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2006年12月30日

「SHE'S HAVING A BABY〜卓也と涼子の場合〜」あるいは感傷的な時代の物語

 普段映画ばかり観ていて舞台を観るのは久し振りだ。

 舞台をどうしても敬遠してしまうのは、役者が目の前で演じているという生々しさが苦手だからだ。ひとたび役者がセリフをとちったり不自然に間があいたりしたものなら観ている自分が緊張してしまい、ストーリーに集中できなくなる。映画だとそういった心配はないので安心して最前列で観る事ができる。正直言って今回も嫌な予感を持ちつつも、森川智之大ファンの友人にそそのかされて(でも決して嫌々ではなく)観に行った。当然ながら最前列ではない。

 結論から言ってしまえば今回の公演は最後まで緊張する事なく楽しめた。それはおそらく分かりやすいストーリーとストレートな演出のせいだと思う。何より「とら猫のビンゴ」だとか野口五郎の「君が美しすぎて」といった 70年代の風俗が出てきたために、妙に感傷的になってしまったからだ。

 あの会場で「とら猫」が「黒猫のタンゴ」だと知ってる観客が何人いただろう。「僕の心を乱さないで間違いが起こりそうさ」と歌う野口五郎をお茶の間のテレビで家族みんなで見ていた事を会場の若い子たちに想像できるだろうか。そんな70年代の気分に浸りつつ、作者に本当に共感できるのは自分達だけだという変な優越感を持ちつつ、次第に劇に熱中していった。最初の嫌な予感は杞憂に終ったわけだ。

 ストーリーはありふれていると言えばありふれていて至極シンプルだ。欺瞞的な大人の世界を幼い頃に知って拒否した少年もやがて大人にならざるを得ない。家族を持ち生活を守るために、本当の思いを呑み込んで卓也は一度は拒否した大人の世界に入っていく。しかし頑張れば頑張る程、守ろうとした幸せは遠のいていくように思える。卓也も涼子も互いを思いやるが故に会話が少なくなる。「赤ちょうちん」「神田川」の映画でおなじみのストーリーで、いまどきの劇にしては感傷的にすぎる気もする。

 卓也が涼子との生活を守ろうと何かを犠牲にするシーンでは、あきらめの笑顔の後に表情がこわ張る。これはあの「卒業」のラストシーンで花嫁を奪って逃げるダスティン・ホフマンを思い出させた。非常にナイーブでかつシニカルな内面を演出する事でセンチメンタルな劇に歯止めがかかっている。

 さてラストで出産を乗り越えた事で二人は本当に幸せをつかんだのだろうか。子供が生まれた事ですべてが解決すると考えるのはあまりに安易だ。しかしかたくなに歌う事を拒み続けた卓也が、生まれた子供のために子守歌を唄う気になった時、彼の心の中で何かが変った筈だ。それは拒否するものが彼の外にあるのではなく自分の心の中にしかない事に気づいたからかもしれない。そしてそれは自分にしか変えられない何かなのだと。大人になるという意味は本当はそこにしかないのだ。

 最後に気がついた事を挙げておく。

 山の手アパートを取り巻く人間模様は、新興宗教ありワイドショーずれした女性ありで非常に今風で面白かったが、大屋さんのフケ役はちょっと見ていてつらかった。どうしても演じている人との年齢にギャップを感じてしまう。こういうところが最初に言った生々しい部分で、途端に熱中できなくなる。

 神田役の人の演技は素晴らしかった。会社をやめて流しをやるあの訳の分からないキャラクターを見事に演じていた。ああいうキャラクターは好きだ。

 ラストで卓也が涼子に寄り添うシーンで暗転となり、暗転明けで突然終りになるのがちょっと気になった。終ったのかどうかしばらく分からずに間が開いたので気分が今一つすっきりしない。せめて暗転明けに構図を変える工夫が欲しかった。

 蛇足だが一緒に来た友人から毎日のように森川智之の写真は見せられていたので、ミッキー渋谷が出てきた時に「随分印象が違うなぁ。写真うつりがいいんだな、森川って」と思って見ていた。品川剛が出てくるまで自分の間違いに気づかなかった。ごめんなさい(どちらに? もちろんお二人に)。だって髪形が似ていたんだもん。

 さらに蛇足だが、近頃カラオケにいって友人が「君が美しすぎて」を歌った。若い女の子が例の「間違いが起りそうさ」の歌詞を聴いて「何故、間違いが起きちゃ駄目なの?」と不思議がっていた。やはり過去を振り返る事は感傷にすぎない。

ひらめき
 最近、この舞台を誘ってくれた森川ファンの友人に「ネオロマンス・フェスタ アンジェ舞踏会(パーティ)」のパンフを見せてもらいました。そうそうたる声優陣の中に平川大輔さんの立派な姿が…。思えば、この舞台で初めて彼を見たときに器用に「不器用な青年(卓也)」をこなす人だなあと思って見ていました。あの時の平川さんには今のブレイクした自分は見えていたのかな?僕は実力はあるのにとは思ってましたが、ここまで来るとは想像してませんでした。友人と二人して「感無量」をかみしめました。

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グループ満天の星第5回公演「SHE'S HAVING A BABY〜卓也と涼子の場合〜」(1998年2月1日(日))

 会社のYさんに誘われて久々の演劇を観ることになった。大塚にあるジュエルホールという小劇場で「グループ満天の星」の「SHE'S HAVING A BABY〜卓也と涼子の場合〜」を観る。

 幼い頃に歌手だった卓也は、大人の世界を拒否するために歌手をやめ歌う事さえしなくなる。しかし成長して恋人涼子と結婚して、生活のために否定していた大人の世界に飛び込んでいかざるを得なくなる。何かを犠牲にしているという思いを呑み込みながら互いの幸せを守るために生きてゆく。時が経過する中でそういったシーンが繰り返される。

 現状の幸せをなんとか肯定しようとする主人公のこわ張った笑顔を見ると、あの「卒業」のラストで花嫁を奪った直後のダスティン・ホフマンの表情が思い出された。

 こういったナイーブな描き方が、ともすると感傷的に流れる内容に歯止めをかけている。

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2005年07月13日

ささやかながら「グループ満天の星」の解説

 ファンでもないので解説もへったくれもないが、ファンである僕の同僚の言葉をそのまま引用させてもらえば、

「グループ満天の星」は、森川智之が座長をつとめる演劇ユニットです。

で、ここからが蛇足だとは思うが、僕のサイトを見に来るほとんどの人が彼を知らない可能性があるので、言わずもがなの事を書くと、

森川智之(もりかわとしゆき)は、声優兼ロック・ヴォーカリストである。

 声優としての彼の代表作などを列挙するのは僕の手にあまるのでやめておくが、アニメ多数の他に最近では洋画の吹き替えも多数やっていて、「スターウォーズ エピソード1〜3」のオビワン・ケノービ(ユアン・マクレガー)の吹き替え版を担当していると言えばわかりやすいだろう。

 で、さらに蛇足だが、「グループ満天の星」メンバーには平川大輔がいるが、彼は「ロード・オブ・ザ・リング」のレゴラス役で一躍注目されるに至ったが、僕が彼の演技に注目していた1996〜1999年の公演時にはまだ無名だった。僕の書く公演レビューに現れる「平川さん」はすべて平川大輔の事である。

 最後の最後にまたまた蛇足だが、グループ満天の星は、2001年の第9回公演「21世紀タイガーアミーゴ」を最後に現在、活動休止中である。
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「サンタより愛を込めて」あるいは平凡な日常にひそむ奇跡

 最初から結論というより素直な感想を言わせてもらえば 「とても面白かった」と言う以外にない。だから今回は褒めちぎる事に終始したい。

 まずタイトルがいい

 「サンタより愛を込めて」、何て平凡で身も蓋もないタイトルだろう。こう思ったのは僕だけじゃない筈だ。だが、この平凡なタイトルに油断していた僕は、後でうかつにも涙ぐむ事になってしまう。

 平凡な日常にひそむ奇跡こそが今回の舞台のテーマであればこその、このタイトルだ。ここに作・演出者の並々ならぬ策略が感じられる。たかがタイトルと思うなかれ。「ラブアニマル」という意想外のタイトルの思わせ振りに比して、内容が肩透かしだった前回の公演の事を思えば、今回のタイトルの大胆さがよく分かるというものだ。

「罪と罰」で始まるところがいい

 ロシア文学で、しかもドストエフスキー。読書好きでも今時読んでいる人は少ないから誰もどういう話か知らない。僕も実は読んだ事はない。ツルゲーネフの「初恋」はお決まりで中学の時に読み、トルストイの「アンナ・カレーニナ」は映画の中のソフィー・マルソーの美しさに惹かれて、最近とうとう読み切った。それでも「罪と罰」はちょっとなぁ。

 そんな未読の観客の後ろめたさを知ってか知らずか、冒頭からいきなりテンションの高い芝居が始まる。えらいこっちゃ、今回は「ラブアニマル」以上のシリアス・ドラマだぞ、と最前列にいる一観客はひとりごちる。

 柊丈一郎役の平川君の目付きが完全にイッてしまってる。これはイカン、目を合わせられない。相手役の武田さんもいつになくシリアスだ。これは全く予想外の展開だ。こんな筈はない、このままではイカン、観ている方が持たない、などと頭が混乱して来たところに、ついに極め付きの出来事が……。

 やってもうた、武田さんセリフ飛んだぞ。やっぱりなぁ、初日から気合い入れ過ぎが祟ったんだ。やっぱり似合わない事はやるもんじゃないぞ、などともうパニック寸前に陥ってしまって、舞台練習というオチがついた時にはまさに心臓バクバク状態だった。自分で言うのもなんだが何て純情な観客だろう。こうして脚本家の思う壺にいきなりはまってしまったのだ。

「罪と罰」を毎年公演する小劇団という設定がいい

 そんな劇団がある訳がないと思いつつも、もしかしたらどこかにあるかもしれないというひとつのファンタジーと、昔から変わる事なくずっと続けてきたのだという郷愁を誘うような懐かしさが感じられる。

 吉田秋生の「桜の園」をふと思い出した。「桜の園」を毎年公演する女子校の演劇部。毎年演じる事の退屈さの中に、今年もまたいつもどおり上演できる事の不思議な安堵感とほんの少しの新鮮さとに包まれてしまう舞台。それが演劇の魔法であり、それが「罪と罰」さえも毎年公演できてしまう理由なのだ。

 とは言え、やっぱり今年は違うものをやりたい、という展開がいい

 「桜の園」では毎年3年生が入れ替わり演じるのだから新鮮味もあるというものだが、同じメンバーで同じ題目を毎年やるのは郷愁もへったくれもない。だから喜んでいるのは主役に抜擢された杉田朝夏だけな訳だが、彼女さえもが歌を唄うのがイヤでやりたくないとごねる。

 踊りはブロードウェイ仕込みという彼女が歌は下手という設定は、まるで「ダンシング・ジェネレーション」のアイコだなと思いつつ、武田さんが言い訳する時にみせる照れ笑いは、どう見ても演技じゃないなと思わずチャリを入れたくなる。そんでもってなんだかんだ言っときながら平川さんとのコンビによる、「ロミオとジュリエット」見まごうミュージカルを見せてしまうところが、やっぱりおちゃめだ。

 そういう訳で(どういうわけ?)、 出演者どうしがいがみあっているのがいい

 大映テレビのドラマじゃないが、ささいなわだかまりをきっかけにして互いが憎み合ってしまう。咽喉を痛めて主役を降板した杜岡りなと、主役に抜擢されたばかりかりなと別れた柊とくっついた杉田朝夏との反目。朝夏と付き合いながらりなの事が思い切れない柊。そしてりなを慕うあまり杉田も柊さえも憎んでしまう真理子。この三角関係ならぬ四角関係におけるそれぞれの思惑がよく描けていて楽しめる。
特に真理子の立場が微妙にずれていくところが面白い。

 描かれてはいないがおそらくは柊とりなを妹分として慕っていた彼女が、二人が別れたのをきっかけにして一方的にりなに同情するようになる。ここには姉妹の関係というより仄かな恋愛感情の存在が感じられる。だからこそりなを悲しませる原因である朝夏を憎むようになる。同時にりなに冷たいからという理由で柊を責める真理子に、あどけなさと残酷さが同居している少女の姿が見事に描かれている。

 またしても優柔不断な男を好演している平川さんの演技がいい。

 「優柔不断やらせたら日本一」なんて果たして褒め言葉になっているだろうか。

 「罪と罰」の若者から浮浪者のクロさん、果てはバイオハザードの怪物まで演じてしまう器用さも備えているが、なんと言っても別れた彼女と今の彼女との間で逡巡する柊丈一郎こそがハマリ役だろう。彼には「永遠の少年」を体現すべくいつまでも戸惑いつづけてほしい。

 「永遠の少年」と対照的に「永遠のノスタルジー」である川岸さんがいい

 思えば「She's having a Baby」では、会社をやめてギターを抱えて酒場を流す神田さん役で、非常に強いインパクトを僕らに与えた。と同時に哀愁をおびた独特の口調と間の取り方に、ほろ苦くも暖かい心地好さを感じたりもした。その神田さんが帰ってきた。期待にたがわず、松山ジェロニモとのやり取りでおおぼけをかましながら、臭いながらも妙に味わいのある台詞回しで、次第に人間ドラマへと観客をいざなってゆく。

 彼無くしては「罪と罰」のテーマもあり得ない

 遅ればせながら脚本と演出が最高にいい。

 舞台練習という状況を導入する事で、「サンタより愛を込めて」という純然たる人間ドラマを、劇中劇という形で断片的に観客に見せてゆく。

 この手法でおそらくは普通に通り一遍に観せるよりも話の展開が軽快になり、クライマックスが最後まで引き伸ばされても退屈しない。しかも登場人物と演じる(演じさせる)者とが二重写しになっていき、最後に一つに重なるところの演出は舞台ならではサスペンスに富み、十分にドラマチックだ。

 松山ジェロニモ演じる主人公がクロさんの不自由な左手を見て自分の父だと気づく。そして次のシーンでは、主人公と入れ替わったオーナーが、クロさんに自分の家に来て娘のためにサンタになってくれと懇願する。ここで一瞬舞台と現実が交差する。ドキッとさせられると同時に胸を打つ場面だ。この部分の演出は鮮やかでドラマチックで素晴らしく、何度見ても涙が零れる(実際、初日も千秋楽もこのシーンで涙が出て来た)。

 もちろん三年前の公演の再演というのが、このような完成された脚本を生み出す土壌となっているのかもしれない。前回の公演がどんなものだったにせよ、それを下敷きにして全く違ったものを作り出したのなら、ワインのように作家のアイディアも時を経て熟成するのだろう。それはそれとして前回の公演をぜひ見てみたくなった。

 さてそろそろ褒めるところがなくなって来ただろうか。いやいや、まだまだ。

 平川さんのピカチュウの瞬間芸がいい。あの一瞬の笑顔が忘れられない。

 真理っぺの無防備なミニスカートとうかつなナマ足がいい。ここに杉本さんのファンが一人増えました。「ラブ・アニマル」のマッド・サイエンティスト役の時とは大違い。

 杏子の素人っぽい台詞がいい。間が微妙にはずれるところがいい。でも朝夏のように照れてないところがいい(本当にいいのか?)。

 舞台に何もないのがいい。本当にセットらしいものが何もない。舞台稽古という設定だからしょうがない。でもなんかあるだろう、なんて思ってたけれど、ラストのクリスマス・ツリーの趣向を際立たせる演出だったわけだ。

 うーむ、最後まで完璧だ
posted by アスラン at 00:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | グループ満天の星 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

1998年12月4日(金) 「サンタより愛を込めて〜世界中の人にプレゼントを〜」

 グループ満天の星による公演「サンタより愛を込めて〜世界中の人にプレゼントを〜」を観に池袋アートスペースサンライズホール(有楽町線東池袋下車)に行く。

 初めは同僚のYさんに誘われて嫌々行くようになったのが、今年3回目ともなると慣れてきたのか楽しみになってきた。

 舞台と映画とは全く違う芸術だ。舞台は生身の人間が毎回演技するのだから1回1回が違うし、回を追うごとにこなれていったり散漫になったりする。その息遣いを感じるのが演劇の醍醐味だろう。

 逆に映画は編集が終るまではやり直しがきく。つまり作家は完成された形を提供し、それが何度でも再現される事になる。新鮮さは演劇に比べて見劣りがするが、永遠の美をフィルムに封じ込める事ができる。

 前にも書いたが、演劇が苦手なのはひとえに生身の人が演じる生々しさに耐えられないからだ。定員100人足らずの小劇場の最前列で観てると役者の息遣いが感じられるが、どうにも正面をむく役者からは目を逸らすハメになる。それでも完成度の高い脚本をうまく出演者がこなしているためか今回は違和感が少ない。

 毎年ロシア文学「罪と罰」を上演する小劇団の練習風景から始まる。しかし今年は例年と違って劇団員の間がぎくしゃくしている。そこにビルのオーナーが現れ、自分が用意した脚本をぜひ演じてみせて欲しいと言う。

 それは社長に成り上がり家庭を顧みない男が、偶然知り合った浮浪者に幼い頃の記憶の中にあるサンタの面影を見いだし、家族への愛情を取り戻す話だった。

 それこそよくあるクリスマス・ファンタジーを舞台練習という形で挿入し、同時に劇団員たち一人一人のわだかまりがファンタジーを演じる事によって洗われていくという非常に凝った演出が見事。

 しかも登場人物がそれぞれよく描き分けられていて、脇役までおろそかにされてない脚本もすばらしい。これだけ見応えがあると次回も観たいという気にさせる。
posted by アスラン at 00:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | グループ満天の星 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月25日

「CLUB evergreen」あるいは再生の物語

 森川智之好きの友人に引っ張り込まれてしぶしぶ満天の星の舞台を観るようになってから、今回で4回目となった。

 相変わらずしぶしぶというポーズは捨ててないが、近頃はもうそろやるかなと前もって友人の顔色をうかがうようになった。でも決して楽しみにしているとは言わない。そんなこと言った日には、全公演すべて(つまり全日程の各回すべて)を観る友人に、すべてつき合わされてしまいかねないからだ。

 それでなくとも初日と千秋楽の2回を観ることが恒例化しつつある今日この頃では、映画三昧に明け暮れる週末の僕の楽しみを奪われてしまう。(そうは言っても、ファンでもないのに2回もつき合ってしまう自分の優柔不断さはどうなのだろうと思ってしまう。)

 当然ながら映画館にぶらっと立ち寄るつもりで満天の公演も見に行きたいので、事前にほとんど何も前情報は仕入れていかない。会場で渡されたパンフレットも全く読まない。だから誰がでているのかもわからない。 (とは言ってもそろそろ劇団の顔ぶれもかなり見知ってきたので、今回も半数以上はおなじみの役者さんだった。)

 しいて言えば友人から、今回は武田亜希さんのシナリオだよと聞かされたことぐらいだろうか。へぇーと正直驚いた。彼女がシナリオを書くなんて想像できなかった。僕の乏しい想像力では全編歌って踊りまくるスパイもの、アクションものにでもなるのかと思った。 (つまりは「ラブアニマル」の黒ずくめのスーツ姿と、前作「サンタより愛をこめて」の歌って踊るダンスシーンの、強引なアマルガムでしかないが。)

 期待はものの見事にはずれたがハードボイルドな唄歌いという設定は、かすかにかすっていなくもない(かな?)。

 前作をほめすぎたので今回はどう切り出していいか迷ってしまう。よく言えば「空振りに終わった意欲作」、悪く言えば「盛り込みすぎで未消化に終わった作品」というのが僕の全体の印象だ。

 開演前の舞台。カウンターやらボトル棚やらソファーやらが並んで珍しく立派なセットが組まれていて、今回はセットをおごったなぁと感心した。なるほどこれがタイトルのCLUB evergreenなわけだ。

 ということは逆に考えると、前作の「サンタ」や「She’s having a Baby」のように、暗転でいろいろな場面に切り替えるという手法は使えなくなる。ほぼCLUB内で行われるシチュエーションドラマと考えていいだろう。

 この選択はかなり演出や役者の力量に負うところが多くなる。端的に言ってCLUB外で起こった事、過去に起こった事などは、すべてなんらかの形でCLUBの登場人物が台詞だけで説明していかねばならない。説明的な台詞は時として退屈だし、特に一人の長いモノローグは舞台のダイナミックスを失わせることになる。それが桐島やスネオの役どころになかっただろうか。

 冒頭、カウンタで物思いにふける緑の姿を目にして、桐島がカモを見つけたように入ってくる。彼は、親切ごかしに緑に近づいて、CLUB evergreenを奪い取ろうという、下心みえみえの人物として設定されている。当然ながら観客にはそう見えても、人のいい世間知らずの緑には彼の心の闇は見えない。実はこの導入部は非常にわかりやすいし、何かこのCLUBの暗雲を象徴しているかのようなほのめかしがあって、文句ない出だしのはずだった。

 でも僕が最後までよくわからなかったのは桐島という人物造形だ。一体ものすごくさむいギャグを飛ばしては座を白けさせる彼が、実はとんでもない悪党で、自分の利益のためならどんな卑怯な手でも使う、というキャラクターには最後まで見えなかった。

 事実最後の最後になって、美羽子に諭されて改悛して昔を懐かしむ善人に戻ってしまうわけだが、和実とのやりとりや、スネオがあかす、前に働いていたバーの乗っ取りのエピソードは、改悛しようのないどうしようもない悪党をイメージさせる。このギャップはついに埋まらなかったのだが、それは最初の登場から予想されていたことでもある。

 あのさむいギャグが桐島の非人間性を象徴するものならまだしも、単なる性格付けだとしたら、その後の展開を決定づけてしまう大きなポイントのような気がした。つまり、さむいギャグを逆手にとった間の抜けたキャラクターで笑わせる、という演出は成功していないため、絶えず桐島の台詞の部分は浮いてしまう。その上、他の登場人物との台詞の掛け合いもうまくかみ合わず、なぜか彼の登場場面は彼一人のモノローグの印象を拭えなくなるわけだ。

 これは次に唐突に現れるスネオにも言える。
スネオは亡くなった緑の父に雇われたといっていきなりCLUBに入り込んでくる。いわばこの芝居のもう一人の狂言回しだ。これまた当然ながら、観客には何年も前に家を飛び出した緑の兄であることはバレバレだが、緑たちにはうさんくさい謎のバーテンに見える。スネオは父に責任がないと知りつつ、母親の死を機に反抗的に家を飛び出した、屈折した、しかし誠実な人物に描かれる。

 屈折した心情がすなおに兄の名のりをさせないで、つい嘘をべらべらとつきまくってしまう。このあることないことしゃべりつくしてしまう彼の饒舌さは、桐島とは反対に小気味のいいギャグのやりとりをうむはずだった。

 しかし正直言ってうまく機能していないのは、あまりにも一方的にマシンガンのように畳み込む場面が多いからだろう。緑との掛け合いは緑の消極的な意思表示のせいか、スネオのトークの勢いを消してしまう。僕の中では大うけだった「魔女の宅急便」ネタをはずしてしまうのも、かみ合いの悪さのような気がした。

 その証拠に美羽子とのやりとりではスネオのトークのテンポは活かされて、美羽子の名前を覚えないスネオのエピソードは、観ていて安心のできる楽しいエピソードとなった。

 本当はもうひとりぐらいスネオの掛け合いに応えてくれる登場人物がいると、舞台に活気がでてくる。砂輝はスネオの本当の人間性を説明する役回りだから、あまり掛け合いに期待できる人物ではない。でも平川さんが出てきた時、なんだいるじゃないかと一瞬思ったのだけれど…。

 これが今回の最大の謎と思えるのだけれど、平川さんを何故ニューハーフにさせてしまったのだろうか

 前作の感想でも書いたが、非常に器用にあらゆる役どころをこなす平川さんは、同時にあらゆる掛け合いにも応じられるセンスを持ち合わせている。だとしたらこんな彼に口数の少ない控えめで内向的なニューハーフの役を割り振るのは、底意地の悪い演出家の画策か、もしくは深い意図あっての演出としか考えられない。

 かつて映画監督のマキノ雅弘は「次郎長三国志」を撮るにあたって、当時口がたって芸達者な森繁久弥に石松を演じさせる際、饒舌な口を奪うためにあえて石松をどもりという設定にしたそうだ。

 それはさておいて、実は意外な設定ではあったが、ニューハーフ役が活かされる場面があるのだと最後まで期待していたのだ。しかし真澄としてのキャラクターが立つのは、自分のニューハーフとしての過去を説明する場面、すなわちその手のバーに勤めたこともあるが自分の性に合わなかったと告白する場面と、何故このCLUBに居着くようになったかを緑の父の思い出ともども語る場面にすぎない。

 これでは真澄の人物造形としても、真澄の存在意義としても非常に希薄だと言わざるを得ない。真澄がサブキャラクターだと言うなら納得もできるが、実は真澄の存在はラストの緑の台詞、そしてCLUB evergreenの言葉の意味と大きく関わっていて、真澄のエピソードが膨らんで初めてメインテーマが生きてくると考えられるからだ。

 ここまでワンシーンごとに細かくみていくと、どうしても僕の見方の性質上、一方的なあら探しをしているような気がしないでもない。映画という事前にやり直しのきくメディアになれているせいか、つい全体の構成や完成度などが気になってしまうからだ。

 ついつい自分の不満を一方的に吐き出し続けていると、そんなに今回の公演はつまらなかったのかなと改めて自問してしまう事になる。なぜなら、もろもろの欠点を言い立てたにも関わらず、この舞台は前作の「サンタ」に次いで僕の好きな公演だからだ。

(だったら何故最初からそう言わないとどこぞから叱られそうだけど、 A型の山羊座だから物言いがどうしても屈折してしまう。ダイレクトに好きというのは慣れてないのだ。)

 それは崩壊した家族の再生の物語だ。一度はバラバラになってしまった家族たちの思いが、さまざまな変遷を経て、一つにまとまっていく再生の物語。

 それは緑がまだ父を失ったショックから抜けきらず、残されたCLUBを父に代わって経営することにも迷っていた頃に、喫茶店時代のコーヒー用具を見つけた時から始まっていく。

 場違いな道具にとまどう緑に、美羽子がさりげなく、あらあらしょうがないわねといった調子で合いの手を入れる。

 かつてはこのクラブも喫茶店だったけれど、商売が成り立たなくなってしょうがなくクラブに商売替えしたのだと。わざわざとっておいたなんていかにもマスターらしいわ。


 このさりげないエピソードは、後半のクライマックスで父にとって大切なクラブの権利書が、やはり大切なコーヒー用具の箱の裏ぶたに隠してあるという、ドラマチックな演出を行なうだけに挿入されているのではない。緑が父の思いを知り、ラストで喫茶店としてevergreenを再スタートさせる決意をさせる、重要なきっかけを与えている。

 喫茶店をやめてしまった父が、何故いらなくなったコーヒー用具を大切にしまっておいたのか。もしかしたらまた再開する日を夢見ていたのか。そもそも喫茶店をなぜやめねばならなかったのか。ひょっとしたら生まれてきた子供たちを育てるために、やむをえず夢を捨てなければならなかったのかもしれない。

 見つけた時には、その意味にピンときていなかった緑も、箱に権利書を見いだして初めて、コーヒー用具のもつ重要な意味に気づく。しかも、それをさりげなく気づかせてくれるのが美羽子なのだ。

 振り返ってみると、このエピソードが2重、3重の伏線を意味していることがわかる。

 美羽子がコーヒー用具の意味をさりげなく指し示すのは、まさに交通事故で死んでしまった緑の母の幽霊であるからに他ならない。そっと見守るだけでは飽きたらず、持ち前の明るい性格そのままに現世に立ち戻って、緑のいるクラブにホステスとしてしゃしゃり出てしまう。その強烈で前向きなキャラクターは、消極的な緑や優柔不断なスネオとは対照的に、思わぬ展開になりかけた物語を強引に正しい方向へと誘導してしまう

 そしてクラブが桐島の魔の手から守られ、スネオが自らの正体をあかして緑と和解したのを見届けると、たちまちみんなの前から姿を消す。役目を終えたからみんなからは見えない存在になってしまったと、悲しげに語る美羽子の言葉は、その明るいキャラクターとはうらはらに、とてもせつない。

 美羽子が幽霊だと告白するシーンはかなりドラマチックで、意外な展開に十分驚かされたが、緑とスネオ以外の人々には、美羽子の存在した記憶さえもが失われていることがわかる次のシーケンスは、一段とショッキングだ。と同時に、この舞台は僕の琴線に触れてしまったようだ。

 僕の大好きな映画に「天国から来たチャンピオン」がある。誤って天国に連れられた主人公が、再び自分の肉体を探し求める話だ。最後に求める肉体は見つかるが、それまでの記憶は失われてしまう。それはほとんど死と同義と言っていい。絶望的な現実を前に観客である僕らは呆然としてしまうのだが、主人公の恋人が、記憶を失い別人となった主人公と偶然出会い、互いに何かを感じ取るラストは、胸がつまるほど感動的だった。

 そしてまさにこの舞台でも、美羽子の記憶が失われた現実の過酷さに、一瞬緑もスネオもたじろいでしまう。それでも緑やスネオが立ち直る事ができたのは、自分たち二人の胸にだけ残された暖かな記憶のせいであり、今もそこにいて自分たちを見守ってくれている、という予感があればこそのことである。

 この予感は現実のものとなり、美羽子は姿こそ見えないが、いまではクラブではなくなった喫茶evergreenの止まり木に寄って、緑がこっそり母のために置いたコーヒーを味わっている。これが「CLUB evergreen」のラストだ。緑とスネオ、そして砂輝。3人の新しい家族としてのスタートでもあり、喫茶店としてのevergreenの再出発でもある。

 もちろん誘導したのは美羽子だが、喫茶店を始めたのは緑の意志である。それは父の遺志をコーヒー用具とともに受け継いだ緑の決意でもある。実は緑が父から何をバトンタッチされたのか、僕には本当はよくわからない。

 手がかりは「evergreen」という名前と、真澄の存在だけだ。いつも絶えることのない緑の中で、どんな人々をも安住の地へと誘う理想郷。そんな意味をこめて父はevergreenを始めたのかもしれない。だからこそ喫茶からクラブに変わってさえも、普通のお店になじめない内向的な真澄を暖かく迎えることができたのだ。

 そしてevergreenは名前とともに、緑の心に確実に受け継がれている。故郷に戻って親兄弟に自分の姿を認めてもらおうと旅立っていく真澄に、緑は必ず戻ってきてと声をかける。

 evergreenはいつでも絶えることなく、誰であっても暖かく迎えて優しく見守ってくれる。たとえ一度は家を捨てた兄であろうと、たとえ内向的なニューハーフであろうと、たとえ幽霊であろうと、そしてもしかしたら乗っ取りをたくらんだ小悪人であろうと。
 
 だからさっき家族は3人といったが、 evergreenでは家族は本当はあと何人もいるのだろう。これからも失うことはない。旅立つ真澄は「行って来ます」といい、緑は「行ってらっしゃい」と送り出す。ごく普通の家族が、また必ず戻ってくる者を暖かく送り出すように。

 今回は自分の思い入れを持ち込みすぎている気もしないではないが、幽霊も出てきてしまうような不思議な設定は映画の「めぞん一刻」を、家族の枠を越えた家族の再生の物語は山田太一の「早春スケッチブック」を、ちょびっとづつ連想して楽しかった。

 そういう意味では演出意図不明な部分は、想像で補える分、楽しかったとも言えるかも。

 最後に言いたいことを残らず言ってしまおう。

 僕は唄を歌わない唄うたいなんて設定は認めない。自分の脚本で遠慮したとも思えないけれど、やっぱり唄は歌いましょう。ついでに踊りもプラスして。

 (でもよくよく考えると「ラブアニマル」ではカッコ付けのシークレットサービス、「サンタ」では唄あり踊りありミュージカルあり、次が気どって歌わない唄うたいだから、次回を乞うご期待って奴かなぁ)
posted by アスラン at 15:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | グループ満天の星 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

1999年7月30日(金) 「 CLUB EVERGREEN」

 恒例のグループ満天の星第八回公演が始まった。

 会社帰りにYさんと一緒に中目黒ウッディシアター「CLUB EVERGREEN」を観る。

 前回公演「サンタより愛をこめて」は文句無しの出来だったが、今回ははっきり言ってバランスが悪い。クラブのセットが据え置きになっている分、場面の切り替えができないので動きが限られ、演出に比重がかかると思われるが、その演出も不足している感じがした。

 ただ本筋の「誰からも憩いの場所」となるクラブevergreenの意味を明らかにするエンディングは、味わいがあって気に入った。
posted by アスラン at 12:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | グループ満天の星 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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