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    ヴォイニッチ写本の謎 ゲリー・ケネディ/ロブ・チャーチル(青土社)(03/16)
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    2026年01月14日

    漱石全集を買った日: 古書店主とお客さんによる古本入門   山本 善行、清水 裕也(夏葉社)

    漱石全集を買った日.jpg こんな世界があって、こんな人がいるんだ。正直、ビックリした。当たり前の話だが、本を読みたい人、文章を書きたい人、日本語を読みたい人、日本語(詩や小説など)を書きたい人、読みたい人、そしてそして、何よりも売りたい人がいる事は知っているし、理解できる。
     だが、古本を買いたい人がいる、そういう世界がある事には気づいていなかった。「本を買いたい」には売りたい(商売にしたい)、蒐集したいがつきものだと思っていたのだが、どうやら、それとは違った世界に生きている人がいる事に、この本は気づかせてくれた。

     僕は好きな作家の作品を読みたいから買う。時には好きな作家の作品を蒐集することはあるが、ただ「買う」という事はない。だが、本書の著者たちは、ひたすら「買う」。そこに「本を買いたい」につきものの何かはない。いや、何かがあるとすれば本への愛情、古書店への愛情だろう。だから、様々な古書店を巡り、時に地方にわざわざ出向いてまで本を探す。
     驚いた事に、均一台(古書店の店舗前に置かれた安価な古本の台)から、欲しい本以外にも愛情をこめて数冊の本を拾っていく。本好きとして共感はできるが、理解はできない。でも何か文句があるわけでもない。ただ、本好きとして生きていってほしい。おそらく、こういう人たちの多くが僕ら「読みたい」人間の楽しみを支えてくれているのだろうから。

     正直言って紹介されている古書店のひとつも知らなかったし、扱っている小説や詩のほとんどが読んでいない。なので大変申し訳ない事ではあるが、面白くはなかった。要するに「本を読みたい」人にはマニアックすぎるのかもしれない。
     もちろん、彼らも本を読まない訳ではない。読まないどころか、圧倒的に本を読むのだ。ただ、それは僕とはまったく違う目的、違う欲望を原動力にしている。自らを「病気」だと位置づけている所以である。

     本書で唯一楽しめた文章は、あとがきにかえて書かれた著者・清水さんの小文だ。ある古書店で勧められた地方紙を買って帰ると、あるはずの詩の一頁が破り取られていた。そのことが本の瑕疵ではなく、あるべき形として受け入れる事も古書を買う事の楽しみだと言っていい。そう思いつつ、今回は詩を読んでみたいという気持ちもあって、代わりの古書があるか確認して交換してもらったというエピソードだ。そこには理解しがたいが、圧倒的な共感が感じられる続きがあるのだが、それはミステリの言わばネタバレになるので、そこまでにしておこう。

     それとは別に、何故この本を読むにいたったかを是非書いておきたい。タイトルに「夏目漱石全集」が出てくるので興味をもったからだが、著者(清水さん)が購入した「筑摩全集類聚 夏目漱石全集」を僕自身も購入していたからだ。僕の場合は、若い頃に作家の全集を買っておくべきだと思い、「太宰治全集」と「漱石全集」を買っておいた。太宰は高校生の頃にのめり込んだし、漱石は読書感想文のために読んだ「こころ」がはいった全集を買っておこうと思ったというくらいの思い入れだった。
     ところが、清水さんは、人生とは何かについて答えてくれる考えて購入してひととおり読んだ。そして、全集には「答え」は書いてない事に気づいた。「自分自身から逃げようとしても、逃げられるわけではない」という事を思い知らされた」。するとぽっかりと穴が相手しまった事から本を読むようになり、古書店を歩きまわるようになった。

     僕は結果的に購入した全集ではなく「ザ・漱石 全一冊」を買って、まるまる一冊読み通した。そして穴が充満して満たされた。ますます漱石にのめり込んだ。漱石の愛読者になったし、漱石から多くのものを受け取った。その分岐点に僕と清水さんは別々の方向に足を踏み出したのかもしれない。そこだけは共感も理解もできた。
    posted by アスラン at 03:02 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2026年01月11日

    完全犯罪 小栗虫太郎(角川文庫)

     『黒死館殺人事件』でミステリ界に知られる作家・小栗虫太郎。おそらく読んだのは本作が初めてだろう。1933年に執筆し、甲賀三郎の推薦も得られて、雑誌〈新青年〉に投稿予定だった横溝正史の代わりに採用されたという。1933年というと、横溝が〈新青年〉の2代目編集長を務めながら『蔵の中』のような美文調の耽美小説を書いていたが、ついに〈新青年〉は廃刊。自身も肺結核で死を自覚して長野県で療養生活に入る時期にあたる。乱歩は、明智小五郎もののように本格推理小説を指向する小説と、怪奇趣味を押し出した小説を書き継いできたが、限界を感じだした頃だ。そんな中、華々しく登場したのが小栗虫太郎という規格外の才能の持ち主だった。
     と、分かったような事を書いているが、ほとんどWikipediaの受け売りだ。目的は日本の推理小説の3大奇書として名高い『黒死館殺人事件』という高峰を登るための足慣らしだ。幸いな事に角川文庫版にはデビュー作『完全犯罪』と『黒死館殺人事件』の二作が収められている。驚いた事に、『黒死館』は『完全犯罪』発表の翌年(1934年)に、同じく〈新青年〉に発表している。才能の出口を与えられて、一気呵成に書きあげたという感じだろうか。

     正直、自らの体調のせいで頭が回らない事もあり、なかなか頁が進まない。独特な言葉の使い方をしていて、単に漢字書きが多いのではなく、ルビを漢字表記に直していると言った方が正しいか。「遊撃(ゲリラ)」「轍音(きしり)」「碧空(あおぞら)」などなど、自由自在なかき回しに慣れるには、かなりの労力を必要とする。それに加えて、博覧強記と化したペダンチズムが僕ら読者を圧倒させる。例えば「八仙賽(はっせんさい)」は道教の八人の仙人を元にして創造された街の名前だ。どこからが著者の創造の産物か分からないのと、そもそも何故道教なのか八仙なのかが分からないという、ペダンチズムの魔に取り付かれてしまうというわけだ。

     しかし、最大の問題はニヒリズムで充満された登場人物たちの抱える世界観であり、それに伴う不可解趣味だ。探偵役として割り当てられたソヴェートのザロフ指揮官と他の首脳たちが人類学者ローレル教授の娘エリザベスの住まいに投宿した際に、下士官のためにどこからか連れてこられた山ほどの娼婦たち。それを「官能が空腹を感じた時に与える食糧」だと平気で差別的発言をし、さらにその中の一人が殺された事件を、あたかもクイズか何かのように首脳たちが競う。
     現代ならば決して出来ないような振る舞いをし、蔑視的発言を繰り返す首脳たちには、著者による一種の統制・操りが感じられる。もっと言えば、戦争という時代背景がなければ決して扱えない題材を、戦時下という背景が描かせていると言えば、著者を擁護しすぎだろうか。僅か80頁からなる中篇に、長篇一冊分の労力と時間をかけてたどり着いた結論と動機を最初に読んだ時には、何を言っているのか皆目わからなかった。
     何度か読み直して「なるほど、この結論と動機に着地するために、あのような差別的な発言を繰り返す必要があったのだな」と理解できた。理解はできたが、納得はできない。したくないというのが正直な感想だ。とにもかくにも、『黒死館殺人事件』を読む足慣らしはできた(できたと信じたい)。
    posted by アスラン at 05:02 | 東京 ☀ | Comment(2) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2025年03月16日

    ヴォイニッチ写本の謎 ゲリー・ケネディ/ロブ・チャーチル(青土社)

     恥ずかしながら、いや別に恥ずかしがる事でもないだろうが、つい最近まで「ヴォイニッチ写本」あるいは「ヴォイニッチ手稿」と言われる文献の存在を知らずにいた。知ったのは昨年の12月の事で、書店の新書コーナーで『ヴォイニッチ写本 世界一有名な未解読文献にデータサイエンスが挑む』(星海社新書)という本を見かけたのがきっかけだ。「ヴォイニッチ」というカタカナ表記のどこか禍々しい見た目と響き、それと「世界一有名な未解読文献」という惹句に、持ち前のミーハー心がくすぐられた。その上、「データサイエンス」という取り合わせにも興味がそそられた。最新のデータマイニング手法を用いて未解読文献に対してどの程度真実に迫れるかという理系的なアプローチに好奇心が湧いたのだ。

     さっそく最寄りの図書館の蔵書を検索したが、件の『ヴォイニッチ写本』は新しすぎて蔵書になっていなかった。そこで他の蔵書を調べたところ、一冊だけヒットしたのが本書だった。著者のふたりは著者紹介ではいずれも作家だと書かれているが、どうやらヴォイニッチ写本に関するBBCの番組の構成をケネディが担当し、その翌年にBBCで制作された「ヴォイニッチの謎」というドキュメンタリーの監修をチャーチルがつとめたという間柄のようだ。しかも、ケネディ自身が書いたまえがきには、この謎の写本の名前の由来となったヴォイニッチという男がケネディの遠縁に当たることが明かされている。ところが、このまえがきに書かれた文章が非常に勿体をつけていて分かりにくい。含みを持たせた曖昧な表現は、その後のヴォイニッチ写本の謎を解き明かしていくアプローチにも反映しているように思われるので、細かいところではあるけれど、ここで採り上げておこう。

     謝辞に続くまえがきは、次のような段落で始まる。
     この本のテーマは、ある一冊の書物である。しかも奇妙なことに、それは誰にも読めず、理解も出来ない書物なのだ。この九十年というもの、そして恐らくはそれよりも遙か以前から、その書物は数多の学者や知識人、そして暗号の専門家たちを悩ませ、苛立たせ、そして最終的には打ち負かしてきた。
     (中略)
     その写本に関する議論の余地のない事実のひとつは、最初にその写本に世界の耳目を集めることとなった男の名がウィルフリド・マイケル・ヴォイニッチであるということだ。静かな池に投じられた小石のように、ヴォイニッチが一九一二年に発見したこの書物はあらゆる方面に波紋を呼び起こした。
     (中略)
     本書の著者のひとりであるゲリー・ケネディは、一般人と同様、この書物の存在など全く与り知らぬところだった。…だが、親類縁者の集まりで偶然そのことを聞かされた彼は、以後三年にわたってその書物に取り組むこととなった。その研究の成果が、本書というわけだ。
     ここまでは共著である性質上、著者二人の目線で文章が書かれている。重要なのは、ヴォイニッチ写本が世間に知れ渡ったのが1912年以降だという点だ。確かに今となっては100年以上前になるが、この年は明治天皇が崩御した年、つまり明治45年であると同時に大正元年にあたる。読者である我々とは無縁の「遠い遠い時代」とまでは言えないだろう。著者にとってもそうであるに違いない。

     そして、次の段落からはケネディの目線で文章が書かれる。つまりは「私(=ケネディ)」が登場する。ケネディの叔母の葬儀が2000年12月の執り行われ、一族郎党が集まる場面が描写される。
    …叔母が住んでいた家に戻ると、二人の従兄弟とその大きな子供たちがいた。私はしばらく、ティーカップを手にその子供たちのひとりローリーと話していた。彼は訊ねた、「そういえば、僕たちの遠い遠い祖先にウィルフリド・ヴォイニッチって人がいたのを知っていますか。有名な写本を発見した人ですけど」。
     誰でも350頁以上もある本を読もうという時に、こんな些細な文章に拘ることなどないだろうが、よくよく読むと違和感がある。叔母が大往生を遂げたとして70代。ケネディ自身や従兄弟が50代とする。「その大きな子供たち」は30代だろうか。2000年に30代ならば1970年代に生まれたローリーが「遠い遠い祖先」だとヴォイニッチの事を言うだろうか。確かにヴォイニッチの生年は1865年で自分より100年前に生まれたご先祖ではあるが、「有名な写本を発見した人」として認知されたのは1912年なのだ。身近ではないにしても「そう遠くはないご先祖」ではないだろうか。
     その異国風の名前には全く心当たりがなかった。…とはいうものの、確かヴィクトリア時代の陳腐な先祖にブール(母方の祖母の旧姓)というのがいて、何やら偉い人だったらしいということを思い出した。私の兄はこの先祖についてはほとんど知らなかったが、昔、別の叔母が持っていたという手垢の付いた家系図を引っ張り出してきた。この長さ一ヤードもある横断幕には、一八五一年の大博覧会の頃に相次いで死んだジョンとメアリのブール夫婦を起点として、その子孫たちの家系図が精巧なモビールのように書かれていた。こんな家系図があったなんて全く知らなかったが、まさしくその末端には私が連なっていたのだ。
     段々と分からなくなってきた。「異国風の名前」はもちろんヴォイニッチの事だが、「ヴィクトリア時代の陳腐な先祖」にブールという人がいたという。「陳腐な先祖」って何?よく知らない先祖が陳腐だったなんて、込み入った事情を知らないかぎり出てこない言葉だ。次の文で「私の兄」が知らなかったという「この先祖」はヴォイニッチとブールのどちらの事だろう。ケネディはブールの事は多少は知っていたのだから兄も知っている可能性は高い。やはりヴォイニッチの事か。なんて事をいちいち考えねばならないとは、やはり翻訳に瑕疵がある疑いが濃くなってきた。
     ジョンとメアリ夫妻の息子であるチャールズ、ウィリアム、ジョージの三人を起点とする三つの系列があり、私はウィリアムの系統の末端にいた。チャールズは多産だったが、特に変わった子孫は出してはいないようだ。問題の人物に繋がっていたのはジョージだった。そういえば、有名な数学者のジョージ・ブールってのがいた。近代論理代数学の発明者だ――それほど陳腐ということもなかったわけである! 彼は一八九四年に死んだが、同じ年、妻のメアリは末娘のエセルを産んだ。このエセルが、ウィルフリド・ヴォイニッチの妻となるのである。
     1951年頃に相次いで亡くなったジョンとメアリ夫妻には三人の息子がいる。そこからブール家の家系樹は3つに枝分かれしていく。ちなみに先祖の物語なのに「亡くなった」ではなく「死んだ」と書いている。翻訳に黄色信号が灯った。ブール夫妻の息子ジョージの家系樹のどこかにヴォイニッチが出てくるようだ。ところで突然、あの「ブール代数」で有名なジョージ・ブールの話が出てくる。「私(=ケネディ)」はこの有名な数学者についてはよく知っているような口ぶりだ。ということは自分のご先祖様は「陳腐だった」と聞かされてきたが、有名な数学者と同姓同名の人間がいるくらいだから「それほど陳腐な家系とは言えないだろう」と言っている(ように読める)。つまり同姓同名の数学者の方は刺身のツマであって、本題のジョージとは直接関係ないのだろう。

     さらに次の「彼は一八六四年に死んだ。」「(彼の)妻のメアリは末娘のエセルを産んだ。」「(彼の末娘の)エセルがウィルフリド・ヴォイニッチの妻となる。」に出てくる「彼」とは、ジョンとメアリの息子の方のジョージという事になる。紛らわしいのは、ジョンの妻もジョージの妻もともにメアリだという点だ。ジョンの妻は確かに1951年近辺に亡くなっているので、エセルを産んだメアリはジョージの妻の方に決まっているではないかと言われそうだが、こういうところって普通は一々確かめながら読む事はないので、読んだ瞬間にジョンの妻だと思い込んでしまう。英文の人称代名詞をそのまま「彼」と訳したり、あえて訳さなかったりするだけでは、日本語として「誰の」に関する配慮が足りないと思う。結局、Wikipediaなどを利用してヴォイニッチの家系について調べ直さなければならなくなった。そこで驚いたのは、やはり例の「ジョージ・ブール」は同姓同名ではなく、まさにジョンとメアリの息子のジョージこそが数学者のブールであり、かつヴォイニッチの義理の父となる人物だったという点だ。

     何故こんな思い違いをしたのか。原因はよくわかっている。「そういえば、有名な数学者のジョージ・ブールってのがいた。」という訳文のせいだ。ここだけ「〜ってのがいた」というように、べらんめえ口調になるのが変だなと思っていたのだ。ここは「そういえば、〜ってのがいた(なぁ)」という他人事のようなケネディの回想だと読めるのだが、Wikipediaの調査後に遡ってもう一度読み直すと「(家系図のここに)〜ってのがいた(ぞ。)」と言いたかったようだ。これは果たして原文が悪いのか翻訳が悪いのか。翻訳がまずいのは明らかだ。状況をもっと分かるような日本語をチョイスすべきだった。とは言え、原文も「ジョージが数学者」だとはっきり分かるように書いてあればよかったのにとは思った。すったもんだはあったが、著者ケネディの「陳腐な先祖にブール(母方の祖母の旧姓)というのがいて」を読み解いて、結局以下のような家系図ができた。
    家系図.jpg
     ケネディから見ると、数学者のジョージ・ブールは「曾祖伯父(そうそはくふ)」または「曾祖叔父(そうそしゅくふ)」で5親等、ヴォイニッチは「族伯祖父/族叔祖父(いとこおおおじ)」で6親等になる。海外の通念とは異なるだろうが、日本の民法では6親等までを親族とみなすので、「遠い遠い祖先」とは言えない事がわかった。事実、ケネディもヴォイニッチの謎の写本について関わる事になったし、その後、数学者のブールに関する本まで書いている。

     ずいぶん回り道をしてしまった。まだヴォイニッチ写本に関する事は何一つ書いていない。そちらについては最寄りの図書館の蔵書となった新書『ヴォイニッチ写本』の書評で詳しく解説するとしよう。本書で分かったのは、リトアニアで生まれたヴォイニッチは紆余曲折の末、古書店を経営し、稀覯本を蒐集し、その中にヴォイニッチ写本と呼ばれる正体不明の書物があったという事だ。挿画の意味も意図も不明で、添えられた文章すら全く読めないときている。既存の文字ではないし、言語なのかどうかの判別もつかないという代物だ。当初は、暗号文ではないかと専門家が解読を試みたがうまくいかなかった。解読の見通しがついたとの主張も存在したが、その後徹底的に批判された。そのため、ヴォイニッチ写本は学術的な研究対象としては敬遠される事になり、現状ではアマチュアの研究者によるアプローチが続いている状況だ。

     どうやらヴォイニッチ写本は手書き故に文字セットを同定する事が難しく、一体何種類の文字からなるのかが判然としない。さらには、ロゼットストーンのような比較対象が存在しないので、最新の技術をもってしても解読は困難であるようだ。また、暗号ではなく未知の言語だと考えたとしても、あまりに単語やフレーズの繰り返しが多いので文章と見なすのは不自然なようだ。一方、挿画には植物や薬学、占星術に分類されそうな絵もあれば、非常に不可解でオカルト的な(あるいは性的な)絵もある。植物の絵はほとんどが何の植物なのか同定できていない。単に学術的な文献というわけではなさそうだ。このようにオカルト的な挿画がある事、ある種の世界観が見られる事などから、今は絶えてしまったカルト的な宗教教団が作りだし門外不出にしてきた書物なのではないかとか、精神的な障害を抱えた個人の幻覚がなしえた書物なのではないかなどの主張も詳しく検討している。さらには、ヴォイニッチ自身や、ヴォイニッチ以前の持ち主が作った偽書である可能性についても言及している。最後は、今なおヴォイニッチ写本に対する興味を失わない多くの人々が参加するヴォイニッチ・メーリングリストのメンバーに、率直な意見を聞いている。その多くが推測ながら「文章はおそらくデタラメ」だろうと言っている。制作者についての主張は百花繚乱だ。しかし、上手すぎもせず、かといってまったくのデタラメでもない不思議な魅力をもった挿画と未解読のテキストという取り合わせに、ロマンを感じる人々は跡を絶たないらしい。

     本書の感想だが、BBCのドキュメンタリーが契機になって書かれたというので、サイモン・シンのノンフィクションのような内容を期待したのだが、あれほど要領よくまとまっているとは言いがたい。あらゆる方面に気を配って詳細に説明されているのは確かだが、けっきょく何がどうなっているのかという点では読後の感想が希薄だ。詳細ではあるが、とりとめのない内容になってしまっている。そのため、入門書としては敷居が高いし、その後に読む本としては結局すべてが藪の中としか感じられなかった。
    posted by アスラン at 11:01 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年12月04日

    可燃物 米澤穂信(文藝春秋)

     米澤さん、今度は刑事物を書きたくなったのか、そう思った。
     二月四日土曜日の午後十時三十一分、群馬県利根警察署に遭難の一方が入った。
       …
     十時五十九分、最寄りの派出所から急行した警察官が芥見から事情を聞いたところ、埼玉県さいたま市から来た五人連れのスキー客のうち、四人と連絡が取れないことがわかった。
     非常に緊迫感あふれる乾いた筆致でたんたんと事件発生の状況を描いていく冒頭を読んだ時、日本の警察の一部署が活躍する群像ドラマが展開されるのだろうと思った。それは「らしく」はないが、米澤さんが描く刑事物はどんな風になるのかという興味ももちろんあった。

     だが、すぐに自分が思い違いをしていたことに気づいた。これは刑事物ではあるが、そこに群像ドラマは存在しない。群馬県警本部刑事部捜査第一課という部署の活躍を描く短篇には違いないが、その実、活躍するのは「葛(かつら)警部」のみだ。もちろん周辺には幾人かの部下が名前を伴って描かれてはいるが、役回りも人物像も最低限の範囲にとどめてある。直属の厳しくも信頼のおける上司も、何かと横やりを入れたがる、さらにその上の上司などは、ドラマに厚みを持たせるために多少は具体的な人物として描かれてはいるが、こと事件解決に向けて葛警部が考えるのは、入手した手がかりを統合し解体し、さらにはまた総合する事で真実にたどり着く、いわば「名探偵」のやり口そのものだ。

     つまり、著者がやりたかった事は警察組織を描く事ではなく、警察組織の中にシャーロック・ホームズのような名探偵を紛れ込ませる事だったのだ。「日常の謎」を主戦場として書き出した著者が、本格ミステリの手法で様々な作品を書くようになり、ついに行きついたのが、本格ミステリの手法で刑事物・警察物を描き、そこに名探偵をソフトランディング(軟着陸)させる事だった。だから、さきほどホームズの名を持ちだしてはみたが、警察という部署にホームズは軟着陸させられない。もしそんな事をしたら、テレビドラマ『相棒』の杉下右京のようにしか描くことはできないだろう。警察というリアリティを維持しながらも、刑事が何十人束になっても思いつかないような方法論と思考回路を持ち合わせる刑事が必要だった。通常こういう時は一刑事に名探偵が割り振られるのだが、ここでは警部という責任ある立場に割り振られている。彼は警部としてルーティンワークをこなしながらも、安楽椅子探偵としてわずかに自身に許された時間の中で事件を検討して答を導いていく。

     この新たなヒーローが活躍するシリーズは、これからもっと大きく育っていくかもしれない。いや、それを期待したくなるような出来だ。このヒーローは、まだまだ単なる一警部であり無名に近い存在だが、彼を語る上で控えめだが重要な特徴を著者はちゃんと仕込んである。それは仕事の合間に手早く済ませる「菓子パンとカフェオレ」の食事だ。なんて粗末で、なんて魅力的な食事風景だろうか。
    posted by アスラン at 00:50 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年11月28日

    明智恭介の奔走 今村昌弘(東京創元社)

    (この文章は『屍人荘の殺人』にも登場する明智恭介に関するある事実を明かしています。それは結末に関わる事実ではないのでいわゆるネタバレとは言えないけれど、初読の人の楽しみを奪いかねないので、少なくとも『屍人荘の殺人』未読の方は読まないでください。)

     確か「このミス」の第一位に、ある新人作家のデビュー作が選ばれたとの前評判を聞いて『屍人荘の殺人』を読んでみたと記憶している。冒頭から、ある状況設定に驚かされ(とは言え、昨今のミステリーは読者を驚かしてなんぼという時代になってしまったが)、続いて主人公の大学生である「俺」にとっての大切な人物であり先輩である明智恭介が姿を消すという、怒濤の展開が待ち受けている。明智恭介は、神紅大学ミステリ愛好会会長して、自ら名探偵を自認する人物だ。つまり、ホームズとワトソンという典型的なバディが活躍するミステリーだと思わせておいて、著者のデビュー作の冒頭からバディの関係が雲散霧消してしまうのが、一つのサプライズであったわけだ。

     『屍人荘…』ではかなりの変わり者として描かれ、語り手であり明智にとってのワトソンでもある「俺」が毎度毎度振り回されてきた事が匂わされてはいるが、当然ながら明智の人となりも「俺」の事もまだよくは分からない読者にとっては、その後のシリーズで折に触れ「俺」が明智の事を回想する場面で、ようやく「俺」にとっての明智が如何にかけがえのない人物であったかに気づかされる事になる。なので、いわゆる『屍人荘の殺人』シリーズとも呼ばれている連作が第二作、第三作と作品を積み上げていけばいくほどに、ワトソンになり損ねた元助手の心残りが我が事のように読者には感じられていく。いや、他の読者はいざ知らず、少なくとも僕にとってはそうなのだ。

     そういう仕掛けをデビュー作から入れ込んだおかげで、天才型でツンデレタイプの女性探偵と気弱な男性助手というバディが物語に不安定な人間関係をもたらす事になる。言ってみれば、慕うべき名探偵をアレからコレへと乗り換えた節操の無さ、あるいは貞節の無さを指弾されているかのような後ろめたさが、「俺」にはつきまとう事になる。夏目漱石の一連の名作ではないが、これも一種の不倫小説と言えるのではないだろうか。ただ、残念な事が一つあるとするならば、「俺」の後ろめたさが作品を追うごとに強くなることで今のバディよりもかつてのバディの方に、一読者である僕も関心がいってしまう点だ。「俺」と明智との蜜月はいかなるものだったのか、と。

     そして、まさに本作がその答を与えてくれた。短篇集ではあるが、明智がどんな人間でどんな探偵だったかが見事に描かれている。もちろん、名探偵ならぬ迷探偵であることは既に僕らは『屍人荘』シリーズで知るところではある。本作でも「俺」という存在がいなければ、名探偵になりきる事はできない明智を、「俺」はうんざりしながらも見捨てることができない。シリーズ本編が不倫小説の暗さを伴うのに対して、こちらは好きになってしまったが故にダメなところも含めてバディを支えずにはいられない恋愛小説だと言っていいだろう。この短篇集の白眉は、最後の「手紙ばら撒きハイツ事件」だ。この作品だけ、若くて未熟な明智が「俺」と出会う前、いや迷探偵になる前の話を描いている。これは正直、感動物だ。この一冊を読み終えた時、僕は即座に思った。明智と「俺」との長篇が読みたい。そう遠からず実現するんじゃないかという予感がする。
    posted by アスラン at 22:55 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年10月19日

    検死審問−インクエスト− パーシヴァル・ワイルド/越前敏弥訳(創元推理文庫)

     パーシヴァル・ワイルドは1912年にデビューした米国の劇作家だそうだ。まったく聞いた事もないし、今回、越前敏弥さんが2008年に翻訳した本書が今年(2024年)の復刊フェアの一作に取りあげられなければ、読む事もなかったかもしれない。劇作家というからには戯曲を書く事が本業で、ミステリは副業というか余技だったようで、Wikipediaを見ても長篇が4作と、短篇集が2作あるだけだ。短篇集『悪党どものお楽しみ』(1929年)はエラリー・クイーンが絶賛したそうで、あの『クイーンの定員』でも紹介されているらしい。Wikipediaだけでなく立川市立図書館でも調べてみたら、この短篇集の一作『堕天使の冒険』が、あの江戸川乱歩が編纂した『世界短篇傑作集3』(新刊は『世界推理短編傑作集』に名称変更)に含まれているらしい。と言うことは「まったく聞いた事もないし読んだ事もない」というのは間違いだったようだ。『世界短篇傑作集』全五巻は若い頃に読破しているし、何度も読み返したはず。ただ『堕天使の冒険』がどんな作品だったかはまったく思い出せない。手元の積ん読本から引っぱり出して読まねばなるまい。

     本書は長篇2作目で、本国ではレイモンド・チャンドラーが絶賛したそうだ。チャンドラーはミステリ嫌いで知られていたようだから、自身が書くハードボイルドというジャンルは文学であってミステリではないと自負していたという事だろうか。本書でも登場人物の一人にミステリを揶揄するような台詞を言わせている。もちろん著者ワイルドにはミステリを書いているという自覚はあっただろうから、いわば「余技でも書けるよ」という余裕ととるべきか、あるいは軽妙なユーモアの一つととるべきか。いや、両方なのだろう。そのような文章がチャンドラーを喜ばせた可能性はありそうだ。一方、日本では江戸川乱歩が本書を高く評価していたそうで、短篇集といい本書といい、乱歩のお眼鏡にかなった作家であり作風だったようだ。

     話は米国の片田舎で検死審問が行なわれるところから始まる。検死審問とは、死因がよく分からない死者が出た場合に、検死官が死因を究明するために開く審問の事だ。陪審員が選ばれ関係者の証言を聞き、最終的に陪審員が死因を評決する。裁判とどこが違うかというと、この検死審問の評決は裁判では参考とされるだけで、最終的な判断とは見なされないという事だ。とは言え、本裁判の手続きの簡素化に役立っているのだろうから、まったく影響を及ぼさないとは言えないだろう。面白いのは時給が支払われ、死者の頭数で陪審員への報酬が等倍されるので、非常にのんびりとした雰囲気が検死審問には漂っているという点だ。悪意をもって読めば、陪審員や検死官が手当を増やすために時間をかけたり、ひょっとしたら死者を増やしたり仕向けることもあるのではないかと思ってしまうところが、また面白いのだ。

     ところで、本書を法廷ものとして期待していた読者は冒頭から裏切られる。緊迫する審問の風景は一切描かれず、単に証言者の証言を記録係が読み上げるという体裁になっていて、証言者の台詞と、それにツッコミを入れる検死官や陪審員の台詞が続く。冒頭では、これが面白いのか面白くないのか、正直よくわからずに戸惑ってしまったが、ある人物の証言のところから俄然面白くなる。生まれてから60年近くもこの土地から離れた事がなく、正業ではなく前任の代理として芝かり人を努めてきた男である。彼の話はなにから何まで面白くて人間味があって魅力的だ。彼は、今回の検死審問が執り行われるきっかけとなった女流作家ミセス・ベネットと旧知の仲だった事もあり、死者が出た当日に開催されていたベネットの誕生会の裏方に呼ばれていて、当日の様子を証言できる立場にいたのだ。彼の証言の部分は作品前半の白眉で、ひょっとしたら彼が探偵の役割を果たして、最後に事件を解決してしまうのではないかとも思うほどに素晴らしい人間観察力を持っている。

     とは言え、作品は僕の予想するようには進まず、次々と個性的な証言者が登場しては新たな事実を語り出す。その度に事件は別の表情を見せる事になる。やがて真実が明らかになるが、それは例えばアントニー・バークリー『毒入りチョコレート事件』のように、次々と新たな真実が一つ前の真実を上書きしてしまうような明解なものではなく、非常に意外性に富んだものとも言えない。だからミステリとしての完成度が高いとは言えないにしても、個性的な俳優によって次々に真実の断片が明らかになっていくという趣向を楽しむ舞台だと思えば、読む側の楽しみ方もガラッと変わってくる。解説の杉江松恋さんによれば本書は再読、三読を読者にうながすようなミステリだと言う。のんびりとしたユーモアをベースとした証言や記述一つ一つには、ぬけぬけと書き込まれた伏線が満ちていてそれを確認するために再読して、なお、今度はそれらを踏まえた上で、いかにユーモアに充ち満ちた物語であったかを確認するために再々読したくなるはずだと言う。では、やはりもう一度読み直さねばならないだろう。それだけではなく、新任だったリー・スローカム検死官がふたたび登場する続編も追って読む必要がでてきそうだ。と言うことは、乱歩好みの本作は僕好みでもあったという事だろう。
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    2024年09月16日

    ぎんなみ商店街の事件簿 BROTHER編/ ぎんなみ商店街の事件簿 SISTER編 井上真偽(小学館)

     出版時期がちょうど一年前。おそらくオリオン書房の新刊本コーナーで平積みになっていた記憶がある。
    BROTHER編
    四人兄弟が、愛する地元のぎんなみ商店街で起きた不穏な事件に迫る。同じ事件、同じ手がかりを見ているのに、三姉妹とはまったく違う推理の展開に…? パラレルミステリ。SISTER編も同時刊行。

    SISTER編
    焼き鳥店「串真佐」の三姉妹が、愛する地元のぎんなみ商店街で起きた不穏な事件に迫る。同じ事件、同じ手がかりを見ているのに、四兄弟とはまったく違う推理の展開に…? パラレルミステリ。BROTHER編も同時刊行。
     まあ、ミステリを愛読する人なら「そそられる趣向」ではあるが、二冊同時に購入しないとその趣向を堪能することができないという意味では、あざとい趣向だなとは感じた。という事で図書館で予約して9ヶ月ほど待って両方同時に借りられたところで読んだのだから「あざとい」ですませるのは著者に申し訳ない話ではある。

     著者の井上真偽さんの作品を読んだのはこれが初めてで、作風はまったく知らなかった。今ちょっと著作リストを見ていたらTVドラマ化された『探偵が早すぎる』の著者だと知った。なるほど、趣向にこだわる作風なのだなと得心がいったが、本作を読んだ感想を率直に言えば「何が面白いのかよく分からなかった」。同じ事件、同じ手がかりを見ているのに違う展開になるというのは少々言い過ぎで、同じ事件ではあるが、探偵役の四兄弟側と四姉妹側とでは「見ているもの」が違う。微妙に違った手がかりを元に思考回路が違う人間が考えるのだから、推理の展開が違って当たり前だろう。だから、何が面白いと言えば、展開が変わってくるというところにあるわけで、さらに言えば男だけの四兄弟と女だけの四姉妹という、性別の違い、兄弟と姉妹という環境の違いがどう物語に影響するのかという点にあるはずだ。

     でも、この作品はBROTHER編とSISTER編に分冊してしまった事で、肝心の面白さを読者に伝え損ねているように感じた。この2冊の本をどう読んだらいいかについて小説の前書きに書かれていたように思う。どちらからという順番の後先はないが、丸々片方を読んでからもう一方を読むのも良し、事件ごと(章ごと)に互いの本を読むのも良し、自由に読み比べて欲しいという事が書かれてた。僕のオススメは当然ながら事件ごとに比較する読み方だ。そうしないと、やはり先ほど述べたように「見る人、見る環境、見る状況」によって事件の本質が変わってくるという事の面白さが十分に堪能できないと思うからだ。例の『ミステリと言う勿れ』で主人公・久能整くんが「真実は一つなんかじゃない。人の数だけあるんです。」と言うように、まさにそこが読みどころなのに、あらかじめ読みどころを封じてしまっているのが、この2冊だという事になる。

     そう言えば森博嗣さんのS&Mシリーズに、こういった趣向に近いものがあったような気がするなぁと思い出した。『幻惑の死と使途』と『夏のレプリカ』だ。正確には、同時に起こった別の事件を奇数章と偶数章に分けて描き、それを一冊ではなく連作として別々に出版してある。だから同じ趣向とは言えないが、著者にそういったものに挑戦したいという野心があったのだろうか。と思ったら、Wikipediaには著者・井上真偽さんが森博嗣を敬愛していると書かれていて合点がいった。森さんの場合は、あれを一冊にまとめたら京極夏彦の箱本に匹敵する作品になってしまい、かえって分かりにくくなってしまう可能性があるから二冊に分けるのは致し方ない(そもそも別の事件だし)。

     何故2冊に分けてしまったのかなと不満を言いたいだけなのだが、分冊して売らないと話題にならないという出版社側の事情があるのかもしれない。正直言うとどちらか片方を読んだだけではミステリとしての面白さが伝わってこない。例えば最初の事件では、ぎんなみ商店街で老夫婦が経営する店の前で交通事故が発生して死者が出るのだが、そこにいきなり事故現場の見取り図が出てきてかなり興ざめになる。文章で状況を読ませるのではなく、今流行りの参加型謎解きゲームのストーリーを読まされている感じがしたのだ。そこがモヤモヤしたポイントではあるが、逆に考えれば謎解きゲームが好きな人にとっても、こういう趣向の読書の方が楽しめるという事かもしれない。僕が楽しめなかったのは、もし分冊にしないで交互に一冊にまとめた上で、1,2、3,4…の順に読むか、2,1,4,3…の順に読むかによって読後の味わいに違いが出るとか、あるいは交互に読んでいって最後には四兄弟の物語と四姉妹の物語が交差するというか融合するというところまで書かれていたら面白かっただろうなと思ったのだ。実際には交差(クロス)するところまでは描かれているので、もしかするとこの「ぎんなみ商店街」の物語は続編を書き継いでいくつもりがあるのかもしれない。その際はぜひ分冊ではなく一冊にまとめてほしいものだ。
    posted by アスラン at 05:10 | 東京 🌁 | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年08月30日

    でぃすぺる 今村昌弘(文藝春秋)

     今村昌弘と言ったら、やはり『屍人荘の殺人』の殺人だろう。あの作品を読んだときは、かなりの衝撃を受けた。ゾンビに取り囲まれるという非現実的な状況を、ミステリと言うやはり一種の「非現実的な状況」の中に丸々取り込んでしまう。その、一見するとふざけたアプローチは、読み始めた時には、いま流行りの「なんでもあり」なエンタメの一つにしか見えなかったのだが、著者自身は大まじめに「ゾンビに囲まれた密室」という不可能状況を描いていく。いつしか一読者である僕自身も、この非現実的なリアリティを受け入れざるを得ないような気分にさせられていく。

     ところが最後の最後に、平成の姿三四郎ばりの「背負い投げ」を食らって唖然とするのだ。けっしてゾンビたちは不可能状況をもてあそぶために持ち込まれたギミックではなく、著者ならではの必然がそこにはあった事に唖然とし、そして感動したのだ。その感動は、シリーズ第二作『魔眼の匣の殺人』や第三作『兇人邸の殺人』では残念ながら再現されなかったのだが、それでも『屍人荘』の感動をふたたび味わいたいがため、第四作も待ちわびている。

     そんな著者がシリーズとは別の長篇を出している事は気づいていたが、なかなか読む機会が来なかった。今回読んでみて思い浮かんだのは、作者の文章力は確かだなという率直な感想だ。読みやすいし、日本語として引っかかるところがほとんどない。タイトルが平仮名なのは本作がいわゆるジュブナイルの体裁になっているからだろうか。登場人物が小学生高学年の男女3人で、内容も学校の七不思議を追っていくというものだ。この設定は、ジュブナイル物としてはかなりありふれた内容と言えるかもしれないが、そこは『屍人荘』の作者だけあってひねりが効いている。

     回り持ちの委員になって壁新聞を書くことになった主人公の男子は、日頃から関心のあるオカルトネタを記事にしようと考える。一方、優等生で人望もある女子が論理的にオカルトを否定する記事を書こうとする。そこには彼らが通う小学校に伝わる七不思議が介在し、二人は自説を互いに認めさせるために一緒に行動する事になる。もう一人の女子は中立で、何が正しいかを判断するとともに二人の行き過ぎをたしなめる役目を果たすために、やはり共に行動する事になる。この取り合わせは子供向けにしてはかなり高度な取り合わせで、なかなか無いような気がする。

     外見はジュブナイルだと思わせておいて、密かに本格ミステリとしての企みをしっかりと抱え込んでいる。そんなところも非常に好感がもてた。内容が子供向けでもあるにも関わらず、単行本という子供には縁遠い形態(価格が高額だ)で出版されている事に少々不満を述べようと思ったのだが、やはり子供向けに書かれた小説ではないのだと納得したので取り消しておこう。唯一残念だなと感じたのは、小学生として描かれている少年・少女たちがいささか(いや、かなり)大人びているという点だ。今どきの小学生は僕らの子供時代と違って様々な情報が手軽に入り、それをうまく整理して摂取する手際も段違いだというのは理解できるが、それにしてもやはり小学生らしくない。

     例えば、こういう少年・少女という取り合わせでは恋愛とは言わないまでも、ほのかな恋心みたいなものがわき起こる場面があってもおかしくないのだが、それは今どきの「多様性」という観点から、各人の内面がうまく処理しているように感じられる。それは大の大人でも難しいというのに。そういう違和感というほどではない、ちょっとしたほころびのようなものは感じられたのだが、みかけだけは「ジュブナイル」というミステリだと考えれば納得できる。つまり子供向けという外見は、やはり『屍人荘』の時と同様に単なるギミックではないのだ。著者が隠し持った企みをうまく結末に結びつけるための周到なお膳立てなのだ。

     もちろんネタバレは一切しないつもりなのであえて言い添えておくとすると、「でぃすぺる」という平仮名のタイトルが何を意味するかを読後にもう一度考えておく必要がありそうだ。あの結末と呼応しているのだろうか?うーむ、わからん。もう一度読むか。
    dispel
    追い散らす、〈心配などを〉払い去る
    〈闇などを〉晴らす、一掃する
    posted by アスラン at 23:40 | 東京 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年06月20日

    きこえる 道尾秀介(講談社)

     すでに「いけない」「いけないU」と続けて読んできている読者ならば、次なる狙いが写真や地図などの画像ではなく音にあるという事はすぐにわかるだろう。「体験型ミステリ」とは、著者が名づけたのか、それとも出版社が仕掛けたのか分からないが、このジャンルを現在切り拓いている著者が、「いけない」シリーズの続編ではなく一ひねりした形で提供した体験型ミステリの作品が本作だ。

     「いけない」シリーズは、短編の連作の一つ一つの謎が宙ぶらりんのまま最後のページを迎え、画像の意味を読み解く事で事件の状況が地と図のように反転する趣向を楽しむようになっている。明確な答が示されていない以上、画像から読み取った真実もとりあえずの真実にすぎない。そして、最後の短編とその画像の組合せの謎が解けると、短編一つ一つの謎のさらに奥に隠された小説全体としての謎に一つの答が見えてくる。なんというか、いわゆるどんでん返しとは違っていて、謎がマトリョーシカの入れ子のようになっている。どんでん返しが一種爽快さを読者に与えるのに対して、どこまでいっても得体の知れない状態で終わるのがシリーズ最大の特徴だ。そんな状態に決着を付けたくてネタバレサイトなどを見にいく人が跡を絶たないのかもしれない。かく言う僕自身も「いけないU」では最後の謎が解けずに、つい見にいってしまったけれど。それでも、サイト自体もオーナーの個人的意見に過ぎない。著者もどこかで触れていたが、読む度に違った見方ができるようにわざと曖昧な描き方をしているようだ。

     今回の「きこえる」の各短編の最後に待ち受けているのは、画像ではなくQRコードだ。これはYouTubeとリンクしているので、今でもURLのリストを保存してあるから、いつでも再生できる。すでに読了してから2ヶ月ほど経ってしまったので、書評を書くためにもう一度聴き直してしまった。読書の場合は、読んだ端から内容を忘れてしまって短編全部を結末まで思い出す事ができないという事はよくある事だが、音声ファイルを聴き直すと、そういえばあんな話だったなと思い出しやすいというメリットがありそうだ。それにしても、今回は、この変わった趣向を形にするのに手間とお金を掛けているからだろうか、作品の構成としては「いけない」シリーズのような深みは感じられない。短編それぞれは独立した話で、「いけない」のように全体に関わる謎というものは存在しないからだ。

     お金を掛けたなと思うのは、当然ながら作家が一人で文章を書くのと違って、声の演技をする人と演出家と音響の専門家などを揃えてラジオドラマのようなものを用意しなければならないからだ。こういう構成のミステリにする意味がどこにあるのかという疑問もないではない。ただ、そもそもミステリというジャンルは、特に本格ミステリーというジャンルでは、館で起こる殺人を立体的に読ませるために平面図や見取図を掲載してきた歴史があるし、時にアリバイトリックというジャンルでは時刻表や地図が多用されてきた。もしくは観光ミステリとでも言えそうな『ダ・ヴィンチ・コード』にはヴィジュアル版が出版され、作品に登場する絵画や彫刻・建物がガイドブックさながらに要所要所に挿入されている。こういう楽しみ方は、ことミステリに関しては昔から是とされてきたものだ。

     ただ、この体験型ミステリの本書を読み終わった後でずっと気になっていたのは、紙の本を国立国会図書館などが画像データ化して、さらにOCR読み取りで全文検索可能な内部データとしても保存する事業を進めているけれど、本書の音声はどのように格納されるのであろうかという、割と現実的な問題だ。もちろん、電子書籍化してしまえば、今度の書籍の保存はマルチメディア対応になるのでなんの杞憂もないが、こと紙の書籍を保存するアプローチの対象としては、本書はいわば「コウモリ」的な存在になろう。いつまでもYouTubeでのリンクが残っているとも思えないし、僕の心配を誰がどう解決してくれるのだろうか。「これを考えると夜も眠れない…」(もちろん、このフレーズは死語です)。

     ところで音声がメディアとして読者に喚起する力は思いの外大きいような気がする。いまだに、短編の一つに登場する歌手志望の女性が歌う曲のメロディが頭の中に残って、ときどき口を突いてしまう。金を掛けたなぁと思った最大のポイントは、この曲だ。結構良い曲なのでちゃんと歌として誰か出してくれないだろうか。
    posted by アスラン at 23:50 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年05月09日

    そして誰かがいなくなる 下村敦史(中央公論新社)

     クリスティの『そして誰もいなくなった』を本歌取りした作品はこれまでに数多く出版されている。以前、調べた限りでは国内で、この作品をリスペクトしたタイトルの小説は30冊近くもあり、ミステリに限って言うと15冊を越えている。
    そして誰もいなくなったタイトル.jpg 本家の『そして誰もいなくなった』は、孤島に集められた10人が次々と殺されていき、最後に生存者が誰も残らないという内容で、クリスティの作品、いやミステリ黄金期の作品の中でも一二を争う衝撃的な作品だろう。このあらすじだけを今の若い人が読むと、どんなに残虐な殺され方をするホラーなんだろうと思うかもしれないが、そういうホラーテイストのところは一切無い。あくまで孤島という閉鎖的な空間で、人が次々に、それも童謡の見立てどおりに死んでいくという設定の怖さと、追い詰められた人間どうしの心理的な葛藤とを、誇張することなく坦々と描いていく。一級のスリラーと言ってもいいが、クリスティらしく本格ミステリとしてのトリックも最後にちゃんと解き明かされる。

     これが、いわゆる「クローズドサークル」だとか「嵐の山荘」などという一つのジャンルを生み出すほど、その後のミステリ作家に影響を与えた。とりわけ、本格ミステリやホラーなどが全盛の日本では数限りない亜流の作品が作られた事は間違いない。ただ、タイトルを真似るという事は、クリスティの作品を踏まえて新たな趣向を披露するという心づもりが、著者にあるという事だろう。本作は一体どんな「心づもり」があるのだろうか。さきほどのリストを見渡すと、夏樹静子の『そして誰かいなくなった』とも非常に似ているので、もしかするとこちらを踏まえている作品なのかもしれない。いずれにしても「誰か」と言うからには、本家のように片っ端から人が殺される連続殺人事件ではないようだ。登場人物の中の一人か二人が「殺された」かはともかくとして「いなくなる」。それが「誰」なのかが他の人には分からないという事だろうか。もし、そうなら、それこそ超絶技巧だろう。一緒にいながらもいなくなった事に気づけないなんて、どうやったら実現できるというのか。

     そんな妄想を抱いて読んだわけだが、結果的にそういう作品ではなかった。いや、最後までタイトルの意味にピンとこなかった。クリスティのタイトルは「誰もいなくなる」という状況が進行していって、最後に「そして…いなくなった」という状況が完結する。まさしくタイトルが内容そのものだ。しかし、本書での「誰かいなくなる」という状況は、はなはだ曖昧なままに登場人物にも読者にも共有されていくので、タイトルが腑に落ちたという瞬間は、最後まで訪れなかった。

     最後まで訪れなかったと言えば、本書の謎解きについても、なし崩し的に探偵が謎解きを始め、そしてこれまた他の登場人物(多くはミステリ作家)と読者に共有されていくので、一言で言えばミステリ定番のカタルシスが感じられなかった。要するに「謎はすべて解けた!」とか「真実は一つ!」という場面は、この作品には存在しないのだ。ちょっと油断してたら、すぐに犯人の宣告と謎解きが始まってしまい、その前の「誰だろう」というジリジリした雰囲気もなければ、犯人が見えてくるときの衝撃のような瞬間も存在しなかった。ちょっとその事に驚いてしまった。

     非常に特殊な状況下での作品なので、ネタバレになるような事は言いたくない。ただ、あるミステリ作家の巨匠が、古い洋館を模したような装飾と間取りの自宅を作り、そこに若手や中堅のミステリ作家を招待する。折しも雪が降り続き、郊外にあるその自宅は「嵐の山荘」のような外部と隔離された空間となる。そこらへんまで簡単に描けば、あとは外の風景は一切描かれない室内劇となる。そもそも自宅の外観もほとんど描かれず、自宅の描写は室内の間取りと装飾に集中する。冒頭から建築様式や装飾の描写のオンパレードで、正直、門外漢にはまったくついていけない。少しやりすぎなのではと思ったが、これもタネを明かせば、なんと著者の自宅が舞台だったのだ。これはネットでも公開されているのでネタバレではない。「何かが起こりそうな洋館を建てたい」という著者の思いつきから自宅が出来、そしてこの作品ができたようだ。ならば、本書を読む前に事前にこのホームページを見せた方が、読者に親切ではなかったかなと思った。

     最後に文章の事に少し触れておく。登場人物の口調や描写が妙に揃っていて、その度に既視感に戸惑わされる。文芸評論家が作家に挨拶すると「その節はどうもありがとうございました」と返す場面が、別の作家との間で繰り返される。終盤にさしかかると、登場人物は誰も彼も「唇を噛む」(以下の○○には複数の名前が入る)。
    噛み締めた下唇が震えている。
    ○○は噛み締めた下唇を震わせている。
    ○○は口を開いたものの、またすぐ唇を噛んだ。
    ○○は下唇を噛み締めた。
    ○○が悔しげに下唇を噛む。
    戸惑いを見せていた○○だったが、ぐっと唇を噛み、
    ○○は唇を引き結んだ。
    ○○は下唇を噛むと
    ○○は…唇を引き結んでいる。
    ○○が下唇を噛み締めた。
    ○○が唇を歪めた。
    ○○が噛み締めた下唇を震わせ、

     それと、語り手が三人称話者なのか一人称話者なのかが不分明だ。登場人物が少ない、あるいは心理描写が必要な人物が一人の場合は、三人称話者のままで進行するので問題は無い。しかし複数の登場人物がいて、それぞれの心理描写が必要になってくると、とたんに三人称話者と一人称話者(登場人物の一人)の語りが混じり合う。さらに一人称話者が三人称話者に戻り、更に別の一人称話者に変わるという離れ業を使われると、読者は落ちついて読む事ができなくなる。
    posted by アスラン at 03:35 | 東京 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年01月29日

    レイトン・コートの謎 アントニイ・バークリー(国書刊行会)

     アントニイ・バークリーという作家はかなり前から知っていた。なぜかと言えば江戸川乱歩編纂の『世界推理短編傑作集』の中に『偶然の審判』が含まれていたからだ。この作品は、本格ミステリー黄金期の作品の愛好者であれば必読とも言える名作で、毒の入ったチョコレートを食べた人が死ぬという事件を、暇とお金をもてあましたような有閑階級の男女が持論を持ち寄っては解決を図るという内容だ。クリスティの『ミス・マープルと13の謎』やアイザック・アシモフの『黒後家蜘蛛の会』と同じ趣向の一つと言っていい。その後、この短編を原形にして『毒入りチョコレート事件』という長編に仕立て上げた(当時はアントニー・バークリー表記)。こちらも乱歩の解説にあったからだろうか、同じように以前(おそらく中学生の時)に読んだ。しかし、そこからアントニイ・バークリー作品を立て続けに読むことはなかった。何故なら『トライアル&エラー』を例外として、他の著作はほとんど日本で翻訳されてこなかったからだ。

     『毒入りチョコレート事件』に話を戻すと、中学生当時に『偶然の審判』を読んで非常に面白いと思って長編も読んでみたら、短編の切れ味ほどは面白さが伝わってこなかったような記憶がある。はっきりとは覚えていないが、これは短編の趣向だけで十分な作品だったのではないかと、中学生の僕は思ったのだろう。それは言ってみれば、エラリー・クイーンを頂点とした名探偵が活躍する本格ミステリに魅せられた人間にとっては、趣向の面白さは別にしても最後に名探偵が「謎はすべて解けました」と宣言しないミステリは中途半端だという率直な意見があったからだと思う(これは再読して確認する必要がありそうだが)。

     その意味では、短編の『偶然の審判』についても今にいたるまでミス・マープルの短編や『黒後家蜘蛛の会』と同列に考えた事がなかった。つまりは、最後の最後に会の出席者全員をうならせる名探偵の推理の場が、バークリーの短編には存在しなかったからだ。あとで分かる事だが、『偶然の審判』には既に長編に登場していた二人の探偵が出てくるが、名探偵とはほど遠い。だから、やはり同じ時期に読んだと思われる『ミス・マープルと13の謎』で、僕はエラリー・クイーンに次いでマープルをお気に入りの探偵として胸に刻むこととなった。

     この手の趣向の創始が誰の何の作品なのか、はっきりとは知らないのだが、今回調べてみて面白い事がわかった。
    1927年 クリスティ、雑誌『スケッチ誌』にミス・マープルものの短編の連載を開始(*)
    1928年 バークリー、『偶然の審判』発表(**)
    1929年 バークリー、『毒入りチョコレート事件』発表(**)
    1932年 クリスティ、『ミス・マープルと13の謎』刊行(*)

     クリスティ、バークリーともに英国のミステリー作家である。互いにかどうかは分からないが、少なくともバークリーはクリスティの作品に注目していただろう。ミス・マープルの短編「火曜クラブ」が雑誌に発表された時に、その趣向を自らの作品にも取り入れようとバークリーが考えたとしてもおかしくない(あるいはバークリー作品を掲載してくれる雑誌の編集者から焚きつけられたかもしれない)。事実は不明だが、この事は心にとどめておいて欲しい。後で本作の根幹に触れる際に改めて取り上げたい。

     本書はバークリーが最初に書いた小説だった。
    1893年ハートフォードシャーの裕福な医者の家に3人兄妹の長男として生まれた。オクスフォード大学を卒業後、第一次世界大戦に陸軍大尉として従軍した。その後はユーモア雑誌『パンチ』の常連寄稿家としてユーモア小説などを発表していた。1925年に「?」名義で出版した『レイトン・コートの謎』が評判となり、以降推理小説を盛んに発表していくことになる。
     日本のWikipediaにはこんな風に書かれているので、本書が本格的なミステリ長編第一作であるかのように思ってしまうが、そもそも初めて書いた小説が本書のようだ。英語版Wikiには以下のように書かれている。
    Following the war, he worked as a journalist for many years, contributing to such magazines as Punch[4] and The Humorist.
    His first novel, The Layton Court Mystery, was published anonymously in 1925. It introduced Roger Sheringham, the amateur detective who features in many of the author's novels including the classic Poisoned Chocolates Case. In 1930, Berkeley founded the Detection Club in London along with Agatha Christie, Freeman Wills Crofts and other established mystery writers.
     要するに第一次大戦後は何年もの間、ジャーナリストを生業としていて、ユーモア作家として雑誌『パンチ』に寄稿していた。『パンチ』はユーモアと風刺のきいた記事を掲載する週刊誌だったらしいので、あること無いことを面白おかしく記事に仕立て上げるのは、バークリーにとってお手のものだったのだろう。

     イギリスの片田舎にある屋敷レイトン・コートの主人に招かれた作家ロジャー・シェリンガムと友人アレックは、思いがけず主人である実業家の死に遭遇する。密室状態の自室で、実業家は額を拳銃で撃ち抜かれた死体で発見される。周囲の人々は自殺だと考え、駆けつけた刑事も自殺で間違いないだろうと判断する。しかし、一人ロジャーだけは好奇心から独力で捜査すると友人に宣言する。この小説が他のミステリと大きく違っているのは、探偵が完全なる素人だという点だ。もちろんクリスティの探偵にしても、ポアロは元々は警察組織に所属していた私立探偵だが、ミス・マープルは単なる田舎町の老婦人に過ぎない。素人探偵はこの時期のミステリでも珍しくはないかもしれないが、名探偵としての方法論をもたない、真の意味で「素人」の探偵というのは、バークリーのユニークなアイディアと言って良いだろう。
     外見的には平均よりいくぶん背が低く、ずんぐりした体型だった。どちらかといえば長いというより丸い顔に、鋭くきらめく灰色の目。身につけている型崩れしたズボンとみすぼらしい古ぼけたノーフォーク・ジャケットは、ある程度の奇矯さと、まったく自然というにはやや意識的だが、これ見よがしのポーズにまでは堕していない、しきたりへの軽蔑を示していた。
     このように描かれる男は、決して恋愛などに現を抜かすことなく、ただ己の才能に自信があり他を見下す傾向ゆえに、自らの英知を試そうとして事件に関わろうとする。

     さきほど、主人公のロジャーは「方法論を持たない素人探偵」だと書いた。あえてロジャーに方法論があるとするならば、ホームズから綿々と受け継がれてきた「名探偵」という形式への批評(批判)だろうか。ジャーナリストであり、社会風刺やユーモアがお手のものの作家バークリーの分身とも言えるロジャーにとって、ホームズを雛形にした名探偵のやり方は、あまりにも型にはまりすぎていて、もはや面白みに欠けると考えたのかもしれない。だから徹底的にホームズのやり方に懐疑的な姿勢をとる事になる。

     ロジャーは序盤で、駆けつけた警部が慎重に初動捜査を試みている事に感心し、自分がポイントを挙げる事ができるかどうかを冷静に見定めようとする。つまり、既存のミステリのように「警察を過度におろかに描く」事のないようにしているのだ。

     また、ワトソン役ともいうべき友人アレックとの関係も大きく見直す事を、やはり序盤で宣言している。ロジャーがアレックに捜査に協力してくれるかどうかを尋ねると、
    「ああ」ようやく彼(注 アレック)は明言した。「ある条件の上でね。君が何を見つけても、僕に言わずに重大な段階に進むことはしないでくれよ。つまり、これが完全に公明正大な行為だと考えていいのか、僕にはわからないんだ。それで僕が望むのは―」
    「その点は心配御無用さ」ロジャーはにっこりした。「調べを進めていく時は、二人一緒だ。君に知らせないどころか、君の同意なしには何もしない。それこそフェアなやり方だ」
    「では進めていくうちに何か発見したら、どんなことでも必ず知らせてくれるかい?」アレックは疑わしそうに聞いた。「ホームズがワトスンにやっていたような、隠し事はしないな?」
    「もちろんさ、君! それを言うなら、隠したくてもできないよ。僕は誰かに打ち明けて相談せずにはいられないんだ」
    「君はとんでもない探偵になるだろうよ、ロジャー」アレックはニヤリとした。
     確かに「とんでもない探偵」になるだろう。何故ならホームズもポアロもエラリー・クイーン、フェル博士、H・M卿などの数ある名探偵は、関係者はもとより読者にさえ考えている事のすべてを打ち明ける事などないのだから。

     ロジャーは、ホームズがワトソンにすべてを打ち明けなかったせいで「多くのことを見逃しているだろうよ」とまで言っている。ただし、実際にはアレックがロジャーの推理一つ一つにケチをつけて納得しないのに辟易するという事態に陥る。この皮肉な状況描写はユーモア作家であるバークリーの本領とも言えるが、読者からすると「もたついてる」という印象はまぬがれない。アレックから提出された疑念に対して論理的に推理を演繹していくわけではなく、行き当たりばったりに推理を修正していくという、まさに素人探偵ぶりを露呈していく事になるからだ。

     この素人探偵はとにかく間違う。次々と間違っては赤っ恥をかき、ワトソンからはその度に揶揄され、それでも自説を曲げずに新たな思いつきで捜査を続けていく。この構図を見ていると、まるで日本で大流行した二時間ドラマのようだなと思ってしまった。描き方によっては誰もが楽しめるユーモアミステリになっただろうし、もちろん1925年当時は大いに評判になったのだろう。しかし、今の感覚としては古くささは否めないし、「プリンス」を探しにわざわざ出かけていくという場面も意図が見えすぎて不要な部分に思えた(ただし翻訳が影響している可能性もある)。なにより、考えている事をすべてさらけ出すというやり方が、名探偵物に期待するエンディングのカタルシスを読者から奪ってしまうという点は大きな瑕疵になりかねない。おそらく日本での翻訳がなかなか進まなかった理由の一つだろう。

     ロジャーは自力で真相にたどり着いたわけではなく、なし崩し的に真相が向こうからやってくる事になるのだが、最後にたどり着いた意外な真相を証拠づける伏線の描き方は見事なもので、それについてはクリスティに引けを取らないと言っていいだろう。ユーモアの衣をたっぷりと付けたせいで名探偵物のパロディと考える読者も多いだろうが、バークリーとしては「革新的なミステリを書いてやろう」という野心があったのだと思う。その点は評価しすぎる事はない。問題は、この野心作をどのように展開していくかだ。次作も続けて読んで確かめることにしよう。いずれは『毒入りチョコレート事件』にもつながるだろう。

    (最後に、ある事を指摘したいがネタバレになるので、本作を未読の方はこの後は読まないでください。)


     終盤にロジャーは自分の推理を犯人と思われる人物にぶつけて自白を促そうとする。相手の告白で自説の間違いに気づいては推理を組み立て直し、再び別の人物の自白を促そうとする。この思いつきと真相の繰り返しが一種のどんでん返しとなっていて、当時の素朴な読者を楽しませたかもしれない。そこで最後の最後にロジャーが自説の間違いに気づかされて、ついに真相にたどり着く場面にはこんな事が書かれている。
    「そんな馬鹿な!」ロジャーは呆然として叫んだ。「完全にしてやられた!」
    「何とおっしゃいましたの、シェリンガムさん?」○○○(注 名前を伏せた。ちなみに犯人ではない。)は興味をそそられたように尋ねた。
     ロジャーのぼうっとした支離滅裂な返事についての記録は残っていない。
     注意すべきは最後の1文だ。これまで、ワトソン役は存在しても彼の一人称では書かれていないので、この物語はあくまで三人称の語り手による小説の体をなしていた。ところが、この1文が唐突に出てくる事で、この文章が小説ではなく事件の記録であるのだと気づかされる。そして、これがどんな効果をもたらしているかと言えば、この小説自体が一種のメタ小説になっているのだと著者が明かしているのだ。僕は個人的に「シックス・センス効果」と呼んでいる。そして、さらに次の章はこんな締めくくりになる。
     ため息とともに、ロジャーは格闘していた鍵を閉めることができた。丸めていた背を伸ばし、ポケットからパイプを取り出した。
    「僕はちょっとしゃべり過ぎた」彼は告げた。
    「ええっ、まさか!」耳を疑ってアレックは叫んだ。
    「そして少し考え事に時間を使ってもいい頃だ」話の腰を折られても、構わずロジャーは続けた。
    「急いでお茶に行けよ、アレグザンダー。もう十分も遅刻してるぞ」
    「で、君はどうするんだ?」
    「残り二十分、裏庭に行って猛スピードで考えるよ。そうしたら列車の中で、君と話す用意ができるだろう」
    「ああ、きっとそんなことだろうと思ったよ」二人で廊下に出ながら、アレックは乱暴に言った。
     ロジャーは名探偵のアンチテーゼとしてのみ存在している。それが何故か最後の最後に大切な方法論を葬り去っているのだ。その理由は、先ほどの1文で前もって読者に告知されていたのだ。

     そして、この書評の冒頭で触れた事を蒸しかえしておく。本作が発表された1925年の翌年に、クリスティは自身最大の問題作を発表している。そこでは手記という形式でミステリが描かれていく。これは僕のほんの思いつきに過ぎないが、ホームズひいては作者ドイルへの批判とも挑戦とも受け取れる本作は、同時にドイルの衣鉢を受け継ぎ名探偵を創造した作家たちへの批判であり挑戦でもあったろう。そしてそのような批判や挑戦に作品をもって答える事も、またあり得る話なのではないだろうか(あくまで個人的な意見です)。

    レイトン・コートの謎 (創元推理文庫) - アントニイ・バークリー, 巴 妙子
    レイトン・コートの謎 (創元推理文庫) - アントニイ・バークリー, 巴 妙子
    posted by アスラン at 02:20 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年01月13日

    近畿地方のある場所について 背筋(KADOKAWA)

    オカルト雑誌に掲載するため、ライターの私と編集者の小沢くんは、近畿地方の「ある場所」に関連した文章を収集。私たちは「ある場所」に潜む怪異の存在に気づき…。綴じ込みの「取材資料」付き。『カクヨム』掲載に加筆修正。

     『カクヨム』とは何だろう。角川の小説投稿サイトか。ラノベの投稿サイトはゆえあって見渡す事があるが、それ以外の投稿サイトはのぞいた事がない。調べると今でもこの小説はネットでも読めるとわかった。ならば事情に詳しい人なら買ってまで読もうとは思わないかもしれないが、僕のように事情にうとい者は書店で見かけて読みたいと思うかもしれない。特に紙媒体でないと読む気がしないという者ならばなおさらだ。そういう意味では、ラノベでよく見かけるような、日本語に難がある作品ではないので、普通に楽しめる作品だろう。

     オカルト雑誌の新人編集者が、フリーランスのライターと一緒になって、近畿地方のとある場所にまつわる異常な出来事を調べていくという内容だ。ただし、新たに取材する予算は出せないと上司から言い渡されているので、すでに掲載済みの記事やネットでの情報、資料として残されたボツ原稿などから、「ある場所」に起きている怪異とは何かを浮き上がらせる体裁になっている。このような体裁を採用しているからには、著者は雑誌などの編集に詳しい人、もしくは編集者である可能性が考えられる。近畿地方のどこかで今まさに怪異に怯える人々がじわじわと増えつつあるのではないかと思わせる構成になっていて、中盤まではそれなりに興味がもてた。

     ただし、そもそもが大衆向けのオカルト雑誌に載せるようなゴシップ的な記事を元にしているので、これを面白がれるかどうかという点では意見が分かれるかもしれない。オカルトと言えば奥泉光の「 モーダルな事象−桑潟幸一助教授のスタイリッシュな生活−」や「死神の棋譜」などの小説を思いつくが、当然ながらあれほどの読みごたえを感じる事はない。また、ある事象や事件に対して事実を積み重ねて真相に迫っていくというルポルタージュとも違っているので、例えば小野不由美の「残穢」や宮部みゆきの「理由」などのような真に迫った怖さというものも感じられない。でも、たかがB級雑誌に掲載された興味本位の記事に過ぎないと侮っていながらも、薄気味の悪さがボディーブローのように効いてくるという感覚を味わう事はできた。

     言ってみればナイト・シャマランの映画のように、日常にひそむ不気味さがどんどん際立っていって最後に驚くべき事実が判明する事をどうしたって読者は期待するだろう。その時の衝撃を待ち受けて終盤を読み進めると、僕でなくとも肩すかしをくらうのではないだろうか。終盤に繰り返し繰り返し文面が上書きされる文章が出てくるのだが、何故か驚くべき事実の解明というよりもミステリ的な辻褄あわせが行われる。その答え合わせ的な部分を確認するために、何度も何度も遡って前の文章を読み直した。当然ながら、その事が最後に待ち受ける「衝撃の事実」を受け止めるのに必要だと思ったからだ。でも、実はそこは結末とはあまり関係がないのだ。

     結末では今回の怪異(オカルト)の出所が明かされるが、いたって普通なものに見える。せっかく冒頭に『うちへきませんか。かきもありますよ。』という不穏なひらがな書きの言葉が出てくるのだから、これがどんな意味をもつのか興味津々だったのに、あれで説明終わりなのかという感じがした。中盤までは、「リング」「呪怨」と同じように無慈悲で逃れる事のできない呪いの存在を読者に示して、呪いと遭遇した人たちの恐怖をうまく描いていただけに、何故終盤に恐怖のピークを持ってこなかったのかなと思って物足りなさを感じてしまった。
    近畿地方のある場所について - 背筋
    近畿地方のある場所について - 背筋
    posted by アスラン at 16:32 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2023年12月19日

    ハンティング・タイム ジェフリー・ディーヴァー(文藝春秋)

     頻繁にジェフリー・ディーヴァー作品を読んでいるような気がしていたので、このコルター・ショウシリーズの前作『ファイナル・ツイスト』を読んだのも最近の事のように思っていたが、なんとあれから1年も経っていたのか。その間にというか立て続けに、リンカーン・ライムシリーズの最新作『真夜中の密室』も読んでいるし、短編集の2分冊「トラブル・イン・マインド」1&2も読んだりしてるから、まあ一年中読んでいるような気分になってしまったのも当然と言えば当然だろう。

     本作は懸賞金ハンターという変わった職業を生業とするコルター・ショウを主人公とした、ディーバーの新たなシリーズ作品だ。既に第一部が三冊で完結し、当初はこれで打ち止めのような雰囲気を漂わせていた。懸賞金ハンターとはディーヴァーのアイディアで生み出された職業だ。一般に賞金稼ぎと言われる人々は存在する。彼らは、凶悪犯罪を犯して逃亡した犯人に掛けられた賞金を目当てに捜索を行う。一方、懸賞金ハンターは、犯罪者の捜索だけでなく、行方不明者の発見もしくは有力情報の提供を望んでいる家族のために尽力する。これに類する人は存在するかもしれないが、コルター・ショウは父から習い覚えたサバイバリストの技術を活かして、どんな危険な場所にも赴き、当人を見つけ出して家族の元に連れ戻す。ちっぽけな島国である日本と違って広大な国土を持つアメリカでは、その土地その土地の風景も慣習も違っていて、時に狂信的な宗教団体や、怪しげな理念を掲げる営利団体などが潜んでいる僻地がある。そこに侵入する事を厭わないコルターの行動力と信念に、僕ら読者は惹かれていくのだ。

     しかも、コルターの強靱な精神力と信念には、生き抜く事の厳しさ・残酷さを子供の頃から教えてきた亡き父の影響が色濃く反映している。父はある企業の不正を暴くために仲間と共に証拠探しに奔走し、その企業から疎まれた挙げ句に謎の死を遂げた。第一部では、幼少の頃に世間から距離を置いて隠れるように暮らす一家が、父の謎の死を機に兄は姿を消し、コルター自身も母や妹とも別々に暮らす事になった経緯が語られる。父の死の真相に迫っていくにつれて不穏な雰囲気と緊張感が全編に満たされていくところに、シリーズとしての読みごたえが感じられた。コルターにとって懸賞金ハンターという仕事は、父の教えを体現する事であると同時に、父の生きた証を身をもって証明する事でもあるのだ。

     前作では、孤独な戦いを強いられたコルターの前に、死んだと思われていた兄が姿を現すことで新たな悩みを抱える事になる。そして、様々な問題を同時に抱える事こそが、懸賞金ハンターという存在に深みを与えている事に間違いない。ただし、それもこれも父の死をという最大の問題を解決した事で、本シリーズは大きな区切りがついてしまった。はたして第二部では、どのような展開が待ち受けているのか。

     第二部は、ある企業が開発した製品が盗み出され、製品の特許性ゆえに表沙汰にしたくない経営者の意向をうけて、密かに犯人を探って製品を回収するという大きな犯罪を扱うところから始まる。これまでは、小さな事件に見えたものの背景に、複雑で予想外の真実が隠されているというところに面白さがあったので、少々とまどった。もしや例のTVドラマ化と関係しているのではないだろうか。訳者あとがきで、以前から本シリーズのドラマ化が進行している旨の解説があった。それはそれで楽しみではあるが、原作を知らない視聴者にも分かりやすい派手な事件をあえて盛り込んだのだとすると、喜んでばかりはいられない。

     しかし、冒頭の大きな事件から、ある母娘の行方が分からなくなるという事件に主軸が移っていく。これこそコルターが関わるべき事件だろう。妻へのDVで実刑を言い渡された夫が、出所してすぐに妻と娘を殺そうとしているという内部情報が伝わってきて、コルターは母娘の行方を先回りして探り出し無事二人を救出しようと動き出す。この展開は非常にスリリングで面白い。ただし、彼が頼りにしているいつもの準レギュラー陣は、やや後景に下がったような印象がある。盗難事件が起きた企業の女性セキュリティー責任者や、母娘を追跡する過程で出会った女性保安官助手など、立て続けに美女が出てくるのは、何か「らしくないな」という感想を持った。その上、追跡の最中に互いに惹かれ合うという、TVドラマに配慮したかのような場面が出てくるに至っては、やはりちょっといつものコルターとは違うという感じがした。第一部で因縁が出来て、強い結びつきができた筈の女性とも、いつの間にか「友人」としての関係に後退した事をコルター自身が独白するだけで、それ以上詳しくは語られない。

     おそらくディーヴァーは、ドラマに寄せて設定を変えるほど愚かではない。サービス精神旺盛な作家なので、父の事件解決後のシリーズとしての方向性を模索した上で、バランスを取ろうとしているのであろう。それならば今後の手際を期待して待つ事としよう。本作に限って言えば「ドンデン返し20回超え。世界一のサプライズ作家の最新作」と謳われているけれど、実は結末が読めてしまったのだ。「ディーヴァーならこう来るだろう」と読めるほど僕自身がすれっからしになっているのかもしれないが、仕切り直しの作品として、分かりやすくどんでん返しを入れ込んだ結果なのかもしれない。いずれにしろ、まだまだ目が離せないシリーズである事は確かだ。
    ハンティング・タイム コルター・ショウ (文春e-book) - ジェフリー・ディーヴァー, 池田 真紀子
    ハンティング・タイム コルター・ショウ (文春e-book) - ジェフリー・ディーヴァー, 池田 真紀子 
    posted by アスラン at 00:30 | 東京 ☔ | Comment(1) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2023年12月12日

    方舟 夕木春央(講談社)

     「方舟」と書いて「はこぶね」と読む。「箱船」の方が表記としては一般的だが、どちらで書いても意味は変わらない。国語辞典を引くと「四角な形をした乗り物。方形の船」(精選版日本国語大辞典)という語釈が筆頭に来るが、二番目に「旧約聖書の『ノアの箱船』をいう」(日国)と書かれている。広辞苑では「ノアの方舟」と書かれていて、明鏡や新明解に至っては「ノアの――」と書かれていて見出しの表記は「箱船・方舟」のいずれも認めているので、やはりどちらの表記であっても構わないという事になる。手持ちの『聖書 新共同訳』(日本聖書教会)の「創世記」では「箱舟」という表記に統一されているので、本書の表記は特に宗教的な意味合いにこだわって使われているというわけでもないようだ。どちらかと言えば、読みにくい「方舟」の方を使う事で、何事か不穏な事が起こりつつある事を強調しているように感じられる。

     そう思って頁をめくると、冒頭に「創世記」のノアの方舟のエピソードの一節が引用されている。
    わたしは地の上に洪水を送って、
    命の息のある肉なるものを、
    みな天の下から滅ぼしさる。
    地にあるものは、みな死に絶えるであろう。
    ただし、わたしはあなたと契約を結ぼう。
        旧約聖書 創世記 第六章 十七節、十八節
     著者が切り取った引用部分を手練れの声優が厳かに朗読したら、さぞかし沈鬱で悲観的な雰囲気に満たされてしまいそうだ。巻末には日本聖書教会の出版物からの引用だと書かれていたが、僕の持っている新共同訳では雰囲気がかなり違う。しかも、前後を含めてもうちょっと広げて引用してみると、状況が少しは違ったものに見えてくるかもしれない。「ノアの箱舟」はあまりにも有名だが、ポイントは神に従順で無垢な人物であるノアが、神と「契約」をするというところにある。
     あなたはゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟の長さを三百アンマ、幅を五十アンマ、高さを三十アンマにし、箱舟に明かり取りを造り、上から一アンマにして、それを仕上げなさい。箱舟の側面には戸口を造りなさい。また、一階と二階と三階を造りなさい。
     見よ、わたしは地上に洪水をもたらし、命の霊をもつ、すべて肉なるものを天の下から滅ぼす。地上のすべてのものは息絶える。
     わたしはあなたと契約を立てる。あなたは妻子や嫁たちと共に箱舟に入りなさい。また、すべて命あるもの、すべて肉なるものから、二つずつ箱舟に連れて入り、あなたと共に生き延びるようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。それぞれの鳥、それぞれの家畜、それぞれの地を這うものが、二つずつあなたのところへ来て、生き延びるようにしなさい。更に、食べられる物はすべてあなたのところに集め、あなたと彼らの食糧としなさい。
     ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。
        聖書 新共同訳 旧約聖書 創世記 6. 14-22
     旧約聖書を通して読むと分かってくるが、アダムとイブの子孫である我ら人間は、神と契約を結び、神が指定したままの寸法、重量、数の建物や物や生きものをひたすらに造ったり集めたり捧げたりする。どちらかと言えば、本書の冒頭に掲げられた終末思想に裏打ちされた呪いのような言葉ではなく、現代人が交わしてもおかしくないような契約書や設計図にも見える。そこには「信じる者は救われる」という信仰の原点とでも言うべきものがあるだけで、それ以上の思い入れや深読みは不要なのだ。

     何が言いたいかと言えば、「ノアの箱舟」を物語のモチーフに据えたとしても、そこには分かりにくいものは何もなく、悪が満ちた地上を作り直し、神を信じた者ノアとその一族だけを救う事で信仰への素朴な回帰をうながしている事以上に、聖書の言葉は意味を持ちようがないという事を言いたいだけだ。もちろん、それ以外の深読みや思い入れを作品に持ち込む事に意義を申し立てるつもりもない。作者の想像力が聖書の文言に追いつくのであれば、読者はそれを読む事で応えるだけだ。

     そして、ここからが僕の本書への感想なのだが、書くべき事はあまりない。「ノアの箱舟」の一節を引用し、それを模した地下建築を舞台に繰り広げられる物語は、実際のところ、単なるこけおどしにすぎないように思えた。何故なら、冒頭の一節と、三階からなる箱舟のような地下建築の描写を読んだ後は、旧約聖書の記述や思想や理念といったものがその後の物語に再登場する場面は皆無と言っていいからだ。確かに、人里離れた山の中に密かに造られた地下建築は、過激派のアジトか宗教施設のいずれかではないかという憶測が語られるが、それを証拠立てる痕跡はほとんど出てこないのだ。

     さらに奇妙なのは、「箱舟」のモチーフを描き終わった後は、読者に奇妙な状況を納得させる事しか作者の興味がない点だ。奇妙な状況とは、閉じ込められた箱舟(地下建築)から脱出するためには「誰か一人が犠牲にならなくてはならない。でなければ全員が死ぬ」という事と、「犠牲になるのは、殺人を犯した人物だ」という事。この2つだ。第一の状況はどうやら必然と見なさなくてはならないようだ。何故なら、他の可能性について考えたり努力する事を早々に全員が放棄してしまうからだ。そこがなんとも稚拙というか、状況に唯々諾々と従う愚かな人間しかいないように感じてしまう。しかし、まあそれはやむを得ないと説得されてもいい。だが、第二の状況(理屈)に説得されるのはかなり難しい。

     犯人捜しと犠牲者選びとがワンセットになりうるという事自体が、倫理的にも論理的にもかみ合わない。有名な「トロッコ問題」との類似を指摘する人がいるらしいのだが、すでに犯人が犠牲者になる事が、確定とは言わないまでも暗黙の了解とされている時点で、似ているとは到底言えない。作中に「犠牲者として相応しいのは誰か」という問いかけがなされる場面はある。例えば家族連れの場合は、愛する者(子供)のために犠牲になってもいいという心理が親に働くのではないか。いや、逆に愛する者がいない人ほど犠牲者に相応しいのではないのか、など。しかし、登場人物たちが一週間というタイムリミットまでに激論を交わすという場面もないのだ。思考実験の場が存在しないのでは、「トロッコ問題」うんぬんを言っても意味が無い。

     では、一体、これは何を読めばいいのだろうか。もちろん、この奇妙な状況の果てに待ち受ける「意外な結末」だろう。しかし、そもそもの設定が読者には納得しがたく、さらには著者に、説得させようという努力も見られないのであれば、結末は衝撃どころか不快な後味しか残さないものだったとだけは言っておこう。仮定の話を言っても詮無いのだが、手際よく数十頁程度の短編にまとめたならば「ひねりが効いた」面白い作品になっていたかもしれない。

     ちなみに山の中にある「地下建築」だが、本書の冒頭で男女6名が80cm程度の穴から内部に入るところから、描写に違和感を感じて仕方なかった。スマホのライトでなんとかなるような暗闇ではないはずなのに、ちょっとした暗がりを歩くかのように男も女も歩き回る。さらにはLPガスのボンベで動く発電機を動かした後は、ボンベの残量を心配することなく明るい照明の下で人々は一週間も生活しつづける。しかも、この建築物は1フロアに20部屋もあり、それが3階建てになっているという、とてつもなく巨大な施設なのだ。僕なら発電機を動かして最低限見て回ったら、すぐに抜け出す。間違っても一晩を過ごそうなどとは思わないし、万が一にも寝泊まりしなくてはならなくなったとしても、発電機の停止や閉じ込めの危険性を鑑みて、外で待機する人員を選抜しておく。よくもまあ、全員で入る気になったなぁ。いや、もちろん、著者の言うとおりに動いてくれないと困るのだけれど。それと、施設の中にはテーブルや椅子など最低限の家具などはあるように描かれているが、それらは一体どのように80cm径の入り口から搬入したのだろうか。それを考えると夜も眠れない(などと言っても、もう元ネタを知る人が少なくなってしまったが…)。

    方舟 - 夕木春央
    方舟 - 夕木春央
    posted by アスラン at 22:35 | 東京 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2023年12月03日

    Practical English Usage, 3rd edition (by Michael Swan)

     『セミコロン かくも控えめであまりにもやっかいな句読点』の書評は一段落したが、パンクチュエーションについての考察は、引き続きできる限りやっていこうと思う。『Easy Learning Grammar and Punctuation』の次は本書だ。『Easy Learning …』はアメリカの出版社が出している英文法とパンクチュエーションのガイドブックだったが、本書はイギリスのオックスフォード大学出版が刊行しているガイドブックだ。なので説明文や例文も、これまで当たり前のように考えてきた細かい点に違いが見られる。そういう意味では、読んでいて非常に新鮮な感じがした。
     もちろん本国では中級者向けのガイドであり、日本人にとっては上級者向けと言ってもよいという代物なので、僕のような拙い英語力では、パンクチュエーションの頁のほんの一部を読むだけで精一杯だ。今回も「コロン、セミコロン、カンマ」についてのみ詳しく読み込んでみた。ついでに終止符・疑問符・感嘆符の項目も検討対象にした。理由はおいおい書いていく(いや、すぐに書くけれど)。
     ところで、今回も自力で日本語に訳した。途中に厄介なところが出てくるので悩んだ挙げ句の駄訳になっているので、不明な点は原書にあたってください。

    473. パンクチュエーション(1): 終止符、疑問符、感嘆符
    1. 文の区切り
     終止符(英フルストップ、米ピリオド)、および疑問符、感嘆符は文の終わりに用いる。この直後に新しい文が続く時は、先頭の文字が大文字になる。
      I looked out of the window. It was snowing again.
      Why do we try to reach the stars? What is it all for?
      They have no right to be in our country! They must leave at once!
     この項目を検討対象にしようと思った最大の理由は「フルストップ」だ。終止符と言えばピリオド(period)だと当たり前のように覚え込んできたが、イギリスではフルストップ(full stop)と言うらしい。確かにこちらの方が「終止符」と符合する。日本国語大辞典や広辞苑には「フルストップ」も立項されており、明治の頃にはピリオドと同様にフルストップも日本語として輸入されていたようだが、いつの間にかピリオドだけが生き残ったという事か。

     文法から見て文が完全とは言えない場合には、通常はその前あるいは後ろに終止符・疑問符・感嘆符を付けない。
      She phoned me as soon as she arraived. (NOT She phone me. As soon as she arrived.)
      In his job he has to deal with differnt kinds of people. (NOT In his job. He has to deal with different kinds of people.)
      Did you understand why I was upset? (NOT Did you understand? Why I was upset?)
     中々難しいというか、持って回った説明の仕方だ。文法から見て(gramamatically)ということは、五文型を念頭において書かれているのだと思える。どうやら本書は英語のネイティブでも間違いやすい箇所を解説する事に重きを置いているようだ。だから、文型に必須な要素が欠けた文をネイティブの人でも書いてしまうという事を前提に、戒めのような書き方になっている。ただ、元の説明の「その前あるいは後ろ」という書き方が分かりにくい。文法からすると1つの文になるはずが、複数の断片を別々の独立した文と見なしてしまう。ちょうどShe phone meとas soon as she arrivedがそうだ。それぞれに終止符・疑問符・感嘆符を付けてはいけないという事を言いたいのだろうから、「後ろ(末尾)」だけで良いのではないか。

     ただし、節や句を強調するために、終止符と大文字を使ってその部分を区切る事がある。
      People are sleeping out on the streets. In Britain. In the 21st century. Because there are not enough houses.
     前述の「通常は…付けない」の例外がこれだ。かなり特殊な例だろうか。ライティングブックには、こういった用法が取り上げられていなかった。

    2. 略字
     略字の後ろに終止符を付ける事がある(2を参照)。この用法はイギリス英語よりアメリカ英語の方が一般的である。
      Dr. Andrew C. Burke, M.A. (OR Dr Andrew C Brurke, MA)
     「へー、そうなんだぁ」である。いかに自分がアメリカ英語を習ってきたかという事を、こんなところでも実感させられる。単に付けても付けなくてもいいのではなく、ローカライズの問題だったのか。

    3. 間接疑問
     間接話法の疑問の末尾には疑問符を使わない(276を参照)。
      I asked her what time it was. (NOT …what time it was?)


    474. パンクチュエーション(2): コロン
    1. 説明
     コロンの後に、説明もしくは、さらなる詳細な内容を付け加える。
      We decided not to go on holiday: we had too little money.
      There was a problem with the car: it was losing oil.
     用例1は休日にお出かけしない事の理由(お金がない)を説明している。用例2は自動車に問題が生じた事の詳細(オイル漏れ)を付け加えている。

    2. 列挙
     コロンの後に、項目を列挙する。
      The main points are as follows: (1) . . . , (2) . . . , (3) . . . .
      We need three kinds of support: economic, moral and political.

    3. 細分
     タイトルや見出しに対して細分化した題目をコロンの後に付け加える。
      punctuation: colon
     punctuationが見出しであり、その中の題目の一つがcolonという事だろう。

    4. 大文字
     イギリス英語では、コロンの後に続く文を大文字で始める事は稀である。(例外は引用符で括られた文の先頭である)。しかし、コロンの後に複数の文を付け加える場合は、大文字で始める事がある。
      My main objections are as follows:
       First of all, no proper budget has been drawn up.
       Secondly, there is no guarantee that . . .
     またしても意外な事が書かれているが、そう言われて「1. 説明」の例文を見直すと、確かにコロンの後の文章が大文字で始まっていない。だからか。473の項「1. 文の区切り」で、終止符などに続く文の先頭が大文字で始めるとわざわざ書いているのは、コロンではそうではないと言いたかったからか。しかも、これはイギリス英語とアメリカ英語を隔てる特徴の一つだと書いている。何というか米語を意識しつつ、自国の英語に誇りを感じている著者たちの主張が感じられる。

    5. 手紙
     ビジネスレターの書き出しの挨拶(Dear . . .)の後にコロンを付けるのが、アメリカでは一般的である。
      Dear Mr. Callan:
      I am a writing to . . .

     イギリスでは、このような場合にカンマを付けるか、あるいは句読記号は付けない事が多い。

    6. 直接話法
     文の途中で直接話法を用いる場合、通常はカンマをはさむ(476.9を参照)。
      Stewart opened his eyes and said, 'Who's your beautiful friend?'
     しかし、直接話法の一節が長い場合はコロンの後に続ける。
      Introducing his report for the year, the Chairman said: 'A number of factors have contributed to the firm's very gratifying results. First of all, . . . '
     また、名前や短い句の後に(劇の台詞や格言などを引用して)直接話法の文章が続く場合にも、コロンを挿入する。
      POLONIUS: What do you read, ma lord?
      HAMLET: Words, words, words.
      In the words of Murphy's Law: 'Anything that can go wrong will go wrong.'
     これも難しいところだが、確か「英語ライティングルールブック」では、文章などを引用する際はコロンから始めると書いてあった。引用部分を引用符で囲うか囲わないかのルールは曖昧で、いまだによく分からない。本書では「引用」という観点でコロンを使うとは言っておらず、あくまで直接話法に限定している。その上で用例を見ていくと、脚本などに書かれた台詞は引用符で括られていない。思うに、これは台詞という形式から引用符が省略されているだけで、基本的には引用符を使用するのが当たり前だという事だろう。格言を発話(直接話法)ととらえるのか記述(引用)と捉えるのかは、微妙なところではあるのだが。

    475. パンクチュエーション(3): セミコロン
    1. 終止符の代用
     文どうしは文法的に独立していても、それぞれの内容が密接に関連している場合には、終止符の代わりにセミコロンを使う事がある。ただし、終止符やカンマは多くの人に使われているのに対して、セミコロンはそれほどとは到底言えない。
      Some people work best in the mornings; others do better in the evenings.
      It is a fine idea; let us hope that it is going to work.
     この用例でカンマが使われる事はほぼないと言っていい(476を参照)。

    2. 列挙の区切り
     列挙する項目を区切る際にセミコロンを使ってもよい。複文や複数の従属節が列挙される場合には特にセミコロンが使われる。
      You may use the sports facilities on condition that your subscription is paid regularly; that you arrange for all necessary cleaning to be carried out; that you undertake to make good any damage; . . .
     (カンマの「列挙の区切り」については476を参照の事)
     以上、セミコロンの説明は実にあっけない。「英文ライティング…」や「Easy Learning Grammar …」でも、もうちょっとは詳しく説明していた。これらの二冊には「カンマ<セミコロン<ピリオド(フルストップ)」という区切りの強弱の関係を意識した使い方が示されていたが、本書ではそれはない。特に終止符の代用という考え方はあっても、カンマの代用という考え方はないようだ。
     ただし、カンマの項目にcommas not used(カンマの使用対象外)と書かれた説明がいくつかあって、セミコロンの用法も一つ紛れ込んでいる。それも含めるとセミコロンの用法として書くべき事がまだあるんじゃないだろうか。andやorで結ばれる関係は、終止符でつなぐというよりは等位あるいは対照の関係にある。これらは「A, B, C and/or D」のようになるわけで、これを「A; B; C; D」と書いていいというのであれば、「カンマおよびand/orの代用」という事になる。それにしてもセミコロンの項目だけ読んでも、セミコロンの用法のすべてが分からないというのは一体どういう事だろう。あぁ、そうか。あの一段階小さなフォントでかかれた「(カンマの「列挙の区切り」については476を参照の事)」という但し書きは、カンマの列挙の用法も見ておくようにというだけでなく、セミコロンの記述もありますよという事だったのか。なんかモヤモヤする。

    476. パンクチュエーション(4): カンマ
     一般的に、カンマは話法における休止を表す。

    1. 等位節
     andやbut、orでつないだ節どうしは大抵の場合はカンマで区切る。ただし節がきわめて短い場合は、この限りではない。以下の2つを比較するように。
      ― Jane decided to try the home-made steak pie, and Andrew ordered Dover sole with boiled potatoes.
        Jane had pie and Andrew had fish.
      ― She had very little to live on, but she would never have dreamed of taking what was not hers.
        She was poor but she was honest.

    2. 従属節
     従属節で文が始まる場合は、節の末尾にカンマを付ける事が多い。以下の2つを比較するように。
      If you are ever in London, come and see me.
      Come and see me if you are ever in London.
     従属節でもthat節の直前にはカンマは付けない。
      It is quite natural that you should want to meet your father. (NOT It is quite natural, that . . .)

    3. 文法的に独立した節(カンマの使用対象外)
     文法的に独立した節の間にはカンマを付ける事はあまりない(その位置に終止符かセミコロンを付ける事は可能である。473,475を参照)。
      The blue dress was warmer. On the other hand, the purple one was prettier.
      OR The blue dress was warmer; on the other hand . . . (NOT The blue dress was warmer, on the other hand . . .)

    4. 通常と違った語順
     単語やフレーズが通常とは違う位置に置かれる場合、すなわち文の通常の語順にそれらが割り込む場合には、カンマを付けて文から切り離す。
      My father, however, did not agree.
      Jane had, surprisingly, paid for everything.
      We were, believe it or not, in love with each other.
      Andrew Carpenter, the deputy sales manager, was sick.
     この用法では、両端にカンマを付ける事が必須である。
      (NOT Andrew Carpenter the deputy sales manager, was sick . . .)

    5. 形容詞
     be動詞などの連結動詞の後に複数の形容詞を並べる時には、必ずカンマで区切る。
      The cowboy was tall, dark and handsome.
     名詞の前方で、複数の形容詞が名詞に対して似たような種類の情報を与える場合には、間をカンマで区切るのが一般的である。
      This is an expensive, ill-planned, wastefull project.
     形容詞が短い場合は、間のカンマを省略する事がある。
      a tall(,) dark(,) handsom cowboy
     形容詞や修飾語が複数の異なる部分に関連する場合は、コンマを省略する事はできない。
      a green, red and gold carpet (NOT a green red . . .)
      concrete, glass and plastic buildings
     名詞の前方で、複数の形容詞が名詞に対して種類が異なる情報を与える場合には、間をカンマで区切る事はほとんどない。
      Have you met our handsome new financial director? (NOT . . . our handsome, new, financial director?)
     何故かカンマの説明がとびきり細かく分類されていて詳しい。それだけでなく、さきほども触れたように「カンマの使用対象外」に関する項目も含まれている。これでは「まずなによりもカンマの使い方を勉強しなさい」と言っているようなものだ。それだけならまだしも、結構くどいわりに説明がピンとこない場合もある。この「5. 形容詞」が良い例で、なかなか遠回しな表現に満ちていて、訳すときも非常に苦労した。「形容詞A 形容詞B 形容詞C 名詞」のように、名詞に対して複数の形容詞が前方から修飾する場合に、A〜Cがsimilar kinds of informationなのか、different kinds of informationなのかで間をカンマで区切るかどうかが変わってくると言う。
     言いたい事は分かるが、結局意味が判らないとカンマを付ける付けないの見極めが難しい。もちろんそれは当然の事だが、もうちょっと上手く説明してもらえないだろうか。そう言えば「英語ライティング…」でも「〈形容詞+名詞〉でひとまとまりの名詞句を表す場合に、あるいは形容詞を重ねる場合にはカンマを使わない。」と説明していた。
     つまりはこういう事だろうか。「expensive & ill-planned & wastefull」がprojectを形容する場合には、projectを同じレベルで形容しているので並列関係となり、この場合はカンマで区切る。それに対してhandsome [ new [financial director]]のように入れ子構造で意味が積み重なっていく場合にはカンマで区切らない(こちらの場合、カンマで区切ると意味が変わってしまう可能性がある)。これなら理屈として納得できる。

    6. 限定表現(カンマの使用対象外)
     名詞(句)に対して、「どんな人あるいは物について話しているか」を正確に指し示す働きをする限定表現が後続する場合には、カンマで区切らない。以下の2つを比較するように。
     ―The driver in the Ferrari was cornering superbly. (「in the Ferrari」というフレーズはthe driverを後方から限定する。)
      (NOT The driver, in the Ferrari, was cornering superbly OR The driver in the Ferrari, was cornering superbly.)
      Stephens, in the Ferrari, was cornering superbly. (「in the Ferrari」というフレーズはthe driverを後方から限定してはいない。何故ならStephensという名前でthe driverは既に限定されているからである。)
     ―The woman who was talking on the phone gave Parker a big smile.
      Mrs Grange, who was taking on the phone, gave Parker a big smile.
     限定用法および非限定用法の関係節についてさらに詳細な説明は、495を参照の事。

    7.長い主語(カンマの使用対象外)
     主語が非常に長い場合でも、その後ろにカンマを付ける事はほとんどない。
      The man from the Japanese Ministry of Education arrived early.
      (NOT The man from the Japanese Ministry of Education, arrived early.)
      What we need most of all is more time. (NOT What we need most of all, is . . .)
     なんでこんな項目が、と思ってしまう。たぶんネイティブの人は主語が長くなればなるほど、主語の末尾にカンマを入れたくなるのかもしれない。カンマの誘惑? 逆に日本人のように文法にしばられて英語を学習してきた身としては、ここにカンマを打つなんて思いもしないだろう。

    8. 列挙
     連続した項目、あるいは列挙した項目を区切る際にカンマを用いる。連続した項目の最後の2つが長くないのであれば、間にはさんだandの直前にカンマを付ける事はほとんどない。以下の2つを比較するように。
       I went to Spain, Italy, Switzerland, Austria and Germany.
      You had a holiday at Christmas, at New Year and at Easter.
      I spent yesterday playing cricket, listening to jazz records, and talking about the meaning of life.
     (セミコロンの「列挙」については475を参照の事。)
     これってひょっとして、あのオックスフォードカンマの事ではないだろうか。アメリカ英語式のガイドブックにはオックスフォード大学のガイドブック由来のカンマと書かれていたが、本家がこのカンマの必要性を否定している事になる。アメリカ英語式では列挙した項目にandが使われている場合にのみ、列挙の最後の2つの間に現れるandと項目自体とを区別するためにオックスフォードカンマを使うと書かれていた。しかし、この例で分かるように、本家の使い方は長めの節や名詞句が来た場合に限って使うというスタンスに感じられる。

    9. 直接話法
     伝達動詞を含む部分と直接話法の部分との間にはカンマを付けるのが一般的である。
      He said, 'There's no way we can help her'.
     伝達動詞を含む部分が直接話法の部分の後ろに来る場合は、引用符で閉じる前に終止符の代わりにカンマを挿入するのが一般的である。
      'I don't like this one bit,' said Julia.
     特に問題は無いのだが、いまさらながら気づいた事がある。アメリカ英語では、直接話法で引用符で括られた部分が文末に来る場合は、終止符が引用の内側に付いていた。イギリス英語では外側になるのか。というか、文末になると直接話法の文末記号と、文全体の文末記号との両方をどうするかという問題に直面して、アメリカとイギリスではどちらの文末記号を残すかという点が異なるという事なのかもしれない。日本語でも、この問題は人によって意見が分かれるところだろう。

    10. 間接話法(that節などの前にカンマを付けない)
     間接話法の構文でthatやwhat, whereなどの前にはカンマを付けない。
      Everybody realised that I was a foreigner. (NOT Everybody realised, that . . .)
      They quickly explained what to do. (NOT They quickly explained, what . . .)
      I didn't know where I should go. (NOT I didn't know, where . . .)
     これもネイティブ向けの項目だろう。日本人なら思いもしないカンマだ。

    11. 数字
     1000以上の数字や100万以上の数字の境界を明確にするために、大きな数字を3桁の数字ごとにカンマで区切る。
      6,435 (NOT 6.435) 7,456,189
     4桁の数字には必ずしもカンマを付けなくてもよい。ただし、西暦にはカンマを付けてはいけない。
      3,164 OR 3164 the year 1946
     数字を区切るのに、カンマの代わりに空白を用いる事がある。
      There are 1 000 millimetres in one metre.
     カンマを小数点として用いない。
      3.5 = three point five OR three and a half (NOT 3,5 three comma five)

     以上が、本書のパンクチュエーション(終止符・疑問符・感嘆符・コロン・セミコロン・カンマのみ)の説明と、僕の感想だ。すでに『セミコロン』を読了した身としては、セミコロンの用法はかろうじて分かったが、セミコロンに書き手が込めているニュアンスについては一切の記述がない事が残念だった。あの本で取り上げられたメルヴィルやチャンドラー、キング牧師などの印象的なセミコロンが、どこから生まれてくるのかを想像するのは、本書では難しい。もちろん、ないものねだりなのは分かっている。それはきっと、スタイルブックや文章読本に求めるべき内容なのだろう。
    Practical English Usage (Practical English Usage, Third Edition) - Swan, Michael
    Practical English Usage (Practical English Usage, Third Edition) - Swan, Michael
    posted by アスラン at 01:25 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2023年11月16日

    セミコロン かくも控えめであまりにもやっかいな句読点 セシリア・ワトソン(左右社) (その3)

     「セミコロン」についての本の書評、終盤戦だ。(その2)では5章までの内容を取り上げて、セミコロンの誕生の経緯からセミコロンが流行の最前線に飛び出して、やがて法律の条文に紛れ込んで騒動を引き起こすまでを解説した。この(その3)では6章以降の内容を取り上げる。
    [本書の目次]
    はじめに 言葉のルールをめぐる愛憎               …7
    1章 音楽を奏でるように:セミコロンの誕生            …16
    2章 科学的規則を目指して:英文法戦争              …23
    3章  ファッションアイテムからトラブルメーカーへ        …43
    4章  ゆるい条文と自制心:句読点ひとつでボストン中が大混乱   …52
    5章  解釈に伴う偏見と慈悲                   …64
    6章  ルールを岩に刻み込む 現代の試み              …82
    7章  セミコロンの達人たち                   …86
    8章  切なる訴え、単なる気取り:セミコロンを使うのはひけらかし?…147
    おわりに  ルール違反?                     …159

     改めて目次を掲載したが、7章だけがとりわけ頁数が多く、非常にいびつな構成になっているのが見てとれる。7章は、セミコロンを使いこなしている専門家、すなわち作家たちが如何に個性的なセミコロンの使い道を編み出してきたかを展示している博物館のような章だ。ガイドブックには説明されていないセミコロンの使い方を、何人もの作家別に取り上げているのが頁数の多い理由の一つだが、本書の性質上、セミコロンの実例を原文で説明しなくてはならないので、原文と訳文を併記する箇所が頻繁に現れる事がさらに頁数を増やす原因となっている。セミコロンが現実にどのような使われ方をし、どの程度の潜在能力を隠し持っているかを確認する事が、本書を読む読者(僕の事だ)の最大の関心事なので、当然ながら、この章については詳しく解説したい。

     ただ、とりあえず7章を棚上げして、先に6章、8章、終章(おわりに)についてさらっと説明しておく方がいいだろう。セミコロンがボストン市で一騒動を起こした後、1906年にシカゴ出版局は『マニュアル・オブ・スタイル』を出版した。このガイドブックが対象とする読者は英語に習熟していない児童ではなく、作家や編集者といったプロの書き手だった。その始めこそ、19世紀の文法家たちによる、科学としての規則のこだわりと、使い手が好んだ使い方とを併記するというやり方を継承していた。出版側の念頭にあった理念は「柔軟性」だ。しかし、1982年の13版にタイトルを『ザ・シカゴ・マニュアル・オブ・スタイル』に変えた頃から、規則の権威を主張するかのような「断定的な響きが強くなっていった」ようだ(初版のタイトル『マニュアル・オブ・スタイル』は、正確には『ア・マニュアル・オブ・スタイル』だったようだ。だったら最初から訳語を統一して欲しかった)。
     2006年現在、『ザ・シカゴ・マニュアル・オブ・スタイル』は16版を重ねているが、句読点(パンクチュエーション)の使い方を示す章では書き手の「スタイル」は完全に姿を消してしまい、規則自体が「伝統的な慣習を論理的に応用」したものだと宣言しているらしい。権威主義もここに極まったと言いたいところだが、ここに至るまでにはそれなりの事情もあるようだ。マニュアルであるからには書き手それぞれの「主観的要素」(などと書かれているが、要は好みだろうな)をできる限り排して、規則を厳密化してほしいというのがユーザの率直な望みだったのだろう。一方で、スタイルブックの側面をそぎ落として規則を押しつけるという変更に異議を唱えるものも増えて行く事になる。
     
     7章では、「悪質な曖昧さの温床じゃないか」とまで言われるようになったセミコロンを、達人たちはどのように使いこなしているかを俯瞰する事で、著者なりにセミコロンを擁護している。これは後で詳しく見ていこう。8章では、権威を持ち出したセミコロン(の規則)に対する嫌悪をあからさまに表明する人たちの意見に耳を傾けている。曰く「お高くとまった気取り屋(スノッブ)の記号だ」とか、セミコロンを「これ見よがし」に使っているとか、「使い方を心得ているのが嬉しくてたまらない奴らの御用達の記号で、そういう連中は平気で接続詞を出し惜しみ、自分の教養をアピールしてくる」とか。著者はセミコロンが知性の有無を判断する指標と考える事に反対だし、だからと言ってセミコロンなど無くしてしまえという主張にも反対する。
    セミコロンをむやみやたらに嫌ったり、コンマを無条件に愛したりする必要はない。記号それ自体に忠誠を誓ったり恨みを抱いたりせず、個々の使われ方に心動かされればよいわけだ。
     これが著者の、しごくもっともな結論であり、本書で著者が言いたかった事のすべてだと考えていいだろう。この「個々の使われ方に心動かされる」最適な例として、かのマーティン・ルーサー・キング・ジュニアの文章を挙げている。セミコロンを使った、非常に心を揺さぶられる文章であり、訳者もあとがきで「(8章は)、これこそ本書の中心的なメッセージであり、ここまでの話題は布石だったとも言えます。」とまで書いている。
     以下は、キング牧師が黒人差別に抗議した不服従運動によって逮捕された際に、獄中で書いた文章だ。文中の「待て」とは、聖職者たちがキング牧師の性急な行動をいさめた記事の言葉を引用している。
    Perhaps it is easy for those who have never felt the stinging dars of segregation to say, "Wait." But when you have seen vicious mob lynch your mothers and fathers at will and drown your sisters and brothers at whim; when yoouhave seen hate filled pllicemen surse, kick and evven kill your black brothers and sisters; when you see the vast majority of your twenty million Negro brothers smothering in an airtight sage of poberty in the midst of an affluent society; …(中略)…―then you will understand why we find it difficult to wait.

    おそらく人種隔離の矢が突き刺さる痛みを経験したことのない方は、「待て」と安易に言ってしまうのでしょう。しかし、残虐な暴徒の気の赴くままに自分の母親や父親が木に吊され、気まぐれに自分の姉妹や兄弟が水に沈められるのを見たら憎悪に満ちた警官が黒人の兄弟姉妹を罵倒し、暴行し、果ては撲殺してしまうのを見たら2000万人の黒人同胞の圧倒的大多数が、豊かな社会の中にあって貧困という密閉された牢に閉じ込められ息が詰まっているのを見たら…(中略)…―そうであればきっとわかるでしょう、なぜ我々にとって待つことが難しいのかが。
     なんと1つの段落にまとまった文章の中でセミコロンは9個も使われている。このセミコロンは、この後見ていくチャンドラーやメルヴィルなどの使い方に似ている。ただし、結論に至るまでに書き手と同様に読者さえもが「丸々1ページほども待ち続けなくてはならず、セミコロンによる宙づり状態を余儀なくされ」る。これは書き手の味わってきた苦痛を読者に疑似体験させるのにセミコロンが一役かっているという事に他ならない。

     さて、7章「セミコロンの達人たち」を詳しく見ていく事にしよう。その前に注意点を一つ挙げていく。ここではセミコロンを用いた原文(英語)と訳文が併記される事が多い。その際、変わった趣向として原文に相当する訳文の位置にセミコロン(全角記号)が挿入されている。これはまだ分かるとしても、それ以外の記号(例えばカンマ、コロン、そして&までも)も挿入される。その事に非常に戸惑わされる。実は、最初に紹介される達人がマーク・トウェインで、そこには少々行き過ぎな趣向が試みられているのだ。

    [マーク・トウェイン]
     彼は句読点の使い方に口をはさんでくる校正者を「このクソったれの出来損ない野郎!」と罵倒するくらい、自分の文章に自信を持っていた。本書にはトウェインの原文は一切引用されていないが、句読点などの記号の使い方を端的に示す一節の訳文がいきなり引用されている。
     「労苦&思い煩い」の90パーセントが「奴らの無知&無意味な句読点を抹消&自分のオリジナルを復元する作業にある」と主張している。

     自分の句読法について「クソッたれの校正・者が200年かかってようやく学べる以上の知識をわずか2分で身につけている」のだと出版社相手に念押しした。

     「まあ今日は聖なる安息日だ」と締めくくる。「&こうした俗世の話はやめにすべきだろう」
     前もって説明した上で該当箇所を抜き出してみると、それほど悪くない趣向に思えるかもしれないが、いきなり何の説明もなく&が使われるのには違和感があるし、「校正・者」などは何かの誤植かと思ってしまった。欄外に訳注があり、そこを読めば事情は見えてくるのだが、こんな事をするくらいなら原文を引用してもらった方が分かりやすい。特に気になったのは「校正・者」の方で、これはトウェインがproofreader(校正者)に余分なハイフンを挿入してproof-readerと書く習慣があった事を示すための訳者の配慮らしい。それならばハイフンを使えばよかったのではないだろうか。英語のハイフンと日本語の中点とに対応関係があるとは思えない。中点は通常は名詞(句)を並置するために使われるからだ(ただし、全角の中点を使うのはさすがに気が引けたのか、半角の中点を使って「ハイフン感」を出していると言えなくもない)。
     まあ、マーク・トウェインは話の枕に過ぎず、言葉のプロほどガイドブックに記載された規則に反発するものだと言う事を指摘したいがために取り上げただけのようだ。それよりも手強い達人が次に控えている。それはレイモンド・チャンドラーだ。

    [レイモンド・チャンドラー]

     ミステリファンを名乗っているくせにチャンドラーはほぼ読んだ記憶がない。やはり、本格ミステリーにトドメを刺した張本人という事で、若い頃にエラリー・クイーンにハマった身としては避けてきてしまったからだ。著者によると、チャンドラーはフィリップ・マーロウが活躍する物語にセミコロンをほとんど使わない。カンマさえも使いたがらない。その理由を、著者は主人公マーロウのキャラクターによるものだと推測している。
     セミコロンは立ち止まって考え込む感じや自信のなさを漂わせるが、マーロウはそういう様子をめったに見せない。
     つまりセミコロンやカンマによってマーロウの思考や行動を休止させる事を、チャンドラーが望んでいないという事になる。決してセミコロンを毛嫌いしていない証拠に、エッセイなど小説以外の文章には非常に考え抜かれたセミコロンが現れる。
     If you can go past those awful idiot faces on the bleachers outside the theater without a sense of the collapse of the human intelligence; if you can stand the hailstorm of flash bulbs popping at the poor patient actors who, like kings and queens, have never the right to look bored; if you can …
     (中略)
    ; if you can do all these things and still feel next morning that the picture business is worth the attention of one single intelligent, artistic mind, then in the picture business you certainly belong, because this sort of vulgarity is part of its inevitable price.

     人間的な知性が崩壊する感覚を味わうことなく、劇場外の観覧席に並ぶひどいマヌケ面の前を通ることができるなら忍耐強い哀れな俳優たちがパシャパシャとたかれるフラッシュの嵐を浴び、それでも国王や女王のように、疲れた様子を見せることが許されないという状況に耐えられるなら
     (中略)
    以上すべてをやってのけた上で、なおかつその翌朝、「知的で芸術的な心の持ち主は誰ひとりとして映画産業のことなど気にかけない」と感じたりせずにいられるなら、それならば映画産業のれっきとした一員ということになる。この種の俗悪さというのはその避けがたい代償の一部なのだから。
     段落全体が長い1文になっていて、そこにif you can…で始まる節がなんと7個ものセミコロンでつながっている。パラレル構造が強調されていると同時に散文的なリズムを伴って、畳みかけるようにチャンドラー自身の苛立ちが表現されていると、著者ワトソンは分析している。このセミコロンの使い方はガイドブックの規則に則っているが、セミコロンをどのように使えば効果的かを考え抜いた上で使っているので、チャンドラー特有のスタイルになっているというわけだ。
     その他にもチャンドラーは「非合法」な(ガイドブックでは認めていないという意味)セミコロンを取り入れていると著者は言っている。
    They insist upon judging it by the picture they saw last week or yesterday; which is even more absurd (in view of the sheer quantity of production) than to judge literature by last week's best-sellers, or the dramatic art by even the best of the current Broadway hits.
     著者は、このセミコロンを「緩急用法」と名づけている。競馬にたとえると、前半は騎手が「ガッチリ手綱を握る」。後半になると「一気に文を解き放って疾走させ、…湧き上がるエナジーと情熱を一段と鋭く感じさせる」と説明している。正直言って僕には「緩急」の付け具合がよく理解できなかったが、「非合法」と言われる理由はわかる。後半はwhich isで始まり、完全な節になっていないからだ。これは関係節の非制限用法であり、通常ならばカンマになるところを代わりにセミコロンを使っている。もしかするとカンマよりも区切りの度合いが強いセミコロンを使う事で、非制限用法の関係節に入ったとたんにギアチェンジしたかのようにネイティブには感じられるのかもしれない。
     この後にもう一例だけ、マーロウが活躍するミステリからセミコロンの使用例を取り上げている。前述したようにチャンドラーは小説には滅多にセミコロンを使わない。にも関わらず、ここぞとばかりに使われるセミコロンを、著者は「無防備用法」のセミコロンと名づけている。作品中、立ち止まることを知らないマーロウは、ある場面で「喪失感ゆえに立ち止まらされ」る。その時の無防備な印象ゆえの名称だ。こちらはあえて引用しないが「非合法」と言っているわりには、コロンの代わりに後半にリストがくる形式になっていて、僕には「合法」に見えてしまう。「緩急」以上に理解しにくいスタイルだ。

    [アーヴィン・ウェルシュとレベッカ・ソルニット]
     この二人の名前は僕には聞き馴染みがないが、ウェルシュが映画「トレインスポッティング」の原作者だと聞いて親近感がわいた。ソルニットはエッセイストだそうだ。この二人が使いこなすセミコロンは、いわば「クイック・セミコロン」と呼べるもので、一般的な休止の働きではなく逆に素早さを出すツールとしてのセミコロンだ。「トレインスポッティング」ではヘロイン依存症の若者が描かれるが、そこでは本来ピリオドで「急ブレーキで停止しても良かった」ところを、「そうとはせずにセミコロンを使うことで、ウェルシュは力強さと彼の苛烈な文章の特徴と言えるギラつくような写実性を生み出している」と書かれている。セミコロンの写実性効果はさておき、理屈は分かりやすい。
     「カンマ<セミコロン<ピリオド」という休止の強弱を踏まえて、カンマの代わりに使えば「トトトト」が「トントントントン」となり、ピリオドの代わりに使えば「トーントーントーントーン」が「トントントントン」になるように、心理的に感じる文章のリズムが変わってくるのだろう。

     ソルニットのコロンの使い方を示す文章はこうだ。
    That bygone time had rhythm, and it had room for you to do one thing at a time; it had different parts; mornings included this, and evenings that, and a great many of us had these schedules in common.

    あの去りし時代にはサイクルがあり、ひとときにひとつずつ進めていく余裕があった;書く時間がそれぞれ違っていた;朝はこれ、晩はあれ、大多数の人がそうしたスケジュールを共有していた。
     「まるで石が水面を跳ねたように、3回ほんの一瞬軽く触れて跳ねていく感じ。」と著者は形容している。どうやら、この文章の2つのセミコロンのいずれかはコロンを使ってもよいらしい。セミコロンに統一した事で、あたかも水切りをした石のように軽やかに心地よく文が飛び跳ねていくという事のようだ。これも非ネイティブには分かりにくい。「そうだ」と言われれば「そうなのかな?」と思うくらいだ。ただし、2つのセミコロンに区切られた2番目の文が非常に短く、その後が「それぞれ違っていた」時間をリストで示す形式になっていて、2番目の文、リスト1、リスト2、…というように文や節が飛び跳ねていくように構成されている事が、効果を生み出しているのかもしれない。
     ソルニットは、これ以外にも「比較的重たくてアカデミックな」題材に対して自らの主張を述べた後に、セミコロンを使って「ソルニットの中心的主張を支持するデータを矢継ぎ早に繰り出している」。
    ソルニットの場合、セミコロンは素早い場面転換であり、冗長さを避けて、自身が実際に経験した苦心惨憺を読者には感じさせない機能を果たしている。
     ソルニットの得意とする「素早い場面転換」のセミコロンについては、本書で実際に確認してもらいたい。僕としては「素早い」かどうかは別にして、セミコロンを使って複数のパラレル関係にある節を効果的に並べるというテクニックに長けた達人がいるのだなと感じるだけだ。

    [ハーマン・メルヴィル]
     メルヴィルとくれば『白鯨』だと決まっている。だってそれ以外にどんな作品があるか知らないからだ。しかも、そんなにも有名な『白鯨』すら僕は読んだ事がないのだ。話にならないと言われようが、ここは開き直るしかない。それにしてもずいぶん変わった本だという事が、本書を読んでよく分かった。
    『白鯨』は一人称で語られる。一部の(もしかすると大半の)一人称小説は語り手の視点から、これは本だという認識のない状態で語られる。『白鯨』は違う。捕鯨船ピークオッド号に乗り、凶暴で名を馳せる白いクジラ、モービィ・ディックを追った日々を乗組員のイシュメイルが記したもの、という体裁を取るのである。
     イシュメイルだなんて、聖書に出てくるアブラハムの息子の一人と同じ名前を冠した人物が語り部であるからには、やはりずいぶんとポストモダンな作品なんだと思える。そして、こんな作品を評してフィリップ・ホーア(誰だ?)は、ニューヨーカー誌にこう寄稿した。
    とはいえ『白鯨』は小説ではない。そもそも書籍と呼べるかも怪しい。むしろこれは伝達行為であり、伝えられるのは巨大で計り知れないクジラの姿をめぐってぶらつく考えやイメージ、人類史と自然史の数奇な巡り合わせについての長大な思索である。
     これを受けて著者は、セミコロンが『白鯨』の文章に重要な役目を果たしている事を次のように説明する。
    このクジラに関して「ぶらつく考えやイメージ」は全部で4000を超えるセミコロンで宙づりにされている。話の筋はどこまでも広がっていき、単に一頭のクジラだけでなく、それを追う人間にとってそのクジラが持つことになる、ありとあらゆる象徴的な意味合いまでも捉える射程を持つが、セミコロンという頑丈な釘がそれをつなぎ止めているのである。
     なんと『白鯨』は21万語という長い文章に、割合にして52語に1回というペースでセミコロンが使われているらしい。この偏執的な使い方に著者はすっかり魅せられているように感じる。訳者は「本書で著者が言いたかった事のすべて」は8章にあると書いているが、倫理的な体裁は別にあるとしても、著者が本当に楽しんで書いているのは7章のメルヴィルの文章についてだという事は、読めば誰でも分かるだろう。
     When instantly, the entire ship careens over on her side; every bolt in her starts like the nail-heads of an old house in frosty weather; she trembles, quivers, and nods her frightened mast-heads to the sky. More and more she leans over to the whale, while every gasping heave of the windlass is answered by a helping heave from the billows; till at last, a swift, startling snap is heard; with a great swash the ship rolls upward and backward from the whale, and the triumphant tackle rises into sight dragging after it the disengaged semicircular end of the first strip of blubber.

    するとたちまち、船全体が横に傾ぐ寒風吹きすさぶ荒ら(あばら)屋の釘さながらに船のボルトが一つ残らず外れそうになる船体は震えおののき、怯えるマストは点に対して頭を垂れる。どんどんと鯨の方に傾いていくなか、巻き上げ機は激しくあえぎ、一巻きするたび逆巻く大波が応じてくるするとついに、何かが裂けるような鋭く凄まじい音が巨大な水音とともに船体が跳ね上がり、鯨の逆方向に振れ、滑車が悠々と上がってくるのが目に入る。そこにぶら下がっているのは鯨から半円形に剥ぎ取った脂肪の最表層だった。(67章「脂身切り」)
     こんな一節を取り上げられたら、僕でも『白鯨』全編を読みたくなってしまう。D・H・ロレンスは1920年代当時に『白鯨』の持つテーマに圧倒されたと賛辞を送ったようだが、それに対して著者はセミコロンを使った「語り」が新たな地平を切り開いたと考えている。それをこの書評の締めくくりとしよう。
    (ロレンスを言葉を受けて)テーマだけでなく語りの構造と野心においても『白鯨』は時代を先取りし、未知の海域に繰り出していた。船乗りが陸の見えなくなるところまで出ていくために様々な機器を要したように、『白鯨』にも当時のジャンルの制約を超えるため様々な表記技術が必要だった。そうした驚きの技術のひとつが――たおやかでいて頼もしい羅針盤の針のような――セミコロンだったのだ。

    (達人たちのセミコロンの使い方まとめ)
    (1)「A; B」のように2つの節をセミコロンで区切る事で、前半と後半とでギアチェンジする。
    (2)「A; B; C; …」のように複数の節をセミコロンでつないでいく事で、カンマの代わりならばリズムが遅くなり、ピリオドの代わりならばリズムが早まる効果が生まれる。
    (3)パターン(2)の応用として「考えや感情を畳みかける」「結論を先へ先へ延ばす事で焦らす」などの心理的効果を生み出す。
    (4)「A; a; b; c; …」のようにひとつの主張に対して、矢継ぎ早にいくつもの根拠を示していく。
    (5)「A; B; C; …」が「A→B→C→…」のように、著者が指し示す目的地へと誘う羅針盤の針の役目をする。
     (注)上記以外にも本書では説明されているが、それは本書で直に確認してほしい。

    (蛇足)
     そう言えば(その1)で「はじめに」の訳文に不満を並べ立てて、(その2)では後半の章立ての訳文の出来が心配だったが、問題は回避されていたと書いた。どういうことかと言えば、7章や8章で、達人たちがセミコロンを駆使した英文には訳文が併記されているが、「既訳がある場合は大いに参考にさせていただいた」とあるからだ。正直、本文よりも数段格調が高い訳文になっていて、安心して読めたというわけだ。
    セミコロン - セシリア・ワトソン, 萩澤大輝, 倉林秀男
    セミコロン - セシリア・ワトソン, 萩澤大輝, 倉林秀男
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    2023年11月06日

    Easy Learning Grammar and Punctuation: Your essential guide to accurate English (Collins Easy Learning English) (English Edition)

     『セミコロン かくも控えめであまりにもやっかいな句読点』(セシリア・ワトソン)の書評(その3)を書く前に、再びパンクチュエーション(句読法)のお勉強をしておく。前回は『英語ライティングルールブック 第2版』でカンマ、コロン、セミコロンの使い方についておさらいをしたが、やや不完全燃焼だったのは否めない。これまでちゃんと勉強してこなかったせいとも言えるが、やはり日本人向けに手ごころを加えた解説になっているようで、読み込んでいくと「はてなマーク」がずらずらと出てくる感じがした。文章自体もいまひとつだったし。

     そこへちょうど専門家の方から「翻訳フォーラム・シンポジウム2023」のパンクチュエーションに関する発表資料(YouTube)と参考資料について教えていただいた。発表の方はさっそく面白く拝見・拝聴させていただいた。参考資料の方は図書館にはなく、英語の書籍の方はINTERNET ARCHIVEにあたってみたところ、本書だけがヒットした。INTERNET ARCHIVEさまさまだが、閲覧はできるが印刷はできない(たぶん)。そこでPUNCTUATIONの章だけスクリーンショットに落としてから、PDFに変換してプリントアウト。それを元にカンマ、コロン、セミコロンについてだけ読み込んで、この書評で論う事にした。もちろん、他の句読記号についても追って読むつもりだが、前にも書いたとおり、これは『セミコロン』の書評を書くための予備知識を得る事が目的なのであしからず。ちなみに英語の本なので、一通り日本語に訳してみた。あくまで素人の訳なので文責は負わない(と、何を偉そうに言うか)。最大の読者である自分自身へのおことわりである。おかしいなと思った方は是非じかに本書を読んでください。

    [カンマ( , )]
    @複数の主節を区切る
     主節どうしをandかorでつなげる場合は直前にカンマを挿入しないのが原則だが、主節の主語が異なる場合はこの限りではない。

      You go out of the door and turn immediately left.
      It was cold outside, but we decided to go out for a walk.
     『英語ライティングルールブック』(以下『英語ライティング』と略す)には書かれていなかったし、主語が同じ主節どうしでもカンマを挿入していた。本書の例は、後方の主節が主語を省略しているのでカンマを挿入しないのではないかと思うのだが、どうなのだろう。

    A主節と従属節を区切る
     従属節が主節より前に出る場合は、間にカンマを挿入するのが原則である。

      If you have any problems, just call me.
      Just call me if you have any problems.

     ただし、二つの節がとりわけ長い場合には、主節が前にあっても間にカンマを挿入する事がある。
      We should be able to finish the work by the end of the week, if nothing unexpected turns up between now and then.
     これは『英語ライティング』にも書いてあった。

    B主節から関係節を分離する
     非制限用法の関係節の境界に(直前はもちろん、挿入の場合は直後にも)カンマを挿入する。名詞あるいは名詞節に関して何らかの補足を行う関係節に、このタイプが多い。

      My next-door neighbour, who works from home, is keeping on eye on the house while we're away.
      She moved to Los Angeles, where she was immediately signed as a singer songwriter.

     制限用法の関係節は名詞を後方から修飾しているだけなので、カンマは不要である。
      Let make sure the money goes to the poeple who need it most.
      The computer (that) I borrowed kept on crashing.
     『英語ライティング』には一切の記載無し。一般的には関係節の制限用法・非制限用法を区別する指標としてカンマの存在を意識する事が多いので、あらためてカンマの用法の一つとしてきちんと把握しておくのは重要だ。

    C列挙した項目を区切る
     3つ以上連続した項目を区切る場合はカンマを挿入する。

      She got out bread, butter, and jam (but bread and butter).

     (最後の項目の直前に置く)andあるいはorの前にカンマを挿入しない場合の方が多い事に注意。
      They breed dogs, cats, rabbits and hamsters.
      We did canoeing, climbing and archery.
     この説明には書かれていないが、列挙した中で最後の項目の直前にはandあるいはorを書く。この書式自体はカンマの説明ではなく、andやorで3つ以上を列挙する際の用法として別の章で説明されているのだろう。『英語ライティング』との違いは、本書では「A,B, and C」の書式が基本になっている点である。例のオックスフォードカンマ(Oxford comma)と呼ばれるカンマを挿入する書き方だ。ちなみに米国ではserial commaあるいはseries commaと呼ぶのが一般的なのだそうだ。

    D形容詞を区切る
     名詞の前方から(限定詞として)、もしくは連結動詞の後方から(述語として)複数の形容詞を連続して書く場合には、間にカンマを挿入する。

      It was a hot, dry and dusty road.
      It's wet, cold and windy outside.
     andが続く形容詞の直前(*直後では?)には、ほとんどの場合カンマを挿入しない。
     この補足説明の部分は A comma is not usually used before an adjective that is followed by and.と書かれているが、afterの間違いではないだろうか。これって、列挙の際のserial commaの挿入の原則とは違って、形容詞を並べる際にはserial commaを挿入しないという事を言っているのだと思う。例文もそうなってるし。

    E副詞的語句に付くカンマ
     howeverやtherefore、unfortunatelyなどの副詞的語句が文全体を修飾する場合は、副詞的語句と文とをカンマで区切る。

      However, police would not confirm this rumour.
      Therefore, I try to avoid using the car as much as possible.

    F付加疑問や短い返答に伴うカンマ
     付加疑問の前や、短い返答でYESやNOの後にカンマを挿入する。

      It's quite cold today, isn't it?
      He's up to date with all his injections, isn't he?
      Are you the mother of these children?―Yes, I am.
      You're Amy Osborne, aren't you?―No, I'm not.

    G呼びかけに伴うカンマ
     呼びかける際の人名や集団名を文から分離する際に、境界にカンマを挿入する

      And now, ladies and gentlemen, please raise your glasses in a toast to the happy couple.
      Come on, Olivia, be reasonable.
      Dad, can you come and help me, please?

    H談話標識に伴うカンマ
     WellやNow thenなどの談話標識と文を区切る際に、カンマを挿入する。

      Well, believe it or not, I actually passed!
      Now then, let's see what's on TV tonight.
      Actually, I quite enjoyed it.
     以上、特に問題なし。

    I直接話法の被伝達部におけるカンマ
     直接話法の被伝達部(しかも、引用部分の最後に疑問符や感嘆符がない場合)の直後に、カンマを挿入する。あるいは被伝達部が後にくることを明示するために、カンマを挿入する。

      'I don't understand this question,' said Peter.
      Peter said, ' I don't understand this question.'
      'You're crazy!' Claire exclaimed.
      'What do you think you're doing?' Dad bellowed.
     Peter said, '…'のように被伝達部を区切る際に、カンマの代わりにコロンを挿入する事もある。特に米語では一般的に使われる。
      Peter said: 'Dream on.'
     ちょっと、この部分は注意が必要。引用符で括られる部分の末尾にピリオドや感嘆符、疑問符などが書かれるので、当然のようにカンマも引用符の内側に書かれる。ここらへんがカンマと日本語の読点とでは似ているようで似ていない。そもそも似ていると考えてはいけないという事なのだけれど、どうしても日本人には違和感が残るところだろう。
     ちなみに、この項目のタイトルはIn reported speechだ。このreported speechという言葉がくせ者で、辞書を引くと「間接話法」とか「(直接話法における)伝達内容、被伝達部」などと書かれている。一体、間接なのか直接なのか、伝達なのか被伝達なのか、はっきりして欲しい。まあ、今回は例文を見る限り「直接話法の被伝達部」である事は間違いないのだが。

    J日付に使うカンマ
     日にちと西暦とが隣接する場合には、間にカンマを挿入する事が不可欠である。

      March 31, 2011
     特に問題なし。

    [コロン( : )]
     コロンは2つの主節の間に区切れがある事を示す。コロンの区切れはカンマよりも強く、フルストップ(ピリオド)よりは弱い。
     まず驚いたのは、英国ではピリオド(period)ではなくフルストップ(full stop)と呼ぶのだと言う事。恥ずかしながら初めて知った。serial commaといいfull stopといい、英国式の用語を多用しているのは英国の出版社だからかと思ったら、HarperCollinsはアメリカの出版社だった。では何故?やはり英語の格式みたいなものがあるのだろうか。
     それはともかくとして、ここではコロンの概要を説明しているが、けっこう重要な事がさらっと書かれている。「コロンは2つの主節の間に区切れがある事を示す。」とあるので、コロンの前方と後方にはそれぞれ完全な文が書かれる事になる。『英語ライティング』では、推奨しない事を前提に、コロンの前方が不完全な文になる事がよくあると例文を挙げて説明していた。一方、本書では不完全な文は書かない事を前提としている。

    コロンは、以下の場合に用いる。

    @項目の列挙の前にコロンを挿入する。
     I used three colours: green, blue and pink.
     Make sure you wear clothes made from natural fibres: cotton, silk and wool.

    A説明や理由の前にコロンを挿入する。
     Nevertheless, the main problem remained: what should be done with the two men?
     I decided against going away this weekend: the weather forecast was dreadful.

    B見出しの後にコロンを挿入する。
     Cooking time: about five minutes.
     Start time: 10 o'clock.
     特に問題なし。

    C普段よりもかしこまった書き方では、連続する2つの主節の間にコロンを挿入する。
     It made me feel claustrophobic: what, I wonder, would happen to someone who was really unable to tolerate being locked into such a tiny space?
     Be patient: the next book in the series has not yet been published.
     『英語ライティング』では、コロンの前方と後方とでは階層関係があり、前方の具体的内容や概要説明を後方で行うという構造を表現するのにコロンが使われるという話だった。しかし、このルールのように「連続する2つの主節」の間にコロンが使えるのであれば、「カンマ<セミコロン<コロン<ピリオド」のような区切りの強弱関係があるのかと思ってしまう。おそらくコロンでの、こういった使い方は普段はあまりしないのではないかと思うのだが。

    D書籍のタイトルについた副題の前にコロンを挿入する。
     Farming and wildlife: a study in compromise
     Beyond single words: the most frequent collocations in spoken English.
     特に問題なし。

    E直接話法の被伝達部を引用する際に、(これは特に米語に多いのだが)コロンを挿入する。あるいは、とりわけ長い被伝達部を引用する際に、コロンを挿入する。
     He said: 'You owe me three dollars and twenty-five cents.'
     The Health Minister said: 'The NHS I.T. programme will mean that patients will get access to more comprehensive information to help them make choices.'
     『英語ライティング』でも「文を引用する」という項目で詳しい説明と例文を挙げていたが、どうにもこうにも分かりづらくて、納得がいく説明にはほど遠かった。コロンの前方が不完全な文と完全な文との場合分けをして説明していたが、本書では「不完全な文」は対象外なので、すっきりしたルールになっている。残った問題は後方の直接話法の被伝達部についてだ。引用なので引用符で括るのが当然だと思うのだが、『英語ライティング』では引用符無しの引用を認めている。それについては本書では何も説明されていないので、相変わらずコロンの用法として「引用符無しの引用」が可能なのかどうか、よく分からなかった。

    [セミコロン( ; )]
     @2つの主節の間に等位関係もしくは対照関係が存在する場合には、主節どうしを区切るのにセミコロンを挿入する。
     以下の2組の違いを比べてみるように。

      The engine roared into life. The propellers began to turn. The plane taxied down the runway ready for takeoff.
      The engine roared into life; the propellers began to turn; the plane taxied down the runway ready for takeoff.
     セミコロンを使うべきかどうかを試すのに最適なのは、2つの文にわけるよりも2つの主節からなる文を書く方が望ましいかどうかを自分に問いかけてみる事だ。その通りだと思うのなら、セミコロンを使うべきだ。 

     以上の例でフルストップ(ピリオド)を使う事に、もちろん問題はない。ただし、話の流れとして2つの節の間に何らかのつながりや連続性がある事を伝えたいのであれば、セミコロンの方が適している。
      I'm not that interested in jazz; I prefer classical music.
      He knew everything about me; I had never even heard of him.
     『英語ライティング』では、どういう時にカンマやピリオドではなくセミコロンを使うかの説明が欠けていた。本書では、明確ではないにしても、主節と主節の「内容の関連性」や「時間的な連続性」といった観点をニュアンスとして残したい時にセミコロンを積極的に活用する方針が示されている。

     A列挙された項目にはカンマがすでに使われている事がある。項目が句や節になっている場合には特に可能性が高い。そういう時にはセミコロンを使って項目を区切る。
      The holiday was a disaster: the flight was four hours late; the hotel, which was described as 'luxury', was dirty; and it rained for the whole fortnight.
     『英語ライティング』にも同様の記述あり。

     文章に書き手のニュアンスを含めるために使われるという点にセミコロンの真骨頂があるようだ。これが個性的な作家たちによる個性的なセミコロンの実例を生み出す事になったのだろう。詳しくは『セミコロン』の書評(その3)で考えてみたい。
    posted by アスラン at 04:20 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2023年10月31日

    セミコロン かくも控えめであまりにもやっかいな句読点 セシリア・ワトソン(左右社) (その2)

     「セミコロン」についての本の書評、後半戦だ。「はじめに」の訳文でケチがついて、1章からは共著者のものと思われる訳文で持ち直した結果、実は最後まで面白く読めた。後半からの訳文にちょっと不安を覚えたのだけれど、それはある理由から問題が回避されている事もわかった。それについては後述する。それよりも書評(その1)では「はじめに」の文章を過剰に論ったおかげで、実はその後の文章の見通しがよくなった。この序章は、論文などでは国際的な標準となっているintroductionあるいはabstractの役目を担っている。だから、序章で聞き覚えのあるフレーズが、その後の章で詳しく展開されるという趣向になっている。ある意味、序章を味わいしつくしたが故に、各章の流れや著者の主張があたまに入りやすくなったのだから、不幸中の幸いとも言える。
    [本書の目次]
    はじめに 言葉のルールをめぐる愛憎
    1章 音楽を奏でるように:セミコロンの誕生
    2章 科学的規則を目指して:英文法戦争
    3章  ファッションアイテムからトラブルメーカーへ
    4章  ゆるい条文と自制心:句読点ひとつでボストン中が大混乱
    5章  解釈に伴う偏見と慈悲
    6章  ルールを岩に刻み込む 現代の試み
    7章  セミコロンの達人たち
    8章  切なる訴え、単なる気取り:セミコロンを使うのはひけらかし?
    おわりに  ルール違反?

     1章の冒頭に書かれているように、セミコロンは15世紀終盤(1494年)にイタリアで誕生したらしい。ちょうど(その1)で1章の冒頭を引き写しておいたので、再掲する。
    1494年、イタリアのベネチアでセミコロンは生まれた。コンマとコロンの中間ほどの休止(ポーズ)を示そうとした記号であり、その血筋は、コンマ[,]とコロン[:]が合わさったその形に表れている。セミコロンが生まれたのは、文章の書き方に創意工夫が凝らされた時代、句読点の使い方に規則などなく、読み手の側でも新たな句読点を考案しては捨て去ってというのが普通だった頃のこと。当時の文書には(手書き・印刷を問わず)句読点をあれこれ工夫して試していた後が残っており、その試行錯誤を行っていた15世紀の知識人はイタリア人文主義者という名で知られている。人文主義者たちは文章の流麗さに重きを置き、ギリシャ・ローマの古典を研究して文書化し直すことを呼びかけた。それにより暗黒の中世を脱却し「文芸復興(ルネサンス)」を果たそうとしたのだ。そうした目標のもと、人文主義者は新たな文書を出版するとともに、古典のテクストも字句や句読点を書き改めて新たに出版した。
     当時の人文主義者たちが、知識・教養の見直しを図る目的で文章の改良を試みるなか、セミコロンは様々な試行錯誤の一つとして生み出された。コンマとコロンの中間に位置するようなポーズとしてつくり出されたので、形が「血筋」を示していると書かれているが、「英語ライティングルールブック(第2版)」によると、「カンマ<セミコロン<ピリオド」の順にポーズの強弱が成立しているので、なぜコロンが出てくるのかは不可解だ。一番ありそうなのは、コロン自体も当時と今とでは役割が違っていたという事かもしれない。
     詳しい事は分からないが、現在に伝わるセミコロンを様々にデザインしたフォントを並べて、著者がユニークな寸評を披露する記述は非常に楽しい。元々の元祖セミコロン(Bembo)では「きゅっと巻いたスタイルで尻尾はとげのようにシャープ、その上では見事な球体が宙に掲げられている」と描写されているのに対し、Poliphilusはカジュアルな見た目で「まるでキース・ヘリングのキャラクター」のようだと言う。言われてみれば確かにそう見えるのが面白い。また、セミコロンはピリオドとカンマを取り合わせたと言われるが、Jensonは「シンプルな流れ星」と描写されるように球体ではなく星形になっていて、かなり変わったデザインだ。

     600年も前に誕生したセミコロンは、カンマとピリオド、コロンしかなかった文章表現に様々な「間(ま)」を与える記号として重宝された。他に数多あった試作品とは違って、セミコロンは後世に残った。すると19世紀になって、科学の名の下にあらゆる学問を科学として扱う事が求められる時代が到来し、句読点たちも科学的規則のまな板にのせられる事となった。「はじめに」に書かれていたが、文法家たちはこぞってカンマなどの句読点の使い方を厳密に規則化しようとしたが、すでに誕生から400年も経ってしまっているのであれば、様々な慣用を無視することはできなくなっていた。19世紀当時の文法書ピーター・ブリオンズ(文法書の名前だよね、それとも文法家の名前?)では、規則に続いて言い訳めいた慣用(本書では「好み」と書かれている)が、やや小さめの活字で書かれている。著者は「マトリョーシカ式」と呼んでいるが、なるほど掲載された画像には、言い訳の言い訳がさらに小さめの活字で書かれていて、この本の読者(僕の事だ)には判読不能なほど小さい。

     このブリオンズには、コンマだけでも25個の規則および例外(慣用、好み)が並んでいるそうだ。この時代の文法家の悩みは、科学に基づいた句読点の規則と、現実に即した慣用(好み)との「緊張関係」に如何に折り合いをつけるかにあったようだ。これは日本語でもおなじみの光景だろう。「日本語に正書法はない」としばしば言われるが、それでも仮名遣いや送り仮名に関する規則などは、旧文部省主導で世に送り出されている。そこには例外が本則を上回る分量で記述され、慣用的な表記などもたいていは否定されずに認められている事が多い。これが後世に禍根を残す事になっているのは多くの人の知るところだろう。19世紀の英語の文法家一人一人は、この悩ましい状況に対処しようとしては非難され、そして力尽きた。19世紀の半ばになると括弧がやり玉に挙げられ、つづいてコロンも「優れた書き手が用いることはもはや極めて稀である」とか「子どもに使わせるべきではない」とまで言われるようになったと書かれている。

     そして1840年代に流行のトップに躍り出たのがセミコロンだった。コロンの用法のほとんどと、コンマの用法の相当数をセミコロンが担う事になったからだ。「もはやセミコロンではありえない。全体(*コロンのこと)がなくなってしまえば半分(セミ)たりえない」と、ある文法家がコロンの行く末を案じるまでになってしまった。しかし結局は「論理」が勝利を収める。「通例コンマが使われる並列表現の区切りにセミコロンを用いることが本質的に規則違反であるわけではない。」という論理が優先され、コンマもしくはセミコロンで区切る、もしくは区切り記号を使わないという流れが確定してしまう。
     セミコロンは変貌を遂げた。18世紀末までは休止の記号だった。19世紀初頭には、文法家がこの休止を「文の区切りを明確化する手段」と説明するようになる。句読法はもっぱら文法に付き従うものであって、韻律的・音楽的な特徴は副次的だとされた。19世紀半ばには、新世代の文法家に導かれながら、文法は自然科学のモデルのそろりそろりと近づいた。その規則は英語の観察から導出され、児童生徒に教えられた。その際、子どもにも同様の観察を行わせ、一般性の高い結論を規則の形で導き出させる演習が行われたのだ。
     してみると、コロン存亡の危機が、今のような「より具体的な事柄や説明を記述する際に使う」という独特な用法をコロンに与えたという事になるのだろうか。そこらへんの事情は本書には書かれていないが、もしそうだとすると非常に興味深い。それはともかくとして、外様だったセミコロンはファッションリーダーにまで上り詰める事になった。しかし、そこからトラブルメーカーに転落するという構図は、まさに今どきのYouTuberのしでかす悪事を見ているかのようだ(もちろん、セミコロン自身に罪はないのだが…)。

     4章では、「はじめに」にも取り上げられていたセミコロンのトラブルが詳しく書かれている。セミコロン一つのせいでボストン市民が夜間に酒を飲むのを禁じられるという事態が、6年も続いたというエピソードだ。
    オリジナルの条文(1875年)
     That no sale of spirituous or intoxicating liquor shall be made between the hours of 11 at night and 6 in the morning, nor during the Lord's day, except that if the licensee is also licensed as an Innholder he may supply such liquor to guests who have resorted to his house for food and lodging.
    「セミコロン版」の条文(1880年)
     That no sale of spirituous or intoxicating liquor shall be made between the hours of 11 at night and 6 in the morning; nor during the Lord's day, except that if the licensee is also licensed as an Innholder he may supply such liquor to guests who have resorted to his house for food and lodging.
     事情はかなり込み入ってるので詳しくは本書を読んでもらうとして、ボストン市で元々想定されていたオリジナルの条文と、それを引き写した形で条例として定められた条文とでは、カンマとセミコロンが1個だけ置き換わっているという点に注目してほしい。これがどういう効果をもたらすかと言えば、さきほどの「カンマ<セミコロン<ピリオド」の順に区切りの強弱が変わるため、並列関係の解釈が大きく変わることになる。以下に、それぞれの条文の構造を比べてみよう。
    オリジナルの条文の並列関係
    (between the hours of 11 at night and 6 in the morning,
    nor
    during the Lord's day,)
      └except that if the licensee is also licensed as an Innholder he may supply such liquor to guests who have resorted to his house for food and lodging.
    「セミコロン版」の条文の並列関係
    between the hours of 11 at night and 6 in the morning;
    nor
    during the Lord's day, except that if the licensee is also licensed as an Innholder he may supply such liquor to guests who have resorted to his house for food and lodging.
      オリジナルの条文の構造は、最初のカンマと2番目のカンマとがnorの並列部分の範囲を確定している。と同時に、2番目のカンマ直後のexceptで始まる副詞句は、norの並列構造全体に掛かる事になる。しかし、norの直前がセミコロンに変わる事によって事態は大きく変化してしまう。カンマよりも強力なセミコロンで大きな区切れが出来てしまうために、exceptで始まる副詞句はセミコロンを越えて前方に影響を及ぼす事ができず、後半のduring the Lord's dayにしか掛からなくなってしまうのだ。その結果、この条文の除外項目「ただし販売免許保有者が宿泊施設の免許も有する場合、食事ならびに宿泊のために施設を利用する客への酒類提供はその限りでない」は安息日にしか適用されず、ボストン市民は平日の11時を過ぎると無条件で酒が飲めなくなってしまったわけだ。

     この事例などは、セミコロンの混乱を面白おかしく語る上での典型的なエピソードとなったが、面白いではすまされない悲劇を生み出したのも、またセミコロンであった。1927年にニュージャージー州で二人の男に殺人罪の判決が下されたときの陪審員たちの評決記録は、次のようなものだった。
    [評決と判決勧告]
     We find the defendant, Salvatore Merra, guilty of murder in the first degree, and the defendant, Salvatore Rannelli, guilty of murder in the first degree and recommend life imprisonment at hard labor.
     どこにもセミコロンは見あたらないが、見あたらない事が物議を醸すことになった。これも先ほどのボストン市の条例と同じく、二人の被告に第一級殺人による有罪が宣告される並列関係に対して、and recommend life imprisonment at hard labor(重労働を伴う終身刑を勧告する)という補足部分が、両被告についての勧告なのか、それとも二人目のみの勧告なのかが問題になった。判事は後者だと考えた。するとどうなるかと言うと、当時のニュージャージー州の第一級殺人は死刑か終身刑だったので、一人目は死刑、二人目は終身刑という、見過ごす事のできない差が出来てしまった。当然ながら弁護人は二人とも終身刑とすべきだと主張した。その理由としてセミコロンが登場する。
    [弁護人の主張]
     We find the defendant, Salvatore Merra, guilty of murder in the first degree; and the defendant, Salvatore Rannelli, guilty of murder in the first degree and recommend life imprisonment at hard labor.
     もし一人目に「終身刑を勧告する」が当てはまらないとするならば、最初のandの直前はカンマではなくセミコロンでなくてはならないはずだというのが、弁護人の主張だ。だが、裁判官を説得するには至らず、上訴裁判所(日本の最高裁判所にあたる)でも「裁判官たちは2名を除いて皆一様に死刑判決を支持」した。ここからは本書の記述(著者のせいか訳文のせいか分からないが)が込み入って分かりにくいので、ちょっと詳細に追っていく。

     「サミュエル・ケイリッシュ判事は反対意見を述べるなかで、最初に記録された評決は次のように書かれていたと指摘した。」と書かれているが、流れとしては死刑判決を支持しなかった2名のうちの一人がケイリッシュ判事という事だろうか。判事の名前が突然出てくるので、どちら側に与するものか分からない。「反対意見」と書かれているが、死刑判決に反対とも、上訴(つまり死刑判決に対する不服申し立て)に反対とも、いずれにも読める。いよいよもって分からない。まあ、「次のように書かれていた」の中身を見れば分かるのだろうと思うかもしれないが、カンマを取ったり付けたりという微妙な話のまっただ中なので、もう少し読者に寄せて分かりやすく書いて(訳して)ほしいものだ。とにかくケイリッシュ判事が言う「最初に記録された評決」はこうだ。
    [最初に記録された評決]
     We find the defendant Salvatore Merra guilty of murder in the first degree and the defendant Salvatore Rannelli guilty of murder in the first degree, and recommend life imprisonment at hard labor.
     被告人サルバドール・メラは第一級殺人で有罪及び被告人サルバトーレ・ランネリは第一級殺人で有罪、そして重労働を伴う終身刑を勧告する。
     うーむ。おそらくケイリッシュ判事は死刑判決に反対なのだろう。訳文では、ことさら「、そして」と書く事で、前半の「A及びB」とは分離されてるように書いている。つまりBだけが終身刑を勧告されてはいないというニュアンスを強調している事になるらしいのだが、「、そして…」なんて言い方が日本語らしくないのでなんとも言えない。
     ただ、この直後に、評決を下した陪審員に個別に確認したという話が続き、陪審員は口々に以下のように言ったらしい。ここは原文がないので、訳文を引用する。
    「私は被告人サルバトーレ・メラを第一級殺人事件で有罪とし被告人サルバトーレ・ランネリを第一級殺人で有罪とし重労働を伴う終身刑を勧告します」
     あれれ?どういう事?さきほどの「最初に記録された評決」の原文には、両被告に終身刑を勧告したというニュアンスが含まれていたが、この陪審員の口調にはそれが感じられない。この文章の流れでは、陪審員が「両被告を終身刑に勧告する」と言ってないと辻褄が合わない。でも、そうは読めない。何故か。これって本多勝一さんに登場してもらう格好の素材ではないのか。
    (a)「私は被告人サルバトーレ・メラを第一級殺人事件で有罪とし、被告人サルバトーレ・ランネリを第一級殺人で有罪とし重労働を伴う終身刑を勧告します」(メラは死刑、ランネリは終身刑)
    (b)「私は被告人サルバトーレ・メラを第一級殺人事件で有罪とし被告人サルバトーレ・ランネリを第一級殺人で有罪とし、重労働を伴う終身刑を勧告します」(メラ、ランネリともに終身刑)
     読点がないと(a)(b)どちらにも読める。どちらにも読める答え方を陪審員全員がしたということなのかもしれないが、微妙な話題がさらに輪を掛けて分かりにくくなっている事だけは指摘しておきたい。

     とりあえず、もう一度、コロンとandとセミコロンの使い分けがどうなっているのかを最初の評決から見ていこう。
    [評決と判決勧告]の構造
    We find
     the defendant guilty of murder in the first degree,
        └(, Salvatore Merra,)
     and
     the defendant guilty of murder in the first degree
        └(, Salvatore Rannelli,)
    and
    recommend life imprisonment at hard labor.
     the defendantに同格表現として名前が挿入されているため、前後にカンマが使われている。それを外側に出すと、結局はfindを動詞としたSVOC型の文のOCの部分が、最初のandで並列になっている。2番目のandはfindの文とrecommendの文の並列を表すはずで、recommendの方はweが省略されている。だから普通に考えれば前半の評決に対して、後半が勧告しているのであって、二番目の被告だけに勧告するなどという意味にはならない。
     ただ、余分なのは最初のandの直前のカンマだろう。「英語ライティングルールブック」でも出てきたが「A,B,C, and D」のようなandの直前のカンマはオックスフォード・カンマと呼ばれ、現在では列挙するA,B,C,Dなどにandが使われている場合に使われる。上記の評決でも、最初のandの直前にカンマがあるせいで、2番目のand以下が二番目の被告の評決とひとまとまりに感じられる。
    [評決と判決勧告]の構造(その2)
    We find
     the defendant guilty of murder in the first degree,
     and
     the defendant guilty of murder in the first degree and recommend life imprisonment at hard labor.
    (*同格表現は省略)
     もちろん、この解釈はweを主語として共有した重文構造にならないので、理屈に合わない。ただ、理屈に合わないからこそ、この本で取り上げたような悲惨なエピソードを後世に残す事になったのかもしれない。そして、その意味では、andの直前がセミコロンであろうと、やはり理屈に合わない。
    [弁護人の主張]の構造
    We find
     the defendant guilty of murder in the first degree;
     and the defendant guilty of murder in the first degree and recommend life imprisonment at hard labor.
    (*同格表現は省略)
     セミコロンがあれば前後の区切りとして十分なのに、andもあるのは冗長だ。セミコロンに変えた事でカンマよりもハッキリと前後が分かれる。一般に「カンマはandの代わりに使われる」と考えられる(と「英語ライティングルールブック」に書いてあった)。だとすると、やはり2番目のandはセミコロンを越えて前方に影響を与える事はできなくなるため、2番目のand以下も二番目の被告の評決とひとまとまりになる。文構造はいびつだが、「セミコロンならば反論はできないが、カンマだから反論できる」という弁護人の主張につながる。
     そして、いよいよ最初に記録された評決の出番だ。
    [最初に記録された評決]の構造
    We find
     the defendant Salvatore Merra guilty of murder in the first degree
     and
     the defendant Salvatore Rannelli guilty of murder in the first degree,
    and
    recommend life imprisonment at hard labor.
     「最初の記録された」とされる評決がもっとも簡潔にして要を得ているというのは、なんとも皮肉な事だ。まるで数々の評決案を推敲してできたかのような文章だ。同格表現として括りだしたカンマも、最初のandの直前のカンマも無い。カンマは2番目のandの直前にのみ打たれている。これによって被告の評決文(findの文)の中にある並列部分のandと、評決文と勧告文との並列を示すandと、それぞれの役割が明確になっている。
     この洗練された評決を引き写す際に、不要なカンマを加えて必要なカンマを取った者がいたのだ。そのせいで人一人の命が簡単に失われることとなった。このエピソードにはおまけがある。上訴裁判所の裁判長は「死刑判決」を支持するだけでなく、評決文を「是正」した。それがどんなに愚かな行為であるかは、本書を読んで噛みしめて欲しい。

     セミコロンの歴史的なトラブルの話は本書の一つの山場だが、もう一つ大きな山場が後半に控えている。これについては、さらに(その3)で詳しく書こうと思う。(つづく)
    セミコロン - セシリア・ワトソン, 萩澤大輝, 倉林秀男
    セミコロン - セシリア・ワトソン, 萩澤大輝, 倉林秀男
    posted by アスラン at 00:05 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2023年10月24日

    英語ライティングルールブック 第2版 デイヴィッド・セイン(DHC)

     『セミコロン かくも控えめであまりにもやっかいな句読点』を読んでいる途中で、セミコロンやコロンやカンマの使い分けについて「ちゃんと」は分かっていないことを痛感したので、前から積ん読状態だった本書で勉強し直す事にした。もちろん全部読むのではなく、あくまでカンマ、セミコロン、コロンについてだけだ。なので、記事のタイトルは『英語ライティングルールブック 第2版』となっているけれど、この本全体の書評じゃないという事をあらかじめ断っておく。(などと偉そうな事を書いてるが、要は、このブログの一番の読者が僕自身なのはわかりきった事なので、自分自身が再読した時に万が一にも事情を見失わないようにするための備忘録だと思ってもらえばいいと思う。)

     さらにつけ加えると、この3つの記号の中で話題の焦点となるのはもちろんセミコロンだ。カンマとコロンの主要な働きについては理解しているつもりではあるが、セミコロンについては「カンマとは違う働きだが、なんらかの区切りをしめすのだろう」とか「形も言葉もコロンに似ているから、コロンに準ずる働きもするのだろう」とか、いたってザックリとした理解しかしてこなかった。それを今回、ルール(句読法)という観点で一覧しておこうというのが、この文章の狙いだ。その上で、読書中の『セミコロン』では一体何が取りざたされているのか、セミコロンが現代においてどれほど悩ましいものなのかが見えてくるだろう。

     もう一言前置きしておきたいことがある。この本は英語を書く時のライティングルールをまとめたものだが、僕の関心は英語を正しく書くことにはない。英語を読む際に、セミコロンやコロンやカンマが使われた文章を正しく解釈する事が最大の関心事だ。なので、以下に、これら3つの記号の使い分け(もしくは重なり)に関する部分だけを取り出して、書き直してみる事にする。まずは各章の総論を列挙しておこう。
    カンマ(comma)
     カンマ〈,〉は文章中において意味の切れ目を示すものである。
    セミコロン(semicolon)
     2つの節を区切る際に、カンマより区切りをはっきりさせ、ピリオドよりはつながりを持たせたいというときに使う。
    コロン(colon)
     コロン〈:〉は、前に述べたことに関して具体例や説明などを付け加えるときに用いる。大まかなことを述べたあとで、コロンに続いて細かい情報が述べられることになる。例えば時刻は3:20a.m.のように表記するが、これは"3"が大まかな時間、"20"がさらに細かい時間を表しているのである。

     これらの説明で一番驚いたのは時刻表示に使われるコロンだ。あれは「時(hour)」を表す単位ではなかったのか。確かに「3:20:45」のようにも書けるから、単位だとするとコロンを二度使うのは理屈に合わない。要するにコロンは、箇条書きなどでインデントしてさらに細かく階層化するのと同じ事を改行せずにやっていると思えばいいのか。
     一方、カンマはピリオドとは違って、前と後で文がつながっていると同時に、意味としては切れている事を示す。カンマが分かりやすいのは、カンマと読点、ピリオドと句点という対応関係がある程度成立するからだろう。それと比べて分かりにくいのがセミコロンだ。ただ、本書の「セミコロン」の総論から分かるのは、以下の関係式が成り立つという点だ。
    [区切りの強弱]
     カンマ<セミコロン<ピリオド

     前述した『セミコロン』という本では、記号そのものがカンマとコロンとを足して2で割ったような形になっていると指摘されていたように思う。でも、区切りの強弱としてはカンマとピリオドの中間に位置するので、二つの記号の「どちらとも言えない」という意味でカンマとピリオドを縦に並べたと考えた方がしっくり来る。そうなるとセミコロンには「コロンに準ずる記号」という意味合いはあまりないように思えてくる。そもそもコロンからして、ピリオドを縦に2つ並べてあるから「ピリオドとなんらかの類似性がある」と考えていいのか分からない。コロンの場合は区切り記号だとはいえ、あきらかに「前後を分ける」というよりは「事柄・概念⇒さらに詳細・具体的な事柄・概念」という構造を与える記号だという点で、他の2つの記号とは一線を画していると思われるからだ。

     と、ここまで総論で考えてきたので、各々の記号の各論を論っていこう。まずはカンマ〈,〉だ。

    [カンマ(語句編)]
    @3つ以上の語句を並べる(A, B, C and D)
      Our schedule includes stops in Osaka, Kobe and Nagoya.

    A3つ以上の語句を並べる(A, B, C, and D)
     andの直前に置かれるカンマをオクスフォードカンマと言う。列挙される要素にandが含まれる場合に区切りを明確にするためには、このカンマを打った方が誤解がなくなる。
      ◎We will have pancakes, cereal, and ham and eggs for breakfast.
      ○We will have pancakes, cereal and ham and eggs for breakfast.
     オクスフォードカンマは、要素にandが含まれない場合に使うと冗長に感じられる。また、もし上記の例でham and eggsが慣用的にひとまとまりと感じるのであれば、あえてオクスフォードカンマを打つ必要はないかもしれない。この点は日本語の読点と同じで、ある程度意味が確定できるのであれば「パンと牛乳と御飯と味噌汁のどちらかを選べる」と書かれていても「パンと牛乳と、御飯と味噌汁のどちらかを選べる」の意味に解釈するのが穏当だと誰しも思うだろう(悪意を持って読むなら別だが)。つまり、正確性を優先するならば必要なカンマだが、文脈や常識を優先するならば無くてもいいカンマという事になりそうだ。
     
    [カンマ(節編)]
    @等位構造の文の並列で、andの代わりに使う。
      ○Eight of our sales staff met their quotas, seven didn't.
    (後半はseven of our sales staff didn't meet their quotasの略)
      ○She paid for drinks, I paid for dinner.
     「等位構造の文」を「同じような構造の文」とも言い換えている。どの程度同じくらいなの?と聞き返したくなるが、日本語で考えると接続助詞「て/で」を省略する、あるいは連用中止ではなく終止形に言い換えるような感じだろうか。「七転び八起き」のような対句をもうちょっと話し言葉調で言えば「七回転んで八回起きる」となるが、「七回転び、八回起きる」とも言える。あるいは「七回転ぶ、八回起きる」とも言える。特に終止形に言い換える場合は読点が絶対必要だ。句点を使っても言い換えは可能だが、対句のニュアンスが薄まる。
    Aso〜that構文で、thatの代わりに使う。
      ○We were so busy, we didn't stop for lunch.
     こういう事がルールとして明記されているとは知らなかった。たぶんthatがなくてもso+形容詞と、カンマ以下の節の意味を考えてso〜that構文だと類推がきくから何となく英文解釈できていたのだろうが、あらためて意識しておきたい。
    B接続副詞(howeverなど)とともに使う。[書き方のルール]
     文の途中の接続副詞は前後にカンマを置く。セミコロンの直後の接続副詞は、後ろにカンマを置く。
     書き方のルールなので、詳細は省略。
    C形容詞を重ねるときはカンマで区切る。
     〈形容詞+名詞〉でひとまとまりの名詞句を表す場合に、あるいは形容詞を重ねる場合にはカンマを使わない。
      ○The huge, square box over there contains important documents.
      ○We have just one small technical problem. (technical problemがひとまとまりの名詞句として捉えられる)
     書き方のルールとしては、日本人には正確に書きづらいカンマだろう。何を持って「ひとまとまりの名詞句」になるのかは慣用に従うように思われるからだ。一方、英文解釈としては、カンマがない事で「ひとまとまりの名詞句」なのかどうかを判断する材料になる。
    D副詞を重ねるとき、あるいは副詞と形容詞を重ねるときは、カンマを使わない。[書き方のルール]
     詳細は省略。
    E文を引用する場合にカンマを使う。(ただし、引用する文が長い場合はコロンを使う。)
      ○Ms.Davis said, "I'm thinking of moving to the private sector." (引用文が短いのでコロンは使わない。)

    F引用する文が短いときはカンマを省略できる。あるいは文の一部だけを引用するときは直前にカンマを置かない。
      ○His reply to my offer was "I need to discuss it with my boss."
      ○Mr. Brown said that we needed more time "to review all our options." (文の一部である不定詞が引用されて、文全体の一部となっている。)
     引用についてカンマとコロンを使い分けているという点を注意したい。「彼は『…』と言った」と「彼は次のように言った。『…』」の使い分けみたいな話だろうか。「次のように言った」として長い引用文を後置するのは、まさに具体的な事柄を後ろに置くというコロンの働きに合致している。

    [セミコロン]
    @同等の関係にある2つの節をセミコロンでつなぐ。andなどの等位接続詞の代わりに使う。(この場合は、後ろの節は前の節の具体例や概要説明ではないのでコロンは使えない。)
      ○George thinks quality is dropping; he's probably right.
     [カンマ(節編)]の@で出てきた「等位構造の文の並列」と「等位接続詞でつないだ2つの節」とのニュアンスの違いを十分理解しておく必要がありそうだ。カンマを使う場合は、節は2つでも対句のように意味的にはひとまとまりになっているが、セミコロンの場合は2つの節が単に並列関係にあり、ひとまとまりとは言えない。日本語にはセミコロンにあたる記号がないので、あえてそのまま記号を使ってみれば「同窓会に出席した;久しぶりに同期のみんなと飲んだ;夜通しカラオケを楽しんだ。」みたいな感じだろうか。日本語の場合は終止形+読点でつなぐか、あるいは接続助詞「て/で」+読点でつなげばいいので、セミコロンのありがたみはあまり感じられない。
    Aカンマの代わりに使う。
     語句を列挙する際に、語句の中にカンマが含まれている場合は、語句どうしの区切りを明確にするためにカンマではなくセミコロンを使う。
      ○The specifications were sent to Jack Smith, one of our engineers; Mary Brown, an inspector; Bill Lee, a company executive.
     限定的な用法とは言えカンマの代わりに使えるという事は、セミコロンを使ってニュアンスを持たせたいという使い方と両立しない場合があるようだ。まあ、そもそも日本語の読点にしても、意味的な区切り、あるいは係り先を直後から遠方に変更するための区切り、そして本多勝一さんが言うところの「思想のテン」まで、いくつかの用法があり、明確にどれとは言いがたい場合も存在する。英語でもカンマとセミコロンの使い分けが一筋縄ではいかない場合もあるようだ。
    B接続副詞(句)とともに使う。
     2つの独立した節を接続副詞でつなぐ場合に、セミコロンを使う。本来はピリオドを付けて別々の文に分ける事ができるような節どうしなので、カンマでは代用できない。
      ○You said that the design would be finished on January 3; however, iti is already March 1.
     @は並列のandのみだったが、接続副詞(句)を間にはさむ用法にも使うとなると、もうこれはピリオドの代わりという事になる。ピリオドを使っても書けるけれども、ニュアンスとして明確に区切りたくない場合にセミコロンが使われる。セミコロンに「ニュアンス」を持たせる事を許したために、書き手によって様々な使い方がされるようになった。現代においてセミコロンが混乱をまねいている所以だろう。

     ここまで分かれば、あとは『セミコロン』に戻ってもいいと思うが、念のためコロンについてもちゃんと理解しておこう。

    [コロン]
    @詳しく述べたり説明したりする。
      ○We are not satisfied with this product: It has cracked and mislabeled.
    A細目を列挙する。
      ○Two emplyees had to be dismissed: Linda Lee and George Smith.
    Bコロンの前は完全な文で終わるが、文の途中にコロンが使われて不完全な文になってしまう場合がある(推奨されてはいない)。
      △The steps are: Turn off the water. Connect the hose. Open the valve.
      ○The steps are as follows: Turn off the water. Connect the hose. Open the valve.
    C語句を定義する。
    D表やグラフの内容を示す。
     以上は特に問題はないだろう。最後の項目がコロンの使い方としては一番やっかいな部分だと思うので、以下、本書のままに説明を書き写す。

    E引用文を導入する。
     引用符を用いて引用する場合、その引用部への導入としてカンマを用いることができるが、長い引用の場合にはコロンを用いた方がいい。またカンマでなくコロンを用いると、特に「原文のまま」であることを強調できる。
      ○The report states: There have been a number of large companies who st one time had a large share of their markets, but eventually failed. The reasons for failure include a belief that they did not have to try hard to satisfy customers and failure to monitor the competition.
      △The report states, "There have been a number of large companies who st one time had a large share of their markets, but eventually failed. The reasons for failure include a belief that they did not have to try hard to satisfy customers and failure to monitor the competition."
     以下のように導入する部分がそれだけで完全な文になっている場合は、カンマを使ってはならない。必ずコロンを用いる。
      ○Here is what the report says: There have been a number of large companies who at one time had a large share of their markets, but eventually failed. The reasons for failure include a belie that they did not have to try hard to satisfy customers and failure to monitor the competition.
      ×Here is what the report says, "There have been a number of large companies who at one time had a large share of their markets, but eventually failed. The reasons for failure include a belie that they did not have to try hard to satisfy customers and failure to monitor the competition."
     カンマのところでもスタイルガイドにしては記述が曖昧だったり、分かりにくいところがあったが、この項目の説明は特に分かりにくい。著者が英語ネイティブの方だから日本語の表現が不十分なのか、それとも込み入った状況をきちんと整理できていないのか。見出しの「引用文を導入する」という表現自体、へんな日本語だ。「文を引用する」でいいんじゃないだろうか。
     本文もかなり分かりにくい。「引用符を使う場合、…カンマを用いることができる」という事は、引用符を使わない引用の場合はコロンのみ、引用符を使った引用の場合はコロンもしくはカンマという意味だろうか?例文には引用符を使った引用でコロンを使う場合が掲載されていないので、よく分からない。それよりもコロンを使った場合は引用符は不要、もしくは使わないという事ではないのか。
     さらに「『原文のまま』であることを強調している」という部分も分かりにくい。ここで言ってるのは、コロンを使う場合は、一言一句変更なしに引用しているという意味なのか、それとも変更無しはもちろんの事、全文を引用しているという意味なのか。対してカンマを使う場合は、表現を変えたり削ったりして要約しているという意味なのか、それとも全文ではなく文の一部を引用しているという意味なのか。よく分からない。ただし、カンマの場合は引用符を使っているので、要約が許される行為だとは思えない。やはり引用は「原文のまま」のはずだ。
     それでようやく別の解釈が見えてきた。要するに、コロンを使ってその後に長い引用をする場合は、引用符が不要になるということだ。何故か。The report statesと書いてから文を引用するからには「原文のまま」である事を示す引用符が必要になるが、コロンを使えば引用符を使わなくても「原文のまま」である事が自明となるからだ。それが「強調できる」という言葉の意味だろう。しかし分かりにくい。もうちょっと分かりやすく書けるはずだ。
    E文を引用する(The report statesのように不完全な文に対して、文を引用する場合)
      (1)カンマを使って、その後に続く引用文は引用符でくくる。
      (2)コロンを使って、その後に続く引用文は引用符でくくらない。(コロンの後は「原文のまま」である事が保証されているから)
      ○The report states: There have been a number of large companies who st one time had a large share of their markets, but eventually failed. The reasons for failure include a belief that they did not have to try hard to satisfy customers and failure to monitor the competition.
      △The report states, "There have been a number of large companies who st one time had a large share of their markets, but eventually failed. The reasons for failure include a belief that they did not have to try hard to satisfy customers and failure to monitor the competition."

    F文を引用する(Here is what the report saysのように完全な文に対して、文を引用する場合)
      (1)コロンを使って、その後に続く引用文は引用符でくくらない。(コロンの後は、what the report saysの具体的な中身、すなわち「原文のまま」である。この場合、カンマは使えない。)
      ○Here is what the report says: There have been a number of large companies who at one time had a large share of their markets, but eventually failed. The reasons for failure include a belie that they did not have to try hard to satisfy customers and failure to monitor the competition.
      ×Here is what the report says, "There have been a number of large companies who at one time had a large share of their markets, but eventually failed. The reasons for failure include a belie that they did not have to try hard to satisfy customers and failure to monitor the competition."
     ここまで整理すれば、コロンとカンマの使い分けもハッキリしてきた。

     さて、これでようやく『セミコロン かくも控えめであまりにもやっかいな句読点』の後半の書評に取りかかれそうだ。
    posted by アスラン at 08:25 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2023年10月15日

    神保町逍遙2023/10/13〜羊頭書房、東京堂書店、PASSAGE、そして板橋

     3ヶ月おきの通院。5月にやった腹腔鏡手術であけた4箇所のうち1箇所だけがどういうわけか閉じなかったので、なかなか全快とはいかなかった。「閉じなかった」というのはかなり語弊がある言い方になるが、なんというか、もちろん穴はふさがってるのだが、表面の皮膚が開いてしまって血液が浸みだしてしまう状況がなかなか改善しなかったのだ。こういうときこそ傷パワーパッドの出番だと思ったら、蓋をした絆創膏の内部で浸潤液がたまる一方で固まる様子がない。どうやら普通のバンドエイドで覆って乾くのを待つのが早道だと気付いたのが1ヶ月以上も経ってからだった。それでようやく前回の通院の時は、なんとか快癒のめどがついたと主治医に報告した。今回はもちろん乾ききったが、なんとなくツッパリは残っていて表面を触ると違和感はある。あとは年月を経るしか無いようだ。この日にやった血液検査の結果も良好。暑い夏も終わりを迎えたので、今年も無事に年が越せそうだ。

     というわけで、いつもならその足で神保町に出て書店三昧の「神保町逍遙」となるのだが、今回はそうもいかない。実家のあった板橋に戸籍抄本と謄本を取りにいく必要があった。結婚して立川に住まいをかまえた時に、本籍は板橋に残したままで置いておいたからだ。以来、20年以上も放置してしまったので、いざというときはここまで取りに来ないといけない。今回はいよいよ転籍届を出そうと思っているが、そのまえに役所に別の申請をするので、それが受理されて証明書が届いた後でないと転籍届が出せない。まったくもってやっかいな代物だが、これをやってしまうと、いよいよ板橋との縁が切れてしまう。父母亡き後に残された実家も令和を迎える前に処分したし。

     ただ、そうなると板橋区役所に寄ってから神保町に出るのはちょっと時間が足りないので、先に昼食ともども神保町で「ちょこ逍遙」をすませる事にした。都営三田線神保町駅で下車して、いつものようにキッチン南海に向かう。前回の「逍遙」は夏休み最終日の8/18だったが、ちょうどお盆で連休の最中。羊頭書房も休みという最悪のタイミングだったが、今日は「ちゃんと」行列ができていて一安心。列がはけて案内された席は、カウンターとは逆の窓側の、しかも一番奥の席だ。なんたる僥倖。以前からカツカレーを撮影したかったのだが、狭い店内でわざわざカメラを出して撮影するのは無粋だし、列を待っているお客さんにも迷惑な行為だと思って遠慮していた。ちょっと気が引けながらも手早く撮影した。これがキッチン南海特製のカツカレーだ。
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    カレー自体は黒く、キリッとしまった味。辛すぎず甘すぎず。そこにカレー専用のカツがのっかる。薄めの肉にサクッと口当たりのいい衣が纏い、スプーンでも負担無く切れる。あくまでメインはカレーなのでカツのボリュームが重すぎないのが良い。初めて食べたのが高校生の頃だから、もう40年以上は通い詰めている。最初の頃は千切りキャベツは無かったが、あるときから添えられるようになり、なんと邪魔なと思ったりもしたが、今ではすっかり「キャベツありきのカツカレー」と思うようにまでなった。
     ちなみに画像のカツカレーは大盛りで、800円+100円だ。カツが黒くなりすぎてるのは、実は撮影するまえに赤〜い福神漬けを添えてから、カツにソースを一渡り掛けてしまったからだ。カレーの味がしまっている分、カツにソースを掛けて、カレーライスとカツライスの両方を楽しもうというこだわりが出来上がってしまっているのだ。

     昼食を終えて羊頭書房。こちらも開いている。7月に来た際にクイーンやカーなどの洋書を入手したので、さすがに今回はめぼしいものはなかった。「盤面の敵」の原書はあったが、これは違う版をすでに持っているのでスルー。それよりも今回のお目当ては洋書ではなく、翻訳家・宇野利泰さんの訳書探しだ。できればハヤカワ・ミステリ文庫版の「Yの悲劇」があればいいなと思ったのだが見当たらず。「ギリシャ棺の秘密」ならあるのになぁと思ったら、なんとこれも宇野訳。今調べてみると国名シリーズの「ローマ」「フランス」「オランダ」「ギリシャ」までは宇野さんが担当していたようだ。これでようやく宇野訳と越前敏弥訳(正確には北田絵里子との共訳)とを比較する事ができるというものだ。ちなみにちょっとだけ冒頭の一節を並べてみる。当たり前のように宇野訳の盛り具合が半端なくて、なかなか楽しめそうだ。
    (宇野訳)
     だいたいこのハルキス事件なるものは、そもそもの発端からして、暗く陰鬱な音調がみなぎっていた。事件はまず、その全貌にふさわしく、一人の老人の死によって開始するのであるが、その死がこの殺人交響曲のテーマ・メロディとなり、その後にひきつづき奏でられた錯綜きわまりない楽節のあいだを縫って、対位法上のあらゆるテクニックを駆使しながら、あるいは高く、あるいは低く、終始一貫して響きわたるのだった。ただ注意すべきは、その間まったく、罪なき人間の死を悲しむ哀悼の旋律が聞かれなかったことである。
    (越前・北田訳)
     ハルキス事件は、最初の一小節から陰鬱な音色を響かせていた。はじまりは、あとにつづく展開を考えれば奇妙に似つかわしいことに、ひとりの老人の死であった。その老人の死を基調として、対位法を用いたかのように難解な死の行進曲が奏でられたが、罪なき者の死を悼む旋律は聞かれずじまいだった。

     カーも探したところ創元推理文庫の「髑髏城」の旧訳が見つかったので購入。いろいろ買うのはいいが、宇野訳と比較、そんなに手を出して企画倒れにならないだろうか。いや、気合いをいれていこう。
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     ところで、他にもカーの文庫がいくつか並んでいたのだが、所有していないのではないかと思われる文庫が2冊ほどあった。迂闊な事に事前に調べていかなかったので確証がない。念のため買っておこうという値段ではないので買い控えたが、どうやら2冊とも持ってないようだ。一冊は単行本で所有していたのになぁ。なんで処分しちゃうかなぁ。

     次は東京堂書店。時間がないので手早く「軍艦」を一巡り。文庫棚、新書棚と一通り舐めていき、とりあえずは無いかなと思ったが、入り口近くの新刊平積みに「本の雑誌の目黒考二・北上次郎・藤代三郎」を見つけてしまった。これだけは買っておかねば!
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     東京堂を出るときに、そう言えば「笹塚日記」に目黒さんがキッチン南海に寄った時の記述があったと思い出した。すでに健康に気遣って自炊生活に入っていた頃で、ときおり思い出したように外食をする。キッチン南海で盛り合わせ定食を食べながら、「あぁ、俺はもうこのボリュームを平気で食べられる若さではないのだ」と後悔するのだ。僕もいずれ大盛りカツカレーどころか、ひらめ・しょうが焼きの盛り合わせすら注文できなくなる日が来るのだなと思いながら、三田線の駅へと向かった。PASSAGEは今回はちょびっとだけ眺めて出てきた。

     いよいよ板橋区役所だ。一年前も確か抄本だか謄本を取りに来たのだが、申請用の用紙に記入する段になって本籍が思い出せない事に気付いた。いや、確か一年前もうろ覚えになっていて、たまたま手持ちに古い謄本のコピーを持っていたので事なきを得た事を、ここに至って思い出した。丁目はわかるが、番地は確か○○○だったか。いや、確証がもてない。仕方なしに自宅に電話して相方に聞いたが知らないと言う。「あなたの本籍でもあるんだよ」と言いたい気持ちをグッとおさえて、いろいろありそうなところを調べて貰ってようやく探し出してもらった。電話で聞いた番地は、やはり最初に思ったとおりのところだった。いや、歳を取るという事はこういうことなんだな。相方からはマイナンバーカードに記載されてるだろと言われたのだが、今回は免許証でなんとかするつもりで持ってでなかった。まだ、あれを持ち歩く気にはならないんだよなぁ。
     その後も、用紙の記入内容が合ってるのかどうかを迷いながら、結局窓口で色々きかれて「除票は要らない、抄本ではなく謄本一通でいいのでは?」「いや、コピー不可なので2通は必要」「住民票ではだめですか?」「親子関係の証明と、本籍が載っていないのが必要」「抄本は本籍載りますよ。除票に載せない選択はできるけど」「ということは謄本2通あればいいという事?」「ええ」と、まあ、いろいろ腑に落ちない事はあるが、落ちつくとこに落ちついて2通の謄本を手に入れて、ようやく用向きをすべてはたした。

     あとは帰るだけだが、少し懐かしい気分に浸りたいので旧中山道の仲宿商店街を歩いた。そう言えば商店街の入り口すぐのところにある米屋の正面画像をネットで見かけた。区の文化財となっているらしい。今は米屋ではないが、僕の子供の頃はバリバリ米屋だった。
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     建物脇に掲げられた説明書きによると大正三年(1914年)に建てられたもので、思っていたほどは古い家屋ではなかったが、立派な面構えをしている。僕の住まいがあった不動通りには、子供の頃にはまだ江戸時代から続く建物が2軒ほどあった。そのうちの一軒は宿場町にはつきものの遊郭だったらしい。今はどちらも無い。だからこそ、この「板五米店」はできる限り残していって欲しいものだ。
     緩やかな坂道を下っていったが、だいぶ見慣れた店舗が無くなってしまった。畳店もミシン販売店もない。あぁ町中華の店はあった。うま煮そばをよく食ったが、親父から受け継いだ息子が頑張ってるのかなと店を覗いたら、まだ親父さんも息子ともども頑張ってた。あぁ、親父さんの「うま煮そば」食べたいなぁ。

     坂道を往復して戻ってきて、ついでに不動通りの方も見ていこうと思ったが、さすがに疲れた。電車に乗るまえに古本屋だけでも覗いていこうと考えた。坪井書店。いまでこそ、不動通りの仲宿寄りに店を構えているが、元々はお不動様の脇にあった。当時、不動通りの中間に杉田書店という新刊を扱う書店があり、そこの小母さんと懇意になってよく立ち読みさせてもらった。だから調子にのって古本屋の坪井書店でも立ち読みをしてたら、店主に一喝された記憶がある。杉田書店が閉店すると居抜きで坪井書店が入り、やがて再開発で立ち退きになって、今のところに落ちついたようだ。ちょっと覗いてみたら、あの時に一喝した親父がいた。さすがに憶えてはいないだろう。まあ、もちろん立ち読みをしたこちらが悪かったのだし、お詫びがてら物色して、漱石関連本と、1970年の大阪万博の本と、山田太一原作の漫画と、3冊を購入。こんな書店受難の時代を乗り切って、長く続けてください。また寄らせてもらいます。お元気で。
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    posted by アスラン at 11:40 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする