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    2025年11月15日

    エラリー・クイーン『ローマ帽子の秘密』を散策する(その3)

     引き続き、当時流行作家だったS・S・ヴァン・ダインが作品に持ち込んだペダンティックな言い回し、いわゆる「S・S・ヴァン・ダイン風なパズラー(演繹的推理を駆使した本格ミステリ)」を著者エラリー・クイーンがどのようにアレンジしていったかを見ていこう。

    [翻訳](8章P.186)「ゆうべ、帽子以外にもフィールドの持ち物がなくなってる可能性は考えなかったのかい」
    (略)警視は不機嫌に言った。「たしかに考えたよ――ステッキだ。(略)」
     エラリーは含み笑いをした。「シェリーかワーズワースを引用したいところだね、父さんの知力をたたえて。でも”してやられた”以上に詩的な文句を思いつかないな。何しろ、ぼくのほうは、いまのいままでステッキのことは考えもしなかったんだから。(略)」
     被害者モンティ・フィールドのアパートメントを父子で捜索すると、シルクハットはなくパナマ帽や中折れ帽など4つの帽子が見つかった。だが、そもそも帽子があってもなくても犯人の手がかりにはならない事にクイーン警視はいらだつ。しかし、エラリーから「帽子以外に無くなったものがないか考えなかったのか」と聞かれた警視は「ステッキの事を言っているのなら、検討済みなので問題ない」と答える。一見するとエラリーはクイーン警視の努力を褒めたたえているように見えるが、精一杯知恵を絞ったわりには上手く行ってない事をやや皮肉っぽく指摘しているのだ。
     シェリー(1792-1882)は英国のロマン派屈指の詩人だ。妻のメアリー・シェリーは小説家兼社会思想家で、あの『フランケンシュタイン』の著者でもある。ワーズワース(1770-1850)は同じく英国の詩人で、自然の美を歌うロマン主義運動の中心人物となった。
     シェリーもワーズワースもロマン主義(ロマン派)である事から、「父の知力・努力は評価したいが的は射ていない。ステッキなんて、ずいぶんロマンティックな想像力だな」と言っているのだろう。エラリーの言葉には皮肉なニュアンスが感じられるが、同時に父への愛情がこめられている。

    [翻訳](8章P.191)「うわっ!」エラリーが声をあげる。「あの男は服の好みがずいぶんとうるさかったんだな。マルベリー通りの伊達男ブランメルといったところか」
     フィールドの寝室にあるクローゼットの中身を吟味しながら、エラリーは声をあげる。ブリタニカによると、「伊達男ブランメル」とはジョージ・ブライアン・ブランメル(1778-1840)のことらしい。「19世紀初頭のメンズ・モードに多大の影響を及ぼした英国の代表的ダンディ。イートン校時代から皇太子(のちのジョージ4世)と旧友で、英国の上流社会に君臨した」と書かれている。
     「マルベリー通り」はニューヨークのリトルイタリー地区にある通りで、19世紀にはギャングや移民のたまり場だった。つまり、ギャングのたまり場に出入りするような被害者が、まるで上流階級のように洗練されたファッションを身につけているという皮肉が込められている。

    [翻訳](8章P.191)エラリーはくすくす笑った。「だけど、もし酒の神バッカスを呼び出したくなったら、この祈りの文句を勧めておくよ。おお、酒よ、汝、知られたる名を持たぬなら、われ、そなたを死と呼ばん」
    (原注)ここでエラリー・クイーンは、おそらくシェイクスピアの文句をもじっている。「おお、汝、目に見えぬ酒の精よ、汝、知られたる名を持たぬなら、われ、そなたを悪魔と呼ばん」
    『オセロー』第二幕第三場
    “O thou invisible spirit of wine, if thou hast no name to be known by, let us call thee devil!”
     ピゴット刑事が台所から酒瓶のケースを抱えてもってくる。警視がにおいを嗅いで中身を確かめたのでピゴットもそれにならうが、さすがに味見をする気にはならないと軽口を叩く。ピゴットの軽口を受けてエラリーもユーモアを込めてシェークスピアの言葉を引用する。
     なにしろ被害者は劇場で毒を飲まされて殺されているので、「酒=死」と覚悟しておくようにというエラリー流のシャレになっている。引用元となった『オセロー』の台詞の意味は、「酒がさまざまな災いをもたらすのであれば、もはや酒の精ではなく悪魔と呼ぼう」という警句だ。エラリーは、「さまざまな災い」を「死」に限定した言い方にもじっていて、シャレであると同時にずいぶんと気取った言い方をしている。

    [翻訳](9章P.196)「”旦那さまは冷たい、冷たい土のなかに”(フォスターの名曲のタイトル)」玄関でエラリーがそう言って含み笑いをした。
     フィールドの従者マイクルズがアパートメントを訪れて、主人のいどころを訊いてくる。エラリーの答はずいぶんと思いやりに欠けるが、マイクルズが直前に朝刊を読んで主人が亡くなった事を知っている事に気づいたので、わざと冷たくあしらっている。
     エラリーの言葉は、フォスター作曲の『Massa's in de Cold Ground(主人は冷たい土の中に)』(1852年)の一節で、アメリカ南部のプランテーションで働いていた黒人たちが、亡くなった主人(massa)を悼む情景を描いた哀歌だ。マイクルズの立場を米国南部の黒人の立場に例えるのは、1920年代当時の人種差別が背景にあると言っていいだろう。別の場面でも黒人差別が露わになる箇所がある。著者クイーンに人種差別が社会的な問題であるという批判的視点があるならばやむを得ないが、本作の出版当時、まだ二十代半ばの若き知識人二人にとっては黒人差別の存在など思いもよらない事だったに違いない。公民権運動が始まるまでには、まだ20年以上もある。

    [翻訳](10章P.225)「よこしま?」エラリーはまじめな口調で言った。
    「金は諸悪の根にある」警視は意味ありげに笑って切り返した。
    エラリーの口調は変わらなかった。「根とはかぎらないよ、父さん――果実でもある」
    「また引用か」警視は茶化した。
    「フィールディングだよ」エラリーは涼しい顔で言った。
     ローマ劇場で上演された「銃撃戦」のプログラムに、被害者フィールドが書き殴った3つの数字。これには犯人を脅迫して奪い取ろうとした取引額が絡んでいる。その数字の意味するところを父子で考えている場面だ。普通は「金は諸悪の根源である」と言い習わすが、この場面では「果実」との対比が際立つように「根(ね)」を用いたようだ。
     エラリーが言いたかったのは「金は諸悪の根でもあり、果実でもある」という事だろう。道徳としては「金は諸悪の根(根源)である」という戒めになっているが、悪徳を信条とする輩にとっては「金は諸悪の果実である」。いわばコインの裏表の関係にあることを指摘している。
     この「果実」の例えがフィールディングによるものだとすると、おそらくヘンリー・フィールディング(1707-1754)の事だろう。ニッポニカによると、フィールディングは英国の小説家で戯曲も書き、「政治風刺の脚本が多く、そのほうに手腕を発揮した」らしい。特に百科事典マイペディアによると「鋭い観察眼によって人間の虚飾をはぎ、滑稽さの中に人間性の真実に迫る作品を残した。」と書かれているので、「金は諸悪の果実である」などという穿った事を言ったかもしれない。
     だが、別の解釈も考えられそうだ。地方検事サンプソンは、別の場面で被害者の本来の苗字がフィールディングだったと説明している。 
    [翻訳](6章P.142)サンプソンは強い調子で言った。「(略)もともとの苗字はフィールディングで――そこからモンティ・フィールドになったんだ」
     だとすると225頁のエラリーの言葉「フィールディングだよ」は文字どおり被害者フィールド本人を指している事になり、辻褄が合う。だが、エラリーは、クイーン警視にも僕ら読者にも、どういう意図で「フィールディング」と言ったのか一切説明しないで章を終えてしまうし、二度と種明かしもしない。なんというか、以後も、こういった勿体つけた言い回しに僕ら読者はつき合わないといけない。ヴァン・ダイン風というよりは、作家エラリー・クイーンの悪弊と言ってもいいかもしれない。

    [翻訳](12章P.267)「あの娘のことじゃない」警視は苛立たしげに言った。「けさの出来事の全体について訊いているんだ」
    「ああ、そのことか!」エラリーはかすかに笑った。「イソップ風に言ってもいいかい」
    「好きにしろ」警視はうなるように言った。
    「ライオンも」エラリーは言った。「ネズミに感謝するかもしれない」
     大富豪フランクリンは娘フランシスを案じるあまり、クイーン警視とサンプソン地方検事に自宅に来てもらい、その場で娘の聞き取りをするように懇願した。聞き取り捜査を終えたクイーン警視は、帰る道々、同席したエラリーに感想を求める。
     日本でもおなじみのイソップ物語だが、ニッポニカには「動物その他の世界に仮託して人間生活の諸相を描いた古代ギリシアの寓話集。」と書かれている。ここでの「ライオン」はフランクリン・アイヴズ・ポープで、「ネズミ」はクイーン警視の事を指している。分かりやすい例えだが、勿体ぶった言い回しがいかにもエラリーらしい。

    [翻訳](13章P.269)博士はよく響く声で言った。「お会いできて光栄だよ」
    「ぼくのほうこそ、ニューヨーク市の錬金術師パラケルススにして高名な毒物学者である博士に、ぜひともお目にかかりたいと思ってましたよ」エラリーは微笑んだ。
     検死官補プラウティがクイーン父子のアパートメントに、ニューヨーク市の毒物学者ジョーンズ博士を連れ立ってやって来る。パラケルスス(1493あるいは1494-1541)は「〈医学界のルター〉と称されるスイスの医師、思想家。(略) 文献よりも実験・実証を重んじて医化学派の祖とされるとともに、硫黄・水銀・塩の3原質、アルケウス、アルカナといった〈根源物質〉を想定する病因論・治療論には、錬金術、占星術、フィチーノ流のミクロコスモス・マクロコスモス照応説のほか、ドイツ神秘主義の影響が濃厚」(マイペディア)。日本でも錬金術師として名高い。エラリーも敬意とユーモアを込めて言い習わしたようだ。
     ところで、検死官補とは別に、毒物学者をわざわざ登場させているのは何故だろう。プラウティに答えさせても特に問題ないような事しかジョーンズ博士は言っていない。これはまさにヴァン・ダイン流と言える書き方だ。処女作『ベンスン殺人事件』(1926年)では銃器専門家としてカール・ヘージドーン警部が登場する。刑事・地方検事・検察医のようにおなじみのスタッフではなく、一回限りしか出てこない専門家に対しても、名前を付けて登場させる。このように勿体ぶった書き方をすることで、より現実味(リアルさ)が際立つような演出をするのがヴァン・ダインの好みだった。クイーンもそこをまねたのだ。

    [翻訳](13章P.270)「ごもっとも!」エラリーはつぶやいた。「ジョーンズ博士に助けを求めたということは、フィールド氏の体内残留物の検査で壁にぶつかったらしい。白状したらどうですか、医の神アスクレピオス!」
     今度は検死官補プラウティ自身をもちあげてアスクレピオスにたとえている。精選版日本国語大辞典(日国)によると、アスクレピオスは「ギリシア神話の医術の神。アポロンの子。半獣神ケイロンから医術を教わる。のち死者をよみがえらせて主神ゼウスの怒りにふれ、雷に打たれて星となった。」と書かれている。

    [翻訳](14章P.301) エラリーは身震いした。「たぶんメトロポリタン歌劇場とタイタス・トゥームを除けば、ぼくが足を運んだなかでいちばん陰気な劇場だね。死せる友の霊廟としてまさにふさわしい…」
     モンティ・フィールド殺害事件後、立ち入り禁止になったローマ劇場をあらためて訪れて、被害者の帽子の在処を徹底的にさぐろうとする。支配人に入口の鍵を開けてもらうと「真っ暗な一階席が口をあけている」。
     メトロポリタン歌劇場は、「アメリカ合衆国ニューヨーク市にあるオペラ劇場。1883年開場。20世紀初頭トスカニーニのもと全盛を迎え、カルーソ、シャリアピンらが出演した」(日国)。
     一方のタイタス・トゥームは、Titus' Tomb(ティトゥスの墓)の事だと思われる。ティトゥス(Titus)は古代ローマ皇帝(在位79-81)だ。「ウェスパシアヌス帝の子で、父が着工したコロセウムを完成した。在位中はベスビオ山の大爆発、ローマ大火、疫病の流行などが続いた」(日国)とある。なんと!コロセウムを完成させた皇帝だったとは。墓はいまだに特定されていないが、ティトゥスを記念する建造物に「ティトゥスの凱旋門」がある。エラリーが「足を運んだ」と言っているのは、この凱旋門の事だろうか?
     この時点(作品出版時が1929年)でメトロポリタン歌劇場は、作られて半世紀も経っている。エラリーはそこから陰気さを感じ取っているので、ローマ劇場も同じように古くて陰気な劇場だという事だろう。
     ティトゥス帝の在位中に災厄が続いたせいで、皇帝の墓タイタス・トゥーム自体が非常に陰気な雰囲気を醸すことになった。本作の中でも、けだし名言と言えるかもしれない。「死せる友の霊廟」(モンティ・フィールドを「死せる友」と皮肉っている)という例えが気取っているのが、唯一の難点だ。

    [翻訳](14章P.307) 警視は顔をほころばせた。「ご婦人にしては驚くほど早いですよ、びっくりするほどね、フィリップスさん!」
    「父は大昔にブラーニー石(キスをするとお世辞がうまくなると言われている石)に接吻したんです、フィリップスさん」エラリーは真顔で言った。
     ローマ劇場を再捜索するに当たって、是非にとパンザー支配人に早朝から依頼して衣装係のフィリップス夫人に来てもらうように段取りをつけておいた。老夫人は到着すると「お待たせして申し訳ない」と謝罪する。ニューヨーク中の犯罪者たちが恐れをなすクイーン警視ではあるが、老夫人を前にすると借りてきた猫のようになる。エラリーは是非とも彼女に確認してもらいたい事があるため、輪を掛けて上機嫌になる。ブラーニー(Blarney)というのは地名で、アイルランド南西部Cork州中部の町の事。ブラーニー城にあるブラーニー石(Blarney Stone)に
    キスをすると、お世辞(blarney)がうまくなるという伝説がある。フィリップス夫人に対しては、さしものエラリーも皮肉抜きで気安いユーモアを投げかけている。

    [翻訳](15章P.336)「知っているかぎりで答えてもらえるかな、ラッソーさん」 エラリーは冷ややかに言った。「騎士レアンドロス(恋にゆえに命を落とした、ギリシャ神話に出てくる青年)とのけだし親密な、長い付き合いから知るかぎりで――フィールドはシルクハットをいくつ持っていただろうか」
     モンティ・フィールドの愛人ラッソーが、かつてフィールドとパートナーだった弁護士ベンジャミン・モーガンの事務所から出て来たところを、尾行していたヘイグストローム刑事がとらえて警視のもとに連行した。
     レアンドロスとは、古代ギリシアの物語に出てくる主人公の名前だ。「ヘレンポントス海峡を挟んでアジア川の町アビドスに住むレアンドロスは、対岸の町セストスでアフロディテに仕える巫女ヘーローに恋をする。彼は、夜ごと彼女が塔にともす明かりを目標に海峡を泳ぎ渡り、恋人との人目を忍ぶ逢瀬を重ねる。しかしある夜嵐のために明かりが消えたため、方向を失ったレアンドロスは力尽きて溺れ死ぬ。これを知ったヘーローも海に身を投じる」(ニッポニカ)。
     ラッソーと亡くなったフィールドとの親密な関係をヘーローとレアンドロスとの関係になぞらえている。ただし、エラリー自身はラッソーとフィールドとの関係を悲恋とは考えていないので、あくまで歯が浮くようなおべんちゃらでラッソーのご機嫌をとっている感じがする。

    [翻訳](17章P.376) エラリーはそこで口をつぐみ、目を輝かせた。(略)
    「しかし」エラリーは父親の顔を魅入られたように見つめながら、ゆっくりと言った。「セネカの黄金の屋根にかけて、見落としたものがある――そう、たしかに見落としてたよ!」
     ずっと探し続けたフィールドの帽子の在処は、最終的に彼のアパートメント以外には考えられない。そう推理したエラリーは、父と地方検事補クローニンを引き連れてアパートメントを捜索するが見つからない。しかし、最後の最後にフィールドの寝室に見落としたものがある事に気がつく。
     エラリーの言葉に出てくるセネカとは「小セネカ(前4ー後65)」である。小セネカは、ローマの修辞学者である大セネカ(前55-後39)の息子にあたる。「ローマの後期ストア派の哲学者、詩人。ピタゴラス、プラトン、エピクロス、キュニコス派に多くの点で影響を受けつつ、ストア主義の正統を守って哲学を理性的存在である人間の唯一の目的、幸福、善としての徳の修練に結びつけ、倫理生活の根本原則は自然に従って生きる事にあるとした」(ブリタニカ)。
     だから何なんだと言ってもうまく言えないのだが、「ストア主義の正統を守る」事を重視した哲学者だという点が重要なのだろう。ストア主義とは「克己・禁欲・義務を重んじ、感情にとらわれず、毅然として運命を甘受する態度」(広辞苑)の事を指す。倫理的に自然に生きる事が重要であり、それ以外の快楽は幸福とは無縁だという事。その象徴として「セネカの黄金の屋根(roof of gold)」がある。「黄金の屋根」は「豪華な住まい・贅沢な建築・見せかけの富」の象徴であり、それ自体に価値が伴うものではない事を比喩的に表現している。
     まさにフィールドの寝室にて見かけは「豪華で贅沢に見えるもの」に本質的なもの(帽子)が隠されているという事にエラリーは気づくのだ。

    [翻訳](17章P.381)「メネ・メネ・テケル・ウパルシル(旧約聖書のダニエル書第五章二十五節にある、古代バビロニア王国の王宮の壁に現われたという滅亡の預言。意味は「数えられり、数えられり、量られり、分かたれり」)」エラリーは笑った。「この場合は、”羽目板に現れた文字"とでも言うべきかな。さあ調べよ、マクダフ(シェイクスピア『マクベス』で、マクベス王を討つ者)!」
     ようやくたどり着いた帽子の隠し場所から、フィールドのシルクハットが4つも見つかる。それぞれの帽子には何が隠されているか。エラリーは楽しげに「さて、では中を見てみよう」と言うかわりに、聖書の言葉を引用している。
     前半は旧約聖書ダニエル書の一場面。亡き父ネブカドネツァル王がかつてエルサレムの宮殿から奪って大切に祭壇に祀ってきた金銀の祭具を、バビロン王国の王ベルシャツァルは宴に使うために持ってこさせたため、侮辱された神が王宮の白い壁に文字を刻んだ。文字には「ベルシャツァルの治世を『数えて』終わらせ、『量を計る』事で不足と判断し、『分ける』ことで王国を二分してメディアとペルシアに与える」と書かれていた。その夜にベルシャツァルは殺された。
     このエピソードは一般的に「滅亡の預言」として知られているようだ。エラリーの口調から「鬼が出るか蛇が出るか」のような軽いユーモアが感じ取れる。
     後半の「さあ調べよ、マクダフ!」という台詞は、シェークスピアの戯曲『マクベス』でマクベスとマクダフとが一騎打ちをする際のマクベスの言葉だ。戯曲ではマクベスが「かかってこい、マクダフ!(Lay on, Macduff!)」と言うのだが、それをもじってエラリーは「さあ調べよ、マクダフ!(Examine on, Macduff!)」と、クローニンに言う。
     本作ではまだ控えめだが、この後の作品でエラリーが思慮深くなるに連れて聖書からの引用も増えていく事になる。

    [翻訳](18章P.395)「これほど使えなくて、腹立たしくて、中身のない報告書は見たことがない!」警視は怒りの声をあげた。
     エラリーは微笑した。「ペリアンドロス(古代ギリシャの七賢人のひとり)はもちろん知ってるね…どう? ほどほどにするんだな、警視さん…コリントスのペリアンドロスはしらふのときこう言ってるよ。”勤勉に不可能なし!"」
     ヴェリー部長刑事が届けた報告書を読みながら、クイーン警視は何の進展もない事に苛立って声をあげる。エラリーは父を優しくなだめる。
     ペリアンドロスは「古代ギリシア、コリントの僭主にしてギリシアの七賢人の一人。怠惰や奢侈を禁じ、産業、商業を奨励したため、コリントは繁栄をきわめた」(ブリタニカ)。僭主(せんしゅ)とは「非合法の手段によって政権を奪取し、独裁制を樹立した人物」の事を指す。同じく七賢人とは「前6世紀前半にでたギリシアの傑出した治者7人」を指す。特に七賢人の格言には「汝自身を知れ」「極端を慎め」「苦痛を生む快楽を避けよ」「利得は飽くを知らぬもの」「年長者を敬え」「友人たちに対しては、彼らが幸運なときにも不運なときにも同じ人であれ」「市民たちにはもっとも快いことではなくて、もっともよいことを忠告せよ」などが後世に伝えられている。しかし、エラリーの言う「勤勉に不可能なし!」という格言は見当たらない。
     Copilotに訊くと、ペリアンドロスには「節度を重んじる言葉は多いが、勤勉や努力を称える表現は少ない」らしい。一方で、英国の詩人・批評家であるサミュエル・ジョンソン(1709-1784)は、自著『アビシニアの王子ラスラス』(1759年)の中で「勤勉と技能にとって不可能なことはほとんどない。(Few things are impossible to diligence and skill.)」と書いている。そこから「勤勉に不可能なし。(To industry nothing is impossible.)」いう形で広く引用されるようになった。
     つまり、格言自体は18世紀頃に作られた(もしくは広まった)と考えられるので、「ペリアンドロスが言ってる」というエラリーの言葉は無責任でいい加減な知識のひけらかしのような気がする。

    [翻訳](18章P.397)「空き巣に恵まれた地獄(ゲヘナ)ことニューヨークよ!」エラリーは声を張りあげた。「森に住む牧神(パン)には人の世の苦難など無縁だ。(略)」
     フィールドのアパートメントからシルクハットは見つけたが、フィールドを殺害した人物を証拠立てる肝心の帽子は見つからない。ある男を雇って空き巣まがいの事をさせて証拠が出てこなかったら、いよいよ手詰まりだと嘆く警視をよそに、エラリーは前から約束していた休暇の事を考えている。
     ゲヘナとはヘブライ語で「ベン・ヒンノム(息子)の谷」の意。「ユダとベニヤミンの地の境界の一つで、エルサレムの南にある谷。王国時代に子供たちを焼いて異教の神バールに播祭として捧げた場所(エレミア書)。ユダヤ教においては比喩的に死後、罪人が罰を受ける場所、地獄の名で呼ばれる」(ブリタニカ)。またもや聖書からの用語が出て来た。
     一方、パンとはギリシア神話の牧神で、「上半身はあごひげをたくわえた老人で、山羊の足と角をもつ半獣神。音楽と踊りを好み、牧人の音楽をつかさどる」(日国)。
     クイーン警視は二進も三進もいかなくなっているというのに、エラリーは友人と一緒にメーン州の湖畔の小屋で休暇を過ごす自分を想像して楽しそうだ。そんな二人の対比を面白がって話している。

    [翻訳](19章P.421)(略)不可避なれば潔くこれをおこなえと述べた偉人たち――ラブレー、チョーサー、シェイクスピア、ドライデンらの仲間に加わってもらいたいね。(略)
     苦境に立たされた警視に対して、休暇中のエラリーから電報が届く。演繹的推理で「誰がモンティ・フィールドを殺したか」を証明できた事、その人物がたった一人でしかあり得ない事を証明できた事を報告した。さらには、犯人を窮地に追いこむ罠を仕掛けるように勧めてきた。
     「必然を美徳に変えてみろ!(Make a virtue of necessity!)」とは、古代ローマの詩人ホラティウス(前65-前8)に起源を持つ。ホラティウスは「南イタリアのウェヌシア生まれで、アウグストゥス帝の寵愛を受けた人物。技巧に優れ、知的で都会的なユーモアと人間味に富む。人間の俗物性を風刺し、文明批評的な作品も多い」(マイペディア)。この後、この格言は英国の詩人チョーサー(1340頃-1400)、シェークスピア(1564-1616)という順に使われて広まった。ラブレー(1494-1553頃)はフランスの物語作家でルネサンス文学の代表者。ドライデン(1631-1700)は英国の詩人・劇作家・評論家。真偽はともかく、ホラティウスが生み出した言葉が詩人たちの間で引き継がれていき、一般にも広まったらしい。
     エラリーは父にも、思いきって彼らの仲間入りをしてみろと勧めてきたのだ。

     以上がエラリーが〈S・S・ヴァン・ダイン風〉のペダンティックな記述をアレンジした結果だ。特徴を箇条書きにしてみる。
    ・美術評論家ライトとは違って、美術に関する知識はほとんど出てこない。
    ・英国の文学史や古代ギリシャに始まる哲学史などの知識は共通している。
    ・美術の代わりに文学(特に詩人)に関する知識が多い。
    ・意図的に聖書から引用している(まだ多くはない)。
    ・結構、いい加減な知識が多い。ヴァン・ダインは知識量が多いからか、割と正しい知識を採用している感じがする。
    ・無駄な原註がほとんど無い。ヴァン・ダインは登場人物に関する情報を原註で詳細に書き加えている。それでなくても読みにくく邪魔な注が、一気に増えてしまう。エラリー・クイーンは基本的に注を省略してしまった。
    ・エラリーの発言はペダンティックな知識と皮肉とが絡み合っている。ファイロ・ヴァンスは確かに皮肉な言い回しをするが、人間に対する皮肉とペダンティックな知識とは分離している事が多い。
     ファイロ・ヴァンスのペダンティックな物言いに辟易する人は多い。それは美術や哲学などの知識が過剰だと感じるからだ。さらには、現実には存在しない作中の人物に関する原註が過剰に存在するせいで、リアリティが増すというより無駄な記述を読まされていると感じるからだ。人間性としては高等遊民的で世間知らずであるが故に、場をわきまえずに何でもズケズケとしゃべってしまうところがあるが、根は人なつっこいので気に入った人物とはすぐに仲良くなれる。
     一方のエラリーはとにかく皮肉をまぶさないと何も言えないので、誰彼かまわずに毒を吐いている。彼と仲良くなれる人物がいる事の方が驚きだ。ヴァン・ダインが長篇を書けなくなり読者からも飽きられた頃には、クイーンも探偵エラリーの人間性を変えていかねばならなくなったのは当然の事だった。
    posted by アスラン at 01:40 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) |  書評(エラリー・クイーン) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2025年10月31日

    エラリー・クイーン『ローマ帽子の秘密』を散策する(その2)

     (その1)ではgoogleマップを駆使してクイーン父子の動線を追う事で、「パズラーに無縁なものは何一つない」(『エラリー・クイーン パーフェクトガイド』)事を検証した。だが、実は「パズラーに無縁なもの」はちゃんと存在しているのだ。それは、論理的な推論を語るときには饒舌なエラリーが、ときおり話の腰を折るように口を突いて出てくるペダンティックな知識だ。
     エラリーの小生意気な態度から皮肉が込められている事は十分に伝わってくるのだが、何を言わんとしているかを理解している者は、父を含めて作中には誰もいないのではないか。当然ながら読者さえもがついていけない。まさにペダンティックな趣向を言葉の端々に織りこんで相手を煙に巻いている。これが「パズラーに無縁なもの」である事は明らかだろう。しかし、著者エラリー・クイーンにとっては必要不可欠な趣向だったはずだ。なぜなら、当時の彼らにとっての「パズラー」イコール「S・S・ヴァン・ダイン風のパズラー」だったからだ。

     では、〈ヴァン・ダイン風〉とはどのようなものだったか。1923年にデビュー作として出版された『ベンスン殺人事件』から引用してみよう。『ローマ帽子』も新訳なのにあわせて、『ベンスン』も新訳(日暮雅道)の文章を用いる。ちなみに探偵はファイロ・ヴァンス。ヴァンスの法律顧問を務め、小説の語り手でもあるのがヴァン・ダインだ。探偵の相棒役と著者とが同名なのにインスパイアされて、作家エラリー・クイーンは著者と探偵とを同名にした。クイーンの小説が三人称であるのとは違い、ヴァン・ダインの小説は一人称であり、ヴァンスの言葉だけなく、描写や解説をするヴァン・ダインの言葉も、ともに著者のペダンティック趣味が色濃く反映されている。(翻訳の丸括弧内は訳注である)。

    [翻訳](1章P.13)前日の午後、ヴァンスはヴォラール(印象派絵画の蒐集で知られる、パリの画商)のセザンヌ水彩画コレクション内覧会を見にケスラ−画廊へ出かけたのだが、(略)
    [翻訳](1章P.17)「このヴォラールって男だが」ヴァンスはずいぶんたってから口を開いた。「芸術を畏敬してやまないこの国に、ずいぶん気前のいいところを見せてくれたんだな。所有しているセザンヌの中でも、なかなか悪くないコレクションをこっちへ送ってくれている。きのうはそこそこ感心しつつも、なにしろケスラーに目をつけられていたから、つとめて平然と拝見したんだがね。今朝画廊が開いたらすぐに、きみに買ってきてもらいたいものにしるしをつけておいたよ」
     新訳では人名などの直後に簡潔な訳注が挿入されている。日本の読者がとまどわないようにという配慮なのだが、ペダンティック趣味の単語が多数羅列されている場合には、訳注が文章の流れの邪魔になる。あるいは、せっかく勿体ぶって書いているのに、訳注を挟む事でペダンティックな雰囲気が損なわれてしまう。そもそも本国でも「ヴォラール」を知っている人が少なかったとしたならば、わざわざ訳注を挿入する意味があったのかも疑問だ。
     いずれにしろ、著者S・S・ヴァン・ダインのペダンティックな趣向の原点は、彼が美術評論家ウィラード・ハンティントン・ライトだという事にあった。評論家としては大成しなかったライトは、美術や哲学に一家言ある事をヴァン・ダイン名義のミステリの中で表現しようとしたのだ。

    [翻訳](5章P.77) ヴァンスはものうげに言い訳した。「いやいや、ヴァン、僕は感情的に、いや、最近は言葉の使い方が間違っているほうの人間的になるつもりはないよ。テレンティウス(ローマの喜劇作家)に同調して、『私は人間だ。人間に関して私に無関係なことは何ひとつない』なんて、僕には言えないな。(略)」
     ヴァンスが常日頃とは違ってベンスンの殺人事件についての新聞記事を読みあさっているのに、ヴァン・ダインが驚きを示す場面。日国によると、テレンティウスは「古代ローマの喜劇作家。カルタゴ生まれ。」で、「私は人間だ。人間に関することは他人事とは思えない」などの名句を残したそうだ。また、ニッポニカによると、この句を「カール・マルクスが終生の信条とした」と書かれているところを見ると、単にトリビアな知識をひけらかした訳ではなさそうだ。

    [翻訳](5章P.79) (私注:地方検事マーカスに向けて)「やあ、リュクルゴス(紀元前九世紀ごろのスパルタの立法者)君」と、ヴァンスが迎え入れる。
     日国によると「古代スパルタの立法者。スパルタの国制や生活規定を定めたといわれる。伝説的な人物とする説もある。」と書かれている。古代ローマやギリシャの偉人については、僕を含めた多くの日本人にはなじみがない。だが日本人が中国の偉人を知るように欧米人にとっては当たり前のようになじみがある名前なのかもしれない。あるいは欧米の知識人しか知らない名前かもしれない(こちらの方がありそうだ)。

    [翻訳](1章P19) 東三十八丁目にあるヴァンスのアパートメント(略)は、東洋と西洋、古代と現代の稀少な美術の実例で埋め尽くされているものの、決して詰め込みすぎとはなっていない。絵画は広くルネサンス以前のイタリア美術からセザンヌやマティスまで、オリジナルの素描コレクションの中にはミケランジェロからピカソのものまで広範囲の作品がちりばめられていた。ヴァンスの集めた中国の版画は、この国随一のすばらしい個人コレクションになっており、李龍眠(北宋の画家)、李安忠(南宋の画家)、高克明(北宋の中国画家)、夏珪(南宋の山水画家)、牧𧮾(南宋の水墨画家)らの佳品が含まれている。
     美術評論家ライトの面目躍如たるところは、このようなヴァンスのアパートメントの描写に現れる。専門家や好事家でもないと理解不能な中国画家の名前がズラズラと並び、次から次へとペダンティックな知識が盛りこまれる。「決して詰め込みすぎとはなっていない」とは言うけれど、このような文章が全編にわたって続くと、度を超しているとしか言いようがない。

    [翻訳](9章P.133)「(略)マーカム――それに、いい助言ってのはどれもそうだけど、しゃれた言い回しじゃないか。…まったくね、最後に頼りになるのは忍耐――ほかにどうしようもないとき、とるべき手段は忍耐だ。(略)忍耐は”悲しみの奴隷"であり、”形を変えた苦悩への特効薬"でも、"偉大な勇者の唯一の受難"でもある。ルソーは、『忍耐は苦いが、その実は甘い』と書いている。(略)ヴェルギリウスいわく、『すべての不運は耐え忍ぶことによって告白される』。ホランティウスもこの主題で言ってるな。『難しいが、訂正の不可能なものは耐え忍ぶことによって容易になる』」
     ジャン・ジャック・ルソーはフランスの作家にして啓蒙思想家、ヴェルギリウス(ウェルギリウス)は古代ローマ最大の詩人、ホランティウス(オウィディウス)はローマ帝政初期の詩人だ。美術だけでなく美学の評論家でもあったライトは、「忍耐」について一言物申すために、くどいほどの知識をひけらかす。
    ルソー La patience est amère mais son fruit est doux.(忍耐は苦いが、その実は甘い)
    ウェルギリウス Superanda omnis fortuna ferendo est, quoth Vergil.(すべての運命(不運)は、耐え忍ぶことによって乗り越えられる)
    オウィディウス Durum! said he, sed levius fit patientia(それは厳しいが、忍耐によって軽減される)
     くどいことはくどいが、原文をきちんと引用している点は評価できる。当初想像していた以上にペダンティックな趣向を律儀に盛りこんでいる。
         ♥♠♦♣
     ではエラリー・クイーンは、この〈ヴァン・ダイン風〉をどのようにアレンジしたのだろうか。それを一箇所一箇所見ていこうと思う。幸いな事にクイーンの小説は三人称の語り手を採用しているので、ペダンティックな趣向はエラリーの会話の中にしか現れない。

    [翻訳](2章P.44)「正直に言うと」エラリー・クイーンは休みなく視線を動かしながら言った。「こっちはお愛想を返す気になれないね。愛書家の至上の楽園から急に引きずり出されたんだから。あの店主からファルコナーの貴重きわまりない初版本を売ってもらえそうになったんで、本部にいる父さんから金を借りるつもりだったんだ。(略)」
     父クイーン警視からローマ劇場に呼び出された若き自信家エラリーの初登場シーン。ブリタニカ国際大百科事典によると「フォールコナー(Falconer, William)(1732-1769)はイギリスの詩人。スコットランド出身。船員として経験したギリシア海岸での遭難を歌った長詩『難船』(1762)などで知られる。インドへの航海途上で船が難破し、三十代の若さで亡くなった。」と記載されている。つまり、知名度としては海洋文学や18世紀の詩を専門とする一部の人に限定されるようだ。このような作家の初版本は入手がかなり困難だ。美術の専門家ではない二人の若者が選んだ道は「愛書家の探偵が活躍するミステリ」だった。後にフレデリック・ダネイは書籍収集を趣味とするようになったが、すでにこの頃から愛書家の素養があったのかもしれない。

    [翻訳](2章P.61)「わかった、フリント、待機するように」
     刑事は重い足どりで歩き去った。エラリーがゆっくりと言った。「若きディオゲネスがシルクハットを見つけてくるなんて、本気で思ってたわけじゃないだろうね」
     百科事典マイペディアによると、ディオゲネスは「古代ギリシアの哲学者。キュニコス学派の代表的人物。禁欲・自足・無恥を信条とし、因習から解放された自由生活を実践。」とある。奇行が多く「裸同然の風体、公衆の面前での性交、白昼に明かりを手に〈人間はおらぬか〉とよばわった」という逸話がある。サラッと書かれているが、かなり"ヤバい"哲学者だったようだ。当のフリントは「若くたくましい私服の刑事が…」「きみの若々しい筋肉を働かせて、腹這いでシルクハットを探してもらいたい。」(P.56)と描写されるように筋肉が自慢の刑事というだけだ。奇行が過ぎる哲学者にたとえるのは行き過ぎだろう。

    [翻訳](3章P.66)「大昔の肉屋の不幸な過ちを繰り返さないように用心してもらいたいな。四十人も弟子のいた親方が、いちばん大切な包丁を探して、みんなでそこらじゅうを引っ掻きまわしたあげく、包丁ははじめから親方の口におさまってたっていう話だよ」
     どうやら出典は中国の『笑府』などの笑話集らしい。これが19世紀末〜20世紀初頭に英訳され、ジャイルズ『Chinese Anecdote(東洋笑話)』の中の「Butcher and the Knife」として紹介された。念には念を入れて劇場内を捜索した方がよいという教訓話を垂れているのだが、エラリーの皮肉もたっぷりと込められている。

    [翻訳](3章P.75) ジェス・リンチはしばらく真剣に考えてから、言い切った。「十分くらいでした。(略)ぼくが瓶を持って劇場にはいったときには、女の子がギャングのアジトでつかまって、悪者にきびしく責められる場面になってましたから、十分くらいだとわかるんです」
    「目端が利く若きヘルメスよ!」エラリーはつぶやき、急に笑顔になった。
     頼まれたジンジャエールを被害者に手渡した時刻を売り子ジェスに確認した場面。ヘルメスは「ギリシア神話の神。商業、牧畜、旅人、盗みなどをつかさどる」。ただし、逸話が多く、日国・広辞苑の語釈を読んでも今ひとつ本文の説明がつかない。マイペディアには「アポロンの牛を盗んだ話、竪琴の発明、百眼の怪物アルゴスの殺害など、その機知と抜け目なさにまつわる多様な伝承がある。」と書かれているので、売り子をヘルメスと呼んだ理由がようやくわかった。

    [翻訳](4章P.92)「ささやかな幸運にも感謝しなきゃね」エラリーは微笑した。「ひとつの過ちは二十の過ちを生む」
     小悪党"牧師"ことカザネッリに「最後に(被害者)フィールドと会ったのはいつだ」と警視が質すと、思わず「モンティ・フィールドなんて知らない」と答えてしまう。その事を指して「ささやかな幸運」と表現しているのだが、「ひとつの過ちは二十の過ちを生む」の出典は分からない。日本語の「二度あることは三度ある」という格言と同じ事を表現したのかもしれない。二十の過ちとは少し誇張が過ぎるので著者の創作の可能性もある。

    [翻訳](7章P.153)「理性を失わないでもらいたいな、平和の守護者どの(ムシュー・ル・ガルディアン・ド・ラ・ペ)」エラリーは声をあげて笑った。
     エラリーが劇場の案内係マッジ・オコンネルから重要な証言を聞き出したと知ったクイーン警視は、自分が聞いたときには話さなかったと癇癪をおこす。直後のエラリーの台詞だ。ムシュー・ル・ガルディアン・ド・ラ・ペ(Monsieur le gardien de la paix)はフランス語で、それを直訳したのが「平和の守護者どの」だ。市民が警察官に対して敬意を込めて呼びかける際の言い回しらしい。
     この場面では、エラリーが敬意と愛情を込めて父に呼びかけているのだが、同時に自らの知識をひけらしているとも言える。警察官である警視には言葉の意味は伝わっているし、同時に著者クイーンはこの表現の意味が伝わる読者に意図的な演出を行っているとも考えられる。残念ながら日本にはこのフランス語は伝わっておらず、本来ならば原註が必要なところだ。

    [翻訳](7章P.155)「父さんはあれこれ考えて手いっぱいだったけど、ぼくはソクラテスみたいに突っ立ってればよかったんだから」
     エラリーは、演繹的推理を駆使して「犯人が逃走する事無く劇場にいた」事を証明してみせる。クイーン警視は「もっとしっかり考え抜かなかった」自分を卑下するが、エラリーは珍しいことに父をやさしく慰める。
     ここで引き合いに出されるのが、おなじみのソクラテスだ。マイペディアでは「世に盛んなソフィスト流の知や徳に異を唱え、〈無知〉の自覚(〈汝自身を知れ〉)のもとに、厳密な論理と方法とをもって真の知=徳に至る道を説いた。」と書かれている。これは弟子のプラトンがソクラテスの死後に書いた数々の文章で、師ソクラテスの教えを評価したからだ。
     しかしマイペディアでは、続けて「その哲学は、ソフィストたちの多様な意見や自由な主張の展開を、ことごとく〈知・無知〉〈知るとは何か〉という抽象的・根本的な問いに収斂させてしまうものであり、現代では西欧哲学の観念論・主知主義、悪しき知性主義の伝統の祖ともいえるとの批判もなされている。」とも書かれている。『ローマ帽子』執筆当時の著者がどのように考えていたかは分からないが、この場面のエラリー(ソクラテス)は「厳密な論理と方法とで真の知に至」ろうとはするが、クイーン警視(ソフィスト)のようには汗水たらして考えていないと自虐的に言う事で、父をなぐさめている。
    (続く)

    posted by アスラン at 01:00 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) |  書評(エラリー・クイーン) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2025年10月18日

    エラリー・クイーン『ローマ帽子の秘密』を散策する(その1)

     前々から『ローマ帽子の秘密』の良さがよく分からなかった。会社のクイーン好きの同僚が特にお気に入りだというのが『ローマ帽子』で、その理由が「犯人を最後の最後の一人まで理詰めで絞り込んでいくからだ」と言っていた。だが、それは2作目の『フランス白粉の秘密』にも当てはまるのではないかと思った。まさに僕のお気に入りが『フランス白粉』で、その理由が「作品のクライマックスで、犯人を最後の最後の一人まで理詰めで絞り込んでいく」からだ。『ローマ帽子』と『フランス白粉』との決定的な違いは、ミステリのスターとも言える名探偵エラリー自身が、お得意の演繹推理で絞り込んだ犯人を名指しするか否かにある。『ローマ帽子』は、名探偵の物語にとって最も重要な要件を意図的に回避しているが故に、僕にとっては致命的な欠陥を抱えた作品としか思えなかった。

     ところが角川文庫が翻訳家・越前敏弥さん主導で国名シリーズを翻訳する事になって、あらためて緻密な翻訳をベースにして「犯人を最後の最後の一人まで絞り込んでいく」プロセスを十二分に味わう事で、デビュー作の出来を見なおす事ができた。ただ、その後何回か角川文庫版を読み直したが、最後のクライマックス場面が瑕疵であるという認識を改めるまでには至らなかった。いつもなら「ネタバレ解読」と称して、飯城勇三『エラリー・クイーン パーフェクトガイド』の批評にそって作品の特徴を味わうのだが、こと『ローマ帽子』では「本作では『パズラーに無縁なもの』は何一つない」というのが最大の特徴だと飯城さんは言う。ならばネタバレうんぬんを論じてもあまり意味が無い。それよりも、作品を味わうためのトリビアにこだわった方がよさそうなので、『ローマ帽子の秘密』を散策する事にした。散策する対象は以下のとおりだ。
    原作: The Roman hat mystery (1929) by Ellery Queen
    翻訳: ローマ帽子の秘密(角川文庫) (2012年) 訳 越前敏弥・青木創
    原書: The Roman hat mystery (renewed 1957 by Ellery Queen) 1967 published by The New American Library

     舞台はマンハッタンだ。精選版日本国語大辞典(日国)によれば「アメリカ合衆国、ニューヨーク市中心部の島。また、その島を占める区。ハドソン川・イースト川・ハーレム川に囲まれる。商業・金融・芸術・文化の世界的中心地。国際連合本部、エンパイアステートビルなどがある。」と書かれている。以下に本作の舞台となるマンハッタン(島)を俯瞰する地図を示す。西側にハドソン川が流れ、ニューヨーク州とニュー・ジャージー州とを隔てている。東側には文字どおりイースト川が流れ、対岸にはロングアイランド(島)がある。ハーレム川はマンハッタン島と本土との境界を流れ、本土側にはブロンクスがある。
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     クイーン研究家の飯城勇三さんが本作の特徴として「パズラーに無縁なものは何一つない」と書いているとおり、地図に示した場所には作中の登場人物の住居や事務所、あるいは肝心かなめの犯行現場などしか挙がっていない。観光名所は皆無と言っていい。つまり、本作は『ダ・ヴィンチ・コード』に代表されるようなツアー型ミステリーではない。何しろセントラルパークもエンパイア・ステート・ビルもほぼ素通りしているのだ。強いて言えば、犯行が行われた「ローマ劇場」(架空の劇場)がブロードウェイにあるため、目抜き通りにあたるホワイトウェイに印が集中している。しかしそれとて、主に登場人物の住所が多いし、ほとんどが普通のアパートメントだ。要するに、エラリー・クイーンと名乗る事になった従兄弟同士の若き二人は、執筆当時、パズラー(演繹推理を駆使して論理的に犯人を指し示すミステリ)を作りあげる事だけに腐心していて、作品の舞台や登場人物を読者にとって興味深いものにしようなどという「無駄な事」には一切関心を示していないのだ。

     唯一の観光名所は、犯行現場から最も離れた位置にあるブロンクス動物園(H)だ。マンハッタン島ではなく本土のブロンクスにある動物園で、1899年に開園している。この場所だけは「パズラーに無縁なもの」かもしれない。事件解決の見通しがついて上機嫌のクイーン警視が、召使いジューナを連れて英気を養う場面が以下のように描かれている。
    [翻訳](20章P.423) 警視は含み笑いをした。「それはもう過去の話だ、トマス。きのうはジューナとふたりでブロンクス動物園へ行って、われらが同胞たる動物たちと楽しい四時間を過ごしたよ」

     ちなみに動物園に連れて行ってもらう召使いジューナは「少年」というイメージだが、実はこの時には立派に成人している。
    [翻訳](8章P.170) ジューナは、エラリーが大学に行ってしまったためにリチャード・クイーンがひどく孤独を感じていたころ、この家に迎え入れられた。その明るい十九歳の少年は、親の顔を知らずに育ち、苗字の必要性など一度として感じたことがなかった。
     つまり、高等遊民的ではあるが今やまがいなりにもミステリ作家になっているエラリーの年齢を考慮するかぎり、クイーン家に「迎え入れられた」時に19歳だった少年(少年?)は20代前半ぐらいにはなっているはずだ。少年どころか立派な成人男子だろう。

     サウスブロンクスに、被害者モンティ・フィールドの従者であるチャールズ・マイクルズのアパートメント(E)がある。
    [翻訳](9章P.199)「どこに住んでいるんだね」マイクルズがブロンクスの東百四十六丁目の番地を言う。
     特にどうという事もない場所だが、従者にしては住み込みではなくマンハッタンにも住んでいない。前科がある事からひっそりと暮らしている事を著者が仄めかしているのかもしれない。

     フィールドの事務所(C)もブロードウェイの劇場街からはずいぶん離れている。
    [翻訳](2章P.57)「それから、ヘス」警視は別の刑事につづけて指示を出した。「チェンバーズ通り五十一にある、この男の事務所へ行って、こちらから連絡するまで待機してくれ。(略)」
     チェンバーズ通りはニューヨークの官公庁街にある。通りの向かい側にはツイード裁判所(1881年完成)がある。弁護士という職業柄、官公庁街に事務所をかまえるのは理にかなっているかもしれない。しかし周辺には、サンプソン地方検事が在籍するニューヨーク市地方検事局や、クイーン警視が奉職するニューヨーク市警まである。裏社会とつながりがあり彼自身も犯罪組織の黒幕であると当局から目を付けられている人物の事務所が、こんな目と鼻の先にあるとは大胆不敵きわまりない。

     実業界の大立て者フランクリン・アイヴズ‐ポープの邸宅はリバーサイド・ドライブにある。
    [翻訳](11章P.248) 十時半に、警視とエラリーはリヴァーサイド・ドライブにあるアイヴズ‐ポープ邸の大きな正門を押しあけた。(略)それは四方八方に張りだした巨大な邸宅で、道路からかなりはずれた広大な芝地にそびえ立っている。
     リバーサイド・ドライブとは、ハドソン川の川岸に沿った通りの事だ。地図に印を付けたように北端(F)から南端(G)まで続く。さすがに電子辞書では引っかかってこなかったのでCopilotに聞いてみたところ、「歴史的かつ風光明媚な街路」との事。通りの西側(河畔という事か)にリバーサイドパークが広がっている。ハドソン川の眺望が美しく、夕暮れ時の景色は特に人気があるようだ。重要なのは「かつては『百万長者の通り』とも呼ばれ、ギルデッド・エイジ(19世紀末〜20世紀初頭)の富裕層の居住地として知られていた」という点だ。まさに大事業家にして大富豪の邸宅が建てられていてもおかしくはない。どのあたりにあるのかは特定できないが、アイヴズ-ポープ邸で娘のフランシスに話を聞きに行った帰り道の様子が書かれている。
    [翻訳](12章P.267) 五分後、警視とエラリーとサンプソン地方検事は、七十二丁目へ向かってリヴァーサイド・ドライブを並んで歩きながら、午前中の出来事を盛んに論じ合っていた。
     72丁目はローマ劇場がある通りだ。そこに歩いて向かっている以上、アイヴズ-ポープ邸はリバーサイド・ドライブの南端(G)寄りにあるのではないだろうか。
        ♥♠♦♣
     ローマ劇場から離れた周辺部を片づけたので、地図をズームアップする。
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     マンハッタンの街路は碁盤の目のように仕切られている。東西を○○th street(○○丁目通り)と呼び南北は××th Avenue(××番街)と呼び慣わす。中央にセントラルパークが大きく陣取っていて、先ほどの○○丁目通りは西○○丁目通り、東○○丁目通りに分かれる。地図を見るとよくわかるが、セントラルパーク内部にはほとんど踏み込む事はない。父クイーンはニューヨーク市警の警視でありながら、以後の事件でもセントラルパークが関連するような事件に遭遇する事はなかったような気がする。本編とはまったく関係ないが、「メトロポリタン美術館」が公園内にあるとは知らなかった。1870年開館なので、クイーン父子が活躍していた当時も存在していた事になる。ディクスン・カーにとっての「蝋人形館」ではないが、実名のメトロポリタン美術館で事件が起きていたら、さぞかしそそられた事だろうに。

     クイーン父子のアパートメント(D)は西87丁目にある。
    [翻訳](8章P.168) 西八十七丁目にあるクイーン父子のアパートメントは、炉端のパイプ掛けから壁の輝くサーベルまで、いかにも男の家だった。ふたりの住まいは、ヴィクトリア朝後期の趣を残す、褐色砂岩を張った三世帯用アパートメントの最上階にあった。
     「×番街」の記載はないので、セントラルパークからリバーサイド・ドライブの間のどこらへんにあるかは分からない。googleマップのストリートビューでなんとなくアパートメントの様子が似ているところにピンを打ってみた。それにエラリーの事だから、川沿いの風景よりもセントラルパークの静けさを選ぶのではないだろうか。

     モンティ・フィールドの弁護士事務所はチェンバーズ通り51にあったが、アパートメント(B)の方は西75丁目113にある。
    [翻訳](2章P.56)「リッター、この男のアパートメントへ行ってくれ。名前はモンティ・フィールド、職業は弁護士、住所は西七十五丁目通り百十三だ。(略)」
     住まいと事務所の位置がハッキリ示されているのはフィールドぐらいだ。現代ならば被害者と同じ住所に住んでいる人からクレームが来そうだ。逆にクイーン父子の住所ならばハッキリした方が喜ばれそうだ。せめて、ホームズにならって架空の番地を付けておけばよかったのに。
        ♥♠♦♣
     さらに犯行現場となったローマ劇場周辺へとズームアップする。
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     遅ればせながらではあるが、『ローマ帽子の秘密』は次のように始まる。
    [翻訳](1章P.28) 一九二X年の演劇シーズンは不安のうちにはじまった。ユージン・オニールが新作を書きあげずじまいで、知識人の収入源を確保してやらなかったし、つぎつぎ芝居を見ても熱中できなかった”俗人”たちは、お堅い舞台劇を見放して、もっと気軽に楽しめる映画の殿堂へ足を向けていた。
     ユージン・オニールが新作を書かなかった年は1923年もしくは1926年になるようだが、ここでは詳細は検討しない。ただ、舞台劇が映画という新しいメディアの存在におびやかされていた事は確かだ。1920年前後にはサイレント映画の傑作が数々作られ、米国ではグリフィス、デミル、シュトロハイム、チャップリン、キートンらがしのぎを削っていた。1927年には長編映画としては世界初のトーキー映画『ジャズ・シンガー』が作られ、30年代には映画が一大産業として成長していく。
    [翻訳](1章P.28) というわけで、九月二十四日、月曜日の夜に、霧雨がブロードウェイの劇場街のまばゆい電飾をかすませはじめると、三十七丁目からコロンバス広場にかけての劇場支配人や演出家たちは、それを暗い顔でながめやった。
     地図で見ると、セントラルパークの南西の角(西59丁目)にあるのがコロンバス広場(@)だ。コロンバスサークルとも言われ、フランスの凱旋門のように周囲が車道になっている。中心にある記念碑が名前の由来になっていて、探検家コロンブスの米国大陸到達400周年を記念して1892年に建立した。コロンバスサークルと言えば、1930年代には流行作家となっていたクイーン(ダネイとリー)が、打ち合わせのために小さな事務所をかまえたエリアにある。
    [私訳](プロローグP.24) 1930年代が終わる頃には、ダネイとリーはそれぞれの自宅で一日12時間もの仕事をこなし、コロンバスサークル周辺にあるフィスク・ビルに、家具もなにもない小さな事務所を構えて週に一度だけ会っていた(事務所の床に「プラン」と書かれた大きな茶封筒を置いた)。  (フランシス・M・ネヴィンズ.Jr.『エラリイ・クイーンの世界』)
     一方の「37丁目」というと地図から外れてしまうが、左下に「タイムズスクエア」の地名が見え西45丁目なので、「ブロードウェイの劇場街」がかなり広いエリアである事がわかる。

     その中の一画に、本作の殺人現場となったローマ劇場(J)がある。
    [翻訳](1章P.29) しかし、ブロードウェイの中心をなす”ホワイトウェイ"、その西四十七丁目にあるローマ劇場に面した舗道は、シーズン真っ盛りの好天の日並みに観客で混み合っていた。
     「ホワイトウェイ」とは、特に劇場が集中する42〜53丁目付近を指す。何故こう呼ばれるかというと1900年代初頭から街路に電飾が装備され、夜でも白く輝いてみえたからだそうだ。肝心のローマ劇場だが、西47丁目の舗道に面していると書かれているだけで、正確な位置は分からない。これだけを頼りにCopilotにモデルとなりそうな劇場を探してもらうとエセル・バリモア劇場が出てきた。1928年開業なので事件当時は存在しないし、著者の執筆当時に間に合ったかどうかも疑問だ。ただ外観が「テラコッタの錬石風ファサード、アーチ型の入口、ローマ浴場を模した装飾」だったようで、もしかしたら「ローマ劇場」という名前のインスピレーションの元になったかもしれない。
    [翻訳](14章P.311)「あなたはローマ劇場の支配人になってどのくらいですか、パンザーさん」
     支配人は眉を吊り上げた。「ここが建てられて以来ずっとでございます。その前は、四十三丁目の古いエレクトラ劇場の支配人をしておりました(略)」
     ローマ劇場の支配人パンザーの口ぶりでは、長年にわたって支配人を務めてきたと感じられるので、ローマ劇場は1920年以前には開業していないと辻褄が合わない。その場合のCopilotの回答はセントラル・シアター(1918年開業)が有力だ。

     I〜Kは作品終盤のある場面に関わる場所なのだが、今回は解説を割愛する。実はこの部分は多少のサスペンスが文章から感じられなくもないが、それ以外は『エラリー・クイーン パーフェクトガイド』に書かれているとおり「ラブロマンスもないし、アクションもないし、ユーモラスなシーンもないs、誰かの身に危険が迫るといったサスペンスもない」。その事がまさに地図で確認できる。逆に言えば「純粋にして緻密な推理」を扱ったミステリとしては希有なものを著者エラリー・クイーンは創造したことになる。コンテストの優勝が内示された直後に、主催した雑誌社が倒産。主催を引き継いだ雑誌社が女性向きに舵を切った事によって、この作品は「女性にとっては退屈なもの」と判断され、別の作品が受賞する事になった。
    posted by アスラン at 09:05 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) |  書評(エラリー・クイーン) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2025年02月22日

    フランシス・M・ネヴィンズJr.『エラリイ・クイーンの世界』を散策する(その12)

     (その11)で原註について検討するのを忘れていたので、そこから始めよう。

     フレデリック・ダネイの自伝的小説『ゴールデン・サマー』の主人公ダニー少年は、知り合いの本屋の店主から新刊で発売されたばかりの『恐怖の谷』を貸してもらう。汚すこと無く新品のままに返す事が条件だったが、不注意からヨレヨレに型崩れしてしまい買い取る事になる。
    [原文](INTRODUCTION P.10)
    He displays the ghost of Long John Silver for a two-cent admission fee, raffles off a damaged copy of the brand-new Sherlock Holmes novel The Valley of Fear[3], organizes the Great Lolla paloosa Bi-Plane Company, and even adds a dime to his hoard through a splendiferous one-upmanship contest with his city cousin Telford (a thinly disguised Manfred).

    [翻訳](プロローグ P.27)
    彼はロング・ジョン・シルヴァーの幽霊を見せ物にして二セントの入場料を取り、傷がついた新品のシャーロック・ホームズの小説『恐怖の谷』(原註3)一冊をラッフル販売で売り(購入希望者から少額のお金を集めて、くじ引きに当たった人に品物を渡す売り方)、グレート・ローラパルーザ・バイプレーン・カンパニー(偉大なすばらしい複葉機部隊というような意味)を組織している。そのうえ、都会育ちの従兄テルフォード(わずかにマンフレッドに似せた人物)と華やかな優位競争をして五セント硬貨一枚を自分の貯えに加えさえする。

    [私訳]
    例えば、2セントの入場料を取って「(『宝島』に出てくる)ロング・ジョン・シルバー」の幽霊の見世物を出したり、シャーロック・ホームズの『恐怖の谷』(原註3)の新品を傷物にしてしまったので景品にして富くじを売ったり、「途轍もなく素晴らしい複葉機カンパニー」を設立したり、さらには都会に住む従兄のテルフォード(リーにそっくりなのが見え見えの少年)との間にライバル心を燃やし、最後には10セント硬貨を1枚、隠し場所に加えている。

     原註3はThe Valley of Fear要するに『恐怖の谷』に付いている。
    [原文](INTRODUCTION P.215)
    3. Those who have learned from Queen to read with infinite care may wonder how a 1915 Holmes novel crept into the life of a boy who, as we've seen earlier, did not encounter Holmes until 1917. In real life the book which the ten-year-old Danny raffled off was not The Valley of Fear but L. Frank Baum's The Scarecrow of Oz. But the editors at Little, Brouwn who read The Golden Summer thought the Oz book was too childish for a ten-year-old to be reading, so Dannay substituted the Holmes title.

    [翻訳](プロローグ P.32)
    原註3 クイーンから深く注意をしながら読書するように訓練された人は、すでに見てきたように、一九一七年まではホームズを知らなかった少年の生活になぜ一九一五年に出版されたホームズの小説が、はいってきたのか、不思議に思われるかもしれない。実生活で十歳のダニーがラッフル販売をした本は『恐怖の谷』ではなく、L・フランク・ボームの「オズのかかし」だった。しかし、『ゴールデン・サマー』を読んだリトル・ブラウン社の編集者がオズの本は十歳で読むものとしてはあまりにも子供っぽいと言ったため、ダネイがホームズの本に入れかえたものである。

    [私訳]
    原註3 細心の注意を払って本を読む事をクイーンの作品から学んできた読者であれば、いったいどうすれば、1915年に出版されたホームズの新作が一人の少年の人生と関わる事になるのかと首を傾げるかもしれない。すでに見てきたように、少年がホームズと出遭うのは1917年の事なのだから。実際には、当時10歳だったダニーが富くじで売りさばいた本は、『恐怖の谷』ではなくL・フランク・ボームの『オズのかかし』だった。だが、『ゴールデン・サマー』を読んだリトル・ブラウン社の編集者が、10歳の少年が読む本にしては『オズの魔法使い』シリーズは幼稚すぎると主張したので、ダネイはホームズ物のタイトルに差し替えたのだ。

     翻訳に関してだが、「クイーンから深く注意をしながら読書するように訓練された人」というのは、あくまで上っ面の理解しかしていない。クイーンの小説を読めばわかるが、一つ一つの描写にはキッチリとした著者の設計がある。単に犯行現場を描写としているだけではなく、犯人やトリックを指し示す重要な事物が隠されているのだ。だからこそ一つも見落とすことなく読み進める必要がある。クイーンが読者に「訓練」を強いた訳では無く「読者が自然と学んでいく」ものなのだ。また、creep intoはランダムハウス英和大辞典では「〈感情・思想・風習などが〉(…に)知らず知らずに入り込む、〈欠点・性格などが〉じわじわとにじみ出る《in/into…》」とあるが、翻訳のように「少年の生活に〜ホームズの小説がはいってきた」では何の事か分からない。もうちょっと日本語として馴染みのある表現に差し替える必要があるだろう。

     それにしても、飽くまで小説に出てくるダニー少年の物語なので、編集者の言い分を聞いて本のタイトルを差し替えるのは理解できるが、フレデリック・ダネイともあろう人がこんな単純なミスを犯すとは意外だ。クイーンの聖典であれば起こりえないだろうが、『ゴールデン・サマー』に関して言えばダネイ自身が楽しんで書いていたからかもしれない。ひょっとしたら、知っていて故意に見過ごした可能性もある。シャーロック・ホームズの物語に魅せられて読みあさった少年時代の話が読者にとって印象的なエピソードであるからこそ、出版されたばかりの『恐怖の谷』の新刊本をきずものにしてしまうという筋立ては、当時の僕を含めた読者にさらに強烈な印象を与える事になったからだ。

     続いて『ゴールデン・サマー』には構成上の欠点があったので批評家からは不評だったという話が続く。
    [原文](INTRODUCTION P.9)
    And to most of its reviewers this double meaning seemed to be a basic flaw in the novel's purpose and structure―we are supposed to delight in Danny's adventures as in the exploits of Tom Sawyer or Penrod, but these adventures portray him as little more than a money-hungry wheeler-dealer, junior division. Whether the reviewers were right or wrong, The Golden Summer was a thumping failure commercially[4].

    [翻訳](プロローグ P.25)
    そして、たいていの批評家にとっては、この二重の意味は小説の目的と構成には基本的な欠点になるものと思われた――われわれはトム・ソーヤーとかペンロッド(ブース・ターキントンの小説)の手柄を楽しんだと同じようにダニーの冒険を楽しむことになっているのだが、いろんな行為から浮かび上がってくるダニーは、金に飢えた敏腕事業家の子供版以外の何ものでもない。批評家たちが正しかったか間違っていたかはともあれ、『ゴールデン・サマー』は商品的には途方もない失敗作だった(原註4)。

    [私訳]
    そしてタイトルが二つの意味に解釈できるという事が、多くの批評家の目には小説の目的と構成における根本的な欠点に映ったようだ。愛読者の私たちならば、(マーク・トウェインの生み出した)トム・ソーヤー少年や(ブース・ターキントンの生んだ)ペンロッド少年が成し遂げた事に喝采をおくるのと同様に、ダニーの冒険にも喝采をおくるだろう。だが、この冒険譚はダニーを「お金を欲しがる策略家の子供部門代表」も同然に描いてしまった。批評家たちの言い分が正しいかどうかはともかく、『ゴールデン・サマー』は商業的には途方もない失敗に終わった(原註4)。

     欠点ゆえに『ゴールデン・サマー』は全くと言っていいほど売れなかったという箇所に原註4が付けられている。
    [原文](INTRODUCTION P.215)
    4.In 1956, in a last attempt to stir up some interest in The Golden Summer, Dannay devised a stratagem worthy of little Danny himself. He reprinted three chapters of the novel in Ellery Queen's Mystery Magazine, one each in the June, August and October numbers for that year, the chapters being prefaced with a page of ecstatic commentary on The Golden Summer as a whole by mystery writers Anthony Boucher, Stanley Ellin and Jame Yaffe. The text of the stories was revised so as to keep readers from suspecting the true identity of Daniel Nathan; thus Ellery Herman the shoemaker becomes Old Man Herman. Coincidentally (or was it?), EQMM for October 1956 also contains "Tough Break," a story by Dannay's eldest son, Douglas, disguised under the byline Ryam Beck. Mary Beck was the maiden name of Dannay's first wife.

    [翻訳](プロローグ P.33)
    原註4 一九五六年、最後にもう一度『ゴールデン・サマー』は何とか関心を集めてみようとして、ダネイは戦術として、ダニー少年自身の価値に工夫をこらした。彼は本の中の三つの章をその年の《エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン》六月、八月、十月の各号に一章ずつ掲載し、ミステリ作家のアンソニー・バウチャー、スタンリイ・エリン、ジェイムズ・ヤッフェの『ゴールデン・サマー』全体に対する、夢中になりそうな講釈の序文を一ページ加えた。物語の内容は改訂して、ダニエル・ネイサンの本当の素性を読者が想像できないようにしてある。同様に、靴職人エラリイ・ハーマンもハーマン爺さんに変わっている。申し合わせたように(あるいは申し合わせたのか?)、一九五六年のEQMM十月号には、ダネイの長男ダグラスが書いた短篇"Tough Break"がライアム・ベックというペンネームを使って掲載されている。ダネイの最初の妻は結婚前の名前をメアリー・ベックといった。

    [私訳]
    原註4 ダネイは最後にもう一度『ゴールデン・サマー』に関心をもってもらおうとして、1956年に、まさにダニー少年自身がやりそうな工夫をした。小説から3つの章を選んで、その年のEQMM6月号、8月号、10月号にそれぞれ一章ずつを再度掲載した。ミステリー作家のアントニー・バウチャー、スタンリイ・エリン、ジェイムズ・ヤッフェの3人からは『ゴールデン・サマー』全般についての1ページからなる賛辞をもらい、各章の序文として載せた。
     本文にも手を入れて、読者が著者ダニエル・ネイサンの素性に疑問を抱かないようにした。こうして、靴職人のエラリー・ハーマンは「ハーマン老人」となった。偶然にも(あるいは偶然ではないのか?)、1956年10月号のEQMMには、ダネイの長男ダグラスが書いた『その手はくわない(Tough Break)』という作品が掲載されているが、本名は伏せてライアム・ベックというペンネームが使われていた。ダネイの最初の妻メアリーの旧姓がベックだったのだ。
     「最後にもう一度『ゴールデン・サマー』は何とか関心を集めてみようとして」の「『ゴールデン・サマー』は」は「『ゴールデン・サマー』に」の誤植だろうか。devised a stratagem worthy of little Danny himselfの訳として「(ダネイは戦術として、)ダニー少年自身の価値に工夫をこらした」は明らかに誤訳だ。ここは「ダニー少年ばりの工夫をおこなった」という意味で書かれている。また、a page of ecstatic commentary on The Golden Summerを「『ゴールデン・サマー』全体に対する、夢中になりそうな講釈の序文を一ページ加えた」としているが、「夢中になった」のは序文を書いた3人でないと辻褄が合わない。ここは「1ページからなる賛辞をもらった」という意味だ。さらに原註4の後半は、エラリー・クイーンの片割れフレデリック・ダネイが著者だとバレないように「本文にも手を入れた」という話が続くが、Coincidentallyを「申し合わせたように」というは意味が逆で、「偶然にも」でないとおかしい。

     それにしても再掲にあたって、無名のダニエル・ネイサンという作家に箔を付けるために3人もの友人に賛辞を依頼したというのは、いかにもダニー少年のやり口に思えるが、クイーンの片割れが書いたという事実をあくまで隠しとおすという工夫は、果たしてダニー少年らしいかどうか。何故なら「箔を付ける」という意味ではクイーンが書いたというのが何よりの「箔」だと思うからだ。ただし、現実に出版当時(1953年)はまったく売れなかったのだから、ほとぼりがさめた3年後の1956年に無名の作家の作品として掲載すれば、まっさらな気持ちで作品を読んでくれる読者がいるかもしれないという事だったのだろうか。

     ここからはIntroductionの続き。いよいよクイーンの第4期の説明だ。この文章に取りかかる前に第4期の作品をリストアップしておこう。
    [第四期(9作品)]
    盤面の敵(1963)
    第八の日(1964)
    三角形の第四辺(1965)
    恐怖の研究(1966)
    顔(1967)
    真鍮の家(1968)
    孤独の島(1969)
    最後の女(1970)
    心地よく秘密めいた場所(1971)

    [原文](INTRODUCTION P.11)
     After The Finishing Stroke (1958) Queen seemed to have closed the circle of his work and hung up the gloves. Dannay spent a semester teaching creative writing at the University of Texas and ended up selling the University his entire collection of priceless first editions of books of detective short stories. But after five years of silence Queen in 1963 inaugurated a fourth period, which will be examined in Chapters Eleven and Twelve. The hallmarks of Period Four are, on the one hand, an undiminishied zest for radical experiment within the strict deductive tradition, and on the other hand, a retreat from attempts at naturalistic plausibility coupled with a reliance on stylization of plot and character and the repetition of dozens of motifs from the earlier periods. The risks of such an approach are obvious and the audience for recent Queen novels seems to have diminishied. Only time will tell whether the death of Manfred Lee in April 1971 marks the end of Period Four. But Dannay has announced that he will carry on, and millions of grateful readers hope as I do that he will never retire.

    [翻訳](プロローグ P.28)
     『最後の一撃』(一九五八)の出版後、クイーンは仕事の範囲を狭めて、引退したように見えた。ダネイはテキサス大学で創作について一学期間教えたあと、それまでに蒐集していた貴重な初版本の探偵小説の短編集すべてを大学に売って辞任している。しかし、五年間の沈黙の後、一九六三年にクイーンは第四期の活動を始めるので、十一章と十二章でそれを調べてみよう。第四期の特徴は、一方で厳密に伝統的な推理を進めながら革命的な試みを行っている点で衰えない面白味がある反面、もう一方では、構成と人物像の様式化をよりどころとし、以前に使った数多くのモティーフを反復使用しているために、写実的なもっともらしい感じを持たせる試みがあまりなされていないという点にある。このような取り組み方では危険が伴うのは明らかで、後年のクイーンの小説は愛読者が減っているように思われる。一九七一年四月にマンフレッド・リーが死亡しているが、それが第四期の終わりとなるかどうかは時がたってみなければわからない。それにしても、ダネイは書き続けると発表しているし、わたし同様、数百万の愛読者たちは彼が決して引退しないよう望んでいる。

    [私訳]
     『最後の一撃(1958年)』の出版後、クイーンは毎年続けていた出版をやめてしまい、引退したかのように見えた。ダネイは一学期かけてテキサス大学で文章講座の授業を受け持ったが、その後、値の付けようがない推理小説の初版本のコレクションをすべて大学に売却した後に講師を退いた。しかし、クイーンは『最後の一撃』の出版から5年間の沈黙を破って、1963年に第4期の活動を開始した。この時期については11章、12章で検証しよう。第4期の特徴は何かと言えば、これまでのように本格ミステリーの形式を厳密に踏襲しつつも、斬新な試みに取り組もうとする情熱だけは衰える事がないという点だ。しかし、その反面、現実をもっともらしく描こうとはしなくなり、もっぱらプロットや登場人物をパターンに当てはめるようになった。さらには以前の作品で用いた数多くのモチーフを再利用するようになった。このような手法にはリスクが伴うのは明らかだ。近年、クイーン作品の読者は減ってきたように感じる。1971年4月にマンフレッド・リーが亡くなったが、それで第4期が終わりを迎えたのかは今少し時が経ってみないと分からない。しかし、ダネイはこれからも書き続けると公言しているし、私を含め、クイーン作品を心底愛している何百万もの読者は、ダネイが現役を続ける事を願っている。

     翻訳を見ていくと、冒頭から引っかかる。
    (原)After The Finishing Stroke (1958) Queen seemed to have closed the circle of his work and hung up the gloves.
    (翻)『最後の一撃』(一九五八)の出版後、クイーンは仕事の範囲を狭めて、引退したように見えた。
    (私)『最後の一撃(1958年)』の出版後、クイーンは毎年続けていた出版をやめてしまい、引退したかのように見えた。
     close the circleの解釈だが、circleを範囲・領域と捉えたとしてもcloseを「狭める」と考えるのは無理がある。ここはcircle=cycleで「仕事の周期を閉ざす」と考えるべきだろう。第3期までは一年に1作のペースで新作を出してきたが、『最後の一撃』出版後はそれをやめた事を指している。実際、本書の本文では『最後の一撃』を最後にクイーンは引退を考えていたのではないかという記述がある。その理由は、この作品にはこれまでのクイーンの様々なモチーフが盛りこまれている事や、若きエラリーが遭遇した事件が、未解決のまま28年後にようやく真実が明るみに出るという物語自体がクイーンの集大成を示唆しているからだ。ただし、実際には5年の沈黙を破ってクイーンの二人は執筆を再開する。その後8年間続く第4期の特徴を著者ネヴィンズは以下のように概括している。
    (原)The hallmarks of Period Four are, on the one hand, an undiminishied zest for radical experiment within the strict deductive tradition, and on the other hand, a retreat from attempts at naturalistic plausibility coupled with a reliance on stylization of plot and character and the repetition of dozens of motifs from the earlier periods.
    (翻)第四期の特徴は、一方で厳密に伝統的な推理を進めながら革命的な試みを行っている点で衰えない面白味がある反面、もう一方では、構成と人物像の様式化をよりどころとし、以前に使った数多くのモティーフを反復使用しているために、写実的なもっともらしい感じを持たせる試みがあまりなされていないという点にある。
    (私)第4期の特徴は何かと言えば、これまでのように本格ミステリーの形式を厳密に踏襲しつつも、斬新な試みに取り組もうとする情熱だけは衰える事がないという点だ。しかし、その反面、現実をもっともらしく描こうとはしなくなり、もっぱらプロットや登場人物をパターンに当てはめるようになった。さらには以前の作品で用いた数多くのモチーフを再利用するようになった。
     zest for…は「…に向けられた熱意」という意味だから「…を行っている点で衰えない面白みがある」という解釈は違和感がある。後半の「…モティーフを反復使用しているために、〜試みがあまりなされていない」というのもちょっと誤解を招く書き方だ。「構成と人物像の様式化」さらには「モティーフの反復使用」が原因で「写実的な…試みがあまりなされていない」という結果を招いたように読めてしまうが、状況の説明を「やったこと・やらなかったこと」の両面で書いただけだろう。

     ここで注意したいのは「何故か」という点だ。実は本書では明記されていないが、大幅に改訂した『エラリー・クイーン 推理の芸術』では明らかにされている点がある。クイーンファンにはもはや周知の事実であるが、この時期、マンフレッド・B・リーは小説家としてスランプに陥っていた。だから第4期の最初の作品『盤面の敵』からリーに変わって別の作家による代作が続くのだ。この事実を初めて知ったのは『名探偵読本4 エラリイ・クイーンとそのライヴァルたち』(1979年)を読んだ時だから、本書『エラリイ・クイーンの世界』(1980年)とほぼ同時期だと言っていい。原作『Royal Bloodline』が1974年初版なので、その頃には伏せられていた事実だった。『エラリイ・クイーンとそのライヴァルたち』では「エラリイ・クイーン関係資料」という探偵エラリーの登場作品リストが巻末に記載されているが、『盤面の敵』には「(シオドア・スタージョンの代作と判明)」という記述が付されていて、当時はかなりのショックを受けた記憶がある。SFには疎かったので「シオドア・スタージョンって誰?」と思ったし、なによりあの傑作がクイーンが書いたものではないなんて到底受け入れる事ができなかった。

     しかし、近年ではクイーンの二人がどのように作品を作りあげていったかの詳細が分かってきたので、「代作」という表現は使われなくなったようだ。フレデリック・ダネイが作品の骨格やトリックを考えて梗概(シノプシス)を分担し、そこからマンフレッド・リーが文章を起こす。この辺の事情については、ジョセフ・グッドリッチ編『エラリー・クイーン創作の秘密』で詳しく書かれているし、二人が激論を戦わした手紙の引用が残っており、単に分担とは言えないような共同制作であったことが分かっている。また小説化はされなかったが『間違いの悲劇』という作品のシノプシスが残されていて、ダネイの作ったシノプシスだけでも過剰なほどの文章が書かれる事までもが知られている。そういうわけで、5年の沈黙の間にダネイはシノプシスの準備を進めていたが、肝心のリーがスランプのために文章を書くことができなくなってしまった。そこでリーの役目を果たす代筆者が必要になったわけだ。飯城勇三著『エラリー・クイーン パーフェクトガイド』によると、リーに代わって小説化を別の作家が担当した作品は以下のとおりだ(小説化のコメントがない作品はリー自身が書いている)。
    盤面の敵(1963) (小説化:シオドア・スタージョン)
    第八の日(1964)  (小説化: エイブラム・デイヴィッドスン)
    三角形の第四辺(1965)  (小説化: エイブラム・デイヴィッドスン)
    恐怖の研究(1966)  (〈作中作〉の小説化: ポール・W・フェアマン)
    顔(1967)
    真鍮の家(1968) (小説化: エイブラム・デイヴィッドスン)
    孤独の島(1969)
    最後の女(1970)
    心地よく秘密めいた場所(1971)
     いずれもSF作家を起用したのは、同業のミステリー作家には手の内を明かしたくなかったからだろうか。理由はいまだによく分からないが、飯城さんも『ガイド』で書いているようにスタージョンの力量があったこそ『盤面の敵』は素晴らしい文章だったが、デイヴィッドスンの担当した作品は多分に影が薄い。小説化担当に起用した作家によって作品の優劣に差が出るところが、まさしく第4期の特徴と言えるだろう。そう考えると「現実をもっともらしく描こうとはしなくなり、もっぱらプロットや登場人物をパターンに当てはめるようになった。さらには以前の作品で用いた数多くのモチーフを再利用するようになった。」という部分は、リーの文章に頼れなくなったがための苦肉の策が原因だったのかもしれない。リーが本格的に復帰した『顔』では、上記のようなネガティブな特徴は当てはまらないからだ。
    (原)The risks of such an approach are obvious and the audience for recent Queen novels seems to have diminishied. Only time will tell whether the death of Manfred Lee in April 1971 marks the end of Period Four.
    (翻)このような取り組み方では危険が伴うのは明らかで、後年のクイーンの小説は愛読者が減っているように思われる。一九七一年四月にマンフレッド・リーが死亡しているが、それが第四期の終わりとなるかどうかは時がたってみなければわからない。
    (私)このような手法にはリスクが伴うのは明らかだ。近年、クイーン作品の読者は減ってきたように感じる。1971年4月にマンフレッド・リーが亡くなったが、それで第4期が終わりを迎えたのかは今少し時が経ってみないと分からない。
     リーのスランプからなるべくしてなってしまった「第4期の特徴」ゆえに、クイーンの新作を読もうとする読者は次第に減っていったのであって、翻訳のように「愛読者が減っている」わけではないだろう。愛読者(ファン)というものはいかなる状況においても作品を追いかけるものだと思うからだ。そして第4期の掉尾に位置する『心地よく秘密めいた場所』が出版された1971年にリーは天に召された。翻訳は相変わらず敬意も払わず「一九七一年四月にマンフレッド・リーが死亡している」などと書いている。1974年に出版された本書ではダネイが執筆は継続すると公言していると書いてあるが、結局「時が経って」分かったのは、リー亡き後にクイーン作品を続ける事などできなかったという現実だ。

     さきほど触れた『間違いの悲劇』というシノプシスは『心地よく秘密めいた場所』の次の作品として準備を進めていたものだそうだ。リーに宛てた手紙もあるので、1971年以前には完成してリーに送られていた。リーの死後に作家を立てて小説化を目指したらしいが、ダネイが1982年に亡くなって、それも叶わなかった。歴史に「もしも」はないのだが、現在大流行の生成AIがさらなる進化を遂げて、仮想リーと仮想ダネイを作りあげた後に、シノプシスをたたき台にして長篇『間違いの悲劇』を完成させるなどという大それた事を構想しているミステリー好き・クイーン好きのエンジニアはどこかにいないのだろうか。すでにプロジェクトは水面下で動き出しているのではないだろうか。一ファンの頭の中には、モラルというものは時として存在しなくなるものらしい。
    posted by アスラン at 11:30 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) |  書評(エラリー・クイーン) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2025年02月08日

    フランシス・M・ネヴィンズJr.『エラリイ・クイーンの世界』を散策する(その11)

     (その10)では、最盛期を迎えたクイーンの二人が悠々自適とは決して言えないが忙しい日々の合間を縫って、自らがやりたい事を思うように過ごしていたと描かれていたが、実際にはダネイには悲劇とも言える個人的な出来事がふりかかっていた。

    [原文](INTRODUCTION P.10)
     The reality was harsher. Personal tragedy stalked Dannay through the years and caught him more than once, the decisive blow being the birth of his youngest son, Stephen, with incurable brain damage which led to his death at the age of 6. The birth-death motifs in such diverse novels as Cat of Many Tails, Inspetor Queen's Own Case, The Finishing Stroke, and A fine and Private Place can probably be attributed at least in part to Stephen's short and unhappy life, but none of these novels was the most direct literary outgrowth of the tragedy. Shortly before the child's death Dannay for therapeutic reasons began work on a completely personal book uncontributed to in any way by Manfred Lee. The novel was called The Golden Summer and was published by Little, Brown in 1953 under Dannay's birthname, Daniel Nathan.
    [翻訳](プロローグ P.26)
     現実はもっと厳しかった。ダネイは長年にわたって個人的な悲劇に悩まされてきた。それも一度だけではない。末息子のスティーヴンが生まれつきの脳障害で六歳で死亡したのは決定的な打撃であった。誕生や死亡の題材は『九尾の猫』、『クイーン警視自身の事件』、『最後の一撃』、それに『心地よく秘密めいた場所』などに見られるが、それは少なくともある程度までスティーヴンの短くて不幸な一生に根ざしたものがあると考えられる。とはいっても、これらの作品はどれも、悲劇的な経験をしたためにそれが自然に現れた、というものではない。息子が死ぬ少し前、ダネイは自己治療のために、マンフレッド・リーの手をまったく借りずに、一人っきりで本を書きはじめている。その小説には『ゴールデン・サマー』という題がつけられ、一九五三年にリトル・ブラウン社によって出版された。著者名はダネイの誕生名ダニエル・ネイサンとなっている。
    [私訳]
     しかし、実際のダネイの暮らしはそれほど安らいだものとは言えなかった。ダネイはこの時期に個人的な悲劇に何年間も苦しめられた。しかも一度だけではなかった。とりわけ末っ子のスティーヴンが生まれた事が疑いようのない痛手となった。スティーヴンは生まれつき脳に障害があり、わずか6歳でこの世を去ってしまったのだ。「生と死」というテーマは、『九尾の猫』『クイーン警視自身の事件』『最後の一撃』『心地よく秘密めいた場所』など多岐の作品に現われるが、ほんの一部であるにせよ、わずか数年で亡くなったスティーヴンの不幸な一生が反映している可能性は否定できない。とは言え、ここに挙げた作品はいずれも、ダネイの身に起きた悲劇を直接題材にして生み出されたものではない。
     スティーヴンが亡くなる少し前になるが、ダネイは癒やしを求めて、リーには何ひとつ頼らずにあらゆる意味で個人的な小説を書きはじめた。その小説は『ゴールデン・サマー』というタイトルで、1953年にリトル・ブラウン社から出版された。著者名は、出生時のダニエル・ネイサンを使用した。

     まずは翻訳について。この段落は致命的な間違いはないけれど、迂闊な訳し方は相変わらず多い。
    (原)The reality was harsher.
    (翻)現実はもっと厳しかった。
    (私)しかし、実際のダネイの暮らしはそれほど安らいだものとは言えなかった。
     前の段落では「作家としても私生活でもやりたい事をやっていた(充実していた)」という件が書かれていたので「もっと厳しかった」では舌足らずだ。

    (原)Personal tragedy stalked Dannay through the years and caught him more than once, the decisive blow being the birth of his youngest son, Stephen, with incurable brain damage which led to his death at the age of 6.
    (翻)ダネイは長年にわたって個人的な悲劇に悩まされてきた。それも一度だけではない。末息子のスティーヴンが生まれつきの脳障害で六歳で死亡したのは決定的な打撃であった。
    (私)ダネイはこの時期に個人的な悲劇に何年間も苦しめられた。しかも一度だけではなかった。とりわけ末っ子のスティーヴンが生まれた事が疑いようのない痛手となった。スティーヴンは生まれつき脳に障害があり、わずか6歳でこの世を去ってしまったのだ。
     後半のスティーブンの話。相変わらず関係詞節を前方の名詞に連体修飾させたまま日本語を組み立てているので、「決定的な打撃」が「スティーブンが死亡した」事になってしまっているが、正確には「スティーブンが生まれた」事のはずだ。もちろん結果的には亡くなった事が最大の打撃には違いないが、スティーブンが障害をもって生まれてきた事、亡くなるまでの暮らしなど全部が「決定的な打撃」だったと書かれている。そこを順序立てて理路整然と翻訳されてはいない。

    (原)Shortly before the child's death Dannay for therapeutic reasons began work on a completely personal book uncontributed to in any way by Manfred Lee.
    (翻)息子が死ぬ少し前、ダネイは自己治療のために、マンフレッド・リーの手をまったく借りずに、一人っきりで本を書きはじめている。
    (私)スティーヴンが亡くなる少し前になるが、ダネイは癒やしを求めて、リーには何ひとつ頼らずにあらゆる意味で個人的な小説を書きはじめた。
     今なら「セラピー」で通るが当時は概念がなかったかもしれない。それにしても「自己治療」では意味不明だ。それと確かに相方のマンフレッド・B・リーに頼らずに一人で『ゴールデン・サマー』を書き出したには違いないが、privateは「一人っきり」の意味ではない。

     内容について検討しよう。「生と死」にまつわるテーマが初めて持ち込まれた作品は『九尾の猫』である。ただし、ダネイの末っ子スティーヴン・ダネイが生まれたのが1948年で、翌1949年に『九尾の猫』が出版されているので、ダネイの私生活上の重大事がこの作品に投影されているわけではなさそうだ。それよりも『九尾の猫』よりも前の作品『フォックス家の殺人』や『十日間の不思議』で、既に父と子のテーマあるいは宗教的なテーマが持ち込まれているから、キリスト教における「生と死」をテーマにした作品が増えていくのは作家クイーンとしての必然だったのかもしれない。そして『ガラスの村』を出版した1954年にスティーヴンは短い一生を終える。その2年後の1956年には『クイーン警視自身の事件』が、さらに二年後の1958年には『最後の一撃』』が出版される。この2つの作品にはひょっとしたらスティーヴンの事が反映している可能性もありそうだ。

     そして『ゴールデン・サマー』だ。障害のある子供の親になり、その死を見届けるという事がいかに重大な事かを、若い頃の自分は想像できていなかったと思う。だからクイーンの愛読者として『ゴールデン・サマー』がどんな位置づけにある小説だったのかを考える事などなかった。単にクイーン好きが高じて購入していた雑誌EQに掲載された文章を楽しく読んだ記憶しかない。それはもちろんクイーンの聖典のような本格ミステリーの醍醐味を味わうものではなかったが、作家クイーンの一人がどのような少年時代を送ったかを知るための興味深い読み物だった。
    [原文](INTRODUCTION P.10)
     Danny's therapeutic strategy was to evoke the contentment of his own blissful vanished childhood―"the lovely past"―as a means of at least partially erasing from his mind the anguish of his middle life. The Golden Summer is set in Elmira and tells how ten-year-old Danny spent the summer of 1915. Although Danny is slight, skinny, shy, bespectacled and physically the weakest in his peer-group, he is shrewd and nimble-witted enough to think or talk himself out of any spot, and to manipulate his playmates to his own advantage. Most of the novel consists of a series of unrelated "business adventures" in each of which Danny winds up with a few coins net profit. He displays the ghost of Long John Silver for a two-cent admission fee, raffles off a damaged copy of the brand-new Sherlock Holmes novel The Valley of Fear[3], organizes the Great Lolla paloosa Bi-Plane Company, and even adds a dime to his hoard through a splendiferous one-upmanship contest with his city cousin Telford (a thinly disguised Manfred). Thus The Golden Summer turns out to be a book-length double entendre: the season of incredible innocence and security and peace, the season the precocious little entrepreneur Danny Nathan made $4.73 from his playmates. And to most of its reviewers this double meaning seemed to be a basic flaw in the novel's purpose and structure―we are supposed to delight in Danny's adventures as in the exploits of Tom Sawyer or Penrod, but these adventures portray him as little more than a money-hungry wheeler-dealer, junior division. Whether the reviewers were right or wrong, The Golden Summer was a thumping failure commercially[4]. But even if as an independent work the book suffers from the conflict between nostalgia and brutal honesty, as a product of the same mind that sharped the Queenian universe it it not only not a failure but in many senses the key to the entire structure. The intellectual games Queen has always played with readers, the recurrent theme of "the lovely past," the origin of the names Ellery and Barnaby and a host of other elements of Queenland are dazzlingly illuminated by The Golden Summer, which also contains the only specimens of Danny's poetry ever published anywhere. Whoever has savored even a few Ellery Queen novels should haunt the second-hand bookstores for a copy of this impossibly rare volume. And now that literary nostalgia has again become a highly marketable commodity, we may perhaps even hope someday for a new and better-selling edition.
    [翻訳](プロローグ P.27)
     ダネイの治療作戦は、彼自身の幸福感に満ちあふれた遠い子供時代の心の和らぎを呼び起こすことだった――”懐しい過去”によって少なくとも彼の心から中年期の苦悩をいくぶんでも消そうとしたのだ。『ゴールデン・サマー』はエルマイラが舞台で、一九一五年の夏を十歳のダニーがどう過ごしたかを物語っている。ダニーは貧弱なやせっぽちの内気な少年で、眼鏡をかけ、同年輩の子供たちの中ではいちばん体力に劣るが、抜け目がなくて機転のきく知恵があるので、どんな場合でも考えたり意見を言ったりできるし、自分の利益のために遊び友だちをうまく操縦できる。小説の大半はそれぞれに関係のない”投機”の連続で、どの場合もダニーは二、三枚の硬貨を純益にして結末がつく。彼はロング・ジョン・シルヴァーの幽霊を見せ物にして二セントの入場料を取り、傷がついた新品のシャーロック・ホームズの小説『恐怖の谷』(原註3)一冊をラッフル販売で売り(購入希望者から少額のお金を集めて、くじ引きに当たった人に品物を渡す売り方)、グレート・ローラパルーザ・バイプレーン・カンパニー(偉大なすばらしい複葉機部隊というような意味)を組織している。そのうえ、都会育ちの従兄テルフォード(わずかにマンフレッドに似せた人物)と華やかな優位競争をして五セント硬貨一枚を自分の貯えに加えさえする。このように『ゴールデン・サマー』は始めから終わりまで二重の意味をもっているのがわかる。つまり、その夏は、信じられないほど無邪気で、安全かつ平和な季節であり、早熟な少年興行主ダニー・ネイサンが遊び友だちから四ドル七十三セントもうけた季節でもある。そして、たいていの批評家にとっては、この二重の意味は小説の目的と構成には基本的な欠点になるものと思われた――われわれはトム・ソーヤーとかペンロッド(ブース・ターキントンの小説)の手柄を楽しんだと同じようにダニーの冒険を楽しむことになっているのだが、いろんな行為から浮かび上がってくるダニーは、金に飢えた敏腕事業家の子供版以外の何ものでもない。批評家たちが正しかったか間違っていたかはともあれ、『ゴールデン・サマー』は商品的には途方もない失敗作だった(原註4)。しかし、この本は一つの作品としては郷愁と残酷な真実との矛盾によって失敗作になっているとしても、クイーンという人物の世界を作りあげた同じ頭脳の作品としては失敗作ではなかったばかりか、いろんな意味で構想全体を見る鍵となっている。クイーンが読者と一緒に楽しんできた知的な遊びや、繰り返し出てくる"懐しい過去"の題材、エラリイとバーナビイという名前の起源、それにクイーンの世界を構成する他の要素の主人役は『ゴールデン・サマー』によってまぶしいばかりに照らし出される。それに、『ゴールデン・サマー』によって、どんな形でも出版されたことのないダネイの詩の見本を知ることができる。たとえ二、三冊でもエラリイ・クイーンの小説を面白いと思って読んだことがある人なら、不可能といえるくらい手にはいりにくいこの本を古本屋で捜してみるべきだろう。それに、今日では昔懐しい文学作品が再びよい売れゆきを示すようになっているので、もしかするといつかこの本が再版されて以前より以上に売れるのを望めるかもしれない。
    [私訳]
     ダネイが癒やしとして考え出した方針は、中年の自分に降りかかる苦悶をわずかでも頭から消し去ってしまおうと、とうに失われてしまった幸せに満ちた子供時代、言わば「愛しき昔」をふり返る事で当時の心の安らぎを呼び起こすというものだった。『ゴールデン・サマー』はエルマイラを舞台にして、10歳になったダニーが1915年の夏をどのように過ごしたかを描いている。ダニーはすこし痩せていて大人しそうで眼鏡をかけている。仲良しグループの中では一番ひ弱そうに見えるけれど、実際には抜け目なくて機転が利く。だから、どんな窮地に追い込まれても、まっさきに考えたりアイディアを出したりできるし、自分の都合の良いように友だちを操る事もできる。物語の大半は、それぞれには関連がない「金儲けの話」が続く。どの話も、ダニーが最後に純益として二、三枚の硬貨を手に入れる事で落ちがつく。例えば、2セントの入場料を取って「(『宝島』に出てくる)ロング・ジョン・シルバー」の幽霊の見世物を出したり、シャーロック・ホームズの『恐怖の谷』(原註3)の新品を傷物にしてしまったので景品にして富くじを売ったり、「途轍もなく素晴らしい複葉機カンパニー」を設立したり、さらには都会に住む従兄のテルフォード(リーにそっくりなのが見え見えの少年)との間にライバル心を燃やし、最後には10セント硬貨を1枚、隠し場所に加えている。
     こうして、タイトルの『ゴールデン・サマー』は全編を通じて二重の意味がある事がわかってくる。すなわち、信じがたいほどに無邪気で穏やかな夏の事でもあるし、早熟の起業家ダニー・ネイサンが遊び仲間から4.73ドルも稼いだ夏の事でもあるのだ。そしてタイトルが二つの意味に解釈できるという事が、多くの批評家の目には小説の目的と構成における根本的な欠点に映ったようだ。愛読者の私たちならば、(マーク・トウェインの生み出した)トム・ソーヤー少年や(ブース・ターキントンの生んだ)ペンロッド少年が成し遂げた事に喝采をおくるのと同様に、ダニーの冒険にも喝采をおくるだろう。だが、この冒険譚はダニーを「お金を欲しがる策略家の子供部門代表」も同然に描いてしまった。批評家たちの言い分が正しいかどうかはともかく、『ゴールデン・サマー』は商業的には途方もない失敗に終わった(原註4)。確かに単独の作品として見れば、郷愁を誘う物語と、金儲けばかり考えている少年をばか正直に描いた物語とが対立してちぐはぐであるという欠点を抱えている。にも関わらず、作家クイーンの世界を作りあげてきた知性の持ち主自らが生み出した作品として見るならば、失敗作などとは言えないし、いろいろな意味でクイーンの世界がどのようなものかを読み解く鍵となる作品でもある。例えば、クイーンが常日頃から読者を相手に繰り広げる知的なゲーム、ダネイの言う「愛しき昔」という主題の繰り返し、エラリイとバーナビーという名前の由来、さらには「クイーンの夢の国」を構成するその他多くの要素までもが、『ゴールデン・サマー』という作品を通してまばゆいばかりに光り輝いて見える。そして、この作品にだけは、現在に至るまでどこからも出版されていないダネイの詩の実例が載っている。もしこれまでにエラリイ・クイーンが登場する小説を二、三冊でも味わった事がある人なら、入手困難になっているこの稀少本を探し求めて古書店に何度も足を運んだ方がいいだろう。文学的な郷愁を誘う作品の価値が見直されてきている今ならば、新版となってもっと売れる日が来るのを今度こそ期待してもいいかもしれない。

     まずは翻訳について。
    (原)Danny's therapeutic strategy was to evoke the contentment of his own blissful vanished childhood―"the lovely past"―as a means of at least partially erasing from his mind the anguish of his middle life.
    (翻)ダネイの治療作戦は、彼自身の幸福感に満ちあふれた遠い子供時代の心の和らぎを呼び起こすことだった――”懐しい過去”によって少なくとも彼の心から中年期の苦悩をいくぶんでも消そうとしたのだ。
    (私)ダネイが癒やしとして考え出した方針は、中年の自分に降りかかる苦悶をわずかでも頭から消し去ってしまおうと、とうに失われてしまった幸せに満ちた子供時代、言わば「愛しき昔」をふり返る事で当時の心の安らぎを呼び起こすというものだった。
     戦争でもないのだからtherapeutic strategyを「治療作戦」とするのはさすがにないだろう。それと同格表現としてthe lovely pastが挿入されている。その直前でいったん文を切るのは良いとして、同格である事を示さないまま後半の部分を訳している。しかも「"懐かしい過去"によって…消そうとした」と言うのは正確ではない。結局は「"懐かしい過去"の心の安らぎを呼び起こすことによって…消そうとした」のように前半と同じ事をもう一度書かねばならないので、僕は二文に分けるのを断念した。

    (原)Most of the novel consists of a series of unrelated "business adventures" in each of which Danny winds up with a few coins net profit.
    (翻)小説の大半はそれぞれに関係のない”投機”の連続で、どの場合もダニーは二、三枚の硬貨を純益にして結末がつく。
    (私)物語の大半は、それぞれには関連がない「金儲けの話」が続く。どの話も、ダニーが最後に純益として二、三枚の硬貨を手に入れる事で落ちがつく。
     ダネイが少年時代の話だから「投機」という言葉はさすがにちょっと難しすぎる。business adventuresには「投機」という意味合いはありそうなので間違ってはいないかもしれないが、もうちょっと分かりやすく「金儲け」と訳しておく。「それぞれに関係のない」というのもやや違和感がある。金儲けという点では一貫しているので「関係」はあるが、毎回違った金儲けのネタをダネイ少年が探してくるだけで「関連」はない。

    (原)He displays the ghost of Long John Silver for a two-cent admission fee, raffles off a damaged copy of the brand-new Sherlock Holmes novel The Valley of Fear[3], organizes the Great Lolla paloosa Bi-Plane Company, and even adds a dime to his hoard through a splendiferous one-upmanship contest with his city cousin Telford (a thinly disguised Manfred).
    (翻)彼はロング・ジョン・シルヴァーの幽霊を見せ物にして二セントの入場料を取り、傷がついた新品のシャーロック・ホームズの小説『恐怖の谷』(原註3)一冊をラッフル販売で売り(購入希望者から少額のお金を集めて、くじ引きに当たった人に品物を渡す売り方)、グレート・ローラパルーザ・バイプレーン・カンパニー(偉大なすばらしい複葉機部隊というような意味)を組織している。そのうえ、都会育ちの従兄テルフォード(わずかにマンフレッドに似せた人物)と華やかな優位競争をして五セント硬貨一枚を自分の貯えに加えさえする。
    (私)例えば、2セントの入場料を取って「(『宝島』に出てくる)ロング・ジョン・シルバー」の幽霊の見世物を出したり、シャーロック・ホームズの新刊『恐怖の谷』(原註3)に傷を付けてしまい、それを景品にして富くじを売ったり、「途轍もなく素晴らしい複葉機カンパニー」を設立したり、さらには都会に住む従兄のテルフォード(リーにそっくりなのが見え見えの少年)との間にライバル心を燃やし、最後には10セント硬貨を1枚、隠し場所に加えている。
     この一節の翻訳は何故か訳注ばかりなのだが、肝心の「ロング・ジョン・シルヴァー」が作家スティーブンソンの小説『宝島』の登場人物だという事を示していない。ちなみに英和辞典では「ロング・ジョン・シルバー」と紹介されているが、日本百科全書ニッポニカでは「のっぽで1本足のジョン・シルバー」と書かれている。だがブリタニカでは「片足の悪党ロング・ジョン・シルバー」と書かれているので、どちらにするかはちょっと迷う。ちなみに2004年に新訳で出版された『ゴールデン・サマー』では「のっぽのジョン・シルバー」となっていた。

     翻訳が訳注をつけているのは「ラッフル販売」だが、細かな差分にこだわらなければ「富くじ」だとか「(有料の)抽選くじ」とか言いようがある。別に「ラッフル販売」の意味を知ってほしいという文脈ではなさそうだ。それと「グレート・ローラパルーザ・バイプレーン・カンパニー」も訳注に訳語を示している。こういうときは英語の字面the Great Lolla paloosa Bi-Plane Companyに何か意味があるのかと思ってしまうが、どうやらそうでもなさそうだ。さっさと「偉大なすばらしい複葉機カンパニー」と書いて、カタカナ語はルビにでもしておけばよい。

     でも、この部分で一番の問題はa thinly disguised Manfredの訳だ。「わずかにマンフレッドに似せた人物」と訳しているが逆だろう。disguised(姿を変えさせる)が足りないと言っているのだから「リーにそっくりなのが見え見え」という意味になるはずだ。ちなみに同じ文でa dimeが出てくるのだが、10セント硬貨なのに何故翻訳は半額の「五セント硬貨」になってしまうのだろう。

    (原)But even if as an independent work the book suffers from the conflict between nostalgia and brutal honesty, as a product of the same mind that sharped the Queenian universe it it not only not a failure but in many senses the key to the entire structure. The intellectual games Queen has always played with readers, the recurrent theme of "the lovely past," the origin of the names Ellery and Barnaby and a host of other elements of Queenland are dazzlingly illuminated by The Golden Summer,
    (翻)しかし、この本は一つの作品としては郷愁と残酷な真実との矛盾によって失敗作になっているとしても、クイーンという人物の世界を作りあげた同じ頭脳の作品としては失敗作ではなかったばかりか、いろんな意味で構想全体を見る鍵となっている。クイーンが読者と一緒に楽しんできた知的な遊びや、繰り返し出てくる"懐しい過去"の題材、エラリイとバーナビイという名前の起源、それにクイーンの世界を構成する他の要素の主人役は『ゴールデン・サマー』によってまぶしいばかりに照らし出される。
    (私)確かに単独の作品として見れば、郷愁を誘う物語と、金儲けばかり考えている少年をばか正直に描いた物語とが対立してちぐはぐであるという欠点を抱えている。にも関わらず、作家クイーンの世界を作りあげてきた知性の持ち主自らが生み出した作品として見るならば、失敗作などとは言えないし、いろいろな意味でクイーンの世界がどのようなものかを読み解く鍵となる作品でもある。例えば、クイーンが常日頃から読者を相手に繰り広げる知的なゲーム、ダネイの言う「愛しき昔」という主題の繰り返し、エラリイとバーナビーという名前の由来、さらには「クイーンの夢の国」を構成するその他多くの要素までもが、『ゴールデン・サマー』という作品を通してまばゆいばかりに光り輝いて見える。
     the conflict between nostalgia and brutal honestyの後半のbrutal honestyは「残酷な真実」などではない。ノスタルジーに溢れた物語である一方で、ほんの10歳の少年が金儲けばかりを考えている。そのことを「あまりに正直に」描いた物語だと言っているのだ。 the entire structureも「構想全体」では意味不明で、このtheは直前のthe Queenian universeを指しているはずだ。

     この部分で一番分かりにくかったのがa host of other elements of Queenlandだ。Queenlandはthe Queenian universe(クイーンの世界)とは違っている。「クイーンの世界」は作家クイーンの頭の中であり、作品に反映されている構想やアイディアや人物造形諸々を指すが、Queenlandはクイーンが作りだした作品を構成する要素すべてが盛りこまれていて、ファンがまるでディズニーランドのように楽しめる「夢の国」を指している。そして、その中にthe intellectual gamesや"the lovely past"やthe origin of the names Ellery and Barnabyなどが含まれ、さらにはother elements(その他の要素)が含まれている。それをとりまとめるのがa hostであろうが、「クイーンの世界を構成する他の要素の主人役」では何の事やらさっぱり分からない。だとしたらa hostは作家クイーン自身ではないのか。そう考えて私訳をこねくり回してはみたが、どうにもうまくいかない。電子辞書の例文検索でようやく正解にたどり着いた。hostはホスト(主人)ではなく別の語源のhostだった。そしてa host of…(大勢の、多数の)という成句だったのだ。

     ここからは内容について。『ゴールデン・サマー』は1953年に出版された。それはダネイの息子スティーヴンが亡くなる前年であり、当然ながら一人で書き出したのはそれよりも前になるわけだから、あきらかに脳障害をもって生まれてきた息子の事に頭を悩ましている時期に書かれたはずだ。そしてこれが出版的にも成功していたらダネイの「癒やし」になっていただろうが、まったくと言っていいほど売れなかったようだ。それをクイーン贔屓の著者ネヴィンズは擁護して、プロローグに破格と言っていいほどの分量の文章で「失敗作」ではないと熱弁を振るっている。批評家たちは物語の構成上の欠点しか言わないが、ファンから見れば見どころ読みどころが満載なのは明らかだろうというわけだ。

     ただし、ネヴィンズの言葉は少々割り引いて読まねばならない。実際に『ゴールデン・サマー』を読んでみるとわかるが、この作品の最大の問題点はダネイの作家としての力量にある。編集者でもある彼の文章が下手だと言いたいのではない。過剰なのだ。郷愁に満ちたダネイの子供時代の風景や風俗を描くだけなのに、とにかく第一期のクイーン作品と同じような調子で、事細かにダネイの生家の様子を書き連ねたりする。その中に犯人を示す鍵や伏線が紛れ込んでいるのであれば真剣に読むだろうが、単なる描写であり、その意味するところがダネイの記憶の中にある郷愁に満ちた生家の再現でしかないのだとすると、ファンであってもつき合いきれないというのが正直な感想だ。トム・ソーヤーの冒険譚のようなものを目指した、ダニーの機知に富んだ物語は、鼻につくところがあるのは確かだが、ミステリーじみた解決をきちんと用意していて楽しめる。やはり問題は構成のバランスの悪さだろう。つきあいきれないほど過剰な描写と、ごくごくプライベートな詩が抱き合わせになっている点も、作品をとっつきにくくさせている原因となっている。

     とにもかくにも、プロローグで敬愛するダネイを持ち上げたネヴィンズは、本文では『ゴールデン・サマー』を一切取りあげていない。この段落で「「クイーンの夢の国」を形づくる要素が、『ゴールデン・サマー』を通じて輝きを増すだろう」と指摘している点については、実際に『ゴールデン・サマー』の感想で後日検討したい。
    posted by アスラン at 00:25 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) |  書評(エラリー・クイーン) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2025年01月13日

    フランシス・M・ネヴィンズJr.『エラリイ・クイーンの世界』を散策する(その10)

     引き続き、第3期について。ただし、クイーンの二人が、最盛期と言われる第3期を私生活ではどう過ごしていたかについて語られる部分だ。
    [原文](INTRODUCTION P.9)
     These Period Three years, 1942-58, saw Dannay and Lee at the peak of their powers and popularity, selling millions of copies a year, praised as highly by critics and their fellow writers as by their immense audience. The very name Ellery Queen, like that of Holmes before him, entered common parlance as virtually a synonym for detective. But spectacular as was the success of their creation the authors' lives remained, in Anthony Boucher's words, "unspectacular and irrelevant," except in one sense which we shall shortly explore. Manfred Lee settled down in suburban Connecticut, first in Westport, later on a 63-acre estate in Roxbury, where he and his wife, a former actress who often played roles on the Queen radio show, raised a total of eight children. Lee declared his property a game preserve, added to his stamp and record and medal collections, beat a playwright neighbor named Arthur Miller in an selection to the Roxbury library board, and served as the small community's Justice of the Peace during 1957-58. Meanwhile Frederic Dannay and his family settled in Larchmont, New York about 90 minutes from Roxbury and half an hour from New York City. In whatever moments he could spare from his multitudinous Queenly duties he continued to write poetry, none of it published (one editor said it was too highly personal in nature), and to collect stamps and first editions, and all in all to give the appearance of a well-to-do gentlemen of high cultivation, living a busy but essentially tranquil existence.
    [翻訳](プロローグ P.25)
     この第三期にあたる一九四二年から五八年とかけての年月は、ダネイとリーが能力と人気の両面で全盛期にあったときで、毎年の本の売り上げは何百万冊にもおよび、数知れない読者から高い賞賛を浴びると同時に批評家や同業の作家たちからも高く評価された。エラリイ・クイーンという名前そのものが、以前のホームズと同じように、事実上、探偵と同義語として人びとの日常の会話に使われるようになった。だが、壮観だったのは二人の創作の成功面で、従兄弟作家たちは依然としてアンソニー・バウチャーの言う”壮観でもなくそれらしくもない”生活を続けていたが、ある意味では変わったところもあるので手短かに見てみよう。マンフレッド・リーはコネティカット州のいなかで、最初はウェストポートに住んだが後にロクスバリーに六十三エーカーの土地を持つ広大な屋敷に落ち着き、クイーン・ラジオ劇場によく出ていた女優を妻として、合計八人の子供を育てている。リーは自分の所有地を禁猟区として宣言し、切手やレコード、およびメダルの蒐集を趣味としたほか、ロクスバリー図書館委員選挙では近所に住んでいた劇作家のアーサー・ミラーを押さえて当選し、一九五七年から五八年にかけては同じ町の治安判事をつとめてもいる。他方、フレデリック・ダネイと彼の家族はニューヨーク州ラーチモントに居を構えた。ロクスバリーから九十分、ニューヨーク市から三十分のところである。彼はクイーンとしての種々雑多な仕事をするかたわら、時間の許すかぎり詩を書き続け、切手や初版本の蒐集をしたが、詩は一度も出版されたことがない(ある編集者によれば、極端なまでにまったく個人的な詩だという)。大体において、彼から受ける印象はいつも、教養のある裕福な紳士で、忙しくはあるが本質的には静かな生活をしているという感じだった。
    [私訳]
     第三期と言うと1942年〜1958年に該当するが、ダネイとリーの影響力、人気のいずれもが最盛期を迎えた。一年に何百万冊もの著作が売れ、批評家や作家仲間からも高く賞賛されたし、同様に無数の読者からも歓迎された。「探偵と言えば誰?」と聞かれて、まさに「エラリー・クイーン」という名前が誰の口からも突いてでるようになった。かつては「ホームズ」という名前がそうだったように。しかし、二人が生み出した作品が華々しい成功をおさめる一方で、アンソニー・バウチャーによれば、二人の私生活は以前と同様に「華々しくはないし、むしろ華々しさとは無縁」だった。とは言え、ある程度の例外がないわけではないので、手短に検討しておこう。リーは結婚後はコネチカット州の郊外に落ち着いた。最初はウェストポートに住み、後にロクスベリーに63エーカーの土地を手に入れ、そこで妻と二人で合わせて8人の子供を育てた。妻は元々は女優で、《クイーンのラジオ劇場》に度々出演していた。リーは切手やレコード、古い硬貨などのコレクションに加えて自らが所有する禁猟区も財産として申告している。ロクスベリー図書館の役員選挙にも立候補して、近所に住んでいた劇作家のアーサー・ミラーを破って当選した。1957年〜1958年の二年間は、その小さな町で治安判事をつとめたこともある。
     一方のダネイはニューヨーク州ラーチモントに家族と暮らしていた。車だとロクスベリーからは90分、ニューヨーク市からは30分程度の距離だ。ダネイは作家クイーンとしてやらねばならない無数の仕事の合間に少しでも時間ができると、詩の執筆を続けた。ちなみに詩は一編たりとも出版はされていない(ある編集者の話では、実際のところ、ごく個人的な内容だったようだ)。それ以外にも切手や初版本の収集を続けた。そしておおよそのところ、洗練された教養を身につけた一人の裕福な紳士が、仕事に追われてはいるが基本的には穏やかに過ごしているように見える生活を続けた。


    (原)These Period Three years, 1942-58, saw Dannay and Lee at the peak of their powers and popularity, selling millions of copies a year, praised as highly by critics and their fellow writers as by their immense audience.
    (翻)この第三期にあたる一九四二年から五八年とかけての年月は、ダネイとリーが能力と人気の両面で全盛期にあったときで、毎年の本の売り上げは何百万冊にもおよび、数知れない読者から高い賞賛を浴びると同時に批評家や同業の作家たちからも高く評価された。
    (私)第三期と言うと1942年〜1958年に該当するが、ダネイとリーの影響力、人気のいずれもが最盛期を迎えた。一年に何百万冊もの著作が売れ、批評家や作家仲間からも高く賞賛されたし、同様に無数の読者からも歓迎された。
     以後の文章を読むかぎり、their powerは「クイーンの影響力」でないと意味が通じない。人気が売り上げに繋がって何百万冊も売れていただけでなく、批評家や同じミステリー作家からも評価されていた事を指している。売り上げが「年間数百万冊」というのが当時どの程度の売れっ子度合いを示すのか分からないので、当時のランキングを調べてみようとしたが正直よく分からないので、最近流行りの生成AIのお世話になることにした。CoPilotは「エラリー・クイーン - 『ザ・ガルトン・ケース』(1949年)などが大ヒットしました。」などと怪しげな回答をするので、chatGPTに乗り換えた。
    [1920年代の代表的なミステリー作家]
    1. アガサ・クリスティ (Agatha Christie)
     ゴールデンエイジ・ミステリーの代表的作家で、1920年代にデビューしました。
     代表作:『スタイルズ荘の怪事件』で名探偵エルキュール・ポアロが初登場しました。その後、『ゴルフ場の殺人 』など、人気作を次々に発表しました。
     彼女の作品は、緻密なプロットと意外な結末で読者を魅了し、この時代にミステリー作家としての地位を確立しました。
    2.S.S.ヴァン・ダイン (S.S. Van Dine)
     推理小説界に「フィロファイロ・ヴァンス (Philo Vance)」という上流階級の探偵を登場させ、大きな話題を呼びました。彼の作品は推理だけでなく、知的で洗練された雰囲気が特徴でした。代表作: 『ベンスン殺人事件』  
    3.ガートルード・スタイン (Gertrude Stein)
     スタインは主にモダニズム文学で知られますが、1920年代には彼女の影響を受けた作家がミステリー小説でも新しいスタイルを試みました。
    4.メルヴィル・デイヴィスン・ポースト (Melville Davisson Post)
     「アンキタス・グリーンアブナー叔父(Uncle Abner)」シリーズで知られ、法と道徳をテーマにしたミステリーを執筆しました。
    5.エラリー・クイーン (Ellery Queen)
     エラリー・クイーンは1929年にデビューし、論理的推理の黄金期を築く存在となりました。彼らのデビュー作『ローマ帽子の秘密 』は高い評価を受けました。

    6.ダシール・ハメット (Dashiell Hammett)
     ハードボイルドの先駆者として、1920年代に短編を中心に活躍しました。彼の作品は雑誌「ブラック・マスク」で発表され、リアルな犯罪描写で注目を集めました。
     以前よりはだいぶマシな回答を出してくる。3位のスタインは直接はミステリーを書いていないし、4位のアブナー伯父シリーズも「アンキタス・グリーン (Uncle Abner)」シリーズと書かれていたり、2位の「ファイロ」も「フィロ」になっていた。ただ、作家や作品名、説明などは思いの外合っている。新人としてクイーンが入ってると同時に、ハードボイルド作家のハメットが並んでいるのも象徴的だ。これで十年ごとにランキングを見ていく(誤りは適宜手直しした。)
    [1930年代の代表的なミステリー作家]
    1.ダシール・ハメット (Dashiell Hammett)
     ハードボイルド探偵小説のパイオニアとして、1930年代に絶大な人気を博しました。彼の作品は映画化もされ、さらなる知名度を得ました。代表作『マルタの鷹』『血の収穫』  
    2.アール・スタンリー・ガードナー (Erle Stanley Gardner)
     『ペリー・メイスン』シリーズは1930年代にスタートし、短期間で大人気シリーズとなりました。彼のテンポの速いリーガルミステリーは幅広い読者層を獲得しました。
    3.エラリー・クイーン (Ellery Queen)
     エラリー・クイーン名義で執筆された推理小説は、この時代の象徴的な存在です。彼らの作品は緻密なプロットと論理的な謎解きが特徴で、多くのミステリーファンに支持されました。

    4.S・S・ヴァン・ダイン (S. S. Van Dine)
      フィロファイロ・ヴァンスシリーズで知られ、1920年代後半から1930年代初頭にかけて非常に人気がありました。彼の影響は後の作家たちにも及びました。
    5.アガサ・クリスティ (Agatha Christie)
     アガサ・クリスティはイギリスの作家ですが、アメリカでも1930年代に大きな影響を与えました。『オリエント急行の殺人 』は特にアメリカ市場でも好評でした。

    [1940年代の代表的なミステリー作家]
    1.レイモンド・チャンドラー (Raymond Chandler)
     ハードボイルド探偵小説の巨匠として、この時代に絶大な人気を誇りました。彼の主人公フィリップ・マーロウは時代を象徴する探偵キャラクターです。彼の作品は文学的評価も高く、映画化も進みました。代表作: 『さらば愛しき女よ』『大いなる眠り』『湖中の女』
    2.ダシール・ハメット (Dashiell Hammett)
     ハメットは1940年代に新作を発表していませんが、彼の過去作(『マルタの鷹』や『薄氷の殺人血の収穫』)が引き続き読まれ、映画化やラジオドラマ化によって広く支持され続けました。
    3.アール・スタンリー・ガードナー (Erle Stanley Gardner)
     法廷ミステリー『ペリー・メイスン』シリーズは1940年代も継続的に出版され、依然として高い人気を誇りました。彼の生産性は非常に高く、ペリー・メイスンシリーズだけでも40冊以上を執筆しています。テレビドラマ化(1957年から)に先立ち、1940年代にはすでに映画化され、成功を収めていました。
    4.エラリー・クイーン (Ellery Queen)
     推理小説の黄金期を代表する作家として1940年代も活躍しました。彼らの作品は論理的な謎解きと巧妙なトリックで知られ、短編・長編ともに多くの読者を魅了しました。代表作: 『十日間の不思議』

    5.パトリシア・ハイスミス (Patricia Highsmith)
     この時代の終盤にデビューし、心理的要素を重視した新しいタイプのミステリー作家として注目を集めました。彼女のデビュー作『見知らぬ乗客』も1940年代後半の執筆です。
    6.ドロシー・B・ヒューズ (Dorothy B. Hughes)
     女性作家でありながらハードボイルド・ミステリーの分野でも成功を収めた数少ない人物の一人です。『苛烈なる街孤独な場所で 』は、犯罪者の視点から描かれる斬新な心理サスペンスとして評価されました。
    7.マイクル・イネス (Michael Innes)
     イギリス出身ながらアメリカでも人気を博した作家で、知的でウィットに富むミステリーを書きました。『ハンプシャーの怪事件学長の死』などが知られています。

    [1950年代の代表的なミステリー作家]
    1.レイモンド・チャンドラー (Raymond Chandler)
     1950年代もハードボイルドの巨匠として広く読まれました。『長いお別れ』は、彼の代表作の一つで、文学的にも高い評価を受けています。
    2.アール・スタンリー・ガードナー (Erle Stanley Gardner)
     『ペリー・メイスン』シリーズはこの時代も大人気で、短期間で次々と新作を発表し続けました。また、ペリー・メイスンはラジオドラマやテレビドラマ化され、さらに知名度を高めました。
    3.ミッキー・スピレイン (Mickey Spillane)
     ハードボイルド探偵マイク・ハマー シリーズで爆発的な人気を誇りました。代表作には『裁くのは俺だ』『俺が掟だ 』などがあり、暴力的でスリリングなスタイルが話題となりました。彼の作品は商業的にも非常に成功しました。
    4.ジョン・D・マクドナルド (John D. MacDonald)
     フロリダを舞台にした犯罪小説で知られ、後に「トラヴィス・マッギー 」シリーズを手がける作家として注目を集めました。
    5.パトリシア・ハイスミス (Patricia Highsmith)
     彼女の心理サスペンスは1950年代に革新をもたらしました。代表作『見知らぬ乗客』『太陽がいっぱい 』は映画化され、大きな影響を与えました。
    6.アガサ・クリスティ (Agatha Christie)
     1950年代も依然としてアメリカでの人気が衰えず、ミステリー界の女王として君臨していました。代表作『ポアロのクリスマス 』などが出版されました。

    [1960年代の代表的なミステリー作家]
    1.ロス・マクドナルド (Ross Macdonald)
     ハードボイルド探偵小説の名手として、レイモンド・チャンドラーの後継者と呼ばれました。「ルー・アーチャー」シリーズはこの時代に最高潮を迎え、心理的深みや家族の秘密をテーマにした作品が評価されました。代表作: 『さむけ』『地下室の少年
    2.アール・スタンリー・ガードナー (Erle Stanley Gardner)
     『ペリー・メイスン』シリーズはこの時代も続き、特にテレビドラマ版(1957年開始)の成功が原作の売上を後押ししました。彼の作品は読者に幅広く愛されました。
    3. パトリシア・ハイスミス (Patricia Highsmith)
     心理サスペンス作家として、60年代も活躍。トム・リプリーシリーズの続編がこの時代に書かれ、彼女の名声をさらに高めました。代表作: 『アメリカの友人』
    4.ジョン・D・マクドナルド (John D. MacDonald)
     「トラヴィス・マッギー 」シリーズで大成功を収めました。このシリーズはフロリダを舞台にしたハードボイルドの冒険ミステリーで、エンターテインメント性の高さが人気の要因でした。代表作: 『深紅の罠
    5.エラリー・クイーン (Ellery Queen)
     60年代も活動を続け、短編や長編を発表し続けました。クラシックな謎解きスタイルが好きな読者に支持されていました。

    6.エド・マクベイン (Ed McBain)
     87分署シリーズで警察小説のジャンルを確立。このシリーズは犯罪の捜査手法に焦点を当て、現実的な警察の描写が特徴です。代表作: 『ヒート
    7.アガサ・クリスティ (Agatha Christie)
     ゴールデンエイジの女王として、この時代も世界中で高い人気を維持しました。晩年にあたる1960年代も新作を発表し続けています。代表作: 『象は忘れない』
     あらかじめ断っておくが、これらのランキングは2025年1月現在の生成AIの性能を端的に示しているだけで、それ以上でもそれ以下でもない。1960年代のランキングに登場するクリスティは「晩年にあたる1960年代も新作を発表し続け」と書かれているが、実際には1976年に亡くなる三年前までは執筆を続けていたし、『象は忘れない』は実際には1972年に出版されている。さらに言えば、同じ問いを与えても、この各年代のランキングが再現される訳ではない事も言い添えておく。それを承知の上で参考にすると、クイーンについて言えば1970年代のランキングには登場しなくなる。リーが1971年に亡くなり著作が永遠に途絶えるからだ。

     全盛期と言われる第3期に含まれる1950年代のランキングにはクイーンの名前が見られない。突然人気がなくなった訳ではなく、アメリカのミステリー界ではクイーン以外の新しい勢力が台頭してきたという事だろう。では、いっそのこと「エラリー・クイーンの著作の売り上げ動向を年代別に示せ」とchatGPTに聞いてみよう。
    1920年代:デビューと注目のスタート
    ・初期の成功
     1929年、デビュー作『ローマ帽子の謎 (The Roman Hat Mystery)』を発表。この作品を皮切りに、「国名シリーズ」として知られるエラリー・クイーン名義の本格ミステリーが注目され始めました。
    ・売上規模
     初期の作品は非常に知的で、限られたミステリーファンに支持される形でしたが、大ヒットには至りませんでした。
    1930年代:本格派ミステリーの黄金期
    ・売上が拡大
     「国名シリーズ」(例:『フランス白粉の謎』や『ギリシア棺の謎』)が順調に人気を獲得。読者はエラリー・クイーンのロジカルな推理と挑戦状形式に魅了されました。
    ・特徴
     クラシックな謎解き要素が人気で、アガサ・クリスティやS.S.ヴァン・ダインの作品と並び、売上は安定的に拡大。
    ・売上規模
     年間数十万部の売上を達成するようになり、本格派ミステリー作家としての地位を確立しました。
    1940年代:シリーズの拡大と多方面への進出
    ・売上がピークに
     エラリー・クイーンは、短編作品やラジオドラマの脚本、映画化など多方面に展開。この時期、彼らの名前はミステリーの代名詞となり、著作の売上がピークに達しました。
    ・代表作
     『災厄の町 (Calamity Town)』(1942年)は、シリーズ初の「ライツヴィル (Wrightsville)」を舞台にした作品で、心理的要素を加味した新しいスタイルが成功。
     短編集『エラリー・クイーンの冒険』などがベストセラーとなりました。
    ・売上規模
     年間で100万部以上を記録することもあり、推理小説のベストセラー作家としての地位を確固たるものにしました。
    1950年代:社会の変化と売上の安定
    ・新しい方向性と安定期
     ハードボイルドや心理サスペンスの台頭により、伝統的な本格ミステリーの需要は少しずつ減少。それでもエラリー・クイーンは安定した売上を維持しました。
    ・代表作
     『最後の一撃 (The Last Woman in His Life)』(1950年)
     『ベックの箱舟最後の一撃 (The Finishing Stroke)』(1958年)
    ・売上規模
     年間50万部前後の安定した売上。新作に加えて、過去の名作の再版も読者に支持され続けました。
    1960年代:ミステリー市場の多様化
    ・売上の変動
     1960年代には、ハードボイルドやポリス・プロシージャルの人気が高まり、エラリー・クイーンの売上は次第に減少。しかし、この時代も過去の作品が根強い人気を保ちました。
    ・代表作
     『フォックス家の殺人盤面の敵 (The Player on the Other Side)』(1963年)
      他の作家とのコラボ作品やアンソロジー編集も注力。
    ・売上規模
     年間10〜30万部程度の売上。新作よりもクラシックな「国名シリーズ」の再版が中心。
    1970年代:晩年と評価の再認識
    ・売上は低迷
     新しいミステリー作家の台頭や、エラリー・クイーンの古典的なスタイルが時代に合わなくなり、売上は低下。
    ・代表作
     1971年に発表された『80日間殺人事件 (The Tragedy of Errors)』は未完成作として後に出版。
    ・売上規模
     年間数万部規模に落ち着く。エラリー・クイーンの全体的な評価は高いものの、新しい世代の読者からは古典としての位置づけになりました。
     1940年代には「年間で100万部以上を記録することもあり、推理小説のベストセラー作家としての地位を確固たるものにしました。」と書かれていて、本書の「一年に何百万冊もの著作が売れ、…同様に無数の読者からも歓迎された。」という記述とおおよそ合致する事を確認できたところで、生成AIとのお遊びは終わる事にしよう。

    (原)The very name Ellery Queen, like that of Holmes before him, entered common parlance as virtually a synonym for detective. But spectacular as was the success of their creation the authors' lives remained, in Anthony Boucher's words, "unspectacular and irrelevant," except in one sense which we shall shortly explore.
    (翻)エラリイ・クイーンという名前そのものが、以前のホームズと同じように、事実上、探偵と同義語として人びとの日常の会話に使われるようになった。だが、壮観だったのは二人の創作の成功面で、従兄弟作家たちは依然としてアンソニー・バウチャーの言う”壮観でもなくそれらしくもない”生活を続けていたが、ある意味では変わったところもあるので手短かに見てみよう。
    (私)「探偵と言えば誰?」と聞かれて、まさに「エラリー・クイーン」という名前が誰の口からも突いてでるようになった。かつては「ホームズ」という名前がそうだったように。しかし、二人が生み出した作品が華々しい成功をおさめる一方で、アンソニー・バウチャーによれば、二人の私生活は以前と同様に「華々しくはないし、むしろ華々しさとは無縁」だった。とは言え、ある程度の例外がないわけではないので、手短に検討しておこう。
     生成AIの回答の1940年代は「彼らの名前はミステリーの代名詞となり」とある。まさに「探偵イコール誰?」と部分に該当する。しかもアメリカの読者やラジオドラマの視聴者にとって、エラリー・クイーンは探偵であると同時に作家だったのだ。それにしても翻訳で「壮観」と表現しているのは違和感があるし、「壮観でもなくそれらしくもない」というのも意味不明だ。「ある意味では変わったところもある」というのも誤解を招く表現だろう。要はセレブらしい派手なことは何一つしていないが、地味な趣味や日課にお金をかけて楽しんではいたようだと著者は言いたいのだ。

    (原)Manfred Lee settled down in suburban Connecticut, first in Westport, later on a 63-acre estate in Roxbury, where he and his wife, a former actress who often played roles on the Queen radio show, raised a total of eight children. Lee declared his property a game preserve, added to his stamp and record and medal collections, beat a playwright neighbor named Arthur Miller in an selection to the Roxbury library board, and served as the small community's Justice of the Peace during 1957-58.
    (翻)マンフレッド・リーはコネティカット州のいなかで、最初はウェストポートに住んだが後にロクスバリーに六十三エーカーの土地を持つ広大な屋敷に落ち着き、クイーン・ラジオ劇場によく出ていた女優を妻として、合計八人の子供を育てている。リーは自分の所有地を禁猟区として宣言し、切手やレコード、およびメダルの蒐集を趣味としたほか、ロクスバリー図書館委員選挙では近所に住んでいた劇作家のアーサー・ミラーを押さえて当選し、一九五七年から五八年にかけては同じ町の治安判事をつとめてもいる。
    (私)リーは結婚後はコネチカット州の郊外に落ち着いた。最初はウェストポートに住み、後にロクスベリーに63エーカーの土地を手に入れ、そこで妻と二人で合わせて8人の子供を育てた。妻は元々は女優で、《クイーンのラジオ劇場》に度々出演していた。リーは切手やレコード、メダルや勲章などのコレクションに加えて自らが所有する禁猟区も財産として申告している。ロクスベリー図書館の役員選挙にも立候補して、近所に住んでいた劇作家のアーサー・ミラーを破って当選した。1957年〜1958年の二年間は、その小さな町で治安判事をつとめたこともある。
     翻訳はちょこちょこと変だ。「63エーカーもの地所」を手に入れたからには確かに「広大な屋敷」が建っていそうだが、原文には記述がない。派手好みではない”クイーン”の一人に相応しいかどうか。それに63エーカーが全部「禁猟区」という扱いになっているが、ここでは地所の一部を「禁猟区」として申告したという事だと思うのだが。

    (原)Meanwhile Frederic Dannay and his family settled in Larchmont, New York about 90 minutes from Roxbury and half an hour from New York City. In whatever moments he could spare from his multitudinous Queenly duties he continued to write poetry, none of it published (one editor said it was too highly personal in nature), and to collect stamps and first editions, and all in all to give the appearance of a well-to-do gentlemen of high cultivation, living a busy but essentially tranquil existence.
    (翻)他方、フレデリック・ダネイと彼の家族はニューヨーク州ラーチモントに居を構えた。ロクスバリーから九十分、ニューヨーク市から三十分のところである。彼はクイーンとしての種々雑多な仕事をするかたわら、時間の許すかぎり詩を書き続け、切手や初版本の蒐集をしたが、詩は一度も出版されたことがない(ある編集者によれば、極端なまでにまったく個人的な詩だという)。大体において、彼から受ける印象はいつも、教養のある裕福な紳士で、忙しくはあるが本質的には静かな生活をしているという感じだった。
    (私)一方のダネイはニューヨーク州ラーチモントに家族と暮らしていた。車だとロクスベリーからは90分、ニューヨーク市からは30分程度の距離だ。ダネイは作家クイーンとしてやらねばならない無数の仕事の合間に少しでも時間ができると、詩の執筆を続けた。ちなみに詩は一編たりとも出版はされていない(ある編集者の話では、実際のところ、ごく個人的な内容だったようだ)。それ以外にも切手や初版本の収集を続けた。そしておおよそのところ、洗練された教養を身につけた一人の裕福な紳士が、仕事に追われてはいるが基本的には穏やかに過ごしているように見える生活を続けた。
     ここでリーとダネイの居住地の位置関係を見ておこう。
    クイーンの住居.jpg
     リーの住むロクスベリーとダネイの住むラーチモントとは直線で80km程度の距離だ。そしてラーチモントとニューヨーク市とは30km。という事は原文の「90分」「30分」というのは「車で」という但し書きがつくべきだろう。それにしても、ダネイは雑誌の編集などで度々ニューヨーク市に出向かねばならなかっただろうから、車で30分程度の位置に住居を定めたのだろうが、リーは当初から執筆に専念するために都会とは離れた土地に住むことを良しとしたようだ。考えれば、そもそもエラリー・クイーンになる前の二人は懸賞金がもらえたら「イタリアに移住して執筆しよう」という夢を抱えていたのだ。それは潰えてしまったけれど、ささやかな夢を叶えるほどには成功した事になる。それはこんな執筆生活だった。
    (左はコネチカット州ロクスベリーでのリーの書斎、右はニューヨーク州ラーチモントでのダネイの書斎)
    リーの書斎.JPG ダネイの書斎.JPG
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    2025年01月02日

    フランシス・M・ネヴィンズJr.『エラリイ・クイーンの世界』を散策する(その9)

     いよいよ第三期について、だ。あらためて著者による第三期の長編小説リストを挙げておく。
    [第三期(12作品)]
    災厄の町(1942)
    靴に棲む老婆(1943)
    フォックス家の殺人(1945)
    十日間の不思議(1948)
    九尾の猫(1949)
    ダブル・ダブル(1950)
    悪の起源(1951)
    帝王死す(1952)
    緋文字(1953)
    ガラスの村(1954)
    クイーン警視自身の事件(1956)
    最後の一撃(1958)

    [原文](INTRODUCTION P.8)
     Queen's third period, which many would judge the crown of his career, opens with Calamity Town (1942) and embraces twelve novels, two books of short stories and sixteen years. In this period there was nothing Queen would not dare. We find complex deductive puzzles; achingly full-drawn characterizations; the detailed evocation of a small town and of a great city, each of which comes to life on the page; the creation of a private, topsy-turvy, Alice-in-Wonderland otherworld; explorations into the historical, psychiatric and religious dimensions; hymns of hate directed at McCarthysm and other brands of political filth; a gently sketched middle-age love story; a nostalgic re-creation of Ellery's young manhood. We find all this and so much more within a sequence of strict detective stories, whose delights we shall taste in Chapters Seven through Ten.
    [翻訳](プロローグ P.25)
     クイーンの第三期は最高潮に達した時代と判断する人も多いだろうが、『災厄の町』(一九四二)で始まり、十二冊の小説と二冊の短編集を包含して十六年間にわたる。この時代には、クイーンにとって向かうところ敵なしといった状態だった。作品にも複雑な謎解きが見られる。心の痛みをさそうような人物像の完全な描写をする。小さな町から大きな都市まで詳細な記述があって、ページを読み進むごとに町の息吹きが感じられる。自分で創作しためちゃくちゃな、不思議の国のアリスの別世界が語られる。歴史的、精神病学的、そして宗教的な次元への探検がなされる。マッカーシズムや他の政治的に堕落した者たちに対する憎悪の聖歌をうたう。中世の恋物語を穏やかに描写する。そしてまた、探偵エラリイの青年時代を懐しそうに再現してみる。これらすべてがまだほかのいろんな事柄とともに、探偵小説の中に見いだせるのだ。その感激を七章から十章にかけて味わってみようと思う。
    [私訳]
     クイーンの第三期は、クイーンの経歴の中で最も充実していた時期だと考えている人も多いだろう。なにしろ『災厄の町(1942年)』から始まって、12冊の長編小説、2冊の短編集を含み、それが16年間の長きに及んでいるのだ。この時期のクイーンには、やってやれないことなど何一つなかった。入り組んだ謎を解明する本格ミステリーに果敢に挑んでいるし、読んでいて胸が痛くなるほどに登場人物の心情を描き込んでいる。小さな町や大都市を細部にいたるまで想像力豊かに描写し、いずれも作品の中で生き生きと再現している。あるいはクイーン自らが『不思議の国のアリス』を基にして混乱した空想世界を創り上げたかと思えば、歴史や精神医学、宗教といった側面を探求し、マッカーシズムを始め政治的な腐敗との烙印が押されたものに憎しみを向ける人々へ賛歌をささげている。さらには、初老の男女のロマンスを丁寧に描き、エラリーが若き青年だった頃を郷愁をこめて再現してみせている。以上のすべてのみならず、その他たくさんの事が、厳密には「推理小説」と見なされる一連の作品の中に納まっている。そうした作品の数々を読む楽しさを七章から十章で共に味わう事としよう。
     第1期が7年、第2期が4年なのに比べると、第3期は16年間も続いている。これは毎年最低でも一冊ずつは出版して多い時には四冊も出版していた第1期などと比べると、クイーン自身が安定期に入った事から一括りにしているのだと思われる。安定期ゆえに作品の内容が充実しているので、あえて分ける必要を感じなかったのだろう。だが、16年間とは言っても長篇が出版されない年もあるし、作品の持つテーマも一作ごとに変わっているので、同じ第3期でも前半と後半とでは違いがみられるのも確かだ。

    (原)We find complex deductive puzzles; achingly full-drawn characterizations; the detailed evocation of a small town and of a great city, each of which comes to life on the page;
    (翻)作品にも複雑な謎解きが見られる。心の痛みをさそうような人物像の完全な描写をする。小さな町から大きな都市まで詳細な記述があって、ページを読み進むごとに町の息吹きが感じられる。
    (私)入り組んだ謎を解明する本格ミステリーに果敢に挑んでいるし、読んでいて胸が痛くなるほどに登場人物の心情を描き込んでいる。小さな町や大都市を細部にいたるまで想像力豊かに描写し、いずれも作品の中で生き生きと再現している。
     クイーンの最大の魅力は言うまでもなくdeductive puzzles(演繹推理を駆使した本格ミステリー)である。だが、第2期の作品では女性誌向けの登場人物やストーリー設定に重きが置かれて、謎解きの醍醐味そのものをないがしろにする傾向が見られたが、第3期に入ってそれが復活しているという事だろう。その点が翻訳では強調されていないように感じる。

     それだけではなく、第1期では人間そのものを描くことが二の次になっていた反省からか、『災厄の町』に始まるライツヴィル物では特に、登場人物が過酷な運命に翻弄される姿が描かれている。chracterizationsは特定の登場人物を指すはずで「人物像」などという曖昧なものではない。例えば『災厄の町』のノーラや『フォックス家の殺人』のデイヴィーがそうだろう。

     a small town and of a great cityは決して「小さな町から大きな都市まで」という幅を指しているのではない。『災厄の町』『フォックス家の殺人』『十日間の不思議』などの舞台となるライツヴィル(小さな町)と、『九尾の猫』のニューヨーク(大都市)を指している。the detailed evocationを「詳細な記述」ですましているのも舌足らずだし、comes to lifeを「町の息吹きが感じられる」としてしまうとニューヨークが置き去りになっているように読めてしまう。 

    (原)the creation of a private, topsyturvy, Alice-in-Wonderland otherworld; explorations into the historical, psychiatric and religious dimensions; hymns of hate directed at McCarthysm and other brands of political filth;
    (翻)自分で創作しためちゃくちゃな、不思議の国のアリスの別世界が語られる。歴史的、精神病学的、そして宗教的な次元への探検がなされる。マッカーシズムや他の政治的に堕落した者たちに対する憎悪の聖歌をうたう。
    (私)あるいはクイーン自らが『不思議の国のアリス』を基にして混乱した空想世界を創り上げたかと思えば、歴史や精神医学、宗教といった側面を探求し、マッカーシズムを始め政治的な腐敗との烙印が押されたものに憎しみを向ける人々へ賛歌をささげている。
     ここで言う『不思議の国のアリス』風の世界とは『靴に棲む老婆』で描かれた世界の事だろう。ルイス・キャロルが書いた『不思議の国のアリス』は子供向けの童話でありながら、不条理に満ちたナンセンス文学だ。その事をさしてtopsyturvy(めちゃくちゃな、混乱した)と言っているのであって、クイーンが原作を「めちゃくちゃに創作した」わけではない。翻訳では『アリス』を改変したかのように書いているが、あくまでクイーン版『不思議の国のアリス』を書いたという事だろう。

     次に、dimensionを「次元」と訳すと意味不明になるので「側面、観点、局面」ぐらいの意味。それぞれに作品が対応するはずで「歴史的側面」は『災厄の町』や『フォックス家の殺人』、「精神医学の側面」は『九尾の猫』、「宗教的な側面」は『十日間の不思議』だろうか。ニューヨーク生まれのクイーンは自分たちを取り巻く現代的な生活に倦み、片田舎の町ライツヴィルを描くことに平安を求めた。それはアメリカの歴史そのものを遡る企てだっただろうが、同時に今、ライツヴィルに起きている小さな軋轢はやがては「アメリカの今」に繋がっている。それを避けていくことができない事もクイーンは充分すぎる程に分かっている。ライツヴィルとそこに住む人々を丁寧に描くという事は、癒やしと同時に痛みを伴う事でもある。そこに僕ら読者も共感する事になるのだ。

     最後のマッカーシズムは、ブリタニカ国際大百科事典によると「第2次世界大戦後の1940年代後半から50年代前半にかけてアメリカ国内を一種のヒステリー状態におとしいれた『赤狩り』。連邦上院議員マッカーシーの名にちなんでこの名称で呼ばれる。」の事だ。戦前の禁酒法同様、悪名が日本にまでとどろいている。特に映画好きの僕としては、ハリウッドという映画産業の一大中心地が『赤狩り』という誤ったムーブメントのせいで、甚大な被害を受け、それは今なお俳優や監督・脚本家たちに禍根を残しているという事を知っている。本書の本文にも書かれているように、あのダシール・ハメットも6ヶ月の間、投獄を余儀なくされた事にクイーン自身も大変なショックを受けたようだ。それがきっかけなのかは知らないが、クイーンは『赤狩り』が象徴する政治的な腐敗を批判するために、寓話として『ガラスの村』を書いたのだ。

    (原)a gently sketched middle-age love story; a nostalgic re-creation of Ellery's young manhood. We find all this and so much more within a sequence of strict detective stories, whose delights we shall taste in Chapters Seven through Ten.
    (翻)中世の恋物語を穏やかに描写する。そしてまた、探偵エラリイの青年時代を懐しそうに再現してみる。これらすべてがまだほかのいろんな事柄とともに、探偵小説の中に見いだせるのだ。その感激を七章から十章にかけて味わってみようと思う。
    (私)さらには、初老の男女のロマンスを丁寧に描き、エラリーが若き青年だった頃を郷愁をこめて再現してみせている。以上のすべてのみならず、その他たくさんの事が、厳密には「推理小説」と見なされる一連の作品の中に納まっている。そうした作品の数々を読む楽しさを七章から十章で共に味わう事としよう。
     以前にも書いたが、本書の翻訳者4名はクイーンの聖典をほぼ読んだ事がないようだ。少なくとも第3期の作品などほとんど読んではいないだろうし、内容を確認する事も怠っている。解せないのは校閲・校正部門も正しく機能してはいない点だ。でなければ「中世の恋物語」などというフレーズが堂々とまかり通るはずがないのだ。カーの歴史物でもあるまいに。答はmiddle-age love story(初老の恋愛物語)であり、となれば作品は『クイーン警視自身の事件』に決まっている。エラリーの父リチャード・クイーン警視は警察を退職した後に、再婚する事になるからだ。

     「エラリーが青年だった頃の話」とくれば、第3期の掉尾を飾る『最後の一撃』をおいて他にはない。『ローマ帽子の秘密(1931年)』を発表したエラリーが遭遇した事件は、27年後の1958年に解決を見る。それが『最後の一撃』なのだ。当初、クイーンは本作をもって作家人生から引退するつもりで書いたらしい。だから第3期の終わりに相応しい。何故、第3期で終わらず第4期に続く事になったのかは改めて語られるだろう。それより、僕はこのエピソードを読むと、横溝正史の『病院坂の首縊りの家』で金田一耕助が解決に20年もかけたというストーリーを思い出さずにはいられない。60歳を過ぎた金田一耕助は、この事件解決後に日本を去り、アメリカへと「戻って」いく。以後の消息は誰も知らない。文字どおり、探偵は引退して表舞台から退くのだ。カー好きで知られる横溝は同時にクイーンにも魅せられて本格ミステリーを書き続けてきた。これは一つのオマージュだったに違いない。
    posted by アスラン at 23:15 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) |  書評(エラリー・クイーン) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年08月21日

    フランシス・M・ネヴィンズJr.『エラリイ・クイーンの世界』を散策する(その8)

     第二期について、ネヴィンズは以下のように総括している。
    [原文](INTRODUCTION P.7)
    Compared with the early masterworks, the novels of Period Two suffer from intellectual thinness, an overabundance of feminine emotion, and characters cut out of cardboard with the hope that they would be brought to life by movie performers. On the other hand, with the broader perspective that accompanies the passage of time we can see the entire second period as a series of steps in the progressive humanization of Ellery and the Queenian universe and as the necessary preparation for the great synthesis of Period Three. In Chapter Four I cover the second period, which ends with The Dragon's Teeth (1939) although the short stories of the period were not collected until the following year.
    [翻訳](プロローグ P.24)
    初期の傑出した作品に比べると、第二期の作品は知的な浅薄さを持ち女性的感情を盛りこみすぎているし、登場人物は映画の役者で生かされるだろうという含みから性格描写がないので貧弱になっている。その一方で、時がたつとともにもののとらえ方が広くなっているのを見ると、探偵エラリイの人間が形成される過程とクイーンという人物の世界の移り変わりとして、また第三期に見られる偉大な数々の作品を書くための必要な準備のときとして、第二期全体を考えることができよう。わたしは四章で、『ドラゴンの歯』(一九三九)で終わる第二期について書くが、この時期に書かれた短編はその次の年になってまとめられている。
    [私訳]
     第二期の作品は初期の傑作と比べると、以下のような難点がある。知力を尽くさないと解けないような謎に乏しく、女性が心を動かすような場面を過剰に盛りこんでいる。さらには映画化された場合に俳優が命を吹きこんでくれる事を当てにして、厚紙から切り抜いたように薄っぺらな人物ばかりが登場する。その一方で、私たち読者も時とともに物の見方が広がってきて、第二期全体が別のようにも見えてくる。すなわち、探偵エラリーと、作家クイーンがつくり出す世界とが人間味を増してくる一連の過程であり、さらには第三期を見事にまとめるのに不可欠な準備期間だったのだと。
     そこで第四章では、この第二期を取り扱う。本書では第二期の終わりを『ドラゴンの歯(1939年)』とする。と言っても、第二期に書かれた短篇がいくつかあって、翌年にならないと短編集にはならないのだが。
     この段落の文章は、イントロダクション特有の圧縮した英文になっている。名詞句が多用されていて、並列関係も多い。それを関係代名詞節や分詞構文などでずらずらと並べていくので、特に読み解くのが難しいのか翻訳の質がかなり落ちてくる。私訳の出来がいいとも言えないが、少なくとも著者が何を言わんとしてるかが伝わるレベルには修正してみた。詳しく見ていこう。

    (原)Compared with the early masterworks, the novels of Period Two suffer from intellectual thinness, an overabundance of feminine emotion, and characters cut out of cardboard with the hope that they would be brought to life by movie perfomers.
    (翻)初期の傑出した作品に比べると、第二期の作品は知的な浅薄さを持ち女性的感情を盛りこみすぎているし、登場人物は映画の役者で生かされるだろうという含みから性格描写がないので貧弱になっている。
    (私)第二期の作品は初期の傑作と比べると、以下のような難点がある。知力を尽くさないと解けないような謎に乏しく、女性が心を動かすような場面を過剰に盛りこんでいる。さらには映画化された場合に俳優が命を吹きこんでくれる事を当てにして、厚紙から切り抜いたように薄っぺらな人物ばかりが登場する。
     「知的な浅薄さ(せんぱくさ)」とは何だろう。最初「浅はかさ」と書いてるあるのかと思ったが「浅薄さ」だった。「思慮や知識が浅いこと。あさはか」と日本国語大辞典に書かれているので結局は同じ事だが、要するに「知識が浅い」としか言ってない。ここは「知的な(謎解きの)醍醐味に乏しい」と言っているはずで、クイーンの第一期を意識した上で私訳では「知力を尽くさないと解けないような謎に乏しい」とした。「女性的感情を盛りこむ」というのも分かりにくい。「女性の感情に訴える」というのであれば納得できる。そういう描写が過剰だというのだから「女性が心を動かすような場面を過剰に盛りこんでいる」とした。また、「登場人物は映画の役者で生かされるだろうという含みから」というのもおかしな表現だ。ここは「俳優が命を吹きこんでくれると当て込んで」ぐらいの意味だ。それで「人物描写が薄っぺらい」と言うことを比喩的に「厚紙から切り抜いてきたような人物描写」だと言っている。

     ここまでで翻訳は各部分に舌足らずで曖昧な表現が続いているが、最大の問題は「第二期の作品は」がどこに係っているのか不明だという点だ。翻訳をみるかぎり「第二期の作品は」→「知的な浅薄さを持ち」&「女性的感情を盛りこみすぎている」という係り受けとしか読めない。しかしこれではsuffer fromを訳していない事になる。さらには、この文はintellctual thinness, an overabundance…, and characters…という3つの並列関係がsuffer fromの目的語になっているのに、最後のcharacters cut…だけが何故か別の文になっていて「登場人物は…性格描写がないので貧弱になっている」と解釈されている。いや、もしかすると「貧弱になっている」という部分が唐突に出てくるので「第二期の作品は…貧弱になっている」というのがsuffer fromの訳なのかもしれない。sufferには「患う、病む」という意味もあるからきっとそうに違いない。しかし、この係り受けはあまりに離れすぎていて、解釈不能だ。私訳では、さきに「以下のような難点がある」と言い切ってから、3つの難点をそれぞれ詳細に説明する体裁にした。

    (原)On the other hand, with the broader perspective that accompanies the passage of time we can see the entire second period as a series of steps in the progressive humanization of Ellery and the Queenian universe and as the necessary preparation for the great synthesis of Period Three.
    (翻)その一方で、時がたつとともにもののとらえ方が広くなっているのを見ると、探偵エラリイの人間が形成される過程とクイーンという人物の世界の移り変わりとして、また第三期に見られる偉大な数々の作品を書くための必要な準備のときとして、第二期全体を考えることができよう。
    (私)その一方で、私たち読者も時とともに物の見方が広がってきて、第二期全体が別のようにも見えてくる。すなわち、探偵エラリーと、作家クイーンがつくり出す世界とが人間味を増してくる一連の過程であり、さらには第三期を見事にまとめるのに不可欠な準備期間だったのだと。
     前半では第二期の欠点を論っていたが、後半では良い点を挙げている。主節はWe can see the entire second period as …だが、その直前にwith the broader perspective…という副詞句が置かれている。当然ながら「もののとらえ方が広くなっている」のは主節の主語weなのに「広くなっているのを見ると」というように他人事にように書かれている。それとまたしてもas以下の部分が長いため、「〜が広くなっているのを見ると」→「第二期全体を考えることができよう。」という係り受けが遠すぎて意味不明になる。私訳では前半の欠点とは違った見方ができるという意味で「別のように見えてくる」と先に言い切っておいた。

     「別のよう」とはどんな事なのかについてはasで始まる2つの並列関係で表現されている。ただし、翻訳では1番目のas節の中に含まれるandの解釈(並列関係の解釈)が間違っていると思う。
    (翻訳) as a series of steps in
                the progressive humanization of Ellery
                and
                the Queenian universe
    (私訳) as a series of steps in the progressive humanization of
                             Ellery
                             and
                             the Queenian universe
     確かにinの目的語にtheで始まる2つの名詞句が並列になっている方が形の上ではバランスがとれているが、そうなるとhumanizationのような動作性名詞と比べてuniverseから動作を抽出する事が難しい。a series of steps in〜なのだから、動作の過程(段階)が生じるものでないとおかしい。そのせいで「クイーンという人物の世界の移り変わり」などという奇妙な訳ができあがっている。形式的にはバランスが悪いが(私訳)のような並列関係と見なせば、人間味が増したのは探偵だけでなく、「作家クイーンがつくり出す世界」も人間味が増したと考えることができる。これについては(その7)でも書いたが、角川文庫『中途の家』の解説で、飯城勇三さんは『中途の家』でクイーンは「本格ミステリのプロットと社会的なテーマの融合」を目指したと指摘している。それとほぼ同じ事をネヴィンズは言おうとしているのではないだろうか。

     後半のas節だがthe great synthesis of Period Threeの部分が難しい。翻訳は「第三期に見られる偉大な数々の作品を書く」と解釈しているが、辞書でsynthesisを調べてもそういう解釈にはならない。一般的には「総合、統合」を意味するし、the synthesis of water from hydrogen and oxygen(水素と酸素から水を作りだすこと)という例文がある事から「第三期をまたとないくらい見事に統合する」という意味になる(と思う)。これをもっと噛み砕くならば「第三期を形成する作品をこれ以上ないほど見事に生み出す」という事になりそうだが、ちょっと噛み砕きすぎとも思えるので、私訳はあっさりと「第三期を見事にまとめる」とした。
    [第二期(5作品)]
    中途の家(1936)
    境界の扉〜日本カシドリの秘密(1937)
    悪魔の報酬(1938)
    ハートの4(1938)
    ドラゴンの歯(1939)
     ネヴィンズは第二期を『ドラゴンの歯』で終えているが、第二期を過渡期と捉えれば妥当だろう。なにしろ、次の長篇が『災厄の町(1942年)』なのだから。とりあえず第二期の特徴としては、高級雑誌との蜜月と、ハリウッド進出という野心との2点が挙げられるが、『ドラゴンの歯』はいずれの点でも第二期の終焉を象徴している。『悪魔の報酬』と『ハートの4』では探偵エラリー自身がハリウッドで脚本家の仕事をしているが、『ドラゴンの歯』ではニューヨークに戻っていて、新たに私立探偵事務所を開業する。依頼された事件を追ってハリウッドとニューヨークを往復する事になるが、主戦場はニューヨークなのだ。実際に1939年には、リーとダネイもハリウッド進出の夢に見切りをつけたという事かもしれない。それと呼応するかのように『ドラゴンの歯』は《コスモポリタン》誌に短縮版が掲載されなかった。ネヴィンズは『推理の芸術』で、その事に簡単に触れている。
    第二期のクイーンの長篇五作の中で、この作品のみ《コスモポリタン》誌に(あるいは、他のどんな雑誌にも)短縮版が掲載されなかったのは、偶然ではないのだろう。
     これは、それほど『ドラゴンの歯』の出来が良くないという事を言っているわけだが、それだけが理由なのかは、この一文だけでは分からない。ハリウッド進出に挫折して、作品の方向性を再び変えようとしている時期にさしかかって、《コスモポリタン》誌に是が非でも売りこむ必然性を失っていたのかもしれない。あるいは、これまで長篇を出版してきたストークス社が事業を精算しようとしていて、これがストークス社での最後の出版となった事が何か関係しているのかもしれない。

     いずれにしろ、1930年代が終わる頃には、ダネイとリーはニューヨークで執筆に励んでいた。
    [原文](INTRODUCTION P.8)
     By the late Thirties Dannay and Lee were putting in twelve hours' work a day in their respective homes and meeting once a week in a bare little office in the Fisk Building near Columbus Circle―an office on whose floor they kept a large brown envelope labeled "Ideas." Despite these long hours, between the end of 1939 and 1942 Queen published no new fiction at all, although beginning in 1940 the Barnaby Ross novels were reissued under the Queen byline.
    [翻訳](プロローグ P.24)
     三〇年代の終わりころになると、ダネイとリーはそれぞれの自宅で一日に十二時間仕事をし、コロンバス・サークルに近いフィスク・ビルにある小さながらんとした事務所で週に一度会っていた――二人は事務所の床に〈構想〉と上書きした大きな茶色の封筒を置いていた。それほど長時間をかけたにもかかわらず、一九三九年末から一九四二年のあいだにはクイーンの新作はまったく出版されていない。ただ、一九四〇年からバーナビイ・ロス名義の作品が著者名をクイーンに変えて再版されはじめただけだ。
    [私訳]
     1930年代が終わる頃には、ダネイとリーはそれぞれの自宅で一日12時間もの仕事をこなし、コロンバスサークル周辺にあるフィスク・ビルに、家具もなにもない小さな事務所を構えて週に一度だけ会っていた(事務所の床に「プラン」と書かれた大きな茶封筒を置いた)。これほど時間をかけたのに、1939年末から1942年にわたってクイーンは一冊も新刊を出版していない。1940年初にバーナビー・ロス名義の小説を、クイーンの名義で再度出版しなおしただけだ。
     コロンバス・サークルとは「ニューヨーク8番街とブロードウェイの交差点;中央にコロンブス記念塔がある」(ランダムハウス英和大辞典)、「ニューヨーク市マンハッタンにある円形交差点の名。1984年に建てられたクリストファー・コロンブス像がある」(リーダーズ英和辞典)だそうだ。ダネイとリーの共同執筆のやり方については、いまや詳細が分かっているが、本書が日本で出版された1980年当時はまったく明らかにされていなかった。だから「一日12時間もの仕事」をそれぞれの自宅で行ない、「週に一度だけ会っていた」という記述はファンの想像をかき立てた。いつかは明らかになるのだろうかと、僕自身ヤキモキさせられたのを思い出す。

     1940年にはクイーン名義で『悲劇四部作』が再出版される。例の「読者への公開状」が冒頭に付されて。これも本書の「チェックリスト」によると、ストークス社から出版されている。つまりストークス社からの出版は『ドラゴンの歯』が最後ではなく、『悲劇四部作』の方がさらに後だった。『推理の芸術』によると、さらにジュブナイルの『ジュナの冒険』シリーズの最初の2作(代作)もストークス社から出版された。代作とは言え、1942年まではストークス社との関係は続いていた事になる。ところで、長篇の出来映えとしては今ひとつ冴えない第二期だし、その後、足かけ3年もの間に新刊を出版しなかったのだが、それには色々と理由があった。
    [原文](INTRODUCTION P.8)
    One reason for the three-year silence was a literary accident: the cousins had to abandon a novel-in-progress when they discovered that Agatha Christie in And Then There Were None, which was being serialized in a national magazine, has anticipated their plot. Another factor was an automobile accident in 1940 that came close to taking the life of Frederic Dannay. Contributing causes included the time and energy the authors were investing in building up the world's finest private library of short crime fiction, Laying the groundwork for 101 Years' Entertainment and Ellery Queen's Mystery Magazine, and in writing a script a week for the Ellery Queen radio show. Queen's radio work will be considerd in Chapter Five and his contributions as editor, scholar and anthologist in Chapter Six.
    [翻訳](プロローグ P.24)
    三年間の沈黙が続いた一つの理由として、創作上の偶発的出来事があげられる。つまり、全国的に読まれている雑誌に連載中だったアガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった』が二人の小説のプロットを先取りしているのがわかったために、従兄弟作家は執筆中の小説を途中で断念しなければならなくなったのだ。もう一つの要因は一九四〇年の自動車事故である。フレデリック・ダネイはそのために生命の危険にさらされている。何かをしようと思えば時間がかかり精力を費すもので、二人はこの時期に、犯罪小説の短編ばかりを集めた世界一すばらしい私設書庫を作りあげるために『百一年のお楽しみ』と《エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン》の基礎作りをし、エラリイ・クイーン・ラジオ劇場のために毎週一本ずつ台本を書いていた。クイーンのラジオの仕事は五章で取りあげ、彼の編集者(エディター)、学者、そして編者(アンソロジスト)としての功績は六章で論ずる。
    [私訳]
     三年も沈黙が続いたのは、一つには、著作に関するあるアクシデントが起きたからだ。二人は執筆中だった小説を中断しなければならなくなった。それは当時、全国向けの有名雑誌に連載中だったアガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』が、二人が執筆中の小説のプロットを先取りしている事に気づいたからだ。もう一つの要因は1940年に起きた自動車事故である。この事故でダネイはもう少しで命を失うところだった。
     新たな目標に取り組むには時間と労力がかかる。二人はこの時間と労力を、犯罪小説の短編を集めた世界でも類を見ない蔵書を作りあげる事につぎ込み、『101年のお楽しみ』というアンソロジーと、《エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン》を世に送り出すための土台作りを行った。さらには《エラリー・クイーン・ラジオ劇場》のために週に一本の脚本を書く事にも時間と労力をつぎ込んだ。クイーンがラジオで果たした仕事については五章で、編集者・学者・編纂者としての貢献は六章で考える。
     翻訳ではa literary accidentを「創作上の偶発的出来事」と訳しているが、1980年当時はまだ「アクシデント」という外来語は一般的ではなかったのだろうか。今なら「著作に関するあるアクシデント」と訳せる。これが何を意味するかというと、おどろくべき事にアガサ・クリスティの代表作、いやもはや最高傑作と言ってもいいかもしれない『そして誰もいなくなった』と、内容がバッティングしていた事を指す。『推理の芸術』によると《サタデー・イヴニング・ポスト》誌に当時連載中の『そして誰も…』の基本プロットが、執筆中の新作とまったく同じであることにクイーンは気づいてしまった。それが1940年に新作が出版されなかった理由だ。ただし、この基本プロットというのが具体的に何を指すのかは不明だ。マザーグースのTen Little Niggersを基にした連続殺人事件をクイーンも考えていたのか、それともマザーグースの一編になぞらえた見立て殺人を考えていたのか。確か、当時クイーンだったと思うのだが、マザーグースを使った見立ては2度は使えないというような頑なな考えがあったという解説を読んだような気がする。でも、それならばすでにヴァンダインが1929年に『僧正殺人事件』でやっているので、おかしな話だ。ただし、同時期に他の作家が同じモチーフでやっていたとなると、後追いだとそしられるとでも思ったか(最悪パクリだと言われると思ったか)。

     結局、この幻の作品についての詳細はいまだに明らかになっていない。クイーンの共同執筆方法に従えば、少なくともダネイの梗概(シノプシス)が残っていてもおかしくないのだが、公表はされていないようだ。ただし、第三期の二作目にあたる『靴に棲む老婆』ではマザーグースに見立てた奇妙な一家が登場する(それを言うなら『Yの悲劇』が先例だが)。『推理の芸術』では、クイーンが発表を断念した作品からプロットの一部を流用した可能性を指摘している。『靴に棲む老婆』が出版されたのが1943年で、戦時下にあるにもかかわらずまったくその気配がないというのが理由だが、それだけではあまり説得力があるとは思えない。もしシノプシスのようなものが残っていて「間違いの悲劇」のように出来上がりを想像する楽しみが味わえるのであれば、クイーンのファンとしてはこれ以上ないくらいの幸せなのだけれど。

     さて、「三年間の沈黙」のもう一つの理由がダネイの身に起きた交通事故だ。1940年11月末に事故に遭い、「数本のあばら骨を折り、数週間の入院を強いられ」たらしい。「あやうく死にかけた」にもかかわらず、ダネイは一ヶ月程度の休暇の後に活動を再開する。ただし、新作にとりかかるよりも先に、リハビリを兼ねて以前からやりたかった事に専念したというのが本当のところだったようだ。それが犯罪小説の蔵書を充実させる事だった。
    (原)Contributing causes included the time and energy the authors were investing in building up the world's finest private library of short crime fiction, Laying the groundwork for 101 Years' Entertainment and Ellery Queen's Mystery Magazine, and in writing a script a week for the Ellery Queen radio show.
    (翻)何かをしようと思えば時間がかかり精力を費すもので、二人はこの時期に、犯罪小説の短編ばかりを集めた世界一すばらしい私設書庫を作りあげるために『百一年のお楽しみ』と《エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン》の基礎作りをし、エラリイ・クイーン・ラジオ劇場のために毎週一本ずつ台本を書いていた。
    (私)新たな目標に取り組むには時間と労力がかかる。二人はこの時間と労力を、犯罪小説の短編を集めた世界でも類を見ない蔵書を作りあげる事につぎ込み、『101年のお楽しみ』というアンソロジーと、《エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン》を世に送り出すための土台作りを行った。さらには《エラリー・クイーン・ラジオ劇場》のために週に一本の脚本を書く事にも時間と労力をつぎ込んだ。
     the time and energyが、省略された関係代名詞の先行詞であり、investingの目的語になっているはずなので、翻訳の「二人はこの時期に」ではなく「二人はこの時間と労力を」でないとおかしい。また「私設書庫を作りあげるために…(アンソロジー1冊と雑誌EQMM創刊の)基礎作りをし」たわけではない。因果関係が逆転している。「世界でも類を見ない蔵書を作りあげる事に時間と労力をつぎ込み、(その結果として)アンソロジーや雑誌を生み出す土台をつくった」と言いたいのだ。さらにinvesting (the time and energy) in building up … and in writing …という並列関係なので、ラジオ劇場の脚本(台本)を単に「書いていた」のではなく「書く事に時間と労力をつぎ込んだ」でなければならない。

     それにしても、これだけの事をやっていたのだから、(足かけ)三年間に新作を書かなかった事を非難されるいわれはないと言っていいのではないだろうか。それは当時のファンにしてみればじれったい思いをさせられたであろうし、僕ら後追いの(しかも異国の)ファンにしてみれば、やれ「第二期は物足りない」だの「出来が悪い」だのと勝手な事を言い立ててきたが、クイーンはやることをちゃんとやっていたのだ。
    posted by アスラン at 18:05 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) |  書評(エラリー・クイーン) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年08月11日

    フランシス・M・ネヴィンズJr.『エラリイ・クイーンの世界』を散策する(その7)

     本書では、エラリイ・クイーンの第二期の作品について次のように書き出している。
    [原文](INTRODUCTION P.7)
     It's convenient to date the beginning of Queen's second period from Halfway House (1936) since this is the first of Ellery's cases not to contain an adjective of nationality in the title. But the new title format is merely symptomatic of changes in substance. The main influences on Dannay and Lee in this period were the women's slick magazines, to which they began to sell around the middle of the decade, and Hollywood, where they worked as script writers for Columbia, Paramaount and M-G-M in the late Thirties[2].
    [翻訳](プロローグ P.23)
     クイーンの第二期としては、探偵エラリイ・クイーンの事件がはじめて国名の形容詞がついていない題名で書かれている『途中の家』(一九三六)を最初にもってくるのが便利だ。しかし、新しい題名のつけ方は単に内容が変わったことを示しているにすぎない。この時期のダネイとリーに対して大きな影響を与えたのは高級雑誌(スリック・マガジン)とハリウッドだった。高級雑誌(スリック・マガジン)には三〇年代の中期から売りこみをはじめているし、ハリウッドでは三〇年代後期にコロンビアやパラマウント、MGM映画の脚本家として働いている(原註2)。
    [私訳]
     クイーンの第二期は『中途の家(1936年)』で始めると何かと都合がいい。何故なら、この作品から修飾語としての国名がタイトルにつかなくなるからだ。しかし、タイトルのつけ方が新しくなったのは単なる先触れにすぎない。内容自体が以前の作品とは違っているのだ。
     この時期、ダネイとリーは女性向けの高級雑誌とハリウッドに大きな関心を抱いていた。二人は高級雑誌に1930年代中頃から小説の売り込みを始めているし、ハリウッドの方は1930年代後半にコロンビア、パラマウント、MGMといった映画会社で脚本家としての仕事をしている(原註2)。


    (原)It's convenient to date the beginning of Queen's second period from Halfway House (1936) since this is the first of Ellery's cases not to contain an adjective of nationality in the title.
    (翻)クイーンの第二期としては、探偵エラリイ・クイーンの事件がはじめて国名の形容詞がついていない題名で書かれている『途中の家』(一九三六)を最初にもってくるのが便利だ。
    (私)クイーンの第二期は『中途の家(1936年)』で始めると何かと都合がいい。何故なら、この作品から修飾語としての国名がタイトルにつかなくなるからだ。
     原文は従属節を伴った複文なのに、何故か翻訳はあたかも関係代名詞節のように後ろから訳し上げている。そのせいでsince(〜なので)を訳しそびれている。

    (原)But the new title format is merely symptomatic of changes in substance.
    (翻)しかし、新しい題名のつけ方は単に内容が変わったことを示しているにすぎない。
    (私)しかし、タイトルのつけ方が新しくなったのは単なる先触れにすぎない。内容自体が以前の作品とは違っているのだ。
     翻訳は誤解を招きやすい表現になっている。「単に内容が変わった」と読んでしまうと、内容が変わるのは重要な事だろうと突っこみたくなる。「内容が変わった事を単に示しているにすぎない」にすべきだった。私訳では少し強調して「タイトルが変わった事自体が重要なわけではなく」というニュアンスにしてみた。

     いずれにしても、ネヴィンズはいわゆる国名シリーズか否かという外見の違いを第一期と第二期との切れ目として採用している。国名をつけない理由は意図的なもので、『中途の家』のまえがきでは国名シリーズでおなじみの登場人物J・J・マックがその事に言及している。J・J・マックはクイーン親子とは旧知の仲で、犯罪捜査から退いているエラリイから小説の出版を一任されている人物だ。
    「真剣になってもらいたいものだな! わたしは原稿を読んで、どうしても理解できなかった……どうしてきみがこの本の表題を……たとえば……」わたしは”これぞ”とも呼ぶべきものを口に出しかけた。実は、ずっとそのことばかり考えていたのである。
     ところが、わたしがそれを明かす前に、エラリーは言った。「まさか『スウェーデン燐寸(マッチ)の秘密』とか、そんなことを言おうとしたんじゃないだろうな?」(角川文庫『中途の家』より)
     この後、殺人現場に残されたマッチはスウェーデン製ではなかったと強弁するエラリイに対して、マックは『ギリシャ棺』や『フレンチ白粉』『オランダ靴』だって国名と何も関係なかったではないかと言い返す。この回りくどいラリーが何を意味するかというと、国名シリーズとしてのタイトルでもよかったかもしれないが、それとは一線を画すミステリを目指すという著者クイーンの意思表明だと言っていいだろう。本当の事を言えば、国名を入れたタイトルというフォーマットは、デビュー当時には意識していた作家S・S・ヴァン・ダインのフォーマットに倣ったにすぎない。しかし、7年後にはヴァン・ダインが考え出した様々なフォーマット(タイトルやペダンティックな探偵)や、謎解き主体の物語にも限界を感じだしていた。とは言え、もはや9作も書き継いでいてクイーン作品の代名詞ともなっている国名シリーズをやめる事には、それなりに覚悟が必要だったかもしれない。それを後押ししたのが、本作から《コスモポリタン》誌に掲載されるようになったという状況の変化ではなかったか。

    (原)The main influences on Dannay and Lee in this period were the women's slick magazines, to which they began to sell around the middle of the decade, and Hollywood, where they worked as script writers for Columbia, Paramaount and M-G-M in the late Thirties[2].
    (翻)この時期のダネイとリーに対して大きな影響を与えたのは高級雑誌(スリック・マガジン)とハリウッドだった。高級雑誌(スリック・マガジン)には三〇年代の中期から売りこみをはじめているし、ハリウッドでは三〇年代後期にコロンビアやパラマウント、MGM映画の脚本家として働いている(原註2)。
    (私)この時期、ダネイとリーは女性向けの高級雑誌とハリウッドに大きな関心を抱いていた。二人は高級雑誌に1930年代中頃から小説の売り込みを始めているし、ハリウッドの方は1930年代後半にコロンビア、パラマウント、MGMといった映画会社で脚本家としての仕事をしている(原註2)。
     ここで高級雑誌(slick magazine)と呼ばれているのは「滑らかで高品質、光沢のある紙を使って印刷された雑誌」の事を指している。それまでの安くてざらざらとした手触りの紙に印刷されたパルプマガジンとを区別するために1930年代から使われ出した言葉のようだ(Wikipedia調べ)。

     クイーンの雑誌への進出は《コスモポリタン》誌が最初だと思っていたが、それは勘違いで《レッドブック》誌が最初だったようだ。勘違いの理由は、本書の巻末にある「エラリイ・クイーン・チェックリスト」の長篇の初出誌が年代順に並んでなくて雑誌名でまとめられていたせいだ。『中途の家』が最初だと思い込んでしまったが、それに先立つこと2年前に『チャイナ蜜柑の秘密』がすでに《レッドブック》誌に掲載されていた。ただし、《レッドブック》誌は高級雑誌とは言いがたいのかもしれない。リーダーズ・プラスには次のように書かれている。
    Red Book
    『レッドブック』〔20代半ばの働く主婦を中心読者とする米国の月刊誌;1904年創刊、McCall社刊;…記事は実用ものが主体だが、小説も掲載〕
     ただし、これは最近(僕の電子辞書のリーダーズ・プラスは2017年版)の情報で、Wikipedia(eng)によると、元々は「著名な作家や多くの女性作家などが書いた短編小説」と「当時人気だった女優やその他著名な女性の写真」とで構成された雑誌だったようだ。この手の雑誌は日本にはあまり見かけないような気がする(もちろん男性向けはあるだろうが)。1912年には「挿絵付き小説を掲載する世界最大の雑誌」というふれ込みでロマンス、犯罪、ミステリ、政治、動物、冒険、歴史などを題材とした小説を掲載した。1918年ごろには、あのエドガー・ライス・バローズの「ターザン」ものが人気を博したようだ。1929年にMcCall社に買収されて、そこから男性・女性の両方に向けた一般雑誌になっている。ダシール・ハメットの『影なき男』も1933年に掲載された。その後、テレビの台頭で減り始めた読者層を1950年代には「若者」に絞る事にして、さらに1958年以降は女性読者向けに誌面の舵を切っていく。この頃には女性の権利を主張する政治色が強かったようだが、1980年代からはリーダーズ・プラスで言及されていたように「働く若い女性」に焦点をあてた誌面作りになっていった。

     クイーンの作品は1934年に『チャイナ蜜柑』、1935年に『スペイン岬』が掲載されているので、ちょうど《レッドブック》誌が男女向けの誌面になっていた頃にあたる。ハメットの『影なき男』掲載とほぼ同時期であるのも注目しておこう。原稿料はかなり高額だったとネヴィンズの『エラリー・クイーン 推理の芸術』には書かれている。また、別の頁では「《レッドブック》誌や《コスモポリタン》誌のような高級雑誌と」と書かれているので、やはり本書の「二人は高級雑誌に1930年代中頃から小説の売り込みを始めている」というのが、《レッドブック》誌であり《コスモポリタン》誌であるという事のようだ。では《コスモポリタン》誌とはどんな雑誌だったか。《レッドブック》誌同様、リーダーズ・プラスにあたってみる。
    cosmopolitan
    『コスモポリタン』〔米国の女性大衆月刊誌;Hearst社刊、1886年創刊;元来はCosmopolitan Magazineという名で小説誌だったが、次第に性格を変え、特に60年代半ばからは、新刊書の要約や抜粋を中心に「いかに男心をつかむか」というテーマを追い続け、セックスを積極的に採り上げている;英国版では女性を対象とした紙面づくりに特徴がある〕
     結構身も蓋もない事が書かれている。Wikipedia(eng)でもうちょっと掘り下げると、1886年当時は「家族向け・女性向けの雑誌」という性格だったようだ。雑誌名の由来は書かれていないが、ニューヨーク市を拠点に置いていた事が大きく関係しているかもしれない。内容もファッション・家の飾りつけ、料理、子育てなどが中心で、まだセ○○○なんていうトピックは影も形もない。しかし、数年後にはオーナーが変わった事で文芸誌となり、1897年にはH・G・ウェルズの『宇宙戦争』が連載されている。1905年には、富豪のウィリアム・ハーストが買収した。ハーストは1918年に映画会社コスモポリタン・プロダクションズを設立し、《コスモポリタン》誌に掲載された小説を映画化することを目論んだようだ。コスモポリタン・プロダクションズは当初ニューヨーク市にあったが、その後ハリウッドに拠点を移した。最終的には1938年にワーナーブラザーズの傘下に入った(ちなみに現在イギリスにあるコスモポリタン・ピクチャーズとは何の関係もないようだ)。第二次世界大戦中に売り上げは200万部まで達したが、1955年には100万部まで落ち込む。もはや「ペーパーバックスやテレビの台頭」で大衆向けの一般誌という出版物が時代遅れとなりつつあった。そこで1965年に独身のキャリアウーマン向けの雑誌として再出発する事になる。それが先ほどのリーダーズ・プラスの記載につながるようだ。1965年に編集長になったヘレン・ガーリー・ブラウンは自らを「身も心も捧げたフェミニスト」であるとして、未婚女性の進歩的な生き方を提言するために雑誌を利用した。あまりに過激な主張は様々な論争のタネになったようだが、この文章とはあまり関わりがないので、この辺にしておこう。

     問題は《コスモポリタン》誌は1940年代に200万部、《レッドブック》は1937年に100万部という発行部数を記録していて、どちらも大衆誌としては成功していたという事だ。クイーンは最初は《レッドブック》誌に『チャイナ蜜柑』『スペイン岬』を掲載したが、さらに原稿料が高額の《コスモポリタン》誌に次回作を売りこむ事に成功したことになる。そして1936年に『中途の家』が初めて掲載される事になったが、では「何故国名シリーズのタイトルを使わなかったのか」という問いに立ち戻ると、結局分からずじまいだ。《コスモポリタン》誌からの要請があったという記述は本書にも『推理の芸術』にも見当たらない。では、やはりネヴィンズが主張しているように「作風(内容)を変える」という著者の意思表示の表れだったのだろうか。

     ここらへんの真偽を考える上で前々からやっかいだったのは、『中途の家』の次作にあたる『日本カシドリの秘密』が国名シリーズに逆戻りしているのは何故かという疑問だった。ファンならば原題がThe Door Betweenである事は周知の事実だが、《コスモポリタン》誌掲載時には『日本の扇』だったようだという江戸川乱歩の言葉が一人歩きして、ならばと『ニッポン樫鳥の謎』や『日本庭園の秘密』などのように国名シリーズ作品扱いをされてきた。近ごろ角川文庫から新訳で出版されたタイトルは『境界の扉 日本カシドリの秘密』で、国名シリーズのタイトルは副題に格下げされた。要するに国名シリーズは『スペイン岬』で打ち止めで、やはり『中途の家』以降は国名シリーズの看板を取り下げた事になる。となると『中途の家』のまえがきでJ・J・マックが「スウェーデン燐寸の秘密」というタイトルを持ち出すのは、これまで第一期を読み続けてきてくれた愛読者に対する心遣いのような気がする。僕もそうだが、ファンならば『スペイン岬』に続いて『中途の家』を読んだときは『スウェーデン燐寸』にしてくれた方がスッキリするのにと思ったはずだ。本編には「ある推理の問題」という恒例の副題も添えられているし、第一期の代名詞である「読者への挑戦状」も挿入されているのだ。ただし「被害者はどちら側の人間として殺されたのか」という、これまでの知的パズルにはなかったような不穏な謎が、より僕らを人間性の深遠な部分に連れていこうとしているようにも感じられた。つまり何かが変わりだしたのだ。

     それが何なのかについては、角川文庫版『中途の家』の解説で飯城勇三さんが「本格ミステリのプロットと社会的なテーマの融合」だと指摘している。一方で『推理の芸術』では、1979年にネヴィンズがダネイ本人から第二期の戦略について聞いたところ、次のような答が返ってきたそうだ。
    「私たちは構成をゆるめたのです。……作中人物を掘り下げ、背景を強調するようにしました。読者を惹きつける状況をこれまで以上に強調したのです。そして、私たちのやったことには、率直に言うと、二つの狙いがありました。当時、原稿料がかなり高かった雑誌に定期的に掲載されるようにすること。そして、原稿料以外の収入を得る唯一の手段だった映画に売れるようにすることでした。」
     つまり、もっと売れるように商業主義に転じたという事らしいが、どちらかというと『中途の家』には女性誌向け、あるいは映画向けのプロットは、まだない。率直に言えば『中途の家』は、第一期と第三期とを橋渡しするかのような、人間そのものを主題とするモチーフの萌芽が感じられる。雑誌や映画会社への迎合が感じられるのは『境界の扉』からだろう。この小説は「ある推理の問題」という副題がついた最後の作品ではあるが、「読者への挑戦状」は無くなった。日本に絡めて異国情緒を前面に出したストーリーは明らかに雑誌の読者を意識していただろうし、さらに次の『悪魔の報酬』からは著者同様、作中のエラリーもニューヨークを離れてハリウッドで脚本を書く仕事に追われるのだ。

     実際にクイーンがハリウッドでどのような仕事をしたのかについては、原註2に記述がある。
    [原文](NOTE P.215)
    2.Their Hollywood experiences led to two novels, The Devil to Pay (1937) and The Four of Hearts (1938), in which Ellery himself is working as a frustrated scenarist in the film capital. Studio head Jacques Butcher in these novels was modeled to a certain extent on Irving Thalberg. Although Dannay and Lee were never credited with the screenplay for any movie (most of their projects were shelved by the front office through no fault of theirs prior to filming), they worked on many scripts of the late Thirties, including one of the William Powell-Myrna Loy Thin Man stories.
    [翻訳](プロローグ P.32)
    原註2 ハリウッドの経験は二つの小説、『悪魔の報酬』(一九三七)と『ハートの4』(一九三八)に書かれているが、物語の中ではエラリイ自身が映画の都でうだつがあがらない脚本家として働いている。両方の作品に登場する撮影所所長のジャック・ブッチャーには、ある程度までアーヴィン・タルバークがモデルになった。ダネイとリーはどの映画でも脚本家として認められたことはないが(ほとんどの作品が映画化される前に二人には関係のない理由で首脳部の手で棚上げされた)、三〇年代後期の多くの脚本を手がけた。その中の一つにウィリアム・パウェルとマーナ・ロイの《影なき男》がある。
    [私訳]
    原註2 ハリウッドでの経験を生かして『悪魔の報酬(1937年)』『ハートの4(1938年)』の2冊が出版された。作品の中では、エラリイ自身が映画産業に身を置く一脚本家として、挫折感を抱きながら働いている。2冊のいずれにも登場する撮影所所長ジャック・ブッチャーは、(映画プロデューサーの)アーヴィング・タルバーグをある程度モデルにしている。ダネイとリーは、映画化された脚本が評価される事は一本もなかった(二人が携わった映画のほとんどは、二人にはなんの落ち度もないのに、撮影される事なく会社の首脳部によってお蔵入りとなった)けれども、1930年代後半の数多くの脚本にかかわった。その中には、ウィリアム・パウエルとマーナ・ロイが共演した『影なき男』シリーズの1本が含まれている。
     そう言えば高校生の頃に第二期の作品を読み出した時、第一期とのあまりの落差にガッカリして『悪魔の報酬』などをきちんと楽しんでこなかったかもしれない。すでに映画館ではハリウッド映画からの恩恵を受けていた癖に、映画産業の現実(といっても1930年代だが)を知る教材としての見方はしてこなかった。タルバーグが何者なのかを調べると、ユダヤ人移民の子として若くして天才の名をほしいままにした映画プロデューサーだったことが分かった。37才で亡くなるまでに映画史に残る数々の名作をプロデュースした。『愚かなる妻』『グリード』『ビッグ・パレード』『グランド・ホテル』『紅塵』『怪僧ラスプーチン』『戦艦バウンティ号の叛乱』『椿姫』『大地』などなど。ほとんど見てはいないが、淀川さんならタルバーグの見事なところを逐一論ってくれそうだ。クイーンは同じユダヤ人移民の末裔という事でタルバーグを敬愛していたのかと思ったら、『推理の芸術』によると、MGMの仕事をした際に本人と会っているのだそうだ。1936年には亡くなっているので、彼をモデルにした人物を登場させるのは、まさにタイムリーな企てだったのだろう。

    (原)Although Dannay and Lee were never credited with the screenplay for any movie (most of their projects were shelved by the front office through no fault of theirs prior to filming), they worked on many scripts of the late Thirties, including one of the William Powell-Myrna Loy Thin Man stories.
    (翻)ダネイとリーはどの映画でも脚本家として認められたことはないが(ほとんどの作品が映画化される前に二人には関係のない理由で首脳部の手で棚上げされた)、三〇年代後期の多くの脚本を手がけた。その中の一つにウィリアム・パウェルとマーナ・ロイの《影なき男》がある。
    (私)ダネイとリーは、映画化された脚本が評価される事は一本もなかった(二人が携わった映画のほとんどは、二人にはなんの落ち度もないのに、撮影される事なく会社の首脳部によってお蔵入りとなった)けれども、1930年代後半の数多くの脚本にかかわった。その中には、ウィリアム・パウエルとマーナ・ロイが共演した『影なき男』シリーズの1本が含まれている。
     名詞のcreditには、映画のエンドロールに名前が表記される「クレジット」の意味があるが、動詞ではcredit 〜 with …で、「…を〜の功績だと認める」となるのでそう訳すしかないが、後で「数多くの脚本にかかわった」とあるので、「クイーンの名前がクレジットされた映画が皆無だった」と言っているように読める。クレジットはされていないが、かろうじて後世に残った映画としては『影なき男』シリーズの一本が確認されているようだ。翻訳では『影なき男』(The Thin Man)だと断定しているが、それは1934年の作品でクイーンが脚本に参加するには早すぎる。このタイトルに覚えがあるだろう。《レッドブック》誌に1933年に掲載されたダシール・ハメットの作品だ。翌年にはMGMで映画化されて人気を博したので、全6作のシリーズになった。クイーンが脚本に参加したのは、そのうちの一本である。

     さて、『中途の家』の短縮版が《コスモポリタン》誌に掲載された1936年に話を戻そう。六月号に掲載されて数ヶ月が経ち、《パブリッシャーズ・ウィークリー》誌十月十日号に、例の短い記事が掲載される。内容が確認できないと(その5)に書いたが、角川文庫版『中途の家』の解説に引用されている事がわかった。
     十冊のベストセラー・ミステリーを書いた覆面作家エラリー・クイーンは、パラマウント社で映画脚本を執筆するため、ハリウッドに出向いた。かくして、作者と出版社が注意深く隠し続けていた秘密は、パラマウント社の前に明らかにされてしまったのである。エラリー・クイーンは、フレデリック・ダネイとマンフレッド・リーという、ニューヨークに住む友人同士のコンビである。版元のストークス社は、これまで何千枚ものクイーンの写真をばらまいたが、すべて黒いマスクをした一人の男性のものだった。
     これがはたして掲載された「短い記事」の全文だろうか。だとすると、またまた奇妙な事に気づく。「十冊のベストセラー・ミステリー」というのは9冊の国名シリーズと最新作『中途の家』をあわせた数だ。バーナビー・ロスの『悲劇四部作』は含まれていない。つまり、この記事は僕がずっと思い込んでいた「クイーンとロスが同じ作家だった」という暴露記事でもなければ、「クイーンがリーとダネイ二人のペンネームで、しかも、ロスも別のペンネームだった」という暴露記事でもないという事だ。暴露されたのは「クイーンがリーとダネイ二人のペンネームだ」というそれだけだったのだ。もちろん、そこから演繹して「では、あの覆面のクイーンとロスが頭脳合戦を繰り広げる茶番は何だったのか」と想像を巡らすコアなファンや批評家が出てくるのは必至だったろうが、そこらへんの経緯は分からない。解説の飯城勇三さんは「この年に起こった最大の変化とは、クイーンの正体が明かされてしまったこと」だと書いているが、それでどうなったかは詮索していない。『推理の芸術』には「従兄弟たちがもはや、こういった宣伝上の軽業を必要としなくなったことは明らかだろう。」とだけ書かれていて、素っ気ない。確かな事は、僕らがよく知る『Xの悲劇』には冒頭に「読者への公開状」という小文がついていて「一九四〇年九月十三日」という日付が入っているという事だ。もはや1940年にはロス名義ではなくクイーン名義にして四部作を出版しなおす方が売れゆきが良くなるはずだという、版元や著者の思惑があったのだろう。
    posted by アスラン at 17:30 | 東京 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) |  書評(エラリー・クイーン) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年08月05日

    フランシス・M・ネヴィンズJr.『エラリイ・クイーンの世界』を散策する(その6)

     いよいよINTRODUCTIONは佳境に入る。クイーンの全作品を概括していくのだが、クイーンは時期を追うごとに作風を変えていったので、ネヴィンズはそれを第一期〜第四期に分類している。日本では新本格ミステリの作家や批評家たちが初期・中期・後期などと分類するようになっているので、必ずしもネヴィンズの分類が一般的だというわけではない。しかし、とりあえずはネヴィンズの主張につきあうためには、この分類は重要だ。ここで、クイーンの長編がどこに分類されるかを明示しておこう。なお、邦題は僕の好みから最新の角川文庫、ハヤカワ文庫のタイトルを優先し、あとはハヤカワ・ミステリ文庫、創元推理文庫の順で採用している(ということはおそらく創元推理文庫の出番はないか)。
    [第一期(13作品)]
    ローマ帽子の秘密(1929)
    フランス白粉の秘密(1930)
    オランダ靴の秘密(1931)
    ギリシャ棺の秘密(1932)
    エジプト十字架の秘密(1932)
    Xの悲劇(1932)
    Yの悲劇(1932)
    アメリカ銃の秘密(1933)
    シャム双子の秘密(1933)
    Zの悲劇(1933)
    レーン最後の事件(1933)
    チャイナ蜜柑の秘密(1934)
    スペイン岬の秘密(1935)

    [第二期(5作品)]
    中途の家(1936)
    境界の扉〜日本カシドリの秘密(1937)
    悪魔の報酬(1938)
    ハートの4(1938)
    ドラゴンの歯(1939)

    [第三期(12作品)]
    災厄の町(1942)
    靴に棲む老婆(1943)
    フォックス家の殺人(1945)
    十日間の不思議(1948)
    九尾の猫(1949)
    ダブル・ダブル(1950)
    悪の起源(1951)
    帝王死す(1952)
    緋文字(1953)
    ガラスの村(1954)
    クイーン警視自身の事件(1956)
    最後の一撃(1958)

    [第四期(9作品)]
    盤面の敵(1963)
    第八の日(1964)
    三角形の第四辺(1965)
    恐怖の研究(1966)
    顔(1967)
    真鍮の家(1968)
    孤独の島(1969)
    最後の女(1970)
    心地よく秘密めいた場所(1971)

     これらの長編を発表年別に数えなおすと、以下のグラフのようになる。
    長編作品数(発表年別).jpg
     これを見る限り、第一期と第二期には切れ目はないので、どこで分けるかについては異論がでてきそうだ。ネヴィンズは非常に分かりやすい理由で二つを分けている。
    [原文](INTRODUCTION P.6)
     The books Dannay and Lee were turning out during these early years, from Roman Hat through The Spanish Cape Mystery (1935), are generally bracketed together as Queen's First Period. The obvious hallmark of this period is the recurrence of adjectives of nationality in the titles. Another, more significant but less obvious, is the overpowering influence of Van Dine, which began to melt away around 1932 and has almost totally vanished (as had Van Dine's appeal to readers) by 1935.
    [翻訳](プロローグ P.23)
     ダネイとリーがこういった初期の年代に出版していた本、つまり『ローマ帽子の秘密』から『スペイン岬の秘密』(一九三五)までは一般的にクイーンの第一期の作品として分類される。この時期の作品でいちばん目につく特徴は、どの作品にも表題の頭に国名が使われていることだ。もう一つ、もっと重要だがさほど目につかないものとして、ヴァン・ダインの圧倒的な影響が伺われるが、これは一九三二年あたりからだんだん薄くなり、一九三五年には(ヴァン・ダインが読者に受けなくなったと同様に)完全に消え去っている。
    [私訳]
     このように作家として駆け出しだった頃に、ダネイとリーが生み出した小説、すなわち『ローマ帽子』から『スペイン岬の秘密(1935年)』までの作品は、通常、クイーンの第一期としてひとまとまりにされる。この時期の明らかな特徴は、どの作品のタイトルにも修飾語として国名が使われているという点だ。もう一つの特徴は、タイトルよりも重要だがタイトルほどには明らかとは言いがたい。それは、ヴァン・ダインからの圧倒的な影響が見てとれるという点である。ただし、その影響は1932年あたりから徐々に影をひそめるようになり、1935年にはほぼ完全に消えてしまった(読者がヴァン・ダインに魅力を感じなくなってしまったのと軌を一にしている)。

    (原)The obvious hallmark of this period is the recurrence of adjectives of nationality in the titles.
    (翻)この時期の作品でいちばん目につく特徴は、どの作品にも表題の頭に国名が使われていることだ。
    (私)この時期の明らかな特徴は、どの作品のタイトルにも修飾語として国名が使われているという点だ。
     日本ではエラリイ・クイーンが活躍する初期の作品は「国名シリーズ」と呼び習わされている。だから翻訳のように「タイトルに国名を冠している」と言いたいところだが、原文は「国名から派生した形容詞が使われている」という意味だ。「頭に使われる(冠している)」というと原題はすべてTheになってしまう。この"The+国名を基にした修飾語+名詞+Mystery"というルールは、元々はS・S・ヴァン・ダインが作品のタイトルに"The+6文字からなる単語+Murder Case”というルールを用いていたことに倣っている。
    (原)Another, more significant but less obvious, is the overpowering influence of Van Dine, which began to melt away around 1932 and has almost totally vanished (as had Van Dine's appeal to readers) by 1935.
    (翻)もう一つ、もっと重要だがさほど目につかないものとして、ヴァン・ダインの圧倒的な影響が伺われるが、これは一九三二年あたりからだんだん薄くなり、一九三五年には(ヴァン・ダインが読者に受けなくなったと同様に)完全に消え去っている。
    (私)もう一つの特徴は、タイトルよりも重要だがタイトルほどには明らかとは言いがたい。それは、ヴァン・ダインからの圧倒的な影響が見てとれるという点である。ただし、その影響は1932年あたりから徐々に影をひそめるようになり、1935年にはほぼ完全に消えてしまった(読者がヴァン・ダインに魅力を感じなくなってしまったのと軌を一にしている)。
     作品の内容がヴァン・ダインの影響を受けているという指摘なのだが、さきほどの題名の命名法を含めると、要するに外見も内容もすべてに「ヴァン・ダインからの圧倒的な影響」が見てとれるという事に尽きる。しかも、本格ミステリーを愛読する僕らのような読者にとっては、内容への「圧倒的な影響」は見過ごす事などできはしない。「明らかとは言いがたい」というのは極々控えめな言い方で、もしかすると本書が出版された1974年にはすでにヴァン・ダインはふり返るのも難しいくらいに遠い「過去の人」になっていたのかもしれない。

     内容への影響関係を思い出すためには、やはり1929年出版のデビュー作『ローマ帽子の秘密』を見るのがいいだろう。探偵エラリイの登場場面は次のように描かれる。ローマ劇場で殺されたモンティ・フィールドの事件を捜査中のクイーン警視の元に、若きエラリイがやってくる。
    「邪魔をしてしまったんじゃないか? 今夜はどこの本屋をうろついていたんだ。エラリー、来てくれてほんとうに助かるよ」
     (中略)
    「正直に言うと」 エラリー・クイーンは休み無く視線を動かしながら言った。「こっちはお愛想を返す気になれないね。愛書家の至上の楽園から急に引きずり出されたんだから。あの店主からファルコナーの貴重きわまりない初版本を売ってもらえそうになったんで、本部にいる父さんから金を借りるつもりだったんだ。で、電話して――ここにいるというわけさ。ああ、ファルコナー――まあ、いいか。たぶんあすでも平気だろう」(角川文庫『ローマ帽子の秘密』より)
     目の前の事件よりも貴重な初版本を入手する事の方が大事で、浮き世離れしていて生意気なところがファイロ・ヴァンスそっくりだ。ここで言及されているファルコナーは、Falconer Madan(1851〜1935年)の事だと思われる。かつてオックスフォード大学ボドリアン図書館の司書を務めた人物で、何冊も書誌学の専門書を書いている。代表作が『The Early Oxford Press: a bibliography of printing and publishing at Oxford, 1468–1640』(1895)で、オックスフォードの出版史をまとめたもののようだ。ファルコナーの初版本とはこの本の事かもしれない。少なくとも誰もが知っている人物とは思えず、知る人ぞ知る愛書家ならではのチョイスだ。もしかしたら、その後に愛書家として知られるようになったダネイの発案だろうか。まあ、ヴァン・ダインだと、ここに詳細な註が入って、ファルコナーの事、初版本の価値、なぜエラリイがこれを欲しがったのか等、誰も聞きたがってもいない事が書かれていただろうけれど。

     ネヴィンズの言い分では「(ヴァン・ダインからの)影響は1932年あたりから徐々に影をひそめるようになり」とあるが、1932年は『ギリシャ棺』『エジプト十字架』の年だ。ターニングポイントは、やはり『ギリシャ棺』だろうか。この作品で大学出立ての若き青年エラリイは、自らの演繹推理能力を過信して自信たっぷりに事件に臨み、そして完膚無きまでにしくじってしまう。エラリイが中盤で披露した推理は、被害者ハルキスの秘書の一言で誤っている事が明らかになる。
     最初に口を切ったのはサンプソンだった。「いやいや、大失敗だったな」 いたわるように言う。「しかしまあ、エラリー、そう気に病むな。人間、失敗することもある。それに失敗とはいえ、きみはいい線を行ってた」
     エラリーは力なく手を振り、がっくりうなだれて、くぐもった声で言った。「失敗だって? サンプソンさん。まったく弁解の余地もない。ぼくなんか、鞭で打たれて、情けない姿で家に送り返されたほうがいいんだ……」(角川文庫『ギリシャ棺の秘密』より)
     時系列的には『ギリシャ棺』が先で『ローマ帽子』が後になるので、これに懲りて人間的に成長したようには見えない事になるが、少なくとも1932年には、クイーンの二人はエラリーの性格が鼻につきだしているのは確かだ。ただ、自らの知識をひけらかすところを完全に捨て去るようにエラリイに促すまでには至らなかったようで、『エジプト十字架の秘密』でも、首を切られて磔になった死体と「エジプト十字架」との関連性を長々と講釈する。エラリイの大学時代の恩師であり、古代史が専門のヤードリー教授がたしなめる事で、エラリイはようやく自らの仮説を取り下げている。
     エラリーは眼鏡を鼻の上にしっかり載せた。「では、ぼくたちはエジプト学的仮説を完全に捨てましょう! 少なくともぼくは捨てます。早とちりでした――近ごろのよくない症候でしてね。ぼくも焼きがまわったものです」(角川文庫『エジプト十字架の秘密』より)
     思い起こせば高校生の時に初めて『エジプト十字架』を読んだのだが、この「エジプト十字架」の件(くだり)は「何の事?なんのためにあるの?」と思った記憶がある。結局は無駄な回り道だったわけだが、今にして思えばヴァン・ダインの、というか探偵ファイロ・ヴァンスの呪縛から抜けだそうとして、エラリイを通してヴァンスを、ヴァン・ダインを揶揄しているようにも読めてくる。

     1932年と言えば、ヴァン・ダインが1930年に第5作『カブト虫殺人事件』を出版し、それまでは一年ごとに一作を出していたのに出版が途絶えていた時期だ。すでにヴァン・ダインの最高傑作と見なされる『グリーン家』も『僧正』も出版されていて、『カブト虫』に至ってヴァン・ダインの快進撃もそろそろメッキが剥がれてきた時期だ。そして1935年は第9作『ガーデン殺人事件』が出版された年だ。その後に第12作までは書かれる事になるが、読者はすでにこの時点で離れてしまっていると書かれている。クイーンにしてもそうなのだろう。1935年に発表された国名シリーズ最後の第9作『スペイン岬の秘密』には、ざっと見たところでヴァンスのように知識をひけらかす場面は皆無と言ってよい。休暇をとって、父の旧友であるマクリン判事を伴って、愛車デューセンバーグを駆ってスペイン岬に向かう途中に、郡警察の車両と出くわす。
     エラリーが急にあわてて判事の腕を叩いた。「もう、判事、頼みますよ! ここへは骨休めに来たんでしょう? まさか他人の私事に口をはさむ気じゃありませんよね」
     (中略)
    「冗談じゃない。仕事がぼくの趣味で、たしかにきょうまではそれでじゅうぶんでしたよ、ソロン殿。でも、目下のぼくの欲求は、純粋に動物的なものなんです。ひと泳ぎ、ひと皿の卵料理、そして甘美なる夢の神モルペウス。…」(角川文庫『スペイン岬の秘密』より)
     こんなものだ。エラリイは知的会話を楽しむグルメと言ったところだろうか。ソロンというのは、例のギリシャの七賢人と呼ばれた、古代アテナの法律家の事だ。別のページに「愛情をこめて」こう呼んでいると書かれている。モルペウスとは同じくギリシャの神で、眠りの神とも言われているそうだ。要は美味しいものを食べてぐっすりと眠りたいという会話だ。まったくもって欲望に忠実で平凡な会話ではないか。

     さて本書では「国名シリーズ」のエラリイについて次のように書いている。
    [原文](INTRODUCTION P.6)
    The Ellery of these first "Problems in Deduction" is a polysyllabic literatus wreathed in classical allusions and pince-nez―in short, a close imitation of Philo Vance or, as Manfred Lee in recent years called him, the biggest prig that ever came down the pike. For those who don't like First Period Queen―a group that apparently includes the authors themselves, to judge from interviews near the end of Lee's life―these novels are sterile, lifeless, relentlessly intellectual exercises, technically excellent but unwarmed by any trace of human character nor by any emotion other than the "passions of the mind." For those who love Period One, including myself and most Queenians, these books are splendid tours de force of the artificer's art and are nowhere near totally devoid of interest in human character or concern with fundamental issues. I cover the ground in Chapters One through Three and let readers judge for themselves.
    [翻訳](プロローグ P.23)
    このような初期の〈推理の問題〉を持った探偵エラリイ・クイーンはさりげなく古典をほのめかして長い言葉を使う、鼻眼鏡をかけた知識人――つまり、ファイロ・ヴァンスそっくりの人物である。マンフレッド・リーが晩年になって彼を評した言葉を借りれば、”お高くとまって決して下界には降りて来ない知ったかぶり屋の最たるもの”だ。第一期のクイーンを好まない人――リーの死ぬ少し前に行なわれたインタビューによれば明らかに著者たちもこの中に含まれる――にとっては、この時期の作品は貧弱で精彩に乏しく、執拗なまでに知的な課題を盛りこんでいて、技術的には優れているが、どの人物描写にも”精神的な情熱”以外のどんな感情にも心暖められるものがない。第一期の作品が好きな人、つまりわたし自身も含めて多くのクイーン愛好家にとっては、この時期の作品は職人の手になるすばらしい力作であり、人物描写におもしろ味がないとか、基本的な問題に関心が払われていないとかなどとんでもない。わたしはその問題を一章から三章にかけて論じ、判断は読者自身におまかせしよう。
    [私訳]
    初期の作品に付き物の「ある推理の問題」に直面する探偵エラリイ・クイーンは、、古典からのほのめかしと鼻眼鏡とで自らを飾り立て、知識人らしくやたらと小難しい言葉を使いたがる人物である。要するに、ファイロ・ヴァンスを忠実に再現した模造品である。あるいは晩年のマンフレッド・リーが語っていたように、これまでに世に現れてきた中で誰よりも物知りぶった人物だった。
     クイーンの第一期の作品を好きになれない読者(リーが亡くなる直前に受けたインタビューによると、どうやら著者の二人もこのグループに所属しているらしい)にとっては、この時期の作品は文体や内容が貧弱で精彩を欠き、それでいて執拗に頭脳を使う事を求められる練習問題のようだ。技術的には優れているものの、人物描写のかけらもないし、いわゆる"想像を巡らす情熱"以外にいかなる感情も込められていないので、読んでいても楽しくないようだ。一方、第一期のクイーン作品を愛する読者にとって(私や、クイーンの愛読者が含まれる)、この時期の作品は、職人がつくり出した芸術作品の中でも並はずれた大傑作である。人物描写に対する興味や根本的な問題に対する関心のいずれも完全に欠けている、などという事は絶対にない。私は一章から三章を通して、この問題にきちんと答えよう。読者のみなさんが判断していただきたい。


    (原)The Ellery of these first "Problems in Deduction" is a polysyllabic literatus wreathed in classical allusions and pince-nez―in short, a close imitation of Philo Vance or, as Manfred Lee in recent years called him, the biggest prig that ever came down the pike.
    (翻)このような初期の〈推理の問題〉を持った探偵エラリイ・クイーンはさりげなく古典をほのめかして長い言葉を使う、鼻眼鏡をかけた知識人――つまり、ファイロ・ヴァンスそっくりの人物である。マンフレッド・リーが晩年になって彼を評した言葉を借りれば、”お高くとまって決して下界には降りて来ない知ったかぶり屋の最たるもの”だ。
    (私)初期の作品に付き物の「ある推理の問題」に立ち向かう探偵エラリイ・クイーンは、古典からのほのめかしと鼻眼鏡とで自らを飾り立て、知識人らしくやたらと小難しい言葉を使いたがる人物である。要するに、ファイロ・ヴァンスを忠実に再現した模造品である。あるいは晩年のマンフレッド・リーが語っていたように、これまでに世に現れてきた中で誰よりも物知りぶった人物だった。
     国名シリーズ全9作には必ずA Problem in Deduction(ある推理の問題)という副題が付く。それを踏まえた上での"Problems in Deduction"だと分かるように訳して欲しいところだが、そのようなニュアンスは翻訳には感じられない。また、classical allusions and pince-nezが並列関係になっているところをa polysyllabic literatus…and pince-nezと解釈していて無理やり「鼻眼鏡をかけた知識人」と訳している。「知識人」というのはa polysyllabic literatusから来ていると思われるが、これは辞書どおりに訳すと「多音節語を多用する知識人」となる。何故「多音節語を多用する」事が知識人らしいのかと言うのは正直僕の手には余る部分だが、おそらく日本でも長ったらしい専門用語を使う知識人が多い事を考えれば「小難しい言葉を使いたがる」と言うぐらいの意味ではないかと思う。最後のthe biggest prig that ever came down the pikeだが、pikeをランダムハウス英和大辞典で引くと6つも出てくるので度肝を抜かれる。ただし、ちゃんと成句を調べるとcome down the pike(やってくる、出てくる、現われる)がちゃんと載っている。どうやったら「お高くとまって決して下界には降りて来ない」などとなるのか理解に苦しむ。

    (原)For those who don't like First Period Queen―a group that apparently includes the authors themselves, to judge from interviews near the end of Lee's life―these novels are sterile, lifeless, relentlessly intellectual exercises, technically excellent but unwarmed by any trace of human character nor by any emotion other than the "passions of the mind."
    (翻)第一期のクイーンを好まない人――リーの死ぬ少し前に行なわれたインタビューによれば明らかに著者たちもこの中に含まれる――にとっては、この時期の作品は貧弱で精彩に乏しく、執拗なまでに知的な課題を盛りこんでいて、技術的には優れているが、どの人物描写にも”精神的な情熱”以外のどんな感情にも心暖められるものがない。
    (私)クイーンの第一期の作品を好きになれない読者(リーが亡くなる直前に受けたインタビューによると、どうやら著者の二人もこのグループに所属しているらしい)にとっては、この時期の作品は文体や内容が貧弱で精彩を欠き、それでいて執拗に頭脳を使う事が求められる練習問題のようだ。技術的には優れているものの、人物描写のかけらもないし、いわゆる"想像を巡らす情熱"以外にいかなる感情も込められていないので、読んでいても楽しくないようだ。
     はっきり言わせてもらえば「リーの死ぬ少し前に」などと失礼な言葉をよくも平然と書けるものだなと思う。最後のunwarmed by any trace of human character nor by any emotion other than the "passions of the mind"も解釈が間違っている。A nor B なのだから not A and not Bと言っている(ド・モルガンの法則がこんなに役に立つとは思わなかった)。unwarmed(楽しめない、楽しくない)の理由が by no trace of human character and by no emotion other than the "passions of the mind"だと言っているのに、翻訳はまったく違った解釈になっている。それとpassions of the mindの意味だが「精神的な情熱」といった曖昧なものではなく、本格ミステリ特有の「謎を解き明かしたいという情熱」の事を言っているのだと思われる。そう訳してもよかったのだが、そこまでハッキリとは書かれていないので「想像を巡らす情熱」と訳した。力不足は否めない。

     ところで、1971年ごろに40年を超えるキャリアをふり返ったリーとダネイが、第一期の作品に否定的だったというのは何とも残念な事だ。その頃には本国アメリカでは本格ミステリというジャンル自体に「謎ばかりをもてあそんでいる」という否定的な評価がなされてしまっていたのだろうか。それに反して日本ではクイーンの評価はまさに上がる一方であったというのに。1974年に出版された本書は、そんな状況に一矢を報いたいという思いで書かれた評伝と言っていいのかもしれない。日本で本書が出版された1980年当時、クイーンの作品に目がくらんでいた僕には、そんな本国の状況は思いも寄らなかった。
    posted by アスラン at 01:35 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) |  書評(エラリー・クイーン) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年07月26日

    フランシス・M・ネヴィンズJr.『エラリイ・クイーンの世界』を散策する(その5)

     エラリー・クイーンのデビュー作『ローマ帽子の秘密』は1929年8月にフレデリック・A・ストークス社から出版された。発表当時の時代背景を考える上で、禁酒法と世界恐慌について少し知っておいた方がよさそうだ。手もとには、滅多に活躍しないが時々見返す事がある『クロニック世界全史』(講談社)という百科事典(?)がある。索引で「禁酒法」をたどると以下の年月日にヒットする。
    1846年 アメリカ初の禁酒法がメーン州で制定 各地で禁酒運動が高まる
    1919年10月28日 アメリカ 禁酒法が成立する
    1920年 米国で禁酒法スタート でも飲みたいのが人の常 酒の取引は水面下に
    1928年 禁酒法下、悪質な酒を飲んだために死亡した者1565名、失明した者数百名を数える。
    1929年 ギャングの街シカゴで聖ヴァレンタインの虐殺 密造酒めぐる抗争の果て
    1933年12月5日 待ってました、バー解禁 アメリカで禁酒法撤廃 ユタ州の批准で実現
     アメリカではピューリタニズムの伝統が色濃く残るニューイングランド地方で禁酒運動が早くから始まっていた。1846年当時、メーン州の禁酒法は「28ガロン(106L)未満のアルコール飲料の販売禁止」という内容だったが、1851年には州内のアルコールの製造・販売の禁止(メーン法)が成立する。この背景には「移民の流入と都市化の進行」があり、アメリカの伝統が脅かされるという保守層の危機感があったようだ。合衆国北部と西部を中心に1856年には13州で禁酒法が制定された。この運動の高まりは73年後の1919年に、憲法修正第18条(禁酒法)という形で結実する。アメリカ全土で酒類の製造・販売・輸送・輸出入のいっさいが禁止された。ただし飲酒行為そのものは禁止されていない。手持ちの酒を飲むことは構わないが、それを費やしたら庶民には酒を飲む手立てはなくなる。酒の需要につけ込む隙ができた事で、以後、暗黒街のギャングたちが酒の密造・密売・密輸を一手に引き受けて急速に成長していく事になる。1928年には密造・密売による悪影響が見過ごせないほどの社会問題となっていた事がわかる。

     このような社会状況を踏まえて『ローマ帽子の秘密』は書かれている。殺人事件が起きたローマ劇場で上演されていたのは〈銃撃戦〉と名づけられた演目だった。
     〈銃撃戦〉は、暗黒街に付き物とされる音を取り入れた、このシーズンの口火を切る芝居だった。自動小銃、マシンガン、ナイトクラブの襲撃、ギャングの復讐で命が奪われる大音声――誇張された犯罪社会にお決まりのもろもろが、展開の速い三幕に詰め込まれている。それは大げさにではあるが、時代を映し出していた――やや下品で猥雑ではあるものの、芝居好きの人々には大受けしている(角川文庫版『ローマ帽子の秘密』より引用)。
     さすがに社会問題に対する批評的な切り口は、まだ二十代の若者による作品からは感じ取れない。世情から流行をいち早く取り入れようと言う趣向だったのだろう。殺された悪徳弁護士モンティ・フィールドが売り子から手に入れたのは、劇場では売られていないジンジャエールだったが、劇場に来る前にしたたか酔っていた。自宅からは高級酒が何本も見つかっており、密造・密輸入品の可能性ひいては暗黒街とのつながりを感じさせる。酒の出所を問いただされたフィールドの愛人は、こんなふうに答える。
    「あたしをなんだと思ってるのよ」きつい口調で言う。「知るわけないし、知ってたって言うもんか。密造酒造りにだって、まじめに働いている人がたくさんいて、あの人たちをぶちこもうとしてる連中よりずっとましよ!」(角川文庫版『ローマ帽子の秘密』)
     公然の事実として、市井の人々がギャングの密造の片棒をかつがざるをえない状況がある事を、さりげなく描いている。単なる蓮っ葉な女だと思い込んできたが、数十年も経って偏見が過ぎた事に気づかされた。

     『ローマ帽子』が出版される1929年8月の半年前には、アル・カポネ率いるイタリア系ギャングとアイルランド系のギャングとの抗争が極まった「聖ヴァレンタインの虐殺」が起きる。この事件のやり口が余りに残忍だったので、世間も当局も見過ごす事ができなくなったようだ。道徳的な政策だったはずが、かえって不法行為を生み出す事になり、さらにはギャングを急成長させる事に荷担するという皮肉な事態に陥った。1933年は、禁酒法を撤廃するための憲法修正第21条が成立した年だ。憲法修正には全州の3/4に当たる35州(当時)の批准が必要であり、この年にユタ州が批准した事によって禁酒法は撤廃された。『ローマ帽子』では芝居の詳しい筋書きは語られないので、ギャングを含めてどのような人物がどのように描かれたのかは最後まで分からない。1970年代に制作された映画『ゴッドファーザー』のような過酷な裏社会と濃密な人間関係が描かれていたとは思えない。怖い物見たさに暗黒街のヒーローたちの生き様を見たいという観客を満足させる事が狙いの芝居のように思えるが、小説の応募がもう一年あとであったならば、この題材は世論的に反感を買いかねないものだったかもしれない。

     もう一つのキーワードは「世界恐慌」だ。『ローマ帽子』が出版されてからおよそ2ヶ月後に「暗黒の木曜日」と言われる株価の大暴落がウォール街で起きた。これをきっかけにして世界中で最大にして最長の「恐慌」が発生する事になる。経済に疎い人間なので「どうして?」という部分を理解するには高校生に戻ったつもりで勉強し直す必要がありそうだ。マイペディアではこう書かれている。
     資本主義経済では利潤を目的としてますます大量の商品が生産されるが、その経費にあたる賃金はできるだけ低くおさえられるため、生産の増大に対して消費が伴わず、商品の過剰生産が起こり、価格暴落、破産、失業などの景気循環の最悪の危機的局面が生じる。それが恐慌で8〜12年の周期をもつ。
     つまり恐慌自体は、資本主義経済に内在している定期的な危機的状況を指す事になる。では何故1929年にアメリカで「大恐慌」とも「大不況」とも言われる世界的な規模の恐慌が起こったのか。ニッポニカの説明はこうだ。
     これは、アメリカが第一次世界大戦中に戦場となることなく、戦争経済から得た過度の利潤を貸付資本として「永遠の繁栄」のもとに投機的に株式投下し、株価を水膨れさせた結果の破綻であり、そのアメリカ経済の内部に過剰生産が進行していたことによる。
     1920年代のアメリカは、見かけ上は好況だったが以下のように危機的な状況が内在していた。
     しかし反面、同じ1920年代には一貫して5%以上の失業率をもつ構造的失業も確かに存在し、また農業、綿紡績、皮革、石炭、造船など不況産業も抱え、成長と停滞が併存する形での好況であった。他方、アメリカは第一次世界大戦後は世界一の農業国になったが、ヨーロッパ農業の回復とともに世界的に生産過剰が表面化し、1920年代を通じ世界農業は慢性的不況を呈していた。
     このアンバランスを抱えたまま、株価はどんどん膨らみ続け、金融不安が高まり、信用が一挙に崩れたのが「暗黒の木曜日」だったというわけだ。

     ではクイーンはどのように世界恐慌に直面したのだろうか。
    [原文](INTRODUCTION P.5)
     The Roman Hat Mystery was issued by Stokes in 1929. Since the Depression confronted the public at roughly the same time as Roman Hat, the cousins prudently decided to keep their jobs awhile longer and to continue writing as a sideline. It was only after the publication and success of two more Queen novels, one each in 1930 and 1931, that they were persuaded by their agent to take the plunge and make it as professionals or bust. (Read any history of the Depression and ask yourself whether you would have had the self-confidence to quit a secure job in 1931.) Needless to add that they made it. Between 1932 and 1935 they published six more Ellery Queen novels, four additional detective novels under the byline of Barnaby Ross, and a book of Ellery Queen short stories, besides editing the short-lived but now legendary Mystery League magazine.
    [翻訳](プロローグ P.21)
     『ローマ帽子の秘密』は一九二九年にストークスによって出版された。『ローマ帽子の秘密』出版と時を同じくして世情は大恐慌に激しくゆらいでいたため、二人は用心深くしばらく仕事は辞めずに副業として小説を書いていくことにした。ところが一九三〇年と一九三一年にそれぞれ一作ずつクイーンの小説が出版され、二作がともに成功を収めるとすぐに、エージェントが二人に大博打をするつもりで著作を本業にしなければ失敗しかねないと説得した(大恐慌について書かれたものを読み、一九三一年に安定した仕事を辞める自信が持てるかどうか自問自答してみるといい)。二人が大博打をうったのは言うまでもあるまい。一九三二年から一九三五年にかけて、二人はエラリイ・クイーンの小説を六冊追加し、バーナビイ・ロスの名前で書いた探偵小説を四冊とエラリイ・クイーン短編集一冊を出版している。そのうえ、短命ではあったが今では伝説となった《ミステリ・リーグ》誌の編集をした。
    [私訳]
     『ローマ帽子の秘密』は1929年にストークス社から出版された。『ローマ帽子』出版とおおよそ同じ時期に、世間は世界大恐慌に直面したので、二人は慎重になってしばらくは仕事を辞めないで、副業として作家を続ける事にした。ところが1930年と1931年に一冊ずつ、合計二冊の小説を出版して、いずれも成功を収めるとすぐに、代理人が「ここらで思いきって本業にすれば成功するが、そうしなければしくじってしまうぞ」と言って二人を説き伏せた(大恐慌の歴史について何でもいいから読んでみて、自問自答してみるといい。安定した仕事を1931年という年に自信を持って辞める事が果たしてできるかどうかと)。付け加えるまでもないが、二人は作家として成功をおさめた。
     こうして1932年から1935年にかけて、エラリイ・クイーンとして小説をさらに6冊出版した上で、バーナビー・ロスという別の名義で4冊の推理小説を出版し、さらにはエラリイ・クイーン名義の短編集1冊を出版した。その他にも、短命ではあったが今や伝説となった《ミステリ・リーグ》誌の編集にも携わった。
     この一節を読む限りは、順風満帆だったようにも見える。例の懸賞金を受け取って南イタリアに移住して作家生活を送るという夢は、まさに夢物語となってしまったが、少なくとも一発屋で終わる事なく次々と作品を出版できるような売れっ子作家になっていったようだ。ただし作家一本では二人分の食い扶持を稼ぐには難しかっただろうし、やはり何と言っても4人に1人は失業したと言われる大不況下では、先行き不透明な作家生活に切り替える決断はかなりの勇気がいったようだ。

    (原)It was only after the publication and success of two more Queen novels, one each in 1930 and 1931, that they were persuaded by their agent to take the plunge and make it as professionals or bust. (Read any history of the Depression and ask yourself whether you would have had the self-confidence to quit a secure job in 1931.) Needless to add that they made it.
    (翻)ところが一九三〇年と一九三一年にそれぞれ一作ずつクイーンの小説が出版され、二作がともに成功を収めるとすぐに、エージェントが二人に大博打をするつもりで著作を本業にしなければ失敗しかねないと説得した(大恐慌について書かれたものを読み、一九三一年に安定した仕事を辞める自信が持てるかどうか自問自答してみるといい)。二人が大博打をうったのは言うまでもあるまい。
    (私)ところが1930年と1931年に一冊ずつ、合計二冊の小説を出版して、いずれも成功を収めるとすぐに、代理人が「ここらで思いきって本業にすれば成功するが、そうしなければしくじってしまうぞ」と言って二人を説き伏せた(大恐慌の歴史について何でもいいから読んでみて、自問自答してみるといい。安定した仕事を1931年という年に自信を持って辞める事が果たしてできるかどうかと)。付け加えるまでもないが、二人は作家として成功をおさめた。
     冒頭で大恐慌の歴史について簡単に調べてみたのは、著者ネヴィンズが言うように「自問自答する」ためだった。おそらく僕がクイーンであっても、すぐには本業を辞めなかっただろう。クイーンの二人はユダヤ人らしく慎重だったが、僕は日本人らしく臆病で堅実なのだ。そんな二人に「大博打を打て」などというアドバイスは逆効果のような気がする。take the plungeに「博打を打つ」の意味はなく「思いきる、あれこれ考える」という意味だし、ここはto take … make … bustと、三つの不定詞が並んでいるのだから、Needless to add that they made it のmade itは、make it as professionals(プロの作家として成功する)を意味しているはずだ。翻訳の「二人が大博打をうったのは言うまでもあるまい。」では、クイーンたちの性格と矛盾してしまう。

     1930年の一冊は『フレンチ白粉の秘密』、1931年は『オランダ靴の秘密』だ。本業の片手間の仕事としては充分に濃密な執筆に思われるが、代理人はもっと本腰を入れた方がいいとアドバイスした。結果的に作家を本業にした1932年を皮切りに3年間で合計10冊の長編と1冊の短篇集を出版する事になる。1932年と言えば『ギリシャ棺の秘密』『エジプト十字架の秘密』『Xの悲劇』『Yの悲劇』を出版した、いわゆる「奇跡の年」とも「豊穣の年」とも呼ばれる年だから、代理人のアドバイスは大正解だった事になる。僕らファンも、名も知らぬ代理人に感謝したいところだが、一方で書き急ぎすぎたのではないかとも思ってしまう。あれだけの傑作をたった一年で発表するなんて、なんとも「もったいない」と。ただし、もしかしたら書き急ぐ必要が二人それぞれにあったのかもしれない。二人の私生活については本書ではあまり触れられていないが、『エラリー・クイーン 推理の芸術』第七章には、1939年にダネイ夫妻には二人の子供がいて、上の息子は六歳になっていると書かれている。また、リーの方は最初の妻と離婚してアパートに一人住まい。そこに娘二人が訪ねてくるという記述もある。と言うことは、世界恐慌が始まった1929年当時に、二人は身軽な独身ではなかったのだろうか。

     答は、ジョゼフ・グッドリッチ編『エラリー・クイーン創作の秘密 往復書簡1947-1950年』にあった。この本には、本書とはひと味違う年表が記載されていて私生活の記載がある。1926年(21歳)にダネイが結婚し、翌1927年(22歳)にリーが結婚している。リーの大学卒業が1925年だから、なんとなく大学出たての世の中を知らない若者二人というイメージで書いてきたが、1929年の懸賞金付き小説に応募した時には、すでに養うべき家族が出来ていた。表向きは順風満帆に見えたので、本業の仕事を辞めてプロの作家になる時にだけ不況の影響があったように感じられたが、実際には二人とも、家族を養うために多忙な日々を日常とすることを余儀なくされたと言えそうだ。

     1932年にはすでに名声を確立していたクイーンに、コロンビア大学ジャーナリズム養成学校から講演の依頼が来る。その際にコイントスで負けた方が講演する事にして、リーが負けたので黒の覆面をして講演した。その後も1年間は、講演の依頼を受ける度にリーが覆面をして講演をしたそうだ。
    [原文](INTRODUCTION P.6)
    Later a lecture bureau sent both cousins on cross-country speaking engagements, with Dannay posing as Barnaby Ross and Lee playing Queen, both still masked. Their "act" on the lecture platform involved challenging each other's skill as detectives, with one tossing off the clues in an imaginary murder case and defying the other to slove it on the spot. These little games brought considerable publicity in their wake, and rumors began to circulate that Queen was really another pen name of S. S. Van Dine and Ross was the pseudonym of Alexander Woollcott. A brief paragraph in Publishers' Weekly for October 10, 1936, finally revealed the true identities behind both Queen and Ross.
    [翻訳](プロローグ P.22)
    その後、ある講演会斡旋所が従兄弟たち二人を講師にして全国各地で講演会を開催した。ダネイはバーナビイ・ロスを演じ、リーはエラリイ・クイーンとして、相変わらず二人とも覆面をしたままだった。講演での二人の”演技”はおたがいの探偵としての腕の見せ合いに挑戦する結果となった。一人が想像上の殺人事件の緒口を相手に与え、その場で解決をせまるという筋書きである。このちょっとした芝居は二人の行った先々でかならず評判になり、クイーンは本当はS・S・ヴァン・ダインのもう一つの筆名で、ロスはアレグザンダー・ウルコットの匿名だ、という噂が流れはじめた。一九三六年十月十日に出た《パブリッシャーズ・ウィークリー》に載った短い記事でようやく、クイーンとロス両著者名の背後にいる本当の著者が明らかになったのである。
    [私訳]
    その後、ある講演斡旋所からの依頼で、今度は二人そろって国を横断して講演会をめぐった。ダネイはバーナビー・ロスの振りをし、リーはクイーンを演じたが、二人とも、これまでどおり覆面をしたまま登壇した。講演では二人が探偵としての腕を競うという"寸劇"も交えた。一人が架空の殺人事件を設定して手がかりを次々に出して、もう一人にその場で解決を迫るという段取りだ。このちょっとしたお遊びは、各地で披露していくうちにかなりの評判になり、次第に噂が広がりはじめた。実のところ、エラリイ・クイーンとはS・S・ヴァン・ダインのもう一つのペンネームではないのかとか、バーナビー・ロスはアレクサンダー・ウールコットが身分を隠すための匿名ではないのかといったものだ。
     そして、1936年10月10日付の《パブリッシャーズ・ウィークリー》に短い段落からなる記事が掲載された事で、エラリ・クイーンとバーナビー・ロスというペンネームの背後に隠れていた本人たちの素性がついに明らかになった。

     二人が覆面をして講演会をめぐったエピソードは、クイーンファンには有名だが、いったいどの程度の規模だったのだろうか。
    (原)Later a lecture bureau sent both cousins on cross-country speaking engagements
    (翻)その後、ある講演会斡旋所が従兄弟たち二人を講師にして全国各地で講演会を開催した。
    (私)その後、ある講演斡旋所からの依頼で、今度は二人そろって国を横断して講演会をめぐった。
     翻訳だとアメリカ全土を講演してまわったイメージだが、on cross-countryにそこまでの意味を持たせるのは無理だろう。ヒントは『Xの悲劇』の巻頭にある「読者への公開状」にあった。
    ……ひとりがエラリー・クイーン、もうひとりがバーナビー・ロスとして、探偵小説界で激しく対立する好敵手を装ったのである。ニュージャージー州メイプルウッドからイリノイ州シカゴにかけて開かれた数々の講演会で、物見高い聴衆を前にして互いに送り合ったことばは、かならずしも賛辞ばかりではなかった。こうしたまったくの欺瞞によって、それぞれが強靱な個性を具えた別人であるという幻想が守られたわけだ。(角川文庫版より引用)
     メイプルウッドはマンハッタンのすぐ隣と言っていいぐらいの距離だが、シカゴはそこから1000km以上離れている。まさに「横断」という言葉がふさわしいが、それにしてもアメリカは広い。大西洋に面したニューヨークから太平洋に面したサンフランシスコまでの横断と比べると3分の1にも満たない。それでも大変な巡業だった事だろう。

     ところで、この「公開状」を読んで気づいたのだが、クイーンたちがしていたのは「覆面(mask)」ではなく「ドミノ仮面(domino mask)」だ。日本語で覆面と言うと、強盗がするような目出し帽をイメージしがちだが、domino maskというのは仮装などでつける仮面を意味する。ドミノ仮面をつけた理由だが、『推理の芸術』には「まだ作家の正体は隠しておくために」と書かれていてはっきりした理由は書かれていない。コイントスで決めたのはコロンビア大学の講演が面倒くさかったかららしいが、覆面をしたのは思いつきのようだ。僕はずっとエラリー・クイーンとバーナビー・ロスとが同一作家である事を隠したいからだと思っていたが、考えてみればロスはクイーンほど知名度があったわけではなかったようだし、そもそも講演が来ても受けなければいいだけだ。おそらく、二人で書いているという創作の秘密を明かしたくなかったというのが本当の理由だったのではないだろうか。顔出しすれば、以後もう一人は顔出しする事ができなくなる。ならば覆面をしてしまえという思いつきだ。

     ドミノ仮面の二人がクイーンとロスに扮して丁々発止の掛け合いを繰り広げた事で、クイーンはヴァン・ダインではないかという憶測が出てくる。1932年というとヴァン・ダインの第6作『ケンネル殺人事件』が出版された年だ。本人の弁では「傑作となるミステリは六冊しか書けない」かのように言っていたので、ちょうどその頃だ。ジョン・ラフリー『別名S・S・ヴァン・ダイン ファイロ・ヴァンスを創造した男』では、第3作『グリーン家殺人事件』が出版された1928年には「ウィラード・ライトとS・S・ヴァン・ダインが同一人物であることを知るニューヨーカーは次第に増えてきていたが…(P.295)」と書かれている。業界では公然の秘密となっていたようだが、公には1928年に、大衆誌である《アメリカン・マガジン》に短い自伝を発表した事で、ウィラードとヴァン・ダインが同一人物であると認めた事になるようだ(そうハッキリと書かれていないが)。この自伝が例の「内外の推理小説を2000冊も読み…」のようなヴァン・ダイン伝説の大元らしい。とにかく1932年にはヴァン・ダインが何者かは当然知られていたし、おそらく顔を含め姿形を撮られた写真も出回っていただろうが、それでもドミノ仮面のクイーンがヴァン・ダインだと疑われるところが面白い。やはり、当初からクイーンがヴァン・ダインを意識した作品作りをしてきたので「似ている」と疑われても致し方なかったのかもしれない。

     ロスがアレクサンダー・ウールコットの匿名だろうという憶測の方はどうだろうか。ウールコットがいかなる人物か知らないのだが、英語版のWikipediaによると、「アメリカのドラマ評論家、ニューヨーカー誌のコメンテーター…俳優、劇作家、ラジオのパーソナリティ」という肩書きが挙がっている。 本人は友人のレックス・スタウトが創り出した探偵ネロ・ウルフの原点は自分ではないかと言っていたようだ。確かに写真を見ると、ちょっと恰幅のいい姿をしているが、スタウトは否定したようだ。ロスがウールコットだとする根拠は特になさそうだが、ラジオのパーソナリティなどをやっているところを見ると、当時よく知られている批評家だったので「一家言ある」というイメージが、クイーンに物申すロスのイメージと重なったのかもしれない。

    (原)A brief paragraph in Publishers' Weekly for October 10, 1936, finally revealed the true identities behind both Queen and Ross.
    (翻)一九三六年十月十日に出た《パブリッシャーズ・ウィークリー》に載った短い記事でようやく、クイーンとロス両著者名の背後にいる本当の著者が明らかになったのである。
    (私)そして、1936年10月10日付の《パブリッシャーズ・ウィークリー》に短い段落からなる記事が掲載された事で、エラリ・クイーンとバーナビー・ロスというペンネームの背後に隠れていた本人たちの素性がついに明らかになった。
     この一節は非常に重要だ。いや、少なくとも僕にとっては非常に重要だ。これまではなんとなく読み飛ばしていたような気がする。ここでは著者名(ペンネーム)の背後にいる「本当の著者」がダネイとリーだと分かったと書いているように読める。

     実際、『創作の秘密』の年表でも次のように書かれている。
    一九三六年 《パブリッシャーズ・ウィークリー》誌の記事が、ダネイとリーが”エラリー・クイーン”だと明かす。
     ちょっと、いや結構驚きだ。クイーンとロスが同一の作家だと言う事が明かされたとは書いていない。僕らは、というか僕は『Xの悲劇』の「読者への公開状」を読んでいたので、雑誌の記事が「バーナビー・ロスの正体はエラリー・クイーンだった」と暴露したのだとばかり思ってきた。しかし、実際には、この暴露よりもエラリー・クイーンという著者自体がダネイとリーという二人だったという事が一番の話題だったようだ。ただし、一次史料である記事を探してみたが、ネットでは見つからなかったので詳細は不明だ。ミステリの世界では二人が共同執筆するのは目新しい事ではないが、当時は他にはいなかったのかもしれない。そういう意味では、確かにこちらの方が話題になりそうだ。僕らファンは、最初から解説で裏話を知りすぎているので、この記事を読んで衝撃を受けた当時の愛読者がとても羨ましい。当時、クイーンもロスも読んでいたコアな本格ミステリ愛好家は、きっと卒倒するくらいの衝撃を受けたに違いない。あぁ、ほんとに羨ましい。
    posted by アスラン at 00:40 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) |  書評(エラリー・クイーン) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年07月13日

    フランシス・M・ネヴィンズJr.『エラリイ・クイーンの世界』を散策する(その4)

     ダネイもリーもニューヨーク市ブルックリンにあるボーイズ・ハイスクールに通ったが、その後リーはニューヨーク大学に進学し、ダネイは一足先に広告会社に就職して、コピーライター兼アートディレクターの仕事に就いた。リーは遅ればせながら映画会社で映画を宣伝する文章を書く仕事に就いた。
    [原文](INTRODUCTION P.4)
    They met almost every day for lunch and among the subjects they discussed over their meals was the possibility of collaborating on a detective story of their own. (This was the heyday of S. S. Van Dine, whose philo Vance novels proved that hyperintellectualism and deduction could catapult a mystery onto the best-seller lists.) Among the suggestions they tossed around for their sleuth's name were James Griffen and Wilbur See―hardly inspired inventions. But their plans and dreams remained unfulfilled until the announcement of the $7500 prize contest catalyzed them into serious action.
    [翻訳](プロローグ P.20)
    二人はほとんど毎日昼休みに会って食事をしながら話をしたが、そのときに自分たちでも探偵小説の一つくらい共同制作で書けるのではないかという話題があった。(S・S・ヴァン・ダインの全盛期で、あふれるほど知性を駆使して推理を展開すればミステリをベストセラーのリストに載せられるということを、ファイロ・ヴァンスが活躍する小説が証明していた) 二人はあれこれと意見を述べ、筆名としてもジェイムズ・グリフェンとかウィルバー・シーという名前をあげた――創作意欲をかきたてるまでにはいたらなかった。しかし、二人の計画と夢はそのまま消えずに残っていたので、七千五百ドルの懸賞小説募集の発表が触媒の働きをして、二人は本気になって行動に移ったのだった。
    [私訳]
    毎日のように二人は昼食を共にしたが、食事をしながらの話題と言えば、自分たちなら共同で推理小説の一つくらい書けるのではないかというものだった(当時はS・S・ヴァンダインの絶頂期だった。彼がつくり出した探偵ファイロ・ヴァンスが主人公として活躍する小説が証明してみせたのは、最高の知力を行使して演繹推理を駆使すれば、一編のミステリーをベストセラーへと押し上げる事も可能だという事だった)。探偵の名前は何にしようかと互いにアイディアを持ち寄ると、ジェームズ・グリフェンとか、ウィルバー・シーといった名前が挙がった(どれも霊感を受けたような最高の思いつきとは言えなかったが)。しかし、ミステリを共同執筆するという二人の計画と夢はその後も果たせないままだったが、7500ドルの懸賞付きの小説募集が発表された事が触媒となって、二人はこの計画と夢を本気で実行に移す事にした。
     17歳のダネイがハイスクールを卒業したのが1922年。リーが4年生の大学を出たとすると1926年。すると1920年後半には、ここで書かれているように二人とも地元で就職して、昼休みには食事をしながら共同執筆の夢を話題にしていた事になる。S・S・ヴァン・ダインのデビューが1926年。懸賞金付きの小説募集があった1929年には第4作『僧正殺人事件』を発表していて、前年の第3作『グリーン家殺人事件』と合わせても、まさしく絶頂期だったと言っていい。24歳の二人の若者が「めざすのはこれだ!」と思い込んだとしても致し方ない。それだけの勢いが当時のヴァン・ダインにはあった事は間違いないだろう。
    (原)Among the suggestions they tossed around for their sleuth's name were James Griffen and Wilbur See―hardly inspired inventions. But their plans and dreams remained unfulfilled until the announcement of the $7500 prize contest catalyzed them into serious action.
    (翻)二人はあれこれと意見を述べ、筆名としてもジェイムズ・グリフェンとかウィルバー・シーという名前をあげた――創作意欲をかきたてるまでにはいたらなかった。しかし、二人の計画と夢はそのまま消えずに残っていたので、七千五百ドルの懸賞小説募集の発表が触媒の働きをして、二人は本気になって行動に移ったのだった。
    (私)探偵の名前は何にしようかと互いにアイディアを持ち寄ると、ジェームズ・グリフェンとか、ウィルバー・シーといった名前が挙がった(どれも霊感を受けたような最高の思いつきとは言えなかったが)。しかし、ミステリを共同執筆するという二人の計画と夢はその後も果たせないままだったが、7500ドルの懸賞付きの小説募集が発表された事が触媒となって、二人はこの計画と夢を本気で実行に移す事にした。
     この部分は翻訳があまりにずさんだ。作家名(筆名)ではなく探偵の名前をあれこれ考えたという話なのに「筆名としてもジェイムズ・グリフェンとかウィルバー・シーという名前をあげた」と書かれている。「筆名としても」と言外に探偵名について言っているかのような表現だが、まずは探偵名だろう。しかもまだこのときは、筆名兼探偵名のアイディアなど影も形もなかったのだ。さらに、これらの探偵名は「いい思いつきとは言えなかった」と言ってるのに「創作意欲をかきたてるまでにはいたらなかった」と書かれている。さらにさらに小説の応募が発表される1929年までは「二人の計画と夢は実現しないまま」だったと言ってるのに「そのまま消えずに残っていた」と書かれている。これでは原文のニュアンスとはだいぶ違う。

     エラリイ・クイーンという名前の由来については、ダネイの子供時代に「エラリイ」という友だちがいた事が分かっている。それ以外にも、アングロサクソン語で「榛の木(ハンノキ)が育つ島で」という意味があって、その「詩情に富んだ由来」がダネイの心にずっと刻まれていたのだろうとネヴィンズは書いている。これが著者の想像なのか、ダネイ本人からの言葉なのかは原書ではちょっと判別できない。と思ったら『クイーン談話室(1957年)』に掲載されている事が分かった。この本はエラリー・クイーン名義ではあるがダネイ一人が書いたエッセイだ。雑誌EQMMに掲載されたダネイの小文(リーフ)を集めたもので、性質上エラリー・クイーンの裏話だけではなく、EQMMに掲載された短編に関する書評からミステリ全般にわたる様々な話題が取りあげられている。そこにエラリイ(ellery)の語源に「ハンノキ」が関係している話がそのまま掲載されている。先ほどの探偵名の思いつき(ジェームズ・グリフェンなど)についても掲載されているので、ネヴィンズはかなり『談話室』を参考にして本書を書いている事がわかった。

     『談話室』に記載があることを教えてくれたのは、ネット上での「EQペディア/エラリイ・クイーン事典」だ。そこではアングロサクソン語で「エラリイ」の由来をたどっているので、門外漢には非常にありがたい。どうやら、ハンノキは「深い森や湖、川のそばに立つ」事から神話や民話では「森の王」と呼ばれる樹だったようだ。ドイツ語でハンノキはerleで、低地ドイツ語ではellerと表記する。これがアングロサクソン語に由来する表記のようだ。ここからは電子辞書の受け売りだが、現在はアングロサクソン語を「古英語(Old English)」と呼ぶそうなので、このellerが茂る島がelleryになって現在の英語の人名として残ったのだろう。

     一方「クイーン」を姓にした理由はこう書かれている。
    [原文](INTRODUCTION P.4)
    The choice of Queen for the detective's last name was probably for its sound alone. Dannay and Lee have pointed out in interviews that in their youthful innocence they had had no idea of the word's homosexual connotation.
    [翻訳](プロローグ P.21)
    探偵の姓としてクイーンが選ばれたのは、おそらくただその語感によるものだろう。ダネイとリーは何度かのインタビューで、若いころには何も知らなかったので、その言葉にホモ・セクシャル的な企みがあるなどとは考えもしなかった、と指摘している。
    [私訳]
    一方、探偵の姓をクイーンにしたのは、おそらく単に響きが良いというだけの事だったのだろう。二人はインタビューに答えて、若いときは何も知らず無邪気だったので、クイーンという言葉にホモセクシャルな含みがあるとはまったく気がつかなかったと話している。
     これまたクイーンのファンならば誰もが知っているエピソードだろう。今となっては「なんて迂闊な」という話だが、当時はよほど社会状況に通じていないと、いろいろな事を見過ごしてしまうだろうし、意見してくれる人もなかなかいなかったのだろう。少なくとも1970年代にデビューしたロックバンド「クイーン」とは違っている。クイーンの由来は「女王陛下(Queen)のいる国のバンドだから」というあっけらかんとした理由のようだが、もちろんゲイの含みがある事も承知の上でつけている。さすがに時代が違ってきたという事だろう。それにしても翻訳の「ホモ・セクシャル的な企み」というのは「誰のなんのための企み?」とツッコミたくなる。

     もはや僕らクイーンのファンにとっては常識に過ぎないので、タイトルの「作家兼探偵エラリイ・クイーン」の重要性など改めて考える機会などなかなかない。ゆっくりとネヴィンズの主張を噛み締めておこう。
    [原文](INTRODUCTION P.5)
      Of course the most original feature of the name Ellery Queen is that the cousins decided to use it for their own joint pseudonym as well as for their detective. They knew that casual readers of mystery fiction tend to remember the names of fictional sleuths but not of their creators, and reasoned brilliantly that employing the same name in both functions would make it doubly difficult for readers to forget. No mystery writer had thought of such a simple device before, and it must have contributed significantly to the cousins' success.
    [翻訳](プロローグ P.21)
     いうまでもなく、エラリイ・クイーンという名前のいちばん独創的な点は、従兄弟作家がそれを共同のペンネームとして使うと同時に、探偵の名前にも使ったことである。ミステリの普通の読者は概して物語の中の探偵の名前は覚えるのに著者名は覚えないのを二人は知っていて、両者に同じ名前を使うと読者にとっては二重に忘れにくくなる、という聡明な理由づけをした。こんな単純な方法を考えたミステリ作家はまだいなかったので、これが従兄弟の成功に大きな意味をもったにちがいない。
    [私訳]
     エラリイ・クイーンという名前が何より斬新だったのは、二人が、共同で使うペンネームにしようとしただけでなく、同時に探偵の名前にも使おうとした点にあることは言うまでもない。というのも、ふだんから気軽にミステリを読んでいる人は、作中の探偵の名前は覚えても作家の名前は覚えていないという事がよくある事に二人は気づいていたからだ。それで、両者に同じ名前を用いれば、読者が忘れずに覚えてくれる事も2倍になるだろうという素晴らしい結論にたどり着いた。こんなにも単純な工夫を取り入れようと考えたミステリ作家は、これまでに誰一人いなかったところを見ると、この工夫こそが二人に成功をもたらした大きな要因だったに違いない。
     著者と探偵の名前を同じものにすれば、読者はいちいち2つの名前を覚える必要がなくなる。そのメリットは確かに大きいだろう。ただ、その理由がクイーンの二人が考えていたように「探偵名と比べると著者名は覚えてもらえない」というのは、果たして本当なのだろうか。確かにルパンやホームズや怪人二十面相などの全集を小学校の図書室で読んでいた頃は、著者名ではなく探偵名や怪盗名で探していたし、シリーズ全体もそれで呼び習わしてはいた。でも実は作家名もちゃんと覚えてた気がする。それだけ作品数も多いので著者名を覚えられないという事はなかったからだ。どちらかというと著者名に比して探偵名は覚えにくい気がするのだが。例えば綾辻行人の館シリーズの探偵役の名前が出てこなかったりする。要は、探偵で読むか作者で読むか、あるいはいっそミステリで読むかによって状況は変わるのだろう。クイーンのデビュー当時はミステリではなく探偵小説(名探偵が活躍する小説)だったので、作者はどうでもいいという時代だったということかもしれない。

     いずれにしろ二つの名前を一つにすれば両方とも覚えてくれる可能性は高まる。これは非常に良い思いつきだったが、クイーンの独創とは言い切れない。先例はヴァン・ダインだ。ヴァン・ダインは、作中の名探偵ファイロ・ヴァンスの事件を物語る語り手として、同じ名前のヴァン・ダインを設定した。作中のヴァン・ダインはファイロ・ヴァンスとは大学時代からの友人で、後にヴァンスの財産を管理する法律顧問となり、日々ヴァンスに帯同するようになる。日常の行動を共にすることが多ければ、目の前で繰り広げられるヴァンスの活躍を誰よりも詳しく見て、それをルポルタージュするのにふさわしい人物だという事になる。もっともこれにも先例がある。言うまでもなくシャーロック・ホームズシリーズのワトソンだ。コナン・ドイルが作中に持ち込んだのは、名探偵と助手というペアではなく、名探偵とその友人だった。友人の役割は名探偵の引き立て役であり、記録係である。名探偵と言えども世に知られなければ名声は手に入らない。ワトソンがホームズの天賦の才と活躍の数々を書き記す事によって、ホームズは名探偵と世に喧伝される。この手のこんだ設定を持ち込む事で作者ドイルは、ホームズにある種のリアリティを担保する事ができた。何故なら、実際にはありそうもない小説じみた犯罪であってもそれは語り手ワトソンの脚色なのだろうと思えるし、人間的にはどこか破綻しているホームズの才能を描くことに関しては、非常に人間味があるワトソンの言葉ならば信用できると読者は思うからだ。

     当然ながらヴァン・ダインは、作者と同じ名前をもった人物をヴァンスの友人とする事によって、もう一人のワトソンを作ったつもりだったろう。しかも作者とワトソン役とが同じ名前になった事で、今まさに読者が読んでいる物語が、作中のヴァン・ダインが実際の事件を脚色しつつ書いたものに違いないという、これまたある種のリアリティを担保する事になるはずだった。しかし、残念ながら上手くいったとは言いがたい。何故ならば、作者ヴァン・ダインは作中のヴァン・ダインにリアリティを与えなかったからだ。ドイルの場合はホームズだけでなくワトソンの人となりも十二分に描きだし、性格も生き方もまったく異なる二人の、奇妙だがかけがえのない友情を描いてみせた。ヴァン・ダインの失敗は、作中のヴァン・ダインを魅力ある人物に描けなかった事であり、それはそのまま作家ヴァン・ダインを魅力ある人物に見せられなかった事でもある。つまり作家と登場人物とを一つの名にした事に、なんらの付加価値を生み出す事ができなかった事になる。

     対してエラリイ・クイーンは、作家と探偵とを一つの名前にし、ワトソンを作中に作らなかった。いや、正確にはワトソンをも探偵に統合してしまったのだ。
    [原文](INTRODUCTION P.5)
    Within the Queen novels, the fictional character Ellery Queen is also a writer of detective stories, and these fictions-within-fictions seem themselves (at least some of the time) to center around the exploits of a certain Ellery Queen. One may suspect that Dannay and Lee had read some Pirandello as well as poetry.
    [翻訳](プロローグ P.21)
    クイーンの小説を読むと、登場人物のエラリイ・クイーンも探偵小説作家で、小説中の小説そのものもエラリイ・クイーンという登場人物の活躍を中心に(少なくともしばらくのあいだ)展開するのがわかる。ダネイとリーが詩を読むと同時にイタリアの作家ピランデルロの作品を読んでいたのだと推察する人もいよう。
    [私訳]
     クイーンの小説の中では、作中に登場するエラリイ・クイーンもまた推理小説を書く作家である。この「小説内小説」も、ある意味でエラリイ・クイーンという人物の活躍を中心に据えて書かれている(少なくもある時期までは、だが)。ダネイとリーは詩をよく読んでいただけでなく、(劇中劇を得意とした)ピランデッロの作品も愛読していたのではないかと想像する人もいるかもしれない。
     ヴァン・ダインの影響下にあったデビューしたてのクイーンは、本のタイトルにしても、作者名と登場人物名とを同じにする事にしても、さらにはスノッブでペダンチックな探偵像まで模倣したと言っていい。だが、単なるマネではなく、一つ一つを洗練させていったというところに二人の若者の非凡さが表れている。作家と探偵の名前を一つにするという変更は、それだけをとってみたら「この工夫こそが二人に成功をもたらした大きな要因だったに違いない」とネヴィンズが言うほどの変更ではなかったはずだ。問題は、やはりどれだけ主人公の探偵が描かれているか、その他わきを固める人物が描かれているかであって、そこに作品の成功がかかっている。ドイルほどの手腕がなければホームズとワトソンを書き分ける事は難しい。クイーンは探偵自身に「小説内小説」を書かせる事で、いわばワトソンをリストラしてしまった。この「小説内小説」のアイディアは、ワトソン役を置かない事の帰結として出てきたのか、あるいはアイディアが先にあってワトソンが不要になったのか。そこら辺の事情は分からないが、結果的には、これが功を奏した。

     本書には書かれていないが、「探偵本人に自身が解決した事件を下敷きにしたミステリを書かせる」という設定を導入した事により、大きく二つのメリットが生まれたと思う。一つは、ワトソンを主要人物として絶えず描写するという手間も技術も不要となった事であり、もう一つは、探偵自身が書いたミステリをまさに僕ら読者は読んでいるのだという臨場感が感じられる事である。一つ目の帰結として著者はいかに探偵自身を魅力的に見せるかに注力すればよく、その点についてはホームズやファイロ以上に卓抜な演繹推理能力を発揮する探偵を作者は創造した。そして、探偵兼作家が作中で入れ子構造になっている事から、読者は今読んでいる作品こそが探偵エラリイ・クイーンが書いた小説なのだとワクワクしながら読む事ができる。そして、これがある意味最も重要な帰結だが、作家エラリイ・クイーン自身が作中の探偵と重なって見えてくる。つまり探偵に魅力を感じれば感じるほど、作家クイーン自身の魅力も増していくのだ。これが、何にも増してクイーンの成功の大きな鍵だったのではないかと、僕は思うのだがどうだろうか。

     ちなみに引用個所にPirandello(ピランデッロあるいはピランデロ)という固有名詞が出てくる。マーク・トウェインならば僕にも分かるが、さすがにこの人が何者なのか購入当時も分からなかったし、今も分からない。文脈から作家である事はわかるが。そこで翻訳は「イタリアの作家」と補足情報を加えることで良しとしたようだが、それでは何故この名前を挙げたのかは皆目分からない。手もとの電子辞書によると、日本国語大辞典にも広辞苑にも載るくらい有名な「イタリアの劇作家」であるようだ。ニッポニカで解説を読んでも、そもそも馴染みのない作家なので僕の手に余るが、1920年に劇作家としての地位を確立したのちに、『作者を探す六人の登場人物(1921年)』に始まる劇中劇三部作を上梓し、その画期的な作劇術が、現代の前衛劇や不条理劇に大きな影響を与えた、と書かれている。要するにクイーンは、「小説内小説」のインスピレーションをピランデッロの劇中劇から得たのではないかという指摘のようだ。
    posted by アスラン at 11:00 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) |  書評(エラリー・クイーン) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年07月02日

    フランシス・M・ネヴィンズJr.『エラリイ・クイーンの世界』を散策する(その3)

     懸賞金付きの小説募集に応募して、いったんは内定したにもかかわらず受賞を逃した二人の若者は、南フランスに移住してプロの作家としての生活を始めるという夢をとりあえず棚上げし、今の仕事を続ける事にする。
    [原文](INTRODUCTION P.1)
     In the normal course of events, Frederic Dannay and Man fred B. Lee would probably have remained with their jobs in advertising and publicity.
    [翻訳](プロローグ P.17)
     世の常ならば、フレデリック・ダネイとマンフレッド・B・リーはそのまま宣伝広告の仕事にとどまっていたかもしれない。
    [私訳]
     事の成り行きからすれば当然、フレデリック・ダネイとマンフレッド・B・リーは宣伝と広告という互いの仕事をおそらくは続けていた事だろう。
     ダネイは当時広告代理店で働き、リーは映画会社で宣伝の文章を書く仕事についていたようだ。そんな仕事の合間に二人が書きあげたミステリが受賞を逃した。だから「世の常ならば」ではなく「成り行きからすれば当然」となるところだろう。もし、このまま作家になっていなかったらという著者の想像は、このように締めくくられる。
    [原文](INTRODUCTION P.1)
    Dannay after all, with his poetic ambitions, might have penned some catchy jingles on the merits of this or that deodorant.
    [翻訳](プロローグ P.18)
    いずれにしても、詩人になりたいという夢を持っていたダネイなら、あれやこれやの脱臭剤の効用をうたいこんだ、人の心を捉えるようなコピーを書いていたかもしれない。
    [私訳]
    何と言ってもダネイは、常々、詩を書きたいと思い続けてきた故に、あの消臭剤はどこが良くて、この消臭剤はどこが素晴らしいなどと、魅力的なキャッチコピーを幾つも書いてきたかもしれない。
     INTRODUCTIONの特徴として、話をざっとまとめる傾向にある。しかも英語なので名詞句を基本として圧縮した表現になる。それをそのまま置き換えると、述部を基本とした日本語表現の核となる部分が失われる。「あれやこれやの効用をうたいこんだ」と書くと、すべての脱臭剤の効用を一つのコピー(jingle)にまとめたかのように読めてしまう。要は「人の心を捉える」「魅力的な」コピーをいくつも書いてきたはずだと言いたいのだ。

    [原文](INTRODUCTION P.2)
     Fortunately for tens of millions of readers, the normal course of events did not come about. Even though the cousins' novel was no longer the prizewinner, Stokes decided to publish it anyway. It was called The Roman Hat Mystery, and both its spine and its sleuth bore the same name: Ellery Queen.
    [翻訳](プロローグ P.18)
     何百万という読者にとって幸いだったのは、成行きが世の常とは違っていたことだ。従兄弟作家の小説はもはや受賞作品とは言えなかったが、ストークスは何はともあれと出版に踏み切った。題名は『ローマ帽子の秘密』で、表紙の背に書かれた著者名と探偵の名前とが同じだった。つまり、エラリー・クイーンである。
    [私訳]
     何千万ものクイーンの愛読者にとってありがたいことに、事の成り行きどおりにはならなかった。というのも、二人の書いた小説はすでに受賞作ではないにしてもストークス社は出版を決定したからだ。小説は『ローマ帽子の秘密』と名づけられ、"表紙の背に記される名前”と作中の探偵の名前には同じものが使われた。すなわちエラリー・クイーンである。
     最盛期にクイーンの愛読者がどれくらいいたのかを示す重要なフレーズなのに、一桁も減らしてしまうなんて絶対に許されない事だろう。the cousinsを馬鹿の一つ覚えのように「従兄弟作家」と訳すのもどうかと思うが、とにもかくにも、ここに探偵兼作家のエラリー・クイーンが誕生したわけだ。前回は《マクルーア》誌から経営を引き継いだ《ニュー・スマート・セット》誌が、女性のための誌面に掲載したいと思う小説に賞を与えたという事情を見てきた。ではストークス社の事情はどうだったのだろう。

     《マクルーア》誌同様、Wikipediaでストークス社について調べてみたのだが、大した事は分からなかった。フレデリック・アボット・ストークスという人はイェール大学のロースクール(法学大学院)を修了した後、1981年に前身となるホワイト・アンド・ストークス社を設立し、1890年にフレデリック・A・ストークス社になった。ストークス自身は1939年に82歳で亡くなり、後を息子に託したが、1943年にはJ・B・リッピンコット社に売却されている。リッピンコット社の社史にはストークス社の言及がなかったので合併吸収された事になるようだ。クイーンの作品リストを見ると、ストークスが亡くなった1939年に『ドラゴンの歯』が出版されているが、次の長編『災厄の日』は1942年にリトル・ブラウン社から出版されている。つまり、すでにストークス社は売却前の事業整理に入っていたという事だろう。

     例の懸賞金付き小説募集は《マクルーア》誌とストークス社との協賛だったが、《マクルーア》誌は雑誌に掲載するだけで、ストークス社が本の出版を受け持っていた。ネヴィンズの『エラリー・クイーン 推理の芸術』には、内定取り消しの後もストークス社は若き二人が書いた小説を気に入って出版したがっていた事が書かれている。もしかするとクイーンの作品の内定にはストークス社の意向が大きく反映していたのかもしれない。一人当たり200ドルの前払い金を出すから出版しないかと持ちかけてきたので「新たな受賞作よりも先に出版してほしい」と要望した上で、二人は出版に同意する。先に出すことの意味が『推理の芸術』には書かれていないが、7500ドルという賞金に比してあまりに少ない額で交渉してきた相手への意地だったのか、それとも口約束だけで終わらせないための駆け引きだったのか。もしかすると受賞作の売れ行き次第では、後手に回る事で自分たちの作品が評価されないかもしれないと考えての事だったか。いずれにしても受賞作より2ヶ月くらい先に出版されたようだ。「惜しくも受賞を逃した作品」くらいの宣伝はしたのだろうか。後に「おい、受賞作よりもこっちの方がイケてるぜ」みたいな感想が今ならSNSで飛び交うところだろうが、当時の雰囲気を伝えるものは何も残ってないのだろうな。

     INTRODUCTIONでは、これから作家エラリー・クイーンとして活躍する従兄弟二人はいかなる人物だったのかを説明する文が続く。
    [原文](INTRODUCTION P.2)
     What were these two young men like who were about to launch the most successful collaboration in the history of prose fiction? Both were born in 1905, nine monthes and five blocks apart, of immigrant Jewish stock, in a crowded Brooklyn tenement district. Dannay, the younger of the two, was born Daniel Nathan, and Lee's name at birth was Manford Lepofsky.
    [翻訳](プロローグ P.18)
     散文小説の歴史でもっとも成功を収めた共同制作を始めようとしていたころの二人は、どんな青年だったのだろうか? 二人とも一九〇五年に九ヵ月違いで、五ブロックしか離れていないところでユダヤ人移民の子として生まれた。場所は人口の密集したブルックリンの賃貸住宅地区である。若いほうのダネイは生まれたときはダニエル・ネイサンという名前で、リーの生まれたときの名前はマンフォード・レポフスキーだった。
    [私訳]
     この二人の若者が始めようとしている共同制作は、小説の歴史を顧みても史上最大の成功を収める事になるのだが、いったい彼らは何者だったのだろうか? 二人はいずれも1905年生まれで、誕生日はたったの九ヶ月、住まいもたったの5ブロックしか違わない。ユダヤ人移民の家系で、ブルックリンの共同住宅がある地区で生まれた。ダネイの方が年下で、出生時はダニエル・ネイサンと名づけられた。対するリーの出生時の名前はマンフォード・レポフスキーだった。
     「散文小説」という「馬から落馬した」的な表現で翻訳は始めているが、小説というジャンル自体が「散文によるフィクション(prose fiction)」のはずなので「小説」で充分。次の文で、二人の従兄弟は生まれも育ちも非常に似通っている事が強調されている。二人とも「1905年生まれ」というだけでなく、nine monthes and five blocks apartのようにapartが二つの副詞的名詞句を修飾しているのに「(翻訳)二人とも一九〇五年に九ヵ月違いで、五ブロックしか離れていないところで」と書いてしまうと、せっかくの強調が薄れてしまうので「(私訳)二人はいずれも1905年生まれで、誕生日はたったの九ヶ月、住まいもたったの5ブロックしか違わない。」とした。

     出生時に親がつけた名前が気に入らず、二人とも早々に別の名前を自分で考えている。日本は戸籍上の名前が一生ついて回る社会なので、なかなか想像しにくいところがあるが、逆にこの改名の部分は日本人の僕にとっては興味深い文章でもあった。ただ、改めて思い出すと、自分の母親も姉妹や弟から別の名前で呼ばれていて「自分の母の名前は○○なのに、なんで××とか××ちゃんって呼ばれてるの?」と不思議に思った記憶がある。母に聞くと、母の母(祖母)が占いの先生に見てもらったら字画が悪いので改名した方がいいと言われたらしい。改名は出来ないからせめて家族間での呼び名を決めたようだ。まあ、一種のあだ名だろうが、昔の方がその点おおらかだったのかもしれない。
    ダニエル・ネイサン⇒フレデリック・ダネイ
    マンフォード・レポフスキー⇒マンフレッド・リー
     二人の名前はこのように変わった。ダネイの元の名前については、昔からのファンであれば馴染みがある。クイーンが本国で発行していた《エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン》略してEQMMを、日本でも定期刊行していた時期があり、光文社がEQという誌名で発行していた。それにダネイが自らの少年時代を描いた『ゴールデン・サマー』が連載されていて、著者名にはダニエル・ネイサンと書かれていた。リーがかかわっていない事を明示するために出生時の名前を使ったのだろう。他にも意味があるようだが、それは後で改めて検討しよう。いずれにしろ、生まれた時の名前はどちらも移民らしさが残っている。ユダヤ系の名前がどういうものなのかは僕には分からないが、少なくともレポフスキーというのはヨーロッパ風に感じるし、ネイサンというのは少し垢抜けない感じがする。フレデリックはダネイが好きなショパンからいただいたそうだ。ダネイの方はダニエルの最初の音素だけを残して別の音素と組み合わせたらしい。リーは、日本人の僕でも感じるような民族的な特徴を消して単にリーだけ残した。名前の方のごく控えめな変更については、リー本人から理由が明かされる事はなかったようだが、ネヴィンズはこんな事を書いている。
    [原文](INTRODUCTION P.2)
    and although he never publicly explained the reason for his slight alteration of his first name, it may not be insignificant in veiw of his lifelong belief in nonviolence that etymologically Manfred means man of peace.
    [翻訳](プロローグ P.18)
    名のほうを少し変えた理由は一度も他人に説明したことがない。彼が生涯にわたって非暴力の信念を持ち続けていた点から考えれば、マンフレッドが語源的に”平和の人”という意味を持っているのもあながち無意味ではあるまい。
    [私訳]
    名前に少しだけ手を加えた理由についてリーは公にしてはいないが、語源的にはマンフレッドが"平和を希求する人"という意味に相当するという事は、彼が生涯を通して非暴力主義を貫いたという観点から見れば、決して些細な事とは言えないだろう。
     翻訳は頭にスッと入ってこないように感じる。それを説明するのはちょっと難しいのだが、いわゆる題目(Topic)へのピントが甘いからだと思う。マンフォードをマンフレッドにちょっとだけ変えた理由が明らかになっていないという文から、話は「ちょっとだけ変えたマンフレッドとは何か」という話題に移る。ところが翻訳は(後ろから前に)訳し上げる都合から「彼が非暴力主義を貫いた」というエピソードを文脈をへったくれもなく話し出してから、ようやくマンフレッドの語源に話に戻し、さらに「平和の人という意味を持っているのもあながち無意味ではあるまい」と結論めいた事を言っている。だが、何故「は」ではなくて「も」なのかもよく分からないし、「は」に変えたところで題目の「は」が出るタイミングが遅すぎる。さらに「あながち無意味ではあるまい」という言い方は原文の仄めかしをさらに曖昧にしすぎではないか。ここは「マンフォードをマンフレッド(平和の人)に変える」事にはリーなりの意図があったはずで、決して「些細な変更」ではないと言いたいわけだ。

     続いてリーがどのような環境で育っていったかが語られるのだが、細かい部分で間違いが多い。
    [原文](INTRODUCTION P.)
     Lee's family stayed in Brooklyn and Lee grew up in what he called a typical sidewalks-of-New-York atmosphere, but it was a far more brutal atmosphere than the allusion to the old ballad suggests and Lee early in life performed an "inner emigration," turning to books as a refuge from the battleground of the streets. Many years later he said that he has known he was going to be a writer from the time he was eight. His ambition while attending Boys High School and New York University (where he led a five-piece jazz band as a student) was to be "the Shakespeare of the twentieth century."
    [翻訳](プロローグ P.)
     リーの家族はその後もブルックリンに住み、リーはそこで大きくなった。彼はその環境を典型的なニューヨークの歩道と称しているが、古い歌謡曲(バラッド)から想像してみるのとは段違いに、はるかに非人間的な環境だった。そのために、育ちざかりのリーは、"精神的移住"を実行、読書に傾倒して街路という職場からの避難民となった。後年彼は、自分が作家になるのを八歳のときから知っていたと言っている。男子高校(ボーイズ・ハイスクール)やニューヨーク大学(ここでは五人組ジャズ・バンドの学生リーダーをつとめている)時代の彼の夢は"二十世紀のシェークスピア"になることだった。
    [私訳]
     リー一家はブルックリンに住み続け、リーが言うにはいかにも"ニューヨークの歩道"らしい環境で育った。しかし、一昔前の同名の流行歌にさりげなく歌われた様子とは違って、現実ははるかに荒れた環境だった。だからリーは早い段階で「心的移住」を決め込み、あたかも街という戦場から避難するかのように読書に専念するようになった。後年、自分は8歳の頃には作家になることが分かっていたと公言している。リーはボーイズ・ハイスクールとニューヨーク大学に通い(大学では5人編成のジャズバンドのリーダーになった)、その時期は「二十世紀のシェークスピア」になる事を夢見ていた。
     最初の文のa typical sidewalks-of-New-York atmosphereは「(翻訳)典型的なニューヨークの歩道」と訳されているけれど、ここには一つの仕掛けがある。リーにとっての「典型的なニューヨークの歩道」と、(アメリカの)世間の「典型的なニューヨークの歩道」とではズレがあるのだ。1890年代に「The Sidewalks of New York」という歌が大流行したらしい。作詞者は自らの貧しかった子供時代を美化し、ノスタルジックに当時のニューヨークを描いたので、ある意味理想的なニューヨークの暮らしが描かれていた。だからこそ後半の展開になるのだが、日本では僕のようにその流行歌の存在を知らない人が多いだろうから、「昔の歌謡曲から想像してみる」では何の事か分からない。the old balladなのだから「あの昔の流行歌」をもうちょっと噛み砕いて「一昔前の同名の流行歌」のように訳して欲しいところだ。

     現実は「荒れた環境」だったので、リー自身は本の中に逃げ込んだ。そのレトリックとしてturning to books as a refuge from the battleground of the streetsと書かれているのだが、何故か「(翻訳)読書に傾倒して街路という職場からの避難民となった」と訳している。「職場」って何?まだ8歳そこそこの少年なのに? Boys High Schoolを「男子高校(ボーイズ・ハイスクール)」と訳しているのも噴飯ものだ。ちなみに括弧内のカタカナは本書ではルビとして振られている。だから大文字を使って固有名詞である事を明記してあるにもかかわらず、一般名詞扱いしているのだ。リーダーズ英和辞典には「New York市Brooklyn北部…にある学校」と記載されている。「1891年に建てられた堂々としたロマネスク復興様式の建物で、卒業生に数多くの著名人がいる」と解説が続く。ここに「Ellery Queenもその一人である」と追記されていたら嬉しいのだが、それは僕の妄想だ。

     さきほど二人ともブルックリンの5ブロックも離れていない共同住宅に住んでいたという話をしたが、ダネイ一家は生まれてまもなくエルマイラという都市に引っ越している。googleマップで調べると同じニューヨーク州といってもブルックリンとは500km以上は離れている。ダネイの少年時代はまさにトム・ソーヤーやハックルベリー・フィンそのものと言っていいとまで書かれていて、野山をかけまわって遊んでいたようだ。この時期のエピソードは、ダネイが書いた『ゴールデン・サマー』を検討する際に再考する事になるだろう。それよりも12歳になって再びニューヨーク市に戻ってきた時のエピソードが非常に印象的で、ファンならば忘れる事ができない。
    [原文](INTRODUCTION P.)
     In 1917 the Nathan family returned to New York City and it was in the winter of that year, while tweleve-year-old Danny was in bed suffering from an abscess of the left ear, that an aunt walked into the sickroom and handed him a book she had borrowed from the neighborhood library, thereby giving him his first introduction to the literature of crime. The volume was Conan Doyle's Adventures of Sherlock Holmes and it so fired the boy's imagination that next moring he stole out of the house, wangled a library card, and stripped the shelves of all the Holmes books he could lay his hands on . That was the beginning, and when Dannay retells the story today in reflective twilight, the encounter with the Master still seems almost a religious experience.
    [翻訳](プロローグ P.)
     一九一七年、ネイサン一家はニューヨーク市にもどる。その年の冬、十二歳のダネイが左の耳に膿瘍を患って寝ているときに、叔母が彼の病床に見舞いに来て公共図書館から借りた本を彼に差しだした。これが彼にとっては最初の犯罪文学入門になった。本はコナン・ドイルの『シャーロック・ホームズの冒険』で、これが少年の想像力をかきたてた。翌朝、少年は家を抜けだして図書館利用券をうまく手に入れ、ホームズの本を目につくかぎり全部借り出して本棚を空にしてしまった。これがそもそもの始まりだった。今日ダネイがこのころの回想にふけりながらその最初に読んだ本の話をするときには、”師匠”との出会いがいまだに一つの宗教的経験に近いものであったように思われる。
    [私訳]
     1917年にダネイ一家はニューヨーク市に戻ってきた。その年の冬、12歳になったダネイが左耳にできた膿瘍のせいで伏せっていた時の事だ。見舞いに来た叔母がダネイの枕元に来ると、一冊の本を手渡した。それは近くの図書館で借りてきてくれた本で、これがきっかけとなって、ダネイは犯罪を題材にした小説を読むようになる。その本とはコナン・ドイル著『シャーロック・ホームズの冒険』だ。読後、ダネイ少年の想像力は否応なくかき立てられたが故に、次の日の朝、こっそりと家を抜けだし、なんとかして利用者証を手に入れ、ホームズの本を手当たり次第に借りて、棚のいくつかを空にしてしまった。それこそが始まりだった。ダネイが後年なってぼんやりと過去をふり返りながらこの話を繰り返す度に、”あの作品"との出会いがダネイにとっては宗教的体験にも等しいものであったのだと、今さらながら思えるのだ。
     膿瘍(のうよう)というのは耳慣れない言葉だが、要するに「耳(の中)が化膿して膿んだ状態」の事だ。これで自宅で寝込んでいると、たぶん近所に住む叔母が暇つぶしになるだろうと近所の図書館から本を借りてきてくれた。
    (原),thereby giving him his first introduction to the literature of crime.
    (翻)これが彼にとっては最初の犯罪文学入門になった。
    (私)これがきっかけとなって、ダネイは犯罪を題材にした小説を読むようになる。
     たぶんミステリ好きを自認する人たちは誰でも、きっかけとなる小説を心にとどめてると思うのだが、どうだろうか。僕だったらおそらく「赤毛連盟」か「まだらの紐」あるいは「ルパン対ホームズ」だったような気がする。後年になって、それが「最初の犯罪文学入門」だったなんて絶対に言わないだろう。そもそも「最初の入門」ってどういう意味?

     ところで、この段落に書かれたエピソードを、僕は違うバージョンで読んだ気がするのだ。ホームズの本を知って感動して図書館に行くというくだりは全く同じだが、棚に読み切れないほどたくさん並んでいるのを期待して行ったら、あまりに少ないのでガッカリしたという話だったと記憶している。本書の全体を見渡しても、そのような記述は見当たらない。『ゴールデン・サマー』に出てくるエピソードかと思ったら、すでに主人公の少年ダニーはホームズ物を読んでいて、知り合いから新作の『恐怖の谷』を借りて読むというエピソードが盛りこまれているので、どうやらこちらも違うようだ。いったい、僕はどこで図書館の話を知ったのだろう?僕の妄想か? 
    (原)next moring he stole out of the house, wangled a library card, and stripped the shelves of all the Holmes books he could lay his hands on .
    (翻)翌朝、少年は家を抜けだして図書館利用券をうまく手に入れ、ホームズの本を目につくかぎり全部借り出して本棚を空にしてしまった。
    (私)次の日の朝、こっそりと家を抜けだし、なんとかして利用者証を手に入れ、ホームズの本を手当たり次第に借りて、棚のいくつかを空にしてしまった。
     いったい、このとき、棚には何冊の本があったのだろうか。1917年には、まだコナン・ドイルは存命で、ホームズ・シリーズも完結してはいない。長編の『緋色の研究』『四つの署名』『 バスカヴィル家の犬』は確実にあったろう。『恐怖の谷』は1914年からニューヨーク・トリビューン日曜版で連載が開始されている。本国イギリスでは1915年に初版発行だが、アメリカではどうだったか。ほぼ同時期に出版されていたら、ギリギリ間に合って棚に置かれてたかもしれない。短編集は『シャーロック・ホームズの冒険』『思い出』『帰還』までは棚にあっただろうが、『最後の挨拶』はイギリス・アメリカともに1917年に初版発行なので、このエピソードには間に合わない。となると6、7冊といったところだろうか。日本だと、最も読まれたであろう新潮文庫でも高々10冊なのでそれこそ大した事はないが、アメリカの大判の装丁本を6〜7冊抱えるとなると、おおごとだっただろう。
    (原)and when Dannay retells the story today in reflective twilight, the encounter with the Master still seems almost a religious experience.
    (翻)今日ダネイがこのころの回想にふけりながらその最初に読んだ本の話をするときには、”師匠”との出会いがいまだに一つの宗教的経験に近いものであったように思われる。
    (私)ダネイが後年なってぼんやりと過去をふり返りながらこの話を繰り返す度に、”あの名作"との出会いがダネイにとっては宗教的体験にも等しいものであったのだと、今さらながら思えるのだ。
     ポイントはthe Masterだ。翻訳では「師匠」と訳していて、まるで落語家か棋士のような言い方だ。この場合「師匠」と言うと、著者ドイルを指すか、あるいは探偵としてのホームズを指す事になる。確かに作家クイーンにとってドイルもホームズも特別な存在(マエストロ)である事は間違いない(そもそも本格ミステリファンの多くにとってもそうだろう)。ただ、ここでは少年であるダネイと一冊の本との出会いについて言ってるように感じられる。だとすると「あの名作」とした方がよいのではないだろうか。

     ダネイとミステリとの出会いは分かったが、「二十世紀のシェークスピア」を夢見ていたリーがどのようにミステリに関心をもったのかは、本書では描かれていない。ネヴィンズの『推理の芸術』では、リーとダネイがボーイズ・ハイスクールに一緒に通っていた時期に、ミステリを自分たちで書こうとしてアイディアを出し合ったという文章が追加されている。ハッキリとは書かれていないが、おそらくダネイのミステリ好きがリーにも影響したのだろう。後年のEQMMがダネイ一人の仕事だったことを考えると、リーは小説家になりたかったのでジャンルにはこだわらなかったのかもしれない。
    posted by アスラン at 09:10 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) |  書評(エラリー・クイーン) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年06月19日

    フランシス・M・ネヴィンズJr.『エラリイ・クイーンの世界』を散策する(その2)

     『エラリイ・クイーンの世界』は次のように始まる。
    [原文](INTRODUCTION P.1)
    ONE DAY IN THE FALL OF 1928 TWO YOUNG NEW YORKERS, first cousins, decided to write a detective novel. The occasion was a newly announced $7500 prize contest, sponsored jointly by McClure's Magazine and the publishing house of Frederick A. Stokes. The work consumed the young men's nights and weekends for about three months, then mailed in the manuscript and awaited the verdict. Eventually they received unofficial word that they had won the prize. They bought each other Dunhill pipes in celebration and made plans to quit their jobs and settle down to the literary life in the south of France.
    [翻訳](プロローグ P.17)
     一九二八年秋のある日、従兄弟同士の若いニューヨークっ子が二人で探偵小説を書こうと思いたった。事の発端は《マクルア》誌とフレデリック・A・ストークスの出版社が協賛して、七千五百ドルの懸賞がかかった小説を募集するという発表があったからだ。若い二人は約三ヵ月間、夜の時間と週末を費して小説を書きあげ、原稿を送って裁決を待った。やがて非公式ながら、賞金獲得の知らせが届いた。二人はおたがいにダンヒルのパイプを買って祝いあい、仕事をやめて南フランスで文筆生活にはいる計画を立てていた。
     エラリイ・クイーンの愛読者ならば、かつては誰もが知っていた逸話だ。この後、やがて検討する事になるであろうウィラード・ハンティントン・ライトなる人物と比べれば、ある意味、普通に見えてしまうエピソードだが、それゆえ、堅実に実直にみずからの才能を開花させていったという好ましいイメージが、彼らには終生続いたような気がする。

     一見違和感のない翻訳だが、ここに僕の私訳を添える。「私訳」ととりあえず言っておくが、専門家でもないので、あくまで個人的な理解をまとめた訳文だと思って欲しい。当然ながら個人的理解の方に誤りがある場合もあるので、完全に信頼がおける文とは思わないでほしいが、利点としては、翻訳と比較した上で自らの私訳を推敲しているので、より判りやすく書けている部分があると思う。後出しジャンケンのようなものなので、決して私訳の方が出来がいいなどとうぬぼれてはいない。もう一つ利点を挙げると、愛読者故にクイーンの作品のストーリーに沿った内容については、翻訳者よりも正しい判断ができているように思う。プロローグでは目立たないが、第1章になると、かなりの頻度で翻訳にとんちんかんな記述が目立ってくる。先回りして言っておくと、どうやらこの部分の担当者は、クイーンの著作(少なくとも該当する作品)を調べるなどの手間をかけていないようだ。

    [私訳]
    1928年秋のある日のこと、ニューヨーカーにして従兄弟どうしの二人の若者が、推理小説を書くことにした。きっかけは、その少し前に7500ドルの賞金がもらえる小説の募集が発表された事だった。この賞は《マクルーア》誌と、フレデリック・A・ストークスが経営する出版社とがスポンサーになっていた。二人は三か月もの間、平日の夜と週末とを費やして小説を書きあげ、原稿を郵送し、あとは審判が下るのを待った。待ちわびた甲斐もあり、非公式ではあるが受賞したという連絡を受け取った。二人はダンヒルのパイプを購入して互いに贈り合い、受賞を祝った。そして、二人で仕事を辞めて南フランスでじっくりと執筆活動に専念しようと計画した。
     さすがに冒頭から誤訳があるわけないが、日本語として気になる点はある。受賞の連絡を受けて「(訳)二人はおたがいにダンヒルのパイプを買って祝いあい」とあるが、これで相手にパイプを贈ったと伝わるだろうか。「祝い合う」のではなく「贈り合う」にしないと伝わらないので「(私)二人はダンヒルのパイプを購入して互いに贈り合い、受賞を祝った。」とした。

     この段落で気になるのは懸賞(賞金)が付いた小説の募集についてだ。7500ドルというと当時はどの程度の額だったのだろう。ネットで調べると1929年当時は「標準的世帯で基本的な生活を維持するには年間2000ドルが必要」だとされたようなので、7500ドルというのは相当魅力的な高額賞金だったようだ。ただ、もちろん、この若き青年二人にとっては賞金は二の次だったはずだ。始めからプロの作家を目指すきっかけを探していたのだから。
    [原文](INTRODUCTION P.1)
     Then McClure's Magazine went bankrupt and its successor awarded the prize to someone else[1].
    [翻訳](プロローグ P.17)
     ところが、《マクルア》の雑誌社が破産して代が変ったために、賞金はほかの人のところ(原註1)に行ってしまった。
    [私訳]
     ところが、その後、《マクルーア》誌は経営が破綻したため、事業を引き継いだ会社は別の応募者に賞をあげてしまった(原註1)。
     せっかくパイプまで買って、しかも南フランスに移住するという夢の軍資金になるはずだった賞金も逃してしまったことになる。それにしても《マクルーア》誌とはどんな雑誌だったのだろうか。《マクルーア》は大学の同級生だったS・S・マクルーアら二人が1893年(明治26年)に立ち上げた雑誌社で、主に政治と文学に関する内容を得意としていた。日本だと菊池寛が立ち上げた文藝春秋が近いかもしれない。ただし、いろいろあって1911年にはマクルーアは経営権を失い、債権者により女性誌として再出発したようだ。その後、休刊と再刊を繰り返し、1928年7月〜1929年3月にはNew McClure's Magazineという名前に変わった。ちょうど懸賞付きの小説を募集した時期と重なる。秋に募集がかかり、二人の若者が三か月かけて取り組んで小説を書きあげて応募。その後受賞が内定したのが冬の終わりの2月ごろだったのだろうか。

     1929年3月号を最終刊として経営破綻した《マクルーア》誌は《スマート・セット》誌と合併する。《スマート・セット》誌とは、南北戦争の退役軍人でその後事業で資産を築いたウィリアム・ダルトン・マン大佐が、後年になって新聞や雑誌の出版事業に乗り出した際の雑誌の一つだった。先に発刊した《タウン・トピックス》誌は、ニューヨーク市の富裕層たちのゴシップを暴き立てる雑誌で、後に恐喝まがいの行為でマン自身が訴えられる事になる。《スマート・セット》は名前の通り(smart setは上流階級の意味)、上流階級向けに創刊された月刊文芸誌で、1920年代のいわゆるジャズ・エイジにはかなりの購読者を集めたようだ。

     何故にここまで《スマート・セット》誌について詳しく言及するのか(というかWikipediaの受け売りにすぎないが)と言えば、この雑誌の歴史のほんの一時期に、あのウィラード・ハンティントン・ライトが登場するからだ。《スマート・セット》誌はオーナーであるマンが恐喝罪で訴えられた時期に経営が悪化し、マンは雑誌を手放す。1911年に事業を引き継いだジョン・アダムス・セアは、既存の社会に不満を抱える若い読者が増えてきたのに対応するために、1913年にライトに編集を任せた。ライトは、従来のスタイルにとらわれない新しい世代の作家を次々に登用し、実験的・前衛的な誌面に大きく変えていった。このライトの舵取りが影響して読者数が大幅に落ち込んだ結果、ライトはたった1年で解雇される。そのほぼ十年後に出版した『絵画はどうなる(1923年)』という美術評論を最後に、ライトの美術評論家としての悪戦苦闘はピリオドを打つ。再登場は、第1章まで待たねばならない。

     その《スマート・セット》誌は、その後紆余曲折あってヘンリー・ルイス・メンケンとジョージ・ジーン・ネイサンという二人の共同編集者によって黄金時代を築く事になる。ここらへんの話はアメリカの文学史、出版史としては大きな意味をもつ部分だろうが、僕の関心事ではないので割愛する。その後、評論家でもあったメンケンとネイサンの二人は、ハーディング大統領の死を風刺した記事を掲載しようと画策した事がオーナーの怒りを買い、1924年に退社。その後の《スマート・セット》誌は、アメリカの新聞王とも称されるウィリアム・ランドルフ・ハーストがオーナーになり、メンケン・ネイサン時代、さらにはライト時代以前の誌面作りに戻す事で、さらに読者を獲得する事になる。1929年になり、ハーストは《マクルーア》誌を買収し、《ニュー・スマート・セット》誌を発刊する。この時、雑誌に付けられた副題が「若き女性のための雑誌」であった。すでに《マクルーア》誌が女性誌に誌面を変えていたから、女性向けの編集方針を促進するために買収したと言えるだろう。

     今回いろいろと調べていて、"二人の若者"が書いた作品の受賞が内定した時期に、すでに《マクルーア》誌が女性誌であったという点に正直驚いた。つまり、後に『ローマ帽子の秘密』として出版される事になるミステリが、女性誌に掲載するにふさわしいという判断がなされた事になる。ミステリの質という意味では、まさに慧眼だったわけだが、「女性向け」という意味では問題を抱えていた事になる。買収後の《ニュー・スマート・セット》誌はマーガレット・サングスターという女性が編集を任された。その意味では、副題の「若き女性のため」になる小説に賞を与えようと、待ったをかけたのかもしれない。
    [原文](INTRODUCTION P.1)
    1.The someone else was named Isabel Briggs Myers, and she seems to have abandoned the genre after two novels.
    [翻訳](プロローグ P.17)
    原註1 受賞したのはイザベル・ブリッグス・マイヤーズ。彼女は二作を残しただけで、探偵小説作家としては見限られてしまったと思われる。
    [私訳]
    (原註1)「別の応募者」とはイザベル・ブリッグス・マイヤーズという人物だった。彼女は2冊の小説を出版したが、その後ミステリというジャンルからは手を引いてしまったようだ。
     (原註1)に受賞した人物の名前が紹介されている。ちなみに、この人物(女性だ)は2冊のミステリを残してフィクション作家の道を「見限ってしまった」のであって「見限られてしまった」のではない。

     このイザベル・ブリッグス・マイヤーズが受賞した小説は『殺人者はまだ来ない』で、1929年8月〜1930年1月にかけて『ニュー・スマート・セット』に掲載され、その後フレデリック・A・ストークス社から単行本として出版されている。受賞時の契約では2作目の出版についても含まれていたようで、『疑惑の銃声』として1934年に出版された。日本版Wikipediaでは「相当の人種的偏見が見られ、白人至上主義者であったと考えられている」との記述がある。どうやら『疑惑の銃声』の内容に差別的な要素を盛りこんだようで、出版当時かなり厳しい批判にさらされたようだ。この2作目はともかく、受賞をさらっていった第一作についてはちょっと読んでみたい気がする。なんとミステリ作家の山村美紗さんが翻訳している。

     マイヤーズの事を調べた結果、貴重な記述に行き当たった。Wikipedia(en)には賞金の7500ドルが「2023年現在の133000ドルに相当する」との記述があった。2024年6月現在で1ドル=157.77円なので、なんと2098万円だ。受賞の内定を受けた若者二人は、さぞかし高級なパイプを買って贈り合ってしまったのではないだろうか。実際の受賞発表と賞金授与がどの時点で行われたかの記述が見当たらないが、1929年の春ごろだろう。メイヤーズの受賞作が雑誌に掲載された直後の1929年秋に「ウォール街大暴落」が発生し、以後アメリカならびに世界中が長期にわたる不況に苦しむ事になる。《ニュー・スマート・セット》は1930年6月に廃刊に追い込まれた。
    posted by アスラン at 03:10 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) |  書評(エラリー・クイーン) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年06月11日

    フランシス・M・ネヴィンズJr.『エラリイ・クイーンの世界』を散策する(その1)

     手もとに一冊の本がある。奥付を見ると「1980年4月15日初版発行」と書かれているから、ちょうど浪人が決まってお茶の水の予備校に通いだした頃だろう。前年は年も押し詰まるまで病院で悶々とした日々を送っていたのだから、当然受かるとは思っていなかったが、いざ浪人すると決まった時は、それなりにショックだった。病名も分からず、直ったとは言いがたい状況で退院し、爆弾をかかえたまま、よちよち歩きの状態からなんとか一歩一歩前向きに考えるようになり、そうして新年度を迎えた。おそらくその時期から、僕には「前途洋々」などという言葉とは無縁の人生が待ちかまえているのだろうという、それこそ「ぼんやりとした不安」が絶えずまとわりついていった。

     だから正直言って、この本をどの時点で買い求め、どの程度読み込んだかは全く記憶にない。おそらくお茶の水、神保町はさんざん渉猟したので、出版されてすぐに買ったはずだ。早川書房から1500円で売られていた。当時の文庫が350〜400円程度だったので、やはり相当に高いという印象だ。中学の頃から文庫を買う事をおぼえて、この時期までに単行本を新刊で買ったほぼ唯一の本ではないだろうか。本を、金に糸目をつけずに買うようになったのは大学生になってからだ。親のすねかじりから少しは脱却しようと育英会の奨学金をもらったが、教科書や専門書をのぞくと、ほとんどが個人的な趣味の本に化けてしまったような気がする。もちろん、この"借金"は社会人になって完済したけれど。

     どの程度読み込んだかについては、今回読み直してみて、それなりに愛読していた感触があった。エピソードの一つ一つが頭の中に刷り込まれている。とは言っても、クイーンの話題ならば逐次雑誌などでウォッチしていたから、ネヴィンズの本から引用した文章にもたびたび遭遇していた可能性はある。なので必ずしも愛読していた証拠にはならないかもしれない。例えば「バールストン先行法(バールストン・ギャンビット)」などはクイーンファンの間では大流行した用語なので、それこそ一次史料を読んでなくても当時は知ってて当たり前だった(気がする)。よくよく考えてみれば、僕は高校生の時にすでにエラリー・クイーンの聖典をあらかた読み尽くしていた。その上でお気に入りの作品は何度も繰り返し読んでいた。そういう意味ではネタバレを気にすることなく、この評論を読めたとも言えるが、当時の僕にとって評論よりも実作を再読する方が楽しかったに違いない。それに、おそらくは何度も繰り返し読みたくなるような文章ではなかったはずだ。

     今でこそフランシス・M・ネヴィンズ(父親が亡くなるとJr.が取れてしまうらしい)には、1974年(米国での出版年)の本作を発展的に全面改稿した『エラリー・クイーン 推理の芸術』があるが、新たな事実や詳細な資料に基づいて深掘りした事で、かえって前著のようにシンプルで分かりやすい内容ではなくなっている。だから「今こそ再読しよう」と、もう何年も前から考えていたが、なかなか機会がなかった。実は再読するにあたっては下心があった。『エラリイ・クイーンの世界』には翻訳に難があるという定評があり、『推理の芸術』を翻訳した飯城勇三さんによると、本書は確かに名著だが、なにぶん翻訳が悪いと言っている。
    「古本屋で光文社の『EQ』誌に連載された別訳『王家の血統』を探した方がいいかもしれません。」(エラリー・クイーン・パーフェクトガイド)
     そこで別訳が掲載された雑誌がすぐにでも入手できれば、それはそれでいいのだけれど、そうは簡単ではない。こちらの翻訳には北村薫さんや折原一さんが参加されているので、違った楽しみ方ができるかもしれないが、僕の狙いはそこにはない。

     実は『エラリイ・クイーンの世界』の翻訳に難がある事を最初に教えてくれたのは飯城さんではなく、『欠陥翻訳時評』で有名な別宮貞徳さんだ。別宮さんの『誤訳 迷訳 欠陥翻訳』シリーズは大学生の頃からずっと愛読してきた。工学系の大学に進んだ当初から、言語への関心が高まり、ひょっとして自分は道を間違ったのではないかと考え始めていた。英語の面白さは伊藤和夫先生から直接教わったし、翻訳という営為の中に日本語と英語の面白さ・奥深さがある事に気づかせてくれたのは、別宮さんの本だった。このシリーズの第二作『続 誤訳 迷訳 欠陥翻訳』に『エラリイ・クイーンの世界』が登場する。おそらく、最初に読んだ時にも日本語としての違和感を感じていたと思うが、当時は自分の理解が足りないのだと思い込んでいた節がある。1970年あたりから翻訳物を読んでいると、難解でちんぷんかんぷんな文に出くわす事があったが、自分に読解力がないか、英語のいわゆる直訳を受け入れる素養が足りてないのだ(要するに英語の勉強不足)と思っていた。だから、別宮さんに指摘されて、改めてハッとしたのだ。
    ■好色な旅人のホテルの部屋の殴打が、被害者が死んだ時間でとまった時計という常套手段の巧みな変化形とわかるが、偶然の一致と受け入れがたいものが、多過ぎるという以上にありすぎる。(六九頁)
     この文章などは、いまでこそ別宮さんが「文章の形にはなっているけれども、意味がわからない以上に、およそ美的じゃない。むしろ、こっけいだよ。」という主張にうなずけるが、当時はこんな文章でも、残念ながら何を言ってるかは薄々理解できたのだ。クイーンのファン故の功罪といったところだろうか。『エラリー・クイーンの冒険』所収の「アフリカ旅商人の冒険」の一場面だと気づけば、どうにかなったわけだ。では、次の文はどうだろうか。
    ■今日では、当時の優れた探偵小説に満ちあふれていた知的な興奮の燃える音が何であるかを覚えている人はほとんどいまい。複雑に見える問題の中にもつれあったものを見つけたり、不可解な事件に謎がかくれているのを発見したりするたびに、読者と探偵の両方ともが何と楽しい欲求不満に夢中にさせられたことか!(三六〜三七頁)
     わかったようなわからないような、なんとなく「ニュアンスを読み取れ」と強制されているかのような曖昧模糊とした文だ。別宮さんは「興奮すると『パチパチ』とか『ボーボー』とか体のどこかで音が出る人がいるんだろうか」と手厳しい。ただし、このままだと自分はエラリー・クイーンの一等資料を正確には読めていないのではないかと思えるような出来である事は確かだ。

     あらためて僕の下心を説明すると、別宮さんの欠陥翻訳時評の文章に指摘されている個所を、前後を含めて原文で読んで私訳を試み、早川書房版の翻訳と比較するというものだ。事前に調べたところ、別宮さんの指摘個所は1章〜3章に限定されている。この本は共訳で、「秋津知子・他訳」と表紙には書かれているが、巻末に付された解説には共訳の布陣が紹介されている(実名の指摘は意味が無いので伏せる)。
    訳者A: プロローグ、1章〜3章
    訳者B: 4章〜6章、〈映画的間奏曲〉、〈小スクリーンのエラリイ・クイーン〉
    訳者C: 7章〜9章
    訳者D: 10章〜12章、エピローグ
     これを見ると、別宮さんが指摘した個所はすべて同じ訳者の文章だ。ひょっとすると別宮さんも最後までは読んでいないのかもしれない。ではいっそのこと、3章までをすべて読んで私訳を試みながら、翻訳の文章を吟味していけばいいんじゃないか?という途方もない事を思いついてしまった。今のところ、とんでもない事を思いついたなという実感だけがどんどんと積み重なっている状態で、私訳は「カタツムリのようにのろいペースで」なんとか進んでいる。理解しやすい題材である事だけを頼りに、行けるところまでは行ってみたい。

     ただ、それだけでは面白くないので、同時にネヴィンズJr.の評論の中身について深掘りしていこうと思う。クイーンの愛読者とは言え、意外と読み流してきた事も多く、エピソード以上の事情や時代背景などを結構知らずに読んできたなと、今回気づかされる事が多かったからだ。

     今回使用する本は以下のとおり。
    @ROYAL BLOODLINE: ELLERY QUEEN, AUTHOR AND DETECTIVE by FRANCIS M. NEVINS, JR. (1974 by The Popular Press)
    A『エラリイ・クイーンの世界』(フランシス・M・ネヴィンズ) (1980年 早川書房)
    B『続 誤訳 迷訳 欠陥翻訳』(別宮貞徳) (1983年 文藝春秋)
     原作である@のタイトルを直訳すると『王家の血統 作家兼探偵エラリー・クイーン』とでも訳すのだろうか。アメリカのサイト「INTERNET ARCHIVE」で原書のイメージを閲覧する事ができるので、今回もそれを利用した。
    ROYALBLOODLINE-01.jpg
     表紙のイラストは僕らが知っているエラリー・クイーンお二人に似ているようでも、似ていないようでもある。やや意外なのは、クイーンの若き日の姿ではなく、歳がいってからの姿を描いている点だ。特にマンフレッド・B・リー(左)に関して言えば晩年と言っていいだろう。かなりリアルな描き方で、二人で新作の詳細について激論をかわしている最中に、勝手に写真を撮られた事に二人とも怒りを露わにしているかのように見える。INTRODUCTIONでは、巻頭にクイーンのスナップ写真が掲載されているとの言及があるが、INTERNET ARCHIVEでは見られない。肖像権の問題で割愛されてしまうものなのか、事情はよく分からない。本文はINTRODUCTION、CHAPTER1〜4、CINEMATIC INTERLUDE、CHAPTER5〜12、EPILOGUE、NOTES、AN ELLERY QUEEN CHECKLIST、INDEXからなる。

     Aはその翻訳だ。
    エラリイ・クイーンの世界-02.JPG
     先ほど冒頭で「高い」と書いたが、ひと頃の定番だったのかビニールのカバー付きだ。オビは内側に巻かれているので、結構手間を掛けている。表紙のイラストは@と違って穏やかな二人だ。あまり真正面で見つめ合っている写真は見たことがないので、これはこれで別の意味で意外な感じがする。ただし原書とは違って働き盛りの中年ぐらいの二人を描いている。

     評伝らしく、巻頭にクイーンの幼少時から出版直前までの写真が掲載されている(ダネイは1973年当時のもの、1971年にすでに亡くなっているリーは1960年代当時の写真がある)。これがそのまま@にも載っていたのかもよくわからないが、写真はダネイとネヴィンズから提供されたものだと記載されている。

     本書の構成を目次で確認しようとすると、変な事に気づかされる。
    [目次]
    感謝の言葉
    プロローグ
    映画的間奏曲
    小スクリーンのエラリイ・クイーン
    エピローグ

    エラリイ・クイーン・チェックリスト
    解説
    索引
     原書@と比較すると分かるように12章からなる章立てがいっさい省かれている。これだと「プロローグ」の次の本論が「映画的間奏曲」から始まるように見えるが、頁数を確認するとプロローグに80ページ近くを費やしていることになる。と思えば「感謝の言葉」をわざわざ目次に含めているが、通常ACKNOWLEDGMENTSは目次の前に挿入されるので、CHAPTER(章)を省略してまで入れる必要があったのかと首を傾げてしまう。INTRODUCTIONを「プロローグ」に変えたのは「エピローグ」とつり合わせようとしたのかもしれないが、ここは序文というよりもまえがきだ。もっと言えば、論文や書誌などでこれから論じる内容の概要を説明する部分にあたる。だから正確にはプロローグではない。プロローグはまさに1章なのだ。
     CINEMATIC INTERLUDEを「映画的間奏曲」というのもなんだかなぁと思う。INTERLUDEは間奏曲である前に、演劇の幕間(まくあい)ではないのか。それを映画に置き換えただけなのに。次の「小スクリーンのエラリイ・クイーン」は、@のどこにも該当するものがない。これについては巻末の解説に次のような事情が書かれている。
     また、〈小スクリーンのエラリイ・クイーン〉は、《アームチェア・ディテクティヴ》誌エラリイ・クイーン誕生五十周年記念号のために七九年に書きおろされたものを、作者の希望により、本書に新たに収録したものである。
     「小スクリーン」というと、今どきの若い人は"シネコンの小さめのスクリーン"を想像するかもしれない。僕ならば"ミニシアター"の事?とツッコミをいれるたくなる。
    エラリイ・クイーンの世界-01.jpg
     元のタイトルはEllery Queen on the Small Screenだ。定冠詞が「例の」という意味で抑えがきいている。ここはもちろん「ブラウン管のエラリー・クイーン」となるところだろう(ああ、ブラウン管ももはや死語か)。ところで、1974年に@が出版されて、1980年にAが日本で出版されている。そこに前年の書き下ろしを翻訳して挿入しろというのだから、ずいぶん無茶な「希望」だったのではないだろうか。ネヴィンズも抜け目ないというか、独占翻訳権を与えるから融通してくれという事になる。それだけ日本の読者の「エラリー・クイーン贔屓」に期待していたという事かもしれない。

     それにしても、光文社が当時出版していた雑誌《EQ》に『王家の血統』として掲載された翻訳が、そのまま単行本にスライドしなかったのは何故だろう。ひょっとすると光文社と早川書房が原作の翻訳権を争っていたのだろうか。そうだとすると、光文社はおいそれと『王家の血統』を渡さなかっただろうし、早川は早川で別途翻訳するから問題ないと見得を切ったかもしれない。ほぼ原作どおりのタイトルを使わなかったのは、使えなかったということか。一から翻訳をする必要があり、しかも著者からの無茶な希望にも応える必要がある。その答が共訳だったのかもしれない。4人の翻訳者による分担になっている事はすでに書いたが、連名にはなっていない。翻訳家が下訳者を使うという構図は、この時代はまだあったはずだが、その場合は完全に翻訳家一人だけが表に出る。「他訳」とは書かないだろう。そもそも、この本には翻訳者のプロフィールはいっさい無い。「他訳」の3人だけでなく4人とも書かれていないのだ。ひょっとすると完全にはフリーランスな翻訳者ではなかったのかもしれない。いろいろと残念な点が多いという事は指摘しておこう。

     ようやく準備は整った。次回より、エラリー・クイーンを浴びるように読んでいた”懐かしきあの時代"にタイムスリップして、クイーンの物語を、黄金期の本格ミステリーの物語を散策していこう。
    posted by アスラン at 00:35 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) |  書評(エラリー・クイーン) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2023年06月29日

    「Yの悲劇」は、いまなお本格ミステリーの最高峰なのか?

     近年、エラリー・クイーンの悲劇四部作や国名シリーズなどの初期の作品が、角川文庫と創元推理文庫から相次いで出版され、さらにはハヤカワ・ミステリ文庫からは、中期・後期を代表する「災厄の町」を初めとした作品が出版された。いずれも新訳で読みやすくなったので、新しい読者を開拓する事に繋がったのは、長年クイーン好きを公言してきた自分としては喜ばしい限りだ。

     エラリー・クイーンの代表作と言えば「Yの悲劇」という声が挙がるのは、もうお約束みたいなもので、本格ミステリーというジャンルの頂点にエラリー・クイーンが立つと信じているファンにとっては「Yの悲劇」は外せない作品だろう。ただ、「ミステリーの世界最高峰は何か」とか「クイーン作品をオススメするとしたらどれか」という話になると、「Yの悲劇」を推すファンは昔ほど多くはいないのではないだろうか。

     確かに一時期の日本のミステリー界では、海外部門のオールタイムベストとして選ばれるのは決まって「Yの悲劇」だった事があった。それはやはり、作家であり批評家でもあった乱歩によるところが大きい。乱歩は「探偵小説」と当時呼ばれていたミステリーというジャンルを一般に普及させるために、海外のミステリー作品や作家を広く紹介した。そして独自の採点方法で最も評価の高かった作品が「Yの悲劇」だったと記憶する。この評価が後に先にも「Yの悲劇」の人気を決定的なものにしてしまった。「探偵小説」がやがて「推理小説」という名前に変わっていく際に、まず乱歩の念頭にあったのは本格推理小説というジャンルだった。それはコナン・ドイルのシャーロック・ホームズから連なる、いわばミステリーの直系のようなものだ。

     だからこそ「Yの悲劇」が世の中で評価されるポイントも「意外な犯人」「明晰な論理」「フェアな謎解き」の部分に限定される。この事はクイーンファンには自明だ。何故なら、クイーン作品と最初から最後まで付き合ってきたファンは、片目をつぶる事を覚えてきたからだ。この事を、クイーン研究家の飯城勇三は「エラリー・クイーン パーフェクトガイド」の中でも繰り返し語っている。クイーンは本格ミステリーの歴代の作家の中でも特異な存在だ。すべての手掛かりが公明正大に提示されている状況で、犯人を、実行方法を「推理してください」と迫ってくる。例えば「チャイナオレンジの謎」はトリックが分かれば犯人が分かってしまう。推理するまでもないのだ。それでもクイーンは推理で解くことが可能だから「推理してください」と迫る。あるいは「アメリカ銃の謎」ではトリックの存在を極力隠してまでも推理で解くことが可能だから「推理してください」と迫る。この二作のいずれにしても、あるいは「Yの悲劇」にしても、ロジックの大伽藍を作り上げた上で読者に「推理してください」と挑戦する作品を作り続けたのだ。

     その一方で、それ以外の作品づくりでは見過ごす事を余儀なくされた部分も多い。それを一つ挙げるとすれば「動機」だ。真っ先に思いつくのは「エジプト十字架の謎」であり「Xの悲劇」であろう。あれほど見事な論理に裏打ちされたミステリーを作り上げたのに、初期作品の犯人の動機はあきれるほどに前時代的だ。たぶん、若きクイーンの二人にはまったく関心がなかったのか、あるいは尊敬するコナン・ドイルのホームズ作品に倣ったのかもしれない。その信じがたい動機が分かってしまえば、何故彼らはそのような人物像を与えられたのかという部分に、いささか眉につばを付けたくなるのは致し方ないのかもしれない。

     昔からのクイーンファンなら、三島由紀夫の「推理小説批判」というエッセイは知っているだろう。その中で三島は「Yの悲劇」をやり玉にあげて、以下のように書いている。
    第一に、私は、犯人以外の人物にいろいろ性格描写らしきものが施されながら、最後に犯人がわかってしまふと、彼らがいかにも不用な余計な人物であつたといふ感じがするのがつまらない。
    第二に、冒頭の老ハッターの自殺はまだしも、ハッター一家の説明に及んで、その誇張した表現がイヤである。
    第三に、探偵がキザでイヤである。どうして名探偵といふやつは、かうまでキザなのであるか。

     どうやら「面白く読んだ」挙げ句に「私の推理小説ぎらひはなほりそうもない」とも書いてるから、ひとまずは引き込まれて最後に肩すかしを食ったという事らしい。たぶん、当代きっての名作という触れ込みを信じて最後まで読んで、結局幻滅したのだろう。もし、これが乱歩のオススメを信じたのだとすると、乱歩のミステリー批評の功罪が問われるところだ。

     だが、しかし「Yの悲劇」の絶対的地位もやがて終わりを迎える。それは一部のマニアが考えてきたような「ミステリー=本格ミステリー」ではなくなり、ミステリーを下支えする読者が拡大する事によって「ミステリー=エンタテイメントの1ジャンル」という形に裾野が広がってきた事を意味する。その点について、作家の紀田順一郎氏は「クイーンのジレンマ」という小文(ハヤカワミステリマガジン2019年7月号)で触れている。紀田は「Yの悲劇」によって本格ミステリーの面白さに目覚めたにも関わらず、登場人物の障害者ルイザと、同じく障害者で不遇な人生を送った叔母との姿が重なり、事件後病死するという筋書きにご都合主義を感じて再読をためらってきた。
     しかし、七〇年代ぐらいからだろうか、ミステリのこうした内部構造に変容を促すものが生じてきた。…もはや異形の人物や舞台背景を無造作にとりあげること自体、困難となってきたのは周知の通りである。

     さらに紀田はネット上の読者の声をひろってみて、多くの人が「意外な犯人」の正体はすぐにわかったとしていて、それよりも最終的な探偵の解決方法の是非について賛否両論で盛り上がっている事に驚いている。
    これに関連して、家系崩壊の原因をなす病気の正体に関する説明が欠けているとか、いい加減だとかの指摘も無視できないように思われた。相変わらずパズラーとしての賛辞も跡を絶ったわけではないが、それにも増して以上の要因から生じる「重苦しさ」、「割り切れなさ」を非難する人々の、マイナス評価が目立つのが現実だ。

     おそらく僕が「Yの悲劇」を秋田書店のジュブナイルではなく原作の方で読んだ高校生の頃から、家系にまつわる遺伝性の病気を仄めかしているが「根拠がない」とか、それが原因で一家全員の性格が破綻しているとするのは「差別的」という指摘はあったはずだ。ただ、それを作品の瑕疵とするかどうかは、当時の社会意識では限界があった。当たり前だが、現代にクイーンが書いたならば、こうは書かなかっただろう。そもそも中期や後期に作風を大きく変えていったクイーン自身が、無邪気だった初期の自らの作風を反省している。

     紀田は、現実を認識しながら、こうも書いている。
     私は初読のころを回顧し、複雑な心境となる。現代の読者はスタンダードとして、本格とは二律背反的な人間性追求を求めているという事になる。

     僕が言った、クイーンを読む時の「片目をつぶる」とは、紀田の言うところの「本格」と同じ事を指している。その意味では「Yの悲劇」を絶賛する本格ミステリファンは跡を絶たないが、現代人としての倫理感を踏まえた上で「Yの悲劇」を最初にオススメする事はできない。その証拠に、錚々たるミステリー作家たちがハヤカワミステリマガジン2019年7月号に寄稿しているが、「Yの悲劇」を推す人はいまや多くない。先に挙げた「エラリー・クイーン パーフェクトガイド」に記載されているエラリー・クイーン・ファンクラブ会員によるランキングでも、第一位は「Xの悲劇」だ。「Yの悲劇」は第五位に甘んじている。これは明らかに「本格」が持つ楽しさ・面白さを存分に味わえる作品が上位に来た結果だと言えそうだ。

     自分の事をさておいてここまで書いてきたが、僕自身にとっては「Yの悲劇」は特別な存在だ。おそらく紀田氏と同じように「本格ミステリーの面白さ」に初めて気づかせてくれた作品だったから。しかも原作ではなく秋田書店版のジュブナイルを最初に読んだから、「人間性追求」などと言う小難しい理屈は不用だった。なにしろハッター家の家族の病歴が書かれたカルテには、根拠が曖昧どころか例の遺伝性の病気を暗示する記述が一切書かれていなかった。そして今なお「Yの悲劇」が好きだとしても、作品に瑕疵がある事は認めざるを得ない。

     それでこの文章は締めようと思ったが、別の視点で「Yの悲劇」を評価する声も紹介しておこう。角川文庫版の解説を担当した桜庭一樹氏は、悲劇四部作が「本格ミステリーの古典として傑作であると同時に、優れたキャラクター小説でもある」と言う。それはもちろん、シェークスピア俳優であったドルリー・レーンを探偵に配して、舞台劇のように邪悪なる人間の心の闇に対峙する場面を描いているからだ。紀田が書いていたネット上での賛否両論に関して、桜庭は賛成派だ。「エルキュール・ポアロのとある事件にも似て、ドルリー・レーンが下した一つの決断。それによって、彼自身も変節せざるをえなくなる。」

     紀田が障害者の叔母という現実との符合を乗り越えがたいと感じたのとは対照的に、桜庭は徹底的に舞台劇として、つまりはエンターテインメントとして「Yの悲劇」を味わうことを選択する。さらに彼女のイマジネーションは、読書家ならではのインスピレーションと合体する。
     ラストシーンにある苦悩とセンチメンタルと、それでも消えぬ、人間と世界への希望のようなもの。あぁ、この読後感は、よいハードボイルド小説と出会ったときととても近い、とわたしは感じた。本格ミステリーの古典にして、優れたキャラクター小説にして、一人の男と紙とが、この世の果てで対峙する瞬間という、ハードボイルドのよき資質も、併せ持つ―。

     無邪気すぎると言えなくもないが、「私の男」を書いた著者ならではの自由な想像力は認めなくてはならない。

     さらに、新訳としては後発の創元推理文庫版の解説には、文芸評論家であり英文学者でもある若島正氏が担当している。若島もシェークスピア劇に描かれる人間の心の闇(悪)に注目するが、それとともにハッター家が意味するナンセンス、すなわちルイス・キャロル「不思議の国のアリス」にも視線を向ける。この二つが意味するものは英国であり、それはサム警部とドルリー・レーンという二者の対照、つまりはアメリカと英国との対照である。英国と袂を分かって独立したアメリカ。歴史も浅く、移民の活力だけで富を築いてきたアメリカという国の悲劇を描いてみせたというのが若島の見立てである。これまたテクスト分析としては若島さんらしくて面白くはあるが、腑に落ちたとは言いがたい。

     いずれの解説にしても、今どきの「多様性」だとか「ポリコレ」などという紋切り型の視点ではないところは、評価したい。
    posted by アスラン at 03:31 | 東京 ☁ | Comment(1) | TrackBack(0) |  書評(エラリー・クイーン) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2022年05月13日

    クイーンのライツヴィル(ハヤカワミステリマガジン 2021年3月号)

    クイーンのライツヴィル.jpg ハヤカワミステリマガジンの3月号でエラリー・クイーンの特集が組まれていると知ったのが4月初旬。まだ店頭に置いてあるかなぁと探しまくったが、すでに古畑任三郎(田村正和)が表紙の5月号が店頭に並んでいた。その後、しばらくは大きな書店に行くと、前の号をバックナンバーとして置いてないだろうかと探していた。それでも見つからず、アマゾンで買うしかないかと思って検索して、ようやく重大な事実にたどり着いた。なんと1年前の3月号だったのだ。迂闊な事に1年前に発売されていた事に気づかなかったのだ。そんな事があるだろうか。毎週のように書店には出向いて、文芸誌のコーナーも必ず確認していると言うのに、エラリー・クイーンの特集号を見逃していたなんて。

     いや、あるのかもしれない。この間も「エラリー・クイーン 創作の秘密(国書刊行会)」を立川図書館で見つけて、さっそく借りて読んだのだが、最後まで読み切らずに返却日が来てしまった。でも、待たずに借りられるようなので、返却してすぐに予約すればいいと思ったタイミングで部屋の掃除をしたら、三省堂書店のカバーがついた同作が出てきてびっくりした。何故、ここにこれが? ようやく思い出した。半年ぐらい前に神保町に行った際に、三省堂の海外ミステリーの書棚に平積みになっていたのを見つけて購入していたのをすっかり忘れていた。つい最近、三省堂書店神保町本店は一時閉店になったので、ここで購入した最後の本という事になった。

     図書館の本はさっそくお返しして、続きは蔵書で読むことにしたのは言うまでもない。もっとも「創作の秘密」が採り上げているクイーンの往復書簡が、「九尾の猫」と「十日間の不思議」なので、越前敏弥さんの新訳「十日間の不思議」を読む方が先かなと思って、現在は続きを読み控えている。新訳が未読というだけで、「十日間の不思議」自体が未読だというわけではもちろんない。遠い昔にクイーンの聖典はすべて読了している。それは、このハヤカワミステリマガジンの「中・後期クイーン座談会」に参加している有栖川有栖、綾辻行人、法月倫太郎、麻耶雄嵩の面々も同じだろう。それにしても「ライツヴィルもの」が書かれた中期・後期に限定した座談会というのも珍しい。もちろん、ハヤカワ文庫から越前敏弥訳の「災厄の町」「九尾の猫」が数年前にでて、続いて「フォックス家の殺人」「十日間の不思議」も順次、この年(2021年)に刊行される事になったのに合わせた企画だろう。もっと言えば、上述した「エラリー・クイーン 創作の秘密」で取り上げられているダネイとリーの往復書簡が、主に「十日間の不思議」と「九尾の猫」に関するものであるということも、中・後期クイーンの作品を論う絶好のタイミングだという事だろう。

     司会の千街晶之さんが「早川書房から出ていた…中期作品は一時期手に入りづらい時期がありました」という言葉で、座談会の口火を切っていて、ちょっと感慨深いものがあった。僕が熱心にエラリー・クイーン作品を読んでいた十代の頃は、ちょうど中・後期の作品がハヤカワ・ミステリ文庫で出そろってきた時期にあたるので、ディクスン・カーの作品のように入手しづらいというイライラを感じる事はほぼなかったように思う。まあ、そもそも作品リストと照らし合わせて、まだ何を読んでないかなどとマニアックな事をしていなかった頃だったから、単に知らなかったという事はあるかもしれない。

     綾辻さんの発言で「僕が読み始めた頃にはまだハヤカワ・ミステリ文庫が創刊前で、創元推理文庫のものを読んだあとはポケミスを探して」とあって、「フォックス家の殺人」はずっと未読のままだったが、ようやくハヤカワ・ミステリ文庫になったので、大喜びした後に、「これを読んでしまったら…もう終わりなのか」と寂しくなったとも書かれていた。僕はずっと綾辻さんは年下だと思っていたのだが、ちょい上だと初めて知った。数年違うだけでハヤカワ・ミステリ文庫の充実度が違ってくるので、僕自身はポケミスのお世話にはならなかった。それでも、確かに「フォックス家の殺人」はなかなかハヤカワ・ミステリ文庫で刊行されなかった記憶がある。手元にあるハヤカワ・ミステリ文庫は昭和51年発行が多いが、「フォックス家」は昭和56年発行だ。その後に出版された長編は、前期の国名シリーズを除けば、最後の長編「心地よく秘密めいた場所」しかない。

     当時は創元推理文庫が国名シリーズとドルリー・レーンシリーズ、それとハリウッド物と言われる作品群を出していて、「災厄の町」で始まる中・後期の作品はハヤカワ・ミステリ文庫という棲み分けができていた。今回の企画からは外れるけれど、創元の担当でなかなか出版されずにヤキモキさせられたのは、ハリウッド物の一作「ハートの4」だった。今となってはハリウッド物の中では面白い方だと思うが、当時は他の「ドラゴンの歯」「悪魔の報酬」などと同様、あまり関心しなかった記憶しかない。それに比べると「フォックス家の殺人」の印象は強く、ストーリー自体は過去に起きた事件の真相を暴くという、クイーンの作品としては異色作ではあったが、僕のお気に入りの一作となった。有栖川さんが「エラリー・クイーンのなかでいちばんアガサ・クリスティですね」と語っているのを読んで、なるほどそうだったかと腑に落ちた。そして確かに設定はクリスティそのものではあるが、心理的に謎を解明するのではなく、あくまで論理的に状況を分析していくところはクイーンならではだと思った。

     座談会の後半は、実作者としての視点から、ネタバレ御免で「災厄の町」や「フォックス家の殺人」「十日間の不思議」「九尾の猫」などについてのトリックや構成などについて語っている。実際にミステリを書いている立場からでないと見えないような細かい事が語られるので、面白かった。例えば有栖川さんは、「災厄の町」に関しては作者(たぶんダネイ)は自信満々だけど、どうして”あの登場人物”は3通の手紙を書いたのかわからないとか、犯人がどのタイミングで毒を入れたのかのフォローがないとか、一ファンでありながらも、同業者としてクイーンに突っ込みを入れている。また、法月綸太郎さんは「エラリー・クイーン 創作の秘密」の往復書簡の内容を踏まえて、ライツヴィルものを書いていた時期のダネイとリーが非常に対立していたからこそ、リーは一冊書くごとに小説家としてレベルアップしていったのではないかと語っている。

     作家・山口雅也さんがライツヴィルのモデルとなる町はどこだろうかというエッセイ「ライツヴィルを探せ!」を載せている。読んでいて、どこかデジャブを感じていたが、この記事を書くにあたって引っ張り出した「フォックス家の殺人」(ハヤカワ・ミステリ文庫)の解説として掲載された文章を改訂したものだと分かった。ヴァーモント州かニューハンプシャー州のいずれかという流れで、解説ではニューハンプシャー州だと断定したが、その後、山口さん曰く「驚くべき事実を発見した」と書いている。町の名前ではなく、貯水池の名前として「ライツヴィル」がヴァーモント州にある事を見つけたと書いている。確かに驚くべき事実には違いないが、実は数十年前に僕も地図帳を見て「ライツヴィル」という名前がある事に気づいていた。もちろん、クイーンがこの貯水池の名前を参考にしたわけではないだろうから、たまたま同名の地名があったというだけに過ぎないのだろうが、見つけた時は驚いたし、嬉しかった。当時はツィッターもブログもなかったので、自慢する手立てはなかったけれど。

     この特集のメインディッシュは戯曲版 「災厄の町」だ。さきほどから何度も引用した「エラリー・クイーン 創作の秘密」の著者ジョゼフ・グッドリッチが脚本を書き、2016年にカナダのカルガリーで上演されたものだ。この脚本は非常によく出来ていてわかりやすい。解説の飯城勇三氏も書いているように、原作をコンパクトにまとめている。小説だと新聞やラジオからのニュースとして与えられる情報を、姿のない声だけで観客に聞かせたり、殺人が起きたシーンを謎解きの際に、もう一度回想シーンとして再現したりしている。読了してから気づいたが、なんと翻訳が越前敏弥さんだった。どうりで訳文そのものが読みやすいわけだ。

     さて、エラリイ・クイーン研究家の飯城勇三さんの「エラリイ・クイーンのライツヴィル訪問記」を紹介して終わろう。これはライツヴィルを舞台にした作品と内容紹介になっている。おまけに、ご丁寧に年表まで添付されている。これを読んでいるうちに、また中・後期の作品をがぜん読みたくなってきた。とりあえず、以下にライツヴィルもののリストを挙げておこう。
    災厄の町
    フォックス家の殺人
    十日間の不思議
    ダブル・ダブル
    帝王死す
    ライツヴィルの盗賊
    ガラスの村
    GI物語
    結婚式の前夜
    ライツヴィルの遺産
    ドンファンの死
    三角形の第四辺
    菊花殺人事件
    結婚記念日
    最後の女


    posted by アスラン at 04:20 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) |  書評(エラリー・クイーン) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2011年03月22日

    Yの悲劇 エラリー・クイーン(角川文庫,2011/3/5読了)

     すでに何度も書いているが、僕とクイーンとの出会いは小学5年か6年のときの親からの誕生日プレゼントだった。僕の本好きを充分よくわかっていた母から、自宅前の商店街にあった行きつけの本屋で「好きな本を選んでよし」と言われ、なんとなくえらんだ本が児童書の「Yの悲劇」だった。今となっては、そのときの本には正しくたどり着くことも、また読むことも叶わないと思っていた。ところが一昨年、僕にとって〈記念碑〉でもあるジュブナイルが、なんとまだ購入可能であるとわかった。さらには立川市最大の書店の倉庫に眠っていた最後の在庫本を売りきる事に貢献することとなった。その顛末は、このブログに書いた(書評「Yの悲劇(秋田書店)」参照)。

     その本は、今読み返しても子供向けとは思えないほどに原作の良さを余すところなく伝えていて、当時の少年を虜にした理由がよくよく飲み込めた。このジュブナイルで感銘を受けたポイントを挙げれば、原作の特長がどこにあるのか言い尽くせるだろう。まず第一に「意外な真相」だ。多くの人にとって馴染みぶかいシャーロック・ホームズの諸作品がそうであるように、何よりも結末で驚かされるミステリーは、読者にとってわかりやすいポイントの一つだ。

     次は、ルパンや少年探偵団などにみられるように、隠し部屋や隠しとびらを見つけだしてお宝や謎のメッセージを探り当てるという冒険とサスペンスの要素が盛り込まれている点だ。探偵ドルリー・レーンが〈ある場所〉から発見した「書き物」は、まさに宝探しの醍醐味を読者に提供する。しかも、その発見は真相を明らかにするどころか、さらなる謎に満ちた混乱をもたらす事になる。

     そして最後は「圧倒的な推理による犯行の再現」だ。特に僕が打ちのめされたのは「マンドリンによる犯行」でもなければ「バニラのにおい」でも「すべすべした肌」でもない。エミリー婦人と娘ルイーザの寝室の床に残された、タルカム・パウダーを踏みちらかした足跡から、レーンが到達した帰結だった。現場に残された手がかりは何一つ隠さずに提示されたにも関わらず、読者は決して探偵のようには緻密な推理を組み立てることがかなわない。

     クイーンの代表作を伏線を追いながら再読すると、こんなにあからさまに手がかりが書かれているのに、なぜ初読のときに気づけなかったのだろうと思うことが往々にしてある。しかし、それはやむをえないことだろう。たいていの読者は、作者が望むようには頭をフル回転させて真剣にパズルを解こうなどとは思わない。作者の導くままに探偵と同じものを見聞きして、探偵が話す言葉に耳を傾け、そして驚く。それが何より心地よい。探偵は良きツアーコンダクターであるべきなのだ。その意味で、ダン・ブラウンの「ダヴィンチ・コード」などは現代ミステリーにおける成功例だと言える。

     その「ダヴィンチ・コード」の訳者・越前敏弥が、今回の角川文庫版の新訳を担当しているのは、まさに行幸というしかない。はじめこそ少々軽薄な文体になるのではないかと邪推したのだが、これまで読んだ「Yの悲劇」の翻訳よりもぬきんじて同時代の言葉で書かれている。しかもミステリーの(というよりもクイーンの)翻訳にありがちな「生硬で、ただ重々しく、時に気取った文章」が最小限に抑えられている。

     なにより読みやすい。例のジュブナイルからだいぶ時をおいて創元推理文庫版「Yの悲劇」を読み、1999年にあらたにハヤカワ・ミステリ文庫に収められた新訳を読んだときでさえも、翻訳に新鮮さを感じる事はなかった。しかし、今度の角川文庫版は新鮮な感覚を維持したまま読み通す事ができた。ハヤカワ・ミステリ文庫の宇野利泰の翻訳が500ページもあるのに対して、75ページもスリムになった越前訳の文体になんらかの秘密があることは間違いない。それについては最後に触れよう。

     「エラリー・クイーン論」の著者・飯城勇三が指摘したように、生涯にわたって「意外な推理」のミステリを書き続けたクイーンではあるが、ことドルリー・レーンシリーズに限っては〈意外な真相〉と〈意外な推理〉が絶妙なバランスで同居している。飯城の評論を読んだ後では、「Yの悲劇」がクイーンの代表作であるというだけでなく、今なおオールタイムミステリーの上位に(あるいは一位に)ランキングされる理由が理解しやすくなったように思う。

     飯城は次のようにエラリー・クイーンの独自性を分析する。

     クイーンのような「意外な推理」で勝負するミステリ作家はきわめて少ない。ほとんどのミステリー作家は、「意外な真相」派か「意外なトリック」派だ。「意外な真相」派の代表がクリスティで、「意外なトリック」派の代表がカーだろう。「意外な推理」派の作家が少ないのには理由があると飯城は言う。意外な真相やトリックは、作家がそうだと言えばそれだけで真実になる。「どうして?」ということは問われない。しかし「意外な推理」の場合は、読者を納得させるのに手間暇がかかる。推理自体が意外だと読者に感じさせるには、探偵が知りうるすべての手がかりを読者にも与えるという公正さと、手がかりから演繹する推理に凡人には思いつかない論理的な飛躍が求められるからだ。

     ミステリー作家の有栖川有栖が、角川文庫の「Xの悲劇」の解説で"1932年の奇跡"について語っていたが、まさに絶頂期であった年に書いた4冊の長編に含まれる「Yの悲劇」は、クイーン自らが「意外な推理」のお手本とすべき〈クイーンミステリー〉の金字塔なのだ。それでいて、ミステリーマニアにしかわからない難解な推理は何一つない。先に述べたように「毒殺犯と殺人犯が別にいるのか、それとも単独犯か」を、現場の状況から正しく推理する過程は当時の小学5年生にもわかった。強いて言えば、巻き尺を持ち出して「ある数字」を導き出す過程が面倒くさい事ぐらいか。当時も今も、ただ単に「解る」だけでなく推理の「意外性」に驚かされる。

     昔からマニアの間では「マンドリンが凶器に使われた理由」についての推理は日本人にはわかりにくいし、まして子供には理解不能ではないかという指摘があるのだが、それはマニアや評論家の無用な詮索ではないだろうか。マンドリンの推理は「犯人像を特定するための傍証」であって、それ自体、推理の核心部分ではないからだ。確かに非常に玄人受けする「意外な推理」ではある。大人になってから再読してみると、何一つムダにしないクイーンの手がかりの提示と推理にはうならされるばかりだが、単に作品を楽しみたいだけの読者には「マンドリンの謎」の面白さは気づきにくいかもしれない。しかし、それ以外に「意外な推理」は何段階も用意されており、必ずしも世に喧伝されている「マンドリンの謎」が「Yの悲劇」を代表する謎というわけではないのだ。

    ハヤカワ・ミステリの1ページ19×42字=798字
    角川文庫の1ページ=18行×42字=756字


     なんと1ページの文字数は、角川文庫の方が少ない。にもかかわらず、ハヤカワ・ミステリ文庫の宇野訳は500ページきっかりを費やし、角川文庫の越前訳は425ページしかない。つまり文字数を目の子で勘定すれば

     宇野訳 798×500=399000文字
     越前訳 756×425=321300文字

    という結果になり、なんと越前訳は宇野訳のきっかり80%の文章で「Yの悲劇」を訳しきっている。いったいどうしたらできる芸当なのだろう。それを知りたければ、たとえば「第二場 ハッター家」の冒頭部分を比べてみればいい。

    [宇野訳]
     狂ちがいハッター家…その異名がつけられたのは、かれこれもう、何年か前のことになる。当時、ハッター家のニュースは。毎日のように新聞紙上をにぎわせていたのだが、新聞記者のうちで想像力のゆたかな男が、子供のころに呼んだ『不思議の国のアリス』の連想から、そうした異名を思いついたのだ。おそらくハッター家にしいても、誇張がすぎると苦情を出したかったところであろう。いくら彼らが風変わりだったにしても、あの不朽の名作に出てくるハッターほどには狂っていなかったし。ばかさわぎのほうではむしろ反対で、その億万分の一のほがらかさも持っていなかったのだ。

     このように265文字で冒頭の1段落を訳している。それが越前氏の手に掛かるとこうなる。

    [越前訳]
     いかれた帽子屋…。何年も前、ハッター家にまつわる報道が紙面を騒がせていた時期に、ある想像力豊かな記者が懐かしい『不思議の国のアリス』を思い起こして、一家をそんなふうに命名した。それは理不尽な誇張だったかもしれない。異常さにかけてはある名高い帽子屋の半分もなく、愛嬌は億兆分の一も備えていなかったのだから。

     およそ153文字。ここだけ比較してみれば、なんと宇野訳の58%という驚異的なスリム化が図られている。

     宇野訳と越前訳のどちらが原文に忠実かどうかなどは、ここでは問わない。この部分をみる限り、どちらも伝えるべきことを同等に伝えているように思う。違いは文体だ。宇野訳は、字数を費やした割には判りやすくない。確かに、それまで創元推理文庫版でしか読めなかった「Yの悲劇」に新風を吹き込むべく、訳者は渾身の訳を作りあげたはずだ。にもかかわらず、どこかピントが甘い感じがする。昔からの翻訳にありがちな、言いたいことにすぐに届かない隔靴掻痒で曖昧な表現に終始した訳文だ。

     それに対して、越前訳は、きりっと締まっていて曖昧さがない。まるで今風のビールのトレンドのように"喉ごしさわやかでドライな"文体で書き上げられている。とかく「気取っていて思わせぶり」な探偵と批判されてきたドルリー・レーンではあるが、それもこれも過去の訳文の思わせぶりな表現が利いているのかもしれない。越前訳のような書き方が誰しも可能であるならば、クイーンの過去の名作たちをすべて新訳にすれば、マネーロンダリング(貨幣洗浄)ならぬエイジロンダリングによって、セピア色がかった原作が色鮮やかなオリジナルの色を取り戻すのではないだろうか。

     もちろん異論がでるのは承知の上だ。ミステリーマニア好みの「大げさなケレン」は、もういらない。
    posted by アスラン at 03:13 | 東京 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) |  書評(エラリー・クイーン) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2010年01月27日

    「Xの悲劇」(エラリー・クイーン、創元推理文庫)ネタバレ解読

     (以下の文章では、エラリー・クイーン作「Xの悲劇」に関してネタバレを含む詳細な分析を行っていますので、未読の方は読まないようにお願いします。)

     「本作は初期クイーン流パズラーの集大成とも言うべき大傑作である」と、「エラリー・クイーン パーフェクトガイド」(以下、「ガイド」)は書いている。確かに処女長編「ローマ帽子の謎」以来、クイーンはあえて「公共の不特定多数が集まる閉鎖空間」を犯行現場に選び、「手がかりに基づく論理的推理で犯人を特定する」作品を提供しつづけてきた。その中でも本作では、閉鎖空間として市電・船・列車と次々に場所を変え、それぞれにおいて綿密で粘り強い演繹推理を展開していく。

     なんといっても3つの閉鎖空間で起きた3つの殺人のそれぞれで、探偵ドルリー・レーンはその論理的推理を惜しげもなく開陳し、その一つ一つが本格ミステリーの醍醐味を十分に与えてくれる。国名シリーズの最高峰「ギリシャ棺の謎」ほどには読者の頭を悩ませるアクロバティックな推理はないにしても、考え得る可能性をすべてあげつらっては一つ一つ消去して、次なる推理を展開して唯一の解に辿り着く。国名シリーズで培ってきた手法の〈集大成〉と言う主張はうなづける。

     では以下に細かく作者の手際を見ていこう。まずはP.375で犯人を前にして、ドルリー・レーンが正体を暴く最高のクライマックスシーンを示してから、「クイーンマジック」の仕込み(伏線)をたどっていく事にしよう。

    「もっとも不幸な神の子
    のひとり、マーチン・ストープス氏です。」
    「別名、西岸線の車掌、エドワード・トムスン」
    「別名、渡船に乗っていた知られざる紳士」
    「別名、車掌、チャールズ・ウッド」


     しかも「ウッドは死んだはずだ」というブルーノの驚きの声に応えて「あなたにとっては死んでいたことでしょう。…しかし、わたしにとっては立派に生きていたのです」と、読者を身震いさせるような決めゼリフを吐いている。

     ではそんな事が果たして可能だったのか。一人の人間が幾人もの人間になりすます等と言うことが…。あらかじめ要約しておくと、マーチン・ストープスとは、今はニューヨークで株式仲買人となっているロングストリートとデヴィットともう一人に、かつてはめられて南米ウルグアイで見つけたマンガン鉱山を奪われ、妻殺しの汚名をきせられて囚われの身となった不幸な男のことだ。脱獄したストープスは5年前から着々と復讐の機会を狙っていた。

     5年越しの計画で、ストープスは複数の人間になりすます。この点が現実離れしているために、「仕事をもつ別人の人生を演じることは不可能だ」とか「変装がなぜ警察にばれないか」などと、お説ごもっともらしい批判は確かにあるだろう。しかし、思うにシェークスピア俳優にして聾唖の探偵が、お得意の変装を駆使して捜査するというケレンと呼応するように、この作品ではいわば〈役者どうし〉の知力合戦とでもいうべき趣向を楽しむミステリーだと割り切ってしまえばいいのだ。探偵エラリー・クイーンが活躍する〈国名シリーズ〉と一線を画するところがあるとすれば、どことなく浮世離れした演劇の虚構が作中に持ち込まれている点ではないだろうか。

    [第1の殺人]
     ニューヨークの市電の中で、ロングストリート一行をのせた満員の車内で殺人は起きる。被害者はロングストリート。犯人は車掌のチャールズ・ウッドである。

     ロングストリートは上着の左ポケットから眼鏡ケースを取り出し、めがねをかけた後、ケースをポケットに戻す(P.33)

     車掌ウッドがロングストリートからお札を受け取る。(P.35)
     (この瞬間に凶器が左ポケットに入る)

     ロングストリートが殺害されて、車内に偶然いた警官がドアと窓をしめるように指示。車掌を外に出し、巡査に知らせるように言う。(P.39)
    (凶器を安全に取り扱うための「手袋」が外にでる)

     凶器はコルク玉に50本もの針が刺さり、先端が1/4インチ突き出て針先に赤褐色の液体(のちにニコチン抽出液と判明)が塗られている。(P.44)

     車掌は5年前からの勤務で、背が高く頑丈。赤毛で50歳ぐらい。(P.58)

     車内のゴミを回収したが、手がかりなし(P.60)

     ハムレット荘にて凶器をいれたガラス瓶をうけとったレーンに「ふたはあけないほうがいい」とサム警部は忠告する。(P.93)
     (素手で扱えない凶器であることを読者にさりげなく提示している)

     レーンは「労働者はいなかったか」「天気や季節(夏)にそぐわないものはなかったか、たとえば、外とう、夜会服、手袋など」と警部に質問する。(P.93)
     (凶器を取り扱う手袋のたぐいが車内にない事の論理的矛盾を暗に指摘している。著者によるしたたかで大胆な伏線である。)

     「これからどうするかはっきりしていることはおわかりですね」(P.96)

     かなりいじわるな言葉だ。この時点でレーンは車掌の犯行(少なくとも共犯以上)であることを見抜いている。

    [第2の殺人(デヴィットの逮捕)]
     殺人の舞台はウィホーケン渡船場に移る。警察に密告状が届き、ロングストリート殺害の犯人について教えるという。密告者は海に落とされて殺害される。被害者は服装や傷跡から車掌のチャールズ・ウッドと判明する。

     この第二の殺人部分は、
     ・デヴィットの逮捕
     ・真犯人の解明
    の2つの部分に分けて詳細に分析しよう。

     サムとブルーノは、渡船場に居合わせたデヴィットを一連の殺人の犯人として逮捕する。しかし、その後の裁判でレーンが見事な推理でデヴィットの嫌疑を晴らす。この部分が小気味いいのは、「Yの悲劇」で「殺人犯と毒殺未遂犯とは別にいるのか単独犯か」をめぐって、サムたちの複数犯説を完膚無きまでに叩きのめす中盤の名場面同様に、レーンが見事に真価を見せつけて、侮っていた警部たちの鼻をあかしてくれるからだ。

     スポーツジムで負傷したデヴィットの人差し指は、第一関節から縦に薄いかさぶたで覆われている。(P.114)

     海から落ちたという声がした甲板に向かうために、ドアの取っ手をつかんだ瞬間、デヴィットの人差し指の傷口がひらき血が流れるのを、レーンとサム警部が目撃する。(P.115)

     裁判では、犯行時に右手を使えば傷口は破れたはずであり、一方で右手を使わねば、犯行(200ポンドの被害者の体を張り出しから落とす)は不可能であると立証される。(P.246)

    [第2の殺人(真犯人の解明)]
     被害者は車掌ウッドであるというのは実はトリックで、ウッド自身が別に用意した人間を自分に見せかけて殺した。

    密告者とおぼしき男が海に落とされて、引きあげられた。市電の制服を着た死体は、市電の運転手の検分によって車掌ウッドであると確認される。(P.136)
    (ただし「ああ、あの頭は…」というように、顔で識別したのではなく外見や死体の左ふくらはぎにある古傷から判断されている。)

     検死報告書では、2年前に盲腸炎を手術した痕跡が残されている。(P.156)
    (この「2年前」というのは重要な手がかりになるのだが、それにしてもどうして手術跡が正確に2年前と特定できるのか不思議だ。30年以上クイーンファンをやってきたが、今の今まで気づかなかった。)

     市電の本社でレーンが聞き込みしたところでは、ウッドは5年間ずっと皆勤を続けていた。(P.177)

    これは盲腸炎の手術の事実と矛盾する。見つかった死体はウッドではない。つまり「ウッドは死んでいない」とレーンは推理する。


    [第3の殺人(犯人は誰か)]

     さらに場所が移り、ウィーホーケン駅。訴追をまぬがれたデウィット一行は列車に乗り込む。殺人の被害者はデウィット。犯人は、またしても(列車の)車掌だ。(名前はエドワード・トムスン)。

     さて、第3の殺人も二つの重要な部分にわけて分析しよう。すなわち
     ・犯人は誰か
     ・クロスした指のメッセージ
    だ。

     デヴィットは片道6枚の切符と50回綴りの回数券を購入し、チョッキの左上のポケットにいれ、上着のボタンをかける。(P.260〜261)

     突然姿をあらわしたコリンズと内密な話をするために、デヴィッドは6枚の切符を取り出して同行者に渡し、回数券はポケットに残したまま席を立つ。(P.270)

     デヴィットは、照明が落ちた最後部の客車で死体となって見つかる。検死報告では、弾丸が左胸のポケットの位置で貫き、心臓に入った。「上着、チョッキ、ワイシャツ、下着、心臓と、まっすぐに貫通している。」(P.280))

     デヴィットの上着の内ポケットに古い回数券と一緒に新しい回数券も入っている(P.284)

     以上の事から、撃たれた時に回数券はチョッキの左上ポケットにはなく(あれば弾痕が回数券に残る)、上着に内ポケットに移ったことが判明。しかも利き手でない左手には(後で述べるように)奇妙な指の形が残っているので、右手はふさがっていたと推定される。(この部分は、「ガイド」が指摘するダイイング・メッセージの〈ひねくれた使い方〉にあたる。詳しくは後述する。)

     回数券の移動と指のかたちが利き手になかったことから総合して、右手に回数券をもって使おうとしていたと推定できる。ということは車掌が検札しようと近づいたはず。つまり2人の車掌のうちの一人が犯人である。車掌トムソンは市電の車掌ウッドと同一人物であった。(P.401〜P406)

    [第3の殺人(クロスした指のメッセージ)]
     エラリー・クイーンと言えば、「ダイイング・メッセージ」が代名詞となるくらいに、生涯を通じて様々な作品でダイイング・メッセージが多用された。その第一号が本作なのだそうだ。「パーフェクトガイド」の指摘では、
    いかにもクイーンらしい、ひねくれた使い方をしている。レーンは、メッセージを解釈せずに、メッセージが残されていたというデータから犯人を特定するのだ。(ガイド)

    と書かれている。

     これは言うまでもなくメッセージを伝える指の形が「利き手でない左手に残されている」という事実から演繹される推理のかなめとなる。だからダイイング・メッセージの使い方が「ひねくれている」というよりも、奇妙な指のかたちが「ロジックを構成するピース」と「犯人を直接しめすメッセージ」を示す二重の伏線になっていると解釈した方がいい。まったくもって無駄がないというか、欲張りというか、隙がないのだ。

     そして再読ポイントとして、レーンが次なる犠牲者となる可能性の高い人物(デヴィット)にダイイング・メッセージ談義をすることによって、
    事件に介入し、事件を変えてしまうのである。(ガイド)

    とも書かれている。その点を意識して見ていこう。

     ウィーホーケン駅で列車を待つ間に、弁護士ブルックスは、レーンのスピーチの言葉に触発されて、「息の根をとめられる直前の一瞬間に、頭の中には一生のできごとがひらめく」という小説を思い出す。(P.262)
    (そのまえのレーンの思わせぶりな演説から場所を変えた余談まで、この後のダイイング・メッセージへの伏線とは思えないほど、著者は周到に準備を進めている。)

     「人間の頭というものは死の直前にはもっと驚くべきことさえなしとげるものだ」とレーンは語り、かつて殺人の被害者が砂糖を握りしめていたことから犯人は「コカイン常用者」だというメッセージであったというエピソードを披露する。(P266〜P.268)

     彼は死ぬ直前のほんのわずかな時間に、自分が残すことのできる唯一の手がかりを残したのです。このように−死の直前の比類ない神々しいような瞬間、人間の頭の飛躍には限界がなくなるのです。(P.268)


     この殺し文句によって、聞き手(デヴィットたち)に圧倒的な感銘を与えたと同時に、僕ら読者にもダイイング・メッセージという仮象を信じさせるにいたった。これはレーンの収穫というよりも、ミステリー作家エラリー・クイーンにとっての〈大収穫〉であった。

     死体で見つかったデヴィットの左手は、「中指が人差し指の上に重ねられて奇妙なかたちに堅くからみつき、親指と残りの2本の指は内側へ曲げたまま硬直していた。」(P.281)

     検察医シリングが「即死だ」と言うにいたって、レーンはデヴィットの指のかたちがダイイング・メッセージであると断言する。「苦しみから思わず指を絡めた」のではなく、銃で撃たれる前の一瞬に指を堅くクロスさせたと考えた方が妥当だからだ。(P.283)

     デヴィットの上着の内ポケットから見つかった回数券の古い綴りにはいたずら書きがあり、パンチをなぞったあとがある。(P.284)

     この内ポケットの状況設定もきわめて周到な伏線だ。と同時にミスディレクションに富んでいる。なぜなら「新しい回数券」の移動が犯人に繋がる手がかりとなっているだけでなく、「古い回数券」にダイイング・メッセージを解く鍵が隠されているからだ。デヴィットは犯人を識別するパンチの形に馴染みがあった事を示唆するのだ。このように複数の別個の手がかりを抱き合わせる事で、読者の注意が片方にしかいかない。ここでも著者の手際には無駄がない。

     車掌のひとりポムトリーは、古い回数券のパンチ跡を示して、丸印のパンチが自分のもので、「十字印のパンチ」が相棒のトムソンのものだと示す(P.286) 

     「指のかたちが残された」事実からすでに犯人(トムソン)が指摘されたので、ダイイング・メッセージ(犯人の指摘)は不要になってしまったかというと、そうではない。クイーンの、いやバーナビー・ロス名義の4部作では舞台の幕切れを意識して、最後の最後にあっと言わせる趣向をとっておく。そして、それこそがダイイング・メッセージの究極の使い方だと本作は教えてくれた。

     紙片(乗車券)の二個所―印刷文字のウィーホーケンの横と、それより下のウェスト・エングルウッドの横に―くっきりと鋭く打ち抜かれた車掌エドワード・トムスンの十字形のパンチの跡が残っていた―一つのX。
    ―幕―(P.422)
    posted by アスラン at 12:55 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) |  書評(エラリー・クイーン) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2010年01月14日

    「チャイナ橙の謎」(創元推理文庫)ネタバレ解読

    (以下の文章では、エラリー・クイーン作「チャイナ橙の謎」に関してネタバレを含む詳細な分析を行っていますので、未読の方は読まないようにお願いします。)

     「ネタバレ解読」の趣旨を一言ことわっておくと、「エラリー・クイーンパーフェクトガイド」(飯城勇三著,ぶんか社文庫)の作品紹介が素晴らしいので、そこに書かれているポイントを確認しながら、十分に作品を味わい尽くすのを目的として行っている。この「パーフェクトガイド」の作品紹介ページは前半が初読者向けの案内で、後半が既読者向けの再読ポイントを挙げている。ここでは再読ポイントに乗っかって再読してみた感想を含めて、作品のあれやこれやを詳細に語っていく。

     「チャイナ橙の謎」の書評にも書いたが、この作品の謎解きは、煎じ詰めてしまえば以下の2つのポイントから構成されている。

    (1)犯行現場のあらゆるものを「あべこべ」にした理由はなにか?
    (2)被害者の背中に2本のヤリが通されていて、事務所側のドアをふさぐように死体が移動していたのはなぜか?

     (1)を解くためには、いくつかの手がかりに基づいた〈推理〉が必要となる。そして推理すると何がわかるかと言えば、「パーフェクトガイド」に書かれていたように「被害者は誰か?」がわかる。決して「犯人は誰か?」ではないという点に注意しよう。

     そして(2)については、重要なトリックが仕組まれている。一言で言えば「密室トリック」だ。もちろん「パーフェクトガイド」の指摘を待つまでもなく、犯行現場は密室にはなっていない。しかし、作者のトリック(作為)が見えてきて、言わば「半密室」である事に意識的になると何がわかるか。犯人がわかってしまうのだ。「犯人は誰か」がミステリーを読む読者の最大の関心事であるとするならば(というか、まさにそうなのだが)、(2)の謎さえ解ければ、ミステリーの読者の多くは(1)の謎解きに付き合うまでもない。「推理はトリックを乗り越えられない(パーフェクトガイド)」と書かれる所以である。

     では、まず被害者の謎解きについてみていこう。「被害者は誰か?」という問いは、本作品に限ってはあまり意味がない。ドナルド・カーク事務所を訪れてドナルドに用向きがある何者か、であるに過ぎない。ただし被害者は、きわめて珍品とされる高額の切手を手に入れて、買い取ってもらおうと事務所を訪れた。被害者が殺された理由は、その切手に犯人の目がくらんだことにある。実は犯人にあらかじめ殺意があったわけではなく、突発的な殺人だった。そして犯人は、被害者の身元から「高額切手を売りに来た」という事実が発覚する事を恐れて、被害者の身元を隠そうとしたところから「あべこべの犯罪」ができあがる。その過程を見ていこう。

     被害者は中国から来た伝道師(カソリックの聖職者)だった。被害者は、まずエレベーター前の受付係シェーン夫人に目撃される。
     なにしろ秋冷の候というので、ふとった首のまわりには、毛織の襟巻をまきつけていた。(P.11)

     首のまわりが見えないように作者が企んでいる。これは首のまわりに身元が一目で分かるような特徴があることを示す伏線である。

     死体となって見つかった被害者とその部屋の様子は、なにもかもがひっくりかえした「あべこべ」状態であった。被害者の服装は次のように描写される。
     死人の上着がうしろまえになっているばかりでなく、ズボンもさかさになって、これまたうしろでボタンがかけてあった。白のマドラス・シャツも、ちょっきも同じことだった。幅の狭い、固いカラーも同様に、逆にされて、襟巻のところで、ぴかぴか光る金のカラー・ボタンでとめてある。下着類もあきらかに同じように、人を食ったあべこべになっているらしかった。(P.58)

     赤字の部分が重要だ。カラーが逆向きになっているのを他の衣服の「あべこべ」が隠している。典型的な「葉は森の中に隠せ」タイプのトリックだ。そして、それを実現するためだけに「あべこべの森」は造られたのだ。

     さらには「被害者のネクタイがない」(P.74)ことが指摘される。恒例の「読者への挑戦」が挿入されるのが306頁目だから、3分の1の序盤で、ほぼ「あべこべの犯罪」を論理的に解く鍵は与えられていると言える。中盤にはほとんど手がかりらしい手がかりはない。ただし、そうは言っても可能性が多すぎて、探偵と同じような推理の経路をたどる読者がいるとは思えない。そして「読者への挑戦」の直前に最後のピースが手に入る。被害者が駅にあずけた手荷物だ。

     手荷物の中には何冊かの本が入っていて、そのうちの一冊は表紙がとれるほど古びている。
    「聖書じゃないですね。ありふれた安ものの日課祈祷書だ」
    「…どうやら、たいへん信心深い老紳士に見参したらしいですね」(P.296)

     ここでついにエラリーの頭脳のシナプスが発火する。ではエラリーの推理をたどっていこう。

     犯行現場のあべこべ性には、以下の2つの解決が考えられる。
    (A)事件の関係者のだれかにあべこべ性があることを指示する
    (B)事件の関係者のだれかにあべこべ性があることを隠す

     手がかりは「死体にも現場にもネクタイがない」という事実だ。ネクタイが欠けている理由は、被害者が「不断ネクタイをつけない人物だった」とエラリーは推論する。普通の背広を着ながらネクタイをつけないのは聖職者しか考えられない。聖職者であれば「カラーをうしろ向きに付ける」のは当たり前である。このあべこべを隠すために、犯人はすべてのものをあべこべにした(P.333)。

     この結論には驚くべき意外性と同時に、信じがたく納得しがたい一点が残る。つまりは「被害者のネクタイがない」ので、そこに注目がいかないようにするためだけに、犯人はあれほどの手間をかける必要が本当にあったのか?という、はなはだ実もフタもない指摘だ。これに対しては、国内に多数いるカソリックの神父ではなく、「中国から来た伝道師」という点に重きを置かねばならないのだろう。

     1934年のアメリカの時代背景を知るよしもないが、おそらくは国内の聖職者であれば身元を特定しにくいかもしれないが、「中国から来た伝道師」となると、すぐに身元は割れてアメリカに来た目的も明らかになってしまうと、エラリーあるいは作者は言いたかったにちがいない。中学生の頃に読んだときには、その点に意識的ではなかったので納得がいかなかったが、今読むとさもあらんと言う気がする。クイーンの推理に手抜かりはない。

     では、次に「半密室のトリック」をみていこう。被害者は事務所のひかえ室の中で、事務所側のドアの前に横たわっている。
    角(つの)のような、妙な形をした鉄製のものが二本、首のうしろの個所に、上着の下から突き出ていた(P.49)

     さらに、テーブルの椅子のそばに血痕があることから、椅子のそばで殴り倒されて、わざわざドアの近くまで移動させられたことがわかる。エラリーは死体の異常な状況を(不謹慎にも)おもしろがって、
    「すると、あの動かされた本棚のうしろの、事務所に通じるドアのそばで、その男は、いったいなにをしていたかということになる」
    (P.75)

    などと、クイーン警視を前に軽口を叩いている。

     ここに作者エラリー・クイーンの詐術的なミスディレクションがある。つまりは、探偵エラリー自らが犯行のあべこべ性を強調し、
    「…この部屋にある家具や、動かせるものはすべて、あべこべにひっくりかえしてあるじゃないか」(P.64)

    とまで言い切っているのだが、本当を言えば「あべこべ」という一点で調和が取れている犯行現場とは言えないのだ。
     死んだ男は戸口の両側をふさいでいる二つの本棚のほぼまん中に、ドアの敷居口と平行に横たわっていた。ドアに向かって立っているエラリーの左側の本棚は、壁にぴったりとついていた元の位置からひき出されて、その左側のはしが、ドアの蝶番に触れ、右側は部屋のなかにとび出しており、こうして動かされた本棚はドアに対して鋭角に形作っていた。死体は半ばそのうしろにかくれていた。右側の本棚は、ずっと右のほうに移動させてあった。(P.89)

     一体、何事が死体周辺に起きているのか、正確に把握できた読者が果たしてどれだけいるだろうか?少なくとも中学生当時の僕には、なんのことやら全然理解できなかった。しかし作者自身も、この部分はそっとしておいて欲しかったにちがいない。この死体の有様は「あべこべの犯罪」以上に尋常ではないのだが、全体として「平仄があってない」ナンセンスな状況に一括されてしまう。

     一度は詳細に描写し、その後なるべくは読者が忘れてほしいと作者が願う死体の状況とは、いかなるものだったか。
     明らかに、槍の足のうしろ側から、ズボンのなかをくぐらせて、それぞれの足に一本ずつ差し込まれたもので、腰のところで一応外に出てきて、それから、男の背中のあべこべに着た上着の下に押しこまれ、おしまいに、V字型になっている襟口から突き出ていた。槍の尻は死んだ男の靴のゴム底とすれすれになっていた。(P.60)

     最初に部屋や着衣が「あべこべ」だと言い、死体まわりの様子を指して「平仄があわない」と言い換える。しかし冷静にながめれば、もっとも異常なのは、何にもまして二本の槍にズボンも上着も刺し貫かれて棒状に横たわった死体の方ではないだろうか。

     決定的なのは、
    「われわれが事務所の側からドアをあけようとすると、かんぬきがさしてありました。ごらんのとおり、この部屋の内側からかんぬきがかってあります。」(P.69)

    と状況説明をするエラリーの一言だ。これによって、犯人は廊下側のドアから入り、被害者を殺害後、再び同じドアから出て行ったという認識がほぼ確定しまう。

     そして、作者があえて忘却のかなたに追いやった死体の槍の事を思い出させてくれるのは、事もあろうにクイーン警視の次なる一言だ。なんと、この間235頁も費やされている。
    「それじゃ、あの死んだ男の背中から、アフリカ土人(まま)の槍が二本突き出ていたのは、いったい、どういう意味かね。」(P.304)

     この警視の問いかけに放心したエラリーは、
    「しめた、それが解答だ。あの槍だ、ありがたい。」(P.304)

    と叫ぶ。なんと本当に忘れていたらしい。作者の催眠術は、読者だけでなく作品のなかの探偵にまで効果があるようだ。

     この直後に「読者への挑戦」が置かれ、「あべこべの犯罪」の謎解きが始まるのは、先にみてきたとおりだ。その後に、ようやく「半密室のトリック」をあばく実験が行われるのだが、これは省略するとしよう。なぜなら、この方法で、うまく死体が移動して、うまくかんぬきがかかって、うまく死体とかんぬきを操作したひもが回収されるのか、何度読んでも理解できないからだ。

     ひもはかんぬきがかったあとにひっぱり続けると切れる程度の強度らしい。ならば何故、太った被害者の死体をドアの左側の本棚に沿って引っ張った際に切れなかったのだろう?

     とにもかくにも「二本の槍」と「紙のように薄いインディアン絨毯」と「細い、じょうぶそうなひも」を使うことによって、事務所側から控え室の内側のかんぬきをかけることにエラリーは見事に成功する(P.342〜347)。

     この成功で犯人であるオズボーンは自白する。ドナルド・カークの秘書であったオズボーンは犯行時に事務所にいた唯一の人物であり、機械的なトリックでかんぬきをかけられる唯一の人物だからだ。エラリーはつぎのように推理の過程を説明する。

     「…すると、疑問が起きてきた。なぜ犯人は、死体をドアのそばに移したのか、という。明らかに、犯人は、あの場所から死体をなにかに使ったのだ。」(P.348)

    「その疑問に対して僕が与えた唯一の論理的解答は、一見不可能なようだけれど、死体を室内のほかの場所からドアのそばに移した犯人は、死体が倒れるときに、あのドアに対して、なにごとかをしてもらいたかったのだ、ということだった。…ドアに対して、なにか犯人にとって重要なことをするという場合、考えうる唯一のことは、ドアに錠をおろすことである。…いったい、なぜ、死人にかんぬきをかけさせる必要があるのか」(P.349)

    「それに対する唯一可能な解答は、犯人は、廊下のドアを通って、この部屋から出ることができなかったか、あるいは出ることを欲しなかったか、どちらかだ。犯人は、事務室に通じるドアを通って、この部屋から出たかったのだ。」(P.350)

     しかし、エラリーが盛んに「唯一」という言葉を重ねて強調するほどには、この推理には説得力がない。「ドアに対して行うなにごとか」が「かんぬきをおろすこと」であるというのはエラリーの直観であって論理的解答ではない。さらに言えば、エラリーの直観を支えているのは「密室トリック」の存在である。

     あれだけ、ドアまわりや被害者の状況が異常であれば、なんらかのトリックが疑われるのは当然だ。しかし、そこからエラリーはどうやってあの複雑怪奇な「密室トリック」にたどり着いたのだろう。死体に残された二本の槍以外に、インディアン絨毯や長くてじょうぶなひもがあれば死体が動かせて、おまけにかんぬきがかけられることを、どうやって「推理」したのだろう。いや、エラリーは「密室トリック」をあばくために、なにひとつ推理していないのだ。

     すると、「パーフェクトガイド」が指摘する「本作を密室ミステリーとして読んだ読者にとって、”あべこべをめぐる推理”などはどうでもいいがゆえに、作品の評価が下がってしまう」ということの責任の一端は、やはり作者が負うべきものだと考えられないだろうか。何故なら「推理はトリックを乗り越えられない」ことを、まず何よりも先にエラリー自身が作中で実践していたのだから。
    posted by アスラン at 04:16 | 東京 ☀ | Comment(1) | TrackBack(0) |  書評(エラリー・クイーン) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする