2012年04月19日

羊をめぐる冒険 村上春樹(2004年11月19日読了)

 不思議な感覚だ、連作を遡って読むのは。特に「ダンスダンスダンス」から「羊」にリターンするのは。

例えばあれほど頻繁に出てきたダンキンドーナツが出てこない。かろうじて「ドーナツショップ」がでてくる。まだ「僕」にとってはリーバイスのジーンズほどのブランドでなかったのだろうか。

 本作の「僕」はまだ若い。それは若いという事が反社会的と同義であった時代の名残があるという意味で。羊博士も黒服の男もいまや無意味となったマルクス主義の終焉を語るし、なにより「僕」は学生運動にあけくれた日々をかくさない。いまや過去であるにしても。

 それに比べると「ダンス」の「僕」のなんと身軽になった事だろう。もう理論武装する必要もない。「「羊」でことさらに自分の好みのカルチャーを微にいり細をうがって描いた文体は「ダンス」にはない。もはやポップであることは反動でもなんでもない、当たり前の事になった。

それは「僕」すなわち著者自身の成熟を意味するのかもしれない。それとも高度成長期をやりすごすのと、バブルただなかをやりすごすのでは「僕」のスタイルが違うだけなのかも知れない。

 いずれにしても僕は「村上春樹」を遡り続けなくては。
(2005年5月25日初出)

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2012年03月28日

語り女たち 北村薫(2004年10月29日読了)

 「アラビアンナイト(千夜一夜物語)」のような趣向で、語り女(かたりめ)として夜伽を命じられたとおぼしき様々な女性が、懐かしい話、不思議な話、怖い話を語り継いでいく短編集。

 といっても、横暴な君主が残酷な死と引き替えに寝物語を語らせるわけではなく、高等遊民らしい控えめな男が海辺の静養地の一室で、語り女たちに自由気ままに物語を語らせている。

 北村薫らしいと言えばそうだけれど、最近の趣味を反映してか、夢かまぼろしのように輪郭が曖昧な小編を揃えた短編集になっている。

 僕は、どちらかというと「水を眠る」のような、ファンタスティックで、それでいてどこか日常とリアルな接点をもった作品が好きだ。本作でも、そういうテイストの作品がいくつか紛れ込んでいる。一気に読んでしまってちょっと勿体なかったかな。いずれゆっくりともう一度味わいたいな。
(2005年5月21日初出)
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2012年03月20日

「明るい館の秘密(若島正)」の過失(その5)(2012/3/9改訂)

(この記事では、アガサ・クリスティー著『そして誰もいなくなった』のネタバレを行っています。未読の方は読まないようにお願いします。)

 今回が、このエッセイ(評論)の最終回だ。僕が言いたいことは3点あると(その1)に書いた。

(1)若島の主張する「叙述トリック」は、言わば手品のタネである。若島は手品のタネをあばいた上で「作者の手際の良さ」だけを賞賛するが、「手品そのものの出来映え」に対する正当な評価を欠いている。
(2)若島は「(『そして誰も…』は)論理的に構築されている」と主張するが、必ずしも論理的な構成とは言えない。
(3)「(『そして誰も…』は)犯人のトリックはつまらないが、作者クリスティの叙述トリックは賞賛できる」という若島の主張には異論がある。ましてや「再読しないと真価がわからない作品」という独断には、なんら正当な根拠はない。


 (1)(2)については、ほぼ言い尽くしたように思う。(3)については、著者・若島正による『そして誰もいなくなった』の叙述トリックの偏った見方にたいしてのみ、かなり詳しく異議申し立てをしてきた。言いそびれたことがあるとしたら『そして誰も…』」という作品のおもしろさについてだ。若島の主張を解体する事に主眼があるので、行きがかり上、叙述トリックの出来映えばかりに言及しているが、『そして誰も…』はトリックだけに注目すべき作品ではない。たとえばポアロやミス・マープル物のように、物見遊山の一つのように殺人が扱われるのと違って、孤島で進行する連続殺人の緊張感は他のクリスティ作品の中でも群を抜いている。まあ、そんなことを言い尽くしてみたいのだが、この評論で語るのがふさわしいとは思えない。機会をあらためて書評で書きたいと思う。

 ここでは最後まで、若島正の「明るい館の秘密」という小論に限定して、残された課題をやり遂げて終わるとしよう。その課題とは『そして誰も…』の導入部(第一章1〜8節)の詳細な分析だ。(その4)で第一章1節(ウォーグレイヴ判事の関する描写)のみくわしく分析した。叙述トリックを読み解いて「判事は犯人の可能性あり」という結果が得られた。と同時に「(初読者が)叙述トリックを見破れるか」という点については、「かなり困難である」ことが、1−1の地の文や心理描写の巧みな構成から理解できた。

 何故ここまでウォーグレイヴ判事に関する地の文(客観描写)や判事の心理描写を重点的に分析したかといえば、早い話が再読者にとって「判事が犯人である」のは自明だからだ。自明なことを前提にして、いかにして叙述トリックによる「犯人の痕跡の消去」が実現されているかをみるのは、それこそマニアックなファンならではの楽しみ方だ。しかし、若島の主張する「犯人を見破れる」かという点については、初読者が犯人当てに挑むのであるのだから、すべての登場人物の描写を等しく分析しなくては犯人の目星などつきようがない。

 そこで判事同様、他の登場人物についてもくわしく原文や訳文をつきあわせて読み解いてみたいところだが、それだけの時間的余裕と英文の読解力の持ち合わせがない。やむを得ず今回は、作者クリスティの気持ちになって作品全体を俯瞰する視点から考えてみる。

 若島正は『そして誰も…』の特徴として、登場人物の心理描写には「本当のことしか書かれていない。ならば犯人の心理描写には叙述トリックが仕掛けられている」と考えた。しかし、(その4)でみてきたように語り手が語る地の文(客観描写)にも叙述トリックが多数混入している。僕らは、まず何よりも先に一つの問いについて考えなければならない。

(A)語り手は、犯人が誰かをいつ知ったか?


 一見するとばかげた問いにみえるだろう。しかしこの問いが「ばかげている」と言い切るためには、語り手が「全能の話者による三人称の語り(若島)」であるという、ジャンルとしての小説の決まり事を鵜呑みにすることから始めなければならない。ところが「叙述トリック」というジャンルは、この決まり事(信念と言ってもよい)を逆手にとることを主眼においたミステリーである事を、前回身をもって体験した。だから、まずはこう考えるべきだ。

 作者(演出家)と語り手と登場人物(役者)は別々の存在であり、彼らをつなぐものは台本でしかない。しかも、近頃なくなった井上ひさしばりに遅筆の作者によって、提供される台本は最後のシーンまで書かれていない。たかだか演じ手が、場面場面を演じきる部分のみを直前に渡されると考えたらいい。あるいは、彼ら一人一人は自分が話す台詞は与えられるが、その他の人物の台詞は空白のままに、自分用の台本が用意されているとする。

 同様に語り手には語り手専用の台本が用意されている。各人は自らの台詞をしゃべる、あるいは語りを挿入するきっかけだけが何らかの合図で教えられる。そのようにして順番に台詞や語りが組み合わされて、物語が進行する。聴衆(読者)は、だれがどの台詞を言うのかを会話の部分のみ区別する事はできるが、独白の部分については声質を変換する機械処理が施されていて判別できない。

 こう考えると、すべての結末と仕掛けを知っているのは「作者」ただ一人という事になる。僕は文芸評論を読みだした当初、作者と語り手を区別して考える事に何の意味があるのだろうと思っていた。「語り手=作者」とみなしていいのではないかと安易に考えていた時期があった。しかし、『そして誰も…』のような非常にトリッキーな作品では、この手の「盲信」は危険この上ないという事が実感できる。

 語り手も登場人物も、それぞれの分担において真実のみを語る。そうは言うが、ここで言う「真実」とは、たかだか作者によってコントロールされた真実でしかない。語り手も登場人物も、自らが語ったり考えたりした事が「真実であるか否か」の責めを負う必要などないのだ。

 そこで(A)の問いを念頭に置いて導入部を見渡してみると、おどろくほど「語り手」の立場を知る手がかりが少ないことに気がつく。当然だが語り手の立場を疑うこと自体、小説という枠組みそのものへの疑義にほかならない。それ故に作者もことさらに語り手の手口をさらけ出す必要を感じていなかったに違いない。だが、決定的な場面は導入部の最後の最後(第一章8節)にやってくる。

 元警部のブロアは、島の所有者から依頼されて、島にやってくる人々を監視するために列車に乗っている。そこでたまたま同乗していた船乗りらしき老人から意味深な警告を受ける。

「お前にいってるんだよ。…審判の日はすぐそばまできているのだ。」

 それに反発したブロアは、審判の日が近づいているのは老人の方だろうと独白するが、その直後に語り手は、こう言う。

しかし、ブロア氏の考え方はまちがっていた。


 この場面は「思わせぶり」な会話と心理描写の典型だ。叙述トリックというよりは序盤のサスペンスを盛り上げる〈演出〉とみるべきだ。重要なことは、語り手が「ブロアの末路」を予見しているという点だ。ブロアが殺される(すなわち審判の日が訪れる)のは『そして誰も…』の終盤だ。ということは、少なくともブロアが亡くなるまでのストーリー展開も、各登場人物の動向や心理も頭に入っているようだ。

 語り手が全知全能の力をもって未来を見渡せることが、この一文をもって担保されている。再読者・若島ならば「語り手は真実のみを語っている」と確信するかもしれないが、それは先走った考え方だろう。あくまで、語り手を支配しているのは狡猾な作者であることを忘れてはいけない。とりあえず(A)の問いに答えるとしたら、「導入部の時点で、語り手はブロアが殺されるまでを全知全能の力で予見している。語り手は可能な限り客観的に描写することを使命とするが、思わせぶりな描写をすることはいとわない。」と言えばいい。確証はないが、導入部の時点で「語り手は犯人を知っている」とほぼ考えていい。

 引き続いて、もうひとつばかげた問いをしてみよう。すなわち、

(B)犯人は、いつ自分が犯人だと知ったか?


だ。実はこれは(A)ほどばかげた質問ではない。語り手を疑う事は小説の決まり事を疑う事だから、それを疑う僕の方がどうかしていると言われても致し方ない。しかし、登場する人物の精神状態までがすべて「普通」であると誰が確約できるというのだろうか。

 これは『そして誰も…』でクリスティが成し遂げた功績の一つと言っても言い過ぎではないと思うが、「犯人が犯人らしくなく、犯人以外の人物がすべて怪しい」という描写を、作者はそれこそ「愚劣にならずに(クリスティ自伝)」なるようにかなり工夫している。それが「思わせぶり」の叙述トリックの効果だ。そして(B)の問いかけの究極の回答が、「多重人格(サイコ)による殺人」というアイディアである事は言うまでもない。もちろん『そして誰も…』はサイコによる連続殺人とまでは言えないが、あと一歩というところまで来ていた。エラリー・クイーンが後年、まさにこのモチーフに磨きをかけた作品を実現している。

 すでに結末まで読んだ再読者にとっては、問い(B)の答えは明らかだ。「犯人は導入部の最初から自分が犯人である事を自覚している」。もちろん、初読者がそうだと気づくような手がかりは導入部には見あたらない。当然だろう。クリスティの没後に大流行することになる「サイコミステリー」では、日常生活をふつうに営む一市民が少しずつ本性を現していく。手がかりはゆっくりとページを追うごとに与えられていくものだからだ。

 だが、書かれていない事をあれこれ詮索しても始まらない。導入部を分析する際に問い(A)(B)から僕らが考慮すべき前提は、
・作者は語り手や登場人物を自在に操って、読者に叙述トリックを仕掛けてくる。
・語り手は「犯人」を知っている。犯人をばらすような「あからさまな描写」は書かないし、犯人をばらさないように「思わせぶりな描写」をする。
・犯人は犯人である事を自覚している。犯人だとばれるような「あからさまな独白」はしないし、犯人だとばれないように「思わせぶりな独白」を胸にいだく。
・犯人以外は犯人を知らない(導入部に限っていえば、島に殺されに行く事になるとは知らない)。犯人でないとばれるような「あからさまな独白」はしないし、犯人でないとばれないように「思わせぶりな独白」を胸に抱く。
・島に集められた10人は大なり小なり罪を犯しているために、犯人でなくてもあたかも犯人らしくみえるような「思わせぶりな独白」を抱く。


 若島が小論で主張した叙述トリックは、3番目の箇条書き(犯人に関する前提条件)に含まれる。

 次に犯人の要件を列挙していこう。ここでは再読者(若島)の手法に則って、結末で知り得た情報を利用する。作品全体が「論理的に構築されている」という前提で犯人像を追い込んでいく。何度も言うようだが、「だから犯人を推定できる」わけではない。あくまで「つじつまがあっているか否か」の問題にすぎない。

 犯人はモリスという共犯者に、犯人以外の9人を一箇所に集める算段をまかせた。そのうえでモリスを事前に殺害しておいたことは、海で見つかった瓶の中の手記でわかっている。この犯人の手記を根拠として、以下の事が言える。

(1)犯人は9人の名前・性別・人となり・犯した犯罪について知っている。ただし9人と面識がある必要はない(あるいは「顔の判別」ができる必要はない)。彼らを殺害する目的は「法で裁けない犯罪者」を断罪することだ。
(2)犯人と共犯者モリスとは面識がある。知らないそぶりで会話することはできない。
(3)手紙はモリスが書いたので、手紙の外見的特徴を犯人は知らなくてもいい。たとえば、
 - 手紙の外見(字が読みにくい)
- U.N.オーエン=UNKNOWNというこけおどし(思いついたのは、犯人とモリスのいずれの可能性もある。)
(4)犯人は、自分を含めた10人全員を島に誘い出す口実(手紙の差出人、仕事の依頼、旧交の再会など)について事前に知っている。
(5)犯人は、集められる場所が「インディアン島(兵隊島)」であることを知っている。富豪が建てた邸宅の存在も知っている。必ずしも上陸したり見たりしたことがある必要はない。
(6)オーエン夫婦が架空の存在だと知っている。


 これらの要件を満たす人物が、若島が言うとおり「ウォーグレイヴ判事」しかいないのかを見ていこう。判定記号は以下のとおりである。

 ○…犯人である
 ×…犯人ではない
 △…犯人の可能性あり(犯人でない可能性もある)
 −…判定材料がない

[ウォーグレイヴ判事の場合]

(1)−:他の9名と(一章では)接触なし。
(2)−:共犯者との接触なし。
(3)△:「発信者は”あなたのコンスタンス・カルミントン”と美しい筆蹟で署名していた」が、語り手の叙述トリックの可能性あり(「発信人」の真偽は不明)。
(4)△:また、「自分が下した結論」が、語り手の叙述トリックの可能性あり(判事の結論とは「カルミントンが島を買い取った」ということなのか、あるいは「カルミントンを差出人としたのは正解だった」ということなのか、いずれとも考えられる。)
(5)−:新聞記事の客観描写のみ。心理描写なし。
(6)−:手紙の差出人はオーエンではない。

[ヴェラ・クレイソーンの場合]
(1)△:客車内でロンバートと向かい合わせになるが、面識の有無は不明。参加者の一人だと気づいていない可能性もあるが、「しじゅう旅行して、さまざまのおもしろい経験を持っている男にちがいない」という推定は、手持ちの情報から類推したかのようにも感じられる。
(2)−:共犯者との接触なし。
(3)−:文面について主観的な心理描写は一切ない。
(4)△:「こんどの仕事が見つかったことは大きな幸運だった。」は、ヴェラの叙述トリックの可能性あり。「こんどの仕事(this job)」とは「島での殺人」を指しているかもしれない。秘書の仕事口が見つかったことを素直に喜んでいる確証はない。(また、そもそも前後を含めたこの主観描写は語り手のものである可能性も否定できない。)
(5)△:「ちかごろ、しじゅう新聞に出ていた島だ!」というヴェラの心理描写から、必ずしも「島を知らない」とは断定できない。現に「邸宅はたしかにある富豪によって建てられた」と邸宅の存在を確信している。
(6)−:雇い主のオーエン夫妻に関する描写なし。


[フェリップ・ロンバート大尉の場合]

(1)△:ヴェラと向かい合わせになる。一目見ただけで「少しばかり女教師のようなところがあるが」とか「冷たい心の持ち主であろう」と見抜くところは、洞察力に優れているか、あるいは事前に手持ちの情報があることを思わせる。
(2)×:共犯者であるモリスとの会話あり。互いに面識がない事は確実である。
(3)−:手紙をもらっていない代わりに、犯人の共犯であるモリスと対面している。
(4)×:「君は私の依頼人にからだをまかせればいいのだ」というモリスの言葉から考えて、ロンバートが依頼人(犯人)だすると辻褄が合わなくなる。
(5)△:「ボートでインディアン島にわたる」とモリスから説明されても、「インディアン島」の事を聞き返さないので、島をすでに知っている感じがする。
(6)−:オーエン夫妻について言及がない。

[エミリー・ブレント婦人の場合]
(1)−:他の登場人物と接触なし。ミス・ブレントの乗っている「混みあっている三等車」は、「他の五人の乗客」しかいないヴェラのいる客車とは異なる。
(2)−:共犯者と接触なし。
(3)△:手紙が本物だと信じている確証はない。「字が読みにくい」といらいらしているが、読みにくい筆跡の演出は犯人の仕掛けではなく、共犯者のアイディアの可能性もある。昨年ベルヘヴンのホテルで一緒になった人々の中から差出人を「オリヴァー」と特定するようなブレントの心理描写があるが、差出人の事に思いを巡らしているという明確な描写はない。「あの婦人ーミス・オリヴァーであったと思うがー彼女について、もっと想い出せるといいのだが」という心理描写は、判事の「自分が下した結論」という言い回し同様に、差出人をミス・オリヴァーとするための辻褄が合うかどうかを気にしている「思わせぶりな表現」ともとれる。
(4)×:「とにかく、ただの休暇を楽しめるのだ」というミス・ブレントの独白は、誘いの手紙を真に受けている。もし、犯人であれば島を買い取るのに費用がかかっているはず。そもそも連続殺人の準備費用を考えると、年金暮らしの老婦人には無理な犯行かもしれない。、
(5)△:インディアン島のゴシップ記事はすでに読んだ事があり、いろいろと想像をめぐらしているが、島の存在を知っているか断定はできない。
(6)−:差出人はオーエン夫妻ではない。そもそもオリヴァーとも書かれていない。

[マッカーサー将軍の場合]
(1)−:他の9人との接触なし(2章以降で、将軍が乗っている「エクセターで乗り換える列車」はヴェラたちの乗る列車とは別であることがわかる)。
(2)−:共犯者との接触なし。
(3)(4)△:手紙の文面と差出人の明確な記述はないが、おそらくオーエンが差出人で「閣下の御旧友もお見えになります。ー昔ばなしをなさるのも一興と存じ…」が文面の一部だと推測できる。「彼(将軍)はオーエンという男がどんな人物であったか、はっきり頭に浮かべることができなかった」という記述から差出人をオーエンと信じているようにもとれるが、差出人に見立てたオーエンという実在の人物の事をはっきりとは思い出せないという独白の可能性もある。
(5)△:「インディアン島などは眼と鼻のあいだなのだ」「ところでインディアン島というところは、彼も行ってみたいと思っていたところだ」というように、インディアン島の事を招待を受ける前から知っている。
(6)△:ほとんどの人々にとってはオーエンは架空の人物だが、マッカーサー将軍にとっては実在の人物が該当する。犯人が名前を利用したのか、あるいは将軍自身が犯人かのいずれの可能性もある。

[アームストロング医師の場合]
(1)−:マーストン青年のスポーツカーらしき無謀な車が、アームストロングの車を追い越すが、医師は気づいていない。もしくは語り手の叙述トリックで、マーストンとは別の自動車の可能性もある。
(2)−:共犯者との接触なし。
(3)△:「休暇といえるものであるかどうかは、明らかではなかった。彼が受けとった手紙では、どういうことであるのか、はっきりしたことはわからなかった。」「このオーエンという人物は金がありあまっている人間にちがいない。」は、手紙の文面に対する主観描写である。医師の主観であるならば「手紙の文面を信じている」。一方で文面から読み取った語り手の主観描写の可能性もある。
(4)△:手紙の文面についての主観描写のあとに続く「神経!…婦人患者にはありがちのことだ!」は明らかに医師の心理描写である。依頼内容を真に受けて考えているというよりも、依頼内容に関連した神経症の女性患者一般に対する治療について考えている。
(5)△:「デヴァンの海岸の島に…」という言いまわしが、インディアン島について「知らない」ような印象を与える。
(6)△:(3)(4)で考察したように、オーエン氏の実在を信じているようにもみえるが、確証はない。

[アンソニー・マーストン青年の場合]
(1)−:「どうして、のろのろ走っている自動車が多いのだろう。…そういう連中にかぎって、道路のまん中を走っているのだ!」とは、アームストロング医師の車のことかもしれないが、確証はない。
(2)−:共犯者との接触なし。
(3)×:手紙の記述はないが、「…それにしても、オーエン夫婦というのは、どんな人間なのだろう。」と手紙(友人バジャーからの電報)を疑っていない。
(4)×:「とにかく、酒だけはたっぷりと飲ませてもらいたいものだ。」「それにしても、若い娘がいるといいのだが…」という独白は、犯人だとつじつまがあわない。
(5)△:「ゲブリエル・タールがインディアン島を買ったという話が嘘だったのは残念だ。」からインディアン島については事前に知っていた。
(6)×:オーエン夫婦の実在を信じている。

[ウィリアム・ブロア元警部の場合]
(1)△:自分以外の9人の名前やプロフィールを知っている。
(2)−:共犯者との接触なし。
(3)−:9名の監視依頼をどのように受けたかの記述なし。
(4)△:「わけのない仕事さ」「やりそこなうはずはない。怪しまれなければいいんだ」という独白は、探偵としての依頼を指すか、あるいは連続殺人を指すか、いずれの可能性もある。
(5)△:インディアン島は少年時代から知っている。邸宅の存在も知っている。
(6)−:依頼人についての記述なし。
(7)×:ブロアのみ客車内で船乗り風の老人との会話を交わし、審判の日が近づいていると警告される。犯人であれば、まさに10人全員がいなくなるその日こそ「審判の日」にふさわしい。「自分の方が審判の日に近づいているじゃないか!」などと独白するはずがない。

[ロジャース夫婦の場合]
(1)〜(6)−:彼らは一章に登場しない(すでに島で執事の仕事を始めている)。

△ウォーグレイヴ判事 (1)−(2)−(3)△(4)△(5)−(6)−
△ヴェラ       (1)△(2)−(3)−(4)△(5)△(6)−
×ロンバート大尉   (1)△(2)×(3)−(4)×(5)△(6)−
×ミス・ブレント    (1)−(2)−(3)△(4)×(5)△(6)−
△マッカーサー将軍  (1)−(2)−(3)△(4)△(5)△(6)△
△アームストロング医師(1)−(2)−(3)△(4)△(5)△(6)△
×マーストン青年   (1)−(2)−(3)×(4)×(5)△(6)×
×ブロア警部     (1)△(2)−(3)−(4)△(5)△(6)−(7)×
−ロジャーズ執事   (1)−(2)−(3)−(4)−(5)−(6)−
−ロジャーズ夫人   (1)−(2)−(3)−(4)−(5)−(6)−


 名前の前につけた記号が総合判定結果だ。導入部の詳細な分析から「犯人でない」と明らかに言えるのは、

ロンバート、ミス・ブレント、マーストン、ブロア


の4名である。ロジャース夫妻は導入部に現れないので「判断できない」。「犯人の可能性がある」と判定されたのが、

ウォーグレイヴ、ヴェラ、マッカーサー、アームストロング


の4名であり、「犯人である」と判定された人は一人もいなかった。

 これらの判定結果から何がわかるかと言えば、「導入部では犯人は確定できない」ということだ。しかし、これでは若島の結論とは食い違ってしまう。若島は導入部のウォーグレイヴ判事の描写のみを分析し、そこに叙述トリックを見いだし、犯人だと断定した。しかし、何度も言うが、再読者・若島はあらかじめ犯人を知った上で、犯人の心理描写をあら探ししたにすぎない。手がかりが見つかって思わず有頂天になってしまったのだろう。

 これと比べて、1-2〜8の七人の心理描写は、彼らが本当にインディアン島への招待に応じて旅立ったことを保証する書き方がしてあるのだが、その検討は読者各自で行ってみていただきたい。


と自信ありげに言い放ってしまった。一読者である僕が検討した結果が、先に見たとおりである。若島の方法論の問題点は、

 ・叙述トリックは登場人物の心理描写だけでなく、語り(地の文)にも含まれる。

を見落としていたことだ。

 実は、当初ぼくも導入部を詳細に分析すれば、「犯人の可能性がある」のはウォーグレイヴ判事ただ一人になると考えていた。つまり、油断しまくった若島の結論と結果的には同じになるものだと思いこんでいた。それが変わった理由は3つ考えられる。

・若島とは違って、登場人物の心理描写だけでなく語り(地の文)についても叙述トリックの存在を仮定して検討したこと。
・アガサ・クリスティの原文を併用して、心理描写と客観描写との区別を逐一調べたこと。
・出版された新訳(青木久恵訳)だけでなく、旧訳(清水俊二訳)も併用して、翻訳家の先入観によるニュアンスを排除したこと。


 当然のことながら、若島のように語り(地の文)を無条件に信用して登場人物の心理描写だけに狙いを定めれば、導入部の分析は楽々とできるだろう。しかし客観描写に徹するはずの語り手が読者を騙そうとしているとなると、何もかもが信じられなくなる。頼りになるのは、作者クリスティが、自伝で「十人の人間が死んで、しかも愚劣にならずに、犯人も明らかではないという、実現困難なアイデア」と書いたように、「愚劣にならずに」節度を守った騙し方をしていることを信用するしかない。

 (その4)でウォーグレイヴ判事の描写を詳細に分析した際にわかったように、原文は「語り手の客観描写」「語り手の主観描写」「人物の主観描写」のつなぎ目が曖昧なままに接続されている。原文をみるかぎり、人物の主観描写が間接話法で書かれていると判断するか、語り手自身の主観描写とみなすかによって、「犯人かどうか」の判定はまったく変わってくる。

 原文でも区別が付きにくい内容を翻訳するとなると、訳者によっても解釈が変わってくる。語り手の主観か登場人物の主観かわからないように書かれているところが、訳者によっていずれかの主観に確定されるように書かれている。特に新訳では、もっぱら登場人物の主観を明確に繰り込んだ翻訳を採用している。そのために、新訳で導入部を分析すると、ほとんどの人物が「犯人ではない」と判定されてしまう。たとえば原文で「Indian Island !」と感嘆符をつけて強調されているだけなのに、新訳では「あらっ、兵隊島って…」みたいに、島を知らないかのような心理に傾いている。複数の人物に「兵隊島とやらに」などと独白させるにいたっては、もう作者の叙述トリックに引っかかりまくっていると言っていい。

 もうちょっと旧訳と新訳との解釈の違いにふれておこう。ヴェラ・クレイソーン(女教師)の描写で、「まったく、こんどの仕事が見つかったことは大きな幸運だった。…」で始まる一節は、原文をみてもヴェラ本人の心理なのか、語り手の主観なのか判別がつかないように巧みに書かれている。ところが旧訳と新訳とを比べると、旧訳では原文どおりのニュートラルな描写で、語り手・ヴェラのいずれの主観とも区別がつかない。しかし新訳では一歩踏み出して、あきらかにヴェラの主観描写と決定してしまっている。具体的に、第二章2節のヴェラ・クレイソーンに関する冒頭の描写を抜き出して、原文・旧訳・新訳の順に並べてみよう。

[原文]
(1)Vera Claythorne, in a third-class carriage with five other travellers in it, leaned her head back and shut her eyes.
(2)How hot it was travelling by train today!
(3)It would be nice to get to the sea!
(4)Really a great piece of luck getting this job.
(5)When you wanted a holiday post it nearly always meant looking after a swarm of children - secretarial holiday posts were much more difficult to get.
(6)Even the agency hadn't held out much hope.

[旧訳]
(1)他の五人の乗客とともに三等車に乗っていたヴェラ・クレイソーンは頭をうしろにそらせて、眼を閉じた。
(2)汽車で旅をするにはなんという暑い日であろう!
(3)海に着いたら、どんなに気持のいいことであろう!
(4)まったく、こんどの仕事が見つかったことは大きな幸運だった。
(5)休暇のシーズンの仕事といえば、たいてい、大勢の子供たちの世話をすることだった。
(5)秘書の仕事はほとんどなかった。
(6)職業紹介所へたのんでも、ほとんど望みはなかった。

[新訳]
(1)他に乗客が五人いる三等車で、ヴェラ・クレイソーンはシートの背に頭をもたせかけて、目を閉じた。
(2)今日は列車で旅行するには、いくらなんでも暑すぎる!
(3)海に着いたら、さぞかし気持ちがいいだろう!
(4)今度のこの仕事がもらえたのは、本当にラッキーだった。
(5)学校休みのアルバイトといえば、大勢の子供の世話と相場がきまっている
(6)―秘書の仕事はそうおいそれとはない。
(7)職業紹介所の人も首を傾げていた。


 決定的なところを見ていくと、(1)の「こんどの仕事が見つかった(旧訳)」に対して「この仕事がもらえた(新訳)」、(7)の「職業訓練所へたのんでも、ほとんど望みはなかった(旧訳)」に対して「職業紹介所の人も首を傾げていた(新訳)」というように、新訳(青木久惠訳)だとヴェラの心理としか解釈できない。(1)の「本当にラッキーだった」というのも、ヴェラの若さを意識したくだけた表現だろう。旧訳の清水俊二が叙述トリックの落とし穴に気づいていたのかは正直わからないが、導入部全般の訳を見るかぎり、不用意な思い込みは避けて慎重に表現を選んだのは確かだ。一方で、新訳の青木久恵は叙述トリックのミステリーに対して油断しすぎているような感じをうける。とりあえず、旧訳と新訳の比較については、これくらいにしておこう。冒頭でも述べたが、新訳版を読んだ感想は改めて書きたい。

 ちなみに、導入部では決定できなかった犯人は、いつどこで確定できるのか?

 2章以降をここで分析するつもりはないが、先ほど「犯人の可能性あり」とした4人のうち、マッカーサー以外の3人は終盤まで生き延びる。ヴェラに至っては最後の一人(犯人は隠れている)なのだから、結局のところ、若島正がピックアップした3カ所の「登場人物の心理描写」だけでは、犯人は確定できないようだ。

 もっとも、そんな事はすでにどうでもいいことだろう。要するに、僕らはもう一度、いや何度でもアガサ・クリスティ作『そして誰もいなくなった』を読むべきだ。そして、それは若島正が主張するような「再読者として」読むべきではなく、過去の読書体験をうっすらと記憶の彼方に追いやった頃に、繰り返し新たな体験を求めるように読むべきだ。その限りにおいて、僕らは初読者として『そして誰もいなくなった』の本当のすばらしさにあらためて出会う事ができるのだ。(了)
(2011/1/13初出、2012/3/9改訂)


  
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2012年03月19日

「明るい館の秘密(若島正)」の過失(その4)(2012/3/8改訂)

(この記事では、アガサ・クリスティー著『そして誰もいなくなった』のネタバレを行っています。未読の方は読まないようにお願いします。)

 今回から2回にわたって、『そして誰もいなくなった』に隠された「叙述トリック」のありかとして若島正が指摘した3箇所のうち、1番目(第1章1節〜8節)を詳細に分析していく。

 若島正の小論「明るい館の秘密」では、第11章6節と第13章1節の2箇所に出てくる「誰のものとも特定されない心理描写」がクローズアップされる一方で、1番目の導入部の分析は少々軽んじられている。若島自身も次のように書いている。

 (導入部における)登場人物たち各人の意識の断片をつぶさに検討してみることは、それなりに興味深いことではあるが、本稿の目的ではない。


 若島は導入部で「犯人の心理描写」だけしか分析していないが、この姿勢にはかなり問題がある。その点は、前回つぶさに検討したので詳しくは書かない。要点のみを挙げておく。

[若島の主張]
・「登場人物の心理描写」に叙述トリックが仕掛けられている。叙述トリックには、だましはあるが嘘はない。
・心理描写の叙述トリックを読み解けば、犯人が特定できる。


 これに対して僕の主張(反論)の要点も挙げる。
[私の主張]
・作者クリスティは、語り(地の文)にも叙述トリックを仕掛けている(だましはあるが嘘はない)。
・犯人の叙述トリック(犯人らしくみえない)だけでなく、他の登場人物の叙述トリック(犯人らしくみえる)が存在する。
・心理描写のみを読み解いても、初読者が犯人を特定することはできない。


 若島が小論「明るい館の秘密」でやってみせた事を僕なりに評価すれば、

 結末まで読んだ上で再読すれば、「犯人やトリックの痕跡」および「作者の巧みな語り口」が見てとれる。

という事ぐらいだろう。もちろん、これはこれで興味深い事実だ。作品の読みが深まれば深まるほど作品への愛着が増してゆくのであれば、一般の読者にとっても再読は有益な方法だ。僕もそうやって、大好きなエラリー・クイーンの作品を味わいながら再読している。

 だが、僕は安易に「叙述トリックを読み解けば犯人がわかる」とは考えない。すでに犯人を知っている再読者が、犯人の心理描写になんらかの叙述トリックを見いだしても何の不思議もない。それよりも犯人を知らない初読者が、すべての登場人物の心理描写から「犯人を特定できる」か否かが問われなければならない。単純に言い切ってしまえば、

 叙述トリックが犯人の心理描写に仕込まれていると、どうやったら(再読者ではなく)初読者にわかるのだろうか?

について、真剣に検討する事が要求される。

 再読者は、二度と初読者に戻ることはできない。もちろん時間が経って読んだ記憶が失われるという、愛読者にとってラッキーな場合もあり得なくもないが、『そして誰も…』ではまず起こり得ない。それほど忘れがたいトリックと結末だからだ。

 再読者は、結末から遡ってすべてを論証しようとする。文学作品の読み直しには有効な再読という手法も、ミステリーに限って言えば因果関係を見失って誤った結論を導き出す危険性をたえずはらんでいる。

 そこで、若島のように「登場人物の心理描写、とりわけ犯人の心理描写を分析する事だけが重要だ」と考えるのではなく、「すべての登場人物のすべての描写(語りを含む)を分析する事が重要だ」と僕は考える。なんだ、当たり前ではないか、などと言ってはいけない。このことを禁じたのが(あるいは必要ないと言ったのが)、だれあろう若島だったからだ。

 以上の点を踏まえた上で、アガサ・クリスティ作『そして誰もいなくなった』(原題「And THEN There WERE NONE」)の導入部(第1章1節〜8節)を見ていこう。都合のいい事に、「明るい館の秘密」では原文と若島自らの試訳とを対照している。こちらも、そこから分析を始めよう。

 ちょうどハヤカワ・ミステリ文庫(クリスティ文庫)から新訳が出版されたばかりなので、以後、原文と若島試訳、旧訳、新訳の4通りの文章を併記することにする。出典は以下の通りである。

(原文)「And THEN There WERE NONE」(おそらくは1940年の米国出版)
(若島試訳) 「明るい館の秘密」(若島正『乱視読者の帰還』所収)より引用
(旧訳)「そして誰もいなくなった」(ハヤカワ・ポケットミステリ,1975年,清水俊二訳)
(新訳)「そして誰もいなくなった」(クリスティ文庫,2010年,青木久惠訳)


 前もって言及しておくと、若島試訳と旧訳は原文の直接の翻訳であるが、新訳だけはクリスティの死後に一部重要な表現が改変された版を元に翻訳されている。作者の死後に手直しされた部分とは「インディアン」に関する記述だ。インディアンとは、コロンブスの新大陸発見以来、誤解に基づいた表現であるにも関わらず、一貫して使われ続けてきた。しかし近年の「政治的に正しい」事を文学作品自体に求める動きが流行した結果、政治的に正しい『そして誰も…』改訂版が現れた。

 『そして誰も…』では舞台がインディアン島であるだけでなく、マザーグースの童謡「十人のインディアン」の詞どおりに殺人が実行される。元々の童謡は「十人のインディアン」ではなく「十人の黒人少年」だったのだが、イギリスでは問題のなかったニガーという俗称が米国では認められなかったので、ニガーをインディアンに手直しする事を作者自身が許していた。そういった前例があるから、作者の死後であってもインディアンを兵隊に入れ替える事に遺族も抵抗は少なかったのかもしれない。

 そういう事情から「十人のインディアン」は「十人の兵隊」に、「インディアン島」は「兵隊島」に置き換えられた。旧訳を読んだときの印象を大事にする人にとっては違和感のある変更ではあるが、僕が気になったのは朗読する際の語感だ。「インディアントウ」だった舞台が、突然「ヘイタイジマ」に変わってしまった。なにやら横溝正史のおどろおどろしさを伴ってイギリスの海から瀬戸内へと移動してしまったかのようだ。

 余談はさておき、導入部の分析に取りかかる。

[第一章1節 ウォーグレイヴ判事]
 作品の冒頭を飾るのは、最近引退したばかりのウォーグレイヴ元判事の描写だ。インディアン島(兵隊島)へ向かう一等車の中で、今回の旅のきっかけとなった手紙を取り出して、物思いにふけるシーンから始まる。今回ピックアップするのは、文頭から2番目のパラフレーズから1節の最後までだ。その部分を以下の11箇所にあらかじめ分類してナンバリングしておく。

[原文]
(1)From his pocket Mr. Justice Wargrave drew out a letter.
(2) The handwriting was practically illegible but words here and there stood out with unexpected clarity.

[旧訳]
(1)ウォーグレイヴ判事はポケットから一通の手紙を取りだした。
(2)ほとんど文字の判別がつかぬ筆跡だったが、ところどころに、思いがけないほどはっきりわかる文句があった。

[若島訳]
(1)ウォーグレイヴ判事はポケットから一通の手紙を取り出した。
(2)ほとんど判別できない筆跡だったが、ところどころに、思いがけないほどはっきりわかる文句があった。

[新訳]
(1)ウォーグレイヴ判事はポケットから手紙を一通取りだした。
(2)手書きの文字はひどく読みにくかった。だが、ところどころ、いやにはっきり読みとれるところがある。


 (1)(2)は、著者が言うところの「全能の話者による三人称の語り」である。3者の訳をざっとみる限り、違いはほとんどない。いや、一言で言って若島訳は旧訳をなぞっただけだ。簡単な文章だから誰でも同じような訳になる、というわけではないことは新訳を見てもらえば一目瞭然だろう。若島は自らの試訳を用いる理由を次のように述べている。

なお、叙述トリックは文章技巧に関わる微妙な問題だけに、後に述べるように翻訳で読むと落とし穴にはまる危険性があり、ここから先は原文とその試訳を並べて掲げる。


 「ならば、最初から自前で翻訳しろよ!」と清水氏になりかわって声を荒げたいところだ。手抜きというだけでなく、旧訳者に礼を失するふるまいだろう。「いや、ちゃんと自前で翻訳している」と言い訳したりできないように、この後で証拠をお見せしよう。

 分析を進める。(1)は、どうみても客観描写なので問題ない。(2)もそう見えるが、少し「微妙な問題」をかかえている。「(手書きの)文字の判別がつかない」とか「思いがけないほどはっきりわかる」のように判断しているのは誰だろうか。原文をみれば、あきらかに地の文なので、語り手の客観的判断ということになるが、 「わかりにくい、わかりやすい」というのは、一個人の主観をともなわないと表現できない。とくに「思いがけないほど」というところに、判断する者の「主観」が色濃くにじみでている。だからこれは「判事の心理」ではないかという「思わせぶり」が語りの中に込められていることになる。

[原文]
(3)Dearest Lawrence... such years since I heard anything of you... must come to Indian Island... the most enchanting place...so much to talk over... old days... communion with Nature... bask in sunshine... 12:40 from Paddington... meet you at Oakbridge...

[旧訳]
(3)おなつかしきローレンスさま…あなたの消息を聞かなくなってから、永年…ぜひインディアン島へ…ひじょうに美しいところで…お話したいことがたまって…懐かしいむかしのことを…自然に親しみ…日光を浴び…パディントン二時四十分…オークブリッジでお待ちして…

[若島訳]
(3)親愛なるローレンス様…長いあいだご無沙汰して…ぜひインディアン島へお越しいただきたく…魅惑の島…つもる話が…懐かしい日々を…自然との交わり…日光を浴び…パディントン二時四十分…オークブリッジでお待ちして…

[新訳]
(3)”ローレンスさま…あなたさまのお噂を、最後に耳にしたのはいつのこと…ぜひとも兵隊島においで…こんなすばらしい所は、ほかには…積もる話が、たんと…なつかしいあの頃…自然に囲まれて…日光浴…ロンドンのパディントン駅二時四十分発…オークブリッジで、お目にかかり…”


 (3)は手紙の文面だが、全文は引用されず断片だけで構成されている。これは、話者であり差出人であるはずのレディ・カルミントンの言葉尻をとられないようにと考えた語り手(あるいは作者の)戦略ともとれるし、(2)で描写されているとおりに「読める文字」を拾い読みした結果ともとれる。しかし、もっとも説得力があるのは、得体のしれない手紙であることを読者に強調してサスペンスを盛り上げようとする「作者の演出」というとらえ方だろう。

 3者の訳の差はあまりないのだが、若島訳は文脈に依存した意訳をことさらに回避して直訳を採用する。「親愛なるローレンス様」「魅惑の島」「自然との交わり」などは、書かれているフレーズだけで辞書引きして訳語をあてたかのような直訳調だ。他の訳者は手紙の文面としてきちんとつながるように工夫しながら意訳している。例の13章1節の「心理描写」において旧訳と訳者とを糾弾した経緯があるから、ここで下手に訳すと原文に仕組まれた叙述トリックをとりこぼすかもしれないと考えての事だろうが、誤訳糾弾の先鋒による訳としてはいささか工夫が足りない。

[原文]
(4)and his correspondent signed herself with a flourish his ever Constance Culmington.

[旧訳]
(4)そして発信者は「あなたのコンスタンス・カルミントン」と美しい筆跡で署名していた。

[若島訳]
(4)そして差出人は”あなたのコンスタンス・カルミントン”と美しい筆跡で署名していた。

[新訳]
(4)そして最後に、きどった飾り文字で”コンスタンス・カルミントン”と書名があった。


 再び、語り(地の文)だ。「 with a flourish」の訳に食い違いが目立つが、それはひとまずおいて、注目すべきは「差出人(発信人)は…署名していた」という語りだ。これは見事な叙述トリックと言っていい。「カルミントンが」とは書かれていない。もちろん手紙の真偽は、この時点では不明なのだが、少なくとも「あけすけに」真実を書けないために、語り手は「思わせぶりな」叙述をしている。ところが新訳では、意訳によって叙述トリックの痕跡があっけなく消えてしまっている。

 だからと言って、新訳の青木久惠さんを糾弾するつもりは僕にはない。この程度の翻訳の工夫で「あっけなく」消えてしまうのが、叙述トリックの特徴だ。それは「言い回し(レトリック)」に仕掛けがあるからだ。翻訳で読む読者に原文のレトリックが伝わるように訳す事が翻訳家の使命である以上、これは致し方ない。どうしても消させないためには、翻訳家と、若島のような再読者(分析者)との協力が必要だ。ただし、この箇所の叙述トリックは若島の小論でも指摘されていないので見逃されている可能性がある。

[原文]
(5)Mr. Justice Wargrave cast back in his mind to remember when exactly he had last seen Lady Constance Culmington.
(6)It must be seven - no, eight years ago.
(7)She had then been going to Italy to bask in the sun and be at one with Nature and the contadini.
(8)Later, he had heard, she had proceeded to Syria where she proposed to bask in yet stronger sun and live at one with Nature and the bedouin.

[旧訳]
(5)ウォーグレイヴ判事は、レディ・コンスタンス・カルミントンに最後に会ったのはいつだったであろう、と回想した。
(6)七年ーいや、八年もむかしのことだ。
(7)そのとき、彼女は日光を浴び、自然と農民とに親しむためにイタリアへ旅行しようとしているところだった。
(8)その後、彼女はさらに強い日光を浴び、自然と遊牧の旅とに親しむために、シリアへ行ったということだった。

[若島訳]
(5)レディ・コンスタンス・カルミントンに最後に会ったのはいったいいつのことだったか、とウォーグレイヴ判事は回想した。
(6)きっと七年ーいや、八年前だ。
(7)当時彼女は日光を浴び、自然や農民と交わるために、イタリアへ旅行しようとしているところだった。
(8)その後、聞くところでは、さらに強い日光を浴び、自然や遊牧民と交わるために、シリアまで足をのばしたらしい。

[新訳]
(5)レディ・コンスタンス・カルミントンに最後に会ったのは、いったいいつだったろう。ウォーグレイヴ判事は思いだそうとした。
(6)あれは七年前ーいや、八年前だったか。
(7)あのとき婦人はイタリアに出かけるところだった。自然と農民に囲まれて、日光浴をするのだと言ってー
(8)そのあと、はるばるシリアまで足をのばしたという噂が耳に入ってきた。自然と遊牧の民ベドウィン族に囲まれて、さらに強い太陽を浴びるためにー。


 (5)〜(8)は、一言で言えば、すべて判事の心理描写だ。しかし、ここは原文をみながらでないと、語り手が非常にあやうい綱渡りをしていることに気づきにくい。いわゆる間接話法と直接話法とがシームレスにつなげられているからだ。

 まず(5)では「…と回想した(思いだそうとした)」と書かれているので「レディ・コンスタンス・カルミントンに最後に会ったのは…」の部分が判事の心理であることを疑う理由はない。つぎの(6)は話者の主観がにじむ「no,eight years」というフレーズで、判事の心理だとわかる。

 (7)は、それだけでは間接話法か(判事の回想か)、客観描写(話者の語りか)の区別がつかない。しかし(7)と(8)が対の表現になっていることに注目すると、(8)が「聞いたところによると」というフレーズが挿入されていることから、(7)(8)いずれも判事の心理描写になる。

 このように引用符もなくイタリック体でもなく、間接話法の目印さえもない書き方をするっと忍び込ませることで、作者は僕らを罠へと誘う。まんまとひっかかったのは、誰あろう著者自身だ。

 (5)〜(8)には、ひっかけめいた叙述は目立たないが、次の出番をまっている判事の心理に説得力を持たせる「呼び水」の役割を果たしている。

[原文]
(9)Constance Culmington, he reflected to himself, was exactly the sort of woman who would buy an island and surround herself with mystery!

[旧訳]
(9)たしかに、コンスタンス・カルミントンは島を買いとって謎の生活を送ろうとするような女だった。

[若島訳]
(9)コンスタンス・カルミントンは、いかにも島を買いとって、謎に包まれるのを喜びそうな女だ。

[新訳]
(9)判事は思った。コンスタンス・カルミントンこそ、いかにも沖合いの島を買いとって謎めいた噂に包まれそうな女性ではないか!


 (9)が判事の心理であることは原文をみればあきらかだ。「he reflected to himself」という挿入句の存在が間接話法であることを明示している。それだけでなく文末に感嘆符がつくことからも、一般的にいって語り手が主観を込めて描写しているとは信じがたい。以後、登場人物の心理を示す感嘆符は多用されるので、話者と登場人物とのいずれの主観なのかを判別する目印として、あてにできるかを注目していきたい。

 ところで、これまでの訳文を比較する限り、若島訳は自分に都合がいいように清水訳から「いいとこ取り」しているにすぎない。それがもっともわかるのが、この(9)だ。3者の訳の中で新訳のみが「判事は思った」という間接話法の目印をきちんと訳しているが、若島訳は旧訳にならって省いてしまった。少なくとも叙述トリックの罠を知り抜いているはずの「乱視読者」ならば、まっさきに訳さねばならない箇所だろう。目印を落とす事で判事の心理なのか語りの陳述なのかの区別が訳文からはつきにくくなってしまった。

[原文]
(10)Nodding his head in gentle approval of his logic, Mr. Justice
Wargrave allowed his head to nod...
(11)He slept...

[旧訳]
(10)ウォーグレイヴ判事は自分が下した結論にみずからうなずきながら頭をうなだれた…
(11)彼は眠りはじめた…

[若島訳]
(10)自分の論理に満足そうにうなずいて、ウォーグレイヴ判事はそのまま頭をうなだれた…。
(11)彼は眠りはじめた…

[新訳]
(10)自分の出した結論に満足した判事は、こっくりうなずいた、そして、うなずいたままうなだれて…
(11)判事は眠っていた…


 若島訳がいつになく自己主張しているのは、ここに若島がねらいをつけた重要な記述があるからだ。(5)〜(9)の判事の回想で、コンスタンス・カルミントンが旅行好きで、強い日差しを浴びながら自然や農民に囲まれて過ごすことをなによりも好む人間だということを判事は思いだしている。そこで結論として「(カルミントンは)島を買いとって暮らしていそうだ」と納得する場面だ。いや、ふつうはそう解釈できる。

 ところがここはそうみえるだけで、実はレディ・カルミントンが「島を買いとりそうな女性」なので、「(偽の)手紙の差出人としてうってつけである」と考えた事に判事自身が満足する場面だとも解釈できる。まさに叙述トリックだ。その点を指摘した著者は得意満面な口調で、

ウォーグレイヴ判事が「自分の論理に満足そうにうなずい」たのは実はそうした理由だったのである。


と書いている。旧訳の「自分が下した結論」という言い方が気に入らず、わざわざ「自分の論理」という訳に置き換えたのも、若島が見つけた虎の子の叙述トリックを台無しにしてほしくないからだ。しかし、直訳調の訳でなければ叙述トリックが見えにくいと考えるのは若島の邪推ではないだろうか。旧訳も新訳もそろって「自分が下した(出した)結論」と訳しているが、翻訳としては若島の訳より分かりやすい。それだけではない。「自分が下した結論」の方が「自分の論理」よりも叙述トリックらしく思わせぶりが利いている。

 そもそも「結論」とすると判事が犯人である可能性がなくなり、「論理」とすると可能性が出てくるという若島の”論理”(あるいは”結論”)は承認しがたい。いみじくも若島が指摘してみせたように、この箇所では「レディ・カルミントンが島を買い取りそうな女性」であった過去の印象から、判事は「手紙の差出人は彼女に違いない」と結論づけたかもしれないし、あるいは「手紙の差出人として彼女を選んだのは正しかった」と結論づけたのかもしれない。読者はいずれとも受け取れるからこそ、叙述トリックが成立している。だが若島訳の「自分の論理」という表現では、そもそもが何を指し示しているのかが分かりにくいため、叙述トリックが成立しにくくなっているように僕には感じられる。

 だが、翻訳家・若島正をいつまでも糾弾すべきではない。なによりもまっさきに指摘しなければならないのは再読者・若島正の誤謬だ。それは、(10)が「判事の心理描写」ではないという一点だ。ここは誰がみても「全能の話者による三人称の語り」に間違いない。つまり「自分が下した結論」であろうが「自分の論理」であろうが、いずれの訳を採用しようとも、このような思わせぶりな表現を選択したのは語り手自身だ。

 一方で、この箇所の叙述トリックは「明るい館の秘密」の著者が自らの主張を裏付けるために、わざわざ作品の導入部から採り上げてみせた実例だったはずだ。その主張というのが「登場人物の心理描写に叙述トリックが隠されている」というものだった事はすでに説明した。しかし若島は、分析する際にはもう心理描写なのか地の文なのかの区別を忘れている。実例にそもそも若島の勘違いがあるようでは、何を証明しようとしていたのかわからなくなってしまう。

 ここでもう一度、(1)〜(11)までの分析結果をまとめる。○△×は叙述トリックの有無を検証した結果(×は無し、△は有るか無いかは微妙、○は有り)を示している。

(1)語り        ×
(2)語り        △(筆跡の読みづらさを感じているのは「判事or語り手」)
(3)手紙文面(差出人の会話に相当)      ×
(4)語り        ○(手紙を書いた人物名をあかさない)
(5)判事の心理(+語り)  ×
(6)判事の心理     ×
(7)判事の心理     ×
(8)判事の心理(+語り)  ×
(9)判事の心理(+語り)  △((10)の「結論(論理)」の解釈をアシストする心理)
(10)語り        ○(「結論(論理)」が二つの意味にとれる)
(11)語り        ×

 すぐにわかる事は、主として「語り」の部分に叙述トリックが仕掛けられているということだ。著者の主張に合致するのは、たかだか(9)一箇所だが、ここは直後の(10)の語りを手助けする“アシスト”にすぎない。

 また、(1)〜(11)を通して眺めると、

語り→差出人(会話)→語り→判事の心理(間接話法)→判事の心理→判事の心理(間接話法)→語り


のように見事な手際で「語りと心理のつなぎ目」が消されている。著者が(10)を「心理描写」とみなしてしまったのも、一概に責められない。それほど作者クリスティの叙述トリックは周到で巧妙なのだ。では、ここで作者に登場してもらって『そして誰もいなくなった』の核心について語ってもらおう。筆者・若島も小論の中で引用している文章だ。

 わたしが『そして誰もいなくなった』を書いたのは、十人の人間が死んで、しかも愚劣にならずに、犯人も明らかではないという、実現困難なアイデアに魅了されたからだった。書く前にはかなり綿密な計画を立てたし、その出来上りには満足している。簡明直裁で、不思議な事件だが、まったく合理的な解決が与えられる。実は、その解決をつけるためにはエピローグが必要だった。この作品は好評で迎えられたが、いちばん満足しているのはこのわたしである。なぜなら、わたしはどの批評家よりも、これがどれほど実現困難かを知っているのだから。(アガサ・クリスティ『自伝』)


 クリスティがここで触れている『そして誰もいなくなった』の「実現困難」な部分とはなにをさすのか?若島は、「十人の人間が死んで犯人も明らかでない」というトリックの事ではなく、叙述トリックにあるとみた。これはある意味では正しい。なぜならば、犯人が実は最後まで死んでいないというトリックについては、誰を犯人とするかは作者の裁量にまかされているからだ。結末での告白の書き方で、いかようになりそうだ。

 だからこそ「愚劣にならずに」という点に作者の苦労があったはずだ。その苦労こそが、さまざまな箇所に仕組まれた叙述トリックである事は間違いない。

 だが若島は叙述トリックの使い道を「登場人物の心理描写」に限定してしまった。三人称の語りをさっさと視野からのぞいた挙げ句に、著者は次のように断定する。

しかし、クリスティーの独創性は、そこに登場人物たちすべての心理描写を直接に書き込んだところにあった。彼らの心理描写は、会話と違って、嘘をつくことができない。普通に考えれば、犯人の心理が明るみに出されると、そこでその人物が犯人だとばれてしまうはずである。クリスティーは、犯人の心理もさらけだしながら、しかもそれでいて容易に犯人だと見破れないという、一見不可能に思える叙述トリックを狙ったのだ。


 著者の主張に反して、クリスティの叙述トリックの巧妙さは、語り(地の文)を含めた全体の構成をつかまないと理解できない。若島はクリスティの「実現困難」なトリックの核心に近づく読みの冴えをみせておきながら、さらに奥にかくされたトリックの森へと足を踏み入れそこなったのだ。

 ところで、ここまでの読み方は「再読者」としての解釈だ。改めて(1)〜(11)の分析一覧表を見てほしい。今度は「初読者」として叙述トリックをみたとき、「判事が犯人である」という根拠になるものが存在するだろうか?

 (2)の「筆跡の読みづらさ」を感じているのが判事ならば、読者は逆に「犯人ではない」という印象を受けるだろう。手紙が共犯者(モリス)によって書かれた可能性は、この時点での初読者には想像できない。

 (4)は語りである以上は「差出人」と書いても不自然ではない。そもそもが『そして誰も…』では、謎の手紙という印象を受けるように描写されるので、「差出人」という書き方は「レディ・カルミントンの書いた手紙」だと語り手自身も信じていないことを暗にほのめかした表現になっている。つまり、初読者は「差出人」という記述を、サスペンスの演出として受け止めるだろう。

 (9)は、犯人であろうとなかろうと、判事がカルミントンに対していだいた印象にすぎない。どちらかといえば、判事が手紙の内容を鵜呑みにしているという印象を読者に与えそうだ。

 (10)の「結論(論理)」は再読者にとっては再重要キーワードだろうが、初読者は見抜けるだろうか。語りの客観性を信じる読者ならば、見落とす可能性が高い。たとえ見抜いたにしても、たかだか犯人である「可能性」を示すにすぎない。

 結論を言うと、

 判事は「犯人である」可能性は残るが、確定的な根拠はない。

ということになる。判事を犯人扱いするためには、引き続き他の登場人物の導入部での描写を分析する必要がある。

  
(2010/12/18初出,2012/3/8改訂)
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2012年03月13日

「明るい館の秘密(若島正)」の過失(その3)(2012/2/27改訂)

(この記事では、アガサ・クリスティー著『そして誰もいなくなった』と『アクロイド殺し』のネタバレを行っています。未読の方は読まないようにお願いします。)

 前回は『そして誰もいなくなった』の第11章6節と第13章1節に出てくる「誰のものとも特定されない心理描写」に関する若島正の分析の是非を詳しく検討した。引き続き若島が取り上げた3箇所の心理描写のうち、導入部(第1章1節〜8節)の分析についても同じように詳しく検討する。

 しかしその前に1回分を費やして、若島の主張する「叙述トリック」についておさらいしておこうと思う。これまで僕ら読者は、若島から教えられた「叙述トリック」の仕組みを鵜呑みにし、指摘された場面で提示された実例に従ってレクチャーを受けるだけだった。だが、いつまでも受け身でいるわけにはいかない。これから僕が問題にしようとしているのは、若島の思い描く「叙述トリック」そのものの信憑性なのだ。

 『そして誰も…』で本当に評価すべきは、犯罪(犯人)のトリックではなく作者の叙述トリックにあると若島は言う。その叙述トリックは、ふつうの意味の叙述トリックとはかなり違っていて、「登場人物たちすべての心理描写に嘘が書かれていない」という点にあるらしい。これのどこが普通の叙述トリックと違っていて、どのようにすごい事なのかを説明するために、若島は同じ作者の『アクロイド殺し』という作品を持ち出す。

 『アクロイド殺し』は、ミステリファンにはおなじみの「語り手(医師)イコール犯人」という究極の「叙述トリック」を使った問題作だ。ポイントは「犯人による一人称の語り」にある。語り手が犯人ならば、嘘をついている可能性を排除できない。アンフェアと言われても致し方ない。ところが『そして誰も…』はそれとはずいぶん違っているとして、若島は次のように説明する。

しかし、『そして誰もいなくなった』の場合は、まったく事情が異なっている。つまり『アクロイド殺し』の一人称に対して、『そして誰もいなくなった』はいわゆる全能の話者による三人称の語りなのだ。三人称の語りにおける地の文は、読者が真実として受け取らなければしかたがない(これはクリスティが自らに課していた条件でもある)。鵜呑みにできないのは、登場人物たちの会話である。しかし、クリスティの独創性は、そこに登場人物たちすべての心理を直接に書き込んだところにあった。


 若島の主張を、順を追って要点のみ列挙してみよう。

(1)『アクロイド殺し』は一人称の語りだ。

(2)『そして誰もいなくなった』は、全能の話者による三人称の語りだ。
(三人称の語りは真実しか書かれていない。クリスティも自らに課している。)

(3)登場人物の会話は信用できない(嘘をついているかもしれない)

(4)登場人物の心理描写には嘘はない。
 (ただし、「誤読を誘う書き方」(叙述トリック)が仕組まれている。)


 若島の主張の核心はもちろん(4)だ。ここでぜひとも注目したいのは、誤読を誘うような書き方(叙述トリック)自体を若島は嘘だとは考えていないという点だ。では、若島はどのようなものを「叙述トリック」として想定し、同時に「嘘ではない(フェアである)」と認定しているのだろうか。大まかに言って、次のような二大原則が考えられる。

・一見すると「犯人ではない」と読者に思わせる心理描写(「思わせぶりの心理」)を書いてよい。
・犯人だとすぐに読者が見破ってしまうような心理描写(「あけすけな心理」)を書かなくてよい。


 このような描写には「だましはあるが嘘はない」というのが、(4)において著者・若島正が考える「真実」の意味である。

 それでは、遡って(2)の「全能の話者による三人称の語り」について考えてみよう。若島は『アクロイド殺し』における「一人称の語り」と違って、『そして誰も…』における「全能の話者による三人称の語り」は、真実と受け取らなければしかたないと言っている。要するに鵜呑みにしていいと考える。しかしそうすると、(2)における「真実」は(4)における「真実」とはずいぶん違った意味で使われている事になる。

 もし(4)で「心理描写」に叙述トリックを持ち込む事が真実であってアンフェアではないのだとすると、(2)の「語り(客観描写)」に叙述トリックが仕組まれたとしても、若島の立場からすればアンフェアだとは言えないのではないだろうか。そうなると、若島が易々と信じている「地の文」の真実を、本当にクリスティが遵守しているのかも疑わしい事になる。

 事実、『そして誰も…』では、登場人物の心理描写に限定されることなく、全能の話者が語る地の文の至るところに「叙述トリック」が仕組まれている。これについては若島の導入部に対する分析を検討する際に明らかにできるだろう。

 では何故に、若島は「叙述トリック」の分析を登場人物の心理描写だけに限定してみせたのだろう。もちろん「全能の話者による三人称の語り」を小説に採用する際の約束事を無条件で信じたからだろう。それはいわば”小説の作法”と言ったもので、文学作品をテクストとして読み解いていく評論家としての立場からすれば当然の姿勢なのかもしれない。

 それとは別に、若島が自身の独創的なアイディアを際だたせる必要に駆られたという事もあったはずだ。地の文には〈真実〉が書かれているとしても、心理描写という境界では「叙述トリック」という形式で犯人の手がかりが露わになっていると信じた上で、そこだけにしか手がかりはないと読者に思い込ませようとした。

 そこまでならばミステリーファンをも唸らせる見事な発見だと賞賛されるところだが、若島は心理描写だけを分析すれば誰でも次の事を明らかにできると口がすべってしまった。

(a)(初読者であっても)叙述トリックの手口が理解できる(だましはあるが嘘はない)
(b)犯人を特定できる。


 (a)(b)の主張に根拠がない事は前回までに証明した。「登場人物の心理描写における叙述トリック」という若島のアイディアにみどころがあるとしたら、400頁近くある長編の中に心理描写は限られていて、簡単に検証できるという点だろう。この部分に「思わせぶりの心理」が仕込まれている可能性は高いとふんだわけだ。

 だが、言ってよければ作者クリスティは「語り手や登場人物」と結託して、三者一丸となって読者をだましにかかっている。さきほど列挙した要点の(2)と(4)での「真実」を使い分ける分別など、ミステリーの女王には無用というわけだ。だとすると、若島のように「心理描写」だけにこだわる視点では、クリスティの仕掛けた「叙述トリック」のほんの一部しか見ていない事になる。僕らは若島の主張を鵜呑みにせず、地の文(語り)を含めた視野を回復しなければならない。

 具体的には、犯人以外の登場人物の心理描写も、地の文(語り)さえも、「叙述トリック」の分析対象とするしかない。若島のように『そして誰も…』の導入部で犯人の心理描写だけを分析するのでは不十分であり、二重、三重の過ちを犯している可能性がある。

 (その2)で詳しく見てきたように、「思わせぶりの心理」を完全に読み解くことができるのは再読者しかいない。しかるに若島は、初読者が場面ごとに「思わせぶりの心理」を読み解く根拠がどの程度存在するかを示していない。しかも、問題はそれだけでは済まない。犯人以外の登場人物も、犯人とは逆の意味で「思わせぶりな心理」を抱いているかもしれないのだ。叙述トリックの奥深さはここにもある。犯人でない人物が犯人らしくみえる「思わせぶり」もまた、初読者を惑わすからだ。となると「叙述トリック」の分析では、犯人らしくみえて実は犯人ではない事を読み解く根拠がどの程度存在するかも検証していかねばならない。その上に、語り(地の文)の叙述トリックも待ちかまえている。

 ずいぶんと入り組んできたので図式化しておこう。

・犯人は「犯人でない」かのように振る舞い、「犯人でない」かのような心理を抱く。
・犯人以外の人物は「犯人である」かのように振る舞い、「犯人である」かのような心理をいだく。
・語り手は真実を客観的に述べるが、時に「客観的にみえる」ような描写をする。


さらには、

・作者は、犯人に「あけすけな心理」を抱かないようにできるし、登場人物全員に「思わせぶりな心理」を抱くようにできる。


 こうまでも周到に仕掛けられた叙述トリックを初読者が見破れるわけがない。叙述トリックに感嘆するのであれば、ここまで言うべきだろう。若島が「叙述トリック」を見る視野はせまい。そのせまさのせいで、犯人も犯行もすべて知った上で「(初読者にも)犯人が推定できる」という結論に飛びついたのはあまりに迂闊だった。迂闊さを呼び込んだ根本には、若島が得意とする「再読」という手法の危うさが潜んでいる。

 再読者は、おそらく一度は初読者として小説を読み通してから、遡ってトリックの痕跡を洗いざらい白日の下にさらす。その上で再びスタート地点に立って読みだした時には、作者が用意したトラップ(罠)に引っかかる事なく、一直線に犯人の言動や行動だけに注目できる。だからと言って、初読の時から作者のトリックをすべて見抜いていたと主張できるわけではない。なのに自分以外の読者には何故か「叙述トリックが見抜ける、犯人が特定できる」などと理屈に合わない事を一貫して主張してしまう。

 ところで、ここまで若島の主張にどっぶりとつきあってみると、とても変な気分がしてきた。なぜか居心地が悪い。実は若島正も僕ら読者も、作者アガサ・クリスティの恐るべき罠にまんまとしてやられたのではないだろうか。何のことかと言えば『アクロイド殺し』の事だ。

 クリスティ作『アクロイド殺し』では、田舎町の医師ジェイムズ・シェパードによる一人称の語りで事件の一部始終が語られる。その中には、医師から見た客観描写もあれば、医師自身の心理描写もある。言ってみれば『アクロイド殺し』という作品は、徹頭徹尾シェパード医師の主観から成り立っている文章だという事になる。こういう文章を僕たちは「独白」と言ったり、「手記」と言ったりする。

 客観的な描写と言っても、医師自身によって書くことと書かないことの選別が行われている以上、「語り手イコール犯人」だとあかされた時点でアンフェア論争がまきおこるのは必然だった。その根拠は簡単に言うと次のように説明できる。

・語り手が犯人ならば、嘘をつくのも簡単だ。嘘は書かれていないとしても、思わせぶりな表現で読者をだましている。
・犯人ならば当然書くべきこと(人を殺して血をぬぐって…など)を書かないですます事も簡単だ。


 こういってクリスティは一部の評論家やミステリーマニアから袋叩きにあったのではなかったか。しかし、実際に『アクロイド殺し』の文章を分析してみればわかるように、どこをどう叩かれようともクリスティは嘘は書いていなかった。語り手自身が自らを犯人でないかのように、言い換えれば読者の「誤読をさそう」ように、書き方を工夫したにすぎない。

 この『アクロイド殺し』におけるクリスティの手際は、『そして誰も…』で登場人物の心理描写に用いた手法となんら変わるところがないように思われる。つまり『アクロイド殺し』の全文が「一人称の語り」ではなく、シェパード医師の主観描写あるいは心理描写だと見なしたとしても同じ事だ。前述した若島の主張の要点(1)と要点(4)を比較してみればいい。クリスティは『アクロイド殺し』で一人称の語りを採用したからといって、でたらめを書いたわけではない。「語り手イコール犯人」という綱渡りをするからには、できるだけ真実に添うようにシェパード医師に語らせたに違いない。と同時に作者は、シェパード医師に主観的な陳述に関しては思わせぶりに描くことを許し、肝心な場面(夫人が殺される当日の描写など)では、容易に肝心な事は書かせなかった。それでも若島は『アクロイド殺し』の一人称はアウト(アンフェア)だが、『そして誰も…』の犯人の心理はセーフ(フェア)だと言っている。これは奇妙な事ではないだろうか。

 実は『そして誰も…』における心理描写の「セーフ(フェア)」を保証しているのは、「全能の話者による三人称の語り」の信頼性そのものなのだ。この話者が責任をもって客観描写を行うと信じられるからこそ、登場人物の心理描写でさえも客観性が保たれている。言い換えれば「嘘がない」ことが保証される。一方、『アクロイド殺し』では一人称の話者そのものに信頼が置けないので「嘘をつかない」事がどうしても保証されないと見なされる。だからこそ『アクロイド殺し』アンフェア説は今なお消える事がない。

 話者の人称の違いに着目した若島は、次のように書いている。

 その読み終わってからの疑問とは何か? それはすでに述べたように、登場人物全員の心理が明かされていたにもかかわらず、なぜ犯人が犯人だと見破れなかったのかという疑問である。犯人の心理描写はどうなっていたのかという視点で再読を試みれば、たしかにクリスティーの「綿密な計画」が読み取れる。そして、「クリスティー自身に、手がかりを与える気など最初からなかった」のではなく、充分な手がかりを与えながらかつ容易に尻尾をつかませない、その叙述の手口の巧みさに感嘆することになるのだ。


 しかしクリスティが飼い慣らしている話者は、若島が言うほどには「真実」を語っていないようだ。嘘はないかもしれないが、思わせぶりな描写はいたるところで見られ、肝心な事は描写しない戦略が、作品の地の文全体に貫かれている。若島は、そこにこそクリスティの「綿密な計画」を読み取るべきだった。ところが、三人称の語りは「真実」だと無条件に信じて、再読の対象から除外してしまった。若島にしてみれば、地の文を除外できた事で「登場人物の心理描写」の重要性が高まったかのように見えたかもしれない。しかし、それこそクリスティの思うつぼだった。

 作者クリスティは『アクロイド殺し』のアンフェア論争を教訓として、『そして誰も…』では「全能の話者による三人称の語り」を採用した。「(語り手に真実のみを語らせる事を)自らに課した」からだと若島は考えたが、実はクリスティの狙いは別にあった。三人称の話者に語らせることで地の文(客観描写)から読者の注意をそらそうとしたのだ。

 これは、かつてエラリー・クイーンを評したディクスン・カーに「読者の前をたった一つの手がかりさえ通過させてしまえば、あとは何から何まで”密輸入”することに成功してしまう」とまで言わしめたクイーンのマジック以上のマジックと言えるかもしれない。クリスティは「登場人物の心理描写」というたかだか一枚のカードを、瞬時に別のカードに変えるクローズアップマジックを演じてみせたわけではなかった。地の文(語り)という「動かしがたい巨大建造物」を、あの天才魔術師デヴィッド・カッパーフィールドさながらに、僕らの目の前から消してみせたのだ。
(2010/12/11初出,2012/2/27改訂)
posted by アスラン at 19:28| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 評論・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月11日

「明るい館の秘密(若島正)」の過失(その2)(2012/2/24改訂)

(この記事では、アガサ・クリスティー著『そして誰もいなくなった』のネタバレを行っています。未読の方は読まないようにお願いします。)

 今回は小論「明るい館の秘密」で著者・若島正が行った『そして誰もいなくなった』の分析について詳細に検討する。その前にまず、『そして誰も…』とはどんな作品であるかをおさらいしておこう。

 ミステリーの女王アガサ・クリスティが世に送り出した100以上の作品の中でも一、二を争うほどに有名な代表作である。ストーリーの性質上、ポアロやマープルなどの名探偵は登場しない。

 大富豪の邸宅があると噂される孤島に10人の男女が招かれる。リゾート気分を満喫できると思って集まった彼らを待ち受けていたのは、謎の富豪の声による、過去に彼らが犯した罪に対する糾弾と死の宣告だった。彼らは次々にマザーグースの童謡の見立てどおりに殺されていく。島には彼らのほかに誰も隠れていないとわかり、残された人々は疑心暗鬼に陥る。最後に残った一人が異常な興奮状態の中で自ら命を絶ったことで、ついに島には「誰もいなくなった」。

 だが、漁船が拾い上げた瓶に封じ込められていた手紙には、ウォーグレイブ元判事の告白が綴られていた。判事は長年の判事人生で出会った「法律では罪を問えなかった人々」を自らの手で断罪する事にした。判事は、島で出会ったアームストロング医師を欺いて、自らが死んだように見せかけて真犯人に罠を仕掛けるという偽の計画に協力させる。判事のたくらみによって、判事の見せかけの死後、生存者は彼らの中に犯人がいると思いこみ、アームストロング医師も判事にだまされたまま殺害される。引退して悠々自適のはずの判事が犯罪を犯すにいたった動機は、不治の病で余命わずかと宣告されたためだと手紙の最後で初めて読者に明かされて、物語は幕を閉じる。

 あらすじからわかるとおり、『そして誰も…』は2つの部分から構成されている。一つは、一人また一人と殺されていくスリラーの第一部であり、その後の第二部では、犯罪が完結して誰一人残らなかったトリックのタネが明かされる。ここでは、第一部のスリラーとはうってかわって本格ミステリーらしくきちんとした辻褄を犯人自らに語らせるという趣向の面白さが際だっている。

 しかしどちらかというと、第二部はミステリーとしての辻褄合わせの意味合いが強く、第一部の強烈なスリルとサスペンスには勝てない。クリスティー文庫の新訳の解説でも赤川次郎氏は「エンターテイメントとしてのミステリー」の傑作だと言い切っている。

 その言葉どおり、作者は本編でもっぱらスリラーの演出に力を注ぎ、犯人を指摘するための手がかりをあまり与えようとはしていないというのが、大方の読者や批評家の印象のようだ。これに対して、若島正は『明るい館の秘密』の中で登場人物の心理描写に着目すれば、作者クリスティが仕掛けた「叙述トリック」の存在があきらかになり、犯人が誰かも解読できると主張した。つまり第一部でクリスティは読者に対して十分にフェアな手がかりを与えていると、従来の大方の印象とは異なる持論を展開したのだ。

 若島が分析に使用した「登場人物の心理描写が描かれている3カ所」を以下に示す。

@登場人物たちがインディアン島におもむく導入部(1-1〜8)
A4人が死んで、残りの6人の心理描写が特定されずに列挙される箇所(11-6)
Bさらに一人死んで、残り5人の心理描写が特定されずに列挙される箇所(13-1)


 この3カ所で著者が主張するポイントは以下のとおりである(分析の都合から便宜的に5つに分類した)。

(a)この箇所には、叙述トリックが仕掛けられている。言い換えれば、ある人物(=犯人)の心理描写において、読者の誤読を誘うような書き方がしてある。
(b)その誤読を正せば、犯人以外の登場人物たちの心理描写との比較から、いかにそれが書き分けられているかがわかる。
(c)AおよびBでは、特定されていない心理描写が、その言葉遣いなどに注目すると、誰の心理描写かがすべて特定できる。
(d)誰の心理描写か特定できた後で読み直せば、舞台裏で進行しているある計画の姿が見えてくる。
(e)そこでも、犯人を推定することは可能である。つまり、小説全体は論理的に構築されている。
(注)(a)(b)…の記号は便宜的に付与した。


 この若島の主張が正しいか否かを検討するにあたって、前提条件を確認しておこう。

・分析者は初読者とする。初読者は犯人の名前も犯人のトリックも、以後の事件の経過も、結末も知らない。
・分析者は、再読者から『そして誰もいなくなった』には「叙述トリック」が存在する事を耳打ちされているものとする。
・再読者から耳打ちされた叙述トリックとは、「登場人物の心理描写にはすべて本当の事が書かれている」という事である。
・叙述トリックが仕掛けられた箇所として@〜Bに注目するように、初読者はあらかじめ教えられている。
・分析者は、分析する箇所(時点)までに知り得た事は分析に利用してかまわないが、それ以降に知る事になる情報は使えない。


 ここで注意したいのは最後のポイントだ。分析者は「叙述トリック」を耳打ちされた初読者であるというのが大前提であるが、実際には若島のような再読者が初読者の振りをして分析せざるをえない。そのため、分析者はついつい前提を踏み外してしまいがちだ。本当に既知情報だけで「犯人の推定」が可能なのかは、よくよく検討する必要がある。

 それでは若島の主張の検証にとりかかる。
若島が実際に小論で分析した心理描写は3カ所あるが、前述の5つの主張のうちの(c)以降はAおよびBに関するものなので、AとBをはじめに分析する。なにより著者は、AとBの分析に「ご執心」なのだ。僕としても@は後でじっくりと分析したい。

[Aの分析]
 11章6節(以下11-6)では、すでに4人が殺害されている。この箇所では生き残りの6人の心理描写が「誰のものだと特定されることなく」列挙されている。生き残りの6名とは、
ウォーグレイヴ(元判事)
ヴェラ・クレイソーン(秘書)
フィリップ・ロンバード(元陸軍大尉)
エミリー・ブレント(老婦人)
マッカーサー(元将軍)
アームストロング(医師)
ウィリアム・ブロア(元警部)

である。

 Aで列挙されている心理描写は、以下のA〜Fである。
A「次は?次は?誰が?どの人間が?」
B「うまくいくだろうか?どうだろうか。やってみる価値はある。時間さえあれば。まったく、時間さえあれば…」
C「狂信者だ、きっとそうにちがいない…。外見ではおよそ信じられないが…。もしまちがっていたら…」
D「狂っている−何もかも狂っている。気が狂いそうだ。毛糸が消えて−赤い絹のカーテンも−わけがわからない。さっぱりわからない…」
E「ばかな男だ、こっちの言葉をすっかり鵜呑みにして。ころりとひっかかった…。しかし、充分警戒しなければいけない」
F「あの小さな陶器の人形が六つ…たった六つ−今夜にはいくつになるのか?…」


 このように心理描写も6人分なので、それぞれが生き残りの6名の誰かに当てはまるはずだ。クリスティの原文にあたりたい方は、若島の小論で訳文と原文が併記されているので確認してもらうといいだろう。なお、小論の訳文(上記のA〜Fも)は翻訳家でもある若島自身の試訳だ。Bの分析で明らかになるが、若島はハヤカワ・ミステリ文庫の旧訳に不信感を抱いている。

 若島が最初に狙いを定めるのは、登場人物の口癖だ。Cの「狂信者だ」という非難めいた独白は、この場面に至るまでにブロア警部がエミリー婦人に対して何度も使っている。こういう口癖は叙述トリックの手がかりとしては重要だ。心理描写では人の口癖を真似る事はありえない。よってCはブロア警部である。

 Dの「毛糸が消えて」という部分は、編み物に用いる毛糸玉を指している。毛糸玉の所有者はエミリー婦人であり、彼女以外に毛糸玉に関心をいだく人物はいない。よってDはエミリー婦人である。

 Eの「充分警戒しなければいけない」という言い方は、ウォーグレイヴ判事の口癖だ。導入部@でも確かに同じ表現が使われている。よってEは判事だ。

 Eが判事の心理描写であるならば「ばかな男」はアームストロング医師を指すに違いないと若島は断定する。判事が二人きりで話し合う場面が描かれる相手はアームストロング医師しかいないからだ。しかし、この論拠はかなり怪しい。本格ミステリーファンであれば、即座に却下するだろう。書かれた事はすべて論理的に説明がつかねばならないが、書かれていないからといって「他の登場人物と二人きりで話し合ってはいない」とは言い切れない。そんな事を言い出したら、作者は犯人が犯行におよぶ殺害場面まで書かねばならなくなってしまう。「ばかな男」という表現が、判事が初対面の時に抱いた「医者はどいつもこいつもみんなばかだ」という印象と合致すると言うが、口癖とは違って根拠が薄弱だ。

 「ばかな男」がアームストロング医師であると若島が断定したがるのには訳がある。Eの「ころりとひっかかった」という心理には、次のような意味が込められていると解釈したいからだ。
ここで明らかになるのは、ウォーグレイヴ判事がアームストロング医師に嘘をつき、二人で何かの計画を舞台裏でひそかに進行させているという可能性である。


 つまり判事はアームストロング医師をだましているうえに、「なんらかの計画の片棒をかつがせよう」としているらしい。そう考えるとBの「うまくいくだろうか?」という心理描写は、判事にもちかけられた「計画」の成否を心配するアームストロングに当てはまる。まるで千里眼のような見通しではないだろうか。まさに再読者・若島は結末まで既に知り抜いている事を棚にあげて、自らを千里眼に仕立てている。

 Eの心理描写から判事が誰かをだましているのは確かだ。若島の言うとおり「何かの計画を舞台裏でひそかに進行させている可能性」を読み取るのも妥当な解釈だろう。だがEの心理描写だけで「二人で何かを計画している」と考えるのには無理がある。普通に考えれば、Eが単独で誰かをだまそうとしているとしか解釈できない。これこそが再読者・若島正の顔が出る瞬間だ。「二人による計画」という腹案は、結末での犯人の告白を判断材料にしない限り直接には出てこない。僕ら分析者は初読者であるから、慎みをもって千里眼を気取るのはやめにしよう。Bは未確定とする。

 ロジャースの死後、人形が1つずつ減っていくのを気にする役回りをヴェラが引き継いでいた事から、若島はFがヴェラの心理描写だと断定する。しかし、このような推論は口癖や物的証拠(毛糸など)と比べると根拠が弱い。状況証拠というか外延的な推論にすぎない。Fは保留とする。

 結局、(C=ブロア警部、D=エミリー、E=ウォーグレイヴ)の推定は妥当であるが、(A、B、F、ロンバート、アームストロング、ヴェラ)の対応関係は未確定のままに終わった。

[Bの分析]
 13章1節(以下13-1)では、Aの場面の6人のうちエミリー婦人が殺害されて、生き残りは5人となった。「特定されない心理描写」は五人分、列挙されている。

G「アームストロングだ…ちょうどあのとき、彼は横目で私を見ていた…あの目つきは狂っている…完全に狂っている…。医者ではないのかもしれない…そうとも、決っている!…どこかの医院から逃げてきた狂人で−医者のふりをしているのだ…。きっとそうだ…みんなに話そうか?…大声を出して?…いや、警戒させるのはまずい…。それに、彼は正気のように見えるだろうし…。何時だろう?…まだ三時十五分だなんて!…ああ、私も気が狂いそうだ…。そうだ、アームストロングだ…。彼は今、私の方を見ている…」

H「おれはやられないぞ!やられるはずはない…。何度も危い橋を渡ってきているんだ…。それにしても、ピストルはどこへいったんだろう?…誰が盗ったんだろう?…誰が持っているんだろう?…誰も持っていない−それはわかっている。全員、身体検査を受けたから…。誰も持っているはずがない…。しかし、誰かがありかを知っているはずだ…」

I「みんな気が狂いかけている…みんなそのうちきっと気が狂う…。死ぬのが怖くて…われわれはみな、死ぬのが怖い…。私だって怖い…。そうとも、だからといって死を免れることはできない…。<霊柩車が戸口に来ております。>どこで読んだんだろう。あの女…あの女を見張っていよう…。そうだ、あの女を見張るんだ…」

J「四時二十分前…まだ、四時二十分前だ…時計が止まっているのかもしれない…。わけがわからない…まったくわからない。こんなことが起こるはずはないのに…現に起こっているなんて…どうして目がさめないのか? 目ざめよ−最後の審判の日だ−いや、そんなばかな! 考えることさえできたら…。頭が−頭がおかしい−破裂しそうだ−割れそうだ…。こんなことが起こるはずはないのに…。何時だろう?ええっ、まだ四時十五分前か!」

K「正気でいるんだ…。正気でいるんだ…。正気でいさえすれば…。すべては明白だ…すっかり読めている。しかし、誰にも疑われてはいけない。うまくいくかもしれない。うまくいってくれないと!誰だろう?それが問題だ−誰だろう?きっと−そう、きっと−そうだ−あの男だ」


 Aの心理描写とくらべるとそれぞれの分量が増え、追いつめられた一人一人の内面がよく描かれている。クリスティのサスペンスの盛り上げ方はさすがというしかない。その一方で、作者は人物を特定できるような手がかりをどれだけ与えてくれているだろうか。若島は再び口癖から推論してゆく。

 Hの「何度も危い橋を渡ってきているんだ」と表現は、ロンバートの口癖だ。小説の導入部で最初に登場した際にも、ロンバートはまったく同じ独白をしている。Hはロンバートである。

 Jで「最後の審判の日」におののく人物は、ブロア警部以外に考えられない。若島が指摘しているように「審判の日」という言葉は、導入部でブロアと同じ列車に乗り合わせた「船乗りらしい老人」がブロアに向けて予言した言葉だった。悪趣味な冗談だと思って気にも留めなかったのに、ここに来て予言の通りになった自らの境遇に呆然としている。よってJはブロア警部だ。

 その次に若島は、Gはヴェラだと言う。なぜなら、以前ロンバートに誰が犯人だと思うか尋ねられて、「アームストロング医師が怪しい」と即座に答えていたからだ。だが、これは確定判断とは認めがたい。ヴェラ以外に「アームストロング医師が怪しい」と考えている人物がいない事が証明できていないからだ。よってGは未確定とする。ただし、Gはアームストロング医師でない事だけは言える。

 Kで「うまくいってくれないと」と心配している様子は、Bの「うまくいくだろうか」の繰り返しに見える。この部分は口癖ではないが、心理表現に統一感があるのでBと同一人物であるとほぼ断定してもいいだろう。ただしBが未確定だったので、Kも未確定になる。

 若島は最後にIを特定するためになんと消去法を用いている。だが、若島の分析と違って僕らの検証結果では一部の心理描写が未確定のままなので、Iの特定に消去法は使えない。Iに出てくる「あの女」とは、 女性で唯一生き残っているヴェラである事は間違いない。と同時に、Iはヴェラではない。

 結論としては、H=ロンバート、J=ブロア警部である事がわかる。(G、I、K、ウォーグレイヴ、ヴェラ、アームストロング)の対応関係は確定できなかったが、「K=B」および「Iはヴェラではない」という判断から、
 K=アームストロングorヴェラ
 I=ウォーグレイヴorアームストロング
 J=ヴェラorウォーグレイヴ
というところまでは分析可能だ。

 初読のミステリー愛読者がふつうに考えれば、ここまではなんとか読み解けるのではないかと思う。しかし、論理的かつフェアに推理しようと心がければ、これ以上の特定は難しい。ストーリー重視、サスペンス重視の読者はさっさと特定をあきらめて、物語の興奮が冷めやらぬうちに結末へと先を急ぐだろう(僕もその一人だ)。あるいは、ハヤカワミステリ文庫(旧訳版)の解説をつとめたミステリー評論家・各務三郎氏のような玄人に「クリスティ自身に手がかりを与える気は最初からなかった」という印象を抱かせる事になる。

 僕ら初読者はこれ以上の人物の特定はできないが、若島は消去法を用いて導き出した(と信じる)「I=ウォーグレイヴ判事」という結論を根拠にして、さらに分析を続ける。これは非常に危険な行為だ。これまでの判断に一つでも誤りがあれば、以後の推論は雪崩のように総くずれになってしまうからだ。そんな危険もかえりみず「I=判事」を根拠にして若島が明らかにしようとするのは、次の2点である。

1.「私だって((死ぬのが)怖い」という箇所は、不治の病を宣告された判事の心理を描写している。
2.ハヤカワミステリ文庫(旧訳版)の「怪しいのはあの娘だ」という訳は、叙述トリックにひっかかった誤訳だ。


 Iは若島が「叙述トリック」の勘どころとして取り上げている箇所なので、この2点を論駁すれば若島の主張はそれこそガタガタになるはずだ。

 まずは1について。ここまで読んでいただいた方は、僕が何を言いたいかすぐにわかってもらえるはずだ。そう、ウォーグレイヴ判事が不治の病に侵されているとわかるのは、十人全員が死んだ後に、判事が犯行を告白した告白書(が入った瓶)が海で発見された後に、語り手によって公表された時点だ。つまり、Bの場面で判事が不治の病をわずらっている事を知る手立てなど初読者にはない。

 ならば、たとえ「I=判事」だと推測できたとしても、「私だって怖い」という心理描写が犯人である事の根拠になりえない。要するに「私だって怖い」という心理が殺人鬼に怯えた心理でないと疑う根拠は、分析者(初読者)にはない事になる。たしかに、この表現には「誤読を誘う叙述トリック」が隠されているが、初読者にとって論理的かつフェアなトリックとは言えない。

 2について検討する前に一言言っておく。若島に誤訳呼ばわりされた「旧訳」とは、ハヤカワ・ミステリ文庫(旧訳版)『そして誰もいなくなった』であり、訳者は清水俊二である。ややこしい事に、若島の評論がミステリーファンのあいだで有名になったせいか、アガサ・クリスティ文庫が新たに刊行された際に、『そして誰もいなくなった』はハヤカワ・ミステリ文庫の旧訳をそのまま採用しつつも、既に亡くなられていた清水氏に代わって「誰か」(これも特定されていない。果たして誰だろう?)によって、若島の指摘どおりの訳に直されている。僕から言わせれば、出版社はうかうかと乗せられて早まった対応をしたものだ。

 著者が指摘した旧訳の誤りとは、Iの次のような箇所である。

(原文) The girl...I'll watch the girl. Yes, I'll watch the girl...
(清水訳)怪しいのはあの娘だ…そうだ、あの娘を警戒しなければならない…
(若島訳)あの女…あの女を見張っていよう…。そうだ、あの女を見張るんだ…

 ちなみにクリスティ文庫の訳は「娘…あの娘を見張っていよう…そうだ、あの娘を見張るのだ…」となっている。先ほども書いたが、全面的に若島訳を採用したと見るべきだろう。そして若島の考える「清水訳の致命的な誤訳」とは、結局のところ「怪しいのはあの娘だ」という表現だということになる。しかし何故これが致命的な訳なのだろうか。

 原文のI'll watch the girlは、直訳すれば若島訳のように「見張っていよう」となる。これはニュートラルな訳だが、人物Iの感情にもう少し踏み込むと、次のフレーズのように「あの女を見張るんだ」という意志あるいは義務となる。実は若島自身も、知らず知らずにニュートラルな直訳からIの心理に一歩踏み込んだ訳し方をしている。

 若島訳の「あの女を見張るんだ」からさらに一歩踏み込んだのが、清水訳の「あの娘を警戒しなければならない」という訳だと見ていいだろう。若島訳のようにwatchを単に「見張る」と訳すだけでは、Iの心理が充分反映されていないと判断して、清水訳は「警戒する」という言葉を用いている。つまり清水氏は、Iが「あの娘が犯人ではないか」と疑っていると見なした上で、Iの心理状態を反映した訳出を行っている。「怪しいのはあの娘だ」というのは「警戒」から導きだされる意訳だ。まさに心理が露出している訳し方で、普通に考えれば誤訳ではなく意訳として許容される範囲だろう。

 一方、若島の「あの女を見張っていよう」という訳はわかりにくい。若島の指摘に沿えば、原文が読者を「叙述トリック」でだまそうとしているために曖昧な表現にとどめているとも言えるが、果たしてそうだろうか。そもそもIが犯人だとすると、何故「あの女を見張」らなければならないのだろう。若島は次のように推測している。

 実際には、彼(Iの事)はヴェラのタフさを充分に見抜いていて、最後には彼女が残ることをすでにこの時点で予測しているのだ。要するに、訳者はそこのところを読めていない。その翻訳を通じてしか『そして誰もいなくなった』を読んだことのない一般読者には、もちろんそれがわかるはずがない。わたしが本稿を書く気になった本当の理由は、実はそこにある。


 若島は、これまで「叙述トリック」のうがった読みで僕らを導いておきながら、最後に「本稿を書く気になった本当の理由」が旧訳のたった一箇所の誤りを正すためだと言っている。しかもこの誤りは「小説全体の読みに関わる重大な問題をはらんでいる」とまで言い切っている。こうして旧訳の責任者・清水俊二は徹底的におとしめられる。

 だが、致命的な間違いをおかしているのは著者・若島正のほうだ。以下で証明しよう。

 先ほどのBの分析の検証から、次のことが言える。

・Iがウォーグレイヴ判事の心理である正当な根拠は存在しない。(判事orアームストロング医師である。)
・「私だって(死ぬのが)怖い」という表現に叙述トリックが仕組まれていると解釈する合理的根拠はない(「不治の病」を根拠にするのはNG)。
・だとすると、ほとんどの読者はIが犯人かどうかわからない。
・その「ほとんどの読者」の中には、誤訳をしたとされる当人(清水俊二氏)も含まれる。
・ならば、清水俊二氏が重大な過失をおかしたとは言えない。


 しかし若島は、あくまで旧訳版の「怪しいのはあの娘だ」という訳が「あの女を見張っていよう」と訳されていれば、ここに叙述トリックが仕組まれている事は「一般読者(初読者)」に容易にわかるはずだと主張するだろう。「あの女」を見張らねばならない理由は、「(Iが)最後には彼女が残ることをすでにこの時点で予測している」からだ。

 ほらね。待たしても若島は無意識に前提条件を踏み外してしまっている。一般読者(初読者)は、どうやったらBの場面でヴェラが最後まで残る事を知ることができるのですか?知ることができないのであれば、「あの女を見張っていよう」という表現に叙述トリックが仕組まれていると、初読者が考えうる合理的かつフェアな根拠はなんですか?

 要するにこういうことだ。「Iが犯人だ」とは確定できていない。未確定なので、訳語を「あの女を見張っていよう」に置き換えたところで、「あの女を見張る」が叙述トリックである合理的根拠はない。たとえIが犯人だと確定していたとしても、「見張る」ことの合理的解釈はない。どう考えても一般読者には、叙述トリックの持つ意味がわかるはずがない。若島の決め言葉にならって言えば「僕がこの書評を書く気になった動機は、まさにここにある」。若島の「要するに、訳者(清水)はそこのところを読めていない」という非難は言いがかりもはなはだしい。

 だが一方で、翻訳家はいつだって再読者ではないかという主張もありうる。訳者は犯人のトリックも結末もすべて知っている。ならば、やはり誤訳(本当は意訳)をした事の責任をとるべきだろうと考える人もいるかもしれない。しかし、それは見当違いだ。もう一度、この分析に入る前の前提条件を思い出してほしい。僕らは「叙述トリック」の方法論と場所を再読者から耳打ちされた初読者であった。方法論とは「登場人物の心理描写にはすべて真実が書かれている」というものだった。

 ならば翻訳家・清水俊二は、再読者・若島正から「叙述トリック」に関する耳打ちをしてもらっただろうか。答えは否。断じて否だ。耳打ちされていない一翻訳家が、玄人受けをねらった奇妙な「叙述トリック」を自力で見とおすことが果たしてできただろうか?しかも若島の発見した「叙述トリック」は、一般読者(初読者)の謎解きには一つも貢献しない事は今見てきたとおりだ。この場合でも、やはり翻訳家の責任は「重大であり致命的だ」などと言えるだろうか?

 これも否だ。そもそも「怪しいのはあの娘」という清水訳は、若島が言うような「小説全体の読みに関わる重大な問題」をはらんでなどいない。せいぜい「叙述トリックの読みに関わる重大な問題」をはらんでいると言えるだけだ。つまり「叙述トリック」には綻びがないという若島自身の自己満足(作者クリスティの自己満足でもある)が得られるだけだ。そんな自己満足などは一般読者には知ったことじゃない。

 それでも若島にしてみれば、訳者の不可抗力にせよ、トラの子の「叙述トリック」が訳文のニュアンスによって失われてしまうのは悔やんでも悔やみきれないのだろうと、同情する声もどこからか聞こえてきそうだ。しかし、これについても僕の答えは否だ。というのも、若島は「叙述トリック」分析のいかしどころを、心理描写の特定が最も難しい箇所(AおよびB)に求めているからだ。あたかも他には分析のしやすい箇所はないかのような振る舞いをしているが、これは若島の身勝手な都合にすぎない。なぜなら、若島が「叙述トリック」のありかとして注目した3箇所のうち、導入部の@(1-1〜8)で早々に犯人である判事の心理描写に「叙述トリック」が仕組まれていると、若島自身が指摘しているからだ。

 しかも、若島は@の分析を判事の心理に限っておこなっている。判事の心理描写に「叙述トリック」の存在を指摘しただけで「判事が犯人であること」を断定している。このような分析の手つづきも、今となっては不十分であると言わざるを得ない。ここで若島が分析した事は、せいぜい「判事が犯人であるかもしれない」という可能性だ。なにしろ、他の人物たちの心理描写にトリックがない事を検証していないのだから。

 若島は次のような言い訳をしている。

登場人物たち各人の意識の断片をつぶさに検討してみることは、それなりに興味深いことではあるが、本稿の目的ではない。


 この言葉を盾にして、若島は判事以外の登場人物の心理描写を分析せず、なおざりにする。これはあきらかに片手落ちだろう。もし「導入部での全員の心理描写を分析すれば犯人が特定できる」というのでは興ざめなので、どうせなら「ひときわ目立つ書き方」(若島)をしている箇所で、「叙述トリック」の手口の巧みさと、その論理性(犯人を正しく推理できる)という2点を一挙に示してみせようというのが、若島の野心であり身勝手な魂胆だった。つまりAやBは、自らの読みの切れ味を読者に示すためだけに選ばれたにすぎない。

 と同時に、そこには「悪意」がともなっている。さきほどの若島の言葉の中に、導入部を「つぶさに検討する」のは「本稿の目的ではない」と書かれている。そして、小論の終盤でBの分析を終えた直後に、「本稿を書く気になった本当の理由」は訳者・清水俊二の誤訳を糾弾することにあったと書かれている。語るに落ちたとはこのことだろう。著者・若島正にとって翻訳家・清水俊二の訳は「目の上のたんこぶ」だと自白しているも同然だ。それを「小説全体の読みにとって」とか、あるいは「一般読者にとって」の致命的な誤りだと思わせた罪状は、どうつぐなってくれようか。

 これで僕の言いたかった事、この書評を書く気になった理由を満足させる事ができたように思う。これからは、『そして誰もいなくなった』で作者クリスティがひそかにすべりこませたという「叙述トリック」の巧みさを楽しんで味わいたいと思う。本来ならば、これは言い出しっぺの若島正氏がすべきことだったはずだ。なのに、彼は「叙述トリック」という発見の独創性に目がくらんで、誤った方向に読者や翻訳者を道連れにしてしまった。

 次にやるべきことは、導入部での登場人物全員の心理描写を丁寧に分析する事だ。その際に、僕の楽しみとして、原文と旧訳と新訳(青木久恵訳)、ついでに若島訳(判事のみ)を併記して、どの訳が翻訳として妥当か、叙述トリックとして妥当か、などを見ていこうと思う。(つづく)

(2010/12/1初出,2012/2/24改訂)
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2012年03月09日

「明るい館の秘密(若島正)」の過失(その1)(2012/2/17改訂)

(この記事では、アガサ・クリスティー著『そして誰もいなくなった』のネタバレを行っています。未読の方は読まないようにお願いします。)


 以前、『ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18(小森収 編)』の中に収められた『明るい館の秘密』という小論を興味深く読んだ。これは「乱視読者」を名乗る批評家・若島正が、アガサ・クリスティー作『そして誰もいなくなった』の深読みを行った小論である。著者の深読みの独創性には敬意を払いたいが、結論から言うと主要な論点に致命的な欠陥がある事を感想(書評「ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18(小森収 編)」(その5))に書いた。しかし今回は、この小論が誤読に満ちている事、それだけでなく『そして誰もいなくなった』を愛する読者にとって弊害になる事を改めて説明したい。

 僕が言いたい事は3点ほどある。
(1)若島の主張する「叙述トリック」は、言わば手品のタネである。若島は手品のタネをあばいた上で「作者の手際の良さ」だけを賞賛するが、「手品そのものの出来映え」に対する正当な評価を欠いている。
(2)若島は「(『そして誰も…』は)論理的に構築されている」と主張するが、必ずしも論理的な構成とは言えない。
(3)「(『そして誰も…』は)犯人のトリックはつまらないが、作者クリスティの叙述トリックは賞賛できる」という若島の主張には異論がある。ましてや「再読しないと真価がわからない作品」という独断には、なんら正当な根拠はない。

 これだけの事を言い尽くせば、若島の小論に対して一矢を報いる事ができるのではないかと思う。と言うのも、若島の小論を読んで内容を鵜呑みにする読者や評論家が少なからず存在しているからである。若島の小論を収めた『ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18』の編者も、まさに鵜呑みにした一人だろう。これではクリスティーの名作の価値が正しく後世に伝わらない。さらには、著者が書いた無責任な一言によってハヤカワ・ミステリ文庫の旧訳が不当におとしめられたという事実も明らかにしたい。

 とりわけ、ちょうど新訳が出たばかりで、旧訳を正当に比較検討できる好機だ。きちんとしたミステリーマニアであれば、単純に「旧訳はNGで新訳はOK」という事にはならないと気づくはずだ。若島は旧訳の「ある一箇所の訳」を取り沙汰して、訳者の無能を証左したつもりになっているが、この点については既に他界されている訳者に代わって若島氏を糾弾したい。

 まわりくどい言い方をしないで率直に言えば、「ある一箇所の訳」は若島が主張するような誤訳とは言えない。ましてや「作品全体に関わる致命的な誤訳」と言うのは、勘違いもはなはだしい。なのに、たった「ある一箇所の訳」を根拠にして、一つの翻訳書と一人の翻訳家を不当におとしめた罪は大きい。

 若島は論旨を展開するのに先立って「わたしの読み方が正しいのかどうか、それが愛読者の常識なのかどうか、確かめるすべがない」と書いている。この一見すると愛読者の常識に訴えるような謙虚さにだまされてはいけない。著者のしたたかさは、その後の強引な論調からも明らかだ。もうそろそろ、この「乱視読者」の深読みが的を射ていない事を誰かが指摘してあげるべきだろう。

 前置きはこのくらいにして、小論の検討にとりかかろう。

[(1)叙述トリックは手品のタネである]
 『明るい館の秘密』というミステリー評論を読んだ読者は、著者のあざやかな読みにうならされたはずだ。と同時に、以下のような2点を頭に思い浮かべたのではないだろうか。
(A)『そして誰もいなくなった』という作品は、再読して初めて評価に値する作品だったのか。
(B)それにしても、何故こんなあからさまな読みを若島以外に気づく人がいなかったのだろう。

 (A)のような印象が出てくるのは、犯人の用いたトリックは「つまらない」と断言し、真に評価すべきは作者クリスティの「叙述トリック」の方だと若島自身が書いているからだが、実はそれだけではない。後で詳しく述べるが、『そして誰も…』の主要なモチーフ(トリックや設定、サスペンスなど)が、何度も何度も後発の小説あるいは映画やテレビドラマで再利用され、いまや『そして誰も…』にはパイオニアとしての価値しかなくなっているという現状がある。そうなると、新たな若い読者は『そして誰も…』の独創性に気づきにくい。

 くだけてたとえるならば、「古畑任三郎」を見て育った後発の世代は、わざわざ「刑事コロンボ」を見ないだろう。いや、見ても評価しないだろう。しかし「コロンボ」がなければ、それが大ファンだった脚本家三谷幸喜に「古畑」を書かせるモチベーションを与えなかっただろうし、なにより「コロンボ」を洗練させたミステリドラマを作り上げる事もかなわなかっただろう。もちろん不可能だったと言うつもりはない。できたとしても、作品を一から作り上げるためには、パイオニアとしての並々ならぬ力量と膨大な労力がかかったはずだ。

 しかし、やはりまっとうに考えて『そして誰も…』は、初読から読むに値する驚くべき小説ではないだろうか。それについては(3)の論点で詳しく述べようと思う。ここでは、まず(B)の問題をとりあげよう。

 何故、若島以外にこれまで指摘されてこなかったかと言えば、最初に指摘しておいたように、若島の評価法が通常のミステリ評論の方法と異なるからだ。僕は「叙述トリック」を手品(作品)におけるタネにたとえた。手品のタネは、通常は「作品の出来映え」に奉仕する。そうであるからこそ、観客(読者)は手品(作品)に対して惜しみない拍手をおくる。なのに若島は「作品の出来映え」にはいっさい言及しない。言い換えると「初読の際の感動」については一切語らない。いや、それどころか「犯人のトリックはつまらない」とまで言い切っている。これでは、手品(作品)としては駄作だと言っているに等しい。

 しかし、若島のような”慧眼”の持ち主からすれば、この作品で作者クリスティがやろうとしたねらいは明白であった。僕らのように”慧眼”を持たぬ読者に配慮するかのように、ご丁寧にも「作品を論じるにあたって、わたしは難解な批評用語を弄ぶつもりはない」と言っておきながら、「(ミステリー評論家の)各務氏の意見をパラフレーズすれば」だとか「ナラトロジーでいうところの」などと小難しい用語を弄して、さっそく「お里が知れる」始末だ。

 要するに、文芸評論家である彼がなんと言おうとも現代言語理論の力にあずかっているのは明らかだ。普通のミステリー愛読者が若島のように気づかなくても当然である。小説の現代的な読み直しが若島正の課題であるからこそ、若島は「作者」にも「作品そのもの」にも関心がない。若島自身も「わたしの関心はそこ(注:作品のテーマ批評)にはない」と言っている。僕はその点にケチをつけるつもりはさらさらない。しかし、若島が「手品の手際の良さ(作者の手口の巧みさ)」に感嘆すればするほど、「手品の出来映え」、言い換えれば『そして誰も…』という作品自体の価値は下がっていく。

 しかも若島の方法論に従えば、『そして誰も…』は再読して初めて評価できる作品となってしまう。何故ならば「作者の手口の巧みさ」は再読しないと見えてこないからである。若島の説明からは「作者の手口の巧みさ」への評価は聞こえてくるが、いっこうに「作品に対する賞賛・愛着」は聞かれない。これはミステリーの女王クリスティへの不敬に等しい。もちろん若島の主張が正当なものであれば、素直にひきさがるしかない。だが、若島の深読みの正当性を裏付けるためだけに作品が利用されているとしたら、話は違ってくる。

 若島の言い分では、『そして誰も…』最大のトリックとも言える「叙述トリック」は、読者が再読して作品をより深く楽しむために存在しているのではない。
 クリスティは『アクロイド』(引用者注:小説『アクロイド殺し』の事)がフェアかどうかという議論を巻き起こしたのを教訓として『そして誰もいなくなった』ではそのような非難を浴びない叙述トリックを用いたのではないか(若島正『乱視読者の帰還』所収の「明るい館の秘密」より)

 このように「叙述トリック」は愛読者の期待に応えるものではなく、批評家をうならせるためのトリックだったと若島は考える。しかも、それこそがクリスティの野心的なねらいだったと言う。はたしてそんな事があるだろうか。クリスティが玄人受けする作品を作ろうとした事は事実かもしれないが、肝心の「作品の出来映え」がつまらないと言われては元も子もないではないか。若島の主張はうがちすぎて辻褄があわない。

 しかし、本当に辻褄があわないのは、若島の思い描く「叙述トリック」のもつ意味だ。ミステリーを読みなれた人ならば、叙述トリックがいかなるものか知っているはずだ。一見すると「そう見える」ように書かれていた事が実際には違っていたというトリックだ。そこには「読者の誤読を誘う書き方」(若島)がなければならない。そして、もちろん『そして誰も…』という作品は、普通の意味で叙述トリックが仕組まれたミステリーの傑作であることは、ミステリーファンにとっては周知の事実だ。

 ただし、その事実が「活字になっているのを目にした事がない」「愛読者の常識なのかどうか、確かめるすべがない」という疑問を若島が投げかけるのもムリはない。もし叙述トリックがある事が公になれば、未読者に対して重大なネタバレになるからだ。もし、登場人物の心理描写にクリスティの野心的な「叙述トリック」が仕組まれているという若島の指摘が事実だとすれば、400ページ弱の長編であっても、目の付けどころとなる心理描写はかなり限定される。そこをあら探しされたら、作者の周到な計画もひとたまりもない。

 僕が「叙述トリック」を手品のタネにたとえた理由もここにある。タネがわかった手品くらいつまらないものはない。作者は是が非でもタネがばれないように細心の注意を払うだろう。ミステリーファンであれば、「ネタバレ」を良しとしないのは当然の事だ。

 だが、すでに『そして誰も…』を読み終わっている再読者であれば、話は違う。若島に従えば、
充分な手がかりを与えながらかつ容易に尻尾をつかませない、その叙述の手口の巧みさに感嘆する(同上)

ことが再読の目的であり。楽しみでもある。

 ここから再読の達人・若島正は「叙述の手口の巧みさ」をつぶさに確認するだけでは物足らず、不思議な事を言い出す。「叙述トリック」が仕掛けられた箇所の誤読をただしく読み解けば、結局のところ「犯人を推定できる」などととんでもない事を言い出すのだ。これがどれほど「とんでもないこと」なのかは、すぐに明らかになる。


[(2)『そして誰もいなくなった』は論理的に構築されたか?]

 若島は、孤島に集められた10人の登場人物の心理描写が現れる章・節をすべて列挙したうえで、以下の3箇所にねらいを定めて「叙述トリック」の分析に取りかかる。

 @登場人物たちがインディアン島におもむく導入部(1-1〜8)
 A4人が死んで、残りの6人の心理描写が特定されずに列挙される箇所(11-6)
 Bさらに一人死んで、残り5人の心理描写が特定されずに列挙される箇所(13-1)


 若島がとりわけ注目するのはAとBである。この二カ所は、生き残っている全員の心理が描かれていて誰の心理描写か特定されていない点が「小説の中でもひときわ目立つ」(若島)からだ。すでに半数が殺され、互いに疑心暗鬼になっている。心理描写は緊張感にあふれ、サスペンスも最高潮に達している。

 確かに、この部分の描写を意識しない読者はいないだろう。どれが誰の心理描写か頭を悩ましたのではないだろうか。僕もそうだったが、早々に特定を諦めた。しかし、若島はAとBに隠された「叙述トリック」を力業で読み解いていく。

 若島の言いたい論点は以下の5点だ。ここは重要なポイントなので一字一句違えずに引用しておこう。

(a)この箇所には、叙述トリックが仕掛けられている。言い換えれば、ある人物(=犯人)の心理描写において、読者の誤読を誘うような書き方がしてある。
(b)その誤読を正せば、犯人以外の登場人物たちの心理描写との比較から、いかにそれが書き分けられているかがわかる。
(c)AおよびBでは、特定されていない心理描写が、その言葉遣いなどに注目すると、誰の心理描写かがすべて特定できる。
(d)誰の心理描写か特定できた後で読み直せば、舞台裏で進行しているある計画の姿が見えてくる。
(e)そこでも、犯人を推定することは可能である。つまり、小説全体は論理的に構築されている。
(注)(a)(b)…の記号は便宜的に付与した。

 若島の分析の是非は次回に詳しく吟味するとして、まずは(a)〜(e)の順で展開される論旨に明らかに辻褄があわない点があることを指摘しておこう。

 若島の分析は再読を前提としている。若島自身も小論の冒頭で、再読の意義について次のように書いている。

すべては、犯人のトリックが明らかになり、小説が終わった後で、ふと疑問に思ってもう一度この小説を最初から読み直してみるような、読者の勘に委ねられているのである。(同上)


 再読者は「犯人のトリック」を知るだけでなく「犯人が誰か」も既に知っている。その再読者が@〜Bを分析すれば、主張の(a)や(b)はそのとおりだと言うしかない。(c)についても条件付きで同意しよう。ただし「言葉遣いなどに注目する」だけでは特定は難しい。再読で入手したあらゆる情報(犯行のトリックや犯人名など)を利用しなければ特定は無理だ。理由は後述する。

 若島は、(d)で「ある計画の姿がみえてくる」と主張する。ある計画とは、犯人(ウォーグレイヴ判事)がアームストロング医師をだまして、犯人をあぶり出すための陥計の片棒をかつがせるという部分を指している。しかし「みえてくる」というのもおかしな表現だ。すでに僕ら再読者は犯人の計画の存在を知っている。知った上で、叙述トリックの手口を確認しているのではなかったか。

 極めつけは(e)の「犯人を推定することは可能である」という結論だ。いつの間にか若島は健忘症にかかってしまったようだ。僕ら再読者は犯人の名前もトリックも忘れる事はできない。だから(d)や(e)の主張は再読者にとっては無意味だ。

 では再読者ではなく初読者が@〜Bを正しく分析すれば、「ある計画の姿がみえてきて、犯人を推定できる」と若島は言いたいのだろうか。それもあり得ない。この分析そのものが「登場人物の心理描写に叙述トリックが仕組まれている」という事を前提にしているからだ。そして叙述トリックの存在を知り得るのは再読者に限られる。

 状況を変えて考えてみよう。再読者は「叙述トリック」の存在を知っている。そこで初読者に次のように耳打ちしたとしよう。『そして誰も…』には作者の巧みな「叙述トリック」が存在し、それは@〜Bに隠されていると。ここまで耳打ちするのはかなりのネタバレと言えるが、やむを得ない。

 もしこうなら(a)->(e)にいたる若島の主張はすべて満たされるだろうか?これまた満たされる事はない。さきほど書いたように(c)は「言葉遣い」だけでは一部の人物の心理しか特定できない。全員を特定するには、やはり「犯人のトリックや結末」をすべて知っておく必要がある。(c)が確定しない以上、(d)の「ある計画」は存在を想像する事すらできない。当然の帰結として、(e)の「そこでも、犯人を推定することは可能である」という主張も、初読者では不可能だ。

 では、若島の「小説全体は論理的に構築されている」という結論は一体何を意味しているのか。僕が思うに、若島が言いたい事(言える事)は「登場人物の心理描写に仕組まれた叙述トリック」が小説全体と整合がとれているという事だけではないだろうか。確かに辻褄は合っているが、だからと言って「小説全体が論理的に構築されているか」と言えば、若島が考えているほどには論理的ではない。

 こう書いてもまだ、本論の分析を鵜呑みにしている人には信じられないかもしれないので、次回は若島の分析を詳細に検討して、若島の思い違いを一つ一つ指摘していこうと思う。
(2010/11/29初出,2012/2/17改訂)
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2012年03月06日

パーク・ライフ 吉田修一(2004年10月31日読了)

 著者の「パレード」を読んだ時、当時放映中の「東京湾景」よりもよっぽどテレビドラマに向いていると思った。文章は読みやすいし、登場する若者の今風な描き方も良かったし、なにより物語の展開の軽さもドラマにピッタリだった。と思ったら、最後にガツンとやられた。テレビじゃ無理か。なかなか侮れない。吉田修一の作品の特徴とも言えると思うが、日常の何気ない風景を切り取って描いているかに見えて、人が、いやひょっとしたら都会という生き物が隠しもってる狂気を、次第に浮かびあがらせていくような仕掛けがあるのだ。

 「パレード」を読んで吉田修一の手口をすっかりわかっていると思っている読者は、本書の表題作でもある「パーク・ライフ」でも、あんな終り方するのかしらと思うかもしれない。なにしろ出だしから、日比谷公園でののどかな風景が描かれる。深刻にならない程度に孤独で、それを楽しんでもいる人々がいる。そこにちょっとだけ変わり者の主人公が、ちょっとだけ好奇心の強い女性と公園で再会する。それが物語の始まりだ。と思って何事か起きるのを期待しているうちに二人の物語は終わってしまう。いやもしかしたら始まってもいない。

 でも、やはり何かが確実に終わりを告げ、そして何かが始まったのだ。それが女性の別れ際のたった一言であり、しかも語り手でもある主人公の青年にも真実を知らされる事のない何かだ。僕らは、そのあっけない一瞬に呆然とするしかない。読み手だけでなく語り手にも秘密のまま著者は作品を終わらせてしまうところが、なんともスゴい。柔らかい文体の体裁とはかけ離れて、きわめて悪意に満ちた一撃だ。それに比べれば、もう一編の「flower」なんて分かりやすいものだ。
(2005年5月20日初出)
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2012年02月21日

ジャンプ 佐藤正午(2004/06/29読了)

 コンビニでリンゴを買ってくると言って、そのまま失踪してしまったガールフレンドを追い求める主人公。ある日突然、目の前から身近な人がいなくなってしまったら、どんな気持ちになるだろうか。そこには北朝鮮による拉致被害者と家族の間に存在するような政治や謀略の厚い壁はない。ただただ、残された者の理不尽な思いだけが永遠に続くだけだ。

 結末のあっけなさや物足りなさは、横山秀夫の「半落ち」を読んだ後の感想と一緒だけれど、そこに至るまでの物語や主人公の内面の動きに対して、僕ら読者が決して傍観者のままでいられなくなるドキドキ感まで同じだった。

 しかし、佐藤正午は、以前に読んだ「Y」といい、本作といい、ストーリーの展開もうまいし、ラストの切なさも申し分ない。いや、うますぎるぞ!
(2005/5/14初出)

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2012年02月16日

平積みに魅せられて(2011月12月号)

 年末年始は怒濤のようにスケジュールが詰まっていて、当然ながら諸事つまらない事からどんどんどんどん置き去りになってしまう。一方で期末に近づくに連れて、仕事の忙しさは加速度的に激しくなっていく。となると終電近くに立川駅に降り立ち、そのまま家路につくのではなく、夜の12時までやっているオリオン書房アレアレア店に立ち寄って、平積みを楽しむ事だけがささやかな楽しみだと言っていい。

 というわけで、以下の平積みリストにもアレアレア店はなんども登場する。しかも日付が入っていない。こそこそとタイトルを書店で携帯に写し取る(誤解を招く言い方だ。決して撮影している訳ではない。携帯でメモを取っているだけです)際に、日付と店名を書き込む約束になっているのにその余裕すらなかったに違いない。だって店内に赴くとまもなく閉店まぎわの「蛍の光」が流れてしまうからだ。こちらも慌てて店内を経巡り、魅惑的な平積みを見つけては、とるものもとりあえずタイトルだけ書き取る。そんな当時の状況がメモに封じ込められているわけだ。やれやれ。

[2011/12/21武蔵小杉・北野ブックランド]
 タイムマシンのつくりかた ポール・デイヴィス(草思社文庫)
 忘れられる過去 荒川洋治(朝日文庫)


 「タイムマシンのつくりかた」はれっきとした科学ノンフィクションだ。こういうタイトルのSFオムニバスなどが結構あるので、僕も最初は表紙を見て??と思った。別にSFならSFでも良いんだけど、どんな面白い物語が読めるのかと思えば、最新の現代物理学理論で、今考え得る「タイムマシンとは何か」を紐解いてくれる。かつて講談社のブルーバックスで分かったような分からないような宙づり気分を味わった。あれをもう一度、もうちょっと大人向きに、でも素人に分かるように楽しく堪能させてほしいものだ。

 「忘れられる過去」。荒川洋治さんのエッセイは、言葉の持つ真の力に気づかせてくれる。そんな感じがする。例えば高橋源一郎さんの書評本は、本そのもの、小説そのもの、あるいは作家そのものに直接関わらせてくれて、僕らに文学の楽しさを教えてくれるのだが、荒川さんの方法論はそれとは全然違う。なんだか、僕は荒川さんの文章を読むと、勇気のようなもの、希望のようなものを受け取る事ができる。それはたとえ荒川さんが現代詩の状況を憂えて鋭く現代詩に切り込んでいくときでさえ、荒川さんのような人がいれば、別に心配するにはあたらないんじゃないだろうか、などと思ってしまう。

[2011/12/??オリオン書房アレアレア店]
 ミステリアスデイズ
 失踪入門 人生はやりなおせる! 吾妻ひでお(徳間文庫)


 不思議だ。たしかに「ミステリアスデイズ」と書いてある。自分が書いた(正確には携帯で打った)のだ。でも、今となってはどんな本か全然覚えていない。どうせウェブで検索すればたちどころに著者も出版社も値段もわかるはずだ。そうなんだよね…。でも、どうやら今現在に至るも、「ミステリアスデイズ」というタイトルの本は出版されていない。そういえばカタカナで打ってはあるが、本当は英語で書いてあったような気がする。でも、ヒットしない。やっぱり疲れて寝ぼけてたのだろうか?

 「失踪入門」は、今や失踪専門家ともいえる漫画家・吾妻ひでおさんの実用書です。失踪の方法を手ほどきしてくれるのかな?副題が「人生はやりなおせる!」をあるから、失踪するくらいであれば、人生のやり直しの方がまだましということだろうか?読みたいなぁと取り上げたが、自宅の書棚に吾妻さんの「失踪日記」が何気なく待ちぼうけを食っているのに気がついた。まずは手元の書籍を消化しないとね。


[2011/12/??オリオン書房アレアレア店]
 徒然草REMIX 酒井順子(新潮社)
 舟を編む 三浦しをん(光文社)
 謎解き名作ミステリ講座 佳多山大地(講談社)


「徒然草REMIX」は、あの「負け犬の遠吠え」の作者による「自意識の人・兼好」のガイドブック。遠吠えを聞かされるよりも楽しそうだ。


「舟を編む」。すでに昨年12月に予約したけれど、時すでに遅く、いまだ91人待ちの状況。辞書の編纂の話なんて全く知らなかったし。本屋大賞の候補だったって知らなかったし。早く読みたいなぁ。


「謎解き名作ミステリ講座」は装丁はしごく地味なんだけれど、内容には惹きつけられる。古今東西のミステリを講義してくれるのだが、この「古今東西」には最近のリアリティあふれるミステリーではなく、ドイルに始まる名作を多く取り上げている。アイリッシュの代表作「幻の女」の講義なんて、この後におよんで滅多に聞けるものではない。ああ、楽しみだ。と、まだ予約してなかった。


[2011/12/?鹿島田・北野書店]
 詩羽のいる街 山本弘(角川文庫)
 透明人間の告白(上・下) H・F・セイント(河出文庫)


山本弘は、昨年「去年はいい年になるだろう」と「アリスへの決別」の2冊を読んだ。「神は沈黙せず」同様、期待をはずさないシュアな面白SFを提供してくれる。なんと言うか、絶妙なオタク成分が注入されていながら、素人にもわかりやすい「科学ノンフィクション」的な肩の凝らないSFエンターテイメントと言えばいいのだろうか。きっと「詩羽のいる街」も楽しめそうだ。


「透明人間の告白」は以前は新潮文庫で出版されていた。その本の帯に「本の雑誌が選ぶ30年間のベスト30」の第一位に選ばれたと堂々と書かれていた。その新潮文庫本上下2巻が、会社最寄りの古本屋で210で購入できる。ずっと気になっていたけれども買うのをためらっていた。そうしたら河出文庫で新刊が出版された。たしか椎名誠が解説を書いている。いや、これはもう読めということだろう。さっそく売れそびれていた上下巻を購入しました。あとは、いつ読むか、だ。
 

[2011/12/02立川・オリオン書房サザン店]
 電化文学列伝 長嶋有(講談社文庫)
 アンティキテラ 古代ギリシアのコンピュータ ジョー・マーチャント(文春文庫)



「電化文学列伝」。「作品中の家電製品の描かれ方を軸に文学を語る」という方法は、家電という切り口が目新しいけれど、小道具から作品全体を読み解く映画評論などを考えると従来からあった方法論だと思う。でも、やはり家電という身近な存在に僕らの生活は慣れすぎていて、こういう風にとりあげてくれると、あらためて家電と人間との関係性から現代の人間の本質が浮かび上がってくるのだと思える。


「アンティキテラ 古代ギリシアのコンピュータ」は、あらすじを読み出すと「ああ、SFエンターテイメントか、いやファンタジーかな」などと思うのだが、末尾に科学ノンフィクションと書かれている。あれ?これって現実の話なの?いやぁ、一気に昔のUFOやミステリーサークルやキャトル・ミューティレーションなどにはまっていた時代を思い起こしてしまった。でも、まじめにノンフィクションなんだよね。とにかく読むしかない…か。
posted by アスラン at 19:13| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | あっ、これ読みたい | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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