カテゴリ記事リスト
1998年10月24日(土) 「ダイヤルM」「カンゾー先生」(08/12)
1998年10月25日(日) 「オール・スターズ」「フェリーチェさん」(08/08)
1998年10月31日(土) 「フラワー・オブ・シャンハイ」「河」「エル・スール」(08/06)
「がんばっていきまっしょい」あるいはなっちゃんの「坊ちゃん」(08/02)
1998年11月1日(日) 「生きない」「がんばっていきまっしょい」(08/01)
1998年11月2日(月) 「学校V」「ヒロイン!」(07/27)
1998年11月7日(土) 「相続人」「モンタナの風に抱かれて」(07/25)
1998年11月14日(土) 「踊る大捜査線線THE MOVIE」「トゥルーマン・ショー」(07/23)
1998年11月18日(水) 「マイ・フレンド・メモリー」(07/18)
1998年11月23日(月) 「ガンモ」「ビッグ・リボウスキー」(07/15)
1998年11月29日(日) 「ダークシティ」(07/14)
1998年12月5日(土) 「原色パリ図鑑」「ぼくのバラ色の人生」「ニルヴァーナ」(07/10)
1998年12月6日(日) 「落下する夕方」「Xファイル ザ・ムービー」(07/08)
1998年12月7日(月) 「宗家の三姉妹」(07/06)
1998年12月12日(土) 「地球は女で回ってる」「アウト・オブ・サイト」(07/04)
1998年12月19日(土) 「ナイトウォッチ」「アンナ・マデリーナ」「ルル・オン・ザ・ブリッジ」(07/02)
1998年12月27日(日) 「恋の秋」(07/01)
1998年12月31日(木) 「マイ・スウィート・シェフィールド」(06/30)
大いなる遡行(1998年)が始まります。(06/29)

2005年08月12日

1998年10月24日(土) 「ダイヤルM」「カンゾー先生」

 松竹セントラル1で「ダイヤルM」(no.148)を観る。

 マイケル・ダグラス扮する実業家が、破産寸前の事業を立て直すため美しい妻グウィネス・パウトロウの資産を狙って殺人を企てる。それも妻の不倫相手の新進画家に殺人を依頼する。

 「ゲーム」に引き続いて孤独でエキセントリックな実業家を好演するマイケル・ダグラスといい、今が旬のグウィネスといい、配役はなかなかいい。

 ただヒッチコック作品のリメイクにしてはサスペンスの演出が不十分。夫と妻と不倫相手の3者入り乱れての心理戦が物足りないし、驚きがない。

 それに刑事役のデイビッド・スーシェが絡んでくると面白いのにそれも肩すかし。彼は今回は非常にストイックな刑事を演じているが、どうしてもポアロのとぼけた表情が思い出されてしまう。彼をあえて刑事にするのはミスキャストだろう。

 丸の内東映で「カンゾー先生」(no.147)を観る。

 今村昌平監督の「うなぎ」に次ぐ新作。「うなぎ」で狂ったように主人公の男を付けねらうムショ仲間を好演した柄本明が「カンゾー先生」こと赤城風雨を演じている。

 敗戦間近の日本、瀬戸内の田舎町で肝臓炎撲滅に奔走する町医者の奮闘記をユーモラスに描いていく。今村監督独特の人物造形によるアクの強い人々との奇妙な付き合いから、ユーモラスだがそれでいて戦時中の日本に対する軍部への反発を織り込んでいる。

 しかも意識したかどうかは判らないが、黒沢明を意識したかのような大胆で骨太な演出が随所に観られる。息子の戦死通知を仏壇の前で紙吹雪にして号泣する赤城に山ほどの紙吹雪が降りかかったり、ラストの広島に落ちる原爆のキノコ雲が病んだ肝臓の形に見えたり、赤城が町中を患者宅へ走るシーンにジャズの激しいリズムがかぶったりだとか、なんともほほえましいくらい大胆な映画作りをしている。
posted by アスラン at 00:19 | Comment(2) | TrackBack(2) | 映画評(1998年) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月08日

1998年10月25日(日) 「オール・スターズ」「フェリーチェさん」

 オランダ映画祭の招待券が当たったので、青山一丁目の草月ホールにいく。

 1600年4月19日にオランダ船が九州に到来して以来、400年の長きにわたって日本とオランダとの関係は続いている。それを記念して昨年から2000年まで3年連続で映画祭が催されるそうだ。昨年は知らなかった。今年は新聞の応募で知ることができた。東京に住んでいて本当によかったと実感するのはこのような企画が催される時だ。

 「オール・スターズ」(no.150)は、子どもの頃から続いている草サッカーチームの仲間たちを描いた映画だ。

 オランダではサッカーが国技のように人気があるスポーツで、誰もが子どものころからサッカーを楽しんでいる。中には観るだけでなく大人になってもアマチュアでサッカーを続ける。ただ20代にもなると少年のころとは違い、お互いの生活も環境も変わる。悩みなき少年も様々な人生の痛みを抱えるようになる。バカをやったりバカを言ったりもしていられない。そんなちょっぴり苦くてそれでいて楽しい連中の友情や愛情を見事に描き分けている。

 上映前にジアン・ファン・デ・フェルデ監督の挨拶、上映後に質疑応答があり、映画祭らしくてとても楽しかった。
 天気がいいので渋谷までぶらぶら散歩しながら途中で昼食。

 再び草月ホールに戻り「フェリーチェさん」(no.149)を観る。

 この映画はオランダと日本の400年の国交にふさわしく、日本に幕末に来日した報道写真家フェリーチェ・ビアトと日本人妻お菊とのエピソードを描いている。

 ストーリーは史実ではなく、監督のペーター・デルペウトがフェリーチェの撮った写真のイメージに触発されて創造したものである。

 突然帰国して6年後に戻ってきたフェリーチェは、その間消息を断ったお菊を探して長崎から尾道、冨士、横浜、東京と旅をする。旅の間に様々なお菊ゆかりの人々と出会うことで、お菊の自分への愛情に気づいて日本人の文化に初めて理解を示すようになる。

 ほとんどが宿や女郎屋などの室内でのフェリーチェと人々との対話だけで物語が進行するが、全編日本語で会話が行われ、登場人物もしごく日本人らしい。

 どう考えても日本映画以上に日本の100年前を描き出している。どうしたらこのような映画ができるのか不思議だ。しかも単調だが奥深い演出が静かな感動を生んでいる。
posted by アスラン at 01:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画評(1998年) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月06日

1998年10月31日(土) 「フラワー・オブ・シャンハイ」「河」「エル・スール」

 秋に入ってから新作のロードショー・ラッシュが続いている。あっという間に上映期間が終ってしまう映画も多いので、今週末は観たい映画を見損なわないようにと気合いが入る。

 まず渋谷シネパレスで「フラワー・オブ・シャンハイ」(no.153)を観る。

 候孝賢の新作ならばぜひとも観たい1本だ。

 今回は19世紀の中国・上海で栄えていた遊廓の女性たちの物語を描く時代劇だ。「恋恋風塵」や「童年往事」で息を飲むような新鮮な地方の風景と純粋な人々を描き出してきた候作品とは一変して全編室内撮影である。

 上海でのロケの許可が降りずやむを得ず室内撮影だけにしたとの事だが、逆にその事が映像に独特の緊張感と遊廓の怪しげな雰囲気を与える事に成功している。外界ではアヘン戦争後の欧米の脅威に晒されて不安定な状況にありながら、内部では官僚や実業家が入りびたり遊女との濃密な情愛を繰り広げる独自の時間が流れている。

 だからこの空間には因習と金に縛られた男女の力関係だけしか存在しない。金と力のある男は享楽にうつつをぬかし、男に依存することでしか生きられない女たちは様々な形でしたたかに生きてゆかざるを得ない。

 ストーリに派手さはないが、冒頭の男どもの馬鹿騒ぎを10分間1シーン1カットで撮るなど今回は非常に意欲的な演出をしていて見応えがある。

 昼食をとったサンドイッチ屋でハロウィンを祝ってクッキーがついてきた。ハロウィンも日本に定着しつつあるのかな。

 ユーロスペースで「河」(no.152)を観る。

 蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)監督は、候孝賢監督と同じ台湾の監督。

 前作の「愛情萬歳」を観た時、都会で生きる孤独な男女の姿をうまく描いていると思った。ドラマチックな演出は一切廃し1つの場面をリアルに切り取りずっと何も起らないシーンやずっと女が泣きじゃくるシーンを固定カメラで撮り続ける。緊張に絶えられず思わず溜め息をついてしまった。

 本作でもその手法は変わっていないが、今回は登場人物たちのリアリティと存在感の方が優っていて息を呑むように食い入るように映画を観ていた。

 無職の青年シャオカンとその父、その母の物語は、それぞれの孤独を互いに共有することがないだけに前作の男女の関係より一層複雑で救いようがない。その凍えるような孤独は、シャオカンがかかるクビが坐らなくなる奇病や、中華飯店に努める母が勤め先から持ち帰る残飯や、父の部屋の天井から止めどなく流れおちる雨漏りなどで鮮やかに象徴的に描かれる。

 引き続いてユーロスペースで「エル・スール」(no.151)を観る。

 スペインの映画作家ヴィクトル・エリセの特集。ほぼ10年に1本の間隔で映画が作られ、これまでに「ミツバチのささやき」「エル・スール」「マルメロの陽光」の3本しか作られていない。

 どれも珠玉の1本ばかり。思えば12,3年前にこの作品を観て映画の見方が大きく変わった。映画はストーリよりも何よりも映像感覚で見せるものである事を知った。どんなに風景と表情とカメラワークだけで人を感動させる事ができるかを教えてくれた。1986年当時の僕の感想を記そう。

 「すべてが語られてはいないのに、ささいな仕草や言葉や風景や構図に、すべてが影のように織り込められている。クライマックスをもつことを周到に避けているこの作品で、唯一涙が堪えられなくなる場面がある。ホテルで娘と父が語り合う場面だ。隣室で催される結婚式の賑やかな宴。そこに流れる曲が、むかし初聖体拝受式の日に幼い娘と踊った時の曲だと父が気づき、娘に促すが、娘はそっけない返事を返す。この時、父は何もかも取り戻せない事に気づき寂しげに微笑む。このわずか数十秒のショットが素晴らしい。」
posted by アスラン at 23:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画評(1998年) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月02日

「がんばっていきまっしょい」あるいはなっちゃんの「坊ちゃん」

 ちょうどテレビドラマ化されているので、当時の映画評に少し付け加えてみたい。

 すっかり忘れていたが映画評に書いたように、結構いい映画、いい物語なのに公開時は全然扱いがよくなかった。当時は映画を観るとよっぽど気にくわない映画以外はパンフレットを買っていたので、用意されてないとがっかりする。特に「がんばっていきまっしょい」のように出来がいいのに冷遇されていたりすると、本当に残念だ。

 松山の「坊ちゃん文学賞」受賞作でしかも松山の高校が舞台というローカル色が災いしたのだろうか。とりあえず短期間でも劇場公開して箔をつけておいてビデオで元を取るというのは外国映画では珍しくないのだが、ときどき邦画でもその憂き目にあうものがある。

 いわば埋もれてしまった物語が掘り起こされて今回のテレビドラマ化に至ったのはうれしいのだが、映画とまったく同じ情感を期待すると裏切られるだろう。

 不器用で何事も中途半端で、だけど頑固で意地っ張り

そんなヒロインの少女の人物像は、映画も原作の小説もそしてテレビでも同じなのだが、そこからどのように人間を立ち上げるか、どう物語を演出するかで全然違ったドラマが生まれる。

 そもそも「女の子」は何もせんでもいいと、投げつけるように言い放つ頑固な父の性格をもっとも受け継いだ次女は、鬱々として退屈な高校生活に入学当初から嫌気がさしてる。
 優等生で父の自慢でもあるお姉ちゃんと比較されるのもイヤなら、父の言う通りおとなしくしているのもイヤ。でも、自分に何ができると自問する毎日。

 ある日夕日に映えた男子ボート部の雄姿を見て、「美しいなぁ、自分もやりたいなぁ」と思いこんだところから、物語は始まる。

 そこからの彼女の奮闘ぶりはものすごい。女子ボート部はなく部員も集まらない。コーチもいなければ海岸ぺりにある部室の汚さったらない。ようやく集めた部員は自分同様頼りないし、ボートも男子部員の力を借りないと持ち上がらない。そんなダメダメのところから、彼女たちはきまじめに一歩一歩と進んでいく。

 最初の大会でボロボロになって、なお「このままじゃ終われんよ」とチーム一(いや新入生一)の美少女が言い出すシーンが前半の山場だ。

 映画は一貫して原作の雰囲気をたたえつつ、何かをやりとげようとしたあの頃の少女たちの美しさを淡々と追っていく。それに比べるとテレビドラマのヒロイン(鈴木杏)は勝手な思いこみでつっぱしり、家族にもボート仲間にも男子部員に対してもただ迷惑をかけるだけの少女として描かれている。

 これはいわば「ウォーターボーイズ」女子版のような描き方で、青春モノ、学園モノに出てくる少年・少女は未熟で当たり前という前提でお話が成立しているような気がする。それを一概に悪いとはいえない。テレビでやるにはそれなりのわかりやすさ、いい意味でのあざとさが必要なのはもちろんだからだ。

 要は映画とは違う、原作とも違うと言いたいだけだ。(まあ、ホントはそれだけじゃないが…)

 後半の山は、ヒロインの少女が腰を痛めてボートをやめようかと悩むいたいたしさだ。
実は、ここからの映画はラストまでもうとにかく「美しい」。ひたすらボートに自分の高校生活を賭けたい、いや「命」だって賭けてもいいという少女の切実な気持ちが本当に切なく、だから美しいのだ。

 この切なさは、ひとつには「父への反感=認められたい、ちっとは認めてほしい」という少女の気持ちの描き方とも関連がある。つまり映画では最後の最後にならないと次女のけなげさを見てやろうともしない頑固な父と娘との慎ましやかな和解のドラマがうまく塩梅されているのだ。

 テレビドラマの大杉漣演じる父は、その点陰で心配しておもてでぶっきらぼうという分かりやすい人物に描かれているから映画のような切ない情感には至らないが、これはこれで微笑ましい

 実は映画を見てから原作に手を出したのだが、ちょっと意外な読後感をもった。

 この映画の後半で、田中麗奈扮するヒロインがなんとかぎっくり腰から回復して(完治まではいかない)、県大会に仲間と出場する。ここで流れる曲(リーチェ「オギヨディオラ」。あの癒し系オムニバス「feel2」に収録)とスローモーションを多用した湖でのボートシーンは圧巻なのだが、原作ではさらっと描かれる。そして女子ボート部と彼女のその後が描かれて、淡々として物語は終わる。あえて青春モノにありがちな感動的な結末を避けたという感じがしたが、盛り上がりに欠けた終わり方であった事も確かだ。

 ただ著者が伝えたかった「若き日々の輝き」は確かに原作に一貫して流れていたし、綿々と後輩に受け継がれていく伝統の気恥ずかしさと誇らしさが、青春物語の面目を施しているという気がした。

 もうちょっと言ってみたい。映画がよかったので少々肩入れが過ぎるのかもしれない。

 たとえば漱石の「坊ちゃん」の映画やドラマを見たときと原作を読んだときの違和感と似ている。
ドラマでは「坊ちゃん」はおっちょこちょいだがすごく勇ましい真っ正直な男に描かれる。しかも大抵は青春スターが演じる事が多いので、熱血漢が暴れ回ったあげく生徒からはやけに好かれて、最後には帰京する船を生徒全員が見送るというシーンが一般的だ。

 しかし原作の「坊ちゃん」のエンディングはドラマのそれとは違ってひどく寂しい。赤シャツに手玉に取られたあげくに鬱憤を晴らしたのはいいが、その後意気投合した山嵐とは東京駅で別れたきり。学士でまがいなりにも「坊ちゃん」であった彼は、その後東京で街鉄の技士(今でいう都電の運転手)になる。あんなに溺愛してくれた清も亡くなってしまい、一緒に暮らすという彼女の願いも叶えられない。

 実は小説「坊っちゃん」を支えているのは爽快さと対をなすこの寂しさと言っていい。そしてまさに小説「がんばっていきまっしょい」にもそれと同じような寂しさが描かれる。

 過ぎ去っていったもの、失ってしまったもの、あの「輝ける日々」に置き去りにしてしまったものが淡々としたエンディングに封じ込められる。そしてそれが著者が選んだ、小説としてふさわしい終わり方なのだろう。

 そうか!

 あの映画で田中麗奈が部室に貼られた「女子ボート部」のかつての写真を見つけるシーン。あれこそが原作を書いた著者やボートで結ばれた仲間たち先輩や後輩たちへのオマージュだったんだなぁ。
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posted by アスラン at 01:59 | Comment(3) | TrackBack(9) | 映画評(1998年) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月01日

1998年11月1日(日) 「生きない」「がんばっていきまっしょい」

 テアトル新宿で「生きない」(no.155)を観る。

 たけし軍団のダンカンが脚本・主演で、北野たけし作品の助監督を務めた清水浩が初監督の作品。スイスで催されたロカルノ映画祭で特別賞を受賞した作品。

 何はともあれ、そんな格付けは一切必要のない独特な味わいのあるコメディだ。

 借金を抱えた人々のために企画された沖縄初日の出ツアーを隠れ蓑にした自殺旅行。暗く侘しい表情の男たちと怪しげなツアーコンダクター。その中に気のふれた叔父の代わりに若い元気そうな女の子が何も知らずに同乗してしまう。

 そこから起る不思議な珍道中が始まる。暗い車内で女の子の提案で始まるしりとりの馬鹿々々しさ。その裏に見え隠れする人々のうら寂しさ。しりとりはその後何ども形を変えて情感を盛り上げる小道具に用いられる。

 クライマックスの崖に向かう際に、発作を起こした旅仲間の意識を引き止めようと「しりとり」を続けるシーンの演出が秀逸で感動的でもある。

 新宿東映パラス2で「がんばっていきまっしょい」(no.154)を観る。

 松山市が主催する「坊っちゃん文学賞」を受賞した小説の映画化で、「なっちゃん」のCMなどでお馴染みの田中麗奈が主演。

 なにしろ東映作品のくせにこの映画館だけの単館上映でパンフレットもないので、原作がどういういきさつで映画化されたのか、監督のプロフィールさえもがよくわからない。

 兎に角、伊予東高校に入学した少女がボートが海をゆく姿に魅せられて女子ボート部をつくって5人の仲間を集めて奮闘する話だ。

 話はどうってことはないが、女の子らしい初々しさが残る田中麗奈が「なっちゃん」やJRのCMのイメージそのままに意地っ張りでいて愛らしい少女を好演している。

 タイトルは毎年入学式に生徒会長が音頭を取って生徒達一同で気合いをいれる際の掛け声だ。

 新入生のきょとんとした顔を尻目に上級生たちは「しょい!」と答える。

 田中麗奈扮する悦子が、1年の時は不思議そうに聞き過ごすのに2年目には力強く答えるシーンが、学生生活の情感をたたえていてよく描かれている。

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posted by アスラン at 19:06 | Comment(2) | TrackBack(2) | 映画評(1998年) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月27日

1998年11月2日(月) 「学校V」「ヒロイン!」

 週末だと混雑するので「踊る大捜査線THE MOVIE」を観ようと思ったが、平日でもマリオンの日劇東宝は既に立ち見。休みの谷間だからなのか、それともロードショーが始まったばかりだからか。

 とにかく急きょ変更して丸の内松竹で「学校V」(no.157)を観る。

 これまでは「寅さん」というフォーマットの内側だけでしか見る事の出来なかった山田洋次監督の実力を改めて見せつけられる思いがした。

 「幸せの黄色いハンカチ」のような極めて居心地の良くないヒューマニズムを見せられてからというもの、どうも山田洋次作品に信用が置けない気がしていた。だから「寅さん」も特に注目して観た事はない。あのシリーズは山田作品というよりはキャラクターによって生み出される作品だと思っていた。

 だからろうあ者の若者どうしの恋愛を描いた「息子」が思いの他よい出来だったのが意外だった。山田洋次には「寅さん」が足枷になっているとその時に思った。

 「寅さん」亡き後、この勉強家の監督が学校を題材として意欲的に映画作りに取り組んでいるのが映像にも演出にも表れている。特に登場人物に対して同情のまなざしではなく、冷静で客観的な、それでいてあたたかな視線を送っているところに好感がもてる。

 シャンゼリゼで「ヒロイン!」(no.156)を観る。

 スーパーにお客を取られてさびれた商店街を盛り上げるためにママさんバレーチームを作って商店街の宣伝に一役買おうとするヒロインたちの話。

 酒屋で娘と祖母の3人暮らしの母親に室井滋が扮している。根性があって情にもろくてカッと来やすい質の元気なおばさん役がハマッている。

 ただし映画はありきたりの内容で、演出も面白みに欠ける。チームにはインド女性がいたり元レディース(女暴走族)がいたりで様々なキャラクターを設定しているが、9人全員を描き分けられていない。ましてや対戦相手のチームも間抜けなチーム名以外に特徴がない。

 ギャグにしても関西テレビ開局40周年記念作品にしてはコテコテのお笑いでもないし中途半端。
posted by アスラン at 18:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画評(1998年) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月25日

1998年11月7日(土) 「相続人」「モンタナの風に抱かれて」

 丸の内ピカデリーで「相続人」(no.159)を観る。

 ベストセラー作家ジョン・グリシャムの書き下ろしの脚本を、芸達者なロバート・アルトマン監督が演出する。

 意外にもほとんど法廷シーンはなくトラブルに巻き込まれた女性を助けようとして自らも窮地に追い込まれる弁護士の姿を描いていく。

 キャスティングは申し分ない。ケネス・ブラナー、ロバート・ダウニーJr.、ロバート・デュバルなどなど、曲者ぞろいだ。しかし全体的にサスペンスは空回り。当初からネタ割れして先が読めてしまう。

 クライマックスに法廷でのどんでん返しでもあればよかったのに。オーソドックスなスリラーに仕上がっているだけにちょっと残念

 日比谷映画で「モンタナの風に抱かれて」(no.158)を観る。

 劇場の脇の通路で次回待ちの行列に並んでいると、隣りのカップルが「マディソン郡の橋」の女性版なのだと話しているのを耳にした。なんだ、そういう映画なのかと少々がっかりした。

 「マディソン郡」はクリント・イーストウッドの演出はともかく、原作のストーリーは間が抜けていい気なものだったからだ。でもよく考えればイーストウッドの映画に刺激されてロバート・レッドフォードがこの題材を選んだのだと思えてくると、がぜん興味が出て来た。

 一言で言えばきれいなラブ・ストーリー。数々のカウボーイを演じてきたレッドフォードの面目躍如たる純情な中年男女のラブストーリーだ。

 しかも事故で傷ついた馬と娘の両者を癒す話がメインとなっていて、そこでたまたま出会った二人が次第に惹かれていくという非常にスマートな展開。

 これ以上ないくらいオーソドックスなストーリーを支えているのは、やはり圧倒的に美しい牧場の風景と、馬と心を通わせる事のできる男の存在だろう。

 きれいごとに終始するのがレッドフォードの役者としての限界とも言えるのだが、あえてここまで役者レッドフォードを活かし切った監督レッドフォードの手腕を認めてあげよう。
posted by アスラン at 23:32 | Comment(2) | TrackBack(2) | 映画評(1998年) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月23日

1998年11月14日(土) 「踊る大捜査線線THE MOVIE」「トゥルーマン・ショー」

 日劇東宝で「踊る大捜査線線THE MOVIE」(no.161)を観る。

 通常は映画とテレビだと話のテンポや演出が変わってがっかりさせられるものだが、この映画にはそれがあまり感じられなかった。このシリーズの締めくくりとしては最高の出来と言っていいと思う。

 映画うんぬんを論じるより、現代の警察をリアルに描くという言わば逆転の発想がなによりもこのシリーズを支えていて、今回も冒頭のゴルフコンペのシーンから所轄と本庁との上下関係は随所に描かれている。

 クライマックスで黒澤明監督の「天国と地獄」をまねて煙突から着色された煙りを出すあたりは、映画ファンへのサービスも怠らない。とにかく最後の「青島刑事の死(?)」までよく楽しませてもらいました。

 丸の内ピカデリーで「トゥルーマン・ショー」(no.160)を観る。

 「踊る‥‥」に比べるとやや入りは劣る。前評判からもっと混んでいるかと思った。なにしろハリウッドでしか出来ないような独創的で魅力的なストーリーだからだ。

 生まれた時からずっとテレビに放映され、社会人として家庭をもつ今現在でさえも現実から隔離されたセットの中で暮しているトゥルーマン。今まで気づく事もなかったのに、次第に人生がコントロールされている不安にとらわれていく。

 ジムー・キャリーは日頃の馬鹿騒ぎの演技ではなく抑制の利いた演技を心掛けている。トゥルーマンの回りの社会が実際は大規模なエキストラによる演技からなりたっている事が映像の端々で露になるところのちぐはぐさが楽しい

 しかし監督が「ピクニックatハンギングロック」や「目撃者・刑事ジョン・ブック」のピーター・ウィアーだけあってユーモアだけに終ることなく、トゥルーマンをショーとして放映するテレビやそれを固唾をのんで見入っている人々に、ファンタジーにとどまらないリアリティーを与えている。
 ただしラストがちょっと拍子抜けで残念。

 11日に亡くなった淀川さんなら今日の2本なんと言ったろうか。実は映画を待つ間、そんなことばかり考えていた。

 「なんだ、つまんない映画」と言ったろうか。
 「観て損しないよ」とでも言ったろうか。

 いや、「もっと映画を観なさい」が最後の言葉。「観ちゃいけない映画なんてないよ」というのも口癖だった。黒澤さんの葬儀での言葉どおり後を追って逝ってしまった。

 89才の見事な人生に合掌



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2005年07月18日

1998年11月18日(水) 「マイ・フレンド・メモリー」

 有楽町のよみうりホールで試写会。「マイ・フレンド・メモリー」(no.162)を観る。

 図体は大人並みだかおつむが足りない少年マックスと、知能が有り余っているが骨の成長が止まる難病を抱えている少年ケビン。

 彼らは二人で一人前。互いの欠点を補いあい、ケビンの勇気ある言動が臆病で内向的だったマックスを変えていく。

 自分達をアーサー王伝説の円卓の騎士になぞらえていじめっ子たちと立ち向かっていく。単なる美しき友情物語や悲しき難病物語ではなく、寓話やファンタジーの要素を取り入れた演出が、やがて訪れる悲劇を悲しいだけで終らせない予感を感じさせてくれる。

 ケビンの死を乗り越えてマックスが二人の物語を一冊の本にまとめあげた後に、ケビンの残していった鳥型の飛行機を青空へむけてはばたかせるラストが感動的だ。

 ケビン役があのマコーレー・カルキンの弟キーラン・カルキン。兄以上に芸達者で愛敬がある。母親役にシャローン・ストーン、マックスの祖父母にジーナ・ローランズハリー・ディーン・スタントンと共演者も豪華だ。

 それにしてもちらしに書いてあるが、「マイ・ライフ」「マイ・フレンド・フォーエバー」「マイ・ルーム」など、いのちの尊さを見つめる「マイ」シリーズがあるとは知らなかった。
posted by アスラン at 00:18 | Comment(2) | TrackBack(1) | 映画評(1998年) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月15日

1998年11月23日(月) 「ガンモ」「ビッグ・リボウスキー」

 勤労感謝の日。渋谷スペイン坂のシネマライズで「ガンモ」(no.164)を観る。

 竜巻に襲われて多大な被害を受けた町ジーニアの人々の貧しい日常を描いた映画。

 特にストーリがあるわけではなく、貧しくて薄汚れた家で暮す人々の日常を切り取ってコラージュしてゆく。兎に角、無気力で精神的にいびつな大人や、無邪気で残酷な子供たちの生活は、およそ私たちが考えるアメリカのイメージとはほど遠い。

 しかもよく知っているスラム街の黒人の貧しさではなくて田舎町の白人たちの貧困は、より一層衝撃的でしかも救いようがないほど暗く不気味だ。

 主人公の二人の少年の顔が、これまた二度と忘れられないくらい印象的で、しかも二人がおもちゃの銃で猫殺しに興じたりする。それも決して笑みを湛える事がない。これが現実か

 映像美ではなく人間の怖さや不気味さ、おかしさを作家の独特の感覚で閉じ込めた作品だ。怖いだけでなくとぼけた味わいもあるが、でもやはりおぞましい映画だ。

 パルコ・パート3のサンドイッチ店で昼食後、再びシネマライズで「ビッグ・リボウスキー」(no.163)を観る。

 前作「ファーゴ」でブレイクしたコーエン兄弟の最新作。

 実は彼らの映画は今回が初めてだが、妙な雰囲気とハリウッドらしくない味わいのあるコメディになっている。なにせ主人公の男3人が何ともあか抜けないダメ男たちで、しかもボーリングに熱中しているなんて妙なやつらだ。対戦相手のイタリア人も変態じみていてそれがやはり妙におかしい。

 だからこの映画を語る時のキーワードは要するに「妙なやつら」というわけだ。

 だいたい「ファーゴ」で時の人になったスティーブ・ブシェーミなんて情けない吸血鬼でもやらせたらハマリ役じゃないかと思うくらいの変な顔だ。それが今や「アルマゲドン」で人類を救う英雄の一人にキャストされるくらいだから世の中何がどうなってるかわからない。
posted by アスラン at 19:04 | Comment(0) | TrackBack(3) | 映画評(1998年) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月14日

1998年11月29日(日) 「ダークシティ」

 松竹セントラル1で「ダークシティ」(no.165)を観る。

 地下では先日観た「ダイヤルM」が上映されていて行列が出来ている。こちらはガラガラだが、どう考えてもこちらの方が面白い。派手さはないが映画としては一級品だ。

 主人公マードック(ルーファス・スェール)は、目を覚ますと記憶を失って名前さえ忘れていた。しかも連続娼婦殺人事件の容疑者として警察から追われてしまう。

 夜の闇の中をかすかな記憶の断片をたぐりよせて自らの無実を証明し記憶を取り戻そうと奔走する。しかし絶えず夜ばかりで昼の記憶が一切ないダーク・シティでは、世界そのものを自由に変える事ができる異邦人の力によって、人間の人生そのものがチューンされている事にマードックは気づいてしまう。

 深夜12:00になると一斉に地上の人間は眠りにおち、地下に住む異邦人たちの力によって街の姿がみるみる変わっていくシーンが圧巻だ。

 ビルがニョキニョキ生え出て小さなアパートが邸宅に変貌する。住人の労働者夫婦には、富豪の人生を配合した記憶が注射され、起き上がると二人の会話は使用人を搾取する話になっている。

 記憶を操作され次々に違う人生を割り当てられて実験台にされている事を知ってしまった恐怖。自分のかすかな記憶さえもが作り出されたもので、まわりの友人や妻、叔父なども昨夜までは他人だったのかもしれない。

 非常に斬新な映像と全く新しい恐怖。
 そして謎のままで終らせないラストの爽快感

 どれをとっても素晴らしい

カチンコ
 主役のルーファス・スェールは「マーサ・ミーツ・ボーイズ」の気取り屋を演じたり、ケネス・ブラナーの「ハムレット」の最後の最後で、ハムレットの国を滅ぼそうとする隣国の王子フォーティンブラを演じていた。
 他にマードックを追いかける刑事がウィリアム・ハート。職業に忠実たらんとする一方で真犯人は別にいるのではと深読みする演技が渋い。
 マードックのかつての恋人がジェニファー・コネリー。かつての初々しさはないが相変わらず美しい。ダークシティに翻弄される謎の女ぶりがいい。
 異邦人の手下に甘んじるマッドサイエンティストにキーファー・サザーランド。「24」で売れっ子になった今となっては消したい過去かもしれないくらいのマッドぶり。

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2005年07月10日

1998年12月5日(土) 「原色パリ図鑑」「ぼくのバラ色の人生」「ニルヴァーナ」

 渋谷Bunkamuraのル・シネマで「原色パリ図鑑」」(no.168)を観る。

 失業して部屋代も払えない男が運をつかんで成功するまでを描いたコメディ。パリの衣料品の卸業が盛んなサンティエ地区でのユダヤ系フランス人の暮しぶりをうまく描いている。

 主人公エディがユダヤ人と間違えられてそのまま仲間入りしてしまうため生活習慣の違いが引き起こすトラブルがおかしい。

 主人公エディがユダヤ人と間違えられてそのまま仲間入りしてしまうためラストは繊維業界のボスの娘との結婚がユダヤ人でない事からダメになりそうになるが、結局愛はすべてを乗り越えるというハッピーエンド。

 嘘っぽいが、それもまた一方の現実を映し出しているのかも知れない。とにかくパリの都会的なストレートなラブ・ストーリではなく、移民たちにとってのパリをおしゃれに描いていて気軽に楽しめるコメディだ。

 昼食をはさんで引き続きル・シネマで「ぼくのバラ色の人生」(no.167)を観る。

 ベルギーの監督アラン・ベルリネールの長編第1作。女の子になりたい男の子の物語

 引っ越して来た新興住宅地でのガーデンパーティで姉のドレスを身に付けて登場してしまうリュドヴィック。隣りの父の上司の家の息子と結婚する事を夢みて、挙げ句の果てに学校の劇でシンデレラ役の女の子をトイレに閉じ込めて自分が入れ替わってしまって、父は失業。一家は再び引っ越しを余儀なくされる。

 隣り近所は偏見のまなざしで少年を観るが、監督の観るまなざしは性的な倒錯ではなく誰にでもある思春期以前の子供の心の揺れ動きとしてやさしく描いている。

 とにかくリュドイック役の少年は、少年少女が得てしてユニセックスな存在であるように長髪の時は愛らしい少女に見え、髪をバッサリ切られてからはしっかりとした少年に見える。監督の演出もさすがだが、やはりいい少年を見つけ出して来た事がこの作品を成功させている。

 かんしゃくを起こした母親にバリカンで髪を刈り上げられてリュドイックが涙を流すシーンは本当にせつない。

 シネセゾン渋谷で「ニルヴァーナ」(no.166)を観る。

 2050年という近未来でのクリスマス。ゲーム・デザイナー、ジミーが作っているゲーム『ニルヴァーナ』にウィルスが侵入し、登場人物が人格を持つようになりコントロールできなくなる。

 彼、ソロは虚構の中で孤独な繰り返しを生きる地獄から解放してくれと懇願し、ジミーは願いを聞き入れゲームを消去するため大企業のデータバンクに侵入する事を決意する。

 なかなか魅力あるSF的題材を扱った映画だ。イタリア映画というのもめずらしい。ゲームソフトの名前が『ニルヴァーナ』(涅槃、悟り)というくらいだから単純なSFではなく人間にとってのアイデンティティを問う作品だ。

 一般にサイバーパンクと呼ばれるジャンルに「自分探し」の題材が多いのは、現代の延長にある近未来がマスメディアを基調とした仮想現実の世界を想定しているからだろう。すべてが仮想現実となりうる世界では人類や自己という概念も曖昧なものになってしまう。その不安を人はどう解決していくのか。

 「ダークシティ」同様、ここでもキーワードは「記憶」だ。姿を消した恋人の記憶は一枚の棒状のチップに保存され、レシーバという入力ポートをもつ人間を通して再現される。その時ジミーの心は癒されるのだろうか。思い出さえも再現可能になり、人は身近な人の死をも乗り越える事が出来るのか。

 映画は答えを出してはいない。ただ仮想現実をもてあそぶ近未来の僕らをあざ笑うかのようにジミーは自らが生み出したゲームとゲームキャラクター、ソロを消去するだけだ。
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2005年07月08日

1998年12月6日(日) 「落下する夕方」「Xファイル ザ・ムービー」

 シネスイッチ銀座で「落下する夕方」(no.170)を観る。

 原作は江國香織。「きらきらひかる」(といってもフジテレビのドラマとは別)の作者だ。

 あれは夫がホモセクシャルで妻はアルコール依存症というセックスレスの夫婦の話だった。夫にはボーイフレンドがいて妻は二人の話を聞きたがる。奇妙な3角関係の中で互いに心を求め合う男女の姿を描いていた。少女マンガだなと思った。

 この映画では、逆に男1人に女が二人。夫が急に一人暮らしをしたい、ある女性に一目ぼれをした、と言って突然出て行ってしまう。一人になった彼女のもとにその女性が訪れて住みついてしまう。

 奇妙な共同生活は、またしてもマンガと言えないこともない。しかし彼らのふわついた生活はそれまで口にする事を避けてきた友人の事故が原因である事や、住み着いた女性がやがてなくてはならない存在になった上で、彼女の突然の死が主人公を一歩自立させるきっかけになるなどファンタジックな内容ではあるが、微妙にリアリティが感じられる。

 日比谷映画で「Xファイル ザ・ムービー」(no.169)を観る。

 これはテレビシリーズ自体、あまり興味がなかったのでほとんど観ていない。だからはっきり言ってよくわからない。シリーズでキーマンとなる人物が出ているらしいが、つながりがよくわからない。ただ別に分からなくてもストーリは十分楽しめる。

 特撮は金をかけていて内容もよく考えられているが、”宇宙人もの”によくあるきわもの的演出は変わっていない。謎は謎のまま。謎を解くとさらにその奥にまた謎がある。エイリアンの正体、それに協力する人間の組織の実態も明かされない。そこらへんが演出の限界でもあり不満は残るが、テレビシリーズに慣れた人はそれなりの醍醐味を感じるのだろう。
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2005年07月06日

1998年12月7日(月) 「宗家の三姉妹」

 年休。1:00にようやく用を済ませて、神保町に出て昼食。

 3:00から岩波ホールで「宗家の三姉妹」(no.171)を観る。

 平日でも結構入っている。どうもこの手の映画は中高年に受けるようだ。おばさん方の姿が目立つ。

 実在の宗家の三姉妹の激動の人生を描いている。

 長女は財界の実力者と結婚、
 次女は孫文の妻、
 三女は蒋介石の妻となる。

 これだけでも驚かされるが、現実にあの激動の時代の表舞台にも登場して波乱な人生を3人3様で過ごしている。

 全体的には中国の近代の歴史を下敷きにした人間ドラマとも言えるが、女性監督メイベル・チャンの演出は歴史上の人物の再現よりも確かな人間としての手触りを重視している。そのため孫文も蒋介石でさえも時に人間臭く、一人の夫として描かれている。

 メロドラマらしい歴史の脚色もあるが、女性らしいきめの細かい演出が目に付く。孫文が日本に亡命して次女・慶齢と結婚するシーンも外国映画にありがちな日本文化への誤解がなく丁寧に描いていて好感がもてる。
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2005年07月04日

1998年12月12日(土) 「地球は女で回ってる」「アウト・オブ・サイト」

 恵比寿ガーデンシネマで「地球は女で回ってる」(no.173)を観る。

 ウッディ・アレンの新作で原題が「Deconsturcting Harry」。「ハリーを脱構築(解体)する」という意味になるだろうか。

 パンフレットにいとうせいこうも書いているが、何故今頃になってポストモダンの現代思想のキーワードを使うのか不思議な感じだ。

 ウッディ・アレンはこれまでも私小説的な映画を撮ってきたが、この作品ではいっそう現実と虚構との距離が近づいている。私生活ではインテリだが女に弱く精神的に絶えずコンプレックスを抱えている事を売り物にして「マンハッタン」や「アニー・ホール」を送り出してきた。

 ダイアン・キートンやミア・ファローと次々に共演者をパートナーとしては別れ、その都度自らの私生活は作品へと昇華されていった。現在はミア・ファローとも別れて彼女の養女と再婚している。

 この作品でもそういった事情は妻の妹との不倫や、妻の患者との不倫、教え子との不倫などの本来あってはならない倫理的なタブーを侵すシーンに反映しているとも言える。しかしこの映画の最大の特徴は、言わば作家ウッディ・アレン自身を解体して、自らの作品を総ざらいしてしまうところにある。

 それは自らの作家生活を対象化して突き放す事でもあり、ある種の懺悔とも取れない事もない。と同時にこれまで積み上げてきたものに対する作家としての自負を示すかのように、書き上げた作品の中の登場人物が一同に会して作家を祝福するラストに、思わず「またもやウディ・アレンにしてやられた!」と観客はつぶやかざるを得ない。

 クリスマスのデコレーション満開で、サンタが愛想を振りまいているガーデンプレイスを後にして、新宿に移動して昼食。

 隣の「踊る大捜査線」の行列を尻目に歌舞伎町のコマ東宝で「アウト・オブ・サイト」(no.172)を観る。

 冒頭、大企業のビルから出て来たジョージ・クルーニーはネクタイを荒々しくはずして投げ捨てる。その足で向かいの銀行に行き、まんまと受け付け嬢から金をせしめる。ところが車のエンジンがかからずもたもたしているうちに捕まって刑務所に。

 このテンポのよさと見事なストーリ展開、それに気のきいた会話を全編見せつけられてしまった。何故彼はネクタイを投げ捨てたのか?後半の意外な展開の中で話がつながった時には思わずうまいなぁとうなってしまった。

 監督は「セックスと嘘とビデオテープ」のスティーブン・ソダーバーグ。これほどセンスのある作家だとは知らなかった。
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2005年07月02日

1998年12月19日(土) 「ナイトウォッチ」「アンナ・マデリーナ」「ルル・オン・ザ・ブリッジ」

 松竹セントラル3で「ナイトウォッチ」(no.176)を観る。

 法学生のユアン・マクレガーが死体安置所の夜警のアルバイトを始める。人気のない暗く静かな安置所の中で、死者の重苦しい雰囲気が空間を支配している。

 仲間うちには強がってみせるマクレガーのびくびくした夜警姿がなんとも似合っている。マクレガーは、おどけたりびくついたりする時にみせる愛嬌のある表情がとてもいい。

 しかも単にサスペンスやサイコホラーという味もそっけもない筋立てではなく、死体そのものが醸し出すなんともしれない恐怖を独特なクールな感覚で描き出した監督の手腕も買える。

 デンマークの監督ボールネダールが自身の作品「モルグ」をハリウッドでリメイクしたそうだ。

 解説を読むと「モルグ」の方が若者の若さゆえの逸脱みたいなところにポイントがあり一種の成長物語的な要素が強いのだそうだ。こちらのほうも機会があれば観てみたい。

 シャンゼリゼで「アンナ・マデリーナ」(no.175)を観る。

 金城武ケリー・チャン主演。とくると「世界の涯てまで」を思い出すが、今回は奇妙なテイストをもったファンタジーだ。

 金城武は調律師で、依頼者のもとに出かけてピアノを調律している。行った先で出会った女性と別れたばかりの男アーロン・クォックがいそうろうを決め込んでしまい同居生活が始まる。そして同じアパートにケリー・チャンが引っ越してきて一目ぼれするが、彼女はアーロンと結ばれてしまう。

 というよくある展開なのだが、後半はケリーに振られた金城が自分が書く小説の中に自分の思いを込めて、作品の中で二人は結ばれてゆく。

 その作品がファンタジーなので、いきなりストーリーは、お化け屋敷に賊された財宝を求める男女二人がかつて教会の前で棄てられていた二人の赤ちゃんだった話になってしまい、観ている方がとまどってしまう。

 前半がオーソドックスなラブストーリだっただけに残念な気がする。

 シネスイッチ銀座で「ルル・オン・ザ・ブリッジ」(no.174)を観る。

 ポール・オースターという作家がどんな作家が僕にはわからないが、あの「スモーク」の脚本を書いているというだけでも観る価値はあるだろう。

 「スモーク」では、マンハッタンにおける現代のおとぎ話のようなあたたかさがどのエピソードにもあふれていた。今回もハーベイ・カイテル演じるサックス演奏者が暴漢に撃たれてサックスが吹けなくなり、自分の人生を見つめ直している時期に思いもかけず運命の女性ルルの出会ってしまうという童話のような話だ。

 ルルはやがて女優として花ひらくが、ハーベイは不思議な生命力に満ちた石を手に入れたがために、謎の組織から追われ監禁されてしまう。ルルが泣きながらニューヨークを探し回るエンディングは、ほろ苦いせつなさに満ちていると同時にじわっと暖かさが伝わってくる。
posted by アスラン at 23:33 | Comment(2) | TrackBack(1) | 映画評(1998年) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月01日

1998年12月27日(日) 「恋の秋」

 シャンテ・シネで「恋の秋」(no.177)を観る。

 エリック・ロメール監督の”四季シリーズ”の完結作だ。

 今回は珍しく若い男女の話ではなく、中年にさしかかった二人の女性の友情と恋物語を描いている。

 最初はストーリがもたつき、ちょっと失敗かとも思ったが、さすがはロメール。田舎で老けこんでいくベアトリス・ロマンのために、友人マリー・リヴィエールが新聞に彼女の恋人募集の広告を勝手に出してしまうところから俄然面白くなってきた。

 しかも応募してきた相手の男と勝手に会ってしまう。あわよくば横取りというのではなくて(いやそういうところもあるのがロメールの女性たちの怖いところだが)、友人のための品定めというわけだ。

 それからいたずらで浮気なストーリが展開し、やはり信じがたいほどのハッピーエンドで終るのもこのシリーズらしい。

カチンコ
それにしてもベアトリス・ロマン。「クレールの膝」に出てた彼女もさすがに老け込んだのにはビックリ。それに比べて「緑の光線」のわがまま女マリー・リヴィエールの若い事。まるで自分はもうこれ以上歳をとらないわよと決め込んだかのようだ。
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2005年06月30日

1998年12月31日(木) 「マイ・スウィート・シェフィールド」

 今年1年を締めくくる映画は「マイ・スウィート・シェフィールド」(no.178)。有楽町シネ・ラ・セットで観る。

 「ブラス」で味わいぶかい演技をした小父さんピート・ポスルスウェイトが、失業で苦しんでいる小さな田舎町のペンキ塗りを再び好演している。

 鉄塔を延々と短期間で塗り尽くすというばかげた仕事を請け負って、文句を言う仲間をなんとかとりまとめてゆく。そんな時、バックパッカーの美しい女性レイチェル・グリフィスが仲間に加わる。思いがけず二人は愛し合うようになるが、しょせんはかなわぬ恋であり彼女は再び旅に出てゆく。

 うらぶれた男と若い女性の心がひかれあう恋愛が面白いし、鉄塔を俯瞰した田舎町の風景が美しい。ガスタンクの天井でのダンスや、冷却塔での裸での水浴びなど映像的にも工夫がされているが、いまひとつ胸にぐっとこないのは何故だろう。

 ポスルスウェイトを慕う仕事仲間ジェームス・ソーントンが、レイチェルに対していだく感情が嫉妬なのか恋愛なのかそれともバックパッカーとしての共感なのか、いずれとも判断しにくいからだ。

 その分ラストの別れが釈然としない
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2005年06月29日

大いなる遡行(1998年)が始まります。

あのとき、僕はこんな映画を観た…。
毎週末、銀座、渋谷、新宿、六本木の映画館を渡り歩いた日々を遡ります。


 「大いなる遡行(アスランの映画クロニクル)」は、映画をテーマにした本サイトの姉妹サイトです。

 僕がもっとも映画三昧に耽っていた日々をカウントダウン形式で振り返るサイトです。つい先日、めでたく1999年の映画三昧の日々を無事遡り終えました。

 これを機に1998年からの「遡行」を本サイトから始めたいと思います。

 ところで、みなさんは映画と本とどのようにつきあっていますか?

 本は読むけど、映画は見ないなんていまどきそんな器量の狭い人はいませんよね。

 映画は楽しいけど、本を読むのは面倒くさい。こっちの方はかなりいそうです。

 本も読むし映画も好き。こういう人はかなり興味の対象が広くて好奇心旺盛な方です。

 本も嫌いだし映画も見ない。もしあなたがそうなら大変不幸な事だと僕は思います。でも人好きずきです。こちらには間違って立ち寄ったのでしょう。ごきげんよう〜。

 さて僕はもちろん「本も読む映画も見る派」です。願わくばみなさんもそうであるとうれしいです。

 なぜなら僕の書評も映画評もどちらも僕のささやかな思索の結晶であり、ちょっと大げさに言えば「今を生きる」事をどう捉えるか、そのときどう捉えていたかという日々の歩みを照らし出すものだからです。その意味では本と映画と表現形態は違いますが、僕がそれらをダシにして考える姿勢は一貫しています。

 いや一貫してるかどうかはどうでもいいことです。本も映画も好きだから、どちらも一緒に楽しめるブログを単純に目指したい、ただそれだけです。

 本と映画とは表現形態が違うと言いましたが、共通してるところがあります。
それはどちらも読者であり観客である僕たちが想像力を補えば、様々な可能性で答えてくれるという点です。

 その可能性に信じて、これからも本と映画の無限のささやきに耳を傾けていこうと思います。
posted by アスラン at 01:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画評(1998年) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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