を公開している体でつけられている。最初から本文に書き加えればいいと現代の読者は思うだろう(僕もそう思う)。だが、一種のおまけのように註を利用して、謎解きの醍醐味を煽ろうという著者ヴァン・ダインのもくろみが感じられる。
[翻訳](1章P.16)
　そういうわけで、私が記録にとりかかろうとしているのは、初の完全版にして手心を加えていない、グリーン家大虐殺(ホロコースト)の物語となる(1)。
[原注](P.425)
(1)言うまでもないことだろうが、私の仕事に対しては正式な許可を得ている。
[翻訳](5章P.85)
とんだ失敗作よ――この家庭は。もっと早くに殺人が起きなかったのが不思議なくらい。なのに、私たちみんな、一九三二年までここに住んでなくちゃならないの。でなければ自力で生きていくか。言うまでもなく、誰もまともに自活なんかできやしないわ。ありがたい相続権ですこと(1)」
[原注](P.426)
(1)シベラがここで言っているのはトバイアス・グリーンの遺言のこと。二十五年間はグリーン屋敷をそのままにしておくことだけでなく、遺産受取人がその間屋敷に住んでいなければ相続権を失うことも規定されていた。
[翻訳](10章P.168)
「おい、ヴァンス！　きみらしくもない！」
マーカムの口調にはいらだちと非難が混じっている。「その言葉は、つかみどころのない巫女さんのご託宣よりたちが悪いぞ。トバイアス・グリーンが昔、そのマンハイムとやらと実際に取引をしていたとして、それがどうだっていうんだ？　トバイアス老人はいくつもいかがわしい取引にいそしんでいたっていうがね、二十五年から三十年も前の噂があてになるなら(1)。
[原注](P.427)
(1)私の記憶にもある。まだ子供だった一八九〇年代に、トバイアス・グリーンの逸脱行為について父の口に上るおもしろおかしい話をいくつか耳にした。
[翻訳](25章P.396)
三ヶ月ほど前に、暗室から青酸カリの錠剤が一錠なくなったらしい。ちょっと訊いてみたら、その数日前、××が部屋をのぞき込んで回ってあれこれ質問していたことも思い出した。いざというときにはその青酸カリ一錠でこと足りるだろう――そう思って、まさかのときのための自害用にとっておいたんだな(2)」
[原注](P.433)
(2)あとになって知ったことだが、熱心なアマチュア写真家でもあったドクター・フォン・ブロンは、写真製版に青酸カリの半グラム錠をよく使っていた。××が訪ねてきたときも、暗室に三錠あった。数日後、現像しようとしたら二錠しかなくなっていたのだが、ヴァンスに質問されるまでは特になんとも思っていなかったという。
[翻訳](26章P.398)
彼女はのちに、夫は十三年前の十月に、一年間の入院のあと、ニューオーリンズで死んだと認めた。彼女はまた、きみも記憶するとおり、夫が亡くなる一年前にトバイアスに会ったとも言った。これは今から十四年前で、ちょうど××がトバイアスの○○になったころのことだ(2)。ぼくは、死んだマンハイムがこの犯罪と何らかのつながりをもっているのではないかと考えてみた。
[原注](P.434)
(2)のちにミセス・マンハイムから聞いたところでは、夫のマンハントは、かつてトバイアスが悪質な非合法取引で刑事訴追されそうになったときに責任を肩代わりして彼を救ったことがあり、自分が死ぬか投獄された場合は、ミセス・マンハイムが五歳で民間施設に入れた××を○○にして世話し、影響を受けないようにして守ると、トバイアスに約束させたということだった。

(2)ファイロ・ヴァンスが解決した事件(過去の作品の宣伝)
　これもシリーズを通してのお約束だが、冒頭にファイロ・ヴァンスが解決した直近の事件に関する言及がある。「本書を読んだ方は前作、前々作も読んでね」というコマーシャルの意図が感じられる。
[翻訳](1章P.19)
　彼が最初に関与したのは、私が別途記録したとおり、アルヴィン・ベンスン殺人事件だ(2)。あわや解決不能かと思われた二件目が、ブロードウェイで名を馳せた美女マーガレット・オウデルの絞殺事件(3)。
[原注](P.425)
(2)『ベンスン殺人事件』
(3)『カナリア殺人事件』

(3)ファイロ・ヴァンスの権威付け
　名探偵ホームズにワトソンが存在したように、如何にファイロ・ヴァンスが名探偵であるかの権威づけを、語り手ヴァン・ダインが本文のみならず原注でも行っている。
[翻訳](1章P.21)
　マーカムがうなずく。「三人目は取り逃した。あの二人の言うことには、エディ・マレッポとかいう名の知られたギャングらしい」
「じゃあ、そのエデュアルドだな、撃ったのは(4)」
[原注](P.425)
(4)のちに、そのとおりだったと判明する。一年近くたってデトロイトで逮捕されたマレッポがニューヨークへ送還され、殺人で有罪になった。共犯者二人はすでに強盗罪で起訴されていた。このときの二人は今、シンシン刑務所で長期の刑に服している。
[翻訳](25章P.396)
カントリー・クラブのゴルフ場脇で狭い道に入ろうとブレーキをかけたとき、彼の口から押し殺したつぶやきがもれた。
「神よ、手遅れでありませんように(1)！」
[原注](P.433)
(1)ヴァンスとの長いつきあいで、彼が神にすがるような言葉を使うのを聞いたのは、この一度きりだ。
[翻訳](26章P.397)
「きみも知ってのとおりだが、マーカム」その夜遅く、書斎の暖炉を囲んだ席でヴァンスが口を開いた。「ぼくはあの一覧表をいろいろにつなぎ合わせてみて、犯人が誰であるかを知ることができた(1)。
[原注](P.434)
(1)後日、ヴァンスに最終的な思考の順番に項目を並べ直してもらった。彼に真実を伝えたその並び方は、以下のとおり。3、4、44、92、9、2、47、1、5、32、31、98、8、81、84、82、7、10、11、61、15、16、93、33、94、76、75、48、17、38、55、54、18、39、56、41、42、28、43、58、59、83、74、40、12、34、13、14、37、22、23、35、36、19、73、26、20、21、45、25、46、27、29、30、57、77、24、78、79、51、50、52、53、49、95、80、85、86、87、88、60、62、64、63、66、65、96、89、67、71、69、68、70、97、90、91、72。

(4)美術
　美術評論家である著者が、本文でサラッとペダンティックな美術情報に触れた際に、出典や感想を註に書き加えている。こういう場合の出典は架空ではなく、本当である事が多い。
[翻訳](2章P.36)
　ヴァンスは席を立ち、部長刑事と握手した。
「ああ、部長、きみと最後に会って以来、ルネサンス建築ファサードのテラコッタ装飾とかなんとか、つまらないことに没頭していたんですがね(2)。だけど、うれしいなあ、また犯罪がもちあがっているらしくて。たまにはすてきに怪しい殺人事件でも起きてくれないことには、ひどくつまらない世界じゃないか」
[原注](P.426)
(2)校正刷りでこの一文を読んだヴァンスから、最近ニューヨークのナショナル・テラコッタ協会が刊行した、『イタリア・ルネサンスのテラコッタ』という美しい書物に言及するよう求められた。
[翻訳](8章P.123)
　ヴァンスは水曜日と木曜日を書斎で、漫然と読書したりヴォラール(フランスの画商)のカタログでセザンヌの水彩画をチェックしたりして過ごしていた。三巻に及ぶ『ウジェーヌ・ドラクロアの日記(1)』が書きものテーブルに載ってはいたが、私の見るところ、ろくに開きもしないようだった。
[原注](P.426)
E. Plon, Nourrit et Cie., Paris, Journal de
Eugène Delacroix, 1893.
『ユージェーヌ・ドラクロワの日記』三巻版
フランスのロマン派画家ユージェーヌ・ドラクロワが残した日記を、三巻に分けて刊行
• 出版社：E. Plon, Nourrit et Cie.（パリ）
• 刊行年：第一巻が1893年に出版され、その後1893–1895年にかけて全三巻が刊行
• 編集者：ポール・フラット (Paul Flat) とルネ・ピオ (René Piot)
• 構成：
　第1巻：1823–1850
　第2巻：1850–1854
　第3巻：1855–1863（索引付き）
[翻訳](23章P.353)
(略)現代の画家たちがドキュメンテーションと呼ぶもの――つまり、絵画のうちの目に見える部分の客観的アピールにばかり気をとられていたってことだな。まだ観念的な内容をさぐっていない。見落としているんだよ、”暗示的形式(1)"を――ずさんな用語だな。だけど、そいつはクライヴ・ベルのせいだから」
[原注](P.433)
(1)出典：“The Æsthetic Hypothesis” in Art, Clive Bell.ここでの言い方にはいささか軽んじているような含みがあるが、ヴァンスはベルの批評を大いに評価していて、彼の評論『セザンヌ以降』について、私にかなり熱を込めて語り聞かせたこともある。

(5)犯罪史
　犯人の行動を過去に起きた有名な猟奇犯罪事例から推定し、犯罪者の動機を過去の犯罪者の心理から推測してみせている。この原注は本文同様、語り手(=ファイロ・ヴァンスの友人のヴァン・ダイン)が語っているはずなのだが、それにしては犯罪学や犯罪史に精通した記述になっている。語り手が友ヴァンスから受け売りの知識を書き連ねたのかもしれないし、あるいは著者が語り手に書かせているのかもしれない。いずれにしろ、科学や医学、犯罪学、時には美術や哲学、文学などの知識がないと、犯罪史に刻まれるような事件の真相を暴く事などできないという事を表現した註なのだろう。
[翻訳](12章P.191)
チェスター・グリーンまで殺されてからの新聞記事はまったく別の活気を呈している。非現実なほどに邪悪なところ――犯罪史に埋もれかけた事件を思い起こさせるようなところがある事件なのだった(3)。グリーン一族の歴史を取り上げるコラムに紙面が割かれた。
[原注](P.427)
(3)グリーン家で起きた銃撃とどこか似たところのある有名事件には、ランドリュ(二十世紀前半のフランス)、ジャン＝バティスト・トロップマン(一八六九年フランス)、フリッツ・ハールマン(二十世紀前半のドイツ)、ミセル・ベル・ガンネス(十九－二十世紀にかけてのアメリカ)による大量殺人事件、ベンダー一家の宿屋殺人事件(十九世紀後半アメリカ)、オランダのヴァン・デル・リンデンによる毒殺事件(十九世紀後半の連続殺人)、ベーラ・シキュのブリキ樽詰め事件(二十世紀初頭のハンガリー連続殺人)、ルージリーのウィリアム・パーマー医師による殺人事件(十九世紀なかばのイギリス)、ベンジャミン・ネイサン撲殺事件(一八七〇年のニューヨーク)などがある。
[翻訳](21章P.327)
「ストリキニーネを摂取したのは？」
「十二時前後だな。だが、推測にすぎない。ともかく、シトロカーボネート水と一緒に飲んだんだ。グラスを味見したよ(1)」
[原注](P.432)
(1)有名なモリヌーによる毒殺事件でも、似たような薬品――すなわちブロセルツァー(頭痛や胃痛の治療用、鎮静用の、臭化物入りの発泡性水薬)にシアン化水銀が混入されていた。
[翻訳](26章P.402)
「歴史を振り返ってみれば、ぼくらが悩まされている問題の実証的な例がたくさん出てくるというのに、ぼくらは本能的に真実から目をそらしてしまう。不思議なことだね。犯罪史には、××のような立場におかれた若い女性が残虐な犯罪に手を染めた例が、数多くある。有名なコンスタンス・ケント事件のほか、マリー・ボワイエ、マデレーン・スミス(以上、十六章参照)、グレーテ・バイアー(一九〇七年ドイツの殺人者)の事件などだ(3)。そういう事件を思い出してさえいたら――」
[原注](P.434)
(3)マデレーン・スミスとコンスタンス・ケントの事件については、エドマンド・レスター・ピアスンのMurder at Smutty Noseに、マリー・ボワイエの事件についてはH・B・アーヴィングのA book of Remarkable Criminalsに記述がある。グレーテ・バイアーはドイツで公開処刑された最後の女性である。

(6)参考文献
　とにかく(4)美術と同じように、参照すべき文献に関する註がそれなりにある。しかも、いずれも著者のこだわり(あるいはこけおどし)であって、深読みする意味があるようには思えない。
[翻訳](18章P.284)
　ぎっしり詰まったトバイアス・グリーンの書棚には、絶版となって久しい、当節は蔵書家垂涎の的である稀覯本が肩を並べる列もあるのだった。
　並ぶ本のテーマがまた、狭義の犯罪学にかぎられていない。犯罪に関連するさまざまな部門の本も並んでいた。まるまる一画を占めているのは、精神病と犯罪、社会病理学と犯罪病理学、自殺、貧困と慈善事業、刑務所改革、売春とモルヒネ中毒、死刑、異常心理学、法典、犯罪社会の隠語と暗号、毒物学、警察の捜査体系。言語もさまざまだった――英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語、スウェーデン語、ロシア語、オランダ語、ラテン語。
[原注](P.429)
(1)トバイアスの書斎にあった本のうち、代表的なものを以下に挙げておく。
(以下、数十冊の書籍のタイトルが続くが省略。)　タイトルはいずれも訳出されず原書名のままなので、翻訳の日暮さんも無視を決め込んだのだろう。生成AIに調べてもらったところ、
• 大部分は実在する19世紀〜20世紀初頭の犯罪学・精神医学の古典文献。
• 一部は著者名・タイトルが誤記されているか、架空の文献の可能性が高い。
• 全体としては、犯罪人類学（ロンブローゾ派）・精神病理学・刑法学の文献コレクションとして整合性がある。という結論だった。フィクションでありながら、論文のように権威づけの文献を列挙している。その中に架空の本を紛れ込ますというのも当時の知識階級のお遊びだったのかもしれない。

　以下はファイロ・ヴァンスが『予審判事ハンドブック』の記述を読み上げるシーン。どの部分なのかを巻数と頁とで補足しているが、註にする意味がない。そもそもこの書物が現実には存在しない架空のものである可能性が高い。註は美術評論家でもある著者のこだわりに過ぎない。
[翻訳](26章P.404)
「いいですか、部長。大意を訳しながら読んでいきますよ。『自己の身体に損傷を加える例は珍しくない。凶器を用いた暴行の被害者のふりをするものもあるし、損害賠償あるいは恐喝の材料にしようとするものもある。つまり、些細な諍いのあと、故意にみずから与えた傷害を相手に見せ、争いによって受けたものと主張するような例はよく見られるのである。このような自己毀損の特徴としては、目的を達していないことがきわめて多いこと、またほとんどの場合、極端に信心深いか、孤独な生活を送っているものであることが挙げられる(4)』どうですか、部長刑事。きみならきっと、軍隊勤務がいやで自己毀損をやった兵士をご存じでしょう。最も一般的な方法は、銃口に手を当てて発砲して、指を吹き飛ばすというやつだ」
[原注](P.435)
(4)第一巻三二－三四ページ。
[翻訳](26章P.405)
「じつはグロースも、そういうケースをたくさん集めています。大陸ではごく普通のことなんです。××が自分の背中を撃つというアイデアをグロースの本から得たのは、間違いない。この本には何ページにもわたってその実例が載っていますが、ほんの一節だけ読んでみましょう。『傷の位置で惑わされてはならぬということは、次の二つの例によって証明される。ひとつはウィーンのプラーター公園で、ある男が数人の目前で自分の後頭部をリヴォルヴァーで撃って自殺した例。数人の目撃者の証言がなければ、誰も自殺説を認めなかっただろう。また、ある兵士は、軍用ライフルを適宜の位置に固定すると、その上に仰向けにかぶさって、背中を撃って自殺した。これもまた傷の位置から自殺説を排除してはならぬことを示す事例である(5)』
[原注](P.435)
(5)第二巻八四三ページ。
[翻訳](26章P.408)
「『ある日の早朝、男の他殺死体が発見されたと当局に連絡があった。(略)そのへこみは殺人事件と関係があるのではないかと思ったかれが、橋の下の川底をさらわせてみたところ、長さ約十四フィートの丈夫な紐が現われ、一方の端には大きな石が、もう一方の端には銃が結びつけてあった。銃は一発撃っており、その銃身はA・Mの頭から取り出した弾丸と一致するものだったので、この一件は自殺と断定された。つまりA・Mは石を橋の欄干に吊るし、銃を耳の後ろで撃った。その瞬間に銃は手から放れ、石の重さで欄干を越えて水中に引きずり込まれたのである(6)』質問の答えになりますかな、部長？」
[原注](P.435)
(7)第二巻六六七ページ。

(7)捜査関係者たちの解説(アメグラ方式)
　捜査関係者に関する詳細な言及が至るところにある。以前の事件に登場済みであることを喚起したり、経歴などが書かれている。しかし、特に多いのは、この事件以後にどのような人生を歩むことになったかという「およそ本作とは無関係な情報」を記述した原注だ。これは映画ではおなじみの手法で、若き日のジョージ・ルーカス監督が制作した映画『アメリカン・グラフィティ』では、登場した若者たちがその後、どんな人生を歩んだかをエンディングに簡潔なナレーションで示した。この〈アメグラ方式〉は映画やドラマで多用される事になる。ヴァン・ダインの原注はそれを先取りしている形になる。
　このタイプの註の効果と言えば、作中の一人物でありながら、登場人物それぞれに命を吹きこむ事で、本文を群像劇に見せようとしている点だろう。上手くいってるのかは多少疑問ではあるが。
[翻訳](1章P.23)
「昨夜フェザーギルが当直のところへ本部から連絡があって、屋敷へ向かう警察に同行した。彼も警察と同じ意見だ(5)」
[原注](P.425)
(5)当時はエイモス・フェザーギルが地方検事補だった。彼はのちに民主党のタマニー派の議員候補に擁立、選出された。
[翻訳](2章P.36)
「きみと仲よしのヒース部長刑事が事件を掌握している。折りよく署に居合わせて、すぐこちらへ来てくれるそうだ(1)」
[原注](P.425)
(1)ベンスン殺人事件、カナリア殺人事件ともに担当したのが、殺人課のアーネスト・ヒース部長刑事だった。ヒースはいずれの事件でも初めのころこそヴァンスに反目していたが、あとになると二人のあいだには奇妙な親交がはぐくまれていた。ヴァンスはヒースの頑固一徹で単刀直入なところに敬服し、ヒースはヴァンスの能力に対して熱烈な敬意を――一定の留保付きではあるが――いだくようになった。
[翻訳](2章P.39)
すると、女性が二人、ご存じのとおり、ひとりは死亡し、もうひとりは意識不明で――どちらも銃弾をうけていました。ドク・ドリーマス(3)に電話してから、屋敷じゅうを調べていきました。
[原注](P.426)
(3)主席検屍官のエマニュエル・ドリーマス医師。
[翻訳](8章P.128)
　マーカムの憂いの表情がいちだんと深刻になる。
「ならば、さっさと仕事にとりかかったほうがいい。手をお貸しいただけるんでしょうか、警視？」
「その必要はあるまい」モランは落ち着き払っている。「警察のほうはヒース部長刑事に全面的に任せる。それに今はこうしてきみが――ミスター・ヴァンスも――いてくれるんだ、私の出る幕はなさそうだ」彼はヴァンスに愛想よく笑顔を向け、別れの挨拶(アデュー)をした。「引き続き連絡を頼むよ、部長刑事。人員は好きなだけ使っていい(2)」
[原注](P.425)
(2)ウィリアム・M・モラン警視は昨夏に他界したが、八年間にわたって刑事課課長を務めていた。たぐいまれな資質の持ち主だった彼の死によって、ニューヨーク市警は最も有能で信頼できる警官のひとりを失った。もともと彼は州北部に名を馳せた銀行家だったが、一九〇七年の経済恐慌で銀行閉鎖を余儀なくされた。
[翻訳](8章P.137)
「それしか考えられません。ゴム底の溝が何カ所かくっきり見えますし、浅くえぐれたヒールもはっきり目立ちますし。いずれにしても、ジェライム(3)に確認してもらいますが」
[原注](P.427)
(3)アンソニー・P・ジェライム警部は、ニューヨーク市警きっての鋭敏かつ綿密な犯罪学者。その職歴をベルティヨン式人体測定法の専門家として開始したが、のちに足跡を専門とし、そのテーマを精巧で複雑な学問にまで高める一端を担った。ウィーンで数年間、オーストリアの方法を学び、専門的な足跡写真の撮影法を開発して、ロンド、ビュレー、ライスらと並び称されるまでになった。
[翻訳](12章P.186)
　事件の捜査は、市警の昔ながらのりっぱなしきたりに則って推し進められた。銃器の専門家、カール・ヘージドーン弊部が、銃弾を系統立てて綿密に調べた(1)。独特の条痕からして、三つの銃弾は同じ銃から発射されたという調査結果だった。
[原注](P.427)
(1)ヘージドーン警部は、ベンスン殺人事件でヴァンスが犯人の身長を特定するもととなった専門的なデータの提供者だった。
[翻訳](12章P.186)
強盗用具の専門家、コンラッド・ブレナー警視補は、無理にこじあけた痕跡がないか屋敷を徹底的に調べたが、家宅侵入の形跡は見つからなかった(2)。
[原注](P.427)
(2)カナリア殺人事件で、現場にあった宝石箱を調べ、たがねでこじあけられていると報告してくれたのが、ブレナー警視補だ。
[翻訳](12章P.192)
　グリーン屋敷そのもののかかえている秘密が犯罪を引き起こしたと固く信じる彼は、マーカム抜きで屋敷をしげしげと訪ねるようになっていた。マーカムはといえば、第二の事件以来、一度訪ねたきりだったのだが。決して責任のがれをしていたわけではない。そこで彼にできることは実際ないに等しいうえ、そのころオフィスでの日常業務がことのほか忙しかったのだ(4)。
[原注](P.428)
(4)かの有名な牛乳への異物混入スキャンダルが世間を騒がせ、続々と裁判の予定が立ちはじめたころだった。また、そのころニューヨークでは賭博反対キャンペーンも進行中で、その起訴手続きのすべてを地方検事局が担っていた。
[翻訳](13章P.207)
　二日後――十一月三十日火曜日――午前十時を回ったころにマーカムからヴァンスへ電話があって、すぐオフィスへ来てほしいという。モダン・ギャラリーのアフリカ彫刻展に出かける支度中だったヴァンスだが、地方検事の緊急呼び出しとあってその道楽のほうは延期されることになった(1)。
[原注](P.428)
(1)モダン・ギャラリーの当時の支配人はマリウス・デ・ザイアス。彼が収集したアフリカの崇拝小像コレクションはおそらくアメリカ随一だったろう。
[翻訳](13章P.214)
「ミスター・グリーンの到着までにまだ三十分はあるな」マーカムがヴァンスのほうを向いて言った。「ぼくはいっぱい人を待たせているから、きみとヴァン・ダインでお嬢さんを証券取引所にお連れして、いかれたブローカーたちの狂乱ぶりをご覧にいれてはどうだろう。いかがですか、ミス・グリーン？」
「ぜひ！」娘は大喜びだ。
「一緒にどうだ、部長？」
「私もですか！」ヒースが鼻を鳴らす。「お楽しみはもうけっこう。ひとっ走り大佐のところへ行って、ちょいと話をしてきます(2)」
[原注](P.428)
(2)ニューヨーク市警逃亡犯罪人引き渡し部門最高権力者のひとりであるベンジャミン・ハンロン大佐は、当時、地方検事局付属刑事部門の指揮官として刑事裁判所ビルに配属されていた。
[翻訳](18章P.286)
「分類の違う本が、ちょっと不揃いにまとめられているぞ。それに、埃をかぶっていない。……ねえ、マーカム、疑い深い法律家頭のきみが言う偶然が、ほら、ここにも！　タイトルを読んであげよう。『毒物――その効能と検出』アレグザンダー・ウィンター・ブライズ(2)著、(略)
[原注](P.431)
(2)ブライズ博士は、クリッペンの毒殺事件裁判で弁護側の証人のひとりだった。
[翻訳](19章P.299)
最高権威の専門家によるミセス・グリーンの病状報告書を入手するのが得策だろうと、ミスター・マーカムが決定いたしました。そこでご提案ですが、あくまでも形式的な手続きとして、そうですね、フェリックス・オッペンハイマー博士(1)のようなかたにお願いしてはどうかと」
[原注](P.431)
(1)フェリックス・オッペンハイマー博士は当時、麻痺に関して米国を代表する権威者だった。そののちドイツに帰国、現在はフライブルク大学神経学講座を担当している。
[翻訳](20章P.309)
「たまたま窓辺で外を見ていたんですよ――まったくの偶然でした――すると、カーテンが下りた――ヘネシー(1)より先に気づきました。とっさにかばんと人工呼吸装置をひっつかんで、すぐさまここまで来ました。(略)
[原注](P.432)
(1)ヘネシーはナーコス・フラッツでグリーン屋敷の見張りについていた刑事。
[翻訳](22章P.333)
　その日の夕方六時に、マーカムはスタイヴェサント・クラブでまた非公式な会合を招集した。モラン警視とヒースが参集したばかりか、オブライエン警視正までが市警本部から帰宅する途中で立ち寄った(1)。
[原注](P.432)
(1)オブライエン警視正はニューヨーク市警全体を指揮する立場にあった。あとになって知ったのだが、グリーン屋敷でナースの任務についた警官、ミス・オブライエンのおじでもある。
[翻訳](22章P.337)
　モランがそわそわと椅子を動かし、ヒースのほうを向いた。「シベラを見張りに、アトランティック・シティには誰をやったんだ？」
「ギルフォイルとマロリー――選りすぐりの二人です(2)」部長刑事は残酷な喜びにも似た笑みを浮かべる。
[原注](P.425)
(2)ギルフォイルとマロリーは、カナリア殺人事件でもコンビを組んでトニー・スキールの見張りについたのだった。
　
[訳注]
　最後に蛇足ながら訳注を取り上げておく。
[翻訳](16章P.256)
「(略)殺人者がいかにも殺人者らしく見えると思うのはね、間違った考えなんだ。(略)コンスタント・ケント(i)はたいした美人で――人に好かれる親切な娘だったがね、幼い弟の喉を容赦なくかききった。(略)」
[訳注](P.429)
(i)コンスタンス・エミリー・ケント(一八四四ー一九四四)は、ロード・ヒル・ハウス殺人事件(一八六〇年に英国のカントリーハウスで起きた有名な幼児殺人事件)の犯人であることを、後年になって告白した。彼女は当時三歳だった被害者フランシス・サヴィル・ケントの異母姉で、事件当時十六歳。この、当時最も騒がれた事件の捜査は英国じゅうに「探偵熱」をもたらし、ウィルキー・コリンズやチャールズ・ディケンズの作品に影響を与えた。この事件と担当したジャック・ウィッチャー警部については、ケイト・サマースケイルの著書『最初の刑事――ウィッチャー警部とロード・ヒル・ハウス殺人事件』に詳しく書かれている。　ヴァン・ダインが本書の着想を得るにあたって、当時有名だった事件にコリンズやディケンズ同様に関心を持っていた事が訳者には興味深かったようだ。
[翻訳](21章P.319)
「確かに。ただ、サイドテーブルの上に〈シトロカーボネート(i)〉の瓶もありました――よくある胃の制酸剤ですが。薬物があれの水溶液に入っていたなら、味もわからなかったでしょう。ちょっと塩気があるうえ、かなり発泡しますから」
[訳注](P.432)
(i)〈シトロカーボネート〉は一九二五年にアップジョン社が特許を取得した制酸用の市販薬。顆粒だが発泡性なので、レモン水などに溶かしてレモネードのようにして飲むことが、当時紹介されていた。　本書が刊行された当時は誰でも知っていた薬名だったろうが、現在の読者には聞き及びのない名称なので、あえて取り上げている。
[翻訳](26章P.404)
　フォン・ブロン夫妻は、遺言に関する裁判所の決定後すぐにリビエラへ出航し、遅ればせながらハネムーンを過ごした。現在はウィーンに定住し、ドクターは父の母校である大学の員外講師をしている。神経学の分野ではかなり有名になっているようだ(i)」
[訳注](P.435)
(i)本書の定本としたのは米国版であるが、英国版には、このあとにもう一段落分、以下のような文章が付け加えられている。

　ひとつ、家庭的な出来事を付記しておこう。数ヶ月前、ウィーンから帰国した友人が、シベラが跡継ぎである息子を出産したというニュースを私に伝えてきた。この事実に、正直言って、私はいささか不調和なものを感じた。シベラが母親の役割につくことを想像するのは、私には難しかったのだ。しかし、最近、ある著名な社会学者が、現代の若い女性たちは、無愛想で洗練された外見の下に古くからの強烈な母性を秘めていると断言した。「現代の若い女性たちが最高の母親になることは、確かである」と、この高名な社会学者は付け加えた。シベラがその楽観的な考えを裏づけてくれることを、切に願いたい。　この英国版の一段落は、シベラのような(当時の)現代的な考え方をする女性では、保守的な英国の読者が反感をもつだろうと出版社が考えて、著者に意見した結果だと思える。今や、現代の読者ならば、この段落の考え方はあまりに偏見に満ちていると切り捨てそうだ。<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
<span style="color:#ff0000;">(この記事は、『グリーン家殺人事件』のネタバレになる引用が一部あります。未読の方はご注意ください。)</span><br /><br />　何と言っても、ファイロ・ヴァンスの長篇の特徴は、本文の至るところにつけられた原注だろう。これは第一作『ベンスン殺人事件』から踏襲されたフォーマットであり、最後の長篇で第十二作『ウインター殺人事件』を除けば、ほぼ全作に渡って続けられている。著者はどのような心づもりで原注を多用したのか。原注を散策していこう。<br /><br /><strong>[原注]</strong><br /><strong>(1)補足情報</strong><br />　本文に書かれている事を補足したり、関係者以外は知らないような内容を公開している体でつけられている。最初から本文に書き加えればいいと現代の読者は思うだろう(僕もそう思う)。だが、一種のおまけのように註を利用して、謎解きの醍醐味を煽ろうという著者ヴァン・ダインのもくろみが感じられる。<br /><blockquote><span style="color:#0000ff;">[翻訳](1章P.16)</span><br />　そういうわけで、私が記録にとりかかろうとしているのは、初の完全版にして手心を加えていない、グリーン家大虐殺(ホロコースト)の物語となる(1)。<br /><span style="color:#ff0000;">[原注](P.425)</span><br />(1)言うまでもないことだろうが、私の仕事に対しては正式な許可を得ている。</span></blockquote><br /><blockquote><span style="color:#0000ff;">[翻訳](5章P.85)</span><br />とんだ失敗作よ――この家庭は。もっと早くに殺人が起きなかったのが不思議なくらい。なのに、私たちみんな、一九三二年までここに住んでなくちゃならないの。でなければ自力で生きていくか。言うまでもなく、誰もまともに自活なんかできやしないわ。ありがたい相続権ですこと(1)」<br /><span style="color:#ff0000;">[原注](P.426)</span><br />(1)シベラがここで言っているのはトバイアス・グリーンの遺言のこと。二十五年間はグリーン屋敷をそのままにしておくことだけでなく、遺産受取人がその間屋敷に住んでいなければ相続権を失うことも規定されていた。</span></blockquote><br /><blockquote><span style="color:#0000ff;">[翻訳](10章P.168)</span><br />「おい、ヴァンス！　きみらしくもない！」<br />マーカムの口調にはいらだちと非難が混じっている。「その言葉は、つかみどころのない巫女さんのご託宣よりたちが悪いぞ。トバイアス・グリーンが昔、そのマンハイムとやらと実際に取引をしていたとして、それがどうだっていうんだ？　トバイアス老人はいくつもいかがわしい取引にいそしんでいたっていうがね、二十五年から三十年も前の噂があてになるなら(1)。<br /><span style="color:#ff0000;">[原注](P.427)</span><br />(1)私の記憶にもある。まだ子供だった一八九〇年代に、トバイアス・グリーンの逸脱行為について父の口に上るおもしろおかしい話をいくつか耳にした。</span></blockquote><br /><blockquote><span style="color:#0000ff;">[翻訳](25章P.396)</span><br />三ヶ月ほど前に、暗室から青酸カリの錠剤が一錠なくなったらしい。ちょっと訊いてみたら、その数日前、××が部屋をのぞき込んで回ってあれこれ質問していたことも思い出した。いざというときにはその青酸カリ一錠でこと足りるだろう――そう思って、まさかのときのための自害用にとっておいたんだな(2)」<br /><span style="color:#ff0000;">[原注](P.433)</span><br />(2)あとになって知ったことだが、熱心なアマチュア写真家でもあったドクター・フォン・ブロンは、写真製版に青酸カリの半グラム錠をよく使っていた。××が訪ねてきたときも、暗室に三錠あった。数日後、現像しようとしたら二錠しかなくなっていたのだが、ヴァンスに質問されるまでは特になんとも思っていなかったという。</span></blockquote><br /><blockquote><span style="color:#0000ff;">[翻訳](26章P.398)</span><br />彼女はのちに、夫は十三年前の十月に、一年間の入院のあと、ニューオーリンズで死んだと認めた。彼女はまた、きみも記憶するとおり、夫が亡くなる一年前にトバイアスに会ったとも言った。これは今から十四年前で、ちょうど××がトバイアスの○○になったころのことだ(2)。ぼくは、死んだマンハイムがこの犯罪と何らかのつながりをもっているのではないかと考えてみた。<br /><span style="color:#ff0000;">[原注](P.434)</span><br />(2)のちにミセス・マンハイムから聞いたところでは、夫のマンハントは、かつてトバイアスが悪質な非合法取引で刑事訴追されそうになったときに責任を肩代わりして彼を救ったことがあり、自分が死ぬか投獄された場合は、ミセス・マンハイムが五歳で民間施設に入れた××を○○にして世話し、影響を受けないようにして守ると、トバイアスに約束させたということだった。</span></blockquote><br /><br /><strong>(2)ファイロ・ヴァンスが解決した事件(過去の作品の宣伝)</strong><br />　これもシリーズを通してのお約束だが、冒頭にファイロ・ヴァンスが解決した直近の事件に関する言及がある。「本書を読んだ方は前作、前々作も読んでね」というコマーシャルの意図が感じられる。<br /><blockquote><span style="color:#0000ff;">[翻訳](1章P.19)</span><br />　彼が最初に関与したのは、私が別途記録したとおり、アルヴィン・ベンスン殺人事件だ(2)。あわや解決不能かと思われた二件目が、ブロードウェイで名を馳せた美女マーガレット・オウデルの絞殺事件(3)。<br /><span style="color:#ff0000;">[原注](P.425)</span><br />(2)『ベンスン殺人事件』<br />(3)『カナリア殺人事件』</span></blockquote><br /><br /><strong>(3)ファイロ・ヴァンスの権威付け</strong><br />　名探偵ホームズにワトソンが存在したように、如何にファイロ・ヴァンスが名探偵であるかの権威づけを、語り手ヴァン・ダインが本文のみならず原注でも行っている。<br /><blockquote><span style="color:#0000ff;">[翻訳](1章P.21)</span><br />　マーカムがうなずく。「三人目は取り逃した。あの二人の言うことには、エディ・マレッポとかいう名の知られたギャングらしい」<br />「じゃあ、そのエデュアルドだな、撃ったのは(4)」<br /><span style="color:#ff0000;">[原注](P.425)</span><br />(4)のちに、そのとおりだったと判明する。一年近くたってデトロイトで逮捕されたマレッポがニューヨークへ送還され、殺人で有罪になった。共犯者二人はすでに強盗罪で起訴されていた。このときの二人は今、シンシン刑務所で長期の刑に服している。</span></blockquote><br /><blockquote><span style="color:#0000ff;">[翻訳](25章P.396)</span><br />カントリー・クラブのゴルフ場脇で狭い道に入ろうとブレーキをかけたとき、彼の口から押し殺したつぶやきがもれた。<br />「神よ、手遅れでありませんように(1)！」<br /><span style="color:#ff0000;">[原注](P.433)</span><br />(1)ヴァンスとの長いつきあいで、彼が神にすがるような言葉を使うのを聞いたのは、この一度きりだ。</span></blockquote><br /><blockquote><span style="color:#0000ff;">[翻訳](26章P.397)</span><br />「きみも知ってのとおりだが、マーカム」その夜遅く、書斎の暖炉を囲んだ席でヴァンスが口を開いた。「ぼくはあの一覧表をいろいろにつなぎ合わせてみて、犯人が誰であるかを知ることができた(1)。<br /><span style="color:#ff0000;">[原注](P.434)</span><br />(1)後日、ヴァンスに最終的な思考の順番に項目を並べ直してもらった。彼に真実を伝えたその並び方は、以下のとおり。3、4、44、92、9、2、47、1、5、32、31、98、8、81、84、82、7、10、11、61、15、16、93、33、94、76、75、48、17、38、55、54、18、39、56、41、42、28、43、58、59、83、74、40、12、34、13、14、37、22、23、35、36、19、73、26、20、21、45、25、46、27、29、30、57、77、24、78、79、51、50、52、53、49、95、80、85、86、87、88、60、62、64、63、66、65、96、89、67、71、69、68、70、97、90、91、72。</span></blockquote><br /><br /><strong>(4)美術</strong><br />　美術評論家である著者が、本文でサラッとペダンティックな美術情報に触れた際に、出典や感想を註に書き加えている。こういう場合の出典は架空ではなく、本当である事が多い。<br /><blockquote><span style="color:#0000ff;">[翻訳](2章P.36)</span><br />　ヴァンスは席を立ち、部長刑事と握手した。<br />「ああ、部長、きみと最後に会って以来、ルネサンス建築ファサードのテラコッタ装飾とかなんとか、つまらないことに没頭していたんですがね(2)。だけど、うれしいなあ、また犯罪がもちあがっているらしくて。たまにはすてきに怪しい殺人事件でも起きてくれないことには、ひどくつまらない世界じゃないか」<br /><span style="color:#ff0000;">[原注](P.426)</span><br />(2)校正刷りでこの一文を読んだヴァンスから、最近ニューヨークのナショナル・テラコッタ協会が刊行した、『イタリア・ルネサンスのテラコッタ』という美しい書物に言及するよう求められた。</span></blockquote><br /><blockquote><span style="color:#0000ff;">[翻訳](8章P.123)</span><br />　ヴァンスは水曜日と木曜日を書斎で、漫然と読書したりヴォラール(フランスの画商)のカタログでセザンヌの水彩画をチェックしたりして過ごしていた。三巻に及ぶ『ウジェーヌ・ドラクロアの日記(1)』が書きものテーブルに載ってはいたが、私の見るところ、ろくに開きもしないようだった。<br /><span style="color:#ff0000;">[原注](P.426)</span><br />E. Plon, Nourrit et Cie., Paris, Journal de<br />Eugène Delacroix, 1893.<br />『ユージェーヌ・ドラクロワの日記』三巻版<br />フランスのロマン派画家ユージェーヌ・ドラクロワが残した日記を、三巻に分けて刊行<br />• 出版社：E. Plon, Nourrit et Cie.（パリ）<br />• 刊行年：第一巻が1893年に出版され、その後1893–1895年にかけて全三巻が刊行<br />• 編集者：ポール・フラット (Paul Flat) とルネ・ピオ (René Piot)<br />• 構成：<br />　第1巻：1823–1850<br />　第2巻：1850–1854<br />　第3巻：1855–1863（索引付き）</span></blockquote><br /><blockquote><span style="color:#0000ff;">[翻訳](23章P.353)</span><br />(略)現代の画家たちがドキュメンテーションと呼ぶもの――つまり、絵画のうちの目に見える部分の客観的アピールにばかり気をとられていたってことだな。まだ観念的な内容をさぐっていない。見落としているんだよ、”暗示的形式(1)"を――ずさんな用語だな。だけど、そいつはクライヴ・ベルのせいだから」<br /><span style="color:#ff0000;">[原注](P.433)</span><br />(1)出典：“The Æsthetic Hypothesis” in Art, Clive Bell.ここでの言い方にはいささか軽んじているような含みがあるが、ヴァンスはベルの批評を大いに評価していて、彼の評論『セザンヌ以降』について、私にかなり熱を込めて語り聞かせたこともある。</span></blockquote><br /><br /><strong>(5)犯罪史</strong><br />　犯人の行動を過去に起きた有名な猟奇犯罪事例から推定し、犯罪者の動機を過去の犯罪者の心理から推測してみせている。この原注は本文同様、語り手(=ファイロ・ヴァンスの友人のヴァン・ダイン)が語っているはずなのだが、それにしては犯罪学や犯罪史に精通した記述になっている。語り手が友ヴァンスから受け売りの知識を書き連ねたのかもしれないし、あるいは著者が語り手に書かせているのかもしれない。いずれにしろ、科学や医学、犯罪学、時には美術や哲学、文学などの知識がないと、犯罪史に刻まれるような事件の真相を暴く事などできないという事を表現した註なのだろう。<br /><blockquote><span style="color:#0000ff;">[翻訳](12章P.191)</span><br />チェスター・グリーンまで殺されてからの新聞記事はまったく別の活気を呈している。非現実なほどに邪悪なところ――犯罪史に埋もれかけた事件を思い起こさせるようなところがある事件なのだった(3)。グリーン一族の歴史を取り上げるコラムに紙面が割かれた。<br /><span style="color:#ff0000;">[原注](P.427)</span><br />(3)グリーン家で起きた銃撃とどこか似たところのある有名事件には、ランドリュ(二十世紀前半のフランス)、ジャン＝バティスト・トロップマン(一八六九年フランス)、フリッツ・ハールマン(二十世紀前半のドイツ)、ミセル・ベル・ガンネス(十九－二十世紀にかけてのアメリカ)による大量殺人事件、ベンダー一家の宿屋殺人事件(十九世紀後半アメリカ)、オランダのヴァン・デル・リンデンによる毒殺事件(十九世紀後半の連続殺人)、ベーラ・シキュのブリキ樽詰め事件(二十世紀初頭のハンガリー連続殺人)、ルージリーのウィリアム・パーマー医師による殺人事件(十九世紀なかばのイギリス)、ベンジャミン・ネイサン撲殺事件(一八七〇年のニューヨーク)などがある。</span></blockquote><br /><blockquote><span style="color:#0000ff;">[翻訳](21章P.327)</span><br />「ストリキニーネを摂取したのは？」<br />「十二時前後だな。だが、推測にすぎない。ともかく、シトロカーボネート水と一緒に飲んだんだ。グラスを味見したよ(1)」<br /><span style="color:#ff0000;">[原注](P.432)</span><br />(1)有名なモリヌーによる毒殺事件でも、似たような薬品――すなわちブロセルツァー(頭痛や胃痛の治療用、鎮静用の、臭化物入りの発泡性水薬)にシアン化水銀が混入されていた。</span></blockquote><br /><blockquote><span style="color:#0000ff;">[翻訳](26章P.402)</span><br />「歴史を振り返ってみれば、ぼくらが悩まされている問題の実証的な例がたくさん出てくるというのに、ぼくらは本能的に真実から目をそらしてしまう。不思議なことだね。犯罪史には、××のような立場におかれた若い女性が残虐な犯罪に手を染めた例が、数多くある。有名なコンスタンス・ケント事件のほか、マリー・ボワイエ、マデレーン・スミス(以上、十六章参照)、グレーテ・バイアー(一九〇七年ドイツの殺人者)の事件などだ(3)。そういう事件を思い出してさえいたら――」<br /><span style="color:#ff0000;">[原注](P.434)</span><br />(3)マデレーン・スミスとコンスタンス・ケントの事件については、エドマンド・レスター・ピアスンのMurder at Smutty Noseに、マリー・ボワイエの事件についてはH・B・アーヴィングのA book of Remarkable Criminalsに記述がある。グレーテ・バイアーはドイツで公開処刑された最後の女性である。</span></blockquote><br /><br /><strong>(6)参考文献</strong><br />　とにかく(4)美術と同じように、参照すべき文献に関する註がそれなりにある。しかも、いずれも著者のこだわり(あるいはこけおどし)であって、深読みする意味があるようには思えない。<br /><blockquote><span style="color:#0000ff;">[翻訳](18章P.284)</span><br />　ぎっしり詰まったトバイアス・グリーンの書棚には、絶版となって久しい、当節は蔵書家垂涎の的である稀覯本が肩を並べる列もあるのだった。<br />　並ぶ本のテーマがまた、狭義の犯罪学にかぎられていない。犯罪に関連するさまざまな部門の本も並んでいた。まるまる一画を占めているのは、精神病と犯罪、社会病理学と犯罪病理学、自殺、貧困と慈善事業、刑務所改革、売春とモルヒネ中毒、死刑、異常心理学、法典、犯罪社会の隠語と暗号、毒物学、警察の捜査体系。言語もさまざまだった――英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語、スウェーデン語、ロシア語、オランダ語、ラテン語。<br /><span style="color:#ff0000;">[原注](P.429)</span><br />(1)トバイアスの書斎にあった本のうち、代表的なものを以下に挙げておく。<br />(以下、数十冊の書籍のタイトルが続くが省略。)</span></blockquote>　タイトルはいずれも訳出されず原書名のままなので、翻訳の日暮さんも無視を決め込んだのだろう。生成AIに調べてもらったところ、<br /><blockquote>• 大部分は実在する19世紀〜20世紀初頭の犯罪学・精神医学の古典文献。<br />• 一部は著者名・タイトルが誤記されているか、架空の文献の可能性が高い。<br />• 全体としては、犯罪人類学（ロンブローゾ派）・精神病理学・刑法学の文献コレクションとして整合性がある。</blockquote>という結論だった。フィクションでありながら、論文のように権威づけの文献を列挙している。その中に架空の本を紛れ込ますというのも当時の知識階級のお遊びだったのかもしれない。<br /><br />　以下はファイロ・ヴァンスが『予審判事ハンドブック』の記述を読み上げるシーン。どの部分なのかを巻数と頁とで補足しているが、註にする意味がない。そもそもこの書物が現実には存在しない架空のものである可能性が高い。註は美術評論家でもある著者のこだわりに過ぎない。<br /><blockquote><span style="color:#0000ff;">[翻訳](26章P.404)</span><br />「いいですか、部長。大意を訳しながら読んでいきますよ。『自己の身体に損傷を加える例は珍しくない。凶器を用いた暴行の被害者のふりをするものもあるし、損害賠償あるいは恐喝の材料にしようとするものもある。つまり、些細な諍いのあと、故意にみずから与えた傷害を相手に見せ、争いによって受けたものと主張するような例はよく見られるのである。このような自己毀損の特徴としては、目的を達していないことがきわめて多いこと、またほとんどの場合、極端に信心深いか、孤独な生活を送っているものであることが挙げられる(4)』どうですか、部長刑事。きみならきっと、軍隊勤務がいやで自己毀損をやった兵士をご存じでしょう。最も一般的な方法は、銃口に手を当てて発砲して、指を吹き飛ばすというやつだ」<br /><span style="color:#ff0000;">[原注](P.435)</span><br />(4)第一巻三二－三四ページ。</span></blockquote><br /><blockquote><span style="color:#0000ff;">[翻訳](26章P.405)</span><br />「じつはグロースも、そういうケースをたくさん集めています。大陸ではごく普通のことなんです。××が自分の背中を撃つというアイデアをグロースの本から得たのは、間違いない。この本には何ページにもわたってその実例が載っていますが、ほんの一節だけ読んでみましょう。『傷の位置で惑わされてはならぬということは、次の二つの例によって証明される。ひとつはウィーンのプラーター公園で、ある男が数人の目前で自分の後頭部をリヴォルヴァーで撃って自殺した例。数人の目撃者の証言がなければ、誰も自殺説を認めなかっただろう。また、ある兵士は、軍用ライフルを適宜の位置に固定すると、その上に仰向けにかぶさって、背中を撃って自殺した。これもまた傷の位置から自殺説を排除してはならぬことを示す事例である(5)』<br /><span style="color:#ff0000;">[原注](P.435)</span><br />(5)第二巻八四三ページ。</span></blockquote><br /><blockquote><span style="color:#0000ff;">[翻訳](26章P.408)</span><br />「『ある日の早朝、男の他殺死体が発見されたと当局に連絡があった。(略)そのへこみは殺人事件と関係があるのではないかと思ったかれが、橋の下の川底をさらわせてみたところ、長さ約十四フィートの丈夫な紐が現われ、一方の端には大きな石が、もう一方の端には銃が結びつけてあった。銃は一発撃っており、その銃身はA・Mの頭から取り出した弾丸と一致するものだったので、この一件は自殺と断定された。つまりA・Mは石を橋の欄干に吊るし、銃を耳の後ろで撃った。その瞬間に銃は手から放れ、石の重さで欄干を越えて水中に引きずり込まれたのである(6)』質問の答えになりますかな、部長？」<br /><span style="color:#ff0000;">[原注](P.435)</span><br />(7)第二巻六六七ページ。</span></blockquote><br /><br /><strong>(7)捜査関係者たちの解説(アメグラ方式)</strong><br />　捜査関係者に関する詳細な言及が至るところにある。以前の事件に登場済みであることを喚起したり、経歴などが書かれている。しかし、特に多いのは、この事件以後にどのような人生を歩むことになったかという「およそ本作とは無関係な情報」を記述した原注だ。これは映画ではおなじみの手法で、若き日のジョージ・ルーカス監督が制作した映画『アメリカン・グラフィティ』では、登場した若者たちがその後、どんな人生を歩んだかをエンディングに簡潔なナレーションで示した。この〈アメグラ方式〉は映画やドラマで多用される事になる。ヴァン・ダインの原注はそれを先取りしている形になる。<br />　このタイプの註の効果と言えば、作中の一人物でありながら、登場人物それぞれに命を吹きこむ事で、本文を群像劇に見せようとしている点だろう。