カテゴリ記事リスト
「カラー・オブ・ハート」(1999年5月23日(土))(05/12)
「シューティング・スター」「ペイバック」(1999年5月24日(日))(05/01)
「ハイ・アート」「RONIN」(1999年5月29日(土))(04/24)
「レッド・バイオリン」「もういちど逢いたくて 星月童話」(1999年5月30日(日))(04/15)
「フレンチ・カンカン」「菊次郎の夏」(1999年6月5日(土))(04/09)
「奇蹟の輝き」(1999年6月8日(火))(04/03)
「メイド・イン・ホンコン」「イフ・オンリー」「25年目のキス」(1999年6月13日(日))(03/26)
「サイモン・バーチ」「タンゴ」(1999年6月20日(日))(03/20)
「メッセージ・イン・ア・ボトル」「輝きの海」(1999年6月26日(土)) (03/12)
「グロリア」(1999年6月29日(火))(03/05)
1999年7月1日(木) 「スモーク・シグナルズ」「ムーンライト・ドライブ」(06/02)
1999年7月2日(金) 「ホーホケキョ・となりの山田くん」(06/01)
1999年7月3日(土) 「ゴールデンボーイ」「交渉人」「あの、夏の日とんでろじいさん」(05/31)
1999年7月4日(日) 「カラオケ」「八月のクリスマス」「鉄道員(ぽっぽや)」(05/30)
1999年7月11日(日) 「アドレナリン・ドライブ」(05/29)
1999年7月17日(土) 「ハムナプトラ失われた砂漠の都」(05/29)
1999年7月18日(日) 「オープン・ユア・アイズ」(05/28)
1999年7月19日(月) 「マイ・ネーム・イズ・ジョー」(05/28)
1999年7月24日(火) 「ラン・ローラ・ラン」「インディアナポリスの夏」(05/27)
1999年7月25日(日) 「踊れトスカーナ!」(05/26)

2007年05月12日

「カラー・オブ・ハート」(1999年5月23日(土))

  みゆき座で「カラー・オブ・ハート」(no.46)を観る。

 原題は「プリザンヴィル」、愉快なところの意だ。

 90年代の現代ではうまく回りに溶け込めない主人公の高校生デイビットの唯一の楽しみは、50年代のモノクロのTVドラマ。その理想の世界にふとしたきっかけで妹と二人で入り込んでしまうという奇想天外なストーリー。

 町の外がなかったり本はすべて白紙。バスケ部ではだれもがフリースローを一発で決めてしまうなどなどのお約束の世界の描写がおかしい。やがて妹のセックスがきっかけとなり、人々が自由にめざめ色付いていく。ここらへんのSFXが素晴らしいし演出の味付けとなっている。

 しかもやがて有色人を白黒人が差別してゆくという展開になるあたりは単なるコメディではなく、と言って一種の風刺劇でもない。見事な寓話となっている。

 50年代をちゃかす一方で、決して現代の生き方を全面的に肯定しているのでもない作者のまなざしが作品にあらわれている。自由で変化に富んだ生活は、悲しみや虚無、痛みを伴っていることもきちんと描いているからだ。

 ラストで色づいてしまったママ、パパ、ハンバーガーショップの主人のとまどう顔が印象的だ。
 
「これからどうなるんでしょう」
「私にもわからん」

 それが自由の意味であり代償でもある。

カチンコ
 主演はいまでこそ「スパイダーマン」で名をなしたトビー・マグワイアだが、このころは新進気鋭の若手俳優だった。顔が童顔なのが災いしてか、それとも元来がきまじめな青年然としているところがあるからか、玄人受けする演技と出演作ではあったがなかなかブレイクはしていない。

 それにしてもテレビの中の世界で問題を起こす妹が、後に「メラリーは行く!」でブレイクするリース・ウェザスプーンだったなんて。どうしてもそのときの妹役の顔がウェザスプーンと一致しない。男と違って女性はバケるものだ。マグワイアは今もこのときも印象が全然変わってない。


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2007年05月01日

「シューティング・スター」「ペイバック」(1999年5月24日(日))

  シネヴィヴァン六本木で「シューティング・スター」(no.48)を観る。

 「CUBE」を観て以来久々に来た。学生の頃は頻繁に来たが、シアターの方針が変わったせいで足が遠のいている。かつてタルコフスキー、エリセ、ロメール、シュミット、ジャームッシュなどの作品を次々に送り出していた頃とは隔世の感がある。
 かかる映画が渋谷シネマライズのような90年代のファッション感覚に見合ったようなラインナップになってしまった。

 今回の映画もそんな感じのフランス映画だ。
 出だしから「パルプ・フィクション」のように軽いタッチで一家が皆殺しにされて、唯一赤ん坊だけが目こぼしされて生き残る。強盗の一人に言わせれば「それも運命」というわけだ。

 赤ん坊の20年後が主人公のレニー。女たらしで詐欺師。一攫千金を夢見てヤクの売人からコカインをだまし取る。そうこうするうちに組織のボスの女と巡り合い、やがてボスのヤクを奪い取って二人で駆け落ちをすることになる。話の展開が速くブラックなユーモアでくるまれたギャングものであることなど、どうもハリウッドで成功したタランティーノを意識したとしか思えない。

 かなり劇画調のストーリー展開でラストも飛び切りロマンティックでロンドンで離ればなれになった二人は、女のあこがれの場所チリの最果ての地で再会し星空の下で結ばれる。ただ決定的にタランティーノと違うのはユーモアに毒がなく単なる劇画としての滑稽さに終始している点だ。

 日比谷に移動。日劇東宝で「ペイバック」(no.47)を観る。

 「リーサル・ウェポン」のメル・ギブソンが新しいアクション映画に挑戦。今回は組織をも脅かす一匹狼の悪党を演じた。盗んだ金を相棒にだまし取られおまけに女房にまで裏切られてしまう。一度は死にかけたが、組織に流れた自分の金を取り戻そうと執拗に追いかける。

 非常にクールでハードボイルドな悪党だが、今一つ盛り上がりに欠ける。組織に凄みが感じられずボスからして脳天気な奴ばかりだからメル・ギブソンのキャラクターが活きてこない。

 原作が有名なミステリーシリーズ(悪党パーカー)というのも災いしているようだ。原作の登場人物の描写にこだわるあまり、ストーリー展開がもたつき逆に映画全体の活気がなくなっている。

 原作を知っている人にはこたえられないかもしれないが、門外漢には単に出来損ないの脚本としか思えない。「リーサル」と比べると地味なアクション映画としか言い様がない。

カチンコ
 シネヴィヴァン六本木が様変わりしてしまったのは、セゾングループ特に西武の凋落が始まったのと軌を一にする。つまりは道楽のような部門にさく金はないということだったのだろう。
 2000年以降すっかり足が遠のいてしまって、閉館の話もどこか他人事で聞き流していた。
うかつだったのは六本木ヒルズの存在だ。僕は完全にアークヒルズの近くにできたと勘違いしていたのだ。現在地を知るのは2004年夏になってからだ。
 「ディープ・ブルー」を見に行った僕はかつてのWAVEが跡形もなくなっているのを知った。いや旧テレビ朝日を含めて何もかもが巨大な空間に呑み込まれていたのだ。


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2007年04月24日

「ハイ・アート」「RONIN」(1999年5月29日(土))

 渋谷シネマライズで「ハイ・アート」(no.50)を観る。

 「ムトゥ・踊るマハラジャ」や「ワンダフル・ライフ」といった作品と並列にこういった現代アートの感覚が鋭い作品がかかるのがシネマライズの懐の深さというか、節操のなさというか。

 ニューヨークの写真雑誌の編集助手になりたての女性シドはなんとか上司にも認められる実績をあげたいと野心の燃えている。偶然にも彼女の住むアパートにかつては名の通った写真家ルーシーが住んでいるのを知り、彼女にもう一度写真をとらせようと画策する。

 ルーシーは出版社の商業主義についていけず姿を消したのだが、次第にかたくなな心を開いていく。それはシドを被写体として、心も肉体も開放できるパートナーとして付き合うようになっていくためである。

 アートの世界の特異な人間関係や商業主義に塗り込められた業界の裏側をリアルに描きだしている。女性ならではの柔らかい映像とサウンドが素晴らしい。

 渋谷東急3で「RONIN」(no.49)を観る。

 東西の緊張関係が崩れた現代に”浪人”となって世界に散らばった男達が金で雇われて使命を果たそうとする。明らかに下敷きに黒澤の「七人の侍」がある。

 プロフェッショナルとしての技術や考え方がストーリーに反映して見応えがある。それに男同士のクールな友情。黒澤の馬を車に変えた市街を疾走するカーチェイスの迫力。すべてが手作りであり特撮を使わないリアルさと重厚感に満ちている。

 60,70年代にもっとも活躍したジョン・フランケンハイマーのアクション活劇が見事に復活している。

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2007年04月15日

「レッド・バイオリン」「もういちど逢いたくて 星月童話」(1999年5月30日(日))

  日比谷シャンテ・シネで「レッド・バイオリン」(no.52)を観る。

 17世紀後半に作られたバイオリンが4世紀に渡って5つの国で人々の心を魅了して現代にいたる。その数奇な運命に操られた人々の姿を描いた作品。

 なぜ「赤いバイオリン」と呼ばれるのか。
 なぜそのバイオリンは弾く者の運命を悲劇へと導くのか。

 物語は生まれてくる子供のためにバイオリン職人が作ったバイオリンが、死産のために妻子ともに失って手放すところから始まる。そしてバイオリンの運命は、死ぬ前に妻がみてもらったタロット占いが導く未来をひとつひとつ描き出す形で進行する。そして次々にかかわった人々に死が訪れ、彼らの子孫たちが現代のオークションに出品されるレッド・バイオリンを手に入れようと争う。

 オークションシーンが何度も繰り返され、一つのエピソードごとにレッドバイオリンを手に入れようとする人々の姿がまた一つ追加されていくところがサスペンスに満ちている。

 とにかく見事な脚本だ。久々に完成度の高い見応えのある映画を見た気がする。

 有楽町スバル座で「もういちど逢いたくて 星月童話」(no.51)を観る。

 レスリー・チャンと常磐貴子の共演。

 常磐の恋人レスリーは結婚直前に交通事故死する。心を癒すため香港を訪れると彼にそっくりの男がホテルで彼女を抱きしめる。レスリーが二役で潜入中の麻薬捜査官を演じている。麻薬捜査のストーリーは一時代前の「Gメン75」「キーハンター」のような展開で半分シリアスで半分荒唐無稽。それに常磐とのラブストーリーがからむ。

 なかなかかなわない恋はトレンディドラマのような雰囲気で常磐貴子の演じてきたドラマそのもの。常磐の下手な演技とレスリーのオーバーアクトで妙に日本と香港のドラマの特徴がミックスされた映画になった。


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2007年04月09日

「フレンチ・カンカン」「菊次郎の夏」(1999年6月5日(土))

 「奇蹟の輝き」の初日をみようと有楽町に出たが10分遅れであきらめる。それなら「鉄道員(ぽっぽや)」に変更と足を運んだが舞台挨拶で満員の札止め。入場制限をしていて入れない。恐るべし!広末涼子

 どうしようかと悩んだが良い映画を朝からやっていた。
 有楽町シネ・ラ・セットで「フレンチ・カンカン」(no.54)を観る。

 ジャン・ルノワール監督の最高傑作と名高い映画だ。正直言うとジャン・ルノワールの映画は、性に合わないのかこれまでそれほどいいと思ったことがなかった。素晴らしいし面白いが趣味じゃない。そう思い込んでいた。しかし今回の作品は文句無しに一流の作品。印象派の父の血筋を受け継いだ見事な色彩美。

 豪華絢爛たるムーラン・ルージュをところ狭しと踊り回るカンカン娘たちの躍動感。単なる洗濯娘がジャン・ギャバン扮する興行師に見いだされて次第に一人前の踊り子へと成長していく。その間にさまざまな恋愛を通り抜けていく。フレンチ・カンカンという俗っぽい踊りを通して、庶民の生き方、楽しさ、悲しさを余すところなく描いている。

 丸の内ピカデリーで「菊次郎の夏」(no.53)を観る。

 北野たけしの最新作。カンヌ映画祭では期待されながら無冠で終わったが、いよいよ「HANA-BI」に継ぐ鳴り物入りの上映で大手配給による全国上映だ。

 今回はたけし監督曰く「楽しんで撮った」という通り、小さなアイディアを積み重ねて一編に仕上げた佳作といった感じだ。前回のような「生と死」という大きなテーマこそないが、子供をだしにして大人が楽しむ夏休みを素敵に描き出している。そしてちょびっとだけほろ苦い。

 台湾の候孝賢監督の「冬冬の夏休み」と同質の暖かさが感じられる。それに行き当たりばったりの楽しい二人だけのヒッチハイク旅行がたまらなく楽しい。

カチンコ
 舞台挨拶は正直うっとうしい。いつもなら空いている初回から混んでるし、何よりいつも座っている最前列の席がカメラマンたちで埋まってしまう。彼らは映画を観に来たのではないので雰囲気が悪い、マナーが悪い。
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2007年04月03日

「奇蹟の輝き」(1999年6月8日(火))

 通院日。昨日は課内旅行の二日目だったので、やむなく火曜日にした。火曜がいつも混むが今日は格別で診察が終わったのが午後3時。それから遅い昼食をとり、新宿に出た。

 新宿ジョイシネマ2で「奇蹟の輝き」(no.55)を観る。

 交通事故で2人の子供を亡くし、さらに自らもトンネルでの事故で命を落とす医師をロビン・ウィリアムスが演じている。彼は妻の描いた絵そのままの天国の世界にやってくるが、のこされた妻のアナベル・シオラは悲しみのあまり自殺して地獄に落ちてしまう。ロビンは彼女を助けだそうと地獄に向かう。

 この壮大なドラマをSFXを駆使して描き出そうとしているが、残念ながら成功しているとは言えない。CGは素晴らしいが宣伝文句ほど感動はしない。天国で道先案内人になる男が実は先に死んだ息子の生まれ変わりだったり、出会った魅力的な女性が娘だったりという展開も演出が効かず空回り。

 しかしなんといっても地獄でアナベルを見つけだすのがなんともあっけない。幾多の困難を乗り越えという達成感が感じられず、なしくずし的に出会って彼女を取り戻してしまった感じがしてならない。

 役者はそろっていただけに残念。監督の力不足。

カチンコ
病院は飯田橋にある。遅い昼食は何を食べたのかな?
グルメではないが食いしん坊な質だから、翁庵で「かしわ南蛮そば」か鳥茶屋で「親子丼」か、はたまた二葉寿しで「バラちらし」か。
posted by アスラン at 12:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画評(1999年) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月26日

「メイド・イン・ホンコン」「イフ・オンリー」「25年目のキス」(1999年6月13日(日))

  金曜日の実験室の移動作業で腹筋を痛めてしまい昨日は休養をとって家にこもっていた。幸い痛みもなくなったので今日はさっそく映画三昧に出かける。

 銀座テアトル西友で「メイド・イン・ホンコン」(no.58)を観る。

 およそ香港映画とはかけ離れた作品だ。「初恋」や「天使の涙」といった破格な青春映画やアウトロー、チンピラなどを扱った作品は幾らでもあるがこのようなインデペンデントな映画は一つもない。

 スターを一切使わない。コメディでもギャングものでもない。シリアスドラマだ。それでいて単なるアートシネマでもない。

 かつての日本のATG、日活青春ものと類似しているが、自殺した女子高生サンの霊が取り付いたというエピソードに一種のロマンスが感じられる。全体的に重苦しさ一辺倒ではなく、香港の現状を象徴する若者のやるせなさが表現されている。

 有楽町シネ・ラ・セットで「イフ・オンリー」(no.57)を観る。

 もう一度あのときに戻れたら彼女とうまくやりなおせるのに…。

 というファンタジーを実現してみせるのがこの映画だ。浮気が元で仲違いして後悔したが後の祭り。彼女は別の男と結婚する。そんな絶望の中で男は浮気を打ち明けた一年前の当日にタイムスリップする。

 ここまでのストーリーの展開が巧い。なにもかもが捨て去られるごみ捨て場で、失意の男は清掃業者のおかしな風貌の二人に魔法をかけられる。

 2度目の彼は慎重に事を運んで彼女の心をつなぎ止める。これでうまく行くはずだったのに、今度は彼女が言いなりの彼に退屈して浮気をしてしまう。それも一度目で結婚するはずだった男とだ。このほろ苦いラブストーリーは結末もまた楽しい。

 「スライディング・ドア」とテーマが似ているが、ユーモアとストーリー運びはこちらの方が秀逸だ。

 みゆき座で「25年目のキス」(no.56)を観る。

 私の嫌いなアメリカ的(ということはビバリーヒルズ的)青春映画だ。でもつい観てしまうのはドリュー・バルモアが主演しているからだ。彼女のちょっと不細工だが愛嬌のある顔立ちが、どんなばかばかしいストーリーでも許せるような気にさせてしまうから不思議だ。今回は25才で新聞社の最年少コピー・エディターとなっている彼女が、高校に潜入して記事を書くように命じられる。

 かつては醜いジェーシーと言われ続けた高校生活を送った彼女が、再びやってきた高校生活を素晴らしいものにできるかというのがあらすじだ。ほとんどがドタバタに終始し、青春ものに付き物のご都合主義で話は進行するわけだが、「キャリー」とみまごうような不細工な高校生から、ナチュラルでハイソサエティな女子高生までを何のてらいもなく演じているところが面白い。

カチンコ
 アマゾンからは「イフ・オンリー」がすでに検索できない。DVD化されていないのだろうか。本当に残念だ。代わりにノベライズが検索されたのでリンクをのせておいた。

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posted by アスラン at 13:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画評(1999年) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月20日

「サイモン・バーチ」「タンゴ」(1999年6月20日(日))

 シネセゾン渋谷で「サイモン・バーチ」(no.60)を観る。

 朝の初回から結構入っていてびっくり。

 12才のサイモンは生まれつき体が大きくならず、両親は彼を疎ましく無関心を装っている。そんな彼の親友はジョー。ジョーの母は飛び切りの美人だが未婚のまま父親が誰なのか語らないため、世間から私生児扱いされる。そんな世間から冷たい目で見られている二人の友情物語を60年代のアメリカの田舎町を背景に描いてゆく。

 「ガープの世界」で知られるジョン・アーヴィングの原作の映画化であり、ノスタルジックでかなりセンチメンタルな内容をユーモアたっぷりに描き出している。

 サイモンはその賢さゆえに牧師から目をつけられるが、「自分の小さな体に神様はどんなプランをお持ちなのか?」と逆に相手を問い詰めてしまう。
 でもそれはサイモンの信仰深い真実の問いかけであることを誰も理解しない。

 もちろんこの手の映画の結末は悲しいものと相場が決まっているが、それでも悲しいだけでなく残された登場人物も観ている僕たちも救われるような結末であることがうれしい。

 ル・シネマで「タンゴ」(no.59)を観る。

 カルロス・サウラ監督がタンゴを題材にとった作品。

 以前、「血の婚礼」「カルメン」といったフラメンコを主題にした映画を撮っているが、今回は「カルメン」のタンゴ・バージョンの趣きがつよい。

 タンゴを題材にした映画を撮る映画作家の目から観たタンゴ・ダンサーたちの練習風景。その中に自分のもとを去った妻がいて新しい恋人と踊っている。

 嫉妬や憎しみや情熱。そういった情念の世界が、乾いてクールな練習風景の中に織り込まれていく。

 観客である僕たちは、そのモダンなタンゴの練習風景に圧倒されながら、同時にタンゴを踊る人々の内面やタンゴに深く堆積している歴史そのものさえも暴きだしていくサウラ監督の演出の魔術に身をひたすばかりだ。

 しかも映画作家が影のオーナーの愛人である新進のダンサーに目をかけるようになってから、物語はがぜんサスペンスじみてくる。
 まさにあの「カルメン」をなぞっているかのような展開なのだが、ラストはそれを逆手にとった結末となっている。

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2007年03月12日

「メッセージ・イン・ア・ボトル」「輝きの海」(1999年6月26日(土)) 

 銀座マリオン別館の丸の内松竹が館名を丸の内プラゼールに変えた。
プラゼールとはどういう意味だろう。

 とにかくその記念第一作上映作品が「メッセージ・イン・ア・ボトル」(no.62)だ。

 同名の小説が170万部のベストセラーになった。「マディソン郡の橋」を超えたと謳っている通り、女性向け(特に中年の)の大甘なラブストーリーといっていい。

 海辺でひろった瓶の中の手紙。

 そこには一人の女性に対する切実で誠実な思いが綴られていた。その手紙に魅せられて新聞記者のロビン・ライト・ペンが作者を探し求めて、寡黙でぶっきらぼうな海の男ケビン・コスナーにたどりつく。

 「マディソン郡...」のように不倫ではないが、死に別れた妻に節を通す男の(おそらく今時めずらしい)純粋さゆえに、その男とヒロインが愛し合うようになるという一種の精神的な不倫が、アメリカ中の中流階級の女性たちのハートを射止めてしまったのだろう。

 僕はといえばケビンの父親役のポール・ニューマンの久々の姿にただただ感銘をうけていた。
まだまだ彼は老いぼれてはいない。願わくば「スクープ・悪意の不在」や「ノーバディ・フール」のような渋い演技を見せ続けてほしい。

 シネスイッチ銀座で「輝きの海」(no.61)を観る。

 原作が1901年にジョセフ・コンラッドによって書かれた「エイミイ・フォスター」。英国南西部・コーンウォール地方の海沿いの村が舞台である。

 閉鎖的な村では寡黙で自分の中に閉じこもるエイミーは周囲から疎まれている。両親さえもが愛情を持たない。そこへフランスからアメリカに向かう途中、難破した船の生き残りの青年が流れつき、二人は愛し合うようになる。

 孤独な二人であるがゆえに分かちがたいほどの愛情で結ばれたはずなのに、言葉が通じないために悲劇的な結末を迎える。

 美しい海。
それは厳しい海でもあり、厳しい生活が閉鎖的な村社会を作り出したとも言える。そこで生まれた束の間の純粋な愛の物語だからこそ美しい。

 原作があるからだろうが、二人を援助する足の不自由な富豪の娘や、それを心の底で慕っている老医師などの設定が描写不足なので不満が残る。主役のレイチェル・ワイズは、こんなオーソドックスな役もこなすとはちょっと驚いた。

カチンコ
プラゼールとはポルトガル語で「ようこそ」の意味だそうだ。

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2007年03月05日

「グロリア」(1999年6月29日(火))

 時間外が40Hをオーバーしそうなので、今日は調整のため7:00にあがった。
せっかくだからどうしても観たい映画をレイトショーで観る事にした。

 シネセゾン渋谷の「グロリア」(no.63)だ。

 ジョン・カサヴェテスの1980年の傑作である。

 グロリアの住むアパートの隣人で友人のジャックは組織の金を使い込み、FBIに資金のありかを漏らしてしまった。しかも組織にばれて追い詰められていた。たまたま部屋に顔を出したグロリアは、子供をあずかって欲しいと懇願される。

 「子供は嫌い」とつっぱねるが結局6才の男の子フィルだけはあずかるはめになる。
直後に家族は皆殺しにあい、二人だけの逃避行が始まる。

 かつては組織のボスの情婦だったグロリアが、組織の恐ろしさを知りつつ、情を通わせてしまった子供を守るため、銃をもって組織の連中に立ち向かう。互いに相手を嫌いとののしりつつも、次第に孤独な心を埋め合わせてゆく二人の心の移ろいを見事に描いている。

 インディペンデントのテイストを充分残しながらサスペンス映画やアクション映画としても見応えがある。

 言われてみればまったくそのとおりなのだがリュック・ベッソンの「レオン」は本作の焼き直しなのだ。男女の性別が裏返っているのは、フランスにはかっこいいおばさんを演じられるジーナ・ローランズがいなかったからに違いない。

カチンコ
この頃は、まだ会社帰りにレイトショーを見る余裕も気力もあったのかぁ…。うらやましいぞ、君〜。

カチンコ
 1998年の「大いなる遡行」が終了したので、本日から1999年の「大いなる遡行」にいったん戻ります。以前に発信し続けて中断したところ(1999年6月)にいきなり戻ります。それ以前については、準備ができ次第、右サイドバーの<映画クロニクル>のところからアクセスできるようにするつもりです。では。

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2005年06月02日

1999年7月1日(木) 「スモーク・シグナルズ」「ムーンライト・ドライブ」

 創立記念日。去年と同じように12:00になるとすぐに退社し恵比寿に向かう。駅ビルの天麩羅屋で食事をとるのまで昨年と変わりない。

 恵比寿ガーデンシネマで「スモーク・シグナルズ」(no.65)を観る。

 ネイティブ・アメリカンの話で、予告を何度か観て期待していた作品だ。幼い頃に家族を捨てて出て行った父を許せないビクターは、遠い地で父が死んだことを知らされても会いに行こうとしない。

 幼馴染みのトーマスは幼い頃の火事で命を助けてくれた恩人であるためビクターの父を慕っている。しかもその火事で両親を失っているせいで父を憎んでいるビクターをうらやましくさえ思っている。トーマスの勧めでビクターはいやいやながらも二人で父の遺骸を引取りに旅立つ。それは二人にとって初めての居留地を出る旅でもある。

 もはやネイティブとしての尊厳を守ることが危うくなりつつある現代のインディアンの生活を背景にしながら、父親を尊敬できずに成長した主人公が、父の生き方を知り、自らの誇りを取り戻していく映画だ。思ってたより感動的ではなかったが、それでも味わいのある映画だった。子役の二人と青年の二人がよく似ているのがおかしい。

 くる時はどしゃぶりだったが映画館を出る時はすっかりあがっていた。

 渋谷に移動してシネマライズで「ムーンライト・ドライブ」(no.64)を観る。

 とてつもなく危なくてとてつもなく笑える映画だ。

 暴力的なのにシニカルで乾いた笑いに満ちている映画というと、まずタランティーノが思い浮かぶ。最近ではオリバー・ストーンが彼の影響を受けて珍しく「Uターン」という傑作をとっている。本作も「Uターン」のようにカウボーイが闊歩するような田舎町が舞台で、冒頭から笑うに笑えない状況のただなかに観客は放り込まれてしまう。

 単に酔って銃の試し撃ちをしている青年二人の楽しげなシーンが一転して、女房と寝た事を詰め寄り口論となってしまう。主人公クレイはなんとかごまかそうとするが、友人は妻から聞いたと言って銃を取るよう強制する。クレイが拒むと、彼は自分で自分の太股を打ち抜いてから頭を撃って自殺する。

 「こうすれば自殺だとは誰も思わないだろう」。

 思いもかけず仕掛けられた友人の罠に、クレイはなんとか事故に見せかけようとする。そこからとんでもない目に遭い続ける事になる。しかも死体のにおいを嗅付けてきたのか、酒場で知り合った人の良いカウボーイは実は連続殺人鬼(シリアル・キラー)>だったことから、予想もできない方向に事態は展開していく。

 ホラーかとみまごうようなストーリーだが、映画は似つかわしくないタイトルとおり夢のような爽快感とユーモアにあふれた作品となっている。
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2005年06月01日

1999年7月2日(金) 「ホーホケキョ・となりの山田くん」

 ぴあの試写会があたってヤクルトホールで「ホーホケキョ・となりの山田くん」(no.66)を観る。

 スポンサーが東芝でロビーにテガッキーのデモが行われていた。残念ながらプレゼントはなかった。今回もTさんを誘ったが、過去3回で一番おもしろい映画だった。スタジオジブリの高畑勲作品で実はあまり期待していなかったが予想外に面白かった。

 「宮崎で儲けて高畑で使う」ともっぱらの評判らしいが、今回初めて高畑作品をじっくりと観て彼の芸術性へのこだわりが垣間見られたような気がした。

 例えば全国民的番組の「サザエさん」がどこにもない郷愁的な純日本家族を描いたとすれば、この「山田一家」は、やはりどこにもないかもしれないがいてほしいような現代の日本家族を提示している。

 それは作家が言うように家族だとことさら言立てたり、よりそいあって頑張って生きていく事を言立てたりしない、普通に「適当」に生きている、それだけの家族をそのまま提示している。
それだからこそ楽しい。
 
 今はやりの「癒し」ではなく「慰め」になる映画なのだ。

カチンコ
テガッキーは手書きの文字や絵をPHSで送信できるPDAのような機器。そういえば大学の友人がこの時期の同窓会で見せびらかしていた。なかなか楽しい使い方ができる携帯機器だったのだが…。

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2005年05月31日

1999年7月3日(土) 「ゴールデンボーイ」「交渉人」「あの、夏の日とんでろじいさん」

 東銀座の東劇で「ゴールデンボーイ」(no.69)を観る。

 スティーヴン・キング原作でかなり心理的に怖いサイコサスペンスだ。
主演が「17/セブンティーン」のブラッド・レンフロ。前作に引き続いて生意気で残酷な高校生を演じている。

 歴史を調べているうちにナチスの残虐行為に引き込まれていく高校生が、ある日ナチスの親衛隊だった老人が近くに隠遁している事に気づき、彼を脅迫して人を殺す時の気分を聞き出そうとするが、やがて当時の高揚感をよみがえらせた老人に逆に追い詰められて行く事になる。

 この物語が怖いのは老人が元ナチスだと世間にわかり拘束された後、少年は恐怖から開放されるのではないところだ。人を殺す感覚を知り、その闇の部分を抱えたまま卒業してしまうところが怖い。つまりナチスの残虐性は、一見平和な日常生活の中で平気で飼い慣らすことが可能であり、ネガティブな歴史もこうして継続されていく可能性がある事を巧みに描き出している。

カチンコ
 まだこの時期は韓国映画が本当に珍しかった。今の韓流ブームの源流は「八月のクリスマス」だと言っていいだろう。ただし今流行のテレビドラマとは違って、ホ・ジノ監督の映画にあざとい演出は一切ない。

 昼食は有楽町に徒歩で戻る途中の竹葉亭でうな重と肝吸い。今年の初物だ。

 丸の内ルーブルで「交渉人」(no.68)を観る。

 サミュエル・L・ジャクソンとケビン・スペイシーのくせ者どうしが共演交渉人という聞き慣れない言葉だが、それだけに非常にマニアックな映画を予感させる。

 人質をとった犯人に対して無事人質を開放させ自首を促す専門の警察官を交渉人という。サミュエルが汚職の汚名を着せられたために最後の手段として人質をとって立てこもる。ケビンとの熾烈な頭脳合戦が面白い。

 交渉は相手の事をいかに理解して先読みするかにかかっている。日本の刑事もののような情に訴えた交渉はかえって逆効果。まるでディベートをみているようでプロ対プロの話術合戦が楽しい。

カチンコ
ちょうどいま「交渉人 真下正義」が公開されているが、この当時は「交渉人」というのがまだ聞き慣れなかった。

 さらにシャンゼリゼで「あの、夏の日とんでろじいさん」(no.67)を観る。

 大林宣彦監督の新・尾道三部作の完結編だ。「ふたり」「あした」と情感を湛えた完成度の高い作品を続けて撮ってきたので三作目も同様の系列の作品を期待していたのだが、期待を大きくはずれた作品となった。

 今回は尾道市制百周年記念映画と謳っているように尾道を舞台にしただけでなく尾道で暮らす人々の過去・現在・未来に焦点を当てたノスタルチックなファンタジーとなっている。大林節が随所に出た楽しいと同時にどこかそらぞらしい映画だ。

 というのも少年が時を超えて老人の子供時代に遭遇する事で、二人の心が通じ合うだけならまだしも、戦前の豊かだった日本の姿を一挙に現在へと短絡させてしまう。普遍的な純朴さを未来への財産にしていこうとする作家の意図が感じられるのだが、それがあまりうまくいっているとは思えないからだ。

 しかも今回は大林の悪い癖であるオールスターキャストによるカメオ出演が復活していて、ちょい役にまで顔で笑わせるような役者を使っていて彼のサービス精神が裏目に出てしまっている。これについては少し説明がいるかもしれない。

 そもそもエキストラとはなんだろう。それは登場人物に物語のフォーカスをあてるべく、それ以外の物語に無関係な人々には背景におさまってもらうためのエキストラであるはずだ。ということは素人もしくは名の通っていない無名の役者が割り当てられるのが一般的だ。

 しかし時にサービス精神旺盛な監督の中には、ちょい役に名の通った役者を振り当てて遊び心を満たす人がいる。大林もその一人で、かつての角川映画では一時期頻繁にやっていた。しかしコメディならいざ知らず、この手のやり口はメインのドラマを台無しにしかねないつまらない小細工だ。

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2005年05月30日

1999年7月4日(日) 「カラオケ」「八月のクリスマス」「鉄道員(ぽっぽや)」

 テアトル新宿で「カラオケ」(no.72)を観る。

 役者の佐野史郎の第一回監督作品である。

 30年ぶりの同窓会。湖のある地方の町で久し振りに中学の同窓会を開く事になる。ある者は都会に出て名を成し、ある者は出戻り、ある者は町を一歩も出ないで残っている。30年の月日の流れは単純な学生時代と違い、いろいろなしがらみを一人一人に抱えさせている。

 それでもひとたび集まれば懐かしさと恥ずかしさと青臭さがよみがえってくる。そしてそれはかつての流行歌の中にそのまま封じ込められている


 二次会のカラオケで歌い合うかつての流行歌は、単なる青春以上の何物かを閉じ込めていて、それは彼らの中学の時期にすでに終わってしまった学生運動へのあこがれであったり、時代に遅れてきた者にとっての脱力感であったりする。

 卒業式で歌おうと思って歌えなかったカルメン・マキの「戦争は知らない」をラストでみんなで合唱するシーンがそれを象徴している。

 シネマスクエアとうきゅうで「八月のクリスマス」(no.71)を観る。

 日本では珍しい韓国映画だ。韓国映画というと「風の丘を越えて」という伝統歌謡を歌う大道芸人一家の映画が思い浮かぶ。その時も日本ではこんな映画はもうとれないだろうなと思ったが、今回の映画も純愛をテーマにしていて、日本ではすでに撮る人も撮られる役者も存在しなくなってしまったような気がする。

 例えばこの映画のラストではドラマチックな事はなにも起こらない。テレビのラブストーリーを見慣れてしまった目には物足りないように映るかもしれない。しかしこの映画の作り方のうまい点はなんといっても恋愛にもいたらなかった二人の心のせつなさを見事に映像で描ききってしまったところだ。

 10才も年の離れた二人だが、ただ黙々と仕事を誠実にこなす写真屋の青年に、女の子はおじさん、おじさんと言って無理な注文をしに訪れる。やがて何気ない会話をしにやってくる事が女の子のかけがえのない時間になってしまう。

 しかし写真屋の青年は不治の病に冒されていることが、ごくごく控え目に描かれてゆく。青年のつらさはオーバーな嘆きではなく、体のだるさと薬をそっけなく飲むシーンでひたひたと伝わってくる。

 ある日自宅で倒れた青年はそのまま入院するが、女の子には知らせない。なにも知らない女の子は閉じられた写真屋の前で何度も何度もたたずむが、ある日思い余ってその場の石をショーウインドウに投げつけてしまう。

 実に切なくまた美しい。演じている役者もいい。描かれるエピソードのひとつひとつが美しい。

 新宿トーアで「鉄道員(ぽっぽや)」(no.70)を観る。

 さてなんでこんな映画を観にくる人がいっぱいいるのだろう。浅田次郎原作ならば「ラブレター」の方が何倍か感動したが、本作は明らかに短編だからこそいきるファンタジーという気がする。

 だから広末演じる亡くなった高倉健の娘が、退職の最後の日に三回順々に成長して会いにくるという逸話だけが泣けるところで、それ以外は娘の死も妻の死にも立ち会えなかったというエピソードは本来なら一言で済ませられるし済ませるべきだろう。

 克明に描けば白々しくなるし中途半端に描けば絵空事に思えてくる
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2005年05月29日

1999年7月11日(日) 「アドレナリン・ドライブ」

 渋谷シネ・アミューズで「アドレナリン・ドライブ」(no.73)を観る。

 「ひみつの花園」の矢口史靖の最新作。自主映画から始めてぴあのフィルムフェスティバルでグランプリを受賞して一躍メジャーになった監督である。

 彼の作品は今回が初めてだが、インディーズっぽいわけのわからない芸術性とか作家の思い込みみたいなものは見当たらない。とにかく面白いものを作ろうとする姿勢がいい。インディーズらしさは、そのわけのわからない予測不能のストーリー展開と、日常会話を巧みに取り込んだ登場人物たちの台詞に表われている。それでいて話のテンポがよく、ひとたび転がりだすと止まらないスピード感で描かれていく。

 主演が石田ひかりなので恋愛パートはあまり期待できないが、この監督には本当のラブストーリーをやりたいというより冒険の中でのほのかな恋愛感情にとどめておきたいという意図が見えている。

 そのために石田ひかりはからだじゅう擦り傷だらけで走り回るボーイッシュな存在として、相手役の安藤政信はひよわでたよりなく告白も思うようにできない男として描かれている。これは基本的に冒険活劇として描くための作家の戦略なのだろう。それよりもやくざと婦長との中年どうしのやるせない恋の方に作品の味わいが出ている。
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1999年7月17日(土) 「ハムナプトラ失われた砂漠の都」

 午前中はYさんに付き合って、森川智之のトークショーの整理券を手に入れるために伊勢佐木町の有隣堂本店に開店前9:20ごろから並ぶ。朝食もモール内のバーガーキングでテイクアウト。Yさんの女友だちと合流してお昼は三人で中華街に足を延ばし飲茶。

 横浜で解散して、ひとり東京に戻り日比谷映画で「ハムナプトラ失われた砂漠の都」(no.74)を観る。

 となりのみゆき座では「スターウォーズ・エピソード1」がまだ座れるとの事。
 どうやら前評判ほどは混んでないらしい。「ハムナプトラ」の方はなかなかの盛況ぶりをみせている。配給会社の弁では、役者の金がかかってない分、特撮に金をかけているので見応えがあるとの事。

 なるほど砂嵐や砂漠に悪魔の表情が顕れたり、髑髏の兵隊が一糸乱れぬ隊列で襲いかかったりするところはB級映画らしからぬ見事な出来栄えで、全体的にトーンがはっきり統一されていて娯楽作品として楽しめる。

 ストーリーはインディージョーンズのような冒険活劇だが、魔術やミイラがでてくるところがB級映画の面目躍如たるところだろう。それにしてもレイチェル・ワイズは「アイ・ウォント・ユー」の悪女ぶりを最初に観たせいか、こんなにあどけない表情もみせるのにはちょっとびっくり。

カチンコ
 この頃からバーガーキングにハマっていた。本格的なアメリカンスタイルのハンバーガーで、トマトやオニオンがゴロッとはさまっているし、何よりポテトにケチャップをつけて食べる習慣はここで完全にマスターした。ダンキンドーナツとともに撤退が惜しまれるファストフードだ。

 中華街の飲茶は重慶飯店の喫茶部で。値段も手頃だし、気負わずに入れる手軽さが魅力だ。僕のオススメは、これからの季節、凍頂烏龍茶のアイスティー。葉っぱをぶちこんでお湯をいれたマグカップに氷がたっぷり入って出てくる。見た目にも涼しげで、味は爽やか。

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2005年05月28日

1999年7月18日(日) 「オープン・ユア・アイズ」

 六本木シネヴィヴァンで「オープン・ユア・アイズ」(no.75)を観る。

 アレハンドロ・アメナーバル監督の長編第二作目に当たる。

 これは悪夢のような恐ろしい映画だ。そして主人公が悪夢であることに気付くところがとてつもなく怖い。

 主人公の青年セサルはハンサムで金持ちで女性に不自由しない。ある日友人が連れてきた女性ソフィアに一目ぼれし、再会を約束して別れる。彼をつけまわす女性ヌーニアの車に同乗すると彼女はスピードをあげて心中を計ろうとする。奇跡的に彼だけ助かるが、事故のため顔がずたずたで醜い傷跡が残ってしまう。全快するもソフィアは彼をおそれ一人では会ってくれない。深く傷ついた彼は彼女をつけまわすようになる。

 しかし彼は金にものを言わせ自分の顔を元に戻す手術を受け見事成功する。ソフィアも彼のもとに戻ってくるが、そこから呪わしい悪夢が始まる。

 どこからどこまでが現実なのか。悪夢に気付いた時、鏡の中には事故直後の醜い顔があるのに周りの誰もが何事のないようにきれいな顔だと口々に言うシーンが衝撃的だ。

カチンコ
 「バニラ・スカイ」は本作のハリウッド版リメイクだ。トム・クルーズがプロデューサーとして惚れ込んだからだが、アメナーバル版がまさに完璧と言えるのにリメイクするなんて昨今の日本映画のリメイク流行りと考え合わせるにつけ、ハリウッド映画の不遜を感じる。両方の映画に同じソフィア役で出演したペネロペ・クルスは節操がないとしか言いようがない。
それにしてもストーカーまがいのヌーニアがハリウッド版ではキャメロン・ディアス。綺麗すぎるだろ。ミスキャストだ。

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1999年7月19日(月) 「マイ・ネーム・イズ・ジョー」

 昼食後に有楽町のシネ・ラ・セットで「マイ・ネーム・イズ・ジョー」(no.76)を観る。

 イギリスの名匠ケン・ローチ監督作品。

 前作の「カルラの歌」は海外の内戦の影響で心情的に亡命している女性カルラに恋をするイギリス男が、故国に戻るカルラに付いてホンジュラスを旅して現実の過酷さを知るまでを描いていた。正直分かりにくいし政治的なメッセージが匂ってきてあまり好きにはなれなかった。

 今回はイギリスの小さな町で暮らす普通の中年男を描いて好感が持てる。ジョーはアル中だが断酒を決意して立ち直り断酒会で告白する。

 「俺はジョー。アル中じゃない。そう思っていたがまた戻ってきた。今度は『俺はジョー』と威張って言えない。だから断酒を決意した」。


 37歳の彼が一度築いた家庭も失い、一人きりで人生の再スタートを切る。それは決して楽な道ではない。僕と同じ歳の彼が自分を見つめ直して手に入れた新たな人生。それは失業手当を受けながら、こっそりとアルバイトに精を出し、市民サッカーチームのコーチに楽しみを見いだし、偶然出会った中年の女性セーラとともにすごすことに生き甲斐を感じる、そんなささやかな人生だ。

 それが甥のしでかした不始末の尻拭いからあっけなく崩れてしまう。もちろん背景には働き盛りのジョーたちをアル中に追い込む失業というきびしい英国の現実がある。

 それを政治的にコメンテートするのではなく、市井の一人間にスポットを当てて生きることの切なさを謳いあげている。
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2005年05月27日

1999年7月24日(火) 「ラン・ローラ・ラン」「インディアナポリスの夏」

 今日から短い夏休み(4連休)。渋谷シネマライズで「ラン・ローラ・ラン」(no.78)を観る。

 予告が印象的だったがアニメが挿入されると聞いていて、映画としてはあまり期待していなかった。が、これが予想外に面白い

 ヤクの運び屋のマニは売人と取り引きした大金を地下鉄に置き忘れてしまう。窮地に追い込まれたマニは恋人ローラに電話して助けを求める。

 「俺のことを愛してるなら20分で10万マルクをつくってくれ」。

 10万マルクがどの程度の金額がわからないがとにかく大金らしい。それを20分でつくれと頼む方も頼む方だが、せっぱつまってベルリンの街を疾走するローラもローラだ。しかしこんな荒唐無稽で極端な状況に異議を差し挟ませないほど強烈な力で観客は映像に引きずりこまれていく。

 20分のサスペンスというよりは、ローラとともに今まさにベルリンの街を全速力で走り抜ける疾走感のただなかに放り込まれ、僕らは次のストーリ展開をローラと同様に考える暇を与えられない。感じるのはローラの息づかいだけだ。しかもほぼ30分であっけなく悲劇的な決着がついてしまい、僕らは途方にくれてしまう。

 ところがSFでもないのに、マニの死を認めたくないローラが再び冒頭の電話のシーンからストーリをやり直すという意外な展開に、僕らはなるほどとうならされ、おもわずにやついてしまう。今度は疾走感のただなかではなく、ストーリのヴァリエーションを楽しめる余裕がでてきている。ローラの向かう先はいつも副頭取の父親のつとめる銀行なのだが、途中で遭遇するエピソードが微妙に違っているのがおかしい。

 また大金をネコババした浮浪者と何度もすれ違うという趣向も気が利いている。2度目の悲劇的な結末の後、3度目には信じられないほどのハッピーエンドで終わるのも楽しい。

 シネ・アミューズで「インディアナポリスの夏」(no.77)を観る。

 朝鮮戦争から復員したガナーとソニーは帰りの列車で出会う。二人は同じ大学出身だが、かたや花形スポーツマンだったガナーとかたやまじめだけが取り柄の目立たない写真家ソニー。大学時代はろくに話したこともない。しかしガナーは戦争で人生観が変わり、ソニーのように写真家で身を立てたいとソニーに近づいてくる。ソニーは親公認の恋人にときめかなくなり、カソリックで性に厳格な家庭にうんざりしてガナーとの差に劣等感を抱いている。

 やがて二人は恋愛のこと、家庭のこと、将来のことを真剣の話し合うが、ソニーの劣等感は今の家庭にいる限り、癒されることがない。アメリカの50年代の現実、根強い人種差別、中流家庭での親子の大きなジェネレーションギャップ宗教感などをうまく盛り込んだ青春映画に仕上がっている。

 一見ガナーとソニーの不似合いなコンビは対等な関係にならないのではと思われるのに、最後まで二人の友情が崩れないところが暗く悲しい青春に光を投げかけている。

カチンコ
ガナーを演じたのはベン・アフレック。恋人がレイチェル・ワイズだったな、そういえば。忘れてた。どちらもこの当時は旬の役者だった。

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2005年05月26日

1999年7月25日(日) 「踊れトスカーナ!」

 シャンテシネで「踊れトスカーナ!」(no.79)を観る。

 イタリア、トスカーナ地方の田舎町。農場を経営している一家は太陽がさんさんと照りつけ、ひまわり畑におおわれている。

 長男のレバンテは退屈な会計士の仕事に明け暮れる毎日。そんなところへフラメンコダンサーの巡業バスが道に迷い飛び込んできた。一夜の宿を提供するうちに、ダンサーの一人カテリーナに一目惚れしてしまう。

 のどかで風光明媚な田舎で起こる一夏のロマンスをコミカルに描いている。同性愛者の妹が別のダンサーと仲良くなったり、芸術肌で変人の弟もダンサーにうわつきだしたりと、とにかく盛りだくさんの個性的な登場人物が織りなすラブコメだ。特に観るべきものはないが安心して楽しめる1本ではある。

 昼食後、映画のハシゴをするつもりだったが、待ち時間が多少あるのでとりやめ、銀座から京橋・神田方面を散歩した。今年の夏らしく日差しが強いが、乾燥している分すごしやすい。

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