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2010年09月17日

日本語作文術−伝わる文章を書くために− 野内良三(その4)

 「13.日本語の論理 ヨーロッパ語の論理」の冒頭で、

日本語は基本的には主観的な判断(と思う)か事実の記述(雨が降る)しかできない。(P.83)


と筆者は書いている。「しかできない」という否定的な言辞は、その後に述べられる「(日本語は)抽象的=観念的内容が表現できない」ことを指しているらしい。これが事実ならば、日本人はなんと不幸な民族だろうか。ところが、著者によれば僕らは生まれの不幸を呪わねばならない存在のようだ。

(1)あなたは悲しい。(You are sad.)
(2)彼は悲しい。(He is sad.)


英語の方は自然だが日本語は不自然なので、
(1')あなたは悲しそうだ。
(2')彼は悲しそうだ。

と書かないと、自然な表現にならないと著者は主張する。「(日本語は)必ず主観的判断をともなう方に表現が傾く」と言うのだ。これほど人を愚弄している主張もない。

 英語でも(1)や(2)の文章は、ある条件下でなければ使えないのは当たり前だ。小説における全知全能の語り手ならば(1)や(2)のように断定的に表現できるが、もし面と向かった相手に「You are sad.」と言ったら、驚かれるはずだ。そういう時はなんと言うか、著者はご存じでしょうか?
I think you are sad.(あなたは悲しそうだ。)
I think he is sad.(彼は悲しそうだ。)

と言うのだ。(1')(2')と事情は全く変わらないではないか。つまり(1)(2)は日本語であろうと英語であろうと、語り手を想定しないと不自然なのだ。その理由ははっきりしている。語り手でなければ、他人の心のうちを客観的に判断することなど不可能だからだ。おどろくべき事に、こんなにも簡単に論駁できる脆弱な論拠で、著者は日本語を「主観的」と決めつけているのだ。

 ここに至って、筆者は日本語の特質を3つ挙げる。
[1]発話環境依存的である
[2]統語的に単純である
[3]主観的である

ここに至るまでに誤りを指摘してきたから、正しく書き直す。
[1']文脈依存的である
[2']統語的に単純である(ただし表現は多義性に富む)

これだけになる。[3]は削除する。[2']について一言触れておく。日本語は、統語的には述部以外の必須要素を持たないので、「最小セットが単純である」のは確かだ。だが、日本語そのものが単純な言語だと思ったら大間違いだ。複雑な内容を書くためには複雑で精緻な構文やレトリックを用いる事が求められる。それが不向きな言語であるわけはない。だから、どこをどう押しても「日本語は抽象的=観念的内容を表現するには不向きだった」(P.84)と結論づけるわけにはいかない。

 ところが著者の迷走はとどまるところをしらない。

逆に見ればこの三つの性格から自由になれれば、日本語でも抽象的=観念的内容を表現できるということだ。こんなふうに言うと小難しく感じられるかもしれないが、具体的には「私」という視点をやめることだ。文の中で主語を大いに活躍させることだ。さらに言えば、主語に無生物主語(抽象的な言葉)を当てることである。(P.84)


 ついに英文和訳でおなじみの「無生物主語」まで登場してきた。しかもそれを使えば日本語の「主観的」性格を解消できるそうである。ここまで来ると僕には、著者が、用意されたNGワードをことごとく口に出しては自爆してゆく解答者のように見えてくる。寄りによって「無生物主語」とは…。

 著者はかつては翻訳も手がけていて、旺文社文庫の「ルパンシリーズ」などを翻訳していたらしい。僕自身は旺文社版「ルパン」は読んでないし、現在も出版されているのかも知らないが、つくづくこの人の翻訳を読まずにすんでよかったと「身の幸せ」を喜びたくなる。もちろん、翻訳が上手かどうかを本書で判断すべきではないとは思うが、本書で展開される主張や翻訳に対する姿勢を見ると、およそ翻訳で肝心な日本語に信頼がおけるとは到底思えない。

 あの「欠陥翻訳時評」で有名な別宮貞徳先生の著書で、無生物主語は「分かりにくい翻訳」を生み出す温床となる事が、それこそわかりやすく書かれていたはずだ。残念ながら手元にないので確認できなかった。実家に蔵していたと思って先日訪れた際に探したが、処分してしまったらしい。本当にもったいない事をした。ただし、僕にはもうひとり強い味方がいる。最近お亡くなりになった安西徹雄さんだ。彼の名著「翻訳英文法」を頼りに、いかに著者の主張が間違っているかを明らかにしていこう。

 最初に素人でも言える事を言っておく。「無生物主語=抽象的な言葉」という理解は誤りだ。著者は前提をよく取り違えるが、あまりに論の立て方が粗雑すぎる。無生物主語は文字通り「生物以外の主語」の事であり、「私」「彼」「あなた」「トラ」「象」などのような生き物でなければ何でも良い。「抽象的なコト(モノ)」なのか「具体的なコト(モノ)」なのかは一切問わない。

 もともと英語の構文を語る際の専門用語なので、英語の例文で考える。
The dog's attempts to climb the tree after the cat came to nothing.


の「The dog's attempts」がまさにそうだ。まさかこれが抽象的な言葉だとは誰も思うまい。attemptsは英語の辞書では「抽象名詞」に分類されるが、単語が抽象的概念であるかどうかとは一致しない。上記の無生物主語は、直訳すると「木にのぼろうとする犬の試み」となり、文全体の訳は

 (B)猫を追って木に登ろうとする犬の試みは無に帰した。

となる。種明かしすると、前述の例文も試訳(B)も、安西徹雄「翻訳英文法」からの受け売り(P.20)だ。さらに安西は、この直訳を良しとせず、
 (B')犬は猫の後を追いかけて何度も木に登ろうとしたけれども、無駄だった。

という訳を推奨している。

 では(B)と(B')の違いは何だろう。(B)は、たかが犬がしでかした事にしては大仰(おおげさ)で、日本語としてもこなれていない。もちろん、この一文だけでどちらの訳がいいか決めるのはナンセンスだが、原文がしゃっちょこばった学術論文ではなく、エッセイや小説に普通に出てくる文章だということを踏まえれば、誰でも(B')を選ぶだろう。直訳した(B)を選ぶと、そこだけ文の調子が堅くなってつりあいがとれなくなる。翻訳家ならば、無生物主語を解体して、こなれた日本語に訳す事を心がけるのは当然だ。

 しかし、不思議な事に本書の著者は、無生物主語を多用する事で「抽象的=観念的内容」を表現する事ができると主張する。言わせてもらうが、無生物主語を直訳調で訳すか、解体して和文調で訳すかは、文体の選択の問題にすぎない。無生物主語を使えば抽象的な内容を論理的に表現できるというのは、全くの謬見である。

 だが、著者は昔から「無生物主語は使われてきた」と、以下のように主張している。詳しく見ていこう。

無生物主語を立てるため−堅い内容を表現するため−昔の人は漢文で書いたり、漢文を真似た文章で書いたりした。明治以降の人はヨーロッパ語の影響を受けた翻訳調で書いた。(P.85)

 この一節には明らかな誤りがある。「無生物主語を立てるため昔の人は漢文で書いた」というのは事実ではない。昔から公用文を書くには漢文書き下し調を用いることが自然とされてきた。少しでも日本語の歴史、あるいは言文一致体の歴史に興味をもった事がある人ならば常識だろう。

 かつての日本は、文化・政治・技術などのすべての分野において、隣国・中国をお手本としていた時代があった。そもそもが文字をもたない民族であった日本人が、最初に日本固有の文字表現を手に入れるまでのまにあわせが、中国語(漢文)であった。ここから知識人がたどり着いたのが「書き下し文」であり、以後長きにわたって公用文や堅い調子の文章を書くのに用いられてきた。そういう事情で「漢文書き下し文=堅い文章」という印象が形作られてきたわけだ。「無生物主語を立てるために漢文で書いた」わけではない。

 明治初期の知識人や作家を悩ませたのは、言いたい事が自由に書けて相手に違和感なく伝える事ができる文体がないという事だった。漢文書き下し文は公用文や個人的なメモ(日記)などには適していたが、一部の知識人だけでなく誰もが読んだり書いたりできる文体ではない。同様に、いわゆる美文と言われた和文は、花鳥風月を叙述するには適していても、客観的な内容を整然と分かりやすく書くには適さなかった。そうして明治初期の人々(特に二葉亭四迷)が苦心した結果、生まれたのが、現代の文章につらなる「言文一致体」である。

 なぜこうまでして長々と「日本語の歴史」にふれたかというと、著者が持ち出す「翻訳調」というのは、こうした言文一致体で海外の文学などを翻訳する必然と、文体の創出を模索する過程から生み出された偶然の産物、言わば「あだ花」である事を言っておきたいからだ。

 翻訳調が広まったのは翻訳技術の未熟さが一因であるが、それ以外に「原文を理解できる知識人(インテリ)どうしの流行りの文体」であった事は否めない。翻訳調を用いれば原文が透けて見えて、読める人にはある程度通りがよいし、なによりも文体に新鮮さが感じられたに違いない。しかし、本来であれば「こなれた日本語」に翻訳することが「分かりやすい、伝わる文章」を書く第一歩であることは、安西徹雄の著作を持ち出すまでもなく、翻訳のプロと言われる人たちにとっては基本中の基本だろう。直訳でなく意訳することで「言文の客観性」が犠牲にされるわけではない。

 ところが著者は、
(日本語で)抽象的な内容を伝えようとすれば、手持ちの情報をいったんバラして−客観化して−再構成しなければならない。そのためには、日本語では主語に立たないような抽象的なもの(無生物)を主語に立てるセンス・能力がどうしても求められる(P.86)

と主張する。よくもまあ、ぬけぬけと書いたものだ。見てきたように「日本語は抽象的な内容を表現できる」し、「主観的言語でもない」ので、「手持ちの情報をいったんバラす=客観化する」事に何の意味があるだろうか。

 しかも真にナンセンス極まるのは、次の文の「無生物を主語に立てる」という主張だ。「無生物=抽象的な内容」ではない事に注意すれば、無生物主語を使う事には文体の選択以上の意味はない。ところが著者は、文体の問題ではなく抽象的な表現を書くための作文技術として「無生物主語のススメ」を説いている。あきれてものも言えないのだが、言わないと伝わらないので、あえて声を大にして言おう。バカも休み休み言いなさい。

 では著者が13節の最後に挙げている例文を吟味することで、「無生物主語」の問題にケリをつけよう。

(2)日本人の貪欲な好奇心が海外の文化の積極的な受容を可能とした。
(2')貪欲な好奇心のおかげで日本人は海外の文化を積極的に受け入れることができた。(P.87)


 「抽象的な文章を読んだり書いたりするというのは、なんのことはない翻訳調で考えるということなのだ」と書かれた直後に、(2)(2')が例示される。著者の「抽象的」と「主観的」のデタラメな使い方には、いいかげんウンザリだ。無生物主語をつかった文(2)と、日本語としてこなれた文(2')とでは、書かれている内容に差はない。(2)で内容を摂取した方が論理的=抽象的思考が養われるなどということもない。何度も言うが、文体が違うだけだ。著者も大風呂敷を広げておいて、結局は「(2)と(2')の決定な違いは主語の役割の軽重である」とか「名詞中心構文か、動詞中心構文か」のような表層の違いを指摘するだけだ。これって、つまるところは「文体の違い」の事でしょ。

 著者は(2)がどうしてもお好みなようだ。人の好みをとやかく言うつもりはないが、間違った事を読者に押しつけるのはやめにしてほしい。「報告書や論文、評論などの硬い文章は名詞=主語中心の翻訳調の文体で書かれている。本来の日本語では対応できないからである。」というのはもちろん大ウソだ。著者は強引に無生物主語の優位を説こうとしている。日本語の構文で硬い文章が書けないわけではない。たとえば(2')を次のように書き換えてみよう。

(2')(生来の)貪欲な好奇心により日本人は海外の文化を積極的に受容する事が可能になった。


 途端に「堅い文章」なったはずだ。つまり無生物主語に「堅い文章」を書く秘密があるのではなく、使われている語彙に秘密があるのだ。「(好奇心)のおかげで」とか「受け入れる」「〜ことができる」という和語表現はもともと「柔らかい表現」に適している。それが「〜により」とか「受容」とか「可能」というように語彙を変えるとなぜ「堅い文章」になるかと言えば、それらが元々は〈翻訳語〉であったからだ。

 こう書くと、さきほどの著者の主張が合っているかのように勘違いされるかもしれないが、僕がここで言う「翻訳語」とは、現代文につながる言文一致体が明治初期に創出された時にすでに抱え込んだ文体に根ざしている。先に言文一致体の歴史に触れたが、二葉亭四迷が自らの言文一致体の出来を試したのは、ツルゲーネフ「あいびき」などの翻訳でだった。だから、二葉亭が創出した言文一致体を祖先とする現代文そのものがいわば「翻訳調」と言えない事もないのだが、すでに二葉亭が創出してから100年を優に超えている。いまさら現代文の文体そのものを「翻訳調」とは誰もいわないだろう。

 明治初期の知識人や作家を悩ませたもう一つの問題があった。それは海外の文学や論文などを翻訳しようにも、原文に現れる語彙に対応する訳語が存在しないという事だった。その辺の事情を詳しく知りたければ、柳父章「翻訳語成立事情」を一読することをオススメするが、要は「自然」や「人工」「自由」「運動」などなど、大和言葉(和語)には存在しない概念を生み出すために、中国語(漢文)から借りてきたり、真似て作ったりしたものが翻訳語だ。

 これらを使う事で硬い文章ができあがる。さきほど見てきたとおりだ。なぜこれらの翻訳語を用いると文章が硬くなるのだろう。おそらくはもとが漢文から借りたり真似た単語であることが関係している。「読書」は「書(しょ)を読む」と書き下せば、硬い上に古めかしいが、「読書(どくしょ)」と音読みすれば、古めかしさは消え、硬い調子のみが残る。これを動詞化したのがサ変名詞(動詞)であり、「読書する」と言えば「書を読む」と同等の表現となった。同等とは言っても、やはり「読書(どくしょ)」という音読みの硬いイメージは引き継がれる事となったので、「報告書や論文、評論」に好んで用いられるようになって今に至った。

