人気記事

    2025年08月15日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(15.1.2)

    Chapter15 挿入の諸形式「@語句の挿入――andとif」より。
    15.1.2 I am always struck by the precedence which the idea of a "position in life" takes above all other thoughts in the parents’−more especially in the mother's―minds.
    (訳) 私はいつも、「社会的地位」という考えが両親の――特に母親の――心の中で、他のどんな考えよりも優先していることに驚く。
     挿入形式をどのように日本語に移し替えるかがここでの主題ではあるが、その前に訳文では内容にピンとこない事が多すぎるので、1つ1つじっくりと検討していこう。以下は例文の構造を示したものだ。
    I am always struck by the precedence
                    └─ which the idea of a "position in life" takes above all other thoughts in the parents’ minds.
      (−more especially in the mother's−)─┘
     strikeはランダムハウス英和大辞典によると「10.〈人の心を〉打つ、〈人に〉強い印象を与える;〈好み・センスなどに〉快い印象を与える;《通例受身》《俗》(…に)魅せられる、うっとりする《on…》」とある。strikeには非常にたくさんの語義があるのだが、この語義が当てはまるとすると例文のI(私)は非常に良い(心地よい)印象を受けている事になる。伊藤先生の訳の「驚く」はどちらにもとれる言葉だが、やや悪い印象を受けているように感じられる。おそらく「29.《しばしば受身》〈人を〉(驚き・恐怖・不安などで)圧倒する、苦しめる、打ちのめす《with…》」あたりの語義を選択したのだろうと推察される。どちらの意味に受け取るかは、関係代名詞節の中に出てくるa position in lifeをどのように解釈するかにかかってくる。

     一般的にはone's position in lifeは「人の社会的地位、身分」という意味だと辞書には書かれているが、やはりこれだけだとよく分からない言葉だ。身分は分かるとして社会的地位というのは、「自分は何者なのか、どういった肩書き(役職)なのか、世間からどう評価されているのか」という事を指すのだろうか。つい「自分は」と書いてしまったが、後段の意味を考えると「他人の身分、肩書き」という意味にも取れる。だとすると、ここで言いたいのは、この文の書き手の親世代(当然、書き手の親も含む)が今の自分よりも「身分」にこだわるという事をいいたいのだろうか。この場合、父親よりも母親の方がその傾向が強くなるものだろうか。家柄という意味では、かつては人を家で判断する時代があった。そうであるならば、より現代人の書き手は「今どきばかばかしい」事だと、彼らの旧弊な考え方に「驚く」かもしれない。
    (推敲訳A) 自分たちの身分がまわりと釣り合っているかなどと、親は――特に母親は――心の中で何にもまして考えている事に、いつも驚かされている。
     さきに推敲訳を書いてしまったが、適切な日本語に推敲するためにいろいろと考えた。the idea of a "position in life"は、普通で考えれば「社会的地位(身分)という考え」になるだろうが、これを関係代名詞節の中のall other thoughts (他のどんな考え)と比較してるわけだから、「Aという考えがBという考えよりも優先する」とするよりも「BにましてAについて考える」とした方が収まりがよい。それと主節(I am struck)の現在形は、日本語では状態の述語を意味するので「驚かされている」に直した。

     それと関係代名詞節の訳し方についても一言触れておこう。学生だった当時は直訳調に訳す事が唯一の方策だったので、まずはA take the precedence above B(AはBにまさる)からthe precedence which A take above B(AがBに対してもつ優先さ)のように日本語を変換して、主節のbyの目的語に収めようとする。これは英語の基本文型を考えれば分かるが、基本的な要素は名詞(名詞句、名詞節)から成り立っているため、文と文を接続して表現を深く展開していくには名詞(先行詞)の移動が不可欠だからだ。しかし、日本語はそうではない事は明らかで、述部に対して前方から様々な格表現が係り、さらに次なる述部につなぐために接続詞を多用する事で、表現を深く展開していく。「英語の先行詞に該当するものを仮想的に作りだして無理やり別の節につないでいく」などという努力は不毛としか言いようがない。まず手をつけねばならないのは「英語の名詞句に潜在する述部表現を顕在化する」事だ。しかし今回のような特定のフレーズがどのような意味で使われるのかは、前後の文脈や基本的な英語の知識に依存するので、結構難しい。

     という言い訳をしておいて、別の解釈で推敲してみる。ヒントは研究社新英和大辞典のcommensurateの項に出てくる用例clothes commensurate with one's position in life (身分相応の衣服)だ。つまりthe idea of one's position in lifeには「身分相応という考え方」という意味合いがあるのではないか。そう考えると、常日頃から父親以上に暮らし方について考える母親の方が「特に」という挿入形式の意味がしっくりくる気がする。しかも、position in lifeを肯定的にとらえる事により、主節のstrikeも本来の肯定的な印象に変わる。
    (推敲訳B)どうしたら「分相応」に暮らせるかを、親は――特に母親は――心の中で何事にもまして考えていて、その事に私は絶えず感銘をうけている。

     ここからは挿入形式について改めて考える。例文は「連体修飾句+名詞」の間に挿入される形なので、両側に区切り記号のダッシュ(―)が入っている。伊藤先生の訳文もそれにならって両側にダッシュ(本書では二重ダッシュ)が使われている。ただし、日本語として考えると少々違和感がある。係る言葉と受ける言葉との間に挿入するという形式は英語独自のもので、日本語では言い替え(言い直し)のような形式になるのが普通だ。だとすると(推敲a)にように句点で区切って言い直す形になり後方の「特に母親の」の後ろには句点は必要ない。ただし、あくまで例文の意味にこだわるのであれば、(推敲b)のように受ける言葉「心の中で」を両方に書く。これによってダッシュを用いた挿入形式も活かせると同時に、日本語としても違和感が解消する。

     推敲訳ではさらに一工夫してある。例文を適切な日本語に書き替える際に、係る言葉(the parent's)から主格を、受ける言葉(minds)から場所格を抽出して述部に係るようにした。そのため「心の中で」を繰り返す必要がなくなり、あくまで主格の部分だけを(推敲c)のように挿入すればよくなった。
    (例文)in the parents’−more especially in the mother's―minds.
    (訳文)両親の――特に母親の――心の中で
    (推敲a)両親の、特に母親の心の中で
    (推敲b)両親の心の中で――特に母親の心の中で――
    (推敲c)両親は――特に母親は――心の中で

     さらに推敲する。前回15.1.1でも書いたが、英語では五文型の一要素として挿入の位置が決まるが、日本語の場合は、挿入句を除いた部分を言い切ってしまってから、挿入句を関連づける事が可能だ。その際に挿入であることを明示するためにダッシュを残す。ただし文末に挿入部分を付ける場合は、後方のダッシュはなくても構わない。
    (推敲訳B')どうしたら「分相応」に暮らせるかと親は何にもまして心がけている――とりわけ母親はそうだ。その事に私は絶えず感銘をうけている。
    posted by アスラン at 23:50| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2025年08月10日

    アレクサンドラ構文の不思議(その2)

     アレクサンドラ構文に続いてアミラーゼ構文についても検討しよう。アレクサンドラ構文よりも難度が高い構文とされ、アレクサンドラ構文の設問に正しく答えられた人のみに用意されている文章および設問のようだ。
    アミラーゼという酵素はグルコースがつながってできたデンプンを分解するが、同じグルコースからできていても、形が違うセルロースは分解できない。
    この文脈において、以下の文中の空欄にあてはまる最も適当なものを選択肢から1つ選びなさい。
    セルロースは(  )と形が違う。
    @デンプン Aアミラーゼ Bグルコース C酵素
    (正答率:16.3%)
     元ネタのYouTubeでは、コメンテーター一同が頭をひねりながら正解を選ぼうとしている姿が面白おかしく映し出されるが、一方でアレクサンドラ構文の発案者は「この(アミラーゼ構文の)文章は教科書から採っていて、(生徒に)分かりやすく伝えようとして書いてある。」として文章の正当性を主張している。しかし、この文章ははたして本当に分かりやすく書かれているだろうか。

     もちろん、前後の文脈無しで一文の是非を判断するのは正しい姿勢ではないが、機能的非識字を測る物差しとして発案者が採用している文である以上、この一文だけで良し悪しを判断するべきだろう。ただし、教科書の著者の言い分を前もって推し量るとすれば、文字数に制約があるなかで最低限伝えねばならないことを全部盛りこんだ文になっていて、読む側への配慮が行き届いていない事に気づいていないか、あるいはやむを得ないとあきらめたか、いずれかなのだろう。

     とりあえず、英文の直訳調のような文章を1つ1つの単文に分けてみよう。特に「グルコースがつながってできたデンプン」や「同じグルコースからできていても、形が違うセルロース」という部分は英語の関係代名詞節を想起させるような連体修飾節になっているので、これらも1つの文章に分解する。要するに英文解釈と同じ手法で日本語の文も構造分析してみる。
    アミラーゼという酵素はデンプンを分解する。
    デンプンはグルコースがつながってできている。
    アミラーゼはセルロースは分解できない。
    同じグルコースからできていても、セルロースは形が違う。
     こうしてみると、この文章が決して「分かりやすく書かれている」とはおよそ言えない事がはっきりしてくる。
    ・何を言いたいのかが分かりにくい。
    ・情報を与える順番が正しくないため、余分な情報が読み手の理解を妨げている。
    という事が言える。この文章はそもそも何を言いたいのか。「アミラーゼはデンプンを分解するが、(アミラーゼは)セルロースは分解できない。」という事だろう。最初にそう書けばいいものを、余分な情報(デンプンの形状とセルロースの形状)を同じ文で与えようとするので、言いたい事(主張)が分かりにくくなっている。

    アミラーゼという酵素はデンプンを分解する。
    しかし、アミラーゼはセルロースは分解できない。
    デンプンはグルコースがつながってできている。
    同じグルコースからできていても、セルロースは形が違う。

     さらに推敲する。前半の2文は対照の助詞「は」を使ってまとめる事ができる。
    (a)アミラーゼという酵素はデンプンは分解するがセルロースは分解できない。
     対照の「は」は、比較対象である「デンプン」「セルロース」の両方に使うのが基本なので(a)のようになる。ただし、「デンプンは」「セルロースは」の「は」は格助詞「を」を兼務していて、見かけ上は消えてしまう。題目部の「アミラーゼという酵素は」に直接繋がる「デンプンは」は「デンプンを」を指すと分かるだろうが、後半の「セルロースは」の比較対象は「アミラーゼという酵素は」と「デンプンは」のいずれを指すのかがやや曖昧だ。それを避けるためには、(a')のように後半にも題目部の「アミラーゼは」を追加するとよい。
    (a’)アミラーゼという酵素はデンプンは分解するが、アミラーゼはセルロースは分解できない。
     ただし、題目部を同じ文で繰り返すのはかなり冗長で違和感がある。それよりは(b)のように「〜を分解する事ができる/できない」という言い回しをうまく使えば、助詞「を」を残す事が可能になる。
    (b)アミラーゼという酵素はデンプンを分解する事はできるが、セルロースを分解する事はできない。

     あとは、アミラーゼの働きが違う事を説明をする後半をどう直すかだ。ここまで手を尽くして分析してみても、今ひとつ後半の説明がピンとこない。それは「デンプンはグルコースがつながってできている」と「セルロースは形が違う」との関連がよく分からないからだ。しかも「(セルロースはデンプンと)同じグルコースからできていて」と書かれているのだから、「グルコースがつながってできている」のはセルロースも同じなのではないだろうか。

     おそらく、デンプンは「グルコースがつながってできている」という表現が、さきほど僕が書いた「余分な情報」なのだ。何故ならセルロースも「グルコースがつながってできている」からだ。そうとは書かないで、かわりに「同じグルコースからできていて」と書かれているので、説明が曖昧になってしまった。結局「アミラーゼが分解する/しない」の違いは「形が違う」だけなのだ。
    アミラーゼという酵素はデンプンを分解できるが、セルロースを分解する事はできない。
    デンプンもセルロースも同じグルコースからできているが、セルロースはデンプンとは形が違うからだ。
     ここで推敲した文章をよく見てほしい。「AはBとは形が違う」のようにきちんと比較対象を書くべきなので手直しした。おのずと、冒頭の設問「セルロースは(  )と形が違う。」の解答が分かってしまった。いや、ポイントはそこではない。そもそも原文に比較対象が書かれていない事が間違いなのだ。つまり、このアミラーゼ構文は「分かりやすく伝えようと書かれてはいない」という事が、設問を解くことでハッキリしたのだ。
    posted by アスラン at 09:25| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 評論・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2025年08月07日

    アレクサンドラ構文の不思議

     「機能的非識字」という専門用語があるようだ。Wikipediaによると「日常生活において、読み書き計算を機能的に満足に使いこなせない、文字自体を読むことは出来ても、文章の意味や内容が理解出来ない状態を指す。」と書かれている。こう書くと文字そのものを認識して発音(読み)と対応づける事まではできても、単語や句、文と言った意味を構成する単位の理解ができない事を指すように読めてしまうが、そうではないらしい。

     それよりも概要に書かれている内容の方が定義としては理解しやすい。まずは前提として「非識字」という用語がある。こちらは「知的能力や学習能力に障害があったり(ディスレクシアなど)、あるいは読み書き学習の機会が与えられなかった為に、会話はできても簡単な読み書きにも支障をきたす事」を指す。これに対して「機能的非識字」は「簡単な読み書きに関しては問題なく行うことができ、日常生活において登場する一定水準以上の文字・文章に対する適切な発音・音読もできるが、その内容を期待される水準まで正しく理解することができない事」と書かれている。

     ここで問題になるのは「期待される水準まで正しく理解することができない」の部分だろう。「期待される水準」とは一体どんな文章を指すのだろうか。同じくWikipediaには「2017年の調査によれば、日本の中学生の約15%は平仮名と片仮名は読めるが、新聞や教科書の理解に支障を来しているとしている。」と書かれている。またしてもひどい書かれようだ。文字の読み書きと意味の理解に乖離があるというだけでなく、一部の中学生は「漢字が読めない」と言っているかのような誇張(誘導)が感じられる。出典をたどると何の事はない。これから論おうとしている「アレクサンドラ構文」の発案者が、東京新聞に書いた記事が大元の出典のようだ。

     これからやろうとする事は、出典元の研究者の調査および主張を否定する事ではない。普通に考えるかぎり、漫画やアニメ、刺激的な映像などメディアが多様化するにつれて、言葉だけで複雑な内容を伝達したり、レトリックを駆使して相手にイメージを喚起したりする体験が減ってきている事は確かだろう。そのせいで「機能的非識字」という、一種の能力低下を引き起こしている可能性は否定できない。ここで問題にしたいのは、はたして「アレクサンドラ構文」がその状況を測る物差しとしてふさわしいかどうか。その一点である。

     「アレクサンドラ構文」とは以下のような文章と設問からなる。
    [文章]Alexは男性にも女性にも使われる名前で、女性の名Alexandraの愛称であるが、男性の名Alexanderの愛称でもある。
     [設問]この文脈において、以下の文中の空欄に当てはまる最も適当なものを1〜4の中から選びなさい。
    Alexandraの愛称は(  )である。
    @Alex AAlexander B男性 C女性
    (正答率:中学生38%、高校生(進学校)65%)

     この構文の発案者は「こんなに簡単に理解できそうな文が、中学生のたった38%しか正しく理解できていない。」と主張している。ただし、ひと目見ただけでも、この文章自体にいろいろな問題がありそうな事が分かる。例えば「名前」と言ったり「名」と言ったりしているし、Alexは「(名前の)愛称」のはずなのに冒頭から「名前」だと言っている。確かに「愛称」も「名前」というグループに含まれるが、表現のゆれが文意を捉える上で足を引っぱる事になりかねない。また、そもそも中学生に読ませる内容としてAlexやAlexandra、Alexanderそのままというのは不親切ではないだろうか。

     構文自体にも問題がある。これは3つの文を並列に並べた重文であるが、意図が分かりにくい構成になっている。3つを並べる際に意図的に第2、第3の文の主格である「Alexは」を省略している。さらに第1の文は「…名前で、」という連用形で後方の文とつないでいるが、それ以降の文とどのような関係があるのかが曖昧だ。ここには大きな切れ目があって、後方の文は第1の文の具体例を挙げている事が分かるように書かれるべきだ。ここまでで文章を推敲する。
    Alex(アレックス)は男性の名前にも女性の名前にも使われる愛称である。
    例えば、Alexは女性の名前であるAlexandra(アレクサンドラ)の愛称であるが、男性の名前であるAlexander(アレクサンダー)の愛称でもある。

     推敲した結果、さらに元の文章には足りないところがある事がわかってくる。そもそも、元の文章は何を相手に伝えたいのだろうか。思うに2つの事を伝えたいはずだ。
    ・英語圏では名前の一部を使った愛称(あだ名)がよく使われる。例えばEdwardをEdと呼んだりする。
    ・よく使われる愛称の中には男性にも女性にも使われるものがある。例えばAlexがそうだ。
     重要なのは、この後半部分をいきなり提示したのが元の文章であるという点だ。前半部分の説明が欠けているせいで、聞き手の一部は設問に答える前に文脈を見失う可能性がある。そこで「愛称」についての説明を加えて文章を再度推敲する。
    英語では、名前の最初の部分だけから愛称(あだ名)が作られ、名前の代わりに使われることがある。
    例えばEdward(エドワード)という名前にはEd(エド)という愛称が存在する。
    愛称の中には男性にも女性にも使われるものがある。
    例えばAlexandra(アレクサンドラ)は女性の名前だが、愛称はAlex(アレックス)である。
    一方、Alexander(アレクサンダー)は男性の名前だが、愛称は同じくAlex(アレックス)である。

     前半に愛称の説明を加えただけでなく、後半の説明も手直しした。それは、そもそも原文に愛称の説明が一切なかったので、後半部分の説明にむりやり「愛称」という言葉を入れ込む必要があったからだ。つまり前半部分の説明が不十分な事のしわ寄せが、原文全体のわかりにくさに影響をおよぼしたと言っていい。わかりやすさを基準にして原文を書き直したが、やや丁寧すぎる事で設問の狙いである「機能的非識字の有無」を測るのにふさわしくなくなってしまったかもしれない。もう少し要約しよう。
    英語では、名前の一部を使った愛称(あだ名)が使われる事がある。例えばEdward(エドワード)の愛称はEd(エド)である。
    愛称の中にはAlex(アレックス)のように男性にも女性にも使われるものがある。Alexandra(アレクサンドラ)は女性の名前で、Alexander(アレクサンダー)は男性の名前だが、どちらの愛称もAlexである。
     この文章(文脈)にもとづいて、どのくらいの中学生が前述の設問「Alexandra(アレクサンドラ)の愛称は(  )である。」に正しく答えられるだろうか。普通に考えると、設問自体が文章の中に出て来ているので、原文のままと比べるとかなり正答率が上がるのではないかと予想する。だから最後の推敲で一手間かけて、アレクサンドラとアレクサンダーの名前の比較を先におこない、後で「どちらの愛称もAlexである」と書く事によって設問そのままの文が出てこないように工夫してみた。

     機能的非識字を測る物差しとしての難度(期待される水準)が正しく設定されているかは、僕には正直わからないが、少なくとも物差しそのものに問題がある状況は改善できたように思う。前提となる説明(文脈)をきちんと提示しない、あるいは一部を隠蔽している文を「これは普通の文章なんです」と言い張る事はできない。相手のスキルに問題ありと主張する前に、まずは発信者側のスキルに問題ありと内省する必要があるのではないだろうか。
    posted by アスラン at 09:50| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 評論・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2025年08月02日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(15.1.1)

    Chapter15 挿入の諸形式「@語句の挿入―andとif」より。
    15.1.1 Years ago, I used to receive letters from a friend, ―very interesting letters, too.
    (訳) 何年か前、私はある友人から手紙、それも非常におもしろい手紙をよくもらった。
     今回から『英文解釈教室』の掉尾を飾る第15章「挿入の諸形式」について考える。受験生だった当時の僕や、今まさに受験生である高校生だったら、ついつい飛ばしてしまいそうな内容だろう。第14章が「共通関係」で、これまたつまらないので後回しにしてしまったかも。当時の僕は第11章「比較の一般問題」と第12章「比較の特殊問題」が英文解釈のクライマックスだと信じて疑わなかったからだ。確かに今でも「比較構文」を日本語としてどう捉えるかは魅力的な問題だが、それよりもややこしいのが共通関係であり挿入形式である事は間違いない。何故なら、英語と日本語とでは基本となる構文構造が異なるからだ。共通関係や挿入形式によって英文の一部が省略されたり語順が制限されたりするのだが、それをそのまま日本語の構文に移し替える事ができない事が多い。特に挿入形式は、そのまま訳すと日本語としては不自然な感じがする。英文解釈上は理解できるが、英文の特徴を活かした形で日本語を書くと途端に日本語らしくなくなるように思える。その事をじっくりとこの第15章の例文で検討していこうと思う。

     まずは、例文の構造を見てみよう。
    Years ago, I used to receive letters from a friend,
                  ―very interesting letters, too.
     ダッシュ(―)で区切られてveryで始まる名詞句部分が、元々の文のlettersと同格表現になっている。伊藤先生は「very以下が思いついたことを追加した同格表現」と書いている。同格表現である以上、後半は単なる名詞句ではなく、前半のS+Vを共有もしくは省略していると見なせる。つまり英語構文としては I used to receive very interesting letters, too.という構造になっている。それを踏まえて訳文を見るとletters(手紙)を「思いついたこと」であるvery ineteresting letters(非常におもしろい手紙)に言い直して挿入しているので、日本語としては違和感が残る。通常で考えれば後方に出てくる述部表現「よくもらった」にかかる形式で書くべきだろう。
    (a)私はある友人から手紙、それも非常におもしろい手紙をよくもらった。
    (b)私はある友人から手紙を、それも非常におもしろい手紙をよくもらった。
     訳文の(a)は同格表現を名詞句に限定した書き方だが、(b)のように格助詞「を」を添えるだけで後方に述部の存在を予想させる事ができる。これによって挿入形式の宙づり感を減らす事ができるため日本語としての違和感が少なくなる。

     さらによくよく英語の原文を見ると、「挿入の諸形式」という章題でありながら実は全然挿入にはなっていない事に気づくだろう。前半の I used to … from a friend はS+V+Oの完全に自立した英文である。ただし、friendの次にピリオドを打たず、カンマで継続して同格表現が「挿入」されているというのが、英語から見えてくる挿入形式の意味だ。ならば日本語の場合も前半の文をひとまず言い切ってしまっても問題ないだろう。いや、こちらの方が自然に思える。
    (c)私はある友人から手紙をよくもらった。それも非常におもしろい手紙をよくもらった。
    (d)私はある友人から手紙をよくもらった。それも非常におもしろい手紙だった。
     あくまで原文の「挿入」の意味を構文上の問題として捉え、日本語では「思いついたことを追加した」という観点で推敲したのが(c)だ。これで随分と日本語として分かりやすくはなったが、別の問題として「〜をよくもらった」を繰り返していてくどい文になった。英文としてはS+Vの部分(I used to receive)を共有しているという事が構文上も、そして意味上も正しいが、日本語としてはそもそも主語や述語は必須要素ではないので、繰り返すのではなくウナギ文「僕はウナギだ」のように前半のS+Vに対応する部分(〜をよくもらった)が関係づけされている表現にした方がしっくりする。それが(d)だ。
    (推敲訳)何年か前、私はある友人から手紙をよくもらった。それも非常におもしろい手紙だった。

     さらに推敲する。years agoがどの程度むかしの事になるかわからないが、その時点でused to(よく…した、…するのが常だった、…する習慣だった)という流れになるので、単に時制を過去にするだけでは伝わらない。少し工夫が必要だ。過去の時点を示すために「何年も前になるが」と但し書きのように書き、その上でその時点での習慣をしめすので「(よく)もらった」ではなく「(たびたび)もらっていた」のようにする。そして同格表現の方はlettersの複数形を日本語に反映した。

    (推敲訳)何年も前になるが、私は友人の一人からたびたび手紙をもらっていた。しかも、どれもこれも私の好奇心を大いにくすぐる内容だった。
    posted by アスラン at 11:50| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2025年07月20日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(7.3 例題(3))

    Chapter7. It . . . that . . .「B 強調構文」より。
    7.3 例題(3) @It is generally accepted that every intelligent person should know something about the history of the country―and if possible of the world―in which he lives, of the literature which he reads, of the trade or profession which he follows, of the religion he believes in. AWhy not, therefore, of the language which he speaks? BIt is in the belief that there is a real necessity for this, and that one of the most certain ways to ensure an intelligent use of any language is to study it historically, that the present book has been written.
    (訳) 知性を備えた人は誰でも、自分が住んでいる国の、できれば世界の歴史、自分が読む文学の歴史、従事している商売や職業、信奉する宗教の歴史について、ある程度知っているべきだということが一般に認められている。では、自分の話す言語について、なぜそうであってはならないのか。この書物が書かれたのは、言語の歴史について知識を持つことが真に必要であり、言語の知的な使い方ができるようになるための最も確実な方法の1つは、その言語の歴史的研究であると信ずるからである。
     英文解釈の観点から作られた訳文と考えれば、伊藤先生の訳文は解釈の細かい部分までが透けて見えるので、受験生にとっては価値のある文章になっている。しかし、日本語としては非常に回りくどいし、原文では明解なはずの論旨が非常に迂遠な感じがするので手直しが必要だ。

     まずは@の文。It is … thatは形式主語の構文だが、that節に含まれる名詞句がズラズラと並列に並び、その1つ1つに関係代名詞節が付随している。日本語の言い回しとはかなり相容れない構成になっている。おまけにダッシュ(―)で括られた挿入句まで存在するので、特に注意が必要だ。
    It is generally accepted that
    every intelligent person should know something about
       the history of the country (and if possible of the world)
                └─in which he lives
           └─of the literature
                 └─which he reads
           └─ of the trade or profession
                 └─ which he follows
           └─ of the religion
                 └─ he believes in.
     この文の核となるのはthat節に含まれるevery intelligent person should know something about the historyであって、この文のthe historyの詳細をof the …を並列にして展開していく。しかし日本語の場合は述語表現が基本構成になるので「…についてある程度知っておくべきだ」という表現を繰り返す形にしておかないと落ち着かない。原文の文法的構成を変えてでも日本語の構成を優先する事にする。それと同格の挿入節and if possible of the worldの部分も、伊藤先生(だけでなくほとんどの人)は「自分が住んでいる国の、できれば世界の歴史、」のように訳しているが、「自分が住んでいる国の&世界の→歴史」のような係り受け関係と受け止めるにはかなり違和感があり、落ち着かない。とりあえず「自分の国の歴史」と「できれば世界の歴史」とを並列関係として表現する事にする。それと、同格部分を強調するために、この時点でいったん「…についてある程度知っておくべきだ」と述部表現を用い、その後に出てくる「文学」「職業」「宗教」の歴史については、別途述部表現を繰り返す事にした。

     intelligentについてちょっと言っておきたい。ランダムハウス英和大辞典によると「〈人・動物が〉高い知能を持つ、頭のよい、聡明な」を第一義にして、さらに「〈行為・発言が〉理解の早さを示す、頭の良さを示す;理にかなった」などとしている。だが、日本語では「知能」うんぬんを取り沙汰した言い方はあまり馴染まない。よくこういう時の常套文句として「知性と教養を備えた」などと言うので、その線で訳そうかと思ったが、どうやら「教養」の方がshould know something about…に対応しているようなので「知性」に絞った方がよさそうだ。
    (@の推敲文)知性のある人なら誰でも、自分の国の歴史や、可能ならば自分が存在する世界の歴史についてはある程度知っておくべきだし、日頃読んでいる文学や自分が就いている職業、自分が信じている宗教の歴史についても同様に、ある程度知っておくべきだという事を誰もが認めている。
     さらに推敲する。intelligentを「知性のある」としてみたが、やはり気になる。「聡明な」がよいかも知れないが、原文の意図がぼやける気もするので冗長ではあるが「知性を備えた聡明な人間」としてみた。また、「…の歴史」という名詞句を繰り返すのも日本語として熟れていないので、疑問詞を用いた述部表現に変更する。
    (@の推敲文)知性を備えた聡明な人間ならば、自分がどんな国に住んでいるのかとか、可能ならば自分はどんな世界に生きているのかを多少なりとも理解しておくべきだし、さらには自分が日頃読んでいる文学や、自分が就いている職業や、自分が信仰している宗教がどのような経緯で生まれたのかについても、同じように多少は理解しておくべきだという事は誰もが妥当だと思っている。

     AのWhy not…?は反語表現で「何故…であってはならないのか?」という意味で、結局は@の核となる部分「…についても多少は知っておくべきだ」の強調表現になっている。それが分かれば「言語の歴史」を@と同様に述部表現に直せばいい。
    (Aの推敲文)それならば、自分が今話している言語がどのような経緯で生まれてきたかも理解しておくべきではないのか。

     Bの強調構文について。伊藤先生は解説で「Bの最後に出てくるthe present bookは言語の歴史に関する書物で、問題文はその序文の一部らしいと検討がつくようなら、この問題は大丈夫。」と書いている。しかし、それにしては前段の序文にあたる部分に比べると、Bの主張はなんとなく明確さに欠ける。だが、とりあえずは@A同様に名詞句から述部表現に書き替える点に留意して推敲しておく。全体をまとめた際に、あらためて文意の明確さを考慮して推敲する。
    (Bの推敲文)各自が話す言葉が生まれた経緯を知っておく必要が絶対にあるし、言語を的確に使えるようになるのに最も確実なアプローチの1つが、その言語がどのように発展してきたかを分析する事にあると信じるからこそ、今話題にしているこの書籍が書かれてきたのだ。

     全体をまとめると推敲文は次のようになる。
    (推敲文) 知性を備えた聡明な人間ならば、自分がどんな国に住んでいるのかとか、可能ならば自分はどんな世界に生きているのかを多少なりとも理解しておくべきだし、さらには自分が日頃読んでいる文学や、自分が就いている職業や、自分が信仰している宗教がどのような経緯で生まれたのかについても、同じように多少は理解しておくべきだという事は誰もが妥当だと思っている。それならば、自分が今話している言語がどのような経緯で生まれてきたかも理解しておくべきではないのか。各自が話す言葉が生まれた経緯を知っておく必要が絶対にあるし、言語を的確に使えるようになるのに最も確実なアプローチの1つが、その言語がどのように発展してきたかを分析する事にあると信じるからこそ、今話題にしているこの書籍が書かれてきたのだ。

     さらに推敲する。一つは「…の歴史」という名詞句を述部表現に変更したので、どうしても文章が長ったらしくなる点だ。そこで名詞句のパッケージを開いた事を明示するためにかぎ括弧を駆使する。次に同格の挿入句の部分。「A、できればBの歴史」を「Aの歴史、できればBの歴史」さらには「Aはどんな歴史をもつのか、できればBはどんな歴史をもつのか」としたが、名詞句を述部表現に変えた事も影響しているので、「Aはどんな歴史をもつのか知っておくべきだし、できればBはどんな歴史をもつのかも知っておくべきだ」のように書き替える。好みと言われればそれまでだが、英語の同格表現(挿入)は日本語としてはなかなか馴染まない事をよくよく踏まえた上で対処すべきだろう。

     さらにBの文章についてもあらためて、ここで考える。問題はthe present book has been writtenおよびin the reliefについて主体(主語)は誰なのかという点だ。強調構文を元に戻すと
    The present book has been written in the relief that …
    となるので、本(the present book)を書いたのも信念(the relief)を抱いたのも著者という事になる。その点を考慮して推敲する。
    (推敲文A) 知的で聡明な人間ならば「自分がいったいどんな国に住んでいるのか」を多少なりとも理解しておくべきだし、可能ならば「どんな世界に生きているのか」も理解しておくべきだ。さらには「日頃読んでいる文学や、就いている職業、信仰している宗教がどのような経緯で生まれたのか」についても同じように多少は理解しておくべきだ。こういった事は多くの人が妥当だと思っている。ならば「自分が今話している言語がどのような経緯で生まれてきたか」についても理解しておくべきではないのか。今話題にしているこの書物を著者が書きあげたのだって、「言語がいかにして生まれたか」を理解しておく必要が絶対にあると信じているからであろうし、どうすれば言語を的確に使えるようになるかに対する最善の解決策は言語の発展過程を研究する事だと信じているからだろう。

     通常ならこれで推敲完了というところだが、Bについてはもう一つの解釈がある。the present book has been writtenのように受身表現にしたのは、著者うんぬんではなく一般論として(あえていえばこの例文の書き手の意見として)書かれているとも考えられる。そこで一般論としての主張に直した推敲文Bも挙げておく。
    (推敲文B) 知的で聡明な人間ならば「自分がいったいどんな国に住んでいるのか」を多少なりとも理解しておくべきだし、可能ならば「どんな世界に生きているのか」も理解しておくべきだ。さらには「日頃読んでいる文学や、就いている職業、信仰している宗教がどのような経緯で生まれたのか」についても同じように多少は理解しておくべきだ。こういった事は多くの人が妥当だと思っている。ならば「自分が今話している言語がどのような経緯で生まれてきたか」についても理解しておくべきではないのか。今話題にしているこの書物がどうして書かれたのかと言えば、多くの人が「言語がいかにして生まれたか」を理解しておく必要が絶対にあると信じているからであり、どうすれば言語を的確に使えるようになるかに対する最善の解決策は言語の発展過程を研究する事だと信じているからであろう。

    posted by アスラン at 12:50| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2025年06月26日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(7.3 例題(2))

    Chapter7. It . . . that . . .「B 強調構文」より。
    7.3 例題(2) The Englishman learns by his mistakes, when once he is convinced of them; but it is only the brutal evidence of hard facts which will convince him,and,until these hard fact hit him in the face, his doggedness will make him hold on. It has been said that the English lose all battles and win all the wars; and it is only after he has lost a certain number of battles that the Englishman changes his tactics.
    (訳) 英国人はいったん自分がまちがっていると納得するとその誤りから学ぶが、英国人を納得させられるのはきびしい現実の過酷な証拠だけである。このきびしい現実に正面衝突するまでは、英国人はかたくなな性質のためやり方を変えようとしない。英国人は戦闘にはすべてやぶれるが、戦争にはすべて勝つと言われてきた。いくつかの戦闘にやぶれた後はじめて英国人は戦術を変えるのである。
     何を言わんとしているかは分かる訳文にはなっているが、翻訳調特有のよそよそしさが感じられて、どこに話のフォーカスが当たっているのかがよく分からない。伊藤先生の解説はとてもよく分かるし、the brutal evidence of hard factsの例えとして「自らの学力にバラ色の幻想を抱いている人」でも「合格者の中に自分の名前がない」事で「自分はやっぱりダメだったのか」と納得させられるものだと書いている。このシニカルなユーモアが訳文に活かされていないのは非常に残念だ。とにかく、まずは適切な日本語に推敲していこう。

