カテゴリ記事リスト
漱石と三人の読者 石原千秋(2004年11月13日読了)(05/09)
将棋の子 大崎善生(2012/3/20読了)(05/07)
ねじの回転/デイジー・ミラー ヘンリー・ジェイムス(2005/05/21読了)(04/26)
野蛮な読書 平松洋子(2012/4/4読了)(04/23)
羊をめぐる冒険 村上春樹(2004年11月19日読了)(04/19)
語り女たち 北村薫(2004年10月29日読了)(03/28)
パーク・ライフ 吉田修一(2004年10月31日読了)(03/06)
ジャンプ 佐藤正午(2004/06/29読了)(02/21)
ストロベリーナイト 誉田哲也(2012/2/2読了)(02/07)
本陣殺人事件 横溝正史(2005/05/26読了、電子ブックにて)(01/30)
下山事件(シモヤマ・ケース) 森達也(2004/07/14読了)(01/20)
愛娘にさよならを(刑事雪平夏見) 秦建日子(2012/1/13読了)(01/19)
ハイゼンベルクの顕微鏡 不確定性原理は超えられるか 石井茂(2006年5月28日読了)(01/16)
謎解きはディナーのあとで 東川篤哉(2012/1/4読了)(01/12)
飛蝗の農場 ジェレミー・ドロンフィールド(2011/12/23読了)(01/10)
野茂英雄−日米の野球をどう変えたか ロバート・ホワイティング(2012/1/5読了)(01/09)
鉄人28号論 光プロダクション(2005/05/18読了)(12/26)
バムとケロのもりのこや 島田ゆか(2011/11/27読了)(12/20)
啄木・ローマ字日記 石川啄木(2005/05/13読了)(12/16)
チムニーズ館の秘密 アガサ・クリスティー(2011/11/10読了,再読)(12/14)

2012年05月09日

漱石と三人の読者 石原千秋(2004年11月13日読了)

 久々に漱石本を読んだ。一時期ちくまの全集を読破して、以来漱石の追っかけを自称してる僕としては、こうした評論を読む事も楽しみのひとつだ。漱石に関する山のような批評に新たに付け加える事などないという議論がある一方で、やはり言い足りない研究家も後を絶たない。本書もその一冊だが、期待させた割に中身がお粗末だ。

 タイトルにある「三人の読者」は、身近な読者(同業者など)、顔の見える読者(一般読者)、想定外の読者(読者でない人)を意味する。つまり漱石が誰に対して書いたかと、誰に読まれたかを分析する事で、新たな批評を打ち出そうという試みだ。試み自体は面白いと思うが、志なかばと言うか上手い手際とは思わない。

 著者自身は漱石研究家ではないと断っておきながら、あまりに先の研究家から負っているものが多いし、トリビアな事をあげつらう論調も気になる。また「三人の読者」という切り口を無理に漱石作品全作に当てはめようとして果たせず、淡白にやりすごした作品もある。

 一番気にくわないのは一般読者を見くびった書き方だ。この書で山場にあたる「三四郎」の三四郎池での美禰子との出会いの場面の分析など、いかに研究者が小説を小説として読まず、テキストだけを読んでるかの好例かもしれない。

口直しに漱石を読みたくなった。
(2005年5月27日初出)


[追記(2012/5/9)]
 その後、同著者の「漱石はどう読まれてきたか」という本が出版されて、性懲りもなく読んでしまった。学際的な著者の手つきは気にくわないが、現代において漱石を取り上げる姿勢は買いたい。そのジレンマを抱えて、ついまた懲りずに読んだわけだが、結果的には「漱石はどう読まれてきたか」は面白く読めた。

 その理由の一つは、著者自身が大学における漱石研究に飽き足らなくなってしまったという事が挙げられる。テクスト論からのアプローチだけではなく、書評家や作家、あるいは市井の一研究者の労作にまで目配せした上で、漱石と漱石作品をどう捉えるかという事の一助にしようという動機はきわめて真っ当だと思うからだ。
posted by アスラン at 16:40 | Comment(1) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月07日

将棋の子 大崎善生(2012/3/20読了)

 最近将棋に関する本をかならず一冊は図書館で予約するようになった。それというのも、うちの7歳になる息子が「将棋を指す」ようになったからだ。うちのこどもには「将棋を指す才能がある」。と言えれば話は簡単なのだが、そうではない。うちの子供にあるのは、今のところ「将棋を好きになる才能」なのだ。

 そもそも一年前には将棋の駒の動かし方どころか将棋の存在さえ知らなかった息子は、たまたま就学前の学童保育所の見学で、将棋に興ずる上級生と一緒に遊んだのがきっかけで家でもやりたいと言い出した。それから親の方が大慌てになった。将棋のやり方などうろおぼえだったからだ。将棋盤などもちろんない。小学校に入学すると同時に旅行用のミニ将棋盤を買い与え、一緒になってルールを覚えて、「将棋を指す」毎日が始まった。

 そのときはまだ父親が教える役を果たせたが、あっと言う間に役立たずになる時がくるとは、さすがに気づいていなかった。息子は、買い与えたり図書館で調達したりした将棋の本をあれこれと読みあさり、将棋の金言から基本の手筋にいたるまで次々に吸収していった。そこで、先を見通したママが隣町で見つけた将棋教室に通わせることにした。

 将棋を楽しむ子供をもつ親なら誰もが知っている、あの「JT子供将棋大会」にも出場した。まさかあのようなすさまじい規模の大会になるとは思いもしなかったが、午前の部を終わってみれば予選を3勝して勝ちあがるという上出来の結果だった。親は満足だったが、息子はトーナメントに勝ちあがった事に舞い上がってしまった。まだ1000人近くが残っているというのに。

 決勝トーナメントの初戦で、強面の対戦相手にあっと言う間に負かされたのが悔しくて悔しくて、息子はさんざん泣いた。同日に渡辺明竜王との早指し対局を制した羽生善治九段が帰り際に握手してくれるというオマケまでついてきたというのに、息子は超不機嫌状態で家路に着いた。今の羽生びいきぶりを見るにつけ、本当にもったいないことをした。

 さてうちの子は将棋を始めて一年がたち、誰がみても「将棋の子ども」となった。だが、この本のタイトルである「将棋の子」は、息子を含めて日本に何万人もいるであろう〈将棋好きの子供〉を意味するわけではない。プロ棋士を目指して果たせなかった奨励会退会者たちのことを、間近に見てきた著者ならではのいとおしさをこめて「将棋の子」と呼ぶ。

 不祥事続きの相撲界では、旧態依然としたしきたりに何かと批判が集中しているが、将棋の世界の決まり事は、相撲界の比ではないかもしれない。まさに「あべこべの世界」と言ってもいい。その最たるものが奨励会制度だ。プロを目指す者は必ず奨励会に所属する。奨励会では6級からスタートして4段への昇段を目指す。4段になるとプロとして社団法人「日本将棋連盟」の会員、いわゆる社員となるのだ。しかし、そこには厳しい年齢制限があり、

「満23歳(※2003年度奨励会試験合格者より満21歳)の誕生日までに初段、満26歳の誕生日を含むリーグ終了までに四段になれなかった場合は退会となる。」


と定められている。この決まりがあるため、期限までに到達できなかった者はどんなに将棋の才能があろうとも、二度とプロにはなれない。将棋の世界にはトライアウトなどないのだ。

 なぜこんな厳しい決まりになっているかというと、そこには将棋という文化の特殊な事情がある。そもそも四〇〇年前に徳川家康が当時の棋士第一人者に扶持を与え、名人が誕生した事から、日本のプロ将棋の歴史は始まる。つまりは為政者のお抱え棋士だった。それから時を経て、近代将棋を確立するために日本将棋連盟が発足し、棋士たちはすべて社員となった。日本将棋連盟は社団法人ではあるが、言ってみれば成長が少ない分野でほそぼそと食いつないでいる中小企業のようなものだ。だから、新入社員は年に2名と決められている。それも奨励会から選抜され昇段した四段棋士2名のみ。

 やっとの思いでプロになった者もいれば、すんなりプロ入りを果たしてさらに高みを目指す者もいる。確かなことは、彼らプロ棋士の影には、退会規定や自らの事情に阻まれて人知れず姿を消したたくさんの「将棋の子」がいたという事だ。

 本書では、いわゆる羽生世代と呼ばれる、現在の将棋界をリードするトップ棋士たちの少し前に奨励会入りし、嵐に巻き込まれるかのように次々と羽生たちに遅れをとって退会をやむなくした「将棋の子」たちにフォーカスしていく。彼らこそが、将棋の楽しさも苦しさも味わってきた生き証人だからだ。

 僕は正直「聖の青春」の著者が、雑誌『将棋世界』の編集長をつとめた年月に暖めてきた企画ぐらいにしか思ってこなかったが、いざ将棋に熱中する子をもつ親として将棋に関わるようになって、著者のいわく言いがたい思いが伝わってきた。将棋が好きというだけで将棋に人生を賭けてきた彼ら将棋の子たちに、むなしいだけの第二の人生を与えるのが「将棋」なのか。将棋は彼らにとって、そして著者にとって、どんな意味を持つのか。それを確かめたい。著者の切なる思いは、僕ら親にとっても無視できない大きな問いかけなのだ。
posted by アスラン at 19:29 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月26日

ねじの回転/デイジー・ミラー ヘンリー・ジェイムス(2005/05/21読了)

 ヘンリー・ジェイムス。どこかで聞いた名前だと思った。映画「鳩の翼」の原作者として知ってたんだ。「ある貴婦人の肖像」の著者と言った方が通りがいいのかな。この作品もやはり映画化されていて、かの「ピアノ・レッスン」の事だ。残念ながらこっちは観てない。

 「鳩の翼」は、女友達同士が共通の男性に惹かれてしまうという話だったような気がする。英国やベニスで観光をしたり美術を見てまわったりしながら、背徳と退廃の雰囲気がまとわりつく、まあ一言で言ってウツウツとした映画だった。十九世紀末を生きた著者は、もっぱら世紀末ムードをたたえたヨーロッパと新世界アメリカの文化や精神を対比した作品を書いたようで、「デイジーミラー」も「ねじの回転」も、滅びゆく側のあえぎにも似た苛立ちや憎悪が描かれる。

 どちらも読んでいてデジャブのような感覚にとらわれた。僕は映画を観てるのだ、と。「デイジー」の方はパトリス・ルコントの「イヴォンヌの香り 」に似ている。美しい湖で、主人公の男は湖によく映える美しい女性に出会う。男は上流階級のモラルを疑いもせず生きてきたから、女性の囚われない奔放さに魅せられてしまい、怪しげで奔放な女性に色香に完全に惑わされてしまう。

 一方、「ねじの回転」の方はアレクサンドロ・アメナーバルの「アザーズ」に雰囲気がそっくりだ。いや、もちろんどちらの映画もジェイムス作品に影響を受けているというのが正しいところだろう。それくらい、ヘンリー・ジェイムスという作家は、映像作家にインスピレーションを与えやすい書き手だと言える。

特に「アザーズ」は、「ねじの回転」が書かれていなければできなかったくらいに影響が顕著だ。「ねじの回転」が、今となってはゴシックホラーとしての恐怖感が薄らいだとしても、「真の怖さは人の心が生み出す闇にある」という当時としての卓見が見事に作品に昇華されているところが興味深い。
(2005/5/23初出)
posted by アスラン at 19:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月23日

野蛮な読書 平松洋子(2012/4/4読了)

 読書の達人で、かつ本の紹介がうまい人の手にかかると、たちまちのうちに自分の読書リストも増えていくものだと思っていた。例えば北上次郎しかり、高橋源一郎しかりだ。ところが、この本の著者の読書は少し変わっていて、通して読んでも実はそれほど共感をもてるような本や作家にめぐりあえたわけではない。

 著者の言う「野蛮な読書」というのは、言ってみればごくごくパーソナルな趣味嗜好であって、それを赤裸々に洗いざらいぶちまけているところが、まさに野蛮なところなのかもしれない。

 例えば、著者自身はきわめて美食家であり、食べる事のエロチックな感覚も十分に知り尽くした上に、うまいものをむさぼるという醜い欲望を自らの皮下脂肪に蓄え続ける。一方で年に一度、絶食療法の合宿に参加する事の理不尽には目をつぶり、次第に食事の量が減っていった先に一杯のおかゆの陶酔にたどり着く。これこそが、著者が生きてきた人生の中に芽生えた野蛮そのものなのだ。

 だからこそ著者は、宇能鴻一郎の後半生にたどり着いた「あたし、濡れるんです」の文体の中に、彼の抑えようのなかった欲望の闇から結実した達成を見る。あるいは獅子文六のわがまま放題、身勝手な美食にも共鳴する。さらには女優・沢村貞子が一人の男へ捧げた人生すら、美談ではなく「野蛮な美食」であったのだと思う著者は、そのあっけなくも突然の終わりを見届けようとするのだ。
posted by アスラン at 13:00 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月19日

羊をめぐる冒険 村上春樹(2004年11月19日読了)

 不思議な感覚だ、連作を遡って読むのは。特に「ダンスダンスダンス」から「羊」にリターンするのは。

例えばあれほど頻繁に出てきたダンキンドーナツが出てこない。かろうじて「ドーナツショップ」がでてくる。まだ「僕」にとってはリーバイスのジーンズほどのブランドでなかったのだろうか。

 本作の「僕」はまだ若い。それは若いという事が反社会的と同義であった時代の名残があるという意味で。羊博士も黒服の男もいまや無意味となったマルクス主義の終焉を語るし、なにより「僕」は学生運動にあけくれた日々をかくさない。いまや過去であるにしても。

 それに比べると「ダンス」の「僕」のなんと身軽になった事だろう。もう理論武装する必要もない。「「羊」でことさらに自分の好みのカルチャーを微にいり細をうがって描いた文体は「ダンス」にはない。もはやポップであることは反動でもなんでもない、当たり前の事になった。

それは「僕」すなわち著者自身の成熟を意味するのかもしれない。それとも高度成長期をやりすごすのと、バブルただなかをやりすごすのでは「僕」のスタイルが違うだけなのかも知れない。

 いずれにしても僕は「村上春樹」を遡り続けなくては。
(2005年5月25日初出)

posted by アスラン at 12:55 | Comment(0) | TrackBack(2) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月28日

語り女たち 北村薫(2004年10月29日読了)

 「アラビアンナイト(千夜一夜物語)」のような趣向で、語り女(かたりめ)として夜伽を命じられたとおぼしき様々な女性が、懐かしい話、不思議な話、怖い話を語り継いでいく短編集。

 といっても、横暴な君主が残酷な死と引き替えに寝物語を語らせるわけではなく、高等遊民らしい控えめな男が海辺の静養地の一室で、語り女たちに自由気ままに物語を語らせている。

 北村薫らしいと言えばそうだけれど、最近の趣味を反映してか、夢かまぼろしのように輪郭が曖昧な小編を揃えた短編集になっている。

 僕は、どちらかというと「水を眠る」のような、ファンタスティックで、それでいてどこか日常とリアルな接点をもった作品が好きだ。本作でも、そういうテイストの作品がいくつか紛れ込んでいる。一気に読んでしまってちょっと勿体なかったかな。いずれゆっくりともう一度味わいたいな。
(2005年5月21日初出)
posted by アスラン at 12:34 | Comment(0) | TrackBack(2) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月06日

パーク・ライフ 吉田修一(2004年10月31日読了)

 著者の「パレード」を読んだ時、当時放映中の「東京湾景」よりもよっぽどテレビドラマに向いていると思った。文章は読みやすいし、登場する若者の今風な描き方も良かったし、なにより物語の展開の軽さもドラマにピッタリだった。と思ったら、最後にガツンとやられた。テレビじゃ無理か。なかなか侮れない。吉田修一の作品の特徴とも言えると思うが、日常の何気ない風景を切り取って描いているかに見えて、人が、いやひょっとしたら都会という生き物が隠しもってる狂気を、次第に浮かびあがらせていくような仕掛けがあるのだ。

 「パレード」を読んで吉田修一の手口をすっかりわかっていると思っている読者は、本書の表題作でもある「パーク・ライフ」でも、あんな終り方するのかしらと思うかもしれない。なにしろ出だしから、日比谷公園でののどかな風景が描かれる。深刻にならない程度に孤独で、それを楽しんでもいる人々がいる。そこにちょっとだけ変わり者の主人公が、ちょっとだけ好奇心の強い女性と公園で再会する。それが物語の始まりだ。と思って何事か起きるのを期待しているうちに二人の物語は終わってしまう。いやもしかしたら始まってもいない。

 でも、やはり何かが確実に終わりを告げ、そして何かが始まったのだ。それが女性の別れ際のたった一言であり、しかも語り手でもある主人公の青年にも真実を知らされる事のない何かだ。僕らは、そのあっけない一瞬に呆然とするしかない。読み手だけでなく語り手にも秘密のまま著者は作品を終わらせてしまうところが、なんともスゴい。柔らかい文体の体裁とはかけ離れて、きわめて悪意に満ちた一撃だ。それに比べれば、もう一編の「flower」なんて分かりやすいものだ。
(2005年5月20日初出)
posted by アスラン at 19:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月21日

ジャンプ 佐藤正午(2004/06/29読了)

 コンビニでリンゴを買ってくると言って、そのまま失踪してしまったガールフレンドを追い求める主人公。ある日突然、目の前から身近な人がいなくなってしまったら、どんな気持ちになるだろうか。そこには北朝鮮による拉致被害者と家族の間に存在するような政治や謀略の厚い壁はない。ただただ、残された者の理不尽な思いだけが永遠に続くだけだ。

 結末のあっけなさや物足りなさは、横山秀夫の「半落ち」を読んだ後の感想と一緒だけれど、そこに至るまでの物語や主人公の内面の動きに対して、僕ら読者が決して傍観者のままでいられなくなるドキドキ感まで同じだった。

 しかし、佐藤正午は、以前に読んだ「Y」といい、本作といい、ストーリーの展開もうまいし、ラストの切なさも申し分ない。いや、うますぎるぞ!
(2005/5/14初出)

posted by アスラン at 20:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月07日

ストロベリーナイト 誉田哲也(2012/2/2読了)

 満員電車に揺られながら扉わきの壁面に掲げられた広告で、新番組のドラマの出演者がモノクロのモダンな色調の下、横並びになっているのをたまたま見つけた。顔ぶれをながめると、主演の竹内結子は別にしても、その他の俳優はくせ者をそろえたという感じがした。しかも、まあよくもそろえたなぁと一目でわかるくらいに見事なそろいっぷりで、これはもう、かなり濃い群像劇になるのは間違いないなと、期待してしまった。



 難点があるとすれば、やはりヒロインの彼女だ。こういったくせ者たちと渡り合うには、彼女はやや上っ面すぎはしないだろうか、などと余計な詮索をしてしまった。だからいざ本放送が始まり、録画してはみたものの、レコーダーの容量がまったく足らず、明日からの欠かすことのできない番組の予約さえも消化できないとわかった時、冒頭の数分を見ただけで、フジテレビ「ストロベリーナイト」を見続けるのはあきらめた。

 その決断を迫られたときにはすでに、図書館で単行本の本書を借りていたので、まいどおなじみの「読んでから見るか、見てから読むか」の二者択一を決め損なっていたということも、ドラマをあきらめた理由のひとつだった。ドラマの録画をやめたら、とたんに読みびかえていた本書のページが進んでいった。

 今回が誉田作品を読む初めての機会だが、非常に人気の訳はすぐにわかった。警察官であるヒロインをとりまく登場人物ひとりひとりの性格が丁寧に描き分けられている。しかも一見すると複雑な人間関係が形作られているようにみえる。これだけの人間の濃密な利害関係を抱え込みながら、同時にヒロイン自身も心に深い傷を受けて、誰にも分かちがたい闇を隠し持っている。予感としてjは、ヒロインは早晩精神的な崩壊の瀬戸際まで追い込まれるに違いない。そこまで書ききる筆力が、著者にあるのだろうか。お手並み拝見といったところだ。

 ただ、ヒロイン姫川警部補のいわゆる天敵・勝俣という人物が描き込まれていけばいくほど、なんだか武田鉄矢の顔が浮かんでくるようになった。もちろん車内広告の横並びの右端に存在感を顕わにしていたのを覚えていたからだが、同時にNHKで以前放映された「刑事の現場2」の際の、森山未來の若さを受け止める悪徳刑事役の武田鉄矢に、勝俣という役柄がばっちりフォーカスが合ってしまったからだ。なんだ、けっこう心温まる刑事ドラマになりそうではないか。

 しかも、颯爽としたヒロインだと思っていた姫川だが、意外にインスピレーションだけで事件の核心をつかんではみるものの、先走って周囲をかき回すような未熟さをあわせ持つアンバランスな女性である事が分かってくる。結局は凶悪な犯人に裏をかかれて窮地に追い込まれ、武田鉄矢に、いや勝俣に思いっきり助けられる。無様としか言いようがない。ああ、なるほど。姫川=竹内という配役は、まさにぴったりかもしれない。

 そういう、あえて言えば「わかりやすい人間たち」が、一見すると複雑に入り組んだ組織と人間関係の中で互いの利害を主張しながらも、最後まで深みに足を取られることなく、なし崩しに事件は解決を見る。そういう読みやすい警察物と言える。真の犯人が誰なのかも、実はあまり隠されていない。なんとなく最初から「こいつだろうな」と見えてしまう。そんなところまで「わかりやすい」のは、本当を言えばミステリーとしての欠点に違いないのだが、こと刑事ドラマとしては、読み手を選ばない長所の一つに数えていいのだろう。

 さて、とりあえず「ストロベリーナイト」で仕込みは完了した。シリーズ続編まで様子を見てみるとしようか。
posted by アスラン at 12:50 | 東京 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月30日

本陣殺人事件 横溝正史(2005/05/26読了、電子ブックにて)

 私はこの事件の真相をはじめて聞いたとき、すぐに今まで読んだ小説の中に、これと似た事件はないかと記憶の底を探ってみた。私は先ずルルーの「黄色の部屋」を思いうかべた。(「本陣殺人事件」より引用)

その昔、若き角川春樹が角川書店の社長に就任して、小説、映画、アイドル、歌、CMなどあらゆるメディアを総動員したお祭り騒ぎが始まった。そして『角川映画』というジャンルができた。メディアミックスの先駆けとなった角川スタイルの先鋒に選ばれたのが、横溝正史であり金田一耕助だった。


古くてすでに手垢がついた横溝作品だったはずが、きらびやかで儀式的な連続殺人、荒唐無稽な殺人理由、ケレン味溢れる人間関係、因習から抜け出せない、かつて日本に存在したはずの村、そのどれをとっても、推理小説をミステリーと言い換えるのに必要な条件を満たしていた。そのうえ、凄惨な舞台でありながらどこか楽天的なムードを漂わせる探偵の存在は、お祭り騒ぎを演出するには決定的な要件だったのだ。

 ところで、本当は第何次ブームかに当たる横溝正史シリーズは、市川昆・石坂浩二コンビの生み出す角川映画で始まった訳ではなく、古谷一行演じる飄々とした金田一を配したテレビシリーズが火付け役だった。そのシリーズ第一作が「本陣殺人事件」だった(と思う)。

 かつての本陣であった旧家のはなれで起こる新婚初夜の殺人。

雪に囲まれた密室、庭に突き刺さった凶器の抜き身、庭の木に置き忘れられた鎌。

欄間、琴爪、屏風に残された三本指の血の跡。

糸を切られた琴、竹藪、水車、炭焼き小屋。

 視覚を刺激する小道具をこれでもかと配置した挙句に、宴の後に誰もが寝静まった明け方近く、琴の音が二回、無造作にかき鳴らされる。道具立ても、ここまで細をうがてば見事という他ない。そして極めつけが、被害者のアルバムから見つかった「生涯の究敵」の写真。それがまさしく三本指の男なのだ。

戦前から時代小説を書いてきたストーリーテラー横溝正史は、戦後の時代そのものを軽やかに駆け抜ける探偵を主人公にした物語をここに生み出した。著者が作中ことさらに欧米の本格推理について語り、その作法についてガイダンスするところが、いかにまだ日本の本格推理が未成熟だったかを物語っている。

 横溝は、カーやクイーンやミルンの手際を、見よう見まねで日本の土壌に接ぎ木することで独自のジャンルを開拓しながら、同時に読者まで創造した事になる。
(2005/5/26初出)


本
今回の「本陣」は携帯からサイト「文庫読み放題」にアクセスして少しづつ読んだ。現在、月額料金さえ払えば金田一シリーズの主要作品を読むことができる。
posted by アスラン at 19:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月20日

下山事件(シモヤマ・ケース) 森達也(2004/07/14読了)

 面白かった。と同時に、やはり本当には昭和史の暗部に手が届かない歯がゆさが残った事も確かだ。著者のスタンスは理解できる。「下山事件」を単なる一国鉄総裁の殺人事件として捉えたなら、この事件がその後の日本に与えた重大な意味をつかまえ損ねてしまうという思いである。

 アメリカの占領下にあった日本は、下山事件を含めた一連の事件が契機となって大きくレールを乗り換えていった。そして、いまも僕らは乗り換えた路線を走り続けている(走らされている)。その事への行き場のない怒りを感じている著者は、下山事件の最後の真実に光を当てる事で、日本人が戦争によって失ったアイデンティティの一部をなんとしてでも回収しようという思いを抱いて、作品はとりあえず終わる。

 一方で、僕には「下山事件」が日本を大きく動かしたという実感がない。それほど著者とは遠い位置にいる。僕を含めた戦後生まれの世代が大きな関心を抱くのは、かつて日本がそういう歴史をもった事への大きな驚きと、やはり事件そのものの謎の大きさなのである。それなくして僕らの世代の関心はない。だからこそ本書には、殺人事件そのものの謎解きが背景に押しやられているという事に対する物足りなさを感じた。
(2005/05/18初出)
posted by アスラン at 19:31 | Comment(4) | TrackBack(2) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月19日

愛娘にさよならを(刑事雪平夏見) 秦建日子(2012/1/13読了)

 このシリーズは、どこまで続くのだろう。僕らをどこへ引っ張っていくのだろう。正直、よくわからなくなってしまっている。シリーズ第一作「推理小説」が話題になり、TVドラマ「アンフェア」がフジテレビで放映されるにいたって、刑事・雪平夏美は大ブレイクした。作者「秦建日子」がブレイクしたかと言えば、実はそうでもない。

 もともとTV関係者だという話だったので、本業と作家との二足の草鞋を慮ってか、あまり顔出ししている印象がない。そもそもペンネームも女性だか男性だか区別がつかないという選択をしているので、いわばミステリーではおなじみの覆面作家をつらぬいているようにもみえる。

 小説「推理小説」とドラマ「アンフェア」との結末(犯人)が違うのは周知の事実だが、そのせいで続編にあたる「アンフェアな月」ではTVシリーズとは別のストーリーがパラレルに語られることになる。ただし、雪平夏美という非常識な姓と名の組み合わせをもつユニークな女性刑事を、さらにユニークに演じてみせた篠原涼子のハマリ方が半端ではなかったせいで、原作の方もまさにTVドラマの篠原涼子演じる夏美にそった形で、人物造形が再調整されて描かれるようになった。夏美以外の主要メンバーそれほどドラマの配役と似ていない事を考慮すれば、これはTVの人気を無視しきれない作者の視聴者への配慮に違いない。

 その後「アンフェア」は単発のスペシャルドラマが何本か作られ、ついに映画化も果たした。それに合わせるかのように小説も続編が書き継がれたが、TVでさんざん雪平の周囲の人々が殺されてしまったので、すでに最初のシリーズで配置された魅力ある群像劇は作れなくなってしまった。特に今回の映画化にあわせて放映されたスペシャルドラマは、雪平に代わって新人刑事・平岡(北乃きい)がサイコな犯人の要求に翻弄されながらも追いつめていく。「殺してもいい命」での平岡と雪平との掛け合いを期待しても無駄だ。僕らは、肩すかしを食わされてしまう。

 一方、前作「殺してもいい命」では、いきなり元夫が殺されてしまい、良好だった娘・美央との関係も、再びアンバランスなものとなっていく。元夫があっさりと殺されてしまう序盤では、ドラマの配役だった香川照之の顔がなんども浮かんできて、残念でしかたなかった。

 前作のエンディングで銃弾を受けて重傷を負った雪平の左手には麻痺が残り、刑事課からはずされるところから今回のストーリーは始まる。あの颯爽としたタフガイ雪平夏美は、もうどこにもいない。彼女は壊れてしまったのだ。そして精神的支えだった夫もこの世に無く、唯一の救いである娘・美央は夫の両親に引き取られ、養女の手続きをとって雪平から奪おうとしている。おそらく著者は彼女から徹底的にすべてを奪おうとしているのだろう。そして、その時、雪平夏美という非常識なほどユニークな存在がどうなるのか、どうあがくのかを一読者として見たい。そう思っているような気がした。そしてまさにそのように物語は進んでいく。

 警察にいながら一事務職として安らかな居場所におさまるかに見えたが、その直後に雪平に新たな居場所を与えてくれるはずの新しい上司夫婦が惨殺される。それも、シリーズお得意のとびきり残酷な殺され方で、だ。そこから傷ついた体と心をおして捜査を続ける事で、雪平は上司夫婦の事件をリハビリにして復活を遂げる。まさにヒーロー物の典型のようなストーリーにはなっているが、もう少し精神的にどん底に追い詰められる雪平夏美を描いてもよかったのではないか。おとしめ方が不十分だったなという不満が残った。

 もちろん、このシリーズは簡潔でクールな文体で主人公の生き方をリアルに描いていく現代のハードボイルドミステリーとはジャンルが違う。あくまで探偵(刑事)は超人的な知能と体力をもち、悪魔的な頭脳を持つサイコキラーと対決するという本格ミステリーエンターテイメントのはずだ。エンターテイメントであるからには、雪平夏美のドラマの部分がますます魅力的に描き込まれるようになっていくのはシリーズ愛読者としては歓迎だが、そのせいで本筋の謎解きの方が、まるで映画やスペシャルドラマに合わせて番宣用に作られたと言われかねない出来になってしまっているのは残念だ。あまりに犯人に意外性が乏しいし、驚きが少なかった。

 ここらで原点に戻って「推理小説」のような疑心暗鬼に陥らされて主人公が右往左往する物語が読みたい。
posted by アスラン at 12:57 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月16日

ハイゼンベルクの顕微鏡 不確定性原理は超えられるか 石井茂(2006年5月28日読了)

 ハイゼンベルクとは何者か?
 不確定性原理とはなんだろうか?
 何故今、ハイゼンベルクの不確定性原理なのだろうか?

 もちろん高校の物理学でも熱心に勉強した人なら一度は聞き及んでいるはずだ。少々荒っぽい言い方をすれば、師匠格のボーアとともに現代物理学の中心にある量子物理学の礎を築いた科学者だ。

 本書はかなり分かりやすく書いているとは言え、もともと極めてむずかしい話なので僕の要約はポイントを外しているかもしれないので、そのつもりで割り引いて読んでほしい。

 アインシュタインは、特殊相対性理論、一般相対性理論を打ち立てて光速度とエネルギーにE=mc2の関係がある事や、ニュートン以来手つかずだった重力が時空の歪みとして記述できる事などを明らかにして宇宙全般を支配している物理現象の一端をほぼ独力で解明していった。

 しかしその一方で、物理学の関心の中心は物質を構成する量子の実相を明らかにする事に移っていった。例えば光は古典物理学では波だと考えられているが、やはりアインシュタインが明らかにしたように光は光子という単位から構成されている事が判明した。

 そうなると光は波でもあり物質でもある事になる。これは古典物理学ではありえない。新しい理論が必要だった。

 ボーアは「相補性」という概念を導入して、量子が波の性質と物質の性質を合わせもつものとして再定義しようとした。要するに古典物理学ではありえないことが「ありえる」と宣言したようなもので何故そうなのかは問わないという事だ。

 問題なのは物質の構成単位である量子がそういうものなら、例えば原子の周りを回っている電子の位置を正しく観測できるかが問われる。物質なら位置や速度は測定できるが電子が波の性質を合わせもつならば位置も速度も確率的にしか記述できない。

 そしてその後の量子物理学の道筋を決定づけたのがハイゼンベルクの提唱した不確定性原理だった。ハイゼンベルクは量子の性質を特徴づける際に

  (位置の不確定さ)×(速度の不確定さ)=一定値(プランク定数)

になる事を示した。

 これがどういう意味をもつかというと、量子の位置と速度を同時に決定できないという事だ。つまり位置を確定しようとすると(位置の不確定さ)は0にかぎりなく近づく。すると(速度の不確定さ)は無限大になる。つまり速度が決まらない。速度を確定した場合も同様に位置が決まらない。

 こんな変な事が起こるのは原子や電子といったミクロの世界だけだ。僕らの直観が当てになる現実の世界では、自動車の速度と位置は同時に決定できるのは言うまでもない。ハイゼンベルクが考えた不確定性は僕らの目に見える事象にとっては無視できるほど小さいからだ。

 このボーアとハイゼンベルクの考え方を量子物理学の前提としようと言うのが、初めて彼らが提唱した会議の場所を冠して「コペンハーゲン解釈」と言う。

 これに噛みついたのがアインシュタインで、ここで例の有名な「神はサイコロを振らない」というセリフが出てくる。つまりアインシュタインはあくまで物質を記述するのに確率でしか決定できない理論に不満足だったのだ。

 その後様々な思考実験が双方から提出され、お互いの主張を打ち負かすために議論が続いた。しかし次第にボーア・ハイゼンベルクの主張が受け入れられていく。

 ここで思考実験と言っているのは、実際に実験で検証できないような事を机上で考えて、従来の理論で説明がつくか考えるというものだ。ここらへんが門外漢には分かりにくいところだが、いくら思考実験を重ねても実際に検証出来なければ正しいとは言えないはずだ。しかし理論物理学者にとっては、とりあえず理論を先に進めるためには思考実験は重要なプロセスであるらしい。

 とは言え、不確定性原理やコペンハーゲン解釈の「原理」や「解釈」という言葉を見ると、演繹された理論ではなくてあくまでもうまく当てはまるからとりあえずこれでいきましょうというニュアンスが漂う。

 そもそも不確定性原理は、位置の不確定さと速度の不確定さをかけると一定値になるという実は意味がよくわからない式である。これは当初、不確定性原理を支持する科学者からも定義が曖昧だと言われたようだ。その後、量子の位置と速度を「観測」するという事を厳密化する事で、

 (量子の位置測定誤差)×(量子の速度測定誤差) => 一定値

という不等式を導出する事で、不確定性原理は電子や素粒子などの観測の限界を示す式として一般化されるようになった。(フ〜。ここまで合ってるだろうか?)

 で、ようやく冒頭に挙げた最後の問いかけに戻る。

 何故今、ハイゼンベルクの不確定性原理なのだろうか?

 実は日本人の物理学者小澤正直教授が最近「小澤の不等式」と呼ばれる式を導出した。そこにはハイゼンベルクの不確定性原理が破れている事が証明されているのだ。この不等式の説明は僕の説明能力を超えるので簡単に結論だけ言ってしまえば、不確定性原理やさきほどの不等式には隠れた項があって、それをきちんと記述した「小澤の不等式」を使えば、

 量子の位置測定誤差も速度測定誤差もいくらでも小さくできる

という結論(!)になる。

 この結論はよっぽど今の物理学者には受け入れがたいものらしく、小澤氏は最初に投稿した論文をある米国の学会誌から拒否され、やむなく別の学会誌に投稿している。

 重要なのは、この結論が及ぼす影響である。さきほどハイゼンベルクの不確定性原理は観測の限界を示すものだと述べたが、これは何も例のノーベル物理学賞を受賞した小柴東大名誉教授が尽力したスーパーカミオカンデのような素粒子の検出のような特殊な観測にしか意味をなさない他人事ではない。

 近年コンピュータの性能は日進月歩と呼ぶには足りないくらいの飛躍的な進歩をとげ、いま各家庭で使っているパソコンの性能さえちょっと前まではスーパーコンピューターが持っていた性能と等しかったりする。しかし問題はこれ以上CPUの速度を上げてチップの集積度を高めていくと、いずれ電子のレベルで不確定性原理の壁が立ちはだかる事になる。

 現に、最新のコンピュータとして量子コンピューターというアイディアが研究されている。これはまさに量子物理学の最新理論をCPUに応用するというものだが、その際にも当然ながら不確定性原理による観測問題が立ちはだかる。しかし小澤の不等式の意味するところは、結局のところ量子コンピュータの実現を阻む制約はないという事だ。

 夢のような話ではあるが、もし小澤氏の考え方が正しければ同じ日本人としてハイゼンベルクに次ぐ偉業を成し遂げたという事は誇らしい。しかし残念ながら、今のところ小澤の不等式は検討され始めたところという事のようだ。

 つい最近、科学雑誌「Newton」で量子力学の特集が組まれていたので書店でパラパラとめくってみた。もし小澤の不等式まで載っていたら購入しようと思ったのだが、小澤氏の名前すら載っていなかった。つまりはまだ科学誌で紹介するほど主流になっている考え方ではないということだろう。

 だが、この「小澤の不等式」が正しいと実証されたならばノーベル物理学賞は間違いないのでないか。そんな嬉しいニュースが飛び込むのはまだまだ先のようだが気長に待つこととしよう。
(2006年06月10日初出)


[追記(2012/1/16)]
 ついに「そんな嬉しいニュース」が飛び込んできた。今朝見た読売新聞(YOMIURI ONLINE)の記事「不確定性原理に欠陥…量子物理学の原理崩す成果(2012年1月16日08時12分読売新聞)」がそれだ。記事によるとウィーン工科大と名古屋大の共同研究によって、「中性子の2種類のスピン」を測定したところ、不確定性原理から導出される測定誤差(最小値)を下回る結果となった。この2種類のスピンは、不確定性原理で言うところの位置と速度に相当するそうだ。つまり本文でも書いたように不確定性原理の数式に誤りがあることになる。

 なんと共同研究者の一人が小澤正直・名古屋大教授なのだ!なるほど、国際学会が認めてくれない理論であれば、これはもう実証するしかない。ウィーンの大学との共同研究という点も素晴らしいが、どうやらウィーン工科大に日本の准教授が在籍している事も、事態を好転させた理由ではないだろうか。あとは「小澤の不等式」が再評価される事を、心から待ちたいと思う。もう気長に待つ必要もないだろう。
posted by アスラン at 12:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月12日

謎解きはディナーのあとで 東川篤哉(2012/1/4読了)

 本屋大賞の受賞作を並べてみる。

「博士の愛した数式」 小川洋子
「夜のピクニック」 恩田陸
「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」 リリー・フランキー
「一瞬の風になれ」 佐藤多佳子
「ゴールデンスランバー」伊坂幸太郎
「告白」 湊かなえ
「天地明察」 うぶかた丁
「謎解きはディナーのあとで」 東川篤哉


 そうそうたる作家と、そうそうたる作品と言っていいだろう。いや、言い過ぎか。正直、僕は「告白」も作者にも言いたいことがある。「ゴールデンスランバー」だけは未読だが、僕は今このときの伊坂幸太郎には絶対の信頼を置いている。きっと面白いだろう。前回の「天地明察」は、まさに巻を置くあたわざる傑作だった。見事なエンターテイメント作品であると同時に人間ドラマでもあった。

 なのに、だ。なぜ本作はそのような作品群の仲間入りを果たしてしまったのだろう。さぞや、軽薄でミーハーな設定の上に全国の書店員をうならせる仕掛けが仕組まれているに違いない。なにしろ彼らは、言うならば本のプロなのだから。

 実は今回は再読だ。前回は図書館で長い待ち行列に並ぶ事なく、タナボタ式に読む機会が与えられたので読んではみたものの、読後感は「なんだ、これは?」だった。この感想は別の本(「飛蝗の農場」)の読後に抱く常套句なのだが、この本にも当てはまるようだ。

 いったい、この本のどこに面白さを感じればいいのだろう。あまりにもツマラナイのはどうしたことだ。本屋大賞への信頼が一挙に崩れた気がした。もしかしたら投票する書店員の年齢層が一気に若返ったのだろうか。それにしても幼稚な作品を選んだものだ。

 さらに次点以下の作品の得票数を調べてみると、今回は票がかなり割れている。どうやらダントツの一位というわけではなく、4位ぐらいまでが300点を越える票を得ているし、なにより2位の「ふがいない僕は空を見た」との投票差があまりに小さい。こちらが大賞を受賞していれば、この賞に対する僕の信頼度はますますアップしていたところだった。返す返すも残念だが、「ふがいない…」は内容が内容だけに幅広い年齢層に支持されにくいという、売る側(書店側)の配慮が微妙に働いたのかもしれない。

 本作は圧倒的な好評の下、TVドラマ化された。初回を見てみたが、特に違和感はなかった。北川景子扮するお嬢様は、まさにハマリ役だし、執事の影山にしては嵐の桜井翔は背が足りないなぁとは思うものの、悪い配役とまでは言えない。そう、あの時間帯(11時台)に放映されるお手軽なドラマとしては、格好の原作だろう。

 さて、そうこうするうちにパート2が出版された。これまた好評な売れ行きで、図書館ではそうそうたやすく借りられそうにない。ところが、またしてもタナボタがおきて読書の機会が回ってきた。それではと第一作から読み返してみた。感想は初読の際とそれほど変わるところはないが、少し気づいた点がある。

 立川在住の僕が初読のときに見過ごしてしまったのは迂闊だったが、著者は国立を含めたJR南武線沿線の描写にイヤにこだわっている。しかも「南武線」という、東京や神奈川という大都市圏にありながら田舎の雰囲気を湛えているローカルな路線にフィーチャーして、沿線住民のコンプレックスをくすぐるかのような記述がそこかしこにみられる。

 たとえば国立というと、中央線沿線の高級でおしゃれな住宅地というイメージがあるが、実は南武線沿線というローカルな地勢も合わせ持つ。しかし国立住民は決して南武線沿線というイメージを露わにすることはない。著者のユーモア感覚に思わず納得の喝采を送ったが、では果たして、このローカルネタの面白さが本当にわかる読者がどれほどいるだろうか。まさか南武線周辺の住人が買いまくったというわけでもあるまい。

 しかし、そこから推して考えれば、こういう絶妙に塩梅されたユーモアが充満した読み物であるからこそ、肩の凝らない読書タイムが約束されているのだ。僕のようにミステリーだと思って読むから不満がでてくるのだ。ミステリー読みの読者にしてみれば、これはミステリーではない。いや、言い過ぎた。ミステリーとして何か期待するような要素はない。しかし、ミステリーという枠組みが、お嬢様の刑事と徹底的に主人を貶める執事兼名探偵という少女マンガ的設定を動かすダシにすぎないと考えれば、もはや目くじらたてるまでもない。

 今やミステリーの大御所である赤川次郎のユーモアミステリーも、まさにこういったミーハー調で事が運んだではないか。今後もおつきあいする作家になるかどうかは疑問ではあるけれども、このシリーズそのものは南武線住民の一人として気にかけていきたい。

…と思う今日この頃である。
posted by アスラン at 13:04 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月10日

飛蝗の農場 ジェレミー・ドロンフィールド(2011/12/23読了)

 「なんだ、これは?」

 そう書き出すのが、この本についての感想の言わば礼儀であるようだ。敬愛する翻訳家・越前敏弥氏の「訳者あとがき」でも、その後の解説でも、そろって「なんだ、これは?」と書き出している。

 そう書き出してからは、訳者と解説者は口を揃えて「なんだ、これは?」の「なんだ」について逐一解釈を与えては、作者の手際の良さと、この手のジャンルの過去から現在にいたるまでの作り直し(再生)としては他に比べようがない水準に達しているとほめちぎっている。しかし、そこには「これは?」にあったはずの読者の違和感はとうに失われている。

 僕は「なんだ、これは?」の「これ」にこだわりたい。本書はドロンフィールドという新進の作家の長編第一作にあたるそうだ。誰が読んでも新人が書いたとは思えないほど、堂々たる着想と、きわめて凝った構成を持つ作品であることは疑いようがない。しかし、いかんせん読者に不親切な作品である事もまた確かだ。

 たとえば作品が始まる前に挿入される登場人物のリストには、たった3人の名前しか挙げられていない。通例、ミステリーのお約束としてリストの中に犯人が含まれているのは常識だから、犯人当ての醍醐味を味わう作品ではない事になる。また犯人の候補(容疑者)だけでなく、主要な登場人物をリストに含める事もお約束の一つだから、無名の登場人物は除くと、やはり主たる登場人物はたったの3人しかいない事になる。ずいぶん退屈な設定だなというのが、読む前の正直な気持ちだった。

 ところが読み出してみると章が変わるごとに新たな人物が登場し、しかもその人物自身の一人称の語りでストーリーが書き継がれていく。つまり彼らはリストには登場しないが、主たる登場人物であるに違いない。こういう場合、ミステリーでは「あるトリック」を想定せざるをえない。それは、いわばお約束から演繹した読み方なので、あまりほめられた読み方ではないが、事態はまさしくそのように展開していくのだ。

 しかし、それにしてはトリックが想定した通りの内容であるからには、もう少し読者に「ああ、なるほどなぁ」と納得させるだけの説得力がないといけないのだが、作者の関心事はそこにはない。作者はトリッキーな謎を意表をつくように明かすタイミングだけにこだわっているようだ。しかし、その手際たるや、よくよく考えれば最初から終盤にいたるまで同じ事の繰り返しであって、さめた目で読んでみれば読者に対する誠実さに欠けているのではないかと思えてしまう。

 特に終盤の描き方は、スピーディな展開と、誰が真なる犯人なのだろうかと登場人物の一人(もちろんリストの3人の中の一人だ)が翻弄されるめくるめくサスペンスとで、読者をぐいぐいと引っ張っていくのだけれど、ここでまたしても飽くことなく作者は同じ事を繰り返す。いったい、犯人に翻弄されるこの登場人物はなんど同じ過ちを繰り返せば気が済むのだろうか。ここで醒めてしまうか、怒濤のごとき作者のマジックに感じ入るかで、結末の印象はがらりと変わってしまうだろう。

 「このミス」などのミステリーランキングの上位に挙がった当時(2003年)の熱がさめてしまえば、今この本がどの程度読まれているのか疑わしくなる。もし僕の読み方に異論がある方がいるとして(もちろん数多くの読者が「面白かった」と思っているはずだ)、何故「飛蝗の農場」なのかに、作者ドロンフィールドは一読者が納得できるような誠実な答を用意していたかを教えてはもらえないだろうか。
posted by アスラン at 12:39 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月09日

野茂英雄−日米の野球をどう変えたか ロバート・ホワイティング(2012/1/5読了)

 僕はかつて「巨人ファン」だったことがある。おそらく父の影響だろう。そして、一度たりとも「プロ野球ファン」であったことはない。その証拠にセリーグの他のチームにはほとんど関心がなかったし、ましてやパリーグの球団や選手の知識など皆無に近かった。ただ、巨人が日本シリーズを争うときのみ、相手チームに注目するだけだった。だから、長嶋が引退後に監督になり常勝ではなくなった巨人のファンを自認するたびに、日本シリーズの対戦相手となった阪急や西武といった実力派チームの存在に魅了され、かつ何度となく歯がみさせられた。


 そして何がきっかけだったか、突然僕は巨人ファンをやめた。そうだ、思い出した。長嶋監督が解任されたときに、なんだか馬鹿馬鹿しくなったのだ。僕は野球の見方を覚えてきたけれど、本当の楽しさを覚えそこなった。だから野球そのものから目をそむけてしまった。それで特に困ることなどなかった。

 僕が就職したころ、父の甥(僕にとっての大叔父)のつてで東京ドームの日本ハム戦のチケットがただで手に入ったこともあって、父と母と三人で何度か観戦に出かけた。これは楽しかった。野球はもとより「やって楽しいスポーツ」であるが、ついで球場で臨場感を味わい、選手や他の観客との一体感を味わうエンターテイメントだということをしみじみ感じた。

 日本ハムの内野席を陣取るので、当然のごとく日ハムを応援するのだけれど、退屈でつまらない攻撃に終始するときには、すかさず不平をぶつける。最初から最後まで鳴り物とエールで統一された外野席と違って、内野席でゆったりとした気分で見ている僕らの特権だ。そして、そんなつまらない試合ですら、やはり楽しい。それが野球観戦の醍醐味だった。

 そんなとき、近鉄の野茂英雄が大リーグに挑戦するというニュースが世間を賑わせた。僕は野茂がどんな投手で、パリーグでどれほど活躍した選手なのか、実はよく知らなかった。近鉄時代の活躍も、巨人ファンをやめた時期にあたっていたので、よくは知らない。彼が近鉄の鈴木啓示監督と確執があったこと、日本の野球関係者、ファン、マスコミなどあらゆる者を敵にしてまでもメジャーリーグに飛び込んだ事情も、ずいぶんあとになって知った。

 僕としては、せっかくソウルオリンピックのために購入したBS付きのテレビで、はたしてこれから何を見ればいいのかという悩みに、野茂のメジャーリーグ挑戦は格好の答えを与えてくれた事に、とにかく喜んだ。こうして日本にも、アメリカ同様に数多くの「野茂マニア」が誕生したはずだ。

 僕は失われた野球への興味を、野茂という一選手のおかげで取り戻す事ができたのだった。それは不思議な体験だった。野球と言えば(特に巨人ファンだった頃の野球と言えば)、攻撃を見るもので、守備のあいだは退屈な時間を過ごすか、打ち込まれる味方の投手にハラハラさせられるかのいずれだったのが、野茂の試合ではドジャースの攻撃そっちのけで、彼の投球を見るのが、実に爽快で楽しかった。

 野茂の活躍の年も、不調の年も、不死鳥のように復活した年も、故障していくつものチームを渡り歩いて解雇されては次のチームを探し当てる流浪の日々も、ずっとずっと僕は野茂の姿だけを、マウンドの野茂の一挙手一投足を見つめ続けた。ついに彼はアリーグとナリーグでノーヒットノーラン(ノーヒッター)を達成した数少ない投手の一人となった。

 彼が成し遂げた事は、彼自身が一番わかっていると思うが、僕もそれなりに精一杯彼の理解者であり続けたと思ってきた。が、この本を読むと、僕のひととおりの認識をはるかに超えた偉業をやってのけたのだと、つくづく思い知らされる。よく「イチローも松井も野茂に感謝すべきだ」という意見が聞かれるが、その意味の半分も僕はわかっていなかった。

 イチローは確かに野茂を遙かに上回る成績を残し、メジャーリーグで唯一野球殿堂入りが確実な日本人選手だが、彼ですら真の意味でメジャーリーグに適応したとは言えない。野茂はメジャーリーガーたちからプロとして認められ、そして何より野球が好きで好きで、できる限り投げ続けたいと、最後まで闘志を燃やし続けた。そのことを僕は、この一冊に改めて教えられた。

 再び野茂の勇姿が見たい。僕は今、むしょうにそう思っている。NHK−BSで引退記念に放映された特集番組を保存したDVDを引っ張り出す夜が、今から楽しみだ。もちろん、この本を手元に置きながら、じっくりと野茂のパイオニアスピリットに感嘆しようではないか。
posted by アスラン at 14:02 | 東京 ☀ | Comment(4) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月26日

鉄人28号論 光プロダクション(2005/05/18読了)

横山光輝と言えば、僕の中では少年時代に赤塚不二夫と並んで大好きな漫画家だった。当時の少年誌に連載されていた「バビル2世」「闇の土鬼」「時の行者」は言うに及ばず、テレビアニメの「魔法使いサリー」や、実写版「仮面の忍者赤影」「ジャイアントロボ」までが、同じ漫画家の手から生み出された事をあとで知った時には、何か奇跡にでも出会ったような不思議な気持ちを抱いた事をよく憶えている。

でも「鉄人28号」は、僕らのものではなかった。「鉄腕アトム」が6つ年上の兄たちのものだったように「鉄人」のアニメもグリコを連呼した主題歌も、あとから再放送で知ったにすぎない。だから、本書の執筆陣が口々に言う「鉄人派、アトム派」というカテゴリ分けは、まったくと言っていいほどピンと来ない。横山作品が好きだとはいえ、次々にくりだされる新作漫画に酔う少年に過去を振り返る余裕などなかったのだ。

 だから昨年復活したアニメ「鉄人28号」には新鮮な驚きがあったし、昔と変わらぬ主題歌が如何に自分の中に刷り込まれていたかを改めて思いしらされた。僕は直接「鉄人」を語る言葉を持たないが、横山作品で一番好きだった「バビル2世」に「鉄人」の面影を見る事ができる。

「バビル2世」は当時流行った超能力が題材ではあるが、その実、メインストーリーはバビル2世と宿敵ヨミとの壮絶な肉弾戦に等しい。超能力者が持てる超能力には限りがあり、常人の一生を圧縮した力が出せるに過ぎない。この過酷な現実をつきつけられた時、二人が取った最善の手は消耗戦だった。この構図は、武器を持つことを禁じられた鉄人のジレンマにどこか似ていないだろうか。しかも、ストーリーの中盤でヨミとバビル2世は、交換可能な存在だったという驚くべき事実があかされる。これは、リモコン次第で善にも悪にもなる鉄人の世界観の再現なのだ。

この本の執筆者の一人が「壮大なワンパターン」と喝破しているとおり、横山作品の本質をこの本1冊で余すところなく堪能できる。

「壮大なワンパターン、なのに第一級のエンターテイメント!」
(2005/5/18初出)


[追記(2011/12/26)]
 今でも横山光輝の最高傑作は「バビル2世」だと思っている。「鉄人28号」世代の方々から異論がとんできそうだが、本文に書いたとおり「鉄人」は僕のとってリアルタイムのアニメや漫画でなかったために、今ひとつ思い入れがわかない。しいて言えば鉄人よりもジャイアント・ロボの方に愛着がある。実写特撮版のテレビにどんなに瑕疵があろうとも、だ。

 「バビル2世」がいまだに最高傑作と思う理由の一つは、あれが当時ブームであった超能力をテーマにした先見性にあるのではなく、少年誌の枠におさまらない人間ドラマを描ききっている点にある。ヨミとバビル2世のお互いの出自が交錯し、単なるコンゲームではなく兄弟(肉親)としての愛憎劇こそが、SFストーリーの裏に隠されている。絵や設定が既に陳腐化したとしても、この人間ドラマは何度でも再生可能だ。

 だから「その名は101」という続編を横山光輝さんが描いていたと知った時は、「バビル2世ふたたび!」と色めき立ったが、この作品はヨミという宿敵を失ったバビル2世が自死を遂げるという、きわめてストイックで哀しい物語だった。これで終わらせて果たして良かったのだろうか。もう一度という思いは、横山さんの心に浮かばなかったのだろうか。

 そんな悶々とした気持ちを抱き続けていたのだが、最近「バビル2世 ザ・リターナー」という漫画が若手の作家の手で生み出されている事を知った。仮面ライダーが「仮面ライダーSPIRITS」という形で甦ったのと同様に、バビル2世もドラマツルギーだけを頼りに、装いも新たに甦ったようだ。これはぜひ読まねばなるまい。
posted by アスラン at 21:40 | Comment(0) | TrackBack(1) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月20日

バムとケロのもりのこや 島田ゆか(2011/11/27読了)

 「バムとケロ」の物語は、子育てに明け暮れていた頃に、子供がお気に入りの絵本に夢中になって、やがてはストンと寝付いてくれることを心より願っている世の父母たちにとっては、福音と言っていい。図書館で山ほどある絵本の中でも、我が子が気に入ってくれる絵本は意外と少ない。アンパンマンのアニメにはまっていたころは、アンパンマンの絵本や紙芝居を借りてくれば事足りたが、それでは読み聞かせする身がもたない。

 「バムとケロ」シリーズは、子供だけでなく大人も楽しめて、かつ癒やされるオールマイティな作品だ。バムという世話好きの犬のお母さんと、彼女が育ててている目の中に入れても痛くないような坊やが、カエルのケロだ。この一風変わった組合せの二人が登場する絵本には、特段の物語はない。ただ読者は、犬は面倒見がよいという印象と、カエルはやんちゃで移り気だというイメージさえ共有できれば、あとはもう「好き勝手にやりたいことをやる」という傍若無人な幼児には、カエルのキャラ以外考えられなくなってしまう。作者の天才的なひらめきには恐れ入るしかない。

 作者のひらめきは、徹底的に描き込まれる細々とした「もの」たちのディテールにも十分すぎるほどに活かされている。バムとケロの使うマグカップには二人の姿がデザインされていたり、差し込まれたストローの形がやはり彼ら自身をかたどっていたりする。その過剰なまでのモノ自体の存在感は、メルヘンとかファンタジーのそれではない。現実の幼児がほしがり、あるいは我々親たちが可能であるならば買いそろえてあげたくなるような、物質社会の理想的な家そのものだ。ここに子供以上に大人が惹きつけられる秘密がある。

著者の過剰なまでのひらめきは小間物だけでは飽き足らない。一見、小間物と区別がつかないくらい小さな犬が何故か同居していて、1ページの中でバムとケロの物語とはまったく別のストーリーをさりげなく紡ぎだしている。さらに、さらに、ムーミンでいえば「ニョロニョロ」のように正体がよくわからない「三つ耳のうさぎ」が、いつのまにかバムとケロについてきて、勝手に一夜の宿にしている。三つ耳うさぎは、メインストーリーと最後まで関わることなく、ただキャラクタのの存在感だけが突出している。

 これは、かつて「のようなもの」「メインテーマ」といった秀作を生み出した映画作家・森田芳光が、画面中央で繰り広げる主役たちのドラマの片隅で、まったく無関係な通りすがりの人物たちが僕ら観客の無意識を刺激したのと、まったく同じ効果を挙げている。メインストーリーとテーマに集中する事を余儀なくされる読者に、作者は「寄り道」の楽しさ・安らぎを提供しているのだ。この寄り道、あるいは「意識と無意識との往還」を繰り返すことで、絵本は単にページを次へ次へと進めていくものではなく、行ったり来たり、とばしたり遡ったりする豊かな空間へと変貌する。

 圧巻は、あひるの「かいちゃん」が森の中の湖に張った氷と一体化して動けなくなってしまったところへ、バムとケロが出くわしたエピソードだ。バムたちは、かいちゃんを助け出して家に連れて帰る。この作品には、どのページにも意識のドラマと無意識のドラマが隅々まで行き渡っていて、僕ら読者を飽きさせない。最後まで何者かわからないまま、バムとケロでさえも存在を徹底的に無視し続ける三つ耳うさぎは、やはり何事もなかったかのように、バムたちの家から去って行く。あひるのかいちゃんはケロのお気に入りとなって、印象的なエンディングとあいまって僕ら読者のかけがえのないキャラクターの一人(一匹)となった。

 さて、前作から2年ぶりに著者・島田ゆかによって生み出されたのが、本作「バムとケロのもりのこや」だ。森の中に、木の上に立派に作られながら見捨てられた小屋がある。何年も主を失って朽ちかけているのは明らかだ。そこで、バムとケロは、この小屋を住み心地のいい「隠れ家」「別荘」にしようと思い付く。そこで、家のリフォームを友人に依頼して、3人で何度も小屋を訪れて、小屋を作り替えていく。

 実はなんとも怖い話でもある。誰の住んでいた家なんだろう。見捨てたにしては、あまりに立派な小屋だ。ひょっとしてできあがった頃に、主が戻ってきて一悶着あるというストーリーだろうか。ドキドキしながら見守っていると、予想を裏切る展開で、いつものように楽しい気分でエンディングを迎えた。ちょっと残念なのは、2年ぶりに満を持して作られた新作には、もう、あの「意識と無意識の往還」のドラマは見られなかった。あれは、一作だけの実験的試みだったのだろうか。それとも、作者には読者の無意識を刺激するなどという作為的な事に関心がなくなったのだろうか。メインストーリーが直線的に進行するところが、僕にはちょっと物足りなくもあった。

 だが、2年ぶりの作品を待ちわびていた僕らファンに期待に応えるかのように、最後にアレが登場する。もう、それだけで十分満足だ。
posted by アスラン at 19:55 | 東京 ☀ | Comment(1) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月16日

啄木・ローマ字日記 石川啄木(2005/05/13読了)

 石川啄木が残した日記の中で、特にローマ字で書かれたものを抜き出した本だ。前半が本文で、後半は漢字かな交じり文に翻訳した付録という構成になる。読んでみれば分かるが、ローマ字の文章というのはとても読みづらい。書く方も相当な労力だったとは思うが、カタカナで日記などを書く習慣をとうに放棄した僕ら現代人にとって、ローマ字に込められた作者の意図などを酌むより、さっさと付録の漢字仮名交じり文を読んでしまいたくなる。だが、作者・石川啄木には啄木なりの理由があった。

 高橋源一郎「日本文学盛衰史」の受け売りになるが、明治も時を経るにつれて自然主義文学が文壇の主流となり、西洋文学の翻訳(言文一致体)を手がかりに「内面」を手に入れた文学者たちは、次々と「告白」するようになる。告白こそが内面の具現化であり、当時の最前線の文学だったのだ。

 でも、啄木自身は、告白するだけではまだ不徹底だと思った。島崎藤村の「破戒」でさえ、キレイゴトだと思った。(ホントかな?でも高橋さんは「日本文学盛衰史」で、そう描いてる。)

 そして、ローマ字日記で啄木は赤裸々な告白を開始した。それは、確かに当時の文学者たちがなしえなかった真実味のある告白だった。後に批評家がこぞって高く評価するように、啄木は自然主義文学をある到達点まで押し上げた。

 しかし高橋源一郎いわく、啄木の行為が「文学」を内部から自壊させる事になるとは、本人でさえも気づかなかった。彼は、このローマ字日記を作品として発表する事なく、数年後に結核でこの世を去る。自然主義文学の達成、日本文学の輝かしき到達は、それゆえ作者の死後に見いだされたのだ。
(2005/5/16初出)
posted by アスラン at 12:55 | Comment(0) | TrackBack(1) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月14日

チムニーズ館の秘密 アガサ・クリスティー(2011/11/10読了,再読)

 久しぶりにクリスティ読破プロジェクトが再開した顛末については、「ABC殺人事件」の書評で書いたが、さてどこまで読んだかと調べてみると「茶色の服の男」も「秘密機関」も「チムニーズ館の秘密」も読んでいることになっている。いや[ビッグ4」も既読らしい。にも関わらず、どれもこれもストーリーが頭に入っていない。誰が犯人なのか覚えていない。そんな事があるだろうか、いや、あるんです。

 どうやら初期のクリスティ作品というのは、特徴らしい特徴が感じられない。どれも似たり寄ったりという印象がある。その中でもいわゆるスパイ小説や冒険小説というジャンルの作品に個性の希薄さが感じられると言っていい。北上次郎さんによると、初期の段階でクリスティ自身、スパイ小説に見切りをつけたようなので、いわば今読んでいるあたりが一つの山場なのかもしれない。

 とにもかくにも「青列車の秘密」を割と面白く読み終えたので、次は「七つの時計」だとテンポ良く読み出そうとしたのだけれど、冒頭からあまりに無造作にいろんな人が登場するので、なにがなんだか分からなくなってしまった。「チムニーズ館」という、なにやら聞き覚えのある邸宅で、外交官の卵たちや、鉄鋼王とその夫人、そして館付きの使用人たちが、そこに存在するのが当たり前のように最初から癖のある会話を繰り広げる。館の当主の気質を十分に承知している執事は、成り上がりの現主人に対しても有能ぶりをさりげなく見せつけてくれるし、無駄に野菜や草花を栽培し、現夫人の命に従う事なく庭における実権を掌握する偉そうな庭師が出てきたりして、それはそれで楽しいのだが、でもやっぱりなんだか分からない。

 どうやら「チムニーズ館の秘密」を思い出すところから始めるべきだと思い知った。そうして本書に戻ってみると、するすると人間関係が頭に入る。なんだ、そうだったのか。「七つの時計」は、あくまで続編として成り立っている作品なのだ。もちろん、それぞれの事件に共通した舞台(チムニーズ館)と共通した登場人物が存在するだけで、それ以上の関わりは皆無だ。本作/続編の順に読まねばならないという制約はないけれども、人物に対する思い入れを考慮しないと「七つの時計」の面白さが損なわれる事は確かだろう。

 「七つの時計」の冒頭の分かりにくさは、脇役級の人物が次々と登場するばかりで、その状況を整然と仕切っていく探偵役がなかなか姿を見せない点にある。やがては、館の真の当主の娘であるバンドルを仮の探偵役として物語が進行する事になるにしても、彼女は本書の主役であるヴァージニア・レヴェルの女友達であり、派手で男勝りのきわめて魅惑的な女性ヴァージニアの引き立て役という定位置に収まっていて、本作では非常に影が薄かった。

 一方、南アフリカから友人の依頼を果たすべくイギリスを訪れたアンソニー・ケイドも、無鉄砲で冒険好きな、これまた怪しげな魅力のある若者であって、この新たな闖入者がヴァージニアと仲良くやっているのを快く思わない外交官秘書のビルもまた、本作ではアンソニーの引き立て役に過ぎない。ところが「七つの時計」では、再び引き立て役に終わるかと思うと、意外な頑張りを見せて重要な位置を占めている。

 何を言いたいかと言えば、「七つの時計」の最大の欠点が「チムニーズ館の秘密」の最大の魅力であるという点だ。ヴァージニアとアンソニーの二人のコンビが、実は例の「トミーとタベンス」とか、その後の「なぜエヴァンスに頼まなかったか」の主役のカップルのように、非常に魅力的で存在感があり、かつハーレクイン・ロマンスのような恋愛のテイストも十分に味わえる。そういう意味で単なるスリラーではない。どちらかと言えば、ロマンスに重点が置かれてこそミステリーの筋立てが映えるのは、ヒッチコックの「北北西に進路を取れ」や「おしゃれ泥棒」などを見ればわかるだろう。

 それにしても、たんなる国際紛争だとか王位継承問題ならばわかるとして、秘宝を狙う大泥棒までが入り交じる筋立てというのは、かなり古めかしい。「青列車の秘密」でも宝石を狙う大泥棒と殺人者とのいずれをもポアロが追い詰めていくところが、一見バランスが悪そうで、最後にはミステリーらしくまとまっていた。さすがに、ポアロに国際紛争まで解決させるという荒唐無稽な展開を持ち込む事はなかった。そんな事をしてしまったら、これはもうシャーロック・ホームズの事件簿そのものではないか。

 「青列車の秘密」の書評で、この作品はポアロを本作のアンソニー・ケイドのような若き冒険者に置き換えたらば、きっと荒唐無稽だが魅力的なスパイ小説になっていただろうと書いた。あそこで何気なく登場するキャサリン・グレーはロマンスの片割れになっていたはずだが、ポアロではロマンスが生まれようがない。ポアロを探偵役に据えた事によってキャサリンは冗長な存在に堕してしまったのだ。しかし、一方でポアロの位置にアンソニータイプの若者を据えてしまったならば、ロマンスがクライマックスを飾る事は確かだが、あの魅力的な推理の醍醐味は味わえなくなってしまう。

 その意味で、クリスティのスパイ小説・冒険小説は事件を構成する要素があきらかに冗長だ。冗長さを抱え込む事で、読者に結末を予想させないという狙いもあったかもしれないが、やはりクリスティ自身がスリラーでいくのか、ロマンスものでいくのか、はたまた本格ミステリーに重点をおいて描くのか、いろいろと試したいという欲求があったのではないだろうか。そして、確かに冗長ではあるのだけれど、ラストにおいてそれらが一挙につながって解決し、その上に一組のカップルが誕生し、何人かの失恋者が生み出されるというオチがつく。その点が、小説にいろいろな楽しみを求める欲張りな読者(北方次郎さんもその一人だろう)の好みに合っているのかもしれない。

 僕はと言えば、一作も読めば十分だという気がしている。それがどの作品かと言えば、今のところ、この「チムニーズ館の秘密」という事になりそうだ。主人公の二人の事件への関わり方も面白いし、出逢い方(出逢わせ方)もなかなか凝っている。こういう手腕を活かし続けたら、ひょっとしたらクリスティという作家は、器用なハーレクイン・ロマンス作家として一部に知られる作家で終わっていたかもしれないが、彼女にはさらに大化けするミステリーの才能が秘められていた。
posted by アスラン at 12:25 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。