「ミステリを原書で読みたい」シリーズの次の作品は、ウィリアム・ピーター・ブラッティの『エクソシスト』にした。シリーズなどと言っても、前回はクリスティの『オリエント急行の殺人』をだいぶ前に読了しただけだし、その後は翻訳家・宇野利泰さんの「(翻訳の)盛り具合」を確認するために、エラリー・クイーンの『犯罪カレンダー』をひと月分だけ読んだ。あるいは、ジョン・ディクスン・カーの『髑髏城』で、旧訳・新訳を参考にしながら髑髏城の構造を分析するために原書を部分的に読んだりした。要するに原書をつまみ食いしたに過ぎない。さらには、ミステリではないけれど、関連書籍としてフランシス・M・ネヴィンズの『エラリー・クイーンの世界』の誤訳状況を、別宮貞徳さんの『続 誤訳・迷訳・欠陥翻訳』の時評の指摘部分に従って調べたりして今に至っている。
そろそろ、ちゃんと原書を一冊読みたいと思っていたところだが、今回は久しぶりにフリードキン監督の代表作『エクソシスト』の冒頭部分を見返したばかりなので、ブラッティの原作ではどのように書かれているかが気になった。まあ、結局は単に原書を読むというよりは、映画と原作とを比較するために読むという趣向になりそうだ。そもそも『エクソシスト』はミステリでもない。だからマイシリーズは「ミステリ等を原書で読みたい」という呼び名に代える必要がありそうだが、そんなに厳密に考えて付けた通称でもないからこのままで行く(いや、そもそもシリーズというほど、原書の数をこなしてもいないし)。
僕が持っている原書The EXORCISTは1971年に出版された初版を元に、HarperPaperbacksとして1994年に出版されたものだ。すでに30年経っていて、焼けによる経年劣化で表紙がパリパリと崩れてしまう。カバンに入れて持ち歩いていたら、つい数日前に表紙が取れてしまった。全編を読み終わる頃にはペーパーバックの寿命を全うしそうな予感がする。まあ、最後まで読めたら自分を褒めてあげたいとは思う。まだプロローグを読んだだけで停滞しているが、かなり原文が手強い印象だ。だが、とにもかくにも一歩を踏み出そう。ちなみに世に出回っている翻訳は創元推理文庫『エクソシスト』で、こちらは何と宇野利泰さんの翻訳だ。よくよく考えると宇野さんの翻訳だと知ってずいぶん前に入手した記憶があるが、たらふく寝かせてしまった。その後、宇野利泰研究のために原書も買い足したのだった。宇野さんの翻訳は相変わらず冒頭から大"盛り"なので、この記事では私訳を参考として原文に併記していく。専門家でもないし英語読解力が優れているわけでもないので、あくまで個人的な理解を反映した日本語の文章に過ぎないと予めことわっておく。
冒頭にはいくつかの引用があり、例の「わが名はレギオン」と名乗る悪魔とキリストとが対峙するルカ伝の場面や、アメリカのマフィアであるコーザ・ノストラの一味がまるでレジャーのように人をなぶり殺しにした際の様子を語った電話の盗聴記録、それに加えて戦時下の兵士が村の少年と教師に向けて行った残虐行為の言及が続く。最後にアウシュビッツを含む三箇所の強制収容所の名前が並べられる。この念の入った引用部分は、人間そのものに確実に”悪魔"が潜んでいる事の例証になっているとも言える。あくまでキリスト教的な悪魔を想定せずとも、そもそも人間は「悪魔でもある」という主張も成り立つと著者は言いたいのかもしれない。それにしてもドキュメンタリーでもないのに、かなり重苦しい箇所を引用しているのは少々やり過ぎな感じがするし、悪趣味と言われても致し方ない。とりあえず、ここはスルーしてプロローグに取りかかろう。
プロローグには「イラク北部(Northern Iraq)」というサブタイトルが付いている。ここでは老いた神父が登場する。すでに映画を観ている人(僕自身もそうだが)には自明だが、やがて米国のワシントン市で暮らす一人の少女の身に起きる事になる「悪魔憑き」を祓うために派遣されることになるイエズス会神父メリンが描かれる。映画では名優マックス・フォン・シドーが演じている。名優と言っても当時44歳(!)だったシドーは、スウェーデンの名匠イングマール・ベイルマンの初期の代表作にこそ出演して知る人ぞ知る存在ではあったが、決して世間の知名度は高くなかったはずだ。
[原文]( プロローグP.3) The blaze of sun wrung pops of sweat from the old man's brow, yet he cupped his hands around the glass of hot sweet tea as if to warm them. He could not shake the premonition. It clung to his back like chill wet leaves.