     伊藤先生はセミコロンを接続詞相当と見なして一つながりに扱っているので、この例題の文は2つのパートから構成されている事になる。前半のパートではlearns by his mistakesを「誤りから学ぶ」としている。他動詞ならば「…を学ぶ」になるので分かりやすいが自動詞である以上はただ「学ぶ」ではダメだ。誤りを自覚したら次はどうしたらいいのかを「学ばねばならない」だろう。とりあえずはそんな風に推敲しておこう。問題はどうやら「どのようにするか」にはない。「どうなったらイギリス人は自らの誤りに気づくのか」という点にフォーカスが当たっている。それが分かるのは、続く文にでてくる強調構文でだ。

     セミコロンに続く部分は2つの文がandで結ばれており、前半がit is only … which 〜という強調構文になっていて、後半が(until … ) his doggedness will make him hold on.という文になっている。強調構文の方はthe brutal evidence of hard factsという英語特有の名詞句を伊藤先生も名詞句のままに訳している。解説ではあれほど分かりやすく例えたのに。なので日本語らしい述部表現に修正する。後半のuntil these hard fact hit him in the faceの訳「このきびしい現実に正面衝突するまでは」というのは意訳になっているが、日本語の表現としては違和感があるので手を加える。
    (前半の推敲訳) イギリス人は自分が間違っているとひとたび確信すると、どうすればよいかを学ぶようになる。ただし、間違っている事の根拠となる厳しい現実を容赦なく突きつけられて、初めて彼らは間違っていると確信するのであって、そのような厳しい現実に直面しないかぎりは生来の頑固さゆえに自らの信条を変えようとはしない。


     後半はIt has been said that …という形式主語の構文で始まる。thatの中ではthe Englishが主語で、伊藤先生はthe Englishmanと同じ「英国人」と訳している。でも、それならばthe Englishmanと書かれていないと不自然だ。直後の文でもthe Englishmanが使われているので、the Englishには違う意味が込められているはずだ。ほぼ同じ意味でもかたや単数形、もう一方が複数形扱いなので、英国人が集団として行動する事をイメージしてthe Englishが使われているようだ。ランダムハウス英和大辞典では「英軍、(国際試合などの)イギリス勢」という使い方も示している。

     それとbattleとwarが対比される形で使われているが、単に「戦闘」と「戦争」だと違いが分かりにくい。ランダムハウスによるとwarは「(国家間や国内の党派間の)武力衝突、戦争、戦闘」とあり、「戦争中の個々の戦闘はbattle」だと書かれている。一般に「war=戦争」という図式が日本では成り立っているので、battleの方を説明的に訳しておこう。
    (後半の推敲訳) イギリスの軍隊は、戦争中の一つ一つの戦闘にはことごとく敗れるが戦争にはことごとく勝つと、昔から言われてきた。つまり、何度か戦闘に敗れてみないと自らの戦術を変えようとはしないのである。

     以上、前半と後半をまとめる。
    (推敲訳) イギリス人は自分が間違っているとひとたび確信すると、どうすればよいかを学ぶようになる。ただし、間違っている事の根拠となる厳しい現実を容赦なく突きつけられて、初めて彼らは間違っていると確信するのであって、そのような厳しい現実に直面しないかぎりは生来の頑固さゆえに自らの信条を変えようとはしない。イギリスの軍隊は、戦争中の一つ一つの戦闘にはことごとく敗れるが戦争にはことごとく勝つと、昔から言われてきた。つまり、何度か戦闘に敗れてみないと自らの戦術を変えようとはしないのである。

     さらに日本語を推敲していく。後回しにしておいたが、やはり「learn=学ぶ」では日本語としてピンとこない。要するに「間違いを繰り返さない」という事だろう。前半の「厳しい現実を容赦なく突きつけられ」るという事と「厳しい現実に直面」するというのは同じ事を言っているように感じる。これはthe brutal evidence of hard factsを名詞句から述部表現に変換した際に「突きつけられる」という潜在表現を表に出したせいで、後のthese hard fact hit him in the faceという表現とあまり差が無くなってしまったからだ。要するに「突きつけられる」は書きすぎだったわけだ。「…を…突きつけられる」をもうちょっと控えめな表現にして、hit him in the faceの方をもっと大げさに表現する事にした。

     最後に全体を見直してみる。この文章は強調構文がところどころに挿入されているが、以下の4つの部分を日本語としてどう訳すべきかで、日本語としての文章の調子が変わってしまう。
    (1)The Englishman learns by his mistakes, when once he is convinced of them.
    (2)but it is only the brutal evidence of hard facts which will convince him,
    (3)and, until these hard fact hit him in the face, his doggedness will make him hold on.
    (4)it is only after he has lost a certain number of battles that the Englishman changes his tactics.
     これまで(2)や(4)の強調構文の訳し方を考えてきたが、一般には「…なのは〜だ。」式の訳がテンプレートになっている。しかし日本語としては「〜だからこそ、…なのだ。」のように取り立ての助詞相当を使いつつ訳す方が自然な場合もある。さらに別の問題が(1)や(3)(4)に含まれている。例えば(3)のようにuntilで時間軸を区切るような場合には以下のようなバリエーションが考えられる。
    (a)厳しい現実に直面するまでは生来の頑固さゆえに自らの信条を変えようとはしない。
    (b)厳しい現実に直面しないかぎりは生来の頑固さゆえに自らの信条を変えようとはしない。
    (c)生来の頑固さゆえに、厳しい現実に直面してようやく自らの信条を変える。

    さらには、make him hold onを「信条を変えようとしない」にするのか、「信条を守り続ける」にするのかでバリエーションが増える。
    (a')厳しい現実に直面するまでは生来の頑固さゆえに自らの信条を守り続ける。
    (b')厳しい現実に直面しないかぎりは生来の頑固さゆえに自らの信条を守り続ける。
    (c')生来の頑固さゆえに、厳しい現実に直面してようやく自らの信条を守らなくなる。
     日本語は述部表現が文全体に与える影響が大きいので、否定表現をどこにもってくるかで文章の流れがかなり変わってくる。ここでは(2)を例に取りあげたが、(1)や(4)にも同様のバリエーションが存在するので、最終的にどれを選択するかについては文章(段落)全体を見直す必要がある。さきほどの推敲訳を見ると、「信条を変えようとはしない」「戦術を変えようとはしない(のである)」というように(3)と(4)が繰り返しになっているように感じられる。しかし大事なのは(1)の前提と(4)の結論が呼応した文章にする事だと思われる。その点を考慮して推敲する。
    (推敲訳) イギリス人は自分が間違っているとひとたび確信すると、同じ間違いを二度と繰り返さない。ただし、自分の間違いが疑いようもない事実であるという容赦のない根拠があってこそ確信に至るのであって、そのような現実を突きつけられて一発お見舞いされないかぎりは、生来の頑固さゆえに自らの信条を変えようとはしない。イギリスの軍隊は戦時下に起きる個々の戦闘にはことごとく敗れるとしても戦争自体にはことごとく勝つと、昔から言われてきた。つまりイギリス人は、戦闘に何度も敗れた後になってようやく自らの戦術を見直すのである。
    posted by アスラン at 16:50| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2025年05月28日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(7.3 例題(1))

    Chapter7. It . . . that . . .「B 強調構文」より。
    7.3 例題(1) It is not the rough and stormy sea that is most perilous to the ship. It is the dangerous rock-bound shore. When a ship is safely laden and fully manned, she is as safe on the sea as in a harbour. It is when she leaves the shore on departing and reaches it on returning, that she runs the risk of shipwreck. perish.
    (訳) 船に最も危険なのは荒れた、嵐の海ではない。岩に囲まれた危険な岸である。船が危険でない程度に荷が積まれ、乗組員が十分に配置されている場合には、船は海上でも港にいるときと同じように安全である。船が難破の危険をおかすのは、出発に際し岸を離れるときと、帰路岸に到着するときである。
     いよいよ強調構文が身についたかどうかを試す例題だ。この中には4つの文が含まれるが、そのうちIt is … that構文は2つあり、いずれも強調構文である。理由は本書を読めば十分に説明されているので割愛して、訳文の推敲に取りかかろう。第一の文と第二の文は、伊藤先生も説明しているように、焦点部が共通関係になったIt is not A, but B that…の変形 It is not A that…, but Bのbut以下の部分が別の文に分かれたと考えればいいので一緒に扱う。以下3つの部分に分けて推敲しよう。

     第一の文の訳で気になるのは「船に最も危険なのは」という部分。perilous to …のtoが助詞「に」に対応しているように訳されているが、日本語らしくない。「船にとって危険な」あるいは「船が危険である」とすべきところだ。それと読点の位置も気になる。短い文なので誤解はないだろうが、係り受け関係を明確にするならば「船にとって最も危険なのは、荒れた嵐の海ではない。」に変えた方がよい。この結果「荒れた→海」ではなく「荒れた嵐」という係り受け関係が生じてしまうので、「荒れた&嵐の→海」という関係をハッキリさせる為に、あえて並列関係を入れかえて「船にとって最も危険なのは、嵐で荒れた海ではない。」とすると、さらにシックリする。そもそもroughとstormyはどちらも「天候が荒い」「荒天の」という意味だが、船がお題である事を考えれば「嵐」でも良いが「時化(しけ)」で「波が荒い」と考えた方がよさそうだ。

     続いて第二の文にはdangerous(危険な)という形容詞が出てくる。第一の文のperilousも「危険な」という意味だが、訳文を見ると「船に(とって)最も危険なのは…岩に囲まれた危険な岸である。」と書かれている。煎じ詰めると「危険な岸が最も危険だ」と、当たり前のような事を言っているようにも感じられる。ランダムハウス英和大辞典ではdangerousは「〈事柄・事情などが〉危険な、危険を伴う、危ない」を意味し、perilousは「〈行動・計画などが〉危険をはらんでいる、危険に満ちた、冒険的な、危うい」などとなっている。dangerousは直接的な危険を表すのに対し、perilousは潜在的な危険の可能性について強調しているように感じられるので、やや違いを持たせた日本語に変えた。また訳文の「岸」は危険な状況が分かりやすいように「浅瀬」に変えた。
    (第一、第二の文の推敲訳) 航海中の船にとって最も危険をはらんでいるのは、時化て荒れた海ではない。岩に閉ざされて危険な浅瀬だ。

     次は第三の文。a ship is safely laden and fully mannedの部分の訳は「安全に(=危険でない程度に)」「十分に」あたりが翻訳臭が抜けていないので、意図が伝わるような日本語に変更する。
     後半は比較構文であるが、以下のように(A)と(B)を比較して同格(同じ程度)である事を(X)のように表現している。
    (A)she is safe on the sea.
    (B)she is safe in a harbour.
    (X) she is as safe on the sea as (she is safe) in a harbour.
     この際に基準となる(B)の一部が省略されることから、訳文の方もそれに従って省略しがちで、「船は海上でも港にいるときと同じように安全である」となっているが、日本語としては翻訳調で違和感が残る。「船は港にいる時は安全だが、海上でも同じように安全だ。」とした方が自然だ。
    (第三の文の推敲訳) 積載量の制限に従って積み荷を載せて必要な乗員を配置していれば、船は港に停泊している時が安全なのはもちろんの事、海上にいても安全である。

     第四の文の訳で違和感を感じるのは、船が擬人化されている点だ。「船が難破の危険をおかす」というのは、確かに「she runs the risk of shipwreck.」と書かれているからだが、主語のない日本語では不自然だ。第三の文までの「船は」はもちろん主格の「は」であり、ほとんどは題目の「は」である。ここでは題目はでてこないので「船が〜危険にさらされる」のように受け身の表現に修正する。
    (第四の文の推敲訳) 船が難破する危険にさらされるのは、出港に伴い離岸する時と入港に伴い接岸する時である。

