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<title>カンガルーは荒野を夢見る</title>
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<description>本は電車で読もう！立川在住・一児の父が読書と子育てに明け暮れる日々を綴ります。</description>
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<title>終の住処 磯崎憲一郎(2009/8/16読了,新潮2009年6月号)</title>
<description> 読んでからまだ四ヶ月しか経っていないのに、すっかり内容が記憶から抜け落ちている。ひょっとしたら読んでなかったのではないか。たしか、うっすらとした記憶を総ざらいしてみると、雑誌「新潮」掲載号を時間に追われるように読んだことだけは、かすかに覚えている。読み出して、これは自分の趣味ではないなぁと思ったような気がする。「趣味」という言葉が悪ければ、「自分の抱えている問題」と言い換えてもいい。 長い年月を連れ添った妻との二人きりの生活に、倦んでもいないし疲れてもいない。ただひたすら孤...</description>
<dc:subject>書評</dc:subject>
<dc:creator>アスラン</dc:creator>
<dc:date>2010-01-01T02:36:33+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
　読んでからまだ四ヶ月しか経っていないのに、すっかり内容が記憶から抜け落ちている。ひょっとしたら読んでなかったのではないか。たしか、うっすらとした記憶を総ざらいしてみると、雑誌「新潮」掲載号を時間に追われるように読んだことだけは、かすかに覚えている。読み出して、これは自分の趣味ではないなぁと思ったような気がする。「趣味」という言葉が悪ければ、「自分の抱えている問題」と言い換えてもいい。<br /><br /><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&npa=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=elleryqueense-22&o=9&p=8&l=as1&m=amazon&f=ifr&asins=410317711X" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0" align="left" ></iframe>　長い年月を連れ添った妻との二人きりの生活に、倦んでもいないし疲れてもいない。ただひたすら孤独のまま妻の生活を続ける主人公の話に、何ら思い入れというものがもてなかった。これはひょっとしたら、とまたまたうろ覚えながら感想を話すが、著者の目指している〈世界文学〉からの視点が、僕には全く欠けているからなのかもしれない。<br /><br />　本書の紹介文には「ガルシア＝マルケスを思わせる感覚で日常の細部に宿る不可思議をあくまでリアルに描きだす。」と書かれていたが、僕にはマルケスの著作も、あるいはそれらをとりまく世界文学の状況をも知るところではない。三たび「ひょっとしたら」、有名な「百年の孤独」のタイトルから容易の推し量れるように、孤独こそが重要なキーワードなのだろう。<br /><br />　しかし、ここで描かれている「孤独」の、なんと甘美で贅沢な事であろうか。おそらくは、ここには孤独への許し難い陶酔があるのではないだろうか。そういったものをひたすらリアル(リアルってなんだ？)に描写しても、僕の心にはおそらく何一つ残るものがないのだ。四たび「ひょっとすると」僕の誤読であるとまずいので、もう一度単行本で読むことにしよう。ウェブで読める、たった１０ページの立ち読みの文章を読んだところで、僕の思いこみは証明も否定もされなかったのだから。<a name="more"></a>

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<title>塗仏の宴 宴の支度 京極夏彦(2009/8/13読了,再読)</title>
<description> この作品は非常に変わっている。内容が、というよりも、内容以前にいろいろと言いたい事がある。まずは１０００頁越えは当たり前になった「箱本」書きの著者にしてはめずらしく、１０００頁満たない作品だ。シリーズの完成度のピークに到達した「鉄鼠の檻」が１３００頁の大作だったと記憶するから、今後は枚数を抑えめにする意図があるのかと思いきや、読んでみると一冊で作品が終わらない事が判明する。次作「塗仏の宴 宴の始末」と二冊あわせて作品として完結するのだから、今回の「塗仏の宴」全二巻がシリーズ...</description>
<dc:subject>書評</dc:subject>
<dc:creator>アスラン</dc:creator>
<dc:date>2009-12-28T13:13:52+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
　この作品は非常に変わっている。内容が、というよりも、内容以前にいろいろと言いたい事がある。まずは１０００頁越えは当たり前になった「箱本」書きの著者にしてはめずらしく、１０００頁満たない作品だ。シリーズの完成度のピークに到達した「鉄鼠の檻」が１３００頁の大作だったと記憶するから、今後は枚数を抑えめにする意図があるのかと思いきや、読んでみると一冊で作品が終わらない事が判明する。次作「塗仏の宴 宴の始末」と二冊あわせて作品として完結するのだから、今回の「塗仏の宴」全二巻がシリーズ最長作品という事になる。<br /><br /><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&npa=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=elleryqueense-22&o=9&p=8&l=as1&m=amazon&f=ifr&asins=4062738384" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0" align="left" ></iframe>　なのにもかかわらず、上下巻としなかったから、さぞかしノベルス出版時に購入した読者はヤキモキしたに違いない。<br /><br /><strong><blockquote>「宴の支度」(1998年3月)<br />「宴の始末」(1998年9月)<br /></blockquote></strong><br />にそれぞれ出版されているから、まじめな読者は半年も待たされた事になる。もう古い話になるが、「バック・トゥー・ザ・フューチャーPART2」を見にいった会社の同僚が、エンディングの後にパート３の予告を見て、「なんじゃこりゃ～」と観客全員がぶっとんだという話をしてくれたのを思い出す。最近では、今年９月に終わった「仮面ライダーディケイド」の最終回が記憶に新しい。あれも見事に裏切られた。今上映している劇場版こそが本当の最終回だったなんて。<br /><br />　本書の最後でも読者はぶっとんだろう。というか、京極堂の解決だけでも優に数百頁を費やすのが当たり前の本シリーズに慣れ親しんでる読者は、もっと前の方で「これは終わらないなぁ」と思って呆れているはずだ。<br /><br />　また、本書では「塗仏」がメインとなる妖怪のはずだが、それ以外に章立てごとに妖怪が一匹ずつ割り当てられている。これは、オムニバスの短編集とまったく同じ構成なのだが、ストーリーとしては連作のように繋がっている。さらに驚いたことに、奇数章の「ぬっぺっぽう」「ひょうすべ」「しょうけら」は、雑誌「小説現代」(あるいは別冊メフィスト)に既に掲載され、偶数章の「うわん」「わいら」「おとろし」は書き下ろし作品となっている。<br /><br />　普通に考えれば、奇数章が先に書かれ、あとで偶数章を書き足して、一冊にまとめたのであろうが、そんなことが果たして可能なのか？<br /><br />　いやいや、またしても順番が違っている。<br /><br /><strong><blockquote>「ひょうすべ」(1997年9月)<br />「しょうけら」(1997年12月)<br />「ぬっぺっぽう」(1998年2月)</blockquote></strong><br /><br />という順番で掲載されている。翌３月には「宴の支度」が出版されているわけだから、「ぬっぺっぽう」は限りなく書き下ろしに近い。すでに完成稿ができあがっていて、急遽前宣伝のために駆け込みで冒頭の一章が掲載されたようだ。<br /><br />　では本当の始まりは「ひょうすべ」という事になる。しかし、当然ながら本書の始まり「ぬっぺっぽう」で描かれる衝撃的なオープニングは、既に準備されている。「ひょうすべ」のP.462には、「ひと月半後、私は逮捕されたのだ」と、さりげなく書かれている。もちろん、この「私」とは関口巽(たつみ)の事だ。<br /><br />　この予想もしなかった展開に初読の際にはかなり度肝を抜かれたが、きちんと京極作品を追い掛けているファンにとっては、折り込み済みの展開だったわけだ。いや、ひょっとして雑誌掲載時の「ひょうすべ」には、この「逮捕」の件はなかったのかもしれない。まるで記憶を操作される物語さながらに、こちらの思いこみも著者が先回りして誘導しているかのようだ。<br /><br />　そもそも、シリーズ中もっとも登場人物が多い本作では、複数の物語が同時進行で描かれる。もちろん互いに無関係だとは最初から思えない。なぜなら、怪しげな宗教団体や宗教人が至るところで暗躍するからだ。一言で言えば、「宗教が多すぎる」というのが率直な感触だ。ここには何か怪しげな企みが存在する。前作「絡新婦の理」のモチーフを超えるような壮大な「操り」が背後に感じられる。しかし、本作はタイトル通り「支度」だけが延々と描かれ、企みが成就するまでには至らない。「お楽しみはこれから」というわけだ。<br /><br />　さきほど僕はオープニングに驚かされ、熱心なファンはすでに知らされていて驚かされなかったのように書いたが、真のサプライズは本作のとりあえずのエンディングに用意されている。そして、毎回毎回すんでのところで「壊れる」手前で、京極堂の周到な手際で引き戻されてきた関口は、ついに自我が「崩壊」する。そこで用意された企みとは、著者の思いきりの良いカードさばきから繰り出されるとっておきの切り札だ。<br /><br />　本作を読み切って、今回の作品がなみなみならぬ「悪意」に満ちている事を、あらためて僕ら読者は思い知らされるのである。<a name="more"></a>

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<title>キスまでの距離 おいしいコーヒーのいれ方１ 村山由佳(2009/8/5読了)</title>
<description> 石田衣良のラブストーリー「眠れぬ真珠」を新潮社のケータイ書籍サイトの連載で読み終わったとき、著者の男目線で書かれてあるにもかかわらず、更年期を迎えた女性を主人公に据えた真っ向勝負のラブストーリーに気恥ずかしさを覚えた。身も心も年下の男に溺れる大人の恋愛を描き、おそらくは女性の読者を想定してだろう、男性の身勝手な性をあえて禁じ手にしたラブストーリーは、体の結びつきをしっかり描いてはいるがプラトニックな恋愛小説としか思えなかった。 そして、ここに長きにわたってシリーズとなり、つ...</description>
<dc:subject>書評</dc:subject>
<dc:creator>アスラン</dc:creator>
<dc:date>2009-12-25T12:57:42+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
　石田衣良のラブストーリー「眠れぬ真珠」を新潮社のケータイ書籍サイトの連載で読み終わったとき、著者の男目線で書かれてあるにもかかわらず、更年期を迎えた女性を主人公に据えた真っ向勝負のラブストーリーに気恥ずかしさを覚えた。身も心も年下の男に溺れる大人の恋愛を描き、おそらくは女性の読者を想定してだろう、男性の身勝手な性をあえて禁じ手にしたラブストーリーは、体の結びつきをしっかり描いてはいるがプラトニックな恋愛小説としか思えなかった。<br /><br /><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&npa=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=elleryqueense-22&o=9&p=8&l=as1&m=amazon&f=ifr&asins=4087470598" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0" align="left" ></iframe>　そして、ここに長きにわたってシリーズとなり、つい最近第１シーズンが完結した、もう一つの真っ向勝負のラブストーリーがある。その第一作を読んでみると、「気恥ずかしい」のレベルを超えて、主人公の一人・かれん以上に顔が真っ赤になってしまいそうだ。１９９４年に出版されたという本作は、高校三年生の勝利(ショーリ)と、いとこであり５歳年上であり、勝利の高校の新任美術教師でもあるかれんとの、純情なラブストーリーだ。<br /><br />　今年「ダブル・ファンタジー」を上梓した著者・村山由佳は、これまでに多くの女性ファンが望むようなピュアでまじめな恋愛小説をひたすら描いてきた。彼女らの期待にこたえるのに疲れてきたのか、あるいはもっと違ったものを書きたいという作家としての欲が書かせたのか。かなり本人としては冒険した、大人の恋愛小説として好評を博した。らしい。<br /><br />　僕はこの人の作品を本書以外に１冊しか読んだ事がない。その１冊、「星々の舟」を読んで、かなりの筆力をもった作家だと感じたが、そのベースには、本シリーズのような、言わばラフスケッチのような習作が書き継がれる事を必要としたに違いない。<br /><br />　もちろん、この「おいしいコーヒーのいれ方」シリーズが、１０年以上の歳月を費やして１０作もの連作を形づくるためには、本作のようにエンディングに至ってようやくキスまで辿り着くという、タイトル通りの高校生のような恋愛を成就するまでを丹念にスケッチするところから始めねばならなかった。嘘みたいだが、このように恋愛のワンステップワンステップを一段ずつ踏み上がっていくラブストーリーは、ありそうでなかなかない。著者の野心と粘り強さがあればこその物語だろう。<br /><br />　さて、もちろん、本作が僕にとって気恥ずかしいのは、今どきの高校生でもこんなにウブな恋愛はしないだろうという、未熟な男の子の恋を描いているからではない。高校生以下の純情さの持ち主は、勝利の方ではなく大人の女性のはずのかれんの方だからこそ、気恥ずかしいのだ。<br /><br />　こういう本を好んで読む女性たちの中に、僕のような無粋な野郎が入ってゆく居心地の悪さがある。嫌いではないストーリー展開なので尚更だ。それは、江國香織の女のためだけにあるストーリーのようには身勝手さが感じられない分、居心地の悪さは格別なものがある。<br /><br />　さて、ではこのシリーズを僕は続けて読むべきだろうか？物語は始まってしまったのだ。<a name="more"></a>

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<title>鉄塔武蔵野線ウォーク(その１１)</title>
<description>[７３号鉄塔] アキラと見晴は７４号鉄塔から表通りへと走っていく。(A地点) 表通りはその先で森を貫いており、７４号鉄塔から出た電線が表通り上空を斜めに通過していました。(P72) 航空写真を眺めながら白地図を塗り分けているときには、表通りの両脇に野原があって一部が森になっているというイメージを描いていたが、緑の濃淡だけを地図の平面で漠然と視野にとらえてみると、まさに小説で記述されているように「表通りが森を貫いて」いるとしか思えなくなる。「ブラタモリ」ではないが、見る人が見れ...</description>
<dc:subject>鉄塔武蔵野線</dc:subject>
<dc:creator>アスラン</dc:creator>
<dc:date>2009-12-24T12:40:06+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
[７３号鉄塔]<br /><br />　アキラと見晴は７４号鉄塔から表通りへと走っていく。<br /><br /><strong><blockquote>(A地点)<br />　表通りはその先で森を貫いており、７４号鉄塔から出た電線が表通り上空を斜めに通過していました。(P72)</blockquote></strong><br /><br />　航空写真を眺めながら白地図を塗り分けているときには、表通りの両脇に野原があって一部が森になっているというイメージを描いていたが、緑の濃淡だけを地図の平面で漠然と視野にとらえてみると、まさに小説で記述されているように「表通りが森を貫いて」いるとしか思えなくなる。「ブラタモリ」ではないが、見る人が見れば、明らかな「武蔵野の森」の痕跡が地図に残されているようだ。それだけの知識がないので、それ以上の事は僕には推し量れないのが残念だ。<br /><br />　見晴は、表通りから見える７３号鉄塔を「男鉄塔」だとアキラに説明する。しかし詳しい話は次の７２号鉄塔までおあずけを食わせる。<br /><br /><strong><blockquote>(B地点)<br />　わたしたちは森と倉庫の境目を奥まで入って行きました。(P.74)</blockquote></strong><br /><br />　７３号鉄塔がある森の一角は塀でおおわれている。森に踏み入るには、小説の記述にもあるように、お隣の倉庫(地図では「富士鉄鋼資材」)との境界から入るしかなさそうだ。確かに倉庫と森との境目には塀がないので簡単に森の奥へと侵入できる。ただし、塀を避けて森の奥に分け入るには、かならず倉庫のスライド式の門を通る事になる。倉庫の門が閉じていると入れないし、開いていても倉庫関係者の目があれば入りづらい。そもそも、この門をくぐった時点で不法侵入と言われても致し方ないのだ。<br /><br />　他に入口があるのかもしれないが、森そのものが侵入禁止地帯だと考えて方がよい。現状では７３号の結界に近づく方法はなさそうだ。著者は実際に取材したのだろう。鉄塔の下に竿が渡されていて、(おそらく倉庫会社の)トラックの運転手の物干しとして利用されていることを、さりげなく報告している。<br /><br /><a href="http://elleryqueen.up.seesaa.net/image/C5B4C5E3C9F0C2A2CCEEC0FEA5A6A5A9A1BCA5AF9.JPG" target="_blank"><img src="http://elleryqueen.up.seesaa.net/image/C5B4C5E3C9F0C2A2CCEEC0FEA5A6A5A9A1BCA5AF9-thumbnail2.JPG" width="140" height="150" border="0" align="" alt="鉄塔武蔵野線ウォーク9.JPG" onclick="location.href = 'http://elleryqueen.seesaa.net/upload/detail/image/C5B4C5E3C9F0C2A2CCEEC0FEA5A6A5A9A1BCA5AF9-thumbnail2.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><a name="more"></a>

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<title>絡新婦の理 京極夏彦(2009/8/4読了,再読)</title>
<description> 本書の面白さをうまく伝える事ができるだろうか。いろんな事が言えそうだが、どれをとっても核心をつくのはむずかしい。ひとつ確かな事が言えるとすると、前作「鉄鼠の檻」で、本シリーズは一つのピークを迎えた。東洋が生んだ究極の思想「禅」を題材にして、見事な論理の大伽藍を作り上げた著者は、次なる狙いをストーリーテリングの醍醐味に定めたように思える。と言うのも、ミステリーの様々な要素がこれでもかというほど盛り込まれているからだ。 まずは冒頭で、本来密室になりえない日本家屋において「密室殺...</description>
<dc:subject>書評</dc:subject>
<dc:creator>アスラン</dc:creator>
<dc:date>2009-12-21T13:08:13+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
　本書の面白さをうまく伝える事ができるだろうか。いろんな事が言えそうだが、どれをとっても核心をつくのはむずかしい。ひとつ確かな事が言えるとすると、前作「鉄鼠の檻」で、本シリーズは一つのピークを迎えた。東洋が生んだ究極の思想「禅」を題材にして、見事な論理の大伽藍を作り上げた著者は、次なる狙いをストーリーテリングの醍醐味に定めたように思える。と言うのも、ミステリーの様々な要素がこれでもかというほど盛り込まれているからだ。<br /><br /><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&npa=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=elleryqueense-22&o=9&p=8&l=as1&m=amazon&f=ifr&asins=4062735350" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0" align="left" ></iframe>　まずは冒頭で、本来密室になりえない日本家屋において「密室殺人」が起る。連れ込み茶屋でおきる人妻の絞殺。それに付随して「連続殺人鬼(シリアルキラー)」が登場する。その一方で、千葉では女性の目をつぶす手口の、もう一人のシリアルキラーが世間を脅かす。<br /><br />　この２つの別々の事件は、やがてもう一つの事件(事故)と合流して、一つの〈大きな作為〉へと集約してゆく。これが「絡新婦(じょろうぐも)」のモチーフだ。口絵で紹介される江戸時代の妖怪図は、絡新婦が放つ糸に囚われ操られる人々の姿が描かれている。そう、絡新婦は自らは動くことなく人を操るのだ。<br /><br />　先ほど、「もう一つの事件」と書いたが、それが和歌山県にあるカソリック系の女子学園を舞台にした集団売春のスキャンダルだ。カソリック、学園、売春となると、ダリル・アルジェント監督のヒット作「サスペリア」を引き合いに出すまでもなく、オカルト物ではお約束の設定だ。さらには校庭の片隅に「黒い聖母」と呼ばれる像が祭られ、それを含めた「七不思議」が、この学園にもお決まりのように存在する。<br /><br />　肝心な事は、個々の人々の思惑を超えて、ここでも「操り」の糸が見え隠れするという点だ。学園が隠し持つ謎(まさに隠されたもの＝オカルト)を解き明かしていくのは、いつものように憑き物落とし・京極堂の役目だが、今回は京極堂自らが「操り」の主体をたぐる事が不可能だと言い切ってしまう。操り手は必然を形作るきっかけを与えるだけだ。操られる側は、きっかけを与えられた事さえ気づかない。操るだけで手を下していない真犯人の犯罪を立証することは不可能だというのが、京極堂の言い分だ。<br /><br />　それにして今回の京極堂はずいぶんとあきらめが早い。そんな偶然まかせの犯罪が、こうもたびたびうまくいくとは信じがたい。犯人によっぽど都合のいい世界になっているとしか思えない。アガサ・クリスティならば、読者が「そんなことありえない、うまくいくはずがない」と思われるトリックでも、その弱点を逆に巧妙に利用する。たとえば、「そんなトリックでは犯行が目撃されるはずだ」と読者が考えつきそうなところに〈目撃者〉を登場させる。映画化されたあの有名な小説の構成がそうだったではないか。トリックの弱点をまんまと補強したうえで、犯人は(というより作者は)口封じのためにさっさと目撃者を殺してしまうのだ。<br /><br />　しかし、思えば本シリーズの第一作「姑獲鳥の夏」からして、ずいぶんとありえないこと、ムリを通してきた。それを考えれば、真犯人の「操り」がうまくいくのを怪しむ人が登場人物の中にいたとしても、京極堂が滔々と語る詭弁に簡単に弄されてしまうのは致し方ない。そういう世界に僕らは入り込んでいるのだ。それに、まっとうなケチの付け方をしてもあまり意味がないように思える。<br /><br />　なぜなら、本作を書くにあたって著者は、トリックにも犯人当てにもあまり関心がないようにみえるからだ。たとえば作品の導入部で、眞犯人と京極堂とが対峙するエンディングの場面からあえて始めている。言葉遣いから、犯人が女性である事は明かされている。そして、学園の創始者一族(女系一家)中に犯人がいる事もはやばやと判ってしまう。つまり著者は、始めから犯人を隠す工夫をしていない(まったくではないにしても)。<br /><br />　このような作品に僕らは馴染みがあるはずだ。たとえば乱歩そして横溝の作品だ。特に横溝正史の一連のミステリーは、犯人が特定されてもおかしくないほど人が殺されてなお、作中の探偵は見て見ぬふりをする。横溝正史の小説が売れに売れ、市川崑監督の映画が大ヒットしていた当時、金田一耕助がへぼ探偵のそしりをうけたのは、横溝作品の構成上の必然だと言っていい。「八つ墓村」や「犬神家の一族」がそうであるように、犯人当ての興味よりもどちらかというと、古くからの村の因習や血の絆に彩られた生臭いストーリーを描く事に、作者の主たるモチーフがあることは動かせない。<br /><br />　本作においても、少なからず同じようなモチーフが著者にあったのだろう。そうでなければ、あれほど分かりやすい(バレバレの)シーンを冒頭に持ってくるはずがない。あえて言えば、この小説には横溝正史にとっての市川崑監督のような存在が必要だ。正月に上映するオールスターキャストの顔見せ興行に、これほどふさわしいミステリー作品はない。<a name="more"></a>

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<title>悼む人 天童荒太(2009/7/31読了)</title>
<description> 僕の本棚にだいぶ以前から、この著者の文庫が一冊だけ入っている。たぶん何の気なしに、古本屋の１０５円コーナーから買い求めたものだろう。以来、何年間も「積ん読」状態で、読めるあてもなくたたずんでいる。気の迷いというよりも、ずっと前から話題にのぼる作家で、特に数年前に渡部篤郎を主役にすえた天童荒太原作のドラマが放映された頃に、ミーハー心をくすぐらされたのだと思う。 著者の作品を初めて読む事になる本書は、再び僕のミーハー心に火が付いて、図書館に予約して借りたものだ。前回の直木賞で、...</description>
<dc:subject>書評</dc:subject>
<dc:creator>アスラン</dc:creator>
<dc:date>2009-12-17T19:34:30+09:00</dc:date>
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　僕の本棚にだいぶ以前から、この著者の文庫が一冊だけ入っている。たぶん何の気なしに、古本屋の１０５円コーナーから買い求めたものだろう。以来、何年間も「積ん読」状態で、読めるあてもなくたたずんでいる。気の迷いというよりも、ずっと前から話題にのぼる作家で、特に数年前に渡部篤郎を主役にすえた天童荒太原作のドラマが放映された頃に、ミーハー心をくすぐらされたのだと思う。<br /><br /><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&npa=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=elleryqueense-22&o=9&p=8&l=as1&m=amazon&f=ifr&asins=4163276408" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0" align="left" ></iframe>　著者の作品を初めて読む事になる本書は、再び僕のミーハー心に火が付いて、図書館に予約して借りたものだ。前回の直木賞で、山本兼一「利休にたずねよ」とダブル受賞となった作品がこれだった。「利休」は受賞記事が載った当日に予約して、ほぼすぐに借りられた。「悼む人」は、そうはいかない。<br /><br />　世の中には〈流行作家〉と呼ばれる人々がいて、数ある現役の作家の中でも特権的な地位を保ち、作品は出すと必ず売れ、出すと必ず図書館の予約システムに行列ができる。人気のラーメン屋と違って、行列は検索して確かめないと目に見えないので、注意が必要だ。「悼む人」にはそれなりの人数が待ちわびていて、その最後尾におずおずと僕も並んだわけだ。しかも「決してファンというわけではないんですよ」みたいなてらいを持ちつつ、だ。<br /><br />　不思議なことだが、芥川賞の許容範囲はきわめて狭く、直木賞のそれはきわめて広い。例えば今、一部のアニメファンを喜ばせている「空中ブランコ」の原作のように純度１００％のエンターテイメントもあれば、「利休にたずねよ」のような完成度の高い時代小説もある。そして、ひょっとすると芥川賞でもよかったのではないか？と思わせるような本書のような作品もある。<br /><br />　こういうときに僕としては非常に困る事になる。この回の芥川賞受賞作「ポトストラムの舟」の感想はなんとか書き上げたし、ずいぶん前の「アサッテの人」も作風に感心したのでなんとか書けた。それ以外では、受賞作を読んでいながら何度も書きそびれている。読後になんのきわだった感想も形づくれない場合が多いのだ。それはおそらくは、現実的な具体性の伴う問題や事件を、題材として取り扱っているわけでもなく、ただただストーリーが面白いという理由で受賞しているわけでもないからだ。「だから、何なの？」という感想になってしまうと、やはり受賞作だからといってありがたがって読むなんてばからしいという、実もフタもない事になってしまう。<br /><br />　では今回の作品はどうだろう。<br /><br />　「興味深く読めた」というところだろうか。僕としては大変控えめで慎ましい感想だ。おそらくはミステリー作家の肩書きをもつ著者の、おそらくはミステリーと分類されてしかるべき本作は、「ミステリーとしてはおもしろくない」。いや、まったく面白くない。死者が亡くなった場所を〈勝手に〉訪れ、勝手に〈悼む〉。主人公の行為の謎が解けたとき、ミステリー好きの読者が快哉を叫ぶかといえば、そんなことにはならない。<br /><br />　ではミステリーとして読むべきものではなかったのか？主人公の「悼む」という行為に、人間の死者への視線の本質を問うべきだったのか？それとも作者が巻末で明かしているように、現実に存在したという「悼む人」にインスピレーションを与えられた作者が、「そういう人間が行う行為」に宗教的な理念の祖型をたどりたいと願ったのか。または「悼む人」の行為に、新たな宗教的理念の可能性を見たのか？おそらくは僕も作者も他の人々も同感だろうが、そんな馬鹿な話はない。<br /><br />　一番あり得べき回答としては、現実の問題として「そういう人間がこの世には存在する」という事の不思議を作者が表現したかった。それがすべてではないだろうか。<br /><br />　この小説を読んで、最初のうちは「悼む人」の行為の圧倒的なうさんくささに動揺させられながらも、読み進めていくうちに「悼む人」と同行する女性の視点に感情移入するようになり、最後におとずれる静謐な死とともに、自らの心の底に誰しもが持っているであろう〈祈り〉の心が姿を現す。その稀有な時間を過ごせた人は結末で心を揺すぶられるのではないだろうか。「ないだろうか」と人ごとのように言うのは、僕は揺すぶられなかったからだ。<br /><br />　正直に告白すれば、エンディングのどこかで、死に行く人を目の前にして(もちろん、そういう場面に感情移入して)、涙があふれてきた事は言っておこう。そこが大事なところで、人は、いや日本人はと言い換えてもいいが、目の前で亡くなった人の面影にふれる事で涙を流す。当たり前のことだ。しかし、それを探し求めて泣く人の事は「許す許さない」の問題ではないにしても、許しがたいものを感じてしまう。<br /><br />　それは、死者から特権的な人々を収奪することだ。死者から奪うものは本来何もない。しかし残された人々は、死者にとって特別な存在であったと信じたい。死者から特権性を付与された人々が「悼む」のだ。ところが、無差別に死者を「悼む人」の存在は、残された人々の特権性を無意識に奪い去ってしまう。これほど痛ましい事はないのではないかだろうか。<a name="more"></a>

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<title>隠蔽捜査３ 疑心 今野敏(2009/7/19日読了)</title>
<description> 本作はシリーズ３作目を迎えて、１作目は文庫化され、すっかり人気が定着した感じがする。いや、僕が第一作を読んだときから比べると、著者自身がブレイクしたと言っていい。 そもそも「本の雑誌」の目黒孝二さんの書評で知った作家であり、作品だった。当然のことながら、当時はシリーズではなかったわけだが、あまりにキャラが立っていて、取り巻く環境や共演者たち(早晩ドラマ化されるだろう)の魅力に富んだ作品構成から、読了後すぐに、この変わり者の主人公のその後を読みたいと思った。それくらい次作が待...</description>
<dc:subject>書評</dc:subject>
<dc:creator>アスラン</dc:creator>
<dc:date>2009-12-16T13:07:31+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
　本作はシリーズ３作目を迎えて、１作目は文庫化され、すっかり人気が定着した感じがする。いや、僕が第一作を読んだときから比べると、著者自身がブレイクしたと言っていい。<br /><br /><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&npa=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=elleryqueense-22&o=9&p=8&l=as1&m=amazon&f=ifr&asins=4103002530" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0" align="left" ></iframe>　そもそも「本の雑誌」の目黒孝二さんの書評で知った作家であり、作品だった。当然のことながら、当時はシリーズではなかったわけだが、あまりにキャラが立っていて、取り巻く環境や共演者たち(早晩ドラマ化されるだろう)の魅力に富んだ作品構成から、読了後すぐに、この変わり者の主人公のその後を読みたいと思った。それくらい次作が待ち望まれる作品だった。<br /><br />　書評にも書いてきたが、現実に存在していたらお近づきにはなりたくないタイプの変わり者であり、真の意味で骨の髄まで”官僚”が身についている男が主人公なのだ。これは決して主人公を貶めるための形容ではない。この場合は褒め言葉になっている。真の官僚とは、いついかなる時も、国家を守るため、国民を守るため、あらゆる事に優先して「危機」に対処しなければならない。この真剣さが周囲をとまどわせるが、ひとたび彼の主張を呑み込めば、多少の迷惑、多少の犠牲はさしたる問題にならない。持論をひっこめざるをえない。彼の方が筋が通っているのだ。<br /><br />　主人公・竜崎のモデルとしては、故・後藤田官房長官のもとで八面六臂の活躍を果たした佐々淳行が挙げられるが、今どきを考えると、ひょっとしたら民主党の小沢一郎幹事長がイメージとしては近いのかもしれない。彼の場合は表と裏を使い分けているという疑いがぬぐえないのだけれど、昨今の「天皇特例会見」に関する宮内庁長官の批判を一刀両断する手際などを見ると、事の善悪はともかくとして、本気で考え本気で行動している素振りが見える。「日本国憲法を読んでいるか？」と問われて言い返せない記者の方が、よっぽど筋が通っていない。<br /><br />　竜崎はそもそもが疑心暗鬼の人で、他人の出方を額面通りに受け取らず、しかも自分が思っている以上に自分に人気がある事に気づかない。まずは裏を読もうとする。だから、たえずその行動には危機感が満ちている。まさに「危機管理」を実行するには最適な人物として描かれている。<br /><br />　国家の安寧をおびやかす事件に対しては、何事からも優先されると信じて、縦社会のルールを飛び越す。時に大胆な行動をとるため、嫌われるときは徹底的に嫌われる。そのため、一作目で警察庁のエリート官僚の地位を追われ、２作目では所轄の署長に左遷される。ところが、署長の地位を腰掛け程度にしか考えないエリートとは、全く違う振る舞いをして、部下達をとまどわせる。この動揺がとてつもなく面白い。<br /><br />　もちろん、この楽しさはあくまで「変わり者でありながらきわめて優秀」で、しかも最後には正しい選択をとる、竜崎の並外れた資質と強運が描かれているからこその著者の手際なわけだ。<br /><br />　著者・今野敏は、僕がシリーズ第一作を読んだときには既に売れっ子の作家だった。多作で、図書館には僕が読んだことのない数多のシリーズ作品が並んでいた。これまで作者の人となりについて調べた事がなかったが、全盛時の赤川次郎ばりに書きまくり、そしてお父さん世代の読者に夢と希望を与えるかのようにドラマを生み出していく。本シリーズにしても、警察官ではあるが、竜崎は言ってみれば企業戦士の一人だからだ。<br /><br />　ところが、本作を読み出すと唖然としてしまう。あの竜崎が女にうつつをぬかしてしまうのだ。警視庁からある要人の警護のために派遣されてきたエリート予備軍の若い女性に、事もあろうにときめいてしまう。<br /><br />　いつものように、これが単なる気の迷いなのか、本当に彼女に対して恋情を抱いているのか、生まれて初めてと言っていい出来事に、竜崎は本気でとまどう。いつものような切れ味するどい行動をとることができなくなってしまう。そこがなんとももどかしい。言ってみれば、最大の敵・最大の障害が目の前にぶら下がっているわけで、ここが本作で著者が主人公に与えた試練と言える。<br /><br />　途方にくれた主人公は、大嫌いな同期の伊丹にやむをえず相談する。その間の抜けたギャップが面白い。この難題をどう切り抜けるかという結末については、ご都合主義であるのは否めない。が、信念の人が、自らの信念と女性への恋情とを天秤にかけて本気で悩む姿が、なんとも共感できるではないか。<a name="more"></a>

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<title>ハリー・ポッターと賢者の石 Ｊ．Ｋ．ローリング(2009/6/30読了,再々々読)</title>
<description> 最終巻を読み終わった直後の生々しさが残っている時期に読み直したせいか、通して最初から読むことの意味がこれまでとは決定的に変わってしまったように感じた。もう、初めて第一巻を読んだときのように、とびきり愉快で掛け値なしに楽しいファンタジーだとは言えなくなってしまった。なぜならば、ハリーポッターは、一つの大きな物語あるいは、大げさに言えば伝説になってしまったからだ。 そうなるとすべては、結末を迎えたドラマの中を駆けめぐった数多の登場人物たちに訪れる哀しさ、そして安らぎとが表裏一体...</description>
<dc:subject>書評</dc:subject>
<dc:creator>アスラン</dc:creator>
<dc:date>2009-12-15T19:35:40+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&npa=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=elleryqueense-22&o=9&p=8&l=as1&m=amazon&f=ifr&asins=4915512495" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0" align="left" ></iframe><br />　最終巻を読み終わった直後の生々しさが残っている時期に読み直したせいか、通して最初から読むことの意味がこれまでとは決定的に変わってしまったように感じた。もう、初めて第一巻を読んだときのように、とびきり愉快で掛け値なしに楽しいファンタジーだとは言えなくなってしまった。なぜならば、ハリーポッターは、一つの大きな物語あるいは、大げさに言えば伝説になってしまったからだ。<br /><br />　そうなるとすべては、結末を迎えたドラマの中を駆けめぐった数多の登場人物たちに訪れる哀しさ、そして安らぎとが表裏一体となって、僕の胸に迫ってくる。それをなんとか押さえ込みながら読んでいくと、今度は著者が最終刊のドラマをいつから用意していたかが透けて見えてきて、その周到さにあらためて感心してしまう。<br /><br />　たとえば、ダイアゴン横丁で杖職人のオリバンダーに杖を作ってもらう場面。もちろんこの場面はあからさまな伏線に満ちているが、僕の気になるところは、ハリーと「例のあの人」との不思議な共通点をいたずらに「偉大」だともちあげるオリバンダー老人を、ハリー自身が「あまり好きになれない気がした」と的確に表現している点だ。<br /><br />　この心理描写は、今から思えば、その後のオリバンダーの果たす役割をほのめかす伏線というだけでなく、ハリーを含めた敵味方すべての登場人物たちの運命を封じ込めた言葉に思えてくる。<br /><br />　さらに同様な場面に気づかされる。自らの父母の姿をかいま見せる「みぞの鏡」に通いつめて、ダンブルドア校長にたしなめられるところで、ハリーは「先生には何がみえるんですか？」と問い返す。ダンブルドアは「厚手の靴下がみえる」と答える。このちぐはぐな回答は、ダンブルドアの風変わりなユーモア精神を象徴する言葉だったはずだが、最終刊「死の秘宝」でハリー自身が謎解きしたように、今ではダンブルドアの抱えこんだ複雑な人生を示唆する、きわめて含蓄のある言葉と変貌する。<br /><br />　ことほどさように、あの爽快だった物語は最初から悲劇という名の運命に隈取られていた事を、読者は改めて知ることになるのだ。当然ながら僕らは次作で、今ではあの騒々しさが懐かしい屋敷しもべ妖怪と再会する事になるだろう。<a name="more"></a>

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<title>鉄鼠の檻 京極夏彦(2009/6/28読了,再読)</title>
<description> これも再読(三読)だ。再読してブログの読了リストに加え、感想をまとめて記事にして掲載するたびに、困ることがある。それは京極堂シリーズのタイトルだ。漢字が書けないのだ。今や、たいていの難読漢字でもATOKなどのIME(かな漢字変換機能)が変換してくれるのだが、このシリーズのタイトルだけはムリだ。 「ウブメの夏」「モウリョウのハコ」などと書いておいて、あとで正しい漢字を埋める。ＰＣで入力するならば、図書館や書店の検索サイトで出てきたタイトルをコピペすればいいが、携帯だとカタカナ...</description>
<dc:subject>書評</dc:subject>
<dc:creator>アスラン</dc:creator>
<dc:date>2009-12-14T19:56:45+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
　これも再読(三読)だ。再読してブログの読了リストに加え、感想をまとめて記事にして掲載するたびに、困ることがある。それは京極堂シリーズのタイトルだ。漢字が書けないのだ。今や、たいていの難読漢字でもATOKなどのIME(かな漢字変換機能)が変換してくれるのだが、このシリーズのタイトルだけはムリだ。<br /><br /><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&npa=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=elleryqueense-22&o=9&p=8&l=as1&m=amazon&f=ifr&asins=4062732475" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0" align="left" ></iframe>　「ウブメの夏」「モウリョウのハコ」などと書いておいて、あとで正しい漢字を埋める。ＰＣで入力するならば、図書館や書店の検索サイトで出てきたタイトルをコピペすればいいが、携帯だとカタカナしておいて放置する。それでも後々の事を考えて、「モウリョウ」は「チミモウリョウ」と入力すれば「魑魅魍魎」と変換するので、後ろ２文字を残して「魍魎」となることは学習した。「魑魅」の方を消し忘れさえしなければＯＫだ。ただし、「ハコ」の方は困る。携帯だけでなくＰＣのIMEでも「匣」は出てこない。万人が思い浮かべる「箱」あるいは「函」は候補にあるが、「匣」はない。結局はさきほどのコピペ方式に頼るしかない。<br /><br />　それでも「匣」はどんな漢字かを思い出せるから、まだましだ。なんとでもやりようがある。「ジョロウグモの理(ことわり)」は、通常使われる「女郎蜘蛛」とは似ても似つかない表記だったし、「オンモラキの瑕」に至っては全く思い出せない。<br /><br />　そこへいくと、本書のタイトルのなんと安心することか。「テッソ」も「オリ」も普通に想像した通りの漢字が当てられている。「テッソ」は要するに「テツネズミ」だ。「オリ」も「匣」と違って間違えようがない。しかも文庫版の表紙にデザインされている妖怪「鉄鼠」は、なんと滑稽で愛敬のあることだろう。妖怪といってもねずみにすぎない。「ネズミ男」の例を引くまでもなく、間が抜けている事この上ない。<br /><br />　そして妖怪の容貌同様に、ここで起る事件の様相も、結末も、端から見ればバカバカしいものだ。例えば今、終盤の展開をざっと斜め読みして犯人の動機の告白だけを取り出してみると、「そんな馬鹿な事があるか」という警察側の言葉だけが空回りしている。しかし、毎度の事ではあるが、その「バカバカしい動機」の一言から遡って、１３００頁を越える〈不条理の大伽藍〉を作り上げる著者の筆力に素直に圧倒されるべきだ。なんと言っても、最近の分冊版では味わえない箱本の迫力は、本作で頂点を極めるからだ。<br /><br />　この馬鹿馬鹿しさ、荒唐無稽さは、もちろん「禅」という究極の思想を題材にしたからこそ現れる必然だ。「禅」は西洋人が生かじりで東洋思想や理念を理解しようとして分かるものではない。いや、そもそも「分かる」ものではない。禅は言葉で考えたり理解したりするものではないからだ。と、そこまでは東洋人の端くれである、そして腐っても日本人である僕もわかる。でも、それ以上の深入りは出来ないのが「禅」の難しさなのだ。<br /><br />　しかし、この思想的なデッドエンドの風景を僕は最近どこかで見てきたはずだ。それは「表層」だとか「外部」だとか言う言葉で、まことしやかに「禅」の理念だけを言葉で回収しようとしたかのような、ポストモダン思想においてだ。だから、禅を理解しようと努める言葉は空しい。空しくならざるをえない事を８０年代の思想的ムーブメントは体現したと言ってもいいかもしれない。<br /><br />　そこでどうすればいいかと言えば、このような形で最上のエンタテイメントとして「禅の風景」を概括してくれる作品に出会えた事を、僕ら本好きは素直に喜ぶべきなのだ。前にも言ったが、記号論の大家でもあるエンベルト・エーコが書いた大作「薔薇の名前」も、禅同様にキリスト教にかつて出現した究極のニヒリズムがテーマだった。あれも、おそらくは犯人の動機を斜め読みすれば「そんな馬鹿な事が…」と言いかねない「馬鹿馬鹿しさ」が感じられたはずだ。<br /><br />　しかし、「薔薇の名前」が、最初から最後まで徹底的に「荒唐無稽」と笑い飛ばす事のできないニヒリズムを描いたのに対して、「鉄鼠の檻」では「禅」の難しさにただ畏まるのではなく、「滑稽」と並置することで禅の面白さを際だたせてくれた。これに宗教論の学者の解説を付けるのは無粋と言うものだろう。<a name="more"></a>

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<title>鉄塔武蔵野線ウォーク(インターミッション３～アキラの家～)</title>
<description> 〈発見の日〉の翌々日に田舎から戻ってきたアキラを自宅から連れ出した見晴は、やはり始まりの「７５－１号鉄塔」に行く。いきなり、「この鉄塔は７５－１(のいち)なんだ。」(P64)と話を切り出す。なんのことかわからないアキラの関心を誘うように、すかさず７５号鉄塔に移動して、結界の解説をする。ポイントは「のいち」だ。見晴は、ここ数日の間に「七十五の一」と読むであろう枝番の鉄塔のことを「のいち鉄塔」と名付けてしまっていた。これは理屈抜きの少年らしいアイディアだ。 そして７５号鉄塔の下...</description>
<dc:subject>鉄塔武蔵野線</dc:subject>
<dc:creator>アスラン</dc:creator>
<dc:date>2009-12-10T19:35:57+09:00</dc:date>
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　〈発見の日〉の翌々日に田舎から戻ってきたアキラを自宅から連れ出した見晴は、やはり始まりの「７５－１号鉄塔」に行く。いきなり、<br /><strong><blockquote>「この鉄塔は７５－１(のいち)なんだ。」(P64)<br /></blockquote></strong><br />と話を切り出す。なんのことかわからないアキラの関心を誘うように、すかさず７５号鉄塔に移動して、結界の解説をする。ポイントは「のいち」だ。見晴は、ここ数日の間に「七十五の一」と読むであろう枝番の鉄塔のことを「のいち鉄塔」と名付けてしまっていた。これは理屈抜きの少年らしいアイディアだ。<br /><br />　そして７５号鉄塔の下で、「鉄塔をたどれば、１号までいける。そこに原子力発電所があるはず」と思いつきを言葉にしながら、この先がどうなっているか「調査しよう」とアキラに持ちかける。乗ってきたアキラと一緒に、続いて７４号鉄塔に行き、金網の上に張られた有刺鉄線がゆるんだところから柵を乗り越えて、持って行ったメダルを埋めた。<br /><br />　このときに見晴はアキラの疑問に答えて、「メダルを埋める理由」をピラミッドパワーだと強引に理屈付けてしまう。四角錐という点で、鉄塔もピラミッドの仲間だという理屈だ。分からないでもないが、普通はそう見えないし、そう思わないだろう。その上で、頂点の真下に鉄塔のパワーが集中するので、そこにメダルを埋めていけば、全ての結界にメダルがおさまった時点で何かがおこる(はず)。もちろん、アキラを鉄塔探検にいざなう方便だとはいえ、見晴イコール成長した「わたし」も半分は信じているのかもしれない。<br /><br />　そして、ついになしくずし的にアキラをともなって、見晴はまだ見ぬ７３号鉄塔へと、再び武蔵野線の鉄塔をさかのぼっていく。<br /><a href="http://elleryqueen.up.seesaa.net/image/C5B4C5E3C9F0C2A2CCEEC0FEA5A6A5A9A1BCA5AF8-612c9.JPG" target="_blank"><img src="http://elleryqueen.up.seesaa.net/image/C5B4C5E3C9F0C2A2CCEEC0FEA5A6A5A9A1BCA5AF8-612c9-thumbnail2.JPG" width="145" height="150" border="0" align="" alt="鉄塔武蔵野線ウォーク8.JPG" onclick="location.href = 'http://elleryqueen.seesaa.net/upload/detail/image/C5B4C5E3C9F0C2A2CCEEC0FEA5A6A5A9A1BCA5AF8-612c9-thumbnail2.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><a name="more"></a>

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<title>狂骨の夢 京極夏彦(2009/6/22読了,再読)</title>
<description> 三読あるいは四読か。前に読んだ感想でも書いたが、この作品からミステリーらしい体裁が整うことになる。それ以前は、例えば「姑獲鳥の夏」のトリックは通常のミステリーの範疇では認めがたい。ただし、よくよく読み込むと、何故事件はおきたかという状況のパズルは、ぴったりと最後のピースがはまるところで全体像が浮き上がるように仕組まれている。こでは見事だ。そこにこそ「姑獲鳥」の良さがあると再読して分かった。 次作「魍魎の匣」は、当然ながら乱歩の「押絵と旅する男」を念頭に置かねば読めない作品で...</description>
<dc:subject>書評</dc:subject>
<dc:creator>アスラン</dc:creator>
<dc:date>2009-12-08T12:57:53+09:00</dc:date>
<content:encoded><![CDATA[
　三読あるいは四読か。前に読んだ感想でも書いたが、この作品からミステリーらしい体裁が整うことになる。それ以前は、例えば「姑獲鳥の夏」のトリックは通常のミステリーの範疇では認めがたい。ただし、よくよく読み込むと、何故事件はおきたかという状況のパズルは、ぴったりと最後のピースがはまるところで全体像が浮き上がるように仕組まれている。こでは見事だ。そこにこそ「姑獲鳥」の良さがあると再読して分かった。<br /><br /><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&npa=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=elleryqueense-22&o=9&p=8&l=as1&m=amazon&f=ifr&asins=4062649616" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0" align="left" ></iframe>　次作「魍魎の匣」は、当然ながら乱歩の「押絵と旅する男」を念頭に置かねば読めない作品である。ただ、これほどの読者の支持を集めたのは、少女(＝女子高生)のアンビバレントな内面を、曖昧な境界に棲む〈魍魎〉の存在と重ね合わせて描いた、作家の力量が前面に現れたゆえの事だろう。「みっしり」というキーワードも、オカルトとしての雰囲気を十分に読者に託していて、それこそ乱歩と同質の狂気三昧が堪能できる作品だった。<br /><br />　さて、では三作目ではどのような展開が待ち受けているか。<br /><br />　神奈川の逗子海岸沿いで暮らす、孤独な女の独白から物語は始まる。海鳴りがする。イヤだ、イヤだ。海鳴りなど嫌いだという心の声がする。目が覚める。そして夢に見た記憶が自分のものではない誰かの記憶であると気づかされる。だが、一体何故？<br /><br />　サイコスリラーとしても非常に見通しのいい演出がなされると同時に、きちんとエンディングにミステリーらしいトリックと謎解きが用意されている。それでいて、本質的な妖怪の物語の部分も、いつものように荒唐無稽な展開(骸骨から次第に肉がついて復顔していく死体」を折り込んでいく。シリーズ中、もっともバランスがとれている作品と言える。<br /><br />　そのバランスの良さを決定づけているのは、終盤で京極堂が関係者全員を集めて謎解きする〈グランドホテル形式〉を、著者が踏襲しているからに違いない。本人は探偵ではない、憑き物落としだと、自らの役回りを説明するのが、このシリーズでのお約束だが、こと、この作品では間違いなく京極堂が探偵としての役割を果たしている。<br /><br />　その上、毎回救いようのない物語と、救われない人物たちを描きながら、本作のエンディングには明らかに救いがある。その後、たびたび犯人たちから京極堂の弱点として「ヒューマニズム」があげつらわれるが、京極堂本人がなんと強弁しようとも、京極堂には昔ながらの探偵が抱えるヒューマニストの一面が感じられる。ヒューマニズムとニヒリズムとの境界で、そしらぬ顔で本に没頭する際に、僕ら読者は京極堂の隠しようのない素顔を読み取る。<br /><br />　ひょっとして、関口を〈友人〉ではなく〈知人〉と言い続ける京極堂のこだわりには、このヒューマニズムが関係しているのかもしれない。<br /><br />　関口は、言ってみればニヒリズムの権化のような存在だ。もし、友情の名の下に優しく手をさしのべれば、本人だけでなく周囲の者までもが、ニヒリズムの深淵に呑み込まれる。それを十分に理解している京極は、自らの一つのありうべき姿を関口に見る。そして無関心を装っているのだ。<br /><br />　そこには、いつでも境界にたたずんで、書物という護符に守られながら世間と関わることなく超然と生きようとする(あるいは死んでいこうとする)、彼の処世術が見える。だが、しかし、周囲では一向に彼を安んじておこうとはしないのだ。<a name="more"></a>

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<title>魍魎の匣 京極夏彦(2008/10/20読了,再読)</title>
<description> 村上春樹の「１Ｑ８４」がようやく借りられて何をおいても読んだりして、次々と図書館の本を優先しているうちに、また〈京極堂シリーズ〉読破の計画が停滞している。「邪魅の雫」に到達するには、すでに長編は全部すませてあり、あとはスピンオフのオムニバス作品をたったの３冊ほど読むだけだ。ついでに書きそびれていた書評を書き上げてしまいたい。 「魍魎」から書かねばならないと気づいて前回の再読日を調べたら、なんと丸一年たっていた。本当だろうか。いやどうも本当らしい。その１冊前に「姑獲鳥の夏」を...</description>
<dc:subject>書評</dc:subject>
<dc:creator>アスラン</dc:creator>
<dc:date>2009-12-07T12:53:58+09:00</dc:date>
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　村上春樹の「１Ｑ８４」がようやく借りられて何をおいても読んだりして、次々と図書館の本を優先しているうちに、また〈京極堂シリーズ〉読破の計画が停滞している。「邪魅の雫」に到達するには、すでに長編は全部すませてあり、あとはスピンオフのオムニバス作品をたったの３冊ほど読むだけだ。ついでに書きそびれていた書評を書き上げてしまいたい。<br /><br /><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&npa=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=elleryqueense-22&o=9&p=8&l=as1&m=amazon&f=ifr&asins=4062646676" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0" align="left" ></iframe>　「魍魎」から書かねばならないと気づいて前回の再読日を調べたら、なんと丸一年たっていた。本当だろうか。いやどうも本当らしい。その１冊前に「姑獲鳥の夏」を読了しているから確かだ。「姑獲鳥」の書評で、テレビアニメ版「魍魎」が放送されている話をしている。そう言えば秋の番組だった。では、一年前に読んだ本の話をこれからすることになるわけだ。<br /><br />　せっかく、最新作「邪魅の雫」までひとつながりとなる、京極堂シリーズが築き上げる曼陀羅図を実感しようと始めた固め読みのはずだったのに、こんなに時間がかかっては元も子もないではないか。再び眠りかけていた箱本の一冊を鞄に放り込んで、電車の中で、まさにこの書評を書き出している。あの長さの本だから、もういちど中身をあらためていると、最初から読み直しになりそうで怖い。<br /><br />　さて、以前読んだときに即座に思ったのは、この作品は乱歩の「押絵と旅する男」からインスピレーションを与えられているということだった。そもそも乱歩の作品では「押絵」が、絵でありながら生身の女性の生々しさを持ち合わせている。それを嬉々として大切に抱き抱えている男の狂気が語られる作品だ。<br /><br />　ただし、あの作品のもっとも印象深いところは、男の「狂気」そのものではない。たしか、浅草にかつてあったという〈十二階〉というタワーから地上を覗き見てみると、その怪しげな男と押し絵がはっきりと見えたという語り手の場面があったはずだ。そのときに僕が感じた、妙に遠近感が崩れた乱歩特有の筆致が怖かった。<br /><br />　つまり、「はっきりと見えている」と書かれていながら、周辺は遠近が狂ったかのようにあいまいではっきりとしない。マージナルな妖怪〈魍魎〉が徘徊しているかのようだ。ところで、この話はあくまで僕のうろおぼえの回想なので、こんなシーンが「押し絵」にはないかもしれない。ひょっとしたら「パノラマ島奇談」に描かれたジオラマの方と混同しているかもしれない。それはさしたる問題ではない。つまりは乱歩の書き方にそういう境界が不分明になる妖しいところが存在するのだ。「虚覚え」とはよく言ったものだ。まさに「虚(うろ)」こそが、魍魎が跋扈する証しだ。<br /><br />　そして、近代的な遠近法(パースペクティブ)を用いて「魍魎」という妖怪に分かりやすい形を与えたのが、この作品であり、著者の京極夏彦である。だからこそ、曖昧な存在である「魍魎」に対しては、主人公の京極堂の歯切れがいたって悪い。言葉を尽くして策を弄する事で憑き物を落とす、いわばカウンセリングを手法とする京極堂の手口というのは、安倍晴明から連なる陰陽道などを基本とする日本古来の手法でありながら、近代的な知の体系と折り合いをつけた、きわめて明解な論理と倫理にのっとったものだからだ。そこに「曖昧さ」は許されない。あれば、逆に自らの言葉の「魔」に取り込まれてしまうだろう。<br /><br />　そのために、おそらくは乱歩が描写を手控えた「人体を機械に見立てる」あるいは「箱の中の機械を人体に見立てる」という、グロテスクでありながら滑稽なモチーフに、著者は徹底的にこだわり、克明に描き出す。しかし、それ自体がいかにリアルに描かれようと、実もフタもないモチーフであることは否めない。<br /><br />　だからだろう。乱歩の〈男〉が、結局は「魍魎」という作品でも勝利することを、著者は忘れる事なく最後にきちんと描いている。「人であることをやめたとき」、乱歩の〈旅する男〉は出現する。きわめて浅ましい感情でありながら、人間の根源にまで遡る原初的な意識の余韻が感じられるラストとなった。<a name="more"></a>

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<title>鉄塔武蔵野線ウォーク(インターミッション２～７４号結界にて～)</title>
<description> 見晴は７４号鉄塔の結界から、森の向こうに姿を隠した次の鉄塔に思いを馳せながら、そのときわたしに閃いたのは、これらの鉄塔をずっと辿って行けば、やがては１号鉄塔に行き着くのだということでした。(P.50)と、初めて武蔵野線を１号鉄塔までたどる冒険を現実化する。そして１号鉄塔の先には「原子力発電所」が待ち受けているはずだと、空想をかきたてている。この「発見」を共有してもらいたくて、遊び仲間で年下のアキラの家に向かう。 アキラの家がどこにあるのかは、小説にほとんど手がかりがない。「...</description>
<dc:subject>鉄塔武蔵野線</dc:subject>
<dc:creator>アスラン</dc:creator>
<dc:date>2009-12-04T13:02:31+09:00</dc:date>
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　見晴は７４号鉄塔の結界から、森の向こうに姿を隠した次の鉄塔に思いを馳せながら、<br /><strong><blockquote>そのときわたしに閃いたのは、これらの鉄塔をずっと辿って行けば、やがては１号鉄塔に行き着くのだということでした。(P.50)</blockquote></strong><br />と、初めて武蔵野線を１号鉄塔までたどる冒険を現実化する。そして１号鉄塔の先には「原子力発電所」が待ち受けているはずだと、空想をかきたてている。この「発見」を共有してもらいたくて、遊び仲間で年下のアキラの家に向かう。<br /><br />　アキラの家がどこにあるのかは、小説にほとんど手がかりがない。「サッカーボールをは小刻みにドリブルしながら取って返しました。」(P.52)と書かれているので、見晴の家と同じ７５ー１号鉄塔の西側にあると考えるのが妥当なところだが、さてどうだろう。<br /><br />　アキラの家は「櫟林(くぬぎばやし)」に隣接した一軒家で、門や鎧戸、庭、屋外駐車場がある。この記念すべき「発見の日」に、アキラは田舎に帰省していて留守で、見晴はあらためて出直すことになる。数日後に再度訪れたときには「櫟林の家」と表現している。残念ながら櫟を主体とした雑木林かどうかは、航空写真では判別できない。どれもこれも同じに見える。<br /><br />　この〈発見の日〉の午後、残りの時間を見晴は、結界に埋めるメダルを王冠で作り、ポケットに詰めて再び外出する。「鉄塔の結界に記念品を埋めてこよう…！」(P.54)という思いつきなのだが、これがアキラと結成する事になる鉄塔探検隊のお約束の一つとなる。<br /><br />　すべてのはじまりの７５－１号鉄塔は、見晴の身長の２倍はある柵で囲まれている。ここを見晴は「胴貫材」に足をかけて、やすやすと乗り越える。ここの描写は、メダルを結界に投げ込む最初の場面なので、読者が躓かないようにあっさりと書かれているが、実は二つの点で、僕ら読者を立ち止まらせるポイントがある。<br /><br />　ひとつは、７５－１号鉄塔が香田変電所の構内にあるという事実だ。これまでも、そしてこれからもそうだが、見晴は一度たりとも変電所構内に立ち入る事はない。早く言えば「不法侵入」だし、構内の職員に見つかる危険性がきわめて高い行為だからだが、この７５－１号鉄塔については、あたかも構内ではないかのように、見晴に結界の柵を乗り越えさせている。<br /><br />　もうひとつは、すでに気づいている読者は多いと思うが、語り手である見晴が「柵の横に張られた鉄材」を「胴貫材(どうぬきざい)」という専門用語で呼称している点だ。いったい、見晴はそんな言葉をどうして知っているのだろう。そういうマニアックな少年だと言い切る事も可能だが、要するに語り手は見晴自身ではなく著者だと考えるべきだ。つまりこの小説では、実際に著者が見て歩いてきたルポルタージュと、小説としてのファンタジーとが不分明なまま、同時的な視点で書かれている。<br /><br />　もちろん、見晴が大人に成長した時点から子供の頃の自分を振り返って語るという体裁をとっている事は、本書の冒頭の一文から明らかではある。<br /><strong><blockquote>　あれは１９９Ｘ年の夏でしたから、もうずいぶん昔のことになります。(P5)</blockquote></strong><br />　ところが不思議なことに、この小説が初めて新潮社から出版されたのが１９９７年だから、語り手の「わたし」は、２００９年現在よりもさらに未来のどこかで、この物語を語っていることになり、そうだとすると一種の近未来小説と言えなくもない。<br /><br />　ただ、もっとも正しい解釈は、１９９Ｘ年の夏に取材した著者が、小学５年生の見晴の目と肉体を借りて、ルポルタージュと物語とを同時進行させたかったと見るべきだろう。<br /><br />　７５－１号から順に、終点の８１号鉄塔まで、メダルを結界に置いてゆく見晴だが、お約束のもうひとつとして、結界のちょうど中心、すなわち頭上を見上げて鉄塔の先端が形作る×印が、ちょうど真ん中でクロスする位置の真下にメダルを埋める。しかし、このお約束は、「結界」という言葉が文字通り「人を近づけない領域」であると物語っているように、今後の見晴たちの前に大きな障害となって立ちはだかる。<br /><br />　８０号鉄塔では金網で囲まれている結界に、人目が多すぎて入るのに勇気がいったり、当然なことではあるが、終点の８１号鉄塔がまたしても変電所構内にあるために、立ち入る事が許されず、結界の中にメダルを投げ入れるだけで、自らを納得させるしかない。<br /><br />　とにもかくにも、７５－１号から南側にのびる武蔵野線をすべて踏査した見晴は、いよいよ隊員一名をともなって、未踏の一号鉄塔を目指す事になる。<br /><a href="http://elleryqueen.up.seesaa.net/image/C5B4C5E3C9F0C2A2CCEEC0FEA5A6A5A9A1BCA5AF8-612c9.JPG" target="_blank"><img src="http://elleryqueen.up.seesaa.net/image/C5B4C5E3C9F0C2A2CCEEC0FEA5A6A5A9A1BCA5AF8-612c9-thumbnail2.JPG" width="145" height="150" border="0" align="" alt="鉄塔武蔵野線ウォーク8.JPG" onclick="location.href = 'http://elleryqueen.seesaa.net/upload/detail/image/C5B4C5E3C9F0C2A2CCEEC0FEA5A6A5A9A1BCA5AF8-612c9-thumbnail2.JPG.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a><a name="more"></a>

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<title>船乗りクプクプの冒険 北杜夫(2009/6/19読了)</title>
<description> 「どくとるマンボウ」シリーズでおなじみの北杜夫が書いたファンタジーだ。いや、少年向けの冒険小説と言った方がいいか。この「少年向け」というところがくせ者で、必ずしも〈今の少年〉と限らず〈かつての少年〉をも惹きつける魅力をもっている作品だ。  えらそうなことを言ってるが、「どくとるマンボウ」シリーズをおそらく一冊ぐらいしか読んでいないのではなかったか。なにしろ中学生の頃のことだから思い出せない。 では「クプクプ」は読んだことがあるあと言えば、こちらも記憶にない。以前にこのブログ...</description>
<dc:subject>書評</dc:subject>
<dc:creator>アスラン</dc:creator>
<dc:date>2009-12-02T12:28:38+09:00</dc:date>
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　「どくとるマンボウ」シリーズでおなじみの北杜夫が書いたファンタジーだ。いや、少年向けの冒険小説と言った方がいいか。この「少年向け」というところがくせ者で、必ずしも〈今の少年〉と限らず〈かつての少年〉をも惹きつける魅力をもっている作品だ。 <br /><br /><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&npa=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=elleryqueense-22&o=9&p=8&l=as1&m=amazon&f=ifr&asins=4087500306" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0" align="left" ></iframe>　えらそうなことを言ってるが、「どくとるマンボウ」シリーズをおそらく一冊ぐらいしか読んでいないのではなかったか。なにしろ中学生の頃のことだから思い出せない。<br /><br />　では「クプクプ」は読んだことがあるあと言えば、こちらも記憶にない。以前にこのブログにも登場した中学校の国語の授業で作らされた読書感想ノートによると、読んでなさそうだ。井上ひさしの「ブンとフン」と間違えていたかもしれない。この「クプクプ」も「ブンとフン」も、日本のどこにでもいそうな一家族の中の少年の視点から、一気にファンタジーの世界に飛翔するところが、きどってないでゆかいだ。<br /><br />　おそらく、中学～高校ぐらいで読んでいたら、この気取りのなさがつまらないと思えていただろう。なんでもかっこつけたがる〈きどり〉があるのが、若い頃の目線だったからだ。<br /><br />　クブクブは、自分が書いた、いや書こうとしていた物語の主人公となって、空想の世界に飛び込んでしまう。おまけに完結していない、先の見えない未知の世界が待ち受けているのだ。その世界では、「宝島」と見まごうような航海の日々と、海賊に遭遇する物語だ。<br /><br />　とってもナンセンスでありながら、いつでもどこでも、あの日本のどこにでもある町に、家に、家族に戻れる安心感が、クプクプ以外のぼくら読者には最初から満たされたファンタジーだ。これに似たものを僕らは長く親しんでいるはずだ。そう、あの「ドラえもんとのび太」の冒険の原点のような作品だ。<a name="more"></a>

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<title>女について 佐藤正午(2009/6/18読了)</title>
<description> １９９１年に講談社文庫から「恋売ります」というタイトルで出版され、その１０年後に「女について」と改題されて光文社文庫から出版された。このタイトルの変化だけ見ても、出版社の売り方に違いが出ていて面白い。講談社文庫の方は短編のタイトルをそのまま本のタイトルにしただけで、短編集にはよくあるネーミングの方法に過ぎないのかもしれない。だが、明らかに２０～３０代の独身ＯＬをピンポイントにターゲットにした売り方が透けてみえる。 一方で光文社文庫の方は、もうちょっと幅広い層の女性にも読んで...</description>
<dc:subject>書評</dc:subject>
<dc:creator>アスラン</dc:creator>
<dc:date>2009-11-28T04:08:36+09:00</dc:date>
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　１９９１年に講談社文庫から「恋売ります」というタイトルで出版され、その１０年後に「女について」と改題されて光文社文庫から出版された。このタイトルの変化だけ見ても、出版社の売り方に違いが出ていて面白い。講談社文庫の方は短編のタイトルをそのまま本のタイトルにしただけで、短編集にはよくあるネーミングの方法に過ぎないのかもしれない。だが、明らかに２０～３０代の独身ＯＬをピンポイントにターゲットにした売り方が透けてみえる。<br /><br /><iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?lt1=_blank&bc1=FFFFFF&IS2=1&npa=1&bg1=FFFFFF&fc1=000000&lc1=0000FF&t=elleryqueense-22&o=9&p=8&l=as1&m=amazon&f=ifr&asins=4334731384" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0" align="left" ></iframe>　一方で光文社文庫の方は、もうちょっと幅広い層の女性にも読んでもらおうとしている。あえて無色で抽象的なタイトルを選び直していることからも、一見して明らかだろう。いや、「女について」という語感からして恋にうつつを抜かす女性の物語ではなく、〈女の剥き出しのエロス〉や〈女という生き方〉をスケッチしている短編集だと読者に知らしめようとしている。さらに言えば、その「女」を、つかず離れず絶妙の距離感から眺めている男の存在が感じとれるタイトルでもある。そこには光文社文庫らしく、男性の読者に抵抗なく手にとってもらうための配慮が感じられる。<br /><br />　どちらが良いかは別にして、光文社文庫の方が派手さはないが内容を言い当てたタイトルだと言える。おそらくはタイトルと内容のギャップに対する見定めが出来てなかったからこそ、たかだか１０年足らずで講談社文庫は本書を絶版にして、光文社文庫に譲り渡す事になったのだろう。<br /><br />　前々から書いてきたが、佐藤正午の魅力は決してありきたりな「恋愛小説の達人」などというところにはなく、自堕落で身勝手なありのままの男を描く、そう言ってしまえば「ダメ男小説の達人」なのであって、それでいて〈ダメ男が何故か気になる女性〉にアピールする小説を書く達人でもある。そうでなければ、水商売の女性からいきなり嘔吐物を掛けられるのがきっかけの物語や、高校からの悪友が淋病にかかった事から始まる物語を、まだ酸いも甘いも区別がつかない２０代の女性が好んで読むわけがない。<br /><br />　こう書くと下世話な物語ばかりが集められた短編集なのかと誤解されるかもしれない。いや、正直、「ソフトクリームを舐める女について」というタイトルの短編が含まれているのだから、下世話な題材をあえて著者が選んでいる事は確かなのだけれども、そこから見事なほど洒落て後味のよいオチへと読者を誘ってくれる。<br /><br />　で、最後に僕が言う事は、洒落てはいないがお決まりの文句になる。佐藤正午は文章の達人だ、と。<a name="more"></a>

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