カテゴリ記事リスト
図説アルプスの少女ハイジー「ハイジ」でよみとく19世紀スイス ちばかおり/川島隆(2013/11/6読了)(04/10)
知識ゼロからの印象派絵画入門 大橋巨泉(2013/11/16読了)(03/03)
将軍家「将棋指南役」−将棋宗家十二代の「大橋家文書」を読む− 増川宏一(2012/8/19読了)(08/21)
ダンス・ダンス・ダンス 村上春樹(2004年11月2日読了)(07/20)
69 村上龍(2005/06/02読了,村上龍自選集1より)(07/10)
かけ算には順序があるのか 高橋誠(2012/3/2読了)(07/04)
夫婦茶碗 町田康(2004年12月18日読了)(06/21)
先崎学のすぐわかる現代将棋 先崎学/北尾まどか(2012/5/17読了)(06/19)
20世紀少年 浦沢直樹(2012/5/5読了)(06/13)
センセイの鞄 川上弘美(2005/06/01読了)(06/12)
シタフォードの秘密 アガサ・クリスティー(2012/5/19読了)(06/08)
ヒュウガ・ウイルス―五分後の世界2 村上龍(2004年11月7日読了)(06/05)
蝋人形館の殺人 ジョン・ディクスン・カー(2012/4/13読了)(06/04)
不可能、不確定、不完全−「できない」を証明する数学の力− ジェイムズ D.スタイン(2012/4/5読了)(06/01)
東京湾景 吉田修一(2004年11月7日読了)(05/30)
勝ち続ける力 羽生善治/柳瀬尚紀(2012/5/8読了)(05/27)
インディヴィジュアル・プロジェクション 阿部和重(2004年11月11日読了)(05/23)
悪人正機 吉本隆明+糸井重里(2012/5/13読了)(05/21)
百鬼夜行―陰 京極夏彦(2005/05/28読了)(05/14)
ゴルフ場殺人事件 アガサ・クリスティー(2012/4/28読了)(05/11)

2014年04月10日

図説アルプスの少女ハイジー「ハイジ」でよみとく19世紀スイス ちばかおり/川島隆(2013/11/6読了)

 「アルプスの少女ハイジ」と言えば、僕が子どもの頃には「母をたずねて三千里」や「小公子」「フランダースの犬」などとともに、小学校の図書室に児童書がそろっていて、図書の時間に移動しては必ず一度は読んだはずだ。ところが今や、高畑・宮崎コンビが生み出したアニメでまっさきに出会う子どもが圧倒的ではないだろうか。大人になった自分自身が観ても、当時の少年少女の空想を掻き立てた物語が、アニメでも忠実に再現され、あのとき以上に情感豊かに描かれている事に感心してしまった。

 あとに残された興味は、ジュブナイルではなくて原作そのものがどのように描かれているかだったが、それも岩波文庫の「アルプスの小屋の娘」を読んで一通り満たされてしまった。原作では、より宗教色が強いことと、ハイジとペーター、そしてクララの関係が、アニメのような対等で心温まるものではなかった事に驚かされた。こんな話だっけ?そう、こんな話ではなかったはずだ、児童書では。ジュブナイルでは、いわば日本の子どもたちにとっておいしいところを選択してまとめられていたので、安心して読めたのではなかったか。

 原作はそうではない。未解決な問題として、フランクフルトで交流があった「お医者さま」をささえるハイジのその後の人生がどうなるのか。これは原作者自身が描かなかった。続編を書きたくなかったのかと思いきや、実は「ハイジ」自体、アルムの山での生活までが第一作だったと初めて知った。あまりに好評だったために「フランクフルトに連れていかれる話」を続編として書いたのだそうだ。そして第一作は女性作家への偏見を慮って匿名にしたが、続編からは正式に作家としてデビューした。しかし、続編も好評であったからには、第三話以降書き継いでもよかったのにと思わずにはいられない。

 この図説では、原作の名場面を紹介しながら、原作の舞台スイスの田舎町マイエンフェルト周辺と、作品を生みだした背景や当時の歴史を要約し、後半では原作者シュピリの人生について詳しく解説している。個人的にはシュピリその人についてはあまり関心がもてなかった。作品も日本ではハイジ以外は馴染みが薄く、やはりハイジの原作者という点をおさえておけば十分のような気がした。ただ、当初想像していた以上にシュピリはアルムの土地柄を現地に取材してから書いたので、登場する地名はすべて現実に存在していることに、作者の誠実さが感じられた。写真を見ると、いまでもハイジの世界が立ち上ってくるかのように感じられる。

 「ハイジの盗作疑惑」という話題のトピックにもちゃんと目配せしているところに、著者たちのハイジへの入れ込みようが伝わってくる。囲みのコラムには、例の「アデレード」のあらすじが引用されていて、一目瞭然、まったくハイジらしからぬ内容であることがわかる。どうやら盗作うんぬんは、読者の関心を煽った記者の勇み足ではないかと、著者たちは分析している。

 また、日本で翻訳されたハイジの書籍一覧や、アニメやTVドラマ、映画などもリストアップされていて、「ハイジ」の一級資料と言える。僕は岩波文庫版を読んで満足していたのだが、どうやら野上百合子訳は、著者が「敬意と批判をこめて」と言及しているように、今やベストな選択ではないようだ。岩波少年文庫の「ハイジ」には旧訳と新訳があり、そのどちらもオススメらしい。さっそく読んでみないと。
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2014年03月03日

知識ゼロからの印象派絵画入門 大橋巨泉(2013/11/16読了)

 昨年の11月の頭に小三の息子をつれて、八王子にある東京富士美術館に印象派展を見に行った。なぜこういうことになったかというと、まず息子が絵を描くのが好きで、おまけにかなりうまいというところから始まっている。次に、たまたま見つけた「ぶらぶら美術館」というBS日テレの番組が思いの外おもしろいことに最近になってようやく気づいて(まあ、かなり遅すぎた発見なのだけれど…)、HDDレコーダーに録画するようになり、それをちょくちょく息子と一緒に見るようになったという経緯があった。

 ああ、順番を間違えた。そもそも小学校に息子を連れていくと、駐輪場の前の建屋の窓ガラスに、モネの「睡蓮」の絵が入ったカレンダーが貼られていて、いつもいつも「モネはいいねぇ」と息子と話し合っていたことが遠因に違いない。そして、偶然にも通学路にある民家の塀に、ルノアールの絵をトリミングした印象派展のポスターが貼られていて、こんな立川の奥まったところにいても、身近に立派な美術館があることを初めて知ったのだった。

 そこで、とある祝日に(そうか、文化の日だった)二人で出かけて鑑賞してきたのだが、あらためて「モネはいいねぇ」「ドガはうまいねぇ、ブーダンって結構やるもんだね、この空と雲はなかなか描けないよなぁ」「ルノアールはやっぱりルノアールだなぁ。セザンヌはすごいねぇ」などと互いに思いつくままに言い合って帰ってきたのだった。そこで、事後学習ではあるけれど、いろいろと図書館で本を仕入れてきた。最寄りの図書館での有りものを集めたので、まずは本書を読むことになった。

 当然、僕自身がド素人なので「知識ゼロからの」というコンセプトはありがたいと思ったのだけれども、あの巨泉さんがこういった入門書を書く資格(資格というのは、ちょっと大げさではあるが)があるのかよくわからなかった。ただ、説得力があると思われたのが、彼が芸能界の第一線を早々と退いて、リタイヤ生活を楽しみ、世界中を夫婦で旅しては有名な画家の作品をかたっぱしから観て歩いたという点である。この、本物を観て回るという体験こそは美術鑑賞にとってなにものにもかえがたい。とにかく絵画だけは本物を目の前にして感じなければダメだ。どんなに再現度の高い映像でも、ましてや美しいグラビアにしたところで、本物の印象はつかめない。その点についてだけは僕のような素人でもわかる。

 あとは入門書や美術書で知ることは絵画の歴史や手法や作家の人生といったものだけだ。僕には、巨泉さんが書いた入門書を読むことに抵抗は感じない。彼には彼の美術に対する思い入れが確かにあり、それは徹底して鑑賞家側、つまりは僕らと同じ側にいるはずなのだから。本書から知識としてわかったのは、印象派とは何かの統一した手法や主義を表す言葉ではなく、既存の伝統的絵画に対する若い作家たちの、ある種の異議申し立てのようなムーブメントを指すという点だ。のちに印象派展と称されることになった絵画展は、当時の批評家から「汚らしい。印象を描いたにすぎない」などと酷評されたことに端を発している。若き創作者たちは、酷評を逆手にとって自らを「印象派」と名乗って大見得をきったのだ。

 それとは別に、確かにモネやルノアールなどは、筆触(筆あとの事?)を消さず、絵の具を混ぜることなくキャンバスに置いてゆく事で、見たままの「印象」をなんとか表現しようと試行錯誤していく。これを「印象主義」というんだそうだ。「だから」と著者は強調するのだが、印象派という言葉でなにかまとまった手法をもった作家群が存在するわけではないのだ。たとえば印象派のくくりで語られる事の多いゴッホやゴーギャンのようないわば「遅れてきた作家」にしても、後期印象派などと言うべきではなくポスト印象派と呼ぶべきなのだと著者は言う。

 いずれにしても僕にわかるのは、「宗教色が強く、構成に遠近法を用いている」という枠に押し込まれていた古典絵画が、印象派の時代を経由する事で現代絵画へと道がひらけていったという事実だ。時代の転換点であったということだろう。ところで、気楽に絵画鑑賞を楽しませようとする著者の意図は十分に理解できるのだが、巨泉さんの絵の好みだけは少々偏っていると思わずにいられない。あるいは既存の権威にとらわれることなく自分の体験を力にして真実を突いているのかもしれないが、どうしても巻末にある印象派作家ランキングに納得する事が、息子ともどもできなかった。

 巨泉さんによると、マネが一番で、次がドガ。いずれも技術が他の画家を抜きんじている。モネは4位に甘んじていて、クールベにいたっては画才がないと断言し、セザンヌは絵が下手だと切り捨てた。ブーダンはうまいけれどちょっと描きすぎだ、などなど。クールベたちはランキングの下から数えた方が早い。これにはちょっとなんだかなぁと思った。だって、印象派展の絵に感動して、ブーダンの〈空と海〉の風景画の絵葉書を買ってしまった僕の立つ瀬がないではないか!!
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2012年08月21日

将軍家「将棋指南役」−将棋宗家十二代の「大橋家文書」を読む− 増川宏一(2012/8/19読了)

 冒頭からさりげなく驚きのエピソードを披露してくれる。30年以上前、棋士たち数人が高名な天麩羅屋で食事をしていた。若手が「先生」と呼びかけているのを聞いた女主人が「いったい何の先生でしょうか」と問いかけてきた。将棋の棋士だと答えると、実は私どもの先祖も将棋指しだったという意外な答が返ってきた。棋士が名前を聞くと即座に「大橋」だと応じた。棋士は全員驚いた。いや、驚愕したと言っていい。

 将棋を知らない人には何のことかさっぱりわからないだろう。将棋を習い始めると、入門書の最初の方に駒の並べ方が紹介されている。別に書いてある順序で並べなくてはいけない規則はないが、「礼に始まり礼に終わる」という日本古来の文化でもある将棋では、プロ棋士はかならず礼儀として「正式な並べ方」で駒を並べていく。並べ方には大きく「大橋流」と「伊藤流」の2種類がある。この大橋と伊藤というのが、江戸時代を通して将軍から扶持をいただく〈御用達町人〉という身分をもった将棋家であった。今の近代将棋のルールに残る「二歩打ち」「打ち歩詰め」などの禁止を規約として定めたのも大橋宗家だ。

 棋士たちが驚愕したのは、明治になって徳川から明治政府へと政権が委譲されたのに合わせて大橋家は絶えてしまったと長く信じられていたからだ。しかし、大橋家は十二代当主が亡くなり跡取りがいなくなって宗家断絶はしたものの、家系は途切れることなく今に残っていた。しかも、その天麩羅屋の女主人は大橋宗家に伝わる文書、いわゆる「大橋家文書」を大切に保管していたのだ。まるで小説のようにドラマチックなエピソードではないか。おかげで将軍のおかかえ騎士だった「将棋家」というものがいかなる存在で、どのように将棋を後生に伝え残してきたかがわかるようになった。

 それにしても、いわゆる実力名人制になってからの「近代将棋」の流れは数多くの文献に書かれているが、徳川がめしかかえた名人の歴史が、この文書入手以前には推測の域を出なかったことは驚きだ。今年は将棋名人が始まって400年目の記念の年だと言われるが、30年前の奇跡的な出会いがあった事は「将棋の神様」がどこかでイタズラを仕掛けたかのような、楽しく素晴らしいエピソードだ。

 この大橋家文書を紐解いて、著者は僕らにわかりやすく「宗家」の暮らし向きやお勤めを教えてくれる。時代劇などに出てくる将棋宗家は、将軍の前で対局を行う「御前試合」を定期的に行うかのようなイメージがあったが、実のところ将軍がお目見えするなど滅多になかった。一年に一度、宗家たちは登城して将棋を指す「御城将棋」という慣例があった。これが彼らのお勤めらしい唯一のもので、それ以外は将軍家の催す冠婚葬祭には列席しなければならなかったので、将棋指しとしてではなく、御用達町人としての諸事に忙しかった。

 さきほどの御城将棋さえも欠席することがあったようで、ずいぶんゆるやかなおつとめだった事になる。こう書くと宗家の価値は下がる一方だが、もちろんそうではない。宗家が御城将棋を勤め、江戸詰の武士が将棋に関心を持ち、それを郷里に持ち帰って広めるという事が将棋をポピュラーな遊芸に育て上げる事に一役かった。やがては庶民の間でも流行し、明治に宗家が断絶する頃にはとうの昔に彼らの存在意義は失われていた。

 この本では、そんな宗家がどんなに苦労して生計をたてていたかという実情が描かれていて面白い。
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2012年07月20日

ダンス・ダンス・ダンス 村上春樹(2004年11月2日読了)

 「ねじまき鳥」で始めて「カフカ」にジャンプして、「風の歌」にターンして「ダンス」へとスキップした。このデタラメなステップは主人公の「僕」そのものを暗示してると言えなくもない。

 村上春樹フリークなら「ハードボイルド」を読まなきゃとか、「羊」はどうしたとか言われそうだが、なんと言われようとまだ未読の長編がある事以上の幸せがあるだろうか。春樹作品には始まりもなければ終わりもない。あるのはセンチメンタルに生きる「僕」だけだ。だったらどこから読んでもいいはずではないか。

 「僕」が、五反田君に「ピーク後のビーチボーイズもいい」と語るように、僕(作中ではなく、今これを書いている僕)は、ミスドに駆逐されてしまって今は無きダンキンドーナツが作品の中に存在する事に感動する。ビーチボーイズには感動しないのにだ。

 やがては、村上春樹作品とて漱石や鴎外の同様におごそかな全集に収められ、「ビーチボーイズ」にも「ダンキンドーナツ」にも注が振られていく。そのとき、村上春樹の描く風俗もカルチャーも風化し、次々とただの記号となっていくだろう。でも「僕」も、「僕」のセンチメンタルも、そして僕もしくは私、彼、彼女のセンチメンタルは永遠に続くだろう。
(2005/6/2初出)
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2012年07月10日

69 村上龍(2005/06/02読了,村上龍自選集1より)

アダマは信じている。僕を信じているのではない。アダマは、千九六〇年代の終わりに充ちていたある何かを信じていて、その何かに忠実だったのである。(「69」より引用)


 僕は一度「69」を読んでる。「コインロッカー・ベイビーズ」を読んでぶっとんだ直後だったから、ミーハーな僕はさっそく書店で村上龍の平積みになった最新巻を買って来たのだ。が、まったく内容を覚えてない。あまりに期待してたものと違ったので無視を決め込んだのかもしれない。

 当時会社の昼休みに読んでたら、ちょっと小太りでちょっとブスのタマビだかムサビのアルバイトの女の子が目ざとく見つけ、読み終わったら貸してと頼まれた。僕は次の日に読み終わった事にして貸してあげた。優しくしたらヤラセてくれるかとの下心からだが、彼女は借りたまま月末に辞めてしまった。

 半年後、会社を辞めた僕は、することもなく見に行った映画館のロビーで彼女と再会した。彼女はちょっとだけ綺麗になっていて「69、良かったね」と笑顔で言った。かなりドキュンときた。飲みに行った二人はお決まりのようにその後でHした。彼女はベッドの上で「本のお礼よ」と笑って言った。

 というのは嘘で、僕は今も同じ会社でちまちま働いてるし、彼女から返ってきた単行本は会社のロッカーに放り込んだままだ。まあ、そういう大嘘つきの高校生が主人公の青春物語だ。1969年にまだガキだった僕にはアダマが忠実だった何かなど想像もつかず、ヤザキが嘘ぶいていたランボーも「太陽に溶けた海」もゴダールもカミュもベトナムも全共闘も存在しなかった。

 でもひとつだけはっきり言える。

 僕は僕にとっての「69」をもっている。それは1979年かもしれない。そして僕はヤザキではなかった。ヤザキのようには生きられなかった。時代の何かに忠実なアダマに過ぎなかった。だからあの頃を思い出すと何かやり残した気がして物悲しい。
(2005/6/2初出)
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2012年07月04日

かけ算には順序があるのか 高橋誠(2012/3/2読了)



「1個30円のリンゴを5個買いました。いくら払えばいいでしょう?」という問題に、
式:30×5=150
答え:150円

と書けば、式・答えともに正解。でも
式:5×30=150
答え:150円

と書くと、答えは正解でも式はバッテンとなる。

 それぞれに得点があるならば、かけ算の式の順序で減点される可能性が生じる。これが今の小学校でのかけ算の教え方だ。はたしてこれは正しい教育といえるのか。正しい技術なのか、正しい理論なのか。そういう話が書かれている本だ。

 実は僕自身、式に順序があるものだと覚えさせられた。問題の文章を正しく読みとくと、
 30(円/1個)×5(個)=150円
という考え方ができる。この順序の式だけに意味があり、逆順は意味をなさない。と思っていた。

 ところが、後に僕らが高校の数学の授業で習うように、現実にはかけ算は交換法則が成り立つので、
 30×5=5×30=150
となり、答えを導出することを主眼におくならば、式に順序があるという「こだわり」はナンセンスだ。

 たとえばこういうふうに考えこともできる。1個25円のリンゴが3個一山で売られていた。4山買ったらいくら払えばいいのだろうか?順序を考慮するならば、

 25(円/1個)×3(個)×4(山)=75×4=300円

だ。しかしだ。かけ算の交換法則が成り立つとわかっていれば、
 (25×4)×3=100×3=300円
と計算した方が、暗算が圧倒的に楽になるし確実になることを誰もが経験的に知っているはずだ。いや算数にしろ数学にしろ、正しい解答(答え)を出すために確実な方法を教えるべきで、過程があたかも一つしかないかのように教えるべきではないのではないだろうか?それなのに、現実の小学校教育の現場では「正しい答え」ではなく「正しい解き方」が優先されると言っていい。

 これは不思議な話ではないだろうか。そして話は式の順序だけに収まらず、九九の問題にまで広がっていく。僕はそんな事にすらうかつにも無知だった事に、初めてこの本で気づかされることとなった。

 かけ算に順序があるならば、九九という技術ではかならず2×3と3×2の両方を覚えなければならない。だから九九は1の段から9の段まで、計9×9=81個の暗算を覚えることになっている。と考えるのは早計で、この81個の九九(全九九と言うそうだ。初めて聞いた)は、全世界共通というわけではない。

 中国では半九九が主流で、一方の方向にしか暗記しない。つまり2×3を覚えたら、3×2は覚えさせない。半九九の教育理念には、かけ算には順序はないという思想が含まれている。しかも、日本でも以前は半九九を採用していた。全九九になったのは戦後からというから、かなり最近だと言える。

 それだけではない。たとえ全九九を教育に採用したからと言って、それで「2×3」と「3×2」のどちらが順序として正しいかという議論がひとつにまとまるわけではない。「にさんがろく」と唱える九九は、果たして「2個のリンゴを3人に配る(2×3)を意味する」のか、あるいは「2人に3個のリンゴを配る(3×2)を意味する」のか、教育の現場で小学生の自信をもって説明する教師ほどには確信できるものではないようだ。

 その証拠に、江戸時代から明治のはじめ頃に使われていたかけ算では、「にさんがろく」と唱えて3×2と書いていた事が文献からわかっているそうだ。ならば伝統的な和算の立場からも、現在のかけ算の式の順序は否定される。ならばいったい「かけ算の順序」に果たしてどんな意味があるのか?

 なんとなく「右へならえ」「右向け右」式の国民的規律に帰着しているだけのような気がする。一概に規律とか慣習を否定しているわけではない。そうだ(慣習だ)と言ってくれればいいだけの話だ。慣習であるならば減点すべき事ではないだろう。そういう順序を意識して式をかけば、「あなた(生徒)が解いた過程が、私たち(先生やほかの生徒)にも分かりやすい」というふうに主張してくれたら、どんなにか話は前向きになるのではないか。

 まあ、そういう議論は専門家にお任せするとして、この本で紹介されている「九九」の種類の話は大変に興味深い。なんとまあ、僕は九九の事を簡単に考えてきたのかと思ってしまう。いったい、あなたは九九の種類がどれだけあるか知っているだろうか。
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2012年06月21日

夫婦茶碗 町田康(2004年12月18日読了)

 笑える、こりゃあ笑えるぞ〜。

 妙に古い言い回しを使いたがる主人公の男の語り口は、あたかも落語を思わせる。ところが現代の〈熊さん八っつぁん〉は独善的な思考を止める事を知らない。おまけに、それをたしなめるご隠居がいないのが今のご時世というものだ。

 語り手の男は、「おいおい、そりぁないだろ」と思わずにはいられないところまでどしどし無謀な考えをおしすすめて行動にうつしてしまう。確かに笑える。なのにいつの間にか「笑い」がひきつる。そこまでいっちぁあ(オシマイだ…)という言わずもがなの言葉を思わず飲み込む。でも、やっぱり可笑しい。可笑しいものは可笑しい。では、笑ってしまおう。

 そこで、はたと気づく。そうか。僕ら読者は、著者の底意地の悪い思考実験に単に付き合わされてるだけじゃない。試されてるんだ。人間としてのモラルだとかヒューマニズムだとか、そんなオシキセでアイマイなモノが如何に〈人間という生き方〉をつまらなくしている事か。これは生きる事に日々退屈にしている僕らへの著者なりの挑戦状なのだ。
(2005年6月2日初出)
posted by アスラン at 19:28 | Comment(6) | TrackBack(5) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月19日

先崎学のすぐわかる現代将棋 先崎学/北尾まどか(2012/5/17読了)

 うちの息子が将棋を始めて一年と数ヶ月が過ぎた。息子の将棋好きは途切れる事なく続き、割と順調に将棋の実力(棋力と言う)もついていった。もう僕の出番はない。どうやっても勝てないから、あとはサンドバッグ代わりに相手をしてあげるだけだが、生意気にも終わった後で感想戦(対局が終わった直後に対局者同士で勝敗の分かれ目などを分析しあう)をやって「ここでこう指せばよかったんだよ」などと言うものだから、いつも親の面目をかけて「もう二度とお前とは将棋を指さない」と言って息子をあわてさせる。ママには「大人げないからやめなさい」と言われるが、ゲームなんだから大人げないもへったくれもないだろう。

 しかし子供以上に将棋の面白さにはまってしまったのは僕の方だ。携帯から将棋のライブ中継(盤面がリアルタイムで進行していく)サイトにアクセスできるように契約して、毎日のように素人考えで、ああでもないこうでもないとプロの指し方を観戦している。それと本だ。少しでも強くなって息子の天狗の鼻をへし折ってやるなんて野望は持っていないが、少しは見事な指し回しをして鼻をあかしてやりたいとは思っている。でもおそらく手遅れだろうな。二度と追いつかない。それよりも将棋の楽しさを味わう本を選んで、できれば読み尽くしてやろう。こちらの野望の方は息子の方も手出しはできないだろう。

 今の将棋本のほとんどはプロ・アマ問わず、今の実力をステップアップさせるための入門本、解説本がほとんどで、これは「初心者向け」の本をのぞけば、僕には歯が立たない。先崎学という人はもちろんプロの将棋指しだが、文才とユーモア感覚のあふれている、将棋界でも希有な存在だ。彼のエッセイは読みやすく、本来取っつきにくい将棋の世界を垣間見ようとするにわかファンが楽しむための入り口として最適だ。ただし、今回の本はエッセイではなく、先崎さんにしてはめずらしくまじめな「現代将棋解説本」だ。

 「現代将棋」というキーワードは頻繁に使われる。これは、たとえば「近代将棋」という時の意味とはまったく違う。近代あるいは近代化というのは単に制度の問題であるし、経営の問題とも言える。400年前に徳川家将軍のお抱え棋士として始まった名人制度は、近代においては日本将棋連盟という民間の団体によるプロ同士の勝負という仕組みにとってかわった。

 しかし本当の意味で将棋というゲームが近代化するには、戦後の世代交代が不可欠だった。将棋には〈羽生世代〉という言葉があるが、彼らが活躍する以前の将棋は今とは指し方が違うだけでなく対局の様子もかなり違っていた。将棋は序盤で駒組を行う。手筋にしたがった指し方をお互いが順番にするのが当たり前で、序盤で対局者や関係者が会話する事もふつうの光景だったようだ。また、対局の前後で対局先の宿屋で麻雀をする事もあった。つまり以前の棋士たちは「切ったはった」を渡り歩く勝負師たちの真剣勝負だった。

 そういう時代の伝説となったのは大山康晴のような人物だ。彼が得意としたのは中飛車だった。かつての、というか今でもそうだが、伝統的な中飛車では角道を歩で止める。徹底的に相手の攻撃を受けて、カウンターを仕掛けるというのが従来の中飛車のイメージだった。この息が詰まるようなかたぐるしい中飛車のイメージは大山康晴という巨人が作ったものと言っていい。と著者・先崎さんは書いていたはずだ。

 ところが時代は変わる。巨星がこの世から去り、風通しがよくなった将棋界に「現代将棋」の革命が次々と訪れる。もう対局の場で会話を交わす事はなくなった。序盤は駒組みをするだけなどと安易な事をいう棋士はいない。序盤で少しでも有利な陣形を構築するために、攻撃・守りを同時に組み立てて中盤につなげ、終盤を乗り切る戦法が求められるようになった。そこから逆転の発想のように生み出されたのが、現代将棋だ。

 この本では「ゴキゲン中飛車」「石田流三間飛車」「角交換振り飛車」を中心にして、現代将棋の最新流行の一端を分かりやすく紹介してくれる。そもそも僕のように将棋1年目の子供に負けるような人間が読むにはやや難しい。読んで意味はわかるが、指せと言われても到底させない。でも「ゴキゲン中飛車」がどれほどゴキゲンな戦法なのかが、この本で初めて理解できた。なんとゴキゲン中飛車の名付け親が先崎さんなんだそうだ。

 将棋ファンなら知らない人はいないゴキゲン中飛車の発明者は近藤正和六段だ。彼は日頃からニコニコと笑顔で楽しそうに将棋を指す。その人柄が乗りうつったような振り飛車の戦法は、それまで角道を止めて盤面から動きを奪ってきた中飛車の概念を一変させた。なんとゴキゲンな戦法ではないか。だから先崎さんははっきりとは言わないが、ゴキゲンなのは開発者の近藤さんの「ゴキゲン」だけでなく、一時代を築いたがゆえに中飛車から楽しさを奪ってきた巨星に対する批判も込めて、ネーミングの意味を僕らに伝えているのだ。

 そう思うと、是が非でもゴキゲン中飛車の「ゴキゲンさ」を味わいたくなってくる。自分では指せないくせに、どう指すとどうゴキゲンかを本書で味わい尽くす。それに「一手損角代わり」って日々当たり前のようにプロ棋士の間で指されているにも関わらず、なんで「角がわり」するの?なんで「一手損」なの?いや、一手損していいの?みたいな馬鹿な疑問でも、先崎さんの柔らかな解説を読んでいくと、なんとなく分かったような気になってくる。そしていつか「ゴキゲン中飛車」を指し倒して、うちの息子に「やったね、お父さん」と言わせるか。いや「ばか、ばか、ばか、なんで勝つんだよ」と言わせてみるか。それもまた夢の夢だ。

 そういえば、最近うちの息子は千駄ヶ谷の将棋会館の将棋スクールの帰りに、「なんかさ、教えてくれる先生の本を下(の売店)で買ってくれば、先生がサインしてくれるみたいだよ」と言い出す。へぇ、なんで知ってるの?「だって、誰かが買ってきた本にサインをお願いしてたの」。ふーん。でもさ、本を書いてる先生いるのかなぁ。若手の先生とかだと、まだ本なんて書いてないでしょ。どの本なの?

 「これ、これ」、息子が指さす。「『ゴキゲン中飛車入門 近藤正和六段』とか」。えっ?えぇぇぇっ!
あの近藤先生が、ゴキゲン中飛車の近藤六段だったの?確かにゴキゲンにニコニコ笑っているなぁ。ちょっと待って。僕がこの次に本を買ってサインをお願いしてしまうかもしれないぞ。
posted by アスラン at 19:48 | 東京 ☔ | Comment(4) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月13日

20世紀少年 浦沢直樹(2012/5/5読了)

 ずっと以前から気になっていたにも関わらずマンガを読む環境にないことから我慢してきたが、ようやくこのたびめでたく全巻を読み終えた。図書館では貸し出ししていないし、マンガ喫茶に行ってゆったりと読むようなことは時間が許さない。そこに例の映画が三部作完結して、さらには地上波で放映されるにいたって、ついに我慢しきれずに映画の方を先に三本ともテレビで観てしまっている。

 映画の作者は、あの堤幸彦監督だ。ただし原作のイメージをそこなわない人物造形を初めとしてストーリー展開の制約も多すぎたのか、いつもの堤節が出し切れていないような感じがした。そもそもがシュールな演出で笑わせたり観客の度肝を抜いたりする監督特有の手際が、今回の作品には向いていないのではないかとも思った。

 もちろん、ストーリー展開そのものだけを追う意味では興味深い映画だと言えるが、「ともだち」の正体を明かすことだけが核心であるかのようなストーリーの運び方では、堤節は間が持たない。これはもう原作を読むしかない。そう思い立ったらブックオフの105円コーナーに続々と落ちてきた「20世紀少年」単行本を片っ端から集めだすこととなった。だが、あと3冊程度を残してほぼ全部集まったのを機に、突然収集熱は冷めた。あとは読むだけという段取りになったとたん、おきまりの停滞。たっぷりと寝かせてしまい、今年のGWがやってきた。

 少し自由になった時間に、自室で手近に転がった単行本の山に手を出すと、これがもう止まらない。3冊抜けているところはやむなくとばした。最終巻(第22巻)を読みきった。なんだ!?終わらないぞ!えぇぇ。

 そうだったか、「21世紀少年(上・下)」という単行本の存在には気づいていたが、てっきり本編が終わった後の外伝だと思って買いびかえてしまった。しかたなく会社近くの大きなブックオフに行く機会を作って、残りの買い損ねをすべて買い足し、再び第一巻に戻って通して読んだ。そうか、こういう話だったのか。

 きっと僕らの子供の頃ならば児童文学の中で出会って、ドキドキしながら読んだんじゃないだろうか。青年誌に掲載されているけれども、子供が読めるくらい間口が広いストーリー展開になっている。もちろんキャラクターや時代設定など、当然のことながら戦後に吹き荒れた学生運動などの社会的なムーブメントを下地にしている。だから、たんなる児童文学として読みたい(読ませたい)人にとっては受け入れにくい側面はあるだろうが、そもそも名だたる作家が書いた児童文学やファンタジーには後年の研究者たちがこぞって取り上げる「隠されたテーマ」というものがつきものだ。この作品も多面的に読むことは可能だろうが、だからといってオモテにあるストーリーが見せかけ(仮の姿)と考えるのは短絡しすぎだろう。

 この、間口の広い「20世紀少年」は子供とその親を引きつけるだけでなく、当然のことのように青年誌のターゲットである20代の若者に向けて、ダークなファンタジーの要素もふんだんに取り入れている。70年代から盛んにメディアで取り上げられてきたオカルトと現代のテクノロジーを結びつけて、何事か世の中に不穏な一撃を加えるという「ともだち」の存在に、彼らは荒唐無稽にひそむ恐怖をかぎとってしまうだろう。

 しかし、この作品にもっとも触発されてしまうのは、小学生の時に1970年を通過してきた、ごくごく限られた人間なのではないだろうか。かつては「うみほたる」と呼ばれた牢獄から抜け出して東京湾をわたりきったオッチョは、自分の目に入ってきた光景におもわず唖然とする。

「なんてことをするんだ。」

 そう、彼にとって、彼ら仲間にとって、あの熱狂的で輝ける未来の象徴だったはずの大阪万博(EXPO'70)のすべてが丸ごと再現されていたからだ。今の若者にとっては、大阪万博の太陽の塔に象徴されるパビリオン群は、どこにもたどり着くことのなかった進化木のどんづまりにしか見えないだろう。今となってはむなしく消えていった中途半端で奇妙な<なり損ね>にすぎない。しかし1970年を少年として通過したオッチョたち、そして僕にとっては、あれは確かに「未来」そのものだった。

 その「僕らの未来」を、あるいは「僕らの夢」を取り戻すために、彼ら20世紀少年たちは戦う。人類のためではなく。なんて、懐かしくて、ダサくて、かっこわるくて、素敵なんだろう。
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2012年06月12日

センセイの鞄 川上弘美(2005/06/01読了)

わたしはざぶとんにぺたりと腰をおろした。わたしがセンセイのことを思って悶々としていた間、センセイは蛸のことなぞで悶々としていたのである。(本文より引用)

 いきなり伊良子清白である。やられた〜。

 誰がこの明治の詩人を知ってるだろう。かく言う僕も知らなかった、高橋源一郎「日本文学盛衰史」を読むまでは。時代に先行しているとも気づかず失意の内に筆を折って、遠い北国で忘れられた半生を送った詩人。その寂しい孤独感が、センセイとツキコさんとに乗り移る。ふいっと行きつけの居酒屋のカウンターで隣り合わせ、注文する品揃えが同じ。でも「運命」と言う月並みなコトバを嫌うかのように言い立てる順序が違う。「巡り合わせ」と言ってくださいね、という作者の声が聞こえてきそうだ。

 センセイはツキコさんの卒業した高校の国語の教師だった。いまは年老いて引退の身。もちろんありえない話ではない。男と女だもの。だけど単にツキコさんが一方的にセンセイという存在に自分の孤独を委ねてるように見えなくもない。

 そんな恋人とも父娘ともつかない曖昧な関係を象徴するようにツキコさんの合いの手はいつでも「はぁ」と要領をえない。そこに時々「えっ」が入る。センセイのコトバにたじろぐツキコさんがいる。やっぱり恋だ、恋愛だ。ツキコさんの無意識は幾度となく描かれるトイレの用足しに表れる。飛び込みで入った居酒屋で遭遇する酔っ払いのゲスの勘繰りに憤慨するツキコさんの性をユーモアにくるんでさりげなく見せてしまう作者の手際は見事だ。そこからはかつての同級生・小島孝も、亡くなったセンセイの奥さんも、もはや鞘当てに過ぎない。歳の差さえもどうでもいい事だ。

 あとは自分の気持ちが先走る前にセンセイの気持ちを確認しなくては。後半のツキコさんの悶々と切羽詰まった気持ちはとっても微笑ましくいじらしい。

 な・の・に…。なのに、センセイは夕げに出された蛸を和歌に出来ないと悶々としてるのだ。センセイ、そんなじらさないでツキコさんの気持ち受け止めてあげなさいよ。そんなつぶやきが聞こえる。いや、それは僕のつぶやきだった。
旅路はるけくさまよへば
破れし衣の寒けきに
こよひ朗らのそらにして
いとどし心痛むかな   (伊良子清白)


(2005年6月1日初出)
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2012年06月08日

シタフォードの秘密 アガサ・クリスティー(2012/5/19読了)

 登場人物が多く、人間関係を把握するのに手間取る作品だ。大雪の中、退役した大佐が殺され、当初は物取りによる偶然の犯行かと思われたが、次第に計画殺人の可能性が疑われ、容疑者のすべてが洗い出されていく。すると、大佐の遺産の受取人である親族が山ほどでてくる。大佐の管理するアパートのたなこである間借り人など、これまた容疑者が増えてしまう。

 それを整理する役目をいったい誰が負うのか、名探偵役が誰なのかというと、これがなかなか見あたらない。前半は警部がねばり強く慎重な捜査を進めていくが、結局は犯行当日に大佐のすむ町に出向いて身元を隠して宿屋に宿泊していた大佐の甥っ子を、捕まえるべくして捕まえてしまう。

 そこから探偵役がチェンジして、その甥っ子のフィアンセである女性が奮闘する。人を誘導する術にたけた彼女は、打つべき手を打って、素人ながら見事な捜査を行って真相に肉薄していく。それには手足となって動き回ってくれる相棒が必要だ。都合のいい事にうかうかと特ダネをもとめてやってきた若き新聞記者を籠絡して、彼女はともに行動する事を青年に約束させる。

 ならば名探偵役は彼女だったかと思うと、そのうちに甥っ子と彼女と記者の三角関係が浮き彫りになって、事件の捜査のクライマックスと平行して「はたして彼女は最後にどちらを選ぶのか」というロマンスの要素も重要になってくる。言ってみれば、後年TV番組でソープオペラと言われたジャンルのTVドラマが一世を風靡したが、小さな町で事件をきっかけに右往左往する人々の姿を活写したドラマチックなストーリー構成を本作もとっている。

 だが、この作品の品ぞろえはそれだけではない。大佐から是が非でも冬の間貸してほしいとやってきた母娘が、シタフォード邸で開いたパーティで余興に降霊会を行う。「大佐が殺される」と霊が予言したことが発端となり、大雪の中で一人暮らす大佐が予言通り殺されてしまう。この怪しげでスキャンダラスな設定が読者を惹きつけやすい事はたしかだが、僕が一番感心したのは、玄人探偵(警部)と素人探偵(女性)のそれぞれが真犯人を見つけるための捜査をする場面に、本格ミステリーによくある場当たり的で単なるつなぎのような展開がひとつもないという点だった。

 すべての人物、すべてのエピソードを整然とまとめていくかのように、探偵たちは慎重に歩を進めていく。これはミステリーの描写としても見事で、名探偵ならば結末で一言で片付けてしまうような事を、本作の探偵たちは頭で考え、仲間に相談し、たちまち行動にうつす。あたかも現代のミステリーの手本となるようなライブ感に富んだ本格ミステリーが、この時期に書かれていたことが真の驚きと言えるだろう。
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2012年06月05日

ヒュウガ・ウイルス―五分後の世界2 村上龍(2004年11月7日読了)

 
 日本が1945年のポツダム宣言による「無条件降伏」を受け入れずに徹底抗戦したとするとどうなるか。兵力が圧倒的にまさる連合軍にあっという間に進駐されて、主要4カ国に分割統治されて大日本帝国は崩壊するだろう。しかし、日本軍も外地から戻った少数の将校の指導のもと立て直しを図る。そして日本軍は地下に潜って駐留下の軍事活動を続ける。それが村上龍が描いたUG(アンダーグラウンド)だ。副題は「五分後の世界2」。

 今とはほんの五分しかずれていない時空間にパラレルワールドとしての日本が存在する。そこには国家としての日本は存在せず見慣れた国土もない。しかし無条件降伏後の日本がたどった、愛国心もなければ民族としての尊厳も持てないいびつな歴史はなく、あり得たかもしれないもうひとつの日本人の生き方を鮮やかに描き出したのが、前作「五分後の世界」だった。

 村上龍は作家としてのスタート時から既存の体制、既存の社会、既存の生き方にNOを叩きつけてきた。それは、いつもで「あり得べき体制、あり得べき社会、あり得べき生き方」を自分自身に、あるいはぬくぬくと生きている現代人たちに問い続けてきたと言ってもいい。そこには政治的なスローガンがあるわけではなく、もし「あり得べきもうひとつの世界」があるのならば、それはどんな世界か見てみたいという好奇心のあらわれなのだろう。「五分後の世界」の衝撃は、その後の「半島を出よ」でより現実感を伴った形で再現され、さらに「歌うクジラ」で象徴的な未来へのまなざしへと引き継がれている。

 少しはしょりすぎたが、本作は「五分後の世界」のパート2というよりも外伝のような位置づけだと考えるといい。あの前作で少しでも日本のありうべき姿の過酷さと、しかしかろうじてつなぎとめた誇りとに導かれた読者は、この続編では人類が正体不明のウイルスによって存亡の危機へと追い込まれている事態に唖然となる。UGの残された精鋭たちの部隊がウイルスに対処するためにヒュウガ村に赴くというのが本編のメインストーリーではあるのだが、話はあっけなく終わってしまう。いや、終わらないといった方が正しい。

 著者は近未来のバイオハザード物のドラマを書きたかったわけではなく、「ウイルスが象徴する終末」の世界と、そこで生き残る者だけが手に入れる「(人類が)生き残るためのモラル」とはどのようなものなのかを描きたかったように思える。意気込みは買うとしても、著者にしてはウイルスのメタファは、ちょっと安直すぎるのではないだろうか。詳細すぎるほどのウイルスの専門的な記述を延々と読まされるうちに、なんだかウイルスそのものへの著者の飽くなき好奇心を満たすためだけに書かれた作品に、僕ら読者は付き合わされているのではないかなどと邪推したくなってくる。

 けれど決して面白くないわけじゃないから、村上龍の作品は一筋縄ではいかないのだ。
(2005年5月31日初出)
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2012年06月04日

蝋人形館の殺人 ジョン・ディクスン・カー(2012/4/13読了)

 新訳になって「蛍光灯下の蝋人形館」というようなイメージが湧いてきた。かつて創元推理文庫の旧訳で読んだ際は、何かうらさびしくみすぼらしい蝋人形館の地下にある通路の一隅で殺人がおきて、そこにはおどろおどろしい蝋人形たちがあたりを固めていた。

 と書き出して平気でいたが、amazonの商品リンクを付けようと検索をかけたり、図書館の検索システムで旧訳の出版年を調べたりしようと思って、ようやく自分の間違いに気づいた。この「蝋人形の殺人」という作品は、早川書房のポケミスで出版されて、その後ハヤカワ・ミステリ文庫に未収録のまま今に至っている。アンリ・バンコランシリーズの全作品の収録に力をいれている創元推理文庫が、今回「初の文庫化」を果たしたというのが正しい。すでに早川が文庫化をはたしているようになんとなく思っていたから、「初の文庫化」という文言は「創元推理文庫にとっての」という限定が入るのだろうと思い込んで、創元推理文庫担当者の意気込み過多におもわず失笑してしまった。とんでもない、自分の方が勘違いをしてました。申し訳ない。では、もう一度最初からやり直そう。

 今回の文庫化による最新の訳文で読むと、なんとなく「蛍光灯下の蝋人形館」というようなイメージが湧いてきた。かつて早川ポケットミステリの訳で読んだ際は、何かうらさびしくみすぼらしい蝋人形館の地下にある通路の一隅で殺人がおきて、そこにはおどろおどろしい蝋人形たちがあたりを固めていた。

 しかし、創元推理文庫の新訳ではそれほどの恐怖を感じない。明晰な新訳で現代調の文章に書き改められたせいでもあるだろう。それとも、かつての若者を熱中させ、かつての若者が年老いるように古びていったレトロな意匠のポケミスが醸し出す〈時代の雰囲気〉に僕自身がのまれていたのかもしれない。蝋人形館の隣には、仮面をつけた男女が一夜限りの欲望を満たす秘密クラブへとつながる通路が続く。そこは、蝋人形館とは打って変わって滑稽なほどに部屋数が多くて、まるで日本のラブホテルに似てもいる風景が広がっている。

 読み進めていけばいくほど、アンリ・バンコランというキャラクターは溌剌とした名探偵にはほど遠く、まだそれほど老いたと言える年齢でもないのに<老獪>という一語がふさわしい人物に感じられた。世間からメフィストフェレスに例えられるとおり、悪魔と契約した彼の精神と肉体は暗黒の世界に引きずり込まれる一歩手前の人間らしく、陽気と陰気のはざまを綱渡りしながら、出くわした猟奇殺人の捜査を楽しんでいる。

 そのせいか、予審判事という身分でありながら警察以上にでしゃばりな彼の行動は、ほとんどたわけた暴走以外のなにものでもない。捜査を一任したはずの警部にも肝心の秘密クラブを捜査することを控えさせたり、重要な手がかりを隠したりしてはばからない。これも古き良き時代の本格ミステリーの約束ごととして、読者は大目に見るにしくはない。

 しかし最後の最後に勝利の栄光を勝ち取るのはアンリ・バンコランそのひとである。おそらくは若い頃にパリの怪しげな魅力にとりつかれた当時の著者にとっては、お手本とすべきポーとドイルという二大巨匠が生み出した名探偵以上に、大都会の暗黒面に通じる悪魔的な探偵を必要としたと考えればいいのだろう。バンコランは若きカーのお気に入りの人物だったはずだ。

 ワトソン役であるジェフ・マールは、クリスティが生み出したもう一人の名探偵ポワロと事件をともにするお人好しの青年とは好対照をなす。ばか正直に他人の言葉をまにうけたり、美しい独身女性をみるとすかさずなびいてしまう事はないかわりに、正義よりも冒険のためにあえて火中に飛び込む無謀な若さを持ち合わせているところなどは、あくまでバンコランの老獪さとバランスをとるための人物配置だろう。だが、ジェフの行動の中途半端でお粗末なところはヘイスティング大尉と好一対だ。

 終盤にきてジェフは、秘密クラブに潜入して暗黒街のボスの犯罪の動かぬ証拠を盗み聞きする役をかってでるが、途中でばれてあやうく捕まりそうになる。実はここで得られた手がかりは真相に近づくものとは言えず、ジェフの大冒険のあいだにバンコランは真犯人と対峙して、さっさと真相を突き止めてしまっていた。つまり秘密クラブの捜索のくだりは、あまりに動きのない中盤からクライマックスに至るまでの著者なりのサービス精神の現れであり、結末までのつなぎの意味しかない。

 そして肝心の犯人は?というと、とびきり意外な人物だ。解説でも意外だと指摘されているが僕自身も異論はない。異論はないが、「意外」すぎて実は驚きも少ないというのが正直なところだ。僕の第一声は「えぇー、なにそれっ!?」という感じだった。カーの長編の多くは犯人を当てようとしても無駄だ。ほとんどの作品が読者にとって「意外な犯人」だからだ。

 そしてそのうちの何割かは、犯人の名前があかされても「それって誰だっけ?」という事態になることも少なくない。容疑圏内ぎりぎりの人物がいきなり第一候補に躍り出る。今回もそのタイプだ。トリックもない。本作の特徴はというと、やはりタイトルにあるとおり「蝋人形館」のもつ毒々しい怪しげな魅力に尽きる。それに重ねてスキャンダラスな秘密クラブを蝋人形館と隣り合わせに配置するというのが、ゴシップ好きの読者の下心をあおる趣向であって、それ以上でもそれ以下でもない。
posted by アスラン at 10:54 | 東京 ☀ | Comment(2) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月01日

不可能、不確定、不完全−「できない」を証明する数学の力− ジェイムズ D.スタイン(2012/4/5読了)

 こういうタイトルが目に付くと、ついつい内容をよく確かめもせずに借りてしまうのが「僕の悪いクセ」。読んだあげくに「借りて読むほどの中身だったか」と、後悔しないまでもがっかりさせられることはよくあることだ。ただし、通常の小説などと違ってノンフィクションは事実を元にしているので、出来不出来を選別する基準が少しだけあまくなる。

 数学や自然科学を一般人向けに解説する本と謳っている場合にはなおさら、歯が立たないとなると、自分の方に楽しめるだけの素養がたりないのだろうと逆に引け目を感じてしまうのが関の山だ。後悔どころか自分の不出来を恥じてしまう有様なのに、書店や図書館で同じような本に出くわすと、性懲りもせずにまた借りてしまう。まさに「こりない奴」なのだ。

 さて、ではこの本はおもしろかったのかと言われれば”Yes”だろう。「不完全」がゲーデルの不完全性定理であり、「不確定」がハイゼンベルグの不確定性原理であり、そして「不可能」がアローの不可能性定理をそれぞれ指している。いずれの定理(原理)もできることを証明するのではなく、「できないことを証明する」という点に、素人さえも引きつける怪しい魔力がある。

 数学の起源から「できない事の証明」は物議を醸し続けてきた。その代表が「角の三等分(の作図)」である。あるいは「立方体の倍積問題」であり、「円と同面積の正方形(の作図)」であり、「五次方程式の一般解」であった。その後、数学の分野ではゲーデルが、物理学の分野ではハイゼンベルグが、経済学の分野ではアローが、それぞれ「できないこと」の究極の証明をもたらした。

 これらのエピソードを次々とつないでいったのが本書だが、実はそれぞれのキーワードである「不完全・不確定・不可能」に直接関わりのあるエピソードばかりを綴っているわけではない。「できない事を証明する」ことができる数学の潜在的な能力が、現在あるいは将来にどんな成果をもたらすことになるかを分かりやすく語ってくれる。数学の奥深さがよく分かる。

 しかし、その一方で「できない事を証明できる」ことに対して無批判でもいられない。今なおなおざりにされている数学基礎論の視点から、果たし「できないこと」が現代数学のまな板に載せる事が可能なのかをあらためて問題にする。それは「排中律」の問題である。

 「できない」を証明できるためには、「できない」が「できる」の否定で表現できる事を前提にしなければならない。つまり「排中律が成立する」という前提を受け入れなければならない。これこそが数学基礎論に関わる大きな問題である。一般人の感覚では「Aである」と「Aでない」という二律背反である事は常識だが、数学としては簡単に原理として鵜呑みにする事はできない。そもそも数学基礎論の世界では数学的帰納法を認めるかどうかで意見が分かれる。つまり一つ一つ数え上げて正しい事が証明されない限り、nで成立するとn+1でも証明したから、無限に証明できた事にしていいのかいけないのかが「数学の基礎論的危機」の一部を構成する。当然ながら数学の分野では「できないことの証明」は排中律の是非を棚上げする事でかろうじて成り立っている。

 そんな興味深いエピソードを読みながらも、僕が考えていたのはハイゼンベルグの不確定性原理のことだった。最近の名古屋大学の小澤正直教授の成果で、ふたたび「不確定」というキーワードの持つ意味も変わろうとしているのではないだろうか。
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2012年05月30日

東京湾景 吉田修一(2004年11月7日読了)

 遅ればせながらドラマ化された本作を読んだ。ビックリした、ホントにビックリしました。全然違うじゃない、内容が。フジテレビのドラマは明らかに「冬ソナ」に便乗していて、和製韓流純愛ドラマにしてしまったけれど、原作にはそんな部分は影も形もない。これはハッキリと書いておこう。一行も一言すらない!

 「出会い系サイトで純愛なんて笑っちゃうよね」って口さがないOLたちの会話をどこぞのテレビで耳にしたけれど、彼女たちだけでなく誰だってそんなシチュエーションを信じているわけじゃない。だけど、この小説で著者は、出会い系サイトの出逢いのうさんくささの中で互いを求め合う事を期待する男と女の物語を、あえて描きたいと思った。当然ながら純愛にはならない。

 テレビドラマが韓流テイストを持ちこみたかった気持ちもわからないではない。原作では、「太陽はひとりぼっち」という映画の別れのシーンにインスパイアされたクライマックスを採用しているからだ。一言で言えば「愛する男女の移ろい」が主題と言っていい。。原作を読むかぎり、決して難しい事を書いてあるわけではない。でも、もしテレビドラマで同じ主題を取り上げるならば、演出には力量が問われるだろう。

 さてドラマの事はおいといて小説の方だけど、純愛物でないにも関わらず吉田作品としては最もロマンティックな結末になっている。映画的なシーケンスがちりばめられているから、映画できちんと作ったらさぞかし面白い作品になりそうなんだけどな。
(2005年5月30日初出)


[追記(2012/5/30)]
 今となっては書評と一緒に織り込んだテレビドラマ時評の方が古くさくなってしまって、一体どんなドラマだったのか誰も分からなくなっている。僕自身も連続して見続けていたわけではなく、なんとなく仲間由紀恵主演だったのと、吉田修一原作という点に牽かれて見てみたら「なんかヘンだな」と感じてしまったのだ。吉田作品らしくない設定だったからだ。仲間由紀恵が在日韓国人という設定も無理があるが、それだけ当時は「冬ソナ」の影響が大きく、しかも今のように韓流ドラマの放映枠もなかったので、NHKの「冬ソナ」は別格として民放がニーズに応えるためには、このような中途半端な設定のドラマが必要だったという事かもしれない。出会い系サイトで出会う相手は和田聰宏だ。当時、日本でのタレント活動を渇望していたパク・ヨンハがゲスト出演して話題性を盛り上げていた。(などと書いたが、パク・ヨンハのくだりはWikiを見て思い出したくらいで、忘れていた。)
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2012年05月27日

勝ち続ける力 羽生善治/柳瀬尚紀(2012/5/8読了)

 将棋名人戦の第3局が昨日(5/9)終わって、森内名人の2勝1敗になった。挑戦者の羽生二冠ともども先手番をきっちりと物にしてきているので、両者の力が拮抗している事は素人目にもわかる。ただし、森内名人の先手から第1局が始まっているので、このままでは羽生さんが不利だなぁと思っていたら、最終の第7局はあらためて振り駒になるらしい。そうつぶやいているのをツイッターで見かけただけなので、本当なのか未確認なのだけれど。

 息子が将棋を指すようになってからというもの、親の方も無関心ではいられなくなって携帯からプロ棋士の対局をライブ中継するサイトに登録した。以来、会社の行き帰りや休み時間に、お気に入りの棋士の対局のすすみ具合を何度も確かめるのが日課となってしまった。NHKの教育テレビでも日曜日ごとに将棋の対局があるが、素人には大盤解説でも難しい。モバイル中継の解説は何度も何度も理解するまで繰り返し読めるので、とてもありがたい。

 モバイルの中継の物足りないところは、やはり棋士の様子が見られないところと、終局後の感想戦の様子がいっさい中継されない点だ。以前から不思議に思っていたのだが、戦いがおわって勝ち負けがはっきりとついた直後に、対局相手に自分の手の内をあかし、さらには負けた方がどこで間違ったのか(敗着というらしい)をお互いに検討しあうという慣習めいたことをやる。よくもまあ、棋士の方々はいやがらずにやっているなと、ひとごとながら気になっていた。

 これは、本書の羽生さんの言葉によれば、「一種の反省会」のようなものなのだそうだ。それはそのとおりなのだろうが、ここからが羽生さん独特の考え方に違いないとにらんでいるのだけれど、感想戦を終局直後にやることで頭をクールダウンして、本局をいったん決着させることが重要なのだそうだ。

 そうやってけりをつけないと、棋士は自らが経験したすべて対局の内容をずっと引きずっていかなければならない。あれだけ長くトップ棋士の地位を保ち続けてきた羽生さんに言わせると、記憶力はそれほど大事ではなく、新たな事を入れていくためにいかに忘れていくかが重要という、一見すると逆説めいた言葉になってあらわれる。

 今回の対談相手が、言葉の達人である翻訳家・柳瀬尚紀であることも手伝っているのか、棋士らしからぬ羽生本人の面が突出している。ジェイムズ・ジョイスすらも恐れずに話題にできる棋士など、そうそうはいないだろう。つまり、一言でいえば、羽生善治は棋士であると同時に、アーティストでもあるのだ。
posted by アスラン at 08:40 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月23日

インディヴィジュアル・プロジェクション 阿部和重(2004年11月11日読了)

 ある男の日記が延々と続く。

 男は映写技師として大都会のど真ん中にひっそりと身を隠している。日々の日記は、猥雑で危うい周囲の喧噪をかわして退屈な人間になりきる事の実践が書き綴られている。やがて何故男は退屈な人間に見られるように自らを律しているかを語り出す。語らずにはいられないかのように饒舌に、ある過去の事件を語ってゆく。

 男の実践からすると、こうした日記を書く事自体危険な行為とは言えないか。そんな一読者の素朴な疑問に応えるかのように、男は自ら決めたルールを次第に踏み外していく。
 退屈な日常が破滅へとエスカレートしていくまで目が離せない。読む方もエスカレートを強いられる作品だ。

 ミステリーとしても読める。使われてるトリックはある有名な映画でおなじみだ。でもタイトルの意味を考えれば最初から著者はモチーフを隠してはいない。「ある主観の投影」といったところか。男が映写技師であるのも隠喩的だ。
(2005年5月28日初出)


[追記(2012/5/23)]

 最近ご無沙汰の作家だ。伊坂幸太郎などとまとめて、春樹チルドレンとも呼ばれたのではなかっただろうか。著者自身が映画好きという事もあって、映画的な引用や映像的な描写が目を引く。「シンセミア」がなかなか衝撃的だったし、面白かったのだが、最近はどうしているのだろう。結婚の話題で久々に名前を見かけたのだけれど、相方の方が今や知名度が高いので、へぇーと驚かされた。別に意外というわけではなかった。そろそろ、「シンセミア」以後の作品も読みたい作家だ。
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2012年05月21日

悪人正機 吉本隆明+糸井重里(2012/5/13読了)

 吉本隆明が亡くなった。不思議と悲しさはなかった。少しぼうっとなっただけだ。そういえば、前日の会社帰り、いつものように駅前の駐輪場で自転車を探すと見つからない。広いスペースにまばらになった自転車たちのどれもが、我が子を後部に載せる座席をつけていない。

 ああ、妻が子供を学童保育所に迎えにいくのに乗っていってしまったんだったっけ。妻は最近、駅まで歩いて通勤するのが常になっているので、帰りはこちらが歩く番だ。そう理解したら、久々にウォークマンを取り出して、曲を選び出した。

 どうにも仕事がうまく片づかず、疲れが滲み込んだ頭に、J−POPやニューミュージックはすんなり入っていきそうになかった。それでなんとなく吉本さんの訥々とした〈声〉が聞きたくなった。僕のウォークマンには、声が二つ入っている。一つは、水道橋の語学学校のホールで定期的に催された淀川長治映画塾で、淀川さんが晩年にしゃべった〈声〉だ。それを聞くと、「日曜洋画劇場」の最後の解説を聞きながら号泣した夜の事を思い出して、少しだけ悲しくなる。

 もう一つが糸井重里さんが企画した、吉本さんの長年の講演から収集した言葉の断片をコラージュしたCDからの〈声〉だ。夜道で聞く吉本さんの声は、「渦巻ける漱石」について語っていた。「吾が輩は猫である」は、主人公の猫が人間たちの会話を「聞く」というしぐさで文章が描かれるが、ある時点から「見る」というしぐさに変わってしまっていると言う。へー、そうだっけなぁと、もう何度も何度も聞いたくだりであるにもかかわらず、その「聞く」から「見る」に変わる切れ目というのは、どの章なのだろうか、今度確かめるために、また「吾輩は…」を読み返してみようと思うのだった。その日の夜道は心地よかった。

 翌日、吉本さんの死を知って、何か「呼ばれた」というわけではない不思議な縁を感じた。そう、吉本さんが亡くなって、淀川さんの時ほどの悲しさはない代わりに、どんどんと不安になった。大げさに言えば、生きていくために歩く道を「それで大丈夫、いいじゃないか」と言ってくれる存在が、また一人いなくなった事への不安だった。

 僕は吉本隆明のよき愛読者とは言えないが、それでも書店で新作が平積みされているのをみるだけで、ああ、まだがんばっている。まだ僕らの前を歩いて道を耕してくれているんだなと思っていた。それが、いきなり失われた事に少しおののき、寂しく、不安になった。

 この本には、よき聞き手である糸井さんを前にして心を開いた吉本隆明という一人の人間の「ふつうの声」が詰まっている。特に特別の事を言おうといているわけではない。そう感じるのは、長年吉本さんの著作に慣れ親しんできたからかもしれない。

 どこぞのドラマの主人公が「事件に大きいも小さいもない」と啖呵を切るたびに、その台詞に隠されたものこそ、正義の理念なのだと思ってきた。それは年輩の刑事が主人公の若き刑事に対して「正しいことをしたければ偉くなれ!」と言いきるための大前提だ。「大きいも小さいもない」事に共感できなければ、たとえ「正しいこと」をしても意味はないのだという、ゆるぎない倫理感がそこには存在する。それは、まさに吉本さんが生涯にわたって全方位的にあらゆる事象に関心を持ち続け、等分に力をそそいで考えてきた姿勢と合致する。

 たしか、コム・デ・ギャルソンの服を着てファッション誌の取材に応じた吉本さんの写真にたいして、それを揶揄した埴谷雄高との論争でだったと思うが、吉本隆明は「物事に大きいとか小さいとかはない。大きい事は大きいなりに、小さいことは小さいなりに語るのではなく、マルクスの事を語るのと同様に、コム・デ・ギャルソンの服の良さを語れなければダメだ」というような事を言っていた。

 僕はそういう時の吉本隆明の言葉が好きだ。顔が見える最後の思想家であり、信じられる批評家だった。日々更新される〈あなた〉と出会うことは二度とかなわないけれど、すでに語られ綴られた大量の創作物の中に、あなたの存在をこれからも感じていけばいいんですよね。とりあえず、これまでどうもありがとうございます。これからも僕らの前をひたすら歩いていってください。
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2012年05月14日

百鬼夜行―陰 京極夏彦(2005/05/28読了)

―でも。
私は、何か忘れていることすらも忘れて、それで諾諾と暮していたのではないのか。
そう考えると、少しだけ怖くなった。




 最近、文庫の「姑獲鳥の夏」を購入した。上下巻に分冊された方ではなく、前から出ていた版の方だ。この夏の映画化にリンクして出されたと思われる分冊版が割高だというのも理由のひとつだが、表紙から妖怪のギミックを取り去り、どこかあか抜けたモダンなグレーを配した分冊版には京極作品特有のオーラが感じられないのだ。

 「姑獲鳥」に始まる京極堂シリーズでは妖怪に魅せられた人々の「憑き物」を古本店主兼陰陽師の京極堂が呪をかけて落とす。「呪」とは何か?妖怪が怪奇なこの世ならぬ存在でなく人の心が生み出した闇に名を与えたものに過ぎないように、呪も不思議な霊力などではなくただの「言葉」に過ぎない。ただの言葉でありながら憑き物が落ちる。そこに「呪をかける」事の不思議さがある。

先ほどの分冊に感じないオーラとは、だから呪を感じないという事だろう。行き着く先が箱本というおよそ怪しげな思想だったはずが、「魍魎の匣」三分冊、さらに四分冊というようにテキストという情報の山の中に埋もれていく。そこに肝心の妖怪も感じられないなら果たして何のための分冊だろう。

と、そんな事を言いたいのではなかった。何故いまさらながら「姑獲鳥」を購入したか、だ。

 「姑獲鳥」から「塗仏の宴−宴の始末」までシリーズ7作。足かけ4年を費やしている。次の長編「陰摩羅鬼の瑕」がシリーズ最新作であり、それを読めばもう後はない。ここらでシリーズを振り返るのもいいのではないか。いや、そんな悠長な事ではなくて「塗仏」まで読み継いで、本シリーズの壮大さに触れてしまったのが最大の理由だ。実は箱本と呼ばれるくらい長い長編が一話完結ではなく、作品間でリンクしているのだ。

 登場人物は脇役を含めて使い捨てではない。次から別の意味で主要な人物に化ける脇役もいれば、脇役どうしが新たな関わりを持ったり、実は発端から別の作品に登場する脇役どうしがつながっていたりする。つまり一作一作に出てくる多様な人物たちは、さらに京極堂を求心力の中心としてすべてつながっているというのが、このシリーズのもう一つの仕掛けであり、著者の際限のないサービス精神の現れなのだ。

 もちろんそんな著者の遊び心に付き合わないというのも一つの見識と言えるだろう。だから、各々の長編の脇役たちにフォーカスを当てた10の短編からなる本作を単に妖怪に魅入られた人々の物語として読んでも決して悪くはない。悪くはないが、物語の行く末には結末がない。しかし僕らは知っている。彼ら脇役たちにどんな運命が待ち受けているか。長編ではどんな役を割り振られていたかを知っている。
 
 だからこそ、もう一度「姑獲鳥」なのだ。使い捨てでなかったはずの登場人物を味わいつくし、各々の事件が完結していないものとして再現する事で、あらためて著者の作り出した望楼を一段一段登って行く。その行き着く先に何があるのか。まだ誰も知らない。
(2005/5/29初出)


[追記(2012/5/14)]
 驚くべき事に、つい最近「百鬼夜行―陰」の定本版が刊行された。非常に変わった判型で、ほぼ真四角に近い。京極夏彦の事だから、単に判型が変わるだけでなく、レイアウトに合わせた推敲などを含めていろいろと手を入れているのだろう。しかし、そもそも「百鬼夜行−陰」は、メインの京極堂シリーズからのスピンオフ作品であるだけでなく、この書評に書いたとおり、ほとんどが脇役に光を当てる趣向なのだ。つまり、この短編集を楽しむためには本編にあたる京極堂シリーズの記憶を新たにしなければならないという、誠にファンにとってはやっかいな短編集なのだ。

 その上、今回の出版は新作「百鬼夜行−陽」のために考えられた同時発売なのだと思う。さて、この「陽」はどういう位置づけなのだろうか。さらにスピンオフの続編だとすると、語られなかった脇役についての物語なのだろうか。興味があることはもちろんだが、こちらも年をとって記憶が風化しているというのに、いったい作者の中で京極堂の世界観はどれだけ一貫してどこまで持続できうるものなのだろうか。読みたい。読みたいのだが、また本編を読み直さねばならないのではないだろうか。そう思うと、まことにまことにやっかいな代物だ。
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2012年05月11日

ゴルフ場殺人事件 アガサ・クリスティー(2012/4/28読了)

 クリスティが長きにわたってエルキュール・ポアロという探偵とつきあうつもりがなかったことは、シリーズ当初からあきらかだったと僕は思う。彼女の作品を発表順に呼んでいくと、本格ミステリーの成分よりも冒険小説やハーレクイン・ロマンスの成分の方が多い。そして興味深いのは、ポアロ物が本格ミステリーを分担し、ノンジャンル物がそれ以外を担うという切り分け方になっていないという点だ。

 たとえば、処女作の「スタイルズ荘の怪事件」は純粋な本格ミステリーと言っていいが、第二作である本作ではミステリー以外に様々な要素が盛り込まれている。ヘイスティングと”シンデレラ”と自称する女性とのエピソードは、あきらかにコミカルでサスペンスに満ちたロマンス風だし、復讐に彩られた過去の犯罪などは、シャーロック・ホームズの初期の作品のような伝奇小説を思わせる。しかも、今回、ポアロのライバルとしてフランスから自信満々な刑事ジローがでてくるところなどは、まさにモーリス・ルブランの「ルパン対ホームズ」をなぞったかのようだ。

 このような人物設定・舞台設定の中で、あえて奇妙な風体の滑稽な小男という探偵像を選択したのは、ユーモアを基調としたミステリーを書くための作者の方便だったはずだ。まさか生涯をともにするようなキャラクターにまで成長するとは、作者自身考えもしなかったのだろう。

 しかも、このときのクリスティもポアロも、まだまだ無邪気だと言っていい。犯罪の暗黒面に取り込まれて事の残酷さに気がついたのは、おそらく「カーテン」をポアロの最後の事件として着想した1940年代だったに違いない。

 ところで「ゴルフ場殺人事件」などというタイトルにはなっているが、ゴルフ場はまだオープン前で、その広大な地の端っこに死体を埋める穴が開けられた事以外に「ゴルフ場」がトリックに関わる事はない。やはり、当時はまだ目新しいスポーツだったゴルフを、タイトルにつけるように出版社から促されたのだろうか。ゴルフなど当たり前のスポーツになった現代人から見ると不思議なタイトルだ。

 さきほど、ホームズやルパンなどを引き合いに出したが、本作はとりたてて凝ったトリックはなく、物語が進行するにつれて謎が少しずつ明らかになっていくという点でも先人たちの作風に近い。登場人物は多いが、それぞれがそれぞれのジャンル担当(例えばロマンス担当とか冒険担当とか、暗黒街担当とか)に切り分けられているので、それほど謎が複雑化するという印象もない。だいたいあたりをつければ、そのとおり犯人だったという感じでクライマックスを迎える。

 後にも先にもヘイスティングが物語の中心に存在するという希有な作品というところが見どころかもしれない。
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