2012年06月13日

20世紀少年 浦沢直樹(2012/5/5読了)

 ずっと以前から気になっていたにも関わらずマンガを読む環境にないことから我慢してきたが、ようやくこのたびめでたく全巻を読み終えた。図書館では貸し出ししていないし、マンガ喫茶に行ってゆったりと読むようなことは時間が許さない。そこに例の映画が三部作完結して、さらには地上波で放映されるにいたって、ついに我慢しきれずに映画の方を先に三本ともテレビで観てしまっている。

 映画の作者は、あの堤幸彦監督だ。ただし原作のイメージをそこなわない人物造形を初めとしてストーリー展開の制約も多すぎたのか、いつもの堤節が出し切れていないような感じがした。そもそもがシュールな演出で笑わせたり観客の度肝を抜いたりする監督特有の手際が、今回の作品には向いていないのではないかとも思った。

 もちろん、ストーリー展開そのものだけを追う意味では興味深い映画だと言えるが、「ともだち」の正体を明かすことだけが核心であるかのようなストーリーの運び方では、堤節は間が持たない。これはもう原作を読むしかない。そう思い立ったらブックオフの105円コーナーに続々と落ちてきた「20世紀少年」単行本を片っ端から集めだすこととなった。だが、あと3冊程度を残してほぼ全部集まったのを機に、突然収集熱は冷めた。あとは読むだけという段取りになったとたん、おきまりの停滞。たっぷりと寝かせてしまい、今年のGWがやってきた。

 少し自由になった時間に、自室で手近に転がった単行本の山に手を出すと、これがもう止まらない。3冊抜けているところはやむなくとばした。最終巻(第22巻)を読みきった。なんだ!?終わらないぞ!えぇぇ。

 そうだったか、「21世紀少年(上・下)」という単行本の存在には気づいていたが、てっきり本編が終わった後の外伝だと思って買いびかえてしまった。しかたなく会社近くの大きなブックオフに行く機会を作って、残りの買い損ねをすべて買い足し、再び第一巻に戻って通して読んだ。そうか、こういう話だったのか。

 きっと僕らの子供の頃ならば児童文学の中で出会って、ドキドキしながら読んだんじゃないだろうか。青年誌に掲載されているけれども、子供が読めるくらい間口が広いストーリー展開になっている。もちろんキャラクターや時代設定など、当然のことながら戦後に吹き荒れた学生運動などの社会的なムーブメントを下地にしている。だから、たんなる児童文学として読みたい(読ませたい)人にとっては受け入れにくい側面はあるだろうが、そもそも名だたる作家が書いた児童文学やファンタジーには後年の研究者たちがこぞって取り上げる「隠されたテーマ」というものがつきものだ。この作品も多面的に読むことは可能だろうが、だからといってオモテにあるストーリーが見せかけ(仮の姿)と考えるのは短絡しすぎだろう。

 この、間口の広い「20世紀少年」は子供とその親を引きつけるだけでなく、当然のことのように青年誌のターゲットである20代の若者に向けて、ダークなファンタジーの要素もふんだんに取り入れている。70年代から盛んにメディアで取り上げられてきたオカルトと現代のテクノロジーを結びつけて、何事か世の中に不穏な一撃を加えるという「ともだち」の存在に、彼らは荒唐無稽にひそむ恐怖をかぎとってしまうだろう。

 しかし、この作品にもっとも触発されてしまうのは、小学生の時に1970年を通過してきた、ごくごく限られた人間なのではないだろうか。かつては「うみほたる」と呼ばれた牢獄から抜け出して東京湾をわたりきったオッチョは、自分の目に入ってきた光景におもわず唖然とする。

「なんてことをするんだ。」

 そう、彼にとって、彼ら仲間にとって、あの熱狂的で輝ける未来の象徴だったはずの大阪万博(EXPO'70)のすべてが丸ごと再現されていたからだ。今の若者にとっては、大阪万博の太陽の塔に象徴されるパビリオン群は、どこにもたどり着くことのなかった進化木のどんづまりにしか見えないだろう。今となってはむなしく消えていった中途半端で奇妙な<なり損ね>にすぎない。しかし1970年を少年として通過したオッチョたち、そして僕にとっては、あれは確かに「未来」そのものだった。

 その「僕らの未来」を、あるいは「僕らの夢」を取り戻すために、彼ら20世紀少年たちは戦う。人類のためではなく。なんて、懐かしくて、ダサくて、かっこわるくて、素敵なんだろう。
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2012年06月12日

センセイの鞄 川上弘美(2005/06/01読了)

わたしはざぶとんにぺたりと腰をおろした。わたしがセンセイのことを思って悶々としていた間、センセイは蛸のことなぞで悶々としていたのである。(本文より引用)

 いきなり伊良子清白である。やられた〜。

 誰がこの明治の詩人を知ってるだろう。かく言う僕も知らなかった、高橋源一郎「日本文学盛衰史」を読むまでは。時代に先行しているとも気づかず失意の内に筆を折って、遠い北国で忘れられた半生を送った詩人。その寂しい孤独感が、センセイとツキコさんとに乗り移る。ふいっと行きつけの居酒屋のカウンターで隣り合わせ、注文する品揃えが同じ。でも「運命」と言う月並みなコトバを嫌うかのように言い立てる順序が違う。「巡り合わせ」と言ってくださいね、という作者の声が聞こえてきそうだ。

 センセイはツキコさんの卒業した高校の国語の教師だった。いまは年老いて引退の身。もちろんありえない話ではない。男と女だもの。だけど単にツキコさんが一方的にセンセイという存在に自分の孤独を委ねてるように見えなくもない。

 そんな恋人とも父娘ともつかない曖昧な関係を象徴するようにツキコさんの合いの手はいつでも「はぁ」と要領をえない。そこに時々「えっ」が入る。センセイのコトバにたじろぐツキコさんがいる。やっぱり恋だ、恋愛だ。ツキコさんの無意識は幾度となく描かれるトイレの用足しに表れる。飛び込みで入った居酒屋で遭遇する酔っ払いのゲスの勘繰りに憤慨するツキコさんの性をユーモアにくるんでさりげなく見せてしまう作者の手際は見事だ。そこからはかつての同級生・小島孝も、亡くなったセンセイの奥さんも、もはや鞘当てに過ぎない。歳の差さえもどうでもいい事だ。

 あとは自分の気持ちが先走る前にセンセイの気持ちを確認しなくては。後半のツキコさんの悶々と切羽詰まった気持ちはとっても微笑ましくいじらしい。

 な・の・に…。なのに、センセイは夕げに出された蛸を和歌に出来ないと悶々としてるのだ。センセイ、そんなじらさないでツキコさんの気持ち受け止めてあげなさいよ。そんなつぶやきが聞こえる。いや、それは僕のつぶやきだった。
旅路はるけくさまよへば
破れし衣の寒けきに
こよひ朗らのそらにして
いとどし心痛むかな   (伊良子清白)


(2005年6月1日初出)
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2012年06月11日

十二国記シリーズ、ついに新潮文庫にお引っ越し

 ちょっと前から「2012年6月の新刊」という記事へのアクセスが高い事になんとなく気づいてはいたんだよねぇ。だけど、うかつにも「何故か」とは考えなかった。登録してある「ブロガーの本棚」がまったくここの書評を掲載してくれなくなった事の方が気になって、気になって。

 でも、そのうち、ようやく「6月の新刊」へのアクセス数が多い理由が分かりました。今月末に小野不由美の「魔性の子(新装版)」と十二国記シリーズの第一作「月の影影の海(上・下)」が刊行されるからなんだ。つまりは昔からの十二国記ファンが〈そわそわ〉し出したわけで、それを知ったら僕自身もそわそわしてきた。

 新潮文庫のHPにあたってみたら、なんと十二国記の公式サイトが出来ている。そして、予定通り6月27日に3冊が刊行される。公式には7月1日発売なんだそうだが、店頭には今月の27日に並ぶと担当者がツィートしているので間違いないだろう。

 だけど、「6月の新刊」の記事でも書いたけれども、これは問題作だ。元々ラノベとして登場した十二国記シリーズは、「図南の翼」で北上次郎(目黒考二)さんが本の雑誌で絶賛したようにラノベのジャンルを越えて人気を博した。その後は、小野不由美という作家の力量は「屍鬼」などで十分に証明されたのだけれど、講談社文庫の扱いは、ラノベブランドであるX文庫から講談社文庫へ格上げするだけの鈍いものとなった。その後、新作がX文庫と講談社文庫の両方から同時発売されたのだけれど、それ以外に小野不由美ブランドの作品がX文庫にも講談社文庫からも刊行される事はなかった。

 一般に遅筆なのか寡作の作家として知られる小野不由美さんではあるが、ひとたび作品ができあがれば、圧倒的な存在感で読む者の心を捉えてしまう。それは元来がホラーが苦手な僕が、ひと夏をそれこそ震え上がりながら「屍鬼」を読み切った事からも証明されよう。

 そして、今度の新潮文庫からの出版は、ただ単に十二国記の旧作を講談社文庫と競合するかたちで出版するだけではない。新作も何年かぶりに新潮文庫から書き下ろしで出版される(未確認だが、たぶん講談社からは出ない。少なくともすぐには出ない)。と言うことは、旧作は版権の関係で講談社文庫にも権利が残るが、新作を含めて十二国記シリーズは新潮文庫に完全に「お引っ越し」したと言っていいだろう。

 そうなると前々から気になっていたのが「魔性の子」の取扱いだ。これは新潮文庫の表紙からも一目では分からないようになっていたので、ずっとホラーだと思って読み控えていたが、読んでみれば十二国記のサブエピソードであることはファンならば一目瞭然だ。でもおそらくは権利の問題で、講談社の手前[十二国記」とは名乗れないのだろうと思っていた。予想通り、今回の新装版には[十二国記」の文字が刷り込まれるそうだ。

 さらにビックリなのは、これまでラノベで表紙と挿絵を描いてきたイラストレーターが引き続き新潮文庫版・十二国記でも表紙と挿絵を担当する。だから本編の「月の影影の海」だけでなく「魔性の子」も、あのおなじみのイメージのイラストにリデザインされている。ファンとしては、これで長年の胸のつかえが降りたというものだ。

 そういえば講談社文庫は、X文庫から講談社文庫に格上げした際に、あのラノベっぽいファンタジー色が強いイラストも挿絵も廃した。そういう点でも著者の新潮文庫へのシリーズ移籍を覚悟させる諸々があったのではないだろうか。もちろん邪推ですけど…。

 とにかく問題作なのは間違いない。これは「僕にとって」の問題作でもある。すでに家の書棚にはX文庫でそろえた全作品が大切に保管されている。いつ新作が出ても、旧作にアクセスするための用意でもある。でも、まさか新潮文庫で出るとは思ってなかったし、装丁は変わるし、なんか背表紙も一通り揃えると絵柄で出てくるという「ずっこい企画」が隠されているそうだし、これは”買い”でしょうか。うーむ、そんな予算あるかなぁ。これから続々と出てくるみたいだし。少なくとも「魔性の子」は買うよねぇ、絶対。困ったなぁ。
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2012年06月08日

シタフォードの秘密 アガサ・クリスティー(2012/5/19読了)

 登場人物が多く、人間関係を把握するのに手間取る作品だ。大雪の中、退役した大佐が殺され、当初は物取りによる偶然の犯行かと思われたが、次第に計画殺人の可能性が疑われ、容疑者のすべてが洗い出されていく。すると、大佐の遺産の受取人である親族が山ほどでてくる。大佐の管理するアパートのたなこである間借り人など、これまた容疑者が増えてしまう。

 それを整理する役目をいったい誰が負うのか、名探偵役が誰なのかというと、これがなかなか見あたらない。前半は警部がねばり強く慎重な捜査を進めていくが、結局は犯行当日に大佐のすむ町に出向いて身元を隠して宿屋に宿泊していた大佐の甥っ子を、捕まえるべくして捕まえてしまう。

 そこから探偵役がチェンジして、その甥っ子のフィアンセである女性が奮闘する。人を誘導する術にたけた彼女は、打つべき手を打って、素人ながら見事な捜査を行って真相に肉薄していく。それには手足となって動き回ってくれる相棒が必要だ。都合のいい事にうかうかと特ダネをもとめてやってきた若き新聞記者を籠絡して、彼女はともに行動する事を青年に約束させる。

 ならば名探偵役は彼女だったかと思うと、そのうちに甥っ子と彼女と記者の三角関係が浮き彫りになって、事件の捜査のクライマックスと平行して「はたして彼女は最後にどちらを選ぶのか」というロマンスの要素も重要になってくる。言ってみれば、後年TV番組でソープオペラと言われたジャンルのTVドラマが一世を風靡したが、小さな町で事件をきっかけに右往左往する人々の姿を活写したドラマチックなストーリー構成を本作もとっている。

 だが、この作品の品ぞろえはそれだけではない。大佐から是が非でも冬の間貸してほしいとやってきた母娘が、シタフォード邸で開いたパーティで余興に降霊会を行う。「大佐が殺される」と霊が予言したことが発端となり、大雪の中で一人暮らす大佐が予言通り殺されてしまう。この怪しげでスキャンダラスな設定が読者を惹きつけやすい事はたしかだが、僕が一番感心したのは、玄人探偵(警部)と素人探偵(女性)のそれぞれが真犯人を見つけるための捜査をする場面に、本格ミステリーによくある場当たり的で単なるつなぎのような展開がひとつもないという点だった。

 すべての人物、すべてのエピソードを整然とまとめていくかのように、探偵たちは慎重に歩を進めていく。これはミステリーの描写としても見事で、名探偵ならば結末で一言で片付けてしまうような事を、本作の探偵たちは頭で考え、仲間に相談し、たちまち行動にうつす。あたかも現代のミステリーの手本となるようなライブ感に富んだ本格ミステリーが、この時期に書かれていたことが真の驚きと言えるだろう。
posted by アスラン at 13:01| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月07日

「蝋人形館の殺人」(ジョン・ディクスン・カー、創元推理文庫)ネタバレ解説

(この記事では、ジョン・ディクスン・カー著『蝋人形館の殺人』のネタバレを行っています。未読の方は読まないようにお願いします。)

 なぜネタバレ解説をするかというと、僕自身、カーの結末の付け方がよくわからないからだ。たとえばこのブログで僕はエラリー・クイーンの作品のネタバレ解説をやっている。クイーンの場合、解説の目的ははっきりしている。明瞭すぎるほどの解決にいたるまでに、著者はフェアプレイにこだわりながらどのような手際でどこに手がかりを埋め込んでいったのかを再確認したい。それだけだ。

 ところが、カーの場合はまったく異なる。結末が理解できないから手がかりを探す。これである。以前「帽子収集狂事件」のネタバレ解説を書いた。カーの初期の代表作として名高いが、僕には今一つふみこめない壁があった。犯行現場がどのようなところなのか、どのように犯行は行われたのか、あるいはなぜ死体が見学者たちにみつからないのか。わからないことだらけだった。

 そこで現代人のツールであるウェブを駆使してグーグルマップを闊歩し、ロンドン塔を旅してきた人のブログから犯行現場のロンドン塔内「逆賊門」の写真を見つけてきてはイメージを膨らませた。その結果、ようやく今までわからなかった事が完全に理解できた。その上でわかったことは、カーの作品の良い読み手になるのは生半可な事ではかなわないということだった。手がかりがあちこちにちりばめられ、しかもたった1回しか言及されない事も多いので、うかうかと読んでいると大事な手がかりを見失う。結末で探偵から説明されて初めて気づかされ、さかのぼって手がかりを探すという羽目になる。

 ちなみに「帽子収集狂事件」の犯人は意外な人物ではあったが納得はできた。だが、本作の犯人は「意外すぎてとうてい納得できない」。そこらへんを詳しくみていこう。あらすじはこうだ。

 パリの古びた蝋人形館の名物「恐怖回廊」で、うら若き女性の刺殺体が発見される。しかも彼女は回廊に展示された殺人鬼(の蝋人形)に抱きかかえられて、その男が持つ剣で刺し貫かれていた。なぜ彼女は閉館まぎわの蝋人形館にいたのか。いったい誰に殺されたのか。実は蝋人形館の隣にはあやしげな秘密クラブの建物があり、そこに行き着くための通路にでられる扉が蝋人形館にある。つまり、人目を忍ぶ女性らはこちらの扉を利用していた事がわかり、バンコランが調べてみると、扉の近くの通路には被害者が襲われたとおぼしき痕跡が残っていた。

 良家の子女である被害者とともに彼女の友人たちも殺されたことがわかり、彼女たちの交友関係が捜査の対象となる。特に彼女たちがそろって出入りしていた秘密クラブの会員の中に犯人がいるのではないかと疑われた。そこでバンコランは被害者たちの家を訪問して、親や兄弟たちへの聞き取り調査に取りかかった。すると連続殺人に見えていた事件は、秘密クラブのオーナーである暗黒街のボスによる会員への脅迫に端を発する過失致死と、まったく別の人物による蝋人形館での殺人とに分かれる事が判明する。

 恐怖回廊で刺殺された女性クローディーヌ・マルテルは、父マルテル伯爵によって殺されたのだった。動機はともかくとしてバンコランがたどり着いた推理はこうだ。

 真の殺害現場である秘密クラブへの通路で、バンコランたちは被害者の持ち物とともに「小さなガラスの破片」を拾った。

何かをかき集めると、懐中電灯の光できらりと光るそれをそっと封筒に入れた。(P.48)


ポケットから封筒を出すと、卓上に小さなガラスの破片を数個ふるいだした。
「通路に落ちてたんだよ。」と(デュラン警部に)説明する。
(P.66)


 これだけでは、いったいガラスの破片がなんなのかは手がかりが少なすぎてわからない。ただし論理的に考えて被害者が殺された時に、被害者の身につけていたものか、あるいは犯人が身につけていたものが壊れて落ちたのではないかと推理できる。いや推理できるのはバンコランが結末で「ガラスの破片は犯人の振り回した腕にはめた腕時計のガラスだった」と説明したからだ。当然ながらバンコランでさえ、当初はガラスの破片がなんなのか想像できずにいる。

 次にバンコランは被害者クローディーヌの家を訪問し、父親であるマルテル大佐から話を聞く。マルテル大佐に関する来歴と、実際に対面した際の描写は、この訪問の一度しかない。その後、マルテル大佐はなんと結末にいたるまでも登場しない。にもかかわらず、ほとんどすべての手がかりは1回限りの対面の場面に集中している。

「マルテル伯爵家は…当主も大佐という称号をこよなく誇りにしている。戦争で片腕をなくしてね。…」(P.146)


(大佐には)左腕はなく、袖先をポケットにたくしこんである。(p.151)


 ここで大佐は片腕がないことがわかるのだが、その事は結末まで二度とふれられることはない。片腕がない事は、実はガラスの破片との重要な結びつきを果たす。ナイフを振りかざそうとした犯人が腕につけた「あるもの」が壊れてガラスの破片が落ちたというのが論理的で妥当な推理である。そしてそれは腕時計だったのだが、腕時計は通常利き腕とは逆の腕につけるものなので、つじつまがあわない。しかし片腕しかない人物ならば、完全につじつまがあう。

 この作品は300頁を越える長編だが、200頁近辺でバンコランの相棒であるジェフ・マールが秘密クラブへの潜入捜査を果たす大立ち回りが挿入される。潜入捜査をジェフに頼んだ後でバンコランは妙な事を口走る。

「アリバイだ…。あれこそアリバイだったのか」さらに、「宝石はどこだ?調べ出して、当ってみないと…」(P.195)


 僕にはこれが不可解な一言だったのだが、それはバンコランの解決での一言と符号する。

「殺人犯はわざと手がかりになるようなものを残していき、推理の糸口をわざわざ与えてくれました。…」(P.284)


 バンコランの一言は、犯人がガラスの破片を故意に残していったという事実を説明しているのだけれど、「何故に手がかりを残したのか」と考えるのと同時に「アリバイとはなにを指すのか」がどうしてもわからなかった。バンコランの解決を読んだ後でも、さらには最後の一頁を読み終えてもわからない。そして再読してみて、バンコランが解決に使った手がかりをなんども本文を渉猟して見つけ出した後でもピンとこなかった。

 驚いた事に僕は、このネタバレ解説を書き上げるうちにようやく「アリバイ」の言葉の意味に気づいた。アリバイとは、通例では「犯行時刻に犯行現場にいる事はできない」という論理的な状況を指す。ところが、ここでバンコランが口走った「アリバイ」とは、犯人であるマルテル大佐が犯行現場の蝋人形館に行って娘を殺してきたという動かぬ「アリバイ」を自分からほのめかしていたという事を意味している。これは言わば「逆アリバイ」と言ってもいいだろう。しかし衝撃的ではあるが、これは読者を混乱させる一言でもある。

 そして正直に言わせてもらうと、バンコランはジェフの潜入捜査前に犯人の正体に気づいていた事になる。では、いったいそれからの100頁になんの意味があるのか。もちろん物語としては、マルテル大佐を電話先で追いつめるバンコランの「悪魔的な所業」が最後の見せ場には違いない。でも本格ミステリーとしては、すでに100頁も前に終わっているなどとはクイーンでさえ驚くだろう。

 そして、そのマルテル大佐の「アリバイ」とは、犯行現場に残されたガラスの破片のほかには、マルテル邸での会見での2カ所に〈ほのめかされて〉いる。

目の前の大佐は、電報の一部のような青い紙切れをもてあそんで、厳しい目をこちらにすえている。(P.151)


振り子の音がして、大時計が静かに十二時を告げにかかった。……マルテル大佐は手首を見て眉をひそめ、ついで大時計に視線を投げて、もうそろそろ、と礼を失せずにそれとなく匂わせた。(P.158)


 「ガラスの破片」が腕時計の盤面に嵌ったガラスだと推理する事ができる推理巧者は、あるいは「青い紙切れ」が蝋人形館の入場券をほのめかしていると即座に思い付くのだろうか。しかし、いったい入場券の外見をどこらへんで描写していただろう。それはバンコラン一同が蝋人形館を最初に訪れた冒頭31頁目の事だ。

娘は相変わらず腕組みしたままテーブルの奥におさまった。どうやらここの入場券とおぼしい、薄青い紙のチケットつづりが卓上にひと巻きころがっている。(P.31)

 素晴らしい。いったいどんな観察眼の持ち主がこれだけの描写からマルテル大佐の手にした紙切れの色とつきあわせる事ができるのだろうか。

 そして「ガラスの破片」が腕時計のガラスに昇格するのは、さきほどの大佐の「手首を見て、大時計を見る」というしぐさを見とがめた者だけの特権と言える。この部分だけを抜き出してみると間違えようもないくらい明白な記述に見える。しかしこの記述が出てくるのはバンコランとマルテル家との間に不穏な沈黙が訪れる事をかなり長めに説明したパラグラフの最後の最後なのだ。どちらかというともう知るべき事はすべて聞き出してしまって、あとは不穏な余韻しかお互いに残されていないという雰囲気の文章にそっと目立たずに置かれている。

 驚きに満ちていると言えないだろうか。もし、これが数十頁もしくは100頁たらずの短編か中編であれば、これらの伏線の折り込み方は見事というしかない。結末の付け方に文句を言う余地はないかもしれない。しかし、全編300頁からなり、犯人の登場回数はたったの一回限り。それも10頁に満たない。その中に、ほとんどすべての手がかりが集中し、そのほとんどがまた一度限りしか言及されず、またそこだけを取り出しても何の意味もないような手がかりばかりなのだ。
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2012年06月05日

ヒュウガ・ウイルス―五分後の世界2 村上龍(2004年11月7日読了)

 
 日本が1945年のポツダム宣言による「無条件降伏」を受け入れずに徹底抗戦したとするとどうなるか。兵力が圧倒的にまさる連合軍にあっという間に進駐されて、主要4カ国に分割統治されて大日本帝国は崩壊するだろう。しかし、日本軍も外地から戻った少数の将校の指導のもと立て直しを図る。そして日本軍は地下に潜って駐留下の軍事活動を続ける。それが村上龍が描いたUG(アンダーグラウンド)だ。副題は「五分後の世界2」。

 今とはほんの五分しかずれていない時空間にパラレルワールドとしての日本が存在する。そこには国家としての日本は存在せず見慣れた国土もない。しかし無条件降伏後の日本がたどった、愛国心もなければ民族としての尊厳も持てないいびつな歴史はなく、あり得たかもしれないもうひとつの日本人の生き方を鮮やかに描き出したのが、前作「五分後の世界」だった。

 村上龍は作家としてのスタート時から既存の体制、既存の社会、既存の生き方にNOを叩きつけてきた。それは、いつもで「あり得べき体制、あり得べき社会、あり得べき生き方」を自分自身に、あるいはぬくぬくと生きている現代人たちに問い続けてきたと言ってもいい。そこには政治的なスローガンがあるわけではなく、もし「あり得べきもうひとつの世界」があるのならば、それはどんな世界か見てみたいという好奇心のあらわれなのだろう。「五分後の世界」の衝撃は、その後の「半島を出よ」でより現実感を伴った形で再現され、さらに「歌うクジラ」で象徴的な未来へのまなざしへと引き継がれている。

 少しはしょりすぎたが、本作は「五分後の世界」のパート2というよりも外伝のような位置づけだと考えるといい。あの前作で少しでも日本のありうべき姿の過酷さと、しかしかろうじてつなぎとめた誇りとに導かれた読者は、この続編では人類が正体不明のウイルスによって存亡の危機へと追い込まれている事態に唖然となる。UGの残された精鋭たちの部隊がウイルスに対処するためにヒュウガ村に赴くというのが本編のメインストーリーではあるのだが、話はあっけなく終わってしまう。いや、終わらないといった方が正しい。

 著者は近未来のバイオハザード物のドラマを書きたかったわけではなく、「ウイルスが象徴する終末」の世界と、そこで生き残る者だけが手に入れる「(人類が)生き残るためのモラル」とはどのようなものなのかを描きたかったように思える。意気込みは買うとしても、著者にしてはウイルスのメタファは、ちょっと安直すぎるのではないだろうか。詳細すぎるほどのウイルスの専門的な記述を延々と読まされるうちに、なんだかウイルスそのものへの著者の飽くなき好奇心を満たすためだけに書かれた作品に、僕ら読者は付き合わされているのではないかなどと邪推したくなってくる。

 けれど決して面白くないわけじゃないから、村上龍の作品は一筋縄ではいかないのだ。
(2005年5月31日初出)
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2012年06月04日

蝋人形館の殺人 ジョン・ディクスン・カー(2012/4/13読了)

 新訳になって「蛍光灯下の蝋人形館」というようなイメージが湧いてきた。かつて創元推理文庫の旧訳で読んだ際は、何かうらさびしくみすぼらしい蝋人形館の地下にある通路の一隅で殺人がおきて、そこにはおどろおどろしい蝋人形たちがあたりを固めていた。

 と書き出して平気でいたが、amazonの商品リンクを付けようと検索をかけたり、図書館の検索システムで旧訳の出版年を調べたりしようと思って、ようやく自分の間違いに気づいた。この「蝋人形の殺人」という作品は、早川書房のポケミスで出版されて、その後ハヤカワ・ミステリ文庫に未収録のまま今に至っている。アンリ・バンコランシリーズの全作品の収録に力をいれている創元推理文庫が、今回「初の文庫化」を果たしたというのが正しい。すでに早川が文庫化をはたしているようになんとなく思っていたから、「初の文庫化」という文言は「創元推理文庫にとっての」という限定が入るのだろうと思い込んで、創元推理文庫担当者の意気込み過多におもわず失笑してしまった。とんでもない、自分の方が勘違いをしてました。申し訳ない。では、もう一度最初からやり直そう。

 今回の文庫化による最新の訳文で読むと、なんとなく「蛍光灯下の蝋人形館」というようなイメージが湧いてきた。かつて早川ポケットミステリの訳で読んだ際は、何かうらさびしくみすぼらしい蝋人形館の地下にある通路の一隅で殺人がおきて、そこにはおどろおどろしい蝋人形たちがあたりを固めていた。

 しかし、創元推理文庫の新訳ではそれほどの恐怖を感じない。明晰な新訳で現代調の文章に書き改められたせいでもあるだろう。それとも、かつての若者を熱中させ、かつての若者が年老いるように古びていったレトロな意匠のポケミスが醸し出す〈時代の雰囲気〉に僕自身がのまれていたのかもしれない。蝋人形館の隣には、仮面をつけた男女が一夜限りの欲望を満たす秘密クラブへとつながる通路が続く。そこは、蝋人形館とは打って変わって滑稽なほどに部屋数が多くて、まるで日本のラブホテルに似てもいる風景が広がっている。

 読み進めていけばいくほど、アンリ・バンコランというキャラクターは溌剌とした名探偵にはほど遠く、まだそれほど老いたと言える年齢でもないのに<老獪>という一語がふさわしい人物に感じられた。世間からメフィストフェレスに例えられるとおり、悪魔と契約した彼の精神と肉体は暗黒の世界に引きずり込まれる一歩手前の人間らしく、陽気と陰気のはざまを綱渡りしながら、出くわした猟奇殺人の捜査を楽しんでいる。

 そのせいか、予審判事という身分でありながら警察以上にでしゃばりな彼の行動は、ほとんどたわけた暴走以外のなにものでもない。捜査を一任したはずの警部にも肝心の秘密クラブを捜査することを控えさせたり、重要な手がかりを隠したりしてはばからない。これも古き良き時代の本格ミステリーの約束ごととして、読者は大目に見るにしくはない。

 しかし最後の最後に勝利の栄光を勝ち取るのはアンリ・バンコランそのひとである。おそらくは若い頃にパリの怪しげな魅力にとりつかれた当時の著者にとっては、お手本とすべきポーとドイルという二大巨匠が生み出した名探偵以上に、大都会の暗黒面に通じる悪魔的な探偵を必要としたと考えればいいのだろう。バンコランは若きカーのお気に入りの人物だったはずだ。

 ワトソン役であるジェフ・マールは、クリスティが生み出したもう一人の名探偵ポワロと事件をともにするお人好しの青年とは好対照をなす。ばか正直に他人の言葉をまにうけたり、美しい独身女性をみるとすかさずなびいてしまう事はないかわりに、正義よりも冒険のためにあえて火中に飛び込む無謀な若さを持ち合わせているところなどは、あくまでバンコランの老獪さとバランスをとるための人物配置だろう。だが、ジェフの行動の中途半端でお粗末なところはヘイスティング大尉と好一対だ。

 終盤にきてジェフは、秘密クラブに潜入して暗黒街のボスの犯罪の動かぬ証拠を盗み聞きする役をかってでるが、途中でばれてあやうく捕まりそうになる。実はここで得られた手がかりは真相に近づくものとは言えず、ジェフの大冒険のあいだにバンコランは真犯人と対峙して、さっさと真相を突き止めてしまっていた。つまり秘密クラブの捜索のくだりは、あまりに動きのない中盤からクライマックスに至るまでの著者なりのサービス精神の現れであり、結末までのつなぎの意味しかない。

 そして肝心の犯人は?というと、とびきり意外な人物だ。解説でも意外だと指摘されているが僕自身も異論はない。異論はないが、「意外」すぎて実は驚きも少ないというのが正直なところだ。僕の第一声は「えぇー、なにそれっ!?」という感じだった。カーの長編の多くは犯人を当てようとしても無駄だ。ほとんどの作品が読者にとって「意外な犯人」だからだ。

 そしてそのうちの何割かは、犯人の名前があかされても「それって誰だっけ?」という事態になることも少なくない。容疑圏内ぎりぎりの人物がいきなり第一候補に躍り出る。今回もそのタイプだ。トリックもない。本作の特徴はというと、やはりタイトルにあるとおり「蝋人形館」のもつ毒々しい怪しげな魅力に尽きる。それに重ねてスキャンダラスな秘密クラブを蝋人形館と隣り合わせに配置するというのが、ゴシップ好きの読者の下心をあおる趣向であって、それ以上でもそれ以下でもない。
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2012年06月01日

不可能、不確定、不完全−「できない」を証明する数学の力− ジェイムズ D.スタイン(2012/4/5読了)

 こういうタイトルが目に付くと、ついつい内容をよく確かめもせずに借りてしまうのが「僕の悪いクセ」。読んだあげくに「借りて読むほどの中身だったか」と、後悔しないまでもがっかりさせられることはよくあることだ。ただし、通常の小説などと違ってノンフィクションは事実を元にしているので、出来不出来を選別する基準が少しだけあまくなる。

 数学や自然科学を一般人向けに解説する本と謳っている場合にはなおさら、歯が立たないとなると、自分の方に楽しめるだけの素養がたりないのだろうと逆に引け目を感じてしまうのが関の山だ。後悔どころか自分の不出来を恥じてしまう有様なのに、書店や図書館で同じような本に出くわすと、性懲りもせずにまた借りてしまう。まさに「こりない奴」なのだ。

 さて、ではこの本はおもしろかったのかと言われれば”Yes”だろう。「不完全」がゲーデルの不完全性定理であり、「不確定」がハイゼンベルグの不確定性原理であり、そして「不可能」がアローの不可能性定理をそれぞれ指している。いずれの定理(原理)もできることを証明するのではなく、「できないことを証明する」という点に、素人さえも引きつける怪しい魔力がある。

 数学の起源から「できない事の証明」は物議を醸し続けてきた。その代表が「角の三等分(の作図)」である。あるいは「立方体の倍積問題」であり、「円と同面積の正方形(の作図)」であり、「五次方程式の一般解」であった。その後、数学の分野ではゲーデルが、物理学の分野ではハイゼンベルグが、経済学の分野ではアローが、それぞれ「できないこと」の究極の証明をもたらした。

 これらのエピソードを次々とつないでいったのが本書だが、実はそれぞれのキーワードである「不完全・不確定・不可能」に直接関わりのあるエピソードばかりを綴っているわけではない。「できない事を証明する」ことができる数学の潜在的な能力が、現在あるいは将来にどんな成果をもたらすことになるかを分かりやすく語ってくれる。数学の奥深さがよく分かる。

 しかし、その一方で「できない事を証明できる」ことに対して無批判でもいられない。今なおなおざりにされている数学基礎論の視点から、果たし「できないこと」が現代数学のまな板に載せる事が可能なのかをあらためて問題にする。それは「排中律」の問題である。

 「できない」を証明できるためには、「できない」が「できる」の否定で表現できる事を前提にしなければならない。つまり「排中律が成立する」という前提を受け入れなければならない。これこそが数学基礎論に関わる大きな問題である。一般人の感覚では「Aである」と「Aでない」という二律背反である事は常識だが、数学としては簡単に原理として鵜呑みにする事はできない。そもそも数学基礎論の世界では数学的帰納法を認めるかどうかで意見が分かれる。つまり一つ一つ数え上げて正しい事が証明されない限り、nで成立するとn+1でも証明したから、無限に証明できた事にしていいのかいけないのかが「数学の基礎論的危機」の一部を構成する。当然ながら数学の分野では「できないことの証明」は排中律の是非を棚上げする事でかろうじて成り立っている。

 そんな興味深いエピソードを読みながらも、僕が考えていたのはハイゼンベルグの不確定性原理のことだった。最近の名古屋大学の小澤正直教授の成果で、ふたたび「不確定」というキーワードの持つ意味も変わろうとしているのではないだろうか。
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2012年05月30日

東京湾景 吉田修一(2004年11月7日読了)

 遅ればせながらドラマ化された本作を読んだ。ビックリした、ホントにビックリしました。全然違うじゃない、内容が。フジテレビのドラマは明らかに「冬ソナ」に便乗していて、和製韓流純愛ドラマにしてしまったけれど、原作にはそんな部分は影も形もない。これはハッキリと書いておこう。一行も一言すらない!

 「出会い系サイトで純愛なんて笑っちゃうよね」って口さがないOLたちの会話をどこぞのテレビで耳にしたけれど、彼女たちだけでなく誰だってそんなシチュエーションを信じているわけじゃない。だけど、この小説で著者は、出会い系サイトの出逢いのうさんくささの中で互いを求め合う事を期待する男と女の物語を、あえて描きたいと思った。当然ながら純愛にはならない。

 テレビドラマが韓流テイストを持ちこみたかった気持ちもわからないではない。原作では、「太陽はひとりぼっち」という映画の別れのシーンにインスパイアされたクライマックスを採用しているからだ。一言で言えば「愛する男女の移ろい」が主題と言っていい。。原作を読むかぎり、決して難しい事を書いてあるわけではない。でも、もしテレビドラマで同じ主題を取り上げるならば、演出には力量が問われるだろう。

 さてドラマの事はおいといて小説の方だけど、純愛物でないにも関わらず吉田作品としては最もロマンティックな結末になっている。映画的なシーケンスがちりばめられているから、映画できちんと作ったらさぞかし面白い作品になりそうなんだけどな。
(2005年5月30日初出)


[追記(2012/5/30)]
 今となっては書評と一緒に織り込んだテレビドラマ時評の方が古くさくなってしまって、一体どんなドラマだったのか誰も分からなくなっている。僕自身も連続して見続けていたわけではなく、なんとなく仲間由紀恵主演だったのと、吉田修一原作という点に牽かれて見てみたら「なんかヘンだな」と感じてしまったのだ。吉田作品らしくない設定だったからだ。仲間由紀恵が在日韓国人という設定も無理があるが、それだけ当時は「冬ソナ」の影響が大きく、しかも今のように韓流ドラマの放映枠もなかったので、NHKの「冬ソナ」は別格として民放がニーズに応えるためには、このような中途半端な設定のドラマが必要だったという事かもしれない。出会い系サイトで出会う相手は和田聰宏だ。当時、日本でのタレント活動を渇望していたパク・ヨンハがゲスト出演して話題性を盛り上げていた。(などと書いたが、パク・ヨンハのくだりはWikiを見て思い出したくらいで、忘れていた。)
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2012年05月27日

勝ち続ける力 羽生善治/柳瀬尚紀(2012/5/8読了)

 将棋名人戦の第3局が昨日(5/9)終わって、森内名人の2勝1敗になった。挑戦者の羽生二冠ともども先手番をきっちりと物にしてきているので、両者の力が拮抗している事は素人目にもわかる。ただし、森内名人の先手から第1局が始まっているので、このままでは羽生さんが不利だなぁと思っていたら、最終の第7局はあらためて振り駒になるらしい。そうつぶやいているのをツイッターで見かけただけなので、本当なのか未確認なのだけれど。

 息子が将棋を指すようになってからというもの、親の方も無関心ではいられなくなって携帯からプロ棋士の対局をライブ中継するサイトに登録した。以来、会社の行き帰りや休み時間に、お気に入りの棋士の対局のすすみ具合を何度も確かめるのが日課となってしまった。NHKの教育テレビでも日曜日ごとに将棋の対局があるが、素人には大盤解説でも難しい。モバイル中継の解説は何度も何度も理解するまで繰り返し読めるので、とてもありがたい。

 モバイルの中継の物足りないところは、やはり棋士の様子が見られないところと、終局後の感想戦の様子がいっさい中継されない点だ。以前から不思議に思っていたのだが、戦いがおわって勝ち負けがはっきりとついた直後に、対局相手に自分の手の内をあかし、さらには負けた方がどこで間違ったのか(敗着というらしい)をお互いに検討しあうという慣習めいたことをやる。よくもまあ、棋士の方々はいやがらずにやっているなと、ひとごとながら気になっていた。

 これは、本書の羽生さんの言葉によれば、「一種の反省会」のようなものなのだそうだ。それはそのとおりなのだろうが、ここからが羽生さん独特の考え方に違いないとにらんでいるのだけれど、感想戦を終局直後にやることで頭をクールダウンして、本局をいったん決着させることが重要なのだそうだ。

 そうやってけりをつけないと、棋士は自らが経験したすべて対局の内容をずっと引きずっていかなければならない。あれだけ長くトップ棋士の地位を保ち続けてきた羽生さんに言わせると、記憶力はそれほど大事ではなく、新たな事を入れていくためにいかに忘れていくかが重要という、一見すると逆説めいた言葉になってあらわれる。

 今回の対談相手が、言葉の達人である翻訳家・柳瀬尚紀であることも手伝っているのか、棋士らしからぬ羽生本人の面が突出している。ジェイムズ・ジョイスすらも恐れずに話題にできる棋士など、そうそうはいないだろう。つまり、一言でいえば、羽生善治は棋士であると同時に、アーティストでもあるのだ。
posted by アスラン at 08:40| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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