すでに劇場公開前に原作(単行本)上下巻を読み終わっていた。その際の書評では、原作に対してちょっとした不満を感じていると書いた。原作の面白さについては同意できるが、「傑作」とまで言うには抵抗があったのだ。
映画が公開されると映画自体もおおむね好評で、どうせ映画を見るならば、まずは先に原作を読んでおく方がいいという感想を持つ人も続出していた。そこには「映画は面白いが、原作の方がその何倍も面白い」という意見と、「映画は公開前の予告編の時点で、原作の重要部分をネタバレしているので、本編も予告編も見ないで原作を先に読んだ方がいい」という意見とに二分されるようだった。ならば、両方とも確認したい。原作をもう一度読んで「映画より何倍も面白いのか(要するに「傑作」なのか)」。そして「映画は果たして面白いのか面白くないのか」と。
結局、原作の方は再びチャレンジするために文庫版を図書館で借りて読み直した。すると僥倖とでもいうのか、ちょうど同じ頃にアマゾン・プライムで早々と映画が視聴できるようになった(かつては映画会社ごとの暗黙のルールで半年から一年は待たされる事が多いイメージだったが、レンタルショップを経てサブスク時代に突入すると、映画好きの記憶が薄れないうちにネットで思う存分見られるようになっていた)。なので文庫版の原作を再読している最中に、映画を見ておきたいという願いも叶ってしまった。
そこで、ここから映画の話をする。映画と原作とを比べて論うのでネタバレも辞さない。もし未読・未視聴の方がいらっしゃったら、以後の感想を読まないようにご注意願います。
一人の男が人工冬眠から目覚める場面から始まる。主人公は人工冬眠による技術的トラブルなのか記憶障害を引き起こしていて、自分の名前も、今この狭い室内に置かれている状況も、一切思い出せない。もちろん、既に予告編でも宇宙での物語である事は明かされている。原作にしたところで表紙は宇宙遊泳をする宇宙飛行士をモチーフにしているので、男が宇宙船の中にいることは観客には容易に想像がつく。ただし原作では、目覚めた主人公に介護ロボットがなんども「1+1は?」と問いかけ、間違えるたびに安静のための処置を行うので、主人公はなかなか自由に動き回ることが出来ない。窓も一切ない密室なのでどこにいるかさえも分からない。てっぺんにあるハッチをあければ別室に出られると考えた主人公は、数日かけてなんとかたどり着くが、ハッチを解除するには「あなたの名前は?」という問いに答える必要がある。
このもどかしい状況を一つ一つクリアしていくところが原作の最大の魅力と言っても良いだろう。ところが映画では、介護ロボットからの「1+1は?」の問いを二度聞く事は無い。そのままロボットから逃れてベッドから落ち、筋力の回復を待つことなく、パスワードの自分の名前を思い出す事なく、上部に登り、窓から宇宙空間を見る事になる。この序盤は、原作を既に読んでいる本好きからすれば「もったいない」の一言だ。その後に幾度となく襲いかかる難題をクリアするために、主人公は超人的な能力を発揮する事なく、ストーリーの最初から最後まで失敗と成功とを繰り返しながら、まるでRPGゲームのように一歩また一歩と前に進んでいくからだ。
その意味では、原作にとって最も面白いと思われる描写をあきらめるところから、映画の脚本は構想されていると言ってよいだろう。映画は傍観者の視線で主人公に降りかかる状況を見ていく。原作のような一人称視点では見ていないので、原作どおりのストーリー構成など端から無理なのだ。映画好きの立場からこの作品を見ると非常にテンポよくドラマティックな場面に観客を誘導していると感じる。読者も観客も既に知っている事、つまり「主人公が今いるのは地球ではなく宇宙である」という事実に主人公が気づく瞬間にあっという間に立ち会う事で、観客は主人公の驚きと絶望とを一気に共有する事になるからだ。
ちょっとわき道に逸れるが、漫画『ミステリと言う勿れ』の中で、映画やドラマでは日数をかけて何かに打ち込む人物を描く時に「何故、(映像をモンタージュして)省略してしまうのだろう。本当はその中身が重要なのに」と言うような事を、主人公の整(ととのう)が言う場面があった。確かにそのとおりなのだが、それはメディアの本質をあえて棚上げした上で難癖をつけているとも言える。小説ならばそれは可能だし、そう書かないで省略してあったら手抜きだ。一方、映画の場合は2時間前後でストーリー全体を語る(描く)ために、描かねばならない事以外は映像を省略したり圧縮したりする必要に迫られる。「あきらめる事」「より重要な部分を選択する事」は、まさに映像作家の腕の見せどころとなる。
今回の作品で主人公ライランド・グレースは、かつては生物学で「生命に水素は必ずしも必須ではない」と自信満々に自説を展開し、学会の錚々たる重鎮らをこけおろし、挙げ句の果てに学会全体の不興を買い、アカデミックな世界から追われ、いまや小学校の理科(科学)の教師に甘んじている。そういった経歴の持ち主が、人類存亡の危機に立ち向かうプロジェクト「ヘイル・メアリー」(一か八かの計画)に関わる事になった経緯を詳しく描写し、失われた記憶を取り戻すうえで「計画の一端を担う一兵卒にすぎない自分が、何故宇宙船の乗員3名のうちの1名になったのか」という最大の謎を明らかにする事が原作の主眼であると思っている。これらを解き明かしていく過程で、ライランドはホームズのように高度な知性で瞬時に物事を解き明かしていくのではなく、ワトソンのように客観的な視線で物事を捉え、ひたすらスモールステップを繰り返し、トライアンドエラーにより答にたどり着く。これは言わばエンジニアの資質と言っていい。
だからこそ、一つのエピソードを深掘りし、無数の実験や計算をして答を導出するライランドの姿を描くために、著者は文字数を費やす事を厭わない。しかし、そのこだわりを捨てる事ができないが故に、物語の終盤になって情緒的に心が揺さぶられる場面が増えてきても、原作は次の難関を飛び越えるために試行錯誤するライランドを描く手綱を緩めることはない。そのせいで、僕のような感情移入や思い入れの激しい読者は置き去りにされる。涙を誘う場面で心ゆくまで無く事ができないのだ。その点が読後に「傑作」という感想を持てなかった理由なのかもしれない。
原作の障害となる部分を乗り越えるために、映画ではエピソードの絞り込み、映像の省略・圧縮などとともに、様々なストーリー上の改変を行っている。例えば、地球外生命であるロッキーとの出会いでは、会話を円滑に成立させるために音声情報から音声翻訳までが可能になるようにしている。原作ではまだWindows97搭載のPCしか出てこないような時代なのに、現在のレベルのAIがたちどころに音声翻訳やボイス生成を行い、ロッキーの見た目などアバターの一つに過ぎないかのように描かれる。原作では見た目は蜘蛛に近く、住む環境も人間の環境と比べると高温・多湿で、空気にはアンモニアが過剰に含まれ、なにより言語は人類の言語とはまったく異なり、音をフーリエ変換で音声スペクトラムに変換しないと理解できない。原作ですら実験や演算による分析にご都合主義を持ち込まざるを得ない。まして2時間の映画では、さらにご都合主義を上塗りしてハリウッド映画が得意とするヒーロー物のテンプレートに落とし込んでいく。これもまた、致し方ない。
これ以外にも映画では重要な改変が行われている。これらの改変の是非については検討がぜひとも必要だ。一つは「ライランドは命がけの使命を全うする宇宙飛行士ではなく、まったくの素人にすぎない」という点だ。僕がこれまで多少なりとも読んできたSFは、発表当時の社会情勢を反映して「超管理社会」「超全体主義」「科学の進展に伴い人間性を失った人類」「人類対AI」「人類対知的生命体(神を含む)」などが大きなテーマだった。どれもこれもネガティブな世界観で満たされており、読む者を憂鬱にさせる内容が多い。それが苦手だった。かといって、脳天気なヒーロー物のスペースサーガを見たいわけでもなかった。その後、日本では『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』そして『機動戦士ガンダム』などのアニメが作られた。そう、少なくとも僕は宇宙を舞台にした人間ドラマが見たかったのだ。
日本では「エヴァンゲリオン」に到って「素人が、宇宙もしくは宇宙から侵略を受けた地球を守る」というテーゼを着実に展開していくが、いずれも素人でありながら特殊な能力を持って戦うという日本式のドラマティックなヒーロー像を推し進めた結果だと言える。本作のように、本当に素人でありながら人類を救うという使命を託されるというのは、非常に興味深い設定に思われる。映画ではライランドは「ヘタレ」な人間として描かれる。どうせミッションが失敗すれば人類はすべて死滅するのだから、同じ死ぬならば「使命を全うする」事を選ぶべきではないのか。そういうロジックで、映画は「ヘタレ」な主人公を追い詰めていく。
だが、原作で描かれるように「同じ死ぬならば、信頼されている生徒たちに囲まれて一人の理科の先生として死にたい」という主人公の望みは、決してヘタレだと非難されるようなものではない。そこが悲しい。悲しいと同時に美しい。強制されて美化されるよりも、凡庸でもいいから一人の人間として人生を生きたい。それが、実はミッション成功後の彼の境遇を裏側から照らしていく。映画では表側からしか彼の心情を描いてはいない。そこが物足りない。
この「素人が強制されて使命を果たす」事を補完するために、映画は人間関係にも手を加えている。宇宙船が飛び立つ直前で起きた事故で、選抜され訓練済みの宇宙飛行士が数名亡くなった。そこで、最適な人物として選ばれたのがライランドで、そこにライランドの都合は加味されない。あくまで決定された事である。原作では、プロジェクトの最高責任者エヴァ・ストラットが無慈悲にも決断し、ライランド本人の希望を無視して強制的に人工冬眠させた後、宇宙船に乗せてしまう。そこにエヴァの心情が一切描写されないのは、僕としては不満なのだが、ライランドの心情に焦点を当てる事を著者は選択したのだと、一応は納得しておく。
一方、映画ではエヴァの苦しい胸の内が描かれ、ライランドと心を通わす場面があるし、ちょっとした打ち上げ会で歌って人間らしいところを見せる場面もある。これはラストシーンの伏線になっている。ライランドはミッションを成功させ、地球にアストロファージを殲滅するための細胞と取り扱い説明書とを送り、同時に危機に陥った友ロッキーを助けにいく事で地球に帰還しないという重要な決断に迫られる。しかし、地球に届いた細胞と対処法で速やかな対応を指示していくエヴァが、ライランドの送った映像と言葉に耳を傾けて笑顔を見せるシーンは、ハッピーエンドで映画が終わる事を予告している。彼女の笑顔が無理なく引き出せるように、無慈悲で冷酷な素振りを見せるエヴァの人間味を描いておいたのだ。
映画ではアストロファージの残量から「行ったきりで帰りのない」ミッションだったが、ロッキーの宇宙船に搭載された余剰のアストロファージを分けてもらって帰ることが可能になる。喜んだのもつかの間、危機に陥ったロッキーを助けに戻る事で地球には帰らないとライランドは決断する。ここは原作と同じなのだが、原作では事実上「地球に帰れなくなる」のに、映画では「地球に帰らずにロッキーの星でとりあえず暮らす」事になる点が大きく異なる。原作のポイントは、もはやミッションが成功したところで、ライランドが地球に戻る意味がないという事になる。地球との距離に加えて相対性理論の効果により、自分を信頼していた生徒たちは成人となっている。もう、ライランドが描いた穏やかな人生は取り戻せない。
ところが、映画ではロッキーは命の恩人でもある友に最適な住環境を用意し、「帰りたければ地球に帰ってもいいよ」とライランドに声をかける。ハッピーエンドを貫くため、原作の科学的根拠は無視される。原作も映画もラストは、ロッキーの故郷エリダニ40の子供たちに理科の授業を行い、科学的問いを投げかける場面で終わる。原作は決してハッピーエンドではない。エリダニ40の子供たちはライランドの慰めにはなるが、遙かに遠い異星にただ一人の地球人として生きていく寂しさは消えない。映画は多くのハリウッド映画好きを満足させるためにハッピーエンドに改編したが、少なくともこの一点に関してだけは認めがたい。絵空事ではなく、強制されて人生を奪われた人間ライランドの切なさに共感できるようなエンディングにするべきだったように思う。







