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    2026年09月01日

    プロジェクト・ヘイル・メアリー (2026年7月20日アマゾン・プライム)

    プロジェクト・ヘイル・メアリー.jpg
     すでに劇場公開前に原作(単行本)上下巻を読み終わっていた。その際の書評では、原作に対してちょっとした不満を感じていると書いた。原作の面白さについては同意できるが、「傑作」とまで言うには抵抗があったのだ。

     映画が公開されると映画自体もおおむね好評で、どうせ映画を見るならば、まずは先に原作を読んでおく方がいいという感想を持つ人も続出していた。そこには「映画は面白いが、原作の方がその何倍も面白い」という意見と、「映画は公開前の予告編の時点で、原作の重要部分をネタバレしているので、本編も予告編も見ないで原作を先に読んだ方がいい」という意見とに二分されるようだった。ならば、両方とも確認したい。原作をもう一度読んで「映画より何倍も面白いのか(要するに「傑作」なのか)」。そして「映画は果たして面白いのか面白くないのか」と。

     結局、原作の方は再びチャレンジするために文庫版を図書館で借りて読み直した。すると僥倖とでもいうのか、ちょうど同じ頃にアマゾン・プライムで早々と映画が視聴できるようになった(かつては映画会社ごとの暗黙のルールで半年から一年は待たされる事が多いイメージだったが、レンタルショップを経てサブスク時代に突入すると、映画好きの記憶が薄れないうちにネットで思う存分見られるようになっていた)。なので文庫版の原作を再読している最中に、映画を見ておきたいという願いも叶ってしまった。

     そこで、ここから映画の話をする。映画と原作とを比べて論うのでネタバレも辞さない。もし未読・未視聴の方がいらっしゃったら、以後の感想を読まないようにご注意願います。

     一人の男が人工冬眠から目覚める場面から始まる。主人公は人工冬眠による技術的トラブルなのか記憶障害を引き起こしていて、自分の名前も、今この狭い室内に置かれている状況も、一切思い出せない。もちろん、既に予告編でも宇宙での物語である事は明かされている。原作にしたところで表紙は宇宙遊泳をする宇宙飛行士をモチーフにしているので、男が宇宙船の中にいることは観客には容易に想像がつく。ただし原作では、目覚めた主人公に介護ロボットがなんども「1+1は?」と問いかけ、間違えるたびに安静のための処置を行うので、主人公はなかなか自由に動き回ることが出来ない。窓も一切ない密室なのでどこにいるかさえも分からない。てっぺんにあるハッチをあければ別室に出られると考えた主人公は、数日かけてなんとかたどり着くが、ハッチを解除するには「あなたの名前は?」という問いに答える必要がある。

     このもどかしい状況を一つ一つクリアしていくところが原作の最大の魅力と言っても良いだろう。ところが映画では、介護ロボットからの「1+1は?」の問いを二度聞く事は無い。そのままロボットから逃れてベッドから落ち、筋力の回復を待つことなく、パスワードの自分の名前を思い出す事なく、上部に登り、窓から宇宙空間を見る事になる。この序盤は、原作を既に読んでいる本好きからすれば「もったいない」の一言だ。その後に幾度となく襲いかかる難題をクリアするために、主人公は超人的な能力を発揮する事なく、ストーリーの最初から最後まで失敗と成功とを繰り返しながら、まるでRPGゲームのように一歩また一歩と前に進んでいくからだ。

     その意味では、原作にとって最も面白いと思われる描写をあきらめるところから、映画の脚本は構想されていると言ってよいだろう。映画は傍観者の視線で主人公に降りかかる状況を見ていく。原作のような一人称視点では見ていないので、原作どおりのストーリー構成など端から無理なのだ。映画好きの立場からこの作品を見ると非常にテンポよくドラマティックな場面に観客を誘導していると感じる。読者も観客も既に知っている事、つまり「主人公が今いるのは地球ではなく宇宙である」という事実に主人公が気づく瞬間にあっという間に立ち会う事で、観客は主人公の驚きと絶望とを一気に共有する事になるからだ。

     ちょっとわき道に逸れるが、漫画『ミステリと言う勿れ』の中で、映画やドラマでは日数をかけて何かに打ち込む人物を描く時に「何故、(映像をモンタージュして)省略してしまうのだろう。本当はその中身が重要なのに」と言うような事を、主人公の整(ととのう)が言う場面があった。確かにそのとおりなのだが、それはメディアの本質をあえて棚上げした上で難癖をつけているとも言える。小説ならばそれは可能だし、そう書かないで省略してあったら手抜きだ。一方、映画の場合は2時間前後でストーリー全体を語る(描く)ために、描かねばならない事以外は映像を省略したり圧縮したりする必要に迫られる。「あきらめる事」「より重要な部分を選択する事」は、まさに映像作家の腕の見せどころとなる。

     今回の作品で主人公ライランド・グレースは、かつては生物学で「生命に水素は必ずしも必須ではない」と自信満々に自説を展開し、学会の錚々たる重鎮らをこけおろし、挙げ句の果てに学会全体の不興を買い、アカデミックな世界から追われ、いまや小学校の理科(科学)の教師に甘んじている。そういった経歴の持ち主が、人類存亡の危機に立ち向かうプロジェクト「ヘイル・メアリー」(一か八かの計画)に関わる事になった経緯を詳しく描写し、失われた記憶を取り戻すうえで「計画の一端を担う一兵卒にすぎない自分が、何故宇宙船の乗員3名のうちの1名になったのか」という最大の謎を明らかにする事が原作の主眼であると思っている。これらを解き明かしていく過程で、ライランドはホームズのように高度な知性で瞬時に物事を解き明かしていくのではなく、ワトソンのように客観的な視線で物事を捉え、ひたすらスモールステップを繰り返し、トライアンドエラーにより答にたどり着く。これは言わばエンジニアの資質と言っていい。

     だからこそ、一つのエピソードを深掘りし、無数の実験や計算をして答を導出するライランドの姿を描くために、著者は文字数を費やす事を厭わない。しかし、そのこだわりを捨てる事ができないが故に、物語の終盤になって情緒的に心が揺さぶられる場面が増えてきても、原作は次の難関を飛び越えるために試行錯誤するライランドを描く手綱を緩めることはない。そのせいで、僕のような感情移入や思い入れの激しい読者は置き去りにされる。涙を誘う場面で心ゆくまで無く事ができないのだ。その点が読後に「傑作」という感想を持てなかった理由なのかもしれない。

     原作の障害となる部分を乗り越えるために、映画ではエピソードの絞り込み、映像の省略・圧縮などとともに、様々なストーリー上の改変を行っている。例えば、地球外生命であるロッキーとの出会いでは、会話を円滑に成立させるために音声情報から音声翻訳までが可能になるようにしている。原作ではまだWindows97搭載のPCしか出てこないような時代なのに、現在のレベルのAIがたちどころに音声翻訳やボイス生成を行い、ロッキーの見た目などアバターの一つに過ぎないかのように描かれる。原作では見た目は蜘蛛に近く、住む環境も人間の環境と比べると高温・多湿で、空気にはアンモニアが過剰に含まれ、なにより言語は人類の言語とはまったく異なり、音をフーリエ変換で音声スペクトラムに変換しないと理解できない。原作ですら実験や演算による分析にご都合主義を持ち込まざるを得ない。まして2時間の映画では、さらにご都合主義を上塗りしてハリウッド映画が得意とするヒーロー物のテンプレートに落とし込んでいく。これもまた、致し方ない。

     これ以外にも映画では重要な改変が行われている。これらの改変の是非については検討がぜひとも必要だ。一つは「ライランドは命がけの使命を全うする宇宙飛行士ではなく、まったくの素人にすぎない」という点だ。僕がこれまで多少なりとも読んできたSFは、発表当時の社会情勢を反映して「超管理社会」「超全体主義」「科学の進展に伴い人間性を失った人類」「人類対AI」「人類対知的生命体(神を含む)」などが大きなテーマだった。どれもこれもネガティブな世界観で満たされており、読む者を憂鬱にさせる内容が多い。それが苦手だった。かといって、脳天気なヒーロー物のスペースサーガを見たいわけでもなかった。その後、日本では『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』そして『機動戦士ガンダム』などのアニメが作られた。そう、少なくとも僕は宇宙を舞台にした人間ドラマが見たかったのだ。

     日本では「エヴァンゲリオン」に到って「素人が、宇宙もしくは宇宙から侵略を受けた地球を守る」というテーゼを着実に展開していくが、いずれも素人でありながら特殊な能力を持って戦うという日本式のドラマティックなヒーロー像を推し進めた結果だと言える。本作のように、本当に素人でありながら人類を救うという使命を託されるというのは、非常に興味深い設定に思われる。映画ではライランドは「ヘタレ」な人間として描かれる。どうせミッションが失敗すれば人類はすべて死滅するのだから、同じ死ぬならば「使命を全うする」事を選ぶべきではないのか。そういうロジックで、映画は「ヘタレ」な主人公を追い詰めていく。

     だが、原作で描かれるように「同じ死ぬならば、信頼されている生徒たちに囲まれて一人の理科の先生として死にたい」という主人公の望みは、決してヘタレだと非難されるようなものではない。そこが悲しい。悲しいと同時に美しい。強制されて美化されるよりも、凡庸でもいいから一人の人間として人生を生きたい。それが、実はミッション成功後の彼の境遇を裏側から照らしていく。映画では表側からしか彼の心情を描いてはいない。そこが物足りない。

     この「素人が強制されて使命を果たす」事を補完するために、映画は人間関係にも手を加えている。宇宙船が飛び立つ直前で起きた事故で、選抜され訓練済みの宇宙飛行士が数名亡くなった。そこで、最適な人物として選ばれたのがライランドで、そこにライランドの都合は加味されない。あくまで決定された事である。原作では、プロジェクトの最高責任者エヴァ・ストラットが無慈悲にも決断し、ライランド本人の希望を無視して強制的に人工冬眠させた後、宇宙船に乗せてしまう。そこにエヴァの心情が一切描写されないのは、僕としては不満なのだが、ライランドの心情に焦点を当てる事を著者は選択したのだと、一応は納得しておく。

     一方、映画ではエヴァの苦しい胸の内が描かれ、ライランドと心を通わす場面があるし、ちょっとした打ち上げ会で歌って人間らしいところを見せる場面もある。これはラストシーンの伏線になっている。ライランドはミッションを成功させ、地球にアストロファージを殲滅するための細胞と取り扱い説明書とを送り、同時に危機に陥った友ロッキーを助けにいく事で地球に帰還しないという重要な決断に迫られる。しかし、地球に届いた細胞と対処法で速やかな対応を指示していくエヴァが、ライランドの送った映像と言葉に耳を傾けて笑顔を見せるシーンは、ハッピーエンドで映画が終わる事を予告している。彼女の笑顔が無理なく引き出せるように、無慈悲で冷酷な素振りを見せるエヴァの人間味を描いておいたのだ。

     映画ではアストロファージの残量から「行ったきりで帰りのない」ミッションだったが、ロッキーの宇宙船に搭載された余剰のアストロファージを分けてもらって帰ることが可能になる。喜んだのもつかの間、危機に陥ったロッキーを助けに戻る事で地球には帰らないとライランドは決断する。ここは原作と同じなのだが、原作では事実上「地球に帰れなくなる」のに、映画では「地球に帰らずにロッキーの星でとりあえず暮らす」事になる点が大きく異なる。原作のポイントは、もはやミッションが成功したところで、ライランドが地球に戻る意味がないという事になる。地球との距離に加えて相対性理論の効果により、自分を信頼していた生徒たちは成人となっている。もう、ライランドが描いた穏やかな人生は取り戻せない。

     ところが、映画ではロッキーは命の恩人でもある友に最適な住環境を用意し、「帰りたければ地球に帰ってもいいよ」とライランドに声をかける。ハッピーエンドを貫くため、原作の科学的根拠は無視される。原作も映画もラストは、ロッキーの故郷エリダニ40の子供たちに理科の授業を行い、科学的問いを投げかける場面で終わる。原作は決してハッピーエンドではない。エリダニ40の子供たちはライランドの慰めにはなるが、遙かに遠い異星にただ一人の地球人として生きていく寂しさは消えない。映画は多くのハリウッド映画好きを満足させるためにハッピーエンドに改編したが、少なくともこの一点に関してだけは認めがたい。絵空事ではなく、強制されて人生を奪われた人間ライランドの切なさに共感できるようなエンディングにするべきだったように思う。
    posted by アスラン at 16:45| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 記憶の映画・ドラマを探して | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2026年07月03日

    チャックの数奇な人生−イフ・イット・ブリーズ スティーブン・キング(文藝春秋)

    チャックの数奇な人生.jpg
     僕はホラーが苦手だ。子供の頃に見てきたクリストファー・リー主演のドラキュラ映画や中川信夫監督「東海道四谷怪談」、山本薩夫監督「牡丹灯籠」などは、辛うじて怖いもの見たさに見る事ができた。そもそも、あれはホラーとは言わず恐怖映画とか怪談というジャンルだったはずだ。同じく子供の頃に読んだ水木しげる『ゲゲゲの鬼太郎』では、ドラキュラやフランケンシュタインは西洋の「妖怪」という位置づけだった。ところが70年代のオカルトブームを起点に「悪魔もの」や「サイコや狂信者による無差別殺人」が取って代わり、ついには誰1人として救われることのない「絶対的に無慈悲な恐怖」が世界を席巻するに至った。恐怖の根源が多様化し時代とともに推移していく間に、いつの間にか恐怖映画は「ホラー」という言葉に置き換わった。

     それは単純に、60年代には「テレビ漫画」と呼んで見ていたものが、のちに「アニメーション」あるいは「アニメ」という言葉に収斂していったのと同じ事だったのかもしれない。何しろ「恐怖映画=a horror movie」なのだから。現代から見ると「同じ事でしょ」という身も蓋もない話になってしまうが、呼び方が変わるだけでそれが指し示す実体が違ってくる。『エクソシスト』などはセンセーショナルな題材をリアルに描き出したホラーではあるが、その実、人間が生きて死んでいく過程で業(ごう)を意識せざるを得ないという、人間の内面を鋭くえぐったドラマが根本にあると気づいた。そうなるとホラーだからという理由だけで、果たして食わず嫌いを続けてよいものかと考えていた時期がある。というのも、映画好きを自認していながら、ホラーは対象からついつい外していたからだ。

     レンタルビデオ店の黎明期だった事もあり、遅ればせながら『ヘル・レイザー』だとか『エルム街の悪夢』『スクリーム』など比較的見やすそうなものを選んで見たような気がする。その中の一角に、スティーブン・キング原作の作品群が含まれた。ただし『キャリー』のようなショッキングな描き方をするものは好みではないので外した。僕にとってキングはゴリゴリのホラーを書く作家というイメージだったので、その中でもドラマ性が感じられるものを選択した。その当時、借りて見たのは『ダーク・ハーフ』『ペット・セメタリー』『IT/イット(テレビ版)』だった。『ダーク・ハーフ』はティモシー・ハットンが主人公を演じていた事もあり、非常に面白く見た。『IT』はテレビドラマだった事も関係しているかもしれないが、その後制作されることになった映画版ほどは恐怖に焦点があたってなく、子供の冒険心が大人になってからの悪夢に変わるという二部構成が、何とも想像力をかき立てる物語になっていた。そして『ペット・セメタリー』だ。

     『ペット・セメタリー』は、映画を見たことがキッカケになって原作も読んだ。驚いた事に映画も良かったが、原作はそれ以上に良かったのだ。人間は身近な人間の死に耐えきれず、時に愚かな事をしてしまう(つまりは一線を越えてしまう)。映画は結末を残酷なまま描いて終わる。というか『13日の金曜日』以降のホラー映画のお約束で、誰一人として報いから逃れられないラストだったが、原作はそうではない。たとえ甦った「何か」が元の人格ではないとしても、それを受け入れる事ができるのが人間なのだという感動的なシーケンスで終わる。それこそがホラーでなければ描く事のできないものなのではないか。キングから教えられたような気がした。