 だから、本当のことを言えば「硬い文章を書く」のに「無生物主語」を用いる必要もない。著者が断言した「述語中心の日本語の宿命」など存在しないのは、(2")の文章を(2)と見比べればわかってもらえるだろう。

 では「無生物主語」の問題とは何かと言えば、現在における「翻訳調」(こなれていない日本語表現)という文体の問題にすぎない。(2)と(2')を比べると表現の硬さに差があったが、(2)と(2")を比べると表現の硬さには差がない。最終的に何が違うと感じるかと言えば、著者も繰り返し言っているが、「バタくさいか、そうでないか」の違いだ。おそらく著者の年齢から推測すると、映画や小説のタイトルに「何が彼女をそうさせたか」式の翻訳調が流行した時代を経ているはずだ。このフレーズ(まさに無生物主語の文体の典型だ)は、「バタ臭い」がゆえに当時のモードにフィットした。「なんで彼女はそうしたか」では垢抜けないと感じた世代が存在したわけだ。

 おかげで、この手の「翻訳調」の文体をありがたがる人がいまだに多い。そういう人たちは「硬い」というだけでなく「バタ臭くてシャレている」と無意識に思って無生物主語の文体を多用しているのだ。だが、これ以上、文体論を語る必要はないだろう。文体の問題である以上は(a)だろうが(a')だろうが(a")だろうが、好きなものを選べばいい。どれかに優劣を付ける必要もないし、著者のように(a')を(a)にわざわざ書き直すような手間をかける必要などどこにもない。

 ただし「The dog's attemps」の例文を無生物主語のままに訳さなかった安西徹雄の主張を、もう一度思い起こして欲しい。無生物主語の翻訳調は危険をはらむ。(a)(a')のような例文はそもそもどちらで書いても「わかりやすく伝わる文章」だが、もうちょっと複雑な文章だと、無生物主語のままでは日本語としてこなれていないだけでなく、「わかりにくい文章」が簡単に書けてしまう。それは英語を日本語に訳す上での大きな障害となるのだが、日本語で最初から無生物主語を使う際も同じだ。翻訳を生業にしてきた著者ならば、その事にもっと自覚的であっていいはずだ。無生物主語の利点だけでなく欠点もしっかりと読者に伝えないと、著者のまねをして足下をすくわれる人が出てきかねない。

 さて、ここまで書いたから終わりにしよう。第1章だけ読んで図書館に返却する事になるが、第2章以降を読むかどうかは現時点で未定としよう。ここまで徹底的に腹立たしい部分をあげつらったのだが、みなさんはこの本を読んでみたいですか?僕ならば「読んでみたい」。実際に読んでみて、そんなばかげた事が本当に書いてあるか確かめてみたくなる。

 う〜む、また僕は本書の読者を増やす事に間接的に協力してしまったのではないだろう。変だなぁ。
posted by アスラン at 12:43 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月13日

日本語作文術−伝わる文章を書くために− 野内良三(その3)

 ついに(その3)まで来てしまった。かつて、ツッコミどころ満載のミステリー評論集の書評を(その5)まで書き継いだことがあったが、あれほどにはしたくない。あまりにバカバカしい記述が多いので、正直疲れてしまった。実はまな板にのせるのは第一章だけの予定なのに、もうひと山もふた山も越さねばならない。とりあえずは「12.日本語は主観的言語」の誤りについて、ざっと概観していこう。

国境(くにざかい)の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所で汽車が止まった。(P.78)

 川端康成の「雪国」の冒頭の一文だ。「国境」を「くにざかい」と読むか「こっきょう」と読むかの議論があったと思ったのだが、著者がルビを付けて断定しているところを見ると、決着がついたのかしら。腑に落ちないが本旨とは無関係だ。まあ良しとしよう。腑に落ちないのはルビどころではないからだ。

 ここで著者は第一文の「国境の長いトンネルを抜ける」の主語について取りざたする。理屈からすると「汽車」だと早々に断定するが、独断もいいところだ。「汽車」かもしれないし、「(汽車に乗った)私」かもしれないが、「非人称の主体(つまり誰でも)」の可能性もあるし、「語り手」自身だと考えて悪いわけではない。断定できないのは、日本語が英語などと違って主語を持たない言語だからだ。だからといって、この文章が不完全で意味が伝わらない文章というわけでは決してない。たとえば「ニに二をたすと四になる」「酒は米から作る」などのように、日本語では(英語でいうところの)主語は構文の必須要素ではない。

 主語がない文が書けてしまうことから「日本語は主観的な言語だ」という著者の断言はあまりに短絡的だ。こういう日本語の特徴は、逆に「自由度が高い」とは言えても決して言語としての不完全さを意味しない。英語を含めたヨーロッパの言語の方が融通がきかなくて不自由だとも言える。彼らの言語は「主語−動詞」を最小セットとして表現する。主語単独では機能しないし、述語も主語なしには意味をなさない。ワンセットで一つの表現をなす。そのため何がなんでも主体を明らかにし、状況を限定したうえでないと文章として表現できないのだ。

 案の定、「雪国」の英訳では冒頭の一文を「The train」を主語に据えて訳している。これは翻訳の不自由さを物語っている。川端の原文を読むときに僕らが想像するさまざまなイメージにくらべると、英訳は訳出可能な「汽車がトンネルを抜けると」という表現で原文を近似したにすぎない。なのに著者は、主語がないのは日本語が「主観的言語」だからと言うのだが、はたしてそうだろうか。

 国境の長いトンネルを抜けると新潟である。

と記述されたら、これは主観的判断だろうか、客観的判断だろうか。

 太陽系を抜けると外宇宙である。

これは主観的表現だろうか。客観的表現だろうか。さらには著者のありがたがる「主語」が本当に必要な文だろうか。翻訳は、同じ幹から派生した言語どうし(ヨーロッパの言語どうし)よりも、別系統の源を持つ言語どうし(日本語と英語など)の方が困難なことは容易に推測されるが、だからと言って日本語だけが特殊というわけではない。異なる言語を橋渡しする(翻訳する)以上、大なり小なり困難さはつきまとうものだ。ましてや、自国の構文を他国にあわせようとするなんて、どこまで外国語をありがたがってへつらえば気がすむのだろう。

 話を例文に戻そう。

日本語の文章の視点は「私」が基本である。日本語は黙っていれば「私」が見たこと、感じたこと、思ったことを語っていることになる(P.79)

と書く著者は、さきの「国境の…抜けると」は、「私」の視点から語られていると言う。

 一般に文章は「視点」の問題から自由にはなれない。どこから見ているかといえば、全知全能の神のように、上空からすべてを俯瞰しているか、あるいは登場人物の傍らに寄り添って、同時に心の中もお見通しで傍観しているか、いずれかであろう。通常、私たちはこれを「語り手(話者)」と呼ぶ。

 話者は日本語特有の問題ではないことは言うまでもない。

The train came out of the long tunnel into the sonow country.(P.79)


「(その)列車」について言及しているのは誰であろう。「汽車がトンネルを抜ける」のを見たのは誰だろう。「雪国に出た」と描写できる視点を確保しているのは誰であろう。これは著者のいう「客観化した『私』」などではない。全知全能の、神ならぬ「語り手」である。

 だが「主語ー述語」を基本セットとする言語では、語り手の痕跡は徹底的に文章の外に追い出されている。一方で「国境の…抜ける」のように、日本語は語り手の痕跡を消すどころか同伴OKの言語である。そのせいで「主観的」というバカげた主張でつけ込まれる隙ができたとすれば、日本語にとって大変不幸なことだ。

 著者は調子にのって、「私」の視点から例文を次のように書きかえる。

国境の長いトンネルを抜けたら、ほら目の前に雪国の景色がひろがってきた。夜の底が白くなったように感じる。おや、信号所で汽車が止まった。(P.80)


 一読して、原文とは似ても似つかない文章になってしまった事は歴然だ。書き換え文に「品位」がないのはもちろんだが、これでは原文で作者が伝えようとした表現が全く違っている。「国境の長いトンネルを抜ける」という表現に語り手の視点が感じられるとしても、語り手の視点である以上は主観的か客観的かの問題は引き起こさない。そもそもは著者の「私」の視点の導入が間違っているのだ。

 それがはっきりするのは次の文からだ。「夜の底が白くなった」あるいは「信号所で汽車が止まった」に、「私」の視点が感じられる根拠はどこにあるのか。

 信号所で汽車が止まった。
 The train came out of the long tunnel.

 筆者お得意の「主語」が明示されれば、主観的ではなく客観的な表現になるのではなかったか。なぜ「おや、信号所で汽車が止まった。」などと、語り手を顕在化する文章にする必要があるのか。もちろん、著者にとっては「必要がある」のだ。

日本語は自分の印象・思いを聞き手(読み手)にそのまま放り投げる。…「私」が省略されるという現象は日本語の発話環境依存性に起因する。(P.80)


 著者は是が非でも日本語が主観的な言語だと言いたいのだ。挙げ句の果てが、小難しい専門用語を使えば、こちらが「へへー」と平伏するとでも思っているのだろう。「日本語の発話環境依存性」とは、また難しい言葉を持ち出したものだ。ただし、発話環境によって「私」の省略が生じるというのは、またしても腑に落ちない。環境というのは、行為や行為者をとりまく状況や外的条件(制約)を指す。発話環境というのは、どういう場所でどういう状況でしゃべるかを指しているのだと思うが、これによって主語の「私」が省略されるというのでは、意味がよくわからない。おそらく著者は「文脈依存」の事を言いたいのではないだろうか?


 たとえば

 「昨日、あなたは夕食を食べましたか?」
 「食べました。」

という受け答えがあると、対話における文脈を可能な限り継承できるのが日本語の特徴なので「食べました」という答え方でも一向に表現として問題ない。わざわざ「私は昨日夕食を食べました」などと省略を補う必要などない。

 このような日本語の特徴を明確に正しく言及するためには、信頼のおける専門家に登場してもらうのが良さそうだ。小池清治は、著書「日本語はどんな言語か」で次のように日本語の特徴を簡潔に表現している。

日本語の文の第一の特徴は、構造的には非自律的であり、一般に文脈の助けを前提として文として成り立つという性質である。表現は言語主体の表現活動だけでは完成しない。受容者の理解活動を待たなければ完成しないのである。日本語の多くの文は、文脈の助けを得て初めて文になる。(「日本語はどんな言語か」(P.27))


 つまり「発話環境依存的」ではなく「日本語は文脈依存的である」という事は言える。ただし生成文法でいうところの「文脈依存」という性質は、自然言語であればまぬがれない性質だ。日本語の独特な点は「文脈に依存してさまざまな要素を省略できる」ところにあり、最終的には「お茶!」のような一語文も可能だし、「食べました」のような用言だけでも立派な文章となる。

 小池は、この後に日本語を「題説構文と叙述構文」とに分けて、言語主体(話し手・書き手)が個人的な判断を表現したり、客観的事象として叙述したりする構文をもっていることを詳細に説明している。決して日本語が「主観的だ」などとバカな事は主張していない。

ただこう書いていて、ちょっと気になる点がある。本書の著者は、

日本語は基本的には主観的判断(と思う)か事実の記述(雨が降る)しかできない。(P.83)


と書いている。正直、なんとなくパクっている気配が感じられる。しかも著者はパクッた上で早とちりしているのではないか。主観的判断と客観的記述ができれば言語として完全のはずだ。「しかできない」というのはどういう事だろう。それは「13.日本語の論理 ヨーロッパ語の論理」の主張を読めばわかるのだが、おそらく日本語は抽象的な記述や客観的判断(論理的判断)は表現できないと言いたいようなのだが、そう思っているのは著者だけではないだろうか。

 この点は13節の内容を検討する事で明らかにしていこう。という事はまた続いてしまうようだ。(つづく)
posted by アスラン at 19:57 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月09日

日本語作文術−伝わる文章を書くために− 野内良三(その2)

 「6.文の単位は長い順に並べる」で紹介されるテクニックは、前回も指摘したように本多勝一の「日本語の作文技術」という労作で初めて原理的に説明されたテクニックだ。その事に触れず、さらにはテクニックの創始者に敬意を払わないだけでなく、使い方も間違っているという点を詳細に検討していきたい。

 ここで言うテクニックを説明するために、著者は次の例文を持ち出す。

(A)彼は友人たちと先週の日曜日に桜の名所として知られる吉野を訪れた。


 ではこの文章を「わかりにくい」と感じた人はいるだろうか。僕は誤解なく読めた。何故かといえば(A)には係り受けの解釈にあいまいさが入り込む余地がないからだ。

 「彼は」&「友人たちと」&「先週の日曜日に」&「桜の名所として知られる吉野を」-->訪れた

というように、4つの言葉が文末の「訪れる」にかかる構造だ。「受ける言葉」に複数の「かかる言葉」が存在する場合はどうならべてもいいというのが、日本語の構文の原則だ。この例文を単純化して「AがBとCにDを訪れた」とみなすと、「Aが」「Bと」「Cに」「Dを」は順不同ということになる。(なぜ「Aは」ではなく「Aが」にしたかは後で触れる。)

 しかし、例文(A)のように「かかる言葉」の長さが違うと対等というわけにはいかない。そこが本多勝一メソッドの主眼(目の付けどころ)である。

(A’)桜の名所として知られる吉野を先週の日曜日に友人たちと彼は訪れた。

これが分かりやすい語順だと著者は推奨するが、これは間違いだ。というより(A)と(A’)とでは、大きくいうと二つの問題が競合しているのでどちらがいいとは言えない。それは、本多メソッドでいうところの「かかる言葉とうける言葉」の問題と「題目のハ」の問題だ。

 著者自身、「彼は」の自然さに引かれて(A)を選んでしまう読者がいることはわかっていて、二つの例文を並べる際に「彼は」を括弧にくくった上で「今度は(2)[この書評では(A’)]のほうがすらすら頭にはいってくるだろう(P.36)」と書いている。当たり前だ。だったら最初から「題目のハ」を含まない例文で解説すればよかったのだ。

(a)友人たちと先週の日曜日に桜の名所として知られる吉野を訪れた。
(a')桜の名所として知られる吉野を先週の日曜日に友人たちと訪れた。

 これならば(a’)の方が分かりやすくなる(しかし何故分かりやすくなるか、著者は本多メソッドの原理を本当に理解しているのだろうか)。例文を(a)にしなかった理由は容易に推測できる。西洋語の論理の優位を疑わない著者は、(著者が主張するところの)主語「彼は」を省略した文を使いたくなかったのだ。

 では本多メソッドをきちんと原理的に適用することで、(A)を最後まで推敲してみよう。まずは「題目のハ」の問題にふれよう。これは先ほど述べた日本語の特徴である「Aが」「Bと」「Cに」「Dを」は順不同となる原則の、数少ない例外だからだ。(故意に「Aは」とは書かなかった理由はここにある)。

 係助詞「ハ」を用いると「かかる言葉の対等性」が崩れる。「ハ」には文の題目を表す特殊な役目があり、それが後続の陳述を支配していくために、文頭にないとおさまりが悪い。簡単に言ってしまえば「AハBトCニDヲ訪れた」は自然な表現だが、「「BトCニDヲAハ訪れた」は不自然な表現となる。

 なので(A’)の「彼は」の位置を文頭に戻して、

(A”)彼は桜の名所として知られる吉野を先週の日曜日に友人たちと訪れた。


とすべきだ。あるいは「彼は」を除いた3つの「かかる言葉」を長い順に並び替えて直接(A”)にたどり着くべきだった。

 さて、(A")では「彼は」を文頭に出すために、そこだけ「長い順」ではなくなってしまった。これによって「かかる言葉と受ける言葉」の関係が曖昧にならないように、逆順になった「彼は」の直後に読点を打つ。

(A''')彼は、桜の名所として知られる吉野を先週の日曜日に友人たちと訪れた。


 これで完成だ。ここで用いた「読点の使い方」は、本書の「8.読点の打ち方に決まりはあるか」でも解説されている。だが、ここに書かれていることは「本多の説明に寄りかかりながら(P.52)」というより、そのままパクっている。しかも勝手に本多の原則を踏みにじっていたりするので、僕としてはぜひ「中学生からの作文技術」で読点の使い方を学んでほしいと言うしかない。

 ただし、何度も言うが、語順を操作するのはあくまで「わかりにくさ」を排除するのが目的だ。何がなんでも長い順に並べると良いというわけではない。その意味でも、例文(A)は語順を変える意義を感じさせない文だった。たとえば、

自分の生命を敬愛していた太宰治の前で絶ったのである。(「中学生からの作文技術」P.72)


という例文ならば、語順を変える事の意義を誰しも実感できるのではないだろうか。「〜を敬愛する」と言い方のなじみがいいので、

 「自分の生命を敬愛していた太宰治の前で」->絶ったのである

と読めてしまうが、実は

 「自分の生命を」&「敬愛していた太宰治の前で」-->絶ったのである

が正しい。これを「長い順」に並べれば、「敬愛していた太宰治の前で自分の生命を絶ったのである」のように、元の例文よりもわかりやすい文になる。著者は原理的に物事を考えるというセンスがないためか、ことどとく当を得ない例文を選択している。どうせパクるのであれば例文もそのまま本多勝一の著作から持ってくればよかったのだ。

 例文(A)のセンスのなさをもうちょっと説明すると、「桜の名所として知られる吉野を」を後ろに置いておいたままにしておくと、

 「友人たちと」->「桜の名所として知られる」-->「吉野を」
 「先週の日曜日に」-->「桜の名所として知られる」-->「吉野を」

という係り受けの曖昧さが生じるかどうかが、語順を変える手間をかけるか否かの分岐点になる。さきほどの例のように「生命を」と「敬愛する」のなじみの良さから文意が変わってしまうのと違って、例文(A)はわざわざ語順を変えるほどには係り受けを読み違える文では元々なかったのだ。

 言いたいこと、書きたいことは後から後からわいてくるが、著者が本多勝一の作文技術をいかに中途半端に〈利用〉しているかについては、ほぼ尽くしたかと思う。ただ、すぐ次に「日本語というのがいかに論理的でなく、客観的な表現ができない言語だ」という誤った主張が待ち受けているのを見過ごす事はできない。さらにこの書評は続けねばなるまい。(つづく)
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2010年09月06日

日本語作文術−伝わる文章を書くために− 野内良三(2010/8/31中途で中断、第1章のみ読了)(その1)

 ちょっと異例なことだが、第一章(I.作文術の心得−短文道場−)を読み終わったところで、感想をしたためようと思う。というのも、読み進めるうちに腹立たしい記述にぶつかってばかりだからだ。実用文をうまく書くためには、様々なテクニックが必要なのは言うまでもない。だからテクニックがよそ様の借り物であったとしても、出典を明かした上で、きちんとそのテクニックを踏襲していれば問題はない。ところがこの著者は、エッセンスをパクっただけで使い方が間違っていたり中途半端に利用していたりする。さらにはなぜそういうテクニックが必要なのかという根本的な目的が誤っていたりもするのだ。

6.文の単位は長い順に並べる
7.読点の打ち方に決まりはあるか
9.ハとガの使い分けのポイント


 これは第一章に含まれる項目だが、これを見ただけで、知る人は「ハハァ」と気づくだろう。これはまさしく本多勝一の名著「日本語の作文技術」での基本戦略を下敷きにしている。「文の単位は長い順に並べる」という明快なテクニックを、経験則ではなくて論理に裏打ちされた原理として掲げた書物は「日本語の作文技術」以前はなかったはずだ。

 それなのに、本書P.34で「文節(文の単位)は長い順に並べる」とさらっと書いたあげくに『「なに、これ?」と思われる方も多いだろう。』などと、まるで筆者自身があみだしたか、あるいは専門家ならば誰でも知っているかのような言い方をしている。本多勝一の名前も著作にも言及していない。「読点の使い方」の項目にいたって、ようやく本多の事に触れる。一見敬意をはらっているかに見えて、実はそうではない。

「真正面から最初に取り組んだのは本多勝一である」
「もっと柔軟に対応したらいいのにという条件はつくけれども、その意見はおおむね支持できる」(いずれもP.52)


 要は採用すべきところは「いただいて」、あとはさっさと自分の主張に埋もれさせてしまっている。そのせいか、引用された本多メソッドは使い方に誤りがあり、方法論の十分の一も正しく紹介されていない。

 一方で本多勝一の主張と明らかに対立する項目もある。
5.短文で分かりやすく
12.日本語は主観的言語
13.日本語の論理、ヨーロッパの論理
 これらの点を踏まえて、もう一度本多勝一の名著に戻ってみると、対立点がいっそう際立ってくる。ここは、先に挙げた「日本語の作文技術」を分かりやすくまとめた「中学生からの作文技術」に登場ねがって、両者を比べてみよう。

本多勝一は、

日本語は「論理的ではない」とか「特殊な語順だ」とかいったひどい間違いを言ったり書いたりしている例がかなりの知識人や学者にもいることです。これはとんでもない無知によるものだということだけここで強調しておきますから、もしこういうことを聞いたり読んだりしても決してだまされないようにして下さい。人類の使っているあらゆる言語は論理的であって、非論理的な言語などは世界にひとつもありません。(本多勝一「中学生からの作文技術」P.16)


と書いている。この主張からすると、まさに本書は「無知な学者」によって書かれた本だということになる。さらに「第一章 かかる言葉と受ける言葉」で、本多は、こうも言っている。

文章が長いからわかりにくいのだ、短く切ればよい、といった解説をする例がありますが、わかりにくさと文章の長短に直接の関係はありません。(同書P.23)


 本書の6節で「短文は悪文を退治する」とまで言い切り、第一章そのものが「短文道場」と銘うっているところからみても、著者と本多勝一双方の主張はまっこうから対立していると言っていい。この違いのいずれに軍配を上げるかというよりも、本多勝一が作文技術の本質論(あるいは原理)を問題にしているのに対して、本書の著者は体験から得られた各論(対処法)を列挙しているのだと指摘しておくのがいいだろう。

 例えば本書P.25で、「長文撃退法」の例として文豪・谷崎潤一郎の書いた長文をあえて切ってみせる。著者は「ゆったりとした構えの大きな日本家屋を思わせる長文である」と持ち上げるように、実はわかりやすい長文だ。それを「あえて切ってみせる」のは、わかりにくい長文をダラダラ書いてよこす学生への警鐘のようだ。それはそれでまあいいだろう。ただし「原文の品位はなくなってしまったが、……実用文に品位は特に必要ない」と語る著者には、品位だけではなく肝心なものを奪っていることに気づかない。

 もう一度、本多の「わかりにくさと文章の長短に直接の関係はない」という主張を比べてみよう。本多が問題にしているのは、係り受けがあいまいになった長文がわかりにくさを引き込むという明快な論理であり、係り受けさえきちんと整えれば長文でもいっこうにかまわないという当然の帰結について語っているのだ。では谷崎の文章に「わかりにくさ」はあっただろうか。ないのだ。著者自身がそう言っている。単純に、長文だからという理由で悪者に仕立て上げた上で退治してみせたにすぎない。なんと無益な行為だろう。

 それが「品位を奪うだけ」と著者は言うのだが、ぶつ切りに切った直後に筆者が「音読の功」を説いているように、谷崎のオリジナルの文章には「文章教室の生徒たち」に噛んで含めるかのように語る言葉の流れ(リズム)がある。それは実用文には不要な「品位」などではない。わかりやすさの一部をなす重要な要素だ。そこに手を加えている著者の無益な行為は僭越以外のなにものでもないし、何のメリットがあるのか僕にはわからない。

 そして次なるターゲットは横溝正史の文章だ。著者は彼の文章を悪文だと言い切っている。ではその例文をあげよう。
いったい一柳家のある岡××村と、銀造が果樹園をやっているところとは、さしわたしにして十里にも足りないみちのりだが、乗り物の都合のわるいところで、ここへ来るためにはいったん玉島線へ出て、そこから山陽線の上り列車に乗り、倉敷で伯備線に乗りかえそして清××駅でおりると、そこからまた一里ほど逆に帰らなければならない。銀造や克子もその道順でやって来たし、耕助も同じ径路を辿ってやって来たのだが、その耕助が、高××川を渡って川××村の街道へさしかかったときである。(横溝正史「本陣殺人事件」P.28)

 さて、これが悪文だそうだ。その主張の根幹は、
 ・無用な「が」
 ・中止法の連続
 ・安易な接続語
が勢揃いしているからだそうだ。

 さて、ではこの文章に書かれている内容が伝わらなかった人はどれだけいるだろう。そもそも本書のねらいは「伝わる文章を書くこと」ではなかったか?「無用な」だとか「安易な」と言っても、わかる文章・伝わる文章が書けているのなら推敲すべきではない。またしても著者は本末転倒な作為をプロの作家の文章に施しているのだ。その結果を見てもらおう。

いったい一柳家のある岡××村と、銀造が果樹園をやっているところとは、さしわたしにして十里にも足りないみちのりだ。しかしながら、乗り物の都合がひどく悪い。ここへ来るためにはいったん玉島線へ出る。そこから山陽線の上り列車に乗り、また倉敷で伯備線に乗りかえ、清××駅でおりる。でも、そこからまた一里ほど逆に帰らなければならない。銀造や克子もその道順でやって来た。耕助も同じ径路を辿ってやって来たのだ。ところが、その耕助が、高××川を渡って川××村の街道へさしかかったときである。

 著者はいったい何がやりたいのであろう。「長い文を切ろうとすれば、おのずと文の要素の論理関係をきっちりと考えなければならない。」と言う。逆ではないのか。わかりにくい文章だから論理関係を明確にしなければならない。その結果として「長い文を切って接続詞で論理関係を明示する」というのは一つのテクニックに過ぎない。だがあくまで前提は「わかりにくいか否か」だ。言っておくが、横溝の文章は決して悪文ではない。確かに彼の文体で実用文を書いたら論理的構造があいまいになるかもしれない。だが、彼が書いているのは実用文ではない。小説なのだ。

 横溝の文章を読むと一文が長いにもかかわらず、つるつるとそばかうどんをすするかのように、のど(頭)に入っていくのを読者は感じるに違いない。ここにも明らかに作家特有のリズムがある。横溝の文にあって著者の文にないのは「のどごしの良さ」だ。横溝の文は長くてもつるつると流れていくので、本陣までたどり着くのになんども乗り継いで大層な時間がかかることが一挙に体感できる。ところが著者がわざわざ書き直した文は流れがいちいち止まるため、読みづらい上に退屈だ。しかも接続詞を多用したことによって、なかなか本陣にたどり着かない。論理関係を無駄に顕わにすることによって、かえってだらだらとして読みにくくなった。

 さて、以上は寄り道だ。本丸は「6.文の単位は長い順に並べる」についてだ。ここにも言いたいことはいっぱいある。ありすぎて感想をわける始末になった。(つづく)
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2010年08月26日

プリズン・トリック 遠藤武文(2010/8/22読了)

僕は江戸川乱歩賞受賞作をどれほど読んでいるのだろう。本書の巻末に受賞作リストが付されていたので勘定してみた。案の定、少ない。

第3回(1957年) - 仁木悦子 『猫は知っていた』
第11回(1965年) - 西村京太郎 『天使の傷痕』
第19回(1973年) - 小峰元 『アルキメデスは手を汚さない』
第24回(1978年) - 栗本薫 『ぼくらの時代』
第55回(2009年) - 遠藤武文 『プリズン・トリック』


 本作を含めてたったの4冊だ。しかも残りの3冊は60〜70年代の作品。「日本のミステリーとしては古典」は言い過ぎにしても、スタンダードと言えるだろう。特にウォッチしてこなかったとは言え、これほど読んでないものかとちょっと驚いた。所詮は、芥川賞にしても直木賞にしても乱歩賞にしても、冠の大きさに比して受賞作に関心を持つ人は限られているというわけだろう。僕のように、一応はミステリーファンを標榜している人間でさえ、これほどまでに「乱歩賞」に無関心を通してきたくらいだ。

 僕の勝手なイメージからすると、「乱歩賞=プロのミステリー作家への登竜門」であって、応募者は無名ではあるがセミプロであると思っていた。いまでこそ大衆向けのトラベルミステリーを量産する事で知られる西村京太郎が、重いテーマと結末の意外性とでミステリ−作家としての輝かしい経歴の冒頭を飾る「天使の傷痕」が乱歩賞受賞作であるという事が、僕にとっては乱歩賞作品は「完成度が高い」というイメージを持たせるにいたった大きな理由だろう。

 本作が、その煽りの効いた宣伝文句「読み落としていい箇所はラスト一行までどこにもない。あなたは絶対に鉄壁のトリックを見破れない」で僕らを惹きつけ、タイトルからもトリック重視の作品であることはよくわかっていたが、そうは言ってもそれなりの完成度はあるものだと思っていた。だが、まず最初に言っておきたいのは、この小説は未完成品だという点だ。あえて言えば、乱歩賞に提出するためのタイムリミットと枚数制限に迫られて、書きなぐり、書きはしょったと言えばいいだろうか。

 それが証拠に、導入部である交通刑務所内の描写はすばらしい。克明な所内の日常と、語り手である受刑者らの心理描写などは緊張感に満ち、刑務所内だけにしか通用しない独特のモラルと理念に刑務官も受刑者もともに縛られている様子がリアルに描かれていて、とにかく圧倒される。その上で所内では起こりえない事が起きる。殺人と脱走だ。受刑者の一人がもう一人の受刑者を殺して、逃走する。

 二人は東開放寮と西開放寮とに居室があるため、就寝後は交流できない。にもかかわらず、刑務官の目をごまかして一人は倉庫で殺され、一人は脱走する。密室殺人だ。しかも被害者は入手不可能な筋弛緩薬で殺害され、身元を隠すかのように濃硫酸(これも入手不可能なのは言うまでもない)で、顔と指先がつぶされている。

 複数の審査員が口にする「志の高さ」には、エンタメ全盛の時代において本格ミステリーであえて勝負を賭けてきた作者の志を高く評価しようという意図が込められているようだ。ところが、導入における語り手(受刑者の一人)が姿を消し、次々と語り手が入れ替わるにいたって、緊張感ある文体は崩れ、ただなしくずしにストーリーを追うだけの小説に変わってしまう。あるいは登場人物に必要となる台詞を言わせるだけの文章に堕してしまう。

 たとえば、非常に魅力的な設定だと思ったのは、中盤の主人公である保険調査員と、それに関わってくる地方新聞の女性記者との関係だ。若手とベテラン、世代の違い、背負っているものの違いなどが交差し、すれちがい、あるいは交換される。読みごたえのある人間ドラマが展開されるのを僕ら読者は期待してしまう。しかし、当然ながら賞向けの文章を結末へと書き進める作者に、僕らの期待に応える余裕はない。人間の描き方が平板というわけではないだけに、残念だ。

 そういうわけで、実は置き去りにしてきた人間ドラマを惜しむだけでなく、肝心のトリックを解明する山場さえも、この作品は作り損なっている。その一番の理由は、探偵役と思われた調査員が事件に大きく関わりを持つにつれて、肝心の場面に不在となってしまう事につきる。ならば、きちんと探偵役のバックアップを最初から考えておくべきだった。

 さまざまな構成上の問題を抱えてはいるが、「志の高さ」に免じて本作は乱歩賞を取り、こうして出版された。著者は審査員の指摘をうけて「加筆・修正した」そうだが、それはあまり信用できない。こうして素人読者が、審査員と同様の指摘をできるくらいのレベルの文章がごろごろ見受けられるからだ。

 ただ、致命的ではない。僕は読んでいてずっと好感が持てた。映画にまでなってしまった「告白」の底の浅さ、あざとさから比べれば、何倍もましだ。文体が崩れてからも、たえず「これはきっと書き直すんだろうな」と思っていた。作者の資質にもよるだろうが、ぜひ文庫化にあたっては出版社の催促などものともせず、高村薫ばりにじっくりと、書き損ねた人間ドラマを掘り起こしていってほしい。これは必ず良い作品になる。
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2010年08月10日

ゲゲゲの女房−人生は…終わりよければ、すべてよし!!− 武良布枝(2010/6/14読了)

 現在、NHK朝のテレビ小説で放映中のドラマの原作になる。漫画家・水木しげるの妻・布枝さんがつづった「夫である日本を代表する漫画家の伴侶となった人生」がさらりと描かれている。

 もちろん、今まで文章など書いたこともない作者が、急に文章達者になるわけではないので、実際に最終稿を仕上げたのは協力者(著者名に併記されているのでゴーストライターではない)だろう。だが、語り口のトーンは、作者である布枝さんからの聞き取りに基づいているはずだ。文章から立ちのぼってくる慎ましやかな性格は、まぎれもなく作者自身のものだろう。

 こういう人でなければ、とてもじゃないが水木しげるの人生に付き添えなかったように思う。水木しげるがきわめて悪い夫、悪い父というわけではないが、太平洋戦争で片腕を失い、戦後は貸本屋を営むがうまくいかず、貸し漫画のマンガ家で糊口をしのぐというどん底の生活に、著者は半ばだまされたも同然に上京して夫婦生活を始める。東京都は名ばかりの田舎然としたボロ住まいに唖然としながらも、すぐに「ここしか自分の生きる道がない」と決意して、夫を支えていく。

 水木しげる曰く「この人は生まれたから生きるという人だ」というとおり、人生をネガティブにもポジティブにも生きる事はない。まさにニュートラルな人生を作者は選択していく。ここが何事も押しつけがましくなくて好感が持てる。低視聴率で始まったドラマが、あれよあれよと勢いを盛り返したのは、ここに理由がありそうだ。

 だが、なんといっても感動的なのは、妻である作者が水木しげるの才能と努力に素直に尊敬をいだく場面だ。最初こそ、水木独特の作風にたじろぎ、「墓場鬼太郎」のおぞましさに見るのも嫌と思い込み、「なぜ水木はこんな漫画を描くのだろう」とまで恨み言を言いたくなる著者だが、明け方まで仕事というだけでなく熱心にマンガを描く事にのめり込む水木の姿に打ちのめされる。「自分が水木の作品を後押ししないで、どうする」と考えなおす。この場面に、水木しげるのマンガで育った世代の僕らは、とにかく胸打たれた。

 どうしても売れなくて、あの「悪魔くん」さえも出来はいいのに人気がでない。講談社の「鬼太郎」も今ひとつ上向かなかった頃、ようやく実写版の「悪魔くん」がテレビで放映されるところは、ひとつのクライマックスだ。テレビ用にアレンジされた「悪魔くん」は、世界観は確かに水木ワールドそのままに、妖怪たちが立体化して動き回る。そのことにテレビの前に集まった家族やスタッフが驚き、そして拍手する。思わず僕も本の前で手を打ってしまった。

 しかも、子供向けでもあるのに「悪魔くん」は怖い。いや「悪魔くん」も、その次の「河童の三平」もとにかく怖かった。いまだに思い出すと怖くなる。今見ればそれほどではないと、あらためて見直すと、やはり怖い。なんだろう、モノクロが持つ光と闇の効果だろうか。おそらく色がない分、想像力を過剰に刺激するのかもしれない。おまけに当時とてつもなく怖かった記憶が、まざまざと思い出されるから、怖さも倍加される感じだ。

 その後は、テレビアニメ「ゲゲゲの鬼太郎」が大ヒット。何度もリメイクされ、水木しげるは日本を代表する売れっ子マンガ家になる。貧乏は大変。でも売れっ子になって生活は安定したものの、締め切りに追われる人気作家時代は、もっと大変だった。時に「生きる喜び」を手放し、身をけずり神経をすり減らす水木と家族の間には溝が出来る。どの家族でも一度や二度は経験する事かもしれないが、水木のそれは程度が激しい。

 それでも、なんとか乗り越えてきたのは、やはり水木の才能と努力と、それを支え続けた作者の存在があったればこそだろう。著者に感謝したい。僕は、水木しげる原作の実写版「悪魔くん」「河童の三平」をテレビで見て育ち、少年マガジンの「ゲゲゲの鬼太郎」の壮大なエンディングに感動した。「墓場鬼太郎」も小学生の当時に本屋で立ち読みし、少年雑誌連載のそれとはひと味もふた味も違う作画の凄さに驚かされ、同時に作家としての水木の執念にうならされた。

 久しぶりに、また読みたいなぁ。
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2010年06月30日

ロスト・シンボル ダン・ブラウン(2010/5/14読了)

 「ダヴィンチ・コード」では500年以上前の謎を、あるいはキリスト教創生期にまでさかのぼる謎を、いま現実に起こっている殺人を解決するために、どちらの謎も一挙に解くハメになる。眉に唾をたっぷりつける。もう、ひたひた状態だ。一方、「天使と悪魔」では、バチカン市国の書庫に眠るガリレオの残したメモを頼りに400年前の謎を、いままさに目の前で起きようとしているサイバーテロを阻止するために、こちらも一挙に解決するハメになる。セルンという国際的な物理学研究機関が、この小説では得体の知れない利益団体にされてしまっている。やはり、眉に唾をつけないと読めない。やや、ひたひた状態だ。
 
 そして宗教象徴学を専門とする大学教授ロバート・ラングドンが、三たび遭遇する宗教的テロリストが本書で追い求めるものは、有名なフリーメイソンだ。Wikiによると、フリーメイソンの起源には諸説あり、14世紀のイギリスの石工職人のギルドから始まるとする説や、古くは、かのテンプル騎士団の残党に遡るとする説、あげくはエジプトのピラミッドの建造に携わった石工職人を起源とするものまであり、はっきりとはしない。

 しかし、本書で描かれている謎の起源は、そんなに古いものではない。アメリカ合衆国建国当時の権力者たちが、いずれもフリーメイソンリー(フリーメイソンに所属する者たち)であり、国の礎(いしずえ)を堅固なものにするために、ワシントン市内にあるいくつかの建造物に、フリーメイソンの理念を象徴するイコンを組み込んだ。時を経るとともに、あからさまな遺物は目の前から取り除かれたり隠されたりしたが、いまだに議事堂や国会図書館などの地下には、フリーメイソンに係わる秘密が眠っている(らしい)。

 たしか「12番目のカード」で、ジェフリー・ディーヴァーもニューヨークの地層に眠る、かつてのオールド・ニューヨークの歴史を探り当てるという歴史ミステリーをたっぷりと味わわせてくれたが、本書で著者ダン・ブラウンがやろうとしていることは、日本に舞台を移し替えたとするならば、荒俣宏が書いた「帝都物語」や「陰陽師」に似ている。もちろん、荒俣さんの小説はストーリーそのものはフィクションであり、SFだったりするわけだが、そのベースは、歴史の堆積を取り除いたあとに今なお残る聖遺物にフォーカスする、まさに歴史ミステリーと言える。

 こういうものは、近くではNHKで放映した「ブラタモリ」のように、街が近代的な相貌になればなるほど、わずかに残されていまは誰にも顧みられなくなった遺物へのいとおしさがひときわ募るようになる。その点で、いままでのダン・ブラウンの作品の中でも、もっとも読みごたえがある小説だった。

 当然ながら日本人にとってフリーメイソンはそれほど知名度が高いというわけではない。未知の団体ではあるが、ウンチクばやりの昨今、「アメリカの1ドル札にはフリーメイソンのシンボルが刷り込まれている」ことぐらいは、僕ですら知っている。本作でもそのあまりにも知られたウンチクを逆手にとった1ドル紙幣の使い方をしていて、読者を楽しませてくれる。

 ダン・ブラウンが主宰する「歴史ミステリー」ツアーに強制参加させられる趣向は前2作と変わらないが、たかだか200年前の建国時の謎であれば僕らにでも手が届きそうな現実味が感じられる。
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2010年06月29日

51番目の密室−世界短篇傑作集− 早川書房編集部/編(2010/6/5読了)

 世界ミステリ全集第十八巻「37の短篇」から12篇を選んで、新たに「世界短篇傑作集」と銘打って出版されたのが本書だ。これに先立ってすでに「天外消失」というタイトルで14篇が収録されている短編集が出版済みだとは、あとがきで初めて知った。そういえば「37の短篇」という一冊は神保町・三省堂書店の1階にあるミステリーコーナーで必ず見かけた記憶がある。ずいぶん昔の話だけれど…。ということは残りの11篇でもう一冊短編集が編めることになる。こういう手ごろなサイズに分割されると、また手にとって読んでみようという気になるのは妙なものだ。文庫化されると新しい読者がつくのは当然のことではあるのだが。

 僕はタイトルの「密室」という文字が目に入らなければ借りようとは思わなかった。例の「有栖川有栖の密室大図鑑」の単行本を借りて読み、文庫も購入してからというもの、そこに紹介された〈密室物〉を読破しようなどと思い立って、すでに4,5年は経過してしまった。一向に計画は進まないのだが、「密室」アンソロジーとなると気になってしまう。

 だが、本書は決して密室物のアンソロジーではなかった。たまたま表題作の短篇が密室物だったに過ぎない。しかも「密室大図鑑」の著者は「豪快系の密室」として紹介しているくらいだから、おのずと「密室」のトリックも正統派とは思えない。だが興味はわく。いや、すでに読んだことがあるかもしれない。短篇の場合、何度読んでも読んだ事を忘れてしまうことはよくあることだ。ならば本格ミステリーの場合は「これ幸い」な事この上ない。もしサブタイトルどおり傑作であるならば、再び結末の醍醐味を味わえる。スカであったとしても短篇なので被害は最小限というものだ。では、一編一編味わってみるとしようか。

[うぶな心が張り裂ける クレイグ・ライス]

 酔いどれ弁護士J.J.マローンの第一作、だそうだ。一度も読んだ事はないが、殺人事件にもかかわらず、のほほんとしたテンポが楽しめる。ただ、無実の罪で死刑囚となった男が首を吊った際に言い残した「切れなかった」という言葉ひとつで謎を引っ張っていくのだが、これがbreakという英単語の多義を利用した謎なので、日本人の僕らにはいまひとつオチが決まらない。

[燕京綺譚 ヘレン・マクロイ]
 ミステリー(謎解き)であると同時に、幻想小説でもある。ロシアやイギリスなどが中国を割譲していた時代の物語。まだ近代化していない古き王国・中国のきらびやかさと退廃とを描いている。単に異文化への興味を掻き立てた著者の好奇心から生み出された物語というだけでなく、中国の文化と歴史への著者の正確な理解があってこその傑作だと言いおきたい気持ちはわからないでもないが、短篇1作に付された「訳者附記」は、やはり蛇足ではないか。

[魔の森の家 カーター・ディクスン]
 訳者が江戸川乱歩というところが驚きだ。通常、創元推理文庫の短編集に含まれている本短篇は乱歩訳ではなかったはずだ。ただし、本書の最後に転載されている「37の短篇」出版当時の座談会で、「乱歩訳」は名前貸しに過ぎないと暴露されていて少々興ざめだ。

 作品自体は、乱歩自らが編んだ「世界短篇傑作選」にも含まれているカーの代表的な短篇だ。いまとなってはトリックを忘れようにも忘れることができないほど明快な「密室物」のお手本のような作品なので、面白さは半減するが、全編にわたってHM卿の愉快な語り口と、ラストのオチの絶妙さが光る一作だ。

[百万に一つの偶然 ロイ・ヴィカーズ]

 〈迷宮課シリーズ〉というのも読んだ事がない。実は最後のページの最後の段落を読むまでは「百万に一つの偶然」とは何のことか、うかつにもピンとこなかった。これで謎が解けたの?と一瞬首をかしげてしまったくらいだ。でも、よくよくかみ締めてみると「ああ、なるほどね〜」という関心する。そういったタイプのオチだ。なんというか、ちょっとブラックユーモアを効かせた味わいがある。

[51番目の密室 ロバート・アーサー]

 作者の名前は聞き覚えがない。先に触れたように有栖川さんが「豪快系密室」と分類したように、なるほど「ごうかい!」の一言が似合う作品だ。そもそもが本格ミステリーのパロディーと思って読まないと期待を裏切られるかもしれない。だが、被害者の首が切られてテーブルの上に乗っかっていたり、ミステリー作家が実名で登場していたりするので、間違うことはまずないだろう。そして「豪快系密室」と思って期待すれば、これはもう期待を裏切られることは決してない!

[燈台 E.A.ポー/R.ブロック]

 ゴシックホラーの雰囲気を十分すぎるほど湛えた短篇。さすがポーだ。死後に見つかった未発表作品で、完成か未完成かもはっきりしていなかった。「サイコ」で有名なブロックが結末を書き足して出版されたということだが、どこからブロックの手になるのか。浮世を離れた灯台にやってきた一人の男が、孤独な日々を勝ち取るまでがポーの文章だ。ここで終わりだとするとオチらしきものが一切ない。あるいは自由気ままな日々を勝ち取った男の物語を、後半のブロックの文章が狂気に満ちた物語に変えてしまう。これこそが「ポーらしい」とばかりに…。

[一滴の血 コーネル・ウールリッチ]

 なんというかトリックうんぬんよりも、人一人を殺したにしては冷静に死体の始末に専念する主人公の若者が、警察にトリックがばれたらばれたで、これまた冷静に身の処し方を一瞬にして覚悟してしまうドライなタッチが不気味だった。まさにウールリッチらしい。

[選ばれた者 リース・デイヴィス]

 この短編集の中で一番の長編だ。だが、長いくせにつまらない。無駄に文章を飾り立てているので読みづらいし、登場人物たちの心理描写とは何の関係もない飾り立てが多いのだ。そもそもが最初の著者紹介で、著者が「ホモセクシャル」だと明かされている以上は、この粘着質な文体が何によるものなのかは考えるまでもない。

[長方形の部屋 エドワード・D.ホック]
 密室トリックの一変種かと思ったが、そうではなかった。「長方形」が〈何を意味するのか〉というところに、スパイスが一段と効いている。ミステリーというよりは、切れ味鋭いショートショートの傑作という感じだ。

[ジェミニイ・クリケット事件 クリスチアナ・ブランド]

 クリスチアナ・ブランドも、またこれまであまり読んだことがない作家だった。クリスティと同時代の女性で、クリスティ同様に本格ミステリーの黄金期を支えた一人だとは聞き知っているが、そもそも英国ミステリーよりも米国のミステリーのほうに惹かれてきたせいか、手付かずにきてしまった。しかし、ここまで謎解きが上質で、その上に見事なオチを用意している周到さには舌を巻く。
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2010年06月24日

13日間で「名文」を書けるようになる方法 高橋源一郎(2010/5/7読了)

 あとがきに書かれていたように思うが、このタイトルで括弧に括られた名文とは、世間で言うところの名文(文章の達人が書いたような文)とは違っている。自由に書きたい事を書き、自分以外の誰か一人でも「すげえ!」と感じてもらえるような文章は「名文」だ。そこに受講者が気づいてくれれば、著者はそれで十分だと考えている。教えるのではなく、「自由に書きたい事を文章にしよう」とやってきた学生たちから著者自身が教えてもらっているのだ。

 そういう意味では、これは従来からの文芸評論の枠の中におさまるものとも言える。高橋源一郎自身が気に入った文章を授業で紹介し、感想を話しあい、先生が解説する。その次は学生たちが文章を書き、そしてまた感想を言い合う。けっして真似をしろお手本にしろと言うために、著者は毎回気に入った文章を紹介しているわけではない。そもそも手本とするのは無理な文章ばかりが読み上げられる事が多い。

 例えば「AV女優の履歴書」などは、声を出して読むにははばかれるほどぶっとんだ内容だ。感想を求められた女子学生の一人は「この授業って修行なんですね」とため息をつく。そう、修行だ。そうとでも言わないかぎり、倫理的な良し悪しや政治的・宗教的信条に、あるいは性別や民族などへの偏見に足を取られて、僕らはすぐにある種の文章を吟味する事も感想を述べあう事もできなくなってしまう。著者が学生達(あるいは読者たち)に求めているのは「文学の可能性」について考える事ではなく、「文章(を書くこと)の可能性」について考え、実践する事なのだ。

 小中高と国語の授業があり、教師の教え方の大半は、書かれた文章に「何が書かれているか」あるいは「(書かれていないが)何が行間から読み取れるか」という読解(読むこと)の方法論に終始する。これに対して著者の方法論は「まず読んでみよう」でも「まず書いてみよう」でもない。「どうしたら『何が読み取れるのか』が、自分以外の読者に読み取れるように書けるか」という事を、学生と一緒に考えていく。著者が紹介する文章は、そのための呼び水に過ぎない。

 読者がいない文章は、この講座で扱う「文章」ではない。だから、「いったい読者とは何者か」を意識した時点で、「名文」を書くという課題の半分は解決しているわけだ。もちろん、この本を最後まで読んでも、タイトルどおりに名文を書けるかどうかの答えは出ていない。括弧付きの「名文」はレトリックに違いない。

「文章の可能性」を語るということは、その限界をも語ることにならざるをえない。著者は、子供が大病して、やむなく授業を一回休講にする。再開初日にその顛末を物語る。子供がことばを失いかけたときに、彼をモデルにした(かどうかははっきりとは分からないが)小説を連載している時期で、その小説の中で子供が言葉の障害にかかるストーリーに、現実の妻から「あんなものを書くからいけない」とヒステリックに反応され、著者は何も言い返せなかったと語る。

 これはもちろん休講にした事の言い訳ではありえない。高橋源一郎が学生を前にして静々と語っているのは、「文章(を書くこと)の限界」である事は明らかだろう。著者は「名文」とはなにかを考える上で「書きたい事を思い通りに書きなさい」と言うのでは答えになっていない事を、あるいは一面でしか捉えていない事を、まさに身をもって体験した事で学生たち(読者たち)に伝えているのだ。
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2010年06月23日

代替医療のトリック サイモン・シン/エツァート・エルンスト(2010/5/26読了)

 「代替医療」とはなんだろう?耳慣れないことばだ。ひょっとして日本語にはもともとないことばを新たに翻訳の都合で造ったのかもしれない。このことばの反対語は、「通常医療」だ。これは、いわゆる病院や町医者によって我々が受けられる西洋医学を主とした医療を指す。

 この医療体系からはずれたものは、すべて「代替医療」だ。この言葉も一人歩きしそうな曖昧さをかかえている。「通常医療にかわる医療」をさすのか、あるいは「医療そのものにとって代わる何か」を指すのか。後者であれば、それは医療ではないことになり、最初から本書の著者たちあるいは「代替医療」に疑いの目を向けている側の意見を代弁していることになる。

 だが、一般論から言えば、世の中には怪しげな理屈で高額な治療行為をおこなったり、うさんくさい機器や薬を売りつけるやからが後を絶たない。そういったものから逃れるすべがあるのなら、この種のなんらかの啓蒙書は必要なのかもしれない。でも、ここで取り上げられている「代替医療」の急先鋒として、日本では至る所に看板を見かける「カイロプラクティック」や「鍼灸」が含まれている事に、僕ら日本人はかなりショックが大きい。通常医療の現場(病院)で当たり前のように処方される「漢方薬」ですら、この本では代替医療と見なされる。

 そして結論から言うと、これら代替医療のほとんどが「効果がない(科学的な検証で有意性が確認できない)」か、あるいは「効果はあるが、通常医療にとって代わるほどの効果はない」。さらに大切な点は、通常医療の方が同じ効果を手に入れるにしても圧倒的に安価だという点だ。

 では鍼やお灸やカイロプラクッティックが本当に効かないにもかかわらず、僕ら一般人は高額なお金を払い続けているのかというと、実はその背景には「プラセボ効果」という重要なキーワードが関係してくる。これも耳慣れないことばだが、要するに「治ったような気になる」という一種のおまけのようなものだ。これが時に馬鹿にならないほど患者に好影響を与えるため、代替医療はいまだに大手を振って世の中にまかりとおっていられるわけだ。

 今回、とくに驚かされたのは、ホメオパシーという治療法の怪しさだ。幸いながら日本では、あまり普及していない。だが海外では一部の無知なセレブが推奨するおかげで、かなりの人々が治療を受けているらしい。考え方の基本は、一種の免疫療法に似ている。何かを治すために、それに関係するものを水で希釈した溶液を飲むというものだ。

 しかも創始者の信念では「溶液は薄ければ薄いほど効果がある」。一般に、量を増やしたり濃度を濃くしたりすると効き目が強くなることは理にかなっているが、その逆は理屈にあわない。なんと究極の治療で処方される溶液には、「うすい」どころか最初に投入した「何か」の分子一個すら含まれない。つまり、これを飲んで効き目があったところで、それは100%プラセボ効果なのだ。

 これを医療と言えるかと言えば、まっとうな科学的知識をもつ人ならばNoと言えるはずだ。しかし、これと同列に鍼灸や指圧などがプラセボしかないとやり玉に挙がっているのを読むと、さすがにこれまで絶大な信頼を置いてきたサイモン・シンの著書とはいえ、ちょっとこれは違うのではないかと言いたくなってくる。

 とくに今回はホメオパシーの医師でもあり、現在は代替医療の科学的検証に力を入れているもう一人の著者エルンストとの共著であるせいか、立論と結論がいつものような明快さに欠ける。

 著者たちの主張は、代替医療を排除することにあるのではなく、科学的な有効性があるならば積極的に容認したいという寛容さを表明している。だが、たとえ「プラセボ効果」だけしか確認されない治療法であっても、通常医療により安価で有効性がある治療法が存在する場合には、著者たちの姿勢は代替医療無用論に偏っているように感じられる。

 その偏りがどこからくるかと言えば、このような科学的に検証されていない医療(あるいは医療もどき)を放置しておけば、かつての通常医療が「瀉血(しゃけつ)」などという有害無益な治療法を信用していたように、暗黒な時代に逆戻りしてしまうという著者たちの根拠のない「怖れ」から来ている。

 僕から言わせれば、科学という確固たるものさしができあがっている現代において、代替医療が通常医療をおびやかすことはありえない。どだい100%総取りをめざす通常医療(または科学)の側が欲張りなのだ。自分の健康や生き死にに対して自分が責任を持って金を出す。それでかまわないではないか。それで高い代償を払うことになろうとも、責任は個人にある。通常医療は正義でもなんでもない。

 著者達は、通常医療の側にも問題はあると控えめながら指摘している。

「代替医療は治療しているのではなく、患者とのあいだに治療効果のある関係をつくっているのだろう。」(P.350)


 この指摘は、いくら言っても言い過ぎにならないほど重要だ。僕の体験から言うと、通常医療の科学的有効性はピカイチ。だがサービス面は最低だ。いちどでも入院したことがあれば、よくわかる。近代的医療の名の下に、モルモットのように実験台にされたり、痛みや熱でうんうんうなっている体にむち打ち、あちこちの検査に連れ回わされる。しかも、そのあとに待ち受けるのは、退屈でつらい「安静という名の牢獄」の日々だ。図書館や映画施設の一つもなく、まともな喫茶店すらない。いったい僕らは金を払って苦行を強いられに来たとでもいうのか。

 しかしそれでも、入院すれば担当医が頻繁に回診にきてくれて、今やっている治療や検査の説明をしてくれるなら、まだましかもしれない。外来で通う人たちは、たった15分程度の受診のために、待合室に2〜3時間も待たされる。じっくり最近の体調を説明しようと思っても、適当なところで話の腰を折られるのは毎度のことだ。

 もし本当に通常医療関係者たちが、代替医療よりも自分たちの病院の門をたたいてほしいと願うならば、まずは相手の悪いところをあげつらうのでなく、先にいいところ(それは患者がもっとも望んでいることだ)を学ぶべきだろう。
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2010年06月21日

シャッター・アイランド デニス・ルヘイン(2010/4/16読了)

 ルヘインの作品は今度で二作目だ。前回がイーストウッド監督の映画「ミスティック・リバー」公開に合わせて読んだので、今回もまた映画の原作として読むことになる。どうも最初からルヘインの小説を読もうという気にはならないらしい。少なくとも「ミスティック・リバー」は映画を観たいとはいまだに思うが、原作に関しては一度読めば十分という感じだった。

 昔、ルース・レンデルの代表作と言われる「ロウフィールド館の惨劇」を絶賛する書評が目に留まった。家政婦が主人たちを殺したのは「彼女が文盲だったから」という理由だった。不条理な動機で人を殺してしまう事件を生み出した想像力と語り口が「すごい!」と言いたいらしいのだが、読んで何が凄いのか、何を楽しめばよかったのか(味わえばよかったのか)最後まで理解できなかった。それ以来、レンデルの他の作品は一冊も読んでこなかった。

 ルヘインの「ミスティック・リバー」を読んだときも、そういう思いがあった。現代的なハードボイルドを読む際には覚悟しなくてはならないのかもしれないが、謎解きやトリックがなくても、殺人が起こり、被害者と被害者の家族と容疑者がいて、彼らの間でさまざまな愛憎に満ちた物語が濃密に展開しさえすれば、それで充足するような物語が実は苦手だ。

 もちろんそこに意外な結末が待ち受けていたりすれば、多少なりとも読んでよかったと思える。桐野夏生の一連の作品は「読んでよかった」と思わせる典型だ。「OUT]は人間ドラマでありながら、日常と非日常が紙一重であるところの絶妙さがすばらしく、そして最後の落としどころも「さすが」と思わせてくれた。

 だが「ミスティック・リバー」に関する限り、「なるようになる」物語にすぎず、「犯人でないのに犯人にされてしまう男」の恐怖(サスペンス)は確かに伝わってはみたものの、結末の展開が少しも意外ではなかった。

 では本作はどうか?僕の満足度は高い。孤島にある刑務所兼精神病院で起きた殺人を捜査に来た刑事たちが、非協力的な関係者たちの怪しげな言動によって捜査が息詰まってしまう。そこには、あるトリックが隠されている。映画に関していえば、例の「シックス・センス」に比する叙述トリックのようなものらしい。

 これは映像そのもの(カメラ)、あるいは小説の三人称の語り手と同様に客観的なはずの視線(まなざし)自体にウソが紛れ込んでいるという事だ。観客は最初からカメラ(視線)にだまされている。

 映画の方は観ていないので、どんな出来映えなのかわからないが、原作の方は最後まで「だまし」をつらぬけるわけではない。なんとなく読者には途中でわかってくる。それが、作者ルヘインの思惑通りなのか、それとも「だまし」の技術がまずいのか、微妙なところだ。少なくとも、一気に分かるのではなく、中盤ぐらいに「そうではないか」という疑念が頭をもたげてくる。

 そして、結末は僕の思ったとおりなのだから、叙述トリックの醍醐味からするとやや甘い。だが、当然ながら著者にとって叙述トリックの大技は作品の趣向の一つに過ぎないのであって、いつものように乾いた文体で描く人間心理の狂気や、エンディングに至るサスペンスなどの小技の方をこそ読んでもらいたいはずだ。その点では「ミスティック・リバー」ほど物語が重くないので、読みやすかった。
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2010年06月18日

夏への扉(新訳版) ロバート・A・ハインライン(2010/4/11読了)

 オールタイムベストSFのランキングには必ず挙ってくる名作であり、SFの巨匠の一人に数えられる著者の代表作だという事まではわかる。たしか「宇宙の戦士」という作品だったかが、成長してゆく少年兵士を描いていて、ガンダムの作者にインスピレーションを与えたと、何かで読んだ記憶がある。僕がハインラインについて知っている事は、それですべてだ。当然ながら、彼の著作を読んだのも本作が初めてだし、内容(あらすじ程度でも)についてもまったく知らないままに読んだ。

 これがどんなに素晴らしいことか、SFファン、ハインラインの愛読者ならば「うらやましい」とため息まじりにつぶやくのではないか。僕自身、クイーンの「Yの悲劇」を筆頭に悲劇四部作に国名シリーズ、ライツヴィル物、晩年の作品にいたるまで、すべてを記憶をまっさらにした上で、ゆっくりとページを惜しみながら読み直したい(いや、出会いを楽しみたい)と何度願ってきたことか。それくらい、この作品は「永遠に心に残り続ける小説」だと言っていい。

 僕はなんとなく「夏への扉」が地球外の知的生命体とコンタクトをとるための〈扉〉(スターゲート)の符丁だと思っていた。アーサー・C・クラークの「オデッセイシリーズ」を除けば、苦手な宇宙物だと思ってあからさまに手を出してこなかった。そして「夏への扉」が、主人公の青年の飼い猫が、毎朝起きると探し求める扉の事であり、若さや懐かしさや安らぎといった青年と猫にとっての幸福の象徴であることが冒頭で明かされる。数十年前に書かれたというのに、今なお初めて読みに訪れた何も知らない読者に、こんなにもみずみずしく爽やかな印象を与えてくれるものかと、驚いてしまった。

 この作品のいいところは、SF臭がまったくしないか、あるいはほどよい程度にしかストーリーの邪魔をしない点にある。両親に先立たれ、猫だけが唯一の身寄りである〈私〉は、孤独と裏切りからの失意を癒すために、長期冷凍冬眠することを決意する。心残りは、親しくしている友人の娘に別れを告げずに〈旅だって〉しまうことだけだ。これは、言ってみれば「タイムトラベル・ロマンス」と言うべきジャンルの作品である。その後のいくつかのSFの常套手段が、ストーリーに入り込んでくるが、少々ご都合主義であることを除けば、素人にとって小難しい理屈も哲学もない。

 星新一の著作がコアなSFマニアから物足りなく思われた時期があったように、本作の近未来の取り扱い方は、さらっとしすぎているかもしれないが、おかげで主人公の心情に感情移入しやすくなっているのは確かだ。

 いま読むと、あるいは発表当時から、先読みしやすい伏線であるために、読者によっては結末をうすうす感じながら読み進むことになるかもしれない。しかし、それは決してこのジャンルの作品の弱点ではない。ハリウッド映画の何割かを占めるラブロマンスものが、お定まりの想像しやすい展開を用意しているように、本作でも思っているような展開が少々じらされながらも待ち受けているので、僕らはホッとさせられる。それでこそ、期待通りの物語なのだ。そのうえで、主人公の屈託のない独白に心が安らぐのは、主人公とともに案じてきた猫さえもが、紆余曲折のあった主人公の目の前に姿を現してくれる事が途中から分かるからだ。

 本当を言えば、彼と猫とのプラトニックなロマンスを描いた物語だと言えば、未読の読書好きの何%かは、いますぐにでも本書を探し求めるのではないだろうか。
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2010年06月15日

笹塚日記 ご隠居篇 目黒考二(2010/3/3読了)


 最近店頭にならんだ「本の雑誌」を手にとってみて、なんとなく買おうかな買うのやめようかなと悩んで、表紙に書かれた見出しを読んでは、やっぱり買わないと棚に戻す事が多い。なんとなくだが、目黒さんが一線を退いて隠居してから魅力が薄れた気がしてしまうからだ。

 まず吉野朔実のマンガと笹塚日記の二本立てがあると「買おうか」という気がおきる。マンガは2ヶ月に1度の連載だから、ないと買わない。二本立てで買おうかと悩み、あとは特集などの記事の内容で興味がもてれば「買い」ということになる。そのまえに、もちろん財布に相談なのは当然のことだ。

 笹塚日記なきあとは坪内祐三の読書日記があるにはあるが、これはそもそも彼の本業であって、目黒さんの笹塚日記のような余技ではない。僕はそういう余技がみたい。読みたいのだ。

 いずれ椎名(誠)さんも年老いて雑誌から手を引くときがくるだろう。そうした場合、「本の雑誌」というメディアは成り立っていくのだろうか?例えば、雑誌「ぴあ」の凋落は、僕らぴあ愛好世代からは目に余るものがあるが、若い世代の映画や音楽に対する鑑賞法がずいぶんと変わった以上、従来型の情報誌は用無しになってしまうのは致し方ない。いまだに映画館(シネコンではない)に通いつめるには「ぴあ」は最高最適なお伴であることは間違いないのだが…。

 本の雑誌はもちろん大丈夫だろう。すでに目黒さんが熱く語り、椎名さんが戯れ言を言い、キムラ弁護士がかみついて、沢野さんのイラストが余白を埋めるという、梁山泊の男どもが奏でるぐうたらさと、友情あふれるオジさん臭は、残念ながら徐々に薄まりつつある。そうして雑誌が若返っていくときのポイントは、やはりどれだけ女性にアピールできるかにかかっているように思う。すでに女性向けに誌面がシフトし出していると言ってもいい。

 もちろん気にくわないのではないが、僕からすると物足りない。できれば、あるときふと手にとって中味をみると「帰ってきた笹塚日記」などという連載が戻ってきてはいないだろうかと、ワクワクしながら目次を見渡すのだ。いやはやなんとも哀愁に満ちた行為だ。

 さて4冊目で完結の本書だが、日記のスタイルはどこをどう切っても変わらないので、もう感想としては書きつくしたといっていい。ただし、時の流れをまとめておくのも無駄ではないだろう。そもそも本誌の記事の穴を埋めるために「何か書け」と言われた著者が、「では日記でも」とまとめて書き上げたのが始まりだ。思った以上に好評だったので、そのまま連載になった。それから7年。著者は仕事のあいまに本を読むというより、本を読むあいまに仕事をする。つまり読書は著者にとって趣味とも仕事とも言える。区切りがあるわけではなく、一体化しているのだ。そのため、週末以外は笹塚にある「本の雑誌社」社屋に寝泊まりする。

 編集から退いてからも、寝泊まりの場所を上階の一室を占拠して変わらぬ生活を続ける。一日に新刊本を2〜3冊読むという驚異的なペース。色は店屋物に終始し、面倒くさいからと、飽きるまで同じ物を食べ続ける。近所のそば屋の名物「冷やしおばけそば」(たぬきときつねが合体したもの)が日記に何度も何度もあらわれる。

 その不健康な生活も、大病を患ってから一変する。なんと社屋の一室で自炊を始めるからだ。と言っても手間がかかるものはNG。簡単で美味しいレシピをもとめて新刊さがしのついでに料理本を買いまくる著者。日記も読書日記というより料理日記の様相を呈してくる。

 その間にも、週末は地方の競馬場に出かける習慣は欠かさない。強いて言えば、最初の頃は麻雀仲間からお誘いがあると、メンツを探し日程を調整する役をかって出るマメさを発揮する。当然ながら「徹マンをやった」という記述がたびたび出てきたが、中盤以降は目立たなくなったような気がする。

 本書では、一番下の余白に解説やら対談などが載るので「一粒で二度美味しい」ならぬ「一冊で二度おいしい」仕掛けになっているのであるが、最終刊の「ご隠居篇」では著者をよく知る人たち(競馬仲間、麻雀仲間なども含む)の歓送の言葉がうまる。気分としては同窓会・送別会の「送る言葉」なのだ。

 特に、忘れもしない目黒さんの料理熱がピークに達し、弁当箱を買ってしまうが使う機会がない。ならば作ってしまえと、競馬場に行く日に合わせて仲間達に豪勢な弁当を用意して食べさせるという場面が、いずれかの巻であるのだが、その弁当を食べた当人の思い出が載ってる。「びっくりしたが、あまりにおいしいので忘れがたい思い出となった」と書かれていて、この日記全四巻を読んできた僕としては感無量だった。

 なんと今回、笹塚の社屋から町田の自宅に隠居を決め込む著者は、最終刊の日記で料理熱が冷めた事を告白し、ふたたび外食を始めた。もちろん自炊もするが、外食の回数が増えている。「江戸屋のとんかつ定食がおいしい」とか「牡蠣定食がいつ始まるか」で一喜一憂するところも面白いが、料理を作るのも隠居するまでのことだとすると(隠居後は自宅で食べるから)、月日の移り変わりとはなんとも無情だなぁと思えてくる。まあ、目黒さんが健康でいて本を読み続けてくれれば、僕らファンは満足なんですけどね。

 最後に著者に御礼を言わせてほしい。

 こんな幸せな気分にさせてくれた日記が終わってしまうことが、あらためて残念でなりません。ぜひぜひ帰ってきてください。僕ら「目黒スタイル」を敬愛する読書好き、B級グルメ好きに、もう一度夢を見させてください。とりあえず、いままでありがとうございます。
posted by アスラン at 19:30 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月10日

シャーロック・ホームズの冒険(新訳) アーサー・コナン・ドイル(2010/3/13読了)

 これまでホームズというと、新潮文庫の10冊からなる本でしか読んでこなかった。延原謙訳が、コナン・ドイルが執筆した当時の古色然とした時代の雰囲気をうまくたたえていて、かつ文章も格調高いと定評があった。高校生だった僕は、そんな権威に迎合するかのように、ありがたがって全巻を読み揃えた。

 だれしも「冒険」に収録されている名高い短編の数々に魅せられて、次の短編集や長編へと自然と読み進んでいくだろうから、翻訳自体に引っかかりをもつことはそれほどないと思っていた。そもそも「古めかしい」のは作品の時代背景であって、翻訳の文章そのものが「古くさい」なんてことを当時の僕は思いつきもしなかった。

 今年はハリウッド映画版「シャーロック・ホームズ」が公開されたせいで、タイミングを合わせて店頭で新訳の「冒険」が何冊か平積みされた。その中でも創元推理文庫の新訳シリーズの刊行が興味を引いた。訳者は、あの深町真理子さんで統一されるそうだ。まずは「冒険」から刊行かと思いきや、「事件簿」がすでに出版済みとなっている。

 ふーん、そうなんだと思ったら、もともと創元推理文庫のホームズ作品は複数の翻訳家の手になる寄り合い所帯で、「事件簿」が深町さんの翻訳だった。これを残し、それ以外の作品の新訳を彼女が担当する。その一番目が、やはり第1短編集の「冒険」だった。

 読めばわかるが、格調よりも読みやすさを優先している。言葉遣いが一新されただけで、まるで劣化したセピア色のフィルムが公開当時の鮮やかさを取り戻したかのようなフレッシュさを感じる。たしかに時代背景を念頭に置いた重厚さが翻訳に求められる場合もあるだろうが、当時の読者が熱狂したのは、コナン・ドイルの自在なイマジネーションと、生き生きとした語り口だったはずだ。

 もうひとつ重要な点は、深町さんの訳がいわゆる「政治的に正しい(politically correct)」表現を用いて延原訳をリライトしている点だろう。コナン・ドイルは、貧民層に容赦ない批評(批判)をこめた描写をしている。その事が、今の若い世代に「差別的で読むに耐えない」と言わしめ、敷居が高くなる原因になっているかもしれない。

 会社の同僚の話では、友人から息子が中学校の「読書の時間」に読む本の選択に悩んでると聞いたそうだ。教師から指定された課題図書の中に「冒険」が含まれていたので、同僚も僕も「冒険」を読むといいのではないかという話になった。読みやすいし、日頃本をあまり読まない中学生でも興味が持続すると思ったからだ。

 ところがその息子の感想は、さきほどの「差別的で読みづらかった」という、僕からすると意外なものだった。そんな事は僕自身はあまり感じたことがなかったので、本当に驚いた。たしかに読み直すと、そういう引っかかりがいくつもある。それは作者の責任に追うところもあるだろうが、多くは時代的な背景、時代的な通念に帰すべきものだろう。さらには、その背景や通念を容認できる翻訳家(延原)の時代背景や通念もある。さらにさらに言えば、読む側の意識だって時代とともに変化した。中学生当時の僕が引っかかりを感じなかったとしても、今の中学生には受け止めにくい点も多々あるのかもしれない。

 その点、深町訳には、少なくとも原作者の意図とは別に、不用意な言葉を使って読者を逆なですることはなくなったと言っていい。今まさに若い世代に読んでもらうには最適な新訳だ。

[ボヘミアの醜聞]
 いわば悪党小説とハーレクイン趣味が一緒になった短編と言えばよいか。ホームズが敗れる話から、この短編集が始まるというのもまったくもって憎らしいくらいの手際だ。

[赤毛連盟]

 言わずとしれたホームズシリーズの代表作。子供の頃に小学校の図書室で初めてホームズ物に出会った経験がある人ならば、永遠に心に残るのがこの作品であることはほぼ間違いないだろう。今読んでもアイディアに感心させられる。

[花婿の正体]
 これもミステリーには違いないが、花婿の正体が最初からみえみえで工夫がない。

[ボスコム谷の惨劇]
 K.K.K.(クークラックスクラン)という実在するアメリカの秘密結社に着想を得た読み物だが、皮肉な結末以外は現代人には少々退屈な作品だろう。いまだに同じ趣向を扇情的にやっているのが、ご存じ「ダヴィンチ・コード」「天使と悪魔」のダン・ブラウンだ。古くさい手が今なお通用するということの方が驚きだ。

[くちびるのねじれた男]
 高校の頃に本格的にホームズの原作に触れた際には、100年前の古色然とした雰囲気を湛えたロンドンの貧民窟には「いざり」や「びっこ」が頻々と出現する(延原訳(新潮文庫))事を気にすることはなかった。今回の深町真理子訳では、現代よりも偏見に満ちていたヴィクトリア女王時代の裏面を象徴する怪しさは減じたかもしれないが、同時にこの奇怪な話のおもしろさだけをきちんと再現することに訳者は成功している。

[青い石榴石(ざくろいし)]
 少々物騒なところをのぞけば、盗まれたガーネットがクリスマス用の七面鳥の中から出てくるという、クスクス笑いたくなるような面白いお話だ。犯罪には違いないし、犯人と間違えられてとらわれた容疑者がいるのだから、本来ならばけしからん話だが、そう思えないほどユーモアを基調とした語り口がなかなか楽しい。

[まだらの紐]

 あまりに有名で「赤毛連盟」についで本書の中でよく知られている短編と思われる。ミステリー好き(特に本格ミステリーマニア)の中には、これをいわゆる〈密室物〉の一つに数える人もいるようだが、僕自身はそんな印象はこれまでまったく受けてこなかった。そもそもが本短編をミステリーと考えていいのかも怪しいもので、今際のきわに「まだらの紐」という謎の言葉を残して死んだ女性の禍々しさだとか、何故か狒々(ひひ)が出てくるおどろおどろしさが、その後の「バスカヴィル家の犬」を先取りしたかのようで、一級のスリラーとしての醍醐味に満ちている。

[技師の親指]

 「まだらの紐」に引き続いてスリラーだ。しかも本書のなかで、最も震え上がるような恐怖に読者をいざなうのが本編だろう。親指を失った男がホームズたちを前にして物語る奇妙な話は、結末がどうなるか読めない。技師として派遣された彼が、目隠しされた挙げ句に行き着いた洋館で、修理を必要とした機械がある部屋に案内され、ひとり取り残される。そこへ一人の女性が姿を現し「逃げて、さもないと殺される」と言い残す場面は、読んでいて非常に怖い。いまから考えるとドラマや映画向きのサスペンスだ。

[独身の貴族]
 ホームズが、事件を解決したあとでワトソンに「最初からわかっていた。ありふれたよくある事件だ」とうそぶくように、本当にありふれた事件だ。これを先の読めない物語に仕立て上げるためには、作家は佐藤正午の「ジャンプ」でも読むといい。結末も間の抜けたものだが、ゴシップ好きの当時の読者へのサービスだったろうか。

[緑柱石の宝冠]
 P.463のホームズの一言はあまりにも有名で、本格ミステリーファンを痺れさせる。この作品はまさしくエラリー・クイーンが自らの作品の手本にした短編ではないかと思う。

[ぶなの木の屋敷の怪]
 「赤毛連盟」と同じように、(男ではなく若い女性だが)うまい話にのってしまう。女性は、ぶな屋敷と呼ばれる家の家庭教師に付く。女性が赤毛の質屋のあるじよりは賢明だったのは、前もってホームズに相談しに来たからだ。一見してどんな下心をもって彼女を雇い入れたかは読者には明白だ。あとは、どう結末づけるか作者の手際を楽しむばかりだ。

 最後に一言。

 あとがきでも指摘されているように、全体的に犯罪を構成しないような事件があるし、一見すると何気なくささいな出来事なのに実は大きな陰謀や悪事が隠されていたりする。北村薫が「円紫と私」シリーズで書いてきた事は、まさにこのホームズの最初の短編集にならったことだった。
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2010年06月07日

人間動物園 連城三紀彦(2010/3/1読了)


 「造花の蜜」を読んだとき、文体のちぐはぐさに躓き、読み切ってしまえばミステリーというよりは「怪人二十面相対明智小五郎」ばりのサスペンスものだったので、少々勝手が違うところが感じられた。〈怪しい、怪しい〉と思わせぶりな人物に仕立て上げておきながら、結局はたんなる傍らのエキストラに過ぎない存在だったりする。TVドラマ化すれば、さぞかし見る者を惹きつける扇情的な演出ができそうだが、ミステリー慣れした読者からするとやり過ぎじゃないかと思わずにはいられない。

 本作も、WowWowでドラマ化されたのに合わせて書店で平積みされていたのに気づいて、読んでみようと思い立ったのだけれど、また「造花の蜜」の二の舞にならないかと躊躇していた。たまたま会社の同僚が連城ファンで、この本を持っていたので、借りて読むことにした。今回は猫がさらわれ、犬がいなくなり、山羊が不可解にも殺される。雪に閉じ込められた地方都市の警察署は、当初バカバカしくていいかげんな対応をしていたが、猫の“誘拐”で大騒ぎしたおばさんが、今度は隣家の幼女の誘拐を知らせる電話を掛けてきたところから、次第に大がかりな犯罪が顕在化してゆく。

 不思議なことだが、今回は文章にひっかかりが一切なく、するすると話にのめり込むことができた。しかも「造花の蜜」のときに感じられた大仰なケレンが少なく、犯人も「大怪盗」のような荒唐無稽な存在ではなく、たんなるありふれた動機をもつ、生身の人間であった。そこらへんも本書に好感がもてるところだ。

 ただし、ラストのどんでん返しにそなえてトリックを優先するあまりに、登場人物の造形が型にはまりすぎていると感じられるのが少々物足りない。また、「造花…」でも感じられたが、この作者は必ず現代社会への批評(批判)が作品に盛り込まれる。とくに動機の一端には、今の社会から疎外され、アウトサイダーとなった人々の悲哀といったものが描かれている。作者の根っこにそういう人々に対する共感があるせいか、アウトサイダーを生み出す社会に対する著者なりの信条めいたものが文章に見え隠れする。

 ときとしてそういう作者個人の信条は、純粋なエンターテイメントを読んでいると思っている僕ら読者にとっては目障りなものだが、最初から「アウトサイダーへの共感」に焦点をおいた作品ならば、著者の手際に身をゆだねて、もっと読みひたれるような気がする。
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2010年06月03日

怪人二十面相・伝 北村想(2009/01/19読了)

 名探偵明智小五郎が最初に登場したのが、団子坂の古本屋で起きた事件だ。語り手の青年が向かいの喫茶店から「冷やし珈琲」を飲みながらじっと見ていたにもかかわらず、何者かに古本屋の奥方が殺されてしまう。同じく喫茶店に居合わせた怪しげな男は目撃者でもあり、青年の目からは容疑者としても映る。

 その怪しげな男・明智の描写はかなり鮮烈で、従来の勧善懲悪の世界に釣り合う〈正義の代弁者〉という雰囲気はかけらもなかった。しかも語り手の青年と行きずりの男という関係が象徴しているように、きたるべき時代の都市型犯罪に辣腕をふるう探偵にふさわしく、希薄な隣人関係と、密室における濃密な嗜虐趣味に対して、人一倍理解が行き届いている。みずからもいちはやく海外生活を経験してスノッブな個人主義の意匠を身にまとう。

 探偵として華々しく看板を掲げる頃には、明智小五郎は助手兼秘書の少年を手元におき、当時の都市生活の最先端のモードであった同潤会アパートに住まいを定めた。いったいどこからそのような費用を捻出できたのだろう。ちょっとうがった見方を好む読者ならば、そのことに怪しむに違いない。

 実は、その答えが本書に書かれている。明智なる人物は詐欺師のような悪党であり、自らをプロモートして富裕層に取り入り、犯罪のタネを仕込んでは彼らの不安をあおり、その上で見事に解決してみせる。団子坂の喫茶店で青年が怪しんだのには、無理からぬ根拠があったのだ。

 一方で明智小五郎のライバルであり、幾度となく彼を窮地におとしめることになる世紀の大怪盗「怪人二十面相」にも、出自に大きな秘密があった。特に江戸川乱歩が描くことになる二十面相は2代目であり、かつては母に見捨てられ、父も不遇の死を遂げ、天涯孤独の身になった少年が、サーカスで身につけた技と処世術とで、なんとか一人前の大人へと成長する。彼は軽業を最初に教えてくれた恩人が怪盗二十面相に身をやつしているのを知り、彼の無念の死に引き寄せられて二代目となる事を決意する。

 スターウォーズサーガのようなドラマチックな物語ではない。しかし、善と悪が単純なものではなく、やむにやまれぬ時代に生まれて背負った宿命というものをたくみに原作から膨らませながら、古くて新しい「二十面相」伝を作り上げた作者の着想と力量に拍手を送りたい。
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2010年06月02日

“文学少女”と死にたがりの道化 野村美月(2009/11/22読了)


 ライトノベルス2006年のランキング第一位を獲得した作品(シリーズ)であると知って興味を持ち、たまたま最寄りの図書館におかれた番外編「“文学少女”と月花を孕く水妖」を読んだ。今ひとつ人間関係が見えてこない。文学少女が人間でないらしい(小説を食べてしまう妖怪らしい)という事さえも、この時点では読者と作者とのお約束事項になっているせいか、いとも当たり前のようにさらっと描写されるので、果たしてそういう変わった体質の女の子、もしくはきわめて変わった性癖の少女に過ぎないのかなとも疑ってみたりした。やはり、第一作からたどらなければ理解できそうにない。

 「本気で読む気なの?」と、声優マニアの同僚からあきれ顔で問いかけられた。「いや、そうでもないですけど…」と逃げてしまったが、すでにシリーズ読みは始まってしまったのだ。読書好きのサガ(サーガではない)と笑ってくれぇ。

 語り手は、なにか幼いころのトラウマを抱えていて自己韜晦ばかりしている少年で、しかもいっぱしに物書きでもあるのだが、ここだけを取り出して説明すると、なにやら京極夏彦の「百鬼夜行シリーズ」に出てくる語り手・関口巽とうり二つのような設定に思えてくる。ただし、あそこまで自虐的でも破滅的でもない。「韜晦する草食系男子」といった趣だ。

 一方、文学少女は妖怪でありながら清純そうな少女の肉体を持ち、文学を糧として生きながらえるならば、官能的な妄想さえも辞さないというきわめてアンビバレンツな存在だ。そこに目を付けられ、ガールズラブ(あれ?「ボーイズラブ」という言葉はあるが、「ガールズラブ」の方は言わない?)の対象にされたり、どことなくアラウンド50のオヤジが読むには「使用目的」にそぐわない描写も多々挿入されている。「本気か?」と同僚に突っ込まれる所以だ。

 それでも、ひととおり読んでみる気にさせるのは、文学少女の文学的嗜好のせいだ。「水妖」では泉鏡花をフィーチャーし、この「死にたがりの道化」では、言わずと知れた太宰治を題材にしている。その切り口だけでも味わってみるべきだろう。

 高校生(とくに女子高生)を相手にしているだけあって、いまさら聞けないような文学的常識がぬけぬけと書かれていたりする。実は常識の偏った僕には非常に参考(は大げさかもしれないが)になったりする。題材に比してストーリーは、使用対象者からはずれた僕のような読者にとっては退屈な点も多いので、どこまで続くか分からないが、とりあえず次作に進んでみるとするか。
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2010年05月31日

かいじゅうたちのいるところ モーリス・センダック(2009/12/13読了)

 就学前の幼児を育てる親としては、寝る前に読み聞かせする絵本を図書館で探すのに一苦労した経験が必ずあるだろう。3歳ぐらいまでは何を読みたいという意思表示もないし、逆に何を読み聞かせしても喜んでくれたので、安心して適当な絵本を選ぶ事ができた。しかし5歳ともなると、だんだんと自分の好きな本を選んでくるようになってきて、親が好む本と子が好む本とではグッと違ってくる。

 アニメを日頃見せている影響で、たまたま図書館に置いてある「名探偵コナン」の単行本を何冊も借りるが、マンガは読み聞かせには時間がかかって不向き。役に立たない。小学館から出ている読み聞かせ用の雑誌「おひさま」は、僕ら夫婦にとってはありがたい雑誌なのだが、最近では少々息子には飽きがきたようで、あまり喜ばない。

 うちの子供は母親同様、虫を見るとワーワーキャーキャー逃げまどうくせに、ダンゴムシとカブトムシ、クワガタだけはこよなく愛しているようだ。いつぞやはダンゴムシなどがドアップで写っていたり、たくさんのダンゴムシが頁を埋め尽くしているような絵本(というより写真の入った解説書)を借りてきて、僕ら夫婦を卒倒させんばかりに困らせた。

 島田かほさんの描く「バムとケロ」シリーズや「ガラコ」シリーズはとっても面白いし、シリーズとしてのつながりがわかるお遊びが絵のいたるところにちりばめられていて、子供より親の方が楽しんでしまい、残念ながら息子は今ひとつ食いついてくれない。「かいじゅうたちのいるところ」も、実は子供(とくに男の子)にとって楽しい絵本である以前に、かつては男の子だった僕ら男親にとってのノスタルジーに満ちた絵本だと言える。

 今やうすれゆく当時の記憶をさぐりあててみると、電灯を消されてもなかなか寝つけない暗闇の中で、子供達はいろんな空想や妄想に耽っては、人知れぬ孤独をなんとか飼い慣らそうと悪戦苦闘していた。僕は「かいじゅうたち」が住む島に船を乗り出す夢を妄想した事がないことだけは確かだが、何か大人には説明しがたい自分だけにわかるアイテムや場所やキャラクターを空想のおともにしていたはずだ。

 本書は、男の子の空想の世界を形にして見せてくれただけではない。いままさに現役のママさんたちが「いったいこの子は何を考えているのかしら?」と首をかしげざるをえない「男ども」の原型が、この絵本の中に描かれる「男の子の旅」に隠されているのだ。それに気づけば「なるほどね」とちょっとあきれ気味ではあるが、男の子の生態が少々くたびれたパパの中にも同じように飼い慣らされていると納得する事だろう。

 男の子は「かいじゅうのしま」でかいじゅうたちと時が経つのも忘れて遊びまわり、かいじゅうから望まれて「かいじゅうのおうさま」になって思う存分に子分を従えて、やりたいことをやるのだ。でも、でも、懐かしいスープ一杯の匂いを嗅ぐだけでママが恋しくなってしまう。いつだってママのもとにもどってくるエンディングに、世のママさんたちはホッと胸をなでおろす。やっぱり、この本に癒されるのは、いつだって親の方に決まっているのだ。
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2010年05月30日

ほぼ日手帳の秘密 2007−14万人が使って、14万人がつくる手帳。− ほぼ日刊イトイ新聞・編著(2009/12/13読了)

 大学時代は手帳を持ち歩いた。講義や研究室のゼミなどにスケジュール管理が必要だったし、なにより映画の計画を立てたり、見に行った映画のタイトルや映画館をカレンダーに書き込み、メモの頁に簡単な感想を書くことが必須だったからだ。見開きに一ヶ月分のカレンダーが見えて、大きめの僕の字がおさまるように広めのスペースが用意されている、縦長の「ぴあ手帳」を愛用していた。

 ところがある年、ぴあ手帳は肝心の見開きカレンダーを放棄して、1頁に1週間分のカレンダーが立て積みされたタイプに変わってしまった。僕はあわてて見開きタイプの手帳を求めて、年末年始に大きな文具店を探し歩くようになった。そうしてみると、オシャレな装丁でイラストが入った手帳がたくさん売られている事を知った。それ以降は、手帳選びが僕の年末の楽しみとなった。

 会社に入社すると新入社員全員に黒革の手帳が配られたが、もらっても使わなかった。職種柄、大学時代と同様にスケジュール管理される事は少なかったし、何と言ってもあの黒革の無粋さが僕は嫌いだった。あるとき、会社の後輩から何かの御礼に手帳をもらった事があるが、それが黒革の手帳だった。支給品よりもはるかに高額で立派な手帳だったが、無粋さは変わらない。仕方なくその年は会社用とプライベート用の2冊の手帳を持ち歩く事になった。

 1996年頃に僕は一冊の本と出会った。装丁家・栃折久美子さんが書いた「ワープロで私家版づくり」という本だ。忘れもしない今は無き、神保町の「書肆アクセス」の小さなショーケースの中で、その本はおあつらえ向きに僕を待ち受けていた。本で使われているワープロ専用機が僕の持っているのと同じメーカーだったこともありがたかった。ワープロは各メーカー独自の使い勝手があるので、本で紹介されている手法をそのまま別のメーカーのワープロでできるとは限らないからだ。

 その本との出会い以降、年末年始は、いや、休みが明けて1月半ばぐらいは、せっせとワープロで手帳の中味をレイアウトし、印刷し、折丁を作り、かがり、表紙をつけた。最初の年は素人にも簡単な丸背だったが、2年目からは角背に挑戦しては失敗した。毎年、前年の失敗を思い出しながらも、また同じ失敗をしでかすという悪戦苦闘の連続だったが、仕事以上にのめり込んで「苦闘」を楽しんだ。

 結婚してからは、そんな年末年始のぜいたくな過ごし方は許されなくなり、おのずと手帳作りは休止となった。また、映画館に通って映画を観る暇もなくなったので、映画ダイアリーを兼ねた手帳を持ち歩く意味もなくなってしまった。

 ブログを始めたのが6、7年前。映画の代わりとなる手頃な趣味として読書により一層いそしむようになり、本の書評めいたことをブログに掲載した。最初は、いきなりブログの「記事を書く」のフォーマットに書き込んでいた。書く分量が多いとどうしても一度では書き上がらず、書き足したり削ったり推敲を重ねる手間をかけることが多かったので、携帯を使って本文を作成するようになった。

 入力ツールとしてリュウドのRboardというケータイ専用キーボードが活躍していることは、以前にブログに書いた。いまだに便利で愛用しているが、頭の中に浮かんだ言葉をすべて吐き出すには携帯というデバイスはむいていない。何しろメール文作成機能を利用するので字数の上限は限られているし、本文が長くなるとスクロールが面倒なので推敲しにくい。ここ1、2年はメモ帳にいったん言葉を吐き出すだけ吐き出してしまってから、清書と推敲を兼ねてPCでブログのフォーマットに書くという手順が気に入っている。

 はき出すにも気持ちの良い書きごこちのボールペン(uni「PowerTANK0.7」が最高だ!)と、僕のへたくそで大きめな文字を受け止めてくれて思う存分書けるようなページ数多めのメモ帳が不可欠だ。これに最適なのが、1000年はもつという永久紙をつかったPersonalというブランドのメモ帳だということも、やはりブログで紹介した。

 そこへきて、ここ最近の手帳ブームだ。なにやら効率的な使い方のノウハウ本や、自分らしさを演出するマイ手帳の作り方の本など、いろんな関連本と手帳そのものが、大手書店の一隅を飾っている。そんななか、ひときわ目に付いたのが「ほぼ日手帳公式ガイドブック」という特定の手帳の解説本だった。

 本をめくると、「ほぼ日手帳」に〈秘密の花園〉めいた楽しくも遊び心をくすぐられるような謎がギュウギュウにつまっているように感じられた。でも肝心の手帳は書店に見あたらない。その後、気になって文具店の手帳売り場に立ち寄るようになったのだが、出くわさない。「ほぼ日手帳」がサイトの通販、あるいはロフトでしか売られていない事に気づくのは、さらにあとの事だ。

 結局、解説本は図書館にもなかったため、「ほぼ日手帳」のキーワードに引っかかった本書を川崎市の図書館から借りた。毎年、手帳のデザインや機能・レイアウトなどに改良が施されるらしいので、最新の「ほぼ日手帳」とは違うところもあるだろうが、この本には最初に企画された段階から2007年版に至るまでに、いかにスタッフでアイディアを出し合い、ユーザーたちの意見をとりいれては少しずつ改良していったかのプロセスが、たいへん魅力的に描かれている。

 最初にできあがった手帳は、購入者全員に配送した後に背表紙の強度が足りない事が判明し、新たに作り直した手帳を交換ではなく別に送る事に決めた。糸井重里代表の颯爽とした決断はとてつもなくかっこいい。と同時に、それを支えるスタッフがどんなにか汗をかいただろう事も容易に推しはかられて、興味深かった。

 わかったことは、ほぼ日手帳は斬新なアイディアに満ちていながらコンセプトはいたってシンプルだということだ。まずは「システム手帳のようには地図もスケールも、何もついてない」という事。文字通りシステムを押しつけるのがシステム手帳だとして、このほぼ日手帳では押しつけがましい事は可能な限りしない。自由気ままに使ってほしい。ただし「何でも自由で」と、まっさらなメモ帳を渡されたら手帳を買う意味がない。そこには最小限の定型が必要だ。

 それが「1日1ページ。365日分のページからなる余白」というフォーマットだ。そこには色々な仕掛けがあって、ToDoリスト(チェックボックス付き)があったり、図や表をフリーハンドで書きやすいように方形の目盛りがページ全体に印刷されていたりする。誰もが最初は余白が多すぎるのではないかと思うらしいのだが、糸井たちの考え方は逆だ。「余白がある」ことを許容するのが、まずこの手帳のコンセプト。全部埋めていく強迫観念から抜け出して、書いたことが逆に際だつようになることが狙いだ。

 さらには日付と連動した日記やメモや絵や写真のスクラップが、使い済みになった手帳をひとたび開けば、持ち主の頭の中をまるごと封じ込めたかのようなアルバムになってゆく。日記を書かずして日記以上のものができあがる。

 コンセプトも商品そのものもとっても魅力的だ。難があるとすると、ほぼ日サイトに申し込むと送られてくるまでに日数がかかることだ。ロフトの店頭でも買えるが、ほぼ日サイトで買うとちょっとしたノベルティが付くらしい。でもとりあえずはロフトでお試しに購入しようかとお小遣いと相談した。実は、ちょうど「大人の科学マガジン 二眼レフカメラ」の号と、どちらを買うか迷った挙げ句に最終的に「大人の科学」の方を選んでしまった。

 手帳ぐらい一年使うものだから買えばいいのにと思われるかもしれないが、買わなかった一番の理由は別のところにある。ブログに載せる書評をPersonalのメモ帳に書くのが習慣化すると、どんどんメモ帳の消費量が増えていき、とてもじゃないが一年で一冊では足らない事がわかった。たとえ「ほぼ日手帳」を買ったとしても、ブログの文章を従来通り別のメモ帳に書いていくのはもったいない。かといって、ほぼ日手帳の余白に書いていったら、おのずと書評の文章がこぢんまりとなり窮屈な思いをすることになるのは明らかだ。

 結果、買わない事が僕の今年の決断となった。だが、また年末に来年の〈ほぼ日手帳〉を買うか買わないか、悩む事になりそうだ。今から楽しみだ。
posted by アスラン at 04:24 | 東京 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月27日

世界名探偵倶楽部 パブロ・デ・サンティス(2009/12/11読了)

 この手のファンタジー色が強い作品では、どこまでが物語上の嘘かわからないが、冒頭で本作が何かの文学賞を受賞したと書かれていたはずだ。ウェブで改めて検索すると、著者サンティスはアルゼンチンの作家で、本書は2007年第一回プラネタ−カサメリカ賞受賞作だそうだ。作品の雰囲気からすると、「日本ファンタジーノベル大賞」のような賞なのかもしれない。

 エッフェル塔がランドマークとして建設され注目を集めた、1889年のパリ万国博覧会を舞台にして、ホームズの末裔である〈名探偵〉たちが、時代の流れに取り残されようとしながらも、輝かしき過去の栄光を披瀝するという展示企画が博覧会で催される。古き良き時代を生きのびた、癖のある探偵たちとその助手らが世界中からパリに集まってくる。

 主人公は、ある老探偵の催した講義の生徒に過ぎないが、つぎつぎとやめていく生徒の中を、一番優秀な生徒とともに最後まで残り、老探偵の助手になることを、いや、いつの日か探偵になることを夢見て老人に付き従う。やがて、老人の人間としての平凡さや、探偵能力のうさんくささが目についてくる。しかも、悪逆非道な怪盗と組織に対して正義を貫くはずの名探偵が、時として悪以上に非情な手管を弄したり、善側と悪側が共感しながら並び立つ事があることを知り、若者は愕然とする。

 要するに「名探偵」を夢想する青年は、探偵たちの人間性の醜さに触れることで人生を学び、若さを費消してゆくのだ。

 近代的な合理精神が充填された現代社会では、白と黒がないまぜになった時代を生きた探偵も怪盗も、同時に居場所を失わざるを得ない。今を謳歌する世代からは、親父や老人のたわごとと言われようが、僕らはノスタルジーを抱えて涙しながら、彼ら名探偵の退場を静かに見守るしかないのだ。
posted by アスラン at 12:47 | 東京 🌁 | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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