2012年05月23日

インディヴィジュアル・プロジェクション 阿部和重(2004年11月11日読了)

 ある男の日記が延々と続く。

 男は映写技師として大都会のど真ん中にひっそりと身を隠している。日々の日記は、猥雑で危うい周囲の喧噪をかわして退屈な人間になりきる事の実践が書き綴られている。やがて何故男は退屈な人間に見られるように自らを律しているかを語り出す。語らずにはいられないかのように饒舌に、ある過去の事件を語ってゆく。

 男の実践からすると、こうした日記を書く事自体危険な行為とは言えないか。そんな一読者の素朴な疑問に応えるかのように、男は自ら決めたルールを次第に踏み外していく。
 退屈な日常が破滅へとエスカレートしていくまで目が離せない。読む方もエスカレートを強いられる作品だ。

 ミステリーとしても読める。使われてるトリックはある有名な映画でおなじみだ。でもタイトルの意味を考えれば最初から著者はモチーフを隠してはいない。「ある主観の投影」といったところか。男が映写技師であるのも隠喩的だ。
(2005年5月28日初出)


[追記(2012/5/23)]

 最近ご無沙汰の作家だ。伊坂幸太郎などとまとめて、春樹チルドレンとも呼ばれたのではなかっただろうか。著者自身が映画好きという事もあって、映画的な引用や映像的な描写が目を引く。「シンセミア」がなかなか衝撃的だったし、面白かったのだが、最近はどうしているのだろう。結婚の話題で久々に名前を見かけたのだけれど、相方の方が今や知名度が高いので、へぇーと驚かされた。別に意外というわけではなかった。そろそろ、「シンセミア」以後の作品も読みたい作家だ。
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2012年05月21日

悪人正機 吉本隆明+糸井重里(2012/5/13読了)

 吉本隆明が亡くなった。不思議と悲しさはなかった。少しぼうっとなっただけだ。そういえば、前日の会社帰り、いつものように駅前の駐輪場で自転車を探すと見つからない。広いスペースにまばらになった自転車たちのどれもが、我が子を後部に載せる座席をつけていない。

 ああ、妻が子供を学童保育所に迎えにいくのに乗っていってしまったんだったっけ。妻は最近、駅まで歩いて通勤するのが常になっているので、帰りはこちらが歩く番だ。そう理解したら、久々にウォークマンを取り出して、曲を選び出した。

 どうにも仕事がうまく片づかず、疲れが滲み込んだ頭に、J−POPやニューミュージックはすんなり入っていきそうになかった。それでなんとなく吉本さんの訥々とした〈声〉が聞きたくなった。僕のウォークマンには、声が二つ入っている。一つは、水道橋の語学学校のホールで定期的に催された淀川長治映画塾で、淀川さんが晩年にしゃべった〈声〉だ。それを聞くと、「日曜洋画劇場」の最後の解説を聞きながら号泣した夜の事を思い出して、少しだけ悲しくなる。

 もう一つが糸井重里さんが企画した、吉本さんの長年の講演から収集した言葉の断片をコラージュしたCDからの〈声〉だ。夜道で聞く吉本さんの声は、「渦巻ける漱石」について語っていた。「吾が輩は猫である」は、主人公の猫が人間たちの会話を「聞く」というしぐさで文章が描かれるが、ある時点から「見る」というしぐさに変わってしまっていると言う。へー、そうだっけなぁと、もう何度も何度も聞いたくだりであるにもかかわらず、その「聞く」から「見る」に変わる切れ目というのは、どの章なのだろうか、今度確かめるために、また「吾輩は…」を読み返してみようと思うのだった。その日の夜道は心地よかった。

 翌日、吉本さんの死を知って、何か「呼ばれた」というわけではない不思議な縁を感じた。そう、吉本さんが亡くなって、淀川さんの時ほどの悲しさはない代わりに、どんどんと不安になった。大げさに言えば、生きていくために歩く道を「それで大丈夫、いいじゃないか」と言ってくれる存在が、また一人いなくなった事への不安だった。

 僕は吉本隆明のよき愛読者とは言えないが、それでも書店で新作が平積みされているのをみるだけで、ああ、まだがんばっている。まだ僕らの前を歩いて道を耕してくれているんだなと思っていた。それが、いきなり失われた事に少しおののき、寂しく、不安になった。

 この本には、よき聞き手である糸井さんを前にして心を開いた吉本隆明という一人の人間の「ふつうの声」が詰まっている。特に特別の事を言おうといているわけではない。そう感じるのは、長年吉本さんの著作に慣れ親しんできたからかもしれない。

 どこぞのドラマの主人公が「事件に大きいも小さいもない」と啖呵を切るたびに、その台詞に隠されたものこそ、正義の理念なのだと思ってきた。それは年輩の刑事が主人公の若き刑事に対して「正しいことをしたければ偉くなれ!」と言いきるための大前提だ。「大きいも小さいもない」事に共感できなければ、たとえ「正しいこと」をしても意味はないのだという、ゆるぎない倫理感がそこには存在する。それは、まさに吉本さんが生涯にわたって全方位的にあらゆる事象に関心を持ち続け、等分に力をそそいで考えてきた姿勢と合致する。

 たしか、コム・デ・ギャルソンの服を着てファッション誌の取材に応じた吉本さんの写真にたいして、それを揶揄した埴谷雄高との論争でだったと思うが、吉本隆明は「物事に大きいとか小さいとかはない。大きい事は大きいなりに、小さいことは小さいなりに語るのではなく、マルクスの事を語るのと同様に、コム・デ・ギャルソンの服の良さを語れなければダメだ」というような事を言っていた。

 僕はそういう時の吉本隆明の言葉が好きだ。顔が見える最後の思想家であり、信じられる批評家だった。日々更新される〈あなた〉と出会うことは二度とかなわないけれど、すでに語られ綴られた大量の創作物の中に、あなたの存在をこれからも感じていけばいいんですよね。とりあえず、これまでどうもありがとうございます。これからも僕らの前をひたすら歩いていってください。
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2012年05月17日

2012年6月の新刊

大洋社のHP「Book Index」調べの新刊チェック。

 来月の新刊について語る前に、今月(2012年5月)の新刊についてはどんな収穫かと言えば、つい先日(5/11)に発売となった

連環宇宙 ロバート・チャールズ・ウィルスン(東京創元社・創元SF文庫)

の川崎市立図書館での予約に成功。現在、書籍準備待ちだが、なんと3番目の好位置だ。その前に「時間封鎖」「無限宇宙」を再読しておこうと気合いをいれているところだ。

06/08 追撃の森 ジェフリー・ディーヴァー(文藝春秋・文春文庫) 990
06/21 シャーロック・ホームズの復活 アーサー・コナン・ドイル(東京創元社・創元推理文庫) 987
06/26 迷宮の淵から ヴァル・マクダーミド(集英社・集英社文庫)
06/27 月の影 影の海(上) 小野不由美(新潮社・新潮文庫) 546
06/27 月の影 影の海(下) 小野不由美(新潮社・新潮文庫) 546
06/27 魔性の子(新装版) 小野不由美(新潮社・新潮文庫) 704


 今回はミステリーとダークファンタジーだけになってしまった。

 ジェフリー・ディーヴァーは昨年はキャサリン・ダンスシリーズの「ロードサイド・クロス」、今年に入って「007白紙委任状」を読んだ。後者は映画の企画ではなく、単に原作者イアン・フレミング協会(?)からの依頼で書き上げたノンシリーズものだ。どちらももちろん面白かったが、そろそろリンカーン・ライムが読みたい。でも果たして「追撃の森」とは?どうやらシリーズ物ではないらしいが、いつものように期待するとしよう。

 深町眞理子さんの新訳の一冊がまた刊行された。「シャーロック・ホームズの復活」。前作のラストでライヘンバッハの滝から宿敵モリアティ教授とともに姿を消したホームズが帰ってくる。もう何度も読んだストーリーだが、もう一度訳文に息吹が吹き込まれた文章で読みたい。そう思いながらも、深町訳で「冒険」を読んだきり滞っている。とりあえず「回想のシャーロック・ホームズ」から読まねば。あれって、購入済みなんだよな、確か。

 そして何故かマクダーミドの「迷宮の淵から」がリエントリーされている。そうか、最近、何故か「迷宮の淵から」で、このブログにたどり着くアクセスが多いなと思ったら、先月の予定どおりに出版されなかったのか。では、今回こそはちゃんと出版してください、集英社殿。

 あとは、小野不由美だ。問題作だな、これは。
当初、ラノベの作家だった小野不由美の活躍の場は講談社X文庫ホワイトハートだった。それが「十二国記」シリーズで名を挙げ、新潮社の「屍鬼」でブレイクした。講談社などは「十二国記」シリーズをすべてX文庫から講談社文庫に格上げしたし、新潮は「屍鬼」を文庫化した際に「新潮文庫の100冊」の常連にした。なかなかの遅筆家で新作が出ない小野不由美の取り合いが始まったのだった。
今回、ついに「十二国記」を新潮文庫に収録する段取りになったようだ。そもそも「魔性の子」は知る人ぞ知る「十二国記」外伝とも言える作品なのだ。講談社の手前、シリーズ名を謳えなかったのだろうが、今回新装版を出すところを見ると、一気にシリーズ物の一冊として喧伝するのかもしれない。
文章に手が入るのかどうかも含めて、これらは注目だな。
そして新作が書かれた場合は、どういう出版の手順になるのだろうか。やはり問題だな、これは。
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2012年05月14日

百鬼夜行―陰 京極夏彦(2005/05/28読了)

―でも。
私は、何か忘れていることすらも忘れて、それで諾諾と暮していたのではないのか。
そう考えると、少しだけ怖くなった。




 最近、文庫の「姑獲鳥の夏」を購入した。上下巻に分冊された方ではなく、前から出ていた版の方だ。この夏の映画化にリンクして出されたと思われる分冊版が割高だというのも理由のひとつだが、表紙から妖怪のギミックを取り去り、どこかあか抜けたモダンなグレーを配した分冊版には京極作品特有のオーラが感じられないのだ。

 「姑獲鳥」に始まる京極堂シリーズでは妖怪に魅せられた人々の「憑き物」を古本店主兼陰陽師の京極堂が呪をかけて落とす。「呪」とは何か?妖怪が怪奇なこの世ならぬ存在でなく人の心が生み出した闇に名を与えたものに過ぎないように、呪も不思議な霊力などではなくただの「言葉」に過ぎない。ただの言葉でありながら憑き物が落ちる。そこに「呪をかける」事の不思議さがある。

先ほどの分冊に感じないオーラとは、だから呪を感じないという事だろう。行き着く先が箱本というおよそ怪しげな思想だったはずが、「魍魎の匣」三分冊、さらに四分冊というようにテキストという情報の山の中に埋もれていく。そこに肝心の妖怪も感じられないなら果たして何のための分冊だろう。

と、そんな事を言いたいのではなかった。何故いまさらながら「姑獲鳥」を購入したか、だ。

 「姑獲鳥」から「塗仏の宴−宴の始末」までシリーズ7作。足かけ4年を費やしている。次の長編「陰摩羅鬼の瑕」がシリーズ最新作であり、それを読めばもう後はない。ここらでシリーズを振り返るのもいいのではないか。いや、そんな悠長な事ではなくて「塗仏」まで読み継いで、本シリーズの壮大さに触れてしまったのが最大の理由だ。実は箱本と呼ばれるくらい長い長編が一話完結ではなく、作品間でリンクしているのだ。

 登場人物は脇役を含めて使い捨てではない。次から別の意味で主要な人物に化ける脇役もいれば、脇役どうしが新たな関わりを持ったり、実は発端から別の作品に登場する脇役どうしがつながっていたりする。つまり一作一作に出てくる多様な人物たちは、さらに京極堂を求心力の中心としてすべてつながっているというのが、このシリーズのもう一つの仕掛けであり、著者の際限のないサービス精神の現れなのだ。

 もちろんそんな著者の遊び心に付き合わないというのも一つの見識と言えるだろう。だから、各々の長編の脇役たちにフォーカスを当てた10の短編からなる本作を単に妖怪に魅入られた人々の物語として読んでも決して悪くはない。悪くはないが、物語の行く末には結末がない。しかし僕らは知っている。彼ら脇役たちにどんな運命が待ち受けているか。長編ではどんな役を割り振られていたかを知っている。
 
 だからこそ、もう一度「姑獲鳥」なのだ。使い捨てでなかったはずの登場人物を味わいつくし、各々の事件が完結していないものとして再現する事で、あらためて著者の作り出した望楼を一段一段登って行く。その行き着く先に何があるのか。まだ誰も知らない。
(2005/5/29初出)


[追記(2012/5/14)]
 驚くべき事に、つい最近「百鬼夜行―陰」の定本版が刊行された。非常に変わった判型で、ほぼ真四角に近い。京極夏彦の事だから、単に判型が変わるだけでなく、レイアウトに合わせた推敲などを含めていろいろと手を入れているのだろう。しかし、そもそも「百鬼夜行−陰」は、メインの京極堂シリーズからのスピンオフ作品であるだけでなく、この書評に書いたとおり、ほとんどが脇役に光を当てる趣向なのだ。つまり、この短編集を楽しむためには本編にあたる京極堂シリーズの記憶を新たにしなければならないという、誠にファンにとってはやっかいな短編集なのだ。

 その上、今回の出版は新作「百鬼夜行−陽」のために考えられた同時発売なのだと思う。さて、この「陽」はどういう位置づけなのだろうか。さらにスピンオフの続編だとすると、語られなかった脇役についての物語なのだろうか。興味があることはもちろんだが、こちらも年をとって記憶が風化しているというのに、いったい作者の中で京極堂の世界観はどれだけ一貫してどこまで持続できうるものなのだろうか。読みたい。読みたいのだが、また本編を読み直さねばならないのではないだろうか。そう思うと、まことにまことにやっかいな代物だ。
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2012年05月11日

ゴルフ場殺人事件 アガサ・クリスティー(2012/4/28読了)

 クリスティが長きにわたってエルキュール・ポアロという探偵とつきあうつもりがなかったことは、シリーズ当初からあきらかだったと僕は思う。彼女の作品を発表順に呼んでいくと、本格ミステリーの成分よりも冒険小説やハーレクイン・ロマンスの成分の方が多い。そして興味深いのは、ポアロ物が本格ミステリーを分担し、ノンジャンル物がそれ以外を担うという切り分け方になっていないという点だ。

 たとえば、処女作の「スタイルズ荘の怪事件」は純粋な本格ミステリーと言っていいが、第二作である本作ではミステリー以外に様々な要素が盛り込まれている。ヘイスティングと”シンデレラ”と自称する女性とのエピソードは、あきらかにコミカルでサスペンスに満ちたロマンス風だし、復讐に彩られた過去の犯罪などは、シャーロック・ホームズの初期の作品のような伝奇小説を思わせる。しかも、今回、ポアロのライバルとしてフランスから自信満々な刑事ジローがでてくるところなどは、まさにモーリス・ルブランの「ルパン対ホームズ」をなぞったかのようだ。

 このような人物設定・舞台設定の中で、あえて奇妙な風体の滑稽な小男という探偵像を選択したのは、ユーモアを基調としたミステリーを書くための作者の方便だったはずだ。まさか生涯をともにするようなキャラクターにまで成長するとは、作者自身考えもしなかったのだろう。

 しかも、このときのクリスティもポアロも、まだまだ無邪気だと言っていい。犯罪の暗黒面に取り込まれて事の残酷さに気がついたのは、おそらく「カーテン」をポアロの最後の事件として着想した1940年代だったに違いない。

 ところで「ゴルフ場殺人事件」などというタイトルにはなっているが、ゴルフ場はまだオープン前で、その広大な地の端っこに死体を埋める穴が開けられた事以外に「ゴルフ場」がトリックに関わる事はない。やはり、当時はまだ目新しいスポーツだったゴルフを、タイトルにつけるように出版社から促されたのだろうか。ゴルフなど当たり前のスポーツになった現代人から見ると不思議なタイトルだ。

 さきほど、ホームズやルパンなどを引き合いに出したが、本作はとりたてて凝ったトリックはなく、物語が進行するにつれて謎が少しずつ明らかになっていくという点でも先人たちの作風に近い。登場人物は多いが、それぞれがそれぞれのジャンル担当(例えばロマンス担当とか冒険担当とか、暗黒街担当とか)に切り分けられているので、それほど謎が複雑化するという印象もない。だいたいあたりをつければ、そのとおり犯人だったという感じでクライマックスを迎える。

 後にも先にもヘイスティングが物語の中心に存在するという希有な作品というところが見どころかもしれない。
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2012年05月09日

漱石と三人の読者 石原千秋(2004年11月13日読了)

 久々に漱石本を読んだ。一時期ちくまの全集を読破して、以来漱石の追っかけを自称してる僕としては、こうした評論を読む事も楽しみのひとつだ。漱石に関する山のような批評に新たに付け加える事などないという議論がある一方で、やはり言い足りない研究家も後を絶たない。本書もその一冊だが、期待させた割に中身がお粗末だ。

 タイトルにある「三人の読者」は、身近な読者(同業者など)、顔の見える読者(一般読者)、想定外の読者(読者でない人)を意味する。つまり漱石が誰に対して書いたかと、誰に読まれたかを分析する事で、新たな批評を打ち出そうという試みだ。試み自体は面白いと思うが、志なかばと言うか上手い手際とは思わない。

 著者自身は漱石研究家ではないと断っておきながら、あまりに先の研究家から負っているものが多いし、トリビアな事をあげつらう論調も気になる。また「三人の読者」という切り口を無理に漱石作品全作に当てはめようとして果たせず、淡白にやりすごした作品もある。

 一番気にくわないのは一般読者を見くびった書き方だ。この書で山場にあたる「三四郎」の三四郎池での美禰子との出会いの場面の分析など、いかに研究者が小説を小説として読まず、テキストだけを読んでるかの好例かもしれない。

口直しに漱石を読みたくなった。
(2005年5月27日初出)


[追記(2012/5/9)]
 その後、同著者の「漱石はどう読まれてきたか」という本が出版されて、性懲りもなく読んでしまった。学際的な著者の手つきは気にくわないが、現代において漱石を取り上げる姿勢は買いたい。そのジレンマを抱えて、ついまた懲りずに読んだわけだが、結果的には「漱石はどう読まれてきたか」は面白く読めた。

 その理由の一つは、著者自身が大学における漱石研究に飽き足らなくなってしまったという事が挙げられる。テクスト論からのアプローチだけではなく、書評家や作家、あるいは市井の一研究者の労作にまで目配せした上で、漱石と漱石作品をどう捉えるかという事の一助にしようという動機はきわめて真っ当だと思うからだ。
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2012年05月07日

将棋の子 大崎善生(2012/3/20読了)

 最近将棋に関する本をかならず一冊は図書館で予約するようになった。それというのも、うちの7歳になる息子が「将棋を指す」ようになったからだ。うちのこどもには「将棋を指す才能がある」。と言えれば話は簡単なのだが、そうではない。うちの子供にあるのは、今のところ「将棋を好きになる才能」なのだ。

 そもそも一年前には将棋の駒の動かし方どころか将棋の存在さえ知らなかった息子は、たまたま就学前の学童保育所の見学で、将棋に興ずる上級生と一緒に遊んだのがきっかけで家でもやりたいと言い出した。それから親の方が大慌てになった。将棋のやり方などうろおぼえだったからだ。将棋盤などもちろんない。小学校に入学すると同時に旅行用のミニ将棋盤を買い与え、一緒になってルールを覚えて、「将棋を指す」毎日が始まった。

 そのときはまだ父親が教える役を果たせたが、あっと言う間に役立たずになる時がくるとは、さすがに気づいていなかった。息子は、買い与えたり図書館で調達したりした将棋の本をあれこれと読みあさり、将棋の金言から基本の手筋にいたるまで次々に吸収していった。そこで、先を見通したママが隣町で見つけた将棋教室に通わせることにした。

 将棋を楽しむ子供をもつ親なら誰もが知っている、あの「JT子供将棋大会」にも出場した。まさかあのようなすさまじい規模の大会になるとは思いもしなかったが、午前の部を終わってみれば予選を3勝して勝ちあがるという上出来の結果だった。親は満足だったが、息子はトーナメントに勝ちあがった事に舞い上がってしまった。まだ1000人近くが残っているというのに。

 決勝トーナメントの初戦で、強面の対戦相手にあっと言う間に負かされたのが悔しくて悔しくて、息子はさんざん泣いた。同日に渡辺明竜王との早指し対局を制した羽生善治九段が帰り際に握手してくれるというオマケまでついてきたというのに、息子は超不機嫌状態で家路に着いた。今の羽生びいきぶりを見るにつけ、本当にもったいないことをした。

 さてうちの子は将棋を始めて一年がたち、誰がみても「将棋の子ども」となった。だが、この本のタイトルである「将棋の子」は、息子を含めて日本に何万人もいるであろう〈将棋好きの子供〉を意味するわけではない。プロ棋士を目指して果たせなかった奨励会退会者たちのことを、間近に見てきた著者ならではのいとおしさをこめて「将棋の子」と呼ぶ。

 不祥事続きの相撲界では、旧態依然としたしきたりに何かと批判が集中しているが、将棋の世界の決まり事は、相撲界の比ではないかもしれない。まさに「あべこべの世界」と言ってもいい。その最たるものが奨励会制度だ。プロを目指す者は必ず奨励会に所属する。奨励会では6級からスタートして4段への昇段を目指す。4段になるとプロとして社団法人「日本将棋連盟」の会員、いわゆる社員となるのだ。しかし、そこには厳しい年齢制限があり、

「満23歳(※2003年度奨励会試験合格者より満21歳)の誕生日までに初段、満26歳の誕生日を含むリーグ終了までに四段になれなかった場合は退会となる。」


と定められている。この決まりがあるため、期限までに到達できなかった者はどんなに将棋の才能があろうとも、二度とプロにはなれない。将棋の世界にはトライアウトなどないのだ。

 なぜこんな厳しい決まりになっているかというと、そこには将棋という文化の特殊な事情がある。そもそも四〇〇年前に徳川家康が当時の棋士第一人者に扶持を与え、名人が誕生した事から、日本のプロ将棋の歴史は始まる。つまりは為政者のお抱え棋士だった。それから時を経て、近代将棋を確立するために日本将棋連盟が発足し、棋士たちはすべて社員となった。日本将棋連盟は社団法人ではあるが、言ってみれば成長が少ない分野でほそぼそと食いつないでいる中小企業のようなものだ。だから、新入社員は年に2名と決められている。それも奨励会から選抜され昇段した四段棋士2名のみ。

 やっとの思いでプロになった者もいれば、すんなりプロ入りを果たしてさらに高みを目指す者もいる。確かなことは、彼らプロ棋士の影には、退会規定や自らの事情に阻まれて人知れず姿を消したたくさんの「将棋の子」がいたという事だ。

 本書では、いわゆる羽生世代と呼ばれる、現在の将棋界をリードするトップ棋士たちの少し前に奨励会入りし、嵐に巻き込まれるかのように次々と羽生たちに遅れをとって退会をやむなくした「将棋の子」たちにフォーカスしていく。彼らこそが、将棋の楽しさも苦しさも味わってきた生き証人だからだ。

 僕は正直「聖の青春」の著者が、雑誌『将棋世界』の編集長をつとめた年月に暖めてきた企画ぐらいにしか思ってこなかったが、いざ将棋に熱中する子をもつ親として将棋に関わるようになって、著者のいわく言いがたい思いが伝わってきた。将棋が好きというだけで将棋に人生を賭けてきた彼ら将棋の子たちに、むなしいだけの第二の人生を与えるのが「将棋」なのか。将棋は彼らにとって、そして著者にとって、どんな意味を持つのか。それを確かめたい。著者の切なる思いは、僕ら親にとっても無視できない大きな問いかけなのだ。
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2012年04月26日

ねじの回転/デイジー・ミラー ヘンリー・ジェイムス(2005/05/21読了)

 ヘンリー・ジェイムス。どこかで聞いた名前だと思った。映画「鳩の翼」の原作者として知ってたんだ。「ある貴婦人の肖像」の著者と言った方が通りがいいのかな。この作品もやはり映画化されていて、かの「ピアノ・レッスン」の事だ。残念ながらこっちは観てない。

 「鳩の翼」は、女友達同士が共通の男性に惹かれてしまうという話だったような気がする。英国やベニスで観光をしたり美術を見てまわったりしながら、背徳と退廃の雰囲気がまとわりつく、まあ一言で言ってウツウツとした映画だった。十九世紀末を生きた著者は、もっぱら世紀末ムードをたたえたヨーロッパと新世界アメリカの文化や精神を対比した作品を書いたようで、「デイジーミラー」も「ねじの回転」も、滅びゆく側のあえぎにも似た苛立ちや憎悪が描かれる。

 どちらも読んでいてデジャブのような感覚にとらわれた。僕は映画を観てるのだ、と。「デイジー」の方はパトリス・ルコントの「イヴォンヌの香り 」に似ている。美しい湖で、主人公の男は湖によく映える美しい女性に出会う。男は上流階級のモラルを疑いもせず生きてきたから、女性の囚われない奔放さに魅せられてしまい、怪しげで奔放な女性に色香に完全に惑わされてしまう。

 一方、「ねじの回転」の方はアレクサンドロ・アメナーバルの「アザーズ」に雰囲気がそっくりだ。いや、もちろんどちらの映画もジェイムス作品に影響を受けているというのが正しいところだろう。それくらい、ヘンリー・ジェイムスという作家は、映像作家にインスピレーションを与えやすい書き手だと言える。

特に「アザーズ」は、「ねじの回転」が書かれていなければできなかったくらいに影響が顕著だ。「ねじの回転」が、今となってはゴシックホラーとしての恐怖感が薄らいだとしても、「真の怖さは人の心が生み出す闇にある」という当時としての卓見が見事に作品に昇華されているところが興味深い。
(2005/5/23初出)
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2012年04月23日

野蛮な読書 平松洋子(2012/4/4読了)

 読書の達人で、かつ本の紹介がうまい人の手にかかると、たちまちのうちに自分の読書リストも増えていくものだと思っていた。例えば北上次郎しかり、高橋源一郎しかりだ。ところが、この本の著者の読書は少し変わっていて、通して読んでも実はそれほど共感をもてるような本や作家にめぐりあえたわけではない。

 著者の言う「野蛮な読書」というのは、言ってみればごくごくパーソナルな趣味嗜好であって、それを赤裸々に洗いざらいぶちまけているところが、まさに野蛮なところなのかもしれない。

 例えば、著者自身はきわめて美食家であり、食べる事のエロチックな感覚も十分に知り尽くした上に、うまいものをむさぼるという醜い欲望を自らの皮下脂肪に蓄え続ける。一方で年に一度、絶食療法の合宿に参加する事の理不尽には目をつぶり、次第に食事の量が減っていった先に一杯のおかゆの陶酔にたどり着く。これこそが、著者が生きてきた人生の中に芽生えた野蛮そのものなのだ。

 だからこそ著者は、宇能鴻一郎の後半生にたどり着いた「あたし、濡れるんです」の文体の中に、彼の抑えようのなかった欲望の闇から結実した達成を見る。あるいは獅子文六のわがまま放題、身勝手な美食にも共鳴する。さらには女優・沢村貞子が一人の男へ捧げた人生すら、美談ではなく「野蛮な美食」であったのだと思う著者は、そのあっけなくも突然の終わりを見届けようとするのだ。
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2012年04月20日

2012年5月の新刊

大洋社のHP「Book Index」調べの新刊チェック。
久しぶりの新刊チェックだ。ブログ更新も久しぶり。とにかく忙しくていまだ春が来てない感じだったが、ようやく先日抜け出せた。立て直しを図りたいが、それにはまず読書計画の立て直しが先かもしれない。
年度が変わった事で、いろいろな読書計画も見直していきたい。
まあ、そんな個人的な感慨はさておき、来月の新刊文庫の見どころはなんだろう。

5/10 ヘーゲル「精神現象学」入門 加藤尚武(講談社・講談社学術文庫)
5/11 連環宇宙 ロバート・チャールズ・ウィルスン(東京創元社・創元SF文庫)
5/18 迷宮の淵から ヴァル・マクダーミド(集英社文庫)
5/19 皇帝のかぎ煙草入れ【新訳版】 ジョン・ディクスン・カー(東京創元社・創元推理文庫) 777
5/上 東京ディープ散歩 町田忍(アスペクト・アスペクト文庫) 700
5/下 作家の本棚 ヒヨコ舎(アスペクト・アスペクト文庫) 800


 加藤尚武さんは、数年前からのサンデルブームで別の倫理の入門書を読んでみたくなって「現代倫理学入門」という本を読んだ事があるので、読み心地や読みごたえについては勝手知ったるところだ。ヘーゲルの著作をじかに読む気力はすでにないので、良きガイド役にうまく案内してもらいたい。

「連環宇宙」は、あのR.C.ウィルソンの新作。「あの」というのは本の雑誌社の雑誌「本の雑誌」の文庫専門書評コーナーで、アマチュア書評人5名がそろって5つ星を与えた「時間封鎖」で一躍名をはせた海外SF作家という意味の「あの」だ。それ以来、僕も新刊がでるたびにお付き合いしている。SFというとなにやら僕には難しいハードルがあることが多いのだが、この作家についてはミステリー要素が強い事もあって、読ませてくれる。今回も当然読みたい。

 マクダーミドもちょっとした縁があって、新作読みが続いている。なかなか濃い人間模様が本来でいえば趣味ではないのだが、「ちょっとした縁」は腐れ縁となり、今回も図書館で借りられれば読んでみたい。まだ一度も書評らしきものを書いてもいないので、今度の作品で少し感想を書いてみよう。

「皇帝のかぎ煙草入れ」は、本格ミステリーの大家ディクスン・カーの代表作といっていい。カーにしては珍しくケレンが少なく不可能犯罪でもない。正当な本格ミステリーと言える。それが返って珍品の部類に入るのはカーらしらが少ないからだが、ミステリーの女王クリスティをうならせるには十分の王道トリックだった事もあって、本格ミステリーファンのあいだでは有名な作品だろう。僕は最初に読んだ際の印象が最悪で、長い間評価してこなかった。どういう理由かというと、最後の謎解きの2ページほどに落丁があったのだ。ミステリーではネタばらしの次に最悪の結末だろう。その後の再読で作品の良さは分かっているのだが、今回の新訳で初読の楽しみは取り戻せないまでも、仕切り直しの新鮮さを味わいたい。

「東京ディープ散歩」「作家の本棚」はいずれもアスペクト文庫からの新刊。どんな内容になるのかは分からないが、わからなくてもタイトルから僕の好きそうな内容になることは十分に感じられる。
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