     以上をまとめて推敲訳とする。
    (推敲訳) 航海中の船にとって最も危険をはらんでいるのは、時化て荒れた海ではない。岩に閉ざされて危険な浅瀬だ。積載量の制限に従って積み荷を載せて必要な乗員を配置していれば、船は港に停泊している時が安全なのはもちろんの事、海上にいても安全である。船が難破する危険にさらされるのは、出港に伴い離岸する時と入港に伴い接岸する時である。

     さらに日本語として推敲していく。さきほどdangerousとperilousの違いを直接的か、あるいは可能性かで区別するとしたが、さらに調べていくとchat-GPTでは以下のような違いがあると指摘してくれた。
    dangerousとperilous.jpg
     つまりdangerousは「日常的な危険」であり、perilousは「深刻な危険」である。と同時にperilousは文語的で固い表現だという事らしい。英語の違いをすべて満たす事はできないが、perilousの方をレトリックを駆使して大仰な言い方に変えてみた。また、いつものように英語では名詞中心の表現が多用されるが、日本語では述部表現に書き直す。第一の文の「…の海」や「…の浅瀬」は、「海が…の時」「浅瀬が…の時」のように変えた。
     例の比較構文だが、基準となる(B)の方は、積み荷や乗組員の件にかかわらず安全は保証されるだろう。なので条件による限定の外側に追い出して、一定の条件下では(A)の方も同じように成立するという日本語に変えた。
     最後に、これは英文解釈教室の章立てには含まれていないし、そもそもほとんどの学習書で取りあげられていない点として、文接続詞について一言言っておきたい。この例題でも文接続詞はひとつも使われていないが、日本語ではかえって不自然だろう。いたるところで挿入したくなる欲求に駆られるが、少なくとも第三の文の帰結として第四の文の主張が成立するのは明らかなので「故に」と控えめに挿入しておこう。
    (推敲訳) 航海中になによりも増して危険と隣り合わせになるのは、海が時化て荒れている時ではない。浅瀬が岩で閉ざされて危険な状態の時だ。船は港に係留されていれば安全だが、積み荷の積載量を限度内におさめ必要な船員を配置しさえすれば、海上にいても安全である。故に、船が難破する危険にさらされるとしたら、出港に伴って離岸する時か、あるいは入港に伴って接岸する時だという事になる。
    posted by アスラン at 00:05| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2025年05月12日

    The exorcist (William Peter Blatty)を読む(その2)

     チャイハナ(茶屋)から場面は変わって、遺跡からの出土品を管理する責任者の仕事部屋。原作には書かれていないが、発掘作業を取り扱う事務所もしくは博物館そのものの一室かもしれない。
    [原文]( プロローグP.5) The painstaking inventory was finished by ten after six. The Mosul curator of antiquities, an Arab with sagging cheeks, was carefully penning a final entry into the ledger on his desk. For a moment he paused, looking up at his friend, as he dipped his penpoint into an inkpot. The man in khaki seemed lost in thought. He was standing by a table, hands in his pockets, staring down at some dry, tagged whisper of the past. The curator observed him, curious, unmoving; then returned to the entry, writing in a firm,very small neat script. Then at last he sighed, setting down the pen as he noted the time. The train to Baghdad left at eight. He blotted the page and offered tea.

    [私訳] 出土品の目録作りは骨が折れる作業で、6時10分にようやく終わった。モスル遺跡の出土品管理者は頬がたるんだアラブ人で、最後となった出土品の記載事項を机の上にある台帳に慎重に書き入れていた。ふとペンを止めて目の前の友人を見上げてから、インク壺にペン先を突っこんだ。カーキ色の服を着た老人は心ここにあらずといった様子だった。テーブルの脇に立ってポケットに手を入れたまま、タグが付いてややそっけなく自らの過去をささやいている物を見下ろしていた。管理者は興味を持ってじっと友人を観察した。そして目録の記入に戻ると、とても小さくそろえた文字で整然と書き続けた。最後にため息をひとつつくと、時刻を書き入れてペンを置いた。バグダッド行きの列車は8時出発だった。管理者は吸い取り紙で余分なインクを拭き取り、友人にお茶を勧めた。
     writing in a firm,very small neat scriptという表現もずいぶん変則的だ。in a firm and very small neat scriptという並列関係になるところだろうか。初見では形容詞firmの直後に副詞のveryが出てくるのでちょっとドキッとさせられる。ブラッティの文章の癖に慣れてくればなんてことはないのだろうが、冒頭を読み出したばかりでは、変則的な書き方に「えっ?」と戸惑ってばかりだ。映画での管理者は目録作りに勤しんでいるわけではなく、ノートに出土品の特徴を書き記していて、決して「小さくそろえた文字で整然と書」いてはいない。

    [原文]( プロローグP.6) The man in khaki shook his head, his eyes still fixed upon something on the table. The Arab watched him, vaguely troubled. What was in the air? There was something in the air. He stood up and moved closer; then felt a vague prickling at the base of his neck as his friend at last moved, reaching down for an amulet and cradling it pensively in his hand. It was a green stone head of the demon Pazuzu, personification of the southwest wind. Its dominion was sickness and disease. The head was pierced. The amulet's owner has worn it as a shield.
     "Evil against evil," breathed the curator, languidly fanning himself with a French scientific periodical, an olive-oil thumbprint smudged on the cover.


    [私訳] 老人は首を振って、テーブルの上のあるものをじっと目で捉えていた。アラブ人は友人を見て、何事かといぶかった。この雰囲気は何だろう。何かが感じられる。管理者は立ち上がって友人に近づいた。友人がようやく動きだした時、管理者は首元に何かちくりと痛みのようなものを感じた。テーブルの上のお守りにたどり着き、何事か思案しながら手に取った。そのお守りは緑の石でできた悪魔パズズの頭部だった。パズズは南西風の化身だ。その力はあらゆる病に及ぶ。頭部は穴が穿たれていた。かつての持ち主は、それを盾として身につけていたのだ。
     「悪魔には悪魔を」 管理者は息を吐き、気怠げにフランスの科学定期刊行誌であおいだので、指に付いていたオリーブ油で表紙が汚れた。
     映画では、出土品管理者とのやり取りはごくごくあっさりとしたシーンになっている。管理者がノートにメモ書きしている間、メリン神父は当日に発掘された出土品に見入っている。特に最後に自らが掘り出した小さな像(頭部のみ)に向けて「悪魔には悪魔を」とつぶやく。これは原作では管理者が言った事になっていて、パズズをかたどったお守り(amulet)であることが管理者の独白で明らかになるのだが、映画の神父はそんな事はとうにお見通しのようだ。映画では説明的な部分は一切省略されているが、神父が放つ「悪魔には悪魔を」という一言の直後に、時の流れが一瞬止まったかのように柱時計の振り子が止まる。この一瞬の緊張感がすべてを物語っている。

     『エクソシスト』が従来から映画や小説で描かれてきた悪魔とは違ったイメージを提示したのは明らかで、いわゆる堕天使と呼ばれるルシファーなどのキリスト教的悪魔ではなく、異端(異教徒)が生み出す異形の存在が「悪魔」として描かれている。と言うことは異教徒にとっては神でもあるという事になる。カソリックの神父やエクソシストが描かれる映画ではあるが、従来の「善と悪」「神と悪魔」という枠内には収まっていないのは、原作がイラク北部で始まり、異教徒の神パズズとの邂逅を描くというブラッティの着想が素晴らしかったという事だろう。ちなみにパズズとはどのような悪魔(神)なのだろうか。英語版WikipediaではPazuzuの項に解説が書かれている。以下に訳文(文責Chat-GPT)を掲載する。
     パズズ(Pazuzu)は、古代メソポタミアの宗教における風の悪霊の王であり、特に南西の風を象徴する存在です。彼は神ハンビ(Hanbi)の子とされ、アッシリアやバビロニアの文化圏で紀元前1千年紀を通じて広く知られていました。パズズは通常、犬のような顔、異常に大きく突き出た目、鱗状の体、鳥の鉤爪、二対の翼、サソリの尾、蛇の頭を持つ陰茎など、さまざまな動物と人間の特徴を組み合わせた姿で描かれます。
     彼は一般的には邪悪な存在と見なされていましたが、同時に病気をもたらす風から人々を守る守護者としての側面も持ち合わせていました。特に、出産時に母子を害すると信じられていた女悪霊ラマシュトゥ(Lamashtu)から守る存在とされ、彼の姿を刻んだ護符やアミュレットが住居や妊婦の身につけるものとして使用されました。

     パズズは、1971年の小説『エクソシスト』およびその1973年の映画化作品で悪霊として登場し、西洋の大衆文化においても広く知られるようになりました。
     この解説によると、ブラッティの小説およびフリードキンの映画のヒットにより、イラク周辺の古い神の名前が広く世界中に知れ渡る事になったようだ。残念ながら辞書に見出しが立つまでにはいたらなかったようで、僕の電子辞書の範囲ではPazuzu(パズズ)は見当たらない。なお、英語版Wikipediaでは以下のようなパズズの姿が見られる。
    250px-British_Museum_Bronze_head_Pazuzu_B_27072013.jpg

    [原文]( プロローグP.6) His friend did not move; he did not comment.
    "Is something wrong?"
    No answer.
    "Father?"
    The man in khaki still appeared not to hear, absorbed in the amulet, the last of his finds. After a moment he set it down, then lifted a questioning look to the Arab. Had he said something?
    "Nothing."
    They murmured farewells.
     At the door, the curator took the old man's hand with an extra firmness. "My heart has a wish, Father: that you would not go."
     His friend answered softly in terms of tea; of time; of something to be done.
    "No, no, no, I meant home."


    [私訳] 友人の反応は何もなかった。聞き返してもこない。
    「何か問題でも?」
    返事はない。
    「神父?」
    老人は相変わらず話を聞いてないようで、最後に発掘されたお守りに気を取られていた。しばらくして落ち着いてくると、今度は自分からアラブ人に物問いたげな視線を向けた。"彼は何か言ってたな。"
    「何も問題はない。」
    二人は小声で別れの挨拶を交わした。
     ドアまで来て、管理者は老人の手をいつも以上に堅く握り返した。「神父。正直なところ、あなたに行って欲しくない。」
     友人は、お茶を断る時、時間がない時、片づけねばならぬ事がある時と同じような言い方でやさしく答えた。
    「いや、いや、どうしても帰国しなければなりません。」
     映画では帰国を思いとどまって欲しいという管理者の問いかけに、神父は「やることがあるから」と答えている。

    [原文]( プロローグP.7) The man in khaki fixed his gaze on a speck of boiled chick-pea nestled in a corner of the Arib's mouth; yet his eyes were distant. "Home," he repeated. The word has the sound of an ending.
     "The States," the Arab curator added, instantly wondering why he had.
     The man in khaki looked into the dark of the other's concern. He has never found it difficult to love this man.
     "Good-bye," he whispered; then quickly turned and stepped into the gathering gloom of the streets and a journey home whose length seemed somehow undetermined.


    [私訳] 老人は、アラブ人の口の端にひよこ豆の煮物を食べた汚れが残っているのに気づいた。しかし両方の目はいまだはるか遠くを見据えていた。「帰国せねば」と繰り返した。その一言で話は終わりだと言っているように聞こえた。
     「お国は米国でしたね」 アラブ人の管理者は即座に、神父が帰国を余儀なくされている理由はなんだろうと考えながら言った。
     老人は目の前の男がどれだけ自分を気に掛けてくれているかを知った。この男に好意を持つのは難しいと思った事は、これまで一度もなかった。
     「お別れだ」 老人は小声で挨拶し、すぐに踵を返して憂鬱な雑踏へと足を踏み入れた。家路につく旅は果たしてどれほどなのかはっきりしていない。
     原作では神父の深刻な様子に対して、管理者の人間らしい側面をスパイスのように利かせている。学術論文誌をうちわ代わりに使って、手に付いていたオリーブ油が表紙を汚したと書かれていたが、その正体は昼食にたべた「ひよこ豆の煮物」だったようだ。チャイハナの主人には心を通わす事はできなかった神父だが、この出土品管理者には親愛の情を抱くことができた。それを端的に示す描写だと思うが、ブラッティは情緒的な表現は極力排除しているので、アラブ人の所作を微笑ましく思っているのか違和感を感じているのかは、一文だけでは判断しにくい。その後で神父の独白があって、初めて親愛の情を抱いていると知れるのだ。

    [原文]( プロローグP.7) "I will see you in a year!" the curator called after him from the doorway. But the man in khaki never looked back. The Arab watched his dwindling form as he crossed a narrow street a an angle, almost colliding with a swiftly moving droshky. Its cab bore a corpulent old Arab woman, her face a shadow behind the black lace veil draped loosely over her like a shroud. He gussed she was rushing to some appointment. He soon lost sight of his hurrying friend.

    [私訳] 「一年以内にまたお目にかかりましょう」 戸口から管理者が呼びかけた。しかし老人は二度とふり返らなかった。管理者は遠ざかって小さくなっていく人影を見ようと狭い通りを斜に横切ると、急いで近づいてきた馬車にぶつかりそうになった。馬車は太ったアラブ人の老女をひとり乗せていた。屍衣のように黒いレースの布が老女をゆったりと包んでいて、顔は布に隠れて見えなかった。あの老女は何か約束があって先を急いでいたのだろう。まもなく管理者は、慌ただしく出ていった友人の姿を見失った。
     この場面は映画にはない。正確には、この馬車のエピソードもメリン神父の身に起きた事に変更されている。管理者がいみじくも独白しているように馬車が急いでいたのは何か急ぎの用があったからだろう。しかし神父の身に起きていたならば、それは何事かのオーメン(兆し)だと考えても不思議ではない。映画では管理者の出番を減らしてでも神父の抜き差しならぬ状況を描き出そうとしている。

    [原文]( プロローグP.7) The man in khaki walked, compelled. Shrugging loose of the city, he breached the outskirts, crossing the Tigris. Nearing the ruins, he slowed his pace, for with every step the inchoate presentiment took firmer, more horrible form. Yet he had to know. He would have to prepare.

    [私訳] カーキー色の服を着た老人は、何かに強いられるように歩いた。町から離れると両肩をすくめ、チグリス川を渡って町外れを通り抜けた。遺跡に近づくと速度を緩めた。何故なら一歩近づくたびに、始まりの予感がより揺るぎなく恐怖に満ちたものへと変わっていったからだ。だがしかし、老人は知らなければならなかった。何ものかに備える必要があるのだろうと。
     遺跡は事務所から歩いていける距離にある事になっているが、映画ではジープで乗りつけている。

    [原文]( プロローグP.8) A wooden plank that bridged the Khosr, a muddy stream, creaked under his weight. And then he was there; he stood on the mound where once gleamed fifteen-gated Noneveh, feared nest of Assyrian hordes. Now the city lay sprawled in the bloody dust of its predestination. And yet he was here, the air was still thick with him, that Other who ravaged his dreams.

    [私訳] コスル川は泥のように濁った川で厚い木の板が渡してあり、渡ると重みでギーギーときしんだ。そうして老人はそこにいた。アッシリア人の軍勢の根城として恐れられ、15箇所もの出入り口がある都市ニネベがかつては栄華を極めた丘に、老人は立っていた。いまやニネベの町は、血に塗れた自らの運命の元に身を投げ出して横たわっていた。それでも老人はここにいた。老人を取り巻くように空気はいまだ濃密なままだった。そこに確かに存在する"何者"かが老人の夢を食らいつくそうとしていた。
     土地勘がないのでgoogleマップに手助けしてもらう事にする。
    イラク北部-1.jpg
     都市モスル周辺では、チグリス川の西側にモスル博物館がある。これがどうやらメリン神父と出土品管理者とが会話をする場面のモデルとなった場所らしい。チグリス川を渡ると小さな支流であるコスル川が見える。これは本当に小さな川で板を渡せば渡れるぐらいの川だ。これを北側に渡ると、その先にニネヴェの丘やアシュール・バニパニの図書館が現われる。ニネヴェの丘は現在の地名とは別にアッシリア人が築いた古代都市ニネヴェがあった丘であり、これが原作の記述と一致する。

    [原文]( プロローグP.8) A Kurdish watchman, rounding a corner, unslung his rifle and began to run toward him, then abruptly stopped and grinned with a wave of recognition and proceeded on his rounds.

    [私訳] クルド人の衛兵が角から飛び出して、肩に提げたライフルを構えて老人の方に走り寄ろうとした。だが、それが誰なのか気づくと、即座に立ちどまり笑みを浮かべて、見回りを再開した。
     映画はジープで乗りつけ、原作では徒歩でたどり着くという違いはあるが、角から衛兵が飛び出してくるという映画のシーンは原作どおりだ。ただし、映画では神父の方から軽く手を上げて会釈すると衛兵が奥に引っ込む。しかも衛兵の一人は無表情で神父を注視していて原作のような顔見知りへの笑顔は一切無い。やはり全体的に異教徒の住む土地にいる事に神父が違和感を感じているという点が映画では強調されている。

    [原文]( プロローグP.8) The man in khaki prowled the ruins. The Temple of Nabu. The Temple of Ishtar. He sifted vibrations. At the palace of Ashurbanipal he paused; then shifted sidelong glance to a limestone statue hulking in situ: ragged wings; taloned feet; bulbous, jutting, stubby penis and a mouth stretched taut in feral grin. The demon Pazuzu.
     Apruptly he sagged.
    He knew.
    It was coming.


    [私訳] カーキー色の服を着た老人は遺跡をあちこち見て回った。ナブの神殿、イシュタルの神殿。直観を篩にかけていく。アシュール・バニパル王の宮殿で立ち止まった。そして、本来いるべき場所に大きな姿で現われた石灰岩の像を横目で捉えた。崩れ落ちた両翼、鉤爪がついた両脚、膨らんで突き出た、切り株のような陰茎、残忍そうな笑みで緊張感を振りまく、大きく開いた口。これこそ悪魔パズズだ。
     老人はすぐに力が抜けていった。何もかもわかった。こいつがやって来たのだ。
     神父は遺跡を歩きまわって、自らの恐怖の源泉が何かを探り当てようとしている。この場面はプロローグのクライマックスで、映画でも遺跡を歩きまわるシーンがあるが、どれがどの神殿かを分かりやすく描いてはいない。それもそのはずだ。
    イラク北部-2.jpg
     このマップで一目瞭然であるが、ナブの神殿もイシュタルの神殿もモスルからは遠く離れたところにある。どちらもモスルからチグリス川を南下した先にあり、古代都市遺跡ニムルド(Nimrud)の一部として見つかっている。原作者ブラッティがモスルとニムルドを混同したか、あるいは知っていてフィクションの都合をあえて優先したかのいずれかだが、後者である可能性が高そうだ。というのも「アシュール・バニパニ王の宮殿」という記述も不正確だからだ。アシュール・バニパニ王の宮殿は該当するものが見当たらず、モスルには「アシュール・バニパニの図書館」と呼ばれる遺跡がある。この王は図書館を建設した業績で知られているらしいが、ブラッティはここでも世界史的な正しさよりもフィクションとしてのわかりやすさを優先していると思われる。

     そして何よりもこの段落で描写されるパズズは、Wikipediaの解説と比較すると「似て非なるもの」という感じがする。動物と人間のパーツを組み合わせた存在という意味では「切り株のような男根(陰茎)」を持つ神(悪魔)であるが、実際は蛇の頭部をモチーフにした男根からなる。尻尾はサソリ、両脚は鳥のかぎ爪を採り入れている。なにより顔は犬のそれなので、忌まわしいというよりも一見すると愛らしい存在にも感じられる。それをキリスト教的な色眼鏡で見ると「残忍そうな笑みで緊張感を振りまく」悪魔となるのだろう。

    [原文]( プロローグP.8) He stared at the dust. Quickening shadows. He heard dim yappings of savage dog packs prowling the fringes of the city. The orb of the sun was beginning to fall below the rim of the world. He rolled his shirt sleeves down and buttoned them as a shivering breeze sprang up. Its source was southwest.
     He hastened toward Mosul and his train, his heart encased in the icy conviction that soon he would face an ancient enemy.


    [私訳] 老人は土ぼこりの風景をにらみ付けた。闇が迫っている。野犬の群れが町外れをうろつき廻って、虚ろに吠え合っているのが聞こえた。太陽という天体が、この世界の縁に沈もうとしていた。身震いするほどの風が急に吹いてきたので、老人はシャツの袖を下ろしてボタンを留めた。風は南西からやってくる。
     老人はモスルに、そこから出る列車に急いだ。老人は心の中で冷ややかに確信していた。まもなく、いにしえの敵に相まみえるのだと。
     プロローグ最後の描写と映画の映像とは完璧と言ってよいくらいに一致している。まさに原作・脚本のブラッティと監督フリードキンとのコラボレーションの賜物だ。野犬の群れは出てこないが、痩せて気が立っている二頭の犬が争うカットが挿入され、焼け付くような太陽が闇へと落ちていこうとするタイミングで、南西から強い風が吹きあれ、神父と”残忍な”パズズの立像とが対峙するのだ。
    posted by アスラン at 03:10| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 評論・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2025年05月09日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(7.3.9)

    Chapter7. It . . . that . . .「B 強調構文」より。
    7.3.9 It was my teacher's genius, her quick sympathy, her loving tact which made the first years of my education so beautiful. It was because she realized the right moment to impart knowledge that made it so pleasant and acceptable to me. perish.
    (訳) 私が受けた教育の最初の数年間をすばらしいものにしてくれたのは、私の先生の非凡な才能、その素早い共感と愛情にあふれた技量であった。それは、先生が知識を与えるべき時を心得ていて、そのおかげで知識が私にはおもしろく受け入れやすいものとなったからであった。
     この例文のポイントはIt is … that構文が2つあるように見えて、2番目のIt was because… thatの方はそうではないという点だ。特に強調構文としては、焦点部には(a)副詞的要素もしくは(b)名詞(句)が来る。(a)ならばthat以下は完全な文でなくてはならないし、(b)の場合はthat以下の文の主語もしくは目的語が欠けていなければならない。この例文の場合because…は副詞的要素なのでthat節には完全な文がこなくてはならない。ところがmadeの主語が欠けているため、このthatは関係代名詞でなければならない。つまり強調構文ではないという事になる。もちろん形式主語の構文でもないのは明らかだ。

     これを踏まえた上で訳文を推敲していく。前半の強調構文では焦点部は3つの名詞句で構成されている。これらはすべて述部表現に変えよう。それと私と先生とがどういう人となりなのかも考えておく必要がある。「私」は普通に学校に通っているのか、それとも「私」はいいとこのお嬢さんで、家で家庭教師の先生がついているのかどうか。先生は女性である事を考えると、私も女性で子供の頃から家庭教師の先生に教わってきたというように考えてもよさそうだ。ただし、そこまで昔の思い出を回顧していると考えるのはさすがに英文解釈の例文としては相応しくないかもしれない。あくまで学校の先生との出会いだと考えよう。となるとeducationは「学校教育」すなわち「学校の授業」「学校生活」ぐらいに書き直したい。
    (前半の推敲訳) 最初の5年間の学校生活があんなにも素晴らしいものとなったのは、私の先生が非凡な才能の持ち主であって、私の言う事に即座に共感してくれたし、愛情をもって臨機応変に接してくれたからだ。

     後半の文では、thatはおそらくthe right moment (to impart knowledge)の先行詞だと思われるし、made it so pleasant…のitはknowledgeではなくてmy education(学校生活、学校の授業)を指していると思う。そうでないと先生が授ける「知識」ばかりが私の楽しさの根源のように読めてしまう。
    (後半の推敲訳) 何故かと言えば、先生は私たち生徒にどのタイミングで知識を授けたらいいかをよく分かっていて、そのおかげで私は授業が楽しくて、進んでやりたいと思えたからだ。

     以上をまとめると、このようになる。
    (推敲訳) 最初の5年間の学校生活があんなにも素晴らしいものとなったのは、私の先生が非凡な才能の持ち主であって、私の言う事に即座に共感してくれたし、愛情をもって臨機応変に接してくれたからだ。何故かと言えば、先生は私たち生徒にどのタイミングで知識を授けたらいいかをよく分かっていて、そのおかげで私は授業が楽しくて、進んでやりたいと思えたからだ。

     さらに推敲する。前半も後半も「〜からだ。」という理由に解釈すると「AがPだったのはBだからだ。それが可能だったのはCだからだ。」のようになって、次々に理由が続く事になる。だからちょっと変えて「AがPだったのはBがあったからだ。(Bがあると)Pが可能になるのはCだからだ。」のような接続関係を日本語で表現する必要がある。
    (推敲訳) 私が最初に学んだ先生は特別な才能を持っていて、私の言う事にたちどころに賛成してくれたし、その場その場で臨機応変に対応する事に骨身を惜しまなかった。その結果として最初の5年間の授業は私にとってあのようにかけがえのないものとなったのだ。何故それが可能だったかと言えば、先生がここぞというタイミングで私たち生徒に知識を授けようと考えていて、そのおかげで私は授業が楽しくて自分から受けたいと思えたからだ。
    posted by アスラン at 00:50| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2025年05月04日

    The exorcist (William Peter Blatty)を読む(その1)

     「ミステリを原書で読みたい」シリーズの次の作品は、ウィリアム・ピーター・ブラッティの『エクソシスト』にした。シリーズなどと言っても、前回はクリスティの『オリエント急行の殺人』をだいぶ前に読了しただけだし、その後は翻訳家・宇野利泰さんの「(翻訳の)盛り具合」を確認するために、エラリー・クイーンの『犯罪カレンダー』をひと月分だけ読んだ。あるいは、ジョン・ディクスン・カーの『髑髏城』で、旧訳・新訳を参考にしながら髑髏城の構造を分析するために原書を部分的に読んだりした。要するに原書をつまみ食いしたに過ぎない。さらには、ミステリではないけれど、関連書籍としてフランシス・M・ネヴィンズの『エラリー・クイーンの世界』の誤訳状況を、別宮貞徳さんの『続 誤訳・迷訳・欠陥翻訳』の時評の指摘部分に従って調べたりして今に至っている。

     そろそろ、ちゃんと原書を一冊読みたいと思っていたところだが、今回は久しぶりにフリードキン監督の代表作『エクソシスト』の冒頭部分を見返したばかりなので、ブラッティの原作ではどのように書かれているかが気になった。まあ、結局は単に原書を読むというよりは、映画と原作とを比較するために読むという趣向になりそうだ。そもそも『エクソシスト』はミステリでもない。だからマイシリーズは「ミステリ等を原書で読みたい」という呼び名に代える必要がありそうだが、そんなに厳密に考えて付けた通称でもないからこのままで行く(いや、そもそもシリーズというほど、原書の数をこなしてもいないし)。

     僕が持っている原書The EXORCISTは1971年に出版された初版を元に、HarperPaperbacksとして1994年に出版されたものだ。すでに30年経っていて、焼けによる経年劣化で表紙がパリパリと崩れてしまう。カバンに入れて持ち歩いていたら、つい数日前に表紙が取れてしまった。全編を読み終わる頃にはペーパーバックの寿命を全うしそうな予感がする。まあ、最後まで読めたら自分を褒めてあげたいとは思う。まだプロローグを読んだだけで停滞しているが、かなり原文が手強い印象だ。だが、とにもかくにも一歩を踏み出そう。ちなみに世に出回っている翻訳は創元推理文庫『エクソシスト』で、こちらは何と宇野利泰さんの翻訳だ。よくよく考えると宇野さんの翻訳だと知ってずいぶん前に入手した記憶があるが、たらふく寝かせてしまった。その後、宇野利泰研究のために原書も買い足したのだった。宇野さんの翻訳は相変わらず冒頭から大"盛り"なので、この記事では私訳を参考として原文に併記していく。専門家でもないし英語読解力が優れているわけでもないので、あくまで個人的な理解を反映した日本語の文章に過ぎないと予めことわっておく。

     冒頭にはいくつかの引用があり、例の「わが名はレギオン」と名乗る悪魔とキリストとが対峙するルカ伝の場面や、アメリカのマフィアであるコーザ・ノストラの一味がまるでレジャーのように人をなぶり殺しにした際の様子を語った電話の盗聴記録、それに加えて戦時下の兵士が村の少年と教師に向けて行った残虐行為の言及が続く。最後にアウシュビッツを含む三箇所の強制収容所の名前が並べられる。この念の入った引用部分は、人間そのものに確実に”悪魔"が潜んでいる事の例証になっているとも言える。あくまでキリスト教的な悪魔を想定せずとも、そもそも人間は「悪魔でもある」という主張も成り立つと著者は言いたいのかもしれない。それにしてもドキュメンタリーでもないのに、かなり重苦しい箇所を引用しているのは少々やり過ぎな感じがするし、悪趣味と言われても致し方ない。とりあえず、ここはスルーしてプロローグに取りかかろう。

     プロローグには「イラク北部(Northern Iraq)」というサブタイトルが付いている。ここでは老いた神父が登場する。すでに映画を観ている人(僕自身もそうだが)には自明だが、やがて米国のワシントン市で暮らす一人の少女の身に起きる事になる「悪魔憑き」を祓うために派遣されることになるイエズス会神父メリンが描かれる。映画では名優マックス・フォン・シドーが演じている。名優と言っても当時44歳(!)だったシドーは、スウェーデンの名匠イングマール・ベイルマンの初期の代表作にこそ出演して知る人ぞ知る存在ではあったが、決して世間の知名度は高くなかったはずだ。
    [原文]( プロローグP.3) The blaze of sun wrung pops of sweat from the old man's brow, yet he cupped his hands around the glass of hot sweet tea as if to warm them. He could not shake the premonition. It clung to his back like chill wet leaves.
    [私訳] 照りつける太陽のせいで、老人の眉から汗がしたたり落ちた。にも関わらず、老人は熱いお茶が注がれたコップを、両手を温めるかのように持ったままだった。不吉な予感を振り払う事などできなかった。それは濡れ落ち葉のように老人の背中に張り付いていたのだ。
     映画を観ると、このシーンは少し後に出てくる。原作ではイラクの遺跡の発掘はすべて終わった事になっているのだが、ドキュメンタリー手法を得意としたフリードキンは今まさに発掘のただ中にいるかのような臨場感がある場面から映画を始めている。強いて言うと、The blaze of sunという炎のような太陽を映像として効果的にとりいれている。ちなみに映画『エクソシスト』の脚本は、原作者のブラッティが担当しているので、映像的な改変はあっても人物や場面の設定はほぼ原作に忠実に作られている。

    [原文]( プロローグP.3) The dig was over. The tell has been shifted, stratum by stratum, its entrails examined, tagged and shipped: the beads and pendants; glyptics; phalli; ground-stone mortars stained with ocher; burnished pots. Nothing exceptional. An Assyrian ivory toilet box. And man. The bones of man. The brittle remnants of cosmic torment that once made him wonder if matter was Lucifer upward-groping back to his God. And yet now he knew better. The fragrance of licorice plant and tamarisk tugged his gaze to poppied hills; to reeded plains; to the ragged, rock-strewn bolt of road that flung itself headlong into dread. Northwest was Mosul; east Erbil; south was Baghdad and Kirkuk and the fiery furnace of Nebuchadnezzar. He shifted his legs underneath the table in front of the lonely roadside chaykhana and stared at the grass stains on his boots and khaki pants. He sipped at his tea. The dig was over. What was beginning? He dusted the thought like a clay-fresh find but he could not tag it.
    [私訳] 発掘は終了した。遺構は何層にもわたっており、出土品は検めてはタグを付けて外へ運び出された。ネックレスやペンダント、彫刻、男根像、黄土で汚れた床石のしっくい、光沢のあるポットなどだ。例外はない。アッシリア人が使った象牙の化粧箱もだ。それから人間も。人骨だ。それは普遍的な苦悩が脆くも崩れ去った名残りであり、それゆえに肉体とは神の元に帰ろうと天上に手をのばすルシファーではないかと、当時の人間は考えていた。そしていまだにそう考えた方がよいと老人には分かっていた。甘草(かんぞう)や御柳(ぎょりゅう)の芳香がするせいで老人はそちらに目を向けた。花に覆われた丘に、葦の茂った平野に、あるいは躊躇する事無く人を恐怖へと導く、でこぼこで石がばらまかれた一本の道に。北西にはモスルがあり、西にイルビル、南にはバグダッドとキルクーク、それにネブカドネザル二世時代に作られた溶鉱炉があった。道の脇にチャイハナ(茶屋)が一軒あり、茶屋の前に置かれたテーブルに老人は腰をおろし、長靴とカーキ色のズボンについた草のしみを見つめた。老人はお茶を啜った。発掘は終わったのだ。では何が始まるのか。土から掘り出したばかりの品のように、その考えにこびりついた埃を振り払ったが、なんとタグ付けすればよいか分からなかった。
     ブラッティの文章は決して易しくない。見たとおり、接続詞を省いてセミコロンによる列挙を多用しているので、当然ながら名詞句がたくさん出てくる。どういう含みがある名詞句なのかをよくよく考える必要がある。また分詞構文を複数個列挙している点もやっかいだ。単に主節の主語をそのまま引き継いでいるなら分かりやすいが、途中で分詞構文自体が主語を変える場合もあるし、どこまでが並列であってどこからが別の並列になっているのかは文脈次第という場合もある。とにかく、文章が文法通りに書かれている事を前提にした上でなんとか英文に食らいつこうとしている僕にとっては、非常に難度が高い英文である事は間違いない。

     それに比喩表現を当たり前のように現実の描写に混在させていくので、それが比喩なのか実際の描写なのか区別が付きにくい。例えば"Northwest was Mosul; east Erbil; south was Baghdad and Kirkuk and the fiery furnace of Nebuchadnezzar."という文章は、遺跡を中心にして何がどこにあるのかを説明しているだけの文章で、the fiery furnace of Nebuchadnezzarは文字どおり「ネブカドネザル二世の作った(作らせた)溶鉱炉」の意味だが、宇野利泰さんは「この炎熱地獄が、古代アッシリアのネブカドネザル王朝の都城の跡である」と訳している。the fiery furnaceは直前の「バグダッドとキルクーク」を受けた同格表現であると同時に比喩表現だと見たわけだ。しかし、これは宇野さんの考えすぎで、単に「炉」があると考えるべきだろう。後で調べたら旧約聖書のダニエル書3章には繰り返しthe fiery furnaceが出てきて「燃え盛る炉」と訳されている(日本聖書教会 新共同訳)。実際に炉の遺跡があるのか、それとも聖書で書かれた炉があったとされる場所を意味しているかで、若干意味が変わるかもしれないが「炎熱地獄」ではない事は確かだ。

     原作では冒頭からチャイハナで老人(メリン神父)がお茶を飲む場面が出てくるが、映画は発掘現場のシーンの後になる。映画では神父が年老いて自らの人生に立ち向かってきた代償として、心臓にトラブルを抱えている事を示すために、狭心症の薬らしきものを飲むシーンが追加されている。これは映画終盤の伏線にもなっている。この段落に以下の一文が出てくる。
    [原] He … stared at the grass stains on his boots and khaki pants.
    [私] (老人は)長靴とカーキ色のズボンについた草のしみを見つめた。
     メリン神父は「カーキ色のズボン」を身につけている点に注意しよう。このプロローグではメリンの名前は一箇所も登場しない。絶えずthe old manやFatherとかthe man in khakiと表現される。特に多いのがthe man in khakiだ。そして映画のメリン神父は軍服のようなくすんだ茶色のズボンに、枯れ草色のシャツを合わせている。普通に考えるとシャツの方が「カーキ色」のようにも見える。しかし、以前に調べた事があるのだが、khaki(カーキ色)というのは非常に奥が深く、極めて曖昧な色なのだ。khakiの語源は"dust-colored cloth"であって、どうやら色そのものではなく布の状態を示していた。そういう布をイギリス軍が軍服に採用したことから、軍服はカーキ色と呼ばれるようになった。時代が移り変わると、米国ではolive green(オリーブの実のような暗緑色)をkhakiと呼ぶようになり、日本でもどちらかというと枯れ草色の方がカーキ色だと思っている節がある。辞書もkhakiの曖昧さを反映している。
    khaki
     (ODE)a brownish-yelllow colour
     (OALD)a dull greenish or yellowish brown colour
     (RH大英和)カーキ色、くすんだ黄褐色
    カーキ色 
     (広辞苑)黄色に淡い茶色のまじった色。枯草色。
     要するに映画のメリン神父は「上下ともに色違いのカーキ色の服を着ている」事になる。

    [原文]( プロローグP.4) Someone wheezed from within the chaykhana: the withered proprietor shuffling toward him, kicking up dust in Russian-made shoes that he wore like slippers, groaning backs pressed under his heels. The dark of his shadow slipped over the table.
    [私訳] チャイハナの奥からぜいぜいと息を切らす声が聞こえた。皺だらけの主人が老人の元に足を引きずりながら近づき、スリッパのように履いたロシア製の靴で埃を巻き上げると、かかとで押しつぶされた靴底がミシミシと音を立てた。主人の影がそっとテーブルを覆った。
     この英文でコロン以下の構文がよく分からない。コロンの後には不完全な文が列挙されている可能性があるので、shuffling〜、kicking〜、groaning〜の3つの分詞構文ではないかと考えるところだ。ところが、前の2つはthe withered proprietor(皺だらけの主人)なのは明らかだが、残りのgroaningの主語と考えても意味が通らない。groanは「(人が)うめく」「(物が)ミシミシいう」という自動詞か、あるいは「(不平・不満)を言う」「(人)に不満を言う」という他動詞になるが、backs(靴底)があるので他動詞だろう。しかし「店の主人が靴底に不平を言う」のは文脈的におかしいので、別の解釈としてgroaning backsという主語ではないかと考える。これならばpressedに基づく分詞構文で「ミシミシいう靴底がかかとに押しつぶされた」という解釈になる。直訳だと因果関係が逆になってしまうので「かかとにおしつぶされて靴底がミシミシいった」ぐらいの日本語になるかと思う。ただ、正直言うとブラッティはgroanを他動詞として「皺だらけの主人が靴底をミシミシいわせた」という意味で使っているのではないかと疑っている。だからあくまでgroaningに基づく分詞構文で、pressed under his heelsはbacksを後置修飾しているだけとも思える。要するに真面目に構文解釈をするには問題のある文章なので、文法や構文を逸脱している可能性を考慮しつつ解釈していく必要がある。

    [原文]( プロローグP.4) The man in khaki shook his head, staring down at the laceless, crusted shoes caked thick with debris of the pain of living. The stuff of the cosmos, he softly reflected: matter; yet somehow finally spirit. Sprit and the shoes were to him but aspects of a stuff more fundamental, a stuff that was primal and totally other.
    [私訳] 「おかわりはどうかね」
     カーキ色の服を着た老人は首を振り、靴紐もなく皮も固くなった靴を見下ろした。靴には生の苦しみが堆積して厚くこびりついていた。老人は、宇宙を形づくる物について静かに思い描いた。物質。しかし、やがてはどうにかして魂となっていく。自分にとっては魂も靴も変わらないが、物質にはもっと根源的な側面が含まれている。だから物質こそが、原初にして全く別の何かなのだ。
     さらっと難解な思想や詩的・比喩的表現を入れてくるのも、この作品の特徴の一つだ。どうにもこうにもsprit(精神、魂)とstuff(物質、物)との二元論が分かりにくい。matter(物質)はsprit(精神、魂)になり得るが、そうはならない部分、つまりaspects of a stuff(物質の別の側面)が存在し、それはもっと根源的な物だと言っている。つまり、物質よりも精神の方が「より根源的」だと考えがちだが、物質こそが重要なのだとメリン神父は考えている。これはキリスト教的な教義なのだろうか、それともブラッティの個人的な考えなのだろうか。

    [原文]( プロローグP.4) The shadow shifted. The Kurd stood waiting like an ancient debt. The old man in khaki looked up into eyes that were damply bleached as if the membrane of an eggshell had been pasted over the irises. Glaucoma. Once he could not have loved this man.
    [私訳] 影が動いた。クルド人の店主はいにしえからの負債を催促するかのように待っていた。老人は店主の目を見上げたが、卵の殻についた薄い膜が虹彩を覆ってしまったかのように白濁していた。緑内障だ。老人は一度たりとも目の前の男に好意を持てなかった。
     ここまでで映画との比較をすると、映画では決してチャイハナの店主が神父のテーブルにやってきたようには見えない。単なる従業員がやってきて「おかわりは?」と事務的に聞いてくる。チップの催促もしていない。対する神父も従業員に嫌悪を抱いてはいない。原作では意図的に異教徒であるクルド人を見下す、あるいは嫌悪しているかのように描いているが、そこらへんはバッサリと脚本からは除いている。神父の差別意識というよりは、長年戦ってきた”悪魔"を生み出す根源(異教徒)に対する嫌悪を象徴した素振りとも考えられる。そこらへんをフリードキンは意識的に場面として描くよりも、町を歩く神父が目にするものを僕ら観客に見せることで理解させようとしている。それはたとえば、お祈りのために床にひれ伏す民だったり、火で熱した刃を打ち鍛える刀鍛冶の表情だったりする。原文のGlaucoma(緑内障)は、チャイハナの店主から刀鍛冶へと設定が変更されている。おそらくフリードキンの事だから、たまたま現地で見つけた素人を採用したのだろう。

    [原文]( プロローグP.4) He slipped out his wallet and probed for a coin among its tattered, crumpled tenants: a few dinars; an Iraqi driver's license; a faded plastic calendar card that was twelve years out of date. It bore an inscription on the reverse; WHAT WE GIVE TO THE POOR IS WHAT WE TAKE WITH US WHEN WE DIE. The card had been printed by the Jesuit Missions. He paid for his tea and left a tip of fifty fils on a splintered table the color of sadness.
    [私訳] 老人は財布を取り出し、ぼろぼろでしわくちゃになった紙幣の間から硬貨を探した。ディナール硬貨数枚、イラクの運転免許証、12年も前の色褪せたプラスティック製のカレンダーカード。裏面には次のような銘文が記されている。「貧しき者に施せば、それは己の死とともに皆と分かち合う事になるであろう。」 このカードはイエズス会の布教活動を印刷したものだ。老人は顔に悲しみを湛えながらお茶代を払い、ささくれだったテーブルに50フィルスのチップを置いた。
     財布からお茶代の硬貨をさぐる場面。tenant(借地人、賃借人)が出てくるのは理解不能。おそらくtenner(10ドル紙幣)の間違いではないか。さらに最後の文。
    [原] He … left a tip of fifty fils on a splintered table the color of sadness.
    [私] 老人は顔に悲しみを湛えながら…ささくれだったテーブルに50フィルスのチップを置いた。
     the color of sadnessは本来なら分詞構文として現在分詞・過去分詞で始めるべきところ。あるいは省略したとしてもカンマを挿入するところだろう。まるで名詞的副詞格のように使われているので戸惑う。ちなみに、なぜ「顔に悲しみを湛え」ているのかと言えば、財布に入れたままのイエズス会のカードに記されている「貧しき者に施せば…」という聖句が、この地では正しく伝わらないというもどかしさからなのか。あるいは「皆と分かち合う」時が自分にも近づいているという絶望からなのか。おそらく両方なのだろう。

    [原文]( プロローグP.5) He walked to his jeep. The gentle, rippling click of key sliding into ignition was crisp in the silence. For a moment he waited, feeling at the stillness. Clustered on the summit of a towering mound, the fractured rooftops of Erbil hovered far in the distance, poised in the clouds like a rubbled, mud-stained benediction. The leaves clutched tighter at the flesh of his back.
    [私訳] 老人はジープまで歩いた。エンジンをかけようとキーを回すと、静かなさざ波のような音を立てた後、突然静寂が戻った。しばらくは、静けさの中に身を置きながら待った。イルビルの町は小高い丘の頂上にひとかたまりになっていて、多くの屋根がひび割れているのが遙か遠くに見えた。あたかも破壊されて泥にまみれた恩寵のように雲の中に浮かんでいた。例の濡れ落ち葉は老人の背中にぴったりと張り付いたままだった。
     benedicition(恩寵)が唐突に出てくるので何故?と思わされる。イルビルの町は屋根も満足に補修されない貧しさに満ちているが、小高い丘にある神秘さが神の恩寵を感じさせると言いたいのだろうか。それでも、メリン神父を悩ます不吉な予感の象徴(濡れ落ち葉)は剥がれる事がないという事か。

    [原文]( プロローグP.5) Something was waiting.
    "Allah ma'ak chawaga."
    Rotted teeth. The Kurd was grinning, waving farewell. The man in khaki groped for a warmth in the pit of his being and came up with a wave and a mustered smile. It dimmed as he looked away. He started the engine, turned in a narrow, eccentric ∪ and headed toward Mosul. The Kurd stood watching, puzzled by a heart-dropping sense of loss as the jeep gathered speed. What was it that was gone? What was it he had felt in the stranger's presence? Something like safety, he remembered; a sense of protection and deep well-being. Now it dwindled in the distance with the fast-moving jeep. He felt strangely alone.

    [私訳] 何かが待っていた。
    「ごきげんよう」
    歯がボロボロだ。クルド人の店主はニヤリと笑い、手を振った。老人は心の奥底からなんとか親愛の情を探りだして、手を振って笑みを浮かべてみせた。しかし、老人は目をそらすとすぐにやめた。エンジンを掛け、狭い道をむりやりUターンして、モスルに向かった。店主は立ったまま見送りつづけ、ジープがスピードを上げて去っていった事にひどく落胆しているのは何故だろうと考えた。去って行ったのは一体何なんだ。異邦人の存在に一体何を感じたというのか。安心のようなものか。店主は思い出した。危害も加えてこなかったし、心から安心でいられた事を。それも、ジープがあっという間に遠くに去った事で消え失せた。店主は妙に孤独を覚えた。
     神父は「一度たりとも目の前の男に好意を持てなかった。」と考えていたように、異教徒であるクルド人の心のうちを慮る余裕をもっていない。なんとか作り笑いで応対しているほど嫌悪していると言っていい。しかし、この場面ではクルド人側から神父に好意を寄せていた事が明かされている。おまけに神父が去って行った事で「孤独」や「空虚」を感じている。このようなすれ違いの皮肉を原作では描いているが、映画ではメリン神父の目線に基づく映像がすべてを一方的に物語る事で、メリンの孤独や絶望が際立つ構成に変更されている。もちろん、この場面は映画には出てこない。
    posted by アスラン at 06:50| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 評論・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする