カテゴリ記事リスト
ディスカヴァー・トゥエンティワンの本はどこで買えるの?(04/09)
「蝋人形館の殺人」(創元推理文庫)ネタバレ解説(06/07)
「明るい館の秘密(若島正)」の過失(その5)(2012/3/9改訂)(03/20)
「明るい館の秘密(若島正)」の過失(その4)(2012/3/8改訂)(03/19)
「明るい館の秘密(若島正)」の過失(その3)(2012/2/27改訂)(03/13)
「明るい館の秘密(若島正)」の過失(その2)(2012/2/24改訂)(03/11)
「明るい館の秘密(若島正)」の過失(その1)(2012/2/17改訂)(03/09)
「帽子収集狂事件」(創元推理文庫)ネタバレ解読(06/06)
清水俊二訳「そして誰もいなくなった(ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 1-1)」を探して(12/06)
無・無生物主語のススメ 〜「日本語作文術」から遠く離れて〜(その2)(10/11)
無・無生物主語のススメ 〜「日本語作文術」から遠く離れて〜(その1)(10/06)
リュはルパンのリュ 〜翻訳を読むということ〜(その3)(05/18)
リュはルパンのリュ 〜翻訳を読むということ〜(その2)(04/25)
リュはルパンのリュ 〜翻訳を読むということ〜(その1)(04/19)
アクセス解析について思うこと(3)(12/11)
「犬神家の一族」あるいは石坂金田一最後の事件(11/01)
何故二人は同じ本が読めないのか?(4)(09/25)
何故二人は同じ本が読めないのか?(3)(09/23)
何故二人は同じ本が読めないのか?(2)(08/16)
この夏、観たい映画観たくない映画(2006年夏)(08/11)

2014年04月09日

ディスカヴァー・トゥエンティワンの本はどこで買えるの?

「ダヴィンチ・コード」などのダン・ブラウンの作品の翻訳や、最近では角川文庫版のエラリー・クイーンの代表作の新訳を手がけている越前敏弥さんが、例の「日本人なら必ず誤訳する英文」の続編を出した。この本の隠れた愛読者たちの購買意欲を煽るかのように「越前敏弥の日本人なら必ず誤訳する英文 リベンジ編」などというタイトルが付けられている。越前さんのブログ「翻訳百景」を時々見に行くのは、エラリー・クイーンの国名シリーズの次の刊行はいつごろかを確かめるためだけれど、密かに英文和訳(翻訳)のテクニックを紹介してくれる新書を待ち望んでもいるからだ。

 昨年のブログで、秋か冬に出すみたいな事を書かれていて、書店の新書コーナーは必ずなめるようにウォッチしていた。それがようやくブログでも「ディスカヴァーから『日本人なら必ず誤訳する英文・リベンジ編』が刊行されました。きょうあたりから書店に並んでいると思います。」という越前さんの紹介記事が載ったので、さっそく会社帰りに書店に立ち寄ったけれど見つからず。その後いろんな書店で探したのだけれど、売られていない。

 いや、もっと重大な事に気づかされたのは、越前さんの新書レーベルである「ディスカヴァー携書」自体が一冊も置かれていないという事実だ。地元の立川のオリオン書房で見つからなかったのは、単に新書をおくスペースが限られているからだと思っていたけれど、武蔵小杉にある有隣堂にもなく、ましてや北野書店にもない。いっその事、ここしかないだろうと、川崎ラゾーナの丸善で探してみたが、やはりない。こうなってくると、ちょっとおかしいぞ。この丸善の広大なスペースに新書の書棚も桁外れにたっぷりととられているというのに、ディスカヴァー携書が一冊もないなんて。

このレーベルはディスカヴァー・トゥエンティワンという会社が出版元だ。女性が社長だというのも、つい最近知ったばかりだ。というのも越前さんと女社長が対談をしている記事がネットで見つかったからだ。さっそくサイトに行ってみるが、あまり情報がない。どちらかというと読者(購買層)向けのサイトではなくて、出版しませんかみたいな、顧客向けのサイトのようだ。そうはいっても少ないながらの情報をかき集めると、どうやらこの出版社の本は直販なんだそうだ。全国に何件あるかわからないし、東京近郊でも何件あるのか分からないが、直接本屋一つ一つと営業交渉して、置いてもらう。例の「本の雑誌」でおなじみの手法だ。

 でも、本の雑誌はメジャー化したのか、最近では近在の大手書店ならば必ず置いてある。見つからないなどという事はありえない。でも「ディスカバー携書」」はどこにもないんだよね。会社の同僚は「さっさと会社に電話して、どこに置いてあるか聞けば」という言う。そりゃ、そうなんだけど、そこまでして買いたいかというと、「買いたいには買いたい」んだけど、優先事項ではない。もうちょっと待ってみれば、もしかしたら近在の書店でも取り扱いするしれないし、なんて甘いことを考えてる。

 僕自身は越前さんの以前の新書は、行きつけの地元図書館で2冊とも見つけて読んだ。読んだら欲しくなって、ブックオフの新書コーナーをかならずチェックするようになった。これまた本の数が少ないのだけれど、見つかる時は見つかる。でも以外と高い。500円出すのはちょっとなぁ。などと言って「日本人なら必ず誤訳する英文」はさすがに買ったけれど、「越前敏弥の日本人なら必ず悪訳する英文」の方は500円では買う気になれず、買い控えているうちに最近では見つからなくなった。

さて来週は行きつけの病院の通院日で、そのときには神保町界隈をぶらつくのがお約束になっている。さすがに神保町では直販店が見つかるんじゃないかと期待している。それまでには電話で問い合わせしておこう。それまではせっかく「リベンジ編」を謳っているのだから、前作「日本人なら必ず誤訳する英文」を再読しておくのがいいかもしれない。
posted by アスラン at 00:29 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 評論・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月07日

「蝋人形館の殺人」(創元推理文庫)ネタバレ解説

(この記事では、ジョン・ディクスン・カー著『蝋人形館の殺人』のネタバレを行っています。未読の方は読まないようにお願いします。)

 なぜネタバレ解説をするかというと、僕自身、カーの結末の付け方がよくわからないからだ。たとえばこのブログで僕はエラリー・クイーンの作品のネタバレ解説をやっている。クイーンの場合、解説の目的ははっきりしている。明瞭すぎるほどの解決にいたるまでに、著者はフェアプレイにこだわりながらどのような手際でどこに手がかりを埋め込んでいったのかを再確認したい。それだけだ。

 ところが、カーの場合はまったく異なる。結末が理解できないから手がかりを探す。これである。以前「帽子収集狂事件」のネタバレ解説を書いた。カーの初期の代表作として名高いが、僕には今一つふみこめない壁があった。犯行現場がどのようなところなのか、どのように犯行は行われたのか、あるいはなぜ死体が見学者たちにみつからないのか。わからないことだらけだった。

 そこで現代人のツールであるウェブを駆使してグーグルマップを闊歩し、ロンドン塔を旅してきた人のブログから犯行現場のロンドン塔内「逆賊門」の写真を見つけてきてはイメージを膨らませた。その結果、ようやく今までわからなかった事が完全に理解できた。その上でわかったことは、カーの作品の良い読み手になるのは生半可な事ではかなわないということだった。手がかりがあちこちにちりばめられ、しかもたった1回しか言及されない事も多いので、うかうかと読んでいると大事な手がかりを見失う。結末で探偵から説明されて初めて気づかされ、さかのぼって手がかりを探すという羽目になる。

 ちなみに「帽子収集狂事件」の犯人は意外な人物ではあったが納得はできた。だが、本作の犯人は「意外すぎてとうてい納得できない」。そこらへんを詳しくみていこう。あらすじはこうだ。

 パリの古びた蝋人形館の名物「恐怖回廊」で、うら若き女性の刺殺体が発見される。しかも彼女は回廊に展示された殺人鬼(の蝋人形)に抱きかかえられて、その男が持つ剣で刺し貫かれていた。なぜ彼女は閉館まぎわの蝋人形館にいたのか。いったい誰に殺されたのか。実は蝋人形館の隣にはあやしげな秘密クラブの建物があり、そこに行き着くための通路にでられる扉が蝋人形館にある。つまり、人目を忍ぶ女性らはこちらの扉を利用していた事がわかり、バンコランが調べてみると、扉の近くの通路には被害者が襲われたとおぼしき痕跡が残っていた。

 良家の子女である被害者とともに彼女の友人たちも殺されたことがわかり、彼女たちの交友関係が捜査の対象となる。特に彼女たちがそろって出入りしていた秘密クラブの会員の中に犯人がいるのではないかと疑われた。そこでバンコランは被害者たちの家を訪問して、親や兄弟たちへの聞き取り調査に取りかかった。すると連続殺人に見えていた事件は、秘密クラブのオーナーである暗黒街のボスによる会員への脅迫に端を発する過失致死と、まったく別の人物による蝋人形館での殺人とに分かれる事が判明する。

 恐怖回廊で刺殺された女性クローディーヌ・マルテルは、父マルテル伯爵によって殺されたのだった。動機はともかくとしてバンコランがたどり着いた推理はこうだ。

 真の殺害現場である秘密クラブへの通路で、バンコランたちは被害者の持ち物とともに「小さなガラスの破片」を拾った。

何かをかき集めると、懐中電灯の光できらりと光るそれをそっと封筒に入れた。(P.48)


ポケットから封筒を出すと、卓上に小さなガラスの破片を数個ふるいだした。
「通路に落ちてたんだよ。」と(デュラン警部に)説明する。
(P.66)


 これだけでは、いったいガラスの破片がなんなのかは手がかりが少なすぎてわからない。ただし論理的に考えて被害者が殺された時に、被害者の身につけていたものか、あるいは犯人が身につけていたものが壊れて落ちたのではないかと推理できる。いや推理できるのはバンコランが結末で「ガラスの破片は犯人の振り回した腕にはめた腕時計のガラスだった」と説明したからだ。当然ながらバンコランでさえ、当初はガラスの破片がなんなのか想像できずにいる。

 次にバンコランは被害者クローディーヌの家を訪問し、父親であるマルテル大佐から話を聞く。マルテル大佐に関する来歴と、実際に対面した際の描写は、この訪問の一度しかない。その後、マルテル大佐はなんと結末にいたるまでも登場しない。にもかかわらず、ほとんどすべての手がかりは1回限りの対面の場面に集中している。

「マルテル伯爵家は…当主も大佐という称号をこよなく誇りにしている。戦争で片腕をなくしてね。…」(P.146)


(大佐には)左腕はなく、袖先をポケットにたくしこんである。(p.151)


 ここで大佐は片腕がないことがわかるのだが、その事は結末まで二度とふれられることはない。片腕がない事は、実はガラスの破片との重要な結びつきを果たす。ナイフを振りかざそうとした犯人が腕につけた「あるもの」が壊れてガラスの破片が落ちたというのが論理的で妥当な推理である。そしてそれは腕時計だったのだが、腕時計は通常利き腕とは逆の腕につけるものなので、つじつまがあわない。しかし片腕しかない人物ならば、完全につじつまがあう。

 この作品は300頁を越える長編だが、200頁近辺でバンコランの相棒であるジェフ・マールが秘密クラブへの潜入捜査を果たす大立ち回りが挿入される。潜入捜査をジェフに頼んだ後でバンコランは妙な事を口走る。

「アリバイだ…。あれこそアリバイだったのか」さらに、「宝石はどこだ?調べ出して、当ってみないと…」(P.195)


 僕にはこれが不可解な一言だったのだが、それはバンコランの解決での一言と符号する。

「殺人犯はわざと手がかりになるようなものを残していき、推理の糸口をわざわざ与えてくれました。…」(P.284)


 バンコランの一言は、犯人がガラスの破片を故意に残していったという事実を説明しているのだけれど、「何故に手がかりを残したのか」と考えるのと同時に「アリバイとはなにを指すのか」がどうしてもわからなかった。バンコランの解決を読んだ後でも、さらには最後の一頁を読み終えてもわからない。そして再読してみて、バンコランが解決に使った手がかりをなんども本文を渉猟して見つけ出した後でもピンとこなかった。

 驚いた事に僕は、このネタバレ解説を書き上げるうちにようやく「アリバイ」の言葉の意味に気づいた。アリバイとは、通例では「犯行時刻に犯行現場にいる事はできない」という論理的な状況を指す。ところが、ここでバンコランが口走った「アリバイ」とは、犯人であるマルテル大佐が犯行現場の蝋人形館に行って娘を殺してきたという動かぬ「アリバイ」を自分からほのめかしていたという事を意味している。これは言わば「逆アリバイ」と言ってもいいだろう。しかし衝撃的ではあるが、これは読者を混乱させる一言でもある。

 そして正直に言わせてもらうと、バンコランはジェフの潜入捜査前に犯人の正体に気づいていた事になる。では、いったいそれからの100頁になんの意味があるのか。もちろん物語としては、マルテル大佐を電話先で追いつめるバンコランの「悪魔的な所業」が最後の見せ場には違いない。でも本格ミステリーとしては、すでに100頁も前に終わっているなどとはクイーンでさえ驚くだろう。

 そして、そのマルテル大佐の「アリバイ」とは、犯行現場に残されたガラスの破片のほかには、マルテル邸での会見での2カ所に〈ほのめかされて〉いる。

目の前の大佐は、電報の一部のような青い紙切れをもてあそんで、厳しい目をこちらにすえている。(P.151)


振り子の音がして、大時計が静かに十二時を告げにかかった。……マルテル大佐は手首を見て眉をひそめ、ついで大時計に視線を投げて、もうそろそろ、と礼を失せずにそれとなく匂わせた。(P.158)


 「ガラスの破片」が腕時計の盤面に嵌ったガラスだと推理する事ができる推理巧者は、あるいは「青い紙切れ」が蝋人形館の入場券をほのめかしていると即座に思い付くのだろうか。しかし、いったい入場券の外見をどこらへんで描写していただろう。それはバンコラン一同が蝋人形館を最初に訪れた冒頭31頁目の事だ。

娘は相変わらず腕組みしたままテーブルの奥におさまった。どうやらここの入場券とおぼしい、薄青い紙のチケットつづりが卓上にひと巻きころがっている。(P.31)

 素晴らしい。いったいどんな観察眼の持ち主がこれだけの描写からマルテル大佐の手にした紙切れの色とつきあわせる事ができるのだろうか。

 そして「ガラスの破片」が腕時計のガラスに昇格するのは、さきほどの大佐の「手首を見て、大時計を見る」というしぐさを見とがめた者だけの特権と言える。この部分だけを抜き出してみると間違えようもないくらい明白な記述に見える。しかしこの記述が出てくるのはバンコランとマルテル家との間に不穏な沈黙が訪れる事をかなり長めに説明したパラグラフの最後の最後なのだ。どちらかというともう知るべき事はすべて聞き出してしまって、あとは不穏な余韻しかお互いに残されていないという雰囲気の文章にそっと目立たずに置かれている。

 驚きに満ちていると言えないだろうか。もし、これが数十頁もしくは100頁たらずの短編か中編であれば、これらの伏線の折り込み方は見事というしかない。結末の付け方に文句を言う余地はないかもしれない。しかし、全編300頁からなり、犯人の登場回数はたったの一回限り。それも10頁に満たない。その中に、ほとんどすべての手がかりが集中し、そのほとんどがまた一度限りしか言及されず、またそこだけを取り出しても何の意味もないような手がかりばかりなのだ。
posted by アスラン at 19:19 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 評論・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月20日

「明るい館の秘密(若島正)」の過失(その5)(2012/3/9改訂)

(この記事では、アガサ・クリスティー著『そして誰もいなくなった』のネタバレを行っています。未読の方は読まないようにお願いします。)

 今回が、このエッセイ(評論)の最終回だ。僕が言いたいことは3点あると(その1)に書いた。

(1)若島の主張する「叙述トリック」は、言わば手品のタネである。若島は手品のタネをあばいた上で「作者の手際の良さ」だけを賞賛するが、「手品そのものの出来映え」に対する正当な評価を欠いている。
(2)若島は「(『そして誰も…』は)論理的に構築されている」と主張するが、必ずしも論理的な構成とは言えない。
(3)「(『そして誰も…』は)犯人のトリックはつまらないが、作者クリスティの叙述トリックは賞賛できる」という若島の主張には異論がある。ましてや「再読しないと真価がわからない作品」という独断には、なんら正当な根拠はない。


 (1)(2)については、ほぼ言い尽くしたように思う。(3)については、著者・若島正による『そして誰もいなくなった』の叙述トリックの偏った見方にたいしてのみ、かなり詳しく異議申し立てをしてきた。言いそびれたことがあるとしたら『そして誰も…』」という作品のおもしろさについてだ。若島の主張を解体する事に主眼があるので、行きがかり上、叙述トリックの出来映えばかりに言及しているが、『そして誰も…』はトリックだけに注目すべき作品ではない。たとえばポアロやミス・マープル物のように、物見遊山の一つのように殺人が扱われるのと違って、孤島で進行する連続殺人の緊張感は他のクリスティ作品の中でも群を抜いている。まあ、そんなことを言い尽くしてみたいのだが、この評論で語るのがふさわしいとは思えない。機会をあらためて書評で書きたいと思う。

 ここでは最後まで、若島正の「明るい館の秘密」という小論に限定して、残された課題をやり遂げて終わるとしよう。その課題とは『そして誰も…』の導入部(第一章1〜8節)の詳細な分析だ。(その4)で第一章1節(ウォーグレイヴ判事の関する描写)のみくわしく分析した。叙述トリックを読み解いて「判事は犯人の可能性あり」という結果が得られた。と同時に「(初読者が)叙述トリックを見破れるか」という点については、「かなり困難である」ことが、1−1の地の文や心理描写の巧みな構成から理解できた。

 何故ここまでウォーグレイヴ判事に関する地の文(客観描写)や判事の心理描写を重点的に分析したかといえば、早い話が再読者にとって「判事が犯人である」のは自明だからだ。自明なことを前提にして、いかにして叙述トリックによる「犯人の痕跡の消去」が実現されているかをみるのは、それこそマニアックなファンならではの楽しみ方だ。しかし、若島の主張する「犯人を見破れる」かという点については、初読者が犯人当てに挑むのであるのだから、すべての登場人物の描写を等しく分析しなくては犯人の目星などつきようがない。

 そこで判事同様、他の登場人物についてもくわしく原文や訳文をつきあわせて読み解いてみたいところだが、それだけの時間的余裕と英文の読解力の持ち合わせがない。やむを得ず今回は、作者クリスティの気持ちになって作品全体を俯瞰する視点から考えてみる。

 若島正は『そして誰も…』の特徴として、登場人物の心理描写には「本当のことしか書かれていない。ならば犯人の心理描写には叙述トリックが仕掛けられている」と考えた。しかし、(その4)でみてきたように語り手が語る地の文(客観描写)にも叙述トリックが多数混入している。僕らは、まず何よりも先に一つの問いについて考えなければならない。

(A)語り手は、犯人が誰かをいつ知ったか?


 一見するとばかげた問いにみえるだろう。しかしこの問いが「ばかげている」と言い切るためには、語り手が「全能の話者による三人称の語り(若島)」であるという、ジャンルとしての小説の決まり事を鵜呑みにすることから始めなければならない。ところが「叙述トリック」というジャンルは、この決まり事(信念と言ってもよい)を逆手にとることを主眼においたミステリーである事を、前回身をもって体験した。だから、まずはこう考えるべきだ。

 作者(演出家)と語り手と登場人物(役者)は別々の存在であり、彼らをつなぐものは台本でしかない。しかも、近頃なくなった井上ひさしばりに遅筆の作者によって、提供される台本は最後のシーンまで書かれていない。たかだか演じ手が、場面場面を演じきる部分のみを直前に渡されると考えたらいい。あるいは、彼ら一人一人は自分が話す台詞は与えられるが、その他の人物の台詞は空白のままに、自分用の台本が用意されているとする。

 同様に語り手には語り手専用の台本が用意されている。各人は自らの台詞をしゃべる、あるいは語りを挿入するきっかけだけが何らかの合図で教えられる。そのようにして順番に台詞や語りが組み合わされて、物語が進行する。聴衆(読者)は、だれがどの台詞を言うのかを会話の部分のみ区別する事はできるが、独白の部分については声質を変換する機械処理が施されていて判別できない。

 こう考えると、すべての結末と仕掛けを知っているのは「作者」ただ一人という事になる。僕は文芸評論を読みだした当初、作者と語り手を区別して考える事に何の意味があるのだろうと思っていた。「語り手=作者」とみなしていいのではないかと安易に考えていた時期があった。しかし、『そして誰も…』のような非常にトリッキーな作品では、この手の「盲信」は危険この上ないという事が実感できる。

 語り手も登場人物も、それぞれの分担において真実のみを語る。そうは言うが、ここで言う「真実」とは、たかだか作者によってコントロールされた真実でしかない。語り手も登場人物も、自らが語ったり考えたりした事が「真実であるか否か」の責めを負う必要などないのだ。

 そこで(A)の問いを念頭に置いて導入部を見渡してみると、おどろくほど「語り手」の立場を知る手がかりが少ないことに気がつく。当然だが語り手の立場を疑うこと自体、小説という枠組みそのものへの疑義にほかならない。それ故に作者もことさらに語り手の手口をさらけ出す必要を感じていなかったに違いない。だが、決定的な場面は導入部の最後の最後(第一章8節)にやってくる。

 元警部のブロアは、島の所有者から依頼されて、島にやってくる人々を監視するために列車に乗っている。そこでたまたま同乗していた船乗りらしき老人から意味深な警告を受ける。

「お前にいってるんだよ。…審判の日はすぐそばまできているのだ。」

 それに反発したブロアは、審判の日が近づいているのは老人の方だろうと独白するが、その直後に語り手は、こう言う。

しかし、ブロア氏の考え方はまちがっていた。


 この場面は「思わせぶり」な会話と心理描写の典型だ。叙述トリックというよりは序盤のサスペンスを盛り上げる〈演出〉とみるべきだ。重要なことは、語り手が「ブロアの末路」を予見しているという点だ。ブロアが殺される(すなわち審判の日が訪れる)のは『そして誰も…』の終盤だ。ということは、少なくともブロアが亡くなるまでのストーリー展開も、各登場人物の動向や心理も頭に入っているようだ。

 語り手が全知全能の力をもって未来を見渡せることが、この一文をもって担保されている。再読者・若島ならば「語り手は真実のみを語っている」と確信するかもしれないが、それは先走った考え方だろう。あくまで、語り手を支配しているのは狡猾な作者であることを忘れてはいけない。とりあえず(A)の問いに答えるとしたら、「導入部の時点で、語り手はブロアが殺されるまでを全知全能の力で予見している。語り手は可能な限り客観的に描写することを使命とするが、思わせぶりな描写をすることはいとわない。」と言えばいい。確証はないが、導入部の時点で「語り手は犯人を知っている」とほぼ考えていい。

 引き続いて、もうひとつばかげた問いをしてみよう。すなわち、

(B)犯人は、いつ自分が犯人だと知ったか?


だ。実はこれは(A)ほどばかげた質問ではない。語り手を疑う事は小説の決まり事を疑う事だから、それを疑う僕の方がどうかしていると言われても致し方ない。しかし、登場する人物の精神状態までがすべて「普通」であると誰が確約できるというのだろうか。

 これは『そして誰も…』でクリスティが成し遂げた功績の一つと言っても言い過ぎではないと思うが、「犯人が犯人らしくなく、犯人以外の人物がすべて怪しい」という描写を、作者はそれこそ「愚劣にならずに(クリスティ自伝)」なるようにかなり工夫している。それが「思わせぶり」の叙述トリックの効果だ。そして(B)の問いかけの究極の回答が、「多重人格(サイコ)による殺人」というアイディアである事は言うまでもない。もちろん『そして誰も…』はサイコによる連続殺人とまでは言えないが、あと一歩というところまで来ていた。エラリー・クイーンが後年、まさにこのモチーフに磨きをかけた作品を実現している。

 すでに結末まで読んだ再読者にとっては、問い(B)の答えは明らかだ。「犯人は導入部の最初から自分が犯人である事を自覚している」。もちろん、初読者がそうだと気づくような手がかりは導入部には見あたらない。当然だろう。クリスティの没後に大流行することになる「サイコミステリー」では、日常生活をふつうに営む一市民が少しずつ本性を現していく。手がかりはゆっくりとページを追うごとに与えられていくものだからだ。

 だが、書かれていない事をあれこれ詮索しても始まらない。導入部を分析する際に問い(A)(B)から僕らが考慮すべき前提は、
・作者は語り手や登場人物を自在に操って、読者に叙述トリックを仕掛けてくる。
・語り手は「犯人」を知っている。犯人をばらすような「あからさまな描写」は書かないし、犯人をばらさないように「思わせぶりな描写」をする。
・犯人は犯人である事を自覚している。犯人だとばれるような「あからさまな独白」はしないし、犯人だとばれないように「思わせぶりな独白」を胸にいだく。
・犯人以外は犯人を知らない(導入部に限っていえば、島に殺されに行く事になるとは知らない)。犯人でないとばれるような「あからさまな独白」はしないし、犯人でないとばれないように「思わせぶりな独白」を胸に抱く。
・島に集められた10人は大なり小なり罪を犯しているために、犯人でなくてもあたかも犯人らしくみえるような「思わせぶりな独白」を抱く。


 若島が小論で主張した叙述トリックは、3番目の箇条書き(犯人に関する前提条件)に含まれる。

 次に犯人の要件を列挙していこう。ここでは再読者(若島)の手法に則って、結末で知り得た情報を利用する。作品全体が「論理的に構築されている」という前提で犯人像を追い込んでいく。何度も言うようだが、「だから犯人を推定できる」わけではない。あくまで「つじつまがあっているか否か」の問題にすぎない。

 犯人はモリスという共犯者に、犯人以外の9人を一箇所に集める算段をまかせた。そのうえでモリスを事前に殺害しておいたことは、海で見つかった瓶の中の手記でわかっている。この犯人の手記を根拠として、以下の事が言える。

(1)犯人は9人の名前・性別・人となり・犯した犯罪について知っている。ただし9人と面識がある必要はない(あるいは「顔の判別」ができる必要はない)。彼らを殺害する目的は「法で裁けない犯罪者」を断罪することだ。
(2)犯人と共犯者モリスとは面識がある。知らないそぶりで会話することはできない。
(3)手紙はモリスが書いたので、手紙の外見的特徴を犯人は知らなくてもいい。たとえば、
 - 手紙の外見(字が読みにくい)
- U.N.オーエン=UNKNOWNというこけおどし(思いついたのは、犯人とモリスのいずれの可能性もある。)
(4)犯人は、自分を含めた10人全員を島に誘い出す口実(手紙の差出人、仕事の依頼、旧交の再会など)について事前に知っている。
(5)犯人は、集められる場所が「インディアン島(兵隊島)」であることを知っている。富豪が建てた邸宅の存在も知っている。必ずしも上陸したり見たりしたことがある必要はない。
(6)オーエン夫婦が架空の存在だと知っている。


 これらの要件を満たす人物が、若島が言うとおり「ウォーグレイヴ判事」しかいないのかを見ていこう。判定記号は以下のとおりである。

 ○…犯人である
 ×…犯人ではない
 △…犯人の可能性あり(犯人でない可能性もある)
 −…判定材料がない

[ウォーグレイヴ判事の場合]

(1)−:他の9名と(一章では)接触なし。
(2)−:共犯者との接触なし。
(3)△:「発信者は”あなたのコンスタンス・カルミントン”と美しい筆蹟で署名していた」が、語り手の叙述トリックの可能性あり(「発信人」の真偽は不明)。
(4)△:また、「自分が下した結論」が、語り手の叙述トリックの可能性あり(判事の結論とは「カルミントンが島を買い取った」ということなのか、あるいは「カルミントンを差出人としたのは正解だった」ということなのか、いずれとも考えられる。)
(5)−:新聞記事の客観描写のみ。心理描写なし。
(6)−:手紙の差出人はオーエンではない。

[ヴェラ・クレイソーンの場合]
(1)△:客車内でロンバートと向かい合わせになるが、面識の有無は不明。参加者の一人だと気づいていない可能性もあるが、「しじゅう旅行して、さまざまのおもしろい経験を持っている男にちがいない」という推定は、手持ちの情報から類推したかのようにも感じられる。
(2)−:共犯者との接触なし。
(3)−:文面について主観的な心理描写は一切ない。
(4)△:「こんどの仕事が見つかったことは大きな幸運だった。」は、ヴェラの叙述トリックの可能性あり。「こんどの仕事(this job)」とは「島での殺人」を指しているかもしれない。秘書の仕事口が見つかったことを素直に喜んでいる確証はない。(また、そもそも前後を含めたこの主観描写は語り手のものである可能性も否定できない。)
(5)△:「ちかごろ、しじゅう新聞に出ていた島だ!」というヴェラの心理描写から、必ずしも「島を知らない」とは断定できない。現に「邸宅はたしかにある富豪によって建てられた」と邸宅の存在を確信している。
(6)−:雇い主のオーエン夫妻に関する描写なし。


[フェリップ・ロンバート大尉の場合]

(1)△:ヴェラと向かい合わせになる。一目見ただけで「少しばかり女教師のようなところがあるが」とか「冷たい心の持ち主であろう」と見抜くところは、洞察力に優れているか、あるいは事前に手持ちの情報があることを思わせる。
(2)×:共犯者であるモリスとの会話あり。互いに面識がない事は確実である。
(3)−:手紙をもらっていない代わりに、犯人の共犯であるモリスと対面している。
(4)×:「君は私の依頼人にからだをまかせればいいのだ」というモリスの言葉から考えて、ロンバートが依頼人(犯人)だすると辻褄が合わなくなる。
(5)△:「ボートでインディアン島にわたる」とモリスから説明されても、「インディアン島」の事を聞き返さないので、島をすでに知っている感じがする。
(6)−:オーエン夫妻について言及がない。

[エミリー・ブレント婦人の場合]
(1)−:他の登場人物と接触なし。ミス・ブレントの乗っている「混みあっている三等車」は、「他の五人の乗客」しかいないヴェラのいる客車とは異なる。
(2)−:共犯者と接触なし。
(3)△:手紙が本物だと信じている確証はない。「字が読みにくい」といらいらしているが、読みにくい筆跡の演出は犯人の仕掛けではなく、共犯者のアイディアの可能性もある。昨年ベルヘヴンのホテルで一緒になった人々の中から差出人を「オリヴァー」と特定するようなブレントの心理描写があるが、差出人の事に思いを巡らしているという明確な描写はない。「あの婦人ーミス・オリヴァーであったと思うがー彼女について、もっと想い出せるといいのだが」という心理描写は、判事の「自分が下した結論」という言い回し同様に、差出人をミス・オリヴァーとするための辻褄が合うかどうかを気にしている「思わせぶりな表現」ともとれる。
(4)×:「とにかく、ただの休暇を楽しめるのだ」というミス・ブレントの独白は、誘いの手紙を真に受けている。もし、犯人であれば島を買い取るのに費用がかかっているはず。そもそも連続殺人の準備費用を考えると、年金暮らしの老婦人には無理な犯行かもしれない。、
(5)△:インディアン島のゴシップ記事はすでに読んだ事があり、いろいろと想像をめぐらしているが、島の存在を知っているか断定はできない。
(6)−:差出人はオーエン夫妻ではない。そもそもオリヴァーとも書かれていない。

[マッカーサー将軍の場合]
(1)−:他の9人との接触なし(2章以降で、将軍が乗っている「エクセターで乗り換える列車」はヴェラたちの乗る列車とは別であることがわかる)。
(2)−:共犯者との接触なし。
(3)(4)△:手紙の文面と差出人の明確な記述はないが、おそらくオーエンが差出人で「閣下の御旧友もお見えになります。ー昔ばなしをなさるのも一興と存じ…」が文面の一部だと推測できる。「彼(将軍)はオーエンという男がどんな人物であったか、はっきり頭に浮かべることができなかった」という記述から差出人をオーエンと信じているようにもとれるが、差出人に見立てたオーエンという実在の人物の事をはっきりとは思い出せないという独白の可能性もある。
(5)△:「インディアン島などは眼と鼻のあいだなのだ」「ところでインディアン島というところは、彼も行ってみたいと思っていたところだ」というように、インディアン島の事を招待を受ける前から知っている。
(6)△:ほとんどの人々にとってはオーエンは架空の人物だが、マッカーサー将軍にとっては実在の人物が該当する。犯人が名前を利用したのか、あるいは将軍自身が犯人かのいずれの可能性もある。

[アームストロング医師の場合]
(1)−:マーストン青年のスポーツカーらしき無謀な車が、アームストロングの車を追い越すが、医師は気づいていない。もしくは語り手の叙述トリックで、マーストンとは別の自動車の可能性もある。
(2)−:共犯者との接触なし。
(3)△:「休暇といえるものであるかどうかは、明らかではなかった。彼が受けとった手紙では、どういうことであるのか、はっきりしたことはわからなかった。」「このオーエンという人物は金がありあまっている人間にちがいない。」は、手紙の文面に対する主観描写である。医師の主観であるならば「手紙の文面を信じている」。一方で文面から読み取った語り手の主観描写の可能性もある。
(4)△:手紙の文面についての主観描写のあとに続く「神経!…婦人患者にはありがちのことだ!」は明らかに医師の心理描写である。依頼内容を真に受けて考えているというよりも、依頼内容に関連した神経症の女性患者一般に対する治療について考えている。
(5)△:「デヴァンの海岸の島に…」という言いまわしが、インディアン島について「知らない」ような印象を与える。
(6)△:(3)(4)で考察したように、オーエン氏の実在を信じているようにもみえるが、確証はない。

[アンソニー・マーストン青年の場合]
(1)−:「どうして、のろのろ走っている自動車が多いのだろう。…そういう連中にかぎって、道路のまん中を走っているのだ!」とは、アームストロング医師の車のことかもしれないが、確証はない。
(2)−:共犯者との接触なし。
(3)×:手紙の記述はないが、「…それにしても、オーエン夫婦というのは、どんな人間なのだろう。」と手紙(友人バジャーからの電報)を疑っていない。
(4)×:「とにかく、酒だけはたっぷりと飲ませてもらいたいものだ。」「それにしても、若い娘がいるといいのだが…」という独白は、犯人だとつじつまがあわない。
(5)△:「ゲブリエル・タールがインディアン島を買ったという話が嘘だったのは残念だ。」からインディアン島については事前に知っていた。
(6)×:オーエン夫婦の実在を信じている。

[ウィリアム・ブロア元警部の場合]
(1)△:自分以外の9人の名前やプロフィールを知っている。
(2)−:共犯者との接触なし。
(3)−:9名の監視依頼をどのように受けたかの記述なし。
(4)△:「わけのない仕事さ」「やりそこなうはずはない。怪しまれなければいいんだ」という独白は、探偵としての依頼を指すか、あるいは連続殺人を指すか、いずれの可能性もある。
(5)△:インディアン島は少年時代から知っている。邸宅の存在も知っている。
(6)−:依頼人についての記述なし。
(7)×:ブロアのみ客車内で船乗り風の老人との会話を交わし、審判の日が近づいていると警告される。犯人であれば、まさに10人全員がいなくなるその日こそ「審判の日」にふさわしい。「自分の方が審判の日に近づいているじゃないか!」などと独白するはずがない。

[ロジャース夫婦の場合]
(1)〜(6)−:彼らは一章に登場しない(すでに島で執事の仕事を始めている)。

△ウォーグレイヴ判事 (1)−(2)−(3)△(4)△(5)−(6)−
△ヴェラ       (1)△(2)−(3)−(4)△(5)△(6)−
×ロンバート大尉   (1)△(2)×(3)−(4)×(5)△(6)−
×ミス・ブレント    (1)−(2)−(3)△(4)×(5)△(6)−
△マッカーサー将軍  (1)−(2)−(3)△(4)△(5)△(6)△
△アームストロング医師(1)−(2)−(3)△(4)△(5)△(6)△
×マーストン青年   (1)−(2)−(3)×(4)×(5)△(6)×
×ブロア警部     (1)△(2)−(3)−(4)△(5)△(6)−(7)×
−ロジャーズ執事   (1)−(2)−(3)−(4)−(5)−(6)−
−ロジャーズ夫人   (1)−(2)−(3)−(4)−(5)−(6)−


 名前の前につけた記号が総合判定結果だ。導入部の詳細な分析から「犯人でない」と明らかに言えるのは、

ロンバート、ミス・ブレント、マーストン、ブロア


の4名である。ロジャース夫妻は導入部に現れないので「判断できない」。「犯人の可能性がある」と判定されたのが、

ウォーグレイヴ、ヴェラ、マッカーサー、アームストロング


の4名であり、「犯人である」と判定された人は一人もいなかった。

 これらの判定結果から何がわかるかと言えば、「導入部では犯人は確定できない」ということだ。しかし、これでは若島の結論とは食い違ってしまう。若島は導入部のウォーグレイヴ判事の描写のみを分析し、そこに叙述トリックを見いだし、犯人だと断定した。しかし、何度も言うが、再読者・若島はあらかじめ犯人を知った上で、犯人の心理描写をあら探ししたにすぎない。手がかりが見つかって思わず有頂天になってしまったのだろう。

 これと比べて、1-2〜8の七人の心理描写は、彼らが本当にインディアン島への招待に応じて旅立ったことを保証する書き方がしてあるのだが、その検討は読者各自で行ってみていただきたい。


と自信ありげに言い放ってしまった。一読者である僕が検討した結果が、先に見たとおりである。若島の方法論の問題点は、

 ・叙述トリックは登場人物の心理描写だけでなく、語り(地の文)にも含まれる。

を見落としていたことだ。

 実は、当初ぼくも導入部を詳細に分析すれば、「犯人の可能性がある」のはウォーグレイヴ判事ただ一人になると考えていた。つまり、油断しまくった若島の結論と結果的には同じになるものだと思いこんでいた。それが変わった理由は3つ考えられる。

・若島とは違って、登場人物の心理描写だけでなく語り(地の文)についても叙述トリックの存在を仮定して検討したこと。
・アガサ・クリスティの原文を併用して、心理描写と客観描写との区別を逐一調べたこと。
・出版された新訳(青木久恵訳)だけでなく、旧訳(清水俊二訳)も併用して、翻訳家の先入観によるニュアンスを排除したこと。


 当然のことながら、若島のように語り(地の文)を無条件に信用して登場人物の心理描写だけに狙いを定めれば、導入部の分析は楽々とできるだろう。しかし客観描写に徹するはずの語り手が読者を騙そうとしているとなると、何もかもが信じられなくなる。頼りになるのは、作者クリスティが、自伝で「十人の人間が死んで、しかも愚劣にならずに、犯人も明らかではないという、実現困難なアイデア」と書いたように、「愚劣にならずに」節度を守った騙し方をしていることを信用するしかない。

 (その4)でウォーグレイヴ判事の描写を詳細に分析した際にわかったように、原文は「語り手の客観描写」「語り手の主観描写」「人物の主観描写」のつなぎ目が曖昧なままに接続されている。原文をみるかぎり、人物の主観描写が間接話法で書かれていると判断するか、語り手自身の主観描写とみなすかによって、「犯人かどうか」の判定はまったく変わってくる。

 原文でも区別が付きにくい内容を翻訳するとなると、訳者によっても解釈が変わってくる。語り手の主観か登場人物の主観かわからないように書かれているところが、訳者によっていずれかの主観に確定されるように書かれている。特に新訳では、もっぱら登場人物の主観を明確に繰り込んだ翻訳を採用している。そのために、新訳で導入部を分析すると、ほとんどの人物が「犯人ではない」と判定されてしまう。たとえば原文で「Indian Island !」と感嘆符をつけて強調されているだけなのに、新訳では「あらっ、兵隊島って…」みたいに、島を知らないかのような心理に傾いている。複数の人物に「兵隊島とやらに」などと独白させるにいたっては、もう作者の叙述トリックに引っかかりまくっていると言っていい。

 もうちょっと旧訳と新訳との解釈の違いにふれておこう。ヴェラ・クレイソーン(女教師)の描写で、「まったく、こんどの仕事が見つかったことは大きな幸運だった。…」で始まる一節は、原文をみてもヴェラ本人の心理なのか、語り手の主観なのか判別がつかないように巧みに書かれている。ところが旧訳と新訳とを比べると、旧訳では原文どおりのニュートラルな描写で、語り手・ヴェラのいずれの主観とも区別がつかない。しかし新訳では一歩踏み出して、あきらかにヴェラの主観描写と決定してしまっている。具体的に、第二章2節のヴェラ・クレイソーンに関する冒頭の描写を抜き出して、原文・旧訳・新訳の順に並べてみよう。

[原文]
(1)Vera Claythorne, in a third-class carriage with five other travellers in it, leaned her head back and shut her eyes.
(2)How hot it was travelling by train today!
(3)It would be nice to get to the sea!
(4)Really a great piece of luck getting this job.
(5)When you wanted a holiday post it nearly always meant looking after a swarm of children - secretarial holiday posts were much more difficult to get.
(6)Even the agency hadn't held out much hope.

[旧訳]
(1)他の五人の乗客とともに三等車に乗っていたヴェラ・クレイソーンは頭をうしろにそらせて、眼を閉じた。
(2)汽車で旅をするにはなんという暑い日であろう!
(3)海に着いたら、どんなに気持のいいことであろう!
(4)まったく、こんどの仕事が見つかったことは大きな幸運だった。
(5)休暇のシーズンの仕事といえば、たいてい、大勢の子供たちの世話をすることだった。
(5)秘書の仕事はほとんどなかった。
(6)職業紹介所へたのんでも、ほとんど望みはなかった。

[新訳]
(1)他に乗客が五人いる三等車で、ヴェラ・クレイソーンはシートの背に頭をもたせかけて、目を閉じた。
(2)今日は列車で旅行するには、いくらなんでも暑すぎる!
(3)海に着いたら、さぞかし気持ちがいいだろう!
(4)今度のこの仕事がもらえたのは、本当にラッキーだった。
(5)学校休みのアルバイトといえば、大勢の子供の世話と相場がきまっている
(6)―秘書の仕事はそうおいそれとはない。
(7)職業紹介所の人も首を傾げていた。


 決定的なところを見ていくと、(1)の「こんどの仕事が見つかった(旧訳)」に対して「この仕事がもらえた(新訳)」、(7)の「職業訓練所へたのんでも、ほとんど望みはなかった(旧訳)」に対して「職業紹介所の人も首を傾げていた(新訳)」というように、新訳(青木久惠訳)だとヴェラの心理としか解釈できない。(1)の「本当にラッキーだった」というのも、ヴェラの若さを意識したくだけた表現だろう。旧訳の清水俊二が叙述トリックの落とし穴に気づいていたのかは正直わからないが、導入部全般の訳を見るかぎり、不用意な思い込みは避けて慎重に表現を選んだのは確かだ。一方で、新訳の青木久恵は叙述トリックのミステリーに対して油断しすぎているような感じをうける。とりあえず、旧訳と新訳の比較については、これくらいにしておこう。冒頭でも述べたが、新訳版を読んだ感想は改めて書きたい。

 ちなみに、導入部では決定できなかった犯人は、いつどこで確定できるのか?

 2章以降をここで分析するつもりはないが、先ほど「犯人の可能性あり」とした4人のうち、マッカーサー以外の3人は終盤まで生き延びる。ヴェラに至っては最後の一人(犯人は隠れている)なのだから、結局のところ、若島正がピックアップした3カ所の「登場人物の心理描写」だけでは、犯人は確定できないようだ。

 もっとも、そんな事はすでにどうでもいいことだろう。要するに、僕らはもう一度、いや何度でもアガサ・クリスティ作『そして誰もいなくなった』を読むべきだ。そして、それは若島正が主張するような「再読者として」読むべきではなく、過去の読書体験をうっすらと記憶の彼方に追いやった頃に、繰り返し新たな体験を求めるように読むべきだ。その限りにおいて、僕らは初読者として『そして誰もいなくなった』の本当のすばらしさにあらためて出会う事ができるのだ。(了)
(2011/1/13初出、2012/3/9改訂)


  
posted by アスラン at 21:19 | 東京 ☁ | Comment(4) | TrackBack(0) | 評論・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月19日

「明るい館の秘密(若島正)」の過失(その4)(2012/3/8改訂)

(この記事では、アガサ・クリスティー著『そして誰もいなくなった』のネタバレを行っています。未読の方は読まないようにお願いします。)

 今回から2回にわたって、『そして誰もいなくなった』に隠された「叙述トリック」のありかとして若島正が指摘した3箇所のうち、1番目(第1章1節〜8節)を詳細に分析していく。

 若島正の小論「明るい館の秘密」では、第11章6節と第13章1節の2箇所に出てくる「誰のものとも特定されない心理描写」がクローズアップされる一方で、1番目の導入部の分析は少々軽んじられている。若島自身も次のように書いている。

 (導入部における)登場人物たち各人の意識の断片をつぶさに検討してみることは、それなりに興味深いことではあるが、本稿の目的ではない。


 若島は導入部で「犯人の心理描写」だけしか分析していないが、この姿勢にはかなり問題がある。その点は、前回つぶさに検討したので詳しくは書かない。要点のみを挙げておく。

[若島の主張]
・「登場人物の心理描写」に叙述トリックが仕掛けられている。叙述トリックには、だましはあるが嘘はない。
・心理描写の叙述トリックを読み解けば、犯人が特定できる。


 これに対して僕の主張(反論)の要点も挙げる。
[私の主張]
・作者クリスティは、語り(地の文)にも叙述トリックを仕掛けている(だましはあるが嘘はない)。
・犯人の叙述トリック(犯人らしくみえない)だけでなく、他の登場人物の叙述トリック(犯人らしくみえる)が存在する。
・心理描写のみを読み解いても、初読者が犯人を特定することはできない。


 若島が小論「明るい館の秘密」でやってみせた事を僕なりに評価すれば、

 結末まで読んだ上で再読すれば、「犯人やトリックの痕跡」および「作者の巧みな語り口」が見てとれる。

という事ぐらいだろう。もちろん、これはこれで興味深い事実だ。作品の読みが深まれば深まるほど作品への愛着が増してゆくのであれば、一般の読者にとっても再読は有益な方法だ。僕もそうやって、大好きなエラリー・クイーンの作品を味わいながら再読している。

 だが、僕は安易に「叙述トリックを読み解けば犯人がわかる」とは考えない。すでに犯人を知っている再読者が、犯人の心理描写になんらかの叙述トリックを見いだしても何の不思議もない。それよりも犯人を知らない初読者が、すべての登場人物の心理描写から「犯人を特定できる」か否かが問われなければならない。単純に言い切ってしまえば、

 叙述トリックが犯人の心理描写に仕込まれていると、どうやったら(再読者ではなく)初読者にわかるのだろうか?

について、真剣に検討する事が要求される。

 再読者は、二度と初読者に戻ることはできない。もちろん時間が経って読んだ記憶が失われるという、愛読者にとってラッキーな場合もあり得なくもないが、『そして誰も…』ではまず起こり得ない。それほど忘れがたいトリックと結末だからだ。

 再読者は、結末から遡ってすべてを論証しようとする。文学作品の読み直しには有効な再読という手法も、ミステリーに限って言えば因果関係を見失って誤った結論を導き出す危険性をたえずはらんでいる。

 そこで、若島のように「登場人物の心理描写、とりわけ犯人の心理描写を分析する事だけが重要だ」と考えるのではなく、「すべての登場人物のすべての描写(語りを含む)を分析する事が重要だ」と僕は考える。なんだ、当たり前ではないか、などと言ってはいけない。このことを禁じたのが(あるいは必要ないと言ったのが)、だれあろう若島だったからだ。

 以上の点を踏まえた上で、アガサ・クリスティ作『そして誰もいなくなった』(原題「And THEN There WERE NONE」)の導入部(第1章1節〜8節)を見ていこう。都合のいい事に、「明るい館の秘密」では原文と若島自らの試訳とを対照している。こちらも、そこから分析を始めよう。

 ちょうどハヤカワ・ミステリ文庫(クリスティ文庫)から新訳が出版されたばかりなので、以後、原文と若島試訳、旧訳、新訳の4通りの文章を併記することにする。出典は以下の通りである。

(原文)「And THEN There WERE NONE」(おそらくは1940年の米国出版)
(若島試訳) 「明るい館の秘密」(若島正『乱視読者の帰還』所収)より引用
(旧訳)「そして誰もいなくなった」(ハヤカワ・ポケットミステリ,1975年,清水俊二訳)
(新訳)「そして誰もいなくなった」(クリスティ文庫,2010年,青木久惠訳)


 前もって言及しておくと、若島試訳と旧訳は原文の直接の翻訳であるが、新訳だけはクリスティの死後に一部重要な表現が改変された版を元に翻訳されている。作者の死後に手直しされた部分とは「インディアン」に関する記述だ。インディアンとは、コロンブスの新大陸発見以来、誤解に基づいた表現であるにも関わらず、一貫して使われ続けてきた。しかし近年の「政治的に正しい」事を文学作品自体に求める動きが流行した結果、政治的に正しい『そして誰も…』改訂版が現れた。

 『そして誰も…』では舞台がインディアン島であるだけでなく、マザーグースの童謡「十人のインディアン」の詞どおりに殺人が実行される。元々の童謡は「十人のインディアン」ではなく「十人の黒人少年」だったのだが、イギリスでは問題のなかったニガーという俗称が米国では認められなかったので、ニガーをインディアンに手直しする事を作者自身が許していた。そういった前例があるから、作者の死後であってもインディアンを兵隊に入れ替える事に遺族も抵抗は少なかったのかもしれない。

 そういう事情から「十人のインディアン」は「十人の兵隊」に、「インディアン島」は「兵隊島」に置き換えられた。旧訳を読んだときの印象を大事にする人にとっては違和感のある変更ではあるが、僕が気になったのは朗読する際の語感だ。「インディアントウ」だった舞台が、突然「ヘイタイジマ」に変わってしまった。なにやら横溝正史のおどろおどろしさを伴ってイギリスの海から瀬戸内へと移動してしまったかのようだ。

 余談はさておき、導入部の分析に取りかかる。

[第一章1節 ウォーグレイヴ判事]
 作品の冒頭を飾るのは、最近引退したばかりのウォーグレイヴ元判事の描写だ。インディアン島(兵隊島)へ向かう一等車の中で、今回の旅のきっかけとなった手紙を取り出して、物思いにふけるシーンから始まる。今回ピックアップするのは、文頭から2番目のパラフレーズから1節の最後までだ。その部分を以下の11箇所にあらかじめ分類してナンバリングしておく。

[原文]
(1)From his pocket Mr. Justice Wargrave drew out a letter.
(2) The handwriting was practically illegible but words here and there stood out with unexpected clarity.

[旧訳]
(1)ウォーグレイヴ判事はポケットから一通の手紙を取りだした。
(2)ほとんど文字の判別がつかぬ筆跡だったが、ところどころに、思いがけないほどはっきりわかる文句があった。

[若島訳]
(1)ウォーグレイヴ判事はポケットから一通の手紙を取り出した。
(2)ほとんど判別できない筆跡だったが、ところどころに、思いがけないほどはっきりわかる文句があった。

[新訳]
(1)ウォーグレイヴ判事はポケットから手紙を一通取りだした。
(2)手書きの文字はひどく読みにくかった。だが、ところどころ、いやにはっきり読みとれるところがある。


 (1)(2)は、著者が言うところの「全能の話者による三人称の語り」である。3者の訳をざっとみる限り、違いはほとんどない。いや、一言で言って若島訳は旧訳をなぞっただけだ。簡単な文章だから誰でも同じような訳になる、というわけではないことは新訳を見てもらえば一目瞭然だろう。若島は自らの試訳を用いる理由を次のように述べている。

なお、叙述トリックは文章技巧に関わる微妙な問題だけに、後に述べるように翻訳で読むと落とし穴にはまる危険性があり、ここから先は原文とその試訳を並べて掲げる。


 「ならば、最初から自前で翻訳しろよ!」と清水氏になりかわって声を荒げたいところだ。手抜きというだけでなく、旧訳者に礼を失するふるまいだろう。「いや、ちゃんと自前で翻訳している」と言い訳したりできないように、この後で証拠をお見せしよう。

 分析を進める。(1)は、どうみても客観描写なので問題ない。(2)もそう見えるが、少し「微妙な問題」をかかえている。「(手書きの)文字の判別がつかない」とか「思いがけないほどはっきりわかる」のように判断しているのは誰だろうか。原文をみれば、あきらかに地の文なので、語り手の客観的判断ということになるが、 「わかりにくい、わかりやすい」というのは、一個人の主観をともなわないと表現できない。とくに「思いがけないほど」というところに、判断する者の「主観」が色濃くにじみでている。だからこれは「判事の心理」ではないかという「思わせぶり」が語りの中に込められていることになる。

[原文]
(3)Dearest Lawrence... such years since I heard anything of you... must come to Indian Island... the most enchanting place...so much to talk over... old days... communion with Nature... bask in sunshine... 12:40 from Paddington... meet you at Oakbridge...

[旧訳]
(3)おなつかしきローレンスさま…あなたの消息を聞かなくなってから、永年…ぜひインディアン島へ…ひじょうに美しいところで…お話したいことがたまって…懐かしいむかしのことを…自然に親しみ…日光を浴び…パディントン二時四十分…オークブリッジでお待ちして…

[若島訳]
(3)親愛なるローレンス様…長いあいだご無沙汰して…ぜひインディアン島へお越しいただきたく…魅惑の島…つもる話が…懐かしい日々を…自然との交わり…日光を浴び…パディントン二時四十分…オークブリッジでお待ちして…

[新訳]
(3)”ローレンスさま…あなたさまのお噂を、最後に耳にしたのはいつのこと…ぜひとも兵隊島においで…こんなすばらしい所は、ほかには…積もる話が、たんと…なつかしいあの頃…自然に囲まれて…日光浴…ロンドンのパディントン駅二時四十分発…オークブリッジで、お目にかかり…”


 (3)は手紙の文面だが、全文は引用されず断片だけで構成されている。これは、話者であり差出人であるはずのレディ・カルミントンの言葉尻をとられないようにと考えた語り手(あるいは作者の)戦略ともとれるし、(2)で描写されているとおりに「読める文字」を拾い読みした結果ともとれる。しかし、もっとも説得力があるのは、得体のしれない手紙であることを読者に強調してサスペンスを盛り上げようとする「作者の演出」というとらえ方だろう。

 3者の訳の差はあまりないのだが、若島訳は文脈に依存した意訳をことさらに回避して直訳を採用する。「親愛なるローレンス様」「魅惑の島」「自然との交わり」などは、書かれているフレーズだけで辞書引きして訳語をあてたかのような直訳調だ。他の訳者は手紙の文面としてきちんとつながるように工夫しながら意訳している。例の13章1節の「心理描写」において旧訳と訳者とを糾弾した経緯があるから、ここで下手に訳すと原文に仕組まれた叙述トリックをとりこぼすかもしれないと考えての事だろうが、誤訳糾弾の先鋒による訳としてはいささか工夫が足りない。

[原文]
(4)and his correspondent signed herself with a flourish his ever Constance Culmington.

[旧訳]
(4)そして発信者は「あなたのコンスタンス・カルミントン」と美しい筆跡で署名していた。

[若島訳]
(4)そして差出人は”あなたのコンスタンス・カルミントン”と美しい筆跡で署名していた。

[新訳]
(4)そして最後に、きどった飾り文字で”コンスタンス・カルミントン”と書名があった。


 再び、語り(地の文)だ。「 with a flourish」の訳に食い違いが目立つが、それはひとまずおいて、注目すべきは「差出人(発信人)は…署名していた」という語りだ。これは見事な叙述トリックと言っていい。「カルミントンが」とは書かれていない。もちろん手紙の真偽は、この時点では不明なのだが、少なくとも「あけすけに」真実を書けないために、語り手は「思わせぶりな」叙述をしている。ところが新訳では、意訳によって叙述トリックの痕跡があっけなく消えてしまっている。

 だからと言って、新訳の青木久惠さんを糾弾するつもりは僕にはない。この程度の翻訳の工夫で「あっけなく」消えてしまうのが、叙述トリックの特徴だ。それは「言い回し(レトリック)」に仕掛けがあるからだ。翻訳で読む読者に原文のレトリックが伝わるように訳す事が翻訳家の使命である以上、これは致し方ない。どうしても消させないためには、翻訳家と、若島のような再読者(分析者)との協力が必要だ。ただし、この箇所の叙述トリックは若島の小論でも指摘されていないので見逃されている可能性がある。

[原文]
(5)Mr. Justice Wargrave cast back in his mind to remember when exactly he had last seen Lady Constance Culmington.
(6)It must be seven - no, eight years ago.
(7)She had then been going to Italy to bask in the sun and be at one with Nature and the contadini.
(8)Later, he had heard, she had proceeded to Syria where she proposed to bask in yet stronger sun and live at one with Nature and the bedouin.

[旧訳]
(5)ウォーグレイヴ判事は、レディ・コンスタンス・カルミントンに最後に会ったのはいつだったであろう、と回想した。
(6)七年ーいや、八年もむかしのことだ。
(7)そのとき、彼女は日光を浴び、自然と農民とに親しむためにイタリアへ旅行しようとしているところだった。
(8)その後、彼女はさらに強い日光を浴び、自然と遊牧の旅とに親しむために、シリアへ行ったということだった。

[若島訳]
(5)レディ・コンスタンス・カルミントンに最後に会ったのはいったいいつのことだったか、とウォーグレイヴ判事は回想した。
(6)きっと七年ーいや、八年前だ。
(7)当時彼女は日光を浴び、自然や農民と交わるために、イタリアへ旅行しようとしているところだった。
(8)その後、聞くところでは、さらに強い日光を浴び、自然や遊牧民と交わるために、シリアまで足をのばしたらしい。

[新訳]
(5)レディ・コンスタンス・カルミントンに最後に会ったのは、いったいいつだったろう。ウォーグレイヴ判事は思いだそうとした。
(6)あれは七年前ーいや、八年前だったか。
(7)あのとき婦人はイタリアに出かけるところだった。自然と農民に囲まれて、日光浴をするのだと言ってー
(8)そのあと、はるばるシリアまで足をのばしたという噂が耳に入ってきた。自然と遊牧の民ベドウィン族に囲まれて、さらに強い太陽を浴びるためにー。


 (5)〜(8)は、一言で言えば、すべて判事の心理描写だ。しかし、ここは原文をみながらでないと、語り手が非常にあやうい綱渡りをしていることに気づきにくい。いわゆる間接話法と直接話法とがシームレスにつなげられているからだ。

 まず(5)では「…と回想した(思いだそうとした)」と書かれているので「レディ・コンスタンス・カルミントンに最後に会ったのは…」の部分が判事の心理であることを疑う理由はない。つぎの(6)は話者の主観がにじむ「no,eight years」というフレーズで、判事の心理だとわかる。

 (7)は、それだけでは間接話法か(判事の回想か)、客観描写(話者の語りか)の区別がつかない。しかし(7)と(8)が対の表現になっていることに注目すると、(8)が「聞いたところによると」というフレーズが挿入されていることから、(7)(8)いずれも判事の心理描写になる。

 このように引用符もなくイタリック体でもなく、間接話法の目印さえもない書き方をするっと忍び込ませることで、作者は僕らを罠へと誘う。まんまとひっかかったのは、誰あろう著者自身だ。

 (5)〜(8)には、ひっかけめいた叙述は目立たないが、次の出番をまっている判事の心理に説得力を持たせる「呼び水」の役割を果たしている。

[原文]
(9)Constance Culmington, he reflected to himself, was exactly the sort of woman who would buy an island and surround herself with mystery!

[旧訳]
(9)たしかに、コンスタンス・カルミントンは島を買いとって謎の生活を送ろうとするような女だった。

[若島訳]
(9)コンスタンス・カルミントンは、いかにも島を買いとって、謎に包まれるのを喜びそうな女だ。

[新訳]
(9)判事は思った。コンスタンス・カルミントンこそ、いかにも沖合いの島を買いとって謎めいた噂に包まれそうな女性ではないか!


 (9)が判事の心理であることは原文をみればあきらかだ。「he reflected to himself」という挿入句の存在が間接話法であることを明示している。それだけでなく文末に感嘆符がつくことからも、一般的にいって語り手が主観を込めて描写しているとは信じがたい。以後、登場人物の心理を示す感嘆符は多用されるので、話者と登場人物とのいずれの主観なのかを判別する目印として、あてにできるかを注目していきたい。

 ところで、これまでの訳文を比較する限り、若島訳は自分に都合がいいように清水訳から「いいとこ取り」しているにすぎない。それがもっともわかるのが、この(9)だ。3者の訳の中で新訳のみが「判事は思った」という間接話法の目印をきちんと訳しているが、若島訳は旧訳にならって省いてしまった。少なくとも叙述トリックの罠を知り抜いているはずの「乱視読者」ならば、まっさきに訳さねばならない箇所だろう。目印を落とす事で判事の心理なのか語りの陳述なのかの区別が訳文からはつきにくくなってしまった。

[原文]
(10)Nodding his head in gentle approval of his logic, Mr. Justice
Wargrave allowed his head to nod...
(11)He slept...

[旧訳]
(10)ウォーグレイヴ判事は自分が下した結論にみずからうなずきながら頭をうなだれた…
(11)彼は眠りはじめた…

[若島訳]
(10)自分の論理に満足そうにうなずいて、ウォーグレイヴ判事はそのまま頭をうなだれた…。
(11)彼は眠りはじめた…

[新訳]
(10)自分の出した結論に満足した判事は、こっくりうなずいた、そして、うなずいたままうなだれて…
(11)判事は眠っていた…


 若島訳がいつになく自己主張しているのは、ここに若島がねらいをつけた重要な記述があるからだ。(5)〜(9)の判事の回想で、コンスタンス・カルミントンが旅行好きで、強い日差しを浴びながら自然や農民に囲まれて過ごすことをなによりも好む人間だということを判事は思いだしている。そこで結論として「(カルミントンは)島を買いとって暮らしていそうだ」と納得する場面だ。いや、ふつうはそう解釈できる。

 ところがここはそうみえるだけで、実はレディ・カルミントンが「島を買いとりそうな女性」なので、「(偽の)手紙の差出人としてうってつけである」と考えた事に判事自身が満足する場面だとも解釈できる。まさに叙述トリックだ。その点を指摘した著者は得意満面な口調で、

ウォーグレイヴ判事が「自分の論理に満足そうにうなずい」たのは実はそうした理由だったのである。


と書いている。旧訳の「自分が下した結論」という言い方が気に入らず、わざわざ「自分の論理」という訳に置き換えたのも、若島が見つけた虎の子の叙述トリックを台無しにしてほしくないからだ。しかし、直訳調の訳でなければ叙述トリックが見えにくいと考えるのは若島の邪推ではないだろうか。旧訳も新訳もそろって「自分が下した(出した)結論」と訳しているが、翻訳としては若島の訳より分かりやすい。それだけではない。「自分が下した結論」の方が「自分の論理」よりも叙述トリックらしく思わせぶりが利いている。

 そもそも「結論」とすると判事が犯人である可能性がなくなり、「論理」とすると可能性が出てくるという若島の”論理”(あるいは”結論”)は承認しがたい。いみじくも若島が指摘してみせたように、この箇所では「レディ・カルミントンが島を買い取りそうな女性」であった過去の印象から、判事は「手紙の差出人は彼女に違いない」と結論づけたかもしれないし、あるいは「手紙の差出人として彼女を選んだのは正しかった」と結論づけたのかもしれない。読者はいずれとも受け取れるからこそ、叙述トリックが成立している。だが若島訳の「自分の論理」という表現では、そもそもが何を指し示しているのかが分かりにくいため、叙述トリックが成立しにくくなっているように僕には感じられる。

 だが、翻訳家・若島正をいつまでも糾弾すべきではない。なによりもまっさきに指摘しなければならないのは再読者・若島正の誤謬だ。それは、(10)が「判事の心理描写」ではないという一点だ。ここは誰がみても「全能の話者による三人称の語り」に間違いない。つまり「自分が下した結論」であろうが「自分の論理」であろうが、いずれの訳を採用しようとも、このような思わせぶりな表現を選択したのは語り手自身だ。

 一方で、この箇所の叙述トリックは「明るい館の秘密」の著者が自らの主張を裏付けるために、わざわざ作品の導入部から採り上げてみせた実例だったはずだ。その主張というのが「登場人物の心理描写に叙述トリックが隠されている」というものだった事はすでに説明した。しかし若島は、分析する際にはもう心理描写なのか地の文なのかの区別を忘れている。実例にそもそも若島の勘違いがあるようでは、何を証明しようとしていたのかわからなくなってしまう。

 ここでもう一度、(1)〜(11)までの分析結果をまとめる。○△×は叙述トリックの有無を検証した結果(×は無し、△は有るか無いかは微妙、○は有り)を示している。

(1)語り        ×
(2)語り        △(筆跡の読みづらさを感じているのは「判事or語り手」)
(3)手紙文面(差出人の会話に相当)      ×
(4)語り        ○(手紙を書いた人物名をあかさない)
(5)判事の心理(+語り)  ×
(6)判事の心理     ×
(7)判事の心理     ×
(8)判事の心理(+語り)  ×
(9)判事の心理(+語り)  △((10)の「結論(論理)」の解釈をアシストする心理)
(10)語り        ○(「結論(論理)」が二つの意味にとれる)
(11)語り        ×

 すぐにわかる事は、主として「語り」の部分に叙述トリックが仕掛けられているということだ。著者の主張に合致するのは、たかだか(9)一箇所だが、ここは直後の(10)の語りを手助けする“アシスト”にすぎない。

 また、(1)〜(11)を通して眺めると、

語り→差出人(会話)→語り→判事の心理(間接話法)→判事の心理→判事の心理(間接話法)→語り


のように見事な手際で「語りと心理のつなぎ目」が消されている。著者が(10)を「心理描写」とみなしてしまったのも、一概に責められない。それほど作者クリスティの叙述トリックは周到で巧妙なのだ。では、ここで作者に登場してもらって『そして誰もいなくなった』の核心について語ってもらおう。筆者・若島も小論の中で引用している文章だ。

 わたしが『そして誰もいなくなった』を書いたのは、十人の人間が死んで、しかも愚劣にならずに、犯人も明らかではないという、実現困難なアイデアに魅了されたからだった。書く前にはかなり綿密な計画を立てたし、その出来上りには満足している。簡明直裁で、不思議な事件だが、まったく合理的な解決が与えられる。実は、その解決をつけるためにはエピローグが必要だった。この作品は好評で迎えられたが、いちばん満足しているのはこのわたしである。なぜなら、わたしはどの批評家よりも、これがどれほど実現困難かを知っているのだから。(アガサ・クリスティ『自伝』)


 クリスティがここで触れている『そして誰もいなくなった』の「実現困難」な部分とはなにをさすのか?若島は、「十人の人間が死んで犯人も明らかでない」というトリックの事ではなく、叙述トリックにあるとみた。これはある意味では正しい。なぜならば、犯人が実は最後まで死んでいないというトリックについては、誰を犯人とするかは作者の裁量にまかされているからだ。結末での告白の書き方で、いかようになりそうだ。

 だからこそ「愚劣にならずに」という点に作者の苦労があったはずだ。その苦労こそが、さまざまな箇所に仕組まれた叙述トリックである事は間違いない。

 だが若島は叙述トリックの使い道を「登場人物の心理描写」に限定してしまった。三人称の語りをさっさと視野からのぞいた挙げ句に、著者は次のように断定する。

しかし、クリスティーの独創性は、そこに登場人物たちすべての心理描写を直接に書き込んだところにあった。彼らの心理描写は、会話と違って、嘘をつくことができない。普通に考えれば、犯人の心理が明るみに出されると、そこでその人物が犯人だとばれてしまうはずである。クリスティーは、犯人の心理もさらけだしながら、しかもそれでいて容易に犯人だと見破れないという、一見不可能に思える叙述トリックを狙ったのだ。


 著者の主張に反して、クリスティの叙述トリックの巧妙さは、語り(地の文)を含めた全体の構成をつかまないと理解できない。若島はクリスティの「実現困難」なトリックの核心に近づく読みの冴えをみせておきながら、さらに奥にかくされたトリックの森へと足を踏み入れそこなったのだ。

 ところで、ここまでの読み方は「再読者」としての解釈だ。改めて(1)〜(11)の分析一覧表を見てほしい。今度は「初読者」として叙述トリックをみたとき、「判事が犯人である」という根拠になるものが存在するだろうか?

 (2)の「筆跡の読みづらさ」を感じているのが判事ならば、読者は逆に「犯人ではない」という印象を受けるだろう。手紙が共犯者(モリス)によって書かれた可能性は、この時点での初読者には想像できない。

 (4)は語りである以上は「差出人」と書いても不自然ではない。そもそもが『そして誰も…』では、謎の手紙という印象を受けるように描写されるので、「差出人」という書き方は「レディ・カルミントンの書いた手紙」だと語り手自身も信じていないことを暗にほのめかした表現になっている。つまり、初読者は「差出人」という記述を、サスペンスの演出として受け止めるだろう。

 (9)は、犯人であろうとなかろうと、判事がカルミントンに対していだいた印象にすぎない。どちらかといえば、判事が手紙の内容を鵜呑みにしているという印象を読者に与えそうだ。

 (10)の「結論(論理)」は再読者にとっては再重要キーワードだろうが、初読者は見抜けるだろうか。語りの客観性を信じる読者ならば、見落とす可能性が高い。たとえ見抜いたにしても、たかだか犯人である「可能性」を示すにすぎない。

 結論を言うと、

 判事は「犯人である」可能性は残るが、確定的な根拠はない。

ということになる。判事を犯人扱いするためには、引き続き他の登場人物の導入部での描写を分析する必要がある。

  
(2010/12/18初出,2012/3/8改訂)
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2012年03月13日

「明るい館の秘密(若島正)」の過失(その3)(2012/2/27改訂)

(この記事では、アガサ・クリスティー著『そして誰もいなくなった』と『アクロイド殺し』のネタバレを行っています。未読の方は読まないようにお願いします。)

 前回は『そして誰もいなくなった』の第11章6節と第13章1節に出てくる「誰のものとも特定されない心理描写」に関する若島正の分析の是非を詳しく検討した。引き続き若島が取り上げた3箇所の心理描写のうち、導入部(第1章1節〜8節)の分析についても同じように詳しく検討する。

 しかしその前に1回分を費やして、若島の主張する「叙述トリック」についておさらいしておこうと思う。これまで僕ら読者は、若島から教えられた「叙述トリック」の仕組みを鵜呑みにし、指摘された場面で提示された実例に従ってレクチャーを受けるだけだった。だが、いつまでも受け身でいるわけにはいかない。これから僕が問題にしようとしているのは、若島の思い描く「叙述トリック」そのものの信憑性なのだ。

 『そして誰も…』で本当に評価すべきは、犯罪(犯人)のトリックではなく作者の叙述トリックにあると若島は言う。その叙述トリックは、ふつうの意味の叙述トリックとはかなり違っていて、「登場人物たちすべての心理描写に嘘が書かれていない」という点にあるらしい。これのどこが普通の叙述トリックと違っていて、どのようにすごい事なのかを説明するために、若島は同じ作者の『アクロイド殺し』という作品を持ち出す。

 『アクロイド殺し』は、ミステリファンにはおなじみの「語り手(医師)イコール犯人」という究極の「叙述トリック」を使った問題作だ。ポイントは「犯人による一人称の語り」にある。語り手が犯人ならば、嘘をついている可能性を排除できない。アンフェアと言われても致し方ない。ところが『そして誰も…』はそれとはずいぶん違っているとして、若島は次のように説明する。

しかし、『そして誰もいなくなった』の場合は、まったく事情が異なっている。つまり『アクロイド殺し』の一人称に対して、『そして誰もいなくなった』はいわゆる全能の話者による三人称の語りなのだ。三人称の語りにおける地の文は、読者が真実として受け取らなければしかたがない(これはクリスティが自らに課していた条件でもある)。鵜呑みにできないのは、登場人物たちの会話である。しかし、クリスティの独創性は、そこに登場人物たちすべての心理を直接に書き込んだところにあった。


 若島の主張を、順を追って要点のみ列挙してみよう。

(1)『アクロイド殺し』は一人称の語りだ。

(2)『そして誰もいなくなった』は、全能の話者による三人称の語りだ。
(三人称の語りは真実しか書かれていない。クリスティも自らに課している。)

(3)登場人物の会話は信用できない(嘘をついているかもしれない)

(4)登場人物の心理描写には嘘はない。
 (ただし、「誤読を誘う書き方」(叙述トリック)が仕組まれている。)


 若島の主張の核心はもちろん(4)だ。ここでぜひとも注目したいのは、誤読を誘うような書き方(叙述トリック)自体を若島は嘘だとは考えていないという点だ。では、若島はどのようなものを「叙述トリック」として想定し、同時に「嘘ではない(フェアである)」と認定しているのだろうか。大まかに言って、次のような二大原則が考えられる。

・一見すると「犯人ではない」と読者に思わせる心理描写(「思わせぶりの心理」)を書いてよい。
・犯人だとすぐに読者が見破ってしまうような心理描写(「あけすけな心理」)を書かなくてよい。


 このような描写には「だましはあるが嘘はない」というのが、(4)において著者・若島正が考える「真実」の意味である。

 それでは、遡って(2)の「全能の話者による三人称の語り」について考えてみよう。若島は『アクロイド殺し』における「一人称の語り」と違って、『そして誰も…』における「全能の話者による三人称の語り」は、真実と受け取らなければしかたないと言っている。要するに鵜呑みにしていいと考える。しかしそうすると、(2)における「真実」は(4)における「真実」とはずいぶん違った意味で使われている事になる。

 もし(4)で「心理描写」に叙述トリックを持ち込む事が真実であってアンフェアではないのだとすると、(2)の「語り(客観描写)」に叙述トリックが仕組まれたとしても、若島の立場からすればアンフェアだとは言えないのではないだろうか。そうなると、若島が易々と信じている「地の文」の真実を、本当にクリスティが遵守しているのかも疑わしい事になる。

 事実、『そして誰も…』では、登場人物の心理描写に限定されることなく、全能の話者が語る地の文の至るところに「叙述トリック」が仕組まれている。これについては若島の導入部に対する分析を検討する際に明らかにできるだろう。

 では何故に、若島は「叙述トリック」の分析を登場人物の心理描写だけに限定してみせたのだろう。もちろん「全能の話者による三人称の語り」を小説に採用する際の約束事を無条件で信じたからだろう。それはいわば”小説の作法”と言ったもので、文学作品をテクストとして読み解いていく評論家としての立場からすれば当然の姿勢なのかもしれない。

 それとは別に、若島が自身の独創的なアイディアを際だたせる必要に駆られたという事もあったはずだ。地の文には〈真実〉が書かれているとしても、心理描写という境界では「叙述トリック」という形式で犯人の手がかりが露わになっていると信じた上で、そこだけにしか手がかりはないと読者に思い込ませようとした。

 そこまでならばミステリーファンをも唸らせる見事な発見だと賞賛されるところだが、若島は心理描写だけを分析すれば誰でも次の事を明らかにできると口がすべってしまった。

(a)(初読者であっても)叙述トリックの手口が理解できる(だましはあるが嘘はない)
(b)犯人を特定できる。


 (a)(b)の主張に根拠がない事は前回までに証明した。「登場人物の心理描写における叙述トリック」という若島のアイディアにみどころがあるとしたら、400頁近くある長編の中に心理描写は限られていて、簡単に検証できるという点だろう。この部分に「思わせぶりの心理」が仕込まれている可能性は高いとふんだわけだ。

 だが、言ってよければ作者クリスティは「語り手や登場人物」と結託して、三者一丸となって読者をだましにかかっている。さきほど列挙した要点の(2)と(4)での「真実」を使い分ける分別など、ミステリーの女王には無用というわけだ。だとすると、若島のように「心理描写」だけにこだわる視点では、クリスティの仕掛けた「叙述トリック」のほんの一部しか見ていない事になる。僕らは若島の主張を鵜呑みにせず、地の文(語り)を含めた視野を回復しなければならない。

 具体的には、犯人以外の登場人物の心理描写も、地の文(語り)さえも、「叙述トリック」の分析対象とするしかない。若島のように『そして誰も…』の導入部で犯人の心理描写だけを分析するのでは不十分であり、二重、三重の過ちを犯している可能性がある。

 (その2)で詳しく見てきたように、「思わせぶりの心理」を完全に読み解くことができるのは再読者しかいない。しかるに若島は、初読者が場面ごとに「思わせぶりの心理」を読み解く根拠がどの程度存在するかを示していない。しかも、問題はそれだけでは済まない。犯人以外の登場人物も、犯人とは逆の意味で「思わせぶりな心理」を抱いているかもしれないのだ。叙述トリックの奥深さはここにもある。犯人でない人物が犯人らしくみえる「思わせぶり」もまた、初読者を惑わすからだ。となると「叙述トリック」の分析では、犯人らしくみえて実は犯人ではない事を読み解く根拠がどの程度存在するかも検証していかねばならない。その上に、語り(地の文)の叙述トリックも待ちかまえている。

 ずいぶんと入り組んできたので図式化しておこう。

・犯人は「犯人でない」かのように振る舞い、「犯人でない」かのような心理を抱く。
・犯人以外の人物は「犯人である」かのように振る舞い、「犯人である」かのような心理をいだく。
・語り手は真実を客観的に述べるが、時に「客観的にみえる」ような描写をする。


さらには、

・作者は、犯人に「あけすけな心理」を抱かないようにできるし、登場人物全員に「思わせぶりな心理」を抱くようにできる。


 こうまでも周到に仕掛けられた叙述トリックを初読者が見破れるわけがない。叙述トリックに感嘆するのであれば、ここまで言うべきだろう。若島が「叙述トリック」を見る視野はせまい。そのせまさのせいで、犯人も犯行もすべて知った上で「(初読者にも)犯人が推定できる」という結論に飛びついたのはあまりに迂闊だった。迂闊さを呼び込んだ根本には、若島が得意とする「再読」という手法の危うさが潜んでいる。

 再読者は、おそらく一度は初読者として小説を読み通してから、遡ってトリックの痕跡を洗いざらい白日の下にさらす。その上で再びスタート地点に立って読みだした時には、作者が用意したトラップ(罠)に引っかかる事なく、一直線に犯人の言動や行動だけに注目できる。だからと言って、初読の時から作者のトリックをすべて見抜いていたと主張できるわけではない。なのに自分以外の読者には何故か「叙述トリックが見抜ける、犯人が特定できる」などと理屈に合わない事を一貫して主張してしまう。

 ところで、ここまで若島の主張にどっぶりとつきあってみると、とても変な気分がしてきた。なぜか居心地が悪い。実は若島正も僕ら読者も、作者アガサ・クリスティの恐るべき罠にまんまとしてやられたのではないだろうか。何のことかと言えば『アクロイド殺し』の事だ。

 クリスティ作『アクロイド殺し』では、田舎町の医師ジェイムズ・シェパードによる一人称の語りで事件の一部始終が語られる。その中には、医師から見た客観描写もあれば、医師自身の心理描写もある。言ってみれば『アクロイド殺し』という作品は、徹頭徹尾シェパード医師の主観から成り立っている文章だという事になる。こういう文章を僕たちは「独白」と言ったり、「手記」と言ったりする。

 客観的な描写と言っても、医師自身によって書くことと書かないことの選別が行われている以上、「語り手イコール犯人」だとあかされた時点でアンフェア論争がまきおこるのは必然だった。その根拠は簡単に言うと次のように説明できる。

・語り手が犯人ならば、嘘をつくのも簡単だ。嘘は書かれていないとしても、思わせぶりな表現で読者をだましている。
・犯人ならば当然書くべきこと(人を殺して血をぬぐって…など)を書かないですます事も簡単だ。


 こういってクリスティは一部の評論家やミステリーマニアから袋叩きにあったのではなかったか。しかし、実際に『アクロイド殺し』の文章を分析してみればわかるように、どこをどう叩かれようともクリスティは嘘は書いていなかった。語り手自身が自らを犯人でないかのように、言い換えれば読者の「誤読をさそう」ように、書き方を工夫したにすぎない。

 この『アクロイド殺し』におけるクリスティの手際は、『そして誰も…』で登場人物の心理描写に用いた手法となんら変わるところがないように思われる。つまり『アクロイド殺し』の全文が「一人称の語り」ではなく、シェパード医師の主観描写あるいは心理描写だと見なしたとしても同じ事だ。前述した若島の主張の要点(1)と要点(4)を比較してみればいい。クリスティは『アクロイド殺し』で一人称の語りを採用したからといって、でたらめを書いたわけではない。「語り手イコール犯人」という綱渡りをするからには、できるだけ真実に添うようにシェパード医師に語らせたに違いない。と同時に作者は、シェパード医師に主観的な陳述に関しては思わせぶりに描くことを許し、肝心な場面(夫人が殺される当日の描写など)では、容易に肝心な事は書かせなかった。それでも若島は『アクロイド殺し』の一人称はアウト(アンフェア)だが、『そして誰も…』の犯人の心理はセーフ(フェア)だと言っている。これは奇妙な事ではないだろうか。

 実は『そして誰も…』における心理描写の「セーフ(フェア)」を保証しているのは、「全能の話者による三人称の語り」の信頼性そのものなのだ。この話者が責任をもって客観描写を行うと信じられるからこそ、登場人物の心理描写でさえも客観性が保たれている。言い換えれば「嘘がない」ことが保証される。一方、『アクロイド殺し』では一人称の話者そのものに信頼が置けないので「嘘をつかない」事がどうしても保証されないと見なされる。だからこそ『アクロイド殺し』アンフェア説は今なお消える事がない。

 話者の人称の違いに着目した若島は、次のように書いている。

 その読み終わってからの疑問とは何か? それはすでに述べたように、登場人物全員の心理が明かされていたにもかかわらず、なぜ犯人が犯人だと見破れなかったのかという疑問である。犯人の心理描写はどうなっていたのかという視点で再読を試みれば、たしかにクリスティーの「綿密な計画」が読み取れる。そして、「クリスティー自身に、手がかりを与える気など最初からなかった」のではなく、充分な手がかりを与えながらかつ容易に尻尾をつかませない、その叙述の手口の巧みさに感嘆することになるのだ。


 しかしクリスティが飼い慣らしている話者は、若島が言うほどには「真実」を語っていないようだ。嘘はないかもしれないが、思わせぶりな描写はいたるところで見られ、肝心な事は描写しない戦略が、作品の地の文全体に貫かれている。若島は、そこにこそクリスティの「綿密な計画」を読み取るべきだった。ところが、三人称の語りは「真実」だと無条件に信じて、再読の対象から除外してしまった。若島にしてみれば、地の文を除外できた事で「登場人物の心理描写」の重要性が高まったかのように見えたかもしれない。しかし、それこそクリスティの思うつぼだった。

 作者クリスティは『アクロイド殺し』のアンフェア論争を教訓として、『そして誰も…』では「全能の話者による三人称の語り」を採用した。「(語り手に真実のみを語らせる事を)自らに課した」からだと若島は考えたが、実はクリスティの狙いは別にあった。三人称の話者に語らせることで地の文(客観描写)から読者の注意をそらそうとしたのだ。

 これは、かつてエラリー・クイーンを評したディクスン・カーに「読者の前をたった一つの手がかりさえ通過させてしまえば、あとは何から何まで”密輸入”することに成功してしまう」とまで言わしめたクイーンのマジック以上のマジックと言えるかもしれない。クリスティは「登場人物の心理描写」というたかだか一枚のカードを、瞬時に別のカードに変えるクローズアップマジックを演じてみせたわけではなかった。地の文(語り)という「動かしがたい巨大建造物」を、あの天才魔術師デヴィッド・カッパーフィールドさながらに、僕らの目の前から消してみせたのだ。
(2010/12/11初出,2012/2/27改訂)
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2012年03月11日

「明るい館の秘密(若島正)」の過失(その2)(2012/2/24改訂)

(この記事では、アガサ・クリスティー著『そして誰もいなくなった』のネタバレを行っています。未読の方は読まないようにお願いします。)

 今回は小論「明るい館の秘密」で著者・若島正が行った『そして誰もいなくなった』の分析について詳細に検討する。その前にまず、『そして誰も…』とはどんな作品であるかをおさらいしておこう。

 ミステリーの女王アガサ・クリスティが世に送り出した100以上の作品の中でも一、二を争うほどに有名な代表作である。ストーリーの性質上、ポアロやマープルなどの名探偵は登場しない。

 大富豪の邸宅があると噂される孤島に10人の男女が招かれる。リゾート気分を満喫できると思って集まった彼らを待ち受けていたのは、謎の富豪の声による、過去に彼らが犯した罪に対する糾弾と死の宣告だった。彼らは次々にマザーグースの童謡の見立てどおりに殺されていく。島には彼らのほかに誰も隠れていないとわかり、残された人々は疑心暗鬼に陥る。最後に残った一人が異常な興奮状態の中で自ら命を絶ったことで、ついに島には「誰もいなくなった」。

 だが、漁船が拾い上げた瓶に封じ込められていた手紙には、ウォーグレイブ元判事の告白が綴られていた。判事は長年の判事人生で出会った「法律では罪を問えなかった人々」を自らの手で断罪する事にした。判事は、島で出会ったアームストロング医師を欺いて、自らが死んだように見せかけて真犯人に罠を仕掛けるという偽の計画に協力させる。判事のたくらみによって、判事の見せかけの死後、生存者は彼らの中に犯人がいると思いこみ、アームストロング医師も判事にだまされたまま殺害される。引退して悠々自適のはずの判事が犯罪を犯すにいたった動機は、不治の病で余命わずかと宣告されたためだと手紙の最後で初めて読者に明かされて、物語は幕を閉じる。

 あらすじからわかるとおり、『そして誰も…』は2つの部分から構成されている。一つは、一人また一人と殺されていくスリラーの第一部であり、その後の第二部では、犯罪が完結して誰一人残らなかったトリックのタネが明かされる。ここでは、第一部のスリラーとはうってかわって本格ミステリーらしくきちんとした辻褄を犯人自らに語らせるという趣向の面白さが際だっている。

 しかしどちらかというと、第二部はミステリーとしての辻褄合わせの意味合いが強く、第一部の強烈なスリルとサスペンスには勝てない。クリスティー文庫の新訳の解説でも赤川次郎氏は「エンターテイメントとしてのミステリー」の傑作だと言い切っている。

 その言葉どおり、作者は本編でもっぱらスリラーの演出に力を注ぎ、犯人を指摘するための手がかりをあまり与えようとはしていないというのが、大方の読者や批評家の印象のようだ。これに対して、若島正は『明るい館の秘密』の中で登場人物の心理描写に着目すれば、作者クリスティが仕掛けた「叙述トリック」の存在があきらかになり、犯人が誰かも解読できると主張した。つまり第一部でクリスティは読者に対して十分にフェアな手がかりを与えていると、従来の大方の印象とは異なる持論を展開したのだ。

 若島が分析に使用した「登場人物の心理描写が描かれている3カ所」を以下に示す。

@登場人物たちがインディアン島におもむく導入部(1-1〜8)
A4人が死んで、残りの6人の心理描写が特定されずに列挙される箇所(11-6)
Bさらに一人死んで、残り5人の心理描写が特定されずに列挙される箇所(13-1)


 この3カ所で著者が主張するポイントは以下のとおりである(分析の都合から便宜的に5つに分類した)。

(a)この箇所には、叙述トリックが仕掛けられている。言い換えれば、ある人物(=犯人)の心理描写において、読者の誤読を誘うような書き方がしてある。
(b)その誤読を正せば、犯人以外の登場人物たちの心理描写との比較から、いかにそれが書き分けられているかがわかる。
(c)AおよびBでは、特定されていない心理描写が、その言葉遣いなどに注目すると、誰の心理描写かがすべて特定できる。
(d)誰の心理描写か特定できた後で読み直せば、舞台裏で進行しているある計画の姿が見えてくる。
(e)そこでも、犯人を推定することは可能である。つまり、小説全体は論理的に構築されている。
(注)(a)(b)…の記号は便宜的に付与した。


 この若島の主張が正しいか否かを検討するにあたって、前提条件を確認しておこう。

・分析者は初読者とする。初読者は犯人の名前も犯人のトリックも、以後の事件の経過も、結末も知らない。
・分析者は、再読者から『そして誰もいなくなった』には「叙述トリック」が存在する事を耳打ちされているものとする。
・再読者から耳打ちされた叙述トリックとは、「登場人物の心理描写にはすべて本当の事が書かれている」という事である。
・叙述トリックが仕掛けられた箇所として@〜Bに注目するように、初読者はあらかじめ教えられている。
・分析者は、分析する箇所(時点)までに知り得た事は分析に利用してかまわないが、それ以降に知る事になる情報は使えない。


 ここで注意したいのは最後のポイントだ。分析者は「叙述トリック」を耳打ちされた初読者であるというのが大前提であるが、実際には若島のような再読者が初読者の振りをして分析せざるをえない。そのため、分析者はついつい前提を踏み外してしまいがちだ。本当に既知情報だけで「犯人の推定」が可能なのかは、よくよく検討する必要がある。

 それでは若島の主張の検証にとりかかる。
若島が実際に小論で分析した心理描写は3カ所あるが、前述の5つの主張のうちの(c)以降はAおよびBに関するものなので、AとBをはじめに分析する。なにより著者は、AとBの分析に「ご執心」なのだ。僕としても@は後でじっくりと分析したい。

[Aの分析]
 11章6節(以下11-6)では、すでに4人が殺害されている。この箇所では生き残りの6人の心理描写が「誰のものだと特定されることなく」列挙されている。生き残りの6名とは、
ウォーグレイヴ(元判事)
ヴェラ・クレイソーン(秘書)
フィリップ・ロンバード(元陸軍大尉)
エミリー・ブレント(老婦人)
マッカーサー(元将軍)
アームストロング(医師)
ウィリアム・ブロア(元警部)

である。

 Aで列挙されている心理描写は、以下のA〜Fである。
A「次は?次は?誰が?どの人間が?」
B「うまくいくだろうか?どうだろうか。やってみる価値はある。時間さえあれば。まったく、時間さえあれば…」
C「狂信者だ、きっとそうにちがいない…。外見ではおよそ信じられないが…。もしまちがっていたら…」
D「狂っている−何もかも狂っている。気が狂いそうだ。毛糸が消えて−赤い絹のカーテンも−わけがわからない。さっぱりわからない…」
E「ばかな男だ、こっちの言葉をすっかり鵜呑みにして。ころりとひっかかった…。しかし、充分警戒しなければいけない」
F「あの小さな陶器の人形が六つ…たった六つ−今夜にはいくつになるのか?…」


 このように心理描写も6人分なので、それぞれが生き残りの6名の誰かに当てはまるはずだ。クリスティの原文にあたりたい方は、若島の小論で訳文と原文が併記されているので確認してもらうといいだろう。なお、小論の訳文(上記のA〜Fも)は翻訳家でもある若島自身の試訳だ。Bの分析で明らかになるが、若島はハヤカワ・ミステリ文庫の旧訳に不信感を抱いている。

 若島が最初に狙いを定めるのは、登場人物の口癖だ。Cの「狂信者だ」という非難めいた独白は、この場面に至るまでにブロア警部がエミリー婦人に対して何度も使っている。こういう口癖は叙述トリックの手がかりとしては重要だ。心理描写では人の口癖を真似る事はありえない。よってCはブロア警部である。

 Dの「毛糸が消えて」という部分は、編み物に用いる毛糸玉を指している。毛糸玉の所有者はエミリー婦人であり、彼女以外に毛糸玉に関心をいだく人物はいない。よってDはエミリー婦人である。

 Eの「充分警戒しなければいけない」という言い方は、ウォーグレイヴ判事の口癖だ。導入部@でも確かに同じ表現が使われている。よってEは判事だ。

 Eが判事の心理描写であるならば「ばかな男」はアームストロング医師を指すに違いないと若島は断定する。判事が二人きりで話し合う場面が描かれる相手はアームストロング医師しかいないからだ。しかし、この論拠はかなり怪しい。本格ミステリーファンであれば、即座に却下するだろう。書かれた事はすべて論理的に説明がつかねばならないが、書かれていないからといって「他の登場人物と二人きりで話し合ってはいない」とは言い切れない。そんな事を言い出したら、作者は犯人が犯行におよぶ殺害場面まで書かねばならなくなってしまう。「ばかな男」という表現が、判事が初対面の時に抱いた「医者はどいつもこいつもみんなばかだ」という印象と合致すると言うが、口癖とは違って根拠が薄弱だ。

 「ばかな男」がアームストロング医師であると若島が断定したがるのには訳がある。Eの「ころりとひっかかった」という心理には、次のような意味が込められていると解釈したいからだ。
ここで明らかになるのは、ウォーグレイヴ判事がアームストロング医師に嘘をつき、二人で何かの計画を舞台裏でひそかに進行させているという可能性である。


 つまり判事はアームストロング医師をだましているうえに、「なんらかの計画の片棒をかつがせよう」としているらしい。そう考えるとBの「うまくいくだろうか?」という心理描写は、判事にもちかけられた「計画」の成否を心配するアームストロングに当てはまる。まるで千里眼のような見通しではないだろうか。まさに再読者・若島は結末まで既に知り抜いている事を棚にあげて、自らを千里眼に仕立てている。

 Eの心理描写から判事が誰かをだましているのは確かだ。若島の言うとおり「何かの計画を舞台裏でひそかに進行させている可能性」を読み取るのも妥当な解釈だろう。だがEの心理描写だけで「二人で何かを計画している」と考えるのには無理がある。普通に考えれば、Eが単独で誰かをだまそうとしているとしか解釈できない。これこそが再読者・若島正の顔が出る瞬間だ。「二人による計画」という腹案は、結末での犯人の告白を判断材料にしない限り直接には出てこない。僕ら分析者は初読者であるから、慎みをもって千里眼を気取るのはやめにしよう。Bは未確定とする。

 ロジャースの死後、人形が1つずつ減っていくのを気にする役回りをヴェラが引き継いでいた事から、若島はFがヴェラの心理描写だと断定する。しかし、このような推論は口癖や物的証拠(毛糸など)と比べると根拠が弱い。状況証拠というか外延的な推論にすぎない。Fは保留とする。

 結局、(C=ブロア警部、D=エミリー、E=ウォーグレイヴ)の推定は妥当であるが、(A、B、F、ロンバート、アームストロング、ヴェラ)の対応関係は未確定のままに終わった。

[Bの分析]
 13章1節(以下13-1)では、Aの場面の6人のうちエミリー婦人が殺害されて、生き残りは5人となった。「特定されない心理描写」は五人分、列挙されている。

G「アームストロングだ…ちょうどあのとき、彼は横目で私を見ていた…あの目つきは狂っている…完全に狂っている…。医者ではないのかもしれない…そうとも、決っている!…どこかの医院から逃げてきた狂人で−医者のふりをしているのだ…。きっとそうだ…みんなに話そうか?…大声を出して?…いや、警戒させるのはまずい…。それに、彼は正気のように見えるだろうし…。何時だろう?…まだ三時十五分だなんて!…ああ、私も気が狂いそうだ…。そうだ、アームストロングだ…。彼は今、私の方を見ている…」

H「おれはやられないぞ!やられるはずはない…。何度も危い橋を渡ってきているんだ…。それにしても、ピストルはどこへいったんだろう?…誰が盗ったんだろう?…誰が持っているんだろう?…誰も持っていない−それはわかっている。全員、身体検査を受けたから…。誰も持っているはずがない…。しかし、誰かがありかを知っているはずだ…」

I「みんな気が狂いかけている…みんなそのうちきっと気が狂う…。死ぬのが怖くて…われわれはみな、死ぬのが怖い…。私だって怖い…。そうとも、だからといって死を免れることはできない…。<霊柩車が戸口に来ております。>どこで読んだんだろう。あの女…あの女を見張っていよう…。そうだ、あの女を見張るんだ…」

J「四時二十分前…まだ、四時二十分前だ…時計が止まっているのかもしれない…。わけがわからない…まったくわからない。こんなことが起こるはずはないのに…現に起こっているなんて…どうして目がさめないのか? 目ざめよ−最後の審判の日だ−いや、そんなばかな! 考えることさえできたら…。頭が−頭がおかしい−破裂しそうだ−割れそうだ…。こんなことが起こるはずはないのに…。何時だろう?ええっ、まだ四時十五分前か!」

K「正気でいるんだ…。正気でいるんだ…。正気でいさえすれば…。すべては明白だ…すっかり読めている。しかし、誰にも疑われてはいけない。うまくいくかもしれない。うまくいってくれないと!誰だろう?それが問題だ−誰だろう?きっと−そう、きっと−そうだ−あの男だ」


 Aの心理描写とくらべるとそれぞれの分量が増え、追いつめられた一人一人の内面がよく描かれている。クリスティのサスペンスの盛り上げ方はさすがというしかない。その一方で、作者は人物を特定できるような手がかりをどれだけ与えてくれているだろうか。若島は再び口癖から推論してゆく。

 Hの「何度も危い橋を渡ってきているんだ」と表現は、ロンバートの口癖だ。小説の導入部で最初に登場した際にも、ロンバートはまったく同じ独白をしている。Hはロンバートである。

 Jで「最後の審判の日」におののく人物は、ブロア警部以外に考えられない。若島が指摘しているように「審判の日」という言葉は、導入部でブロアと同じ列車に乗り合わせた「船乗りらしい老人」がブロアに向けて予言した言葉だった。悪趣味な冗談だと思って気にも留めなかったのに、ここに来て予言の通りになった自らの境遇に呆然としている。よってJはブロア警部だ。

 その次に若島は、Gはヴェラだと言う。なぜなら、以前ロンバートに誰が犯人だと思うか尋ねられて、「アームストロング医師が怪しい」と即座に答えていたからだ。だが、これは確定判断とは認めがたい。ヴェラ以外に「アームストロング医師が怪しい」と考えている人物がいない事が証明できていないからだ。よってGは未確定とする。ただし、Gはアームストロング医師でない事だけは言える。

 Kで「うまくいってくれないと」と心配している様子は、Bの「うまくいくだろうか」の繰り返しに見える。この部分は口癖ではないが、心理表現に統一感があるのでBと同一人物であるとほぼ断定してもいいだろう。ただしBが未確定だったので、Kも未確定になる。

 若島は最後にIを特定するためになんと消去法を用いている。だが、若島の分析と違って僕らの検証結果では一部の心理描写が未確定のままなので、Iの特定に消去法は使えない。Iに出てくる「あの女」とは、 女性で唯一生き残っているヴェラである事は間違いない。と同時に、Iはヴェラではない。

 結論としては、H=ロンバート、J=ブロア警部である事がわかる。(G、I、K、ウォーグレイヴ、ヴェラ、アームストロング)の対応関係は確定できなかったが、「K=B」および「Iはヴェラではない」という判断から、
 K=アームストロングorヴェラ
 I=ウォーグレイヴorアームストロング
 J=ヴェラorウォーグレイヴ
というところまでは分析可能だ。

 初読のミステリー愛読者がふつうに考えれば、ここまではなんとか読み解けるのではないかと思う。しかし、論理的かつフェアに推理しようと心がければ、これ以上の特定は難しい。ストーリー重視、サスペンス重視の読者はさっさと特定をあきらめて、物語の興奮が冷めやらぬうちに結末へと先を急ぐだろう(僕もその一人だ)。あるいは、ハヤカワミステリ文庫(旧訳版)の解説をつとめたミステリー評論家・各務三郎氏のような玄人に「クリスティ自身に手がかりを与える気は最初からなかった」という印象を抱かせる事になる。

 僕ら初読者はこれ以上の人物の特定はできないが、若島は消去法を用いて導き出した(と信じる)「I=ウォーグレイヴ判事」という結論を根拠にして、さらに分析を続ける。これは非常に危険な行為だ。これまでの判断に一つでも誤りがあれば、以後の推論は雪崩のように総くずれになってしまうからだ。そんな危険もかえりみず「I=判事」を根拠にして若島が明らかにしようとするのは、次の2点である。

1.「私だって((死ぬのが)怖い」という箇所は、不治の病を宣告された判事の心理を描写している。
2.ハヤカワミステリ文庫(旧訳版)の「怪しいのはあの娘だ」という訳は、叙述トリックにひっかかった誤訳だ。


 Iは若島が「叙述トリック」の勘どころとして取り上げている箇所なので、この2点を論駁すれば若島の主張はそれこそガタガタになるはずだ。

 まずは1について。ここまで読んでいただいた方は、僕が何を言いたいかすぐにわかってもらえるはずだ。そう、ウォーグレイヴ判事が不治の病に侵されているとわかるのは、十人全員が死んだ後に、判事が犯行を告白した告白書(が入った瓶)が海で発見された後に、語り手によって公表された時点だ。つまり、Bの場面で判事が不治の病をわずらっている事を知る手立てなど初読者にはない。

 ならば、たとえ「I=判事」だと推測できたとしても、「私だって怖い」という心理描写が犯人である事の根拠になりえない。要するに「私だって怖い」という心理が殺人鬼に怯えた心理でないと疑う根拠は、分析者(初読者)にはない事になる。たしかに、この表現には「誤読を誘う叙述トリック」が隠されているが、初読者にとって論理的かつフェアなトリックとは言えない。

 2について検討する前に一言言っておく。若島に誤訳呼ばわりされた「旧訳」とは、ハヤカワ・ミステリ文庫(旧訳版)『そして誰もいなくなった』であり、訳者は清水俊二である。ややこしい事に、若島の評論がミステリーファンのあいだで有名になったせいか、アガサ・クリスティ文庫が新たに刊行された際に、『そして誰もいなくなった』はハヤカワ・ミステリ文庫の旧訳をそのまま採用しつつも、既に亡くなられていた清水氏に代わって「誰か」(これも特定されていない。果たして誰だろう?)によって、若島の指摘どおりの訳に直されている。僕から言わせれば、出版社はうかうかと乗せられて早まった対応をしたものだ。

 著者が指摘した旧訳の誤りとは、Iの次のような箇所である。

(原文) The girl...I'll watch the girl. Yes, I'll watch the girl...
(清水訳)怪しいのはあの娘だ…そうだ、あの娘を警戒しなければならない…
(若島訳)あの女…あの女を見張っていよう…。そうだ、あの女を見張るんだ…

 ちなみにクリスティ文庫の訳は「娘…あの娘を見張っていよう…そうだ、あの娘を見張るのだ…」となっている。先ほども書いたが、全面的に若島訳を採用したと見るべきだろう。そして若島の考える「清水訳の致命的な誤訳」とは、結局のところ「怪しいのはあの娘だ」という表現だということになる。しかし何故これが致命的な訳なのだろうか。

 原文のI'll watch the girlは、直訳すれば若島訳のように「見張っていよう」となる。これはニュートラルな訳だが、人物Iの感情にもう少し踏み込むと、次のフレーズのように「あの女を見張るんだ」という意志あるいは義務となる。実は若島自身も、知らず知らずにニュートラルな直訳からIの心理に一歩踏み込んだ訳し方をしている。

 若島訳の「あの女を見張るんだ」からさらに一歩踏み込んだのが、清水訳の「あの娘を警戒しなければならない」という訳だと見ていいだろう。若島訳のようにwatchを単に「見張る」と訳すだけでは、Iの心理が充分反映されていないと判断して、清水訳は「警戒する」という言葉を用いている。つまり清水氏は、Iが「あの娘が犯人ではないか」と疑っていると見なした上で、Iの心理状態を反映した訳出を行っている。「怪しいのはあの娘だ」というのは「警戒」から導きだされる意訳だ。まさに心理が露出している訳し方で、普通に考えれば誤訳ではなく意訳として許容される範囲だろう。

 一方、若島の「あの女を見張っていよう」という訳はわかりにくい。若島の指摘に沿えば、原文が読者を「叙述トリック」でだまそうとしているために曖昧な表現にとどめているとも言えるが、果たしてそうだろうか。そもそもIが犯人だとすると、何故「あの女を見張」らなければならないのだろう。若島は次のように推測している。

 実際には、彼(Iの事)はヴェラのタフさを充分に見抜いていて、最後には彼女が残ることをすでにこの時点で予測しているのだ。要するに、訳者はそこのところを読めていない。その翻訳を通じてしか『そして誰もいなくなった』を読んだことのない一般読者には、もちろんそれがわかるはずがない。わたしが本稿を書く気になった本当の理由は、実はそこにある。


 若島は、これまで「叙述トリック」のうがった読みで僕らを導いておきながら、最後に「本稿を書く気になった本当の理由」が旧訳のたった一箇所の誤りを正すためだと言っている。しかもこの誤りは「小説全体の読みに関わる重大な問題をはらんでいる」とまで言い切っている。こうして旧訳の責任者・清水俊二は徹底的におとしめられる。

 だが、致命的な間違いをおかしているのは著者・若島正のほうだ。以下で証明しよう。

 先ほどのBの分析の検証から、次のことが言える。

・Iがウォーグレイヴ判事の心理である正当な根拠は存在しない。(判事orアームストロング医師である。)
・「私だって(死ぬのが)怖い」という表現に叙述トリックが仕組まれていると解釈する合理的根拠はない(「不治の病」を根拠にするのはNG)。
・だとすると、ほとんどの読者はIが犯人かどうかわからない。
・その「ほとんどの読者」の中には、誤訳をしたとされる当人(清水俊二氏)も含まれる。
・ならば、清水俊二氏が重大な過失をおかしたとは言えない。


 しかし若島は、あくまで旧訳版の「怪しいのはあの娘だ」という訳が「あの女を見張っていよう」と訳されていれば、ここに叙述トリックが仕組まれている事は「一般読者(初読者)」に容易にわかるはずだと主張するだろう。「あの女」を見張らねばならない理由は、「(Iが)最後には彼女が残ることをすでにこの時点で予測している」からだ。

 ほらね。待たしても若島は無意識に前提条件を踏み外してしまっている。一般読者(初読者)は、どうやったらBの場面でヴェラが最後まで残る事を知ることができるのですか?知ることができないのであれば、「あの女を見張っていよう」という表現に叙述トリックが仕組まれていると、初読者が考えうる合理的かつフェアな根拠はなんですか?

 要するにこういうことだ。「Iが犯人だ」とは確定できていない。未確定なので、訳語を「あの女を見張っていよう」に置き換えたところで、「あの女を見張る」が叙述トリックである合理的根拠はない。たとえIが犯人だと確定していたとしても、「見張る」ことの合理的解釈はない。どう考えても一般読者には、叙述トリックの持つ意味がわかるはずがない。若島の決め言葉にならって言えば「僕がこの書評を書く気になった動機は、まさにここにある」。若島の「要するに、訳者(清水)はそこのところを読めていない」という非難は言いがかりもはなはだしい。

 だが一方で、翻訳家はいつだって再読者ではないかという主張もありうる。訳者は犯人のトリックも結末もすべて知っている。ならば、やはり誤訳(本当は意訳)をした事の責任をとるべきだろうと考える人もいるかもしれない。しかし、それは見当違いだ。もう一度、この分析に入る前の前提条件を思い出してほしい。僕らは「叙述トリック」の方法論と場所を再読者から耳打ちされた初読者であった。方法論とは「登場人物の心理描写にはすべて真実が書かれている」というものだった。

 ならば翻訳家・清水俊二は、再読者・若島正から「叙述トリック」に関する耳打ちをしてもらっただろうか。答えは否。断じて否だ。耳打ちされていない一翻訳家が、玄人受けをねらった奇妙な「叙述トリック」を自力で見とおすことが果たしてできただろうか?しかも若島の発見した「叙述トリック」は、一般読者(初読者)の謎解きには一つも貢献しない事は今見てきたとおりだ。この場合でも、やはり翻訳家の責任は「重大であり致命的だ」などと言えるだろうか?

 これも否だ。そもそも「怪しいのはあの娘」という清水訳は、若島が言うような「小説全体の読みに関わる重大な問題」をはらんでなどいない。せいぜい「叙述トリックの読みに関わる重大な問題」をはらんでいると言えるだけだ。つまり「叙述トリック」には綻びがないという若島自身の自己満足(作者クリスティの自己満足でもある)が得られるだけだ。そんな自己満足などは一般読者には知ったことじゃない。

 それでも若島にしてみれば、訳者の不可抗力にせよ、トラの子の「叙述トリック」が訳文のニュアンスによって失われてしまうのは悔やんでも悔やみきれないのだろうと、同情する声もどこからか聞こえてきそうだ。しかし、これについても僕の答えは否だ。というのも、若島は「叙述トリック」分析のいかしどころを、心理描写の特定が最も難しい箇所(AおよびB)に求めているからだ。あたかも他には分析のしやすい箇所はないかのような振る舞いをしているが、これは若島の身勝手な都合にすぎない。なぜなら、若島が「叙述トリック」のありかとして注目した3箇所のうち、導入部の@(1-1〜8)で早々に犯人である判事の心理描写に「叙述トリック」が仕組まれていると、若島自身が指摘しているからだ。

 しかも、若島は@の分析を判事の心理に限っておこなっている。判事の心理描写に「叙述トリック」の存在を指摘しただけで「判事が犯人であること」を断定している。このような分析の手つづきも、今となっては不十分であると言わざるを得ない。ここで若島が分析した事は、せいぜい「判事が犯人であるかもしれない」という可能性だ。なにしろ、他の人物たちの心理描写にトリックがない事を検証していないのだから。

 若島は次のような言い訳をしている。

登場人物たち各人の意識の断片をつぶさに検討してみることは、それなりに興味深いことではあるが、本稿の目的ではない。


 この言葉を盾にして、若島は判事以外の登場人物の心理描写を分析せず、なおざりにする。これはあきらかに片手落ちだろう。もし「導入部での全員の心理描写を分析すれば犯人が特定できる」というのでは興ざめなので、どうせなら「ひときわ目立つ書き方」(若島)をしている箇所で、「叙述トリック」の手口の巧みさと、その論理性(犯人を正しく推理できる)という2点を一挙に示してみせようというのが、若島の野心であり身勝手な魂胆だった。つまりAやBは、自らの読みの切れ味を読者に示すためだけに選ばれたにすぎない。

 と同時に、そこには「悪意」がともなっている。さきほどの若島の言葉の中に、導入部を「つぶさに検討する」のは「本稿の目的ではない」と書かれている。そして、小論の終盤でBの分析を終えた直後に、「本稿を書く気になった本当の理由」は訳者・清水俊二の誤訳を糾弾することにあったと書かれている。語るに落ちたとはこのことだろう。著者・若島正にとって翻訳家・清水俊二の訳は「目の上のたんこぶ」だと自白しているも同然だ。それを「小説全体の読みにとって」とか、あるいは「一般読者にとって」の致命的な誤りだと思わせた罪状は、どうつぐなってくれようか。

 これで僕の言いたかった事、この書評を書く気になった理由を満足させる事ができたように思う。これからは、『そして誰もいなくなった』で作者クリスティがひそかにすべりこませたという「叙述トリック」の巧みさを楽しんで味わいたいと思う。本来ならば、これは言い出しっぺの若島正氏がすべきことだったはずだ。なのに、彼は「叙述トリック」という発見の独創性に目がくらんで、誤った方向に読者や翻訳者を道連れにしてしまった。

 次にやるべきことは、導入部での登場人物全員の心理描写を丁寧に分析する事だ。その際に、僕の楽しみとして、原文と旧訳と新訳(青木久恵訳)、ついでに若島訳(判事のみ)を併記して、どの訳が翻訳として妥当か、叙述トリックとして妥当か、などを見ていこうと思う。(つづく)

(2010/12/1初出,2012/2/24改訂)
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2012年03月09日

「明るい館の秘密(若島正)」の過失(その1)(2012/2/17改訂)

(この記事では、アガサ・クリスティー著『そして誰もいなくなった』のネタバレを行っています。未読の方は読まないようにお願いします。)


 以前、『ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18(小森収 編)』の中に収められた『明るい館の秘密』という小論を興味深く読んだ。これは「乱視読者」を名乗る批評家・若島正が、アガサ・クリスティー作『そして誰もいなくなった』の深読みを行った小論である。著者の深読みの独創性には敬意を払いたいが、結論から言うと主要な論点に致命的な欠陥がある事を感想(書評「ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18(小森収 編)」(その5))に書いた。しかし今回は、この小論が誤読に満ちている事、それだけでなく『そして誰もいなくなった』を愛する読者にとって弊害になる事を改めて説明したい。

 僕が言いたい事は3点ほどある。
(1)若島の主張する「叙述トリック」は、言わば手品のタネである。若島は手品のタネをあばいた上で「作者の手際の良さ」だけを賞賛するが、「手品そのものの出来映え」に対する正当な評価を欠いている。
(2)若島は「(『そして誰も…』は)論理的に構築されている」と主張するが、必ずしも論理的な構成とは言えない。
(3)「(『そして誰も…』は)犯人のトリックはつまらないが、作者クリスティの叙述トリックは賞賛できる」という若島の主張には異論がある。ましてや「再読しないと真価がわからない作品」という独断には、なんら正当な根拠はない。

 これだけの事を言い尽くせば、若島の小論に対して一矢を報いる事ができるのではないかと思う。と言うのも、若島の小論を読んで内容を鵜呑みにする読者や評論家が少なからず存在しているからである。若島の小論を収めた『ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18』の編者も、まさに鵜呑みにした一人だろう。これではクリスティーの名作の価値が正しく後世に伝わらない。さらには、著者が書いた無責任な一言によってハヤカワ・ミステリ文庫の旧訳が不当におとしめられたという事実も明らかにしたい。

 とりわけ、ちょうど新訳が出たばかりで、旧訳を正当に比較検討できる好機だ。きちんとしたミステリーマニアであれば、単純に「旧訳はNGで新訳はOK」という事にはならないと気づくはずだ。若島は旧訳の「ある一箇所の訳」を取り沙汰して、訳者の無能を証左したつもりになっているが、この点については既に他界されている訳者に代わって若島氏を糾弾したい。

 まわりくどい言い方をしないで率直に言えば、「ある一箇所の訳」は若島が主張するような誤訳とは言えない。ましてや「作品全体に関わる致命的な誤訳」と言うのは、勘違いもはなはだしい。なのに、たった「ある一箇所の訳」を根拠にして、一つの翻訳書と一人の翻訳家を不当におとしめた罪は大きい。

 若島は論旨を展開するのに先立って「わたしの読み方が正しいのかどうか、それが愛読者の常識なのかどうか、確かめるすべがない」と書いている。この一見すると愛読者の常識に訴えるような謙虚さにだまされてはいけない。著者のしたたかさは、その後の強引な論調からも明らかだ。もうそろそろ、この「乱視読者」の深読みが的を射ていない事を誰かが指摘してあげるべきだろう。

 前置きはこのくらいにして、小論の検討にとりかかろう。

[(1)叙述トリックは手品のタネである]
 『明るい館の秘密』というミステリー評論を読んだ読者は、著者のあざやかな読みにうならされたはずだ。と同時に、以下のような2点を頭に思い浮かべたのではないだろうか。
(A)『そして誰もいなくなった』という作品は、再読して初めて評価に値する作品だったのか。
(B)それにしても、何故こんなあからさまな読みを若島以外に気づく人がいなかったのだろう。

 (A)のような印象が出てくるのは、犯人の用いたトリックは「つまらない」と断言し、真に評価すべきは作者クリスティの「叙述トリック」の方だと若島自身が書いているからだが、実はそれだけではない。後で詳しく述べるが、『そして誰も…』の主要なモチーフ(トリックや設定、サスペンスなど)が、何度も何度も後発の小説あるいは映画やテレビドラマで再利用され、いまや『そして誰も…』にはパイオニアとしての価値しかなくなっているという現状がある。そうなると、新たな若い読者は『そして誰も…』の独創性に気づきにくい。

 くだけてたとえるならば、「古畑任三郎」を見て育った後発の世代は、わざわざ「刑事コロンボ」を見ないだろう。いや、見ても評価しないだろう。しかし「コロンボ」がなければ、それが大ファンだった脚本家三谷幸喜に「古畑」を書かせるモチベーションを与えなかっただろうし、なにより「コロンボ」を洗練させたミステリドラマを作り上げる事もかなわなかっただろう。もちろん不可能だったと言うつもりはない。できたとしても、作品を一から作り上げるためには、パイオニアとしての並々ならぬ力量と膨大な労力がかかったはずだ。

 しかし、やはりまっとうに考えて『そして誰も…』は、初読から読むに値する驚くべき小説ではないだろうか。それについては(3)の論点で詳しく述べようと思う。ここでは、まず(B)の問題をとりあげよう。

 何故、若島以外にこれまで指摘されてこなかったかと言えば、最初に指摘しておいたように、若島の評価法が通常のミステリ評論の方法と異なるからだ。僕は「叙述トリック」を手品(作品)におけるタネにたとえた。手品のタネは、通常は「作品の出来映え」に奉仕する。そうであるからこそ、観客(読者)は手品(作品)に対して惜しみない拍手をおくる。なのに若島は「作品の出来映え」にはいっさい言及しない。言い換えると「初読の際の感動」については一切語らない。いや、それどころか「犯人のトリックはつまらない」とまで言い切っている。これでは、手品(作品)としては駄作だと言っているに等しい。

 しかし、若島のような”慧眼”の持ち主からすれば、この作品で作者クリスティがやろうとしたねらいは明白であった。僕らのように”慧眼”を持たぬ読者に配慮するかのように、ご丁寧にも「作品を論じるにあたって、わたしは難解な批評用語を弄ぶつもりはない」と言っておきながら、「(ミステリー評論家の)各務氏の意見をパラフレーズすれば」だとか「ナラトロジーでいうところの」などと小難しい用語を弄して、さっそく「お里が知れる」始末だ。

 要するに、文芸評論家である彼がなんと言おうとも現代言語理論の力にあずかっているのは明らかだ。普通のミステリー愛読者が若島のように気づかなくても当然である。小説の現代的な読み直しが若島正の課題であるからこそ、若島は「作者」にも「作品そのもの」にも関心がない。若島自身も「わたしの関心はそこ(注:作品のテーマ批評)にはない」と言っている。僕はその点にケチをつけるつもりはさらさらない。しかし、若島が「手品の手際の良さ(作者の手口の巧みさ)」に感嘆すればするほど、「手品の出来映え」、言い換えれば『そして誰も…』という作品自体の価値は下がっていく。

 しかも若島の方法論に従えば、『そして誰も…』は再読して初めて評価できる作品となってしまう。何故ならば「作者の手口の巧みさ」は再読しないと見えてこないからである。若島の説明からは「作者の手口の巧みさ」への評価は聞こえてくるが、いっこうに「作品に対する賞賛・愛着」は聞かれない。これはミステリーの女王クリスティへの不敬に等しい。もちろん若島の主張が正当なものであれば、素直にひきさがるしかない。だが、若島の深読みの正当性を裏付けるためだけに作品が利用されているとしたら、話は違ってくる。

 若島の言い分では、『そして誰も…』最大のトリックとも言える「叙述トリック」は、読者が再読して作品をより深く楽しむために存在しているのではない。
 クリスティは『アクロイド』(引用者注:小説『アクロイド殺し』の事)がフェアかどうかという議論を巻き起こしたのを教訓として『そして誰もいなくなった』ではそのような非難を浴びない叙述トリックを用いたのではないか(若島正『乱視読者の帰還』所収の「明るい館の秘密」より)

 このように「叙述トリック」は愛読者の期待に応えるものではなく、批評家をうならせるためのトリックだったと若島は考える。しかも、それこそがクリスティの野心的なねらいだったと言う。はたしてそんな事があるだろうか。クリスティが玄人受けする作品を作ろうとした事は事実かもしれないが、肝心の「作品の出来映え」がつまらないと言われては元も子もないではないか。若島の主張はうがちすぎて辻褄があわない。

 しかし、本当に辻褄があわないのは、若島の思い描く「叙述トリック」のもつ意味だ。ミステリーを読みなれた人ならば、叙述トリックがいかなるものか知っているはずだ。一見すると「そう見える」ように書かれていた事が実際には違っていたというトリックだ。そこには「読者の誤読を誘う書き方」(若島)がなければならない。そして、もちろん『そして誰も…』という作品は、普通の意味で叙述トリックが仕組まれたミステリーの傑作であることは、ミステリーファンにとっては周知の事実だ。

 ただし、その事実が「活字になっているのを目にした事がない」「愛読者の常識なのかどうか、確かめるすべがない」という疑問を若島が投げかけるのもムリはない。もし叙述トリックがある事が公になれば、未読者に対して重大なネタバレになるからだ。もし、登場人物の心理描写にクリスティの野心的な「叙述トリック」が仕組まれているという若島の指摘が事実だとすれば、400ページ弱の長編であっても、目の付けどころとなる心理描写はかなり限定される。そこをあら探しされたら、作者の周到な計画もひとたまりもない。

 僕が「叙述トリック」を手品のタネにたとえた理由もここにある。タネがわかった手品くらいつまらないものはない。作者は是が非でもタネがばれないように細心の注意を払うだろう。ミステリーファンであれば、「ネタバレ」を良しとしないのは当然の事だ。

 だが、すでに『そして誰も…』を読み終わっている再読者であれば、話は違う。若島に従えば、
充分な手がかりを与えながらかつ容易に尻尾をつかませない、その叙述の手口の巧みさに感嘆する(同上)

ことが再読の目的であり。楽しみでもある。

 ここから再読の達人・若島正は「叙述の手口の巧みさ」をつぶさに確認するだけでは物足らず、不思議な事を言い出す。「叙述トリック」が仕掛けられた箇所の誤読をただしく読み解けば、結局のところ「犯人を推定できる」などととんでもない事を言い出すのだ。これがどれほど「とんでもないこと」なのかは、すぐに明らかになる。


[(2)『そして誰もいなくなった』は論理的に構築されたか?]

 若島は、孤島に集められた10人の登場人物の心理描写が現れる章・節をすべて列挙したうえで、以下の3箇所にねらいを定めて「叙述トリック」の分析に取りかかる。

 @登場人物たちがインディアン島におもむく導入部(1-1〜8)
 A4人が死んで、残りの6人の心理描写が特定されずに列挙される箇所(11-6)
 Bさらに一人死んで、残り5人の心理描写が特定されずに列挙される箇所(13-1)


 若島がとりわけ注目するのはAとBである。この二カ所は、生き残っている全員の心理が描かれていて誰の心理描写か特定されていない点が「小説の中でもひときわ目立つ」(若島)からだ。すでに半数が殺され、互いに疑心暗鬼になっている。心理描写は緊張感にあふれ、サスペンスも最高潮に達している。

 確かに、この部分の描写を意識しない読者はいないだろう。どれが誰の心理描写か頭を悩ましたのではないだろうか。僕もそうだったが、早々に特定を諦めた。しかし、若島はAとBに隠された「叙述トリック」を力業で読み解いていく。

 若島の言いたい論点は以下の5点だ。ここは重要なポイントなので一字一句違えずに引用しておこう。

(a)この箇所には、叙述トリックが仕掛けられている。言い換えれば、ある人物(=犯人)の心理描写において、読者の誤読を誘うような書き方がしてある。
(b)その誤読を正せば、犯人以外の登場人物たちの心理描写との比較から、いかにそれが書き分けられているかがわかる。
(c)AおよびBでは、特定されていない心理描写が、その言葉遣いなどに注目すると、誰の心理描写かがすべて特定できる。
(d)誰の心理描写か特定できた後で読み直せば、舞台裏で進行しているある計画の姿が見えてくる。
(e)そこでも、犯人を推定することは可能である。つまり、小説全体は論理的に構築されている。
(注)(a)(b)…の記号は便宜的に付与した。

 若島の分析の是非は次回に詳しく吟味するとして、まずは(a)〜(e)の順で展開される論旨に明らかに辻褄があわない点があることを指摘しておこう。

 若島の分析は再読を前提としている。若島自身も小論の冒頭で、再読の意義について次のように書いている。

すべては、犯人のトリックが明らかになり、小説が終わった後で、ふと疑問に思ってもう一度この小説を最初から読み直してみるような、読者の勘に委ねられているのである。(同上)


 再読者は「犯人のトリック」を知るだけでなく「犯人が誰か」も既に知っている。その再読者が@〜Bを分析すれば、主張の(a)や(b)はそのとおりだと言うしかない。(c)についても条件付きで同意しよう。ただし「言葉遣いなどに注目する」だけでは特定は難しい。再読で入手したあらゆる情報(犯行のトリックや犯人名など)を利用しなければ特定は無理だ。理由は後述する。

 若島は、(d)で「ある計画の姿がみえてくる」と主張する。ある計画とは、犯人(ウォーグレイヴ判事)がアームストロング医師をだまして、犯人をあぶり出すための陥計の片棒をかつがせるという部分を指している。しかし「みえてくる」というのもおかしな表現だ。すでに僕ら再読者は犯人の計画の存在を知っている。知った上で、叙述トリックの手口を確認しているのではなかったか。

 極めつけは(e)の「犯人を推定することは可能である」という結論だ。いつの間にか若島は健忘症にかかってしまったようだ。僕ら再読者は犯人の名前もトリックも忘れる事はできない。だから(d)や(e)の主張は再読者にとっては無意味だ。

 では再読者ではなく初読者が@〜Bを正しく分析すれば、「ある計画の姿がみえてきて、犯人を推定できる」と若島は言いたいのだろうか。それもあり得ない。この分析そのものが「登場人物の心理描写に叙述トリックが仕組まれている」という事を前提にしているからだ。そして叙述トリックの存在を知り得るのは再読者に限られる。

 状況を変えて考えてみよう。再読者は「叙述トリック」の存在を知っている。そこで初読者に次のように耳打ちしたとしよう。『そして誰も…』には作者の巧みな「叙述トリック」が存在し、それは@〜Bに隠されていると。ここまで耳打ちするのはかなりのネタバレと言えるが、やむを得ない。

 もしこうなら(a)->(e)にいたる若島の主張はすべて満たされるだろうか?これまた満たされる事はない。さきほど書いたように(c)は「言葉遣い」だけでは一部の人物の心理しか特定できない。全員を特定するには、やはり「犯人のトリックや結末」をすべて知っておく必要がある。(c)が確定しない以上、(d)の「ある計画」は存在を想像する事すらできない。当然の帰結として、(e)の「そこでも、犯人を推定することは可能である」という主張も、初読者では不可能だ。

 では、若島の「小説全体は論理的に構築されている」という結論は一体何を意味しているのか。僕が思うに、若島が言いたい事(言える事)は「登場人物の心理描写に仕組まれた叙述トリック」が小説全体と整合がとれているという事だけではないだろうか。確かに辻褄は合っているが、だからと言って「小説全体が論理的に構築されているか」と言えば、若島が考えているほどには論理的ではない。

 こう書いてもまだ、本論の分析を鵜呑みにしている人には信じられないかもしれないので、次回は若島の分析を詳細に検討して、若島の思い違いを一つ一つ指摘していこうと思う。
(2010/11/29初出,2012/2/17改訂)
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2011年06月06日

「帽子収集狂事件」(創元推理文庫)ネタバレ解読

(以下の文章では、ジョン・ディクスン・カー作「帽子収集狂事件」に関してネタバレを含む詳細な分析を行っていますので、未読の方は読まないようにお願いします。)

 これまでディクスン・カーの全作品を読破することを目指して、残りあと8冊までに至ったが、どうしても僕にはカーの作品に踏み込みがたい、あるいは乗り越えがたい壁のようなものを感じていた。それが何なのか、最近になってようやくわかった。カーの作品は、本格ミステリーであって本格ミステリーでないのだ。それはクリスティのミステリーとも違うし、クイーンのそれとも違う。どう違うのかをうまく捉まえきれないと、カーの良い読者にはなれない。これは僕にとって、いやカー好きの読者にとって重要な前提のように思われる。

 ならばカーの作品をよりよく理解するための方法論とはなんなのだろう。手がかりは、カーの全作品を解説している二階堂黎人というミステリー作家のエッセイにあった。ちなみに「という」と書いているように、彼の小説は一冊たりとも読んでいない。いや、そういえばJ・D・カー生誕百周年記念アンソロジーを謳った「密室と奇蹟」の中に彼の作品(「亡霊館の殺人」)があったので、まったく読んでいないわけではないようだが、その程度だ。とにかく、その二階堂氏が指摘するには、

カーの作品は、クリスティの小説のようには「斜め読み」ができない。


 何故かというと、カーの文章そのものが、あちこちに伏線をちりばめながら一つ一つ積み上げていくことで、事件や推理の全体像が浮かび上がるように仕組まれているからだ。僕が本書や「夜歩く」を読んで感じた「読者に優しくない」という実感は、まさにこういう点だ。クイーンであれば、最初から犯行現場のパースペクティブも、そこに存在するものもすべてが描きこまれる。さらには「エジプト十字架の謎」や「オランダ靴の謎」のように、犯人や犯行の手口を論理的に明らかにする手がかりさえも隠しはしない。作者の関心事は、読者に謎を隠す事ではなく、「論理的に」犯行や犯人を特定させることにあるからだ。

 一方、クリスティは読者にわかりにくい状況を作品に持ち込まない。非常にシンプルな現場。わかりやすい登場人物。明らかに疑いようのない動機。カーのように曖昧模糊とした薄暗い闇の中で起こる殺人ではなく、まさに白昼堂々と郊外で起きるのどかな殺人。クリスティの語り口は、とことん読者に優しい。誰もが解けそうな謎を提示しながらも、最後の切り札はポアロ(作者)が握っている。それは、地と図が反転するかのように読者の裏をかく「心理的なトリック」であり、見事に「隠された動機」である。クリスティの優しさはポアロの独白に集中する。「何故、彼女(あるいは彼)はそうしなかったのだろう」。

 クリスティの文章は確かに「斜め読み」が可能だ。どこかに読み損ねる伏線をこっそりしのばせておくような意地悪はしない。クイーンの文章は「斜め読み」しにくいかもしれないが、カーと違うのは「ここに重要な事が書かれているからね」と言わんばかりに事細かに描写しているところだ。そこを読み飛ばす方が読者には難しい。クイーンは公明正大な文章しか書かないのだ。

 カーの「積み上げるような文章」の例は、追ってみていくとしよう。それよりも、もう一つ重要な特徴として、

カーは、読んで面白いものを提供しているのであって本格ミステリーは二の次だ


という点が挙げられる。そうでなければ、本格ミステリーとしてこれほどフェアぎりぎりな書き方もないだろう。結末から遡ると、手がかりがないわけではない。しかし、順繰りに読んでいって、最初からすべての手がかりを正しく拾って、それを正しく解釈して、トリックや犯行や正しく暴く事は至難の業だ。どちらかと言えば面白さを優先した上で、「アンフェアだ」との誹りをうけないようにと、そっと手がかりをちりばめておいたと考えた方がよさそうだ。

 二階堂と芦辺両氏の「対談 地上最大のカー問答 」で、カーは未だに本国(アメリカ)で読まれ続けているが、クイーンは日本ほどには読まれていないそうだと伝えている。これはクイーン作品のパズル的な趣向が、今となっては子供じみていると捉えられ、一方でカーの作品は、怪奇趣味やユーモアの部分が大人の読み物として評価されているという事らしい。うなずける話だ。

 何故かというと、本来、「帽子収集狂事件」のような作品の面白さは、「ダヴィンチ・コード」のようなミステリーツアー的な醍醐味と通じるところがあるからだ。「ダヴィンチ・コード」や「天使と悪魔」が一級のミステリーかどうかなどと論じれば、マニアならば鼻白むところだろう。しかし、数百万部を売り上げた「一級のエンターテイメント」である事を否定するのは難しい。ひょっとしたらカー愛好家の対談で言われる「カーの悲劇」というものがあるとすれば、ディクスン・カー(カーター・ディクスン)という作家をミステリー作家に分類し、彼の作品を本格ミステリーと位置づけて珍重し続けた事が、カーのエンターテイメント性を読書好きに広く知らしめ損なった最大の「悲劇」だったのかもしれない。

 さて、以上の2点を十分に踏まえた上で、ネタバレ解読に取りかかろう。カーのミステリーとしての難点が暴かれるだろうが、一方で、読んで面白い、掛け値無しの娯楽作品である事も明らかになっていくはずだ。

 まず事件のネタバレをしておく。、
 ・世間を騒がせていた「帽子収集狂」の正体は、サー・ビットンの甥で「帽子収集狂」の犯行をスクープした青年記者でもあるフィリップ・ドリスコルである。
 ・フィリップ・ドリスコルはロンドン塔の構内にある逆賊門で死体となって発見されるが、実は殺されたのは自宅(フラット)である。
 ・ドリスコルを殺したのは、ロンドン塔副長官の秘書官で、ドリスコルの友人でもあるロバート・ダルライである。


 以上がどう可能だったのか、「殺人犯の告白」(P.362)と題する章以降のギデオン・フィル博士が説明する謎解きに沿って、解読していく。

「どうやって一時四十五分にドリスコルのフラットで電話に出て、その数分後にロンドン塔でドリスコルを殺害できたのか」(P.364)とハドリーは犯人に問う。

 ドリスコルの死亡推定時間は1時50分前後である(P.128でワトスン医師が断言する)。通常、リアルさを追求するミステリーでは、死亡推定時間には一定の幅をもうけている。1時50分前後という驚くべき確度で死亡時間が推定できるものではないからだ。現に「夜歩く」か「魔女の隠れ家」のいずれかの作品では、死亡推定時刻に1時間程度の幅が与えられていたはずだ。対して、本書では死亡推定時間をかなり限定している事から、なんらかの時間トリックが仕組まれていると考えるべきだ。それこそが「被害者はロンドン塔で殺されていない」というものだ。

 借財を抱えて八方ふさがりになっていたダルライ青年は、古書収集家アーバーにドリスコル本人からだと思わせる電話をかけて、サー・ビットンが盗まれたポーの未発表原稿を売りつけようとする(P.367)。サー・ビットンの娘シーラが「フィリップだって、ロバートになりすまして電話してきて、警察に来てくれと頼んだことがあるのよ」(P.257)と証言したことから、フィル博士はドリスコルとダルライ両人の声は似ていたと推理し、ダルライがドリスコルになりすますことが可能だと結論づけた。

 事件当日、ドリスコルからダルライ本人に電話が来る。伯父のサー・ビットンから帽子と一緒にポーの原稿まで盗んでしまったと気づいて途方にくれた彼は、至急会いたいと言ってきた。二人はロンドン塔で待ち合わせをする。このときにダルライは、入れ違いにドリスコルのフラットを訪れて原稿を盗み出すことを思いつく。

 ダルライはロンドン塔の記録室から、ドリスコルのふりをしてパーカーに電話をかけ、自分自身に電話を回してもらう(P.372)。そして、ドリスコルからフラットに来るように懇願されたと嘘をついて、ロンドン塔を出る口実を作る。ダルライは、ホールボーンの修理工場に将軍の車を預けてから、フィリップのフラットに徒歩で立ち寄り、ドリスコルの留守をねらってポーの原稿を盗もうとする(P.372)。

 一時四十五分にロンドン塔のパーカーからフラットに電話がかかり、ダルライはうっかり出てしまう。しかし、この不注意が偶然にもダルライに〈完璧なアリバイ〉を与えることになる。予定外だったのは、ロンドン塔にいるはずのドリスコルが何故かフラットに戻って事だ。ダルライの狙いを知ったドリスコルと争いになり、あやまってドリスコルを死なせてしまう。争っている最中に、弓矢がドリスコルの胸に突き刺さってしまった。つまり、死因は事故死で計画殺人ではなかった。(P.375)

「あいつ(ドリスコル)がどうしてもどってきたのかわからない」(P.376)と嘆くダルライに対して、フェル博士は「今日何度も聞いた話だぞ」とハドリーに話を振ると、ハドリーは

「今日の午後は叔父さんが月に一度訪ねてくる日だったか」(P.377)

と合いの手を入れる。これは、伯父のサー・ビットンが月に一度ドリスコルのフラットを訪問するのが習慣になっていたという話なのだが、果たして本当にそうだっただろうか?僕たち読者の疑念は、この習慣に関する話を「今日何度も聞かされたかどうか」と「では、伯父が訪れる日は今日だと決まっていたか」という2点だ。

 この点は事件の核心部分を形作る伏線なので、フェアかアンフェアかの判断が重要なところだ。僕自身、本書のあちこちを何度も探してみたが、サー・ビットンの定例訪問に関する言及は、以下の2箇所しか見つからなかった。

(その1)P.27で、ハドリーたちが待つバーにサー・ビットンが姿を現した際に、帽子を盗まれた事に腹を立てながら、今日の用事の一つに「甥の定例訪問」が予定されていたと明かす。しかし、盗まれた原稿の件でそれどころではなくなって訪問を取りやめた事を口早に言い切って、それ以上詳しい事は語らなかった。これが後々重要な謎解きの核心になると見抜ける読者は、皆無だろう。

(その2)娘のシーラ・ビットンは、レスター伯父がドリスコルのフラットを訪ねるために父のサー・ビットンから鍵を借りたという話をした際に、こう言及する。「(父は)本気でうるさく訪ねるつもりはなかったの。だって月に一度しか訪ねなかったんですもの」(P.266)

 この2箇所から、事件当日が伯父の定例訪問日だったと記憶に印象づけるのは、かなりの難事業だ。たとえば、「定例訪問日は毎月第○土曜日だ」と書かれていればまだしも、上記のたった2箇所で「今日なんども聞いた話」と言われても、首を傾げてしまう。

 おそらく毎月のどの日に訪問するかの手がかりを、カーは与えていない。だから、冒頭でサー・ビットンが言った一言だけが、唯一最大の手がかりということになる。こういうところに、前述の「斜め読みができない」「読者に優しくない」というカーの文章の特徴がよく出ている。だが、くれぐれも言っておくが、「これではカーなんて読めない」と簡単に放りなげてはいけない。さもないと、カーの豊穣な作品群をみすみす読み損なうことになるのだ。

 結局サー・ビットンはドリスコルを訪問しなかったが、事情を知らないドリスコルは、浮気相手のローラ・ビットンとロンドン塔で逢い引き中に、叔父の定例訪問の件を思い出してしまう(P.399)。彼が大いにあわてたように見えたのは、当然だ。部屋には伯父から盗んだ2つの帽子と、帽子にくっついてきた原稿までが、誰にでも目に付くところに置いてあるからだ。

 ドリスコルはローラを置き去りにして、ウォーター・レーンをメインゲートと逆方向に歩き、脇門からテムズ河岸の道へと出た(一時三十分頃)。それにしても逆賊門が殺害現場だったとしたら、犯人が逃走用に使う道順としてハドリーやフィル博士がとっくに指摘してもいいはずだが、結末にいたるまで一切触れられない。いずれにしても、これ以降、謎解きは「アリバイ崩し」の様相を呈してくる。

 一般にカー評論家や愛好家の間では、「帽子殺人狂事件」は「○○○○もの」と伏せ字にされて言い慣わされている。ここで、はっきりと「アリバイもの」だとバラしておこう。そうは言っても、僕自身は本書を「アリバイもの」と見なすのには抵抗がある。いわゆる「アリバイもの」と言われるジャンルでは、最初から犯人らしき人が特定されていて「アリバイさえ崩せたら」という状況を前面に押したてた構成になっているはずだ。

 そういう意味では、本書は「アリバイもの」らしくない。ましてや「アリバイもの」の醍醐味を読者に提供しようと、著者が腐心したとも思えない。しかし、よくよく考えるとロンドン塔という、イギリス人(あるいはアメリカ人)であれば非常にポピュラーな観光地と、その周辺を殺人事件の現場として選んだことによって、本書は「ダヴィンチ・コード」などに継承されることになる「ミステリー・ツアーもの」の先駆ということになる。

 残念ながら一見してそう見えないのは、僕ら異国の者にとってロンドン塔近辺の土地勘がまったくないからであり、作中でもロンドン塔界隈を知らない読者を想定した配慮というものを、カーや出版社が一切していないからでもある。これは、アリバイものの先駆けであるクロフツの「樽」にも当てはまることだから、当時のミステリー界が、その後数百万部も売り上げることができるベストセラーにするためのテクニックに気づいていなかったということだろう。

 さきほど、本書を「アリバイもの」と見なすのには抵抗があると言ったが、ロンドン塔から真の犯行現場であるドリスコルのフラットをつなぐ移動手段として、地下鉄や将軍の自動車を利用した点が、結末にいたるまでほとんど言及されていない。唯一、ハドリーがローラ・ビットンを疑って、「地下鉄を使えば、ラッセル・スクエア(フィリップのフラットの最寄り駅)まで15分足らずで行ける」と推理するのだが、読者の誰もがローラを犯人だとは思っていないので、この推理は取るに足らないものとして投げ出される。ところが、フェル博士は、ハドリーの推理を逆手にとって、逢い引き相手のドリスコルだって同じように15分でフラットに戻ることが可能だと推理する。

 この推理自体は見事には違いないが、そこから一歩進んで「アリバイもの」と読者に言わしめるためには、作中に現れる地下鉄の駅やストリートの位置関係を、図や文章で立体的に指し示すぐらいの丁寧さがあってもよい。おそらく、カーには「アリバイもの」を書いたという意識があまりなかったという事だろう。

 そこで今回、GoogleマップとWikipediaを駆使して当時のロンドン塔界隈を再現してみる事にした。今だからこそできる贅沢なミステリー・ツアーだ。まず、ドリスコルはローラと分かれて「城外への脇門」からテムズ河岸の道にでる。そこから入り口方面に歩いてマーク・レーンという道にあった地下鉄の「マーク・レーン駅」(現在は廃駅)にたどり着く。現在、ロンドン塔の最寄り駅はタワーヒル駅やタワー・ゲートウェイ駅になる。

 当時の地下鉄はシティ&サウス・ロンドン鉄道で、マーク・レーン駅から反時計回りにぐるっと弧を描くように地下を走り、「キングス・クロス駅」に至る。ここでピカデリー鉄道に乗りかえて、テムズ河に近づくように移動して「ラッセル・スクエア駅」で下車する。ドリスコルのフラットがある「タヴィストック・ストリート」は、キングス・クロス駅とラッセル・スクエア駅の中間にある。なおラッセル・スクエア駅より一駅先に「ホールボーン駅」があり、そこから徒歩で「ディーン・ストリート」(現在の最寄り駅はトッテナムコート・ロード駅)に行けば、将軍の車を預けた修理工場がある。ここまでマップを作ると、読書が楽しくなってくる。

 脇門から城外を出たドリスコルはマーク・レーン駅から地下鉄を使い、ラッセル・スクエア駅で下車した後、歩いて一時五十分くらいにフラットに到着する。そこで原稿を盗みに訪れていたダルライと出くわして、争いになり事故死する。ダルライは一計を案じ、地下鉄でラッセル・スクエア駅からホールボーン駅に一駅移動して時間を稼ぎ、歩いて修理工場から車を受け取って、ドリスコルのフラットの中庭に乗り入れる。

 濃い霧に乗じて、ドリスコルの死体を車の後部座席床に引きづり込み、布をかぶせる。帽子をもって、原稿を暖炉で焼いてフラットを出ようとした際に、管理人に出くわす(P.382)。フィル博士の謎解きで、「あのフラットへは車で行ったことはない」とダルライは証言した事になっている(どこで言ったのか?)。また、ダルライはフラットに車で来ていた事を管理人が見ていたとハドリーが聞き込んだ事になっている(それはどこに書いてある?)。話のつじつまが合わなかったのでダルライが怪しいとフィル博士は目星をつけた(P.382)。

 ダルライの誤算は、途中でメイスン将軍と出会ってしまった事だ。将軍は車のフロントシート(助手席)に強引に乗り込んできた(P.383)。この時に後部座席に乗り込んでいたら、犯行は露見していただろうとダルライは振り返る。スリリングであるとともに、なんとも間の抜けた犯人の苦心が非常に面白い。ダルライは、ロンドン塔の人目に付きにくい場所に死体を捨てることができればいいと思っていたが、将軍が乗り込んできたので捨てる事ができない。隣にメイスン将軍、後ろには死体を乗せて町から帰ってくるなんて、さぞかし気が気でなかっただろう(P.385)。こういう殺伐としない殺人も、気楽なミステリー・ツアー向きの描写だと思う。

 二時三十分に車はロンドン塔に戻る。ブラッディ・タワー(血塔)の前で車を降りた将軍は、ブラッディ・タワーへ向かうアーチを通っていく。将軍がアーチの先にある坂を登ったのを確認したダルライは、アーチとは逆側にある後部ドアをあけて死体を引きずり出す。最近出版された創元推理文庫(新訳版)では、ロンドン塔の地図に「ブラッディ・タワー下のアーチ」と「逆賊門」とが道をはさんで両側にある事が明記されている。ところが旧訳版のロンドン塔の見取り図には、将軍がくぐったアーチが書き込まれていない。非常に不親切な対応だ(いったい誰に怒りをぶつければいい?作者?出版元?日本の出版社?)

 ダルライは逆賊門の「柵越し」に死体を放り投げた。折りよく濃い霧が柵向こうの下り階段と下の広場を覆っていたので、死体は目立つことなく隠れた。ブラッディ・タワーに行きかけたメイスン将軍は、逆賊門の上部を覆うセント・トマス・タワーに用事があることを思い出して引き返したところで、ドリスコルの死体を発見した。

 以上が「帽子収集狂事件」がアリバイものと言われる所以だ。確かに、ここまで理路整然と筋道を追っていけば、アリバイものという主張もうなづけない話ではないが、普通に読んだ僕の印象では到底アリバイものとは思えない。カーの地の文ではあまりに手がかりが希薄すぎる。

 さて、もう一つ重要な点を指摘しておこう。今回のミステリー・ツアーを完成させるために、僕はロンドン塔の写真がアップロードされているサイトを探しまくった。どうしても逆賊門を取り巻く関係者の動きが把握できなかったからだ。それというのも、旧訳も新訳もロンドン塔を真上から見た平面図しか載せていないので、何故死体が見つからない理由がわからなかったのだ。

 実はロンドン塔の公式サイトなるものは皆無で、イギリスの観光局のサイトなどで申し訳程度の画像が掲示されているだけなので、逆賊門がいかなる様子なのかなかなかつかめなかった。イギリスを旅してロンドン塔をじっくりと見てまわった方のデジカメの画像を入手して、死体が転がっていたという階段やその手前にあるという柵の様子もようやく把握することができた。

 ふむふむ、そういう事か。僕は平面図から見て、逆賊門とはアーチの下がトンネルのような通路になっているものとばかり思っていた。そこをアーバーやローラなどが通行していて、何故にドリスコルの死体が見つからないのかと、馬鹿な事を考えていたのだ。なんの事はない。逆賊門とは、セント・トマス・タワーの下の方に作られた、アーチ状にくりぬかれた扉付きのはしけだった。だから、ウォーター・レーンの位置からは掘り割りのように下がっていて、その堀(水は抜かれている)へと幅2mほどの階段が降りている。堀の手前は高さ1mに満たない柵があるため、観光客は階段を伝って下に降りる事はできない。

 現物をよく把握した上で本文に戻ってみると、確かにP.58〜P.61あたりに次のように描写されていた。

 石段の最下段近くに頭を右にむけて、てっぺんから転げ落ちたかのようにだらりと横たわっていた。(P.61)
 逆賊門の石段付近まで霧が深くたれ込めている。(P.58)


 こうして、あらかじめ十分に下調べをしてから準備万端ミステリー・ツアーにでかければ、なんの不思議な事はない。誰もがカーの傑作「帽子収集狂事件」の醍醐味を存分に堪能できることだろう。
posted by アスラン at 19:59 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 評論・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月06日

清水俊二訳「そして誰もいなくなった(ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 1-1)」を探して

 我ながら、自分のトリビア主義にあきれてしまう。店頭で新訳の「そして誰もいなくなった」を見かけて思わず買い求めた時から、順調に進んでいた読書計画が途端に滞ってしまった。手元には、村上龍最新作「歌うクジラ」上下巻を図書館からまんまと入手できたというのに。2週間きっかりで返却しなくてはいけないというのに、「『そして誰も…』祭り」と天秤にかけて、今のところ、お祭りを優先しているに至ってはもう、本末転倒というしかない。

 とりあえずどういう状況かを整理しておこう。

 まず、ハヤカワミステリ文庫で久々に新訳の「そして誰もいなくなった」(青木久恵訳)が発売された。そこで気になるのは、旧訳の「そして誰もいなくなった」(清水俊二訳)の取り扱いだ。訳が改められるにはいくつかの理由が考えられる。一つは文章が古びたという事だ。翻訳というのは永遠不変のものではなく賞味期限がある。例えば僕の生まれた当時の昭和30年代をメディアで語るとき、かならずノスタルジーたっぷりのイメージと言葉で語られるように、その時代を生きてこなかった若い世代にとってはセピア色にいろあせた世界だ。翻訳もかならずそうなる。wikipediaによると、清水俊二訳の初出は1955年のハヤカワ・ポケットミステリだそうだ。となると、すでに半世紀前の時を経てきている事になる。新訳が出ても当然という事になりそうだ。

 もう一つ容易に考えられるのは「訳がよろしくない」という事だ。間違いが多いという点が取り沙汰される場合がある。その場合、訳者に権威がある場合はなかなか生前に改められることは難しい。清水俊二さんは1988年にお亡くなりになっているので、そろそろ新訳に変えましょうという機運が高まったのかもしれない。こう書くのは、だいぶ以前から清水訳には問題ありというミステリーファンや評論家の意見を見かけるからだ。

 僕が以前に書評した「ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18(小森収 編)」では、何故か収録された評論の2つ(作者はもちろん異なる)で、清水訳を糾弾していた。これは清水氏の翻訳のまずさを物語るものと考えるよりは、編者の偏見を意味すると考えるべきだ。新書に収録されたジャンルの異なるミステリ評論を選ぶにあたって、わざわざ清水批判の評論を並べて読者に故意に清水氏への悪印象を与えたわけだ。だが、何故?以前からどうしても気になっていた。

 その二つというのは、池上冬樹「゛清水チャンドラー゛の弊害について」と、若島正「明るい館の秘密」だ。これを隣り合わせに並べて評論集のトリに持ってきた編者には、偏見というだけではなく「悪意」が感じられる。よっぽど訳者の生前に編者とは因縁でもあったのだろう。知りたくもないが、つまらない事をしたものだ。

 その時に「明るい館の秘密」についてはずいぶんとのめり込んだが、どこかつじつまが合わない解釈が気になっていた。立論が怪しければ、その中で若島氏が糾弾する「清水訳の致命的な誤り」という説も疑わしい。それを正当に評価できる機会はなかなかこなかった。何しろ原書にあたるには、素人の手に大いに余る。かといって、清水訳と、もう一人の新たな権威・若島氏の評論中の試訳だけでは、いくら僕なんかがとやかく言ったところで話にならない。そこへ「飛んで火にいる、なんとやら」。新訳が飛び込んできたわけだ。

 これで持ち駒はそろった。新訳(青木訳)と旧訳(清水訳)をつきあわせれば、僕でもそれぞれの訳の是非は評価できそうだ。と同時に、少ないながらも「明るい館の秘密」の中に載っている試訳(若島訳)の是非についても、同時に比較検討できるというものだ。若島氏の評論の値踏みが目的でもあるが、もう一方で翻訳家・若島の値踏みでもある。

 また、原書も最近イギリスで出版されたという「兵隊島」バージョンを図書館で借りられた。すでに別の記事で指摘したが、旧訳では「インディアン島」で起こる「10人のインディアン人形」という童謡になぞらえた連続殺人だったのが、新訳では「兵隊島」で起こる「10人の小さな兵隊人形」という童謡になぞらえた連続殺人に変更されている。

 原書を入手した最大のポイントは、それぞれの翻訳の評価もさることながら、叙述トリックの有無の確認のためでもある。例えば、今回調べてみて、若島氏が取り上げた「特定されない心理描写」のように、字体がイタリックになって引用符に囲まれているものは心理描写とすぐにわかるが、そうでない場合に「語り手」の客観的心理描写なのか、登場人物の主観的心理描写なのか、容易にはわからない場合が結構あるからだ。そういう意味で原書をしげしげと眺める必要がでてくる。

 しかし、なんといっても旧訳を入手するのが実は一番難しい。新訳が登場する前のクリスティ文庫は、ブックオフなどの古本屋に行けば容易に入手できる。ところが、この翻訳にはちょっとした曰くがある。例の「明るい館の秘密」で若島正氏が「致命的な誤訳」であるかのように糾弾した箇所があり、それがためにハヤカワ・ミステリ文庫からクリスティ文庫へ、訳がスライドした際に、どなたかがその部分を修正した。2003年の事だ。すでに1988年に清水氏はお亡くなりになっているので、これ幸いと「くさい物にフタ」をしたわけだ。

 僕は当初、どこにも「変更しました」とも「改訂しました」とも書かれていないのは、早川書房編集部が一存で修正したのだろうと思っていた。ところが、修正はそれだけじゃなかったのだ。これも、「そして旧訳が残った 〜旧訳「そして誰もいなくなった(アガサ・クリスティ)」の意義〜」という記事で指摘した事だが、旧訳では「三番目の妻」となり、新訳では「三番目の新妻」となっていて、新訳はまるで新妻を一人二人…と数えているかのようで不自然だと、清水氏の訳に軍配を上げた。ところが、清水訳も時代を遡ると「三番目の新妻」だった時期がある事が判明した。

 図書館で取り寄せるにあたって、1974年に出版されたハヤカワミステリ文庫版「そして誰もいなくなった (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 1-1))」 は貸し出されていてすぐには手元に届かないので、仕方なく早川から1972年に出版された「世界ミステリ全集 1 アガサ・クリスティー」で「そして誰もいなくなった」の文章を確認すると、「三番目の新妻」になっていた。そして今週末手に入れたポケミス版(1955年出版)を見ても「三番目の新妻」になっている。こう考えると、まだ見ぬハヤカワ・ミステリ文庫版は、全集のたかだか2年後に出ているので、「三番目の新妻」のままである可能性が高い。

 すると、いつ「三番目の妻」に変更されたのかと言えば、やはりクリスティ文庫収録時という事になるのだろう。つまり、このトリビアな修正も清水俊二氏によるものではない。確かに「致命的と思われる修正」を有無をも言わせずに実行するのに、他の翻訳家の権威など不要かもしれない。しかし、「新妻」を「妻」に差し替えるような微妙な修正を果たして出版社がやってしまうものだろうか?どちらが正しいかという白黒はっきりする違いはない。ニュアンスの問題だろう。これ以外にどれほどのトリビアな差し替えがあるのだろう。怖くてクリスティ文庫版の清水訳は使いたくない。

 しかしハヤカワ・ミステリ文庫は、もうちょっと手に入れるまでに時間がかかりそうだ。見切り発車で、1972年出版の全集の文章を底本にしようと思う。だが全集を持ち歩くのは大変だ。しかも古いためにぼろぼろでかび臭い。カフェで取り出すと隣のお姉ちゃんに目くじらたてられそうだ。なので当面はクリスティ文庫の文章を用いる。「三番目の妻」と「三番目の新妻」のような違いが後で見つかれば、それはそれで面白い酒の肴のなるかもしれない。

 そこで鋭意、「そして誰もいなくなった」の導入部(第1章1節〜8節)までの文章を比較検討中…だ。
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2010年10月11日

無・無生物主語のススメ 〜「日本語作文術」から遠く離れて〜(その2)

 もういちど、まな板にのせている無生物主語構文を、「ユングとタロット(サリー・ニコルズ/著 秋山さと子/訳 若山隆良/訳)」から引用しておこう。
(A)解説書は、知性と感情移入を刺激し、他者の洞察や感情へと私たちを結びつける。
(B)美術館は想像力を刺激し、私たちを強いて、自分自身の創造性の中に深く浸らせ、拡充(アンプリフィケーション)と理解のための体験の中に浸らせる。


 (その1)で(A)をなんとか退治した。次は(B)だが(A)以上に手強そうだ。まず(B)をパーツ(節)に分解する。

(B-1)美術館は想像力を刺激し、
(B-2)(美術館は)私たちを強いて
(B-3)(美術館は)自分自身の創造性の中に深く浸らせ、
(B-4)(美術館は)拡充(アンプリフィケーション)と理解のための体験の中に浸らせる。


 順に見ていくと、(B-1)は

 (B-1)'美術館を見て回ると、想像力が刺激され、

と書き換えるのに異論はないだろう。

 (B-2)は(B-3)および(B-4)にそれぞれ係り、「私たちを強いて…浸らせる」とな
るので、

 私たちは…浸らざるを得ない。

のニュアンスを(B-3)と(B-4)に加えればいい。これは後回しにしよう。

 ところで(B-3)も(B-4)もかなりわかりにくい。というか、もはや日本語ではないように思える。(B-3)を、「私たち」を主語にした文にもどしてみるとはっきりする。

 
(B-3)'(美術館を訪れることで)私たちは、自分自身の創造性の中に深く浸る。

 無生物主語のわかりにくい構文を取り除いたにも関わらず、さっぱりわからない。その原因はどこにあるかといえば、書評(その4)で述べたように「創造性」という名詞のもつ難しさにある。もちろん、単語自体の意味は難しくない。ただ、日本語としてこなれていない表現にしたことで、日本語お得意の「文脈依存性」の良さが損なわれてしまっているのだ。「創造性」がいったい何を意味するのか。名詞1語の中にそれこそ主体も目的語も封じ込められ、行為を表すのか性質を表すのかさえも曖昧だ。だからこそ、ここは徹底的に周辺から地固めするしかない。

 「創造性」は「創造(すること)」とは違う。「創造する能力あるいは資質」を指しているはずだ。もし「創造(の中)に深く浸る」であれば、「創造するのに夢中になる」とか「好きなだけ創造を繰り返す」のように訳せばいいが、「創造性」となるとそうはいかない。一体、自らの能力や資質のただ中に「深く浸る」とはどういう事を指すのだろうか?

 これが「自分自身の創造性」ではなくて「芸術家たちの創造性」であるならば、話が違ってくる。(A)の和文和訳で見てきたとおり、解説書の役目は「他者の洞察や感情」に触れる事だったはずだ。美術館でも、まさに目の前にある作品の中に「芸術家たちの創造性」は満ちあふれている。そうではなく「自らの創造性に浸る」という表現には、英語圏の人々しかわからない比喩やレトリックが隠されている。それが素直に感じとれるのは、英語をネイティブとする人々だけだ。なのに翻訳者は、「発話環境(=英語圏)」に依存した表現を強引に直訳して、読者にレトリックの解釈を丸投げしているのだ。

 こちらもこれ以上、翻訳者の「通じる人にしか通じない訳語」につきあっていられないので、少し思い切って「自らの創造性に浸る」のレトリックを日本人にわかるように解釈して、

 
(B-3)''自らの創造する能力や資質ととことん向き合う

と言い換えてみる。ただし、正直心許ない。なにしろ「感情移入を刺激する」という変な表現を平気で書いてしまう訳者の事だから、「創造性の中に浸る」という言い回しがどの程度原文に対して正確な表現なのかかわからない。だが、先に進もう。

 残ったのは(B-4)だけだ。そしてそれは、さらにさらに手強い。(B-3)と同様に、とりあえず「私たち」を主語にした構文に書き換えておこう。

(B-4)'(美術館を訪れることで)私たちは、拡充(アンプリフィケーション)と理解のための体験の中に浸る。


 「拡充」にわざわざ「アンプリフィケーション」と併記して、原書で使用されている表現がわかるようにしたのはなぜか。「拡充」だけでは読者に意味が伝わらないという翻訳家の配慮だろう。配慮というと聞こえはいいが、要は訳語に自信がないのだ。

 訳者あとがきを読むと、「拡充」はユング心理学では重要な概念だと書いてあった。拡充とは「無意識の心象をさまざまな象徴や原型などを適用することで解釈を充填していく方法」を指すようだ。そこで、訳語だけでは専門用語としての特別な意味が読者に理解できなくなってしまうとでも思ったのだろう。しかし、そもそも原書で読めない人に適切な翻訳(日本語)を提供するのが役目の人間にしては、無責任きわまりない。

 「拡充」という用語そのものは専門的すぎるので、ここでは立ち入らないとして、拡充が何をもたらすかといえば「無意識の意識化」つまり、人の無意識を理解することに他ならない。ならば「拡充と理解」という並列表現は、単に「リンゴとバナナ」のような同種のものを並べたのではなく、「問いと答え」「原因と結果」のような呼応関係を含んでいるように感じられる。ただし、本当のところはこの文章ではわからない。またしても日本語の文脈依存性が使えない、超悪文といっていい。

 どこにも手がかりはないが思い切って、「〈拡充〉することで理解にいたる」とでも訳そう。再び問題となるのは「何を」である。何を理解できるというのか。これも「おそらくは」と留保をつけなければならないが、「自分自身を」であろう。なにしろ、直前で「自らの創造性に向き合って」いるのだ。

 ここまで来てちょっと思いついた事がある。どうやら「美術館」の比喩は、ユングの「拡充法」そのものの説明になっているのではないだろうか。そういう目で見ると合点がいくことが多い。「自らの創造性」とは何かと言えば、自分の無意識の中身であるだろうし、拡充法はその無意識の上層に出てくる夢に「象徴」だとか「集合的無意識」などを当てはめていく(拡充していく)事で、自ら(の心)を理解するというプロセスを経る(たぶん。嘘言ってたらゴメン)。

 だから、(B-4)の「拡充(アンプリフィケーション)」は、専門用語の「拡充法」ではなく、文字通りの「拡充」と取った方がよさそうだ。「拡充」という言葉は耳慣れないから、もっとわかりやすい単語に置き換える事も可能だろうが、置き換えると「拡充法」の由来が見えなくなる。ここは「拡充」のままでわかりやすく説明するしかない。

(B-4)''(美術館を訪れると、)私たちは、無意識を拡充することで自らの理解に至るための体験の中に浸る。


と書き換えられる。「〜のための体験」というのが邪魔だ。「理解に至るまでを体験する」で十分だ。「浸る」を意訳して、

(B-4)'''(美術館を訪れると、)無意識を拡充することで自らを理解するまでのプロセスを思う存分体験する


最終的に調整した試訳は以下のとおり。

[(B)の試訳]
美術館を訪れると想像力が刺激される。結果として、自らの創造する能力にとことん向き合うように促され、無意識を拡充して自らを理解するまでのプロセスを思う存分体験するように促される。


我ながら思うが、あまりいいできばえではない。あとは、前に挙げたパラグラフ全体を書き換えた上で、最終調整をしよう。

 実は以上で考えた試訳をつなげると文字数が1.2倍になって簡潔さに欠ける文章になってしまう。もうちょっとダイエットしてみよう。

[「ユングとタロット」(P.22)のパラグラフの書き換え]
 解説書が付いたタロット一組と、何も付かないマルセイユ版タロットにはわずかな差しかないが、タロットの意味を知る上では無視できない。私たち(研究者)の理論では、前者は解説書を読むだけで、後者はわざわざ美術館に足を運ぶくらいの差がある。どちらも貴重な体験ではあるが、どれほどの効果があるかを比べるときわめてかけ離れている。人は解説書を読むと知的関心や共感がわきおこり、他人がどんなことを考えたり感じたりするかを我が事のように考える。一方で、人は美術館に来ると想像力が刺激されるので、自分にどれだけの創造性があるかをとことん考えさせられて、「無意識を拡充して自分を理解する」という過程を存分に体験させられる。


 少しはわかりやすくなっただろうか。もしそうなってないとしたら、原因は4つある

 (1)無生物主語構文(直訳)には、日本語読解に必要な文脈が失われている。
 (2)無生物主語構文(原文)には、発話環境(英語)を前提とした比喩やレトリックが含まれる。
 (3)私(和文和訳者)の英語の知識が未熟である。
 (4)私(和文和訳者)の日本語の技術が未熟である。
 
 最終的な書き換え文の責任は僕自身にあるが、(1)から(3)については翻訳家の責任だ。なんども言うが、英語の知識がなければ読解ができない翻訳書などはお金を払う価値などないのだ。そんな翻訳(直訳)をありがたがるだけでは物足りず、最初から日本語の文章でも無生物主語構文を使おうという「無生物主語のススメ」に至っては「百害がある」ことだけは言っておきたい。
 
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2010年10月06日

無・無生物主語のススメ 〜「日本語作文術」から遠く離れて〜(その1)

 これは「日本語作文術−伝わる文章を書くために−(野内良三・著)」の書評番外編にあたる。すでに、この本を読んで感じたあれこれについては、4回にわたって書くつくした。いや、書きつくした事にした。そうでもしないと、細かく読み込めば読み込むほどに言いたいことがわき上がってくる。正直、こんな本は初めてだった。だから無理矢理にでも4回でケリをつけたつもりだ。ただ心残りだったのは、翻訳家という肩書きを持つはずの著者が「無生物主語のススメ」を読者に説いている事に対して、無生物主語の弊害を強く訴える余裕がなかった点だ。

 書評(その4)で、英語の無生物主語構文をそのまま翻訳調で訳すか、あるいはきちんと日本語としてこなれた調子で訳すかは、「好みの問題」なので作文術の対象外だと書いた。しかし本音を言えば、「無生物主語」構文をそのまま直訳した文章を読まされるのはごめんこうむりたい。それだけ始末に悪い文章なのだ。

 しかし、翻訳家でもない素人がうまく説明できる自信もないし、書評を書いている最中には適当な実例が見当たらなかったので、(その5)を書くのを断念した。ところが、ちょうど読み出した本に格好な素材が見つかったので、無謀にも無生物主語構文の意訳にとりかかってしまった。実は原書と対照していないので、自分の書き換えが正しいのか正しくないのか確かめようがない。だから、これは翻訳などではもちろんない。あくまで翻訳書に出てきた無生物主語構文を、こなれた文章に〈和文和訳〉する試みだ。


 格好の素材を提供してくれた本は「ユングとタロット」(サリー・ニコルズ著/秋山さと子・若山隆良訳)である。心理学者ユングは自らの「集合的無意識」や「元型」などの理論をあとづける素材として、タロットに関心をもっていた。この点を踏まえてユングの末弟とも言える著者が、歴史的にはほとんどわかっていないタロットの中でも、特に切り札22枚についてユング心理学における〈象徴〉としての意味を考察した大部である。とにかくでかくて重い本だ。持ち歩くには手に余るが、内容が面白そうなので自宅でぼつぼつ読み始めた。タロットへの興味、ユングという人物への好奇心があるせいで、序文の訳に足をとられることなく読み進めた。だが、少し気になるところがあって文章一つ一つの意味を正確に理解しようとすると、途端につまづきだした。だから、タロットの解説書程度に読んでおけば読めない本ではないのだけれど、著者の立論を学術的に正しく把握するには少々問題がある文章だ。(と、最初は甘い点数をつけていたのだが、その後読み進めるうちに「トンデモ翻訳」である事がわかった。それはまた別の機会に紹介しよう。)

 序文で著者は、まずタロットがユング心理学にとってどういう位置づけなのかを簡単に説明する。切り札カード22枚を一つ一つ検討していく前に、「マルセイユ版」とよばれる由緒あるタロットを出発点に選んだ理由を述べる。普通に店頭で買うことのできるタロットのデッキ(一組のタロットをこう呼ぶらしい)には、カード一枚一枚の意味を説明する解説書がついてくる。これに対して「マルセイユ版」と呼ばれるタロットは、無数にあるタロットの中の一系譜にすぎないが、タロットの起源へと多少なりともさかのぼろうとするにはきわめて重要だと著者は考える。

 さて、問題となる無生物主語構文を提示する準備は整った。次の引用の後半にそれがある。助走のために前半から見ていこう。

 解説書付きのタロットのデッキと、単体で存在しているマルセイユ版の間にある違いは微妙なものではあるが、タロットへのアプローチということに関していえば、その違いは重要である。私たちの思考の方法にとってみれば、解説書を読むことと美術館に入って行くことの間にある違いほどである。どちらも貴重な体験ではあるが、両者はその効果においてきわめてかけ離れている。解説書は、知性と感情移入を刺激し、他者の洞察や感情へと私たちを結びつける。美術館は想像力を刺激し、私たちを強いて、自分自身の創造性の中に深く浸らせ、拡充(アンプリフィケーション)と理解のための体験の中に浸らせる。(サリー・ニコルズ「ユングとタロット」P.22)


 一見して「の」が多いことがみてとれる。翻訳において準体助詞「の」は不吉な印と言っていい。
 「解説書付きのタロットのデッキ」
 「タロットへのアプローチ」
 「私たちの思考の方法」

 一番目は読みちがえようがないから目をつぶるにしても、少しは配慮があっていいだろう。「解説書がついたタロット一組」でもいいではないか。2番目は単なる「の」ではなく「への」なので、「タロット(の起源や意味、役割など)に迫ること」という解釈以外にはならない。この中では3番目がもっとも罪深い。「の」に匹敵するくらい不吉な印「私たち」が不用意に使われている。これは果たして何者なのか?

 著者が単独ではなくグループで研究した論文であれば、「私たち」は著者たちを指し、その主張には一種の権威が感じられる。そうではなく読者を含めた「私たち」であれば、あえて著者(たち)と読者(たち)を共犯関係に仕立てた上で、「ねえ、そうでしょ」と読者側に一歩すり寄っている。最後に考えられるのは「私たち=人類、人間、人」という解釈だ。この場合は、そのあとにくる「思考の方法」に普遍性・客観性が付与される。

 結論から言うと、ここの「私たち」は第一の解釈だ。というのも「解説書付きのタロットとマルセイユ版」にはたいした違いはないと言っておきながら、「タロットへのアプローチ」という観点からは「大きな違い」があると主張するからには、著者独自の理屈がなければならない。「私たちの思考の方法」とは、「(著者たちの)思考の方法」という事になる。

 すると今度は「思考の方法」という表現がきわめて奇妙で怪しげに思えてくる。こういうとき、普通の日本人ならば「考え方」ぐらいな言い方をしないだろうか?
私たちの思考の方法をとってみれば…


という表現も、もってまわった言い方でピンと来ない。ここは「私たち著者の考えでは」とするか、それではあまりにあっさりしすぎていると言うのであれば「私たち著者らの理論を適用すれば」が良さそうだ。次は

〜の間にある違いほどである。


 うーむ。「difference between A & B」がモロにすけてみえる。細かく見ていくとけっこうヘボい訳文かもしれない。ここはもう、
私たちの理論をあてはめてみれば、前者はタロットの解説書を読むだけなのに、後者はわざわざ実物を見に美術館に足を運ぶくらいの差がある。

と書き換えておこう。

 続く文章で著者は、「解説書を読むことと美術館に行くこと」とは、「効果」という点できわめてかけ離れた体験なのだと述べている。そしていよいよ次が無生物主語の文章だ。しかも、手強そうな無生物主語文が2文続く。

(A)解説書は、知性と感情移入を刺激し、他者の洞察や感情へと私たちを結びつける。
(B)美術館は想像力を刺激し、私たちを強いて、自分自身の創造性の中に深く浸らせ、拡充(アンプリフィケーション)と理解のための体験の中に浸らせる。


まずは(A)だ。この文章には「無生物主語」にたいして二つの述語が呼応している。
(A-1)解説書は、知性と感情移入を刺激し、
(A-2)(解説書は)他者の洞察と感情へと私たちを結びつける。

 一般に(A-2)の方がS+V+O1+O2式の典型的な無生物主語構文だ。しかも(A-1)と(A-2)とは、「知性」と「洞察」、「感情移入」と「感情」という対応関係があるので、もしかすると(A-1)は(A-2)を主文とした分詞構文かもしれない。とりあえずこのまま(A-1)と(A-2)を順に解釈していくとすると、たちまち壁にぶつかる。

(A-1a)(解説書は)知性を刺激する


ことはあっても

(A-1b)(解説書は)感情移入を刺激する


ことはない。そもそも、「知性と感情移入」とは〈性質〉と〈行為〉なのだから、並び立たないのではないだろうか。どこかに間違いがあるはずだ。このままでは手詰まりなので、(A-2)を先に解釈してみよう。

 するとまたしても「他者の洞察と感情」というフレーズに不吉な印「の」が出てくるし、「の」と同じくらいやっかいな並列助詞「と」が組み合わされている。「AのBとC」には「Aの(BとC)」と「(AのB)とC」という二種類の解釈がありうるが、バランスを考えると、(他者の)「洞察と感情」、すなわち「他者の洞察」および「他者の感情」という解釈が妥当だろう。

(A-2a)(解説書は)他者の洞察へと私たちを結びつける。
(A-2b)(解説書は)他者の感情へと私たちを結びつける。

 ここでまたしても「の」の解釈が行く手を阻む。いったい「他者の洞察」とは何だろう。「他者を洞察すること」なのか、「他者が洞察することなのか」のいずれだろうか。ふつうに考えると「他者を洞察すること」のほうなのだが、どうも手がかりがない。そこでまたしても保留して「他者の感情」の方を考えてみよう。

 感情は〈行為〉ではないことから、これはそのまま「の」が所有格となり「他者が持つ感情」を意味する。ならば、さきほどの「他者の洞察」は「他者が持つ洞察」という事になりそうだ。これをもうちょっとわかりやすく読みほどくと、
 他者の洞察=他者がどんなことを考えるか?
 他者の感情=他者がどんなことを感じるか?

という解釈になる。ここから遡って(A-1a)および(A-1b)との対応関係を考えてみる。「他者の洞察(考え方)」を知るには、知る事へのアプローチつまりは「知的活動」が要求され、「他者の感情(感じ方)」を知るには、まさに心の内へのアプローチつまりは「共感(感情移入)」が不可欠となる。

以上をまとめると、

(A-1a)'解説書は知的活動をうながし、
(A-1b)'(解説書は)共感をうながし、
(A-2a)'(解説書は)他者が何を考えるかへと私たちを結びつける。
(A-2b)'(解説書は)他者が何を感じるかへと私たちを結びつける。


 さて、まだピンとこない点があるとすると「〜へと私たちを結びつける」という表現だ。「導く」と書いてあれば「(私たちが)〜を理解する」と訳せるが、「結びつける」はもうちょっと「自らの問題として引き受ける」というニュアンスが感じられる。つまり「わがことのようにみなす」である。

 そこからこんな試訳ができあがった。

 [(A)の試訳]
解説書を読むと知的関心や共感がわきおこり、他人がどんなことを考えどんな感情をいだくかについて、より身近に感じられる。


次は(B)だが、こちらはさらに手強い。(つづく)
posted by アスラン at 12:33 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 評論・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月18日

リュはルパンのリュ 〜翻訳を読むということ〜(その3)

 タイトルの由来については前回書いた。「怪盗紳士リュパン」と「ウは宇宙船のウ」の2作の翻訳をめぐって〈翻訳を読むこと〉の問題点を一読者の視点で書こうと思ったから、二つのタイトルをもじったのだ。だから当初はその3まで書くつもりはなかったのだけれど、どうしてももう一冊まな板にのせなければ気が済まない次第となった。とするとタイトルの由来は意味を失ってしまう。そこで副題に「翻訳を読むということ」という蛇足な言葉をつけてみた。

 その一冊というのは、

 E.C.ベントリー「トレント乗り出す」(国書刊行会、好野理恵・訳、初訳2000年)

だ。

 あらかじめことわっておくが、この本は元々翻訳に大きな違和感を感じたわけではない。その1、その2でとりあげた翻訳は非常に多くの問題を含んでいたので、素人ながらケチのつけがいがあった。だがこの本は、ある事情がなければそれほど目くじらたてることなくさらっと読みすごしたはずだ。たしか翻訳者はジャック・リッチーの「クライム・マシン」などの短編集にも訳者として参加していたはずだ。ということは、この本の翻訳家の生み出す訳文は、世に送り出される数多の海外ミステリーの翻訳の質からすると標準的なものだと言えるかもしれない。

 さきほど〈ある事情〉と言ったのは、「トレント乗り出す」巻頭の短編を読み進めるうちにデジャブに襲われた事から始まる。この話は読んだ事がある。それもつい最近だ。ならば話は早い。これに先立って読んだベントリーの著書と言えば、

 E.C.ベントリー「トレント最後の事件」(嶋中文庫、大久保康雄・訳、2005年)

しかない。そもそもは、一作にしてミステリー史にベントリーの名を刻ませることになったこちらの作品を読んだあとで短編集「トレント乗り出す」の存在を知り、読んでみたくなったのだ。

 この嶋中文庫版の「トレント最後の事件」には同名の長編の他に短編が一本含まれている。タイトルは「ほんものの陣羽織」。訳者はクイーンの翻訳でおなじみの宇野利泰である。そして、なぜ「トレント乗り出す」を読み出してすぐに同一作品だと気づかなかったかすぐに合点がいった。短編集の方のタイトルは「ほんもののタバード」となっていたのだ。タバード? タバードとは陣羽織のことなのだろうか。

 気になり出してから2つの翻訳を読み比べてみると、それぞれの訳に問題があることがなんとなくわかった。同じ短編でありながら、うける印象がかなり違うのだ。2005年出版ではあるが、宇野訳は相当古いはずだ。数十年前に世界名作推理全集(真のタイトルは不明)用に訳されたものを再録したもののはずだからだ。

 だからだろうか。宇野訳の〈陣羽織〉という言葉が古めかしいというだけでなく、イギリスの小説で果たして〈陣羽織〉にぴったり当てはまるものが存在するだろうかという疑問が出てくる。「ほんもののタバード」の本文には「(紋章院長官の)官服」と書いて〈タバード〉とルビを振っている。紋章院長官の本務がいかなるものか知らないが、想像するに出陣(戦地に赴く)しそうにない。やはり陣羽織は適切ではないのだろうか。

 ただ、では「タバード」のままで良いかは新たな問題だ。外来語としてなじみがないのにカタカナで「タバード」そのままっていくらなんでも手抜きなんじゃないと言いたくなる。本文同様に「ほんものの官服(タバード)」とルビ付きのタイトルにする手もあったはずだが、では役職なしの〈官服〉が分かりやすいかは、やはり疑問だろう。

 ひょっとして宇野訳から好野訳にいたるまでの数十年あまりで「タバード」という外来語が一般的になっている可能性もある。僕の無知が災いしてるかもしれないとググってみた。わずか600件だがファッション用語として使われている。その中の一つに以下の記述を見つけた。

 「タバードとは、13世紀から16世紀にかけた中世の騎士が着用した紋章入りのゆったりとした上着のこと。直線断ちで日本の羽織に構造的に似ている。 」(「Fashion Blog」より引用)

 状況によっては「陣羽織」と訳してもよいようだ。宇野訳が不適切とは言えない。しかし本文に書かれるように「紋章院長官の」とただし書きがつく〈タバード〉は、陣羽織ではなく単なる「紋章入りのゆったりとした上着」と見なした方がいい。「官服」と訳した好野訳の方が、ある意味で「陣羽織」よりは正確なのかもしれない。

 そうして改めて「ほんもののタバード」を詳しく読んでみると、好野訳は正確さを重んじて〈原文に忠実〉を第一にするあまり、日本語としての分かりやすさとか日本語としての文体のリズムとかが一部損なわれているように感じられた。これは誤訳とかいう問題ではないので、よりやっかいだ。

 普通に「ほんもののタバード」だけ読んだなら気に止めなかったかもしれないが、たまたま「ほんものの陣羽織」を読んでいたので比較してしまった。面白いことに宇野訳の方が断然読みやすい。その理由は、実は宇野訳が原文に忠実でないところにあるらしい。細かく2つの訳を比較してみると、どう考えてもどちらかが文章を変更しているか、もしくは端折っているとしか思えないところが何カ所もある。

 なにしろ原文と訳文を照らし合わせたわけではないので印象だけで語る事になるが、宇野訳は一部原文どおりに訳さず、いわゆる〈達意の訳〉という大胆な意訳を行っている。それで例えば紋章院長官などという情報も宇野訳からは抜け落ちているのだが、一方の好野訳が原文に書かれた事をすべてきちんと盛り込んだ訳であるにも関わらず、宇野訳より読みにくいというのは皮肉な事ではないだろうか。

 好野訳が宇野訳に比して〈読みにくい〉という印象を与えるのは、訳文の文体に問題があるように思える。以下、好野訳の問題点をざっと挙げてみる。

(P9)背が高く、頑健に身体を鍛えており、堂々たる目鼻立ちの、活力に満ちた血色のよい顔と、豊かなグレーの髪が、彼を実際の年齢より若々しく見せていた。

 どこも間違ってないし、何も原文から抜け落ちてないという事は、細切れの断片をつなぎ合わせたような訳文が証明している。原文に忠実だが日本語としてこなれていない。

(P10)イピスコピという言葉が「主教」の語源になったギリシア語に派生すると知っていた彼女は興味を示した。

 こちらは「派生」の使い方が逆だ。「イピスコピ」というのは地名だが、言いたいのは「主教」の語源となるギリシア語から〈イピスコピ〉という地名が派生したという事のはずだ。

(P11)彼女が声をあげた時、墓地の境界の生け垣を大鋏で刈り込んでいた男が、一行を、彼女の印象では、怪訝そうに見ていた。

 「…男が、一行を、彼女の印象では、怪訝そうに見ていた」という部分が特にリズムが悪い。無駄な読点を多用しているからだ。どうしてこうなるかというと〈彼女の印象では〉というのを、おそらくは原文に忠実な位置にむりやり挿入しようとしたからだ。普通に日本語で考えて語順も適切に変えれば「…男が、彼女の印象では怪訝そうに一行を見ていた。」となる。テンは必要最低限に抑えられる。

 こうした日本語としての〈こなれの悪さ〉は、短編集全体であちこちに見られる。

(P242)そこは一帯の他の家と同様、古めかしい、屋根の高い、前面を化粧しっくいで塗った、地階のある三階建ての家で、

 テンが多い。かかる言葉が多い。うける言葉が遠い。おそらくは、

 「古めかしい」&「屋根の高い」&「前面を化粧しっくいで塗った」&「地階のある」&「三階建ての」→「家」

だろうが、これほど多くの言葉を一つの言葉にかけるのには無理がある。日本語として工夫があってしかるべきなのに、なんの工夫もなく〈原文に忠実に〉ぶつ切りの言葉を並べるだけだ。

(P248)そこのビールが絶品だということをトレントが知った、〈猫とバイオリン〉亭の亭主は、…

 〈そこの…知った〉までは直後の「〈猫とバイオリン〉亭」にかかるにもかかわらず、間にテンを打っている。無駄なだけでなくうける言葉がまださきにあるように勘違いさせる。それだけではない。原文の関係代名詞節が透けて見える訳し方をすると、言いたいポイントが何なのかが微妙にずれる。言いたいのは「ビールが絶品だったとトレントが知った」ということよりも、後段の「〈猫とバイオリン〉亭の亭主は…」という部分のはずだが、訳文ではそうは読めない。

(P268)トレントはダービーシャー州のある地方の一マイル一インチ縮尺の英国政府陸地測量部の地図を調達した。

 「AのB」もしくは「AのBのC」まではまだ許せる。しかし「AのBのCのD」と書いたら、今時のワープロソフトならお節介にも警告を出すだろう。機械にも分かることだ。プロの作家が書く文章ではない。

 最後に〈原文に忠実〉である事が訳文をわかりにくくする典型的な事例を挙げておく。これは何も今回とりあげた翻訳に限ったことではない。「逆らえなかった大尉」という短編の冒頭で、トレントのアトリエ兼自宅に一人の警部が訪問する。二人は面識がない。トレントは警部をアトリエに案内する。以下はそれに続く文章だ。

(P111)アトリエに入ったふたりの男は、鋭い目でお互いを観察しあった。刑事は、…

 前後の文章がないとわかりにくいが、「ふたりの男は」と改まって書かれると、警部以外にもう一人〈男〉が出現したと勘違いしてしまう。一人はトレントなのだ。

 さらには冒頭で「警部」と紹介されるのに、このアトリエの場面では「刑事」と書かれる。原文では使い分けられているのだろう。英文では同じ文章の中で同一人物について〈警部・警察官・刑事〉のように表現を変えるのが常識だが、日本語では統一するのが常識だ。

 原文どおりだからやむを得ないと考えるのは安易だ。何故なら英語では同一人物かどうか一目瞭然だからだ。名詞の直前が定冠詞か不定冠詞かで、既出か未出かがわかる。上記の「刑事」には定冠詞が付いていたはずだ。ところが日本語では冠詞を訳さない(訳せない)から、既出・未出の区別がつかない。ここでも日本語として一工夫があって然るべきなのだ。表現を〈警部〉に統一するというのはあくまで一つの方法論だ。

 原文の表現に忠実でありたいというのは翻訳家の見識には違いない。しかしそれを実現するための方法論を持たない翻訳は読者に優しくない。

(参考)
 リュはルパンのリュ 〜翻訳を読むということ〜(その1)
 リュはルパンのリュ 〜翻訳を読むということ〜(その2)

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2007年04月25日

リュはルパンのリュ 〜翻訳を読むということ〜(その2)

 その1とくればその2、その3がどうしたってなくてはならない。そもそもタイトルをこのように決めたのは、リュパンと以下の本のタイトルにひっかけたのだ。

 レイ・ブラッドベリ「ウは宇宙船のウ」(創元推理文庫、大西尹明・訳、初訳1968年)

 ブラッドベリはそんなに読んでないが、SFに全然関心がなかった頃から唯一と言っていいほど読んだことのあるSF作家だった。といっても彼が書く作品はSFというよりは叙情的な郷愁に満ちたファンタジーといった方がいいのではないか。

 〈SFらしからぬ〉というとSF好きから不見識を叱られそうだが、僕のつたない知識からしてSFらしからぬ作風が気に入っていた。

 とは言えやはりそう多く読んでいるわけではなく、大昔に見たフランソワ・トリュフォーの映画「華氏四五一度」の〈本を焼かれる〉という近未来の設定に子供ごころに衝撃を受けて、高校になって読んでみようと思いたった。それも原書でだ。

 無謀きわまりないとは思わなかった。そのころはぺーパーバックスで容易に入手できたし、読んでみて分かったのは、映画でストーリーを知っているせいもあってそれほど分かりにくくなかったのだ。

 その余勢をかって「何かが道をやってくる」も原文で読んだ記憶がある。最後まで読んだかどうかは定かでない。サーカスが出るお祭りで怪物に遭遇するという、今で言えばホラーであり、強烈なノスタルジーに包まれながらも、夕暮れに取り残された幼い日の心細さをよびさまされる作品だった。

 そして昨年の「サウンド・オブ・サンダー」の原作がブラッドベリの短編と知って、この機会に読んでみようと思った。さらにタイムリーだったのは原作の短編「雷のとどろくような声」が入っている前述の短編集が、自宅最寄りの図書館でリサイクル図書として放出されていたことだ。早速引き取ってきたのは言うまでもない。

 最初の短編は『「ウ」は宇宙船の略号さ』だ。はて?これが書名と同一名の作品なのだろうが、なぜ微妙に変えているのだろう?同じにするという決まりはもちろんないが、だいたいにおいて短編集のタイトルとなっている表題作というのは代表作であることが通例だ。第一、同じ名前にすると読者に覚えてもらいやすい。その意味では短編のタイトルの方は書名よりも少々野暮ったいが、意味がより分かりやすい表現にはなっている。これについては後ほど詳しく考察しよう。

 この短編は、中学生である主人公の〈ぼくら〉が毎土曜日に宇宙船空港まで宇宙船を見に行くという場面から始まる。さっそく著者の少年時代の記憶と、宇宙時代が到来した健やかな近未来とがクロスオーバーする作品で、ブラッドベリ作品特有のノスタルジーが巻頭から漂ってきた。ところがその懐かしい気分が持続しない。訳がおかしいのだ。

 なんとなく気の利いた掛け合いをしているはずの主人公たちの会話が今ひとつずれている感じがする。意味が焦点を結ばないのだ。そのうち文章に奇妙な癖があることがわかってくる。

 たとえば一人称の〈ぼく〉や〈ぼくら〉で語られる文章に、まさに頻繁に〈ぼく〉〈ぼくら〉が現れる。以下の文章は、数えると句点にたどり着くまでに486文字もあるというワンパラグラフ・ワンセンテンスの驚異的な1文の一部だ。まずこう始まる。

(P.15) ぼくら二人は、みんなといっしょに大声をあげ、みんなといっしょに笑うかっこうはしたが、その最中でもぼくら二人、つまりレイフとぼくとは、じっと声を殺していて、モノレールの気筒の音がしだいに小さくなって停止すると、ぼくらは大声をあげて笑いながら駆け足で車外にでるようすをしたが、…


 いくら原文どおりだとしても、日本語は主語が文章を越えて伝播していくことができる言語なのだから、解れば省略できるし省略した方が日本語らしいということが訳者には分かってないのだろうか。

 この程度なら目くじらたてる程ではないと思う人もいるかもしれない。では以下の文はどうだろう。

(P.16) ぼくは息を止めた。どうやらぼくは、その宇宙船が、コンクリートで固めた牧草地に姿を現し、そのうしろから、げんごろう型のトラクターと大型の気筒とがついて行くのを見て初めて、ぼくはもう一つ息をついたらしいが、…

「どうやらぼくは」はどこにかかるのだろう。延々宇宙船などの記述に引っ張っられたあとの「見て初めて」がそれだ。にもかかわらず、テンでつないだ次の節が「ぼくは」で始まる。

 冗長なのは言うまでもないが、「どうやらぼくは」が「見て」に到達するまで距離がありすぎて、訳者はその存在を忘れてしまったのだろう。いや単純に冗長な文体がお好みだったか。

 さきほどの500文字もあるワンセンテンスには終盤にこんな表現もある。

(P.15) …、あの大宇宙船が、遊星間大サーカスのテントみたいなプラスティック製の格納庫から出てきて、きらきらと輝く滑走路を発射地点のほうへ移動していたが、そのうしろから巨大な〈発射台〉が有史以前の爬行鳥が群がっているといった形でおともをし、…

 この部分だけならなんとか判るなどを思わないで欲しい。これがワンセンテンスの1/5に満たない部分なのだ。前半はいいとして、「そのうしろから」で始まる後半が特に変だ。かかる言葉とうける言葉が入れ子になっているため、「〜が〜が」という不格好な訳文になっていて、2番目の「が」が出てきたところでいったん立ち止まらされる。

 …の爬行鳥が→群がって
 …〈発射台〉が→おともをし

という構造だ。だとすると「発射台が」と「おともをし」を近づければスッキリするはずだ。

 …、有史以前の爬行鳥が群がっているといった形で、そのうしろから巨大な〈発射台〉がおともをし、…

 ところがこの訳文のたちが悪いのは、「そのうしろから」の「その」で指示される実体が前方の節に出てくる点だ。かなり遠くにある「あの大宇宙船」という表現がそれだ。つまり「あの大宇宙船のうしろから」という意味なのだが、訳文のままでも「その」が出てくるタイミングがずいぶん遅いため、間に出てくる「滑走路」だとか「発射地点」などが「その」の候補になって読者をとまどわせる。

 おまけに「その」の実体である「あの大宇宙船」にも「あの」という指示語がついている。こちらは実は同一センテンス内には実体はない。何個か前のパラグラフに出てきた「宇宙船」の事を指しているのだが、そこに出てくる宇宙船にも「そんな大きな宇宙船」とまたもや「そんな」という指示語が出てくるしまつだ。いやはや、いったいこの文章はどうなっているのだろう。

 500文字からなるワンセンテンスは、英文の構造をそのままの語順で訳そうという訳者の野心的な(!)試みなのかもしれない。しかし無謀きわまりない試みであり、日本語として破綻していることは明らかだ。

 さて中学生の〈ぼく〉は、「月曜日の意味論の試験にしくじった」と独白している。近未来の少年たちはさぞかし難しいお勉強をさせられているとおどろかされるのだが、原文がどうであれ訳者の言語感覚がこれまでみてきたとおりであるならば、単純に「意味論の試験」という訳も信用しようという気にはならない。

 その直後に、短編のタイトルどおりのセリフが出てくる。それは宇宙船のことで頭がいっぱいで勉強に身が入らない〈ぼく〉と、それを問いただす先生との会話だ。「きみのぐあいが悪い原因」がどういうことなのか問いただす先生に対して、つぎのようなやりとりがある。

(P.19) 「意識的なものですよ、先生。でも、単純じゃありません。多触手状(マルティテンタクル)のものです。でも、かんたんにいえば―宇宙船なんです」
 先生はにっこりと笑った。「『ウ』は宇宙船の略号だね?」
「だと思います、先生」


 これだけだ。そして、ここは重要なシークエンスのはずだ。なにしろタイトルと同じ台詞が出てくるのだから。でも意味がわからない。なんどか考えたのだがどうしても判らないのだ。

 もし〈ぼく〉が最初に「かんたんにいえば―『ウ』なんです」と言ったならば、先生が「宇宙船の略号(の事)だね」とにっこりとするのは判るような気がする。二人だけに通じる符号がそこにはあるからだ。でも〈ぼく〉が言ったのは「宇宙船なんです」という言葉であって『ウ』ではない。

 冒頭に触れた書名と短編名との違いがヒントになるかもしれない。書名の「ウは宇宙船のウ」というのは、原題「R IS FOR ROCKET」の訳だ。正確に訳せば「Rはロケット(ROCKET)の略号だ」という意味のようだ。だからROCKETを宇宙船と訳してRをウに変える工夫は日本語訳としては好ましい。

 書名と短編名とどちらが原題の意として正確かと言えば短編名の方だろう。何故なら書名の方は「イロハのイ」という表現と同様の意味にもとれるからだ。すなわち

 (A)ウは宇宙船を表す略号である
 (B)ウは宇宙船の最初の文字である

という二通りの解釈が生じる。「イロハのイ」という時には、「イ」が「イロハ」を表すわけではなく、「イ」で始まるありふれた単語(イロハ、インク、イチジクなどなんでもよい)を示す事で「イ」が確実に相手に伝わるわけだ。もちろん原題も本文での使われ方も(A)であって(B)ではありえないので、(A)の意味に限定した短編名の方が正確な訳だ。ただし本のタイトルとしてのセンスから言えば、(B)の解釈が生じる事に目をつぶってでもインパクトのある「ウは宇宙船のウ」を選んだ事はうなづける。

 とはいえ短編名の方にも問題は残る。「『ウ』は宇宙船の略号さ」の最後の「さ」は何なのだろう。「さ」などと軽口を叩いているのは誰なのだろう。〈ぼく〉だろうか?でも本文では先生のセリフなのだ。では著者だろうか?いや訳者の独断ではないのか?邪推すれば「略号だ」では書名に比べてあまりに堅苦しいので「さ」をつけて軽さを出したのではないかと想像できる。しかしあまりいい考えには思えない。

 本文に戻ろう。訳はどうであれ状況から判断すると〈ぼく〉が「意識的なものだ」とか「多触手状のものだ」とかあれこれ言い訳をした挙げ句に、最後に「宇宙船の事が気になって何も手に付かない」と白状しているのは間違いない。それに対して先生は理解を示してにっこりと笑う。そこで「R is for Rocket?」とたぶん原文で語りかけている。

 だとすると、Rと言ったら「Rock」でも「Rabbit」でもなく「Rocket」に決まっているという気分なんだねと、先生はやさしく〈ぼく〉に語りかけているみたいだ。

 実はこの場面がこういう意味だとわかったのはアンチョコを見たからだ。JRBFC(日本レイ・ブラッドベリファンクラブ)の掲示板には以前から大西尹明訳のひどさが指摘されていたらしい。そして「ウは宇宙船の略号さ」についての改訳案も掲載されている。詳しくは読んでいないが、先生と〈ぼく〉との場面だけは気になって改訳案を拾い読みしてみた。例のセリフはこう訳されている。

 「Rを見れば、ロケットのことしか思い浮かばないってことかね?」

 ようやく胸のつかえが降りた気がした。しかし「ウは宇宙船の略号さ」は創元推理文庫の「ウは宇宙船のウ」にしか収録されていないため、この短編集で読むしかない。ただその他の短編の多くは昨年刊行された、

 レイ・ブラッドベリ「太陽の黄金の林檎」(ハヤカワ・ミステリ、小笠原豊樹・訳、初訳2006年)

で読めるので、そちらを読んだ方がよさそうだ。創元推理文庫でも昨年「ウは宇宙船のウ」の新版が刊行されたが、大西訳のままなのは残念だ。

 とここまで書いてきて、さきほどの掲示板からの引用部分を確認していたら、実は「ウは宇宙船のウ」の新版は大西訳に手が入っているそうだ。それもかなりの改訂がなされているらしい。しまった!訳者名が変わらなくても翻訳は変わるとはうかつだった。さっそく入手するとしよう。

 レイ・ブラッドベリ「ウは宇宙船のウ」新版(創元SF文庫、大西尹明・訳、2006年)

(参考)
 リュはルパンのリュ 〜翻訳を読むということ〜(その1)

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2007年04月19日

リュはルパンのリュ 〜翻訳を読むということ〜(その1)

 柳瀬さんの「日本語は天才である」を読んでいろいろと思うところがあり、書評に書き綴った。しかしその後、古い翻訳本を期せずして立て続けに読んで、あらためて日本語がいくら天才だったとしても、翻訳家が柳瀬さんみたいな狂気の人でなければ役に立たないのだと実感した。

 たとえばだ。

 モーリス・ルブラン著「怪盗紳士リュパン」(創元推理文庫、石川湧・訳、初版1965年)

を読んだ。内容自体はルブランのルパン物の短篇集だ。リュパンという表記がふるめかしいが、実はリュパンというのがルパンより正確な綴り方のようだ。ただ日本ではルパンの方が一般的な表記として定着してしまった。

 問題は、ルパンシリーズと言うと子供が読んでワクワクするような明快なストーリーのはずが、訳の古さと不味さに損なわれているという点だ。

 この短篇集の中でもっともページ数が多い「ハートの7」は、それだけルパン物の醍醐味が凝縮された作品であり、この短篇集のクライマックスとも言える。ところが実は肝心の謎解きの部分がよく分からないのだ。

 ネタバレになるから詳しくは書けないが、ルパン物を読んだことがある人にはおなじみの秘密の隠し場所にたどり着く仕掛けがあり、手順を説明するルパンの言葉が一読して曖昧だった。何度か読み直したがやはりピンとこなかった。

 実はハヤカワから近年新訳がでた。

 「怪盗紳士ルパン」(ハヤカワ・ミステリ文庫、平岡敦・訳、初版2005年)

がそれだが、こちらを読み直してみたら一発で分かった。それでもう一度創元の方に戻ってみたら、なるほどそれらしき事が書かれている。でも創元だけ読んでもよくわからなかっただろう。

 それだけではない。訳が古い例として、壁に年老いてひげをはやした皇帝のモザイクが装飾されているのを説明する場面で「白髯(はくぜん)の老王」などと書かれている。この言葉って初訳時にはみんな一読して頭に入ったんだろうか。1965年初版だが、実は1960年に全集として刊行されたものを文庫化したものらしいので、今から47年も経っている事を割り引いても古風な言い回しだ。

 だが、確かに難しい言葉ではあるが意味が分からないわけではない。でも耳慣れない二文字の「白髯」は、野暮ったいがより簡単な「白いヒゲ」と書かれるのと比べてはるかに読み落としやすい。このモザイクが結末に重要な意味をもつとなればなおさら不用意な訳ではないだろうか。

 しかしもっと変なのは会話の部分だ。「ハートの7」では、ルパンがワトソン役の〈私〉に、最後に謎解きをする。手品にも似た種明かしをされるとバカバカしく聞こえる。そこで〈私〉は、

 「もちろん!」

と言う。するとルパンはこう答える。

 「もちろんにはちがいないが、考えつくことが必要なのさ。」

 なんのことを言ってるか分かっただろうか。「バカバカしい種明かし」と僕が書いたからこの記事を読んでる人には分かって当たり前なのだが、翻訳を実際に読んでもらえば「なんか変?」という僕の気分がわかって貰えると思う。正解は、ハヤカワ・ミステリの訳をあげておこう。

 「あたりまえじゃないか!」
 「たしかに、あたりまえだけどね。でもそこに、気づかねばならなかったんだ。」


 これならなんの疑問も引っかかりもない。

 驚いたのはハヤカワのを読んで、創元の致命的な訳に気付いたときだ。ルパンの台詞がガニマール警部のそれに変わっているのだ。
「アルセーヌ・リュパンの逮捕」は、ルパン物の最初の短篇でありリュパンが初登場にも関わらず最後に逮捕されてしまうという非常にスリリングなストーリー展開で、当時も今も読者を引きつける重要な一篇だ。

 問題の訳は変装したルパンがガニマールに見破られるシーン。同じ客船に同乗していた〈運命の女性〉が去っていくのを見送りながらルパンが悲しい気持ちに沈みこみ、その様子にガニマールが驚く。そこに以下の台詞が入る。

 ガニマールは驚いた。
「 とにかく、まっとうな人間でないというのは困ったものじゃ…」

 事情を知らないガニマールが、ルパンの悲しみを推し量れないで邪推した台詞と考えるならば意味は通じなくはない。しかし非常にロマンティクで感傷的な気分に浸るルパンと〈運命の女〉との別れのシーンにしては、あまりにそっけない。

 ところがハヤカワ版の訳では、この台詞はルパンのものになっている。

 ガニマールの驚きを尻目に、ぼくはため息をついてこう言った。
「まっとうに生きられないのも、つらいことさ…」

 僕は原文にあたったわけではない。もちろんフランス語の原文は手元にあっても読めないからいずれが正しいのかは本当は分からない。しかしハヤカワ版の方がなんといっても筋が通っているし、クライマックスとして申し分ない。

 というわけで「怪盗紳士リュパン」の訳の出来に不満を感じたので、ルパンシリーズはハヤカワ・ミステリ文庫の新訳で読む事にした。聞いたところによるとシリーズ全巻が新たに翻訳されるらしいが、完訳するまでにあと5年はかかるらしい。気長に読んでいくしかない。

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2006年12月11日

アクセス解析について思うこと(3)

 今年の6月から、SeeSaaのブログでツールとして用意されているアクセス解析から、外部ツールの「AccessAnalyzer」に乗りかえて、毎月のアクセスランキングを紹介してきた。1つにはSeeSaaのアクセス解析が正確さに欠けるという評判だったからだ。確かになんとなく多いような気がする。あきらかに外部ツールと比べると多い。

 データが使いにくいという事もあった。訪問者数とページビュー数という二つの数字がある。とうぜんながら訪問者数の方が、ランキングのカウントとしては参考にすべき値だ。ページビューなどあてにならない。ところが何故か、あてにならないページビューの多い順に記事が並べられているのだ。それも訪問者数の方で並べ替えができない。当然ながら、僕のブログに載せる時には、訪問者数で並べ替えるという手間がかかるのだ。

 そんなこんなでAccessAnalyzerのアクセス解析データに頼る事にしたのだが、どうも今度はアクセス数が少ないような気がする。いや、気じゃなくてあきらかにSeeSaaのアクセス数よりも断然少ないのだ。それが正しいとすると、今までのアクセス数を信じた僕はバカだった事になる。うぬぼれてたが、まだ全然アクセスされてないじゃないかぁ。と思うくらいアクセス数が少なくなった。これはいったいどちらを信じるべきなのか。それともAccessAnalyzerの解析タグの設置場所を間違っているのだろうか?

 で、最近ようやく理由がわかった。いやはや、ブログに無知なまま始めたのがちょうど1年半前。そこからいろいろ試行錯誤してちょっとはわかってきたつもりだったのに、やはり無知なまま騙し騙しきただけだった。もうちょっと誰か早く教えてくれよ!って誰に言ってんだ、僕は。

 要するに、AccessAnalyzerではRSSリーダーからのアクセスはいっさい拾えないのだ。実際に僕のブログのトップページや、各記事ページ、アーカイブページなどを見に来た人のアクセス数だけをカウントするらしい。僕が無知だというのは、RSSリーダーの仕組みが今ひとつわかってないからなのだが、前々からなんとなくRSSリーダーからのアクセスは、どうやってカウントしてるんだろうなぁと疑問には思っていた。なんの事はない、「カウントしていない」が正しかった。

 一方でSeeSaaの方は、サーバー側でRSSリーダーからのアクセスもひっくるめてカウントできる。ならばSeeSaaのアクセス数がかなり多くて当たり前なわけだ。僕のページをRSSリーダーで見てる人は全体の半分以上いるはずだから。

 そう考えると、もう一つ思いついた事がある。携帯からのアクセスだ。AccessAnalyzerでは携帯サイトからのアクセスもカウントしますと言っている。でも実際のリンク元には、携帯のドメインなどは一切現れてこない。これはどうした事だろう。それはSeeSaaの携帯からの見え方に関係があるのではないだろうか?

 SeeSaaでは、PCのページと携帯のページとは別物を表示する。PCの表示のままだと表示に負荷がかかるし、転送するデータ量も馬鹿にならない。そこでPCの記事データをフィルタリングして、画像もリンクだけにして、文字の表示飾り(太字や色づけ、拡大など)もすべて取り除かれる。とすると、PCの画面用にアクセス解析用のタグを設置したとしても、携帯向けのブログのアクセスには無効だという事だ。つまりは携帯からのアクセスもカウントされていない。

 こうなってくると、AccessAnalyzerの解析データに基づいてランキングするのは正確さにかく事になる。いや何よりもったいない。ドバドバ水漏れしている水道みたいなものだ。考えれば考えるほど、SeeSaaのアクセス解析がよかったなぁと思えてくる。そこで、またまたひらめいた。

 ひょっとしてSeeSaaが訪問者数ではなくページビュー数で記事を並べているのは、RSSリーダーや携帯からのアクセスを含めてカウントした際に、訪問者数という値に自信がないのかもしれない。自信がないとは言い過ぎだが、正しくカウントできていないのかもしれない。(あ!同じことか)

 そうするとページビュー数も正しいかどうかわからないが、少なくともアクセスの多寡を図る目安になる。目安という点では訪問者数よりも当てになるのかもしれない。

 かもしれないばかりでは無知の上塗りだが、致し方ない。どこを調べてもこんな事書いてくれてない。みんなわかって使ってるのかなぁ。とりあえず、また誤解してるかもしれないけれど、現時点ではSeeSaaのアクセス解析のデータの方が魅力的に見えてきた。というわけで次回のアクセス解析から、SeeSaaのデータに基づくランキングに戻します。8月のランキング以降、さぼってるので、ぜひとも今月には一度ランキングを掲載するつもりです。たぶん!

(参考)
アクセス解析について思うこと(1)
アクセス解析について思うこと(2)

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2006年11月01日

「犬神家の一族」あるいは石坂金田一最後の事件

 東京国際映画祭のクロージング上映映画が、市川崑監督の「犬神家の一族」だった。なんでも前日に出来上がったばかりだそうだ。映画職人の監督らしい芸だ。撮影に4ヶ月かけたというのが異例の長さだと記事に書かれていたが、高齢だという事を置いても何故だろうと少し詮索してみたくなった。

 世間では松嶋菜々子がレッドカーペットを歩いたと騒いでいるが、野々宮珠世役は少しばかり清潔なイメージがあれば、松島の代わりがきく女優はいくらでもいる。そんなことよりあの映画のポイントは、なんと言ってもオドロオドロしい一族の集合シーンにある。要するに何が恐ろしいと言って、「ヨキコトキク」に見たてた猟奇的な殺人よりも、世の中にありふれている親族・血縁どうしの骨肉の争いに勝るものはないのだ。だから、あの有名な犬神佐兵衛翁の遺言状開示のシーンが何よりも印象に残るのだろう。

 大広間で繰り広げられる喜劇と紙一重の一族どうしのドタバタは醜悪そのものだ。どうしたって一族すべてが醜悪な顔つきを見せなければならない。その配役たるや非常に念のいった深慮が必要だったと思われる。次女・三女の松坂慶子も萬田久子も、前作の三条美紀と草笛光子とに比較されるに違いないからである。僕から言わせると少しばかり二人とも綺麗すぎる気もするが、松坂慶子は最近とみにオバサン度が進んでいるので良い方に作用しそうだ。

 そして前にも書いたことがあるかもしれないが、前作の配役の中で金田一を除いて配役がもっとも難しいのは長女・松子役だろう。前作の高峰三枝子が気品と醜悪さとをかねそなえて、その上で親子の情愛になりふりかまわない鬼気迫る演技で、強烈な印象を観る者に与えた。日本映画の歴史そのものでもある彼女に代わる配役はおいそれとは見つからない。珠世役の松島どころの話ではない。

 今回の配役が発表されたとき、松子を富司純子がやると知って成程と納得してしまった。彼女なら松子の気だかさと愚かさを見事に演じられるだろう。しかも映画の神様・マキノ雅博の秘蔵っ子だった彼女なら、まさに日本映画の歴史だった高峰の代わりを努めるに十分だろう。惜しむらくは高峰程には醜悪さが感じられないのだが、そこは演技でカバーしてくれそうだ。

 さて本編だが予告編を見るにつけ、新しい「犬神家」が前作の1シーン1シーンの演出も画面構成をもなぞるかのように緻密に再現されているのが分かる。かつて監督自身がカラー版「ビルマの竪琴」でやった事を「犬神家」でもう一度やろうとしている。まさかと思ったが、あの印象的なテーマソングまで同じという念の入れようなのだ。

 「ビルマの竪琴」のときは、白黒では表現できなかった血の色のように紅いビルマの土をカラーで描き直すのが目的だった。では今回の目的は果たしてなんだろう。予告編だけで判断するのは僭越極まりないが、あえて禁を侵すとすれば、前作の推敲なのではないかと思う。30年を経て90歳をなんなんとする市川監督が、監督人生を集大成する作品として本作を選んだからには決定版にしたい。それには新たな脚本を興すのではなく、もう一度同じ脚本で今なら撮れる市川崑の映画を撮りなおしたいということか。

 脚本家・九里子亭(市川崑の金田一シリーズ用のペンネーム)の脚本を活かしきっていない、もしくは忠実ではないという思いがひょっとしたら前作に対してあるのかもしれない。何せ前作はスポンサーでもあり剛腕プロデューサーでもある角川春樹主導で、映画の方向性が決められていったのは否めない。石坂「金田一」にすら、当初角川プロデューサーからケチがついたという話だ。だから今回の意気込みは、脚本家九里子亭への監督自らのリスペクトでもある。

 いずれにしてもこういったリメイクは変わっている。自作をリメイクする監督はこれまでに例がないわけではない。先に引用したマキノ監督も東宝と東映で「次郎長三国志」を撮っている。しかしまったく同じ脚本で同じ構成でとなると、あまり聞いたことはない。やはり「ビルマの竪琴」くらいか。

 そして今回のやり方は、市川監督の自己満足と揶揄されてもしかたがない。文章で言えば読点の打ちどころを探しあぐねるようなものだ。ダヴィンチが「最後の晩餐」の絵を前にしてじっとながめて一筆だけ加えて帰っていくという逸話のイメージと重なる。要は芸術家としての成熟を表現する事に他ならない。事の善し悪しは問われるにしても、出来上がったからには一個の作品として評価すべきだろう。

 同じという事にこだわるという意味では、監督はできうるならば配役も同じにしたかったにちがいない。現に大滝秀治や加藤武は同じ役でオファーされた。しかし三国連太朗はオファーできなかったし、すでに亡くなられた役者も多い。その上、年齢の上下を崩すと物語が成り立たなくなる犬神家のメンバーは総入れ替えとなったのはやむを得ないところだろう。

 ならば、そもそも年齢不詳であって登場人物との関わりがもっとも希薄な金田一耕助に石坂浩二をオファーする事は不思議でもなんでもない。とは言っても前作から30年を経て、今また同じ役に同じ役者を充てる事は、舞台ならいざ知らず映画では普通あり得ない。あり得ない事をあえてやるところに、今回の市川監督のねらいの一端があるはずだ。

 前作と本作とで大きく違うのは、名探偵イコール金田一耕助、金田一耕助イコール石坂浩二という金看板の大きさだ。前作における状況としては、松本清張に代表される社会派ミステリーの台頭で、横溝正史のあくの強い本格ミステリーの人気が凋落していた事があげられる。つまり角川春樹プロデューサーのもくろみとしては、是が非でも横溝ミステリーを角川文庫のドル箱に仕立て上げる必要があった。そこで市川監督に課せられたのは、横溝ミステリーを若い世代にアピールする事と、シリーズ化にあたって魅力ある若々しい探偵像を提示することにあった。だから、ルンペン帽に袴姿で下駄を突っかけ、珠世が襲われた湖までひた走る石坂「金田一」の躍動感は、見事なまでにその後のシリーズの方向性を決定づけた。

 予告編を観て何よりも哀しいのは金田一耕助の老いだ。前作では、若々しくてどこか憎めない青年が、名探偵とは名ばかりに猟奇連続殺人に振り回されるところにおかしさと親しみがあった。菊人形に見たてられた生首に気づいて飛び上がらんばかりに驚く金田一の図は今回も前作と同じはずだが、そこに写しだされるのは誇張がやはり誇張に見えてしまう還暦をすぎた初老の金田一の姿だ。

 さらに前作では犯人に対峙して「犯人はあなたですね」とおずおずと切り出していたはずだが、本作の金田一からはおずおずというシナが似合わないほどの成熟と人生の年輪が感じられる。

 では石坂「金田一」は暴挙だったのか。僕はそうではないと思う。市川崑監督は、今回敢えて老いた金田一耕助を僕らに見せたかったのだ。監督自身の老いとともに監督の中に宿る金田一も老いた。それを見せるための一世一代の大舞台が平成版「犬神家の一族」なのではなかったか。

 かつての石坂「金田一」シリーズ最終作は「病院坂の首縊りの家」だった。原作では病院坂で起こった迷宮入り事件を解決できなかった金田一が20年後にようやく解決して、その後アメリカに渡って消息不明となる。金田一耕助最後の事件である。20年の月日は探偵の容貌に年輪を刻ませたはずだが、著者・横溝正史は老いを描く事なく最後まで年齢不詳のまま探偵を封印した。そして映画では、著者自ら演じた本人の「行ってしまうのかい?」の問いかけに対して、若き探偵ははにかみながら姿を消し、万年青年・石坂浩二も静かに金田一の金看板をおろしたのである。

 市川崑監督は、「犬神家の一族」のリメイクで原作者ですら成し遂げなかった事をやっている。金田一の老いを描き、そして文字通り幕を引いたのだ。だから僕も訂正しよう。哀しいのは石坂「金田一」の老いではなかった。市川崑の金田一シリーズと石坂浩二の金田一耕助とが、これで本当の見納めになる事がたまらなく哀しいのだ、と。

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2006年09月25日

何故二人は同じ本が読めないのか?(4)

 羅喉さんと僕アスランの読書リストの比較の続きです。

 再び視点を変えて、出版社別の集計を出してみる。

[出版社数]
 羅喉  18社
 アスラン27社


 ほら、今度も僕の方の乱読度を証明する形になった。が、何より出版社の数の差は、読書の傾向の違いとテーマの有無を示すものに他ならない。ではどんな出版社から本を選んでいるのだろうか。以下にベスト5を挙げてみよう。

[出版社ベスト5]
〈羅喉〉
  1.岩波書店 24冊
  2.中央公論社 7冊
  2.早川書房  7冊
  4.新潮社   4冊
  5.文藝春秋  4冊
〈アスラン〉
  1.講談社  10冊
  2.新潮社   9冊
  3.文藝春秋  8冊
  4.角川書店  5冊
  5.早川書房  4冊
  5.岩波書店  4冊
  5.幻冬舎   4冊


 まず僕のベスト5を見ると、講談社がトップなのはちょっと意外だったが、いわゆる大手出版社からバランスよく読んでいるという印象だ。特に専門性の高い本は少なくごく一般的な小説を中心に読んでいる事が、知名度が高い大手出版社に偏る理由だろう。一方の羅喉さんはというとダントツで岩波書店の本が多い。他を圧倒している。この24冊のうち21冊までが岩波文庫だ。そうなのだ。羅喉さんは単なる読書好きや読書フリークではなく、筋金入りの岩波文庫読みだったのだ。

 いわゆるテーマ読みなら僕も時々やっている。たとえば同じ作家の作品を全部読む。漱石やクイーンなどを読破したし、最近ではディクスン・カーを入手可能な限り読んできた。それ以外にイスラエル紛争の起源を探るというテーマを思いついて、わざわざ旧約聖書・新約聖書を読破し、ポール・ジョンソン「ユダヤ人の歴史(上・下)」を読み継いで、コーランまで手を出したところで冷静と情熱のあいだに入ってようやく一段落した事もある。

 ただ同じ出版社の本を踏破するという試みはしたことがない。もちろん講談社文庫や新潮文庫を読み継ぐという事と違って、岩波文庫を全部読むという事は、人類の叡智を読むという事と同義と言っていいだろう。羅喉さんのテーマ読みの詮索をした事もないし、本人にモチベーションの在りどころを伺った事もないので推測してもしょうがないが、読書の達人を目指す人ならば一度は夢見るテーマであることは確かだ。

 では僕はどうだろう?正直やってみたい気がしないでもない。ただし数あるマイブームの一つとなることは目に見えている。岩波文庫の敷居の高さに怖じ気をふるうという事もあるにはあるが、「人類の叡智」以上に、自らにわき上がる雑多な好奇心を無視できないというのが本音なのだ。

 最後にジャンル別の集計を検討してみよう。どのようにジャンル分けしようかと考えたのだが、やはり図書館で使用されている「日本十進分類表」に基づいて分類することにした。図書館の書籍についているあの数値である。普通は3桁の数字で一つのジャンル細分を意味する。小数点以下の数値にもさらに意味づけがあるらしいが、そこまで詳細に分析しても僕の手に余るので無視する事にした。以下がジャンル総数の比較である。

[ジャンル総数]
 羅喉  34種類
 アスラン12種類


 いやあ、予想していたとは言え大どんでん返しをくった気分だ。何のことはない。真に乱読度が高いのは羅喉さんの方だった。岩波文庫のテーマ読みの必然的帰結ではあるが、人類の叡智は全方位に知識の触手を伸ばす。要するに羅喉さんの読書には偏りがない。に引き替え僕の読書はジャンルにおいて偏りまくりだ。ではどんなジャンルを二人は読んでいるか?ベスト5を挙げる。

[ジャンルベスト5]
〈羅喉〉
  1.英米文学(小説) 11冊
  2.日本文学(小説)  8冊
  3.日本文学(評論、随筆、小品) 5冊
  4.日本文学     4冊
  5.ロシア文学(小説) 3冊
〈アスラン〉
  日本文学(小説) 40冊
  英米文学(小説) 11冊
  文学理論     2冊
  日本文学     2冊
  日本文学(評論、随筆、小品) 2冊


 羅喉さんの岩波文庫21冊なんてものともしない。僕は40冊も日本の小説を読んでいたのだよ。もっとノンフィクションや評論を読んでいる気でいたのだが、特にこの時期には小説ばかり読んでいたようだ。これが図書館のウェブ予約システムをめいっぱい利用してミーハー心をめいっぱい満たすような借り方をした結果なのだろう。購入して読むとなるとこれほどではなかったはずだ。

 羅喉さんのベストはちょっと修正が必要だ。一位の英米文学の10冊までもがお仕着せのSFだった。では真の一位は日本文学(小説)で僕と同じなのだが、たったの8冊。偏りがない。では5位のロシア文学(小説)の次点はなんだったかと調べると、

 6.ドイツ文学(評論、随筆、小品) 2冊
 6.フランス文学(評論、随筆、小品) 2冊


というようになんとバリエーションに富んだ文学空間なのだろう。岩波文庫を読むということは、洋は英米のみを意味するのではなく、ドイツ、フランス、ロシア、イタリア、ギリシャなどの文学を読む事をも意味するのだ。

 しかも羅喉さんの読書のバリエーションは岩波文庫を読む事で必然的にもたらされているかと思えばそうではないのだ。岩波文庫以外の読書でも

 宗教、刑法、民話、遺伝、動物学、薬学、河川工学、食物・料理、家畜飼養

といった多岐にわたるジャンルを読書に取り込んでいる。素晴らしい!

