カテゴリ記事リスト
図書館戦争 有川浩(2006年12月16日読了)(06/09)
素晴らしい一日 平安寿子(2005/07/22読了)(06/02)
夜歩く ディクスン・カー(2011/5/4読了)(05/23)
帽子収集狂事件 ジョン・ディクスン・カー著/三角和代訳(創元推理文庫,2011/4/27読了) (05/16)
六月六日生まれの天使 愛川晶(2011/1/30読了)(04/21)
ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業(上/下) マイケル・サンデル(2011/3/20読了)(04/14)
男の子のよろこぶお弁当−母もらくちん息子も作れる簡単レシピ− 藤野嘉子(2011/3/31読了)(04/07)
小林秀雄の恵み 橋本治(2011/3/15読了)(04/03)
そして誰もいなくなった アガサ・クリスティー著/青木久惠訳(クリスティー・ジュニア・ミステリ,2011/3/?読了)(03/28)
Yの悲劇 エラリー・クイーン(角川文庫,2011/3/5読了)(03/22)
E=mc2−世界一有名な方程式の「伝記」− デイヴィッド・ボダニス(2011/2/18読了)(03/08)
「そして誰もいなくなった(アガサ・クリスティー作、青木久惠訳)」の翻訳について(その1)(02/12)
よく帰ってきたね、はやぶさ!(その2)(01/30)
et−128件の記号事件ファイル− 松田行正(2010/11/4読了)(01/20)
現代倫理学入門 加藤尚武(2010/11/18読了)(11/21)
日本語は論理的である 月本洋(2010/11/3読了)(11/18)
そして旧訳が残った 〜旧訳「そして誰もいなくなった(アガサ・クリスティ)」の意義〜(11/16)
新訳「そして誰もいなくなった(アガサ・クリスティ)」の意義(11/14)
よく帰ってきたね、はやぶさ!(その1)(11/08)
数学の秘密の本棚 イアン・スチュアート(2010/10/22途中返却)(10/26)

2011年06月09日

図書館戦争 有川浩(2006年12月16日読了)

 浩と書いて「ひろ」と読ませる。おそらくペンネームだろうが、男の名前と思わせておいて肩透かしというのは「推理小説」の秦建日子と同じだ。こっちは女と思わせておいて実は男だ。図書館が軍隊のような組織になっていて、文字通り敵との戦争になる。もうちょっと現実の図書館の業務に沿って話が展開するのかと思っていたので、その意味でも肩透かしを食う。

 さらに著者はあとがきで、フジテレビの「月九」のようなドラマにしたと書いているが、どちらかと言うと僕が思い浮かべたのは、ゆうきまさみの「機動警察パトレイバー」だった。主人公が女隊員であること、同僚が優秀なこと、上司もしくは先輩からしごかれる事、いろんな意味でよき理解者が暖かくヒロインを見守っている事などなど。こうして列挙してみるとそっくりに見えてくる。

 ただし、パトレイバーでは、ゆうきまさみの嗜好を反映して「惚れた、はれた」は一切ないし、ヒロイン以下すべての人がマニアックなオタク集団という印象が強い。これ自体ゆうきまさみの嗜好そのものに違いない。「究極超人あーる」の延長線で青春ものとしてスタートしたけれども、やがてハードな路線に比重が移っていった。

 その意味でいうと、本書は「青春もの」の路線に素直にしたがったと言える。ヒロインは夢見る夢子ちゃんのまま、関東図書基地に就職する。しかし単なる可愛いげのある女の子ではなくて体力だけは男並みにあるという、これまたアニメではよくあるヒロイン像だ。そういうときにまわりを固めるのは、やたら厳しい上司や先輩、抜群に優秀で辛辣な同僚、口は悪いが友人の本質だけはちゃんと理解してくれる親友、口には出さないが遠くから確信を持って暖かな眼差しをかけてくれるトップという人物構成。

 ドラマの枠がヒロインの周辺から一歩も出ない事がお約束なので、ヒロインの喜怒哀楽をすき間なくカバーして、ライトノベルスの読者には至れり尽くせりの構成になる。あぁ、そうか。これってまさに「月九」に代表されるTVドラマの世界だったな。惜しむらくは、現実の図書館を描かない限り、「月九」ドラマにはなりえないという点だ。「人間関係と喜怒哀楽さえあれば、設定は添え物」というのが最近のドラマの基本だが、本書には、法令(メディア良化法)の規制によって図書館が従来通りの機能を維持する事が困難になるという架空の近未来を描く点にキモがあるからだ。

 そもそもヒロインが関東図書基地に就職しようとした動機は、高校生の頃に書店で、理不尽にも図書を検閲して問題図書を回収するメディア倫理委員会の査察にいあわせた事に端を発する。どうしても欲しかった本が「乞食」という表現を含むというだけで検閲・回収の対象となることに、一高校生の分際で異議申し立てしようとして手荒い仕打ちを受ける。そこに現れたのが、ヒロイン言うところの「正義の味方」あるいは「白馬の王子」だ。

 関東図書基地の第三等書士(合ってるかな、軍隊じみた階級)が、彼女と彼女が守ろうとした図書を救いだす。それが「見計らい図書」として書店の図書すべてを買い上げるという水戸黄門の印籠にも匹敵する切り札だ。そして去り際に彼女が守ろうとした本一冊を手渡して、正義の味方は去っていった。

 その「白馬の王子」にしびれたヒロインこと笠原郁(いく)は、大学卒業後に関東図書基地に就職を決める事になる。それなのに図書館の現実は大違い。正義の味方とは真反対の指導教官とことあるごとに対立する。ここらへんは映画「愛と青春の旅立ち」のリチャード・ギアと鬼軍曹との確執に似ていなくもない。要は分かりやすい構図だ。

 同期で唯一、郁と一緒に図書特殊部隊に配属される手塚光は、エリート意識の強さから一緒に配属された郁の能力のなさに腹を立てる。しかも郁が、あこがれの教官・堂上篤の手を煩わせる事にも、それを堂上を含め上長らが見過ごしている事にも納得がいかない。しかしある事件を機に、手塚も郁の本領を認めざるをえなくなる。そこも分かりやすい展開だ。

 まあさっきから「分かりやすい、分かりやすい」と連呼してきたが、それがこの作品の魅力であることは間違いない。最初からミエミエの人間関係だが、安心して読める分、先の展開を期待しながら読み継いでいける。正直言えば、図書館組織の軍隊化という設定の目新しさに比べると、「メディア規制」という一点だけで図書館の軍隊を必然化して描くのはちょっと弱い気がするし、現実の図書館が抱える様々な問題をもっと反映したエピソードを描いてくれるといいのになと、不満かつ希望がないではないが、そのへんは続編「図書館内乱」に期待する事にしよう。

 そうそう、最後にこっそり小声で言っておくと、アテネオリンピックで一躍時の人になった柔道の古賀と谷本の師弟コンビが、おそらく本書のモチーフの一つになってるんじゃないかなぁ。
(2006年12月21日初出)


[追記(2011/6/9)]
 などと書評を書いてから、4年半経ってしまった。その間にメディアを一周してしまった観がある本シリーズが文庫化されていなかったことに驚かされる。まだ「有川浩」が男なのか女なのかなどと、名前の読み方から書評を書いていたが、いまや有川浩の作品を書店で見かけない方が難しい。このブログでも毎夏企画している「夏の文庫フェア」の比較記事でも、ここ3年ほどは連続して取り上げられる作品数が増加していて、コンスタントに躍進を続ける作家となった。その事に秘密など何もないだろうが、この図書館戦争シリーズに当時の僕が惹きつけられたように、設定のわかりやすさ、少しあざといくらいに類型的な人物が愚直に、あるいはクールに活躍する群像劇の面白さだろう。
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2011年06月02日

素晴らしい一日 平安寿子(2005/07/22読了)

 父の笑っている目。月恵が見たくてたまらず、でも、見ることが出来なかったもの。
 「―なんで?」
 それから先は言葉にならない。喉元にこみあげてきた涙が蓋をする。
 なんで、そんなことができるの? なんで、そう易々と人の心に飛び込めるの? なんでわたしには、それができないの?
(「商店街のかぐや姫」)



 平安寿子の最初の作品集だ。フライングで長編「グッドラックららばい」の方を先に読んでしまったが、こちらから読めば最初の感想も違っていたかもしれない。もうとにかくいいのだ。こんなにいいとは思わなかった。おそらく著者の文章の切れ味は短編向きなのだろう。どうも「グッドラック…」では今ひとつ乗れなかったのに、本作の短編ひとつひとつにグッとくる。

 よくよく考えてみると「グッドラック…」ではひとつの家族に様々なキャラクタを押し込めて、それぞれのわがまま放題を長々と描いている。どのキャラクターにも著者は等分の目配せを施していて一人に肩入れはしない。強いて言えば何事にもクールに受け止めてしまう姉の目線が著者のそれなんだろうなとは思うが。いずれにせよ「勝手に生きたらいいじゃん」というのが、言わば平流人生訓であるから、愛すべきキャラクター同士の対立は最初から最後まで周到に避けられている。そこが作品の面白いところでもあり物足りないところでもあった。対立がないから葛藤がない。描かれてなかった勝手と勝手の擦り合わせに見えてくるドラマがないのだ。

 ところが短編になるとわがままなキャラクタが別々のストーリーで生き生きと描かれている。表題作「素晴らしい一日」のヒロインは男に捨てられた自分を立て直すために、前に付き合っていた事業に失敗したダメ男から貸した金の取り立てに向かう。このへんの不器用な野心家ぶりは「グッドラック…」の妹に似ている。

 たかだか20万円の金を諦めない彼女のバイタリティも凄いが、それ以上に「最高にハッピー」な笑顔を崩さずに、借りた金を返す宛て(女たち)に彼女を連れ回すダメ男の超・楽天主義はさらに上をいく。なんで貸した私が頭を下げなきゃならんと憤りながら、彼女も読者の僕らも、彼の道理を超えた振る舞いに最後まで付き合わされる。そして彼女同様、爽快なカタルシスにまんまとハマるのだ。

 一方、「商店街のかぐや姫」では、「グッドラック…」のクールな姉と行動的な母をたして2で割ったようなヒロインが八百屋(じゃなかったかな?)に嫁ぐ。浮気を軽く繰り返すまたしてもダメ男と結婚した理由が著者らしいのだが、実は姑の粋でこだわらない性格に惚れ込んだ故の選択なのだ。ダメ男に惚れ込むのと素敵な同性への共感というのが平キャラの二大特徴と言っていい。何はともあれ姑への憧れは、医者で誰かれとなく人を見下す父への反発も手伝っている。反対を押し切って結婚したのも勝手人生の目標を見つけたからだ。

 ところがあれほど何をしても自分を認めてくれず、商売人は卑しいと見下していた父から、人のいい夫は笑顔を軽々と引き出してしまう。それが彼女には口惜しい。たぶん著者のダメ男への傾倒ぶりは、女には出来ない瓢々としたお気楽さへの憧れのような気がする。だが、憧れはあくまで憧れであって目標ではない。ただ寄り添ってひとときストイックなまでの勝手な生き方を寛がせる止まり木にするだけだ。

 一方でダメ男を主役に据えた時の著者の手つきは少々手厳しい。高校の同級生と会社の年上キャリアウーマンとの付き合いを棚に挙げて、中途入社のやり手OLとの恋にうつつを抜かして仕事で大ポカをしでかす男。または、派遣社員と出来て堕胎の費用をせびられた部下の相談にのりながら、自分がまったく同じ目にあった事はひたかくす男。いずれも実際にいそうだし、現に著者の転職経験で遭遇したダメ男の観察に基づいているようにも見える。手厳しいのは世の男どもへの著者の批評(いや、恨みつらみか?)が入っているからだろう。

 だが結末で深刻にならないのは、やはり著者特有のモラルに反するからだ。ダメ男にもダメ男なりの勝手な言い分があるというわけだ。同性からするとかなり情けないダメ男が、著者の筆にかかるとちゃめっけ溢れる無邪気な「ダメ男」に変わる。その瞬間に、読んでる自分も男として救われる気がするのは気のせいか?(汗、汗)

 いやはやあとがきでも書いているが、「この業界に長くとどまるつもりなのでよろしく」とぬけぬけと言う著者の戦略は、どうも世の男のダメさを「ユーモア」のオブラートで包んで救って見せる事かも知れない。平流処世訓は、やっぱりあなどれない!
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2011年05月23日

夜歩く ディクスン・カー(2011/5/4読了)

 ディクスン・カーの長編第一作である。前回読んだときに「すでに再読だと思うのだが…」と書いているが、犯人が誰かまったく記憶になかった。そして、今回読んだのだが、やはり覚えていなかった。不思議な事に、この処女作の原型となった「グランギニョール」も読んでいるのだ。それなのにと思ったが、「グランギニョール」は序盤こそ本書と話の展開が変わらないが、結末が全く違っている点を思い返すならば、カーの場合はトリックと犯人とは独立していて、相互に依存関係がないではないかと思いたくなる。

 たとえば「密室」をトリックと思わなければ、犯人は存在しない。犯罪自体が不可能なのだから事件関係者はすべてシロとなる。だが、ひとたびトリックだと分かれば、とたんに誰もが犯人でありうるという事が、カーの作品では日常茶飯事として起こりうるのだ。

 ただし今回のトリックは、さすがに何度目かの再読なので見抜いた。いや、正確には覚えていた。よく知られているおなじみの手品の仕掛けがすでに呑み込めている観客であるならば、マジシャンの動かす手とは逆の手の動きに注視するだろう。それくらい、本書で使われているトリックとは、今となってはミステリー初心者さえも知っているとしてもおかしくない。仕込みの瞬間に気づけたら、トリックの中身はすぐに想像がつくだろう。

 でもそうであっても犯人とトリックとがリンクしているかは確実とは言えない。カーの作品では、動き出す人物とはカーの操り人形に過ぎず、いわば脚本に従う役者にすぎない。「夜歩く」のトリックのシンプルさは、これ以降のカーの作品の中でも群を抜いている。なんといってもアンリ・バンコランが、事件発生の初期段階でトリックを見抜いていたと大見得を切るくらいだ。事実、バンコランが手帳に書き込んだ「事件の概要」(自系列順に並べた事件のあらまし)をじっくり見れば、まさにカーの仕込んだトリックが透けて見える。

 それでいて、再読でなければトリックはおそらく見抜く事はできまい。本当に手品のお手本のような作品だ。タネを目の前で見せておいて、うかつな読者ならば気づく事はできない。惜しむらくは、今となっては「この程度のトリックは朝飯前だ」と思うようなトリック慣れしたミステリーマニアが増えてしまったことだろう。

 先日も、NHKで放映された「探偵Xからの挑戦状」を見ておどろくべきは、まさに素人探偵がホームズやポアロを上回る名推理を軽々と組み立ててしまう時代になってしまった。かつては並外れた技術という意味で使われた「ウルトラC」という言葉が、今や平凡な練習技の難度を指すようになってしまったように、読者の水準を上げてしまったのが、何を隠そうカーやクイーンやクリスティと言った「ミステリー黄金期の作家」たちであり、その後継者たちなのだ。
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2011年05月16日

帽子収集狂事件 ジョン・ディクスン・カー著/三角和代訳(創元推理文庫,2011/4/27読了) 

 「カーの作品を読み通したいとかねがね思っていた。」と、僕は1998年の本書(といっても旧訳の方だ)の書評で書き出している。ちょうど今から13年前にジョン・ディクスン・カーの全著作を読破すると決意表明したわけだ。そして、どういう結果になったかと言えば、未だにすべてを読み尽くしてはいない。「なんたることじゃ!」とフェル博士、あるいはHM卿にののしられても仕方がない。

 しかし言い訳もそれなりにある。2000年に何度目かの入院をして、はじめて全身麻酔による手術を経験した。快復後にいまの妻にめぐりあって(といってもドラマチックな出逢いなど全くなく)、ありきたりな職場結婚をはたしたが、それからの人生はなかなかの山あり谷ありだった。子供も生まれて育児に追われ、親の介護の追われと、まぁ、2000年を境にいろいろと生き方が変わってしまった。だから13年たってもカーの著作読破を果たせなかった。と書けば、ちょっとは格好もつくだろうが、本当の理由はそこにはない。

 実を言えば、カーの著作は多すぎるのだ。ディクスン・カー名義だけで60冊、カーター・ディクスン名義で30冊弱。あわせて90冊の長編を読まねばならない。次に言えば、作品に出来不出来があって、なんども挫折を味わう。さらには歴史ミステリーのような探偵不在の作品が結構あり、なんども躓く。さらにさらに、当然のことながら絶版となった作品がかなりあり、入手する手間暇を掛けているうちに読む気が失せてしまう。おまけに一つの作品にタイトルのバリエーションがあって、すでに読んだ本なのか読んでいないのかが区別しにくい。

 そのうち、自分はどこまでカーの著作を読み切ってきたのだろうかと書棚を眺めても、書棚のあちこちに本が散らばって、自分自身を見失う事になるのだ。だが、13年前に作った古びた作品リストを、いまあらためて見ていくと、すでに残件を数え上げた方がいいくらいには作品を読み切っている。では残件を挙げてみよう。

疑惑の影(フェル博士もの) 1949年
喉切り隊長(歴史ミステリー) 1956年
ハイチムニー荘の醜聞(歴史ミステリー) 1959年
引き潮の魔女(歴史ミステリー) 1961年
Papa La−Bas(歴史ミステリー) 1968年
幻を追う男(ラジオ劇の長編化) 1994年
殺人者と恐喝者(HM卿もの) 1941年
騎士の杯(HM卿もの) 1953年


なんと残り8冊ではないか。やったぁぁ…。いや「疑惑の影」は読んでいる気がする。いやいや、あれは「囁く影」だったか。こういうふうに、読後タイトルで内容が区別つかなくなるのも、カー作品読破を遠のかせる大きな要因の一つだ。まあいい。とにかく残りは8冊だとしよう。その半分が歴史ミステリーというのは、なんともまずい。しかも3冊が入手できていないというのも困った話だ。できれば購入して手元に置いてゆっくりと読みたい。「Papa La−Bas」などは長らく未翻訳だったはずだ。最近翻訳されたはずだよなぁ。なんてタイトルだっけ?

 「はず、はず」で申し訳ないが、すでに最後にカーを読んでから4年は経っているのだ。すっかり気分は黄昏れたボケ老人のようだ。そこにきて、今回の「帽子収集狂事件」の新訳という、まさに事件が起きた。惚けた僕の頭をふるいたたせるには十分すぎるほどの「事件」だ。それには1998年当時の決意表明にさかのぼる必要がある。このとき、すでに「帽子収集狂事件」は再読だった。それなのに僕はこう書いている。

「…殺人現場の構図や、関係者の位置関係、時系列などが容易に想像しにくい。ロンドン塔の血塔のアーチでどのように殺人が行われたかが、フェル博士の解決を読んでもいまいちピンとこない。」


 要するに、殺人の不可能性をじっくりと味わえるほどには、現場周辺の状況が僕にはさっぱりのみこめなかった。その原因は大きくわけて2つあると思う。一つは殺人現場であるロンドン塔の見取り図の不備だ。旧訳ではロンドン塔全体を俯瞰する地図が附されていて、一見すると観光に使えそうな見やすさが感じられる。しかし、実際には、被害者の死体が発見された逆賊門を中心として、短時間にさまざまな関係者が入り乱れる錯綜したドラマを立体的に再構成できるようにはなっていない。致命的なのは、犯人が何故に逆賊門という衆人環視のスポットをわざわざ選んで死体を残していったのかを合理的に考えるための書き込みが、旧版の地図では省かれている。

 そういうわけだからか、新訳では冒頭に置かれた見取り図が全体図ではなく、逆賊門にズームした詳細図に変わった。さらには(1)〜(8)までのマーカーを立てて事件関係者の事件当時の位置関係や、各塔を移動する通路のありかなどが簡潔にわかるような工夫がなされた。この工夫の中に重要な手がかりがあると言ってしまってもネタバレにはなるまい。何故かと言えば、さきほど述べた原因の2つめにかかわってくる。早い話が殺人現場の見取り図がわかりやすくなったところで、著者の書き方が読者に優しくはないからだ。

 例えば僕などは、エラリー・クイーンの「オランダ靴の謎」を本作品との好一対として取り上げたい。あの作品でも犯行現場の麻酔室を含む病院の見取り図が挿入されている。そして、本文では、探偵を含む登場人物がどの径路を通って何をしたのかが一目瞭然であるように事細かに描写されている。それはある意味偏執的でうざったいくらいだが、当時のクイーンにとっては、自らの創出した謎解きを正当化するために不可欠な演出だった。

 しかし、カーはそうではない。いつまでいっても、どこまで深読みしていこうとも、犯行現場の逆賊門周辺は、ロンドン特有の深い霧と著者が作り出した深い闇に包まれていて、状況が判然とはならない。そう広くはないアーチ内をすれ違って、なぜに人々は死体の存在に気づかないのか。門とアーチ、あるいは柵とはどのような配置になっているのか。結末のフェル博士による解決を読んですら理解できなかった。今回の新訳では、読者にわかりやすいようにとずいぶん配慮された訳文になっているはずだが、どうしてもわからなかった。僕の頭が鈍いのだろうか。

 でも最近「エラリー・クイーン論(飯城勇三著)」という評論を読んで、目を開かされた事がある。クイーンの作品は「犯人当て」や「トリック当て」に主眼はなく、「論理的な推理当て」にこだわったために、唯一無二の作風が生み出された。クイーンのような作風はほぼ少数派であって、カーやクリスティのように、作者自身(探偵自身)が「犯人はあなただ」とか「この殺人を可能にしたトリックは、これこれだ」と宣言するタイプのミステリーのほうが非常にポピュラーであるという事に、13年前の僕は気づいていなかった。

 それさえわかっていれば、13年前に書いた書評で「殺人現場の構図や人物の位置関係、時系列などが容易に想像しにくい」とか「殺人がどのように行われたか解決を読んでもピンとこない」などと、あからさまにあげつらったりしなかったに違いない。

 カーは、そもそも優しく手がかりを提示しようなどとは思っていない。狐につままれたような謎を、怪しげな雰囲気を醸しながら、時には読者をはぐらかすように小出しにする。だからフェル博士の解決を読んでも、「そんなこと、一体どこに書いてあったの?」と思う事が何カ所もある。もう一度再読してみないとわからないくらい、重要な手がかりを何気ない会話や地の文に滑り込ませている事がしばしばだ。

 例えばフェル博士は、終盤で、重要な謎を解く根拠を列挙した後に、ハドリーに向かって「今日何度も聞いた話だぞ」(P.377)と言い放つ。それは、相棒のハドリー警部だけでなく僕ら読者にも注意を喚起するための台詞でもあろうが、いったいどこに書いてあったんだと面食らうこと請け合いだ。遡って記述を探してみたが、序盤に一箇所だけ見つかった。それも、本当に会話の中に埋もれるように控えめに言及されていて、ほとんどの読者は素通りして思い出す事はないはずだ。

 しかし、そのこと自体を「ずるい、アンフェアだ」などと言ってはカーの良い読み手にはなれない。それこそが、僕が13年かかって学んだことなのだ。カーがやろうとしているのは、一篇の長編の中で実現される大がかりなイリュージョンだ。最初に不可能な状況で殺人が起きる。それを読者に十分に味わわせておいて、結末で見事に手品の種明かしをしながら、さらにその上に「意外な犯人」を提示して、再び観客(読者)を驚かそうとしている。

 つまり、圧倒的なサービス精神に貫かれたエンターテイメントである事に気づけば、その間をつなぐストーリー運びでは、読者が真剣に謎を解くための段取りに費やされるよりも、よりいっそう結末の意外性を楽しんでもらうための様々な演出に時間が割かれている事に、僕らは素直に気づかねばならない。

(参考)
 とはいえ、やはり本書の面白さを理解するまでには地元人(イギリス人あるいはロンドン生まれ)しか分からない土地勘が要求される。そこで「ダヴィンチ・コード」でも同様な手法は欠かせないが、地図やガイドブックを片手に「帽子収集狂事件」を楽しむアプローチで、本作を解体してみた。すでに既読の方はこちらもどうぞ(「帽子収集狂事件」(創元推理文庫)ネタバレ解読)
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2011年04月21日

六月六日生まれの天使 愛川晶(2011/1/30読了)

 叙述トリックの作品なのだが、書き方が読者に優しくない。記憶を失った主人公(女性)が、記憶が15分程度しかもたない謎の男の保護者になっている理由をさぐってゆく。少なくとも冒頭から謎に充ち満ちているが、あまり本気で謎におつきあいしたい気分にならない。そもそも記憶障害の若い男と、ごく最近(それも昨日から今日にかけて)記憶を失ったと思われる主人公の女性が同室にいる。記憶障害に記憶喪失。記憶にトラブルを抱えた人間が多すぎるのではないか。1人でも謎作りには十分なのに、記憶に問題を抱えているもの同士の会話は、それこそ不毛だ。いや、不毛というだけでなく、常識的に考えれば、誰か悪意ある存在が2人の記憶を改ざんしているのではないだろうか。すると、この小説はミステリーではなく近未来小説(SF)だったのだろうか。

 ミステリーのつもりで読んでいたのに「SFでした」と言われると正直がっかりする。その「がっかり」感を挽回するのは、すごく大変だ。しかし、読み進めていくと、どうやら記憶障害と記憶喪失が顔をつきあわせる事に違和感を感じているのは、きまじめな読者ばかりのようだ。作者は大まじめで、このあきれた設定でストーリーを押していくつもりだ。しかし、あきれるのは設定ばかりではない。

 主人公は少しずつではあるが唐突に記憶を取り戻していく。それも読者に何のことわりもなく記憶を取り戻してゆく。頭をぶつけたり、電流が走ったりする事もない。うとうととして、何気なくマンションの部屋を出たときに少し思い出している、というような感じだ。思い出したとも書かれず、思い出した事に当人は驚きもしない。当然ながら、読者も驚かない。ただあきれるばかりだ。読者はただでさえ作者のまずい設定とまずいストーリー運びに混乱させられているのに、これではゆっくりと落ち着いて謎について考える足場すら与えられない。

 これを意図的な仕掛けとみるか、ずさんな文章とみるかはいろいろと意見があるかもしれないが、僕はどうも作者の意図だとは思えない。なぜなら、謎解きがされて驚くべき(いや、末尾の解説によると「衝撃の」という形容がふさわしいのだと言うが)結末は、僕からすると肩すかしに終わってしまっているからだ。

 解説でわかるとおり、同業者のミステリー作家がテクニックをほめたたえると同時に、主人公の正体を見極められなかったと告白している。さらには「もう結末まで読んで何がなんだかわからなかった読者は…」と書くにいたっては、素人読者にはやはりわかりにく作品なのだと、解説者自身認めているようなものだ。

 こう考えるとクリスティ『そして誰もいなくなった』のシンプルかつ明快な謎解きが、いかにうまく読者を導いているのかがよくわかる。赤川次郎が、いつ聞かれても「クリスティのベストワン」に『そして誰もいなくなった』を推すのは、なるほどというしかない。

 それは「過不足のない、必要にして十分な描写」という赤川さんの表現で言い尽くされている。一方で、この作品の致命的な欠点は何かと言えば、「十分条件」が不足しているのではなく、「必要条件」が不足しているという点だ。要するに、何が謎なのかさえも読者にはわからないでストーリーは進行する。これはミステリーとして「読者に優しくない」。

 その上、途中で「ヤクザ同士のいざこざ」という伏線が見えてきた段階で、僕などは「ああ、そういう話なのか」と一挙に物語そのものへの興味を失ってしまった。主人公の記憶が失われた事情がどうであれ、そして記憶が回復することでどのような結末が待ち受けていようとも、ヤクザのいざこざがメインに居座るような物語はつまらない。登場人物にも人間関係にも、そしてメインストーリーにさえも興味がもてないとなると、これは致命的以前の問題を抱えたミステリーではないだろうか。
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2011年04月14日

ハーバード白熱教室講義録+東大特別授業(上/下) マイケル・サンデル(2011/3/20読了)

 NHK教育で昨年の春ぐらいに集中的に放送していたTV番組を見たのがはじまりだ。こういった専門分野の啓蒙番組を熱心に見ることになったのは、かのガルブレイス「不確実性の時代」以来ではないだろうか。あの番組も、まだ当時ビデオレコーダーさえなかったので、一生懸命深夜の再放送を書かさず見ていた記憶がある。


 それに比べると、いまや僕を含めて現代人は怠惰になったものだ。「白熱教室」の集中放映をまるまる録画して、その後サンデル教授来日を記念して東大で開催された講義の様子を収めた特別編も追加で録画した。しかし、そこからいろいろと遠回りするのが、それこそ「僕の悪い癖」だ。

 まずは『これからの「正義」の話をしよう』を読み、他の専門家の考えとサンデルの主張を比較したくて加藤尚武『現代倫理学入門』を読み、そしてこの講義録を読み終わった。するとわかったことは、僕はテレビの「白熱教室」の最初の数回までしか見ていないということだ。NHKでも視聴者の要望が高いこの番組を何度も何度も放映しているので、そのたびにちょいちょい見ている。決まって最初の方の回を見ていたようだ。そのせいでおなじみになったのは、ベンサムの「功利主義」への逆説的な批判が展開される初回だ。それこそ超面白い設問(5人と1人のどちらを助けるかという究極の問い)を中心に講義が進行するところは、なんど見ても飽きないし、目が離せない。

 「列車を止められない運転士が線路上の5人を助けるために、引き込み線上の1人を犠牲にするべきか」という設問にどう道徳的に答を与えるかという場面がそれだ。日本の学生よりも自説を主張するのに慣れていると思わせる学生もいれば、やはり考えが浅くて大学生らしいと思わせる意見を述べる学生もいる。サンデルは、あらかじめ想定していた考え方の中に、そっと彼らひとりひとりを導いては分類する。そのうえで、何が公平であり、どう選択すべきかを、学生自身に考えてもらう。

 まるであらかじめ仕込まれているかのように、最終的にはサンデル教授が進めようとしている内容に沿って、講義は進行していく。その小気味よさに、学生だけでなく参観している僕ら視聴者も、サンデル教授の話術にはまっていくのだ。

 その後、功利主義者と対立するリバタリアンの考え方の長所と短所が浮き彫りにされ、さらにはカントの説いた「自由」や「自律」の概念から人間の尊厳の重要性が見いだされていく。そこでは「尊厳」と対置された「功利主義」の安っぽさが露呈される。だが、カントの「自律」ですら説得力ある対応ができない現代的な課題には、いまでは見向きもされなくなったギリシャ哲学の雄アリストテレスの思想が今なお有効である事を、サンデル教授は高らかに宣言する。

 これらはどれもこれもおもしろい。『これからの「正義」の話をしよう』を読んだ時には、前半の功利主義やリバタリアンへの詳細な批判に比べると、後半の自説を含めた論旨がうまくまとまってないような感じがした。少し散漫な感じがしたのだ。同時に結論を導くところが多少強引な感じもしていた。ところが、「白熱教室」の放送をそのまま再現した本書を読むと、それぞれのエピソードが、それぞれの哲学者の思想が、比較対照されながらじっくりと検討されているので、ようやく満足感が味わえた。

 惜しむらくは、学生とサンデル教授との真摯な議論の合間に絶妙なタイミングで放り込まれる教授のユーモアに満ちた一言のおもしろさが、番組を見ない人には十分に伝わらないだろう。教授が演台からお得意のしぐさで学生を指さし、指さされた学生は緊張しながら、会場にいる大勢の学生の前で自説を唱える。その独特の雰囲気のなかで、教授の愉快であると同時に的確な主張を込めた冗句に、指さされた学生も会場の学生も一挙にリラックスする場面が随所に見られる。この番組の、隠れたみどころの一つだ。

 番組をみた人ならば、本書にもそのシーンが言葉で再現されているのを見てとって、思わずほほえむだろう。たとえばサンデル自身がハーバードの学生だった当時、ハーバードの女子寮ではいまだに異性を宿泊させる事が禁止されていたが、時代の流れで「そんな規則を守る学生はいなかった」と言った後で、ちょっと間をおいて「と僕は聞いていた。」のように、人ごとにしてしまう。会場が思わずドッとわいて緊張感が解き放たれる。こういうところがあるからこそ、僕らは結構難しい話題を真剣かつ気楽に楽しむ事ができる。

 もちろん、実際の放送をみた方が何倍も楽しい。でも見る時間がない人にはお手軽な再現ドキュメントになっていることもまた確かだ。そして、見た人が、もう一度名場面を見直すための絶好のガイド本としても使い道がありそうだ。
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2011年04月07日

男の子のよろこぶお弁当−母もらくちん息子も作れる簡単レシピ− 藤野嘉子(2011/3/31読了)

 うちの息子もついに小学生だ。卒園式が3月の下旬にあり、それ以降は共働きの家庭はどうすればいいのかと一時は焦ったのだが、3月中は保育園が継続してあずかってくれる。ただしお弁当を持ってくるようにと何かの資料に書かれていた。ゲゲッ!4月以降は学童保育所が、小学校が始まるまであずかってくれる。ただしお弁当を持ってくるように。ゲゲゲッ!

 要するに、卒園式と給食開始の間(「冷静と情熱の間」に似てる?)は、お弁当を用意しなければならないって事。それって大変だ〜!ワーオー。何故慌ててるかと言うと、朝食もお弁当もお父さん(僕の事だ)担当だからだ。我が家では、ずいぶん前からそう決まっているのだ。なんと3週間もお弁当と朝食作りに精を出さないといけない。期末の忙しさに加えての難行苦行になりそうだ。いや、何よりメニューをどうしよう。

 これまで遠足などの単発イベントの場合は、定番のお弁当で乗り切ってきた。から揚げ星人の息子だから「鶏の唐揚げ、厚焼き卵、タコウインナー、小おにぎり2個(梅干しと鮭フレーク)、イチゴ」ならば、何の文句も出ない。僕自身が出されたら喜ぶ弁当のレシピだ。でも、その後は2つぐらいしか思い浮かばない。それではまずいと最寄りの図書館で借りてきたのが、本書と別のお弁当本だ。

 読了日を見てもらうとわかるのだが、その後、保育園では3月中は給食を出してくれる事が判明し、少し気が楽になった。3月ギリギリまでゆっくりと〈お弁当本〉2冊を眺めた結果、本書のレシピを最大限利用してやろうと決めた。で、本日が弁当作り3日目。

 初日が先ほどの定番弁当。

 二日目が「豚挽肉のそぼろ・炒り卵・鮭フレークの三色弁当+ブロッコリーの梅おかかあえ」だ。実は本書のレシピとしては、彩り豊かに「ツナそぼろ・炒り卵・カボチャ・ホウレンソウ?」の四色弁当だったのだが、うちの子が野菜の偏食があるので断念。やはり、父親(なんども言うが僕の事だ)が好きな定番三色弁当にした。では野菜は何なら食べられるのかと本人に聞いたところ、「ブロッコリーのおかかあえ」と言うので、またずいぶん渋いレシピだなぁと思ったが、息子が言うには保育園の給食で出されて完食したと得意げだった。

 ところがなんと本書には「ブロッコリーの梅おかかあえ」が掲載されている。さすが「男の子のよろこぶ」と形容されているだけの事はある。さっそくレシピどおり作って三色弁当に添えた。あとで息子に「美味しかったか」と聞いたところ、「美味しいは美味しいんだけど…」と、いつものように大人びた口調で言ったあとで「ブロッコリーは梅じゃない。おかかあえだ」とダメだしされた。やっぱりダメだったか。梅干しも好きだから大丈夫だと思ったのに…。がっかりだ。次はちゃんとおかかだけで作るからと言い訳させられた。

 三日目は、「ベーコンと青菜の焼きうどん+鶏団子弁当」だ。これは青菜をブロッコリーに変更しただけで、そのまま採用。メインとなる「2つのおかず」を盛り込んだ弁当で、男の子向けにボリュームがあって喜ばれそうなレシピだ。もちろん焼きうどんがおかずで、白いご飯も入れる。だから焼きうどんはソースがたっぷり入って、うどん半玉に対して大さじ2杯も使う。これにはちょっとびっくりして味見をしながら、うどん一玉に大さじ3杯程度にとどめた。実は同じおかずを弁当に入れて、僕ら夫婦も会社に持って行く。だが、あとで食べてみると、おかずとしては冷めた焼きうどんは濃いソース味でちょうど良いと分かる。レシピ通りに味付けすればよかったと後悔。でも息子は完食したと言う。シメシメ、だ。

 そして今日が四日目。というより、昨日は入学式だったので弁当はお休み。今日は一日置いての四日目。ずっと作りたいと思っていた「ふわふわオムレツのせドライカレー弁当+ブロッコリーのおかかあえ」だ。ドライカレーというと、やはり挽肉・タマネギ・ニンジン・ピーマンが定番だろう。本書でもそうだが、ピーマンは息子には無理だ。どんなにみじん切りを細かくしてもにおいをかぎ分けてしまう。なので残りの3品を炒めて味付け。味付けはケチャップ多めとカレー粉だ。息子はケチャップの酸味が苦手なので少し中濃ソースを足してカレー粉を控えめにした。

 会社で食べてみると、なんだかミートソースご飯のような気がしないでもない。カレー粉を控える必要はなかったかも。ここまでケチャップとソースで甘みがあるから、少しピリッと辛みが効いてた方が、息子にとってもカレーを食べてるという醍醐味が味わえるだろう。やはりレシピどおり作る方が正解のようだ。今日は、息子の食べたがっていた「ただのおかかあえ」を添えた。ああ、ケチが付かないようにデザートに残りのイチゴも入れた。さてさて、明日の朝にどんな答えが返ってくろうだろうか。ねえねえ、ドライカレー弁当どうだった?

 この本は買ってもいいなぁ。我が家の(というより僕の)バイブルになりそうだ。
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2011年04月03日

小林秀雄の恵み 橋本治(2011/3/15読了)

 500ページ以上もある評論だ。橋本治がいったい何者かをごく最近実感しだした新しい読者にとっては、これが「小林秀雄」について書かれた本というだけで読みたくなったわけではない。『本居宣長』を書いた小林秀雄がなにを考えていたかを書いているからこそ、読みたくなったのだ。


 それは『本居宣長』という大作で自分がうけとった小林秀雄という一批評家のなにかが、いったいに正しいものだったのかということの確認でしかない。もちろん、この「正しい」という表現は、「正答」とか「解答」などというものを意味しない。そういう意味での正しさなどないということを、僕らはとうの昔に小林秀雄自身に教わっていたはずだ。だからこそ、『本居宣長』を読むこと、あるいは『感想』という未完のベルグソン論を読むことが、いったどのような体験だったかをもう一度思い起こしたい。ただそれだけだ。そして、その答は、500頁近く読んだ本書の終わり近く、終章「海の見える墓」と題された文章に見つかる。僕は、ここから、あるいはここだけ読んでもよかったわけだ。

 橋本治は、「小林秀雄の思想とは何か?」という設問の形では彼の「思想」を取り出すことはできないと言う。彼の思想を言い切ってしまえば、「読むに価するものをちゃんと読め」であって、それは思想というよりも「方法論」でしかない。つまり方法論のみがあって答がないところに、小林秀雄という思想家をとおりいっぺんに理解することを非常に難しくしている原因があるというわけだ。

「小林秀雄とは何者で、どういう思想をわれわれにもたらしたか」をダイジェストにして紹介しようとすると、たちまちのうちに「小林秀雄その人」は姿を消してしまう。そのおどろくべき現実に直面させられたのは、橋本治だけではなく、僕自身もそうだ。いや、すべての小林秀雄の読者に思い当たることにちがいない。こうまで明快に自分の実感に突き当たらせてくれる橋本治という「こだわりの人」に、僕はあらためて感謝したい。こうまで粘着的な文章で、自らのトリビアな印象を合理的な解釈に移し変えていく力技をもった評論家を、最近ではなかなか見ない。

 それは、吉本隆明や柄谷行人、あるいは蓮實重彦といった、一度は小林秀雄の思想を原理的に受け止めた世代の批評家たちとは、あきらかに一線を画した合理主義者の文章だ。『考えるヒント』が、読者に「考えるヒント」を提供するだけでなく、小林秀雄自身が自らに問う「よくよく考えるためのヒント」でもあるという、著者の言うところの「独断」が、「小林秀雄の思想とはなにか」についての一種胸をすくような答になっていることに、僕は読んでいて思わずアッと声をあげてしまった。うならされたのだ。

 小林秀雄を「謙虚な人」と言う橋本治は、「謙虚な人」が謙虚であることを、わざわざ小林秀雄を体験した僕らに示してくれる「律儀な人」である。僕は律儀な人には素直に頭が下がる。もちろん、律儀な人に感謝して僕ももういちど『本居宣長』を読んで、小林秀雄の「謙虚さ」をあらためて体感しようと思う。
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2011年03月28日

そして誰もいなくなった アガサ・クリスティー著/青木久惠訳(クリスティー・ジュニア・ミステリ,2011/3/?読了)

 ハヤカワ・ジュニア・ミステリのスタンス(果たす役割)は、原作のよさを損なうことなく、古典にも近いミステリー黄金期(1930〜40年代)の作品を今の10代くらいの少年少女に読んでもらおうとするものだろう。児童書と一線を画すのは、通常のジュブナイルのように子供にはふさわしくないエピソードを割愛したり、全体的に親が子供に買い与えやすいような配慮をほどこしたストーリーの改変といったものが、この本にはみられない点が挙げられる。

 たとえば女教師ヴェラ・クレイソーンは、家庭教師の勤め先の男性を愛するあまりに、結婚の障害となりそうな彼の甥を死に至らしめる。彼女にそうさせるのは色恋沙汰の末の、いわゆる「痴情のもつれ」にあるわけだが、この点は児童書には少々ふさわしくない。だが、想定する読者が、小学生高学年〜中学生であるならば、今どきの早熟な子供たちには毒にもならない。

 だから、これをジュブナイル(児童書)とみなしていいものかとよくよく考えると、少々疑わしい感じがする。ウェブで見つけたブログでも、本書を児童書のつもりで読んではみたものの、児童書の作家ではなくて、大人向けの翻訳を手がける訳者による〈本格的な〉児童書という点が、かえってあだになっているのではないかという指摘が書かれていた。どうやら、児童書のように話を要約することなく、全体的に原作そのままを子供向けの言葉遣いで翻訳しているというところが、本書のいわば「ミソ」になっている。そのことが、かえって児童書としては読みにくい出来になっているという事らしい。

 それだけでなく、想定する読者(10代の少年少女)のために、原作にはない解説文を挿入するという仕草が、いらぬお節介ではないかという指摘もあった。確かに、僕が今回ざっと本書を読んだ感触では、昨年出版されたばかりのハヤカワ・ミステリ文庫の新訳の文章と、それほど変わるところがない。もちろん、難しい表現をやさしく置き換えてはいるが、内容が改められているわけではない。そもそも、ハヤカワ・ミステリ文庫の新訳自体に「原作にはない、いらぬお節介な解説的表現が散見される」事が気になって、もしやと思ってこちらの訳文を読んでみようと思い立っただけの事なのだ。

 ハヤカワ・ミステリ文庫(新訳)とクリスティ・ジュニア・ミステリとに共通する翻訳家の青木久惠さんは、昨年の新訳を書くにあたって、こちらのジュニア・ミステリの訳を底本としたのは明らかだ。そして、当然ながら大人向けの翻訳表現に戻すだけでなく、子供向けの「お節介な説明」も邪魔にならない程度に残し、さらには、訳出が曖昧な部分の改稿をおこなったとみるべきだろう。というのも、このブログですでに書いたハヤカワ・ミステリ版「そして誰もいなくなった」で指摘したいくつかの訳が、ジュニア・ミステリと比べると変わっているからだ。

 もちろん良くなっているならば何の問題もない。改良が改悪になっていたならば、それはいただけない。いただけないだけでなく、何故にそんなことが起こりうるのかが納得できない。だって、ジュニア・ミステリの方の訳がわかりやすいのだから。そこで思い付いたのは、もしかすると、ジュニア・ミステリを書くにあたって青木さんが底本にしたのが、日本で唯一「そして誰もいなくなった」の翻訳を提供しつづけてきたクリスティ文庫(旧訳)の清水俊二さんの翻訳ではないかという推測だ。清水訳を参考にしながら、ざっと書き流した翻訳が本作で、さらにハヤカワ・ミステリ文庫の翻訳へグレードアップするために、不明な部分を正確に訳出しようとして、かえって分かりにくい曖昧な訳が混入してしまったのかもしれない。

 極論かもしれないが、今回読んだ感想としては、ハヤカワ・ミステリ版を読むよりも、ジュニア・ミステリ版を読む方が、青木さんの訳はしっくりとくる。読みやすいのも長所の一つだし、なにひとつ省略していないがゆえに、児童書だというあなどりは無用だという点も、僕がオススメしたい第一の理由になる。
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2011年03月22日

Yの悲劇 エラリー・クイーン(角川文庫,2011/3/5読了)

 すでに何度も書いているが、僕とクイーンとの出会いは小学5年か6年のときの親からの誕生日プレゼントだった。僕の本好きを充分よくわかっていた母から、自宅前の商店街にあった行きつけの本屋で「好きな本を選んでよし」と言われ、なんとなくえらんだ本が児童書の「Yの悲劇」だった。今となっては、そのときの本には正しくたどり着くことも、また読むことも叶わないと思っていた。ところが一昨年、僕にとって〈記念碑〉でもあるジュブナイルが、なんとまだ購入可能であるとわかった。さらには立川市最大の書店の倉庫に眠っていた最後の在庫本を売りきる事に貢献することとなった。その顛末は、このブログに書いた(書評「Yの悲劇(秋田書店)」参照)。

 その本は、今読み返しても子供向けとは思えないほどに原作の良さを余すところなく伝えていて、当時の少年を虜にした理由がよくよく飲み込めた。このジュブナイルで感銘を受けたポイントを挙げれば、原作の特長がどこにあるのか言い尽くせるだろう。まず第一に「意外な真相」だ。多くの人にとって馴染みぶかいシャーロック・ホームズの諸作品がそうであるように、何よりも結末で驚かされるミステリーは、読者にとってわかりやすいポイントの一つだ。

 次は、ルパンや少年探偵団などにみられるように、隠し部屋や隠しとびらを見つけだしてお宝や謎のメッセージを探り当てるという冒険とサスペンスの要素が盛り込まれている点だ。探偵ドルリー・レーンが〈ある場所〉から発見した「書き物」は、まさに宝探しの醍醐味を読者に提供する。しかも、その発見は真相を明らかにするどころか、さらなる謎に満ちた混乱をもたらす事になる。

 そして最後は「圧倒的な推理による犯行の再現」だ。特に僕が打ちのめされたのは「マンドリンによる犯行」でもなければ「バニラのにおい」でも「すべすべした肌」でもない。エミリー婦人と娘ルイーザの寝室の床に残された、タルカム・パウダーを踏みちらかした足跡から、レーンが到達した帰結だった。現場に残された手がかりは何一つ隠さずに提示されたにも関わらず、読者は決して探偵のようには緻密な推理を組み立てることがかなわない。

 クイーンの代表作を伏線を追いながら再読すると、こんなにあからさまに手がかりが書かれているのに、なぜ初読のときに気づけなかったのだろうと思うことが往々にしてある。しかし、それはやむをえないことだろう。たいていの読者は、作者が望むようには頭をフル回転させて真剣にパズルを解こうなどとは思わない。作者の導くままに探偵と同じものを見聞きして、探偵が話す言葉に耳を傾け、そして驚く。それが何より心地よい。探偵は良きツアーコンダクターであるべきなのだ。その意味で、ダン・ブラウンの「ダヴィンチ・コード」などは現代ミステリーにおける成功例だと言える。

 その「ダヴィンチ・コード」の訳者・越前敏弥が、今回の角川文庫版の新訳を担当しているのは、まさに行幸というしかない。はじめこそ少々軽薄な文体になるのではないかと邪推したのだが、これまで読んだ「Yの悲劇」の翻訳よりもぬきんじて同時代の言葉で書かれている。しかもミステリーの(というよりもクイーンの)翻訳にありがちな「生硬で、ただ重々しく、時に気取った文章」が最小限に抑えられている。

 なにより読みやすい。例のジュブナイルからだいぶ時をおいて創元推理文庫版「Yの悲劇」を読み、1999年にあらたにハヤカワ・ミステリ文庫に収められた新訳を読んだときでさえも、翻訳に新鮮さを感じる事はなかった。しかし、今度の角川文庫版は新鮮な感覚を維持したまま読み通す事ができた。ハヤカワ・ミステリ文庫の宇野利泰の翻訳が500ページもあるのに対して、75ページもスリムになった越前訳の文体になんらかの秘密があることは間違いない。それについては最後に触れよう。

 「エラリー・クイーン論」の著者・飯城勇三が指摘したように、生涯にわたって「意外な推理」のミステリを書き続けたクイーンではあるが、ことドルリー・レーンシリーズに限っては〈意外な真相〉と〈意外な推理〉が絶妙なバランスで同居している。飯城の評論を読んだ後では、「Yの悲劇」がクイーンの代表作であるというだけでなく、今なおオールタイムミステリーの上位に(あるいは一位に)ランキングされる理由が理解しやすくなったように思う。

 飯城は次のようにエラリー・クイーンの独自性を分析する。

 クイーンのような「意外な推理」で勝負するミステリ作家はきわめて少ない。ほとんどのミステリー作家は、「意外な真相」派か「意外なトリック」派だ。「意外な真相」派の代表がクリスティで、「意外なトリック」派の代表がカーだろう。「意外な推理」派の作家が少ないのには理由があると飯城は言う。意外な真相やトリックは、作家がそうだと言えばそれだけで真実になる。「どうして?」ということは問われない。しかし「意外な推理」の場合は、読者を納得させるのに手間暇がかかる。推理自体が意外だと読者に感じさせるには、探偵が知りうるすべての手がかりを読者にも与えるという公正さと、手がかりから演繹する推理に凡人には思いつかない論理的な飛躍が求められるからだ。

 ミステリー作家の有栖川有栖が、角川文庫の「Xの悲劇」の解説で"1932年の奇跡"について語っていたが、まさに絶頂期であった年に書いた4冊の長編に含まれる「Yの悲劇」は、クイーン自らが「意外な推理」のお手本とすべき〈クイーンミステリー〉の金字塔なのだ。それでいて、ミステリーマニアにしかわからない難解な推理は何一つない。先に述べたように「毒殺犯と殺人犯が別にいるのか、それとも単独犯か」を、現場の状況から正しく推理する過程は当時の小学5年生にもわかった。強いて言えば、巻き尺を持ち出して「ある数字」を導き出す過程が面倒くさい事ぐらいか。当時も今も、ただ単に「解る」だけでなく推理の「意外性」に驚かされる。

 昔からマニアの間では「マンドリンが凶器に使われた理由」についての推理は日本人にはわかりにくいし、まして子供には理解不能ではないかという指摘があるのだが、それはマニアや評論家の無用な詮索ではないだろうか。マンドリンの推理は「犯人像を特定するための傍証」であって、それ自体、推理の核心部分ではないからだ。確かに非常に玄人受けする「意外な推理」ではある。大人になってから再読してみると、何一つムダにしないクイーンの手がかりの提示と推理にはうならされるばかりだが、単に作品を楽しみたいだけの読者には「マンドリンの謎」の面白さは気づきにくいかもしれない。しかし、それ以外に「意外な推理」は何段階も用意されており、必ずしも世に喧伝されている「マンドリンの謎」が「Yの悲劇」を代表する謎というわけではないのだ。

ハヤカワ・ミステリの1ページ19×42字=798字
角川文庫の1ページ=18行×42字=756字


 なんと1ページの文字数は、角川文庫の方が少ない。にもかかわらず、ハヤカワ・ミステリ文庫の宇野訳は500ページきっかりを費やし、角川文庫の越前訳は425ページしかない。つまり文字数を目の子で勘定すれば

 宇野訳 798×500=399000文字
 越前訳 756×425=321300文字

という結果になり、なんと越前訳は宇野訳のきっかり80%の文章で「Yの悲劇」を訳しきっている。いったいどうしたらできる芸当なのだろう。それを知りたければ、たとえば「第二場 ハッター家」の冒頭部分を比べてみればいい。

[宇野訳]
 狂ちがいハッター家…その異名がつけられたのは、かれこれもう、何年か前のことになる。当時、ハッター家のニュースは。毎日のように新聞紙上をにぎわせていたのだが、新聞記者のうちで想像力のゆたかな男が、子供のころに呼んだ『不思議の国のアリス』の連想から、そうした異名を思いついたのだ。おそらくハッター家にしいても、誇張がすぎると苦情を出したかったところであろう。いくら彼らが風変わりだったにしても、あの不朽の名作に出てくるハッターほどには狂っていなかったし。ばかさわぎのほうではむしろ反対で、その億万分の一のほがらかさも持っていなかったのだ。

 このように265文字で冒頭の1段落を訳している。それが越前氏の手に掛かるとこうなる。

[越前訳]
 いかれた帽子屋…。何年も前、ハッター家にまつわる報道が紙面を騒がせていた時期に、ある想像力豊かな記者が懐かしい『不思議の国のアリス』を思い起こして、一家をそんなふうに命名した。それは理不尽な誇張だったかもしれない。異常さにかけてはある名高い帽子屋の半分もなく、愛嬌は億兆分の一も備えていなかったのだから。

 およそ153文字。ここだけ比較してみれば、なんと宇野訳の58%という驚異的なスリム化が図られている。

 宇野訳と越前訳のどちらが原文に忠実かどうかなどは、ここでは問わない。この部分をみる限り、どちらも伝えるべきことを同等に伝えているように思う。違いは文体だ。宇野訳は、字数を費やした割には判りやすくない。確かに、それまで創元推理文庫版でしか読めなかった「Yの悲劇」に新風を吹き込むべく、訳者は渾身の訳を作りあげたはずだ。にもかかわらず、どこかピントが甘い感じがする。昔からの翻訳にありがちな、言いたいことにすぐに届かない隔靴掻痒で曖昧な表現に終始した訳文だ。

 それに対して、越前訳は、きりっと締まっていて曖昧さがない。まるで今風のビールのトレンドのように"喉ごしさわやかでドライな"文体で書き上げられている。とかく「気取っていて思わせぶり」な探偵と批判されてきたドルリー・レーンではあるが、それもこれも過去の訳文の思わせぶりな表現が利いているのかもしれない。越前訳のような書き方が誰しも可能であるならば、クイーンの過去の名作たちをすべて新訳にすれば、マネーロンダリング(貨幣洗浄)ならぬエイジロンダリングによって、セピア色がかった原作が色鮮やかなオリジナルの色を取り戻すのではないだろうか。

 もちろん異論がでるのは承知の上だ。ミステリーマニア好みの「大げさなケレン」は、もういらない。
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2011年03月08日

E=mc2−世界一有名な方程式の「伝記」− デイヴィッド・ボダニス(2011/2/18読了)

 アインシュタインの「相対性理論」の核心をなす数式と言えばいいのか。あるいは僕ら一般人にとっては、彼が導いた真に偉大な〈達成〉すべてを象徴するモニュメントとみなすのがふさわしいのか。現代の神話となりつつあるアインシュタインの業績をいまなお取り沙汰するためには、このモニュメントには内実を伴った「物語」が必要だ。ハリウッド女優のキャメロン・ディアスがインタビューで戯れに語った「E=mc2がいったい何を意味するかを知りたい」という問いは、多くの人々にとって一度は抱いたことのある欲望に違いない。

 その欲望に真正面から取り組み、魅力的な物語に仕立て上げた本書は、「E=mc2」の誕生の瞬間がきわめて何気ない淡々とした状況で生じた事を見事に描写している。アインシュタインが、その知性を理解されずにスイスの特許局で不遇の人生に甘んじていたことは有名な話だ。神が与えたもうた才能とは無縁の仕事の埒外で、彼は奇跡のような〈収穫〉を着想から五、六週間でなしとげて「学術誌に寄稿した」。しかし、その論文に肝心の数式は登場しないと言う。

 論文に書き漏らしがある事に気づいたアインシュタインが、3ページほどの補遺を書き上げて追送した文章の中に、その数式はひっそりと産声をあげたのだ。その影響力を理解していた人は、この世界に誰一人としていない。まさに孤高の孤児の誕生だった。おそらくは生みの親ですら、その真価を想像できなかった。その証拠に「E=mc2」の伝記の序盤で早々とアインシュタインは姿を退く事になる。それ以後、「E=mc2」は正統な伝記にふさわしく、数奇な運命に翻弄される。アインシュタインは「神がわたしにいたずらを仕掛けているのかどうなのか」と自問したらしいが、「E=mc2」は、まさに時代の波にもまれながら運命のただ中を突き進む。

 本書で僕の胸を揺さぶる2つのエピソードがある。その一つは、「E=mc2」から帰結として得られる「核分裂」の効果を利用した新型爆弾(原爆)が、初めて日本の広島に投下される日を描いた『午前八時一六分、広島上空』という章だ。世界で唯一の被爆国で生まれた作家ならば、主観や感情を廃した記述は不可能であるがゆえに、その瞬間の描写は、肌をひりひりと刺激するようなジメジメした描写にならざるをえない。日本に原爆を投下する決定が歴史的な過ちであることを十分に理解している著者は、科学者としてのアプローチにふさわしく、徹底的に客観的な筆致で、原爆の生み出す苛烈な破壊力をあきらかにしようとする。E=mc2が生み出す理論上の数値を積み上げていくだけで、この地上で数式が果たした〈大仕事〉の残酷さが明確に浮き彫りにされていく。この章の描写に圧倒されない日本人はいないのではないか。感情に訴えないが故に、原爆の惨禍への有無を言わせぬ批判となっている。そんなことを感じた。

 そしてもう一つは、もちろん生みの親アインシュタインの再登場だ。アインシュタインの晩年は、故国から遠く離れたアメリカに亡命してプリンストンで暮らす、一見すると穏やかな日々だった。しかし「アイビーリーグを気取ったプリンストンの雰囲気はどうしても好きになれなかった」ようだし、原爆投下にGoサインを与えた大統領への親書を生涯後悔し続けた。

 そして、精神の衰えを感じ始めた彼は、「大きな発見は若者のものだ」と助手に語ったと言う。一時期は自らが時代の寵児となり、あっと言う間に過去の存在となっていった実父は、一人の穏やかな老人となり、人生の黄昏を、もう一度、何事をも読み解けるという「神の図書館の蔵書」を読む事を夢見ながら過ごした。実父の記憶をいまだ現代に再生しながらも、E=mc2というモニュメントは、永遠にも似た輝きを僕らに向けて放ち続けている。
posted by アスラン at 19:09 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月12日

「そして誰もいなくなった(アガサ・クリスティー作、青木久惠訳)」の翻訳について(その1)

 クリスティ生誕120周年を記念して、昨年から今年にかけて10作ほどの作品が新訳で刊行される。その皮切りが、クリスティの代表作「そして誰もいなくなった」だ。昨年の秋に書店にならんだのでさっそく入手した。なにより気になったのは旧訳(清水俊二訳)との違いである。


 旧訳の初出は1955年のハヤカワ・ポケットミステリで、ハヤカワ・ミステリ文庫として出版されたのが1974年。以後、多少の改訂を経てアガサ・クリスティ文庫として装丁も新たに清水訳は生き延びてきた。いまだにそれほど古さを感じないのは、僕自身が歳を重ねてきたからだろうか。いや、それ以前に「そして誰も…」が、極力その当時の風俗などを取り入れずに、無人島という現代社会から隔絶された空間に限定して物語が進行するからだろう。そこは空間だけが外部から切り離されているわけではなく、時間さえもが外部とは切り離されている。いまだに「無人島」における連続殺人というテーマがなんどでも再生するのには、そこに普遍性があるからだろう。

 旧訳では、「無人島もの」というテーマの普遍性を見抜いて徹底的に抽象的な描写にこだわった作者の先見性が見てとれると同時に、ヒステリックな心理描写を徹底的に排除して冷静な筆致でサスペンスを演出した訳者の手腕が実感できる。しかし、初出から50年以上たった今、ついに生まれ変わるときがやってきた。でも、新しい読者を待ち受ける青木久恵訳とはどんなものなのだろう。新訳は果たして旧訳を乗り越えているのか。若い新たな読者のニーズに応えているのだろうか。そこが僕のなによりの関心事であり、もう一度小説を味わうのは後回しになった。

 ここでは、「そして誰もいなくなった」の新訳と旧訳との比較を行う。ポイントは3つある。
(1)どちらが読みやすい訳か?正しい訳はどちらか?
(2)登場人物の造形(演出)はどう違うか?
(3)ミステリーの翻訳として、どちらが適切か?

 このブログですでになんども言及しているが、ここのところ清水俊二という翻訳の大家(同時に字幕翻訳の大御所でもある)の訳を非難する声があちこちで聞かれる。一読者から聞かれるというよりは、ミステリー評論家や同業者である翻訳家からケチがついている。おそらくは1988年に亡くなる以前から思うところあった人たちが、故人を偲ぶかわりに生前言えなかった心の丈を、思う存分ぶちまけているのではないだろうか。僕は正直、こういう取り上げ方には関心しない。もちろん専門家でもない一読者としては、正しい翻訳で読みたいとつねづね思っているが、この「正しい」という意味には、いろんなレベルの事柄が含まれている。

 例えば「誤訳だらけではないか」とか「はしょったり、要約したりしていないか」と言うものから、「原文の意図が伝わるかどうか」や「日本語としておかしくないか」というものまで、様々な事で人は翻訳にケチをつける事が可能だ。自身が名翻訳家で、「翻訳の世界」という雑誌で欠陥翻訳時評を長い間続けてきた別宮貞徳さんは、「誤訳・悪訳・欠陥翻訳」という分類を編み出している。誤訳ばかりがあげつらわれる事が多いが、翻訳という作業が一個人の孤独な作業であるかぎりは、一つの翻訳作品に多少の誤訳が混入する事はやむを得ない。だから誤訳の多寡を指摘するだけでは翻訳の本質を見落とす事になると、別宮さんは以前から一貫して主張してきた。そこで僕も別宮さんにならって、なるべく誤訳だけにこだわらないように、いくつかの観点で新旧の「そして誰も…」を評価しようと思う。

 しかし、まずは翻訳そのものの形を比較しなければ話は始まらない。「(1)どちらが読みやすい訳か?正しい訳はどちらか?」から見ていく事にしよう。ところで、僕は翻訳の正確さや読みやすさについて、すでに多少の比較を試みている。

新訳「そして誰もいなくなった(アガサ・クリスティ)」の意義
「そして旧訳が残った 〜旧訳『そして誰もいなくなった(アガサ・クリスティ)』の意義〜」


の2つの記事がそれだ。実は入手したての新訳(青木訳)と、手元にあったクリスティー文庫版の旧訳(清水訳)とを比べてみた。最初の記事では、原文を参照する事なく憶測を書いてしまった。思うに、誤訳の多さを指摘された清水訳に置き換わるくらいだから、少なくとも「正確さ」の点では、新訳が旧訳を凌駕しているものと最初から先入観をもっていた。それが失敗のもとだった。結局、原書を図書館で借りてきて、3つを並べて比較したら、あれれっ?なんと僕が指摘した部分の多くは旧訳の方に軍配があがったのだ。だから「そして旧訳が残った」と下手なシャレではあるが、比較しなおした結果を後追い記事にして載せた。

 あらかじめ断っておくが、上記の2つの記事で比較したのは第一章第1節だけだ。たかだか3ページに過ぎない。だから、これをもって「新訳は出来が悪い」と言いたいわけではないし、旧訳を必要以上に擁護したつもりもない。ただ、2つの翻訳の性質の違いが見えてくる事を指摘したい。詳しくは上記の記事を読んでもらえればありがたいが、要点を挙げておくと、

[新訳の特徴]
・並列句を入れ替える事が多い。それによって文章の論理構造が変わる場合がある。
・原文に書かれた事を漏らさず訳そうと心がけている(ように見える)。
・「原文に忠実」をモットーとしたせいか、文章の流れ(伝わりやすさ)が悪いと感じる事がある。
・勢い余ってなのか、原文にない解説的表現を加えている。
・「彼」「彼女」という表現を極力使わない。名前さえも肩書きに置き換える事がある。


 「文章の論理構造」に無頓着だと感じたのは以下のような箇所だ。

(原文)In the corner of a first-class smoking carriage, Mr. Justice Wargrave, lately retired from the bench, puffed at a cigar and ran an interested eye through the political news in the Times. 
(旧訳)最近現職から引退したウォーグレイヴ判事は一等喫煙車の隅で葉巻をくゆらせ、《タイムズ》の政治記事を熱心に読みふけっていた。
(新訳)ウォーグレイヴ判事は、一等喫煙車の隅の席で葉巻をくゆらせていた。少し前に公職を退いた判事の目は、《タイムズ》紙の政治記事を追っている。


 原文では、ウォーグレイヴ判事が客車で「葉巻をくゆらせ」、かつ「(新聞の)政治記事を読みふけって」いる。ただし、ただの「判事」ではない。「最近引退したばかりの判事」が、これこれしたと書かれているのだ。ところが、旧訳のように書けたはずなのに、新訳は後半の「新聞を読みふけっている判事」にのみ、「引退した」という修飾節をかぶせる。これではニュアンスが微妙に変わるはずだ。下手をすると因果関係が入れ替わってしまうことすらある。前述の記事では「おなかをすかせたポチは、たっぷりとご馳走にありつき、眠りについた。」という文を例に挙げた。これが、新訳者の手にかかると「ポチはたっぷりとご馳走にありついた。おなかをすかせたポチは眠りについた。」になってしまうかもしれない。

 「原文にない解説的表現」というのは、
(原)Somerset
(旧)サマセット
(新)イギリス南西部のサマーセット州

(原)the Devon coast
(旧)デヴォンの
(新)サマーセット州の西どなり、デヴォン州の

という部分だ。なぜこうまで原文に書いていない地理的説明を加えなければならないのか、どうにも分からなかった。しかし、最近ようやく手がかりらしき指摘がブログに書かれているのを見つけた。

 新訳の青木久惠さんは、今回のアガサ・クリスティ文庫版の翻訳を担当する前に、クリスティー・ジュニア・ミステリ版「そして誰もいなくなった」の翻訳を手がけている。それを読んだ方の感想では、説明的な記述が親切にも付け加えられているが、子どもが読んで想像する余地が少なくなってしまうのではないかとの危惧が綴られていた。このブロガーも僕同様「余計なお世話」と感じている事になる。またしても僕の憶測だとまずいので、ただいま、ジュニア・ミステリ版「そして誰も…」を図書館から取り寄せ中だ。追って、検討結果を紹介できるだろう。

 では引き続いて、第一章で原書と旧訳と新訳を比較して気になったところを一つ一つ見ていこう。あらかじめ断っておくが、原書と旧訳は対応が一致するため、舞台はインディアン島(Indian Island)だが、新訳は最近イギリスで出版された原書をもとに「兵隊島(Soldier Island)」に変えられている。事情は推して知るべしだ。インディアンが「政治的に正しくない用語」だからだろう。

[1-1 ウォーグレイブ判事]
(原)Nodding his head in gentle approval of his logic, Mr. Justice Wargrave allowed his head to nod.
(旧)ウォーグレイヴ判事は自分が下した結論にみずからうなずきながら頭をうなだれた…
(新)自分の出した結論に満足した判事は、こっくりうなずいた。そして、うなずいたままうなだれて…。


 新訳の「うなずいた、うなずいたまま、うなだれて」という流れは、くどく感じられないだろうか。確かに判事は「うなずき、うなだれる」。しかし、同じ部分を旧訳はすっきりと訳している。原文もひとまとまりの文なのに、なぜ新訳は文を分けた上に、わざわざ「そして、うなずいたまま」などと言い直したのだろう。

[1-2 ヴェラ・クレイソーン]
(原)But the house had certainly been built by a millionaire and was said to be absolutely the last word in luxury.
(旧)しかし、邸宅はたしかにある富豪によって建てられたもので、贅沢きわまるものであるといわれている。
(新)とはいえ、その島に大金持ちが邸宅を建てたことは本当らしい。これ以上ないほどの、すばらしい豪邸という評判だ。


 新訳の「本当らしい」は変だ。原文の前半は「certainly(確実な事だが)」と言っている。ここはヴェラの独白だから、本人が邸宅の存在を確信しているわけだ。後半の「was said to」を前半にも適用してひとくくりにして「らしい」と書いてしまったようだ。

[1-3 フィリップ・ロンバート]
(原)That little Jew had been damned mysterious.
(旧)モリスがいったことは謎であった。
(新)あのチビのユダヤ人、やたら謎めいたことを言っていたなあ。


 ロンバートから見たモリスの描写がなんどもでてくる。旧訳では「ちびのユダヤ人」という表現を差別用語だとして訳出していない。しかし、現代こそ「political corectly(政治的に正しい)」表現が求められるのに、旧訳の方に「気遣い」が目立つのは不思議だ。もし、今の作家が書くとしたら、こういった表現は避けるだろう。本作のように過去の作家の書いたものは、目にあまる場合は手直しもやむを得ない。作者に差別する意図がなく、当時の社会状況がそうさせたと見なせる場合にかぎり、読者に理解をもとめる文言が巻末に書かれる事が多い。

 ただし、こういった文言をハヤカワ・ミステリー文庫で見たことはほとんどない。人が殺されるのが当たり前の小説を扱う出版社にとって、こうした問題に真正面から本気で取り組む必要はないという不文律でもあるだろうか。

 いずれにしろ、清水訳は差別用語に配慮して訳文を「改変」している。これは、抄訳が当たり前だった戦前のミステリー状況と比較すれば、きわめて穏当な(言い換えれば「きわめて誠実な」)対応と言えるが、現代の読者から見ると「くさいものにフタ」的な、ぬるい対応と見られるだろう。作者の独断なのか、当時の出版社の方針なのかは不明だ。文責は棚上げするとしても、旧訳では「ちびのユダヤ人」を人名の「モリス」に置き換えたせいで、次の文で初めて「アイザック・モリス氏は…」と名前をあかすところとのつじつまが合わない。

(原)There wasn't much he drew the line at really...No, there wasn't much he'd draw the line at.
(旧)たとえ、不正なことでも、あまり気にしていないことは事実だった。いや、むしろ、危い橋を渡ってみたいのだった。
(新)彼があまりこだわらないのは、本当のことだった…。四の五の言う気はない。


 新訳の文章では、ときどきつながりがわからなくなる表現がある。上記の「四の五の言う気はない」というのも、なんだか唐突だ。もしかしたら新訳の方が正確な表現で、旧訳の方がざっくりとした意訳なのかもしれない。しかし「伝わる訳文」はどっちだろう。

[1-4 エミリー・ブレント]
(原)Enveloped in an aura of righteousness and unyielding principles, Miss Brent sat in her crowded third-class carriage and triumphed over its discomfort and its heat.
(旧)ミス・ブレントは自分が正しいと信じている主張をかたく持して、混みあっている三等車にきちんと座り、不快と暑さをじっとこらえていた。
(新)独りよがりな思い込みと頑迷のオーラに包まれたミス・ブレントは、混み合う三等車の暑さと人いきれに耐えて、得々としていた。


 もちろん「Enveloped in an aura of righteouness and nyielding princlipales」の訳し方が問題だ。ここはどちらがいいとは一概に言いにくい。まず1970年以前には「オーラ」という言葉は日本語としてなじみがなかった。だから今の読者にはなんの抵抗もない「オーラに包まれた」と表現できる青木訳には、一日の長がある。旧訳のように、あえて言い換える方が読者には古めかしく感じられるかもしれない。

 ただし、新訳の「独りよがりな思い込み」と「頑迷」という言葉が、それぞれ「righteouness」と「unyielding principles」に対応しているのか、今一つ腑に落ちない。righteousnessは「自分こそ正しい」という信念を意味する。そこから「思い込み」と表現するのは可能だろうが、「独りよがりな」とまで言い切っていいものか。旧訳は、名詞句をそのまま直訳するのを避けて、かなりざっくりと意訳することで「an aura of A and B」のような並列句の訳出という難題をいっきょに乗り越えている。アバウトに言えば、断然旧訳の方が伝わってくる。

 もう一つは「Miss Blent…triumphed over its discomfort and its heat」の部分の訳だ。

 (旧)不快と暑さをじっとこらえていた。
 (新)暑さと人いきれに耐えて、得々としていた。


 新訳では「耐えられる自分に喜びを感じていて、平然としていた」というニュアンスが感じられる。しかしtriumph overには「打ち勝つ」という意味はあるが、「喜々として」というニュアンスまではないのではないか。「得々としていた」というのは、まるでガマン大会のチャンピオンのような言いぐさではないか。

 ところで新訳の青木さんは、なぜか並列表現の順番を入れ替えるのが好きだ。「人いきれと暑さに耐えて」だとまずいと考える”合理的な”理由があったのだろうか。これが度を超すと、最初に採りあげた関係代名詞の係り受けに見られたように、因果関係が逆転する誤りを呼び込んでしまう。

(原)「Bellhaven Guest House」「a guest house of my own」
(旧)「ホテル」「家族的なクラブのような宿」
(新)「旅館」「旅館」


 おそらく「Geust House」のようなタイプの宿は、日本には存在しないのだろう。二人とも訳出に苦労している。いや、苦労せずに割り切っているのかもしれない。僕がまっさきに違和感を感じたのは、新訳の「旅館」という表現だ。そもそも日本語では「旅館」と「ホテル」とを使い分けているからだ。「旅館」といえば純和風の宿泊施設と決まっている。ホテルの方は、大きなリゾートホテルからビジネスホテルや簡易ホテルまで、さまざまな形態の宿泊施設が該当する。「宿」は一般名詞として使えるが、多少の和風なイメージがつきまとうので、旧訳のように「クラブのような宿」という断り書きをつけるのも一つの手だろう。よくわからないが、日本で言う「ペンション」とはまた違うのだろうか?

[1-6 アームストロング医師]
(原)It had been a near thing, that!...By Jove, it had been a near thing though...That had been a near shave, too. Damned young fool!
(旧)(前略…)もう少しで、自動車をぶつけるところだった。向こう見ずな奴だ!
(新)(前略…)またも、あぶないところだったじゃないか。いまいましいったらない!


 旧訳は、原文に見られる表現の繰り返しに無頓着だ。とくに最後の文の「too」の意味を見落としている。一方で、新訳の方はきっちり押さえた訳になっている。15年前も「あぶなかった!」、そして今度も「またあぶないところだった」という意味だ。

[1-7 アンソニー・マーストン]
(原)Who were these Owens, he wondered? Rich and stinking, probably.
(旧)それにしても、オーエン夫婦というのは、どんな人間なのだろう。おそらく、金はあるが、あまり愉快ではない人間だろう。
(新)それにしても、このオーエン夫妻というのは、いったいどういう人間なんだろう。きっと腐るほど金がある連中なんだろうなあ。


 「Rich and stinking」の訳だが、"stinking"の解釈が分かれている。旧訳では「(人柄が)うんざりさせられる」と解し、新訳では「うんざりするほど(金を)もっている」と解している。手元の英和辞典では「実にいやな」とか「いまいましい」という意味で、旧訳を支持している。だが「stinking rich」という成句で「大金持ちの」という意味があるようだし、リーダース英和辞典によると、stinkingだけで口語として「腐るほどの金をもった」と意味があるようだ。ただし、この口語の語義が1939年当時のイギリスで使われていただろうか?理屈で考えると旧訳に軍配があがりそうだ。

 第一章でめぼしいところは比較した。最後に第二章第8節から引用して、新旧の訳の違いを総ざらいしておこう。

[2-8]
(原)
the Judge asked him:
"Is Lady Constance Culmington expected, do you know?"
Rogers stared at him.
"No, sir, not to my knowledge."
The judge's eyebrows rose. But he only grunted.
He thought:
"Indian Island, eh? There's a nigger in the woodpile."

(旧)
判事はたずねた。
「コンスタンス・カルミントン」という婦人が来るかどうか知っているかね」
ロジャースは判事を見つめた。「いや、存じませんが」
判事は眉をあげた。しかし何かききとれぬことをつぶやいただけだった。彼は考えた−
インディアン島か。まきの中にインディアンが一人いる。

(新)
判事は尋ねた。
「コンスタンス・カルミントンさんは来られることになっているのか」
執事は判事を、まじまじと見た。
「いいえ、判事さま。わたくしはうかがっておりませんが」
判事は眉をピクリと上げた。だが、なにやらうめいただけだった。
”兵隊島だと? いささか、興ざめだな”と、判事は思った。


 これまで見てきたように、新訳はできるだけ「原文に忠実な翻訳」を心がけている。英語のheやsheを「彼」「彼女」と訳さないのも、青木訳のこだわりの一つだろう。日本語の「彼」「彼女」は、英語の三人称代名詞と違って「つきあっている異性」の意味が付着するからだ。また、時に代名詞や名前よりも肩書きで表現する方が日本語としてなじみがいい。上記の文でも旧訳は原文通りに「ロジャースは判事を見つめた」と訳しているが、新訳はあえて「執事は判事を、まじまじと見た」と肩書きに置き直している。

 ところが正確さを追求すれば「読みやすさ」に直接つながるとは言えないところに、翻訳の難しさがある。上記の文章だと「執事は判事を」というように語呂が重なる。ぱっと見にどちらがどちらがどちらかわかりにくい。旧訳の清水は「彼」「彼女」を使う事にこだわりはない。名前も同様だ。正確さにこだわるよりもわかりやすさを優先する。僕はおおむね青木訳の「彼」「彼女」撲滅キャンペーンに賛同するが、青木訳には「わかりやすさ」を第一とする臨機応変さが不足しているように思う。

 旧訳はあまり感情のたかぶりを登場人物のせりふにこめないし、語りも簡潔だ。その分、客観的で物静かなトーンが作品全体を支配しているが、新訳は登場人物の感情の高まりをすなおに台詞にこめていて、語りも登場人物の心情に沿うように起伏にとんでいる。新訳の方が、今の若い読者には感情移入しやすいかもしれない。

 これは以前にも指摘したが、文の格調としては旧訳の方が一歩も二歩も先んじている。たとえば「カルミントンさんは来られることになっているのか」。せっかく女友達に敬語を使うのであれば「来られる」ではなく「いらっしゃる」なのは言うまでもない。旧訳では友人扱いなので「来るかどうか」ですませている。「わたくしはうかがっておりませんが」は申し分ないが、旧訳の「いや。存じませんが」の簡潔さには、余計な事を言わぬ執事の姿勢が自ずと表現されている。

 さて最後の一文だ。これはいまだに理解に苦しむ。受け取った手紙の差出人と考えるカルミントンが島に来る気配がないことを確認した上で、判事がインディアン島(兵隊島)についてひとりごちる場面だ。

 旧訳の「まきの中にインディアンが一人いる」には、なにかのレトリックが含まれている事は容易に予想がつく。そうでなければ意味が不明だからだ。レトリックの存在がわかったとしても、やはり読者には意味がわからない。一方、新訳では、「兵隊島」という島名について「興ざめだ」と言い切っている。ならば、隠されたレトリックとは「興ざめ」という意味だったのだろうか。

 だが、新訳にしても、どうしてこのタイミングで兵隊島の名前をとりざたする必要があるのかわからない。「カルミントンが来ない」事に判事が「興ざめだ」と言うのならば、まだ理解できるが、ここでは明らかに兵隊島の名前に難癖をつけている。

 原文は「There's a nigger in the woodpile.」と書かれている。niggerは、題材となった元々の童謡「Ten little niggers」に由来する。ウェブで調べたところ、片山暢一著「ES・Gardnerに現われた米語のFigurative Use」という論文の一節に手がかりが見つかった。この論文に、

「まきの山の中の黒人」から「かくれた事実叉は動機」更に単に「間違い」の意味となる。


との記述が見られる。すると、さきほどの例文は、カルミントンが来ないことを怪しんだ判事が「何かあやしい、何か間違いがある」と比喩的につぶやいたと解釈できそうだ。これなら辻褄が完全に合う。旧訳は直訳しただけなので手抜きと言われて仕方がない。一方、新訳のほうは誤訳だろう。間違うくらいならば直訳のほうがましだ。

 今回は訳文そのものの特徴を比較したが、次回からは翻訳家の演出という側面で比較分析したいと思う。(続く)
posted by アスラン at 14:20 | 東京 🌁 | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月30日

よく帰ってきたね、はやぶさ!(その2)

小惑星探査機はやぶさ物語 的川泰宣(2010/11/7読了)
小惑星探査機「はやぶさ」宇宙の旅 佐藤真澄(2010/11/20読了)
小惑星探査機「はやぶさ」の奇跡−挑戦と復活の2592日−  的川泰宣(2010/12読了)
はやぶさ、そうまでして君は−生みの親がはじめて明かすプロジェクト秘話− 川口淳一郎(2011/1/22読了)


 はやぶさが地球に帰還して、その使命を全うして大気圏で燃え尽きた2010年6月13日。その後、「はやぶさ」の事を永遠に忘れる事がないようにと、僕らにはとびきり暑い夏が待ち受けていた。その間にも、はやぶさの奇跡を賞賛する声はひっきりなしに続き、また、はやぶさを一目でも見ようと、はやぶさがそっと地球に送り返したカプセルの特別展示に多くの「にわかはやぶさファン」が足を運んだ。

 そして今、僕らは暑い夏の記憶も鮮やかなままに、とびきり寒い冬を過ごしている。これもまた、はやぶさの事を忘れないために、人知を超えた存在がもたらした〈奇跡〉の一つなのかもしれない。

 はやぶさが地球に帰還する見通しが立ったという新聞記事で、遅ればせながら初めてはやぶさの存在を知った、超にわかはやぶさファンである僕も、この夏から本やムックを読みまくり、人並みのはやぶさフリークになった。はやぶさが成し遂げた科学的・工学的達成の素晴らしさも、文字通り奇跡的としか言いようのない帰還までの7年間の意味も、すでに十二分に知っている。

 だから、はやぶさが戻ってきてカプセルが回収できただけでも感無量であって、たとえサンプルが入っていなかったとしても、はやぶさの栄光がなんら損なわれる事はないと思っていた。「サンプルリターン」のミッションという観点からは、サンプルが手に入らねば「失敗」と言わざるを得ないとしても、僕らにとって「はやぶさの奇跡」はそれだけではない。

 第一に「絶対にあきらめない」という勇気をもらい、第二に「日本の技術、日本人の志も、まだまだ捨てたものではない」という誇りをもらった。これ以上、なにも言う事はないじゃないか。ところが、はやぶさの奇跡は、はやぶさ無き後もとどまる事はなかった。僕らは、まだはやぶさの奇跡を見届けていなかったのだ。

 連日、今か今かとカプセル内部の調査結果の続報を待ち受け、「カプセル内部に目で見える物質はない」という記事にさすがに少しがっかりし、「ナノ単位の極小の物質が多数見つかった」と聞いて、「おっ!」と期待を抱き、ついに「イトカワ由来の物質の存在を確認した」というビッグニュースに、その年最大の喜びを感じた。

 回収したカプセルの2つある部屋のうち、最初の一つの壁面から特殊なヘラでこそげるだけの微粒子をこそぎ落とした後、念のためひっくり返して底を叩いたら、大きめの物質が落ちてきたという記事には、さすがに笑わされた。こんなに愉快な記事はなかった。「なんだよ、最初からそうすればよかったのに」と、日本中のはやぶさファンが笑っただろう。そう、はやぶさの奇跡が僕らに与えてくれたものは、なにより笑顔だったかもしれない。

 つい先日の新聞で、はやぶさがもちかえったイトカワ由来の微粒子の本格調査が始まったと報道された。そう、僕らが一喜一憂していた記事は、小惑星イトカワの構成物質をはやぶさが持ち帰っていたと判明した事を知らせる記事にすぎない。確かな事は、サンプルリターン計画が大成功をおさめたという事だ。

 ならば、そこから僕らが知りたい事は、僕らが引き続き夢見ることは、はやぶさがもたらした奇跡の結晶が、宇宙の謎の解明にどれほど貢献してくれるかという一点だ。僕らには、はやぶさから引き継いだ「夢」を追いかける楽しみが、まだ残されている。

 その一端がプログラムマネージャー川口淳一郎の著書「はやぶさ、そうまでして君は」の巻末で紹介されている。詳細な分析が学会の報告され、一般の人でもわかる学術本がでるのはまだまだ先の事だろう。僕のはやぶさウォッチングは、当分続くことになりそうだ。

 とりあえず、前回の(その1)から引き続き4冊のはやぶさ関連の本を読んだ。

[小惑星探査機はやぶさ物語]



 はやぶさプロジェクトではJAXAの広報担当として裏からスタッフを支え続けた著者・的川泰宣さんが書いた、一般読者向けの「はやぶさ物語」だ。もちろん技術参与という肩書きを持つからには、科学者・工学者のキャリアをもつ著者が、あえて難しい技術課題を説明するよりも、国家的プロジェクトの泥臭い部分の裏話を披露しつつ、スタッフたちの人間味あふれる一面を生き生きと描いている。

 例えばプロジェクトマネージャーの川口淳一郎は情に流されず、常に冷静にあらゆる事態に対処してきたが、はやぶさが大気圏に突入する間際に「最後にはやぶさくんに地球を見せてやりたい」と言って周囲を驚かせる。著者曰く、そういう事を言わないのが川口プロマネだったからだ。万感の思いが込められた一言だったからこそ、著者は感慨深く、あるワンシーンを思い出す。

 はやぶさがイトカワへ接近しサンプル回収を試みた1回目。いつまでたっても着陸のサインは出ず、川口は緊急離脱の指令を出す。その後の分析で、はやぶさはイトカワに着陸して機体を傾けたまま1時間以上も地上に居座り続けた。著者が「世界初の着陸・離陸をまがいなりにも果たしたのだから、記者会見しよう」と言うと、川口は嫌だと言う。いつの間にか着陸していたというのが科学者としては不完全なミッションだからだ。著者は「気持ちはわかったけれど、後でばれたらマスコミからいろいろと言われるよ」と言われ、しぶしぶ記者会見する事になった。人間・川口プロマネを垣間見る事ができる。

 著者の裏方ぶりは、ロケット打ち上げの際の地元漁業関係者との交渉に顕著にあらわれる。はやぶさを搭載したロケットの打ち上げが予定をずれ込んで、内之浦の漁の最盛期に重なる事がわかってからは、漁業関係者との折衝になんども足を運ぶ。著者曰く、この役割は自分のように「酒が大好きで、人とすぐ仲良くなれる」人柄でなければ勤まらず、交渉をうまく進めるには「飲んでも乱れず、あらぬことを口走らない」資質がなけらばならない。豪快さと細心さが同居する著者のような人物でなければ、このような組織の広報はつとまらないのかもしれない。

[小惑星探査機「はやぶさ」宇宙の旅]

 この本は、数多ある〈はやぶさ関連本〉の中でも数少ない児童向けの本だ。最初見たときは、児童向けと書かれているわけでもないので、最初は誰が読むのだろうと疑問に思った。どうやら子供からお年寄りを含めて、気軽に読めて分かりやすい「はやぶさ物語」を提供するための本だとしれた。

 思うに、博物館やプラネタリウムのような施設で販売する事を目的とした出版物のようだ。これも独立法人としてJAXAを見たときに、不思議な予算の使い方に該当するだろう。だって、巻末の参考資料を見ると、前回の(その1)で僕が読んだ〈はやぶさ関連本〉数冊が含まれているのだ。あの『現代萌衛星図鑑』まで含まれているのだ。

 これだけの本からエッセンスをいただいているならば、さぞかしまとめるのは楽だったに違いない。それにしても「現代萌衛星図鑑」を参考にしていながら、はやぶさを「はやぶさくん」と呼びかけるのはどうしたことだろう。はやぶさは、か弱い女の子ではなかったか。この本が置かれるグッズコーナーには、はやぶさを模した女の子のフィギュアが売られているはずだろうに。

[小惑星探査機「はやぶさ」の奇跡−挑戦と復活の2592日−]

 「小惑星探査機はやぶさ物語」と同じく的川さんの著書。正直、同じ著者の同時期の書籍なので、目新しいところはなにもない。ただし、『はやぶさ物語』が一般人向けであるのと比べて、こちらはミッションの詳細をきちんと説明しているところが違っている。説明が専門に偏る分だけ、文章が退屈になってしまっている。取り柄と言えば、はやぶさが撮影して送ってきた地球やイトカワなどの画像がたくさん掲載されている点だろうか。






[はやぶさ、そうまでして君は−生みの親がはじめて明かすプロジェクト秘話−]

 ついに待望の川口プロジェクトマネージャー本人の想いが綴られた本がでてきた。すでにいろいろな本でインタビューにこたえているし、的川さんの著書でも川口さんの思いを代弁した文から推し量られる内容が多いが、やはり「はやぶさの奇跡」に立ち会い、その「奇跡」を作り出したともいえる責任者の文章はたいへんに興味深い。

 宇宙開発の巨人NASAを出し抜いて「世界初のミッション」を成功させるために、著者らは涙ぐましいほどの交渉を繰り返す。はやぶさを24時間追尾するにはNASAの設備が是非とも必要だからだ。プロジェクトマネージャーは技術的な課題をクリアするだけでなく、様々な障害を除いていかなければならない。はやぶさが消息を絶った際にも、対外的には「一年以内に60〜70%の確率で復旧する見込みがある」と著者は公言したが、これも駆け引きの一つだった。本来ならば「復旧の必要条件が整う(通信が回復する)確率が70%程度あるだろうが、地球への帰還がかなう確率は数パーセント」と踏んでいた。しかし、正直に言えば来年度以降のはやぶさ捜索の予算が打ち切られるかもしれない。

 本書には、はやぶさのプロジェクトマネージャーだからこそ書ける、ミッションの成果に対する冷静な評価と、「7年間に徐々に変化してきた」と自ら語る、プロマネらしからぬ「はやぶさ」への愛情があまさず書き尽くされている。
posted by アスラン at 03:37 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月20日

et−128件の記号事件ファイル− 松田行正(2010/11/4読了)

 何故、単位のm(メートル)を日本語の略号で記述すると「米」なのか。深夜に見ていた「お願いランキング」(テレビ朝日)の「ドラちく」のコーナーで初めて知った。ドライブの時にうんちくを披露する企画で、うんちくの内容は「米」ではなく「瓦」に関するものだった。1g(1グラム)を日本語の略号表記すると「1瓦」になる。これも実は知ってそうで知らなかった。何故かと言えば、メートルもグラムも正式には「米突」「瓦蘭姆」と書くそうで、その頭文字をとって単位の略号としたのだと言う。長年の「メートル=米」の不思議が氷解したのは拾い物だった。そんな話を同僚に得々と解説していたら、「だったらアメリカはどうして米国と言うの?」と言われてしまった。それは…どうしてだろう?

 調べればたちどころにわかるのがインターネット時代にいいところだ。「アメリカは亜米利加と書くので、略して米国となった」そうですと同僚に伝えると「なぜ、頭文字の『亜国』じゃないのかな」などと聞かれる。Yahoo!知恵袋の同様の問いに対するベストアンサーは「幕末から明治にかけてアメリカンのなまりでアメリカのことを『メリケン(米利堅)』と言っていた。米国はその略称だ」という解説だった。いったい「亜米利加」なのか「米利堅」なのか。こういう真なる問いに答えが見いだせないのが、ネット時代の悪いところだ。どこを見ても自分でもちあわせた知識の開陳ではなく、単にネットで調べたことを横流しした回答しか得られない。

 いずれが先かは未確定としても「米」の文字がキーとなって、米国という略称が作られたということは言える。このように記号というものは、実際の意味から乖離したシンボルとして使われる事が多いので、普段は何故そういう形なのかなどとは考えないものだが、時にじっと見つめれば見つめるほどに、どうしてこういう形(文字)が採用されているのかと不思議に思う事がある。それは記号だけに限った事ではない。漱石の「門」という作品の冒頭でも主人公の宗助が、見慣れた文字が見慣れないものに変わってしまい困ったとぼやく。

「この間も今日(こんにち)の今(こん)の字で大変迷った。紙の上へちゃんと書いて見て、じっと眺めていると、何だか違ったような気がする。しまいには見れば見るほど今(こん)らしくなくなって来る。」


 これは誰しも経験があるのではないか。心理学的に認知科学的にも解明されている現象のようだが、通常は文字や記号(表記)と表記内容とはかたく結ばれているはずなのに、疲れていたり、繰り返し表記を眺めていくうちに、表記が解体されてそれぞれのパーツと相関のある心的内容とが前面に出たりすることで、全体としての「表記と内容との関係」が疑わしくなっていく。

 そんな状況で、記号の事を真っ正面から考え続けた人が本書の著者だ。この本は著者の興味から、通常ならば疑問をいだかずに使い続けている記号を起源までさかのぼって変遷をイラストとコメントで一目でわかるようにデザインされている。こういう本は、ほんとに僕ら読書好きを幸せな気分に浸らせてくれる。あとは、もう説明などいらない。とにかく手にとって好きなページを繰ってもらえばそれでいいのだ。

 僕が気に入った記号を紹介しておこう。いや、記号が気に入ったのではない。記号が原義から移り変わっていく変遷をチャートにしたデザインとコメントが魅力的だったものを紹介していこう。

 まずは、著者も魅せられたに違いない。扉にもイラストされ、冒頭でも紹介される「+」と「−」。なぜ加算記号と減算記号はこれになったのか。やはり源はラテン語にあった。

 元々は「3と2で5」というように「と(アンド)」を意味するラテン語が「et」だった。このetが次に縦に配置され、そこからそれぞれの文字が「f」あるいは「t」になる。どちらの文字にもクロスがあることから、最終的に「+」になる。+に統一される以前の数学者たちはさぞかし数式を書くのに苦労したことだろう。

 「−」も同様だ。ラテン語で「減らす」はminus。その頭文字mがやがて波のように横に広がる。そして「〜」になる。ここまできたらいっそのこと「−」にしてしまえば書きやすい。

 「√」はラテン語のRadix(根)からきている。RadixからRxだけが略号として取り出されて、エックスの斜線の一方が延びてルートの長いスロープと屋根を作り、もう一方の斜線は縮んでRの右下の”払い”と接続する。R本体はルートの左端の短い折れ曲がりに単純化される。

 文章で説明するのはなんとももどかしい。こういう変形は漢字を使っている僕ら日本人にはおなじみで、一つの漢字がどのような象形からできあがったのかをたどると、まさかそういうふうにできあがってきたのかと驚かされることがしばしばある。アルファベットを使う言語圏の人々には無縁の驚きだと思っていたが、実は意外と身近なところで「驚き」が共有できたわけだ。

 %はパーセント記号である事は誰もが知っていよう。でも原義が「per cento(100について)」である事に思い至った人はどれだけいるだろう。これは「P℃」と略される(書けないの嘘を言ってます。正しくは小文字のcの真上に小さな丸が乗ります)。そこからPが取れる。小文字のcが6を右に傾けたようになり、「小さな○」と「/」と「小さな○」になって「%」ができあがる。

 日本の地図記号でも面白い変遷が見られる。たとえば郵便記号の〒はなんだろう。ポストの形?いえいえ。元々は郵便を意味した「逓信」という言葉を冠にした省庁「逓信省」の「テ」の字をかたどった記号だ。

 地図記号と言えば、「発電所あるいは変電所」の記号の変遷はめまぐるしく、そしてあきれるほどに楽しい。「発電所」の記号では○から等間隔に8本の電線が延びている。そして左右の電線だけ直角に曲がっている。右が上向き、左が下向きに曲がる。ところが「変電所」の記号も必要だということで「発電所・変電所」共用の記号として新たな記号に生まれ変わる。なんと左右の曲がりが従来の「発電所」記号とは入れ替わって「右が下向き、左が上向き」になる。なんと安易な!

 ところが共用記号は使いにくいというわけだろうか。発電所は従来どおりの「右が上向き、左が下向き」に戻され、この発電所記号から斜めに延びる電線4本を削除した記号を変電所として採用する。うーむ、なんなんだ、これは。

 ところが、ところが、再び「発電所・変電所」共用の記号に統合されるのだ。しかも元の共用記号に戻るわけではなく、「変電所」の記号(中央の○から4本の電線が延びたもの)が共用記号に格上げされる。なんたること!「発電所」の面目まるつぶれではないか。

 しかし、再び「発電所・変電所」の記号は、元の8本電線の記号に戻されて今に至る。いや、一つ前の「発電所」記号に素直に戻されたのではなく、左右の直角に曲がる線が長くなって、どっしりとした記号になった。

 ふー。記号を見てもらえば一目瞭然なのだが、言葉で説明すると以上のようなだらだらとした文章になる。おまけに自分で書いていて意味不明な文になってしまう。仕方ない。あと、3つほど是非とも紹介して終わるとしよう。

 生物学上の女性記号「♀」と男性記号「♂」は何から来ているのか。想像もつかないだろう。これはギリシャ神話の神にちなんで作られている。女神アフロディーテの別名フォースファロスの頭文字がギリシャ文字のΦ(ファイ)で、軍神アレース(いわゆるマルス)の別名トゥーリオスの頭文字がΘ(シータ)になる。ここからそれぞれの記号にたどり着くまでは並大抵ではない。Φは「○の下に縦棒」という虫眼鏡のような記号になる。これで記号としては充分だと思うのだが、何故か「アフロディーテの生まれた島キュプロスの頭文字K」が縦棒と組み合わさって変化を続け、最終的に「♀」になる。

 ΘはΦを右に傾けた形の記号になる。こちらも「軍神マルスの生まれた月(3月)のシンボルであるγ」が組み合わさって変化を続け、Φの先端に矢尻のようにくっついて「♂」になった。いずれの記号も、リンネが18世紀に女性(雌、めしべ)記号、男性(雄、おしべ)記号として利用するようになって広まった。

 新大陸にやってきたスペイン人は、スペインの通貨ペソを流通させた。PとS。これを重ねる。PがSを貫く。Pのループの部分が省略されて「$」になる.アメリカの通貨ドルはペソが化けたものだったのだ。

 最後の最後に、ローマ人の傲慢さが記号の変遷に大きく痕跡を残している例を挙げておこう。ギリシャ文字から近代のアルファベットへと移行する際に、いくつかの文字(BやCやE)は、元元の形を反転した。これは文字を書く方向が変わって左から右になったからだ。しかし、Gという記号だけは成り立ちがきわめて特殊だ。本書では、こう説明されている。

 ローマの最初の私立初等学校の校長「なんとか」さんは、g音を表す文字がないのをなんとかしようとして、すでにあったCを反転させてカギをつけて「G」という文字を作った。ここまでは偉い人もいたもんだな、で終わるところだ。ところが、Gが出来たことに気をよくした校長先生は、アルファベットの7番目にあったZを末尾に追いやって、Gを7番目の文字に据えたそうだ。なんて勝手な事を!だからローマ人は嫌われるんだ。

 というわけで、特に書評というほどの内容はない。つたない解説でイライラさせられた方は、是非とも本書を探して読んで(いや見て)楽しんでください。
posted by アスラン at 19:37 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月21日

現代倫理学入門 加藤尚武(2010/11/18読了)

 マイケル・サンデルの「これからの『正義』の話をしよう」を読んだ直後に、カントの哲学(倫理学)についてもうちょっと知りたいなぁと探している時に、この本に行き当たった。というより、だいぶ以前に一度借りているが、読まずに返却してしまった本だ。

 そもそもNHKで放映されたサンデルの「白熱教室」を見るとも無しに見ていて、この手の設問(5人を救うのと1人を救うのとでは、どちらが正しいか)から倫理の本質を考えさせようとする本を、何冊か頭の中に思い浮かべていた。本書より先に思いついたのはマーティン・コーエン「倫理問題101問 (ちくま学芸文庫)」だ。こちらも借りた事がある。だが、読み出してたちまちのうちに諦めてしまった。

 では、サンデルのテレビ教室や著書と比べて、上述の本が読み切れない理由はどこにあるのか。設問自体はわかりやすい。身近に起きることばかりとは言えないが、何が問題であるかは誰でも理解できる。ところが自分はこう思うと考えを決めても、かならず違った視点(アプローチ)で横やりが入るような難問ばかりだ。難問ではあるが設問の射程が長く(あるいは広く)、日常生活で起こりうるさまざまな雑事にまで適用できる。僕らは日常の雑事と同じように直感的に「こちらが良い」と判断してみるが、本当に正しい選択をしているのかと言われると非常にあやしくなってくる。

 このように、日々の生活の悩みから、大きく言えば「生きる」ことを完遂するまでのあらゆる原理を与えてくれるのが「倫理学」だ。だから、誰もが無関心ではいられない内容であるにもかかわらず、これまでにどうしても読み切れる本に出会わなかった。それは何故かと言えば、ひとえに内容を説明する言葉が難しいからだ。本書は、著者が放送大学で講義した内容をまとめた「倫理学の基礎」という本がオリジナルだ。それを読み物としてできるだけ「面白く書こう」と心がけて改訂したそうだ。と同時に、学生への教材に耐えるように工夫したとも言っている。つまり、一方で優しく書いたつもりでも、従来からある「学者の書いた啓蒙書」の体裁を捨て切れていない。

 一番乗り越えが難しいのは、哲学者(倫理学者)のテーゼの引用だ。ただでさえ使われている用語も難しいが、僕ら素人をなによりうんざりさせるのは、言葉遣いの生硬なところだ。すでに本を図書館に返却してしまい例示できないのが残念だが、おそらくは原文が小難しくて堅苦しい上に、それを訳す側も直訳にすれば小難しさが伝わるとでも思っているのか、あるいは自分にも訳せると思って下手な日本語になってしまったのか。いずれにしても頭が痛くなるような文章が引用される。そして著者の言葉使いもそれに合わせるかのように、硬い。とても一般の人にも「面白く読ませよう」と思って書き直したとは、おせじにも言えない。(蛇足だが、著者の「しかし」の使い方は少し問題がある。順接としか思えないのに何故か「しかし」が文の間にはさまれていて、時々立ち往生をする。こういう間違えをしそうにない顔つきの文章なだけに、たちが悪い。)

 そのせいか、著者がここさえ読んでくれればいいと述べている11章にたどり着くまでは、ひととおり読んでもなかなかピンとこない。設問を考え、そこから現代人(ふつうの生活者)が日常生活で同じような問題に接した場合に、自分ならどう考えるかを実感するところから道徳(倫理)への興味がわいてくる。マイケル・サンデルの著書(テレビ)がまさに読者(視聴者)をそのように導いてくれたわけだが、筆者は彼ほど優しく導いてはくれない。設問の要点をまとめ、設問の解法における倫理学者たちの対立を浮き彫りにして、どちらの側にも「倫理学」として利点と欠点がある事を示し、結論は宙づりにする。と同時に僕らの実感や悩みは置き去りにされたまま、次なる設問(新たなる倫理学的課題)に移ってしまう。僕ら読者はとまどうばかりだ。

 しかし、やがてターニングポイントがやってくる。11章だ。まえがきに「最初にこの章を読んで、後から他の部分を読んでもよい」と書いてあるとおり、本当にここから読むべきだ。11章から俄然わかりやすくなり、内容も興味深いものに様変わりする。それまでは、設問に寄りそって倫理学者の学説のあれやこれやをとりあげ、時に議論のための議論にうんざりさせられる事が多かった。11章では「自由主義」が抱える5つの条件と問題点を、著者なりの考え方で手際よく要約してくれる。つまり、この章からは倫理学の現代的な課題を著者自身がどう受けとめて、どう解決すべきかを、著者自身の言葉で積極的に主張しだすのだ。だからとってもわかりやすいし、とっても面白い。

 圧巻なのは、13章で取り上げる「現在の人間には未来の人間に対する義務があるか」という設問だ。これには、世代間の利害関係は確かにあるが対話できないという難問が含まれている。ところが、この難問の根本は近代的なシステムではなおざりにされてきた。なぜなら、近代は「過去の世代に対して遠慮しない」というシステムであり、「契約」という概念は徹底的に同じ世代間のみで合意されうるものとしているからだ。当然の帰結として「未来の世代に対しても責任を負わない」というのが、近代の倫理なのだ。

 一方で、現代が切り捨ててきた封建社会では、先祖から受け継いだものを次世代にしっかりと引き渡すバトンタッチ型の倫理をベースに組み立てられていた。そこには「次の世代への責任を負う」ことが社会の倫理として織り込まれていた。この点に関して無頓着な近代の倫理システムは、見直さなければならない時代を迎えている。それが僕らの生きる現代だ。地球の資源も、僕らが過去の世代から受け取り、なるべく損なうことなく未来の世代へと届ける事の倫理的な根拠が求められている。

 そこで注目されているのが、日本にかつてはあった「恩」という概念だ。この「恩」は、未来の世代との直接的な対話でも契約でもない。過去の世代から受け取った恩に報いるために、受けた恩に相当するものを未来の世代に返すという「バトンタッチ型の倫理」だ。この説明にはちょっとうならされた。いまや「恩」は封建時代の遺物ではなく、再発見された倫理システムである。

 そう言えば、11章では、他の著名な倫理学者と同等の扱いでマイケル・サンデルがちょっとだけ登場する。著者のような同業者がサンデルにどういうレッテルを貼っているか、興味深いので最後に挙げておこう。自由主義に対して共同体主義から批判が出ているという。それは自由主義が人間を「アトム的な個体」と見なしている事に対する批判だ。要するに誤解を恐れずに言えば「しがらみのない一個人」と見なしすぎるという事だろう。自由主義が現実的な問題を解決する際には、「しがらみ」を考慮せざるをえない。

 これに対して共同体主義は、人間をいつもどこかの共同体(community)に帰属するものと見なしている。たとえば代表的共同体主義者の一人であるサンデル(Michael Sandel 1952-)は、個人には、家族、共同体、社会関係が刻印されており、「負荷のない自己」(the unencumbered self)というアトミズムの個人観は幻影にすぎないという。(P.186)


 どうやらサンデルは無制限な自由主義には批判的なようだ。それに対して著者は自由主義にもまだ見どころがあり、欠点を改良しながら使いこなすべきだと主張している。
posted by アスラン at 16:33 | 東京 ☀ | Comment(2) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月18日

日本語は論理的である 月本洋(2010/11/3読了)

 かなり期待して読んだが、肩すかしを食わされた思いだ。世に「日本語は論理的でない」あるいは「日本語は非論理的だ」と考える人は意外と多い。そこから、日本人は物事を論理的に考える事が苦手だとか、抽象的な文章表現ができないという、見せかけの主張が出てくる。さらには英語の構文をまねて「『無生物主語』を使えば論理的な(あるいは抽象的な)文章が書ける」と言い出す愚か者まで現れる始末だ。決して一般人だけでなく、案外と文化人や知識人、はては専門家にまで「日本語非論理的・派」が絶えないのだから、始末におえない。
 「日本語は論理的か非論理的か」という昔からの議論に一つの解答を与えたのが、この本だ。だが著者の苦労はむくわれているだろうか。なにより長年にわたってこの議論に注目してきた僕自身が、著者の主張に説得されただろうか。「はい」とも言えるし、「いいえ」とも言える。

 確かに「日本語は論理的でない」という事を具体的に論証した文章にお目にかかった事はない。そう主張している人は実感さえあれば根拠はいらないと思っているのか、とにかく迷うことなく断定する。しかし「日本語は論理的である」と言い返す側の具体的な反証に出くわす事もまた少ない。いずれの側も自らの体験から来る実感だけを頼りに、いらぬ議論をしているに過ぎないのかもしれない。

 そういう意味では、著者は明らかに「日本語の論理」に真っ正面から取り組んで、従来から日本人を二分してきた議論に一つの解決を与えたには違いない。しかし、さきほど僕が著者の説明に納得しなかったと言ったのは、著者がこの問題を論理的に扱いすぎたからに他ならない。長い間、国語学者たちを悩ませてきた大問題を、結論からさかのぼって設問自体をすりかえてしまったように思われるからだ。端的に言えば、著者は大きな勘違いをしている。

 「日本語の論理」と「英語の論理」が異なる事は一目瞭然。誰でもそう思うだろう。そして「日本語が論理的でない」という定言が、裏を返せば「英語は論理的である」という定言を前提にしている事もまた確かだろう。そこで「日本語が論理的な構造を持っている」ことを説明するために、著者は日本語の構文を形式化(いわゆる数学でいうところの抽象化)し、日本語が「場の論理(容器の論理)」に支配されている事を論証する。結論として「命題論理」こそが日本語の論理の基本である事を示す。

 一方で「英語の論理構造」をとりあげて、「述語論理」が基本であることを示す。つまり命題論理と述語論理という対立はあっても、それぞれに優劣はない。「日本語は非論理的」という主張は見当違いだ。証明終わり(QED)。

 めでたし、めでたしだ。返す刀で、著者は数々の国語学者の説を切り捨てる。「日本語は非論理的」という主張を一刀両断にするのは当然であるが、「日本語は特殊なだけで論理的である」という主張も切り捨てる。「論理的だ」と言っている、言わば身内までも、同じように切り捨てるのはやりすぎだろう。しかし、著者にしてみれば「日本語の論理」の『論理』の内実に関心があるのだから、「特殊な論理」という主張でさえも認めないというこだわりは致し方ないのかもしれない。

 僕が肩すかしされたと感じるのは、そのあとだ。著者は「日本語は論理的である」ことを証明したあとは、その原因を学校文法に求める。「主語−述語」という英語特有の構造を日本語にあてはめた学校文法(国語文法)が元凶と見るのだ。どうして学校文法(国語文法)が誤りだと「日本語は非論理的」という主張が出てくるのか?

 著者にとっては「日本語が論理的である」ことは自明であるからこそ、当然の帰結として学校文法が元凶だと断定するのだが、ことはそう簡単ではない。なぜならば国語学者は、著者のような理数系の人間とは違って、科学的な思考法で言語現象を捉えているわけではない。ましてや一般人が「日本語は形式論理に基づいている」から安心してご使用くださいと言われて、はい、そうですかと鵜呑みにするはずはないだろう。

 著者が本書の後半で主張していることと言えば、「現行の学校文法(国語文法)をやめて、日本語文法を教え直す必要がある」という、あたりまえの結論でしかない。では著者がすべきことはなんだったのだろう。僕は著者に何を期待していたのだろう。

 実は僕自身も、「日本語が形式論理に則った論理構造を持っている」と誰かが明晰に答えてくれればいいのにと考えていた。「日本語は論理的だ」と自信をもって言える根拠さえあれば心強いと思っていた。しかし、本書を読んで、そうではないということがはっきりとわかった。それだけではダメなのだ。

 たとえ「日本語は論理的だ」と証明されたとしても、「日本語は論理的ではない」という主張は消えてなくならない。なぜならば、この主張自体は論証された結論ではなく、あくまでアメリカの政治的・経済的達成を目の当たりにした日本人(特に知識人)の劣等感が根本にあるからだ。アメリカ人が合理的・論理的に思考し、抽象的な議論を得意とするのも、ひとえに日本人そのものが、あらゆる点でアメリカに遅れをとっているからだ。そういう劣等感が日本人を「西洋にならえ」と駆り立て、西洋の文化や哲学、果ては習慣までも猿まねするようになった。それはそう遠い話ではない。たかだか百数十年前の事だ。

 この間にさまざまな過程を経て、日本人は自らの劣等感を克服してきた。バブル期の日本人は自らのアイデンティティが最も鼓舞されたことだろう。〈電子立国〉というキーワードで、過去のみじめな歴史観を拭い去れたと信じた人が、かなりの数にのぼったことだろう。

 今の日本人は、明治の文明開化期に当時の人が感じたようには、アメリカやヨーロッパ諸国に対して、文化や経済に遅れを感じてはいない。しかし、そうであっても、日本がまだまだ西洋に対して劣等感を感じる場面がある。たとえば、なぜオリンピックで日本は(アメリカのようには)金メダルをとれないか。なぜノーベル賞をとれる人材が(アメリカと比べて)少ないか。何故、何故、何故…。話は日本国あるいは日本民族全体の問題になる。そこには、日本には根づかず、アメリカには根づいている何かがあるはずだ。

 おそらく、アメリカやヨーロッパに留学して学んできた人々が感じる日本の後進性は、文化にはない。経済にもない。では、何か。合理的精神そのもの、そしてそれを培う風土にしかない。そう思い込んで〈アメリカ教〉に宗旨替えする人々が後を絶たない。彼らは日本に戻ってきては、さまざまな迷妄を世に広めている。そのほとんどは、留学時の体験から得た直観から来ている。「日本語は論理的ではない」というドグマは、「日本人は論理的思考ができない(苦手だ)」という実感とワンセットとなって主張される。時に「日本語」は、「我々は論理的思考が苦手だ」という事の最大要因(元凶)とされてきたのだ。

だから真なる敵がなんであるかと言えば、「日本人は論理的思考ができない」という点だ。これを克服しないかぎり、日本人は最後の最後まで劣等感をぬぐえない。逆を言うと、日本人がもしアメリカ人並みに「論理的思考」とやらを身につけ、苦手意識を解消できれば「日本語は論理的でない」という主張も時代遅れとなって、雲散霧消するだろう。いつだって歴史を変えていくのは新しい世代だ。旧世代の戯言に耳を貸さなくなるのも彼らなのだ。そういう意味で、僕はこの問題に対しては楽観的だ。

 ただし、「日本語は論理的でない」という主張は一人歩きしている。あらゆる場面で顔を出す。それをただすには「学校文法」の弊害を取り除くしかない。これは立場の違いこそあれ、多くの人の共通するところだ。この問題解決に、これまで多くの国語学者たちがアプローチしてきた。三上章などは在野の研究者の筆頭だ。その彼からして「日本語は論理的だが、西洋と比べて特殊な論理を持っている」という「誤った主張」をしている、と著者は言う。

 しかし、日本語はまぎれもなく正真正銘「論理的」だと主張するだけの著者の態度は、はっきりと「不毛」だと言える。そんなことを科学的に、あるいは数学的に証明したところで、何の解決も与えない。要は方法論こそが求められている。「日本語が論理的である」という実感を日本人全員に抱かせる方法論を求めて、三上やその後継者たちは戦ってきた。

 その方法論を学としてみがくためにあれこれ考えているというのに、著者は日本語が「補語+補語+…+述語」という形式を持つのは自明だと、独りごちている。その程度の文法理解では、学校文法(国語文法)の壁は打ち破れない。いわば「方法論」の取り沙汰に関しては、著者のような科学者(数学者)の出る幕はない。

 僕が期待していながらがっかりさせられたのは、「日本語の論理」の正体をもっと見極めた上で、その論理が日本人の思考法にどんな影響を与えたかに関する掘り下げがなかった点だ。日本語が「容器の論理」をもち、英語は「主体の論理」をもつ。これは比率の問題であって、どちらが優れているという優劣関係には還元されない。筆者はあっさりとそう断定するが、どうしてそう言えるのか。僕にはわからなかった。

 その違いが日本人とアメリカ人、あるいは日本人と西洋人との思考法の優劣を生んでないとどうして言えるのか。「日本語の論理」に責任の一端がないことを主張するために、粘り強い研究こそが著者に求められている。科学的(数学的)な証明と我々日本人の実感との間にある大きなギャップを埋めてもいない著者に、国語学者たちと同じ席について国語文法について語る資格があるとは思えない。

 さらに言えば、「小学校英語教育を廃止すべき」と主張する著者が論拠としている研究は、かなりあやしい。いや、研究そのものは尊重するし、注目に値する。問題は、研究から得られた「日本人は左脳で母音を聴き、イギリス人は右脳で母音を聴く」という定式を援用して、小学生には英語を習わせるべきではないと結論づけるところがあやしい。まだ日本人として未成熟の小学生の脳に与える悪影響は計り知れないというのが、著者の言い分だ。だから注意が必要だというのなら、タバコのパッケージに書かれた「健康のために吸いすぎに注意しましょう」と言う能書き程度には、耳を傾けよう。

 だが、この影響が日本語の崩壊をもたらすというプロセスは、科学的に検証されたものではない。言語表現はそんな単純なものではない。長きにわたる様々な要因で変化していくものだ。だから学問としての国語への批判は学者たちにまかせて、著者には科学者として彼らを援護していく立場をわきまえてほしい。
posted by アスラン at 20:16 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月16日

そして旧訳が残った 〜旧訳「そして誰もいなくなった(アガサ・クリスティ)」の意義〜

(本稿では、原文を参照した上で新旧の翻訳を比較しています。ただし、僕自身は素人に過ぎないので、解釈はあくまで僕の推測です。ご承知のうえでお読みください。)

(原文)In the corner of a first-class smoking carriage, Mr. Justice Wargrave, lately retired from the bench, puffed at a cigar and ran an interested eye through the political news in the Times.


(新訳)ウォーグレイヴ判事は、一等喫煙車の隅の席で葉巻をくゆらせていた。少し前に公職を退いた判事の目は、《タイムズ》紙の政治記事を追っている。


(旧訳)最近現職から引退したウォーグレイヴ判事は一等喫煙車の隅で葉巻をくゆらせ、《タイムズ》の政治記事を熱心に読みふけっていた。



 原文・新訳・旧訳の順に、「そして誰もいなくなった」の第一章第1節の冒頭の文章を引用した。原文は重文の1文構成だった。原文の構成どおりに訳しているのは旧訳のほうだ。新訳は、文全体が長くなりすぎると思ったのか2文構成になっている。前回の記事で指摘したとおりだ。

 さらに、旧訳では主語が「判事」に統一され、新訳では「判事」と「判事の目」に分かれる理由も、後半の使役構文をどう訳すかという方法論の違いから来ているはずという推測もドンピシャだった。でもそこから先がいけない。

 関係代名詞節だとおもった「最近現職を退いた」という部分は挿入の形式になっているが、ほぼ推測通りだ。だが、「lately retired from the bench」が後半の「判事」に掛かると予想した点については、大ハズレだった。しかし、そうなると旧訳と新訳の評価が逆転する事になる。

 旧訳は原文の構成通りに訳している。新訳は「公職を退いた判事の目」が政治記事を追っているだけで、「葉巻をくゆらす」のは単なる「(ウォーグレイヴ)判事」だ。同じ「判事」だからさしたる違いはないと思う人も多いかもしれないが、原文のニュアンスとは明らかに違ってくる。

 たとえば「おなかをすかせたポチは、たっぷりとご馳走にありつき、眠りについた。」という文だったならどうだろう。重文を2文に分け、「おなかをすかせた」という修飾を後半の文の「ポチ」に掛けてみる。新訳の手法が許されるのであれば、「ポチはたっぷりとご馳走にありついた。おなかをすかせたポチは眠りについた。」が、訳として正しい事になる。要するに原文に忠実だったのは旧訳のほうだった。新訳は、文章の論理的な構成に無頓着というしかない。

 もうひとつ係り受けの位置が食い違う文があった。そこもついでに見てみよう。

He went over in his mind all that had appeared in the papers about Indian Island. There had been its original purchase by an American millionaire who was crazy about yachting - and an account of the luxurious modern house he had built on this little island off the Devon coast.


 インディアン島(兵隊島)が3カ所出てくる。

 the papers about Indian Island.
 its original purchase
 this little island off the Devon coast.


ポイントは何かといえば、最後の「this little island …」と言い直している部分だ。最初の2つと比べると、最後の1つは、詳細な様子を情報として付加することで島を「説明しなおしている」。だから、この追加情報は正しいタイミングで公開すべきなのだ。なのに新訳では、

(新訳)ヨット好きの大金持ちのアメリカ人がサマーセット州の西どなり、デヴォン州の海岸沖にある、その小島を買い取った話から始まった。

のように、島の詳細が前倒しで明かされている。その一方で、一つ前の文に出てくる「インディアン島(兵隊島)」の言い換えである事が分かるようにと、律儀にも「その小島」と言う表現を用いる事で「…デヴォン州の海岸沖にある、その小島」という妙な日本語になってしまった。

旧訳では、

(旧訳)ヨット好きのアメリカの富豪が島を買い取って、このデヴォンの海岸に近い島に…邸宅を建てた記事が…

というように、理路整然とした訳になっている。ただし残念なことに、旧訳にも問題がある。original(発端)の記事は「島を買い取る」部分だけだ。「邸宅を建てた」は発端ではなく、その後の記事で明らかになる。この部分だけは新訳に軍配が上がる。

 前の記事で「旧訳は訳し残しが多くみられる」などと書いたが、これはまったくの誤解だった。「新訳は余計な説明が多い」というのが真相だ。

(新)イギリス南西部のサマーセット州 (旧)サマセット (原)Somerset
(新)サマーセット州の西どなり、デヴォン州の (旧)デヴォンの (原)the Devon coast
(新)三番目の新妻 (旧)三番目の妻 (原)the new third wife
(新)小耳にはさんだ (旧)(該当表現なし) (原)had it whispered to him
(新)ジョーナスという記者によれば (旧)「ジョナス」は (原)Jones
(新)きどった飾り文字で (旧)美しい筆跡で (原)with a flourish


 最初の2つは、新訳が原文にない言葉を補っている。何故こうまで説明的に訳さないと気がすまないのか理解に苦しむ。

 3つめの訳は、一見すると新訳のほうが正確だと思える。僕自身も原文で確認するまではそう考えていた。しかし原文が言いたい事は、3番目の妻が船酔いするたちだとわかり、新婚生活を始めるにあたって家を島ごと売り払ってしまったという事だ。「3番目の新妻」と書かれると、まるで新妻を1番目、2番目と数えているかのようだ。原文は直訳すれば「新婚ホヤホヤの、3番目の妻」だ。文全体から新妻なのは自明なので、旧訳のように「3番目の妻」と書けば済む話だ。

 「小耳にはさんだ」は、あっさりと新訳に1ポイント。

 「ジョナス(ジョーナス)」は、旧訳のほうがぶっきらぼうで不親切だ。これも新訳に軍配。[と思ったのだが、実はペーパーバック版の原書で確認すると「ジョナス」の部分はイタリック体になっていた。つまり、文の前後でイタリック体を用いている「うわさ雀」や「気象台」などと同じように、ゴシップ誌のコラムのタイトルらしい。ひょっとするとジョナスという記者の名前を冠にしたコラム名かもしれないが、新訳の「ジョナスという記者によれば」もそれほど正しいとは言えない。よって引き分け(2010/11/18追記)]

 最後の「with a flourish」の部分は、新旧ともに解釈が間違っているような気がするのは僕の気のせいだろうか?

(原文)and his correspondent signed herself with a flourish his ever Constance Culmington.


 「発信人(レディ・コンスタンス)は…署名していた」の訳はいいとして、問題は「with a flourish」と、直後の「his ever Constance Culmington(あなたのコンスタンス・カルミントン)」の関係だ。確かにflourishは「飾り文字」という意味にとれそうだが、「with a flourish 」で「仰々しく(麗々しく)」という成句になる。つまり「his ever Constance Culmington」という表現が仰々しいという意味なのではないだろうか。

 最後に、前回の記事でレトリック表現の是非をとりあげた部分の原文を載せておこう。

(原文)She had then been going to Italy to bask in the sun and be at one with Nature and the contadini. Later, he had heard, she had proceeded to Syria where she proposed to bask in yet stronger sun and live at one with Nature and the bedouin.

(新訳)…夫人はイタリアに出かけるところだった。自然と農民に囲まれて、日光浴をするのだと言って―そのあと、はるばるシリアまで足をのばした、という噂が耳に入ってきた。自然と遊牧の民ベドウィン族に囲まれて、さらに強い太陽を浴びるために―。
(旧訳)日光を浴び、自然と農民とに親しむために、イタリアへ旅行しようとしているところだった。その後、彼女はさらに強い日光を浴び、自然と遊牧の民とに親しむためにシリアへ行ったということだった。


 原文の「to bask in the sun」と「to bask in yet stronger sun」、「and be at one with Nature and the contadini」と「and live at one with Nature and the bedouin」のように、繰り返しの部分は同じ言葉遣いでそろえないとレトリックの意図がぼけてしまう。新訳は、まさに意図がぼけている。

 さて、こうなると「旧訳はお払い箱(用済み)」などといいかげんな事は決して言えない事がわかった。もう少しじっくりと吟味するとしよう。新訳のほうは、本当の評価はこれからだ。

(漁船「AND THEN THERE WERE NONE」号から送られた注意書き)
 そうだ、これから新訳で「そして誰もいなくなった」を読もうとしている未読の読者には一言ご忠告申し上げておく。巻末には訳者あとがきのかわりに、「永遠の目標」と題した赤川次郎の解説が附されている。しかし断じて、そこから先に読もうと思ってはいけない。

 クリスティと同業者の赤川次郎さんが解説でネタばらしをしているのか、などと邪推してはいけない。そんな無神経な事をミステリーの大家がなさるわけがない。そうではなくて、新訳版の文庫では、赤川次郎の解説を読もうとすると犯人がばれる仕組みになっている。「そんなバカな!」と思われる〈既読の読者〉は確認してみるとよい。くれぐれも言うが、未読の方はページをめくってはいけない。

 こんな無神経なレイアウトに気づかない編集部は、以後ミステリーを出すことを禁ずる(と言いたい)。
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2010年11月14日

新訳「そして誰もいなくなった(アガサ・クリスティ)」の意義

(本稿で書く翻訳の比較において原書は参照していません。あくまで僕の推測に従って書いていますので、ご承知のうえでお読みください。)

(新訳)ウォーグレイヴ判事は、一等喫煙車の隅の席で葉巻をくゆらせていた。少し前に公職を退いた判事の目は、《タイムズ》紙の政治記事を追っている。


(旧訳)最近現職から引退したウォーグレイヴ判事は一等喫煙車の隅で葉巻をくゆらせ、《タイムズ》の政治記事を熱心に読みふけっていた。


 それぞれ新旧の冒頭の一文だ。いくつかのことがわかる。まずざっと読むと、新訳も旧訳もそれほどの違いがないように思える。もちろん文体は違うが、伝えたい内容をどう伝えるかにおいては両者間に齟齬は感じられない。いや、それどころか共通する点が多い。

・ウォーグレイヴ判事
・一等喫煙車の隅
・葉巻をくゆらせ(る)
・《タイムズ》(紙)の政治記事


 たとえば「判事」は誰が訳そうが「判事」なのは理解できるが、「一等喫煙車の隅」だとか「葉巻をくゆらす」とか「政治記事」などの表現は、表記の選択も含めて微妙な差異があってしかるべきなのに妙に一致している。おそらく、新訳の訳者は旧訳を参考にしながら訳づくりをしている。というか、なるべく旧訳の印象を損なわないように配慮している(させられている?)のかもしれない。

 では、違う点はあるだろうか?

 新訳は単文の二文構成だが、旧訳では重文の一文構成になっている。想像するに原文は一文構成なのだろう。英文は構文的に延々と文をつないでいっても不自然ではないが、日本語で長めの単文を連ねていくと読みづらい。さらに後で指摘するが、関係代名詞節を含む英文の場合は、訳文はなおさら読みづらくなる。そこで新訳では文を区切ったのだろう。

 ここでわかるのは「翻訳の技術」の差だ。もちろん翻訳家自身の技量そのものを問うこともできるだろうが、僕が言いたいのは60才の年齢差がある二人の訳者の間には、よってたつ技術論に違いがあるという事だ。ある時期から歯医者は開業したての方が信頼がおけると実感した。それは新しい治療器具と治療技術の進歩があったからだろう。翻訳技術も時代とともに進歩しているはずだ。

 しかし、少し腑に落ちない点もある。新訳では単文の主語が変わるが、旧訳では「判事」に統一されている。統一できるからこそ重文のままにしておいたのだ。推測するに原文は、
(A)ウォーグレイヴ判事は…葉巻をくゆらせ、
(B)(判事は)自らの目に記事を追わせていた。

という構成だったのではないだろうか。

 すると、後半の無生物主語構文の扱いについては、直訳のままにはしないという点では新旧意見が一致していて、
 (新訳)判事の目は記事を追っていた。(使役構文を解体)
 (旧訳)判事は記事を熱心に読みふけっていた。(意訳)

という方法をそれぞれ選択した事になる。どちらが正しいという問題ではない。直訳は問題外にしても、なるべく原文のニュアンスが伝わる訳が読者に対して誠実であるというのが、現在の翻訳法のトレンドであるのならば、新訳は確かにトレンドに忠実だ。

 問題は他にある。関係代名詞節の扱いだ。
(新訳)少し前に公職を退いた判事は…
(旧訳)最近現職を引退した判事は…

 ここでようやく表現の違いが顕わになってきて僕を安心させる。原文ではリタイヤという英語かもしれないが、新訳の「公職を退く」というのは、主体が「判事」である事から来る是正表現だろう。

 不思議なのは、新訳では後半の文の「判事」を修飾し、旧訳では前半の「判事」を修飾しているという点だ。もし後半の「判事」にかかる関係代名詞節であれば、新訳のねらいが分からなくなる。「少し前に公職を退いたウォーグレイヴ判事は…」で第一章を始めてもいっこうに構わないように思えるからだ。

 逆に、後半の「判事」にかかるのが原文どおりだとすると、旧訳の修飾は「ありえない」と言わざるを得ない。語り手は、まず判事を読者に紹介する。判事は「葉巻をくゆらせている」。その判事は「少し前に公職を退いた」ばかりだ。なるほど、葉巻をくゆらしているのはリタイアからくる悠々自適な人生を楽しんでいるわけか。ところが、その後で「目は新聞の政治記事を追っている」。引退した身分に慣れていない雰囲気が出ている。つまり、「公職を退いた」という表現をはさんで、判事の心象描写が逆転する。

 ところが旧訳では、「現職を引退した判事」が「葉巻をくゆらせ」かつ「記事を熱心に読みふける」。さきほど指摘したように、前半と後半とでは判事の心象描写が逆転するのだから、そのまま順接でつなぐのはおかしい事になる。となると、やはり関係代名詞節は後半の判事に掛かっているとみた方がよさそうだ。旧訳は、一文構成にして主語を「判事」で統一した事から、訳者が構文に手を入れた事になる。さすがに、これはちょっとやりすぎではないか。

 なるほどこういうところに、以前から耳に入ってくる「旧訳は誤訳が多い」という主張の一端があらわれているのかもしれない。実は、ざっと1章の第1節を読んだのだが、とくにこれといった差異は感じられなかった。もちろん、その後もそうだという保証はないのだが、要するに旧訳では、訳者が原文を都合良く変形した上で訳文を作り上げているのかもしれない。これは、かつての「達人」と呼ばれる人によくみられることで、結構始末に悪い。「欠陥翻訳」シリーズの別宮貞徳さんも、どこまでが意訳でどこからが誤訳かの境界をみさだめるのは難しいと書いていた。

 これまで旧訳を何度も読んできたが、不都合を感じたことは一度もない。控えめに言っておきたいが、作者クリスティと旧訳の翻訳家との、いわばコラボレーションを読まされてきたからかもしれない。日本語としてこなれた文章であれば、こちらとしては原文通りだと信じるしかない。同じ訳者のレイモンド・チャンドラー作品(ハヤカワミステリ)が、原作のもつ雰囲気を台無しにしているという批判を見かけたが、訳文なのか翻案なのか判然としない部分が影響しているのかもしれない。

 それ以外に気づいた点では、新訳は「彼」「彼女」をほとんど使っていない。日本語では「彼、彼女」には特別な意味(ステディな関係)が付帯する事が多い。それを避けるには、名前か役職(判事)を連呼する。だが、新訳では連呼が目立つようにも感じられる。日本語では「判事は」と一度書けば、次の文で繰り返す必要はない。しかし新訳の方法論はきわめて正当だ。いわゆる直訳調からくるバタ臭さが少なくなっている。

 それから、驚いたことに10人の男女が集まる「インディアン島」が、新訳では「兵隊島」に変わっている。例の童謡も「10人のインディアン」ではなく「10人の兵隊」に変わる。当然ながら暖炉に置かれた人形も兵隊の人形だ。あきらかに差別用語への対処だろう。そもそもイギリスで初めて出版された時のタイトルが「Ten Little Niggers」だから、童謡も人形も「10人の黒人(ニガー)」だった。米国で出版されるにあたって問題となり、タイトルは「And Then There Were None」に変わり、黒人はインディアンに変わった。

 だが、今やPolitical Correctly(政治的に正しい)の波は世界中すみずみにまで行き届いてしまった。「インディアン」さえもが新たな問題を引き起こし、「ネイティブアメリカン」になおすように強制される。そうなる可能性もあったのだろうが、Wikipediaによると英国で出版された最近の「そして誰も…」では、10人の兵隊(soldiers)を採用したそうだ。日本の新訳も、それにならって「兵隊」「兵隊島」に変えたのだろう。理屈は分かるが、「インディアン島」(「島」の読みは「とう」がふさわしい)が「兵隊島」(こちらは「じま」だろう)になると、なにやら横溝正史の金田一シリーズのようなおどろおどろしさが一気に増してくる。

 さて、第一章第1節に限って気づいた違いをすべて言って終わろう。

 冒頭から3つめの段落(旧訳では2つめ)に目を移してみると、これも関係代名詞節の係り先が新旧で違っている。
(新訳)…デヴォン州の海岸沖にある、その小島を買いとった話から始まった。そして、そこに建てられたモダンな邸宅が、…
(旧訳)…島を買いとって、デヴォンの海岸に近い島に贅を尽くした近代邸宅を建てた記事が最初だった。


 こまかいところを見ていくと、新訳に比べて旧訳は訳し残しがあるようだ。

(新)イギリス南西部のサマーセット州 (旧)サマセット
(新)サマーセット州の西どなり、デヴォン州の (旧)デヴォンの
(新)三番目の新妻 (旧)三番目の妻
(新)小耳にはさんだ (旧)(該当表現なし)
(新)ジョーナスという記者によれば (旧)「ジョナス」は
(新)きどった飾り文字で (旧)美しい筆跡で


 旧訳の責任者、清水俊二は、映画の字幕翻訳家としても有名だ。近頃、字幕の翻訳の誤りについてとやかく言われている戸田奈津子の師匠にあたる。こまかいことにこだわらないという手際は、師匠譲りなのかもしれない。それはともかく、字幕という制約の厳しい表現形式でつちかった翻訳法が、清水訳(旧訳)には存分に発揮されているのではないだろうか。それが、一見するとアバウトにみえる訳し残しを生んだり、構文の大きな変形(翻案)を生んだりする。

 正確か正確でないかを誤訳の唯一の判断基準とするならば、清水訳は許せる範囲を逸脱しているような気がする。ここまで〈ざっくりと〉翻訳しているとなると、もう旧訳は用済みでいいんじゃないかという事になってしまいそうだ。だが、事はそう簡単ではない。

 青木久恵の訳(新訳)にも問題がないわけではない。清水訳の誤りは十分検討した上で修正しているようなので、あからさまな誤訳は少なくなった(と期待したい)。しかし一方で、日本語としてこなれているかどうか、あるいは格調の高さという点では、旧訳に劣る。たとえば次のような部分だ。

(新訳)そこに建てられたモダンな建築が、どんなに豪奢なものか
(旧訳)贅を尽くした近代邸宅を建てた


 新訳のバランスの悪さは一目瞭然だ。「モダンな邸宅」と、幾分くだけた言い方をしているのに対して「豪奢」のような堅苦しい表現は合わない。旧訳は全体的に堅めの表現で統一されていてバランスがいい。

(新訳)ロレンスさま…あなたさまのお噂を、最後に耳にしたのは、いつのこと…ぜひとも兵隊島において…こんなすばらしい所は、ほかには…積もる話が、たんと…なつかしいあの頃、…自然に囲まれて…日光浴…
(旧訳)おなつかしきローレンスさま…あなたの消息を聞かなくなってから、長年…ぜひインディアン島へ…非常に美しいところで…お話ししたいことがたまって…懐かしいむかしのことを…自然に親しみ…日光を浴び…


 かつての判事は浮き名を流した事があったのだろうか。魅力的な女友達レディ・コンスタンスからの手紙の文面が、新訳では、かつての使用人か乳母から届いたかのようなばか丁寧なものに化けてしまっている。

 また文章表現やレトリックの技量をあげつらえば、第一節の終盤で判事がレディ・コンスタンスとの思い出を回想する場面での描写に差があらわれる。

(新訳)…夫人はイタリアに出かけるところだった。自然と農民に囲まれて、日光浴をするのだと言って―そのあと、はるばるシリアまで足をのばした、…。自然と遊牧の民ベドウィン族に囲まれて、さらに強い太陽を浴びるために―。
(旧訳)日光を浴び、自然と農民とに親しむために、イタリアへ旅行しようとしているところだった。その後、彼女はさらに強い日光を浴び、自然と遊牧の民とに親しむためにシリアへ行った…


 全く同じフレーズを繰り返す事でレトリック(揶揄)が表現されている部分だ。原文の意図がきちんと反映しているのは旧訳のほうだ。新訳は原文を正確に訳そうとするあまりに、レトリックの部分を見落としている。

 さて、新訳を読み切るための準備は、さしあたってこれで十分だろう。訳の正しさにこだわるか、日本語の流れの良さをとるかという違いに注目して、読んでいきたい。ちなみに第2節の冒頭は、次のような文で始まる。

(新訳)他に乗客が五人いる三等車で、ヴェラ・クレイソーンは…
(旧訳)他の五人の乗客とともに三等車に乗っていたヴェラ・クレイソーンは…


 もし、これが本書の冒頭の一文だったら、おそらく僕は新訳に何も期待しなかったに違いない。

(漁船「AND THEN THERE WERE NONE」号から送られた告白書)
 実は今日になってようやく原文を見る機会ができたのだが、その内容は僕の思い込みをずいぶんと打ち砕くものだった。しまった…。もうちょっと待って原文とつきあわせてから記事にすればよかった。そうすれば、このような赤っ恥をかくこともなかったのに。

 いや、何よりも旧訳の清水俊二さんに謝らなければならない。いっそ墓参りして墓前に手をついてお詫び申し上げようか。なんと、「そして旧訳が残った」と言わざるを得ないのだ。よってこの記事は続く事になる。(つづく)
posted by アスラン at 06:53 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月08日

よく帰ってきたね、はやぶさ!(その1)

現代萌衛星図鑑 しきしまふげん(2010/7/18読了)
はやぶさ−不死身の探査機と宇宙研の物語− 吉田武(2010/8/27読了)
はやぶさの大冒険−小惑星探査機− 山根一眞(2010/10/11読了)
探査機はやぶさ7年の全軌跡−世界初の快挙を成し遂げた研究者たちのドラマ−(2010/10/30読了)


 今年の5月ごろから、Webの新聞記事がそわそわし出した。自宅で新聞をとらなくなって久しい僕は、新聞サイトサーフィンを日課としているのですぐに気づいた。小惑星探査機「はやぶさ」が7年ぶりに地球に帰還する事が「ほぼ確実になった模様」という妙な記事だ。短いながらの説明をじっくり読むと、どうやら「はやぶさ」(という名前も初耳だ)は、数々のトラブルに見舞われて地球への帰還が危ぶまれていたようだ。そんな事はまったくしらなかったし、第一「はやぶさ」という探査機が、はるか遠い宇宙に打ち上げられていたことすら知らない。個人的には結婚と子育てのちょうどあいだの時期に打ち上げられていた。新たな生活の組み立てに追われて諸事忙しく、見逃してしまったらしい。

 だがそもそも、僕は日本の宇宙開発・宇宙探査の現状についてどれほどの事を知っているのか。はなはだ心許ない。小学生の時に米国のアポロ計画が実行されて人類が月面に着陸した。計画の中盤で未曾有の宇宙事故が起きたが、なんとか回避するというドキュメントもリアルタイムで体験した。以来、宇宙はアメリカのもの、あるいはソビエトのものという思いがあった。NASA信仰はスペースシャトル・チャレンジャー号の事故が起きるまで続いたし、その後であっても、日本はNASAを頼って日本人を宇宙に送り出しているだけであって、自前の技術など何ほどのものではないのだ、と思い込んでいた。

 そういった自虐観が育つのを手伝ったのは、観測衛星用ロケットの打ち上げ失敗の記憶だ。いまでも覚えているのは、気象衛星ひまわりの後継機を載せたロケットの打ち上げに失敗し、さらには国内調達をあきらめて海外のロケット会社に切り替えても、またもや失敗するという悲惨な時期を知っているからだ。まだまだ日本の技術は未熟であり、米国やロシアに遠くおよばないと思い知らされた。しかし今回、吉田武の「はやぶさ」を読んで、日本が着実に積み重ねてきた宇宙開発の歴史を知った。自らの自虐観、いや日本人の多くが抱いてきたであろう自虐観が無用のものだとようやく納得できた。それも、はやぶさの活躍があったればこそだ。

 あれよ、あれよという間に2010年6月13日がやってきて、はやぶさは帰ってきた。いや、正確には、はやぶさは大気圏で自らの寿命を全うし、我が子にも等しいカプセルを地上へと向けて送り出した。幾多の荒波を乗り越えた〈小惑星探査機はやぶさ〉は、最終目的であるサンプルリターンの大成果を、いや大成果の一歩手前までを果たした。もちろん最後の一歩は、カプセル内から小惑星イトカワの痕跡が見つかる事で果たされる。それは人類にとっての「大きな一歩」となるだろう。だが、僕にとってそんなことは二の次だ。科学史上空前の成果よりも、今の最大の関心事は、一瞬の光跡を残して大気圏で燃えつきた「はやぶさ」の存在そのものにある。

 日本国中、いや世界中で盛り上がりを見せた「はやぶさの帰還」にはどんなドラマが隠されているのか。恥ずかしながらこの時点で僕はまったく何も知らない。ならばなんとしてでも、はやぶさのドキュメントを我がものとしたい。そう思っても、NHKでも民放でもいいが、真っ当な科学ドキュメンタリーは今にいたるまできちんと放映されていない(ように思う)。あの狂乱の6月13日周辺で特集されたものをのぞけば、NHKですら「はやぶさ」の7年間の完全ドキュメントを放映できていないからだ。できないのは注目していなかった証拠だ。おそらく日本のテレビ局がまとまったドキュメントを放送できないのは、明らかに準備不足だったからではないだろうか。

 ググって確かめてみると、NHKは帰還当日の生中継すらしなかったそうだ。自分の恥を棚上げするようだが、天下の国営放送ですらこの有様だったわけだ。「はやぶさ関連」の特集があれば、すべて見るつもりで番組表をなめるように確認しているが、今のところ年末の回顧枠に期待するしかない。寂しい状況だ。そこで、日本の宇宙開発で何がおきていたのか、はやぶさとは何か、はやぶさは何をし、僕らにどれほどのドラマを残してくれたのかを、自分でたどる事にした。

 帰還に合わせてさっそく店頭に並んだのは「はやぶさ−不死身の探査機と宇宙研の物語−(吉田武)」だ。6月の時点で図書館の蔵書検索でひっかかったのは、この本と「現代萌衛星図鑑」ぐらいしかなかった。「はやぶさ」の方は2006年出版なので、今店頭に並んでいるのは帰還までの顛末を追加した改訂版なのだと思い、川崎図書館で最新版の行列を待ち、立川図書館で数人待ちの2006年版を借りる事にした。でも先に入手できたのは「現代萌衛星図鑑」だった。

[現代萌衛星図鑑(しきしまふげん)]
 これは変わった本で、これまでに日本で打ち上げられた衛星すべてを萌え系少女に見立てたイラストがふんだんに盛り込まれている。表紙だけ見ると小中学生向けに書かれているようにも見えるが、実際には幅広い読者に応えられるように書かれた初心者向け衛星ガイドブックだった。年配のかたには不謹慎ではないかと怒り出す人がいるかもしれないが、僕はこの本から日本の衛星の歴史の基本をひととおり教えてもらった。それに著者は、衛星を萌少女に見立てる事を「はやぶさ」のプロジェクトマネジャー川口淳一郎さんに許可をもらっている。きちんと取材した上で実機の特徴をうまく少女のコスチュームにデフォルメした「萌衛星」は、見立てた以上の「わかりやすさ」を僕ら読者に提供してくれた。

 何よりも秀逸なのは、それぞれの衛星や探査機に託した関係者の思いが、擬人化された萌衛星に乗りうつるところだ。はやぶさのドキュメント本を何冊も読んできて意外だったのは、「必ず帰ってこいよ」「よくぞ帰ってきたな」「ありがとう、お疲れ様」のように、いずれの本もはやぶさに対してあたたかい言葉を掛けて物語を締めくくっている点だ。はやぶさを開発した担当者でさえそうなのだから、僕ら一般の人間が感情を込めて「がんばったね」と声をかけたくなるのは当たり前だろう。「萌衛星」の最前線であるはやぶさの物語がまさに進行形で書かれていることに、僕はしょうじき度肝を抜かれた。こんなドラマを僕は7年も知らずに過ごしてきたのか。なんたる事だ。

 萌衛星ならぬ萌探査機はやぶさは「こっちを振り向いてごらん」と地球から命じられて、おずおずと振り向く。そこには息をのむほどに美しい地球が見える。はやぶさが地球を離れる前に、姿勢を反転させて撮影した画像データを元に作られた美しいエピソードだ。そして、たどり着いたイトカワに着地してサンプルを回収した(と思われた)直後に、はやぶさは事故に見舞われる。着地したはずの時間の記憶をすべて失ってしまい、片手に握りしめた手の中身を「こ、怖くて見られない」と怖じ気づくはやぶさ。サンプルは回収されたのかされないのか、彼女自身も不安なまま、地球へとひた走る。この図鑑のクライマックスは、彼女(はやぶさ)の両親らしき男女が「帰ってくるでしょうか」「きっと帰ってくるさ、私たちの娘だもの」で終わっている。今目の前で起きているはやぶさの帰還が、よりいっそう胸に響いてきた。

[はやぶさ−不死身の探査機と宇宙研の物語−(吉田武)]
 次に読んだのは、この本。2006年に出版された内容をそのままに店頭にならべただけなので、図書館で初版を読んでもなんら問題ない。2006年時点では、はやぶさはイトカワへの着地・離脱後に一月ほど音信不通になり、イオンエンジンの不具合とあわせて地球への帰還予定が3年以上も延びる事が発表された時点だ。おそらく、この当時でもそれなりに話題になったに違いないが、僕は全く記憶にない。

 この本では、はやぶさの7年にわたるドラマが、さかのぼること太平洋戦争以前に日本が生んだ一人の天才的な科学技術者のドラマでもある事を詳しく紐解いてくれる。はやぶさが到達し、着陸し、サンプルを回収した(かもしれない)小惑星イトカワの名前の由来となる技術者・糸川英夫の生涯は、なかなかにドラマチックだ。戦時中に陸軍の戦闘機・隼の設計にたずさわり、戦後は東大生産技術研究所で独創的なペンシルロケットの開発を進めた。当時は馬鹿げていると揶揄されもした超小型ロケットが、着実にサイズを上げていき、たどり着いたのがラムダロケット、そしてはやぶさを宇宙に送り出したM-V(ミューファイブ)ロケットだ。タイトルにある「宇宙研」とは、東大生産技術研のロケット開発部門が文部科学省の所属に移されて誕生した「宇宙科学研究所」の略称だ。

 のちに宇宙研は、行政改革の一環として宇宙開発事業団と統合されて「宇宙航空研究開発機構(JAXA)」となる。しかし、はやぶさの成功を生んだ技術の多くが、宇宙研が体現してきた「逆転の発想(糸川)」によるものであることを僕は初めて知った。小型だからといって何もできないのではなく、小型だからこそ(そして予算が少ないからこそ)、アイディアと知恵で幾多の困難を乗り越えてきたという歴史があったのだ。そうか、僕の「日本の宇宙開発不信・不振」は知識不足にすぎなかったのかぁ。2006年に書かれたこともあって、その後の感動的なドラマが欠けているのが残念だが、はやぶさの技術解説や果たした成果の意義などがみわたせる良書だ。

[はやぶさの大冒険−小惑星探査機−(山根一眞)]
 あの「変体仮名の研究」で一躍名をあげた山根一眞さんがタイムリーで書き上げた、はやぶさドキュメントの決定版だ。日本の科学技術にも造詣が深い筆者ならではの先見で、はやくから取材に乗り出していた。計画段階で主要な関係者に話を聞いていただけあって、技術者たちとの信頼関係は抜群だ。例えば地球に帰還する途中で、メインエンジンである4機のイオンエンジンの最後の一つが故障して万策尽きたと思われたとき、出力機と中和機とを別々のイオンエンジンから利用するという離れ業を「ようやく試すときがきた」とエンジン開発者の國中さんが語る時なども、山根さんを前にリラックスしたムードで冗談口をたたきながら、会心の一手を用意できた事の奇跡をインタビューアーと一緒になって味わおうという雰囲気に満ちていた。関係者の生の声が聞ける(読める)臨場感は本書ならではだろう。

 はやぶさが見舞われた数々の危機当時に、日本では何が起きていて僕ら日本人は何をしていたのかを、著者はさりげなくドキュメントに挿入している。はやぶさの物語を日本人すべてが共有するための、著者会心の工夫だ。「あぁ、あのときだったのだな」と、僕らははやぶさや関係者たちの苦労を感慨深く振り返り、いままで知らずにいたことを深く恥じ入るのだ。

 はやぶさ帰還、カプセル回収までのルポは、もう著者の独壇場と言っていい。なにしろ日本では、降ってわいた「はやぶさフィーバー」に対して準備万端で報道できるテレビ局は皆無だった。オーストラリアのウーメラ砂漠では、カプセルが無事回収された事を報告する記者会見が開かれて世界中のジャーナリストが集まる一方で、日本からのジャーナリストがほとんど来ていないことに山根さんは呆れかえった。いや憤った。彼には、日本でのはやぶさの認知度の低さを嘆く資格がある。すでに書き上がった原稿をすぐにでも出したいという出版社に待ってもらい、はやぶさの最後を是非とも見届けねば、この本は完成しないと直感で知ったからだ。カプセルを分離したのちに一条の閃光をオーストラリア上空に残して燃えつきたはやぶさの最後の姿を、著者は確かに目に焼き付けた。

 はやぶさを追体験する僕の旅もこれで終わった。ダルマに両目が入った気がした。山根さん、ありがとう。

[探査機はやぶさ7年の全軌跡−世界初の快挙を成し遂げた研究者たちのドラマ−(ニュートン特別号)]
 最後は、雑誌ニュートンのはやぶさ特集号だ。はやぶさがもたらした成果を、僕ら素人がじっくりと手に触れる事ができる企画本だ。保存版として一冊買い求めたかったが、何しろ高い。お値打ち品だとは思うが、買えなかった。だからこそ、店頭で見つけて図書館で借りられるまでのタイムラグがじれったかった。

 ふんだんに掲載されたはやぶさからの画像。小惑星イトカワの全体像から、地表のさまざまな形状を映し出した画像。ひとつひとつは素人にとって何んの意味もない岩の塊にすぎないが、そこに名前が付けられ、整理され、詳細が説明されるだけで、宝物に見えてくる。地球スウィングバイの際に振り向いたはやぶさが写した地球の画像。イトカワへの着陸リハーサルで、思いがけなくイトカワの表面に映り込んだはやぶさ自らの影。そして88万人の名前が仕込まれたターゲットマーカー。どれもこれも文章で感動した内容が、現物となって目の前に立ち現れてくる。

 そして、そして…。姿勢を維持するための万策が尽きたはやぶさは、カプセル放出後に大気圏で燃えつきる運命にあった。技術者たちの依頼に応じて調査データを次々と地上に送り続けたのち、最後の最後にはやぶさが送ってきたのは自らが見た地球の姿だった。本雑誌の、いや今回紹介した4冊の本のクライマックスを飾るにふさわしい画像だ。何が感動的と言って、データを転送しきれず事切れたはやぶさの〈今際の一言〉が、この画像の中に永遠に封じ込められたのだ。

 本当にありがとう。僕も遅ればせながら言おう、「よく帰ってきたね」と。でも、はやぶさの感動は、まだまだ終わらない。

追記(2010/11/18)
 宇宙航空研究開発機構(JAXA)は、はやぶさから回収されたカプセル内に見つかった1500個の微粒子が小惑星イトカワ由来のものであることを11/16に発表した。地球外の天体から直接構成物の一部を回収したのは、あのアポロ計画で宇宙飛行士が採取した月の石以来の事だ。しかも小惑星からの構成物となると人類史上初だそうだ。

 この記事では書ききれなかったが、川口プロジェクトマネージャーが考えた「はやぶさ」の採点表は500点満点だった。通常、100点満点でも十分に意義ある実験が、主立ったものだけで5つもあり、500点満点の採点表なった。それがなんと満点で返ってきたわけだ。すごいぞ、はやぶさ。

本当に、まだまだ「はやぶさ」の感動は終わらない!
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2010年10月26日

数学の秘密の本棚 イアン・スチュアート(2010/10/22途中返却)

 返却期日がやってきてしまった。最初の最初しか読めず、本当に残念だった。読めなかったのは読まねばならない本があった事も理由の一つだが、もう一つ別の理由があった。翻訳がどうしようもなくダメダメだった。それで、読み通す気力が失せてしまったのだ。

 この本は予約してかなり待たされた。立川の図書館では蔵書になってないから、川崎市の図書館で予約してひたすら待ち続けた。書店に平積みになった本は、装丁がちょうど今のハロウィンにふさわしい秋の色に染め抜いてあり、パズルの本というよりはファンタジーの絵本のようだった。中身をさらっと見たときには単純に「面白そう」だと思った。この手のパズル本が結構好きなのだ。来るのを愉しみにしていた。

 ところが、届いた本を丁寧に読み出して唖然とした。翻訳が変だ。いや、変という範疇では収まらない。もう何がなんだか訳がわからない文章だ。最初はパズルの説明(つまりは著者の文章)が分かりにくい可能性も考えたのだが、そうではない。言い切ってもいい。ド下手な翻訳だった。すかさず訳者のプロフィールを見て、なるほどと思った。プロの翻訳家ではない。単に数学を生業としたどこぞの大学の教授だった。素人よりもたちが悪い。

 ひとたび翻訳のダメさに気づくとパズルに集中できない。四色問題の項などは、問題が提起されて解法が与えられるまでを数ページにわたって解説しているが、数学的説明があっているのか間違っているのかも判断できない。本来この手の本であれば、素人にもわかりやすい表現にしてかみ砕いて説明しているはずなのだが、原文がまずいのか訳文がまずいのか、とにかくわかりにくい。

 でも、第一問のパズルからして文章がダメなのだから、そこから見ていこう。誰だって、第一問を読んで、そのパズル本の善し悪しを判断するだろうから、それがダメダメだとなると、その後の中身は推して知るべしだろう。

 最初の問題は、例の「クレタ島のパラドックス」で有名な問題の変形版だ。クレタ人は嘘しかつかないので、島民かそうでないかを判別するにはどう問いかけたらいいかという、あれだ。このあまりに有名すぎるパズルが筆頭にくるのであれば、期待したほどの内容ではないのかもしれない。いや、僕などは無駄に生きてきたから知りすぎているだけで、この本を読みたがる若い読者には新鮮で面白いパズルなのだろう。

 そうは言っても、すれっからしの読者には何かオプションが必要だ。あるいは数学パズルというだけで敬遠するような読者に読んでもらうには、愉しんでもらうための仕掛けが必要だ。本書の著者はそう考えている。だからこそ最初の問題では「クワーク船長とミスター・クロック」が登場するのだ。どう見たって、「スター・トレック」のパロディ仕立てでパズルを愉しんでもらおうという意図は明白だ。ところが、訳者はそんな事まるでわかってない。いや、そんな事は些細な事だとでも思っているのだろう。

宇宙船インディフェンシブル号
惑星ノンコンポスメンティス
惑星の種族1:ベラシター
惑星の種族2:ギバリッシュ
種族の性別:ヘルマンドロフェミガイン
惑星の公用語:ギャラクシー語
惑星人の名前:アルフィ、ベティ、ゲンマ


 これらは、原文から手つかずのままにカタカナに移し替えられた単語の一部だ。もう、次から次と意味不明なカタカナが続く。でも「クワーク船長とミスター・クロック」がカーク船長とミスター・スポックをもじっているのだから、他のカタカナ語もなんらかの意味があるはずだ。このままではちんぷんかんぷんではないか。そう思って、変な話だけれどカタカナから英語のスペルを推測したり、あるいはカタカナそのままでググってみたりした。なんのことはない。ほぼすべてに著者のユーモアが込められていた。

indefensible 防御不可能な、弁解の余地がない
non compos mentis 心神喪失(正常な思考能力を欠く状態)での
veracity 正直
gibberish ちんぷんかんぷん
galaxy 銀河


 おそらく「ヘルマンドロフェミィガイン」は著者の完全な造語だろうが、原語の中にmanとfemiが隠れている。つまり「両性具有」をほのめかしているわけだ。

 ここまで下調べしたならば、この第一問は誰でも楽しめるだろう。シールドで防御されたエンタープライズ号とは似ても似つかぬボーギョフノー号だし、二人が転送された惑星はシンシンソーシツ星なのだ。そこの住人はバカショージキィとチンプゥカンプゥ。どちらが嘘をつくかは分かってもらえるだろうか。なぜ訳者は、素人の僕にもできる簡単な手間をかけなかったのだろう。細かい事がわからなくても、物語の流れとパズルそのものがわかればいいじゃないかという人もいるかもしれない。だが呆れたことに、訳文では物語のオチすら間違っている。

 クワーク船長は惑星の住人3名と出会う。この惑星にはベラシター(正直人)とギバリッシュ(ちんぷんかんぷん人)の2つの種族しか存在しない。名前の通り(というのは僕の下調べによるとだが)、ベラシターは正直に答え、ギバリッシュは必ず嘘で答える。彼らに質問しようとして、クワークは「嘘をつかれるかもしれない」と逡巡する。それにミスター・クロックはすかさず「論理的です」と答える。この場合、ギバリッシュは「必ず嘘をつく」のは自明なので、「論理的」もへったくれもない。クロックは、単に「道理です」とか「その通りです」と相づちをうったに過ぎない。ただ「logical」と言ったことだけは訳文から確かなようだ。

 いくつかの質問を終えたクワークが、3人がどちらの種族であるかわかったと言うと、さしものミスター・クロックも「どうわかったのか」と船長に聞き返す。そこでクワークは得意げに「論理的にと言ったのは君じゃないか」と言い返して終わる。わざわざパロディに仕立てたのに、この物語のどこが面白いのだろう。そもそも「論理的に考えろ」などとクロックは一言も言っていない。せいぜい「(船長のお考えは)論理的です」と相づちを打ったぐらいだ。

 実は、スター・トレックを見たことのある人ならば、このオチはおなじみのシチュエーションなのだ。クロックの元ネタのミスター・スポックは、論理的にしか考えられない超かたぶつな民族の一員で、感情的な船長といつも対立している。それがわかれば、この最後の一文は「日頃から論理的であれと言っているのは、君じゃないか」となるはずだ。思わず読者はニヤっとするところだ。どうやら訳者はスター・トレックを見たことがないらしい。

 次は「毛むくじゃらの犬」というタイトルのパズルだ。これまた昔からおなじみの遺産分配の問題だ。親が残した遺産は、価値のある生き物17頭。それを三人の息子が2分の1、3分の1、9分の1づつ相続する。このままだと生き物を切り刻まないことには、遺言通りに相続できない。さて、どう解決すればよいか、というパズルだ。

 ところが本書ではわけのわからない話が続く。ランシャロット卿は旅の途中、どしゃぶりに会い、エセルフレッド公爵の城に雨宿りを求める。あきらかに行きずり、通りすがりの男だ。公爵の美しき夫人ジンジャベールは悲しそうに涙を流しているところから、物語はおもしろくなる。はずだ…。

(魅力的な女性に目がない)ランシャロット卿は、ジンジャベールの涙に一瞬の輝きを見て取った。


すると、夫である公爵が、こう考える。

この男と妻を密会させないためには、やつが一番耐えられないことをさせるしかない。


 おかしいと思うでしょう。なぜ公爵は、まだ不倫関係にもなっていない男に、こんなにも憎悪を抱いているのか。しかも、この文の流れだと、どちらかと言えばモーションをかけているのは妻のジンジャベールとしか思えない。だが、おそらくは違う。

…ランシャロット卿は、ジンジャベールの涙にひとめでひきつけられた。


であろうし、そうであれば、公爵の憎しみは、

この男が万が一にも私に隠れて妻に逢おうなどと思わないように、少々こらしめてやろう


ぐらいのところだろう。

 叔父の遺言に3人のいとこが困り果てている事に、夫人は頭を痛めていると語り、叔父の遺産が17頭の「乗用犬」(へんな言葉だ)だと説明する。ただし「この目で見たことはありません」と夫人は言う。ここで公爵が「美人には似合わない」と「きっぱりと」言う。すかさずランシャロットは「話を逸らそう」とする。いったい何事が起きているのか。なぜランシャロットが話を逸らしたかと言えば、公爵が夫人に当てこすりを言ったからに違いない。

淑女のおまえが乗ろうたって似合わんぞ。

ならば、公爵の内心が伝わるだろう。

 続いて変な文章が、ぞろぞろ出てくる、出てくる。

エルプス卿は3人の息子に遺産を相続しました。


 ご冗談でしょう。どうしたって「遺産を相続する」のは3人の息子であって、死んだ当人が相続できるわけがない。「遺産を残した」が正解。

「犬を切り分けるわけにはいきません。男らしい騎士殿(グッドナイト)」と、夫人が言うと、ランシャロットは、「グッドナイト」という言葉に身をこわばらせたが、別に他意もなければ冗談でもないと考えることにした。


 何を言いたいのかわからず、妙な雰囲気だ。ナイト(騎士)とナイト(夜)が発音上では区別が付かないことからくるジョークのはずだが、訳文では伝わらない。洒落が訳しにくいのは当然だが、なんの洒落を言ってるかぐらいは伝わらないといけない。訳者はわかっているのか、あるいは伝える技術がないのか。

「…。ゆうかんな騎士よ(グッドナイト)」
「おやすみなさい(グッドナイト)」という一言にランシャロットは少々緊張したが、夫人が自分に対してその気があるわけでもなければ、洒落たつもりで言ったのでもない、と考える事にした。


 その後、夫人の飼い犬1頭を加えれば遺言が実行できると公爵が主張し、そのためには中庭の犬をエルプス卿の城につれていかねばならなくなった。ランシャロットがその役をかってでる。もちろん夫人との逢瀬がかなうのではと、淡い期待を抱いてのことだ。

実際のところ、ランシャロット卿が巨大な犬に乗ってエルプス卿の城へ向かうことはなかった。遺言が実行されていないことは分かっていたけれど。ランシャロットは自分の馬にまたがり、怒りをほとぼしらせながら荒れ狂う暗闇に向かって走り去った。残されたジンジャベールは、満たされなかった欲望に苦しんだ。


 意味不明な事ばかりだ。どうしてこんな次第になったかと言うと、夫人が夫にささやいた言葉(「聞こえよがしにささやいた」というのだが、いったい聞こえるように言ったのだろうか、それとも聞こえないようにささやいたのだろうか?)のせいだ。ところが回答に用意された言葉がばかげている。ばかげたオチだからではない。訳が舌足らずで、夫人の内面が伝わってこないからだ。

 夫人ははたして騎士が思いを寄せるのを知って、自分も浮気心をくすぐられていたのだろうか?「満たされなかった欲望に苦しんだ」と書かれていれば、読者は、夫人が恋しくて身もだえしたのかと思うではないか。

実のところ、ランシャロット卿が巨大な犬にまたがってエルプス卿の城へ向かう事は、ついに果たされなかった。自分がいかなければ、遺言が成立しないことは分かっていたけれど。ランシャロット卿は…走り去った。残されたジンジャベールは、自らの望みが絶たれて思い悩んだ。


 ポイントは「欲望」が単なる「いとこの遺産問題の解決」に過ぎないという点だ。「満たされなかった欲望」というのは大げさすぎる。夫人が騎士に対して他意があるわけではない。だからこそ、解答に書かれた夫人の一言が騎士を打ちのめす。

 「真なる騎士とお考えならば、こんな犬に乗れなどとはあなたもおっしゃらないでしょうね」

 どの問題をとっても訳文がでたらめなので、肝心のパズルに集中できないのは分かってもらえるだろうか。なんとここまでで20ページしか読んでいないのだ。いっぱいありすぎて紹介しきれないので、もうやめておく。一番最後に読んだ「πの値を法律できめる」(P.25)の訳があまりに秀逸なので、簡単に触れておこう。

 アメリカのある州で、かつて「πの値」を決める法案を州議会で可決しようとした。8つ記載された値はすべて間違っていた。そのまま通れば数学にとっては歴史的な大きな過ちになるところだったが、幸いながら可決されなかった。その部分がこう訳される。

この法案は可決されず「無期限先送り」になった。今でも法案としては生きているらしい。……反対する理由もなく、法案は下院を通過した。全会一致だった。

 いったい「πの値を決める法案」は先送りされたのか、可決されたのか。そもそも「無期限先送りになった」と言った直後に「法案としては生きている」という訳もわかりにくい。日本では可決されなかった法案は、先送りされることなく廃案になるからだ。だから「be alive」の直訳だかなんだかしらないが、日本人に馴染みのある訳にするならば、「廃案にならずに継続扱いになっている」ぐらい説明的に訳してもらわないとわかりにくい。

 いや、それは目をつぶるとして、やはり先送りなのか、全会一致なのかどちらなんだろう。ああ、そうか、全会一致だったのは別の「πに関する法案」だったのだな。もうちょっとちゃんと読めばよかった。そこにはπの値が記載されていて、正しい値が含まれていたと書いてあった。やっぱり後半は別の法案の事を指していたのか。なるほど、なるほど。ところが、さらにその後に、「下院は全会一致で通過したが、結局は前述したとおり『無期限先送り』になった」と書かれている。あれっ?やっぱり最初の法案だったのか。でも、そうなると今度は法案に記載された「πの値」は正しかったのか、正しくなかったのかの辻褄が合わなくなる。

 きっとどこかに訳者の誤訳が隠されているに違いない。でも、もうタイムリミットだ。図書館の前に着いてしまった。この本の続編が出ているので、今度は待たされないように早めに予約しようと思っていたのだが、なんと引き続き同じ翻訳家が訳しているとわかって、いまだに予約していない。この本も、続きを読むかどうかは「無期限先送り」とさせてもらおう。なにしろ、読み出せばいちいち訳文に引っかかってパズルに集中できないに決まってるからだ。
posted by アスラン at 12:24 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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