上手くいってるのかは多少疑問ではあるが。<br /><blockquote><span style="color:#0000ff;">[翻訳](1章P.23)</span><br />「昨夜フェザーギルが当直のところへ本部から連絡があって、屋敷へ向かう警察に同行した。彼も警察と同じ意見だ(5)」<br /><span style="color:#ff0000;">[原注](P.425)</span><br />(5)当時はエイモス・フェザーギルが地方検事補だった。彼はのちに民主党のタマニー派の議員候補に擁立、選出された。</span></blockquote><br /><blockquote><span style="color:#0000ff;">[翻訳](2章P.36)</span><br />「きみと仲よしのヒース部長刑事が事件を掌握している。折りよく署に居合わせて、すぐこちらへ来てくれるそうだ(1)」<br /><span style="color:#ff0000;">[原注](P.425)</span><br />(1)ベンスン殺人事件、カナリア殺人事件ともに担当したのが、殺人課のアーネスト・ヒース部長刑事だった。ヒースはいずれの事件でも初めのころこそヴァンスに反目していたが、あとになると二人のあいだには奇妙な親交がはぐくまれていた。ヴァンスはヒースの頑固一徹で単刀直入なところに敬服し、ヒースはヴァンスの能力に対して熱烈な敬意を――一定の留保付きではあるが――いだくようになった。</span></blockquote><br /><blockquote><span style="color:#0000ff;">[翻訳](2章P.39)</span><br />すると、女性が二人、ご存じのとおり、ひとりは死亡し、もうひとりは意識不明で――どちらも銃弾をうけていました。ドク・ドリーマス(3)に電話してから、屋敷じゅうを調べていきました。<br /><span style="color:#ff0000;">[原注](P.426)</span><br />(3)主席検屍官のエマニュエル・ドリーマス医師。</span></blockquote><br /><blockquote><span style="color:#0000ff;">[翻訳](8章P.128)</span><br />　マーカムの憂いの表情がいちだんと深刻になる。<br />「ならば、さっさと仕事にとりかかったほうがいい。手をお貸しいただけるんでしょうか、警視？」<br />「その必要はあるまい」モランは落ち着き払っている。「警察のほうはヒース部長刑事に全面的に任せる。それに今はこうしてきみが――ミスター・ヴァンスも――いてくれるんだ、私の出る幕はなさそうだ」彼はヴァンスに愛想よく笑顔を向け、別れの挨拶(アデュー)をした。「引き続き連絡を頼むよ、部長刑事。人員は好きなだけ使っていい(2)」<br /><span style="color:#ff0000;">[原注](P.425)</span><br />(2)ウィリアム・M・モラン警視は昨夏に他界したが、八年間にわたって刑事課課長を務めていた。たぐいまれな資質の持ち主だった彼の死によって、ニューヨーク市警は最も有能で信頼できる警官のひとりを失った。もともと彼は州北部に名を馳せた銀行家だったが、一九〇七年の経済恐慌で銀行閉鎖を余儀なくされた。</span></blockquote><br /><blockquote><span style="color:#0000ff;">[翻訳](8章P.137)</span><br />「それしか考えられません。ゴム底の溝が何カ所かくっきり見えますし、浅くえぐれたヒールもはっきり目立ちますし。いずれにしても、ジェライム(3)に確認してもらいますが」<br /><span style="color:#ff0000;">[原注](P.427)</span><br />(3)アンソニー・P・ジェライム警部は、ニューヨーク市警きっての鋭敏かつ綿密な犯罪学者。その職歴をベルティヨン式人体測定法の専門家として開始したが、のちに足跡を専門とし、そのテーマを精巧で複雑な学問にまで高める一端を担った。ウィーンで数年間、オーストリアの方法を学び、専門的な足跡写真の撮影法を開発して、ロンド、ビュレー、ライスらと並び称されるまでになった。</span></blockquote><br /><blockquote><span style="color:#0000ff;">[翻訳](12章P.186)</span><br />　事件の捜査は、市警の昔ながらのりっぱなしきたりに則って推し進められた。銃器の専門家、カール・ヘージドーン弊部が、銃弾を系統立てて綿密に調べた(1)。独特の条痕からして、三つの銃弾は同じ銃から発射されたという調査結果だった。<br /><span style="color:#ff0000;">[原注](P.427)</span><br />(1)ヘージドーン警部は、ベンスン殺人事件でヴァンスが犯人の身長を特定するもととなった専門的なデータの提供者だった。</span></blockquote><br /><blockquote><span style="color:#0000ff;">[翻訳](12章P.186)</span><br />強盗用具の専門家、コンラッド・ブレナー警視補は、無理にこじあけた痕跡がないか屋敷を徹底的に調べたが、家宅侵入の形跡は見つからなかった(2)。<br /><span style="color:#ff0000;">[原注](P.427)</span><br />(2)カナリア殺人事件で、現場にあった宝石箱を調べ、たがねでこじあけられていると報告してくれたのが、ブレナー警視補だ。</span></blockquote><br /><blockquote><span style="color:#0000ff;">[翻訳](12章P.192)</span><br />　グリーン屋敷そのもののかかえている秘密が犯罪を引き起こしたと固く信じる彼は、マーカム抜きで屋敷をしげしげと訪ねるようになっていた。マーカムはといえば、第二の事件以来、一度訪ねたきりだったのだが。決して責任のがれをしていたわけではない。そこで彼にできることは実際ないに等しいうえ、そのころオフィスでの日常業務がことのほか忙しかったのだ(4)。<br /><span style="color:#ff0000;">[原注](P.428)</span><br />(4)かの有名な牛乳への異物混入スキャンダルが世間を騒がせ、続々と裁判の予定が立ちはじめたころだった。また、そのころニューヨークでは賭博反対キャンペーンも進行中で、その起訴手続きのすべてを地方検事局が担っていた。</span></blockquote><br /><blockquote><span style="color:#0000ff;">[翻訳](13章P.207)</span><br />　二日後――十一月三十日火曜日――午前十時を回ったころにマーカムからヴァンスへ電話があって、すぐオフィスへ来てほしいという。モダン・ギャラリーのアフリカ彫刻展に出かける支度中だったヴァンスだが、地方検事の緊急呼び出しとあってその道楽のほうは延期されることになった(1)。<br /><span style="color:#ff0000;">[原注](P.428)</span><br />(1)モダン・ギャラリーの当時の支配人はマリウス・デ・ザイアス。彼が収集したアフリカの崇拝小像コレクションはおそらくアメリカ随一だったろう。</span></blockquote><br /><blockquote><span style="color:#0000ff;">[翻訳](13章P.214)</span><br />「ミスター・グリーンの到着までにまだ三十分はあるな」マーカムがヴァンスのほうを向いて言った。「ぼくはいっぱい人を待たせているから、きみとヴァン・ダインでお嬢さんを証券取引所にお連れして、いかれたブローカーたちの狂乱ぶりをご覧にいれてはどうだろう。いかがですか、ミス・グリーン？」<br />「ぜひ！」娘は大喜びだ。<br />「一緒にどうだ、部長？」<br />「私もですか！」ヒースが鼻を鳴らす。「お楽しみはもうけっこう。ひとっ走り大佐のところへ行って、ちょいと話をしてきます(2)」<br /><span style="color:#ff0000;">[原注](P.428)</span><br />(2)ニューヨーク市警逃亡犯罪人引き渡し部門最高権力者のひとりであるベンジャミン・ハンロン大佐は、当時、地方検事局付属刑事部門の指揮官として刑事裁判所ビルに配属されていた。</span></blockquote><br /><blockquote><span style="color:#0000ff;">[翻訳](18章P.286)</span><br />「分類の違う本が、ちょっと不揃いにまとめられているぞ。それに、埃をかぶっていない。……ねえ、マーカム、疑い深い法律家頭のきみが言う偶然が、ほら、ここにも！　タイトルを読んであげよう。『毒物――その効能と検出』アレグザンダー・ウィンター・ブライズ(2)著、(略)<br /><span style="color:#ff0000;">[原注](P.431)</span><br />(2)ブライズ博士は、クリッペンの毒殺事件裁判で弁護側の証人のひとりだった。</span></blockquote><br /><blockquote><span style="color:#0000ff;">[翻訳](19章P.299)</span><br />最高権威の専門家によるミセス・グリーンの病状報告書を入手するのが得策だろうと、ミスター・マーカムが決定いたしました。そこでご提案ですが、あくまでも形式的な手続きとして、そうですね、フェリックス・オッペンハイマー博士(1)のようなかたにお願いしてはどうかと」<br /><span style="color:#ff0000;">[原注](P.431)</span><br />(1)フェリックス・オッペンハイマー博士は当時、麻痺に関して米国を代表する権威者だった。そののちドイツに帰国、現在はフライブルク大学神経学講座を担当している。</span></blockquote><br /><blockquote><span style="color:#0000ff;">[翻訳](20章P.309)</span><br />「たまたま窓辺で外を見ていたんですよ――まったくの偶然でした――すると、カーテンが下りた――ヘネシー(1)より先に気づきました。とっさにかばんと人工呼吸装置をひっつかんで、すぐさまここまで来ました。(略)<br /><span style="color:#ff0000;">[原注](P.432)</span><br />(1)ヘネシーはナーコス・フラッツでグリーン屋敷の見張りについていた刑事。</span></blockquote><br /><blockquote><span style="color:#0000ff;">[翻訳](22章P.333)</span><br />　その日の夕方六時に、マーカムはスタイヴェサント・クラブでまた非公式な会合を招集した。モラン警視とヒースが参集したばかりか、オブライエン警視正までが市警本部から帰宅する途中で立ち寄った(1)。<br /><span style="color:#ff0000;">[原注](P.432)</span><br />(1)オブライエン警視正はニューヨーク市警全体を指揮する立場にあった。あとになって知ったのだが、グリーン屋敷でナースの任務についた警官、ミス・オブライエンのおじでもある。</span></blockquote><br /><blockquote><span style="color:#0000ff;">[翻訳](22章P.337)</span><br />　モランがそわそわと椅子を動かし、ヒースのほうを向いた。「シベラを見張りに、アトランティック・シティには誰をやったんだ？」<br />「ギルフォイルとマロリー――選りすぐりの二人です(2)」部長刑事は残酷な喜びにも似た笑みを浮かべる。<br /><span style="color:#ff0000;">[原注](P.425)</span><br />(2)ギルフォイルとマロリーは、カナリア殺人事件でもコンビを組んでトニー・スキールの見張りについたのだった。</span></blockquote><br />　<br /><strong>[訳注]</strong><br />　最後に蛇足ながら訳注を取り上げておく。<br /><blockquote><span style="color:#0000ff;">[翻訳](16章P.256)</span><br />「(略)殺人者がいかにも殺人者らしく見えると思うのはね、間違った考えなんだ。(略)コンスタント・ケント(i)はたいした美人で――人に好かれる親切な娘だったがね、幼い弟の喉を容赦なくかききった。(略)」<br /><span style="color:#ff0000;">[訳注](P.429)</span><br />(i)コンスタンス・エミリー・ケント(一八四四ー一九四四)は、ロード・ヒル・ハウス殺人事件(一八六〇年に英国のカントリーハウスで起きた有名な幼児殺人事件)の犯人であることを、後年になって告白した。彼女は当時三歳だった被害者フランシス・サヴィル・ケントの異母姉で、事件当時十六歳。この、当時最も騒がれた事件の捜査は英国じゅうに「探偵熱」をもたらし、ウィルキー・コリンズやチャールズ・ディケンズの作品に影響を与えた。この事件と担当したジャック・ウィッチャー警部については、ケイト・サマースケイルの著書『最初の刑事――ウィッチャー警部とロード・ヒル・ハウス殺人事件』に詳しく書かれている。</span></blockquote>　ヴァン・ダインが本書の着想を得るにあたって、当時有名だった事件にコリンズやディケンズ同様に関心を持っていた事が訳者には興味深かったようだ。<br /><blockquote><span style="color:#0000ff;">[翻訳](21章P.319)</span><br />「確かに。ただ、サイドテーブルの上に〈シトロカーボネート(i)〉の瓶もありました――よくある胃の制酸剤ですが。薬物があれの水溶液に入っていたなら、味もわからなかったでしょう。ちょっと塩気があるうえ、かなり発泡しますから」<br /><span style="color:#ff0000;">[訳注](P.432)</span><br />(i)〈シトロカーボネート〉は一九二五年にアップジョン社が特許を取得した制酸用の市販薬。顆粒だが発泡性なので、レモン水などに溶かしてレモネードのようにして飲むことが、当時紹介されていた。</span></blockquote>　本書が刊行された当時は誰でも知っていた薬名だったろうが、現在の読者には聞き及びのない名称なので、あえて取り上げている。<br /><blockquote><span style="color:#0000ff;">[翻訳](26章P.404)</span><br />　フォン・ブロン夫妻は、遺言に関する裁判所の決定後すぐにリビエラへ出航し、遅ればせながらハネムーンを過ごした。現在はウィーンに定住し、ドクターは父の母校である大学の員外講師をしている。神経学の分野ではかなり有名になっているようだ(i)」<br /><span style="color:#ff0000;">[訳注](P.435)</span><br />(i)本書の定本としたのは米国版であるが、英国版には、このあとにもう一段落分、以下のような文章が付け加えられている。<br /><br />　ひとつ、家庭的な出来事を付記しておこう。数ヶ月前、ウィーンから帰国した友人が、シベラが跡継ぎである息子を出産したというニュースを私に伝えてきた。この事実に、正直言って、私はいささか不調和なものを感じた。シベラが母親の役割につくことを想像するのは、私には難しかったのだ。しかし、最近、ある著名な社会学者が、現代の若い女性たちは、無愛想で洗練された外見の下に古くからの強烈な母性を秘めていると断言した。「現代の若い女性たちが最高の母親になることは、確かである」と、この高名な社会学者は付け加えた。シベラがその楽観的な考えを裏づけてくれることを、切に願いたい。</span></blockquote>　この英国版の一段落は、シベラのような(当時の)現代的な考え方をする女性では、保守的な英国の読者が反感をもつだろうと出版社が考えて、著者に意見した結果だと思える。今や、現代の読者ならば、この段落の考え方はあまりに偏見に満ちていると切り捨てそうだ。<a name="more"></a><div class="blogmura-link"><a href="https://blogmura.com/ranking/in?p_cid=10113262" target="_blank"><img src="https://b.blogmura.com/88_31.gif" width="88" height="31" border="0" alt="ブログランキング・にほんブログ村へ" />にほんブログ村</a>
<a href="https://blogmura.com/profiles/10113262?p_cid=10113262" target="_blank"><img src="https://blogparts.blogmura.com/parts_image/user/pv10113262.gif" alt="PVアクセスランキング にほんブログ村" /></a></div>

]]><![CDATA[
]]></content:encoded>
            <category>書評</category>
      <author>アスラン</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,elleryqueen/519990638</guid>
                </item>
      </channel>
</rss>