 あまりに見劣りがするままで終えたらくやしいので、読書ジャンキーを自称している僕にもせいいっぱいの見栄を張らせてもらうとすれば、

 装幀・製本、出版、雑書、日本史(関東地方)、論集、婦人問題、動物学、映画、文学理論、文学史

といったジャンルに手を出している事は言っておこう。もっとも分類表の限界というかラベルと中身が釣り合ってない場合がある事も言い添えておく。何しろ上記の「婦人問題」にあたる本は何かと言えば、酒井順子「負け犬の遠吠え」なのだ。いやはや、本当かいな、川崎図書館さん。

参考
 何故二人は同じ本が読めないのか?(1)
 何故二人は同じ本が読めないのか?(2)
 何故二人は同じ本が読めないのか?(3)
 アスラン読書リスト(2005年10月〜2006年4月)

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2006年09月23日

何故二人は同じ本が読めないのか?(3)

 さて今回ようやく二人の読書リストを比較しようと思う。二人というのは言わずとしれた羅喉さんと僕アスラン(またはellery)の事である。なんの事か分からない方は、この記事の末尾にある参考記事から読んでください。とにかく話はそれからです。

 さて、そういうわけで二人の読書リストを比較するわけだが、他人の読書リストを許可なくずらずらと掲載するのも悪趣味だからやめにして、個々の作品をあげつらう時だけタイトルを挙げる事にする。統計というほど大げさなものではないが若干の数値と、作家別、出版社別、ジャンル別の集計値を比較掲載するのは事後承諾となりますがお許しくださいませ、羅喉様。

 比較に使用したのは、2005年10月〜2006年4月の6ヶ月の間に二人が読んだ本のリストです。

[読書総数]
 羅喉  64冊
 アスラン68冊


を見ると、ほぼ二人が同じ読書量だという事がわかる。もっとも書籍の総頁数やひとつひとつの読みやすさなどはおいておくとしてだが…。

 そこでそれぞれの本の出版年の平均をとってみると

[出版年(平均)]
 羅喉  1983年
 アスラン1999年


となる。これだけ見ると僕の読書はほぼ最近出版された本が中心なのだと分かる。なんと分かりやすいことか。事実、図書館を利用するようになり、あえて流行に流されるような読書をしているフシがあるので、この結果は妥当かもしれない。一方、羅喉さんは今から20年前あたりの本に平均値が来るので、一言で言えば流行に惑わされていない事が分かる。ただしたかだか差にして16年程度の違いは、読書内容にそれほど違いを与えるものなのか。

 次に出版年という曖昧模糊な数値ではなく、作品の発表年の平均値で比較してみよう。というのは現代作家の本ならば出版年=発表年と見なしてもまあ問題はないが、古典が対象だと話は別だ。出版年を遡る事はるか昔にその作品は発表されているわけだから、出版年などなんの意味も持たない。

 ちなみに先ほどから発表年とか出版年とか言っているが、その意味では正確なデータではない。なぜなら書き下ろしでもない限り最近の作家の作品でも雑誌などの初出、単行本化、文庫化、再刊などのいろんなフェーズが考えられるからだ。まあ図書館で検索して見つかった年月日と解釈してほしい。さらに古典の場合はできる限り発表年をウェブなどから探してはいるが、分からないものも多かった。その場合は著者の死去年を代用した。

[発表年(平均)]
 羅喉  1919年(最も古い年=125年、最も新しい年=2006年)
 アスラン2000年(最も古い年=1964年、最も新しい年=2006年)


 ようやくはっきりとした違いが見えてきた。羅喉さんと僕とでは作品の発表年で81年もの差がついている。僕の場合出版年と発表年との差がほとんどない。つまりこの6ヶ月間に一冊も古典を読んでないのだ。羅喉さんは古典の比率が多いために出版年と発表年とで差が出た。もっとも古い発表年にいたっては、西暦125年という古さだ。発表年の一番古い本を本のタイトルで比較すると、

[発表年のもっとも古い本]
 羅喉   プルタルコス「エジプト神イシスとオシリスの伝説について」
 アスラン イアン・フレミング「007 カジノ・ロワイヤル」


となる。相手はギリシャの哲人であり、こちらは今だに映画では人気ヒーローである諜報部員の物語である。まあスパイ小説としては古典なのだが、ギリシャの哲人とでは勝負にならない。

 ではそもそも僕と羅喉さんの読書はどれくらい重ならないのだろう。互いの読書リストを眺めてみる。読んだ事がある本はどれだけあるだろう?その結果は以下の通り。ただし羅喉さんの目配せは2006年の4ヶ月分のみだ。

[互いに読んだ事のある本]
〈羅喉〉
 (ア1)川端康成「伊豆の踊子・温泉宿 他四篇」
 (ア2)光瀬龍「百億の昼と千億の夜」
〈アスラン〉
 (羅1)ルナール「博物誌」
 (羅2)ファラデー「ロウソクの科学」
 (羅3)P・K・ディック「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」
 (羅4)J・P・ホーガン「星を継ぐもの」
 (羅5)オースン・スコット・カード「ソングマスター」
 (羅6)オースン・スコット・カード「エンダーのゲーム」


 羅喉さんは2冊だが、(ア2)は原作ではなくて萩尾もとの漫画で読んだそうだ。だから厳密に言えば「伊豆の踊子」1冊になってしまう。しかも以前感想を述べていたが川端の文章は嫌いだとの事。これでほぼ僕の読書の傾向が封じられてしまった。

 一方、僕はと言えば6冊で多いようだが、これも種明かししてしまえば、羅喉さんはこの6ヶ月間に日頃読まないSF作品を集中的に読んでいる。それも読書仲間から勧められた本ばかりなので、比較の際には除外してくださいと本人から指示があった。すでに比較検討に入った後なのでデータからは外せないが、個別タイトルの比較という意味では(羅3)〜(羅6)は意味がない。そして(羅1)(羅2)は確かに読んだ事があるのだが、読んだ時期が中学生の頃なのだ。あの頃はむやみやたらと好き嫌いを問わず読んでみたという本が多い。「ロウソクの科学」はさすがに自分の理系志向をくすぐる本であるからいまだに内容に覚えはあるが、「博物誌」にいたってはまったく記憶にない。

 では次に作家の傾向はどうか?とりあえずこんな集計をしてみる。オムニバスは除外して、一冊に付き主要な著者を一人と決めてめのこで勘定をしてみる。

[作家総数]
 羅喉  43人
 アスラン57人


 羅喉さんの方が除外書籍(オムニバスなど)が多い事と元々僕の方が読んだ本が若干多いので上記ほどの差は本来ないだろうが、それにしても僕の方が作家数が多いようだ。つまり僕の方が若干だが乱読度が高いという事か。もちろん二人とも乱読度が高いとも言えるのだが、この後だんだんに判明していくが僕の乱読は節操がない。単にあれも読みたいこれも読みたいというミーハーごころがなせる技だ。好きな作家にしたって立て続けに読んだら飽きてしまう。その間に別の興味が見つかればそちらにフラフラ飛びついてしまう。

 ではこの6ヶ月の間に読んだ本の中に互いに共通の作家は何人いるだろう?それが驚くべき事に一人もいないのだ。作品の重なりはともかくも好きな作家の一人や二人重なってもいいかなと思うのだがまったく重ならない。ではこれまで一冊でも読んだことのある作家はどれだけいるか?羅喉さんの方のデータは不明だが、僕の方は10人いる。以下がその作家である。

[読んだことのある作家]
〈アスラン〉
 (羅1)司馬遼太郎
 (羅2)J・P・ホーガン
 (羅3)P・K・ディック
 (羅4)アンドレ=ジイド
 (羅5)オースン・スコット・カード
 (羅6)ファラデー
 (羅7)ヘルマン・ヘッセ
 (羅8)ルナール
 (羅9)幸田露伴
 (羅10)柳田国男


 ただし、だ。ジイドは「狭き門」のみ、ヘッセは「車輪の下」のみ。おまけにルナールの「博物誌」同様にいずれも中学生時代の読書だ。司馬遼太郎はもちろん「坂の上の雲」だが、僕は文章の合間に顔を出す著者のぬけぬけとしたやり口語り口が気に入らず、その後この作家の著作が読めていない。この中で好きな作家というと恥ずかしながらオースン・スコット・カードぐらいか。しかもこれは羅喉さんとすれば、例のオシキセのSFにすぎないわけだから好きで読んだわけじゃないだろう。だとすると残るは幸田露伴だけか。果たして「太郎坊」という読んだ事も聞いたこともない作品を羅喉さんは楽しめたのだろうか?

 ではここで、作家の好みを較べてみよう。二人がこの6ヶ月間で2冊以上読んでいる作家はどんな顔ぶれか。

[この6ヶ月で2冊以上の作品を読んでいる作家]
〈羅喉〉
  須賀敦子(4)
  トーマス・マン(3)
  アンドレ=ジイド(2)
  オースン・スコット・カード(2)
  ドストエフスキー(2)
  泉鏡花(2)
  中谷宇吉郎(2)
  柳田国男(2)
〈アスラン〉
  恩田陸(3)
  川端康成(3)
  エラリー・クイーン(2)
  伊坂幸太郎(2)
  角田光代(2)
  舞城王太郎(2)


 ここにも二人の読書の質の違いが端的に表れている。僕の方は、川端や角田のようなやや叙情的なきらいのある作家とミステリー作家だ。この時期は川端の再発見と、文学とミステリーを橋渡しする恩田陸の可能性に傾倒していた時期だった。あとは生誕100年記念のクイーンにいれこみ、かつてのミステリー好きが不勉強を恥じるように伊坂にハマり、舞城にハマり損なった。

 要はその時その時のマイブームがあり、冷静と情熱のあいだに次々にマイブームを乗り換えていく自分がいる。これが節操がないと自嘲する所以だ。

 一方、羅喉さんの作家傾向は古典中心という事を除けば、西洋から日本までバラエティに富んでいるし、作品的な傾向もこれと決められたものはない。強いて言えば繊細な美意識と自意識。それと日本の歴史や文化への目配せだろうか。そのうえで須賀敦子の4冊は特筆すべきだろう。これを羅喉さんのマイブームととるか、それとも大きな読書計画の一環とみるべきか。
(この項続く)

参考
 何故二人は同じ本が読めないのか?(1)
 何故二人は同じ本が読めないのか?(2)

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2006年08月16日

何故二人は同じ本が読めないのか?(2)

 本好きの人たちの声を聞くのならチャットだと思って、ある時思い切ってチャットルームの扉をたたく。正確にはカテゴリを選択して入室ボタンを押すだけだ。すると当然ながら初心者は溺れる。文字通りチャット(会話)の流れの早さになかなかついていけないのだ。そもそも何について話しているかを把握するまでに時間がかかるし、何についてか分かったところで何かしら自分の意見を開陳できるような単純な内容ではないのだ。おのずとチャットの急流をじっと眺めて過ごす事になる。

 場違いなところに迷い込んでしまったかなといったんは思ってみたものの、じっと眺めて過ごすのもまんざら無駄では無いことにやがて気づく。チャットルームには常連さんたちがいて彼らの多くは並はずれた読書量と知識を誇っている。ただし読書の質と知識の範囲は当然ながら人それぞれのようだ。つまり僕が読んだこともない作家や聞いたこともない作品の話についていけるのは常連さんの中でも一握りという事だ。そういう話題の時にはひたすらROMと化して黙って様子見しているしかないのは初心者だけではなさそうだ。

 一見すると読書の達人(ウィザード)を崇拝する使徒たちからなる開かれていない集団の場に見えるし、実際にそういう一面がある事は否定できない。特に自らの知識をひけらかして自分より劣っている(と見なした)人を侮ってこき下ろす輩も時折見受けられる。決して僕のような読書の凡人にはやさしい場ではない。

 現に僕も一、二度対戦させられた。いやもう文字通り対戦であり、僕の言葉尻をとらえて隙をついて切り込んでくる。何故か僕は彼の癇に障る事を言ったらしい。そういう時の後味の悪さはかなりなもので、そういう人は読書の達人ではなく難癖の達人でありこちらに勝ち目はないのだ。幸いな事に、そういう癖のある人間は常連にいない。

 一方で、達人を含む常連たちは門をたたいて入ってきた者を拒まない。初心者の顔をして「なにか面白い本ありませんか?」とか「○○って面白いですか?」などと聞けば、面倒がらずに適切すぎるくらいの説明をしてくれる人が多い。そういうときは開かれた集団の側面が現れる。うまくすれば聞きたい事が聞けて、ときたま自分の意見も聞いてもらえる。そのうち慣れてくると自然と自分の居場所ができる。

 読書の凡人にとって達人の託宣は真実をついていて有無をも言わせぬ説得力をもつ事が多いが、時として他人の意見を入れない独善に聞こえる。しかし凡人と達人の間に様々な種類の読書好きがいて、急流を抜けた後の広々とした穏やかな流れには、それぞれに違う読書体験を持った人たちの言葉が溢れている。穏やかな流れの中で思い思いに自由に自分の好きな作家や作品について語り合うにつれて、なんとなく話しやすくなんとなく相手の読む本が気になる友人ができてくる。

 友人というのはおこがましいか。特に友人というほど相手の何を知るわけでもないが、たった一冊の本への好みが顔も見知らない人と人を結びつける事があるのだ。これを友人と言わないでなんと呼べばよいのか。

 その時はたまたまお互い初対面ではない程度の三人でヘレーン・ハント「チャリング・クロス街84番地」について話していた。一人が読書好きにはオススメの話なのだが訳本が手に入らないという話をしていて、念のため調べてみたらなんと中公文庫で出ている。しかも訳者があの文藝評論家の江藤淳だと知って話は一挙に盛り上がった。この物語はフィクションではなくて、作者である米国の女性作家ハントとイギリスの古書店店員との書籍の購入依頼と回答という手紙の文面から構成されているノンフィクションだ。

 そして、本に対する限りない愛情で結ばれた二人の関係に引っ張られるかのように、その本をオススメしてくれた人を仲立ちに、勧められた僕ともう一人は、やはり読書で結ばれた関係、いや読んだ本のタイトルで結ばれた関係になった。その人の名を仮に羅侯さんとしておこう(仮名かぁ、これが)。

 読んだ本のタイトルで結ばれる関係というのは微妙な言い回しだが、僕と羅候さんにとってはあまり笑えない話で、お互いの一年間に読んだ本の数を較べてもどっこいどっこいの数で、決して多くはないが少なくもなく、読書好きには適度な冊数に上る。ところがタイトルが何故か重なっていない。つまり通常読書仲間というと共通の読書体験を基に話が弾むと相場が決まっているのだが、こと僕ら二人についてはどこまで行っても平行線のまま。めったに同じ本を読まないという事が二人をして互いの読書履歴から目が離せないという奇妙で興味深い関係がいままで続いている理由なのだ。

 何故二人は同じ本が読めないのか?ようやく記事のタイトルの意味するところに本文が追いついた。この小論(と大げさなものではないが)は、二人の読書リストがいかに重ならないかと、何故重ならないかをすこしばかり分析してみようという趣向だ。別にそれで何が分かるというわけでもないが、少しは僕と羅候さんの気が収まるというのがまず理由の第一。次に僕の読書指向を自己分析しておこうというのが第二だ。その上で多少は存在するみたいな僕のブログの読者に向けてささやかな所信表明としたい。まあ至極プライベートな動機なのは認めよう。

 ところでここまでたどり着くのに記事2回分を費やしてしまった。どうも二人の読書リストの分析は次回という事になってしまう。いやはや。どうしてこう僕の文章はきままであてどないのだろう(この項続く)。

参考
 何故二人は同じ本が読めないのか?(1)

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2006年08月11日

この夏、観たい映画観たくない映画(2006年夏)

 昨年もやったこの企画。もう8月のお盆休みが迫っていて遅ればせながらだけれども、今年もやってみたい。元々は自分のための分類であって、せめて1,2本でも観られれば御の字なのだが、果たしてそんな時間があるかどうか。

 前回同様、僕の独断的判断で分類したので、あまり他の人が読んで参考になるかどうかはわからない。◎○△×という4段階の分類だが、明確な作品の優劣があるわけではない。要はいま僕が観たいかどうかだけが基準だ。ただし夏休みという事でシビアな内容のものは観たくないという情緒的な判断が多少含まれている。

 基本的には「夏休み映画はつまらない」という正直な気持ちがないではないのだが、それもこれも一年を通してたくさん映画を観ていた幸せな時に抱いた率直な感想だ。いまや映画館に足を運ぶ事もままならない状況を考えると、たとえベストでもベターでもない平凡な映画であっても嫌いな映画でなければ観たいなあと思う今日この頃である。

 だから×は観たくない映画とはっきり言ってしまうが、それ以外は正直時間があれば観たいなぁ。

 以下、タイトルは、ぴあが入手できなかったので、TOKYO一週間8/15号を参考にしました。ただしなんとなく解説付きのタイトルが少ない気がしたので、ウェブサイトの@ぴあで上映中の映画タイトル一覧をなんとか入手して、TOKYO一週間で紹介されていなかったタイトルで、正直観たいと思った映画を最後にリストアップします。

[観たい映画]

胡同〈フートン〉のひまわり
 息子に自分がなれなかった画家の夢を託す父。親子の確執と和解を描いた作品。あの佳作「こころの湯」の監督さんの作品だと知って、是が非でも観たくなった。「こころの湯」はオススメ!

美しい人
 監督のロドリゴ・ガルシアは「彼女を見ればわかること」でデビュー。あの作品はまさに玄人受けするつくりで、複数の世代の違う女性たちの生き方を切れ味鋭く描いたオムニバス。今回もそういった趣向らしい。これも観たいなぁ。

笑う大天使〈ミカエル〉
 これは間違いなく観たいです(笑)。川原泉原作というだけでも観たいし、なんとなく川原キャラの顔つきそのものの上野樹里がヒロインというところも楽しいね。

M:i:V
 PART1,2ともに観ている。PART1は配役で先が読めてしまう致命的な欠陥はあったが荒唐無稽さが楽しめた。PART2は正直ワイルドになってしまったトム・クルーズのために方向性が変わってしまって??だった。それでも観たくなるんだなぁ。テレビシリーズ「スパイ大作戦」を幼い頃に観た刷り込みがあるからだろうか。

サイレントヒル
 ホラーは基本的にダメなんだが、夏休みならば観られそうな、でもやっぱり観たくないか。怖い物見たさが勝つ季節。解説を読むとゲームがもつ世界観があるホラー映画だとある。それならば観てみようか。

ローズ・イン・タイドランド
 テリー・ギリアム監督。正直そんなに好きな監督というわけでもないが、なんとなくブラックなファンタジーという点が惹かれる。

神の左手 悪魔の右手
 金子修介監督が梅図ホラーをどう料理しているか興味がある。それにしても金子監督、「デスノート」といい、ホラーづいているなぁ。

日本沈没
 とりあえずは平成ガメラを撮った樋口監督の特撮は期待大。しかし前作「ローレライ」といい今回の本作といい、映画監督の手腕はかなり疑問視されているようだ。さて前作も観てないので確認してみたい。

幸せのポートレート
 あの「Sex & The City」のサラ・ジェシカ・パーカーが主演。率直に言って好きな顔立ちではないが、「ラブ・アクチュアリー」を思わせるようなシチュエーション映画なので楽しめそう。

ハイジ
 なんと言ってもアニメの「アルプスの少女ハイジ」を超えるハイジが現れるとは期待してはいないが、実写によるハイジ観てみたいです。

ハチミツとクローバー
 青春ものの王道のような雰囲気。女性漫画っぽいタイトルも直球どまんなかという感じがするし、蒼井優主演というのもまさに旬。夏向きの作品。

[気が向けば観てもいい映画]

狩人と犬,最後の旅
 実在する老人と犬ぞりの七頭の犬の感動的な話。本人と実際の飼い犬たちが出演するセミドキュメンタリーだそうだ。

蟻<アリ>の兵隊
 こういう重い話も暑い夏ならば許される。だって終戦を越してきた夏だから。

ゲド戦記
 息子と親では格が違うということを確認したい。

パイレーツ・オブ・カリビアン/デッドマンズ・チェスト
 前作を観てないので、順番として先に観るのは躊躇される。

奇跡の夏
 韓国映画らしい涙無くしては観られない作品。内容はよさそうなのだが、重病の兄と、兄の看病で親を取られるとわがままを言う弟の話は、夏休みには少し重すぎないだろうか。
 
ラブ★コン
 特に感想はないのだが、こんな純国産のラブコメは確かに夏休み向きかもね。

ブレイブ ストーリー
 宮部みゆき原作。本を読んだときの感想は子供向きじゃないなぁ。大人のためのファンタジーじゃないのかなぁと思った。アニメになるとしたらもっと子供向けになるのかもしれない。

カーズ
 強いて言うとやはりあの「トイ・ストーリー」を生んだピクサーのスタッフが作った作品なので期待できる。たとえディズニーに吸収されてしまったにしても、そもそもディズニーが丸投げしていたフルCGアニメというジャンルを独力で切り開いたスタッフだもの。

デスノート前編
 漫画読んでないんですが、映画どうでしょう?漫画で読む方が面白いんじゃないのかなぁ。あっ、金子修介監督だ。なら手際よくそつなく映画化してそうだな。

愛と死の間〈はざま〉で
 作品の内容は特に可もなく不可もなくだが、アンディ・ラウの渋みが増した容貌を観るだけでもいいんじゃないかな。

[観たくない映画]

×スーパーマン リターンズ
 主役に、かつてのシリーズの主役クリストファー・リーブのような誠実なヒーローとしてのオーラが感じられない。

×ユナイテッド93
 これを夏休みに観たいか?TVのドキュメントなら可だが、いくらなんでも無茶だろう。生々しすぎる。

×親指さがし
 怖い、怖すぎる!僕には無理だ。

×東京フレンズ The Movie
 大塚愛のドヘタな演技を許せるか?

×釣りバカ日誌17/あとは能登なれ ハマとなれ!
 シリーズ自体興味なし。

×ビースティ・ボーイズ 撮られっぱなし天国
 音楽ドキュメンタリー。特に映画としては興味なし。

×おさるのジョージ/Curious George
 子どもと一緒に観るなら可だが…。

×ジダン/神が愛した男
 今年は何故かドキュメンタリーが多い?ジダンの頭突きも入ってるのだろうか?

×カクタス・ジャック
 欄外の解説からは「パルプ・フィクション」のような感じを受けるが、あれほど面白いのか。正直観たいのか観たくないのかはっきり決められなかった。なので×。ゴメン。

×ディセント
 うーん、ホラーでしょ。ショッキングホラーでしょ。嫌です(きっぱり!)。

×時をかける少女
 あの原田知世のイメージが強い本作を現代っ子の女子高生に変えたのかと思ったら、ヒロインは原作にないキャラクターだそうだ。なんか興ざめです。

×ハードキャンディ
 出会い系サイトで知り合った14歳の少女と32歳の男性。なんでも日本のオヤジ狩りがヒントになったらしいが、なんか挑発的な題材とストーリー展開についていけそうにない。

×バルトの楽園〈がくえん〉
 当然ながらというか題材に興味がわかない。ブルーノ・ガンツには惹かれるが…。

 以上がTOKYO一週間に紹介されていたタイトルだが、はて?ダヴィンチ・コードももうリストにないのか。ちょっと少ない気がするが、これでいいのか?てなわけで、前振りでも書いたが@ぴあから入手した上映中の映画のタイトルから、観たいもしくはオススメしたい映画をリストアップした。当然ながらロードショー映画だけでなく旧作も含まれている。

 小津安二郎監督作品が多数含まれているところをみると特集をやっている映画館があるらしい。つまりはたんなる旧作だけでなく特集映画などからもリストアップされている。だとすると日替わりだろうから、せっかくリストアップしてあってもすでに上映終了しているかもしれない。

 もし観たい映画があれば、上映館上映日などを勝手に確かめてください。ではタイトル紹介です。

[おまけの映画]

うなぎ
 近頃無くなった今村昌平監督の代表作。というかカンヌ映画祭受賞作。これ、とってもいいです。オススメです。

かもめ食堂
 あの「やっぱり猫が好き」の雰囲気そのままで小林聡美ともたいまさこが共演。観たいなぁ。

ゆれる
 最近書店の平積みでみたタイトル。どこぞの海外の映画祭で絶賛とオビに書かれていた。オダギリ・ジョー主演だそうだ。

コントラクト・キラー
 アキ・カウリスマキのこれがデビュー作?いやとにかく日本に紹介された最初の作品だったはず。これで私は会社をやめました。じゃなくて私はカウリスマキにハマりました。

ダ・ヴィンチ・コード
 原作も読んだし、最近ヴィジュアル版も読んだし、あとは映画を観るだけだ。

デッドマン
 ジム・ジャームッシュ監督の作品の中でも結構渋めの作品。春に「ブロークン・フラワーズ」を観たばかりで、またジャームッシュ・テイストに浸りたくなった。

トリック劇場版2
 このシリーズはいつになったら完結するのか。今回が本当に最後?シリーズを重ねるごとにやりすぎ度があがっていって、本当は最初のシリーズが一番面白かったのだが、でも惰性で観ちゃうんですよね。

パリ、テキサス
 ヴィム・ヴェンダース作品の中で僕のNo.1。家族の再生の物語。ハリー・ディーン・スタントンの味のある演技が素晴らしい!

ライブ・フレッシュ
 今となっては名監督のペドロ・アルモドバルの最初に観た映画だ。「オール・アバウト・マイ・マザー」の冒頭で「すべての母とすべての女性に捧げる」という献辞があったが、本作もバスの中でも出産シーンから始まり、思えば前々から女性に対する暖かなまなざしをもった監督だった。

嫌われ松子の一生
 変な映画。だからちょっと観てみたい。

太陽
 昭和天皇を描いているから日本では上映できないと言われたいわくつきのロシア映画。でもそんな馬鹿なことあるわけない。日本にタブーはありません(嘘だけど)。

明日の記憶
 原作荻原浩。若年性アルツハイマーの中年サラリーマンの生きる姿を描いた作品。どうしたってプロデューサー兼主演の渡辺謙の人となりとダブる。

旅芸人の記録
 テオ・アンゲロプロスの代表作。これと「こうのとりたちずさんで」「永遠と一日」がオススメ。

さて以下、小津安二郎作品がひろえたので列挙。
お早よう
お茶漬の味
一人息子
戸田家の兄妹
早春
長屋紳士録
東京暮色
晩春
風の中の牝鷄
 特に「お早う」と「お茶漬けの味」「長屋紳士録」「晩春」がオススメ。

参考
 この夏、観たい映画観たくない映画(2005年夏)

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