カテゴリ記事リスト
サム・ホーソーンの事件簿(1) エドワード・D・ホック(2004/07/09読了)(12/08)
グラスホッパー 伊坂幸太郎(2004/11/21読了)(12/06)
文学と非文学の倫理 江藤淳/吉本隆明(2011/11/29読了)(12/05)
白き手の報復 渡辺淳一(2004/07/06読み終えず)(11/29)
ABC殺人事件 アガサ・クリスティー(2011/10/12読了,再読)(11/26)
九月の四分の一 大崎善生(2005/05/12読了)(11/24)
贈る物語 綾辻行人=編(2004/06/24読了)(11/18)
日本文学盛衰史 高橋源一郎(2005/05/04読了)(11/16)
オリエント急行の殺人 アガサ・クリスティ(2011/10/12読了,クリスティ文庫新訳)(11/14)
夜のピクニック 恩田陸(2005/05/08読了)(11/13)
アルジャーノンに花束を ダニエル・キイス(2005/4/29読了、再読)(11/10)
スタイルズ荘の怪事件 アガサ・クリスティ(2011/10/23読了,再読)(10/31)
青列車の秘密 アガサ・クリスティ(2011/10/19読了)(10/26)
別冊図書館戦争1 有川浩(2008/7/20読了)(07/28)
魔女の隠れ家 ディクスン・カー(2011/5/10読了)(06/30)
数学の文化史 モリス・クライン(2011/6/12読了)(06/22)
オタク川柳―人はみな何かしらかのオタクです 「オタク川柳」選考委員会(2011/6/12読了)(06/16)
図書館革命 有川浩(2008/1/19読了)(06/14)
図書館危機 有川浩(2007年3月20日読了)(06/13)
図書館内乱 有川浩(2006年12月25日読了)(06/10)

2011年12月08日

サム・ホーソーンの事件簿(1) エドワード・D・ホック(2004/07/09読了)

 ホックの短編をまとめて読むのは初めてかもしれない。高校時代にはエラリー・クイーン好きが高じてEQMM(エラリー・クイーンズ・ミステリー・マガジン)を毎月買ってはダラダラと読んでいた。ホックは当時のEQMMの常連作家だったので、タイトルは記憶してはいないが、何編か有名なものは読んでいると思う。クイーン(フレデリック・ダネイ)がホックの短編作家としての才能を認めていたので、クイーンつながりでお付き合い程度に読んでいた。好きな作家かと言えば、よく分からない。どうしても短編だけだと作家としての関心が薄くなってしまう。長編は一作も読んでいないと思う。なので、このように不可能犯罪だけがならんでいる短編集を読んだ読後は、実に爽快だ。

 いまちょうどホームズを読み直しているところなので、なおさらホックの生み出すストーリーの巧妙さが際だって感じられる。ドイルの場合、やはり語り口のおもしろさに重点があり、本格推理というよりは奇譚、伝奇といった物語に作者の関心がある。一方、ホックはクイーンやチェスタトンといった本格ミステリーの作家たちの洗礼をうけているため、不可能犯罪にこだわっているので僕らミステリーファンの期待を裏切らない。

【有蓋橋の謎】
屋根付きの橋に入った馬車が途中で消失してしまう。あざやかなミスディレクション。

【水車小屋の謎】
 水車小屋に住み着いた作家が作品を書き上げて町を去る夜に焼死体となって発見される。
 しかも汽車にのせたはずの作品が金庫から消えてしまう。冒頭から手がかりがある。その大胆さ。

【ロブスター小屋の謎】
 ロブスター小屋で奇術師が脱出を試みるはずが、密室の中で殺される。

【呪われた野外音楽堂の謎】
 野外音楽堂で黒人の幽霊に町長が刺殺される。しかしマント姿の幽霊はみんなの前から忽然と消える。

【乗務員車の謎】
 宝石をいれた金庫がある乗務員車で、密室状態で乗務員は殺害され、宝石が盗まれる。

【赤い校舎の謎】
赤毛の少年が校庭のブランコから誘拐される。先生がちょっと目を離しただけなのに、周囲のどちらにも少年がつれさられた痕跡がない。

【そびえ立つ尖塔の謎】
 協会の尖塔の頂上で牧師が刺し殺され、近くにはジプシーの男が。しかし彼は殺していないと言う。

【十六号独房の謎】
 有名な「13号独房の問題」と同様、独房からとらえた容疑者が消え失せる。しかも独房はきちっと鍵がかかったまま。

【古い田舎宿の謎】
ある渡しの近くに宿で強盗が押し入り、主人が銃で撃たれ、犯人は裏口から逃走。
目撃者は使用人の青年。だか裏口には内側から鍵かかかっていて、青年に狂言殺人の容疑がかかる。

【投票ブースの謎】
床屋の奥にしつらえたカーテンで仕切られた投票ブースに入った男が出てくるなり刺されて殺されている。しかし凶器も犯人の姿も見あたらない。見事な密室の謎。

【農産物祭りの謎】
 祭りの最中に一人の男が行方不明に。しかも100年後にあけるというタイムカプセルから男が見つかる。

【古い樫の木の謎】
 飛行機からパラシュートで飛び降りた男は、針金で絞殺されて樫の木にひっかかる。
(2005/5/17初出)


[追記(2011/11/17)]
 僕の好みは「有蓋橋の謎」とか「そびえ立つ尖塔の謎」などだろうか。書評を書いた当時は「事件簿1〜2」までだったが、今や「事件簿6」まで出ている。いやぁ、書きも書いたりという感じだ。カーのようなガッツリした味わいではないが、一つ一つが粒ぞろい。そういえば、その後「密室物」の作品を集中して読もうと思って、まず手本としたのが「有栖川の密室大図鑑」なのだが、本作の中の「投票ブースの謎」がラインナップされている。今トリックを思いだそうとして、また忘れてしまった。書評で「見事な密室の謎」と書いているのだから、そりゃ見事な作品だったはずだ。やれやれ、また読み直さねば…。
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2011年12月06日

グラスホッパー 伊坂幸太郎(2004/11/21読了)

 村上春樹を最近読みだすまでは、〈春樹チルドレン〉という言葉の意味がわからなかった。今も正直よくわからないけど、この小説に限って言えば何故か村上春樹を強く意識した。

 著者・伊坂の長編小説「ラッシュライフ」と同じように、今回もそれぞれの物語を抱えた主人公たち一人一人の視点で、同時進行のドラマが始まる。やがて一つに絡まる事を予感させながら、まるで映画を観ているかのように一つ一つのシーンが無造作に切り替わっていく。ただし「ラッシュライフ」では並列に進行するドラマをさばく手際に関心させられたが、今回は少々勝手がちがった。

 何故かなぁと考えたが、おそらく展開するストーリーのひとつひとつがあまりに隠喩的だからなのではないだろうか。なかなか話の先が見えてこないじれったさがあり、しかも話が一向にミステリーらしくない。らしくないのは、「蝉」だとか「鯨」といった村上春樹ワールドならば馴染み深いようなキャラが、それぞれに何かの役割を作者から受け持たされているからだ。ミステリーと言えば言えるかもしれないが、SF的な世界観が隠喩の裏に隠されているともとれる。そして、最後の最後にならないと隠喩の意味は分からない。

 一方で春樹作品の語り手である「僕」に相当する人物には、「鈴木」というきわめて平凡な名前が与えられている。鈴木は、不在の妻の言葉に従って物語の展開をうながす狂言回しの役を引き受けている。まるで、村上春樹の作品で名前も与えられずに無造作に登場する「僕」のコピーである事を、あえて隠す事なく表明しているかのようだ。

 いや、そんな単純な事ではないかもしれない。この「僕=鈴木」の仕掛けには、もっと伊坂流のレトリックの存在が感じられる。ちなみに「グラスホッパー」は角川書店のサイトでも立ち読みできるので、ちょっと調べてみよう。ああ、なるほどなぁ。作中の「鈴木」を「僕」に置き換えたところで、なんの違和感も感じられない。一人称単数と三人称単数の厳然たる違いがあるはずなのに、すんなりと置換が可能だ。要するに村上春樹の「僕」は実は一人称ではないという事なのだろう。それをさっさと「鈴木」というありふれた記号に置き換える事で証明してみせた伊坂にとって、この作品はお遊びであると同時に、一つの実験でもあるようだ。

 この小説の圧巻は、残り三分の一くらいになって訪れる。互いに引き付けられていく神(著者)の意志または悪意が感じられるようになるからだ。ラストの一種独特の爽快さは著者ならでは、だ。それは、言ってみれば村上春樹が30年かけてようやく手に入れる事ができたものだ。それを春樹チルドレンの一人がやすやすと手に入れてしまっている。そして、それが若さというものかもしれない。
(2005年5月24日初出)
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2011年12月05日

文学と非文学の倫理 江藤淳/吉本隆明(2011/11/29読了)

 「批評家になるとはどういうことか」という書き出しで評論『小林秀雄』を書き進めた江藤淳は、又、小林本人も考えもしなかったぐらい「批評家になる」という事を考え続けた人だったかもしれない。そのことだけが、彼の文学者としての倫理であって、その姿勢は、なりふりかまわず対象を追いつめ、すきあらば追い越してやろうという好奇心と野心の塊である吉本隆明にも、思いもおよばないことだったのではないだろうか。

 江藤淳と吉本隆明との対談は計5回行われた。僕は最後の2回はよく知っていて、記憶している。特に第4回の対談は、江藤の近著に対して吉本が「江藤さんともあろう人が、こんな題材(戦後GHQによる小説の検閲があった事実を究明した事)にかかずらう必要はないのでは?政治学者にまかせればいいことだ」という迂闊な一言に対して、「あなたもずいぶんと楽観的な人だ」と言い放つやりとりがあり、吉本が気圧される場面が印象的だった。

 このやりとり故に僕はずっと、江藤と吉本との間には、かなり以前から文学上あるいは思想上の対立があり、はた目から見ると保守の論客と左翼の論客との果たし合いを、興味深く見守る下世話な観客たちを当て込んだ企画なのかと思っていた。ところが対談を通して読むと、吉本が『言語にとって美とはなにか』で江藤の『作家は行動する』を評価し、一方的にライバルとみなしていたという見方は、僕の思いこみにすぎない事がはっきりした。

 江藤は、8歳年上の吉本を人間としても文壇の先輩としても敬意を払っているし、なによりも吉本の著作にも注目して作品もよく読んでいる。つまりは第5回の対談でも結論づけているように、小林秀雄には生涯存在しなかったカウンターパートナーであることを彼らは認めあっていた。その意味で、やはり第4回における前述のやりとりは、かえって興味深い。いわば、吉本はあそこで江藤淳の「逆鱗」に触れた事になるからだ。

 ヘーゲルやマルクスの洗礼を受けた吉本には、文学における個人の問題を取捨すると、次には「人類としての思想的課題」が立ち現れてくるとみていた。それは吉本からしてみれば、生涯国外に出ることなく、国内において吹き飛ばされそうな掘っ立て小屋で外圧に耐え抜いた〈不屈の人〉の理念であった。一方で、江藤は吉本とは一世代の差があり、直接の戦争体験を持つことなく、リベラルな保守階級の生活と理念におさまって、海外に赴く事に過大な思い入れもなければ、過小な評価も下さなかった。江藤が吉本を「楽観的」と断罪したのは、アメリカでもヨーロッパでも、どこへ出て行こうとも個人の問題の後には「人類」ではなく「人種」の問題が待ち受けているという実体験から来ていた。彼にとって人種的課題を乗り越える事は不可避であって、人類などというものを江藤は信じないとまで対談で言い切った。

 このクリティカルポイントを除けば、細かな点は別にしても、お互いの意見は非常に近いのではないかとさえ思えてくる。きっと、互いに考え方や生き方に対する敬意が存在するからに違いない。第5回の締めくくりにおける、まれに見る意見の一致は、「死を繰り込んだ思想」という老年期に2人が手に入れた考えを共有している事による。まるで2人の対談はかけがえのない茶飲み友だちとの会話のような趣きがある。言ってよければだが…。

 もう一つぜひ言っておきたい事がある。江藤淳が自殺してしまった現時点から見て、対談における彼の発言および一挙手一投足が、限りなく痛ましく感じられるという点だ。通して読めば読むほど、あたかも当初から彼の人生には「自ら生命を絶つ」事が予定されていたかのように感じられてならない。それくらい江藤にとっては生と死の境界が脆弱だったのではないだろうか。生活者として諸事を細かな点まで気に掛けずにはおれないという批評スタイルは、人生を「何事かに賭ける」という勢いからはほど遠い。彼にとって思想は、生き抜くためのすべではなく、ただ日常を生活するための指針でしかなかったのかもしれない。

 急に僕は江藤淳の『妻と私』と、それに附された吉本隆明の追悼記を無性に読みたくなった。
posted by アスラン at 19:48 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月29日

白き手の報復 渡辺淳一(2004/07/06読み終えず)

 かなり昔にテレビで見たドラマ「きりぎりす」の原作が渡辺淳一の「少女が死ぬ時」という短編だと知って、それが入っている短編集を借りて読んで見る事にした。作者の渡辺淳一は「失楽園」や「白い影」などに代表される恋愛小説作家であると同時に、評判によると自分の作品を自画自賛する事にかまけるような人間であると聞いて、あまり読んでみたい作家ではなかったのだが、あのドラマを見た当時、子供心に非常に心を揺さぶられる程の衝撃を受けた事は今でも鮮明に覚えている。だから、つい読んでみる気になった。

 「虫かごのキリギリスが鳴いたら蘇生術をやめる」という選択は、残酷でありながら人間が人間の死をもてあそぶ事の対極にある。医者は神ではない。しかし同時に心ない機械でもない。ならば人の死は誰が決めるのか。TVドラマは、問いかけの感傷的な部分を原作からいくらか増幅させた形で提供してみせた。

 蘇生術を施すベテラン医師に緒方拳。人の死に直面してたじろぐ新人医師に若き日の奥田瑛二という、今から考えるとベストな配役だった。蘇生を止め死亡を確認して空しく病院を後にする緒方を、外に迎える妻は倍賞千恵子だっただろうか。子供心にインパクトがあり、伝わるものも大きかった。

 一方、原作はただただ冷静だ。ドラマチックな感傷は若手医師の呑み込んだ一言に圧縮されてしまう。どこにも山場はない。これは感傷的に読むものではない、現実だ、と突き放す作者の顔が見える。他2編読んだが、救われない医療の現場の醜さを切り取っているものばかり。これは一体何なんだろう。
(2005/5/15初出)


[追記(2011/11/29)]
 僕が見たドラマは、1981年11月14日にフジテレビで放映されたもの。制作は関西テレビで、その年の第36回芸術祭優秀賞を受賞している。さもありなん、だ。81年というと19歳か。子供ごころに覚えているというのは都合のいい記憶の改ざんで、大学に入った年だったか。そうか、そんな頃だったので大人の分別は持ち合わせていただろうが、前年、前々年の大病を身のうちに抱え込んだ青年としては、ひとしお心に響くものがあった。それにしても素晴らしい脚本と演出だった。
posted by アスラン at 19:00 | Comment(2) | TrackBack(1) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月26日

ABC殺人事件 アガサ・クリスティー(2011/10/12読了,再読)

 中学の国語の授業で作らされた読書ノートは、本のタイトルとページ数、そして短めの感想を書くことになっていた。感想は一行程度で、長く書くと偏屈な国語教師からおしかりをうけた。目的は本を読む習慣をつけることであって、感想よりも読んだ本のページ数の累計が重要だった。

 感想を書くことにしばられるな、という意図が込められているとしたならば、なんとも素晴らしいアイディアだ。当時の僕には、やはり本を読む事には、どこか強制されているかのような実感が伴っていたからだ。本を読むのは好きだったが、感想を書かされるのは苦手だった。

 高校に通うようになってからも、読書ノートにタイトルを控える習慣は続けた。イヤだった感想は、さっさと取りやめてしまった。あの国語の教師には、なんで日付をつける書式にしておかなかったのかと、いまさらながら不平が言いたい。高校1年から読んだタイトルは切れ目なく並べられ卒業まで続いたが、いつ頃に読んだのかははっきりとはわからない。位置で判断するしかない。

 高校では思う存分好きな本が読めたから、エラリー・クイーンや、その他の海外名作ミステリーを読みまくった。その中に当然ながらクリスティの代表作の一つ「ABC殺人事件」も入っている。当時はクイーンの初期作品への強い執着があったので、ハヤカワ・ミステリよりも創元推理文庫を読む比率が圧倒的に高かったように思う。だから「ABC…」も創元推理文庫で読んでいるはずだ。そこらへんの情報は読書ノートには一切書かれていない。

 創元推理文庫の「ABC…」は、2003年に現在流通している深町真理子訳に改められているので、今回読んだ深町版で当時の印象を正確に再現できるわけではないだろうが、ABC順に無作為に選ばれた名前の持ち主が殺されていくという、今でこそありきたりになってしまった連続殺人鬼(シリアルキラー)を描いたストーリーに、当時としてはかなり意表を突かれたように思う。ただし、当時はクイーン式の緻密な演繹推理でないと満足できなかったのも事実で、ポアロが関係者の会話や状況証拠から真実を見抜いていくという「なしくずし」の解決方法に対する不信がどうしてもぬぐえなかった。だから、本作もストーリーには相応の興味を惹かれたにも関わらず、解決は物足りないと感じたような気がする。

 しかし、今回再読してみると、一見無関係に見える3件の犯罪に共通するものが、実にさりげなく、だがひとたび気づいてしまえば忘れようがないほど際だった部分に配置されている事に驚かされた。こういう伏線の折り込み方へのクリスティらしいあざやかな手際については、以後シリアルキラーものを書く作家たちのお手本になっただろうと思う。

 もう一つ言っておきたい事がある。連続殺人ものというのは、前半〜中盤にかけて「動機無き無作為な殺人」というストーリー展開のサスペンス性に、著者の主眼があるはずだ。だから、このジャンルでは有能すぎる探偵の出る幕はない。いや、早々と見抜いてしまわれては作者としても困るわけだ。そのため、本作でもポアロは最後の最後まで「灰色の脳細胞」の輝かしきひらめきを封じられている。まるで「殺されるだけ殺された後で初めて気づく」と揶揄される事が多かった金田一耕助の姿が透けてみえてくるではないか。こういった点からも、日本の作家が学ぶところが多かったスタンダードな作品と言えそうだ。
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2011年11月24日

九月の四分の一 大崎善生(2005/05/12読了)

 「聖の青春」は強烈な一冊だった。羽生という「時代に選ばれた」存在の陰で、選ばれずにあっという間に時代を駆け抜けた青年・聖。無垢であるがゆえに周囲の眼を気にする事なく我を通し、しかし病ゆえに我を全うできずに自らの体に裏切られた男だ。

 そんな彼を見守ってきた将棋雑誌の編集者が、あの本における著者・大崎善生の立ち位置だった。肩入れしてきた青年が志を果たせず疲れ切って表舞台から去ろうとしている。その姿に編集者自身もまた、寄り添うように疲れている。

 本書の文体は「聖」の激しい人生とは裏返しに淡々としている。センチメンタルな感情に溺れたいのに、溺れきれない中年の寂しさが感じられた。だから…。

 正直、村上春樹の「羊をめぐる冒険」に出てくる主人公「私」を思わせる男たちを、主人公にした短編を読まされる事に違和感があった。大崎善生ってこんな文章を書くのか。いったい何歳なんだ?と。

 村上春樹の描く「私」と著者の描く「私」たちとは似ているようで一点だけ違う点がある。村上の「私」は仕事に疲れてはいない。歳をとらない。どんなに「自分は時代に置き去りにされた」と語っても、眼の前にある「青春の残酷さ」を手放さない。

 一方で本作の「私たち」は明らかに疲れている。彼らは人生を一度リセットする必要に迫られた中年であり、恐らくは等身大の著者自身を投影した存在である。彼らが振り返る若き日の自分は、センチメンタルそのものだ。美しいもの、何か美しいものであったはずのものだ。そして永遠に失われてしまったものだ。

 失われたものを振り返る手つきは、どこか甘くどこか苦い。しかしそれは著者にしかわからない美しさであり、著者自身の心のうちにしかない輝きではないだろうか。
(2005/5/12初出)
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2011年11月18日

贈る物語 綾辻行人=編(2004/06/24読了)

 ミステリー作家・綾辻行人が「本格ミステリ入門」として編んだアンソロジー。謎を「Who?」「How?」「What?」などに分けて、それぞれにふさわしい短編を選んでいる。日本の作家の作品はどれも読んだ事がなく新鮮だった。僕は短編集を読むのは本来苦手なのだが、こういう企画は大賛成だ。
暗黒の館の冒険 エラリー・クイーン
いわずとしれた本格ミステリーの大家エラリー・クイーンの短編。「エラリー・クイーンの新冒険」(創元推理文庫)に収められている。久しぶりに読んで十二分に楽しめた。創元推理文庫だと、クイーンの長編はさすがに時代がかった翻訳なので、途中で中だるみしてしまう事が多い。だが、短編はストーリー重視で切れ味が鋭く、今でも読みやすい。思うに、もちろん長編は読みごたえがあるのだが、クイーンは本来短編作家向きだったのではないかと考えた事がある。「冒険」「新冒険」の作品はどれも出来が良い。オススメの短編集だ。

黄色い下宿人 山田風太郎
 ホームズと漱石が同時代の人である事は知っていたが、これほどホームズ作品の登場人物にうまくとけ込ませた短編は他にないのではないだろうか。クレイグ先生や下宿のエピソードなどもうまく取り入れた上に、ホームズもののパスティーシュにもなっている。そして、夏目漱石に関するエピソードとして読んでも非常に興味深い。

密室の行者 ロナルド・A・ノックス
 おそらくミステリー好きなら誰でも知っている密室トリックではないだろうか。というのも、よくある推理トリック本のたぐいには必ず載っていたような気がするからだ。ほら、1分だか5分で読める問題と解答との分かれているお手軽なクイズ本に。僕がこのトリックを知っていたのは、てっきりクイズ本のせいかと思っていた。江戸川乱歩が編んだ「世界短編傑作集」(創元推理文庫)で既に読んでいた。すっかり忘れていた。

妖魔の森の家 ジョン・ディクスン・カー
 これは不可能犯罪の第一人者ディクスン・カーの短編だからというより、ミステリーの短編の中で一、二を争うほど忘れがたく、衝撃的な作品だ。なんども読んでるし、やはり先ほどとりあげた乱歩の「世界短編傑作集」に入っている。トリックの説明もわかりやすく、文章も読みやすい。

長方形の部屋 エドワード・D・ホック
 さてタイトルにはどんな意味があったんだろうか?別に真四角でもまんまるでもよかった。
 つまりタイトルは一種のレッド・ヘリング(誤導)だったわけだ。ラストの意外性に関しては、「そう落とすのかぁ」と、ちょっとはぐらかされた感じがした。

カニバリズム小論 法月倫太郎
 これはまいった。食肉(カニバリズム)について長々と解説していて最後には不気味な結論に落ち着く。確かに気持ちの良い話ではないし、題材だけではミステリーとして面白いとは思えない。ところが最後に小気味よく落としてくれた。デビュー当時の作品は読んでいたが最近の作品は読まなくなってしまった。法月さん、なかなかです。

病人に刃物 泡坂妻夫
 泡坂作品を初めて読んだ。綾辻が言うように、まるであのG.K.チェスタトンの手際に似て、物事の解釈を反転させてあざやかに真実を示してみせる。なかなか面白い。今度、亜愛一郎シリーズでも読んでみようか。

過去からの声 連城三紀彦
 連城三紀彦というと恋愛もの。そうイメージしていた自分の先入観を大いに裏切ってくれた短編。やめていった刑事が一年後に同僚の刑事にあてた手紙の中で、やめた理由をふりかえるという凝った趣向。しかもそれが意外な結末に。連城のミステリも読んでみたい。

達也が笑う 鮎川哲也
 これは「犯人当て」の趣向で作られた作品。トリックは見破った。でもそれは折原ーや東野圭吾や歌野正午など近年の叙述トリックなどで当たり前のように語られた手法だからこそだ。つまり彼らは鮎川チルドレンであるという証拠なのだろう。
(2005/05/11初出)
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2011年11月16日

日本文学盛衰史 高橋源一郎(2005/05/04読了)

 あれからまたぶっ倒れてしまった。今度は熱は出ないが体がダルダル〜。
寝れば寝るほど体が重くなる。これが肉体疲労というものか。それほど無理をしてたという事だな、冬からこっち。

 そんな時、漱石の「修善寺の大患」や源一郎の「原宿の大患」を読むのは当を得た所作と言ったところだろうか。などと熱に浮かされたような事を言っても仕方ない。熱ないし…。

 二葉亭長谷川辰之介の葬儀から始まる。二葉亭四迷は、著者曰く「文学の『精神』と『文体』の両方を作った男」だ。当然ながら、そこには彼の業績から恩恵を受けた作家多数が列席する事になる。

 漱石は、初めて会う事になる鴎外に「娘たちにたまごっちをせがまれてるんですが、手に入りませんか?」と声をかける。すると鴎外は「娘の茉莉に聞いてみましょう」と生真面目に答えるのだ。一方、啄木石川一は朝日新聞からもらった月給を、その日のうちにAVや女子高生との援交に費やしてしまう。田山花袋は、ついにアダルトビデオの監督を依頼されて断れない。

 以上の文章は決して荒唐無稽なナンセンスではない。「文学がこんなにわかっていいのかしら」を書いた著者の、まさに計算された戦略なのだ。

明治文学は退屈だ。それは決して作家の責任ではなく、世界が縮んでしまったからだ。


 高橋源一郎が繰り返す「退屈」という言葉は、だから決して当時を生きた人々を貶める言葉ではない。明治文学を再生するにはどうしたらいいか。それには明治でもあり平成でもある共時的な時空間に、すべての作家と作品を移動してしまえばいいのだ。そうすれば、

なんと啄木の苦闘は美しいのか。
花袋の遅れた才能は悔しいのか。
早すぎた透谷の天才は悲しいのか。
独歩の文体創造の瞬間が感動的なのか。
藤村の一人勝ちはいやみったらしいか
美妙の早枯れは哀れなのか
清白に夜雨とは何者なのか


がわかるというものだ。

そして何よりも

 なんと、明治の文学を読みたくなる本なのか、こいつは!
(2005/5/6初出)
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2011年11月14日

オリエント急行の殺人 アガサ・クリスティ(2011/10/12読了,クリスティ文庫新訳)

「ヒルデガルデ・シュミットが犯人だったら、彼女の荷物から制服が出てくるかもしれない。だが、もし犯人でなかったら、かならず制服があるはずです。」(クリスティ文庫・山本やよい訳)


 ヨーロッパを縦断して走る「オリエント急行」の車中で殺人事件が起きる。雪で立ち往生した列車内で救援を待つという状況下で、たまたま乗り合わせた探偵エルキュール・ポアロは臨時の捜査を依頼される。クリスティの数ある長編の中でも一、二を争うほどの代表作であり、最も読まれた作品の一つであり、センセーショナルな結末という点でも名高い一作だ。そんな事は、ミステリーファンであれば誰もが感想(書評)に書き綴っているはずなので、改めて詳しく述べるまでもないし、内容についてあれこれ述べ立てるのも今更という気がする。

 実はクリスティ文庫版「オリエント急行の殺人」が新訳で出版された際に、珍しく新品を購入してあたためておいた。旧訳版も古本で買い込んであったから、双方を読んで翻訳の善し悪しを吟味してやろうという魂胆だった。ところが、その前に「そして誰もいなくなった」の旧訳(清水俊二訳)と新訳(青木久惠訳)との比較に、思いの外、興が乗って長引いてしまったので、なかなか「オリエント」の方に手が回らなかった。なんとペーパーバックの原書までブックオフで購入して準備万端整えていたというのに…。

 それでようやく今回、新訳(山本やよい訳)を読んでみて、やや肩すかしを食らった。特に取り上げるほどの違和感を新訳の文章に感じなかったからだ。そもそも「そして誰もいなくなった」とは翻訳を吟味する動機付けが違う。「そして誰も…」の方は叙述トリックの作品なので、作者の意図を意識した翻訳ができているかどうかが一つの重要なポイントであったが、「オリエント急行」の方は特にそういうレトリックはない。元々クリスティの文章は平易でわかりやすいし、「オリエント急行」では特にストーリーで読ませるところがあるので、女性らしい翻訳の柔らかさを感じただけで、それ以上に不満は感じられなかった。一箇所を除いては。

 ポアロはあらゆる人々から証言を集めて、やがて綿密なタイムテーブルを作り上げる。その中で、正体不明の人物が2名存在したことをつきとめる。一人は「真っ赤なガウンを着た女」、もう一人は「偽の車掌」だ。そして、この二人が車内の人間の変装か、あるいは車外から入り込んだ人間の仕業なのかに関わらず、真っ赤なガウンと車掌の制服は、車内のどこかに隠されていることは確実だった。

 そこでポアロは「制服はヒルデガルド・シュミット(公爵夫人のメイド)の荷物のなかにある」と予言する。国際寝台会社の重役が「メイドが犯人なのか」と問いただす前に先回りしてポアロが言った言葉が、冒頭のフレーズだ。

  えっ?どういうことだろう。「Aが犯人ならば制服がでてくるだろう、犯人でなければ制服が出てくるはずだ」と言ってるよねぇ。ってことは、どちらにしても制服が見つかるってことでしょう。それってつじつまが合わなくないだろうか。

 これが、「Aが犯人ならば制服は出てくるが、犯人でなければ制服は出てこない」あるいは「犯人ならば制服は出てこないが、犯人でなければ制服は出てくる」と書かれていれば、つじつまが合うし、日本語として自然だ。では、山本訳は間違ってるのだろうか。

 そう思って、他の翻訳と比べてみることにした。まずは、クリスティ文庫の旧訳版である中村能三訳だ。

「もしヒルデガード・シュミットが犯人だったら、制服はあの女の手荷物の中で発見されるかもしれない−だが、もし犯人でなかった、かならずあの女の手荷物の中にあります。」(クリスティ文庫・中村能三訳)

 旧訳(中村訳)は、ほぼ新訳(山本やよい訳)と同じ表現とみていいだろう。ひょっとしたら山本さんは中村訳を参考にして訳を決めたのかもしれない。

 創元推理文庫の長沼弘毅訳では、前半をこう翻訳している。

「もし…が犯人だとすれば、制服は彼女の荷物のなかで発見される程度ですが…」(創元推理文庫・長沼弘毅訳)

 なるほど、この訳でようやくつじつまが見えてきた。つまりポアロは、メイドが犯人であった場合と犯人でなかった場合とでは、彼女の手荷物の中に制服が発見される「確実さ」の程度に違いがあることを指摘しているのだ。

 そこで手元にあるBERKLEY MYSTERY版「MURDER ON THE ORIENT EXPRESS」(2004年)
を読むと、確かにこう書かれている。

"If Hildegarde Schmidt is guilty, the uniform maybe found in the baggage. But if she is innocent, it certainly will be"


 この原文を見ればわかるように、

(a)the uniform may be found
(b)it     certainly will be (found)

の二つが対比されている。どの翻訳もつじつまが合ってる事はわかった。その上で、僕は山本訳と中村訳は落第だと思う。なぜなら「may be」と「certainly willl be」との確実性の度合いが、英語の表現どおりにそのまま比較されているという点が日本語には馴染まないからだ。

 例えば「Aが犯人ならば制服が見つかる可能性は50%ですが、Aが無実ならば100%見つかります」と言い換えれば、日本語でも不自然ではないし、理解可能だ。長沼訳は、その点に配慮して「may be」を「発見される程度ですが」のように度合いを強調して訳してあるので、日本語としてもつじつまが見えやすくなった。及第だ。

 しかし僕が今回の調査で恐れ入ったのは、ブックオフの書棚で見つけた、表紙が例のアカデミー賞受賞映画のワンシーンに差し替えられた新潮文庫の蕗沢忠枝訳だ。

「…が犯人とすれば、制服は彼女の荷物の中にないかもしれないが、もし彼女が潔白なら、必ずそこにあるに違いない、と。」(新潮文庫・蕗沢忠枝訳)


 これです。日本語として百点満点。頭にすんなり入ってくるし、つじつまもバッチリあっている。でも果たして翻訳としてはどうなんでしょう?

 僕の素人判断だが、「may be」って「or may not be」って表現を隠し持っているんでしょう?つまり「〜かもしれない、そうでないかもしれない」という意味になる。ならば思い切って「〜でないかもしれない」の方を表に出して訳せば、日本語として座りがよくなるのは間違いない。この「思い切り」が、蕗沢さん以外の方々には足りなかったのだろうか?

 いやいや、長沼さんと蕗沢さんのお二人だけが原文の直訳の不自然さに気づき、他2名は不自然だと思いもしなかったという事のようだ。さらに蕗沢さんただ一人が「大胆かつ繊細に(by児玉清)」訳したという事でしょう。蕗沢さん、二重マルです。

 ところで、だからなんだと言えば、それだけの事だ。この一箇所で新訳がダメだとか、アガサ・クリスティ文庫の新旧ともども翻訳がダメとか言うつもりはない。たまたま、この一箇所が最後まで頭に引っかかってしまっただけで、本当に山本さんには申し訳ない限りです。新訳の1冊は、十分堪能させていただきました。ごちそうさまです。

 また、今回通して読んでもいない新潮文庫・蕗沢訳を、必要以上に持ち上げるつもりもない。あの箇所の「大胆かつ繊細さ」で全編が貫かれていたら、それは素晴らしい翻訳になっているかもしれない(may be…)。でも、それはまた別のお話だ。機会があればトライしてみよう。
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2011年11月13日

夜のピクニック 恩田陸(2005/05/08読了)

 第二回本屋大賞受賞作。第一回大賞は、あの「博士の愛した数式」(小川洋子)だ。なにしろ前回は「終戦のローレライ」(福井晴敏)や「デッドエンドの思い出」(よしもとばなな)などを抑えてなお圧倒的な存在感をもちえた「博士の…」だったから、あれほどの作品をそうそう期待するのは虫がよすぎるかもしれない。でも期待してしまうのが本好きのワガママ。なのに恩田陸、かなり疑わしい。何故か?

 決して恩田陸が嫌いなわけではない。いやむしろ好きな作家だ。文章もうまいし、内容も幅広い。どれを読んでもよく出来てる。そう上手いのだ。巧すぎると言っていい。器用貧乏と言ったら言い過ぎだろうか。こう言えば分かるだろうか。恩田陸は屈指の読書家でもある。影響というのではないが読んだ本から試してみたい書いてみたい題材は無数にあるらしい。

 そこに僕には腑に落ちるものがある。彼女の作品はいつも何かに似ているのだ。何かとは特定の小説を指すのではなく、無数の小説の空間とか登場人物そのものを指す。彼ら登場人物は予め本の世界に住む事を定められ本の中に住んでいる事に気づかない存在に見える。この印象が作品に与える影響は小さくない。例えば宮部みゆきのどの作品をとっても、描かれる人物や社会の外側がたとえ書かれなくても存在してるように感じられる。しかし恩田陸の作品は作者が作った箱庭のようだ。その外側には何もない。

 だから「夜のピクニック」も歩行祭という限定された空間の外側はないし、歩行祭が終われば主人公たちのその後も本当は存在しなくなる。それが物足りなくもあり、寂しくも感じる理由だろう。ならば期待はずれであったかというとさにあらず。出色の出来と言っていい。ここには高校生活に置き去りにしてきた若さ故の醜さやもどかしさ、無関心、うしろめたさ、恥ずかしさ、怒り、戸惑い、それらすべてが描かれているのだ。

 主人公の融(とおる)が振り返るように、ひょっとしたら誰しもが高校生で味わいつくすべきだった事をやりすごして後悔するのかもしれない。少なくとも彼の述懐は僕自身のものだ。
(2005/05/09初出)
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2011年11月10日

アルジャーノンに花束を ダニエル・キイス(2005/4/29読了、再読)

 本棚に文庫版の「アルジャーノンに花束を」がある。まだ未読だ。「アルジャーノン」が未読なのではなく、文庫版が未読なのだ。


「アルジャーノンに花束を」は同名の中編がまずあって、後に著者ダニエル・キイスが書き足して今の長編に仕上げた事はSFファンには周知の事実だろう。SFファンでない僕が知っているのは何故かというと、会社の同僚からの受け売りである。彼女から単行本を借りて読み(読まされ)、さらにSFマガジンに掲載されたという中編もバックナンバーを借りて読んだ。

 中編は感動的なドラマはそのままに長編ほどのコクが無くてあっさりとした感じだ。残念ながら訳者が違うせいなのか、翻訳の雰囲気がずいぶんと長編とは異なり、セリフも口調も違うのどこか興ざめしてしまった。翻訳とはまことに恐ろしい。

 で、僕には単行本の長編を読んだ時の感動が鮮やかに焼き付いている。その後に単行本を再読したが、感動作のクライマックスは、一気に読める場所と時間を選んだ方がいいようだ。朝の通勤電車の中で、「知力が戻ったチャーリーが元の職場に戻って若い職人にいじめられる場面」にたどり着いたところで、電車を乗り継ぎで読書が途切れてしまったのだ。時間を置いて再び続きを読んでも、なかなか気持ちが盛り上がらず悔しい思いをした。

 という話を同僚の女性にしたら、「まだ泣けるじゃない」と言われた。僕は「へっ?」とうめいた。

 「アルジャーノン」を勧めてくれた会社の同僚とは、最初の読後に「号泣しました〜」と感想を話して「アルジャーノン」談義に花を咲かせた筈だったのに、どこで泣けたのかは確認し合わなかったのだろうか?それとも泣き所を僕だけ間違えてるんだろうか?

 僕は、以前と同じ知能に戻って以前と同じパン屋の下働きに戻ったチャーリーが、案の定以前のように馬鹿にされるシーンで、かつて兄貴分と慕っていたが実はからかいの張本人だった同僚のギンピイがチャーリーをかばうタイミングでドッと涙が溢れて止まらなくなったのだ。

 チャーリーが愛した女教師の教室に再び教えを請いに行くシーンも切ないが、それでもチャーリーも彼女も救われる事はないだろう。チャーリーを救えるのは、同僚の彼、ギンピイしかいないのだ。知能が低いと笑い、高くなったと恐れ、再び元に戻ったチャーリーを前にして初めて自分の無理解を恥じた彼の善意こそがチャーリーを救うのだ。

 著者の狙いがそこにある以上、エンディングでチャーリーが一言「アルジャーノンの墓に花束をあげてください」と言う場面はエピローグに過ぎないと思う。なのに、会社の同僚は、最後の最後に、この一言で泣いたのだと言う。ちょっとショックだった。泣き所が違う事がではなく、彼女が最後のセリフでようやく泣いたとするなら、僕の号泣の立場がないからだ。

 何故、彼女はアソコで泣かない訳?

 実はパン屋に戻って新入りにいじめられるシーンも、女教師アリスのクラスに顔を出すシーンも、ラストの「アルジャーノンの墓に花束を…」のセリフの数ページ前に過ぎない。だから、どこで泣こうが大差ないと思う人もいるに違いない。だが、僕にはそんな粗雑な考え方はできない。特にあの作品の終盤は作者と読者のガマン比べと言っていいほど、怒濤の如く「泣き所」が並べられるからだ。

 チャーリーが自らの知能の後退を理論付け、アルジャーノンの死に自らの運命を見た時点から、チャーリーの冷ややかなモノローグに支配されていた緊張感は頂点に達する。作者も読者も、解放される瞬間を固唾を呑んで探り合うのだ。

 日一日と急速に知能が失われていくのを著者の巧みな文体の変化で見せつけられても、読者は涙をかろうじてこらえる事はできるだろう。また、パン屋の下働きに逆戻りする残酷さに哀れを感じる事はあっても、僕らは泣く事はできまい。いじめられる過酷さには思わず目を背けたくなるだけだ。

 ひょっとするとギンピイの心変わりも予想できた事かもしれない。だが、チャーリーをいじめる新入りにかつての自分の姿を重ね合わせて怒るギンピイの義憤に対して、新入りをかばうチャーリーの無償のお人好しには、ギンピイのみならず読者の誰しもが不意打ちを食らわされないだろうか。誰もチャーリーのお人好しを笑う事はできないのだ。

 この瞬間に、チャーリーが無為に元に戻っただけではない事を読者は気づかされる。知能が高い時には、チャーリー自身気づかなかった大切な物を手に入れて戻ってきたという事に、僕らは不意打ちされるのだ。それがチャーリーだけでなく、読者も、作者さえ、救われる瞬間だとしたら、チャーリーの次のコトバは、読む者の胸を限りなく撃たないだろうか?

ともだちがいるのわいいものだな…

(2005/4/29初出)


[追記(2011/11/10)]
 「アルジャーノンは何処で泣くか」というタイトルで、このブログに記事を載せてから6年も経ってしまった。びっくりすることでもないかもしれないが、自分としては意外だったのは、いまだに文庫版「アルジャーノンに花束を」を読んでいないという状況だ。相変わらず本棚の手前に置かれているのだが、あれから引っ越しをして蔵書の量も数倍に増えてしまったせいで、やはり読むに至っていない。この記事を改めてアップしたのを機に、文庫版をやっつけてしまおうか。まあ、特に単行本版と変わるところはないと思っているのだが、間違えても電車の中でクライマックスの高まりを邪魔されないようにしなくては。

 ところで、この「何処で泣くか」というエッセイ(のつもりだった)は、「その3」まで書いて尻切れトンボで終わってしまった。「続きを書け」と会社の同僚からせっつかれたのだが、諸事情でついに果たせなかった。もう時が経過しすぎて、この続きは書けないのだが、「何故泣き所が食い違うのか?」という点を話しているうちに、男の視点、女の視点で「泣ける場所」が食い違うという事はあるかもしれないと思った。

 その最適な例が、映画「フィールズ・オブ・ドリームス」の終盤に関する侃々諤々だ。僕は文句なしに、最後に「それを作れば、彼が来る」という啓示の真の意味がわかるラストのキャッチボール(観た人ならば分かるだろう。これ以上はネタバレだ)の場面でドッと泣いた。これは、そういうドラマだから当然だと思っていたのだが、女性陣(「アルジャーノン」を勧めた同僚と他一名)には、その直前のムーンライト・グラハムが夢をほんのちょっとの差でつかみ損ねて去って行く後ろ姿に泣いているのだ。もちろん名優バート・ランカスターの圧倒的な演技も影響しているだろうが、女性陣が泣いたのは、やはり若きムーンライト・グラハムの夢を追いかける初々しさに、共感してきたからこそだろう。そういう見方もあるのだと思い知らされた例だった。
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2011年10月31日

スタイルズ荘の怪事件 アガサ・クリスティ(2011/10/23読了,再読)

 相続人と被相続人とのあいだでいさかいが起き、被相続人である老女が殺される。そして、それが毒殺ともなれば、古き良き時代のミステリー黄金期に書かれた完全無欠の探偵小説の舞台設定であることは間違いない。その典型に寄与した功績の多くを、クリスティ女史に与えても異論はあるまい。このデビュー作は、まさに完全無欠の古き良きミステリーなのだ。


 例えば、老婦人の殺人直前に書かれたとおぼしき"新しい遺言書"に、クリスティは徹底的にこだわる。遺言書は犯人によって燃やされたという事実から、非常識なほどに年齢差がある献身的な若い夫に容疑がかかる。事件当日に二人が口論しているのを聞いたという証言がでてくる。

 下書きと思われる老婦人の走り書きや、法的に有効と見なされる一つ前の遺言書から、老婦人の筆跡のサンプルが挿入されている。そのサンプルに、何事か重要な事実が隠されているということまでは僕らにもわかるが、僕ら読者(特に日本語を操る人間)には、今一つポイントがつかめない。

 作者のもうひとつのこだわりは、もちろん"ストリキニーネ"だろう。青酸カリや砒素についで黄金期ミステリーの毒薬の代名詞となっている。殺人に縁のない僕らには、それがどんな形態で、どんな味や匂いがするものかわからないが、なにより当時の人々にはどの程度一般的な薬物であったかも、よくはわからない。ポアロが犯人をあばいた後で、「いかにして老婦人にストリキニーネを与えたか」というトリックを解説するが、実に現代人にはわかりにくい。

 都会に暮らせば、いたるところに調剤薬局があり、病院で医師から処方された内容どおり正確にパッケージングされた薬が小包装で手に入る現代において、薬の飲み方を犯人の思いのままにできるとする手口というのが、もはや古めかしく理解できない。いや、それは僕の早とちりで、ひょっとすると今でも通用する「かしこい」手口なのかもしれない。だが、ストリキニーネという薬物にまつわる、オーソドックスでオールドファッション的なイメージが僕の頭から離れない。

 もちろん当時の読者(イギリスの郊外の生活を楽しみながら、ミステリーを愛読する読者)には、文字通り刺激的な殺し方だったと思われるが、今の僕らにはセンセーショナルな手口とは言えなくなった。

 とは言え、本作のミスディレクション(誤導)の手際や、錯綜した会話の中に正しい糸口を忍び込ませる見事なやり口など、その後のクリスティ作品でおなじみとなった要素があちこちにみられる。僕もそうだが、すでにクリスティという作家の偉大さを少しでも知っている読者ならば、さかのぼって原点を味わうという喜びが感じられるだろうが、それには少々難点がつきまとう。

 さきほど述べた「古めかしさ」もその一つには違いないが、僕の全体を通した印象では、クリスティにしてはストーリー運びにもたつきが感じられる。序文やあとがきにも書かれているように、この輝かしき処女長編は、なかなか買い手がつかなかった。出版社に先見の明のある人物がいなかったとも言えるが、文章自体がまだまだ洗練されていなかったからかもしれない。しかも今も昔も、最前線の出版社は、エキセントリックでセンセーショナルな読み物を追い求める。この、あまりにオーソドックスな骨格をもつミステリーに、その後の一大潮流を形作ることになる新しい試みが隠されているとは、気づきにくかったのかもしれない。だが、いつの時代にも読者は正直だ。出版された本作は好評をもって迎えられた。
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2011年10月26日

青列車の秘密 アガサ・クリスティ(2011/10/19読了)

 最近「そして誰もいなくなった」の新訳(アガサ・クリスティ文庫)を手がけた青木久恵さんが翻訳した作品だ。クリスティの作品を出版順に読みだして、気がついたら「青列車」の番になっていた。出版順リストによると、一作前が「ビッグ4」だった。おいおい、本当かよ。まいったな。読んだことも忘れてるぞ。

 僕自身は、これまでクリスティの良い読み手とは言えず、「ミス・マープルもの」の愛読者ではあったので、彼女のシリーズばかりを読んで、それ以外の作品は熱心に読んではいない。もちろん「アクロイド」「オリエント急行」「そして誰も」などのビッグ・タイトルは読んでいるが、ポアロが登場する作品には未読が多い。だから「トミーとタペンス」や「クイン氏」だとか、初期の冒険小説、スパイ小説を含めたノンジャンル作品は、タイトルを知っている程度の知識しかない。そもそも「茶色の服の男」や「秘密機関」あるいは「ビッグ4」といった平凡なタイトルで、書棚から手にとってみようなどと思う方がどうかしている。

 ところで、僕は「茶色の服の男」も「秘密機関」も「ビッグ4」もすでに読んでいる。驚きだ。「スタイルズ荘の怪事件」から始めて「ビッグ4」まで計7冊を読んだわけだが、内容を思い出せるのは「スタイルズ荘」と「アクロイド」だけだ。「ビッグ4」も「チムニーズ館の秘密」も、読んだという事実さえ忘れていた。それも、この一年のことだ。この健忘症をなんとかしなければならない。そこで、またまた「スタイルズ荘」にさかのぼって読み直し、こんどはかならず書評を残す事に決めた。なんだか、このブログは老後のためのリハビリ教材となりそうだ。

 忘れてしまう理由を僕の健忘症以外に求めると、いわゆる冒険小説のたぐいに僕自身があまり興味を持てないという点が考えつく。本作の解説で北上次郎さんが力こぶをいれて、クリスティの冒険小説作家としての力量を評価している。やがてクリスティは謎解き一辺倒の本格ミステリーの作家に成長してしまったために、冒険小説というジャンルを切り捨ててしまったことを、北上さんは盛んに惜しんでいるのだが、僕には今一つピンとこない。

 もちろん、もう一度読み直せば北上さんの言い分も理解できるのかもしれない。それは後日にゆずるとして、ともかく本作からクリスティの良き読者になろう。この作品は、主人公がポアロなので、謎解き小説であることは確かなのだが、冒頭から勝手が違う感じが続く。様々な登場人物それぞれの思惑が錯綜し、いったいこれからなにが起きようとしているのかが、なかなかつかめない。なんといっても、最初で最後の殺人が起きるのが120ページもすぎてからなのだ。そこにたどり着くまでに、富豪が現れ、溺愛する娘がいて、娘と夫にはそれぞれに愛人が存在する。なにより富豪が娘にプレゼントした20万ドルもするという途方もないルビーに対する争奪戦も陰で繰り広げられる。

 そうかと思えば、セント・メアリ・ミード村というなにやら聞き覚えのある田舎からでてきた、聞き上手で人受けのする知性ある女性までもが登場し、かつての女主人から思いがけない遺産を受け継いで、青列車に乗り合わせる。そんな彼女がまっさきに見つけた話し相手が、小柄で卵形の顔をして、口髭をのばした男、ポアロなのだ。

 殺人が起きた後に、ポアロが「これはわれわれの探偵小説ですよ」と言うように、クリスティは、この女性の設定をいたく気に入っていたように感じられる。だからこそ、本作の2作後に、あのミス・マープルを探偵役に据えた「牧師館の殺人」が書かれる事になった。この作品のキャサリン・グレーという女性は、思慮深くて知恵があり、しかしいまだ控えめで実行力に乏しい。セント・メアリー・ミードに戻って仕えることになるミス・ヴァイナーの、あけすけな人を見る目を「ものにした」のちに、自らの資質を開花させた女性グレーこそが、のちのミス・マープルなのかもしれない。うがって考えると、ポアロは若き日のミス・マープルと早々と競演していた事になる。

 ところで、本作のポアロはとにかく切れ者で、打つ手打つ手が見事にツボにはまり、周りに人々をおそれさせる。言わせてもらえば、なんともポアロらしくない。小男の容姿ゆえに侮られ、突飛な言動ゆえに「外国人」とさげすまれる。変人という人物評がポアロにはつきまとう。しかし、本作に限っては、とにかくかっこいい名探偵なのだ。思うに、本作の骨格は冒険小説であり、その中に北上次郎好みの「ハーレクイーン・ロマンス」の要素が盛り込まれている。ポアロではなく、色男の探偵を配せば、まちがいなくキャサリン・グレーとのロマンスも盛り込まれたに違いない。

 ポアロものとしては異色作ではあるが、存分に楽しませてもらった。それにしてもタイトルの「青列車」だが、今や明らかに古めかしい訳だ。日本でもおなじみの「ブルー・トレイン」の呼称に置き換えると、少々俗っぽいと早川編集部では思っているのだろうか。
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2011年07月28日

別冊図書館戦争1 有川浩(2008/7/20読了)

 日曜日にいつものように我が子を連れて図書館に行った。息子が読み聞かせをねだった大量の絵本は、たった一冊の「マジレンジャー大百科」に駆逐されてろくに読みもせずに返却とあいなった。7冊の絵本と、こちらの読書でハリポタ第四巻の上下をデイパックに詰めては、エイコラセと自転車を漕いでいった。

 息子には再び返却に見合う絵本を借りさせ、うち一冊はカタツムリの写真集からザリガニの写真集に変わった。僕はと言えば、読了しそこねた「炎のゴブレット」上下をそのまま貸出延長して再びデイパックにずっしりと詰めた。こういうときこそ、川崎市立図書館の予約システムがうらめしい。貸出延長がウェブからできるのだ。しかし一方でハリポタ最終巻を23日の発売日を待たずして予約に応じる立川図書館の気前の良さは、川崎図書館をしのぐ。これ幸いと用紙に名前と利用者番号と電話番号を書き残した。ふと図書館受付の正面の壁面に、何かの表彰状のような紙が掲げられている。ああ、例のあれかぁ。

図書館の自由に関する宣言

一、図書館は資料収集の自由を有する。
二、図書館は資料提供の自由を有する。
三、図書館は利用者の秘密を守る。
四、図書館はすべての不当な検閲に反対する。
図書館の自由が侵される時、我々は団結して、あくまで自由を守る。


 以前、シリーズ第一巻「図書館戦争」を読んだ当時も壁に掲げられているのを確認した記憶があるのだが、一言一句を読んだかどうかははっきりしない。今回改めて感慨深げに読んでみると、本シリーズの巻頭に毎回収まっている文言とまったく同じだとわかった。まったくアレンジしてないんだぁ。それにしては勇ましい宣言だなぁ。一体何事が図書館の身に、いや図書館を運営する組織と人々の身に降りかかったのだろう。

 「図書館の自由が侵される時、我々は団結して、あくまで自由を守る。」

 勇ましいだけでなく、なにやら不穏な時代の雰囲気を隠すことなく文言に力一杯込めた。そういうふうに読める。検閲という言葉もあるように、やはり先の大戦時下の旧日本軍の圧力を指して、これに対決する姿勢を顕わにしたのだろうか。しかし、それだけならばこの戦後60年以上もたった平和ボケの日本では、いささか大げさ過ぎる宣言なのではないだろうか。少なくともそう素直に思いついた人間がいた。著者・有川浩だ。

 この大げさな宣言が今なお生きているとするならば、それは戦争がまだ終わっていないという事を意味する。いや、不断の注意を注がないと、今なおこの平和な世界で図書館の自由、読書の自由が侵される現実が待ち受けている。それに立ち向かう図書館側には自衛のための軍隊が組織されている。そんな極近未来を勝手に想像しても構わないではないか。

 そんな段取りでこのシリーズが書き出されたのかは正直分からないが、本シリーズが荒唐無稽な設定の中にも一定のリアリティを抱えていたのは、ひとえに荒唐無稽を文言の中に封じ込めていた「図書館の自由に関する宣言」が存在していたからだろう。しかし、それも第4巻を持って終わった。現代では宣言が仮想敵とみなす相手は曖昧だ。それと呼応するように最終巻を迎えても、仮想敵・メディア良化委員会との戦いに決着はつかない。では何がどう落ち着いたかと言えば、主人公・笠原郁と、その上司・堂上篤とのロマンスだ。

 前作「図書館革命」の書評で「ちょっと恥ずかしくなるような再会シーン」がクライマックスで用意されていると書いた。これをもしかしたら〈批判〉だと誤解する人もいるかもしれないので、ここで言っておこう。この「ちょっと恥ずかしくなるような再会」をどれほど待ち望んだ事か、と。前の書評でも「なんで4冊も読む気になったか」と言うのに「惰性」という言葉を使ったが、正直「照れずに言えば」、郁と堂上とのラブロマンスの成就を見納めたくて読んできたのだ。だからこそ、ここまで僕らを焦らした著者に文句のひとくさりを言うぐらい、シリーズ全巻につきあった読者には当然の権利と言っていいのではないか。

 で、何が言いたいのかと言うと、「恋愛成分たっぷりの、ベタ甘全開スピンアウト・別冊シリーズ」上等だぜ!って事だ。著者は編集部から無理を通されて、この「スピンアウト」作品を書くことになったので、本編を読んだ方で「ベタ甘」の苦手な方は読まずに無視しても構わないと断っている。さらに、これが「別冊1」で「別冊2」まで出るが、これはあくまで編集部の意向で自分の本意ではないから、「どうぞご勘弁くださいませ」とまで低姿勢のあとがきを結んでいる。

 しかしながら、僕があえて言いたいのは、これ本編にしたら?って事だ。あの「ちょっと恥ずかしい再会シーン」から一足飛びに結婚したその後の二人の一シーンを描いてしまったがゆえに、肩すかしに感じたのは僕だけではないだろう、きっと。だからスピンアウトでもなんでもいいから、別冊1でも2でも3でもいいから、書きなよ、書きな!

 でもピッコロが悪と善の二つの存在に分離していなければ強大な力をほしいままに出来たように(どんなたとえだ!)、ベタ甘路線ももっと本編に織り込んでいってもよかったんじゃないですか?あくまで僕の好みですけど。
(2008年7月22日初出)
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2011年06月30日

魔女の隠れ家 ディクスン・カー(2011/5/10読了)

 アンリ・バンコランが探偵役をつとめるカーの初期の作品群は、処女作の「夜歩く」を別にすれば、あまり読み返したいとは思わない。それは、陰鬱な雰囲気に満ちた怪奇趣味の犯罪を解き明かす主人公が、その雰囲気の一部をなすかのように、皮肉屋できどっていて、性格もあきらかに暗いからだ。事件関係者に対して、超然たる態度を見せつけたいという欲求からか、決して打ち解けず、”スノッブ”の一言につきる。

 その上、同僚である刑事たちを信用せず、あからさまにみくだすシーンが「夜歩く」でも見られた。これは、クイーン警視が部下たちを叱咤するのとは全く異なる、陰険な仕打ちにみえる。おまけにワトソン役で語り手でもある「私(ジェフ・マール)」自身が、バンコランの打ち解けないかたくなさに何度も辟易としている。それでいて、いつも正しいのはバンコランの方なのだから、周囲の人々はやりきれない思いを抱えながら、この扱いにくい上司の下で働いている。

 それと比べると、この「魔女の隠れ家」で颯爽と登場するフェル博士の、快活で人なつっこい性格の気持ちのよさは格別だ。おそらく当時のミステリーファンは「こんな探偵を待っていたんだ」と、おもわず喝采したに違いない。いや、カー自身がこんな探偵を描くことを待ち望んでいたような節が見られる。バンコランに見下されるのにうんざりしていたのは、なにもマールだけではない。僕ら読者も、そして作者さえも同じなのだ。そして、「探偵より推理能力が劣っている」という条件が求められるワトソン役をこなす青年は、ジェフ・マールから本作のランポールにバトンタッチする。

 さて、作家が一人の陰鬱な探偵をリストラした理由は、それだけだろうか。おそらくミステリーの舞台を「パリからロンドンへと変えた」事が理由の一つになっている。一方でパリの社交界に出入りできるセレブを必要としたが、他方ではロンドン近郊をすまいにしながらも、田舎じみたイギリス郊外の事件に多大な関心をもって詮索する探偵を必要とした。その探偵は、野趣に富んだ田舎のスタイルにとけ込む豪快な人物でなければならなかった。しかし、それだけで理由として充分だろうか。

 いやいや、バンコランという探偵は、華やかなパリという都会が形作る闇の世界に蠢く悪魔的な事件を描くために生み出されたヒーローだった。彼自身が闇の世界にとけ込み、悪そのものと対峙することさえも辞さない、ダークなヒーローでなければならなかった。カーの初期の考えでは、おどろおどろしい怪奇趣味は、そういうあざとい手際を導入しなければつくりえなかったのだろう。ところが、バンコランという探偵で何度か試してみるうちに、ある確信がめばえた。どんなに奇怪で超自然的な、あるいは魔術的な事件が起きようとも、探偵は迷信になびいてはいけない。事件にかかわりながらも、かかわりすぎることをよしとせずに、超然として安楽椅子に座り続けることが最善である、と。

 そういう探偵像こそが、カーの描きたかった幅広いドラマを受け止めることができる。ときにドタバタあり、ときに因習に彩られた歴史ミステリーあり、そしてさらには色恋沙汰さえもある。そのどれに対してもフェル博士は動揺することなく、堂々と受け止め、あるべきところに送り返すことができる、豪快かつ繊細な人物として描かれる。そういった人物でありながら、唯一落ち着いてはいられない存在として、本作ではフェル博士の妻が控えめながら登場する。その実、妻自身がまともに語る事はない。この描き方に見覚えはないだろうか。後年、やはりどうしようもなく魅力的な人物でありながら、私生活の現場をあかすことが最後までなかった、世界一有名な探偵である「コロンボ」に引き継がれることとなった。

 ディクスン・カーは、自身が敬愛する作家チェスタトンをモデルにしたと伝えられるフェル博士を、最晩年まで描き続けた。だが、この愛すべき人物を名探偵に仕立てあげる意図が、当初からあったかは疑わしい。なにしろ登場第一作の舞台は、フェル博士が隠棲するリンカンシャーのチャタールという田舎だ。ロンドンから百二十数マイルというから、ひょっとするとホームズがロンドンのベーカー街に構えた事務所で依頼を受けて、半日がかりでかけつけるような、まさにロンドン郊外の田園風景と同じと言えるかもしれない。

 そのフェル博士夫妻の住まい、通称「イチイ荘」近くに、その昔、魔女が吊されたという「魔女の隠れ家」があり、隣接するようにチャターハム監獄のなれの果てがある。そして代々監獄の所長を受け継いだ当主の遺産を受け継ぐためには、正当な後継者が監獄の一部屋で夜を明かす習わしになっている。しかし、過去、何度か当主が明け方に死体で見つかったという。

 これが、たとえばクリスティが生んだ偉大な探偵の一人ミス・マープルであれば、なにも起こらない退屈な田舎の中にも、都会と同じくらいに複雑な人間模様が息づいていることを証明してしまうだろう。しかしフェル博士の謎解きの道具立ては、その村や町に古くから伝わる伝承を一つつらまえれば終わりというものではない。それゆえに、当初はフェル博士をシリーズ化する意図はなかったのではないかと想像できる。ところが好評のうちに読者に迎えられたフェル博士は、まんまと安楽椅子探偵としてのポストについてしまう。実際に動くのは、スコットランド・ヤードのベテラン警視ハドリーだ。この名コンビが誕生するには、まだ少し試行錯誤を尽くさなければならない。よって今回はハドリーの代わりに、無能に近い捜査官がでてくる。もっぱらフェル博士の頼りにするところは、アメリカ人青年ランポールだ。

 本書は、その後のカーの文章に見られるような、伏線をあちこちにちりばめる「わかりにくさ」がなく、カーの愛好家でなくても読みやすくてオススメできる作品だ。「皇帝のかぎ煙草入れ」という作品は、かのクリスティが絶賛したことで有名だが、実は本作にもトリックの点で「皇帝の…」と同じような仕掛けがなされている。いわゆる叙述トリックのような目くらましだ。この手法は、クリスティ自身が最も得意とする手際だっただけに、「皇帝の…」を読んだ際に「してやられた」とクリスティ女史は悔しがったのかもしれない。

 「皇帝の…」のトリックはなかなか見破られない。にもかかわらず、結末で謎が解き明かされた時の鮮やかな反転は、非常に心地よい。その「皇帝の…」に比べれば、本作のトリックはあからさますぎて分かりやすい。だが、その分かりやすい点も含めて、カーのその後の方向性を形作るエッセンスが味わえる点で、非常におもしろい一作だ。
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2011年06月22日

数学の文化史 モリス・クライン(2011/6/12読了)

原題が「Mathematics in Western culture」と書かれている。つまり「数学の文化史」とは訳されているが、この『文化』の中に、東洋の末席を汚している我が日本は含まれていない。そういうことが言えるかどうかは別にしても、これはアメリカ人の著者が、現代の数学教育状況を改革しようと熱意をもって1953年に書いた労作と言える。

 数学という学問の一ジャンルに過ぎなかったものが普遍性を獲得するにつれて、科学が宗教から離脱していくための力を与え、やがて現代人が宗教(神)から離脱するための力をあたえたという、よくある人類の築きあげた文化の道筋を描いただけではなく、数学の中でも特に「非ユークリッド幾何学」が数学自体に及ぼした革命的な意義を本書のクライマックスで十二分に解説してくれたところが非常に面白かった。

 これによって数学と科学(物理)とが袂を分かち、それゆえに数学は自然現象や現実世界を計測する手段という役目から解放されて、新たな自由を勝ち取ったと言える、というのが本書の核心である。著者の考えでは、ユークリッド幾何学の呪縛から解放された事で、数学はそれ自体の抽象的な方法論ゆえに、将来のあらゆる可能性に耐えうるとする。しかるがゆえに、数学はこれからも永続的な価値を持つという著者の声が、僕ら読者に聞こえてくるような気がする。

 読んでいて唯一の不満があるとすれば、なにゆえにゲーデルの「不完全性定理」に至る数学基礎論の危機について言及していないのか、という点だ。この議論を本書の着地点にしたくなかったという、作者の意図が透けてみえるようでもある。それは何かと言えば、「数学教育改革」の名のもとに、著者が新たに築き上げようとする数学という建築への意志ではないだろうか。
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2011年06月16日

オタク川柳―人はみな何かしらかのオタクです 「オタク川柳」選考委員会(2011/6/12読了)

 とあるプロバイダー会社が始めた「IT川柳」なるものの大賞が、やがて「オタク川柳」へと化けた。ちらっとのぞき見すると、なかなかに面白い。

聞いてない 誰もそこまで 聞いてない
僕ですか? 昨日の朝から 並んでます


 これらの句なんかは、いまや職場の同僚や学校の友人の中に一人や二人(や3人や4人)は見かける普通のオタクっぽい人に当てはまりそうな、わかりやすい風景だろう。さらには何もオタクなどとあえて言うまでもなく、昔から趣味に興ずる人たちならば誰もが共感できるような句も入っている。

 目的は 目的地より 新幹線
 気がつけば 城を見ていて 3時間


 一方で、

妻、腐女子 旦那、特オタ いい夫婦


のような句を読むと、共感や実感は感じられなくて、ただ「へー、そういうもんだろうか」と思う。どんな場合でも男女の仲は、何が幸いして何が災いするかわからない。でももしかすると、これなどは「職場結婚」の一変種と考えればすむ話かもしれない。

 わかった気になって読んではみても、やっぱりわからないのは独特なオタク用語だ。すでに僕には

 この知識 オタクに普通 世に不通


状態になっている。それぞれの句には解説の代わりにマンガが添えられている。この句の解説マンガは、いきつけの美容院のいつもの美容師との会話で、オタクとばれないように口調に気を遣っているというストーリーだ。「無線とじ」「PP加工」などはアウトだというシチュエーションがピンとこないし、最後のオチに「ヘ○リ○本」という伏せ字がでてくるがついに分からず、会社の声優好きの同僚に教えてもらう始末だった。そもそも「リア充」の意味もわからない程度に、僕のオタクへの理解は「不通」になっている。

 総じて面白かったが、トリビアな「オタクたちの機微」については最後まで伝わらずじまいだった。一番面白かった句はこれだ。

実物大? 実物ないのに 実物大?

 うまい!文句なしにざぶとん10枚だ。

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2011年06月14日

図書館革命 有川浩(2008/1/19読了)

 いよいよ本シリーズも完結。第一作「図書館戦争」の奇抜なアイディアと分かりやすい主人公たちのキャラクターに惹かれて、ついつい読み継ぎ読み継ぎ、最後までおつきあいしてしまったが、ようやくケリがつく。どこがどう面白くて4冊も読む気になったかというと、今となっては、もう「惰性だ」という他はない。第一作のあとがきで著者が書いていたように、フジテレビの月9を狙ったストーリー展開はそれこそ肩ひじ張ることなく安心して楽しめるし、ひょっとして月9に採用された際の役者の顔まで浮かんでしまいそうなくらいにイメージのわきやすい主人公たちだから、彼ら一人一人にかなり入れ込んで感情移入できるところも理由のひとつだ。

 となれば、主役である女性図書隊員・笠原郁と堂上教官との運命的な結びつきが、果たしてロマンスに発展するのか。その結末を見定めない限りは、途中で読むのをやめるわけにはいかない。それがやっぱり一番の理由と言えるか。

 ちょっと歯切れの悪い言い方をしたのには理由がある。「プチナショナリスト」を自称する著者は、政治性を抜きにしたお気軽な「戦争もの」を書くのは得意らしいが、本シリーズのヒロイン同様に、熱烈なラブストーリーを思い描くとなると「中学生レベル」(いや今や早熟な彼女らからすると「小学生レベル」か)と揶揄されんばかりのド純情な恋愛しか書けそうにない。そのことは、主役の二人のロマンスの前哨戦とも言うべきエピソードでもあった、小牧と聾唖の女子高生・毬江とのきまじめでもどかしい恋愛を描いた第2巻で、既に想像がついていた。

 だから、全3巻で完結予定が第4巻に延長された際に、もうちょっと郁と堂上のラブストーリーを盛り上げる野心と手だてでもあるのかと思ったのだが、実質的にこの最終巻もそれまでの構成とさして変わることはない。導入部で関東図書隊を脅かす事件が発生し、それに毅然と対処するおなじみのレギュラー陣の姿が描かれる。敵側の攻勢でいったんは窮地に追い込まれる彼らではあったが、最後には図書隊の知略が効を奏す。典型的な〈起承転結〉作品だ。安心して読めるが驚きは少ない。

 それに第一巻と第二巻の書評でも書いた事を蒸し返す事になるが、図書館を軍隊に見立てたアイディアから図書館や出版文花に関連した様々な現実を浮き彫りにしていけば、読みごたえのある連作になるかもと指摘したのだが、結局最後まで取り上げる題材は、とば口でうろうろしたという印象で終わった。太平洋戦争下の「大政翼賛会」的な、言論や出版に対する弾圧という構図と、社会の表層をたびたび覆うカビのような〈差別表現〉の問題の二つのみと言っていい。カビに例えたのは、拭っても拭ってもまたしばらくたつと顕れるのが〈差別表現〉の話題だからだ。

 なにが言いたいかというと、それほど著者に社会問題への意識があるわけではないということだ。問題の取り上げ方もかなり紋切り型で深さはない。今回は、自身の著作がテロの参考にされたと噂される作家を拘束することで、作家の創作活動自体を取り締まろうとするメディア管理委員会との激しい攻防が描かれるが、この趣向はすでに前作・前々作の使い回しにすぎない。はっきり言ってしまうが、出版にまつわる様々な問題は、魅力的な登場人物たちを思う存分暴れさせる方便だろう。

 もちろん「方便」で何が悪いという意見もあるだろう。そんな事より「魅力的な登場人物」の痛快なストーリーの方を見るべきではないのか。確かにそう言われてしまえば、それまでだ。しかし、もう少しだけ言わせてもらえば、前作で稲嶺司令が一線を退いたことで、ますます図書隊の大義名分が曖昧になった事によって、このシリーズの始まりでは機能していた方便が、ほとんど機能しなくなったように感じられる。やはり全3巻で終わらせた方がよかったのではないかと邪推してしまう。

 となると、描き残された郁と堂上のロマンスへの期待は否が応でも高まる。なにせ本作の冒頭の喫茶店でのデートで、なんと二人は唐突にも極甘な恋人同士の会話を繰り広げているのだ。堂上の負傷をクライマックスにもってくれば、非常にドラマティックな月9の最終回あるいは一週前の回として見応えがありそうだが、本作では、そこまで描き切ろうとはしていない。そもそも、この二人に感動的なラブストーリーを期待する方が間違いなんだろうか。

 狙われた作家を安全に保護するために郁が思いつきで言った一言は、関東図書隊を全力で当たらせる奇策へと昇格する。堂上は重傷を負い、郁が作家を引き連れて孤軍奮闘する終盤の展開は、それなりにスリリングなゲーム感覚を味わえる。ただし、何せ宿敵であるはずのメディア管理委員会を「知略に長けた手強い組織」として描いてこなかったツケが、最後まで残った。どうしても郁に命がけのミッションという緊張感が感じられないし、息をもつかせぬドンデン返しも一切ない。

 どんでん返しはない代わりに、僕らには待ちかねたお約束の展開が待ち受けている。ミッション終了後に、堂上と郁のちょっと恥ずかしくなるような再会のシーンが用意されているからだ。月9というよりは、かつて70年代に石立鉄雄(70年代を生きた人でないとわからないか)が主役を張っていたホームドラマの最終回かのような、うぶではずかしげてもどかしくてちょっとときめくような盛り上げ方で二人は恋人同士になる。もうとっくに恋人だよ、だれが見てもね。

 エピローグは、さらにお約束の展開だ。これはネタばらししない方がいいだろう。青春映画にはよくある展開だ。誰もが成長していくということだ。まだ未読の方は、ここまでたどり着くまでにはぜひとも4冊を順番に読まねばならないとだけ言っておこう。
(2008年1月31日初出)


[追記]
 なんだかんだ言って、当時の僕は結末の展開に満足しているようだ。ところが、未読の人にネタバレにならないように配慮して、エピローグの内容は伏せている。いや、配慮したというよりは、先に結末を読んだ者としての特権で、未読の読者をじらしていたんだろうな。ところが、今やどんなエピローグだったか思い出せない。あれだったかな?仕方ない。もう一度最初から読むか、全4巻!
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2011年06月13日

図書館危機 有川浩(2007年3月20日読了)

 前作「図書館内乱」の書評で、このシリーズの読み方を間違っていたと書いた。だから本作以後、このシリーズの感想は作品の安直さを単純に楽しむことにするべきだろう。ただし一作目「図書館戦争」で僕を期待させた罪は大きいので、恨みつらみを吐き出す意味で不満から書いていく。(要するにおじさんの怒りは、まだ静まっていないわけだ。)

 第一作「図書館戦争」の時から巻末に参考文献を挙げていた。今回もまったく同じページが用意されている。そこには、こう書かれている。

一巻『図書館戦争』二巻『図書館内乱』と同じ

 これは著者ならびに編集部の決定的な失策だろう。読者に失礼極まりない。誰だってそう思うだろうが、最初から読んでいる読者しか相手にしないと言っているも同然だ。もしくはすでに連続ドラマ化したストーリーだから、一、二巻を読んだ人しか読まないだろうと高をくくった結果かもしれない。

 いずれにしても判ることは、著者は本作を書くにあたって前2作のようには「下調べ」をしていないという事だ。それだけで新鮮味に欠ける内容だと白状しているわけだ。あとがきで著者は、放送禁止用語の資料を「一応手元に置いてある」と書いている。その資料の内容から「あるエピソード」につながり、「床屋」の話が出来上がる。「一応」という姿勢から出来上がった物語は、こういう話だ。

 本シリーズおなじみの出版社が、あるトップアイドルの本を出版する事になった。ところが「床屋」という言葉が今の世の中では「規制用語なので使えない。出版社が勝手に「理髪店」や「理髪師」に言葉を置きかえた事から、そのアイドルの非難を浴びるという物語だ。だからと言っては何だが、第2作「図書館内乱」の感想でケチをつけたように、今回も差別用語の本質を見落とした解決になっている(ように僕は感じる)。構図は、前作の途中難聴者の女子高生の場合と同じなのだ。

 つぎに、やはり巻末に図書隊の職域と階級とが毎回掲載される。こちらは徽章のデザインまでご丁寧に載せている。しかも何故か上記の参考文献のようには省略していない。ここからある意図を見い出すことは難しくない。ひとつは、差別用語に関する参考文献を挙げない事で、作品が提示するシリアスな問題に対して実は真正面には取り組んではいないという著者の宣言(言い訳)であり、もうひとつは本シリーズが図書隊という架空組織を隠れ蓑にした「戦争物」に過ぎないという点だ。

 そうであるならば、階級やら職域やら日頃僕らには無縁の用語がことさら大事にされるのは当然であり、軍隊の規律重視の観点からも、それを省略する事などは著者には出来ない相談なのだろう。そして軍隊の雰囲気をかもしだす<意匠としての意義>も見過ごせないが、何より徽章のカミツレに格別な思いがこもっているというエピソードをあえて本作で書き込む姿勢は、今風に言えば<図書隊(軍隊)の品格>ひいては日本人の品格を描こうという自称プチナショナリストである著者の会心のもくろみでもある。

 もちろん国家や権力者を直接象徴する意匠ではなく、日本人としての感性に訴えかける野の花に、図書隊の理念を代弁させる著者のもくろみこそは<たわいもない>と言ってしまえばそれまでだ。ただし、ここまで見てきたように、エンターテイメント作家としては年季の入った著者の企みは、<たわいもない>ですまされるほど無邪気なものではなさそうだ。それが証拠に、茨城の美術館の展示のエピソードでは、司令・稲嶺の思いが込められたカミツレは、すべての正義を図書隊に背負わせる、言わば<代紋>と化している。そして、軍隊としての図書隊の意義を認めない団体「無抵抗者の会」を、まったくの反動組織として描くことで図書隊の〈正義〉を正当化しようとする。

 おまけに、この市民団体が結局はメディア良化委員会と裏でつながっていたと暴く結末にいたっては、もう好きにしてくれと言いたくなるようなばかげた設定だ。とにもかくにも図書隊とは何かと言えば、善意の主人公たちが正義を体現する「稲嶺指令の私兵」であることは間違いない。

 さて、ところで本作終盤でいよいよ稲嶺指令が勇退する。つまり私兵だった主人公たちは図書隊の理念そのものを正当化する後ろ盾を失う事になる。そのとき主人公たちは、果たして自らの正義をつらぬけるかが、次回完結編(のはず)の主要なテーマの一つになるだろう。メディア問題へのアプローチの甘さや、軍隊への安易なノスタルジーに目をつむれば、物語の展開は多少なりとも面白くなってきた。

 特に郁(いく)の同僚・手塚の兄は、これまで表立って図書隊の覇権を握ろうと行動してこなかったが、稲嶺が退く事で本格的に図書隊に介入してくる事は必至だ。そこをどう乗り切るかがクライマックスだと予想はつくが、はてそこまで手塚の兄が存在感のある悪役とは見えない。どうせなら権力に屈して図書隊自体が解体されるところまで描いて、それでもなお再生していく究極のヒーロードラマに仕立てて終わって欲しいものだ。

 しかしこのシリーズの読者ならば分かり切った事であろうが、最大の関心事は図書隊の行方ではない。もちろん、郁と堂上とのラブストーリーとしての展開がどう落ち着くのかという点だ。すでに郁にとっての〈白馬の王子様〉が堂上であったことを郁自身が知ってしまい、前作「図書館内乱」では困惑するところで終わってしまったが、本作では王子様ではなく堂上本人を恋愛対象として見直すようになる。しかし堂上は郁が知ってしまった事を知らない。

 そこらへんの気持ちの温度差とすれ違いを、まさに月9のように派手派手しく描いていけば、本当にドラマ化も夢じゃないかもしれない。(でもやっぱり図書隊という設定は月9向きじゃないと思うのだけど…。)
(2007年4月11日初出)


[追記]

 まだ「図書館戦争」の続編が出る頃には、三部作だ、いや四部作だ、いやいや別冊がなんと2冊もでるぞ、などとはついぞ知らなかったので、本作のあとがきで四部作になりそうだと明かされたときは、結構あきれた。そういう状況だったので、本作のように参考文献が「一巻『図書館戦争』二巻『図書館内乱』と同じ」などという粗雑な書き方は許されるものではないと、当時の「おじさん」はちょっといらっとしたのだ。いまや文庫ではシリーズである事は前提なので、第3作から買うバカもいないだろう。もはや僕の論点も賞味期限切れだ。
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2011年06月10日

図書館内乱 有川浩(2006年12月25日読了)

 確かに面白かったはずだ。<本の雑誌」が選ぶ2006年上半期エンターテインメント第1位に輝いた>と本書の帯に惹起されるシリーズ第一作『図書館戦争』は。その面白さをひと言で言えば、たわいもないという事に尽きる。人間関係の分かりやすさもさることながら、勧善懲悪をひとつふたつ<ひねった>つもりで、間違いなく今風の勧善懲悪に違いないところもそうだ。

 一方で、たわいもない描写の深層には、著者の物書きとしてのモラルが見え隠れする。メディア良化法施行以来の良化委員会と図書隊との飽くことのない闘いの日々から、「現代社会の歪み」とまでは大げさにしても、図書あるいは出版の現実を見直す契機へと読者を促す事を意図したシリーズなのだろうと、前作を読んだ時は思ったのだ。

 まがいなりにも文章を書くことを職業にする限りは、出版・書店・図書館などの置かれた現実を見据えることは当然と言えば言えるし、とくに昨今の規制ばやりの保守反動的な動きにもの申したいという気持ちが著者にあったとしてもおかしくはない。ただ、それにしては出版物の「言葉狩り」という側面だけをクローズアップしているだけで、内容が物足りない。続編が出るらしいから、出版の問題を横展開していろいろと取り上げてほしいと、前作の書評で勝手ながら希望を述べた。その答えが本作だ。

 そして、正直言うと失望というのは言い過ぎにしても非常に残念な内容となっていた。簡単に言えば、著者にはメディアの規制もしくは言葉狩りといったお題目から何一つ踏み出るつもりはないらしい。新しい元号(らしきもの)で描かれるこの作品の舞台では、おなじみのメンバーが繰り広げる戯れ言の外側で、一般市民とか一般社会がどのような問題を抱えて、なにより図書館や図書隊になにを期待しているのかさっぱり見えてこない。社会情勢といったカケラも見えて来ないのだ。それでいて出版物や著作権ならびに読書の自由についてだけは、ことさらにコダワリ続けるのが図書隊という存在だ。一体かれらが守ろうとしているものは何なのだろう。言葉なのか人間なのか。

 もちろん「人間」なのだと著者だけでなく好意的な読者は言うだろう。なによりも本作で〈ろうあ〉の問題をあえて取り上げ、途中難聴者である女子高生を介在させての代理合戦を描く事で、図書隊が守るものが出版物ひいては言論であるだけではなく、最終的に人間そのものを守っていることは明らかだと言う読者も多いだろう。

 しかしあえて言わせてもらえば、女子高生は途中難聴者である前に図書隊の隊員・小牧の幼なじみである。と同時に慕い慕われる間柄でもあるのだから、さらにはそれを暖かい眼差しで見守る堂上・笠原ら同僚がいるという構図そのものが、すでに出来レースと言えなくもない。つまりは最初から図書隊が扱う問題は、誰にも文句を言わせない立場から声高に主張する正義のようなものだ。

 単なるエンターテインメントに過ぎない本書で、これ以上の深入りは禁物だろうが、<途中難聴者>という表現にこだわる著者の姿勢自体も、仮想敵として描いてきた良化委員会ならびにメディア規制法の理念を後押ししている事に著者自身が無自覚だと言ったら言い過ぎだろうか。いや参考文献を挙げて下調べをした上で本シリーズを立ち上げている著者だから、故意に知らばっくれているのかもしれない。

 分かりよく言えば、セクハラかどうかの線引きが<行為そのもの>にあるのではなく、行為を受けた人がどう感じるかにしかないという一種の不条理であるのと同様に、言葉の規制そのものも不条理にならざるを得ないという自覚無しには、良い悪いの議論は成り立たない。もうちょっと立ち入った言い方をすれば、良化委員会と図書隊の代理戦争は、著者が言うところの「二元論」というほど大それたものではない。たんなる私憤に毛が生えた程度のもので、そもそも女子高生と懇意にする小牧や同僚たちの、女子高生本人に対する心のこもった思いやり以上に有効な主張があるわけではない。

 だとすると、だ。僕は、ますますこの本の読み方を間違えているという気がしてきた。「図書館戦争」が与えた衝撃というか、「設定の妙」に期待しすぎてしまったというところだろう。第3作「図書館危機」をついおととい読み終えて、また同じ感想を書く羽目になっても仕方がない。だってまったくの繰り返しなのだよ、良化委員会と図書隊の争いは。予告すると第3作のキーワードは「床屋」なのだが、これも突っ込もうと思えば容易に突っ込める議論を引き起こすという事は指摘しておこう。

 となると、なんでおまえは読むのかと言われそうだ。理屈をこねくり回した挙げ句に「理屈で読む本じゃない」と納得したからには、ここで放棄すればいいわけだ。では面白いからか。違う。もう面白くない。だって(「だって」という言葉遣いをあえて使うところから、論調が変わったって気づいてね)、「図書館戦争」ほどの新鮮味はないから。強いて言えばマンネリの安堵感と、登場人物の行く末を見届けたいという最終回願望だろう。とは言え、「図書館危機」の著者あとがきにショックを受けたのは、僕だけはないだろうな。まだ続くんだよ〜。
(2007年3月22日初出)


[追記(2011/6/10)]
 なんだかんだ文句を言いながらも、別冊2冊を含めてシリーズ完結まで読んでしまった身としては、この第2作、第3作の読み方を「ラノベ読み」へとシフトしていくのに、思いの外手こずったということだろう。それほど、一作目の「図書館戦争」のアイディアは、ある意味で近未来SF以上のリアリティをもっていたのだ。その点を追求して「もうひとつの図書館戦争」を描いて欲しかったなぁという心残りは、今も捨て切れてはいない。

 でも、おそらくそうであったならば、この作品があれほどまでに漫画やアニメに姿を変えてメディアを席捲し、有川浩が流行作家の地歩を築く足がかりになる事はなかったかもしれない。その後の作品を見れば、ラノベ時代に仮想的な軍隊ものばかりを描いていたからといって、彼女の書きたい物が、そういったマニア受けするものに限定されないのは、今書店にならぶ「阪急電車」や「シアター」などを見れば、一目瞭然だ。要するに僕のちっぽけなこだわりなど消し飛ぶほどに、有川浩は前を見据えてひたすら前進しているのだった。
posted by アスラン at 12:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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