[私訳] 照りつける太陽のせいで、老人の眉から汗がしたたり落ちた。にも関わらず、老人は熱いお茶が注がれたコップを、両手を温めるかのように持ったままだった。不吉な予感を振り払う事などできなかった。それは濡れ落ち葉のように老人の背中に張り付いていたのだ。
映画を観ると、このシーンは少し後に出てくる。原作ではイラクの遺跡の発掘はすべて終わった事になっているのだが、ドキュメンタリー手法を得意としたフリードキンは今まさに発掘のただ中にいるかのような臨場感がある場面から映画を始めている。強いて言うと、The blaze of sunという炎のような太陽を映像として効果的にとりいれている。ちなみに映画『エクソシスト』の脚本は、原作者のブラッティが担当しているので、映像的な改変はあっても人物や場面の設定はほぼ原作に忠実に作られている。
[原文]( プロローグP.3) The dig was over. The tell has been shifted, stratum by stratum, its entrails examined, tagged and shipped: the beads and pendants; glyptics; phalli; ground-stone mortars stained with ocher; burnished pots. Nothing exceptional. An Assyrian ivory toilet box. And man. The bones of man. The brittle remnants of cosmic torment that once made him wonder if matter was Lucifer upward-groping back to his God. And yet now he knew better. The fragrance of licorice plant and tamarisk tugged his gaze to poppied hills; to reeded plains; to the ragged, rock-strewn bolt of road that flung itself headlong into dread. Northwest was Mosul; east Erbil; south was Baghdad and Kirkuk and the fiery furnace of Nebuchadnezzar. He shifted his legs underneath the table in front of the lonely roadside chaykhana and stared at the grass stains on his boots and khaki pants. He sipped at his tea. The dig was over. What was beginning? He dusted the thought like a clay-fresh find but he could not tag it.
[私訳] 発掘は終了した。遺構は何層にもわたっており、出土品は検めてはタグを付けて外へ運び出された。ネックレスやペンダント、彫刻、男根像、黄土で汚れた床石のしっくい、光沢のあるポットなどだ。例外はない。アッシリア人が使った象牙の化粧箱もだ。それから人間も。人骨だ。それは普遍的な苦悩が脆くも崩れ去った名残りであり、それゆえに肉体とは神の元に帰ろうと天上に手をのばすルシファーではないかと、当時の人間は考えていた。そしていまだにそう考えた方がよいと老人には分かっていた。甘草(かんぞう)や御柳(ぎょりゅう)の芳香がするせいで老人はそちらに目を向けた。花に覆われた丘に、葦の茂った平野に、あるいは躊躇する事無く人を恐怖へと導く、でこぼこで石がばらまかれた一本の道に。北西にはモスルがあり、西にイルビル、南にはバグダッドとキルクーク、それにネブカドネザル二世時代に作られた溶鉱炉があった。道の脇にチャイハナ(茶屋)が一軒あり、茶屋の前に置かれたテーブルに老人は腰をおろし、長靴とカーキ色のズボンについた草のしみを見つめた。老人はお茶を啜った。発掘は終わったのだ。では何が始まるのか。土から掘り出したばかりの品のように、その考えにこびりついた埃を振り払ったが、なんとタグ付けすればよいか分からなかった。
ブラッティの文章は決して易しくない。見たとおり、接続詞を省いてセミコロンによる列挙を多用しているので、当然ながら名詞句がたくさん出てくる。どういう含みがある名詞句なのかをよくよく考える必要がある。また分詞構文を複数個列挙している点もやっかいだ。単に主節の主語をそのまま引き継いでいるなら分かりやすいが、途中で分詞構文自体が主語を変える場合もあるし、どこまでが並列であってどこからが別の並列になっているのかは文脈次第という場合もある。とにかく、文章が文法通りに書かれている事を前提にした上でなんとか英文に食らいつこうとしている僕にとっては、非常に難度が高い英文である事は間違いない。
それに比喩表現を当たり前のように現実の描写に混在させていくので、それが比喩なのか実際の描写なのか区別が付きにくい。例えば"Northwest was Mosul; east Erbil; south was Baghdad and Kirkuk and the fiery furnace of Nebuchadnezzar."という文章は、遺跡を中心にして何がどこにあるのかを説明しているだけの文章で、the fiery furnace of Nebuchadnezzarは文字どおり「ネブカドネザル二世の作った(作らせた)溶鉱炉」の意味だが、宇野利泰さんは「この炎熱地獄が、古代アッシリアのネブカドネザル王朝の都城の跡である」と訳している。the fiery furnaceは直前の「バグダッドとキルクーク」を受けた同格表現であると同時に比喩表現だと見たわけだ。しかし、これは宇野さんの考えすぎで、単に「炉」があると考えるべきだろう。後で調べたら旧約聖書のダニエル書3章には繰り返しthe fiery furnaceが出てきて「燃え盛る炉」と訳されている(日本聖書教会 新共同訳)。実際に炉の遺跡があるのか、それとも聖書で書かれた炉があったとされる場所を意味しているかで、若干意味が変わるかもしれないが「炎熱地獄」ではない事は確かだ。
原作では冒頭からチャイハナで老人(メリン神父)がお茶を飲む場面が出てくるが、映画は発掘現場のシーンの後になる。映画では神父が年老いて自らの人生に立ち向かってきた代償として、心臓にトラブルを抱えている事を示すために、狭心症の薬らしきものを飲むシーンが追加されている。これは映画終盤の伏線にもなっている。この段落に以下の一文が出てくる。
[原] He … stared at the grass stains on his boots and khaki pants.
[私] (老人は)長靴とカーキ色のズボンについた草のしみを見つめた。
メリン神父は「カーキ色のズボン」を身につけている点に注意しよう。このプロローグではメリンの名前は一箇所も登場しない。絶えずthe old manやFatherとかthe man in khakiと表現される。特に多いのがthe man in khakiだ。そして映画のメリン神父は軍服のようなくすんだ茶色のズボンに、枯れ草色のシャツを合わせている。普通に考えるとシャツの方が「カーキ色」のようにも見える。しかし、以前に調べた事があるのだが、khaki(カーキ色)というのは非常に奥が深く、極めて曖昧な色なのだ。khakiの語源は"dust-colored cloth"であって、どうやら色そのものではなく布の状態を示していた。そういう布をイギリス軍が軍服に採用したことから、軍服はカーキ色と呼ばれるようになった。時代が移り変わると、米国ではolive green(オリーブの実のような暗緑色)をkhakiと呼ぶようになり、日本でもどちらかというと枯れ草色の方がカーキ色だと思っている節がある。辞書もkhakiの曖昧さを反映している。
khaki
(ODE)a brownish-yelllow colour
(OALD)a dull greenish or yellowish brown colour
(RH大英和)カーキ色、くすんだ黄褐色
カーキ色
(広辞苑)黄色に淡い茶色のまじった色。枯草色。
要するに映画のメリン神父は「上下ともに色違いのカーキ色の服を着ている」事になる。
[原文]( プロローグP.4) Someone wheezed from within the chaykhana: the withered proprietor shuffling toward him, kicking up dust in Russian-made shoes that he wore like slippers, groaning backs pressed under his heels. The dark of his shadow slipped over the table.
[私訳] チャイハナの奥からぜいぜいと息を切らす声が聞こえた。皺だらけの主人が老人の元に足を引きずりながら近づき、スリッパのように履いたロシア製の靴で埃を巻き上げると、かかとで押しつぶされた靴底がミシミシと音を立てた。主人の影がそっとテーブルを覆った。
この英文でコロン以下の構文がよく分からない。コロンの後には不完全な文が列挙されている可能性があるので、shuffling〜、kicking〜、groaning〜の3つの分詞構文ではないかと考えるところだ。ところが、前の2つはthe withered proprietor(皺だらけの主人)なのは明らかだが、残りのgroaningの主語と考えても意味が通らない。groanは「(人が)うめく」「(物が)ミシミシいう」という自動詞か、あるいは「(不平・不満)を言う」「(人)に不満を言う」という他動詞になるが、backs(靴底)があるので他動詞だろう。しかし「店の主人が靴底に不平を言う」のは文脈的におかしいので、別の解釈としてgroaning backsという主語ではないかと考える。これならばpressedに基づく分詞構文で「ミシミシいう靴底がかかとに押しつぶされた」という解釈になる。直訳だと因果関係が逆になってしまうので「かかとにおしつぶされて靴底がミシミシいった」ぐらいの日本語になるかと思う。ただ、正直言うとブラッティはgroanを他動詞として「皺だらけの主人が靴底をミシミシいわせた」という意味で使っているのではないかと疑っている。だからあくまでgroaningに基づく分詞構文で、pressed under his heelsはbacksを後置修飾しているだけとも思える。要するに真面目に構文解釈をするには問題のある文章なので、文法や構文を逸脱している可能性を考慮しつつ解釈していく必要がある。
[原文]( プロローグP.4) The man in khaki shook his head, staring down at the laceless, crusted shoes caked thick with debris of the pain of living. The stuff of the cosmos, he softly reflected: matter; yet somehow finally spirit. Sprit and the shoes were to him but aspects of a stuff more fundamental, a stuff that was primal and totally other.
[私訳] 「おかわりはどうかね」
カーキ色の服を着た老人は首を振り、靴紐もなく皮も固くなった靴を見下ろした。靴には生の苦しみが堆積して厚くこびりついていた。老人は、宇宙を形づくる物について静かに思い描いた。物質。しかし、やがてはどうにかして魂となっていく。自分にとっては魂も靴も変わらないが、物質にはもっと根源的な側面が含まれている。だから物質こそが、原初にして全く別の何かなのだ。
さらっと難解な思想や詩的・比喩的表現を入れてくるのも、この作品の特徴の一つだ。どうにもこうにもsprit(精神、魂)とstuff(物質、物)との二元論が分かりにくい。matter(物質)はsprit(精神、魂)になり得るが、そうはならない部分、つまりaspects of a stuff(物質の別の側面)が存在し、それはもっと根源的な物だと言っている。つまり、物質よりも精神の方が「より根源的」だと考えがちだが、物質こそが重要なのだとメリン神父は考えている。これはキリスト教的な教義なのだろうか、それともブラッティの個人的な考えなのだろうか。
[原文]( プロローグP.4) The shadow shifted. The Kurd stood waiting like an ancient debt. The old man in khaki looked up into eyes that were damply bleached as if the membrane of an eggshell had been pasted over the irises. Glaucoma. Once he could not have loved this man.
[私訳] 影が動いた。クルド人の店主はいにしえからの負債を催促するかのように待っていた。老人は店主の目を見上げたが、卵の殻についた薄い膜が虹彩を覆ってしまったかのように白濁していた。緑内障だ。老人は一度たりとも目の前の男に好意を持てなかった。
ここまでで映画との比較をすると、映画では決してチャイハナの店主が神父のテーブルにやってきたようには見えない。単なる従業員がやってきて「おかわりは?」と事務的に聞いてくる。チップの催促もしていない。対する神父も従業員に嫌悪を抱いてはいない。原作では意図的に異教徒であるクルド人を見下す、あるいは嫌悪しているかのように描いているが、そこらへんはバッサリと脚本からは除いている。神父の差別意識というよりは、長年戦ってきた”悪魔"を生み出す根源(異教徒)に対する嫌悪を象徴した素振りとも考えられる。そこらへんをフリードキンは意識的に場面として描くよりも、町を歩く神父が目にするものを僕ら観客に見せることで理解させようとしている。それはたとえば、お祈りのために床にひれ伏す民だったり、火で熱した刃を打ち鍛える刀鍛冶の表情だったりする。原文のGlaucoma(緑内障)は、チャイハナの店主から刀鍛冶へと設定が変更されている。おそらくフリードキンの事だから、たまたま現地で見つけた素人を採用したのだろう。
[原文]( プロローグP.4) He slipped out his wallet and probed for a coin among its tattered, crumpled tenants: a few dinars; an Iraqi driver's license; a faded plastic calendar card that was twelve years out of date. It bore an inscription on the reverse; WHAT WE GIVE TO THE POOR IS WHAT WE TAKE WITH US WHEN WE DIE. The card had been printed by the Jesuit Missions. He paid for his tea and left a tip of fifty fils on a splintered table the color of sadness.