     そして、キングが描きフランク・ダラボンが演出で魔法をかけた『ショーシャンクの空に』を映画館で観たとき、ストーリーテラーとしてのキングの力量を十二分に知ることができた。ホラーではない「世にも奇妙な」物語が、人をどこまでも感動させる。自らの罪深さを永遠に悔いねばならない運命を背負った男と、自分だけが自分の無実を知っている男との奇妙な友情。そしてなにものにも拘束されない自由が、心の中に無限の広さで広がっている事を、この映画のラストで知る事になる。こういった映画に、こういった物語に出遭う事を僕は望んできたのだ。

     さて、いつものように前振りに力が入ってなかなか本題に入れなかったが、ようやくここから本書の感想について書くとしよう。
    (ということで、ここからならば詮索好きの既読者だけが残っているだろうと思われるので、ネタバレ気味に感想を書く。未読・未鑑賞の方は読まない事をオススメする。)

     本書には『ハリガンさんの電話』『チャックの数奇な人生』という二つの中編が含まれる。すでに後半の『チャックの…』は『サンキュー・チャック』という映画の原作になっていて、日本でも公開されている(書いた時点では公開済みかもしれない)。訳者あとがきにも書かれているが、前半の中編もすでに2022年に『ハリガン氏の電話』というタイトルでNetflixにて配信されたようだ。さすがは売れっ子のキングだが、穿って考えれば、映像化に都合がいいような分量の物語をあらかじめ準備していたのかもしれない。

     前半の『ハリガンさんの電話』は、まさに世にも奇妙な物語だ。投資で社会的な地位を築いた老人ハリガン氏は、片田舎で何もないような場所に屋敷をあつらえ、終の棲家としている。同じく、そんな片田舎で、母を亡くし父と子とでひっそりと暮らしている主人公の少年との友情めいたものが描かれている。妻亡き後に息子が世に出ていくことに腐心していた父は、ハリガン氏が愛読書の朗読役に少年を選んだ事をひそかに喜ぶ。ハリガン氏が悪書を読ませない限りは、息子が大学を出て人並みに世の中を渡っていく足しにはなるだろう。ハリガン氏にしたところで、老い先短い隠遁生活に彩りを添える程度しか息子に関心はないだろう。だが、息子の朗読の才能が気にいれば実利以上の見返りを期待できるかもしれない。そんな父の思惑をよそにして、ハリガン氏と少年の関係はスマホという文明の利器ひとつで大きく動いていく。

     普通の物語であれば、ハリガンとの出会いが少年の人生を大きく変えていくという話になるはずだ。いつだって若者はこの世界におずおずと足を踏み入れ、まもなく退場していく老人が良きにつけ悪しきにつけ若者の羅針盤になってゆく。しかし、そんなありきたりな予想を裏切るかのように、老人が少年を導くのではなく少年が思いがけずに老人の残りの人生を大きく変えていく事になる。

     宝くじを当てた少年は日頃の感謝を込めてハリガンにiPhoneをプレゼントしようとするが、老人はこれを断り、文明の利器に踊らされる人生の愚かさを少年に説く。事前に父が忠告したとおりになったと思いつつも、少年はハリガンがまだ投資行為をすべて放棄していないのならば、どんなにiPhoneが役に立つかを説明した事で、ハリガンはまさに「木乃伊取りが木乃伊」になってしまう。ハリガンにとって少年は朗読係であると同時にスマホの先生となり、少年にとってはハリガンは利器に取り込まれた実例であると同時に先行きを心配するかけがえのない人間となる。

     ハリガンが亡くなった時もかたわらにはiPhoneを使っていた形跡があり、少年はハリガンの心残りを晴らすつもりで、埋葬される棺の中にそっとiPhoneをしのばせる。そこから起きる事は「奇妙」という程度を超えて「恐怖に満ちた」出来事になる。ハリガンのスマホに電話をすると留守電の自動音声の後、電話がつながるのだ。少年は恐怖を感じながらも、生前には相談できなかったような悩みを端的に打ち明ける。要は、イジメ相手など特定の人間がいなくなればいいと。その通りの事が起きて、ますます少年はハリガンの電話に縛られるようになる。

     もちろん、数々の恐怖を形にしてきた著者の事だから、ここから一編の長篇ホラー小説に仕立て上げる事などたやすいことだろう。しかし、この中篇の狙いはそこにはない。最後まで伏線が回収される事はなく、少年はやがてハリガンの残してくれた多すぎない遺産で大学まで進学し、父が望みハリガンが慎重に計画したとおりの人生を進む事ができるまでに成長した。ハリガンの助けはもう要らない。あとは自分の脚で生きるのみだ。ハリガンのスマホからの呪縛は解消され、それと同時に「とてつもなく恐ろしい恐怖」につながる伏線は回収しない事で、主人公の青年は「限りない自由」を手に入れるのだ。

     あえて「限りない自由」と書いたのは、それを仄めかす記述があるからだ。
    …。かつては大きく思えばベッドが、いまはずいぶん小さく感じられた。部屋の向こうのケイティ・ペリーのポスターが目に入った。このポスターを貼ったころ、中学時代のぼくの目には、彼女はセックスシンボルそのものに見えていた。
     
     あの日、父さんいっしょにスプライトを飲みながらハリガンさんの〈ザ・ビッグハウス〉(それこそがハーロウの住人の呼び方だった―ハリガン邸を〈ザ・ビッグハウス〉と、まるでショーシャンク刑務所のことみたいに呼んだ)を見上げていた僕の説明は、こうだった。「人が配達してくれる手紙ってクールじゃん」
     キングのサービス精神のなせる技か、あるいはキングの頭脳に収まっているすべての登場人物は作品の垣根を越えてつながっていると考えればいいのか。いずれにしても本作は『ショーシャンクの空に』(原作『刑務所のリタ・ヘイワース』)と同じ世界観で横串されているように感じた。

     後半は表題作『チャックの数奇な人生』だ。

     こちらは『ハリガンさんの手紙』ほどには語るべき事はないような気がする。出だしこそ不可解で世紀末的な状況が描かれているが、実は作品の構成は非常にシンプルで、SFだとも言えるし、一種のファンタジーだとも言える。だが、一番しっくりくるのはやはり「世にも奇妙な物語」だろう。冒頭、この章の主人公マーティは「ありがとう、チャック!」と書かれた看板(billbard)をビルの上に見つける。最初はマーティだけの幻覚なのかと思ったがそうではない。身の周りの友人たちに聞いても同じように「ありがとう、チャック」というメッセージを目にしている。広告だと気にもとめない人もいれば、次第に度を超すくらいにあちこちのメディアで目にするようになると、さぞかし偉い立場の人を讃えたものなのだろうなとマーティだけでなく、多くの人が呆れている。

     そんな異常な出来事に、読者である僕が感じるほどには誰も動揺していないように感じられる。メッセージよりも深刻な事態が刻一刻とマーティーたちに迫ってきているからだ。巨大地震がなんども発生してカリフォルニア州の一部が「古い壁紙みたいにどんどん剥がれ」ている。この世の終わりが間近に迫っているとしか思えないのに、町の住人たちの最大の関心事はインターネットがつながるかどうかだ。何故、こうも人々は鈍感なのだろう。マーティは別れた妻の事が心配で、手遅れになる前に彼女の住まいに出かけ、文字どおり「この世界の最後の瞬間」をともに過ごす。

     こんな映画があったのではないか。アレックス・プロヤス監督の『ノウイング』がまさにそうだったような気もするが、あれは神の啓示めいた内容で今ひとつピンとこない。どちらかと言えば山本弘が書いたSF『神は沈黙せず』の方が世紀末の描き方やテーマも類似しているような気がする。ただし、本編の一章を読み終えた段階で僕の念頭に浮かんだのは「ミクロの世界とマクロの世界が無限に続いている世界観」だ。

     今でこそ物質の成り立ちは量子に行き着く。量子というミクロ的存在がマクロ的な存在(宇宙)を規定するのは、ひとえに古典的力学からゲシュタルトチェンジした量子力学によるところが大きい。しかし、かつては物質は分子へ、分子から原子へと分割され、それ以上は分割されないと考えられた。そこから、実は一つの原子はそれ自体が一つの宇宙であって、各々の内部に広大な空間を抱えているというトンデモ説が考えられた。そして僕らが生きる世界も、その中の一つに過ぎないのだと。これは到底証明できないようなトンデモ説なので、かえって人々の心を捉えて放さない。著者の着想には、この魅力的な世界観が影響を与えているように思える。

     最初の章の「不可解」は回収されることがないまま、読者は次の章に突入する。いや、第二章ではなく第二幕と書かれている。それでは冒頭の話は何?と改めて確認すると、第一幕ではなく第三幕と書かれていた。つまり、この作品は、あからさまに戯曲仕立ての「幕」を遡っているのだ。にも関わらず、第三幕ではチャックは謎の人物のままであり、第二幕では普通に主人公として登場している。だとすると第三幕で描かれる世界もマーティたちも、チャックの頭の中にしか存在しないのではないか。そんな事を考えながら読み進めていくと、第二幕のチャックは言わば働き盛りの中年を迎えた人物として描かれる。

     チャックは年老いてもいないが、もちろん若くもない。特別な人生を歩んできたのでもなければ、ありきたりで退屈な人生を耐えてきたわけでもない。ただ、学生の頃に歌とダンスに熱中した記憶と、その時培った多少の技能を失う事なく持ち続けている。似たようなおぼえは誰にでもある事だ。だが、偶然待ちかまえていた街頭のセッションに、物怖じせずに、「年甲斐も無く」と卑下もせずに加わって、偶然がもたらした一期一会を心の底から楽しむ。まるで人生の意義とはそういうものだと見透かしているかのように。これは誰にでもあるとは言えまい。

     そして第二幕の最後にチャックを待ち受けているのは、39歳にして妻と妻の兄と高校生の一人息子に看取られながら、今まさに病院のベッドで意識の無いまま、人工呼吸器を止められようとしている現実だ。「ありがとう、チャック!」 この言葉は義理の兄の言葉であり、それ以上の意味は無い。チャックの妻も息子も、そして彼知る多くの知人たちも同じ思いだろう。それが第一幕にも第三幕にもつながっている。説明はないが、それしか考えられないのだ。

     最後の「第一幕」。チャックの人生は最初から躓いている。やがて生まれてくる妹ともども両親を事故で失ったからだ。その後、彼は祖父母に育てられる事になる。この躓きゆえに社会から置き去りにされ、世界から取り残され、自分を見失う。そんな人生を送った人々の物語を思い描くことはたやすい。しかし、娘と娘の夫と、まだ生まれてもいない孫とを同時に失いつつも、残されたもう一人の孫を育てる事を選択した祖父母の悲しみは、チャックの人生よりも「躓いてはいない」と誰が言えるだろう。結局は誰もが自らの人生の主人公として生きていくしかない。自分の人生だけが躓いているなどと、考えるだけ無駄な事だ。

     さらに決定的なのは、祖父がある秘密を抱えて生きてきた事だ。祖父母の家には亡霊が見える部屋があり、開かずの間となっている。祖父はあるとき、チャックにそこで見た内容を打ち明ける。祖父はその秘密ゆえにチャックよりも大きな「つらさ」を抱えて生きている。祖母が逝き、次いで祖父が亡くなって、今度はチャックがその部屋に入って、あるものを見てしまう。本来であれば、それは絶望的につらく悲しい事に違いない。しかし、両親とまだ見ぬ妹と祖母と祖父を亡くした今、こうして祖父が準備してくれたものは、チャックにだけ残されたかけがえのない人生だ。

     「まだ持っていないもの」を手に入れる事が残された人生の意義ではない。「すでに持っているたくさんのもの」を抱きしめながら残りの人生をひたすら生きていく事。それこそが生きる事のすべてであって真実である。キングが読者に手渡そうとしているのは、そういう生き方の素晴らしさであり、美しさである。自分の見たものに驚くことなく「人生はすばらしい」と言えるチャックの生き方が、第二幕にて義理の兄からの「ありがとう、チャック!」というメッセージを生んだに違いない。第一幕、第二幕という順であればジワジワと染みてくる描写になっていたはずだが、逆順にすることで、唐突であるがチャックのダンスがどんなに美しいものであったかを読者は知る事になる。

     と同時に、第一幕から第三幕を通してわかるのは「ありがとう、チャック!」という看板や広告があちこちで増え、カリフォルニア州が次第に消えていき、やがては北斗七星まで消えていくのは、すべてがチャックの頭の中にある世界だったという事だ。マーティたちにとっては残酷な状況を皮肉ったかのような不可解なメッセージだったが、マーティの世界はチャックが生きる世界と交流する事なく、一方的に終わりを迎える。キングが『ペット・セメタリー』のエンディングで描いたように、残酷な世界でのみ垣間見る事ができる人間の美しさが、第一幕の最後の数行に圧縮されている。これはそういう物語だ。

     最後に「見てから読むか」「読んでから見るか」について私見を述べておく。原作をうまく映像化するだけでなく演出できていれば、どちらでも構わないというのが答だ。というのも、最初から3幕ものの順番を逆にした時点で、時間は経時的には流れていない事は自明である。そして映画は時として時系列を遡ったり、交互に入れ替えたり、ランダムに配置したりする事で、ドラマティックな演出効果をもたらす事がある。要するに、このキングの狙い自体が映画化を念頭においているように思えるのだ。

     まだ映画は見ていないので断定的な事は何ひとつ言えないし、言いたいとも思わないが、うまくいけばとても良い映画になりそうな予感はある。映画は説明過多でないのが僕の好みなので、伏線回収的な事をチャック自身に言わせたり独白させたりしないで、演出のみでなんとかタイトルバックまでたどり着いてほしいと思う。ラストのカットで映し出されるチャックの表情が、ポジティブにもネガティブにも見てとれるならば最高だ。どちらと受け止めるかは観客によるというのが、演出としてもちょうど良いように思う。原作ではチャックにストレートに言わせすぎている嫌いがある。それはキングの作家としての実直さの表れなのかもしれないが。
    posted by アスラン at 05:45| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2026年06月07日

    ハリガンとチャックのはざまで

     昨日、書店に行ったらスティーブン・キングの「イフ・イット・ブリーズ」シリーズの新作を見かけた。いや、違うな。今読んでる『チャックの数奇な人生』の副題「イフ・イット・ブリーズ」が付いた別の単行本が出ていることに驚いたというのが正しい。どうやら副題は副題ではなく、『イフ・イット・ブリーズ』というタイトルを冠した”中編集”だと気づいたのだ。短編集というのはよく聞くが、中編集って言葉が当てはまるのかどうか。それに米国では中編集一冊にまとまっているのかどうかすら判らない。とりあえずはシリーズ名として認識しておく。まあ、どういう意味があるのか判らないけれど。

     で、ミステリ好き(特にディクスン・カー好き)つながりの方から映画『サンキュー・チャック』を見る前に原作を読んでおいた方がいいとアドバイスをいただいたので、立川市立図書館で借りようと思ったが蔵書にない。ジリジリとしながらも毎日数回は検索をかけて入荷するのを待っていた。幸いな事にようやく先日新作が借りられるようになった。その日のうちに気づいて予約して、今手元にある。

     その間、これとは別に、今ハマっているテレビドラマ『月夜行路』の単行本を予約して順位が先頭になるのを待ちかまえていた。「何故、単行本?」と言う問いには、文庫の方は蔵書になってないからと答えておく。2023年には出版されているので、ひっそりと放置されつづけていたわけだ。ドラマの人気とともに入荷する可能性はあると思い、こちらも『チャック』同様ウォッチを続けてきた。当然と言えば当然なのだが、『チャック』が入れば『月夜行路』も動き出す可能性が高くなる。案の定、文庫が入荷して予約し、今手元にある。結果的に単行本よりも早く手に入った。その次に新作『月夜行路returns』が入り予約した。こちらも数日前に取り置き状態になっている。なので、いまやお祭り騒ぎなのだ。

     お祭りに浮かれて「読み終えずに返却」となっては本末転倒なので、営為『チャック』を読んでいる。既に「ハリガンさんの電話」は読み終えた。こちらは改めて感想を書くつもりだけれど、映画『ショーシャンクの空に』並みの、と言えばさすがに言い過ぎだが、あれと同列の感動と爽快さを与えてくれる快作だと思った。肝心の「刑務所のリタ・ヘイワース」を読んでない口で何を言うか、と言われそうだが。

     続いて、さっそく本命の中編「チャックの数奇な人生」を読み出した。だが、正直何が書かれているのか訳が分からない状態に陥った。何度も何度も冒頭の部分を読み返して、ようやくたどり着いたのが、このエッセイを書く事だった。だから、ここには作品の感想もなければ、ネタバレもない。ただ、その翻訳について、フライングだがちょっと書いておこうと思う。

     書き出しはこうだ。
    マーティ・アンダーソンがそのビルボードを見たのは、インターネットが恒久的にダウンする前日だった。
     え?どういう意味? ビルボードって見るものなのか。僕らの知っているビルボードとは、あの音楽情報紙の事だろうし、なんとなく「ビルボード・ランキング」の事ぐらいに思った。インターネットがダウンする前だったから、ネットで見かけたという事か。

     そもそもキングの文章は圧倒的に細かい描写と心理描写、皮肉な物言い、ほのめかしが鏤められていて、何を言わんとしているかすぐには判らないように書かれている。だが、辻褄だけはきちんと整っているので、そうではない部分は違和感として残りながら先に進むことになる。

     続いて、鳥や魚と同じように「あるもの」が絶滅危惧種同然になっているという話題を挟んで、マーティが学校を出る。
     マーティが学校を出た時間は遅かった。高校教師にとってもっとも好ましからざる勤務日、保護者面談の一日だったからだ。ところがふたをあけてみれば、息子のジョニーや娘のジェイニーの学習の進展(あるいは進展のなさ)について聞きたがる保護者はほとんどおらず、…
     この時点でマーティが高校教師だと確信がもてれば、また違ったのだろうが、マーティは保護者の可能性も、生徒の可能性もあった(マーティとくればマクフライだろう)。直後に「息子のジョニー」が目に入って生徒の可能性は消えた。するとマーティは保護者で、同じ学校に通う息子と娘が一人ずついる事になるのか。ところが「保護者はほとんどおらず」と出てきて、初めの解釈が躓いた事が分かった。では、どこから? この学校では男子学生はすべてジョニーという名前で、女子学生はすべてジェイニーという名前なのだろうか。近未来SFではあり得る設定かもしれない。

     そこで、はたと気づいた。ジョニーとジェイニーは日本語の「太郎と花子」なのではないか? その想像はすぐに確認がとれた。だとすると、あまりに不親切な翻訳ではないか。英語ネイティブの人、あるいはバイリンガルな日本人には当たり前でも、僕ら一般人には分からない取り合わせだ。まさか太郎と花子を使うわけにはいかないとしても、何か工夫のしようがあったんじゃないだろうか。

     引き続き、マーティが保護者の一人なのか教師なのかについては確信が持てるような記述が無く、確かな事は何ひとつないという状況のまま、マーティが帰宅しようとする場面。
    保護者面談のおかげで職場を出るのが三時ではなく五時、つまりラッシュアワーのピークになってしまい、以前なら二十分で済んでいた車での帰宅にすくなくとも一時間――あるいはもっと長く――かかりそうだった。信号機がいくつか消えていたせいもあった。
     ここもいちいち悩ましい。このエッセイを書くまでに冒頭部分だけ十分に読み込んできたので、「マーティは保護者」という可能性は捨ててもいいだろうが、では教師ならば「職場」と言うかなぁと気になった。「職員室」とか「教員室」とか書くのが普通じゃないだろうか。まあ、穿ちすぎているかもしれないが。

     それよりも辻褄が合わないところがある。面談に手間取って二時間遅れで学校を出た結果、マーティは「ラッシュアワーのまっただ中に放り込まれる」。だから一時間以上もかかりそうな状況におかれているわけだ。だったら「以前なら二十分で済んでいた」ではなくて「本当なら二十分で済むところを少なくとも一時間――あるいはもっと長く――かかりそうだった」ではないのか。「以前なら」と書くと「今なら」どれくらい時間がかかるのかが知りたくなる。そして比較すべきはこちらの方のはずだ。本当に原文に書かれた通りに訳しているのだろうか。疑わしくなってきた。

     ひょっとしたら冒頭部分ならばアメリカのAmazonでサンプル文として読めるかもしれない。予想通り、原文が見つかった。
    Thanks to the conferences, he'd left at five instead of three, at the height of rush hour, and a drive that would have taken twenty minutes in the old days would take at least an hour, probably longer because some of the traffic lights were out, as well.
     なるほど、僕の予想とはちょっと外れていたけれど、そう思ってしまった原因はわかった。原文の辻褄はちゃんと合っている。

     まず「職場」という言葉は原文にはない。ここは曖昧に「学校に足止めを食らった」ぐらいでよさそうだ。それとa driveで始まる文はwouldを使って仮定法過去完了になっている。しかもwouldによる仮定法は2回出てくるので「かかりそうだった」と文末を整えるぐらいではダメなのでないだろうか。
    (私訳) 保護者面談のおかげで、マーティは三時ではなく五時まで足止めを食らった。要するにラッシュアワーの真っ最中になるまで。たとえそうなったとしても、何年も前なら車を使って二十分で帰宅できただろうに、いまや少なく見積もっても一時間はかかるだろう。おまけに、信号機が何カ所かダメになっているから、もっとかかるかもしれない。

     そしてこの段落の最後がこう締めくくられる。
    マーティも…交差点で十分ほど足止めを食らったので、〈ミッドウエスト・トラスト〉のビルのてっぺんにあるビルボードに気づく時間はたっぷりあった。
     あっ!やっぱりか。これって電光掲示板?それとも街頭ビジョン、いや看板か? 調べるとランダムハウス英和大辞典では"bill board"の訳語として以下のように書かれている。
    bill board
    1.《特に米》(通例、屋外の大型)掲示板、広告板。
    2. 〔ラジオ〕〔テレビ〕番組紹介、ビルボード。
    ◇タイトル名
    [刊行物]Billboard 米国最大の週間音楽雑誌で、新曲のヒットチャートを掲載(1894-)。
     僕は固有名詞のBillboardしか知らなかった事になる。

     一方、国語辞典では「ビルボード」を見出しとしているのは精選版日本国語大辞典のみで、広辞苑すら立項していない。日国の語釈はこうだ。
    ビルボード
    [一].《名》(英 billborad) 屋外に建てられた広告板。
    [二]. (Billboard) アメリカの音楽週刊誌。ヒットチャートで有名。
     このことから、ビルボードというカタカナ語は確かに「屋外広告板」を意味すると分かるのだが、同時に広辞苑も明鏡も新明解も日本語として熟れた単語とは認めていないという事も分かる。ちなみにこの直後の文で、「ビルのてっぺん」にあるビルボードは電光掲示板でも街頭ビジョンでもなく、ただの広告板(看板)である事がわかる。

     と、たかが2頁足らずの冒頭からこんなことに頭を悩ましていたのだ。おかげで、読み取りづらかった状況は解消した。一度分かってしまえば、次に読む時には違和感が少なくなっていて、そのうち何に悩んでいたのかさえ分からなくなってしまうのだろう。それに越した事はない。願わくば、このあとも「足止めを食らう」事がないように。それでは読書再開! 
    posted by アスラン at 01:40| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 評論・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2026年05月23日

    遊園地ぐるぐるめ 青山美智子/田中達也(ポプラ社)

    表紙.jpg 表紙(帯付き).jpg
     この小説、青山美智子作品の中でも最も問題作と言っていいのではないだろうか。読み始めてすぐに
    「何故遊園地なのか?」
    「何故ぐるぐるめと呼ばれているのか?」
    「何故本当の名前が山中青田遊園地なのか?」
     などと次々に疑問が湧いてくるからだ。そしてそれは驚いた事に最後まで解消されない。その事に戸惑いながら読み終える作品だった。

     こうまでしてピンとこない小説は、青山作品ではかつてなかった。きっと、そこには僕の与り知らぬ背景が隠されているはずだ。例えば、連載された雑誌の編集部から与えられたテーマに沿って、連作となる短編が紡ぎ出されているのではないか。それをあらかじめ知っておかないと、十分には楽しめない作品なのではないか。そう考えると、今までも青山作品をほとんど単行本で読んできたが、書き下ろしなのか連載なのかを気にせずに読んできたのは、愛読者としては迂闊だったのかもしれない。そう思うようになった。

     そこであらためて借りてきた図書館の「抄録」を読むと、
    とある町にある「遊園地ぐるぐるめ」。訪れた6人のお客さんと、そして-。小説家の青山美智子とミニチュア写真家・見立て作家の田中達也によるコラボ連作短編小説。『ウェブアスタ』連載に2編を加え、加筆修正。
     と書かれていた。まず雑誌ではなく『ウェブアスタ』というサイトでの連載だと知った。調べてみると、児童書の出版で有名なポプラ社が運営するストーリー&エッセイマガジンが『WEB asta(ウェブ アスタ)』だそうだ。ポプラ社はすでに紙媒体の雑誌『季刊asta』を出版している。この雑誌のテーマは「子どもの本と大人の本の架け橋」で、そのウェブ版とも言うべき『ウェブアスタ』では、幅広い読者に本や読書の楽しさを伝えるような内容からなる雑誌を目指しているとの事。

    「何故遊園地なのか?」
     ハッキリとは分からないが、「何か楽しい場所を題材にした小説を連載してほしい」という運営側からの要望があったのかもしれない。とは言え、ディズニーランドやUFJなどの巨大テーマパークではなく、青山作品に出てきそうな何かしら悩みを抱えている人々が昔から幾度となく訪れてきた地元の小さな遊園地を舞台にする事で、ファンタジックな青山ワールドが紡ぎ出されるのだ。

    「何故ぐるぐるめと呼ばれているのか?」
     これは作品を読むと分かるが、このローカル遊園地を訪れた人々が自らの悩みから解き放たれるキッカケを作ってくれるのが、一風変わったピエロである事が関係している。ミッキーマウスのようにかわいげがあるキャラクターではないが、ピエロが引き連れているワゴンには様々な道具と食材が隠されていて、遭遇した人たちにポップコーンを始め、いろんなものを提供してくれる。それがオシャレでもカワイイでもない平仮名の「ぐるめ」の正体なのだろう。「この遊園地にいるあいだだけでも楽しんでほしい」という心のこもった「ぐるめ」なのだ。

     もう一つは「めぐる」という意味も隠されているような気がする。ここで「楽しんだ記憶・思い出」は、どこかの誰かに繋がっていく。青山ワールドは、まさに「めぐる」が叶えられる世界なのだ。その意図もこめて「ぐるぐるめ」と著者は思いついたのだ。これは小説中には明確に書かれていないので、僕の想像でしかないけれど。さらに言うと、この著者って誰だろう? この答は次の問いと密接に関係している。

    「何故本当の名前が山中青田遊園地なのか?」
     なんというか迂闊な事に、読んでいるときには全然気がつかなかった。非常に平凡な、いや平凡とも違うな、どこにでもある普通の地名か何かを冠にして、これっぽっちも格好つけていない事に驚いた。要するにテーマパークにつける名前としては全然輝いていないのだ。それをあえて付けた狙いは何だろう?と考えていたが、ついに最後まで明かされなかった。単に青山さんによる青山ワールドでの決め事なのかなと思ったのだが、その後青山さんへのインタビュー本を読んで、ようやく理解した。これは青山(美智子)さんと田中(達也)さんの苗字を組み合わせて作られていたのだ。

     それでいろいろな疑問が氷解した。この本は、これまで読んできた青山美智子さんの小説と変わらないと思ってきたが、実は田中達也さんとの共著なのだ(二人が著者になっているのは、この書評のタイトルを書くときに初めて気づいた)。図書館の抄録に書いてあったように、田中達也さんはミニチュア写真家であり見立て作家という肩書きをもつアーティストだ。「見立て」はひとまず置いておくとしてミニチュア写真とは何か。すでに青山さんの著作の多く(ほとんどと言っていい)の表紙が田中さんの手にかかったものだから、僕らにもすでにお馴染みだ。デザイン画でもないし、風景や人物の写真でもない。人物(人形)とアイテムを配置したミニチュアから出来ている。プラモデルでおなじみのジオラマのようでいて、田中さんのミニチュア写真には人物たちの日常や人生が透けて見えるようなドラマが感じられる。
    木曜日にはココアを_表紙.jpg 月曜日の抹茶カフェ_表紙.jpg ただいま神様当番_表紙.jpg お探し物は図書室まで_表紙.jpg 猫のお告げは樹の下で_表紙.jpg いつもの木曜日_表紙.jpg 人魚が逃げた_表紙.jpg
     こうして改めて田中さんが表紙を手がけた作品の一覧を作ってみると、出版社の垣根を越えている。よっぽど青山さんが田中さんのミニチュア写真を気に入っている事がよく分かる。本作もその一つだと僕が勘違いしたのも無理はない(と言い訳をしておく)。しかし、そうなると冒頭から検討してきた問いのすべてには、違った見方で答える事ができるような気がする。

     「何故遊園地なのか?」と言うと、本作では収録される短編一つ一つに田中さんの写真が挿入されるので、互いに持ち寄ったインスピレーションを共有しやすい舞台として遊園地が選ばれたのかもしれない。もっと言えば、田中さんから青山さんへのチャレンジの可能性だってありうる。「こういったイメージで短編を、ドラマを書けますか?」という問いかけに青山さんが答えたのではないか。

     「何故ぐるぐるめと呼ばれるのか?」については、〈遊園地×ぐるめ〉というアイディア自体、田中さんのもう一つの顔「見立て作家」から来ているのかもしれない。本書の表紙を見てわかるように、さまざまな食材やキッチン道具を使って遊園地に見立てている。あるいは〈遊園地×ぐるめ〉というお題に見立ててミニチュア写真を創り出したのかもしれない。

     どちらが正解ともいえないような不思議なコラボレーションが、この作品にはあるようだ。極めつけは本の帯だ。図書館で借りたので帯の事はまったく気にとめなかったのだが、Amazonなどで検索すると帯のかかった本の画像が見られる。そこには以下のような文言は書かれている。
    田中さんの作品を見て、小説を書きました。――青山美智子
    青山さんの小説を読んで、作品を作りました。――田中達也
     「鶏が先か、卵が先か」のように、僕ら読者を煙に巻くような惹句だが、意外とお二方の間では絶妙な分担が出来上がっているのかもしれない。

     今回のコラボによる連作短編がうまく言っているのかといえば、正直微妙なところも感じる。これまでの青山作品の中での本作の位置づけは、『リカバリー・カバヒコ』のような幸運のお守り的なキャラクターや、『お探し物は図書館まで』のように不思議な力で導いては悩みから抜けだすきっかけを作ってくれるヒーロー/ヒロイン的存在が出てくるタイプの作品かと思った。まさにピエロがそんな存在に当てはまりそうだなとおもった。だが、ピエロ自身の短編もあり、彼もまた自分の存在意義について悩んでいる。

     珍しく統一感がないなぁと僭越な事を考えていたのだが、ふと「遊園地そのものがラッキーでミラクルな場所なのでは?」と思い至った。「山中青田遊園地、通称ぐるぐるめ」こそが悩みを抱える人々にとってお守り的な存在であり、ヒロイックな存在なのだ。それを二人の著者が才能を持ち寄って生み出した作品が、本書だった。このコラボには、まだまだ伸びしろがあるような気がする。全面的に田中さんのミニチュア写真のコンセプトから青山さんが文章を書くというコラボがあってもいい。逆もまたしかり。次回作はあるのだろうか。
    posted by アスラン at 12:15| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2026年05月08日

    災厄の町[新訳版] エラリイ・クイーン(ハヤカワ文庫) (その3)

    災厄の町(新旧訳原書)_表紙.jpg
     本来なら『災厄の町』の書評に書く事ではないかもしれないが、今回、旧訳(青田勝訳)と新訳(越前敏弥訳)の比較を試みた際に、いままでは出来なかった下調べを生成AIにやってもらったので、エラリー・クイーンに関するその他の疑問についても生成AIの力を借りて、けりを付けようと思う。結論から言うと、『災厄の町』をキッカケにしてクイーンの特徴であるロジックミステリを文学(a novel)に高めようとした事が、現状に繋がったようなのだ。

     まずは、エラリー・クイーンが現在、本国アメリカでどの程度読まれているのかをCopilotに聞いてみた。Goodreadsというレビューサイトがあり、特定の本や著者をアメリカ中の読者がどう評価しているかを知るためのデータを提供してくれる。そのGoodreadsで、どの程度クイーンの読者がいるのかを調べた。比較対象としてアガサ・クリスティ、ジョン・ディクスン・カーのデータも使用して、読者数(評価点をつけた件数)、平均評価(5点満点)、分析結果をまとめたものが以下になる。
    【3作家の「平均評価」比較】(Goodreadsデータ)
    1位:アガサ・クリスティ
     ・平均評価:4.02(810万件以上の評価)
     ・代表作は 4.20〜4.27 など非常に高評価帯が多い。
    2位:ジョン・ディクスン・カー
     ・平均評価:4.06(約7万件の評価)
     ・代表作は 3.79〜3.89 程度で安定して高い。
    3位:エラリー・クイーン
     ・平均評価:3.69(約4万件の評価)
     ・代表作は 3.54〜3.88 程度で、クリスティ・カーより低め。
     何故、この3人を比較するかと言うと、いわゆる「ミステリの黄金時代」に活躍した作家だからだ(加えて、僕の好みも選定の理由に入っている)。クリスティーが1920年デビュー。カーは1930年、クイーンは1929年の一年違いのデビューだ。一目瞭然だが、圧倒的にクリスティーの読者が多く、他の二人を大きく引き離している。しかも平均評価も高い。クイーンはクリスティーの20分の1程度の読者しか獲得できていないし、カーよりも読者数が少ないし、全体的な評価も低くなっている。日本でのクイーン人気と比べると、あまりに低すぎる。

     なぜ、このような順位になるのか。Copilotの分析はこうだ。
    クリスティ:世界的知名度・読みやすさ・プロットの強さで安定して高評価。
    カー:密室トリックの評価が高く、熱心なファンが多い。
    クイーン:初期は高評価だが、中期以降で評価が割れやすい。
     それぞれに深掘りできそうな分析だが、僕なりに考えると、クリスティーはとにかく読みやすさが第一に挙げられるのではないだろうか。場所といい人といい、取りたてて特別な人は出てこない。一アマチュアからキャリアを始めたお嬢さんが知るかぎりの世間から、海外の名所めぐりなど、現代人にも時代を超えて通じるような舞台と人物と内面とを描きながらも、驚きの結末を用意している。

     対してカーは舞台作りが重要で、尋常ならぬスポットを選んでは不可能犯罪に挑んでいる。特に密室トリックは生涯を賭けて取り組んだ最重要テーマだ。魔術や呪いといったダークファンタジーを「怖いもの見たさ」で読みたがる現代人のニーズにもうまくフィットしている。読者を選ぶ作品には違いないが、エンタメ性が際立っているという点ではクイーンよりも読みやすいのか。

     そして、クイーン。アメリカでも日本同様、初期の国名シリーズなどを評価する読者は存在するようだ。ただし、「中期以降で評価が分かれる」という事は、おそらく国名シリーズのようにハッキリと演繹推理による解決をとことんまで突き詰める作品から、映画界に進出しようと恋愛要素や都会の洗練さと題材にした中期の作品、さらには文学的な昇華を図ろうとした後期の作品の評価が良くないということか。

     そこで、いわゆるアメリカの一般読者にとっての各々の代表作Top10をリストアップしてみた。ここでいう「代表作」とは、評価数(評価点を記入した読者の数)が多いもののうちで平均評価が高い作品という意味だ。簡単に言えば、よく読まれていて、かつ評価が高い作品を指す。
    【代表作Top10の比較】(Goodreadsデータ)
    アガサ・クリスティ
     And Then There Were None(そして誰もいなくなった) − 4.27 (138万件)
     Murder on the Orient Express (オリエント急行の殺人)− 4.20 (63.2万件)
     The Murder of Roger Ackroyd(アクロイド殺し) − 4.26 (28万件)
     Death on the Nile(ナイルに死す) − 4.12 (38.3万件)
     The A.B.C. Murders(ABC殺人事件) − 4.03 (19.2万件)
     The Mysterious Affair at Styles(スタイルズ荘の怪事件) − 4.00 (20万件)
     A Murder Is Announced(予告殺人)− 4.01 (8.2万件)
     4:50 from Paddington (パディントン発4時50分)− 3.97 (7.3万件)
    → トップ10平均:約 4.09

    ジョン・ディクスン・カー
     He Who Whispers(囁く影) − 3.89 (1172件)
     The Burning Court(火刑法廷 )− 3.86 (899件)
     The Hollow Man(三つの棺) − 3.79 (4514件)
     The Crooked Hinge(曲った蝶番) − 3.80 (1178件)
     Till Death Do Us Part(死が二人をわかつまで) − 3.81 (1161件)
     The Problem of the Green Capsule(緑のカプセルの謎) − 3.81 (1422件)
     Hag’s Nook(魔女の隠れ家) − 3.64 (1593件)
     The Mad Hatter Mystery(帽子収集狂事件) − 3.60 (1146件)
    → トップ10平均:約 3.80

    エラリー・クイーン
     The Adventures of Ellery Queen(エラリー・クイーンの冒険) − 3.88 (1016件)
     Cat of Many Tails(九尾の猫) − 3.86 (1148件)
     The French Powder Mystery(フランス白粉の秘密) − 3.79 (1772件)
     Calamity Town(災厄の町)― 3.74 (748件)
     The Greek Coffin Mystery(ギリシャ棺の秘密) − 3.67 (1943件)
     The Chinese Orange Mystery(チャイナ蜜柑の秘密) − 3.64 (1817件)
     The Dutch Shoe Mystery(オランダ靴の秘密) − 3.63 (1635件)
     The Egyptian Cross Mystery(エジプト十字架の秘密) − 3.75 (1507件)
     The Siamese Twin Mystery(シャム双子の秘密)− 3.64 (1505件)
     The Roman Hat Mystery(ローマ帽子の秘密)― 3.54(3649件)
    → トップ10平均:約 3.70
     クリスティーの代表作Top10に異論がある人は少ないだろう。読者それぞれに好みはあるとしても、映像化されている作品が上位に来ていて、どれも万人受けする内容だし、トリックといい驚きの結末といい、十分に満足させてくれる作品が多い。

     変えてカーは多作ゆえにコアなファンにとっても代表作が割れる作家なので、この結果に納得できない人も多いだろう。ただ、Copilotの分析では「密室トリックの評価が高い」「コアなファンからの支持が強い」という、まさにカーらしさを評価する読者が現在も少なくないようだ。

     クイーンのTop10(実は評価数が1000以上の作品に限定しているのでTop9だ)を見る限り、日本の読者とは違った傾向があることがわかる。
    @第一短編集『エラリー・クイーンの冒険』の評価がかなり高い。
    A『災厄の町』以降の1940代後半に書かれた『九尾の猫』の評価がかなり高い。
    B初期の国名シリーズはいずれも安定して評価が高い。
    Cドルリイ・レーン悲劇四部作が一つもランキングされていない。
     この結果には、アメリカ独自の文化や民族としての気質が影響しているようだ。
    @短編集の評価がかなり高い
     アメリカでは長編作家とは別に短編作家を評価する風土がある。O・ヘンリーなどはその代表だろう。『冒険』は初期の国名シリーズのような長編よりも“読みやすさ”と“完成度”が評価されたようだ。日本は逆の傾向があって、まず長編作家が評価され、次に短編作家の評価が準ずるという傾向がある。個人的には『冒険』『新冒険』の完成度は高いし、もっともっとこの完成度の短篇を書くべきだったんじゃないかと思っている(後の短編はショート・ショートのような軽いものが増えてくる)。

    A『九尾の猫』の評価がかなり高い
     アメリカの研究者の間では1940年代後半の作品は、心理や社会を描く事を重視した作品と見なされ評価が高いそうだ。一方、一般読者にとっては「都会の不安」を描く社会派ミステリとして『九尾の猫』の評価が突出しているようだ。僕も久々に新訳版(越前敏弥訳)で読み直した際に、これってその後の連続殺人事件もの、サイコものという都会ならではミステリの嚆矢となる作品ではなかったかと思った。若い頃には初期作品に溺れていたので、そこまでの評価ができなかったのだ。

    B初期の国名シリーズはいずれも評価が高い
     これはまったくその通りで、日本でも変わりはない。ただ、「(国名シリーズは)どれもこれも良い」という事は翻って「これが1番」というような代表作を見つけにくいという事でもある、と数十年前から言われ続けてきた。日本では『エジプト十字架』『ギリシャ棺』などが緻密なロジックで評価が高いが、アメリカでは『フランス白粉』が筆頭で『チャイナ蜜柑』『シャム双子』なども入っていて、日本とは傾向の違いがある。ちなみに『フランス白粉』は僕のお気に入りなので異論はない。

    Cドルリイ・レーン四部作がランキングされていない
     これは、分類上バーナビー・ロスという仮名がアメリカではいまだ生きているからのようだ。ドルリイ・レーン悲劇四部作の著者は「バーナビー・ロス(仮名)とエラリー・クイーン」となっている。ところが、Goodreadsのエラリー・クイーンの著作リストには『レーン最後の事件』しか含まれていない。一方、『Xの悲劇』『Yの悲劇』『Zの悲劇』はすべてバーナビー・ロスの方にリストアップされていた。これは複数の著者の並びが関係しているようだ(『最後の事件』のみEllery Queen, Barnaby Rossの順で、残りの3作はBarnaby Rossが先になっている)。これが影響しているのか、『X』『Y』『Z』はエラリー・クイーンの著作としての認知度が低く、平均評価はかなり高いにもかかわらず評価数(読者数)が1000件未満で伸びない。これは現状のクイーンの評価に少なからず悪影響を与えているように思える。

     その点、日本では覆面作家エラリー・クイーンが創り出したもう一人の覆面作家がバーナビー・ロスだと戦後には明かされて、最初からエラリー・クイーンの作品として紹介された。だから、アメリカとは違ってクイーンの代表作の上位に位置する作品となる事ができた。さらには、自らミステリ作家でありながら、海外ミステリの紹介にも尽力した乱歩や横溝がクイーンの作風や個々の作品を評価したことが、日本でクイーン作品がよく読まれる原動力となった。とりわけ『Y』の評価が海外ミステリのオールタイムベストとして君臨してきた時期が続いた。やがては新本格ミステリ作家に分類される次世代の作家たちに引き継がれていったせいで、アメリカでは「忘れられた作家」扱いなのに、日本では「いまだにロジックミステリの源流(お手本)となる作家」という位置を占めている。

     ここまでの分析だと、アメリカでは初期の作品群ばかりが評価され、いわゆる中期・後期の心理・社会派ミステリ路線は『災厄の町』『九尾の猫』を除くと評価されていないように見える。だが、アメリカのクイーン研究家・批評家の間では、心理・社会派(1940年代後半〜)の評価が非常に高く、先に挙げた『災厄』『九尾』の他に『十日間の不思議』の評価が高い。

     ここまではCopilotが提供するデータと分析に沿って考えてきたが、ここからはGoodreadsのデータを直接加工する事にした。どうやら、最新の数値をうまく抽出できていないので、条件を変える度に抽出できるはずの作品が抜けたり、ある作品の平均評価や評価数が変わったりするからだ。生成AIはここ数年で急速に精度が向上し、あからさまなハルシネーションは起きなくなったと実感しているが、精緻な数値分析を行う際には注意を要するのは変わらない。そこで、以下の2点に基づくランキングを作成する。
    ・平均評価(average rating)と評価数(ratings)の両方を考慮するために荷重平均を用いる。
    ・悲劇四部作をすべてエラリー・クイーンの著作リストに含める。

    【荷重平均に基づくエラリー・クイーンの著作ランキング(Goodreads 2026/5/4調べ)】
    順位         タイトル             平均評価 評価数 荷重平均
    1 The Adventures of Ellery Queen(エラリークイーンの冒険)   3.88 1034 3.75
    2 The Tragedy of Y(Yの悲劇)                 4.01 494 3.75
    3 Cat of Many Tails(九尾の猫)                 3.85 1172 3.74
    4 The French Powder Mystery(フランス白粉の秘密)       3.79 1806 3.73
    5 The Tragedy of X(Xの悲劇)                 3.87 680 3.72
    6 The Egyptian Cross Mystery(エジプト十字架の秘密)       3.75 1537 3.70
    7 The New Adventures of Ellery Queen(エラリークイーンの新冒険) 3.91 350 3.70
    8 Inspector Queen's Own Case(クイーン警視自身の事件)    3.90 322 3.69
    9 The Spanish Cape Mystery(スペイン岬の秘密)        3.75 988 3.69
    10 Calendar of Crime: Stories(犯罪カレンダー)         3.89 299 3.68
    11 The Dragon's Teeth(ドラゴンの歯)             3.80 523 3.68
    12 Ten Days' Wonder(十日間の不思議)             3.77 609 3.68
    13 Queens Full(クイーンのフルハウス)             3.88 272 3.68
    14 Halfway House(中途の家)                  3.77 555 3.67
    15 Calamity Town(災厄の町)                  3.74 775 3.67
    16 The Finishing Stroke(最後の一撃)              3.76 576 3.67
    17 Drury Lane's Last Case(レーン最後の事件)          3.86 253 3.67
    18 Queen's Bureau of Investigation(クイーン検察局)      3.84 267 3.67
    19 Q.E.D. Queen's Experiments in Detection(クイーン犯罪実験室) 3.84 206 3.66
    20 A Study in Terror(恐怖の研究)                3.71 687 3.66
    21 The Greek Coffin Mystery(ギリシャ棺の秘密)         3.67 1972 3.65
    22 Double Double(ダブル・ダブル)               3.71 558 3.65
    23 The Origin of Evil(悪の起源)                 3.72 418 3.65
    24 The Murderer is a Fox(フォックス家の殺人)         3.70 485 3.65
    25 The Four of Hearts(ハートの4)               3.67 413 3.64
    26 The Chinese Orange Mystery(チャイナ蜜柑の秘密)      3.64 1858 3.63
    27 The Door Between(境界の扉―ニッポン樫鳥の秘密)      3.66 426 3.63
    28 There Was an Old Woman(靴に棲む老婆)          3.64 457 3.63
    29 The Tragedy of Z(Zの悲劇)                 3.65 226 3.63
    30 The Siamese Twin Mystery(シャム双子の秘密)        3.63 1526 3.63
    31 The Glass Village(ガラスの日)                3.64 217 3.63
    32 The Player on the Other Side(盤面の敵)           3.62 467 3.62
    33 The Dutch Shoe Mystery(オランダ靴の秘密)         3.62 1684 3.62
    34 The Fourth Side of the Triangle(三角形の第四辺)       3.60 373 3.62
    35 Face to Face(顔)                      3.58 382 3.61
    36 And on the Eighth Day(第八の日)              3.58 472 3.61
    37 A Fine and Private Place(心地よく秘密めいた場所)      3.55 316 3.60
    38 The House of Brass(真鍮の家)                3.55 371 3.60
    39 The King is Dead(帝王死す)                 3.56 642 3.60
    40 The Devil to Pay(悪魔の報酬)                3.53 389 3.60
    41 The Scarlet Letters(緋文字)                 3.51 347 3.59
    42 The Last Woman in His Life(最後の女)            3.45 347 3.58
    43 Cop Out(孤独の島)                      3.26 145 3.57
    44 Roman Hat Mystery(ローマ帽子の秘密)           3.53 3737 3.55
    45 American Gun Mystery(アメリカ銃の秘密)           3.40 646 3.53

