(今さらですが、今回は後半に犯行現場についての文章を細かく見ていきます。ネタバレもありますので、未読の方はエラリイ・クイーン「犯罪カレンダー」の「皇帝のダイス」を読んだ後にお読み下さい。) 前回同様、比較の際の色づけと下線の意味を説明しておく。
緑=翻訳の出来が素晴らしい
赤=誤訳あるいは訳に疑問がある
青=原文に存在しない、もしくは訳しすぎ
下線=訳していない(原文のみ)
前回は、クイーン警視の元同僚のジム・ハガードが10年前に銃で撃たれて殺された事を息子のマークから聞かされ、証拠の品である銃とダイスが入った木箱を見せられたところまでの訳文を吟味した。今回はその続きから。マークは木箱を置いたまま去って行ってしまい、残されたエラリーたちも自室に戻る。
(P.71) The Inspector heard the sounds first. He reached across the abyss between their beds and touched Ellery on the shoulder. It was a little past three. Ellery awoke instantly.
"Ellery. Listen."
It was still raining, jungle music by a thousand drums. The wind slammed a shutter somewhere. In the next room Nikki's bed springs complained as she turned desperately over.
[P.198〜199] 警部がまっさきに物音を聞きつけた。かれはとなりのベッドに眠っているエラリイの肩をつっついた。三時をすこしまわった時刻だった。エラリイもすぐに眼をさました。
警視はいった。
「エラリイ、聞こえるだろう?」
雨はまだはげしかった。ジャングルで何百というドラムをたたいているような音だった。そのうえ、風までがつよいとみえて、鎧戸がしきりに鳴っている。となりの部屋で、ニッキイのベッドがたえずギイギイいっているのは、彼女がいまだに寝つくこともできず、寝がえりばかりうっている証拠である。
この段落、どこもかしこもすべて緑色にしてもいいくらいの出来なのだが、とりあえずHe reached across the abyss between their bedsを「となりのベッドに眠っている」と訳しているのにちょっとだけ不満を訴えておく。もちろん描写は分かりやすいのだが、abyss(深淵、深い溝)という単語を使っている事を考えると、もうちょっと大げさな表現で訳してもよかったのではないだろうか。
The wind slammed a shutterを「風までがつよいとみえて…」と訳してるのは、激しい雨の描写から風までも強いという話の流れが宇野さんの中で出来上がっているからだろう。最後のNikki's bed springs complained as she turned desperately overも「寝返りをうってるので、ベッドがギイギイいっている」ではなく、訳し降ろして「ギイギイいってるのは…寝がえりばかりうっている証拠である」なんて、あまりに自然な日本語なので驚いてしまう。
(P.72) Then Ellery heard a fllorboard give way and in same moment ghastly lightning made the bed room spring alive.
[P.199] その暗闇のなかに、床板をきしませて、だれかがしのんできているようすだ。一瞬、電光がきらめいて、寝室じゅうが真昼のように明るくなった。
「床板がきしんだ」のだから、確かに誰かがしのんできているという事を表現しているわけだ。そこまで書いてないけれど書いてしまう。それが宇野訳だ。
(P.72)His shoulder hit the intruder below the knees and the man toppled with a cry, striking his head against the highboy.
[P.199] (エラリイが)横っ飛びに、肩で相手のからだにぶつかっていった。闖入者は、たんすのかどに頭をぶつけて、けたたましい悲鳴をあげた。
でもさすがに「たんすのかど」は笑える。おそらく「けたたましい悲鳴」をあげたから、角に頭をぶつけたのだろうという推測だ。だが、「けたたましい」という部分も原文にはない。あえて言うと、訳していないtoppledは「倒れた」という意味だから、宇野さんの頭の中には「倒れるくらい頭をぶつけたのだから、たんすのかどだろう。かどに頭をぶつけたら、けたたましい悲鳴をあげるに違いない」という理屈だろう。いや、でも、まずは「闖入者は…倒れた」と書きましょうか、宇野さん。
(P.72) "I don't know why I didn't destroy those guns and dice years ago," said Dr. Tracy Haggard, calmly enough. "Ellery―you are Ellery, aren't you?―would you mind removing the derriere from my alimentary canal? You're not exactly a featherweight."
"Then it's true." Ellery did not stir.
[P.200]「もっとはやいうちに、なぜこんなピストルやダイスを始末してしまわなかったのか、われながらずいぶんうかつなはなしだと思いますよ――エラリイ君、あなたはたしか、エラリイ君でしたね。この手を、もうすこしゆるめてはくれませんか。あなたはどちらかというと、フェザーウェイトのほうじゃありませんね」
だが、エラリイは、その手をうごかそうともしなかった。
I don't know whyなので「何故…始末してしまわなかったのか分からない」と普通なら訳すところ。もしくは「始末してしまわなかったのか」で止めても同じ事。そこから「うかつなはなしだと思う」という心情を吐露する言葉が追加されていて分かりやすい。
ただし、後半がちょっと怪しい。alimentary canalが消化管で、derriereが尻の婉曲表現らしい。ならば「お腹から腰を上げてくれないか」という感じだろうが、なぜ「手をゆるめてくれ」なのだろう。さらにfeatherweightはボクシングのフェザー級の意味で、転じて「非常に軽量の人」という意味にもなるようだ。つまり「どちらかというと、軽いとは言えないな」と書いて欲しいところだ。
続く「その手をうごかそうともしなかった」も手ではなく尻だから「腰を上げようとはしなかった」だ。しかも「軽いとは言えないな」に対して「そのとおり」と答える部分は省かれている。
ちょっと不思議なのは、例のト書きの位置を変えるテクニックについて、だ。
(P.72) "And I attended Jim's funeral and never suspected," said Inspector Queen bitterly. "Tracy, which one of you shot your father?…"
[P.200〜201]「おれはジムの葬式に、列席したんだが」と、にがにがしげにクイーン警視がいった。
「死因が怪しいなどとはちっとも考えていなかった。トレイシイ、いったいきみたち兄弟のうち、どちらがおやじを射ったんだね?…」
『「葬式に列席したんだが、死因が怪しいなどとはちっとも考えていなかった。」と、にがにがしげにクイーン警視がいった。』では何故いけなかったのだろう。もちろん、ト書きの位置を発話の冒頭あるいは末尾に移動していいのであれば、どこにずらそうが訳者の思いのままなのだが、今回は発話の途中に挿入されているのは原文のまま。ただ、ちょっとだけ前倒しにしている。その意図がよく分からない。ジムの死因を見逃していた事を「にがにがしげに」振り返るのだから、原文どおりでも良かったように思うのだが、こればっかりは宇野さん本人にしか分からない。
(P.72) "What's going on in there?" shrieked Nikki.
"Dr. Haggard, your brother made no bones about the murder of your father," said Ellery. "Does Mark want the truth to come out?"
[P.201〜202] このとき、となりの部屋からニッキイがかん高い声でたずねた。
「そちらでなにか起こりましたの?」
エラリイはそのことばにはとりあわず、ハガード医師にたいする追求をつづけていった。
「あなたの兄さんは、せっかく闇から闇へ葬ったかたちの殺人事件を、ここでまたみずからすすんで、あばき立てようとしておられる。なにかそこに、真相をあきらかにしたいという特別の理由でもあるんでしょうか?」
shrieked Nikki(悲鳴を上げた)としか書かれていないがニッキイ自身は「なにか起こったのか」と発言している。そこで「となりの部屋からニッキイが…たずねた」というように状況を付加して訳している。それと呼応するように、said Elleryとしか書かれていないけれどもこちらも「そのことばにはとりあわず」という状況を付加している。しかも原文には「追求をつづけていった」とも書かれていないけれど、発話の冒頭のDr.Haggardをト書きの方に落とし込んだ結果が「ハガード医師にたいする追求をつづけていった」になったわけだ。最初は付加しすぎかと思ったが、バランスはとれているように思う。
ただし、「せっかく闇から闇へ葬ったかたちの」は言い過ぎか。続く「真相をあきらかにしたいという特別な理由でもあるんでしょうか」も、かなり盛っている感じがする。ただ、いざ訳そうとすると「マークは真相をあきらかにしたいのだろうか。」では物足りないと思ってしまうのも確かだ。
(P.73) "When Mother died," said Tracy Haggard coolly, "the three of us split the income of a very large trust fund. By will, if there were only two of us, the income would be that much greater per individual. Mark is always broke―gambling mostly. Does that answer your question?"
[P.202] トレイシイ・ハガードは、冷静な口調でこたえた。
「母が死にましたとき、父の遺産を信託財産にしました。その収益は、ぼくたち三人兄弟妹で均等に分けることにしたのです。その後、もしぼくたちのひとりが欠けたら、のこったふたりのふところに欠けたひとりの取得分も等分してはいってくることにきめました。ところが、最近になって兄のマークはだいぶふところぐあいが苦しくなってきたのです―その原因は、主として賭博にあるんですが……まあ、こんな説明で、なぜ兄のマークがわざわざこの事件をあばきたがっているか、その動機はだいたい見当がおつきになると思うのですが―」
彼らの母が死んだときに「父の遺産を信託財産にした」というのは間違いだろう。次の文にBy will(遺言で)と書かれているので、少なくとも母が亡くなる前から子供たちには信託財産が残されていたはずだ。
トレイシイの発言の最後の1文Does that answer your question?(これで、あなたが聞きたい事の回答になってるか)を「まあ、こんな説明で」から始まる長文に訳している。どうやら、英語では簡単な文で済ませていても日本語の表現としてはしっくり来ないと宇野さんは感じたようだ。
この後、エラリイは事件の真相を究明しようという気になって、トレイシイたちの父が撃たれた部屋に案内してくれと頼む。
(P.73) "Understandably, none of us ever goes in here. Nothing's been touched since the night of the crime." Dr. Haggard unlocked the door, threw it open, and stepped aside. "I might add," he said dryly, "that neither Mark nor I has done any hunting since . . . at least with any of these weapons."
[P.203〜204]「あの事件の夜以来、この部屋にはいった者は、ひとりもないのです」
そんなことをいいながらドアの鍵をあけると、自分はすぐにわきに退がって、
「さあ、おはいりください……ぼくもマークも、その後は狩猟をやめてしまいました。すくなくとも、この銃器室にある銃器類にはいっさい手を触れていないのです」
なんだろう、モヤモヤする。間違いとまでは言えないが正確な訳とは言えない。それもこれもI might add that…(つけ加えると〜)が省略されている、もしくはトレイシイの発言全体の中に解消されているからだ。Understandablyから始まる前半の発言は「もちろん、(あの事件の夜以来)ここに入ったものはいないし、誰もいっさい手を触れていない」となるべきだが「手を触れていない」の訳出がない。後半の「いっさい手を触れていない」に統合されたようにもみえるが、こちらの「手を触れていない」はマークとトレイシイに限定されているし、その上「狩猟」の時に限られている。こうなるとトレイシイがstepped asideした事から「さあ、おはいりください」と言っただろうという工夫も、そんなことやってる場合ですかとツッコみたくなる。
(P.73) The walls of the gun-room flanking the one door were hung with racks of shotguns, rifles, and small arms. On the other walls were cases containing James Haggard's gambling collection, and a great many larger gambling objects were grouped about the room.
[P.204] 内部へはいると、ドアにそった壁が銃器戸棚になっていて、ピストルやライフル銃がかけてあった。正面の壁にはガラスのケースがいくつかあって、そこには故ジェイムズ・ハガードの賭博用具コレクションが、ぎっしりとつめこんであった。ケースにはいりきれぬほど大きなものは、部屋じゅうせましとばかりに、そのあちこちに散らばしてあった。
shotguns,rifles, and small armsが「ピストルやライフル銃」のみ。狩猟の話題が既に出てるのだから「猟銃」を入れないのはさすがにマズいのではないだろうか。それと、銃器室の壁の記述。クイーンらしく現場の様子を細かく丁寧に記述している。最初にThe walls of the gun-room flanking the one doorと書いてあるが、flank…が「〜の側面に位置する」なので「(一つしかない)ドアの両脇の壁」を意味する。wallsと複数形になっているのは、両脇を別の壁として数えているからだ。宇野さんの「ドアにそった壁」はもちろん間違いではない。だが、「ドアにそった壁が銃器戸棚になっていて」では、ドアの両脇の壁にそれぞれ銃器戸棚がしつらえてあるという状況が伝わるかどうか疑問だ。
また、On the other wallsを「正面の壁には」としているのは誤訳だろう。「正面」は「ドアもしくはドアにそった壁」に対しての正面という意味になる。だとすると、そちら側は1枚のwallしかないはず。ここは「ドアにそった壁を除いた残りの壁」でないと辻褄が合わない。
一方でa great many larger gambling objects were grouped about the roomの訳は見事だ。直前の「ガラスのケース」の記述を受けて(そういえば「ガラス製」とどこかに書いてあっただろうか?)「ケースにはいりれぬほど大きい」と書いてあるし、a great manyを「部屋じゅうせましとばかりに」、grouped aboutを「あちこちに散らばして」と、まさに至れり尽くせりの訳文だ。「散らばす」なんて言葉、今では使わなくなりつつあるのではないか。
(P.73) The disk was an elaborate production of inlaid woods, with gunstock-shaped legs and a sheathing of hammered gunmetal. A matching chair with a braided leather seat stood behind it.
"Was he facing this door, Dr.Haggard?"
"Squarely."
"The only door, notice", snapped Inspector Queen, "so the odds are the killer stood in the doorway when he fired the shot. Just one shot, Tracy?"
"Just one shot."
[P.204] デスクは精巧な象眼細工を施したりっぱなもので、脚は銃座のかたちをとっていた。
「顔は? ドアのほうをむいていたのですか?」
「ええ。まっ正面をむいておりました」
クイーン警視が、すぐに口を出した。
「ドアはひとつだから、加害者としてはねらいやすかったわけだな。扉口に立って、まっすぐ発射すればよかったのだ。一発で即死だったろう」
「おっしゃるとおりでした」
何故かa sheathing of …以下がごぞっと抜け落ちている。「(脚は銃座のかたちをとっていて、)合金を叩いて覆ってあった。対となる椅子はデスクの後方に置かれており、編み込んだ皮が座面に張ってあった。」とでも訳しておく。いくらなんでも飛ばしすぎです。
クイーン警視の言葉は微妙に違うような気がする。so the odds areと現在形なので、「扉口に立って、そこで銃を発射したって可能性が高いな。」となるはず。宇野さんがあえて書き加えている「加害者がねらいやすかった」かどうかは、この際関係がない。というのも、ここが実は謎解きの鍵となるからだが、それは後々振り返る。
"Just one shot,Tracy"に対して"Just one shot."とトレイシイが復唱しているのを「おっしゃるとおりでした」。まあ、翻訳の基本テクニックなのかもしれないが、さり気なく上手い。
(P.74) Ellery opened Mark's box and removed the two rusty revolvers. "I see the gunracks are numbered. In which rack, Doctor, were these .38s normally kept?"
"This one came from the rack immediately to the right of the door."
"To the right of the door, Doctor? You're positive?"
"Yes, this rack is numbered 1. The other .38 was kept in the rack immediately to the left of the door. This one here, the rack numbered 6."
[P.205] エラリイは、マークの木箱をあけて、まっ赤に錆びついた二挺のピストルを取り出した。
「あの銃器棚にはナンバーがついていますね。この三八口径は、いつもはどの棚にかけてあったのです?」
「こちらのピストルは、ドアをはいってすぐ右側のところにかけてありました」
「ははあ、ドアの右側? まちがいないでしょうね」
「ちがいませんとも。その一号としてある棚なんです。それで、もうひとつのほうはドアの左側、六号とある棚のほうです」
「証拠物第一号のピストルは、ドアの右側、銃器棚一号、証拠物第二号のピストルは、左側の銃器棚で、ナンバー六号」
rustyを「まっ赤に」錆びついたと形容してるのは、もう宇野さんの中で出来上がったイメージなんだろうが、そもそも大切に銃器室で保管されていたピストルが、10年経っているとはいえ、そこまで錆びついてるとは思えない。まあ、これは些細な指摘だが、問題はThis one came from the rack immediately to the right of the doorの訳だ。「ドアをはいってすぐ右側のところ」と書いてしまうと、入って対面のデスクを見ながらの向きで右側のところと読めてしまわないだろうか。それだと、少々、いやかなりマズいのだ。かなりマズい事は後で明らかにする。これまで見てきたように、すでにエラリイたちは銃器室に入って四方の壁にしつらえたコレクションの棚を観察し、さらには部屋の奥にあるデスクを調べている。そこでおもむろに、木箱から取り出したピストルの置き場所を聞いているのだから、トレイシイは「(ここから見て)ドアの右側の棚に掛けてあった」と答えたはずなのだ。
トレイシイの父が亡くなった時にルビーのダイスを握りしめていた事を受けてニッキイが言う。
(P.74) "In his hand?" exclaimed Nikki. "I didn't really believe your brother when he said that ――"
[P.206]「てのひらのなかに! さっきお兄さまがそんなことをおっしゃっていらしたけど、わたし、まさかと思っていましたわ」
疑問符を感嘆符に変え、whenを「〜時」ではなく「〜けど」に変え、きわめつけはI didn't really believeを「まさかと思っていた」と訳している。完璧です。
(P.74)"…That's where the Emperor's Dice, as Dad used to call them, were displayed. …"
[P.206]「…そのケースが、皇帝のダイスを陳列してあったところなんです。ええ、皇帝のダイス――父はそれをそのように呼んでいたのです。…」
宇野さんの超絶テクニック。関係代名詞asから始まる非制限用法を重文で表現するのはよくある事だが、ここでは仕切り直したように「ええ、皇帝のダイス」と先行詞を主役として取り上げてから訳している。
クイーン警視が、このような奇妙な事件を聞かされて見当がつくのかとエラリイに問う場面。
(P.74) "Let's hope he won't," said Dr. Haggard. "I could kill Mark for this stunt ……"
"The way you killed your father, Dr. Haggard?" asked Nikki.
Tracy Haggard smiled. "Shows how insidious Mark's little propaganda scheme is." He shrugged and disappeared in the black hall.
[P.207] ハガード医師は、その口の下からいった。
「見当がつくもつかぬもありませんよ.マークのほかに、やってのけられる人間はいないのです。ぼくは父に代って、マークを殺さずにはおきませんよ……」
ニッキイが、皮肉な口調でいった。
「お父さんを殺したのと、おなじ方法をおつかいになるの?」
トレイシイ・ハガードは微笑をふくんで、
「それがマークの、狡猾な宣伝計画をしめしているんです」
といいすてると、肩をすぼめてホールの奥へ消えていった。
Let's hope he won'tが分かりにくい。「マークがやってないとせいぜい信じていなさい」という感じだろうか。皮肉な婉曲表現なのだが、宇野さんは直接的な表現「マークのほかに、やってのけられる人間はいない」に変えた。ただし「見当がつくもつかぬもない」と余計な、もとい、想像力豊かな表現をつけ加えてるわけだ。
次のShows how insidious Mark's little propaganda scheme isは、ちょっと宇野さんにしては珍しい赤色だ。これまでの赤色は誤訳の場合が多い。まあ誤訳を大目に見るわけにはいかないけれど、それでも日本語としては熟れている。日本語は熟れていて用意周到に文脈にそって空想力豊かに表現を補足するというのが常だった。意味が分からないという事はない誤訳だったのだ。ところが、この部分は意味がとれない。まず「それ」とは何かがわからない。「狡猾な宣伝計画」というのであれば、何を宣伝(プロパガンダ)しているのか。ニッキイに「お父さんを殺したのと同じやり方で、お兄さんまで殺すのか?」と言われたのだから、「それがまさに、姑息ながらマークの思うつぼにはまってるんですよ」ぐらいに訳してもいいんじゃないだろうか。
なぜこんな事を言うかと言えば、このあと原作にして残り4頁半、翻訳にして10頁の文章で、指摘すべきところが急激に減るからだ。何故だろう?Wikipediaには、宇野さんが「下訳者を使って次々に翻訳を発表」と書かれているので、ひょっとして下訳を宇野流に手直しし損なったのか。あるいは終盤なので「本気を出して」正確な(ただし面白みの無い)訳を心がけたのか。いやいや、「本気を出して」とは失礼極まりない。おそらく作家クイーンお得意の、ロジックに基づいた推理をきちんと訳すには、下手に訳文に工夫を入れてはいけないという判断なのかもしれない。
真実は分からないが、とにかく先に進もう。エラリイは夜を徹して銃器室にこもり、マークたちの父が握りしめていた「皇帝のダイス」を振り続け、ついに真相にたどり着く。カリギュラがゲームに使ったというダイスは鉛入りのいかさまで、片方のダイスは6の目しか出ない。つまり、被害者のダイイングメッセージは、ナンバー6と記されたピストルを使って撃たれたという事だった。エラリイは明け方に一同を起こして回り、銃器室のデスクを囲むように席につかせて、ダイスの謎について説明する。その直後から少し長めに引用しよう。
(P.76) "And a flat lot of good that does you," sneered Tracy Haggard. "How can knowing which of the two .38s killed Dad possibly tell you which one of us murdered him?"
"In which direction in relation to the door," inquired Ellery, "is rack number 6 located?"
"The rack to the left of the doorway," the Inspector said slowly. "To the left ……"
"Killer opens door, to his right is a rack with a .38, to his left a rack with a .38. We now know he chose the .38 from the left-hand rack. What kind of person, when he has a choice of either side, automatically chooses an object to his left side? Why, a left-handed person, of course. And that pins the murder on ……" Ellery stopped.
[P.212〜213] トレイシイ・ハガードは、冷笑するような口吻でいった。
「ずいぶん手間どったことをなさったが、二挺の三八口径のうち、どちらが父を殺したかを知ると、ぼくたちのだれが犯人であるかまでわかるんですか?」
しかし、エラリイはその質問にはこたえず、こうきいた。
「ナンバー6の銃器棚は、ドアにむかって、どちらの方向にありますか?」
クイーン警視がゆっくりとこたえた。
「ドアにむかって、左の棚だ。左がわだよ」
「殺人者はドアをあける。右がわにも三八口径のピストルをおいた棚があり、左がわにもおなじ三八口径をおいた棚がある。そしていま、われわれはかれが、左がわの棚の三八口径をえらんだことを知りました。どちらの棚にも手がのばせるのに、反射的に左がわの品をえらぶというのは、どういう人物でしょうか? いうまでもないことです。その人物は左ききだったのです。それによって、この殺人の所業が、だれの仕業であったかを決定することができるのです……」
とエラリイは説明をとめた。
この部分から面白い事がいろいろ見えてくる。まず、色がほとんど付かない。さきほど言ったように宇野さんらしい想像力の暴走はほぼないといっていい。「きちんと」と言うとなんだが、正確さを旨として訳されている。
その上で、原文と訳文とで太字にした部分を比較してほしい。デスクのある位置から「ドアにむかって」となんども言っている。そしてドアに向って左がわにナンバー6のピストルがあると言っているのだ。そこで既に[P.205]で指摘したように「ドアからはいってすぐ右側のところ」に一号のピストルがあるのはおかしいという事になる。「(デスクから)ドアにむかって右側のところ」に一号のピストルがなければならない。要するに前述部分の訳は迂闊で、こちらの訳の方が正しい。
さて、もう一つ指摘すべきことがある事に、この文章を書きながら気づいた。読んでいる皆さんも気づいただろうか。明らかに[P.205]の訳と[P.212〜213]の訳は違う人間によるものだという事だ。
ナンバー六号(ナンバー6)
右側(右がわ)
左側(左がわ)
同じ人間の文章にしては不自然ほど、表記が統一されていない。もちろん文責は宇野さんにあるのだろうが、下訳を複数の人に分担させている証拠と言えるのではないだろうか。
ここまで調べてきて、原文で1頁半、訳文で4頁ほど残っているが、ここで締めくくろうと思う。指摘したいところはちょっとだけある事はあるが、もう十分すぎるほど宇野さんの翻訳を味わったと思う。僕の印象では全体的にすばらしい日本語で、とにかく読みやすい。以前には「Yの悲劇」を最近の越前敏弥訳と比較して「ピントが甘い」と言ってしまったのだが、それは越前訳のキリリとしまった文体との比較だったからこその印象で、もう少しじっくり見ていけば、「日本語として何がベストなのか」とか「翻訳とはどこまでを言うのか」とかを考えるきっかけになっていたはずなのだ。もちろん、誤訳は多いという印象もある。翻訳の技術論の整備が進んだ現在とは比べようもなく、翻訳家の独断・独創がまかり通る時代だった。技術論や翻訳ツールなどが整備された事であからさまな誤訳は減ってきただろうが、その反面、日本語の力が十分に発揮されていない画一的な訳文が増えているような印象がある。単に旧訳よりも新訳の方が尊ばれる風潮は残念な事だ。そういう意味では、まだまだ宇野さんの翻訳は味わい甲斐があると思った。
最後に「犯人は左きき」とネタをバラしてしまって申し訳ありません。だが、エラリイ・クイーンがそんなに甘いとお思いですか?まだ最後に一ひねりありますので、未読の方はぜひ宇野訳の「犯罪カレンダー」をお読み下さい。
犯罪カレンダー(1〜6月) - エラリイ クイーン, 宇野 利泰
Calendar of Crime