[私訳] 老人は財布を取り出し、ぼろぼろでしわくちゃになった紙幣の間から硬貨を探した。ディナール硬貨数枚、イラクの運転免許証、12年も前の色褪せたプラスティック製のカレンダーカード。裏面には次のような銘文が記されている。「貧しき者に施せば、それは己の死とともに皆と分かち合う事になるであろう。」 このカードはイエズス会の布教活動を印刷したものだ。老人は顔に悲しみを湛えながらお茶代を払い、ささくれだったテーブルに50フィルスのチップを置いた。
財布からお茶代の硬貨をさぐる場面。tenant(借地人、賃借人)が出てくるのは理解不能。おそらくtenner(10ドル紙幣)の間違いではないか。さらに最後の文。
[原] He … left a tip of fifty fils on a splintered table the color of sadness.
[私] 老人は顔に悲しみを湛えながら…ささくれだったテーブルに50フィルスのチップを置いた。
the color of sadnessは本来なら分詞構文として現在分詞・過去分詞で始めるべきところ。あるいは省略したとしてもカンマを挿入するところだろう。まるで名詞的副詞格のように使われているので戸惑う。ちなみに、なぜ「顔に悲しみを湛え」ているのかと言えば、財布に入れたままのイエズス会のカードに記されている「貧しき者に施せば…」という聖句が、この地では正しく伝わらないというもどかしさからなのか。あるいは「皆と分かち合う」時が自分にも近づいているという絶望からなのか。おそらく両方なのだろう。
[原文]( プロローグP.5) He walked to his jeep. The gentle, rippling click of key sliding into ignition was crisp in the silence. For a moment he waited, feeling at the stillness. Clustered on the summit of a towering mound, the fractured rooftops of Erbil hovered far in the distance, poised in the clouds like a rubbled, mud-stained benediction. The leaves clutched tighter at the flesh of his back.
[私訳] 老人はジープまで歩いた。エンジンをかけようとキーを回すと、静かなさざ波のような音を立てた後、突然静寂が戻った。しばらくは、静けさの中に身を置きながら待った。イルビルの町は小高い丘の頂上にひとかたまりになっていて、多くの屋根がひび割れているのが遙か遠くに見えた。あたかも破壊されて泥にまみれた恩寵のように雲の中に浮かんでいた。例の濡れ落ち葉は老人の背中にぴったりと張り付いたままだった。
benedicition(恩寵)が唐突に出てくるので何故?と思わされる。イルビルの町は屋根も満足に補修されない貧しさに満ちているが、小高い丘にある神秘さが神の恩寵を感じさせると言いたいのだろうか。それでも、メリン神父を悩ます不吉な予感の象徴(濡れ落ち葉)は剥がれる事がないという事か。
[原文]( プロローグP.5) Something was waiting.
"Allah ma'ak chawaga."
Rotted teeth. The Kurd was grinning, waving farewell. The man in khaki groped for a warmth in the pit of his being and came up with a wave and a mustered smile. It dimmed as he looked away. He started the engine, turned in a narrow, eccentric ∪ and headed toward Mosul. The Kurd stood watching, puzzled by a heart-dropping sense of loss as the jeep gathered speed. What was it that was gone? What was it he had felt in the stranger's presence? Something like safety, he remembered; a sense of protection and deep well-being. Now it dwindled in the distance with the fast-moving jeep. He felt strangely alone.
[私訳] 何かが待っていた。
「ごきげんよう」
歯がボロボロだ。クルド人の店主はニヤリと笑い、手を振った。老人は心の奥底からなんとか親愛の情を探りだして、手を振って笑みを浮かべてみせた。しかし、老人は目をそらすとすぐにやめた。エンジンを掛け、狭い道をむりやりUターンして、モスルに向かった。店主は立ったまま見送りつづけ、ジープがスピードを上げて去っていった事にひどく落胆しているのは何故だろうと考えた。去って行ったのは一体何なんだ。異邦人の存在に一体何を感じたというのか。安心のようなものか。店主は思い出した。危害も加えてこなかったし、心から安心でいられた事を。それも、ジープがあっという間に遠くに去った事で消え失せた。店主は妙に孤独を覚えた。
神父は「一度たりとも目の前の男に好意を持てなかった。」と考えていたように、異教徒であるクルド人の心のうちを慮る余裕をもっていない。なんとか作り笑いで応対しているほど嫌悪していると言っていい。しかし、この場面ではクルド人側から神父に好意を寄せていた事が明かされている。おまけに神父が去って行った事で「孤独」や「空虚」を感じている。このようなすれ違いの皮肉を原作では描いているが、映画ではメリン神父の目線に基づく映像がすべてを一方的に物語る事で、メリンの孤独や絶望が際立つ構成に変更されている。もちろん、この場面は映画には出てこない。