     このランキングで、改めてアメリカの一般読者が評価するクイーン作品の傾向を見ていこう。
    (A)短編集の評価が高い
     短編集は1位『冒険』、7位『新冒険』、10位『カレンダー』、18位『検察局』、19位『実験室』の5作品が入っていて、いずれも評価が高い。特に『冒険』は1000件以上の読者がいるため、ランキングの堂々1位になっている。

    (B)ドルリイ・レーン悲劇四部作の評価は高いが、読者数が少ない。
     バーナビー・ロス(仮名)と紐づいている四部作は、見かけ上はクイーン作品として評価されていない。日本では国名シリーズと同等あるいはそれ以上に評価されているにもかかわらず、本国アメリカではいずれも読者数は1000未満だ。今回のランキングでは悲劇四部作をクイーン作品の中で評価した。すると、結局は悲劇四部作の評価は高く、2位『Yの悲劇』、5位『Xの悲劇』、17位『最後の事件』、29位『Zの悲劇』というランキングになった。『Z』よりも『最後の事件』が上位に位置するというのは、やはりシェークスピアが題材だからだろうか。

     これらは最初からエラリー・クイーンの著作として広く認知されていれば、もっと上位に上がる可能性も考えられ、長編小説では『Y』、『X』が1位、2位ということになっていたかもしれない。しかし現状ではバーナビー・ロスの著作と見なされていて、作家エラリー・クイーンの評価に繋がらないのは大変に残念な事だ。

    (C)ライツヴィル期(1942年〜1958年)の作品では、『九尾の猫』がきわめて評価が高い。ついで読者数は少ないが『十日間の不思議』『災厄の町』の評価がかなり高い
     ライツヴィルものは、12位『十日間』、15位『災厄の日』、16位『最後の一撃』、22位『ダブル・ダブル』、24位『フォックス家の殺人』、39位『帝王死す』という順になる。読者数がいずれも少ないのは一般読者にはA Novel(文学)的趣向が受け入れにくいからだろうが、エラリー・クイーンの研究者や批評家には、特に『十日間』『災厄の日』は心理や社会を描いたNovelとして評価が高い。

     ライツヴィルものではない作品は、3位『九尾の猫』、8位『クイーン警視自身の事件』、28位『靴に棲む老婆』、41位『緋文字』がある。前述したように『九尾の猫』は、一般読者受けするような題材(都会の不安、連続殺人、サイコ)をあつかっているのが高評価の理由だろうが、『クイーン警視自身』の方は何故に8位なのかは、かなり気になるところだ。

    (D)国名シリーズは読者数が1000件を超える作品が多いが、評価にはバラツキがある
     これまでは読者数が多い事だけで代表作と見なしてきたが、荷重平均値を用いると国名シリーズの中でも評価が高いもの、低いもののバラツキが意外と大きい事がわかった。4位『フランス白粉』、6位『エジプト十字架』、9位『スペイン岬』、21位『ギリシャ棺』、26位『チャイナ』、30位『シャム双子』、33位『オランダ靴』、44位『ローマ帽子』、45位『アメリカ銃』と続く。日本では『エジプト十字架』『ギリシャ棺』の評価が高いが、アメリカでは『フランス白粉』が2作を抜きん出ていて、『スペイン岬』も『ギリシャ棺』よりも断然評価が高いのは驚きだ。

     逆に『ローマ帽子』『アメリカ銃』が極端に低評価だ。『ローマ帽子』は評価数(読者数)が3000件超なだけに平均評価の悪さが際立っている。クイーンのデビュー作であり、国名シリーズの第一作なので「試しに読んでみよう」という物見高い読者が、真っ先に第一作を選んでもおかしくはない。ただし、第二作『オランダ靴』の読者数が1635件に半減しており、国名シリーズのほとんどが2000件未満である事から、第一作で見切りをつけた読者が結構いたという事だろうか。僕の個人的な意見では、『ローマ帽子』はエラリーの緻密な推理が際立つというよりは、エラリーと父クイーン警視とが連携して事件を解決したという体裁になっている。ひょっとすると、著者の一人フレデリック・ダネイが敬愛するシャーロック・ホームズとワトソンのコンビにならって、父子で事件を解決するミステリにこだわったのかもしれない。だが、エラリー自身が解決を父に委ねるようなラストは、いまだにモヤモヤする作品だ。

     以上、荷重平均に基づくランキングからは、『災厄の町』(1942年)という作品はクイーンの聖典45作中15位という上位を占め、その後は「成長した探偵エラリー」が悩みながらも自らの本分(演繹的推理による真実究明)を全うしていくという、非常に痛々しい作風へとチェンジしていくきっかけとなった作品として、今も評価されていることがわかった。また、現在の一般読者には、国名シリーズや悲劇四部作のような作風は今なお評価されている一方、中期・後期の作風は受け入れにくいという事が、評価数(読者数)や荷重平均値から分かった。

     最後に、話をCopilotの分析に戻す。
     アメリカの一般読者(Goodreadsに基づく)の評価傾向は、「読者層の違い」「レビュー文化の特徴」という2点によって説明できるとCopilotは言っている。
    【アメリカの一般読者のレビュー文化の特徴】
    ・率直な批評文化(良い点も悪い点もはっきり書く)
    ・レビュー本文を重視(星だけで判断しない)
    ・ネガティブレビューを積極的に読む(82%が悪いレビューを探す)
    ・レビュー数の多さ・新しさを重視(97%が最近のレビューを考慮)
     これは日本の一般読者にも当てはまるような気がしないでもないが、積極的に良いレビューを読み、ネガティブレビューは読みたがらないというのも日本の読者の傾向かもしれない。

     ではエラリー・クイーンの作品は、どうレビューされているか。
    【エラリー・クイーンのレビュー傾向】
    評価が低めになる理由:
    ・初期は高評価だが、中期以降は “読者を選ぶ” 作風に変化
    ・アメリカ読者は「テンポの遅さ」「心理描写の重さ」に厳しい
    ・後期作品で評価が割れ、星3〜3.7帯が多い
    ・レビュー文化が率直なため、難解さ・冗長さへの批判が目立つ
     こういった理由で結果的にクリスティーやカーと比べて読者数や平均評価が低いようだ。

     これをさらに具体的な事例(ネガティブレビューの傾向)で見ていく。
    【エラリー・クイーンのネガティブレビューの傾向】
    主な批判点
    ・「テンポが遅い」「冗長」「説明が多すぎる」
    ・「エラリーが嫌味」「上から目線」
    ・「後期の作風が変わりすぎてついていけない」
    ・「トリックが不自然」「動機が弱い」
    ・「心理描写が重い」
    特徴
    ・初期は高評価だが、中期以降で評価が割れ、
    ・星2〜3のレビューが目立つ
    ・“読者を選ぶ作家” として扱われる
     実は「テンポが遅い」という批判は国名シリーズの頃からあったように思う。『ローマ帽子』などは冒頭で殺人が1件起きたきり、その後は誰一人として死なない。クイーンの作風である”論理的な謎解き”に到達するための証拠をひとつ、またひとつと集めていく事がエラリーの役割だが、クリスティーが新たな謎や意外な事実を次々に提示し、カーが不可思議な事実、怪奇な物語を紡いでいくのに比べると、「テンポが遅い」のみならず「冗長」や「説明が多い」という批判を招くことになる。そこに『災厄の町』以後の心理的・社会的な作風が加わるので、特に後期の作風を「重い」「ついていけない」と感じる読者が増えたのだろう。

     ここに年代別の評価の違いを加味していく。
    【アメリカのZ世代(〜25歳)の読書傾向】
    傾向
    ・テンポ重視
    ・キャラクター重視
    ・SNS(BookTok)で人気作が再評価される
    ・古典への敬意はあるが、冗長さに厳しい
    3作家の評価
    ・クリスティ:高評価(読みやすい・短い・映像化で馴染みあり)
    ・カー:中間(密室は好きだが文章が重いと感じる)
    ・クイーン:低評価(テンポの遅さ・説明の多さが合わない)

    【アメリカのミレニアル世代(25〜40歳)の読書傾向】
    傾向
    ・プロットの完成度を重視
    ・古典ミステリへの理解が深い
    ・長文にも耐性がある
    3作家の評価
    ・クリスティ:安定して高評価
    ・カー:高評価(トリックの独創性を評価)
    ・クイーン:評価が分かれる(初期は高評価、後期は低め)
     これらも日米の垣根を越えて共通するところがありそうだ。昨今の越前敏弥さんによる新訳プロジェクトでは、国名シリーズに「生意気な青年エラリー」というキャラクターの輪郭をハッキリさせた翻訳を用意して日本のZ世代にアピールした。『災厄の町』以降のライツヴィル期の作品には重厚な文体を用意して、日本のミレニアル世代からシニア世代までを満足させようとしたのではないだろうか。

     そんな事を考えながら、次なるライツヴィルものを読んで、新たなライツヴィルと新たなエラリーに邂逅したいと思う。今年(2026年)出版されるという残りのライツヴィルものも視野に入れながら。(了)
    posted by アスラン at 11:20| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) |  書評(エラリー・クイーン) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2026年04月26日

    災厄の町[新訳版] エラリイ・クイーン(ハヤカワ文庫) (その2)

    災厄の町_表紙.jpg

     (その1)の結論として「新訳版(越前敏弥訳)は、本書全体の雰囲気を考慮した文体や言葉の選択をあらかじめ考えて”文学的表現”に統一したことで、結果的に旧訳(青田勝訳)よりも重厚さが数段増した。」と書いた。では、もう旧訳は役目を終えたのだろうか。

     越前さんは本書を訳すにあたって、ある人物の設定を旧訳から大きく変える決断をしている。これは青田訳が誤訳だったからではなく「英語と日本語の根本的な差異に基づくものであり、…訳者による判断が分かれることは…ときにはどうしても避けられないのです。」と訳者あとがきに書いている。そして、訳者による解釈の違いが話題となることで、新たな読者の開拓につながることもあれば、旧訳からの愛読者から批判されることもあるとは承知の上で、本書が「末永く読み継がれて」いってほしいと願っている。要するに新訳は、新たな読者の開拓と古くからの読者の再読とをうながす起爆剤としての役目を果たせばよくて、新訳か旧訳かという選択を迫るものではないというのが、越前さんの考え方だ。

     もちろん、新訳が待望されるのには「旧訳に誤訳が多い」とか「旧訳は今の時代に合わなくなった(訳文が古くさくなった)」などの理由が最もありそうな話だが、本書に限って言えば旧訳に大きなマイナス要素はない。今の読者が読みやすいかどうかと言えば、もしかすると青田訳の方に軍配があがるかもしれない。青田訳の軽さの方が「若い読者向き」かもしれないが、越前訳の重厚さは著者の意図を正しく汲み取った上で文章に反映させた結果である。新訳・旧訳のいずれを読んでもいいし、両方を読み比べてもいい。原作の良さを多くの人に味わってもらえればいいのだ。

     ただし、ちょうど一年前ぐらい(2025年3月)に出た越前敏弥著『翻訳百景ふたたび』で、エラリー・クイーンの多くの作品を翻訳するキッカケについて「翻訳作業の環境が大きく変わったこと」を越前さんは挙げている。角川文庫から『Xの悲劇』の翻訳を依頼され、すでに出版されていた四種類の旧訳(鮎川信夫、田村隆一、大久保康雄、宇野利泰四氏の翻訳の事か)を並べて「いいとこどり」すれば短時間で翻訳できるだろうと高をくくっていたが、検討を始めてすぐに「ドルリイ・レーン四部作すべてを新訳したい」と編集者に志願したそうだ。

     おそらく、四種類それぞれの解釈も文体もあまりに違いすぎるし、訳語の選択についても翻訳者それぞれの考え方や力量が反映していて差異が大きいという状況だったのではないか。ところが、今や翻訳するための下調べの環境はPCおよびネットワークの活用によって劇的に変化した。翻訳のテクニックという点ではブレが少なくなり、下調べの時間も短縮する事で訳語の精度は圧倒的に向上した。それよりも、最前線の翻訳家がやるべきことは更にその先にあると言う事を、越前さんは改めて認識したのではないだろうか。探偵ドルリイ・レーンの魅力を最大限に引き出すには四部作すべての世界観を受け止めて、統一した文体で新訳を作るべきだろうと。

     そして、それは青年エラリー・クイーンが探偵役を務める一連のシリーズについても当てはまる。国名シリーズ+『中途の家』『境界の扉』では、若き日のエラリーの活躍を描き、『災厄の町』以降では三十代のエラリーを描いている。特に後半のエラリーの内面を解釈して旧訳を一手に引き受けてきたのが青田勝さんであるからには、ドルリイ・レーン四部作すべてを志願したのと同様に、ライツヴィルものを含む後期クイーン作品全体を見据えた新訳を提供すべきだという思いが越前さんにはきっとあるはずだ。その意味では青田勝さんの旧訳は、「役目を終えた」のではなく、越前さんの手際によって新訳に「発展的に解消されつつある」とも言えるのではないだろうか。

     その上で、青田さんの功績をあえて挙げるとすると、『災厄の町』の旧訳版の冒頭に地図を掲載した点だ。原作の初版が出版された当時、著者たちは従来からの路線変更となる本書が読者に受け入れてもらえるか確信が持てずにいたようだ。だから、その後も「ライツヴィルもの」を書き継ぐ事になろうとは思っていなかった。四作目の"Double, Double"で、ようやくライツヴィルの地図がついた。

     一方、日本では、ハヤカワ・ミステリ文庫での出版が原作の順序どおりではなく、二作目の『十日間の不思議』と四作目の『ダブル・ダブル』はすでに出版されていた。ただし、肝心の『ダブル・ダブル』に地図は付いていない。その後、一作目の『災厄の町』を出版するにあたって、編集部は四作目の原作に付いていた地図を一作目に合うように手直しして掲載する事を思いついた。そこらへんの事情は、旧訳版『災厄の町』の訳者あとがきに[付記]という形で、編集部からの説明がある。説明には「訳者の青田勝氏には、大変お骨折りいただいた」と書かれている。

     Littile Brown社から出版された"Double, Double"の初版はなんとかウェブ上で見つけた。ただし、本文全部が見られるわけではなく冒頭部分のプレビューのみが可能だった。それによると、どうやら地図は扉を開いた見返し(見開きの2頁)全体に印刷されていたようだ(以下、地図-01は見返し(見開き2頁)の全体図、地図-02は見返し(1頁ごと)の拡大合成図)。
    [地図(Dobule, Double)-01]
    地図(Double Double)-01.jpg
    [地図(Dobule, Double)-02]
    地図(Double Double)-02.jpg
     この地図はかなり詳細に描き込まれているが、『災厄の町』の本文には記述がない建物や通りも多い。さらには、一作目の時点と比べて、時の流れとともに入れ替わったものも含まれている。そこから必要なものだけを選り分けて『災厄の町』時点での必要最低限の情報を盛りこんだ地図を作ったのだから、かなり手間がかかった事だろう。

     新訳では旧訳の地図を流用しつつ、多少の修正を行っている。例えば旧訳版の「Iライトの旧邸宅」とか「M戦没者記念碑」「S石炭置場」、それ以外にも「郡警察署」「米軍楽隊演奏場」などは、本作時点で存在していたのか後日出来たのかが不明なものとして情報を落としている。青田さんが残してくれた地図に基づいて、越前さん(と解説の飯城勇三さん)は、二作目『フォックス家の殺人』以降も作品ごとに地図を成長させている。最終的には『ダブル・ダブル(新訳版)』で原作初版に付いた地図と合流する事になる。

     さて、ここまでが落語で言うところの「枕」だ。本題は(その1)で予告したように、著者クイーンが第一作『ローマ帽子の秘密』を発表して以来、ほぼ一貫して「A Problem in Deduction(ある推理の問題)」という副題が付されてきたのに、本作は「A Novel(ある小説)」という副題に変わった。そこにはどんな狙いがあったのかという点について考えてみたい。
    Calamity Town(扉).jpg
     訳者・越前さんは扉の表記から「A NOVEL BY ELLERY QUEEN」を副題と見なして「エラリイ・クイーンによる長篇小説」と訳した。これが何を意味するかと言えば、「エドガー・アラン・ポーが創造した探偵デュパンから、コナン・ドイルの探偵ホームズへと引き継がれた演繹的推理という手法を、自らが生んだエラリイ・クイーンという青年に引き継がせて、さらに洗練させていく事に努めてきたが、本作から方針を変えようと思う」という宣言に他ならない。もちろん、どう変えたかについては副題を見ただけではよく分からない。越前さんの訳は読者の想像に任せるかのように、あえて中立で控えめな副題にとどめてある。

     一方、解説の飯城勇三さんは副題には「文学」という意味が込められていると言う。「国名シリーズのようなパズル小説の時代は終わった」と著者が戦後に発言した事を根拠にして、著者は従来のパズル小説から文学へと舵を切ったと飯城さんは考える。具体的には「人間を描くミステリ」を指しているというのが飯城さんの結論だ(ただし、クイーン研究の第一人者らしく、「人を描く」のにクイーンならではの描き方を採用していると書いている。詳細は飯城さんの解説に書かれているので、ここでは省略する)。

     僕の考えでは、「人間を描くミステリ」という飯城さんの結論には大筋では同意するが、穿って考えると「国名シリーズでの青年エラリーのリハビリ」こそが著者の本意だったのではないかと思える。角川文庫の国名シリーズ(新訳版)では、旧訳での父親思いの好青年然としたエラリーではなく、いつも上から目線で生意気で、人を生身の人間としてではなくパズルのピースとしてしか見ていないかのような人物像を思い描いて訳文を構築している。『中途の家』あたりから人間性・社会性を問わない作品作りに著者が限界を感じていたのは確かだろう。そこから「人間を描くミステリ」という結論が出てくるのも肯けるが、それならエラリーが事件を解決するシリーズとは別に、新たな探偵による「人間を描くミステリ」を書く事も可能だったはずだ。

     ところが著者は、出版社をストークス社からリトル・ブラウン社に変えてまでもエラリーシリーズにこだわった。そこにはエラリー自身を分別ある大人へと成長させるという目的があったからに他ならない。だから、A Novelとは「エラリーが生身の人間として成長する姿を描くミステリ」だったのではないだろうか。そうであれば、当然ながらエラリーが触れるもの・見るもの・出会う人などは現実社会を反映した事物・存在でなければならない。結果的にはエラリーの目から見える社会や人間はことごとく人間くささを伴って現れる。それがライツヴィルであり、ライツヴィルの人々だ。生意気な青年が慣れ親しんだニューヨークが舞台ではない事の理由もそこにある。すでに多くの読者から好評を得ている初期作品の世界観を根こそぎ再構築するなどという事は、著者であっても許されなかった。リハビリの為には理想的な転地が必要だったのだ。

     初期の国名シリーズでは、演繹的推理を駆使したロジックの伽藍をあれほどの切れ味で明解に作りあげてきた二十代のエラリ−は、『災厄の町』では生身の人間として失敗を繰り返す。その痕跡を追うと、こんな場面が出てくる。

     町の名士であるライト家に居候する身となったエラリーは、三女のパットと親しくなり、パットの恋人カートをやきもきさせる。次女ノーラの婚約者で、三年前に突然姿を消したジムが戻ってきてからは、ジムが財産目当てで、妻となったノーラの殺害を目論んでいるという疑惑が浮上し、秘密裏に監視するという仕事をパットと共有する事になる。傍から見れば「逢い引き」ともとれるようなパットとの密会を、木陰に隠れていたカートが見ていて、パットをなじる場面だ。
    [新訳版]( 9章P.106)ばかげている、とクイーン氏は思った。論理に生きる男なら、偶然とはいえこんな事態に巻きこまれるのは避けるべきだ。
     かつての自分ならば演繹的推理に磨きをかけ、論理的に真実にたどり着こうとするはずなのに、今はパットのため、ライト家のために関係者としてかかわろうとしている。警察にも相談せずに。この独白を読んだ時点で、初期作品の愛読者たちは、エラリーに何が起きてしまったのだろうかと度肝を抜かれるに違いない(残念ながら、旧訳は、この部分の解釈を間違っている)。

    [新訳版](10章P.133)エラリイは右の手のひらでその顎を押しあげた。カーラッティの頭がのけぞる。そして、よろめいたところを、エラリイがもう一方の手で腹にパンチを食らわせた。
     カーラッティが営む酒場で酔いつぶれているジムを見つけて、パットとエラリーはジムを連れて帰ろうとする。パットと口論となったカーラッティが口汚くパットを罵るので、エラリーは冷静をよそおいながら相手を殴り倒す。前と同じくクイーンの愛読者ならば「おい、おい、エラリー、どうしちまったんだい?」と言いたくなるところだ。僕の目には、パズル小説と同時期に誕生し、最大のライバルと化していたハードボイルド小説に影響を受けているように映る。

     このように、恋愛をしたり、事件関係者に肩入れしたり、ハードボイルドの洗礼を受け入れたりと、およそエラリーらしくない内面や行動を見せる一方で、あの華々しい経歴の持ち主であると仄めかす場面をさりげなく挿入することも、著者は忘れてはいない。
    [新訳版]( 14章P.187) クイーン氏は芝居の観客よろしく自分の位置に坐したまま、見たり聞いたり考えたりしていた――ライツヴィルのデイキン署長は、ニューヨークのある警察官にそっくりだ。あの深く根づいた威厳…
     ライツヴィルという小さな田舎町のベテラン署長でありながら、自らの信念に基づいて「警察官としてやるべきことをやる」という誠実さを見せるデイキンに、エラリーは父に似た親近感を感じている。

     あるいはジムに殺人の嫌疑がかけられて裁判になると、ジムの弁護士から被告の証人となる事を求められても、絶対に拒もうとする。
    [新訳版](22章P.341)「ただ、僕が証言しても、ジムに対する疑惑を強めるだけで…(略)…そうなったら最高裁判所だろうと味方につくはずがない。僕は証言してはいけないんです」
     ライツヴィルではエラリー・スミスという偽名で滞在を続けてきたが、もし正体がばれたら絶対的な信頼を伴って被告に不利な証言として原告側から利用されると、エラリーは分かっている。

     こういった場面は、リハビリを終えたエラリーが再び主戦場であるニューヨークに戻る事を読者に仄めかしているのだ。ライツヴィルは一方でエラリーのリハビリのための転地(理想の地)であると同時に、初期の無邪気で傲慢なエラリーにとっての地獄めぐりの地でもある。そこに文学的要素を見る事もできるだろうし、あくまでエラリーを自らの分身として最後まで手放さないと決心した著者たちの決意の表れと見る事もできそうだ。

     さて、(その2)で書きたかった事は一通り書いた。ここで終わってももちろんいいのだが、著者エラリーが副題に採用した「A Novel」という選択が何をもたらしたかについて、書いておく事も無駄では無いだろうと思う。だから、もう一回分、この書評を続けようと思う。(続く)
    posted by アスラン at 10:20| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) |  書評(エラリー・クイーン) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2026年04月16日

    災厄の町[新訳版] エラリイ・クイーン(ハヤカワ文庫) (その1)

    災厄の町_表紙.jpg
     再読だ。2014年に越前敏弥訳で新たに出版された新訳版を最初に読んだときはあまり気にしなかったのだが、今回の再読ではあまりの重厚さに圧倒された。それもこれも僕自身がクイーンの作品(あるいはミステリー全般)に向き合う姿勢が変わったからだ。もちろん相変わらず国名シリーズや悲劇四部作などを偏愛する好みは変わらないが、高校生の自分は”後期クイーン作品"と呼ばれた『災厄の町』以降の作品に、正直言ってある種の幻滅を感じていた。例えば、クイーンのお約束に過ぎないかもしれないが、劇場で起きた殺人、都会の大病院で起きた殺人、スタジアムで数千、数万の観客の目の前で起きた殺人の舞台に対して、容疑者になりうる登場人物表には当初は2ダースを超える人物が記されていたのに、『十日間の不思議』にいたっては警察関係者(エラリー・クイーン本人とデイキン署長)を除けば、たったの七人しか記されない。これでは想定外の「誰が」に驚くミステリには到底なりえないし、厳密な演繹的推理に基づいて犯人以外の登場人物をすべて除外する事には到底なりえない。そんな事を高校生の僕は考えていたのだ。

     本作では『十日間の…』より登場人物表に出てくる人数は多いにしても、実質的に容疑者になりうる人物はほんの一握りにすぎない。しかし、すでに探偵は成長して分別を身につけている。劇場の売り子や案内係などの端役をすべて除外してからでないと手の内を明かさないという、若くて自信満々なインテリ青年が探偵ではない。事件の渦中となるライト家に傍観者として入り込む事で、探偵は論理的推論をもてあそぶ事から解放された。と同時に探偵は事件に介入して、傍観者であり続ける事もやめてしまった。その結果、関係者たちと同じ痛みを分かち合う事になる。

     この「痛み」を自分事として受け入れる探偵の姿を見届けることこそが"後期クイーン作品"を読む事において最も重要なポイントであると、ようやくこの歳になって分かってきた。ならば"後期クイーン作品"の読み直しこそが、クイーンの愛読者を全うする事になるのではないか。そんな風に考えながら改めて本作を読んでみると、これほどのボリュームで重いテーマを描いていた事に気づかされた。昔、青田勝さんが翻訳した旧訳に慣れ親しんだ世代なので、あの時はそれほどの重厚感を感じていなかったはずだ。いや、そもそも青田勝さんの翻訳ってどんなだったっけ?
    災厄の町(旧訳)_表紙.jpg
     今日にいたるまで青田勝という翻訳家がどんな経歴の持ち主か詮索する機会をもたなかった。日本語や英語に特別な関心を持たない高校生の自分には、翻訳家によって出来不出来が決まるだけではなく、作品の持つ雰囲気さえもが変わることに気づいていなかった。今回、青田勝さんの事を調べようとしたが、一次史料、二次史料ともに参考となるものは見当たらず。Wikipediaにあたってみてビックリした。青田さんは1927年(昭和2年)に東京帝国大学文学部英文科を卒業したのちに、東京府立第五中学校の教師になっている(当時の中学校は今の高校に相当する)。なんと我が母校の前身ではないか。

     どのような経緯があったのかは不明だが、1950年(42歳)にユニバーサル映画の字幕翻訳家に転身して1969年(67歳)までの約二十年間続けた。Wikipediaに挙げられた翻訳リストによると、1956年(54歳)にクイーンの『エジプト十字架の秘密』(早川書房)の翻訳を手がけたのが最初で、以後、映画の字幕翻訳とミステリの翻訳との二足のわらじを履き続けたらしいのは恐れ入る。1981年(79歳)に『フォックス家の殺人』を手がけたのが翻訳家としての最後の仕事のようだ。

     そう言えば創元推理文庫から長らく絶版だった『ハートの4』が出た時(1979年)、我勝ちに買い求めて読んだ記憶がある。SNSで綾辻行人さんも自分と同じ想い出があると書いていて、非常に親近感が湧いた。ということは創元推理文庫もハヤカワ・ミステリ文庫も、どちらも旧訳で読んだ最後のクイーン作品は青田さんの翻訳だったわけだ。それほど僕らの世代ではクイーン作品=青田勝訳と言っても過言ではないほどの存在だった。そして1986年(84歳)に亡くなられている。

     宇野利泰さんのように幅広いジャンル、様々な作家の作品を手がけたわけではなく、エラリー・クイーン、パトリシア・ハイスミス、フレドリック・ブラウンなどが主だった作家だった。とりわけエラリー・クイーンの作品それも後期クイーン作品をほぼ一手に引き受けている。それはもう圧倒的と言える。最近では青田勝さんと同様の存在感を示しているのが、越前敏弥さんだ。重なるところと重ならないところがあるので比較はなかなか難しいのだが、クイーンの全聖典で考えると、
    青田さん: 長篇20冊+短篇集3冊=23冊(短篇集は『クイーン検察局』『クイーンのフルハウス』『クイーン犯罪実験室』)
    越前さん: 長篇21冊      =21冊(国名シリーズは越前さん+αの共訳という形式)
     となり、まだ全冊数では青田さんがトップの翻訳者だ。

     後期クイーン作品(『災厄の町』(1942年)以降の長篇のみでカウント)で考えると
    青田さん: 長篇16冊(『靴に棲む老婆』『九尾の猫』『帝王死す』『恐怖の研究』『顔』を除く。)
    越前さん: 長篇 6冊
     となり、もう後期クイーン作品に関しては青田さんの独壇場である。ちなみに『災厄の町』以降の長篇で青田さんが翻訳を担当しなかった作品は、すでにハヤカワ・ポケット・ミステリ(HPB)で他の翻訳家による既訳が存在したものだけだ。

     出来れば越前敏弥さんには青田勝さんを超える後期クイーン作品の翻訳を期待したいところだが、ウェブ版「翻訳百景」では今年(2026年)から仕事をスローダウンさせると宣言されているので、個人的な「過大な期待」を背負わせるのは申し訳ない。あくまでライフワークにしていただけたらと願うのみだ。幸いな事に22冊目は今年出版されるという嬉しい報告もなさっている。想像するにライツヴィル物の残り『帝王死す』『最後の一撃』のいずれかではないか。『帝王死す』であれば、翌年以降の『最後の一撃』も視野に入れていると考えたくなる。『最後の一撃』であれば、後期作品の残りから最重点作品(例えば『悪の起源』『盤面の敵』『顔』『心地よく秘密めいた場所』など)を拾い上げて訳していくつもりではないかと、身勝手な想像を巡らしてしまいそうだ。

     話が横道に逸れてしまった。新訳版の本書の「重厚さ」はどこからくるのかを改めて考える。旧訳は従来の文庫サイズで386頁からなる本文であるが、手にしてみると活字がかなり小さい。若い頃はこれを平気で読み飛ばしてきたのだ。新訳はハヤカワ・ミステリ文庫が2000年から導入を進めてきたトールサイズ(縦長)に変わり、それに合わせて活字も大きくなって486頁からなる本文になった。比較すると
    旧訳: 386頁×42(文字/行)×20行 = 324,240文字
    新訳: 486頁×40(文字/行)×17行 = 330,480文字
     となる。比率的には旧訳 : 新訳 = 1: 1.019で、ほぼ同じ文字数になるが、わずかながら越前さんの新訳の方が多い。

     ただし、これは一頁全部に文字が埋まっている状態を前提に試算している。改行の位置などがどちらも原書に合わせてあれば、大きな食い違いは起きないはずだが、本書の解説で飯城勇三さんが指摘しているところでは、青田さんの底本とした原書はポケットブック版で「改行を減らしたり、長さを縮める処理がなされている」という話だ。たしかに旧訳は活字が小さいだけでなく、一頁に文字がたくさん埋まっているように感じられる。そこでこれもザックリとした勘定だが、『災厄の町』の初版(リトル・ブラウン社)を基準に考えると、ポケットブック版を基準にした旧訳で一頁あたりに改行が一つ減っていると見なして、新訳の19行に対して旧訳の18行が対応していると考える。つまり、旧訳に関しては見た目の行数20に対して、充填率19/18をかけた行数を仮想的に用いる事にする。
    旧訳: 386頁×42(文字/行)×20行×19/18(率) = 342,253文字
    新訳: 486頁×40(文字/行)×17行 = 330,480文字
     こちらの文字数で比較すると、旧訳 : 新訳 = 1: 0.966 となり、若干だが新訳の方が総文字数が少ない翻訳となっている事がわかった。

     以前に『Yの悲劇』を宇野利泰訳と越前敏弥訳とで比較した時には、圧倒的に越前訳の総文字数が少なくて「ドライビールのようにキリッとした翻訳」だと書いた事があるが、青田訳と越前訳ではそれほど大きな差が出ていない。つまり、そこに青田訳の特徴がある。Copilotに聞いてみると、以下のように二人の翻訳家の文体を分析してくれた。
    共通する大枠
     • 青田勝: 1950〜70年代のハヤカワ文体の中ではかなり読みやすい、簡潔寄りの訳。
     • 越前敏弥: 原文のニュアンス・リズムを細かく拾い、現代日本語としての自然さも両立させるタイプ。
    『災厄の町』の翻訳の比較
     • 青田訳:
      • 文は比較的短く、説明は要点を押さえてスッと流す。
      • 会話は素直な口語で、テンポ重視。
      • 小都市の空気は出ているが、「社会小説」としての重さはやや軽めに感じられる。
     • 越前訳:
      • 心理の揺れや、町の空気の“ねっとりした圧”を細かく言葉で拾う。
      • 比喩や言い回しが原文にかなり近く、陰影が濃い。
      • 「ミステリ」よりも「小説」としての読み応えが増している印象。

     そこで、実際の翻訳を比較してみる。まずは冒頭の一節。
    [第一部 第1章]
    (青田勝訳P.13)
    1 クイーン氏のアメリカ発見
     ライツヴィル駅のプラットホームに立ったエラリイ・クイーンは、荷物の海にひざまでつかりながら思った。ぼくは提督になったようだ。コロンブス提督だ。駅は赤黒いれんが造りのずんぐりした建物だ。駅舎のひさしの下に置いてある錆だらけの手押車に、すり切れた青いオーバーオールを着た小さな男の子が二人ならんで腰をかけて、二人ともリズムを合わせてガムを噛みながら足をぶらぶらさせて、ぼんやりと彼を眺めていた。駅のまわりの砂利の上には馬糞が点々と落ちている。線路の片側には小さな木造の二階建ての家や、クラッカーのたるみたいなみすぼらしい小さな店がならんでひしめき合っている――こっち側が町らしい。

    (越前敏弥訳P.13)
    1 クイーン氏、アメリカを発見する
     エラリイ・クイーン氏は、ライツヴィル駅のプラットホームで膝の高さまで手荷物に埋もれて立ちながら、こう思った。こうしていると提督になった気分だ。コロンブス提督に。
     駅は赤黒い煉瓦のずんぐりとした建物だった。軒下に置かれた錆だらけの手押し車の上で、破れた青いオーバーオールを着た小柄な少年がふたり、そろって泥だらけの両脚をぶらつかせてガムを噛み、無表情にこちらをながめていた。
     駅のまわりの砂利道には馬糞が点々と落ちていた。窮屈そうな二階建ての木造家屋や、なんの変哲もないちんまりとした店が、線路の片側に寄り集まっている――そちらが町側だ。
     なるほど、分かりやすさという点では青田訳の方が取っつきやすい。ただし、分かりやすさ・読みやすさを優先した分、エラリイが観光で訪れた大学生のバックパッカーのようにも感じられてしまう。

     冒頭の一節はその後の作品の雰囲気を左右する重要な部分だ。越前訳は、著者が『CALAMITY TOWN(災厄の町)』に「A NOVEL BY ELLERY QUEEN(エラリイ・クイーンによる長編小説)」と言う副題を付けた事の意味を考えながら、文体のトーンをどうするか考えてある。例えば明治の文豪たちの多くがたどり着いた自然主義の文体、あるいはやがて主流となっていく私小説のような内省をふまえた文体などを考慮しながら、エラリイが「アメリカの原点」にたどり着いた事の高揚感を描くと同時に、大都市ニューヨークに生まれ育った自分にとっては異国であるライツヴィルに感じる疎外感を予告するかのような不安をも表現した文章を、越前訳は作りだそうとしている。

     最後にもう一箇所。会話の部分を確認しておこう。家具つきの家を求めて不動産屋のJ・C・ペティグルーに案内されて、エラリーがジョン・F・ライト夫妻に紹介される場面だ。
    [第一部 第3章]
    (青田勝訳P.13)
    「ジョンさん、こちらはミスター・エラリイ・スミスです。家具つき貸家を捜しておいでです」とJ・Cは緊張した様子でいった。「ミスター・ライト、ミセス・ライト、ミスター・スミス」
     ジョン・Fは、やや甲高い声で、よく来なさったといい、ハーミーは腕いっぱいに手を差し出して、「ミスター・スミス、ようこそ」といったが、ミスター・スミスは彼女のきれいな青い目の中に、氷のようにキラリと光るものを見て、ここにも男性よりも女性のほうが怖いものだという実例が一つあるなと思った。
     (中略)
    「そこでわたしは」とJ・Cはもったいぶって、「すぐにお宅のお隣りにお建てになった六部屋の離れ家のことを思いだしたのですがね、ジョン――」
    「貸すなんてあたくしは不賛成ですね、ジョン」とハーミオンがいとも冷たくいってのけた。
    「ペティグルーさん、なんだって――」
    「スミスさんがどんな人かおわかりになりさえすればね」とJ・Cは急いでいった。
    ハーミーはびっくりしたらしい。暖炉のそばのひじ掛け椅子にかけていたジョン・Fが身体を乗りだした。「おや!」と、ハーミーは、「どなたですの?」ときいた。
    「スミスさんは、有名な作家のエラリイ・スミスさんです」とJ・Cがいってのけた。
    「有名な作家ですって!」ハーミーはびっくりしたらしく(略)

    (越前敏弥訳P.30)
    「ジョン、こちらはエラリイ・スミスさん。家具つきの貸し家を探しておいでです」J・Cは緊張気味に言った。「ライトご夫妻です、スミスさん。こほん」
     ジョン・Fはスミス氏に会えて非常に光栄だと高い声で告げ、ハーミーは少し離れたまま手を差し出して「はじめまして、スミスさん」と柔らかく言ったが、その愛らしい青い目に冷ややかなきらめきを見てとった”スミス"氏は、この家でも男ではなく女のほうが容赦ないと悟った。
      (中略)
    「そういうわけでして」J・Cはかしこまって言った。「以前隣にお建てになった、あの美しい六室の家を瞬時に思い浮かべましてね、ジョン――」
    「わたくしはまったく賛成しかねますわ」ハーマイオニーが冷淡きわまりない声で言い放った。「人に貸すだなんて、ジョン。考えもしませんわ、ペティグルーさ――」
    「スミスさんがどのような方かお話しすれば、もしかしたら……」J・Cはあわてて言った。
     ハーミーは驚いたようだ。暖炉のそばの袖つき椅子に腰かけていたジョン・Fは身を乗り出した。
    「まあ」ハーミーが言った。「どんなかたなの?」
    「スミスさんは」J・Cはさりげなく言った。「エラリイ・スミスという著名な作家でいらっしゃいます」
    「著名な作家ですって!」ハーミーは息を呑んだ。
     場面の状況や当事者たちの内面をどちらもきちんと把握できているので、文脈のズレといったものは二つの訳文からは感じられない。あとは、ただ日本語として読者にどう読ませるべきかという問題に対して、それぞれの翻訳の考え方にズレがある。

     青田訳は場面状況は分かりやすい。驚いたのは、文末が言いさしで終わっている文をうまく表現するために、それぞれが違うアプローチを用いている点だ。
     (原文)  'I don't at all like the idea,' said Hermione in her coolest voice,'of renting, John. I can't imagine, My Pettigrew―'
     (青田訳)「貸すなんてあたくしは不賛成ですね、ジョン」「ペティグルーさん、なんだって――」
     (越前訳)「わたくしはまったく賛成しかねますわ」「人に貸すだなんて、ジョン。考えもしませんわ、ペティグルーさ――」
     原文の言いさしが不動産屋の名前なので、越前訳はそのまま名前の言いさしに対応させているが、青田さんはそれだと伝わらないと考えて「ペティグルーさん、なんだって(私たちが賛成するとお思いになったのか)」という日本語に移し替えて括弧内を言いさしにしている。青田訳の臨機応変な対応は、字幕翻訳家としてのキャリアから来ているのだろうか。さすがだ。

     ただ、日本語として熟れた表現にするという点において青田訳には問題がある。初対面のエラリイを紹介する際に「ミスター○○」とか「ミセス△△」と日本語で会話を取り交わすとは到底思えない。さらに初対面どうしのエラリイとライト夫妻との間で「よく来なさった」という表現は敬語としては不適切だし、二者を仲介する形で不動産屋のJ・Cがライト夫妻に対して殊更に敬語を用いているのだが、「お宅のお隣りにお建てになった六部屋の離れ家」のように日本語として熟れていない表現が見てとれる(まるで早口言葉のような日本語だ)。

     そもそも英語には日本語の敬語に相当する表現がないため、会話全体を「敬語」というフィルターを通して再構成する必要があるのだが、青田訳はところどころに敬語表現を取り混ぜているだけで、抜けている部分も多い。例えば「貸すなんてあたくしは不賛成ですね」とか「スミスさんは、有名な作家のエラリイ・スミスさんです」とかも越前訳のように尊敬の表現に差し替えるべきだろう。

     以上をまとめると、越前訳が本書全体の雰囲気を考慮した文体や言葉の選択をあらかじめ考えて”文学的表現”に統一したことで、青田訳よりも「重厚さ」が数段増している事がわかった。今回、それを意識しながら、あらためてライツヴィルものを読む事ができてよかったと思う。これで次作『フォックス家の殺人』も同じような視点で読んでいく事ができるからだ。しかし、その前にまだ考えねばならない事がある。著者クイーンが副題「A NOVEL」に込めた思いについて、だ。それについては書評の(その2)で考えてみたい。(続く)
    posted by アスラン at 08:50| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) |  書評(エラリー・クイーン) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2026年03月31日

    運命の時計−デ・ラ・メア ショートセレクション(理論社)

    運命の時計表紙.jpg
     本書は、最近読んだ『英米文学のわからない言葉』の著者・金原瑞人さんが翻訳した一冊だ。『英米文学の…』は、金原さんの長年の翻訳家としての経験から、翻訳に手こずった言葉の数々を取り上げたエッセイだ。取り上げた言葉は、日本人にはなじみがなくて理解しにくいもの、日本語(外来語)と英国・米国ではまったく違うもの、あるいは英国と米国でも意味が違っているものなど、様々だ。実例の多くは、金原さん本人が翻訳した小説から採取している。その中でも、特に印象深いエピソードがある作品のリストと解説が巻末に記載されていた。

     実は金原さんの翻訳した本は一冊も読んでないようだ。なので特に面白そうなものをリストアップして読んでみようと考えて、真っ先にあがったのが本書だ。当然ながらデ・ラ・メアという作家を僕は知らなかった。Wikipediaには以下のように紹介されている。
    ウォルター・ジョン・デ・ラ・メア(Walter John De La Mare, OM CH、1873年4月25日 - 1956年6月22日)は、イギリスの小説家、詩人。優れた児童文学作家であるとともに、幻想味豊かな怪奇小説の書き手としても知られ、恐怖の対象を直接描かず、言外の意味を以て読者の恐怖感を喚起する手法、いわゆる朦朧法を用いた怪奇・幻想作品は高く評価される。
     小説家、詩人、児童文学作家、怪奇小説の書き手など、多方面への才能を開花させた作家のようだが、国語辞典や百科事典(マイペディア、ブリタニカ)ではどちらかというと「詩人にして幻想的な小説の書き手」という位置づけにとどまっている。ただ、1947年にカーネギー賞を受賞しているくらい、児童文学小説家としての評価も高いようだ。カーネギー賞が何なのかも知らなかったのだから、上っ面の理解に過ぎないが。

     ここで作家論をぶち上げたいわけではないので、これくらいにしておくが、いわゆる幻想小説(ファンタジー)にも詩にも興味がないので、これまで一度もお近づきになった事はなかったわけだ。ただ、ストーリーテリングとしての短篇を多く残しているため、日本では今回のような少年少女向けの短篇集がそれなりに翻訳されてきたようだ。

     本書は、その中から『アーモンドの木』『鼻』『どろぼう』『運命の時計』という4つの短篇を載せている。
    アーモンドの木.JPG
     『アーモンドの木』は他の三篇とくらべるとかなりの頁数からなり、どちらかと言うと「中篇寄りの短篇」と言える。何度も翻訳されてきたので評価が高い作品のようだが、とにかく取っつきにくい。なにしろ、語り手である「ぼく」の友人で「伯爵」と呼ばれる男の身の上話が、なんとも悲惨なものだったからだ。それをサラッと他人事のように語る「伯爵」という男の得体の知れなさを、はたして少年少女がすんなりと受け入れられるものだろうか。少なくとも大人の僕でも「こんな作品から始めていいのか」と思ったくらいだ。しかし金原さんも書いていたように、重苦しい話が延々と続くのだが、最後には幸せの予兆のようなものを感じさせる結末が待ち受けている。これがひょっとすると「朦朧体」という手法なのだろうか。

     O・ヘンリーのような人生の皮肉や機微を表現するでもなく、星新一のように意想外の展開で読者を驚かせようとするでもない。ただ、人生には時として自分ではどうにもならない展開が待ち受けていて、それは喜怒哀楽のような明解なものではない事が多い。その事を読者にスパイスをちょっとだけ加えた一段落の文章で最後に表現してみせるのが、デ・ラ・メアの手際なのだ。

     この短篇に出てくるヨークシャー・プディングは、『英米文学のわからない言葉』のプディングの項目で紹介されている。この短篇では「ローストビーフの下に置いてあるやつ」で大好きだと「伯爵」に言わせているが、金原さん自身は『英米文学の…』で「あってもなくてもいい。あんなものを食べるよりはローストビーフをもう一枚食べたいと日本人の誰しもが思うのではないか」と、手厳しい事を言っている。
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     続く二篇『鼻』『どろぼう』は、まさにデ・ラ・メアという非凡な作家が本領を発揮した短篇だろう。詩人であり短篇創作の妙手である彼が、出だしから主人公の人となりや暮らしぶりなどを手際よく克明に描いていく。そして、どうしたらそんな事になるのだろうと思われるような極端な展開を、これでもかこれでもかというくらい読者に見せつけてくる。僕のお気に入りは『鼻』だ。溺愛されて育った主人公が、両親の溺愛故の思い違いを真に受けて、自分の哀れな鼻を隠すために隠遁生活を二十年も続けてしまい、ようやく真実を知る事になるというお話だ。

     こうして要約してみるとバカみたいな話で、冗談にしか思えない。だが、デ・ラ・メアの手にかかると、ユーモアだとかジョークとは一線を画した、精緻で十分に説得されてしまうようなおぞましい現実としか思えなくなる。やがて訪れる絶望の日々。そこにこそ、著者のユーモアの効かせどころがある。絶望の果てに見えた「人生の意味」をそっと置き石のように僕らのために置いてくれる。著者は信じがたいほどにロマンティックな詩人なのだ。
    運命の時計.JPG
     表題作である『運命の時計』は、4篇の中でも唯一、純粋なファンタジーに属する短篇かもしれない。時計という発明は、当初から「人生」や「運命」といった、人にとって抗えないものと関連付けられてきた。運命に彩られた時計。それが老時計職人の手元にわたったときに、職人は悪戯心からなのか、彼を慕う目の前の若い男に貸し出す。その行為は結末に著者が用意した残酷で甘美な自らの運命の予兆でもあった。これが表題作なのは肯ける。
    posted by アスラン at 11:45| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2026年03月20日

    プロジェクト・ヘイル・メアリー アンディ・ウィアー(早川書房)

    単行本表紙(下).jpg 単行本表紙(上).jpg
     いよいよ映画が公開される。いや、この書評を書き終えるまでに公開は過ぎてるからもしれないから「公開された」になるだろう。公開に先立って、SNSでは原作を絶賛する声が相次いでいる。「ぜひとも公開前に読んでおこう。それもなるべく早めに」という意見も多く見られ、読後の投稿者に対しては、くれぐれも「ネタバレ禁止」を守るようにと警告を出している人が続出している。

     何故これほどまでに「ネタバレ禁止」が叫ばれているのか。まもなく公開される映画を見ようという映画好きからのクレームかと思えば、そうではなく、どちらかと言えば原作を読んだ人からのクレームのようだ。「こんなにも面白い小説なのにネタばらししてしまったら、これから読もうと思っている人たちの不利益になりかねない」というわけだ。ところが、話はそんなに単純なものではなく、なんと映画自体が「ネタバレ禁止」のルールを破っているのだ。いまテレビなどで放映されている予告編や、公式サイトでの惹句などを見れば重大なネタバレがあることは、原作を読んだ人には一目瞭然なのだ。

     『プロジェクト・ヘイル・メアリー』は2021年12月に単行本が、2026年1月に文庫が出版されている。それぞれに付された内容紹介は以下のようなものだった。
    [内容紹介(単行本)]
    大ヒット映画「オデッセイ」のアンディ・ウィアー最新作。映画化決定!
    地球上の全生命滅亡まで三〇年……。全人類規模のプロジェクトが始動した! 世界的ベストセラー『火星の人』の著者が、遥か遠宇宙で人類存亡を賭けた不可能ミッションに挑む宇宙飛行士を描く傑作エンターテインメント。ハリウッド映画化進行中。解説/山岸真
    [内容紹介(文庫)]
    ライアン・ゴズリング主演、2026年3月公開の映画原作!
    未知の物質によって太陽に異常が発生、氷河期に突入しつつある地球。宇宙へ飛び立ったひとりの科学教師が、人類を救うミッションに挑む! 地球上の全生命滅亡まで30年、人類の命運を賭けた一大プロジェクトに挑む男の奮闘を描く、極限のエンターテインメント!
     まずは単行本の内容紹介だが「地球上の全生命滅亡まで三十年」だという事と、人類を救うための「不可能ミッション」に宇宙飛行士が挑むという事だけで、詳細は何もあかされていない。『宇宙戦艦ヤマト』のようなストーリーを想像してもおかしくない。ミッションを遂行するのが「宇宙飛行士」というのもなんら驚くべき事ではないし、そもそも一人なのか複数なのかすら不明なのだ。

     一方、今年の1月に出版された文庫では、やや詳細を明らかにしている。人類を滅亡させる状況が太陽の異常にあること、それを解決するミッションに挑むのが宇宙飛行士ではなく、不思議なことに「ひとりの科学教師」であるという事。この本の読みどころは、「人類の命運を賭けた一大プロジェクトに挑む」のがたったの一人であり、なんと専門家ではなく単なる学校の教師だという興味深い設定にある。ただし、それ以上の詳細は決して明かさぬようにして、ネタバレを極力避けようという出版側の苦心の跡が見られる。

     ところが映画では出版社の配慮を一挙に飛び越えて、ある重要な事実をさもネタバレでもなんでもないかのように扱い、そこに本作品の主要テーマがあることを大々的に宣伝している。これでは日本中の読書好き、SF小説好きが怒りまくるのも無理はない。奇想天外なストーリー展開で、まだまだ隠されている事は多いとは言え、真っ当な読者であれば作品前半で最初に受ける衝撃が、このネタバレによって奪われてしまったのだ。僕自身は、映画公開が間近に迫って文庫が発売された事でブームに拍車がかかる直前に、単行本で本書を読んだ。今でも上下巻を通じて最大の衝撃はここだったと思う。ああ、そういう話だったのかと驚かされたのだ。今となってはつくづく昨年12月に読んでおいてよかったと思う。

     さて、ここまで書いたら、あまり書く事はない。感想を細かく書けば内容に触れざるを得ない。そうなると「ネタバレ禁止」のルールに抵触するのは必然なので、あとは「面白かった」という事ぐらいしか書けないのだ。主人公である教師(小学生か中学生か、どの学齢の教師だったかは忘れた)のざっくばらんな、いかにも米国人っぽい人物が、紆余曲折を経て人類存亡の危機に挑む唯一の人間になるまでの描き方も面白かったし、そこから如何にしてミッションをやり遂げようとするか、その悪戦苦闘の描き方も面白かった。

     著者の、あるいは翻訳の出来不出来によって、時々意味不明な言い回しが出てくるところが気になると言えば気になるが、それもご愛敬といったところか。
    (P.172) シリンダーがキラリと光るのが見えた。ゆっくりと回転しているシリンダーのたいらな両端が、ときおりタウ光を反射して光るのだ。
     ところで、"タウ光”という言葉はありだとぼくは思っている。タウ・セチが放つ光。これは”太陽光”ではない。タウ・セチは太陽ではない。だから……タウ光。
     後半の文の意味が分かるだろうか。いや、意味は誰でもわかるが、意図はわかるだろうか。タウ・セチという恒星が放つ光だから「タウ光」なのは当たり前だろう。何故主人公はわざわざ「ありだと思っている」と書かねばならないのか。もしかすると前半の「タウ光を反射する」という部分は英語の定型として「太陽光」もしくは「恒星光」にあたる英語を使うのが一般的なのだろうか。原文が分からないので何とも言えない。

     先ほど主人公は科学の教師だと書いたが、実は僕がいまひとつ本書を絶賛したいと思わない理由がそこにある。彼がいわゆる「プロジェクト・ヘイル・メアリー」に関わる事になったのも教師だったが故だし、地球からはるか遠い宇宙の星に向かうという困難なミッションをなんとか乗り切る事ができたのも、教師だった経験と知識によるものだ。それは、この作品を面白くしている核心部分である事は確かだが、同時に分かりにくくしている部分でもある。いちいち面倒なのだ。
    (P.183)「そもそも遠心力が生まれるようにするには、〈ヘイル・メアリー〉と釣り合う重量を追加しなければならない」ストラットはくちびるをすぼめた。
     (中略)
    「重量をプラスする必要はありません」とロッケンがいった。…「現在のデザインを採用するのなら、クルー・コンパートメントと燃料タンクとのあいだで真っ二つにすれば、遠心力を生むのに格好の質量比になります」
     (中略)
    「タウ・セチに着いたときには…(略)…ロッケンさんが選んだ分離地点だと、船の後方は前方の三倍程度の重さになります。うまくいくと思いますよ」
     宇宙船に何故「遠心力」が必要なのかについては直前に詳しく書かれているが、それを確保するための質量がどれくらいなのか、宇宙を航海している間に質量比はどうなるかなどを、主人公は考えている。その答は周囲の人々を驚かせるが、それは教師らしく事前に様々な可能性を検討し、実験した上で出した答なのだ。

     そしてそれを周囲の人々(生徒)に伝える時には、教師らしく生徒の学びが得られるよう配慮して、噛んで含めるように説明していく。これが僕という生徒を戸惑わせる。
    (P.???)「宇宙空間には、とても、とても、とても速い水素がある。光の速度に近いくらい速い。ずっと、ずっと、ずっと昔に星から生まれた」
     (中略)
    「…宇宙空間には水素原子がある。とても、とても、速い水素原子」
     「とても速い水素」が出てくる。はて?と思っていると「とても速い水素原子」が出てきてなるほどと思う。いや、待てよ?これって何の事?
    (P.298)「こっちはちょっと厄介だ。GCRは何の略かというと――」
    「銀河宇宙線(ギャラクティック・コズミック・レイ)」と彼女(ロッケン)がいった。「でもこれは宇宙線ではない、でしょ?」
    「そのとおり。ただの水素イオン―陽子だ。しかし、すさまじい速さで動いている。光速に近い速度だ」
    「電磁放射でもないのに、どうして宇宙線と呼ばれているの?」
    「昔は宇宙線だと考えられていた。その名残で」
     ロッケン博士を生徒にした授業で「すさまじい速さで動いている水素イオン(陽子)」が出てくる。これでようやく僕の知識が追いついた。いわゆる日本語で言われる「宇宙線」の事だ。そのほとんどが陽子であり、光速に近い速度であらゆる方向から飛んでくる。僕は「陽子」と覚えているが、つまりは原子番号1の水素から電子がとれた水素イオンの事であり、それは生徒の知識にあわせて「水素原子」とか「水素」という表現で代用される。

     こういう授業のような場面が作品全般に現れる。時には主人公の頭の中でも。それが僕をいちいち立ち止まらせる。教師としての戦略にまんまとハマってしまい、納得するまではなんどでも立ち止まるので読書を進める事ができない。きっと僕は出来は悪いが生真面目な生徒なのだろう。SF本来の想像力を駆使した理論や世界は「作品の中ではそういうものなんだ」と納得してしまえばいいのだが、授業の内容はすべて現実の事象であり理屈なのだから「分かって当然。分からないはずはない」と思ってしまう。

     しかも、映画公開前に本書を絶賛する声が跡を絶たないところをみると、自分のように立ち止まらされる人は少ないようだ。もしくは、SF小説好きの読者には、たやすく理解できることばかりなのかもしれない。やはり僕にはSF小説は向いていないのだろう。しかし、穿って考えると、著者の方に「科学一般の内容を分かりやすく書く」という点で工夫もしくは力量が足りていないとも言える。『フェルマーの最終定理』の著者サイモン・シンのように誰もが分かりやすい書き方を採り入れる事はできなかったのか。

     以上が本書に対する数少ない不満の一つなのだが、ここに厄介な事がある。この不満には再現性がないのだ。一度「学び」が訪れると、二度目には立ち止まらされる事はなくなっていく。という事は、あらためてもう一回読めという事だろうか。そうすれば本書の良さが際立ってくるかもしれない。
    posted by アスラン at 21:30| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2026年03月12日

    チョコレート・ピース 青山美智子(マガジンハウス)

    チョコレート・ピース表紙.jpg
     青山美智子さんの小説を読むようになってから、どのくらいになるだろうか。いったい僕は何をキッカケにして青山さんの小説を読むようになったのだろう。そう自分に問いかけても、デビュー作にして代表作『木曜日にはココアを』ではなかったかとしか思いつかない。そこでブログで書評を検索してみて、一番最初に読んだのが『木曜日には…』のスピンオフ作品『月曜日の抹茶カフェ』だと知れた。この小説の書評に経緯を書いておいたのだ。

     2021年の本屋大賞で第2位になった『お探し物は図書室まで』を読もうと図書館で予約をした。すでに長い待ち行列が出来ていて、その間、待っているだけでは芸がないので『月曜日の抹茶カフェ』を予約して読み出した。話の筋は非常に「ありきたり」と言ってはなんだが、誰もが(もちろん僕も)普通に抱えている、家族・友人・恋人・学校生活・仕事における悩みを題材にした物語が描かれる。生や死といった重いテーマはもちろんのこと、映画のようにドラマティックな展開はほとんどない。基本的には、誰もが一度は経験していそうな悩みを抱えた主人公が「何を悩み何に傷ついているか」を、本人の一人称話者で語らせるのが青山作品のお決まりのフォーマットであり、最大の特徴だ。

     これが毎度毎度、設定や人物、肩書きなどを変えて描かれるので、読者は語り手の独白に感情移入しやすい。「これは自分だ」「自分にも覚えがある」と思いながら読む人が多いだろう。そしてまた、見知らぬ人との何気ない出会いや、身近な人のちょっとした態度をきっかけにして、主人公はつい見失っていた大切な事に気づかされる。この気づきが明日への希望となって主人公を一歩前に進ませる事になる。ささやかではあるが本人にとってはかけがえのない一歩を描いて終わるのも、青山作品に不可欠なフォーマットだ。

     青山さんが描く優しくて柔らかな世界は、常日頃から何かに躓いては何とかやりすごしてきた人たちが一息つける憩いの場に違いない。優しくて世話好きなオーナーが営むマーブル・カフェを、止まり木にする人々を、デビュー作『木曜日にはココアを』で描いているのは、まさにそういった理由からだろう。

     もちろん欠点もある。本書も含めて、デビュー作から変わらぬお約束のフォーマットに従って作品が紡がれていくので、マンネリと取られかねない。いろいろと手を変え品を変えて本全体を貫くコンセプトに工夫を凝らしてはいるが、予定調和的に主人公には心地よい「気づき」が訪れる。そんなのご都合主義だろうという声も聞こえてきそうだ。

     僕はと言えば、昭和の頃のテレビの時代劇のように「マンネリ」のもつ力強さを知っている。マンネリこそ最強なのだ。それに飽きさせない手際が著者にはある。特に一つ一つの物語の主人公は年齢も性別も職業も違うけれど、本一冊を読み終わる頃には見事な相関図が出来上がる。その相関図を思い浮かべながら、もう一回読んでみたいという気持ちがわき上がってくる。最初は一つのエピソード、一人の主人公に惹かれたのに、最後になると、彼らの物語を紡ぎ出した世界そのものが愛おしくなってくるのだ。

     ただ、僕がいつもちょっとだけ気になるのは、話者である主人公の独白は年齢や性別や職業に依存する事なく、いつでも同じに感じられる点だ。明らかに老いを抱えた女性の口調がお婆さんじみていなかったり、十代くらいの少年・少女が主人公の口調が大人じみていたりする。つまりは、いつでも話者は著者自身なのだ。僕自身は男性なので、青山作品に登場する男性の主人公が独白する口調は、いつでもどこか優しく柔らかすぎる。欠点とまでは言わないが、毎回新しい本を読む度に、作品に没入できるようになるまでのちょっとした勾配を感じると言えばいいか。

     本書は、チョコレート・ピースという名前のとおり、箱詰めされた12個のチョコレートから一つ一つを取りだしては、それにふさわしいエピソードを描いていくという趣向だ。高校生の男女が文化祭でチョコバナナを作っては売る「チョコバナナ・コラボレーション」や、友人が新婚旅行のお土産に、定番のマカデミアナッツチョコを買ってきた「マカデミアナッツチョコ・スーベニア」、翌朝の会議に使う資料が難航している残業の夜に、外回りから帰ってきた同期の男性と何気ない会話をする「キットカット・オーバータイム」などなど。チョコレートの香りと甘さが登場人物たちにまとわりつき、魔法のような瞬間が訪れる。

     その他、本書には非常に凝った趣向が隠されていて、青山作品の中でもとりわけトリッキーな作品である(これまで書いてきた文章の中にヒントが隠されているのだが、気づく人はそうそういないだろう)。さらに、第1章Box1がPiece1〜Peice12という構成で作品として完結しているのに、Shot1〜Shot12から構成された第2章Box2が追加されているのも、なかなかよく出来ている(Shotはスナップ写真の事だろう)。当然ながらもう一度読み返したいがタイムアウト。文庫になるのはいつの事だろう。買っちゃいそうだ。
    posted by アスラン at 01:10| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする