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    2009年08月27日

    鉄塔武蔵野線ウォーク(その1)

     今回から、いよいよ鉄塔武蔵野線を歩いていく。もちろん実際に足でたどるわけではなく、銀林みのるが書いた小説と、地図と航空写真などを携帯して、主人公の少年・見晴がたどったみちのりを幻視するのだ。

     あらかじめ断っておくが、小説「鉄塔武蔵野線」が日本ファンタジーノベルス大賞を受賞したのが1994年の事だ。この小説が書かれる事になった経緯を語った著者の解説によると、以前からあたためていた〈鉄塔の物語〉の構想を形にしようと、送電線めぐりを始めたのが1993年2月のことだった。その過程で「武蔵野線」と運命的な出会いをはたした。だから、この稀有な小説に挿入された鉄塔の写真は、このときに撮影されたものだろう。小説の中の鉄塔おのおのの描写も1993年当時の風景だと思ってよさそうだ。

     あれから16年が経過している。鉄塔をとりまく環境も変わっただろうし、あるべきはずのもの、特に空き地が、新築の建物でうめられた箇所もあるかもしれない。だが、地勢的なことを言えば、川や鉄道や高台や低地は変わることなく僕らを待ち受けているだろうし、なにより鉄塔そのものは、かつての送電線路の所属ではなくなっていようとも、〈改造〉されて姿を変えていようとも、間違いなく1993年当時の位置で、僕らを待っていてくれるはずだ。

    [用意するもの]
    (a)小説「鉄塔武蔵野線」(銀林みのる著、ソフトバンク文庫)
    (b)白地図(起点となる鉄塔と次の鉄塔の、少なくとも2本が含まれるもの)
    (c)(b)と同縮尺の航空写真(Googleマップより印刷したもの)
    (d)(参考として)Googleマップ(ストリートビュー+航空写真+地図)

     基本的には(a)〜(c)を用いて、(b)にたどった道筋や小説の記述を書き写していく。ただし、どうしても細かい道や建物が見えないときには、(d)を使って鉄塔の周囲を探索する必要がでてくる。運が良ければ、結界(鉄塔の4本の脚が形作る四角形の領域の事)の様子を見る事ができるだろう。

    [75−1号鉄塔]
     「199X年の夏」に、小学5年生の少年・見晴は、夏休み後半に入ったある昼下がりに、サッカーボールを片手に家を飛び出す。彼は2学期から北多摩地区への転入が決まっていて、この夏休みが、この住み慣れた土地とも、遊びまくった友人とも、お別れになる直前の、ほんのつかのまの猶予期間だった。

    (A地点)
     とりあえず市営グラウンド横の空地に行ってみました。そこは、壊れた自動車や残土の山などがある、わたしたちの第1の集合場所でした。(P.6)


     この市営グラウンドとは「埼玉県新座市堀之内」にある殿山運動場の事だ。横の空地はすでにない。「壊された自動車や残土の山」があるはずだが、おそらくは現在、合同庁舎があるあたり、あるいは庁舎とグラウンドの隙間が空地だったのかもしれない。

    (B地点)
     サッカー・ボールを蹴りつけながら、人気のない通りを乾いた蝶のように走って行きましたが、あの鉄塔の近くに差しかかったとき、ぴたりと足を止めたことをよく憶えています。(P.6)

     見晴の目を惹きつけた鉄塔は、異様な形をした「異形鉄塔」だった。それは、隣接する掘ノ内変電所(小説では「香皿(こうさら)変電所」)に送電線をいったんおろすために、形が左右対称でなくなるからだ。

     見晴は鉄塔に金属製の板が掲げられているのに気づく。そこには「武蔵野線 75−1」とある。〈武蔵野線〉が高圧線の名前であることは一目瞭然だが、〈75−1〉という番号がどういう意味なのか?理解できないままに、見晴は南側にある次の鉄塔に向かう。

     僕がたどった(b)のウォーキングマップを以下に示そう。フリーハンドの色鉛筆と文字のセンスのなさは、僕のもって生まれたものなので致し方ない。それより、75−1から道づたいに次の76号鉄塔に向かう赤線を引く前に、最初に変電所とシルバー人材センターの間をショートカットする線を引いてしまった(75−1周辺が汚れているのはそのせい)。白地図の恐ろしいところだ。やはり経路を引くためには、倍率の高い航空写真とストリートビューに頼るしかない。次からは慎重に歩を進めていこう。先はまだまだ長い。
    鉄塔武蔵野線ウォーク(1).jpg
    posted by アスラン at 12:58 | 東京 ☀ | Comment(2) | TrackBack(0) | 鉄塔武蔵野線 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2009年08月18日

    鉄塔武蔵野線のたどり方(その3)

     そしてようやくのことで、Googleマップの〈マイマップ〉を利用して、1〜81号の武蔵野線全鉄塔のマップが完成した(いや、このときは完成したと思っていた)。次は、このマップと小説「鉄塔武蔵野線」の読書をどう繋げるかを考える。

    [使うもの(再掲)]
    (a)鉄塔武蔵野線MAP(ソフトバンク文庫「鉄塔武蔵野線」添付)
    (b)Googleマップ(地図+航空写真+ストリートビュー+マイマップ)
    (c)新旧鉄塔番号対照表(ソフトバンク文庫「鉄塔武蔵野線」の巻末)


     GoogleマップをPCで表示しながら本を読むとなると、読書の機会が限定されてしまう。どうしてもマップを携帯したい。画像を携帯かウォークマンに取り込むという手もあるが、如何せん画面が小さい。やはり印刷しよう。しかしGoogleマップでは地図のカラー印刷はできても、航空写真の印刷はできない。かといって、写真でないと地図で空白の部分が、空き地なのか住宅なのか、畑なのか森なのか、判別できない。いっそ地図を白黒で印刷して航空写真を見ながら色づけしようかと、色鉛筆片手に挌闘してみたが、どうも難しい。これは画才が必要な作業だ。やはり航空写真を是が非でも印刷しなければ…。

     ふたたびGoogle(今度はポータルサイトのほう)で「google 航空写真 印刷」で検索してみる。なんだ、できるぞ。要は画面のハードコピーをとればいいんだ。

    [Googleマップの航空写真の印刷]
     まずビューアーを最大化する。なるべく地図のエリアを広くとるために「表示」メニューでツールバーなどを消しておくといい。

     印刷する際には、少なくとも二つの鉄塔を中央におさめて、送電線路が一目で若わかるようにする。縮尺は100mと表示されるサイズ。地図中央に2〜3本の鉄塔を配置する。ここでPrintScreentボタンを押すと画面のハードコピーがクリップボードに入るので、アクセサリーの「ペイント」ツールなどを使って貼り付けると、画面のイメージがそのまま取り込まれる。あとは必要な部分のみを切り出して保存する。これの繰り返しだ(本記事の末尾に80号と81号の位置を示した航空写真の縮小版を添付した)。

     さて、これでたぶん準備はととのったか。いや印刷だ。これが結構大変だ。カラー印刷で40〜45枚見当になる。ためしに80号と81号をおさめた航空写真を印刷してみた。悪くない。ただ全部印刷するのは手間だから読書の進行に合わせて必要な部分をプリントしていくとするか。

     そんなこんなを「たどり方(その1)」と称して記事にした。すると送電線ウォークを愛好されている方からコメントが寄せられた。実際にたどっている方と、単に書斎ならぬキッチンでPCを前に挌闘している人間とでは比較にならない。おのずと恐縮してしまう。でも鉄塔を愛好する方に読んでもらえるだけでもうれしい。サイトを覗いてみて、ヒントをもらった。なんと送電線が入った地図がウェブ上でみられるそうだ。

    [使うもの(追加)]
    (d)国土地理院の地図閲覧サービス(送電線路が入った地図)


     この地図をみると、はっきりと鉄塔武蔵野線の経路が確認できる。ここからはずれた鉄塔は間違いという事になる。僕の作成した「鉄塔武蔵野線」のマイマップとつきあわせてみると、さっそく72号鉄塔が送電線路から外れているのに気づく。この更正作業で最終的な修正ができそうだ。ただし、この(d)の地図は送電線が実線で書かれているが、鉄塔そのものは書き込まれていない。道がわかっても、やはり鉄塔の位置が不確定なものがある。(c)の対照表の住所とも合わない鉄塔も見つかった。どうしたらいいんだろう?これでとりあえず初版という事にして、なにか手がかりが増えれば、修正版を作ればいいか。

     そんなことをあれこれと試しているうちに、(b)のGoogleマップの航空写真から地図画面に切り替えて最大に拡大したら…、あれっ?びっくりだ!

     地図には鉄塔の位置を示す薄灰色の四角形が見える。しかも前後の送電線の方向がわかるように短い手(直線)が出ているではないか。だとすると、ここにGoogleのマイマップのピンを立てていけば、それで完成だ。武蔵野線全鉄塔を順にみていくと、ピンが微妙にずれてはいるが正しい位置にあるものがほとんどだが、この期に及んで間違った鉄塔に打ったピンもあった。これでようやく最終的な校正が完了したと思っていいだろう。ならば最初から(b)さえあれば充分だったのだろうか。

     思うに、(b)の地図に記載された鉄塔から延びた手を延長すると、代替においては次の鉄塔がユニークに決まる。それでも何故か次の鉄塔の手とハンドシェイクせず、平行線になってしまう(ずれている)ものもあった。この場合、やはり頼りになるのは(a)であり(d)である。もちろん(b)の航空写真やストリートビューも参考になるだろう。

     (c)の対照表に掲載された鉄塔の住所は、見つけ出した鉄塔が正しいかどうかの判定に用いてきた。だが、(b)の地図ではかならずしもカーソルの位置の住所が検索されない。地図を見ても町名や番地が確定しない。困ったのは39号鉄塔だ。(c)では「埼玉県狭山市上赤坂」と出ている。ところが39号鉄塔上では(b)で住所が検索されない。こういう場合は周辺をかたっぱしから住所検索してみるのだが、鉄塔は空き地(原っぱ)の片隅に立っていて、この空き地では番地が出てこない。左隣りは住居が隣接している。こちらの住所は「埼玉県狭山市掘兼」と出る。たしかに32〜38号鉄塔は「掘兼」にあった。ならば、対照表の方が間違っているのか?

    [使うもの(参考)]

    (e)Yahoo!地図サービス


     ヤフーの地図はなかなかのものだと、この作業を始めてから気付いた。そこで39号鉄塔について調べてみると、(e)でも鉄塔の位置がちゃんと表示されていた。そのうえ、(e)の地図には町名の区切りの点線が記入されていて、住居エリアには番地の数字が入っている。便利じゃないかぁ。やはり、39号鉄塔には番地が出ていない。しかし左隣りの住居群との間に点線が引かれていた。そうか、39号鉄塔は堀兼と上赤坂のほぼ境界に位置していたのか。これで安心した。39号は間違いなく「埼玉県狭山市上赤坂」が所在地だ。(c)の対照表は間違っていない。いらぬ疑いを著者・銀林みのるさんにかけてしまった。すみませんでした。

     これでとうとう地図が完成。自宅のプリンターに久々に活躍してもらって、鉄塔航空写真もすべて印刷した。そうこうするうちに、お盆休みも終わってしまった。もう見晴はアキラを連れて〈鉄塔武蔵野線の旅〉に出てしまった。さあ、僕も彼らを追いかけて「鉄塔の旅」へといざ行かん!
    鉄塔武蔵野線80〜81.JPG
    posted by アスラン at 12:56 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 鉄塔武蔵野線 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2009年08月17日

    鉄塔武蔵野線のたどり方(その2)

     どうやら、いろいろな道具立てをしてもダメなようだ。書斎派探偵に必要なのは確かな手がかりだけだ。

    [使うもの]
    (a)鉄塔武蔵野線MAP(ソフトバンク文庫「鉄塔武蔵野線」添付)
    (b)Googleマップ(地図+航空写真+ストリートビュー+マイマップ)
    (c)新旧鉄塔番号対照表(ソフトバンク文庫「鉄塔武蔵野線」の巻末)


    [たどり方]
     まず始点を決めよう。小説では永遠の始まりの鉄塔は75-1号鉄塔で、そこで初めて見晴は武蔵野線と出会い、おのおのの鉄塔に番号札がつけられていることに気づく。そして最初に終点となる81号鉄塔までたどる。であるからして、僕は81号鉄塔を始点にして遡ることにした。(a)のMAPは地図そのものが簡略なので、細かい位置関係は分からないが、大まかな始点決めと、鉄塔どうしの相対位置の確認には役に立つ。

     あるいは、(c)の対照表に全鉄塔のおおよその住所が付されているので、さきほどの81号鉄塔も「東京都西東京市北町」という住所を(b)のGoogleマップで検索してもいいだろう。いずれにしても、西武線保谷駅のやや上方に「武蔵野変電所」が見つかる。いっぱいに拡大した航空写真には変電所の施設と鉄塔らしきものがくっきりと映し出される。問題は鉄塔が3〜4本横にならんでいる点だ。このどれかが武蔵野線81号鉄塔のはずだ。

     (a)のMAPを見ると、送電線は左上方へと流れていくので、一番左端の鉄塔を81号と当たりをつける。最大に拡大した航空写真には、うっすらと送電線のすじが定規で引かれたように写り込んでいる。これをたどってゆくと、埼玉県新座市立第五中学校のうえの野崎マンションの向かいの空き地の隅に鉄塔がある。これが80号で間違いないだろう。念のため「この地図について」で地番を確かめると「新座市野寺4丁目4-41」と表示された。(c)の対照表の「新座市野寺」と合致する。なんだ、簡単じゃないか。

     関越自動車道の手前にある74号鉄塔までは、わりと順調に見つかった。いや「片山9号」あたりで迷った。なぜ迷うかというと、街中でもよく見かけると思うが、系統の異なる鉄塔が近接していて、さらには送電線がクロスしていたりするからだ。そうなると、どちらが本流なのかわからなくなる。一つ先の鉄塔が、一つ前と現時点の鉄塔との直線上にあるならいいが、急に送電線が屈折していたりすると、先を見失う。

     鉄塔は四角い結界がはっきり確認できるものもあれば、鉄塔そのものがよく見えるもの、見えにくいもの、全く見えないもの、さまざまだ。運が良ければ鉄塔が影を平面に落としている。見つけた鉄塔(あるいはらしきもの)が正しいかは、(c)の住所と合致するかで確認したいところだが、Googleマップの問題点として、番地が存在しないエリアがあるという点だ。その場合、番地が検索される最寄りの地点に勝手にピンを打って、その地点の番地を表示する。特に鉄塔が平野や畑、森などの中にある場合は、まず持って番地が表示されない。その周辺で表示されるところがあるか、埋蔵金掘りのような、あてのない作業を強いられる。

     どうやら、74号、73号、72号と進むルートを読み違えてJR武蔵野線手前の66号鉄塔にたどり着くまでに、まったく違う系統に迷い込んでしまったようだ。そこで、ここまでのトレース結果をGoogleの「マイマップ」に保存した。が、どうもGoogleマップは使いにくい。少し考えて、試しに「鉄塔武蔵野線」で検索してみる。すると同様の趣向に取り憑かれた人のマップがすでにあるではないか。もう、これで十分かと思ったが、まだ完成途中のようだ。それに、これが本当に正しいのかも確実とは言えない。しかし、参考にはなりそうだ。

     このマップを調べてみると、かなり正確であることがわかった。大いに利用させてもらおう。ただし、時々、どうしても鉄塔が見あたらないときがある。森の中に刺されたピンの先には何もない。本当にここでいいのか?あるいは先ほど説明した送電線の筋だが、何重にぶれていて、可能性のある鉄塔が2〜3見つかることもある。果たしてどれが正解なのか。81号からたどると、航空写真が最大まで拡大するが、あるエリアからめいっぱい拡大できないエリアになってしまい、鉄塔の確認がしにくくなる。さて、鉄塔はあるのかないのか。これでいいのか、それともあれか?

     次の手はストリートビューを利用する方法だ。航空写真をどんどん拡大していくとストリートビューに切り替わるところがある。もし鉄塔の近くで切り替わるのなら、上方に視点を向けて鉄塔の存在を確かめる。ただし、必ずしも鉄塔のわきまでストリートビューが見られる道があるとは限らない。その場合は別の位置に移動して、ストリートビューで家越し、林越しに鉄塔を見つける。時には家と家の間から、鉄塔を探し出す。これって、もう本当に現地を歩いて〈鉄塔探しの旅〉をしているかのようじゃないかな。
    posted by アスラン at 02:02 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(1) | 鉄塔武蔵野線 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2009年08月14日

    鉄塔武蔵野線のたどり方(その1)

     またまた今年も「鉄塔武蔵野線」の夏がやってきた。これまでに映画を見て、新潮社の単行本、新潮文庫を読み継ぎ、装いも新たに登場したソフトバンク文庫を昨年ようやく読み終わった。これで希代のファンタジー本「鉄塔武蔵野線」を味わい尽くしただろうか。いや、昨年の読書で心残りがあった。

     著者の積年の執念が実って、ファンタジーノベルス大賞受賞当時のオリジナル原稿どおりに、武蔵野線の全鉄塔のすべての写真を掲載した作品がソフトバンク文庫から刊行され、僕らは著者が表現したかった「鉄塔という世界観」をまるごと玩味できるようになった。しかも添付された鉄塔武蔵野線MAPで、著者と作中の少年・見晴がたどった武蔵野線の道程に思いを馳せる事もできた。

     一方で物足りなさもあった。添付のマップは武蔵野線全鉄塔の大まかは位置関係や距離は把握する役にはたつが、実際に畑の植物や森をかき分けたり、障害となる様々な人家や建物、道路や鉄道、そして川などの障害物を生々しく実感する事は不可能だ。もちろんそんな事は小説の本文から読んで想像を補えば十分ではないかと言う人もいるかもしれない。でもそうではないのだ。

     この小説の、いや、このファンタジー小説は、現実の「鉄塔 武蔵野線」と、小説の中の「鉄塔 武蔵野線」が同一でありながら、やはりそこに描かれている鉄塔の世界は、少年のひと夏の記憶の中にしかない仮想現実、ワンダフルワールドでしかない、という二重化したところが面白いのだ。となれば、究極は見晴や著者のように武蔵野線全鉄塔をたどるしかないのだが、それはさすがに時間も体力が許さない。なにより、少年というパスポートを失っているという現実が許してくれはしない。

     ならば、せめて可能な限り現実の鉄塔と小説の鉄塔との境界線上で疑似体験したい。昨年考えたのは、きちんとした地図を見ながら、どの経路を見晴が通ったのかを考えながら、小説を読もうという思いつきだった。しかもGoogleでは地図に重なるように航空写真が公開されていたので、これを武蔵野線に沿って縮尺を大きくして印刷しておけば、小説に添えられた鉄塔の写真と合わせて、見晴の体験が立体的になるのではないか。そんなことを考えながら昨年の夏は終わり、なんの準備もないまま今年も夏を迎えた。

     今年は天候が不順なせいで思いの外、夏らしい夏がやってこない。その間に「鉄塔 武蔵野線のたどり方」を考えた。

    [使うもの]

     (a)鉄塔武蔵野線MAP(ソフトバンク文庫「鉄塔武蔵野線」添付)
     (b)鉄塔武蔵野線MAPと重なる実際の地図
     (c)Googleの地図
     (d)Googleの地図(航空写真)
     (e)新旧鉄塔番号対照表(ソフトバンク文庫「鉄塔武蔵野線」の巻末)


    [たどる前の心得]
     鉄塔そのものの様子は、ソフトバンク文庫版に挿入された写真で確認する事が基本なので、今現在の各鉄塔の様子をGoogleのストリートビューを用いて確認することはしない。確かに、これからやろうとすることは、発表当時(1994年)の鉄塔の様子を閉じこめた写真と、15年後の2009年現在の鉄塔周辺の風景をつぎはぎするというムリな試みを承知でやろうとしている。その上で小説に封じ込められた鉄塔武蔵野線をできる限り幻視したい。

     著者・銀林みのるの解説によると、鉄塔は絶えず形を変えていくものであり、その意味では今現在の鉄塔の写真は、今回の「鉄塔武蔵野線をたどる旅」にとって不可欠なものとは言えない。鉄塔は、月日を経ると違う線の一部になってしまうこともしばしばだ。従って、発表当時の「鉄塔 武蔵野線」はすでに存在しない。だが鉄塔そのものが解体されて姿を消す事はほとんどないという前提で、今回の資料作りを行っていく。

    [たどり方]
     (a)のMAPと同位置の地図を(b)からコピーして、(a)の鉄塔武蔵野線を(b)の地図にトレースする。このとき、(e)を使えば各鉄塔のある住所のおおよそが分かる(番地はないが町名までは対照表に書かれている)。また(d)の航空写真を参考にすれば、ある程度の鉄塔の位置の詳細が分かるかもしれない。これらを丹念に調べる事で、鉄塔の位置をある程度確定する。
     (c)の地図を拡大印刷して、さきほど調べた鉄塔の位置を書き入れる。また、できれば同じ位置同じ縮尺の航空写真を印刷する。

     と、ここまで考えて(a)〜(e)をそろえた。いきなり躓いてしまった。(a)の「鉄塔武蔵野線MAP」の鉄塔位置がおおざっぱすぎて、それよりも拡大された地図上に鉄塔の位置をトレースする事が出来ないのだ。せっかく実際の地図のコピーを用意したが、そこから手詰まりになった。それにたとえば鉄塔の位置がトレースできたとしても、どうやら(c)の地図を印刷して、鉄塔の位置を書き込みまでに手順と労力がかかり過ぎるようだ。

     ではどうしたらいいのだろう?実は話はもっと単純だったのだ。鉄塔は、(4)の航空写真に写っているのだ。
    posted by アスラン at 03:00 | 東京 ☀ | Comment(2) | TrackBack(0) | 鉄塔武蔵野線 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2008年08月22日

    鉄塔 武蔵野線(ソフトバンク文庫版) 銀林みのる(2008/8/5読了) 

     「鉄塔 武蔵野線」は退屈な本だ。これまでに映画を観て、新潮文庫版を読み、さらに新潮社の単行本を読み比べた僕が言うのだから、確かだ。実際、本読みのブログのいくつかで「退屈だ」と書かれていた。その指摘は間違いではない。と同時に、それは決して本書の欠点ではないこともまた確かだ。むしろ、だからこそ、本書は「永遠の少年小説」の傑作なのだと断言しよう。

     確かに、この物語にはドラマチックなことは何も起こらない。鉄橋を渡った先に死体が隠されてもいないし、勇気や友情を試されることもない。父との確執もないし、離れて暮らす母に会いに行くなどという感動的な場面もない。ただ鉄塔をたどっていくだけの物語だ。これが退屈でなくてなんだろう。

     しかし考えてほしい。少年少女の頃の自分たちを思い返してほしい。夏休みのありあまるほどの時間の中で、飽きもせずに同じ遊びを一日中繰り返さなかっただろうか。大人の目からは無意味に見えたり無駄に思えることを何時間でも何日でもやることができたのが、少年時代の自分たちではなかったか。そして自分が決めたルールを「やり遂げる」ことが何よりも大事だった経験が、誰にもあるはずだ。そして、もう一度思い出してほしい。それは、果たして本当に「退屈」だっただろうか。

     「鉄塔 武蔵野線」は、傍観者の大人のままで読むかぎりは退屈だ。さらに少年少女の頃を懐かしむ〈かつての少年少女〉にとっては、半分楽しく半分退屈だ。しかし、少年少女の心をいまだに隠しもっている「永遠の少年(少女)」であるならば、「鉄塔 武蔵野線」は退屈であろうはずがない。背伸びすることのない等身大の夏休みの記憶が、この本にはぎっしり詰まっていることは約束できる。

     そして完全版というべき本書が、昨年ソフトバンク文庫から出版された。著者のあとがきに事情は簡単に書かれているが、おさらいしておこう。

     1994年の第6回ファンタジーノベル大賞を受賞した本作は、同年に新潮社から出版された。その際、受賞作に添付されていたおびただしい数の鉄塔の写真は、出版の諸事情からかなり割愛せざるを得なかった。1997年に公開された映画では、主人公の見晴は父を亡くした夏に面影を求めるかのように、前年の夏にやり遂げられなかった鉄塔の冒険を再開するというドラマチックなストーリーに変更された。

     映画の内容に触発された著者は原作に手を加えた。主な変更は2点ある。見晴とアキラに次いで第3の隊員ヤスオとのエピソードを加えた事と、冒険の終着点である日向丘変電所の地下には〈地球鉄塔〉なるものが隠されているというファンタジー部分をごそっと削除した事だ。レイアウトの点では、新潮文庫版は写真のサイズが単行本よりも小さくなっただけでなく、やはりスペースの関係で鉄塔の写真の多くを巻末にまとめて「武蔵野線全鉄塔」と題して掲載し、本文からかなりの数を削除した点が大きな変更だった。

     そして、今回の再刊にあたっての著者の最大のねらいは、受賞時の生原稿と同じように5枚一組で構成される鉄塔の写真を全部掲載するというものだ。その結果、本書では500枚以上の鉄塔やそれに付随した写真が掲載される事になった。これがどんな意味をもつかは本書を読めばすぐに理解できるだろう。新潮社版の書評でも指摘したが、これまでの単行本も文庫も鉄塔の写真が不完全で、かつ本文との同期が不十分だったので、鉄塔をたどっていく冒険の臨場感が写真からなかなか伝わらなかった。5枚一組の中には、鉄塔を見上げた写真だけでなく、その場から前後の鉄塔を遠望する写真も含まれている。まるでRPGゲームのワールドマップを歩いているような視点で、作中の見晴たちが見るものを僕ら読者は共有する事ができる。

     しかし写真掲載にこだわる著者のねらいはそれだけではない。人間が暮らす当たり前の風景に溶け込んで、日頃は目に見えない鉄塔という異形の存在が見える著者は、鉄塔を僕らの視界に取り戻すための思想そのものを作品に込めようとしている。そして500枚もの写真によって、鉄塔の世界観そのものを僕ら読者にまるごと提示しているのだ。だからこそ、著者はあとがきで自信をもって次のように語っているではないか。

    「武蔵野線全鉄塔の世界基盤が出揃った本が誕生する」


     それにあわせて「鉄塔 武蔵野線MAP」が付録としてはさまっているので、見晴やアキラがたどった道のりや距離感を都度測りながら読むという至福の体験が待っている。惜しむらくは「MAP」が簡易なものなので、実際にどんな建物や林や森を通り抜けていくのか書き込まれていない点がやや物足りない。しかし、次回は本格的な地図に「鉄塔武蔵野線」の配置を書き写して再読するという楽しみを思いついた。Google Earthやストリートビューを駆使したらもっと楽しいかもしれない。そして最終的には現地をたどりながら再読する、という究極の楽しみが待ち受けているような気がする。

     なお、本書は基本的には新潮文庫版を底本にしている。新潮社版・新潮文庫版・映画のそれぞれが異なる結末を持つわけだが、本書は新潮文庫版と同じ結末になる。鉄塔の全写真掲載に気を取られて、本文は新潮文庫版と同一なのだと思いこんできたが、この夏に読み出してみて冒頭から文章に手を加えられているのがわかり、驚いた。著者は完全版を出版するにあたって文章も推敲している。

     例えば、冒頭で「いつ終わるともしれなかった夏休みも後半に入っていました。」(新潮文庫)が、「長いように思っていた夏休みも後半に入っていました。」のように修正された。全編にわたって細かい修正が加えられているので、ここで逐一挙げるまでもないが、以下の3カ所には、かなりの文章が追加されて新たなエピソードが付け加わった。

    (1)第59号鉄塔で「女の人の裸の写真」が載った週刊誌を見晴が見つけて、アキラと「やらしいなぁ」と互いに言い合いになるエピソード(P.188-190)
    (2)第58号鉄塔近くの民家から、家に寄っていけと誘う耄碌した「鉄塔ババア」が出てくるエピソード(P.191-200)
    (3)第37号鉄塔で、「送電線パトロールの車両」に遭遇するエピソード(P.276-282)


     いずれも特に増やす必然があるわけではなさそうなので、推敲しているうちに著者の興が乗ってきただけの事かもしれない。あるいは鉄塔の写真をうまくレイアウトするために、鉄塔と次の鉄塔の記述が少ない部分に文章を手当したのかもしれない。いずれにしても、本書のあとがきで本文の修正については触れられていないので真相は不明だ。これ以上の詮索も無用だろう。

     それより今回、「MAP」を片手に「鉄塔 武蔵野線」の冒険に見晴・アキラとともに繰り出してみると、〈ドラマチックなことは何もおこらない〉などと言ってしまうのはおこがましいほど、ドキドキさせられた。著者は「鉄塔」の物語を書こうと思いついてから、モデルとなる鉄塔を東京都全域に何百基となく探し回った末に「武蔵野線」と運命的な出会いを果たしたと書いている。

     すると、現実の「鉄塔 武蔵野線」は、中盤の真夏の太陽が照りつけるあたりで、身を隠すところがなく自転車もこげない畑が続き、日が傾きかかるあたりで「のいち鉄塔」という枝番の鉄塔が正番と交互に出現して、僕ら〈鉄塔調査隊〉を苦しめる。そして日が落ちる頃合いに僕らの冒険を無情にも阻む「入間川」が姿を現すのだ。「鉄塔 武蔵野線」は「鉄塔のドラマ」を描くのに最適な鉄塔だったのだと、あらためて理解できた。いや、理解したのではない。
     
     この夏は、見晴と著者と僕とで確かに同じ鉄塔を見上げたのだ。

    (参考)
     鉄塔武蔵野線(新潮社版) 銀林みのる
     鉄塔武蔵野線(新潮文庫版) 銀林みのる
     「鉄塔武蔵野線」あるいはもうひとつの「電車男」

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    2008年03月31日

    東京鉄塔―ALL ALONG THE ELECTRICTOWER サルマルヒデキ(2008/3/28読了)

     今日店頭で見かけた斉藤美奈子「本の本」というこけおどしに分厚い書評本を何気なくパラパラめくってみたら、銀林みのるの「鉄塔武蔵野線」の短い感想にぶち当たった。なんという奇遇、いや予定調和ではないか。ちょうど僕のバッグの中には、「東京鉄塔」と「鉄塔武蔵野線(ソフトバンク文庫)」が入っている。〈鉄塔つながり〉で読み継いだら面白いんじゃないかなと思い付いたのだ。

     でも件の書評は一言「退屈だ」と言うものだった。「退屈だがスゴい」と言う評判から読んでみたら「スゴい」はなく正真正銘「退屈」だったと言うのだ。最近そういう感想をどこかで見かけたが、案外こういう「扇情的な印象」のみをあげつらう流行りのライターの声を真に受けたのかもしれない。断っておくが、この本を退屈だと言う人は間違いなく読み方を間違っているのだ。

     斉藤は、「鉄塔武蔵野線」の著者が鉄塔をたどるだけを延々描き、そのために中途半端に物語を導入し、しかも最後に取って付けたように「ファンタジーもどき」のオチを持ってきたと書くが、そう読めたならまず自らの読解力を疑った方がいい。例えば「ロンドン駅の何番線と何番線の間にマグル(普通の人間)には見えないホグワース行きの列車が止まっている」と明らかに現実の境目に幻想の入り口を設定するのがファンタジーにお約束の物語だろう。しかし「鉄塔武蔵野線」では、現実の鉄塔そのものがファンタジーの入り口になりうる事を著者は鮮やかに示したのだ。

     この作品以後、鉄塔は単なる鉄塔ではなくなった。「まさかこんなところに鉄塔があったなんて」と、見慣れた風景の切れ目から突如として出現した鉄塔にたじろぐ。いやしくも書評を生業にした者ならば、そのことに驚かなければならないはずだ。たかだか「退屈だ」などとそれこそ退屈な感想を漏らすとは彼女らしくない。

     さて、ここまで書いてきて肝心の「東京鉄塔」について一言も触れてないのはおかしいようだが、要はこう言いたいのだ。「東京鉄塔」は本当に「退屈」な本なのだと。ここに描かれるのは「鉄塔をたどる」ことそれだけだ。たかだか120ページ程度の薄っぺらな本の見かけからは想像できないほど、実は前半の鉄塔の美しい写真に比して後半の文章を読み切りことは難しい。読んでも読んでも次から次へと鉄塔と架空送電路をたどる文章が現れてくる。

     そして明らかにスペースの関係だからだろうか、対象となる鉄塔を微に入り細を穿つように愛情を込めて著者が描けば描くほど、鉄塔の写真がないことや、送電路を取り巻く土地勘がないことに物足りなさを感じる。著者が鉄塔になにを幻視しているか想像力だけでは補えない。そこがなにより読書を退屈にさせる。せめてすべての鉄塔が添付されていれば、どんなにか共感できたろうに。

     多少なりとも印象に残る鉄塔の写真はモノクロで文章に同居してはいるが、残念ながらどの送電路の何番鉄塔かは記載されない。これは同好の士たちへのガイドブックとしても不備ではないだろうか。

     実は元々あてもない散策が好きな僕としては、こういう趣向の本が嫌いではない。「鉄塔武蔵野線」に魅せられて、自分でも〈鉄塔〉が見えるようになった今、身近な送電路をたどってみたいという欲求がある。この本で描かれた魅力的な鉄塔を探してみたいという気もないではない。しかしこの本を片手に鉄塔をたどるのはちょっと難しい。

     しかし一方で著者の鉄塔をたどる旅は掛け値なしに「スゴい」。脚だけでなくバイクを使っているとは言え、東京の鉄塔をたどりつくそうというところは感動に値する。特に最後に東京都の水源でもあり、水力発電により電気の供給でも大元である大河内ダムにまで鉄塔をたどっていく文章は特に感動的だ。著者が言うとおり、まさにこれが「出発の鉄塔」なのだ。

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    2008年03月09日

    しまった!「鉄塔武蔵野線」やってたのかぁ

    〈「鉄塔武蔵野線」祭り〉
     「世界の涯てに」「鉄塔武蔵野線」(1997年7月5日(土))
     「鉄塔武蔵野線」あるいはもうひとつの「電車男」(映画評)
     鉄塔武蔵野線(新潮社版) 銀林みのる
     鉄塔武蔵野線(新潮文庫版) 銀林みのる
     鉄塔武蔵野線66号鉄塔を見たぁ!(ソフトバンク文庫版について)

     子供の相手をしながらママの夕餉の支度を待って、みんなでカレーを食べた。おいしいおいしい大満足で食後のひと休みをむさぼっていたら、あれぇなんか映画のワンシーンがテレビに飛び込んできて、そのままチャンネルを変えられてしまった。なんとなく気になったので携帯で番組表を調べたら「鉄塔武蔵野線」のタイトルが…。うぁぁぁ!19時からだ。すでに1時間が経過しようとしている。38チャンネルってどこだよ。さらに調べて〈テレ玉〉であることを突き止めた。とにかくあわてろ!

     DVDレコーダーを即座に立ち上げ、といってもなかなか立ち上がらない機種なのでじれったいが、とにかく立ち上げて録画登録をした。これで残りはとりあえず見られる。画面を見るとちょうどアキラが見晴と別れて暗くなった道を自転車で帰って行くシーンだった。ちくしょう、もうここまでやっちゃったのか。

     子供を寝かしつけて深夜になってから、残り48分ほどの映画「鉄塔武蔵野線」を見た。久々に見て、いまではテレビドラマの常連となって見慣れた伊藤敦史君の幼い顔がなんとも微笑ましく、改めて彼が主人公で良かったなぁと思いながら見ていった。

     僕は公開当時もテアトル新宿で見ているし、その後、原作も新潮社の単行本版、文庫版をそれぞれ読んだ。そして、映画、単行本、文庫の3通りのストーリーについてそれぞれに感想を書いて、このブログで紹介した。そしてもちろん昨年再出版されたソフトバンク文庫版の「鉄塔武蔵野線」も購入してある。夏に単行本をじっくりと読んだばかりなので読書のタイミングを逃してしまい、ソフトバンク文庫版は積ん読になっている。でも、機会さえあればすぐにでも読もうと思っている。

     シンクロニシティーと言うべきか。ちょうどいまサルマル ヒデキ「東京鉄塔」を図書館で借りられたところなのだ。著者はブログ「毎日送電線」のオーナーで、銀林みのるの小説のようなファンタジックな妄想ではなく、鉄塔のそのままの姿の魅力を書きつづったコアな愛好家が書いた本だ。そこへ来て映画が放映されたのだから、ソフトバンク文庫版「鉄塔武蔵野線」も引っ張り出して読まねばなるまい。

     久々に映画を見ると、ちょっと思い違いしてた事・忘れてた事などがあった。まずゴルフ場の敷地内にある鉄塔をたどって関係者に見つかって意気消沈した挙げ句、路線バスに乗ってしまうと、映画の感想で書いたのだが、今日見ると乗ろうとして「一号鉄塔までたどろうとする願いはついえようとしていました」という見晴本人のナレーションの後に、やはり乗らずに冒険を続ける見晴のシーンにつながった。そうか、結局乗らなかったんだっけ。

     そして送電線パトロールの職員に見つかりながらも逃げ切って、鉄塔を遡っていく見晴の姿に、おおたか静流の「SAJA DREAM」がかぶさる。これはアキラと一緒に旅を続けている映画の前半のシーンで流れるのだと記憶違いをしていたので、見ていて意表を突かれた。とともに、見晴のいじらしさと「SAJA DREAM」の郷愁を帯びた歌唱に揺り動かされて、おもわず涙が出てきそうになった。ああ、このシーンだけでも録画できて本当によかった。

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    2007年09月26日

    鉄塔武蔵野線66号鉄塔を見たぁ!

     9/20(木)は待ちに待った、あの小説の再刊の日だというのに行き帰りに寄れる書店をすべて覗いたのに見つからない。前々日から朝と夜の一日2回ずつ日参してきたのに、しかも前日19日の夜に行きつけの書店の新刊平積み台にスペースができて、ここのどこかにあの小説が埋まるんだなぁと感慨深げに、しかし待ちきれずに後ろ髪を引かれるように帰ったというのに、翌日になっても並ばない。

     仕方なく大手書店の検索サイトをアクセスしてみると、なんと「在庫在り」の表示が…。しまった、川崎に出ればひょっとして有隣堂で捕まえられたのかと後悔した。でもようやく21日(金)の夜には立川南口駅前のオリオン書房でゲットしました。あの抜けるような青空を背景に凛々しくそびえる鉄塔武蔵野線の勇姿がなんと誇らしげなことか!

     鉄塔 武蔵野線 銀林みのる(ソフトバンク文庫)

     つい最近まで、このブログで映画の事、単行本と文庫の結末の違いの事などなどを書評に書きまとめてきて準備万端整えて、新刊をお迎えできました。また読了したら改めて〈ソフトバンク文庫版〉の書評を書きたいと思う。

     ただ、速報的に内容を吟味すると、本文は僕の期待とは違って文庫版と同じようだ。本当は結末部分を削除していない単行本版の方が読みたかったのだ。

     しかしある程度予想はしてた。なぜなら今回の再刊で作者の主眼の一つは、単行本でも割愛を余儀なくされた鉄塔の写真をすべて盛り込んで完全版を目指すという事にあった。とすると文庫版で削除された結末部分に対応する写真はおそらく一枚もないはずだから、結末部分の有り無しは写真の補充にはなんの影響もないことになるからだ。

     写真について言えば、これは僕の期待どおりだ。5枚一組でひとつの鉄塔の風景を立体的に構成し、本文の中に入れ込んでいる。しかも単行本では小さくて見にくかった写真を、文庫の限られたサイズの中でうまく大小取り混ぜることで見やすくなるように工夫している。これで鉄塔探索の臨場感が格段にアップした。いいぞ!

     それに巻末に著者自身の解説やあとがきが用意されていて、今回の復刊にあたる経緯とメイキングが堪能できる。まだ惜しくて読んでいない。もちろん本文を堪能してから読もう。

     さらになんと武蔵野線は現在は姿を変えていて(といっても鉄塔自体が変わったわけではなく)、3分割されて別の名前を名乗っていることも巻末の解説で分かった。著者は全鉄塔の新旧対照表まで用意してくれた。これは凝ってるなぁ。

     でも驚きはそれだけじゃない。一番のサプライズは文庫に挟み込まれた一枚の地図だ。なんと「鉄塔 武蔵野線 MAP」というタイトルとともに、地図上に鉄道の路線のように〈鉄塔武蔵野線〉が描きこまれている。しかも出版当時の鉄塔番号が1号から81号までずらっと並んでいるのだ。

     これにはドキドキした。前からどこにあるのか確かめたくて仕方なかったのだ。しかも狂わんばかりに興奮したのは、マップの存在に気づいたのがまさにJR武蔵野線に乗ろうとしていたときだったからだ。最近、実家に通う必要があって、立川から東武東上線・大山駅をたびたび往復している。ちょうど武蔵野線の〈ある区間〉の風景が文字通りに武蔵野の自然を色濃く残していて、風景にはまりこんだ鉄塔を見るたびに、あの小説の鉄塔もこういうところにあるんだろうなぁと、なんと間抜けた事を考えていたのだ。本物だったんじゃないかぁ。

     地図で確認すると、武蔵野線の東所沢駅と新座駅の間で上空を〈鉄塔武蔵野線〉の電線が横切るはずだ。座っていたのにこらえきれずに立ってドアの窓越しに上空を待ち受ける。武蔵野線は平地に掘られた窪地を走ってところどころトンネルをくぐったりするので、送電線とクロスするところは見えないんじゃないかとハラハラさせられたが、新座駅に近づく頃には電車は土手の上を走り、両サイドの見渡しがクリアになった。

     新座駅に向かう進行方向右側に見えるのが66号鉄塔、左側が65号鉄塔だが、地図で見る限り66号は土手の間近にある。だから右側が絶好の鉄塔ビューポイントだ。すっきりしたやや小さめの男性型鉄塔が見えてきた。じっと結界を見下ろすように番号表示板を探すと「22」という数字が見える。文字は…。「武蔵野連絡線22」だ。あわてて文庫を繰ると、先ほどの新旧対照表に「66号鉄塔」は「武蔵野連絡線22」に変更されたとある。

     やったぁ、ついに「鉄塔武蔵野線」の実物を見たんだぁ〜。嬉しいなぁ。でも、少年の心に還っているおじさんの事を、車両の女子高校生も男子中学生もだれも気づいてないんだよなぁ。ヘンなおじさんだよなぁ。エヘヘヘ…。

    (参考)
     鉄塔武蔵野線(新潮文庫版) 銀林みのる
     鉄塔武蔵野線(新潮社版) 銀林みのる
     「鉄塔武蔵野線」あるいはもうひとつの「電車男」(映画評)

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    2007年09月20日

    アサッテの人 諏訪哲史

     たまたまだが「鉄塔武蔵野線」を読んだ後でこういう小説を読むと、〈文学〉とか〈芸術〉とか〈前衛〉といった言葉にこだわらずにはいられない。

     印象以上の根拠はあまりないのだが、この作品の著者と「鉄塔武蔵野線」の著者とは同じものを同じ手触りで見る〈感性〉が備わっているように思える。それを果たして感性と言っていいのか性癖と言えばいいのか、よくわからない。しかし二人のモノの見方が独特であることは確かだろう。それは作家と読者の違いというよりも、一作家としても独特だというべきだ。

     それは例えていうなら、あまりにジッと見つめていると地と図の反転・浸食・溶解などが起る〈ゲジュタルト崩壊〉を起こし得る感性とでも言えばいいか。すでに疑問の余地のない配置に収まった〈この世界〉が、彼らの前でもろくも崩れて大きな亀裂が走ってしまう。

     漱石の「門」(あるいは「道草」だったか)の冒頭で、主人公が妻にひらがなの文字の羅列をジッと見つめているとどうしてもそれが正しい文字の連なりに見えなくなると語る。漱石はもちろん、主人公が抱える生活上の不安と同時に、これから始まる〈何一つ片づかない物語〉の予兆といったものを暗示するためにこのように書いているのだ。

     しかし僕は、本書で描かれる〈アサッテの人〉になりうる資質が誰にでもあると言いたいわけではない。むしろ誰にしても病的に異常な心象を抱えこめば、〈この世界の亀裂〉を目の当たりにしておののくかもしれない。が、本書ではいたって正常な人物であるにも関わらず、ジッと見つめているとそこに今までそうとは思えなかったモノやコトを現出させてしまう。そういう特異な人物について語っている。これは能力、いや超能力と言うのがふさわしいかもしれない。

     銀林みのるが単なる日常の風景から〈鉄塔〉を現出せしめたように、諏訪哲史は単なる日常会話から「ポンパ」や「チリパッハ」「タポンテュー」といった一見するとなんの意味もない〈言葉〉を現出させる。ただし本当にこれらの言葉が無根拠で、僕らが今まさにしゃべっている日本語や日本という環境に無関係であるかと言えばそうではない。「タポンテュー」から僕らは滑稽なイメージを喚起されるし、「ホエミュウ」からは〈アサッテの人〉の妻が夫と交感できる唯一の言葉と感じたように、のほほんとした安らぎを感じさせる。つまり意味はないが言葉の色合いを感じる事はできるのだ。

     いみじくもギルバート・オサリバンの「アローン・アゲイン」の歌詞を〈アサッテの人〉が無意味な言葉へと翻訳したのとは逆の過程を経るように、本書の語り手・私(アサッテの人の甥)はなんとかしてアサッテの人の現出する無意味に見える言葉の意味を捕まえようとして格闘する。そして繰り返し繰り返し、叔父の言葉や人となりや内面を捕まえるための準備をし、文章におこす事で〈アサッテ〉というモチーフに接近しようと試みてついに挫折する。そういう物語だ。

     さきほど同じ感性をもつと書いた二人を隔てるのは〈小説〉という形式に対する信頼の度合いである。「鉄塔武蔵野線」の著者は鉄塔を語るために一編の物語に置き換えることになんら疑念を抱いていない。それは小説という形式を一般的な意味で信頼しているからだ。一方、本書の著者は小説という形式の持つ力や有効範囲に徹底的に自覚的だ。それは〈物語る〉という行為の限界をおのずと意識せざるを得ない。著者が群像文学賞受賞者の言葉として「前衛であろうとするには、読者を圧倒するような作品を送り続けなければならない」と野心をあからさまに語るのは、形式の限界を超えようとする著者の文学にたいする姿勢を端的に表している。

     プロの作家としてのキャリアを積むことを最初から封じ込むように「読者を圧倒する作品を書く事なく文学的営為を続ける作家たち」を、修練を成した読者の目線で批判する著者ではあるが、新人ゆえの暴言あるいは無分別とは取らないでおこう。10年後の貴方の姿を半分楽しみに、半分は冷ややかに見守る事にしたい。年月とはそういう意味では著者を含めた誰にとっても残酷なものなのだ。

     本書では失踪した叔父の行方を詮索する文章も、叔父の所在をあかす文章も、そしてなにより〈アサッテの人〉の謎を解き明かす文章も、ついに書かれる事はない。語り手で作家である〈私〉は、そういうありきたりの結末一切を書くことを放棄する。それは、その事が著者の言うところの〈読者を圧倒するような小説〉の結末としてふさわしくないと判断したからだ。

     そして実に意外性に富む「追記」あるいは付録が附される事になる。それは叔父の日記にはさまれた一枚の紙に書かれた図と走り書きについての追記だ。図は叔父が失踪直前まで暮らしていたアパートの居間の見取り図であり、そこに書き込まれたステップの位置と向きを示す星印と矢印をもった図。そして走り書きは、そのステップのリズムと位置とを正確にたどるための言わばマニュアルだった。その小説らしからぬ追記と、物語の結末らしからぬ〈見取り図と走り書き〉とに、確かに僕ら読者は圧倒されるだろう。

     ただし、一言蛇足ながら言っておこう。この「追記」を書いてしまった事によって、著者は小説という形式に対する信頼を奪還してしまったのだと。つまりは結末をもたない小説など書けない事を自ら証明してしまったのだ。この〈見取り図と走り書き〉こそが、小説という形式が未来に向けて用意しておいた〈物語の結末〉に他ならないのだと。

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    2007年09月16日

    鉄塔武蔵野線(新潮社版) 銀林みのる

     今年の夏はとびきり暑かった。照りつける日射しが暑ければ暑いほど、頭の芯を焦がせば焦がすほど、「鉄塔武蔵野線」を読み返そうという気になってくる。また今年も〈鉄塔の夏〉がやってきて終わろうとしている。

     忘れもしない。1997年の暑い夏にテアトル新宿で映画「鉄塔武蔵野線」を見た 。印象的なエスニックの音色のイントロから始まるおおたか静流の「SAJA DREAM 」が、ジリジリと焼かれた頭の中を何度も駆け巡って止むことがなかった。誰かと気持ちを共有したくて会社の同僚に勧めたが、陽炎立ち上る真夏の少年の気持ちを共有してくれなくてガッカリした覚えがある。まるでアキラに「帰ろう」と言われた見晴の裏切られた気持ちのように…。

     映画化から4年後の2001年の夏にようやく文庫で原作を読んだ。かつて読んだことのない鉄塔を題材にした物語は確かに面白かった。著者の無類の鉄塔オタクぶりは、見晴たちが遭遇する個性的な鉄塔たちの分類に如何なく発揮されている。例えば、3本が一組になる送電線をつなぐために鉄塔からは3つの継手が横に出ているのが基本だ。継手と電線を絶縁するために碍子という棒状の連結部品がある。この碍子が前と後ろに開いているのが「女性型鉄塔」で、下にぶら下がっているのが「男性型鉄塔」だと著者は名づける。鉄塔に性別があるという着想自体がユニークだ(しかしその理由もかなりユニークなのだ)。

     それ以外にも、電線を前後に送らずに急角度で曲げる場合は鉄塔の左右対称がくずれて変な形になることが多いので「婆ちゃん鉄塔」と呼ぶ。さらには別系統の電線を繋ぐための継手を増設したりした鉄塔は、なにやら〈仮面ライダーの世界〉を思わせるように「改造鉄塔」と名付けている。婆ちゃん鉄塔だらけの真賀田変電所周辺の謎に対して、68号鉄塔と69号鉄塔の間にあとから変電所を作ったので、送電線を迂回させるために婆ちゃん鉄塔が取り囲む事になったという見事な推理を見晴に語らせている。圧巻は、並外れて長身で紅白に塗り分けられている「怪獣鉄塔」だ。あまりの異形さに幼いアキラが思わずそう叫ぶのだ。

     見晴とアキラの冒険の決まりごとは、武蔵野線の鉄塔を番号が若い方へとさかのぼっていくこと。鉄塔の4つの足場で区切られた正方形の領域「結界」の中心に、王冠をつぶして作ったメダルを埋めていくこと。そして1号鉄塔の先にあるはずの〈原子力発電所〉を探索すること。これだけだ。

     だが冒険を魅力あるものにしているこれらの決まりごとを、容赦ない真夏の日射しと道なき武蔵野の田園が阻もうとする。ここが本書の面白さの核心であり、それは映画でも変わらない。ただし、映画では次から次と姿を現す鉄塔たちをモンタージュすれば見晴やアキラの憔悴は十分伝わったが、原作では1本も跳ばすことなくすべての鉄塔との格闘を描写していく。そのせいで、どうしても中盤の読書が中だるみしてしまう。

     特にアキラの自転車のパンクを直した直後の38号鉄塔から33号鉄塔までの記述は単行本にしてわずかに5ページしかない。そのあいだに鉄塔の写真が20枚近く挿入されているので、書く方の律義なこだわりに読む方が付き合わされているようにも思えてしまう。

     では何故著者は物語に必要な鉄塔だけを描いて、いらない鉄塔を省かなかったのだろう?

     答えは簡単だ。「いらない鉄塔」などないからだ。こうも言える。本書は「鉄塔を題材にした物語」ではない。「鉄塔を語るために作られた物語」と言った方が正確だ。

     そう考えると文庫版の書評で書いた「映画と違って何故4号鉄塔から1号鉄塔まで見晴自身でたどらなかったのか」という不満も言い掛かりに過ぎない事がわかる。見晴が一人で最後までたどるかどうか、それが亡くなった父への郷愁なのかどうか。そんな事は「鉄塔を語る」というモチーフの前にはどうでもいいことなのだ。映画の呪縛が長く解けずにいた僕には、それがなかなか理解できなかった。

     実は原作にも問題がないわけではない。昨年初めて単行本を読む機会があり、その際に単行本と文庫との違いをそうざらいした。文章の一部挿入や結末の大幅削除によって文庫版は中途半端な印象を与える事は文庫版の書評で書いたが、それ以外に鉄塔の写真やレイアウトの大幅な変更をおこなっている。これらの変更を詳しく調べているうちに、「鉄塔を語る」うえで写真が重要な位置付けにある事に気づいた。しかも単行本・文庫いずれにしても写真の扱いに問題がある事も分かった。

     単行本には全部で342枚もの写真が使われている。文章の途中に挿入されるか、あるいは頁上部に余白を多めにとって配置されるので、読者は鉄塔の姿かたちを確かめながら物語を読み進めることができる。ただし写真はモノクロだし小さい。「怪獣鉄塔」の紅白や「女性型鉄塔」を特徴であるジャンパー線のふくらみなども写真からはよく見えない。この点では、文庫の方が何枚か鉄塔の拡大写真を掲載しているので、女性型・男性型の違いや碍子連の形状などが見やすい。先ほど書いた真賀田変電所と婆ちゃん鉄塔の位置関係は、写真ではなく図を新たに入れるなどの工夫をしている。

     しかし文庫の良いところはここまでだ。単行本以上に制約が多いため、同じ数の写真を同じ配置で掲載することはかなわないのだろう。「武蔵野線全鉄塔」と題して〈鉄塔・結界・番号表示板〉の3枚一組の写真を巻末に集めて並べている。趣向としては悪くない。ただし、単行本では文章と写真とで立体的に構成されていた鉄塔の臨場感が、文庫版では失われてしまった。

     さらに言うと全鉄塔の3枚一組の写真では臨場感を再現しきれていないのだ。単行本では「結界から直前の鉄塔を見る」と「結界から次の鉄塔を見る」の2枚を加えた5枚一組で1本の鉄塔の風景を再現している。昔の素朴なアドベンチャーゲームのように前後に視線を切り替わるアイディアは面白いが、そうなると342枚では数が合わない。武蔵野線の鉄塔は81号まであるので、それだけで400枚を超えるはずだ。

     鉄塔以外に変電所などの写真も掲載されているから、5枚の写真をすべて載せていない鉄塔がかなりあることになる。ひとつの理由として、342枚もの写真を一般の小説に載せるという事が破格であるということが言える。もうひとつは先ほどの38号から33号のように1本の鉄塔の記述が短いと写真だらけのページができてしまうということ。さらには、僕が最初に感じたように、ドラマもないのに鉄塔一本一本の描写につきあわされるのがかったるいと感じる読者への配慮だ。〈結界から見える前後の鉄塔の写真〉などは省略しても構わないと出版社側が判断した可能性は高い。

     しかしこの夏に再読して思ったのは全く逆のことだ。映画の記憶から離れて改めて単行本の文章を読むと、鉄塔に関する文章は飽きを感じさせない。記述が短い鉄塔にしても、前後の鉄塔との違いを微細に語って尽きることのない著者のイマジネーションに感心してしまう。残念なのは単行本の写真では物足りないという点だ。減らせばスッキリするのではない。現地に同行して案内して貰っているかのような臨場感を得るにはあまりに鉄塔が小さく、色彩に乏しく、そしてすべての鉄塔の風景が揃っていない。まさにそこに原作の問題点がある 。

     もうすぐ僕ら〈鉄塔武蔵野線〉ファンが心待ちにしている新刊がSB文庫から出版される。「本の雑誌」8月号掲載のインタビューによると案の定、著者は単行本の写真には不満で、今回の再出版にあたっては出版社にオリジナルの原稿を見せて「こういうのをやりたい」と熱く語ったらしい。結果として文庫にもかかわらず500枚を超える写真が掲載されることになった。「小さいですけどね」とまだまだ本意ではないところもありそうだが、文庫として〈完全版〉を目指した著者の野心は期待したい。

     気がかりがあるとすると、今回の新刊の底本は単行本・文庫のいずれになるのかという点だ。オリジナル原稿(文章と写真)の再現を目指したという事であれば単行本が底本になりそうだし、僕自身もそれを期待したい。その理由も含めて単行本版と文庫版の文章の違いを最後に検討してみよう。大きく分けて以下の3点が文庫版との違いになる。正確に言えば、映画に触発された著者が、文庫化にあたって単行本版から変更した箇所だ。

    (1)第33号鉄塔探索にアキラより幼いヤスオという子供が同行する。(文庫P.173〜P.182)

    (2)ゴルフ場を追い出された直後に、見晴は挫折感から13号鉄塔を目の前にして国道を走るバスに乗って帰ろうとする。(同P.226〜P.228)

    (3)日向丘変電所の地下に〈地球鉄塔〉が隠されているという極めてファンタジックな描写が削除された。(削除箇所および追加箇所は同P.268〜P269)


     これ以外に本文に変更は見当たらないので、物語の大筋は単行本と文庫で変わらない。ではこれらはどういった意図で追加・削除されたのだろう。

     実は今回の書評を書き出すまで(1)の変更の意図がどうしても分からなかった。ヤスオという新たな登場人物を用意して、たかだか1本の鉄塔の探索だけに同行させる。これに何か伏線があるかというと何もない。エンディングで4号鉄塔から1号鉄塔へと遡る見晴が黒塗りの車の窓越しにヤスオらしき人影を確認するだけだ。

     そこで思い当たったのは、ヤスオが同行する33号鉄塔が一つ一つの鉄塔の描写が短くて写真がたてこんでいた箇所にあたるということだ。しかも僕が最初に読んだ際に中だるみしてしまった、まさにその部分なのだ。中だるみの原因は38〜33号鉄塔をたどる数ページにドラマらしいドラマがなくて鉄塔の説明に終始しているからだった。しかも文庫では写真すらない。ならばと、著者はここに〈小ドラマ〉を用意したのではないだろうか(ちなみにヤスオは映画には登場しない)。しかし中だるみの真の原因は先にみてきたように写真の問題に帰するのが正しい。そうであれば(満足のいく写真が挿入されていれば)、ヤスオのエピソードは蛇足に過ぎない。

     (2)は映画オリジナルの演出に従っている。伊藤敦史演じる見晴はカントリー・クラブを追い出されて、ショックのあまり思わずバスに乗ってしまう。なるほどこのシーンはエモーショナルなシーンで、著者が原作に取り入れたくなる気持ちはよくわかる。確かこのシーンではなかっただろうか。原作にもある見晴の名独白が観客の胸を打つ。

     
    鉄塔を見たい、鉄塔の足許に行きたい、鉄塔の結界に入りたい―そうわたしは願っているだけなのに、何故さまざまな柵や塀や壁が行手を遮るのでしょう?


     これは原作にある見晴の独白だが、映画の独白では〈無理解な大人たち〉も行手を遮る対象として加えられていたような記憶がある。そのいじらしいまでに切ない願いがひしひしと観る者に伝わってくる。とっても良いシーンなので文庫版の変更で唯一許せるところだ。

     (3)の大幅削除については、単行本と文庫を読み比べた事がある読者には賛否両論あるような気がする。その是非を問うには、やはり文庫版書評で提起した「映画と違って何故4号鉄塔から1号鉄塔まで見晴自身でたどらなかったのか」という疑問から始めなければならない。

     映画版の物語と結末を良しとする者(以前の僕)にとっては、4号鉄塔から1号鉄塔までを自らたどらないと見晴の成長物語は完結しないと思える。だとすると変電所に着いてからの見晴たちと所長との交流場面だけを削除しても意味はない。所長の招待に応じて黒塗りの車に乗った時点から、以降の物語は原作オリジナルのファンタジー(白昼夢)になってしまうからだ。映画とは物語が違うのだから結末は変えようがない。

     その上でなお、単行本の結末が冗長だという指摘はありうる。なにしろ黒塗りの車が見晴の自宅を訪れるところから見晴の白昼夢(ファンタジー)は始まり、81号鉄塔から1号鉄塔まで逐次遡っていき、所長から日向丘変電所が原子力発電所ではないと言い渡されるまでで見晴の夢見る結末はすべて果たされている。さらに言えば、著者の目的が「鉄塔を語る」事にあるという点でも、変電所構内にある1号鉄塔の結界にメダルを埋めたところで終わるのが妥当だと思う人もかなりいるだろう。

     文庫の解説でも「なるほど冒険の結果が…報われるくだりは、いっそはじめから割愛した方が、小説のテーマを際立たせるためにはかえって得策だったかもしれない。」と、解説者は結末の大幅改訂に無条件に賛同している。言わせてもらえば、こういうのを〈大人の言い分〉というのだ。鉄塔の存在を発見した文学性は評価するが、テーマから逸脱した〈地球鉄塔〉のくだりは著者の脱線だといとも間単に退けている。

     映画のモチーフに引きずられた著者が、現実から大きく逸脱しすぎて見晴の白昼夢におさまりにくい〈地球鉄塔〉のエピソードを割愛しようと決めたのは、おそらくこのような〈大人の言い分〉に自ら説得されたからに違いない。

     しかし単行本にあった〈地球鉄塔〉のエピソードをすべて削ってしまうのは惜しい。所長が何度もクビになりかけながら仕事の合間に鉄塔のパノラマを作り続けてきたことや、ホットチョコレートに酔ってイタズラで日向丘変電所一帯の停電を引き起こすことや、最後に武蔵野線全鉄塔が電線を含めて光に包まれるところなどは、〈小説のテーマ〉などというつまらぬ言い分抜きでイマジネーションに満ちたファンタジーだと言える。惜しむらくは〈地球鉄塔〉の原理を説明するためにあまりにSF色が強くなってしまった点だ。現実に存在する鉄塔たちと〈地球鉄塔〉を切り結ぶのは、あくまで子供らしいロマンティックなつじつまでもよかったのでないか。その点を除けば全部削除してしまうのは、僕は反対だ。

     さて、なんとか新しい文庫の出版に間に合った。これで現時点で観たり読んだりできる3つの「鉄塔武蔵野線」についてすべて検討したし言いたい事はとりあえず言い尽した。4つめの「鉄塔武蔵野線」はどんな姿になって僕らのもとに帰ってくるのか。今から本当に楽しみだ。

    (参考)
     鉄塔武蔵野線(新潮文庫版) 銀林みのる
     「鉄塔武蔵野線」あるいはもうひとつの「電車男」

    (関連作品)
     



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    2007年09月07日

    鉄塔武蔵野線(新潮文庫版) 銀林みのる

    今回の書評は2007年9月現在の完全版を目指している。本書の完全版書評は、この機会を逃したら永遠にやってこない。何故なら長い間絶版になっていた本書が、完全版とも言うべき内容でまもなく出版されると分かっているからだ。いったん新潮社から出た単行本と文庫がともに現在絶版状態で、今回はソフトバンク文庫から出版される。内容は著者曰く、日本ファンタジーノベル大賞審査当時の原稿の形態に近いそうだ。詳しくは後で触れるとして、この新版を待たずにこの書評を書き上げたい。

     実はここ数年、毎夏に本書を読んでいる。というか単行本を読んでは文庫本と内容をみくらべているのだ。今現在「鉄塔武蔵野線」には2つの物語と3つの結末がある。これは映画「鉄塔武蔵野線」を含めての話だ。

     事情は文庫版の解説に書かれている。まず第6回日本ファンタジーノベル大賞受賞した本作は新潮社から単行本として出版される。その後1997年に映画化され、フジテレビのドラマ「電車男」でブレイクする前の伊藤敦史少年が主演した。その際、ロケに道案内として同行した著者は、映画のストーリーに触発されて文章を一部付け加え、結末を大幅に削った。しかし、そもそも映画は原作の枠組みと鉄塔探しという趣向を取り入れた上で大幅に設定とストーリーを変えているので、結末もおのずと原作と異なる。つまりは映画と小説とで2つのストーリーが存在し、単行本・文庫・映画でそれぞれ3つの異なる結末が存在することとなった。

     僕は公開当時の映画に魅せられた。同じ夏にもう一度映画館に足を運んだくらいだ。あまりに映画の完成度が高かったので、長らく原作を読むことなど思いもしなかった。夏が来るたびにBSで放映されるのを心待ちするかビデオで借りるかして見ていた。

     映画が思うように見られなくなり読書三昧にシフトするようになって初めて原作を読む事を思いつき、当然ながら携帯しやすい文庫版を読んだ。びっくりした。主人公・見晴の鉄塔に対する愛情やマニアックなこだわりはとてつもなく面白いのだが、ストーリーの根幹は映画とは全然違っている。映画にズッポリとはまっていた僕にはその点が正直物足りなかった。ファンタジックなクライマックスに違和感を感じ、結末のあっけなさには肩透かしを食わされた気分だった。その辺の感想を映画評を中心に据えて以前に書いたことがある。

     その時点ではまだ単行本を読んでなかったので片手落ちの感想だと言われてもやむを得ない。その後、単行本を読んでオリジナルの結末に触れた。そしてまたまたびっくりした。文庫版では見晴の想像力が暴走するエンディングだったが、単行本では著者の鉄塔への猛執が暴走する。これにはちょっと呆れてしまった。単行本では多数挿入される鉄塔の写真のレイアウトについても不満があり、この時期は「映画、文庫、単行本」という序列が僕の中に出来上がっていた。

     しかしこの書評では3つを比較しつつも、映画と小説とは別物であって独立に評価すべきであると断定し、今最も僕が評価するのは単行本版である事を説明していきたいと思う。

     まずは最初に知った映画版「鉄塔武蔵野線」のストーリーを簡単に追ってみよう。

     小学生最後の夏、見晴は送電線を繋ぐ鉄塔に「武蔵野線72号」というプレートがついているのに気づく。これをたどればやがては「武蔵野線1号」プレートがついた鉄塔にたどり着くだろう。その先には何か不思議なエネルギーを生み出す秘密基地があるのではないか。見晴の空想は広がる。やがて日頃弟分にしている年下のアキラを引き連れて、鉄塔をたどる冒険の旅が始まる。

     自転車で出た二人を待ち受けていたのは、道なき田んぼや民家を我が物顔に横切って人を寄せ付けない鉄塔と、陽炎が立ちのぼる暑い夏の日差し。そして何より見晴たちの冒険に無理解な大人たちの心ない干渉だ。やがて日は暮れてゆき、遥か川の向こう岸に鉄塔を臨んでアキラとの蜜月は終わる。アキラを一人で返し自らは野宿して翌日も見晴は鉄塔を遡る。しかし目的地間近の4号鉄塔手前で見晴は鉄塔を管理するパトロールに保護され、唐突に冒険は終わる。

     意図的に映画独自の設定をはしょったので、ここまで書いてきたストーリーは映画も原作も変わらない。映画独自の設定とは見晴の両親を離婚させてしまうところにある。見晴が〈なぜ鉄塔をたどることにこだわるのか?〉という疑問に対して監督が用意した答えは、別居した父への思慕だ。そもそも映画では、鉄塔への興味を見晴に植え付けたのは父だという設定になっている。幼い見晴を鉄塔の真下に連れていって、耳をあてると聞こえるハム音は鉄塔がパワーを秘めている証拠だとうそぶく回想シーンがある。

     母の実家・長崎で暮らす事になる見晴にとっては、鉄塔武蔵野線の冒険は永遠に叶わぬ夢となるはずだった。しかし1年後の夏に父が亡くなり葬儀のために上京した彼は、再び4号鉄塔から冒険を再開する。既に中学生になった見晴を終着地へと突き動かすのは、少年の無邪気な冒険心だけではない。そこには母親では決して埋められない父親への郷愁がある。今は亡き父の面影を求めて見晴は1号鉄塔に、そしてその先に待ち受けている何かに出会おうとするのだ。

     映画版の設定がうまいのは、原作では小学5年生だった見晴を6年生に繰り上げて、4号鉄塔からの再チャレンジを一年後にした点だ。こうすることで少年から大人へと成長していく見晴を描く事が可能となった。単なるファンタジーではなく、誰もが経験し置き去りにした少年の日の追憶と郷愁とが僕ら大人の胸を熱くする。

     一方、文庫版を読むと冒頭で見晴の家庭になんら問題がないことがわかり、映画に慣れ親しんだ読者はのっけから勝手が違ってしまう。生まれたばかりの妹の存在まで明らかにされ、そのせいなのか新築の家に新学期を前にして引越すことが決まっている。つまり映画で描かれた父への思慕のモチーフは一切なく、子供から大人へという成長物語もない。単なる少年のひと夏の経験が描かれていくに過ぎない(ように見える)。

     これだけでも映画版に見劣りがするのだが、文庫版に物足りなさを感じる最大の原因はなんといっても4号鉄塔から1号鉄塔までを見晴が自らの足でたどらない結末にある。ゴルフ場に無断進入してまで敷地内の鉄塔をたどろうとした少年の一途な思いに感動した映画ファンから見ると、これは肩すかしの結末にしか見えない。しかも1号鉄塔の先には〈原子力発電所〉が待ち受けていると思いこむ見晴やアキラの無邪気さは、エンディングにおいて見晴の想像力に荒唐無稽な暴走を呼び込む事になる。

     冒険を打ち切られて無気力な夏の終わりを過ごす見晴のもとに、運転手付きの黒塗りの車とともに1号鉄塔を擁する日向丘変電所からの招待状が届く。これは見晴の心残りが産み出した白昼夢だ。その証拠に黒塗りの車は見晴を乗せ途中でアキラを拾い、武蔵野線の81号鉄塔から1号鉄塔までを人や建物や田んぼや道路に遮られることなく、〈信号に止められることなく〉遡っていく。鉄塔パトロールに保護されるまでが少年の体験としてリアリティをもっていただけに、ここにきてこの物語が少年向けのファンタジーであった事に改めて気づかされる。そのギャップたるや物凄い。

     そして文庫版では、終着地の日向丘変電所が所長の口から原子力発電所ではないと聞かされて、さあではどんな話が待ち受けているかと思ったところで物語はあっけなく終わってしまう。日向丘変電所で見晴とアキラが何を見たか、所長といかなる時間を過ごしたかは「ご想像にまかせる」の一文でやりすごされてしまう。ただしその晩に変電所一帯では停電があり、それは見晴たちと所長とのちょっとしたイタズラだったという思わせ振りな記述が書かれている。

     肩透かしなだけでなく何故かすわりごこちの悪い安定感を書くエンディングという印象をもった。そして解説を読んで、その原因が単行本の結末を削ったことによるものだと知って納得した。と同時に単行本を読まねばならないと感じた。

     以上は、数年前に文庫版を読んだ際の感想に基づいている。その後、単行本を読み、文庫版と比較するうちに見えてきたものがある。それは一言で言ってしまえば「鉄塔武蔵野線」という作品はまず鉄塔そのものについて書かれた文章であるという、当たり前の事実だ。ただし映画を先に見た僕にとって、その当たり前の事実を認識するには時間がかかった。映画の生々しい記憶が薄れて〈呪縛〉から解放される必要があった。また子供と週末にいくどとなく訪れた多摩川の河川敷で、改めて僕自身が〈鉄塔〉を再発見したという事も見逃せない理由になる。

     そこら辺の感想については、単行本版の書評を準備中なのでそちらに譲る。

    (参考)
     鉄塔武蔵野線(新潮社版) 銀林みのる
     「鉄塔武蔵野線」あるいはもうひとつの「電車男」

    (関連作品)
     

     
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    posted by アスラン at 13:10 | Comment(2) | TrackBack(0) | 鉄塔武蔵野線 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2006年09月08日

    珈琲と本のある風景(電車でカフェ気分)

     ちょっと前にこのブログで冷やし珈琲にハマッっている話を書いた。ドリップで淹れた珈琲をわざわざキンキンに冷やしておいて飲むと、アイスコーヒーなどを飲むより珈琲本来の味がひきたつし、なにより暑い夏に最適だと。

     すると今さら気づくのもなんだが、世の珈琲業界もそういう流れになっていて、無糖の缶コーヒーが増えて便利なようにボトルタイプに冷やし珈琲が増えていた。アイスコーヒーがおおむね加糖(微糖を含む)でミルクが入る場合が多い事を考えると、やはり珈琲そのものの味にこだわる人たちを惹きつけるのが冷やし珈琲だ。(といって「冷やし珈琲」などという分類があるわけではない。僕独断の用語だ。)

     そうなるとすっかりドトール通いも遠のいて、行きの電車の中で飲むのは、コンビニで買うドトールの「スーパーブラック」(ボトルタイプ)に落ち着いている。ボトルタイプのいいところは電車の中の席を選ばない点だ。缶にしても、ドトールなどで購入した珈琲類にしても、棚がないと落ち着かない。例の車両連結部脇の棚付きの座席の確保が急務なのだが、最近の仕事の忙しさで一本乗り過ごして席取りするような悠長な事をやってられない。その点、ボトルならばノープロブレムだ。

     それにしても冷やし珈琲ばかり飲んでいると、時にはアイスコーヒーを飲みたくなるのも人情で、座席の確保ができそうな場合はドトールに立ち寄る。ところがまたしても世のコンビニ業界の流行に乗り遅れていたみたいで、気づくとコンビニの珈琲飲料の棚に驚くほどの品揃えができている。

     こっちはプラスチックの容器入りで備え付けの折りたたみストローを上面に刺して飲むタイプだ。昨年だったかスタバがこの分野に参入してからカフェ系のラテの品揃えが増えているのはなんとなく気づいていた。しかし今やその品揃えは多角化して、軽井沢のミカドコーヒーだとか、大阪の名品コーヒーみたいなのもあり、ドトールにいたっては何故か「カフェオレ」と「アイスカフェオレ」が並んでいる。こうなると冷やして飲む商品なのにわざわざ「アイス」と断る理由も、普通の「カフェオレ」との味の違いも全然想像できない。

     とりあえず、夏が終わる前にかたっぱしから試してみようと思う。しかし何故か今日はわすれてスーパーブラックを買ってしまった。習慣とは恐ろしい…。

    珈琲のある風景0060731.jpg さて何故かコーヒー業界、コンビニ業界の話になってしまったが、それでは週末で読書をするには何をお供にすればいいのか。時間がないときは、大量に買ってしまったアイスコーヒー用の粉からドリップして2〜3人分のアイスコーヒーを作っては、氷を山盛りのカップに注いでは飲み注いでは飲む。ただしキッチンでの読書は暑いので、部屋ごとエアコンで冷やしては読書・アイスコーヒー・読書・アイスコーヒーだ。

     時間があれば、といっても滅多にないが、あれば、鞄に本を詰め込んで(そんなタイトルの本があったな)、駅前のUCCカフェプラザに飛んでいく。夏場でなければ炭焼珈琲が定番なのだが、夏ともなればやはり珈琲専門店ならではのアイスコーヒーが定番。でも今年の夏はこれにアイスが乗ったコーヒーフロートが定番になってしまった。

    珈琲のある風景0060813.jpg あまっちょろい内容の「ダヴィンチ・コード」だって、甘〜いコーヒーフロートを飲みながらだったら、手軽なミステリーツアーにつかのまのひとときを過ごしてみようという気にもなる。ちなみにこの時のは、UCCカフェプラザこの夏オススメの「ほろ苦冷珈琲」だった。入っている氷が、珈琲入りなのだ。ちょっと美味しそうと試してみたのだが、意外と最後に残るシャリシャリのシャーベットが肝心の珈琲を吸ってしまって美味しくない。

     それ以来、シンプルに(どこがシンプルだ!)コーヒーフロート一本槍になってしまった。次の機会は「トンデモ本の世界」を読みながらというこれまたトンデモない本を読書に選びながら珈琲を愉しむ。長めのスプーンで珈琲とミルクの中に浮かんだ円盤形のアイスを書き出して食べていると、自分もとんでもない宇宙につかのま連れ去れてしまうような、そんな気分になる(わけないか)。

    珈琲のある風景0060903.jpg 最後の1枚はごく最近の風景で、この夏の締めとして鉄塔武蔵野線を再びフューチャーしてみようと思っている。昨年は映画「鉄塔武蔵野線」の主演が、「電車男」の伊藤敦史君だった事をとりあげてタイムリーな話題に関連づけて作品を紹介したのだが、今年は鉄塔武蔵野線の面白さそのものをうまく紹介できないかと考えている。

     単行本と文庫が並んでるコーヒーフロートと一緒の画におさまっているのには理由があるのだ。本当はお隣にあるTSUTAYAで映画「鉄塔武蔵野線」のDVDも借りてきて3つを並べてみたかったのだが、残念ながら見あたらない。多摩地区最大の品揃えと宣伝しておきながら、この作品がないのは情けない。職場近くのTSUTATAをあたってみようか。

     どちらにしてもこの3つはどれも内容が少しずつ違うのだ。どれか面白いかも面白がるポイントによって変わってくる。そこのところはまた近々まとめて書きたいと思う。それより次にコーヒーフロートと一緒の画におさまるのは一体どんな本だろう。

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    posted by アスラン at 03:43 | Comment(4) | TrackBack(0) | 鉄塔武蔵野線 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2005年08月21日

    映画「鉄塔武蔵野線」あるいはもうひとつの「電車男」

     TVドラマの「電車男」が佳境に入ってきた。毎週念入りに見ているわけでもないのでドラマの出来不出来を言える立場ではないが、僕としては結構面白い方向に原作(あれは原作と言えるのかな?)をもっていったと感心している。

     「がんばっていきまっしょい」の小説・映画・ドラマの比較をしたときも書いたが、メディアのそれぞれの性質が違うのだから、同じものを同じように描いても感動できるとは限らないのだ。たとえばキャスティングひとつとっても、そのドラマの方向性が大きく変わってしまう。

     様々なメディア(映画、舞台、朗読、マンガなど)で様々な「電車男」が描かれたが、僕の見た限りでは「いい男」にヲタクの皮をかぶせるキャスティングが圧倒的だ。つまり原作の秋葉系ヲタクがネット仲間の助言でなんとか見られるファッションや髪型を整えた上で、なお中谷美紀似のエルメスを最後にはゲットできたのには、やっぱり元がそこそこよかったんじゃないの?という勘ぐりと、本当にヲタクそのものではドラマにならないという演出サイドの逃げがあると思う。

     その点、TVドラマの電車男・伊藤敦史は、本人には申し訳ないがヲタク度120%というくらい感じが出ている。彼なしにはこのドラマの成功はなかっただろう。もちろん、彼を起用した上で、エルメス(伊藤美咲)に大きくフォーカスをあてたドラマに再編するという視聴者向けの配慮も忘れない。ここがテレビ局のしたたかさというやつだ。

     それはさておき伊藤敦史とくればなんと言っても、この映画を忘れてはいけない。「鉄塔武蔵野線」である。彼は映画「海猿」でおなじみになり「電車男」でブレイクしたように見えるが、知る人ぞ知る子役からの芸歴をもつ。「とんねるずのみなさんのおかげです」の仮面ノリダーのコーナーでチビノリダーを演じていたのを知る人は多いだろう。しかし電車男・伊藤のヲタク度120%と、何かにひたすら真剣になる一途さ・純情さの原点となっているのは、「鉄塔武蔵野線」の主人公・見晴なのだ。

     小学生最後の夏、見晴は送電線の鉄塔に「武蔵野線72号」というプレートがついているのに気がつく。そしてこれをたどればやがては「武蔵野線1号」プレートがついた鉄塔があるのだろう。そこには何か不思議なエネルギーを生み出す秘密の基地があるのではないか。少年の空想は広がる。やがて日頃弟分にしている年下の暁を引き連れて、二人の鉄塔をたどる冒険の旅が始まる。

     原作は銀林みのる「鉄塔武蔵野線」(新潮文庫)第6回日本ファンタジーノベル大賞受賞作である。著者の銀林みのるは無類の鉄塔オタクで、原作は単なる小説というだけでなく武蔵野線のすべての鉄塔の写真が入り、それぞれ形態別に分類してあったりして楽しい。鉄塔には男型と女型があるとは著者の創見なのだが、映画でも見晴が暁に向かって自慢げに説明するシーンがあって面白い。

     少年たちの冒険には見晴が決めたルールがある。武蔵野線の鉄塔を番号をひとつひとつさかのぼる。たどった証しとして、つぶしておいたビールの王冠を鉄塔の真下に埋めていく。それが少年にとっては冒険そのものであり、ハタ目にはばかばかしくも達成感がある行為なのだ。

     しかしこの冒険は予想以上に大変であることが見ている僕らにも分かってくる。自転車で出た二人を待ち受けていたのは、道なきところを我が物顔に横切っていく送電線と無関係な人を寄せ付けない鉄塔という現実だった。

     ある鉄塔はまわりを高いフェンスで囲われ、ある鉄塔の真下はコンクリートで固められている。広い田んぼの真ん中に鉄塔が立ち、泥だらけになって丈高い稲をかき分ける。挙げ句の果てがゴルフ場の広い敷地内に設置された鉄塔をたどるために、無断進入を試みて係員に追い回されたりする。なんと少年の一途な事だろう。

     武蔵野の田園風景。農家の人影もない夏の日の高い時間帯。ひたすら田んぼを横切る見晴の姿に、おおたか静流の唄「SAJA DREAM」がかぶさる。立ちのぼる陽炎の向こうに幻のような世界が広がっている気がした。忘れていたあの少年の日の熱い思いがこみ上げてくるようなシーンだ。

     やがて二人の冒険は終わる。年下の暁の自転車がパンクし、まだ半分しかたどってないというのに日は落ちてしまった。さらに鉄塔は川をへだてた向こう岸にある。ホームシックにかかった暁を返して見晴は野宿する。

     何故ここまで見晴は鉄塔をたどることに固執するのか?
     何故ビールの王冠を真下に埋めるのか?

     映画では、別居した父との数少ない想い出として、幼い見晴を鉄塔の真下に連れていった父がブーンと聞こえるハム音が鉄塔に秘められたパワーだと教えるシーンが描かれている。母親では埋められない父親への郷愁が、見晴を終着地へと突き動かしている。

     思えば暁と年若いおしゃれな母親との家庭も父親の姿が最後まで見えない。この映画は不在の父親を追い求める少年たちのドラマでもある。1年後の夏に訪れた時、暁の家に人が住む気配がなくなった事が描かれ、不在の父親のテーマがさりげなく強調される。

     4号鉄塔にたどり着く前に鉄塔を管理するパトロールに見晴は保護され、唐突にしかも目的は達成されないまま冒険は終わる。母の実家・長崎で暮らす事になる見晴にとっては永遠の終わりとなるはずだった。しかし1年後見晴の父親が亡くなり葬儀のために上京した彼は、再び4号鉄塔から冒険を再開するのだ。

     1号鉄塔には何があるのか?原作では原子力発電所があるだろうというファンタジーの世界が描かれる。しかも著者の分身である見晴の空想はどんどんエスカレートしていき、暴走を始める。そもそも鉄塔武蔵野線探求というノンフィクションからファンタジーへと方向を急激に変えながら、あくまで少年のひと夏の冒険を少年たちにとって夢のある終わらせ方にしようとする。

     しかし映画では見晴の冒険は単なる夢ではない。すでに中学生になり大人の顔をもった少年が探し求めるのは父の姿だ。亡くなってしまった父はここにはいない。1号鉄塔のある秘密のパワーを送り出す源。そこに父の面影をひたすら求めて見晴は鉄塔の旅を続ける。

     1号鉄塔は、緑深い小高い丘の中の変電所の敷地にあった。しかし今度ばかりはゴルフ場の時のようには忍び込めない。呆然として引き返す見晴はラーメン屋で食事をとる。そして、あぁ、なんということだろう。こんな夢のようなシーンを用意してあるとは…

     いままでほろ苦くせつない少年の旅に寄り添ってきた僕らは、きっとこのシーンで少年と一緒になって夢見るだろう。少年の想いがいっぱい詰まった夢を僕らも一緒になって見るのだ。

     あの少年だった日に帰って。
     あの少女だった日に帰って。

     どんなラストシーンが用意されているかは、ぜひ映画を観て確かめて欲しい。原作しか読んでない方はぜひ映画も観て欲しい。原作は原作として映画はまったく違った感動を用意しているから。
    鉄塔武蔵野線 [DVD] - 伊藤淳史, 内山眞人, 菅原大吉, 麻生祐未, 田口トモロヲ, 長尾直樹, 銀林みのる, 伊藤淳史
    鉄塔武蔵野線 [DVD] - 伊藤淳史, 内山眞人, 菅原大吉, 麻生祐未, 田口トモロヲ, 長尾直樹, 銀林みのる, 伊藤淳史
    posted by アスラン at 02:07 | Comment(9) | TrackBack(4) | 鉄塔武蔵野線 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする