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    2025年08月10日

    アレクサンドラ構文の不思議(その2)

     アレクサンドラ構文に続いてアミラーゼ構文についても検討しよう。アレクサンドラ構文よりも難度が高い構文とされ、アレクサンドラ構文の設問に正しく答えられた人のみに用意されている文章および設問のようだ。
    アミラーゼという酵素はグルコースがつながってできたデンプンを分解するが、同じグルコースからできていても、形が違うセルロースは分解できない。
    この文脈において、以下の文中の空欄にあてはまる最も適当なものを選択肢から1つ選びなさい。
    セルロースは(  )と形が違う。
    @デンプン Aアミラーゼ Bグルコース C酵素
    (正答率:16.3%)
     元ネタのYouTubeでは、コメンテーター一同が頭をひねりながら正解を選ぼうとしている姿が面白おかしく映し出されるが、一方でアレクサンドラ構文の発案者は「この(アミラーゼ構文の)文章は教科書から採っていて、(生徒に)分かりやすく伝えようとして書いてある。」として文章の正当性を主張している。しかし、この文章ははたして本当に分かりやすく書かれているだろうか。

     もちろん、前後の文脈無しで一文の是非を判断するのは正しい姿勢ではないが、機能的非識字を測る物差しとして発案者が採用している文である以上、この一文だけで良し悪しを判断するべきだろう。ただし、教科書の著者の言い分を前もって推し量るとすれば、文字数に制約があるなかで最低限伝えねばならないことを全部盛りこんだ文になっていて、読む側への配慮が行き届いていない事に気づいていないか、あるいはやむを得ないとあきらめたか、いずれかなのだろう。

     とりあえず、英文の直訳調のような文章を1つ1つの単文に分けてみよう。特に「グルコースがつながってできたデンプン」や「同じグルコースからできていても、形が違うセルロース」という部分は英語の関係代名詞節を想起させるような連体修飾節になっているので、これらも1つの文章に分解する。要するに英文解釈と同じ手法で日本語の文も構造分析してみる。
    アミラーゼという酵素はデンプンを分解する。
    デンプンはグルコースがつながってできている。
    アミラーゼはセルロースは分解できない。
    同じグルコースからできていても、セルロースは形が違う。
     こうしてみると、この文章が決して「分かりやすく書かれている」とはおよそ言えない事がはっきりしてくる。
    ・何を言いたいのかが分かりにくい。
    ・情報を与える順番が正しくないため、余分な情報が読み手の理解を妨げている。
    という事が言える。この文章はそもそも何を言いたいのか。「アミラーゼはデンプンを分解するが、(アミラーゼは)セルロースは分解できない。」という事だろう。最初にそう書けばいいものを、余分な情報(デンプンの形状とセルロースの形状)を同じ文で与えようとするので、言いたい事(主張)が分かりにくくなっている。

    アミラーゼという酵素はデンプンを分解する。
    しかし、アミラーゼはセルロースは分解できない。
    デンプンはグルコースがつながってできている。
    同じグルコースからできていても、セルロースは形が違う。

     さらに推敲する。前半の2文は対照の助詞「は」を使ってまとめる事ができる。
    (a)アミラーゼという酵素はデンプンは分解するがセルロースは分解できない。
     対照の「は」は、比較対象である「デンプン」「セルロース」の両方に使うのが基本なので(a)のようになる。ただし、「デンプンは」「セルロースは」の「は」は格助詞「を」を兼務していて、見かけ上は消えてしまう。題目部の「アミラーゼという酵素は」に直接繋がる「デンプンは」は「デンプンを」を指すと分かるだろうが、後半の「セルロースは」の比較対象は「アミラーゼという酵素は」と「デンプンは」のいずれを指すのかがやや曖昧だ。それを避けるためには、(a')のように後半にも題目部の「アミラーゼは」を追加するとよい。
    (a’)アミラーゼという酵素はデンプンは分解するが、アミラーゼはセルロースは分解できない。
     ただし、題目部を同じ文で繰り返すのはかなり冗長で違和感がある。それよりは(b)のように「〜を分解する事ができる/できない」という言い回しをうまく使えば、助詞「を」を残す事が可能になる。
    (b)アミラーゼという酵素はデンプンを分解する事はできるが、セルロースを分解する事はできない。

     あとは、アミラーゼの働きが違う事を説明をする後半をどう直すかだ。ここまで手を尽くして分析してみても、今ひとつ後半の説明がピンとこない。それは「デンプンはグルコースがつながってできている」と「セルロースは形が違う」との関連がよく分からないからだ。しかも「(セルロースはデンプンと)同じグルコースからできていて」と書かれているのだから、「グルコースがつながってできている」のはセルロースも同じなのではないだろうか。

     おそらく、デンプンは「グルコースがつながってできている」という表現が、さきほど僕が書いた「余分な情報」なのだ。何故ならセルロースも「グルコースがつながってできている」からだ。そうとは書かないで、かわりに「同じグルコースからできていて」と書かれているので、説明が曖昧になってしまった。結局「アミラーゼが分解する/しない」の違いは「形が違う」だけなのだ。
    アミラーゼという酵素はデンプンを分解できるが、セルロースを分解する事はできない。
    デンプンもセルロースも同じグルコースからできているが、セルロースはデンプンとは形が違うからだ。
     ここで推敲した文章をよく見てほしい。「AはBとは形が違う」のようにきちんと比較対象を書くべきなので手直しした。おのずと、冒頭の設問「セルロースは(  )と形が違う。」の解答が分かってしまった。いや、ポイントはそこではない。そもそも原文に比較対象が書かれていない事が間違いなのだ。つまり、このアミラーゼ構文は「分かりやすく伝えようと書かれてはいない」という事が、設問を解くことでハッキリしたのだ。
    posted by アスラン at 09:25 | 東京 🌁 | Comment(0) | TrackBack(0) | 評論・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2025年08月07日

    アレクサンドラ構文の不思議

     「機能的非識字」という専門用語があるようだ。Wikipediaによると「日常生活において、読み書き計算を機能的に満足に使いこなせない、文字自体を読むことは出来ても、文章の意味や内容が理解出来ない状態を指す。」と書かれている。こう書くと文字そのものを認識して発音(読み)と対応づける事まではできても、単語や句、文と言った意味を構成する単位の理解ができない事を指すように読めてしまうが、そうではないらしい。

     それよりも概要に書かれている内容の方が定義としては理解しやすい。まずは前提として「非識字」という用語がある。こちらは「知的能力や学習能力に障害があったり(ディスレクシアなど)、あるいは読み書き学習の機会が与えられなかった為に、会話はできても簡単な読み書きにも支障をきたす事」を指す。これに対して「機能的非識字」は「簡単な読み書きに関しては問題なく行うことができ、日常生活において登場する一定水準以上の文字・文章に対する適切な発音・音読もできるが、その内容を期待される水準まで正しく理解することができない事」と書かれている。

     ここで問題になるのは「期待される水準まで正しく理解することができない」の部分だろう。「期待される水準」とは一体どんな文章を指すのだろうか。同じくWikipediaには「2017年の調査によれば、日本の中学生の約15%は平仮名と片仮名は読めるが、新聞や教科書の理解に支障を来しているとしている。」と書かれている。またしてもひどい書かれようだ。文字の読み書きと意味の理解に乖離があるというだけでなく、一部の中学生は「漢字が読めない」と言っているかのような誇張(誘導)が感じられる。出典をたどると何の事はない。これから論おうとしている「アレクサンドラ構文」の発案者が、東京新聞に書いた記事が大元の出典のようだ。

     これからやろうとする事は、出典元の研究者の調査および主張を否定する事ではない。普通に考えるかぎり、漫画やアニメ、刺激的な映像などメディアが多様化するにつれて、言葉だけで複雑な内容を伝達したり、レトリックを駆使して相手にイメージを喚起したりする体験が減ってきている事は確かだろう。そのせいで「機能的非識字」という、一種の能力低下を引き起こしている可能性は否定できない。ここで問題にしたいのは、はたして「アレクサンドラ構文」がその状況を測る物差しとしてふさわしいかどうか。その一点である。

     「アレクサンドラ構文」とは以下のような文章と設問からなる。
    [文章]Alexは男性にも女性にも使われる名前で、女性の名Alexandraの愛称であるが、男性の名Alexanderの愛称でもある。
     [設問]この文脈において、以下の文中の空欄に当てはまる最も適当なものを1〜4の中から選びなさい。
    Alexandraの愛称は(  )である。
    @Alex AAlexander B男性 C女性
    (正答率:中学生38%、高校生(進学校)65%)

     この構文の発案者は「こんなに簡単に理解できそうな文が、中学生のたった38%しか正しく理解できていない。」と主張している。ただし、ひと目見ただけでも、この文章自体にいろいろな問題がありそうな事が分かる。例えば「名前」と言ったり「名」と言ったりしているし、Alexは「(名前の)愛称」のはずなのに冒頭から「名前」だと言っている。確かに「愛称」も「名前」というグループに含まれるが、表現のゆれが文意を捉える上で足を引っぱる事になりかねない。また、そもそも中学生に読ませる内容としてAlexやAlexandra、Alexanderそのままというのは不親切ではないだろうか。

     構文自体にも問題がある。これは3つの文を並列に並べた重文であるが、意図が分かりにくい構成になっている。3つを並べる際に意図的に第2、第3の文の主格である「Alexは」を省略している。さらに第1の文は「…名前で、」という連用形で後方の文とつないでいるが、それ以降の文とどのような関係があるのかが曖昧だ。ここには大きな切れ目があって、後方の文は第1の文の具体例を挙げている事が分かるように書かれるべきだ。ここまでで文章を推敲する。
    Alex(アレックス)は男性の名前にも女性の名前にも使われる愛称である。
    例えば、Alexは女性の名前であるAlexandra(アレクサンドラ)の愛称であるが、男性の名前であるAlexander(アレクサンダー)の愛称でもある。

     推敲した結果、さらに元の文章には足りないところがある事がわかってくる。そもそも、元の文章は何を相手に伝えたいのだろうか。思うに2つの事を伝えたいはずだ。
    ・英語圏では名前の一部を使った愛称(あだ名)がよく使われる。例えばEdwardをEdと呼んだりする。
    ・よく使われる愛称の中には男性にも女性にも使われるものがある。例えばAlexがそうだ。
     重要なのは、この後半部分をいきなり提示したのが元の文章であるという点だ。前半部分の説明が欠けているせいで、聞き手の一部は設問に答える前に文脈を見失う可能性がある。そこで「愛称」についての説明を加えて文章を再度推敲する。
    英語では、名前の最初の部分だけから愛称(あだ名)が作られ、名前の代わりに使われることがある。
    例えばEdward(エドワード)という名前にはEd(エド)という愛称が存在する。
    愛称の中には男性にも女性にも使われるものがある。
    例えばAlexandra(アレクサンドラ)は女性の名前だが、愛称はAlex(アレックス)である。
    一方、Alexander(アレクサンダー)は男性の名前だが、愛称は同じくAlex(アレックス)である。

     前半に愛称の説明を加えただけでなく、後半の説明も手直しした。それは、そもそも原文に愛称の説明が一切なかったので、後半部分の説明にむりやり「愛称」という言葉を入れ込む必要があったからだ。つまり前半部分の説明が不十分な事のしわ寄せが、原文全体のわかりにくさに影響をおよぼしたと言っていい。わかりやすさを基準にして原文を書き直したが、やや丁寧すぎる事で設問の狙いである「機能的非識字の有無」を測るのにふさわしくなくなってしまったかもしれない。もう少し要約しよう。
    英語では、名前の一部を使った愛称(あだ名)が使われる事がある。例えばEdward(エドワード)の愛称はEd(エド)である。
    愛称の中にはAlex(アレックス)のように男性にも女性にも使われるものがある。Alexandra(アレクサンドラ)は女性の名前で、Alexander(アレクサンダー)は男性の名前だが、どちらの愛称もAlexである。
     この文章(文脈)にもとづいて、どのくらいの中学生が前述の設問「Alexandra(アレクサンドラ)の愛称は(  )である。」に正しく答えられるだろうか。普通に考えると、設問自体が文章の中に出て来ているので、原文のままと比べるとかなり正答率が上がるのではないかと予想する。だから最後の推敲で一手間かけて、アレクサンドラとアレクサンダーの名前の比較を先におこない、後で「どちらの愛称もAlexである」と書く事によって設問そのままの文が出てこないように工夫してみた。

     機能的非識字を測る物差しとしての難度(期待される水準)が正しく設定されているかは、僕には正直わからないが、少なくとも物差しそのものに問題がある状況は改善できたように思う。前提となる説明(文脈)をきちんと提示しない、あるいは一部を隠蔽している文を「これは普通の文章なんです」と言い張る事はできない。相手のスキルに問題ありと主張する前に、まずは発信者側のスキルに問題ありと内省する必要があるのではないだろうか。
    posted by アスラン at 09:50 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 評論・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2025年05月12日

    The exorcist (William Peter Blatty)を読む(その2)

     チャイハナ(茶屋)から場面は変わって、遺跡からの出土品を管理する責任者の仕事部屋。原作には書かれていないが、発掘作業を取り扱う事務所もしくは博物館そのものの一室かもしれない。
    [原文]( プロローグP.5) The painstaking inventory was finished by ten after six. The Mosul curator of antiquities, an Arab with sagging cheeks, was carefully penning a final entry into the ledger on his desk. For a moment he paused, looking up at his friend, as he dipped his penpoint into an inkpot. The man in khaki seemed lost in thought. He was standing by a table, hands in his pockets, staring down at some dry, tagged whisper of the past. The curator observed him, curious, unmoving; then returned to the entry, writing in a firm,very small neat script. Then at last he sighed, setting down the pen as he noted the time. The train to Baghdad left at eight. He blotted the page and offered tea.

    [私訳] 出土品の目録作りは骨が折れる作業で、6時10分にようやく終わった。モスル遺跡の出土品管理者は頬がたるんだアラブ人で、最後となった出土品の記載事項を机の上にある台帳に慎重に書き入れていた。ふとペンを止めて目の前の友人を見上げてから、インク壺にペン先を突っこんだ。カーキ色の服を着た老人は心ここにあらずといった様子だった。テーブルの脇に立ってポケットに手を入れたまま、タグが付いてややそっけなく自らの過去をささやいている物を見下ろしていた。管理者は興味を持ってじっと友人を観察した。そして目録の記入に戻ると、とても小さくそろえた文字で整然と書き続けた。最後にため息をひとつつくと、時刻を書き入れてペンを置いた。バグダッド行きの列車は8時出発だった。管理者は吸い取り紙で余分なインクを拭き取り、友人にお茶を勧めた。
     writing in a firm,very small neat scriptという表現もずいぶん変則的だ。in a firm and very small neat scriptという並列関係になるところだろうか。初見では形容詞firmの直後に副詞のveryが出てくるのでちょっとドキッとさせられる。ブラッティの文章の癖に慣れてくればなんてことはないのだろうが、冒頭を読み出したばかりでは、変則的な書き方に「えっ?」と戸惑ってばかりだ。映画での管理者は目録作りに勤しんでいるわけではなく、ノートに出土品の特徴を書き記していて、決して「小さくそろえた文字で整然と書」いてはいない。

    [原文]( プロローグP.6) The man in khaki shook his head, his eyes still fixed upon something on the table. The Arab watched him, vaguely troubled. What was in the air? There was something in the air. He stood up and moved closer; then felt a vague prickling at the base of his neck as his friend at last moved, reaching down for an amulet and cradling it pensively in his hand. It was a green stone head of the demon Pazuzu, personification of the southwest wind. Its dominion was sickness and disease. The head was pierced. The amulet's owner has worn it as a shield.
     "Evil against evil," breathed the curator, languidly fanning himself with a French scientific periodical, an olive-oil thumbprint smudged on the cover.


    [私訳] 老人は首を振って、テーブルの上のあるものをじっと目で捉えていた。アラブ人は友人を見て、何事かといぶかった。この雰囲気は何だろう。何かが感じられる。管理者は立ち上がって友人に近づいた。友人がようやく動きだした時、管理者は首元に何かちくりと痛みのようなものを感じた。テーブルの上のお守りにたどり着き、何事か思案しながら手に取った。そのお守りは緑の石でできた悪魔パズズの頭部だった。パズズは南西風の化身だ。その力はあらゆる病に及ぶ。頭部は穴が穿たれていた。かつての持ち主は、それを盾として身につけていたのだ。
     「悪魔には悪魔を」 管理者は息を吐き、気怠げにフランスの科学定期刊行誌であおいだので、指に付いていたオリーブ油で表紙が汚れた。
     映画では、出土品管理者とのやり取りはごくごくあっさりとしたシーンになっている。管理者がノートにメモ書きしている間、メリン神父は当日に発掘された出土品に見入っている。特に最後に自らが掘り出した小さな像(頭部のみ)に向けて「悪魔には悪魔を」とつぶやく。これは原作では管理者が言った事になっていて、パズズをかたどったお守り(amulet)であることが管理者の独白で明らかになるのだが、映画の神父はそんな事はとうにお見通しのようだ。映画では説明的な部分は一切省略されているが、神父が放つ「悪魔には悪魔を」という一言の直後に、時の流れが一瞬止まったかのように柱時計の振り子が止まる。この一瞬の緊張感がすべてを物語っている。

     『エクソシスト』が従来から映画や小説で描かれてきた悪魔とは違ったイメージを提示したのは明らかで、いわゆる堕天使と呼ばれるルシファーなどのキリスト教的悪魔ではなく、異端(異教徒)が生み出す異形の存在が「悪魔」として描かれている。と言うことは異教徒にとっては神でもあるという事になる。カソリックの神父やエクソシストが描かれる映画ではあるが、従来の「善と悪」「神と悪魔」という枠内には収まっていないのは、原作がイラク北部で始まり、異教徒の神パズズとの邂逅を描くというブラッティの着想が素晴らしかったという事だろう。ちなみにパズズとはどのような悪魔(神)なのだろうか。英語版WikipediaではPazuzuの項に解説が書かれている。以下に訳文(文責Chat-GPT)を掲載する。
     パズズ(Pazuzu)は、古代メソポタミアの宗教における風の悪霊の王であり、特に南西の風を象徴する存在です。彼は神ハンビ(Hanbi)の子とされ、アッシリアやバビロニアの文化圏で紀元前1千年紀を通じて広く知られていました。パズズは通常、犬のような顔、異常に大きく突き出た目、鱗状の体、鳥の鉤爪、二対の翼、サソリの尾、蛇の頭を持つ陰茎など、さまざまな動物と人間の特徴を組み合わせた姿で描かれます。
     彼は一般的には邪悪な存在と見なされていましたが、同時に病気をもたらす風から人々を守る守護者としての側面も持ち合わせていました。特に、出産時に母子を害すると信じられていた女悪霊ラマシュトゥ(Lamashtu)から守る存在とされ、彼の姿を刻んだ護符やアミュレットが住居や妊婦の身につけるものとして使用されました。

     パズズは、1971年の小説『エクソシスト』およびその1973年の映画化作品で悪霊として登場し、西洋の大衆文化においても広く知られるようになりました。
     この解説によると、ブラッティの小説およびフリードキンの映画のヒットにより、イラク周辺の古い神の名前が広く世界中に知れ渡る事になったようだ。残念ながら辞書に見出しが立つまでにはいたらなかったようで、僕の電子辞書の範囲ではPazuzu(パズズ)は見当たらない。なお、英語版Wikipediaでは以下のようなパズズの姿が見られる。
    250px-British_Museum_Bronze_head_Pazuzu_B_27072013.jpg

    [原文]( プロローグP.6) His friend did not move; he did not comment.
    "Is something wrong?"
    No answer.
    "Father?"
    The man in khaki still appeared not to hear, absorbed in the amulet, the last of his finds. After a moment he set it down, then lifted a questioning look to the Arab. Had he said something?
    "Nothing."
    They murmured farewells.
     At the door, the curator took the old man's hand with an extra firmness. "My heart has a wish, Father: that you would not go."
     His friend answered softly in terms of tea; of time; of something to be done.
    "No, no, no, I meant home."


    [私訳] 友人の反応は何もなかった。聞き返してもこない。
    「何か問題でも?」
    返事はない。
    「神父?」
    老人は相変わらず話を聞いてないようで、最後に発掘されたお守りに気を取られていた。しばらくして落ち着いてくると、今度は自分からアラブ人に物問いたげな視線を向けた。"彼は何か言ってたな。"
    「何も問題はない。」
    二人は小声で別れの挨拶を交わした。
     ドアまで来て、管理者は老人の手をいつも以上に堅く握り返した。「神父。正直なところ、あなたに行って欲しくない。」
     友人は、お茶を断る時、時間がない時、片づけねばならぬ事がある時と同じような言い方でやさしく答えた。
    「いや、いや、どうしても帰国しなければなりません。」
     映画では帰国を思いとどまって欲しいという管理者の問いかけに、神父は「やることがあるから」と答えている。

    [原文]( プロローグP.7) The man in khaki fixed his gaze on a speck of boiled chick-pea nestled in a corner of the Arib's mouth; yet his eyes were distant. "Home," he repeated. The word has the sound of an ending.
     "The States," the Arab curator added, instantly wondering why he had.
     The man in khaki looked into the dark of the other's concern. He has never found it difficult to love this man.
     "Good-bye," he whispered; then quickly turned and stepped into the gathering gloom of the streets and a journey home whose length seemed somehow undetermined.


    [私訳] 老人は、アラブ人の口の端にひよこ豆の煮物を食べた汚れが残っているのに気づいた。しかし両方の目はいまだはるか遠くを見据えていた。「帰国せねば」と繰り返した。その一言で話は終わりだと言っているように聞こえた。
     「お国は米国でしたね」 アラブ人の管理者は即座に、神父が帰国を余儀なくされている理由はなんだろうと考えながら言った。
     老人は目の前の男がどれだけ自分を気に掛けてくれているかを知った。この男に好意を持つのは難しいと思った事は、これまで一度もなかった。
     「お別れだ」 老人は小声で挨拶し、すぐに踵を返して憂鬱な雑踏へと足を踏み入れた。家路につく旅は果たしてどれほどなのかはっきりしていない。
     原作では神父の深刻な様子に対して、管理者の人間らしい側面をスパイスのように利かせている。学術論文誌をうちわ代わりに使って、手に付いていたオリーブ油が表紙を汚したと書かれていたが、その正体は昼食にたべた「ひよこ豆の煮物」だったようだ。チャイハナの主人には心を通わす事はできなかった神父だが、この出土品管理者には親愛の情を抱くことができた。それを端的に示す描写だと思うが、ブラッティは情緒的な表現は極力排除しているので、アラブ人の所作を微笑ましく思っているのか違和感を感じているのかは、一文だけでは判断しにくい。その後で神父の独白があって、初めて親愛の情を抱いていると知れるのだ。

    [原文]( プロローグP.7) "I will see you in a year!" the curator called after him from the doorway. But the man in khaki never looked back. The Arab watched his dwindling form as he crossed a narrow street a an angle, almost colliding with a swiftly moving droshky. Its cab bore a corpulent old Arab woman, her face a shadow behind the black lace veil draped loosely over her like a shroud. He gussed she was rushing to some appointment. He soon lost sight of his hurrying friend.

    [私訳] 「一年以内にまたお目にかかりましょう」 戸口から管理者が呼びかけた。しかし老人は二度とふり返らなかった。管理者は遠ざかって小さくなっていく人影を見ようと狭い通りを斜に横切ると、急いで近づいてきた馬車にぶつかりそうになった。馬車は太ったアラブ人の老女をひとり乗せていた。屍衣のように黒いレースの布が老女をゆったりと包んでいて、顔は布に隠れて見えなかった。あの老女は何か約束があって先を急いでいたのだろう。まもなく管理者は、慌ただしく出ていった友人の姿を見失った。
     この場面は映画にはない。正確には、この馬車のエピソードもメリン神父の身に起きた事に変更されている。管理者がいみじくも独白しているように馬車が急いでいたのは何か急ぎの用があったからだろう。しかし神父の身に起きていたならば、それは何事かのオーメン(兆し)だと考えても不思議ではない。映画では管理者の出番を減らしてでも神父の抜き差しならぬ状況を描き出そうとしている。

    [原文]( プロローグP.7) The man in khaki walked, compelled. Shrugging loose of the city, he breached the outskirts, crossing the Tigris. Nearing the ruins, he slowed his pace, for with every step the inchoate presentiment took firmer, more horrible form. Yet he had to know. He would have to prepare.

    [私訳] カーキー色の服を着た老人は、何かに強いられるように歩いた。町から離れると両肩をすくめ、チグリス川を渡って町外れを通り抜けた。遺跡に近づくと速度を緩めた。何故なら一歩近づくたびに、始まりの予感がより揺るぎなく恐怖に満ちたものへと変わっていったからだ。だがしかし、老人は知らなければならなかった。何ものかに備える必要があるのだろうと。
     遺跡は事務所から歩いていける距離にある事になっているが、映画ではジープで乗りつけている。

    [原文]( プロローグP.8) A wooden plank that bridged the Khosr, a muddy stream, creaked under his weight. And then he was there; he stood on the mound where once gleamed fifteen-gated Noneveh, feared nest of Assyrian hordes. Now the city lay sprawled in the bloody dust of its predestination. And yet he was here, the air was still thick with him, that Other who ravaged his dreams.

    [私訳] コスル川は泥のように濁った川で厚い木の板が渡してあり、渡ると重みでギーギーときしんだ。そうして老人はそこにいた。アッシリア人の軍勢の根城として恐れられ、15箇所もの出入り口がある都市ニネベがかつては栄華を極めた丘に、老人は立っていた。いまやニネベの町は、血に塗れた自らの運命の元に身を投げ出して横たわっていた。それでも老人はここにいた。老人を取り巻くように空気はいまだ濃密なままだった。そこに確かに存在する"何者"かが老人の夢を食らいつくそうとしていた。
     土地勘がないのでgoogleマップに手助けしてもらう事にする。
    イラク北部-1.jpg
     都市モスル周辺では、チグリス川の西側にモスル博物館がある。これがどうやらメリン神父と出土品管理者とが会話をする場面のモデルとなった場所らしい。チグリス川を渡ると小さな支流であるコスル川が見える。これは本当に小さな川で板を渡せば渡れるぐらいの川だ。これを北側に渡ると、その先にニネヴェの丘やアシュール・バニパニの図書館が現われる。ニネヴェの丘は現在の地名とは別にアッシリア人が築いた古代都市ニネヴェがあった丘であり、これが原作の記述と一致する。

    [原文]( プロローグP.8) A Kurdish watchman, rounding a corner, unslung his rifle and began to run toward him, then abruptly stopped and grinned with a wave of recognition and proceeded on his rounds.

    [私訳] クルド人の衛兵が角から飛び出して、肩に提げたライフルを構えて老人の方に走り寄ろうとした。だが、それが誰なのか気づくと、即座に立ちどまり笑みを浮かべて、見回りを再開した。
     映画はジープで乗りつけ、原作では徒歩でたどり着くという違いはあるが、角から衛兵が飛び出してくるという映画のシーンは原作どおりだ。ただし、映画では神父の方から軽く手を上げて会釈すると衛兵が奥に引っ込む。しかも衛兵の一人は無表情で神父を注視していて原作のような顔見知りへの笑顔は一切無い。やはり全体的に異教徒の住む土地にいる事に神父が違和感を感じているという点が映画では強調されている。

    [原文]( プロローグP.8) The man in khaki prowled the ruins. The Temple of Nabu. The Temple of Ishtar. He sifted vibrations. At the palace of Ashurbanipal he paused; then shifted sidelong glance to a limestone statue hulking in situ: ragged wings; taloned feet; bulbous, jutting, stubby penis and a mouth stretched taut in feral grin. The demon Pazuzu.
     Apruptly he sagged.
    He knew.
    It was coming.


    [私訳] カーキー色の服を着た老人は遺跡をあちこち見て回った。ナブの神殿、イシュタルの神殿。直観を篩にかけていく。アシュール・バニパル王の宮殿で立ち止まった。そして、本来いるべき場所に大きな姿で現われた石灰岩の像を横目で捉えた。崩れ落ちた両翼、鉤爪がついた両脚、膨らんで突き出た、切り株のような陰茎、残忍そうな笑みで緊張感を振りまく、大きく開いた口。これこそ悪魔パズズだ。
     老人はすぐに力が抜けていった。何もかもわかった。こいつがやって来たのだ。
     神父は遺跡を歩きまわって、自らの恐怖の源泉が何かを探り当てようとしている。この場面はプロローグのクライマックスで、映画でも遺跡を歩きまわるシーンがあるが、どれがどの神殿かを分かりやすく描いてはいない。それもそのはずだ。
    イラク北部-2.jpg
     このマップで一目瞭然であるが、ナブの神殿もイシュタルの神殿もモスルからは遠く離れたところにある。どちらもモスルからチグリス川を南下した先にあり、古代都市遺跡ニムルド(Nimrud)の一部として見つかっている。原作者ブラッティがモスルとニムルドを混同したか、あるいは知っていてフィクションの都合をあえて優先したかのいずれかだが、後者である可能性が高そうだ。というのも「アシュール・バニパニ王の宮殿」という記述も不正確だからだ。アシュール・バニパニ王の宮殿は該当するものが見当たらず、モスルには「アシュール・バニパニの図書館」と呼ばれる遺跡がある。この王は図書館を建設した業績で知られているらしいが、ブラッティはここでも世界史的な正しさよりもフィクションとしてのわかりやすさを優先していると思われる。

     そして何よりもこの段落で描写されるパズズは、Wikipediaの解説と比較すると「似て非なるもの」という感じがする。動物と人間のパーツを組み合わせた存在という意味では「切り株のような男根(陰茎)」を持つ神(悪魔)であるが、実際は蛇の頭部をモチーフにした男根からなる。尻尾はサソリ、両脚は鳥のかぎ爪を採り入れている。なにより顔は犬のそれなので、忌まわしいというよりも一見すると愛らしい存在にも感じられる。それをキリスト教的な色眼鏡で見ると「残忍そうな笑みで緊張感を振りまく」悪魔となるのだろう。

    [原文]( プロローグP.8) He stared at the dust. Quickening shadows. He heard dim yappings of savage dog packs prowling the fringes of the city. The orb of the sun was beginning to fall below the rim of the world. He rolled his shirt sleeves down and buttoned them as a shivering breeze sprang up. Its source was southwest.
     He hastened toward Mosul and his train, his heart encased in the icy conviction that soon he would face an ancient enemy.


    [私訳] 老人は土ぼこりの風景をにらみ付けた。闇が迫っている。野犬の群れが町外れをうろつき廻って、虚ろに吠え合っているのが聞こえた。太陽という天体が、この世界の縁に沈もうとしていた。身震いするほどの風が急に吹いてきたので、老人はシャツの袖を下ろしてボタンを留めた。風は南西からやってくる。
     老人はモスルに、そこから出る列車に急いだ。老人は心の中で冷ややかに確信していた。まもなく、いにしえの敵に相まみえるのだと。
     プロローグ最後の描写と映画の映像とは完璧と言ってよいくらいに一致している。まさに原作・脚本のブラッティと監督フリードキンとのコラボレーションの賜物だ。野犬の群れは出てこないが、痩せて気が立っている二頭の犬が争うカットが挿入され、焼け付くような太陽が闇へと落ちていこうとするタイミングで、南西から強い風が吹きあれ、神父と”残忍な”パズズの立像とが対峙するのだ。
    posted by アスラン at 03:10 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 評論・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2025年05月04日

    The exorcist (William Peter Blatty)を読む(その1)

     「ミステリを原書で読みたい」シリーズの次の作品は、ウィリアム・ピーター・ブラッティの『エクソシスト』にした。シリーズなどと言っても、前回はクリスティの『オリエント急行の殺人』をだいぶ前に読了しただけだし、その後は翻訳家・宇野利泰さんの「(翻訳の)盛り具合」を確認するために、エラリー・クイーンの『犯罪カレンダー』をひと月分だけ読んだ。あるいは、ジョン・ディクスン・カーの『髑髏城』で、旧訳・新訳を参考にしながら髑髏城の構造を分析するために原書を部分的に読んだりした。要するに原書をつまみ食いしたに過ぎない。さらには、ミステリではないけれど、関連書籍としてフランシス・M・ネヴィンズの『エラリー・クイーンの世界』の誤訳状況を、別宮貞徳さんの『続 誤訳・迷訳・欠陥翻訳』の時評の指摘部分に従って調べたりして今に至っている。

     そろそろ、ちゃんと原書を一冊読みたいと思っていたところだが、今回は久しぶりにフリードキン監督の代表作『エクソシスト』の冒頭部分を見返したばかりなので、ブラッティの原作ではどのように書かれているかが気になった。まあ、結局は単に原書を読むというよりは、映画と原作とを比較するために読むという趣向になりそうだ。そもそも『エクソシスト』はミステリでもない。だからマイシリーズは「ミステリ等を原書で読みたい」という呼び名に代える必要がありそうだが、そんなに厳密に考えて付けた通称でもないからこのままで行く(いや、そもそもシリーズというほど、原書の数をこなしてもいないし)。

     僕が持っている原書The EXORCISTは1971年に出版された初版を元に、HarperPaperbacksとして1994年に出版されたものだ。すでに30年経っていて、焼けによる経年劣化で表紙がパリパリと崩れてしまう。カバンに入れて持ち歩いていたら、つい数日前に表紙が取れてしまった。全編を読み終わる頃にはペーパーバックの寿命を全うしそうな予感がする。まあ、最後まで読めたら自分を褒めてあげたいとは思う。まだプロローグを読んだだけで停滞しているが、かなり原文が手強い印象だ。だが、とにもかくにも一歩を踏み出そう。ちなみに世に出回っている翻訳は創元推理文庫『エクソシスト』で、こちらは何と宇野利泰さんの翻訳だ。よくよく考えると宇野さんの翻訳だと知ってずいぶん前に入手した記憶があるが、たらふく寝かせてしまった。その後、宇野利泰研究のために原書も買い足したのだった。宇野さんの翻訳は相変わらず冒頭から大"盛り"なので、この記事では私訳を参考として原文に併記していく。専門家でもないし英語読解力が優れているわけでもないので、あくまで個人的な理解を反映した日本語の文章に過ぎないと予めことわっておく。

     冒頭にはいくつかの引用があり、例の「わが名はレギオン」と名乗る悪魔とキリストとが対峙するルカ伝の場面や、アメリカのマフィアであるコーザ・ノストラの一味がまるでレジャーのように人をなぶり殺しにした際の様子を語った電話の盗聴記録、それに加えて戦時下の兵士が村の少年と教師に向けて行った残虐行為の言及が続く。最後にアウシュビッツを含む三箇所の強制収容所の名前が並べられる。この念の入った引用部分は、人間そのものに確実に”悪魔"が潜んでいる事の例証になっているとも言える。あくまでキリスト教的な悪魔を想定せずとも、そもそも人間は「悪魔でもある」という主張も成り立つと著者は言いたいのかもしれない。それにしてもドキュメンタリーでもないのに、かなり重苦しい箇所を引用しているのは少々やり過ぎな感じがするし、悪趣味と言われても致し方ない。とりあえず、ここはスルーしてプロローグに取りかかろう。

     プロローグには「イラク北部(Northern Iraq)」というサブタイトルが付いている。ここでは老いた神父が登場する。すでに映画を観ている人(僕自身もそうだが)には自明だが、やがて米国のワシントン市で暮らす一人の少女の身に起きる事になる「悪魔憑き」を祓うために派遣されることになるイエズス会神父メリンが描かれる。映画では名優マックス・フォン・シドーが演じている。名優と言っても当時44歳(!)だったシドーは、スウェーデンの名匠イングマール・ベイルマンの初期の代表作にこそ出演して知る人ぞ知る存在ではあったが、決して世間の知名度は高くなかったはずだ。
    [原文]( プロローグP.3) The blaze of sun wrung pops of sweat from the old man's brow, yet he cupped his hands around the glass of hot sweet tea as if to warm them. He could not shake the premonition. It clung to his back like chill wet leaves.
    [私訳] 照りつける太陽のせいで、老人の眉から汗がしたたり落ちた。にも関わらず、老人は熱いお茶が注がれたコップを、両手を温めるかのように持ったままだった。不吉な予感を振り払う事などできなかった。それは濡れ落ち葉のように老人の背中に張り付いていたのだ。
     映画を観ると、このシーンは少し後に出てくる。原作ではイラクの遺跡の発掘はすべて終わった事になっているのだが、ドキュメンタリー手法を得意としたフリードキンは今まさに発掘のただ中にいるかのような臨場感がある場面から映画を始めている。強いて言うと、The blaze of sunという炎のような太陽を映像として効果的にとりいれている。ちなみに映画『エクソシスト』の脚本は、原作者のブラッティが担当しているので、映像的な改変はあっても人物や場面の設定はほぼ原作に忠実に作られている。

    [原文]( プロローグP.3) The dig was over. The tell has been shifted, stratum by stratum, its entrails examined, tagged and shipped: the beads and pendants; glyptics; phalli; ground-stone mortars stained with ocher; burnished pots. Nothing exceptional. An Assyrian ivory toilet box. And man. The bones of man. The brittle remnants of cosmic torment that once made him wonder if matter was Lucifer upward-groping back to his God. And yet now he knew better. The fragrance of licorice plant and tamarisk tugged his gaze to poppied hills; to reeded plains; to the ragged, rock-strewn bolt of road that flung itself headlong into dread. Northwest was Mosul; east Erbil; south was Baghdad and Kirkuk and the fiery furnace of Nebuchadnezzar. He shifted his legs underneath the table in front of the lonely roadside chaykhana and stared at the grass stains on his boots and khaki pants. He sipped at his tea. The dig was over. What was beginning? He dusted the thought like a clay-fresh find but he could not tag it.
    [私訳] 発掘は終了した。遺構は何層にもわたっており、出土品は検めてはタグを付けて外へ運び出された。ネックレスやペンダント、彫刻、男根像、黄土で汚れた床石のしっくい、光沢のあるポットなどだ。例外はない。アッシリア人が使った象牙の化粧箱もだ。それから人間も。人骨だ。それは普遍的な苦悩が脆くも崩れ去った名残りであり、それゆえに肉体とは神の元に帰ろうと天上に手をのばすルシファーではないかと、当時の人間は考えていた。そしていまだにそう考えた方がよいと老人には分かっていた。甘草(かんぞう)や御柳(ぎょりゅう)の芳香がするせいで老人はそちらに目を向けた。花に覆われた丘に、葦の茂った平野に、あるいは躊躇する事無く人を恐怖へと導く、でこぼこで石がばらまかれた一本の道に。北西にはモスルがあり、西にイルビル、南にはバグダッドとキルクーク、それにネブカドネザル二世時代に作られた溶鉱炉があった。道の脇にチャイハナ(茶屋)が一軒あり、茶屋の前に置かれたテーブルに老人は腰をおろし、長靴とカーキ色のズボンについた草のしみを見つめた。老人はお茶を啜った。発掘は終わったのだ。では何が始まるのか。土から掘り出したばかりの品のように、その考えにこびりついた埃を振り払ったが、なんとタグ付けすればよいか分からなかった。
     ブラッティの文章は決して易しくない。見たとおり、接続詞を省いてセミコロンによる列挙を多用しているので、当然ながら名詞句がたくさん出てくる。どういう含みがある名詞句なのかをよくよく考える必要がある。また分詞構文を複数個列挙している点もやっかいだ。単に主節の主語をそのまま引き継いでいるなら分かりやすいが、途中で分詞構文自体が主語を変える場合もあるし、どこまでが並列であってどこからが別の並列になっているのかは文脈次第という場合もある。とにかく、文章が文法通りに書かれている事を前提にした上でなんとか英文に食らいつこうとしている僕にとっては、非常に難度が高い英文である事は間違いない。

     それに比喩表現を当たり前のように現実の描写に混在させていくので、それが比喩なのか実際の描写なのか区別が付きにくい。例えば"Northwest was Mosul; east Erbil; south was Baghdad and Kirkuk and the fiery furnace of Nebuchadnezzar."という文章は、遺跡を中心にして何がどこにあるのかを説明しているだけの文章で、the fiery furnace of Nebuchadnezzarは文字どおり「ネブカドネザル二世の作った(作らせた)溶鉱炉」の意味だが、宇野利泰さんは「この炎熱地獄が、古代アッシリアのネブカドネザル王朝の都城の跡である」と訳している。the fiery furnaceは直前の「バグダッドとキルクーク」を受けた同格表現であると同時に比喩表現だと見たわけだ。しかし、これは宇野さんの考えすぎで、単に「炉」があると考えるべきだろう。後で調べたら旧約聖書のダニエル書3章には繰り返しthe fiery furnaceが出てきて「燃え盛る炉」と訳されている(日本聖書教会 新共同訳)。実際に炉の遺跡があるのか、それとも聖書で書かれた炉があったとされる場所を意味しているかで、若干意味が変わるかもしれないが「炎熱地獄」ではない事は確かだ。

     原作では冒頭からチャイハナで老人(メリン神父)がお茶を飲む場面が出てくるが、映画は発掘現場のシーンの後になる。映画では神父が年老いて自らの人生に立ち向かってきた代償として、心臓にトラブルを抱えている事を示すために、狭心症の薬らしきものを飲むシーンが追加されている。これは映画終盤の伏線にもなっている。この段落に以下の一文が出てくる。
    [原] He … stared at the grass stains on his boots and khaki pants.
    [私] (老人は)長靴とカーキ色のズボンについた草のしみを見つめた。
     メリン神父は「カーキ色のズボン」を身につけている点に注意しよう。このプロローグではメリンの名前は一箇所も登場しない。絶えずthe old manやFatherとかthe man in khakiと表現される。特に多いのがthe man in khakiだ。そして映画のメリン神父は軍服のようなくすんだ茶色のズボンに、枯れ草色のシャツを合わせている。普通に考えるとシャツの方が「カーキ色」のようにも見える。しかし、以前に調べた事があるのだが、khaki(カーキ色)というのは非常に奥が深く、極めて曖昧な色なのだ。khakiの語源は"dust-colored cloth"であって、どうやら色そのものではなく布の状態を示していた。そういう布をイギリス軍が軍服に採用したことから、軍服はカーキ色と呼ばれるようになった。時代が移り変わると、米国ではolive green(オリーブの実のような暗緑色)をkhakiと呼ぶようになり、日本でもどちらかというと枯れ草色の方がカーキ色だと思っている節がある。辞書もkhakiの曖昧さを反映している。
    khaki
     (ODE)a brownish-yelllow colour
     (OALD)a dull greenish or yellowish brown colour
     (RH大英和)カーキ色、くすんだ黄褐色
    カーキ色 
     (広辞苑)黄色に淡い茶色のまじった色。枯草色。
     要するに映画のメリン神父は「上下ともに色違いのカーキ色の服を着ている」事になる。

    [原文]( プロローグP.4) Someone wheezed from within the chaykhana: the withered proprietor shuffling toward him, kicking up dust in Russian-made shoes that he wore like slippers, groaning backs pressed under his heels. The dark of his shadow slipped over the table.
    [私訳] チャイハナの奥からぜいぜいと息を切らす声が聞こえた。皺だらけの主人が老人の元に足を引きずりながら近づき、スリッパのように履いたロシア製の靴で埃を巻き上げると、かかとで押しつぶされた靴底がミシミシと音を立てた。主人の影がそっとテーブルを覆った。
     この英文でコロン以下の構文がよく分からない。コロンの後には不完全な文が列挙されている可能性があるので、shuffling〜、kicking〜、groaning〜の3つの分詞構文ではないかと考えるところだ。ところが、前の2つはthe withered proprietor(皺だらけの主人)なのは明らかだが、残りのgroaningの主語と考えても意味が通らない。groanは「(人が)うめく」「(物が)ミシミシいう」という自動詞か、あるいは「(不平・不満)を言う」「(人)に不満を言う」という他動詞になるが、backs(靴底)があるので他動詞だろう。しかし「店の主人が靴底に不平を言う」のは文脈的におかしいので、別の解釈としてgroaning backsという主語ではないかと考える。これならばpressedに基づく分詞構文で「ミシミシいう靴底がかかとに押しつぶされた」という解釈になる。直訳だと因果関係が逆になってしまうので「かかとにおしつぶされて靴底がミシミシいった」ぐらいの日本語になるかと思う。ただ、正直言うとブラッティはgroanを他動詞として「皺だらけの主人が靴底をミシミシいわせた」という意味で使っているのではないかと疑っている。だからあくまでgroaningに基づく分詞構文で、pressed under his heelsはbacksを後置修飾しているだけとも思える。要するに真面目に構文解釈をするには問題のある文章なので、文法や構文を逸脱している可能性を考慮しつつ解釈していく必要がある。

    [原文]( プロローグP.4) The man in khaki shook his head, staring down at the laceless, crusted shoes caked thick with debris of the pain of living. The stuff of the cosmos, he softly reflected: matter; yet somehow finally spirit. Sprit and the shoes were to him but aspects of a stuff more fundamental, a stuff that was primal and totally other.
    [私訳] 「おかわりはどうかね」
     カーキ色の服を着た老人は首を振り、靴紐もなく皮も固くなった靴を見下ろした。靴には生の苦しみが堆積して厚くこびりついていた。老人は、宇宙を形づくる物について静かに思い描いた。物質。しかし、やがてはどうにかして魂となっていく。自分にとっては魂も靴も変わらないが、物質にはもっと根源的な側面が含まれている。だから物質こそが、原初にして全く別の何かなのだ。
     さらっと難解な思想や詩的・比喩的表現を入れてくるのも、この作品の特徴の一つだ。どうにもこうにもsprit(精神、魂)とstuff(物質、物)との二元論が分かりにくい。matter(物質)はsprit(精神、魂)になり得るが、そうはならない部分、つまりaspects of a stuff(物質の別の側面)が存在し、それはもっと根源的な物だと言っている。つまり、物質よりも精神の方が「より根源的」だと考えがちだが、物質こそが重要なのだとメリン神父は考えている。これはキリスト教的な教義なのだろうか、それともブラッティの個人的な考えなのだろうか。

    [原文]( プロローグP.4) The shadow shifted. The Kurd stood waiting like an ancient debt. The old man in khaki looked up into eyes that were damply bleached as if the membrane of an eggshell had been pasted over the irises. Glaucoma. Once he could not have loved this man.
    [私訳] 影が動いた。クルド人の店主はいにしえからの負債を催促するかのように待っていた。老人は店主の目を見上げたが、卵の殻についた薄い膜が虹彩を覆ってしまったかのように白濁していた。緑内障だ。老人は一度たりとも目の前の男に好意を持てなかった。
     ここまでで映画との比較をすると、映画では決してチャイハナの店主が神父のテーブルにやってきたようには見えない。単なる従業員がやってきて「おかわりは?」と事務的に聞いてくる。チップの催促もしていない。対する神父も従業員に嫌悪を抱いてはいない。原作では意図的に異教徒であるクルド人を見下す、あるいは嫌悪しているかのように描いているが、そこらへんはバッサリと脚本からは除いている。神父の差別意識というよりは、長年戦ってきた”悪魔"を生み出す根源(異教徒)に対する嫌悪を象徴した素振りとも考えられる。そこらへんをフリードキンは意識的に場面として描くよりも、町を歩く神父が目にするものを僕ら観客に見せることで理解させようとしている。それはたとえば、お祈りのために床にひれ伏す民だったり、火で熱した刃を打ち鍛える刀鍛冶の表情だったりする。原文のGlaucoma(緑内障)は、チャイハナの店主から刀鍛冶へと設定が変更されている。おそらくフリードキンの事だから、たまたま現地で見つけた素人を採用したのだろう。

    [原文]( プロローグP.4) He slipped out his wallet and probed for a coin among its tattered, crumpled tenants: a few dinars; an Iraqi driver's license; a faded plastic calendar card that was twelve years out of date. It bore an inscription on the reverse; WHAT WE GIVE TO THE POOR IS WHAT WE TAKE WITH US WHEN WE DIE. The card had been printed by the Jesuit Missions. He paid for his tea and left a tip of fifty fils on a splintered table the color of sadness.
    [私訳] 老人は財布を取り出し、ぼろぼろでしわくちゃになった紙幣の間から硬貨を探した。ディナール硬貨数枚、イラクの運転免許証、12年も前の色褪せたプラスティック製のカレンダーカード。裏面には次のような銘文が記されている。「貧しき者に施せば、それは己の死とともに皆と分かち合う事になるであろう。」 このカードはイエズス会の布教活動を印刷したものだ。老人は顔に悲しみを湛えながらお茶代を払い、ささくれだったテーブルに50フィルスのチップを置いた。
     財布からお茶代の硬貨をさぐる場面。tenant(借地人、賃借人)が出てくるのは理解不能。おそらくtenner(10ドル紙幣)の間違いではないか。さらに最後の文。
    [原] He … left a tip of fifty fils on a splintered table the color of sadness.
    [私] 老人は顔に悲しみを湛えながら…ささくれだったテーブルに50フィルスのチップを置いた。
     the color of sadnessは本来なら分詞構文として現在分詞・過去分詞で始めるべきところ。あるいは省略したとしてもカンマを挿入するところだろう。まるで名詞的副詞格のように使われているので戸惑う。ちなみに、なぜ「顔に悲しみを湛え」ているのかと言えば、財布に入れたままのイエズス会のカードに記されている「貧しき者に施せば…」という聖句が、この地では正しく伝わらないというもどかしさからなのか。あるいは「皆と分かち合う」時が自分にも近づいているという絶望からなのか。おそらく両方なのだろう。

    [原文]( プロローグP.5) He walked to his jeep. The gentle, rippling click of key sliding into ignition was crisp in the silence. For a moment he waited, feeling at the stillness. Clustered on the summit of a towering mound, the fractured rooftops of Erbil hovered far in the distance, poised in the clouds like a rubbled, mud-stained benediction. The leaves clutched tighter at the flesh of his back.
    [私訳] 老人はジープまで歩いた。エンジンをかけようとキーを回すと、静かなさざ波のような音を立てた後、突然静寂が戻った。しばらくは、静けさの中に身を置きながら待った。イルビルの町は小高い丘の頂上にひとかたまりになっていて、多くの屋根がひび割れているのが遙か遠くに見えた。あたかも破壊されて泥にまみれた恩寵のように雲の中に浮かんでいた。例の濡れ落ち葉は老人の背中にぴったりと張り付いたままだった。
     benedicition(恩寵)が唐突に出てくるので何故?と思わされる。イルビルの町は屋根も満足に補修されない貧しさに満ちているが、小高い丘にある神秘さが神の恩寵を感じさせると言いたいのだろうか。それでも、メリン神父を悩ます不吉な予感の象徴(濡れ落ち葉)は剥がれる事がないという事か。

    [原文]( プロローグP.5) Something was waiting.
    "Allah ma'ak chawaga."
    Rotted teeth. The Kurd was grinning, waving farewell. The man in khaki groped for a warmth in the pit of his being and came up with a wave and a mustered smile. It dimmed as he looked away. He started the engine, turned in a narrow, eccentric ∪ and headed toward Mosul. The Kurd stood watching, puzzled by a heart-dropping sense of loss as the jeep gathered speed. What was it that was gone? What was it he had felt in the stranger's presence? Something like safety, he remembered; a sense of protection and deep well-being. Now it dwindled in the distance with the fast-moving jeep. He felt strangely alone.

    [私訳] 何かが待っていた。
    「ごきげんよう」
    歯がボロボロだ。クルド人の店主はニヤリと笑い、手を振った。老人は心の奥底からなんとか親愛の情を探りだして、手を振って笑みを浮かべてみせた。しかし、老人は目をそらすとすぐにやめた。エンジンを掛け、狭い道をむりやりUターンして、モスルに向かった。店主は立ったまま見送りつづけ、ジープがスピードを上げて去っていった事にひどく落胆しているのは何故だろうと考えた。去って行ったのは一体何なんだ。異邦人の存在に一体何を感じたというのか。安心のようなものか。店主は思い出した。危害も加えてこなかったし、心から安心でいられた事を。それも、ジープがあっという間に遠くに去った事で消え失せた。店主は妙に孤独を覚えた。
     神父は「一度たりとも目の前の男に好意を持てなかった。」と考えていたように、異教徒であるクルド人の心のうちを慮る余裕をもっていない。なんとか作り笑いで応対しているほど嫌悪していると言っていい。しかし、この場面ではクルド人側から神父に好意を寄せていた事が明かされている。おまけに神父が去って行った事で「孤独」や「空虚」を感じている。このようなすれ違いの皮肉を原作では描いているが、映画ではメリン神父の目線に基づく映像がすべてを一方的に物語る事で、メリンの孤独や絶望が際立つ構成に変更されている。もちろん、この場面は映画には出てこない。
    posted by アスラン at 06:50 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 評論・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2023年10月02日

    宇野利泰さんの翻訳はどうして長くなるのか?(その4)

     (今さらですが、今回は後半に犯行現場についての文章を細かく見ていきます。ネタバレもありますので、未読の方はエラリイ・クイーン「犯罪カレンダー」の「皇帝のダイス」を読んだ後にお読み下さい。)

     前回同様、比較の際の色づけと下線の意味を説明しておく。
    緑=翻訳の出来が素晴らしい
    赤=誤訳あるいは訳に疑問がある
    青=原文に存在しない、もしくは訳しすぎ
    下線=訳していない(原文のみ)

     前回は、クイーン警視の元同僚のジム・ハガードが10年前に銃で撃たれて殺された事を息子のマークから聞かされ、証拠の品である銃とダイスが入った木箱を見せられたところまでの訳文を吟味した。今回はその続きから。マークは木箱を置いたまま去って行ってしまい、残されたエラリーたちも自室に戻る。
    (P.71) The Inspector heard the sounds first. He reached across the abyss between their beds and touched Ellery on the shoulder. It was a little past three. Ellery awoke instantly.
     "Ellery. Listen."
     It was still raining, jungle music by a thousand drums. The wind slammed a shutter somewhere. In the next room Nikki's bed springs complained as she turned desperately over.
    [P.198〜199] 警部がまっさきに物音を聞きつけた。かれはとなりのベッドに眠っているエラリイの肩をつっついた。三時をすこしまわった時刻だった。エラリイもすぐに眼をさました。
     警視はいった。
    「エラリイ、聞こえるだろう?」
     雨はまだはげしかった。ジャングルで何百というドラムをたたいているような音だった。そのうえ、風までがつよいとみえて、鎧戸がしきりに鳴っている。となりの部屋で、ニッキイのベッドがたえずギイギイいっているのは、彼女がいまだに寝つくこともできず、寝がえりばかりうっている証拠である
     この段落、どこもかしこもすべて緑色にしてもいいくらいの出来なのだが、とりあえずHe reached across the abyss between their bedsを「となりのベッドに眠っている」と訳しているのにちょっとだけ不満を訴えておく。もちろん描写は分かりやすいのだが、abyss(深淵、深い溝)という単語を使っている事を考えると、もうちょっと大げさな表現で訳してもよかったのではないだろうか。
     The wind slammed a shutterを「風までがつよいとみえて…」と訳してるのは、激しい雨の描写から風までも強いという話の流れが宇野さんの中で出来上がっているからだろう。最後のNikki's bed springs complained as she turned desperately overも「寝返りをうってるので、ベッドがギイギイいっている」ではなく、訳し降ろして「ギイギイいってるのは…寝がえりばかりうっている証拠である」なんて、あまりに自然な日本語なので驚いてしまう。

    (P.72) Then Ellery heard a fllorboard give way and in same moment ghastly lightning made the bed room spring alive.
    [P.199] その暗闇のなかに、床板をきしませて、だれかがしのんできているようすだ。一瞬、電光がきらめいて、寝室じゅうが真昼のように明るくなった。
     「床板がきしんだ」のだから、確かに誰かがしのんできているという事を表現しているわけだ。そこまで書いてないけれど書いてしまう。それが宇野訳だ。

    (P.72)His shoulder hit the intruder below the knees and the man toppled with a cry, striking his head against the highboy.
    [P.199] (エラリイが)横っ飛びに、肩で相手のからだにぶつかっていった。闖入者は、たんすのかどに頭をぶつけて、けたたましい悲鳴をあげた。
     でもさすがに「たんすのかど」は笑える。おそらく「けたたましい悲鳴」をあげたから、角に頭をぶつけたのだろうという推測だ。だが、「けたたましい」という部分も原文にはない。あえて言うと、訳していないtoppledは「倒れた」という意味だから、宇野さんの頭の中には「倒れるくらい頭をぶつけたのだから、たんすのかどだろう。かどに頭をぶつけたら、けたたましい悲鳴をあげるに違いない」という理屈だろう。いや、でも、まずは「闖入者は…倒れた」と書きましょうか、宇野さん。

    (P.72) "I don't know why I didn't destroy those guns and dice years ago," said Dr. Tracy Haggard, calmly enough. "Ellery―you are Ellery, aren't you?―would you mind removing the derriere from my alimentary canal? You're not exactly a featherweight."
     "Then it's true." Ellery did not stir.
    [P.200]「もっとはやいうちに、なぜこんなピストルやダイスを始末してしまわなかったのか、われながらずいぶんうかつなはなしだと思いますよ――エラリイ君、あなたはたしか、エラリイ君でしたね。この手を、もうすこしゆるめてはくれませんか。あなたはどちらかというと、フェザーウェイトのほうじゃありませんね
     だが、エラリイは、その手をうごかそうともしなかった。
     I don't know whyなので「何故…始末してしまわなかったのか分からない」と普通なら訳すところ。もしくは「始末してしまわなかったのか」で止めても同じ事。そこから「うかつなはなしだと思う」という心情を吐露する言葉が追加されていて分かりやすい。
     ただし、後半がちょっと怪しい。alimentary canalが消化管で、derriereが尻の婉曲表現らしい。ならば「お腹から腰を上げてくれないか」という感じだろうが、なぜ「手をゆるめてくれ」なのだろう。さらにfeatherweightはボクシングのフェザー級の意味で、転じて「非常に軽量の人」という意味にもなるようだ。つまり「どちらかというと、軽いとは言えないな」と書いて欲しいところだ。
     続く「その手をうごかそうともしなかった」も手ではなく尻だから「腰を上げようとはしなかった」だ。しかも「軽いとは言えないな」に対して「そのとおり」と答える部分は省かれている。

     ちょっと不思議なのは、例のト書きの位置を変えるテクニックについて、だ。
    (P.72) "And I attended Jim's funeral and never suspected," said Inspector Queen bitterly. "Tracy, which one of you shot your father?…"
    [P.200〜201]「おれはジムの葬式に、列席したんだが」と、にがにがしげにクイーン警視がいった。
    「死因が怪しいなどとはちっとも考えていなかった。トレイシイ、いったいきみたち兄弟のうち、どちらがおやじを射ったんだね?…」
     『「葬式に列席したんだが、死因が怪しいなどとはちっとも考えていなかった。」と、にがにがしげにクイーン警視がいった。』では何故いけなかったのだろう。もちろん、ト書きの位置を発話の冒頭あるいは末尾に移動していいのであれば、どこにずらそうが訳者の思いのままなのだが、今回は発話の途中に挿入されているのは原文のまま。ただ、ちょっとだけ前倒しにしている。その意図がよく分からない。ジムの死因を見逃していた事を「にがにがしげに」振り返るのだから、原文どおりでも良かったように思うのだが、こればっかりは宇野さん本人にしか分からない。

    (P.72) "What's going on in there?" shrieked Nikki.
     "Dr. Haggard, your brother made no bones about the murder of your father," said Ellery. "Does Mark want the truth to come out?"
    [P.201〜202] このとき、となりの部屋からニッキイがかん高い声でたずねた
    「そちらでなにか起こりましたの?」
     エラリイはそのことばにはとりあわず、ハガード医師にたいする追求をつづけていった。
    「あなたの兄さんは、せっかく闇から闇へ葬ったかたちの殺人事件を、ここでまたみずからすすんで、あばき立てようとしておられる。なにかそこに、真相をあきらかにしたいという特別の理由でもあるんでしょうか?」
     shrieked Nikki(悲鳴を上げた)としか書かれていないがニッキイ自身は「なにか起こったのか」と発言している。そこで「となりの部屋からニッキイが…たずねた」というように状況を付加して訳している。それと呼応するように、said Elleryとしか書かれていないけれどもこちらも「そのことばにはとりあわず」という状況を付加している。しかも原文には「追求をつづけていった」とも書かれていないけれど、発話の冒頭のDr.Haggardをト書きの方に落とし込んだ結果が「ハガード医師にたいする追求をつづけていった」になったわけだ。最初は付加しすぎかと思ったが、バランスはとれているように思う。
     ただし、「せっかく闇から闇へ葬ったかたちの」は言い過ぎか。続く「真相をあきらかにしたいという特別な理由でもあるんでしょうか」も、かなり盛っている感じがする。ただ、いざ訳そうとすると「マークは真相をあきらかにしたいのだろうか。」では物足りないと思ってしまうのも確かだ。

    (P.73) "When Mother died," said Tracy Haggard coolly, "the three of us split the income of a very large trust fund. By will, if there were only two of us, the income would be that much greater per individual. Mark is always broke―gambling mostly. Does that answer your question?"
    [P.202] トレイシイ・ハガードは、冷静な口調でこたえた。
    「母が死にましたとき、父の遺産を信託財産にしました。その収益は、ぼくたち三人兄弟妹で均等に分けることにしたのです。その後、もしぼくたちのひとりが欠けたら、のこったふたりのふところに欠けたひとりの取得分も等分してはいってくることにきめました。ところが、最近になって兄のマークはだいぶふところぐあいが苦しくなってきたのです―その原因は、主として賭博にあるんですが……まあ、こんな説明で、なぜ兄のマークがわざわざこの事件をあばきたがっているか、その動機はだいたい見当がおつきになると思うのですが―
     彼らの母が死んだときに「父の遺産を信託財産にした」というのは間違いだろう。次の文にBy will(遺言で)と書かれているので、少なくとも母が亡くなる前から子供たちには信託財産が残されていたはずだ。
     トレイシイの発言の最後の1文Does that answer your question?(これで、あなたが聞きたい事の回答になってるか)を「まあ、こんな説明で」から始まる長文に訳している。どうやら、英語では簡単な文で済ませていても日本語の表現としてはしっくり来ないと宇野さんは感じたようだ。

     この後、エラリイは事件の真相を究明しようという気になって、トレイシイたちの父が撃たれた部屋に案内してくれと頼む。
    (P.73) "Understandably, none of us ever goes in here. Nothing's been touched since the night of the crime." Dr. Haggard unlocked the door, threw it open, and stepped aside. "I might add," he said dryly, "that neither Mark nor I has done any hunting since . . . at least with any of these weapons."
    [P.203〜204]「あの事件の夜以来、この部屋にはいった者は、ひとりもないのです」
     そんなことをいいながらドアの鍵をあけると、自分はすぐにわきに退がって、
    さあ、おはいりください……ぼくもマークも、その後は狩猟をやめてしまいました。すくなくとも、この銃器室にある銃器類にはいっさい手を触れていないのです」
     なんだろう、モヤモヤする。間違いとまでは言えないが正確な訳とは言えない。それもこれもI might add that…(つけ加えると〜)が省略されている、もしくはトレイシイの発言全体の中に解消されているからだ。Understandablyから始まる前半の発言は「もちろん、(あの事件の夜以来)ここに入ったものはいないし、誰もいっさい手を触れていない」となるべきだが「手を触れていない」の訳出がない。後半の「いっさい手を触れていない」に統合されたようにもみえるが、こちらの「手を触れていない」はマークとトレイシイに限定されているし、その上「狩猟」の時に限られている。こうなるとトレイシイがstepped asideした事から「さあ、おはいりください」と言っただろうという工夫も、そんなことやってる場合ですかとツッコみたくなる。

    (P.73) The walls of the gun-room flanking the one door were hung with racks of shotguns, rifles, and small arms. On the other walls were cases containing James Haggard's gambling collection, and a great many larger gambling objects were grouped about the room.
    [P.204] 内部へはいると、ドアにそった壁が銃器戸棚になっていて、ピストルやライフル銃がかけてあった。正面の壁にはガラスのケースがいくつかあって、そこには故ジェイムズ・ハガードの賭博用具コレクションが、ぎっしりとつめこんであった。ケースにはいりきれぬほど大きなものは、部屋じゅうせましとばかりに、そのあちこちに散らばしてあった
     shotguns,rifles, and small armsが「ピストルやライフル銃」のみ。狩猟の話題が既に出てるのだから「猟銃」を入れないのはさすがにマズいのではないだろうか。それと、銃器室の壁の記述。クイーンらしく現場の様子を細かく丁寧に記述している。最初にThe walls of the gun-room flanking the one doorと書いてあるが、flank…が「〜の側面に位置する」なので「(一つしかない)ドアの両脇の壁」を意味する。wallsと複数形になっているのは、両脇を別の壁として数えているからだ。宇野さんの「ドアにそった壁」はもちろん間違いではない。だが、「ドアにそった壁が銃器戸棚になっていて」では、ドアの両脇の壁にそれぞれ銃器戸棚がしつらえてあるという状況が伝わるかどうか疑問だ。
     また、On the other wallsを「正面の壁には」としているのは誤訳だろう。「正面」は「ドアもしくはドアにそった壁」に対しての正面という意味になる。だとすると、そちら側は1枚のwallしかないはず。ここは「ドアにそった壁を除いた残りの壁」でないと辻褄が合わない。

     一方でa great many larger gambling objects were grouped about the roomの訳は見事だ。直前の「ガラスのケース」の記述を受けて(そういえば「ガラス製」とどこかに書いてあっただろうか?)「ケースにはいりれぬほど大きい」と書いてあるし、a great manyを「部屋じゅうせましとばかりに」、grouped aboutを「あちこちに散らばして」と、まさに至れり尽くせりの訳文だ。「散らばす」なんて言葉、今では使わなくなりつつあるのではないか。

    (P.73) The disk was an elaborate production of inlaid woods, with gunstock-shaped legs and a sheathing of hammered gunmetal. A matching chair with a braided leather seat stood behind it.
     "Was he facing this door, Dr.Haggard?"
     "Squarely."
     "The only door, notice", snapped Inspector Queen, "so the odds are the killer stood in the doorway when he fired the shot. Just one shot, Tracy?"
     "Just one shot."
    [P.204] デスクは精巧な象眼細工を施したりっぱなもので、脚は銃座のかたちをとっていた。
    「顔は? ドアのほうをむいていたのですか?」
    「ええ。まっ正面をむいておりました」
    クイーン警視が、すぐに口を出した。
    「ドアはひとつだから、加害者としてはねらいやすかったわけだな。扉口に立って、まっすぐ発射すればよかったのだ。一発で即死だったろう」
    「おっしゃるとおりでした」
     何故かa sheathing of …以下がごぞっと抜け落ちている。「(脚は銃座のかたちをとっていて、)合金を叩いて覆ってあった。対となる椅子はデスクの後方に置かれており、編み込んだ皮が座面に張ってあった。」とでも訳しておく。いくらなんでも飛ばしすぎです。
     クイーン警視の言葉は微妙に違うような気がする。so the odds areと現在形なので、「扉口に立って、そこで銃を発射したって可能性が高いな。」となるはず。宇野さんがあえて書き加えている「加害者がねらいやすかった」かどうかは、この際関係がない。というのも、ここが実は謎解きの鍵となるからだが、それは後々振り返る。
     "Just one shot,Tracy"に対して"Just one shot."とトレイシイが復唱しているのを「おっしゃるとおりでした」。まあ、翻訳の基本テクニックなのかもしれないが、さり気なく上手い。

    (P.74) Ellery opened Mark's box and removed the two rusty revolvers. "I see the gunracks are numbered. In which rack, Doctor, were these .38s normally kept?"
     "This one came from the rack immediately to the right of the door."
     "To the right of the door, Doctor? You're positive?"
     "Yes, this rack is numbered 1. The other .38 was kept in the rack immediately to the left of the door. This one here, the rack numbered 6."
    [P.205] エラリイは、マークの木箱をあけて、まっ赤に錆びついた二挺のピストルを取り出した。
    「あの銃器棚にはナンバーがついていますね。この三八口径は、いつもはどの棚にかけてあったのです?」
    「こちらのピストルは、ドアをはいってすぐ右側のところにかけてありました
    「ははあ、ドアの右側? まちがいないでしょうね」
    「ちがいませんとも。その一号としてある棚なんです。それで、もうひとつのほうはドアの左側、六号とある棚のほうです」
    「証拠物第一号のピストルは、ドアの右側、銃器棚一号、証拠物第二号のピストルは、左側の銃器棚で、ナンバー六号」
     rustyを「まっ赤に」錆びついたと形容してるのは、もう宇野さんの中で出来上がったイメージなんだろうが、そもそも大切に銃器室で保管されていたピストルが、10年経っているとはいえ、そこまで錆びついてるとは思えない。まあ、これは些細な指摘だが、問題はThis one came from the rack immediately to the right of the doorの訳だ。「ドアをはいってすぐ右側のところ」と書いてしまうと、入って対面のデスクを見ながらの向きで右側のところと読めてしまわないだろうか。それだと、少々、いやかなりマズいのだ。かなりマズい事は後で明らかにする。これまで見てきたように、すでにエラリイたちは銃器室に入って四方の壁にしつらえたコレクションの棚を観察し、さらには部屋の奥にあるデスクを調べている。そこでおもむろに、木箱から取り出したピストルの置き場所を聞いているのだから、トレイシイは「(ここから見て)ドアの右側の棚に掛けてあった」と答えたはずなのだ。

     トレイシイの父が亡くなった時にルビーのダイスを握りしめていた事を受けてニッキイが言う。
    (P.74) "In his hand?" exclaimed Nikki. "I didn't really believe your brother when he said that ――"
    [P.206]「てのひらのなかに! さっきお兄さまがそんなことをおっしゃっていらしたけど、わたし、まさかと思っていましたわ
     疑問符を感嘆符に変え、whenを「〜時」ではなく「〜けど」に変え、きわめつけはI didn't really believeを「まさかと思っていた」と訳している。完璧です。

    (P.74)"…That's where the Emperor's Dice, as Dad used to call them, were displayed. …"
    [P.206]「…そのケースが、皇帝のダイスを陳列してあったところなんです。ええ、皇帝のダイス――父はそれをそのように呼んでいたのです。…」
     宇野さんの超絶テクニック。関係代名詞asから始まる非制限用法を重文で表現するのはよくある事だが、ここでは仕切り直したように「ええ、皇帝のダイス」と先行詞を主役として取り上げてから訳している。

     クイーン警視が、このような奇妙な事件を聞かされて見当がつくのかとエラリイに問う場面。
    (P.74) "Let's hope he won't," said Dr. Haggard. "I could kill Mark for this stunt ……"
     "The way you killed your father, Dr. Haggard?" asked Nikki.
     Tracy Haggard smiled. "Shows how insidious Mark's little propaganda scheme is." He shrugged and disappeared in the black hall.
    [P.207] ハガード医師は、その口の下からいった。
    見当がつくもつかぬもありませんよ.マークのほかに、やってのけられる人間はいないのです。ぼくは父に代って、マークを殺さずにはおきませんよ……」
     ニッキイが、皮肉な口調でいった。
    「お父さんを殺したのと、おなじ方法をおつかいになるの?」
     トレイシイ・ハガードは微笑をふくんで、
    それがマークの、狡猾な宣伝計画をしめしているんです
    といいすてると、肩をすぼめてホールの奥へ消えていった。
     Let's hope he won'tが分かりにくい。「マークがやってないとせいぜい信じていなさい」という感じだろうか。皮肉な婉曲表現なのだが、宇野さんは直接的な表現「マークのほかに、やってのけられる人間はいない」に変えた。ただし「見当がつくもつかぬもない」と余計な、もとい、想像力豊かな表現をつけ加えてるわけだ。
     次のShows how insidious Mark's little propaganda scheme isは、ちょっと宇野さんにしては珍しい赤色だ。これまでの赤色は誤訳の場合が多い。まあ誤訳を大目に見るわけにはいかないけれど、それでも日本語としては熟れている。日本語は熟れていて用意周到に文脈にそって空想力豊かに表現を補足するというのが常だった。意味が分からないという事はない誤訳だったのだ。ところが、この部分は意味がとれない。まず「それ」とは何かがわからない。「狡猾な宣伝計画」というのであれば、何を宣伝(プロパガンダ)しているのか。ニッキイに「お父さんを殺したのと同じやり方で、お兄さんまで殺すのか?」と言われたのだから、「それがまさに、姑息ながらマークの思うつぼにはまってるんですよ」ぐらいに訳してもいいんじゃないだろうか。

     なぜこんな事を言うかと言えば、このあと原作にして残り4頁半、翻訳にして10頁の文章で、指摘すべきところが急激に減るからだ。何故だろう?Wikipediaには、宇野さんが「下訳者を使って次々に翻訳を発表」と書かれているので、ひょっとして下訳を宇野流に手直しし損なったのか。あるいは終盤なので「本気を出して」正確な(ただし面白みの無い)訳を心がけたのか。いやいや、「本気を出して」とは失礼極まりない。おそらく作家クイーンお得意の、ロジックに基づいた推理をきちんと訳すには、下手に訳文に工夫を入れてはいけないという判断なのかもしれない。

     真実は分からないが、とにかく先に進もう。エラリイは夜を徹して銃器室にこもり、マークたちの父が握りしめていた「皇帝のダイス」を振り続け、ついに真相にたどり着く。カリギュラがゲームに使ったというダイスは鉛入りのいかさまで、片方のダイスは6の目しか出ない。つまり、被害者のダイイングメッセージは、ナンバー6と記されたピストルを使って撃たれたという事だった。エラリイは明け方に一同を起こして回り、銃器室のデスクを囲むように席につかせて、ダイスの謎について説明する。その直後から少し長めに引用しよう。
    (P.76) "And a flat lot of good that does you," sneered Tracy Haggard. "How can knowing which of the two .38s killed Dad possibly tell you which one of us murdered him?"
     "In which direction in relation to the door," inquired Ellery, "is rack number 6 located?"
     "The rack to the left of the doorway," the Inspector said slowly. "To the left ……"
     "Killer opens door, to his right is a rack with a .38, to his left a rack with a .38. We now know he chose the .38 from the left-hand rack. What kind of person, when he has a choice of either side, automatically chooses an object to his left side? Why, a left-handed person, of course. And that pins the murder on ……" Ellery stopped.
    [P.212〜213] トレイシイ・ハガードは、冷笑するような口吻でいった。
    「ずいぶん手間どったことをなさったが、二挺の三八口径のうち、どちらが父を殺したかを知ると、ぼくたちのだれが犯人であるかまでわかるんですか?」
     しかし、エラリイはその質問にはこたえず、こうきいた。
    ナンバー6の銃器棚は、ドアにむかって、どちらの方向にありますか?
     クイーン警視がゆっくりとこたえた。
    ドアにむかって、左の棚だ。左がわだよ」
    「殺人者はドアをあける。右がわにも三八口径のピストルをおいた棚があり、左がわにもおなじ三八口径をおいた棚がある。そしていま、われわれはかれが、左がわの棚の三八口径をえらんだことを知りました。どちらの棚にも手がのばせるのに、反射的に左がわの品をえらぶというのは、どういう人物でしょうか? いうまでもないことです。その人物は左ききだったのです。それによって、この殺人の所業が、だれの仕業であったかを決定することができるのです……」
    とエラリイは説明をとめた。
     この部分から面白い事がいろいろ見えてくる。まず、色がほとんど付かない。さきほど言ったように宇野さんらしい想像力の暴走はほぼないといっていい。「きちんと」と言うとなんだが、正確さを旨として訳されている。
     その上で、原文と訳文とで太字にした部分を比較してほしい。デスクのある位置から「ドアにむかって」となんども言っている。そしてドアに向って左がわにナンバー6のピストルがあると言っているのだ。そこで既に[P.205]で指摘したように「ドアからはいってすぐ右側のところ」に一号のピストルがあるのはおかしいという事になる。「(デスクから)ドアにむかって右側のところ」に一号のピストルがなければならない。要するに前述部分の訳は迂闊で、こちらの訳の方が正しい。

     さて、もう一つ指摘すべきことがある事に、この文章を書きながら気づいた。読んでいる皆さんも気づいただろうか。明らかに[P.205]の訳と[P.212〜213]の訳は違う人間によるものだという事だ。
    ナンバー六号(ナンバー6)
    右側(右がわ)
    左側(左がわ)
     同じ人間の文章にしては不自然ほど、表記が統一されていない。もちろん文責は宇野さんにあるのだろうが、下訳を複数の人に分担させている証拠と言えるのではないだろうか。

     ここまで調べてきて、原文で1頁半、訳文で4頁ほど残っているが、ここで締めくくろうと思う。指摘したいところはちょっとだけある事はあるが、もう十分すぎるほど宇野さんの翻訳を味わったと思う。僕の印象では全体的にすばらしい日本語で、とにかく読みやすい。以前には「Yの悲劇」を最近の越前敏弥訳と比較して「ピントが甘い」と言ってしまったのだが、それは越前訳のキリリとしまった文体との比較だったからこその印象で、もう少しじっくり見ていけば、「日本語として何がベストなのか」とか「翻訳とはどこまでを言うのか」とかを考えるきっかけになっていたはずなのだ。もちろん、誤訳は多いという印象もある。翻訳の技術論の整備が進んだ現在とは比べようもなく、翻訳家の独断・独創がまかり通る時代だった。技術論や翻訳ツールなどが整備された事であからさまな誤訳は減ってきただろうが、その反面、日本語の力が十分に発揮されていない画一的な訳文が増えているような印象がある。単に旧訳よりも新訳の方が尊ばれる風潮は残念な事だ。そういう意味では、まだまだ宇野さんの翻訳は味わい甲斐があると思った。

     最後に「犯人は左きき」とネタをバラしてしまって申し訳ありません。だが、エラリイ・クイーンがそんなに甘いとお思いですか?まだ最後に一ひねりありますので、未読の方はぜひ宇野訳の「犯罪カレンダー」をお読み下さい。
    犯罪カレンダー(1〜6月) - エラリイ クイーン, 宇野 利泰
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    Calendar of Crime
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    posted by アスラン at 23:55 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 評論・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2023年09月16日

    宇野利泰さんの翻訳はどうして長くなるのか?(その3)

     途中から読む人はいないと思うが、とりあえず事情説明。
    エラリイ・クイーンの短編集「犯罪カレンダー」の12編のうち4月の短編「皇帝のダイス」の原作と宇野利泰訳(ハヤカワ・ミステリ文庫版)とを比較している。目的は「宇野さんの訳は何故長くなるのか」を明らかにする事だったが、すでに判明しているように宇野訳のスゴさを明らかにする事に変質してきている。まあ、結論はもうちょっと先に延ばすとして、これまでのあらすじを簡単に説明する。

     かの悪名高きローマ皇帝・カリギュラはギャンブル好きだったので、宮中に自ら賭場を開き、いかさまのダイスまで使ったという逸話を枕に、クイーン親子と秘書のニッキー・ポーターがコネチカットの田舎まで、父クイーン警視の旧友ジムの家族に会いに行く。迎えにきたジムの息子からは、車を駆る道々、10年前に父親が銃で撃たれ死んだこと、死んだ場所は銃や賭博の道具を収集した部屋だったこと、犯人は家族の一人しか考えられないこと、そしてその事は警察を含め誰にも打ち明けなかったので、いまだに犯人が分からないこと、などがあかされる。犯罪が明るみに出なかった理由は、ジムの二人の息子のうち、一人が医者で、もう一人が葬儀屋だったからだった。

     ところで、そんなこと可能かねと真剣に疑問を抱く人がいるといけないので一言つけ加えると、この「犯罪カレンダー」は1939〜1948年にラジオで放送された「エラリイ・クイーンの冒険」というドラマの脚本を元に、クイーン自身がノベライズした小説なので、舞台劇のように気楽に楽しめる設定だと思ってもらえばいいだろう。

     では、前回同様、比較の際の色づけと下線の意味を説明しておく。
    緑=翻訳の出来が素晴らしい
    赤=誤訳あるいは訳に疑問がある
    青=原文に存在しない、もしくは訳しすぎ
    下線=訳していない(原文のみ)


     烈風、雷鳴、暴雨の中を疾走する車の中で殺人事件の話を聞かされたクイーン一行は、ようやくにしてクイーン警視の旧友のハガード家にたどり着く。そこから再開しよう。
    (P.69) This was the beginning of an historic night … darkest history. They could make out nothing of the house, but a porch creaked underfoot and things banged somewhere gleefully. Ellery could feel the revolt in Nikki as she held on to him. Mark Haggard's right fist crashed repeatedly against an invisible door.
    [P.191〜192] かくして、その歴史的な一夜がはじまったのであった……
     ハガード家には電灯がひとつもついていない。文字どおり屋内は真の闇だった。ポーチの板の間が、足もとで、ギイギイと鳴っている。風でも吹きこんでいるのか、どこか奥のほうで、バタンバタンと、大きな音がひびいている。
     エラリイは、しがみついてくるニッキイのようすで、さしものお転婆娘も、相当におびえているなと察していた。マーク・ハガードの右手が、ドアとおぼしいところを、さかんにたたきつづけている。
     さて、いきなりではあるが、どの色を付けるかをだんだんと迷い出している自分がいる。This was the beginning …を「かくして、…はじまったのであった」と訳しているのも十分に格調高いが、とりあえずdarkest historyを訳しそびれているのでチャラとしておこう。それより、They could make out nothing of the house(屋内が何一つ見えない)の部分を整然と順序立てて説明しているところを評価したい。「ハガード家には電灯がひとつもついていない」と「文字どおり屋内は真の闇だった」と二つの部分に分かれていて、どちらが原文の訳でどちらが訳者の創作かなどと考えても意味がないように思う。
     things banged somewhere gleefullyをどこからかバタンバタンと音がしてると訳しているのだけれど、「風」が原因なのか、場所は「奥の方」なのか、読者への優しさと言ってしまえばそれまでだが、やはりこれは「優しすぎる」と言っておこう。そういう意味ではEllery could feel the revolt in Nikkiのどこにも「さしものお転婆娘も」などとは書かれていない。だから青にしたけれど、エラリー・クイーンの愛読者ならば誰しも納得する表現である事は確かだ。もしかすると、この短編集を通じてニッキイという人物に愛着を感じたとしたならば、この表現は無くてはならないフレーズとまで言えるのかもしれない。
     この段落でぼくの一番のお気に入りは「an invisible door」だ。暗くて目には見えぬドアではなく「ドアとおぼしいところ」と訳してある。さすがだ。だって何しろ見えないのだから、ドアを叩いているか分からないではないか。

    (P.70)Mark Haggard's right hand seized the candlestick and the flame darted off, leaving them in darkness, with the white-robed woman.
    [P.193] マーク・ハガードは、右手に、燭台をうけとると、その光をかかげて、奥のほうへはいっていった。あとはまた真の闇になって、訪れた客の三人と白衣の婦人とが、そのなかにとりのこされた。
     何も言うことがない。もしこの文が英文解釈の問題として出されたら、あるいは翻訳教室の問題として出されたら、満点にはならないのかもしれない。だが日本語としての熟れ具合を評価するなら満点だ。ぼくが気になる点があるとすると、いらない読点が多いというぐらいだろうか。

     出迎えた白衣の婦人というのがハガード家の長女マルヴィーナだ。
    (P.70) "Malvina, you remember me, don't you?" The Inspector might have been wheedling a child. "Your father's friend? Richard Queen?"
    [P.193]「マルヴィーナさん。あんた、おれのことをおぼえてるかね? あんたのお父さんの友人で、リチャード・クイーンというのだが―」
     またしてもト書きの部分が省略された。「警視なら子供の機嫌を取ることもできたかもしれない(でも、マルヴィーナにはそうしなかった)」という部分だ。これも単刀直入に「おぼえてるかね」と愛想もなく言わせた事で、訳出は不要となったのか。

     戻ってきたマークがクイーンたちに説明したところでは、弟トレイシイは往診に出かけ、召使いの二人までもが外出してしまったらしい。マークはマルヴィーナに問いただす。
    (P.70) "They left. They were going to kill me. I chased them with a kitchen knife and they ran away. And Tracy went away, too. My own brother a doctor, and he doesn't care that the hot flashes burn me …." They heard a horrible snuffling and they realized the creature was crying.
    [P.194]「ふたりとも出ていってしまったわ。あたしが脅してやったからなの。あのふたりは、あたしを殺そうとしていたんです。あたしにはそれがちゃんとわかったので、お台所から包丁を持ち出して、追っかけまわしてやりましたわ。そうしたら、あのふたり、あわてふためいて、逃げ出していっちゃったの。トレイシイも留守よ。自分の弟が医者だというのに、こんなあつい火で焼かれるなんて、なんてあたし…」
     彼女は鼻をクスンクスンいわせはじめた。
     この女は泣いているのだった。
     マルヴィーナが言ってない言葉がたくさん追加されている。本来ならば「やり過ぎ」の青なのだけれど、青にしたくない。原文のままではうまく繋がらないからだ。「ふたりとも出ていってしまった」と「あのふたりは、あたしを殺そうとしていた」の間には飛躍がある。だから後述される「追っかけまわした」を前倒ししたわけだ。「あたしを殺そうとしていた」というのもずいぶん唐突な話だが「あたしにはちゃんとわかった」という心情を入れるだけで、マルヴィーナが精神的に病んでいるなと読者に伝わってくる。しいて言えば「あわてふためいて」はやり過ぎだと言ってもいいのだが、包丁を持って追っかけてくる彼女を見たら、誰だってあわてふためくだろう。
     それと何気ない訳し方なのだけれど、My own brother a doctor, and he doesn't care that…を「弟が医者だというのに、…焼かれるなんて」と訳している。それと、They heardもThey realizedもとっぱらって「彼女は鼻を…」「この女は…」のように三人称話者が直接見聞きした書き方にした。この方が日本語らしいし、臨場感が感じられる。

    (P.70) "Stop it or you'll have another fit――" She had it, on the floor, writhing like a crying soul, and screaming, screaming. "――! If Tracy hadn't――No! I'll handle her alone. …"
    [P/194]「泣くんじゃないよ、マルヴィーナ。また、発作を起こすぞ――」
     兄はそういったが、その声のおわらぬうちに、案の定、彼女は床の上でころげまわって苦しみだした。身をよじっては、泣き悲しむのである。
    「よわったな。トレイシイさえいてくれたら、こんなときには助かるんだが―でも仕様がない、おれがひとりで介抱しよう。…」
     「発作を起こすぞ」と「床の上で苦しみ出す」の間は「案の定」だけでもいいのだが、もう一言、つなぎの言葉があった方がわかりやすいと考えたのだろう。
     If Tracy hadn't gone(トレイシイが往診に呼ばれてなかったら)を「トレイシイさえいてくれたら…」と肯定表現に変えたのも見事で、ちょっとした工夫で日本語らしくなった。

    (P.70)The Inspector said simply, "We'd better get dry, rest awhile, and then clear out."
    "How about now?" said Nikki. "I sometimes enjoy being wet, and I'm not in the least bit tired. I'm sure we could call a cab――"
    "While a ten-year-old unsolved murder drifts around the premises crying for its mate?" Ellery glanced up into the black hole of the staircase, his jaw out. "I'm sticking the week-end."
    [P.195]警視はあきらめたような顔でいった。
    「はやいところ服でも乾かして、すこし休憩したら、さっそく退散しようじゃないか」
    ニッキイがいった。
    「いますぐ、引き揚げることになさったら? 服ぐらい濡れていたって、こんなところに我慢しているよりまだましではありませんの? それに、わたしたち、ちっとも疲れていませんし、休むことなんかいらないと思いますわ。自動車はすぐに呼ぶことができるんじゃありません?」
     だが、エラリイはそのことばをおさえていった
    いや、待ちたまえニッキイ。十年前の事件の亡霊が、いまもなお、泣きながら、このうちをさまよっているそうじゃないか。ぼくは、この事件に、大切な週末を捧げることにきめたよ。」
     エラリイ・クイーンは、そういいながら、あごをつき出すようにしてまっ暗な階段を見上げていた。
     said simplyは「くどくど言わずにあっさりと言った」という意味だが、それは何故かと考えると、雨風にやられて酷い話を聞かされて、警視は疲れ切っているからだろう。だから顔は「あきらめたように」だったかもしれないが、口調は「はやいところ…、さっそく…」とあっさりとしている。それに対するニッキイのI sometimes enjoy being wetは「服が濡れたままなんて、時には楽しいものよ」という強がりだろう。何故強がりを言うかと言えば、一刻も早くこの幽霊屋敷を出たいからだ。
     次のエラリイの描写と発言を青にしたのは、どちらか一つでいいんじゃないかという意味だ。どちらも原文にはないが、ニッキイから話を引き取る潤滑剤としての工夫はあっていいと思う。でも、さすがに両方はやり過ぎではないだろうか。

     ここから先は、もう宇野的創作の嵐がやってくる。
    (P.71) Inspector Queen was stretched on one of the icy twin beds, and Nikki whimpered in the bedroom beyond―she had promised hysterics at the suggestion that in the interests of propriety the communication door be shut―when the men's door burst open and light invaded the room. From the other room Nikki squealed, and the Inspector heaved twelve inches toward the ceiling. Ellery dropped a shoe, definitely.
    [P.196] クイーン警視は、ふたつならんだ寝台のひとつにもぐりこんで、ぶるぶるとふるえながらやっとの思いでからだをのばした。ニッキイがとなりの部屋で、すすり上げでもするように、鼻を鳴らしているのが聞こえてくる――
     とてもこわくて、ひとりでなんか眠れそうもないわ。さかいのドアは、あけたままにしておいてちょうだい。でないと、あたしヒステリイを起こしてしまいますわ―そういって彼女は、男たちの部屋からあかりが流れこむようにさせておくことを主張していた。
     その泣き声が高まるたびに、老警視はベッドのなかで、ピクリピクリとからだをうごかした。エラリイだけが落ちついて靴をぬいだ。
     確かに服が濡れて警視の体は冷え切っていることだろう。ただ、原文ではicy bedsとあるだけなので、果たして日本の布団同様「もぐりこんでぶるぶるふるえた」かどうかは怪しい。ただし「やっとの思いで」からだをのばしたのは確かだろう。whimpered一語だけで「すすり上げでもするように…が聞こえてくる」なんて訳しちゃう。もう、その場にいるかのようだ。

     さらには、次に続くニッキイの「主張」だ。promisedが「断言した」なので、何かを主張したのは確かなのだが、この部分でニッキイは直接には語っていない。だから「とてもこわくて、ひとりでなんか眠れそうもないわ」とは書かれてないのだ。でもそう言ったような主張はしている。それは、wihmpered in the bedroom beyondの後の挿入句の部分だ。「当然の事ではあるが、さかいのドアを閉めておこうと提案されたら、自分はヒステリイを起こすに決まっている」という主張だ。だからこそ「眠れそうにない」と宇野さんが書き加えたのは妥当だと思う。結果的にwhen the men's door burst open and light invaded the room(ドアを開け放したままであかりが流れこむようにした)となったわけだが、だとすると「させておくことを主張していた」はちょっとおかしい。ニッキイの主張は通ったはずなのだ。
     
     heaved twelve inches toward the ceilingを「ピクリピクリとからだをうごかした」と訳しているのにも感心するが、その後のエラリーの描写はさらにスゴい。definitelyは「強い意志をもってきっばりと」という意思表示の副詞だが「落ちついて」と訳している。登場人物らしさを念頭に置いてる翻訳家でなければ出てこない訳だ。

    (P.71) But it was only Mark Haggard, grinning. He was carrying an electric lantern in one hand and a battered old wooden box the size of a cigar humidor in the other. "The clues to the murder," he chuckled. "Old Mark Elephant!"
    [P.196] そこへ、顔いっぱいに笑みをたたえて、マーク・ハガードがはいってきた。片手には懐中電灯、もう一方の手には古い木箱をさげていた。手づれのしたその箱は、葉巻の貯蔵箱ほどの大きさですっかり時代色がついているものだった。かれはにやにや笑いながら、
    「さあ、みなさん。こいつが、さっきいった、大事な証拠品なんです。これさえあれば、殺人事件の手がかりぐらい、かんたんにつかめるといったわけで――
     この段落にも宇野さんの超絶技巧が現れる。He was carrying an electric lantern in one hand and a battered old wooden box the size of a cigar humidor in the other.を二つの文に分けているのだ。いや、そんなの当たり前にやるでしょと思われるかもしれないが、二つに分けるだけでなく修飾語を2つの文で分担させているのだ。まずは前半の文で「片手に懐中電灯、もう一方の手には古い木箱」という状況を説明している。つまりboxについてはold woodenだけしか言ってない。batteredもthe size of …も後半の文に持ち越しなのだ。batteredに「手づれのした」と熟れた訳を当て、「その箱は…ほどの大きさで」と流れるように訳している。正直、2文に分けないでもうまく納まったのではないかとも思う。けれど「1文の英語を1文の日本語に」にこだわるあまり、あれもこれも一つの名詞に修飾しまくる翻訳調に一読者として辟易している。名詞を中心にして前からも後ろからも修飾できる英語に対して、前方から後方にしか修飾する事ができない日本語とでは、そんなこだわりは意味をなさない。そもそも日本語は述語中心に文が組み立てられているので、必要とあらば宇野さんのように自在に文を分割しないと、読みやすい日本語にならないのだ。
     と持ち上げたところで、「すっかり時代色がついている」は言い過ぎじゃないですか、宇野さん。そりゃ古いし、手づれしているから時代色もついているでしょうけれど。

     最後のOld Mark Elephant!も青色にした。elephantは象のように巨大なものという意味もあるので「大事な証拠品」だという事をさらに丁寧に説明した宇野訳にも一理あるのだが、もう一方で「やっかいな所有物」という意味にもなるらしい。だから、ひょっとして大事なものであると同時に持てあましてもいるという事を言いたかったのかもしれない。

     ということで今回は頁数をかせげなかった。ひょっとして「その5」では終わらないのでは、と危惧しているが、まあ焦っても仕方ない。最後まできっちり書き進めていこう。(続く)
    犯罪カレンダー(1〜6月) - エラリイ クイーン, 宇野 利泰
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    posted by アスラン at 13:20 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 評論・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2023年09月09日

    宇野利泰さんの翻訳はどうして長くなるのか?(その2)

     さっそく続き。なにしろエラリイ・クイーンの短編集「犯罪カレンダー」の「皇帝のダイス」の原文と宇野訳とを最後まで調べ尽くしてあるので、すべての労力を回収するまでは終われない。改めて、比較の際の色づけと下線の意味を説明しておく。
    緑=翻訳の出来が素晴らしい
    赤=誤訳あるいは訳に疑問がある
    青=原文に存在しない、もしくは訳しすぎ
    下線=訳していない(原文のみ)

     コネチカットの小駅にたどり着いたクイーン父子およびニッキイ・ポーターが、ハガード家の迎えを待っているところから。
    (P.66)Haggard was a staring man with a week's black stubble, given to sudden convulsions of laughter, ….
    [P.182] それに、迎えはきてくれたものの、このマーク・ハガードなる人物は、どこか一本、調子がはずれているようにすっとんきょうなところがある―かれこれ一週間は鏡の前に立ったことがないのではないかと思われるほどの不精ひげ生やして、ときどきとってつけたようにあっはっはっと大声に笑ってみせる……
     「それに、迎えはきてくれたものの」の部分は原文に存在しないのだが、これも宇野さんのテクニックの一つだ。英語は日本語に比べると接続詞で文をつないでいく事が少ない。何故なのかは専門家ではないので、よくは分からない。ただ、A⇒Bのつながりが論理的に順接か逆接か一義的に決まるような言語(英語)に対して、日本語は文脈に依存してA⇒Bが順接か逆接かいずれにもなりうるので、関係を限定するためにも接続詞が多用されるのかもしれない。ここら辺の話は石黒圭「文章は接続詞で決まる」が参考になると思うと指摘しておいて、話を戻す。直前の文で迎えが来る事は分かってはいたが、クイーンたちの「あんに相違して」という気持ちを接続詞にして挿入しているのだ。

     「どこか一本…すっとんきょうなところがある」は、おそらくa staring manの訳だ。「おそらく」というのは、どうしてそうなるのか分からないからだ。staringは見た目の事を言ってるのに対して、「すっとんきょう(素っ頓狂)」とは声や言動の調子がはずれてることを指す。a week's black stubbleも「鏡の前に立ったことがないのではないか」とは、誰あろう訳者の実感だろう。

     マークの母コーラに会うのが楽しみだというクイーン警視に対して、マークがつれない事を言う。
    (P.67)"In hell," screamed Mark Haggard, …
    [P182]「会うんでしたら、あんた、あの世のことですぜ
    と、大声でいった。

    (P.67) "Oh, I'm sorry to hear it," the Inspector said confusedly. "I mean, when did she―?”
    "Two years ago."
    "But not in the hot place," muttered the Inspector.
    "Not Cora."
    [P.183]「おや、おや、そうだったか、それはちっとも知らなかった。気の毒なことをしたな。で、お母さんはいつ亡くなられた?」
    「二年前でさ」
    「なんにしろ、地獄に落ちておらんことはたしかだね。コーラだったら、その心配だけはないからな」
     hellを「あの世」と訳しているが、ここは「地獄」でないとまずい。クイーン警視はわざわざhot placeという婉曲表現を使った上で「地獄には落ちてないだろう」と、マークの言葉に異を唱えているからだ。
     打って変わって「おや、おや、そうだったか…気の毒なことをしたな」には、超絶技巧が使われている。ト書きのthe Inspector said confusedlyを解体して、クイーン警視の発言の中に組み込んでいるのだ。この訳し方自体スゴいのだけれど、これによって、一人の人間の発言と発言の間にト書きがはさまるという、英語ではありふれているが日本語では違和感がある書き方を、翻訳で解消しているのだ。このト書きの違和感を解消するテクニックでは、必要とあらば大胆に省略してしまう事もある。mutterd the Inspector(警視はぼそっと言った)がそれだ。もしかすると「その心配だけはないからな」という発言に「ぼそっと」感をこめている可能性はあるが、判断しにくい。

     このト書き解体テクニックは全編にわたって使われている。
    (P.67)"Yes, people change," sighed the Inspector. Then he tried to sound chatty again. "I remember when your father resigned from the Force, Mark. …
    [P.183] クイーン警視はこたえた。
    「そういえばそうさ。人間ってやつは、ものすごい勢いで変わっていくものだからなあんたのおやじさんが警察をやめたときのことは、おれはいまだにはっきりと思い出すことができる。…
     ここでは発言の間にあったト書きを発言の頭に移動している。しかもsighedを「こたえた」と書いている。その後のThen he tried to sound chatty againと併せて、ため息や、くだけた調子は、発言の中に込められているようだ。

    (P.67) "Threw money around like a maniac," said Mark Haggard angrily. " The great collector! Who did he think he was―Rosenbach?"
    [P.184]「うちのおやじっていうのは、狂人みたいに金を撒き散らかして―つまり、世にいう収集狂なんです!」
     他人のことばなんか、いっさい耳にはいらぬといったかたちで、マーク・ハガードはすましこんだ顔つきでしゃべりつづける……
     今度はト書きを発言の末尾に移動している。said … angrilyだから「怒ったように言った」とすべきところを何故か長々と説明している。前半の「いっさい耳にはいらぬ」はangrilyを噛み砕いているのかもしれないが、「すましこんだ顔つきでしゃべりつづける」と書いているのは不可解だ。ひょっとすると訳文では省略されたWho did he think he was―Rozenbach?と関係しているのか。Rosenbachはアメリカの書籍収集家。「おやじは自分をなんだと思ってたんでしょうね?ローゼンバックを気取ってた?」と書くべきところを、雰囲気だけのト書き「すましこんだ顔つきでしゃべりつづける」にしたのか。しかし、この直後にエラリーが「書籍の収集ですか?」とマークにたずねているので、ローゼンバックを訳さないと本当の意味では会話が噛み合ってないことになるんですけど。

    (P.67) "My father? He could hardly read. Gambling collection! Crummy old roulette wheels, medieval playing cards, ancient dice―junk filled the whole Gun Room. Get over on your side of the road, you―― ――!"
    [P.185]「あいにくおやじは、字なんか読めはしなかったんです。あつめたのは、なんと賭博の道具です!小汚い古ルーレットとか、中世のトランプ、ふるいむかしのさいころ―およそ、賭博の道具と名のつくものなら、どんなものだって、手に入れたがったんです。そんながらくた類が、銃器室にいっぱいならべたててあるんですよ」
     「およそ、…手に入れたがったんです」という1文は原文にはない。すでに宇野訳ではおなじみの、発言者の心情を慮った言葉だ。それでいてGet over on your side of the road, you―― ――!には訳が手当されていない。無いので自力で訳さなければならないが、「道のそっち側(そっちの車線?)に渡る(移る)ぞ!」だろうか。運転者の臨場感溢れる発話だと思うが、何故か落としている。

    (P.68) "Unsolved?" said Ellery.
    "The house was then occupied by a family of five," chuckled their chauffeur, "a father, a mother, and three groun children. …
    [P.186] エラリイもさけんだ。
    「迷宮入り?」
     マーク・ハガードはこたえた
    「その事件の当時、ぼくの家には家族五人が住んでいました。おやじとおふくろ、ぼくと弟、それに妹がひとり。ぼくたち子供たちも、みんないちおうの年ごろにはなっていたのです。
     何故かchuckle their chauffeur(運転者はニヤニヤ笑いながら言った)が「ハガードはこたえた」とあっさりとした表現になってしまい、逆にthree groun childrenが懇切丁寧な表現に書き直されている。それにしても「みんないちおうの年ごろにはなっていた」なんて宇野さん、どこまで登場人物に感情移入してるのだろうか。

     父の死体が銃器室で見つかり、内部の人間の犯行に間違いはなかったというマークの話を受けて、
    (P.68) "Humour him!" whispered Nikki.
    "Mark's just making this up," said Inspector Queen heartily. "Mark, I'm soaked to the hide. Have you lost your way?"
    Haggard laughed again. But then he hurled the stationwagon around another car, cursing, and Ellery shuddered.
    " And the best part of it was that nobody ever suspected the father'd been murdered. Not even the police."
    [P.187]「話を変えさせましょうよ」と、ニッキイがささやいた。
     そこで、父の警視がいった。
    「マーク君、おれはとうとう、腹の底まで濡れてしまったぞ。道をまちがえたんじゃないのか?」
     マーク・ハガードは、またしても高らかに笑って、
    「さいわい、おやじの死因を怪しむ者はだれもいないので、ぼくたちはひっぱられないですんだのです。警察だって、べつに問題とは思っていないようでした」
     ニッキーはHumour him(ここは調子を合わせておきましょうよ)とささやいたのであって、話を変えさせようとはしていない。警視もMark’s just making this up(マークのやつ、でまかせ言いおって)と言ったはずだが削られた。ハガードがまたしても笑った時に「高らかに」笑ったかは定かでないが、But then he hurled…Ellery shuddered(しかし、マークが前の一台に回り込んで悪態をつきながら追い抜くと、エラリーは身震いした)と描写されるような輩なので、やはり「高らかに笑って」いたのかもしれない。肝心の描写は削除されているけれど。
     「ぼくたちはひっぱられないですんだ」と、ご丁寧にマークの言葉が足されているけれど、ちょっと辻褄が合わない。警察以外の人で「怪しむ者はだれもいない」上に「警察だって、べつに問題とは思っていない」からひっぱられなかったならわかるけど。

    (P.68)Haggard's laugh mingled with rain and the thunder.
    [P.188]ハガードの哄笑は、豪雨と雷鳴とに混じりあって、すさまじいものに聞こえた
     俳句の夏井いつき先生だったら「すさまじいものに聞こえた」などと主観表現を足さないでも想像させるように書いてあるとおっしゃるかもしれないが、ネイティブでない読者に英語の語感を正しく伝えるためには、このくらいがちょうどいいのかもしれない。

    (P.68) ”What were they, Mark?"
    "Ellery," moaned Nikki.
    [P.188] エラリーはきいた。
    「で、その手がかりというのは?」
    「まあ、エラリイ先生、やめときましょうよ
    とニッキイが小声でいった
     こちらもmoanedの語感を発話とト書きに振り分けて訳している。

     父を殺した銃弾は、銃器室に置かれた「二挺の三八口径のリボルバー」だとマークが語る。
    (P.68) "The bullet passed right through the body and smashed against the bricks of the fireplace. And both guns had been cleaned after the murder."
    "And the third clue?”
    "You'll love it, Ellery. It was found by the sons in their father's hand."
    "Oh? What was it?"
    "A pair of dice. Very famous bones they are, too, bloody as hell."
    [P.189]「ところが、その弾丸は被害者を貫通して、暖炉の煉瓦にぶつかってしまったんです。それで、すっかり疵だらけになってしまっていましたし、ピストルはピストルで、凶行のあと、きれいに手入れをすませてあったのです」
    「それで、第三の手がかりというのは?」
    それがまた、おもしろいんですよ、エラリイさん。いかにも、あんたみたいな方がよろこびそうなやつでしてね。ふたりの息子が、死んだ父親のてのひらに見つけ出したものは―」
    「え?なんでした?」
    「二個のダイスでした! これがまた、いわくつきのものでしてね。むかしから有名な呪いのこもったダイスなんです。さんざん、人間の血を吸ったやつなんでさ
     なんだろう。「原文にない文章を追加してるぞ」みたいなあら探しをしてる気がしてたのだが、じっくり吟味してみると理にかなってると納得させられる。The bullet …smashed against the bricks of the fireplace.を「弾丸が煉瓦にぶつかってしまった」で終わらせると、日本語はちゅうぶらりんのままだ。そこで結論の「疵だらけになった」が出てくる。またYou'll love itも「あなたならきっと気に入りますよ」といきなり言われると、これまた日本語らしくない突き放した言い方に聞こえる。だから「それがまた、おもしろいんですよ」と語りかける呼び水をいれてから「いかにも、あんたみたいな方が…」となる。
     極めつけは、マークの父の握っていたダイスの話だ。Very famous bones they are, tooを解体して、bonesを先に活かして「これがまた、いわくつきのもの」と書き、Very famousを後にして「むかしから有名な」と続ける。「呪いのこもった」が一見すると宇野さんの創作に見えるけれど、ここはbloody as hellから来ている。「さんざん、人間の血を吸ったやつ」だから呪いがこもるのも当然だろうという理屈だ。

     たっぷり書きたいことを書いたが、これでようやく中盤にさしかかったところだ。(続く)
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    posted by アスラン at 10:45 | 東京 ☁ | Comment(2) | TrackBack(0) | 評論・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2023年09月06日

    宇野利泰さんの翻訳はどうして長くなるのか?(その1)

     以前に、角川文庫版「Yの悲劇」(越前敏弥・訳)の書評を書いた際に、それまで愛読してきたハヤカワ・ミステリ文庫版(宇野利泰・訳)との比較をちょっとだけ試みた。というのも、ハヤカワ・ミステリ文庫の「Yの悲劇」は分厚い一冊というイメージだったのに、角川文庫のそれはかなりスリムな一冊に仕上がっていたからだ。一頁あたりの文字数とページ数から換算したところ、越前敏弥さんの訳文は宇野利泰さんの約80%の分量までスリム化されていた。この驚異的な越前訳を評して「喉ごし爽やかなドライな文体」と書いたのだが、どうやらそれ以外にも宇野訳が他の翻訳者よりも長いのではないかという話が漏れ聞こえてきた。曰く、原文に書いてない事をつけ加えて「話を盛っている」らしい。かと思えば、原文の一部を訳さず「すっ飛ばしている」らしい、などなど。これはもう実際に訳文に当たってみるしかない。

     ところが情けない事に、すでに越前訳のクイーン作品に満足して、ドルリー・レーン四部作も国名シリーズも処分してしまった。いざ、取り戻そうにもブックオフには見当たらない。ネットか神保町で見つけるしかない。何か手持ちで間に合わせられないかと探してみたところ、格好の素材が見つかった。エラリイ・クイーン「犯罪カレンダー」(ハヤカワ・ミステリ文庫)だ。この作品は2002年に出版されているが、元々は1962年にハヤカワ・ミステリ(通称ポケミス)から出版されたものなので、訳文もそこからの流用だろう。対して、原書のEllery Queen「Calendar of Crime」(The New American Library)が運良く手元にあった。

     「犯罪カレンダー」は1月から12月までの合計12編からなる短編集だ。元々はアメリカで1939〜48年に放送されたラジオドラマ「エラリー・クイーンの冒険」の脚本を、作家自身がノベライズしたものだ。この中で4月の「皇帝のダイス(The Adventure of the Emperor's Dice)」の訳文を取り上げる。12編の中で最も短い短編であるとともに、原文の頁数に対して訳文の頁数の比率が比較的大きいというのが特徴である。仮定として、原文に対して翻訳の「盛り率」が高いのではないかと考えて選んだ。

     以下に、順を追って原文と訳文とを比較していく。訳文で注目すべき箇所には色づけをした。色づけの意味は、緑=翻訳の出来が素晴らしい赤=誤訳あるいは訳に疑問がある青=原文に存在しない(もしくは訳しすぎ)である。また、原文で訳していない箇所は下線で示す。まずは冒頭部分から見ていく。

    (原文P.65) WHEN CALIGULA BECAME emperor of the world he nominated Incitatus his consul, Incitatus being his horse. On evidence such as this, the grandson of Tiberius is considered by historians to have been crazy. The conclusion is questionable. Consuls in Caligula's day exercised high criminal jurisdiction; obviously, a man could turn his back on his horse. There have been appointments, and not only in Roman history, far less astute.

    [訳文P.177] カリグラが全世界を統べる皇帝の地位についたとき、執政官(コンスル)のひとりに、インシティトゥスを任命した。インシティトゥスとはかれの愛馬だった。後世の史家は、この事実を見て、このティベリウスの孫は乱心していたと断定した。しかし、この結論には疑問がある。カリグラが帝位についていた当時のローマ帝国は二名のコンスルが、国家最高の司法権をにぎっていた。もしそれが、人でなく馬であれば、いつなんどきであろうと、皇帝の恣意をつらぬき通すことができるというものだ。気のきいた任命であるかどうかは知らぬが、ひとりローマ史にかぎらず、これ以下の拙劣な方法さえ、数かぎりなく見ることができるではないか。


     カリグラ(カリギュラ)は言うまでもなく古代ローマ帝国の皇帝であり、歴代の皇帝の中でも悪名が喧伝されてきた。その逸話から始まるのだが、emperor of the worldのフレーズだけで「全世界を統べる皇帝」というシビれるような訳が出てくる。さらには持ち馬のhis horseを「愛馬」と訳し、historiansをあえて「後世の(史家)」とつけ加え、Consulsを、その後の原文のa manとhis horseから「二人の(コンスル)」と訳している。微に入り細をうがつような心遣いが感じられる。これでずいぶんと翻訳臭さや日本語としての違和感が消去されている感じがする。さすが宇野さん、スゴいと持ち上げたくなるが、それと抱き合わせで?と首を傾げたくなる訳文が出てくる。

     obviously, a man could turn his back on his horse.を「もしそれが、人でなく馬であれば、いつなんどきであろうと、皇帝の恣意をつらぬき通すことができるというものだ。」と訳している。どこをどう押すとこういう訳が出てくるのだろうか?そもそもcouldが暗示する仮定法は「執政官の一人が人間ならば」という意味だろう。つまり人間の執政官ならば皇帝の愛馬であろうと「背を向ける(無視する)」事ができるという意味ではないか。あぁ、なるほどそういう事か。二人の執政官が合議制で決めるところを、一人の(しかも皇帝の恣意に忠実な)執政官と馬との合議ならば、確かに「皇帝の恣意をつらぬき通すこと」はできるに違いない。つまり原文のほのめかしをかみ砕いて「こういう意味ですよ」と訳し上げたのが、「もしそれが…できるというものだ。」なのだ。うーむ、これを達意の翻訳と呼ぶべきなのか。確かに直訳で読者に投げるよりも分かりやすいかもしれない。

     さらにはThere have been appointments, and not only in Roman history, far less astute.の訳では「気のきいた任命であるかどうかは知らぬが、」という但し書きが付いている。これはどこから出てきたものか。おそらくは直前の「愛馬を執政官の一人に任命した」という事を指していて、著者(あるいは語り手)の心情を推し量った上で翻訳者がつけ加えたものだろう。これを創作と見るべきか、意訳の範疇と見るべきか、なかなか難しい。ただ、翻訳者が目指しているものが「読者に分かりやすい」であることは確かだろう。つまり「噛んで含める」ように訳しているのだ。

    (P.65)As for Lucius, by Tiberius's will he was Caligula's co-heir;…
    [P.178]ルシウス殺害の件については、つぎのように考えてよいのではないか。ティベリウスの意志によって、ルシウスはカリグラとならんで、その共同相続人であった。

    (P.65)…,but he is certainly not irrational.
    [P.178]いちがいに理性を喪失した人間の行動と解するのは軽率であろう

    (P.66)Even so, Mark Haggard's voice could be heard above the uproar.
    [P.179]それはそれとしてマーク・ハガードの声が、耳をろうするばかりの騒音を超えて、流れてくる。

    (P.66)Haggard was driving a leaky station-wagon along the Connecticut road with the hands o a charioteer,sawing away at the wheel and …
    [P.179]ハガードは、二輪戦車を駆るローマ兵士さながらの手腕をもって、雨もりのはげしい箱型自動車をあやつり、コネチカットの悪路をつきすすんで行くハンドルを、あるいは右、あるいは左と、すさまじいばかりのいきおいで、切りつづけている

     「講釈師、見てきたような嘘をつき」というような盛り方ではないだろうか。もちろんここに挙げたのは嘘ではないが、講釈師としての誇張が入っている。そこに宇野さんの訳文の勢いを感じるのだから、訳者の個性として歓迎すべきなのかもしれない。永年、宇野訳に慣れ親しんできた僕などは、比較していて笑みが止まらなくなる。

     しかし、これをやり過ぎると「いや、作者はそこまでは言っていないのでは?」という疑いが首をもたげてくる。
    (P.66)He had too cartographic a memory of hosts floating about in seas of alcohol or, as happened with equal frequency, forty-eight becalmed hours of Canasta.
    [P.179〜180]むしろ、例年のことではあるがこのはなやかなニューヨークにとどまって、アルコールの海を泳ぎまわる人々とともに騒がしい夜をすごすか、それともまた趣向をぐっと変えて、父とふたりでアパートにとじこもり、トランプの勝負に静謐な四十八時間を愉しむかを目算としていた。

     「アルコールの海」から「はなやかなニューヨークでのらんちき騒ぎ」を連想したのだろうが、そんな事は書かれてないのだ。あえて宇野さんを擁護するとしたら、クイーン一家のホームグラウンドはニューヨーク市で、本書自体が短編集だから作品全体を整合させる文脈を示すために挿入したと言えなくもない。ただ、トランプゲーム(カナスタ)を「父とふたりでアパートにとじこも」ってやっていたかは定かではない。また「例年のことではあるが」は後半のトランプ遊びの方だけに掛かるはずだ。
    (P.66)"Haven't seen Mark, Tracy, or Malvina Haggard since thier dad kicked off ten years ago",
    [P.180]「このハガード家というのは、マークにトレイシイ、それにマルヴィーナという、兄妹三人ぐらしなのだ。おれはもともと、そのおやじとじっこんのあいだがらだったが、かれが死んでからというものは、こんどがはじめての対面になる。…

     クイーン警視とハガード家との因縁をずいぶんと懇切丁寧に書いている。確かに読者には優しい。でも書かれていない。そもそも「三人のおやじとじっこんのあいだがら」だという事は、このすぐ後に「警察学校で同期だ」とちゃんと書かれているのだ。
    (P.66) "All right!" howled Ellery;…
    [P.181]「やめたまえ、ニッキイ。そんなこと、くどくどいったところではじまらない!」
     エラリイが、吠えるような声でいった。…

     「わかった、わかった(All right!)」の一言なのに、くどくどとニッキイをたしなめる言葉が続いている。

     実はケアレスミスも頻繁に出てくる。
    (P.65)…; in fine, the last day of the third month of the Queenian calendar, and a night of portents it was, speaking in wind, thunder, and rain.
    [P.179]このクイーンの暦によれば、第三月の最後の日―烈風、雷鳴、暴風のあれくるう不吉な夜の物語である。

     「暴雨」の間違い。
    (P.66)The Queens and Nikki Porter could only embrace one another damply and pray for midmight and the rise of a saner moon.
    [P.179]クイーン父子とニッキイ・ポーターとは、…一刻もはやく、狂気の夜があけて、より正気の太陽がのぼってくれるのを祈るばかりだった。

     「夜も更けて、いつもよりは正気な月がのぼってくれるのを祈るばかりだった」でないとおかしい。月(luna)は普通は狂気の暗喩だから、それよりはまともな月がのぼってくれないかという意味だろう。
    (P.66)"Hadn't he gained any weight? …"
    [P.181]「…ジムが死んだとき、コーラはその服を着せて、墓に埋めたっけ―」
    それで、ジムはいったい、出世したんでしょうか?…」

     直前の「その服」とは、四十年前にジムとコーラが結婚した時に、ジムが着ていた礼服の事。それを妻がジムに着せて埋葬したのだから「ジムはその時から太らなかったんですかね?」という意味。なんで「出世」うんぬんになってしまったのか。

     さて、ツッコミどころが満載なので、ついつい悪いところばかりを指摘してしまったが、もちろん訳文全体に関しては、誤訳部分を除けば日本語として違和感がない。実はいろいろとテクニックを使って、翻訳臭さや日本語としてのこなれ不足を回避している。
    「国家最高の司法権をにぎっていた(exercised high criminal jurisdiction)」とか「意に満たぬ行為のあった市民を闘技場のいけにえにあてた(he commanded citizens who displeased him to enter the arena)」などの熟れた文章が当たり前のように出てくる。次の文章の処理も見事だ。
    (P.65)That these are the historical facts seems indubitable, but …
    [P.178]これらの歴史的言い伝えは否定することのできぬ事実であるかもしれない

     さらっと訳しているが、英語構文の枠組みに囚われているうちは、こんな訳文は、というよりこんな日本語は出てこないだろう。
    (P.66) It had begun with a train that was late, a whistle-stop station that was wrong, no taxi service, and an hour's wait in splashy darkness. Then their host found them, and even the Inspector began to look as if he regretted the whole thing.
    [P.182]汽車が延着したのが、そもそものはじまりだった。いなかの小駅というのは、こうなるとやっかいなもので、さがしたところでタクシーなんて影さえ見せない。べっとりと粘りつくような暗闇のなかで、かれら三人の一行は一時間あまりも待たされた。そのあげく、やっと主人公が迎えにきてくれることになったが、そのころは、さすがの警視も愚痴たらたらの状態になっていた。

     いやはや、なんというか完璧ではないだろうか。1月〜6月の短編を収めた本書の解説で、あの法月綸太カが以下のような賛辞を送っている。
    まさに「クイーン節」としか言いようのないブリリアントな文体

     しかし、それは同時に「宇野節」とも言えるのではないだろうか。と、翻訳者を持ち上げたところで、今回はこれまで。ペーパーバック14頁ほどの短編に対して40頁近くある訳文の、まだ5頁程度しか進んでいない。この後、まだまだツッコミどころはたくさん出てくるし、宇野さんの翻訳の真骨頂の部分も取り上げていきたいので、「その幾つ」になるか分からないが続きます。
    犯罪カレンダー(1〜6月) - エラリイ クイーン, 宇野 利泰
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    Calendar of Crime
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    posted by アスラン at 22:30 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 評論・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2023年07月20日

    神保町逍遙2023/07/14〜PASSAGE,、羊頭書房、東京堂書店、富士鷹屋〜

     前回からちょうど三か月。まあ、通院が三か月おきなので、それに合わせて神保町にブラッとたどり着くというわけだ。今回は診察も会計も待ち時間が少なかったので午前中には病院を後にして、神保町に向かった。大井町からだと京浜東北線で田町駅で下車。都営三田線で神保町駅へと向かう。前回もそういう順路だったのに忘れていた。

     神保町に到着すると、ちょうどお昼どきでサラリーマンでどこもごった返している。これはやはりPASSGEをじっくり見ていくしかない。前回は初めて見て回ったので、それこそ舐めるようにすべての書棚を吟味した。だから、頭の中には「アソコとアソコは必ず見ていこう」と決めているのだけれど、キッチン南海はまだまだ大行列だろうし、時間はあるし、と思うと、ついつい入り口端から一つ一つ見ていき、つまりは抜かさず全部を見てしまう。もっとも、自分の趣味に合わない品揃えの書棚も少なくないので、これはなんというか美術館や博物館を見て回って、自らの感性を磨かせてもらったり、「何かないかな?」という好奇心を満足させてもらいに、毎回足を運ぶようなものだと思う。

     結局、前回も購入した1F ディドロ大通り 3番地の「オジマ」の書棚は今回もじっくりと眺めた。意味の意味をじっくりと考察した『意味の探求』や、辞書好きの妄想をくすぐる小説『嘘つきのための辞書』、光文社新書の『辞書と日本語 国語辞典を解剖する』など、相変わらず魅力的な品揃えだ。ただ、今日は絶対買わなくちゃいけない辞典があるんです。だから、今回は買わずにパス。他に1F シャルル・ボードレール通り 5番地「大澤真幸の本棚」が気になった。シリーズとなっているらしい『〈世界史〉の哲学』。面白いアプローチで読みごたえがありそうだが、買うには至らず。もうちょっと予備知識が必要だな。

     今回はこれまでかなと思ったら、意外な書棚を見つけた。1F ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ通り 11番地「仙仁堂」だ。前回来た時にはなかったはずだ。PASSAGEのサイトでも今年の4月から出店と書かれている。そこに、最近ウェブで知ったばかりのS・S・ヴァン・ダインの新訳本が並んでいるのだ。「仙仁堂 古典新訳推理シリーズ」と銘打った電子書籍で、『スカラベ殺人事件』(旧訳は『カブト虫殺人事件』)から、以後の『グレイシー・アレン殺人事件』までの六冊が新訳で出版されている。創元推理文庫の新訳プロジェクトでは、全12冊を新訳で出版するはずなのだが、大幅に遅れている。これは電子書籍で読むべきなのかなと考えていたので、ここで紙の書籍に出くわしてビックリしたのだ。『スカラベ』を購入して、翻訳の出来を確かめてみようかなとも思ったが、1200円以上してちょっと高いなぁ。それに、つい最近、日暮さんの『グリーン家殺人事件』の翻訳が完成したという朗報を聞いたばかりだ。だったら、まずはそちらの刊行を待つのが先かなぁ。

     それはそれとして、この仙仁堂の書棚、他にも見応えがある。洋古書を取り扱っており、なんとエラリー・クイーンのハードカバーが何冊か置かれていた。僕が主に手にしているのはペーパーバックばかりなので、初版ではないにしても立派な装丁の単行本が見られるのは嬉しい。『クイーン検察局』『ニッポン樫鳥の謎』『オランダ靴の謎』『帝王死す』が並んでいて、値段的にもリーズナブルな価格なので、これは買うべきではないかと悩んでしまった。でも自宅に洋書のハードカバーを大切に飾るスペースはない。本に申し訳ないので、結局あきらめた。しかし、収穫はあった。『オランダ靴の謎』のメモ書きのページだ。

     エラリー・クイーンファンでなければ何の事かわからないだろうが、クイーンの国名シリーズの一つ『オランダ靴の謎』では、第一部と第二部の間に「幕間」が用意されている。そこで作中のクイーン親子が事件について考察するのだが、それを読みながら読者も一緒になって考察し、謎を解くためにメモを書き込んでほしいと言って、作者のクイーンがわざわざ余白を用意している。翻訳ではページの下3分の1が空白になっているが、原書では、ページの途中で文章が折り返して右半分が空白になっている。初めて見たので、ちょっと感動物だ。後年、クイーンの片割れで愛書家でも知られるフレデリック・ダネイは、メモを取るための余白を設けた事を後悔したらしい。自著に書き込みを入れる事を公認したわけだから、宜なるかな、だ。ちなみに自宅にもペーパーバックの『オランダ靴の謎』があるのに、なんで初めて見て感動してるんだろう。そう思って帰宅して調べたところ、なんと「幕間」自体が存在しない。えぇぇ。本文を割愛してるとは何事だ。ちょっとショックだ。

     PASSAGEを出たのが午後2時すぎ。キッチン南海の行列が短いのを確認してホッとして、定番のカツカレー。その後は向かいの羊頭書房だ。目当てとしては、S.A.ステーマン『殺人者は21番地に住む』やカーター・ディクスンの『一角獣の殺人』が文庫で置いてないかなぁと思った。ステーマンの方はあったが、洋書の掘り出し物探しの方が先だ。そして前回同様、今回もゴロゴロ掘り出してしまって、ステーマンどころではなくなった。
    THE VANISHING CORPSE Ellery Queen (エラリー・クイーン『消えた死体』)
    THE SPANISH CAPE MYSTERY Elllery Queen (エラリー・クイーン『スペイン岬の秘密』)
    HAG'S NOOK John Dickson Carr (ジョン・ディクスン・カー『魔女の隠れ家』)
    THE PROBLEM OF THE WIRE CAGE John Dickson Carr (ジョン・ディクスン・カー『テニスコートの殺人』)
    THE MURDER OF ROGER ACKROYD Agatha Christie (アガサ・クリスティ『アクロイド殺し』)

     クイーンが今回も2冊。ただし、『スペイン岬』は既に持っている事が自宅に戻ってから判明。まあこういう事もある。『消えた死体』の方は、『エラリー・クイーンの事件簿1』に入っている中編だ。ただし、事情があってクイーンの聖典リストには含まれていない。事情というのは、クイーンの手によるものではないからだ。1940年に公開された映画『名探偵エラリー・クイーン』の脚本をノベライズしたものが『消えた死体』だが、映画の脚本もクイーンによるものではないし、ノベライズもゴーストライターの手によるものだ。ただし、筋書き自体はクイーンのある長編から採用されているので、まったく無関係というわけではないが、それだけの事だ。1972年に出版された『事件簿1』の訳者あとがきでは、青田勝さんが「エラリー・クイーンがもともと映画の脚本として書き下ろしたものを、あとで小説化して書き直した作品である」と書いている。ハリウッド進出をもくろんだ時期の作品はとかく評判が悪いが、『事件簿』の印象が特に薄いのは、そもそもクイーンに文責がないからだろう。それでも当時は本人が書いたと思って読んでいたのだから、青田さんのあとがきは今となっては恨めしい。

     次はカーから二冊。『魔女の隠れ家』はギデオン・フェル博士の長編第一作、『テニスコートの殺人』は同じくフェル博士の長編第11作だ。探せば手に入るものだな。『魔女の隠れ家』はとても気に入った作品なので、ぜひ原文で読んでみたい。それとクリスティは『ABC殺人事件』もあったのだが、すでに四冊も買う気になっているので厳選して『アクロイド殺し』のみにした。集めてばかりでなく、ぼちぼち読み出さないと。
    神保町逍遙20230714 (2).JPG

     羊頭書房を出て、今度は東京堂書店に向かう。こちらでは新刊をゆっくり見ている時間が無くなってきたので、今回の逍遙最大の目的である山口仲美 編『擬音語・擬態語辞典』を購入。これでようやく図書館から借りては返す手間をかける必要がなくなった。
    神保町逍遙20230714 (1).JPG
     さすがに、これ以上長居をすると帰宅の通勤ラッシュに巻き込まれてしまうので、神保町を後にして歩いて水道橋に移動。暑さでクラクラする。本当ならお茶をして涼んでいきたいが、その時間がとれそうにない。とは言え、水道橋まで歩いたのは富士鷹屋に寄ってみたかったのだ。ちょっとだけ足を踏み入れて、手早く一回りして出てきた。実は一番奥の奥、店主が座る一画の周辺の書棚を前回ゆっくりと見られなかったのが気になっていたのだ。なにしろ、店主と僕の二人きりで、顔なじみでも無いのにパーソナルスペースを共有する事になるので、どうしても緊張する。ちょっと気になる本はあるにはあったが、タイトルを確認しただけで満足した。次こそは手にとってじっくりと見てみるとしよう。もう一人、客が入ってきたのを潮時に出てきた。
    posted by アスラン at 03:05 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 評論・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2023年04月18日

    神保町逍遙2023/04/14 〜PASSGE、羊頭書房、東京堂書店、そして富士鷹屋〜(その2)

     PASSAGEを出たのが2時ちょい前。さすがに疲れてお腹もすいたので、キッチン南海に向かう。行列は多少短めで一安心。ちょっと驚いたのは、ほぼ90%以上が男性のはずの列に、めずらしく女性が何人か混ざっている。小津の映画に出てくるような幅狭なカウンターに丸椅子。両脇もぎちぎちに詰まった席なので、お世辞にもゆったりと食事できるわけではないが、食事の内容本位で常連となってくれる人が増えるのはファンとして嬉しい。この日は「ひらめフライ&生姜焼き」。ご時世なのか、ここでも値上げの嵐で900円。どうりで、この時間帯になっても"ひらめ"が品切れになっていないわけだ。やっぱりカツカレーの方がコスパがいいか。いやいや、900円でも十分にコスパが良くて今までが安すぎたのかもしれいんですけどね(以下、2009年撮影の「ひらめしょうが」。混んでいるときは、恥ずかしいのと並んで待っている人に失礼なのとで、最新の写真は撮れない。ただ、タルタルソースが付くようになった事以外は、盛りの良さもふくめて何も変わっていない)。
    キッチン南海20091026.JPG


     お約束で向かいの羊頭書房に入る。2ヶ月前にも見て洋書の収穫は無かったから期待してはいなかったのだが、あに図らんや大物がゴロゴロ待ち構えていた。
    THE FINISHING STROKE Ellery Queen (エラリー・クイーン「最後の一撃」)
    DOUBLE DOUBLE Ellery Queen (エラリー・クイーン「ダブル・ダブル」)
    The Case of the Constant Suicides John Dickson Carr (ジョン・ディクスン・カー「不連続自殺事件」)
    TUESDAY CLUB MURDERS Agatha Christie (アガサ・クリスティ「ミス・マープルと13の謎」) 
     
     なんとクイーンが二冊。一冊が「クイーン最後の事件」とも言えなくもない、趣向に充ち満ちた一作「最後の一撃」。もう一冊が「ダブル・ダブル」だ。ちょうど越前敏弥氏による新訳が昨年出たばかりなので、新訳と原書を並べて吟味できるのは大きい。この分ならまだまだお宝が眠ってるのではないかと探したら、カーの「連続自殺事件」まで出てきた。こちらも昨年に新訳が出たばかりだ。新訳のタイトルが耳慣れないのは、元々は「連続殺人事件」と呼び習わしていたからだ。原題を見れば新訳の方が正しいのは一目瞭然なのだが、当時は「自殺」ではミステリーとして引きが弱いとでも思ったのだろうか。

     さらに探すとクリスティの「ミス・マープルと13の謎」まで出てきた。ハヤカワ・ミステリ文庫だと原題どおり「火曜クラブ」だが、僕にとっては、兄の蔵書だった創元推理文庫のタイトルの方が慣れ親しんでいる。そしてミス・マープルの活躍は、この短編集から始まっている。クリスティの中では一番気に入っている作品かもしれない。ミステリ黄金期の大御所三人が勢揃いで、もう正直お腹いっぱいで羊頭書房を出た。
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     よしもと漫才劇場を右手に見ながらすずらん通りに向かうと、囲われた内側にあったはずの三省堂本店のビルが解体されたのが分かる。余裕があるうちに小川町に移転した仮店舗も訪れたいなと思いながら、東京堂書店に入る。左側の入り口を入ると、ワゴンに村上春樹の新作「街とその不確かな壁」が積まれている。出だしだけでも確認しようと手に取ったら、外国人の男の人も物色していて「春樹さん、流石です」と思った。読みたいなとは思ったが、そう言えば「騎士団長殺し」さえも読んでいないんだった。

     いつものように中央の「軍艦」で平積みの新刊本を物色したが特に無し。それよりお目当てがあった。「本の雑誌」5月号だ。本号は、つい最近亡くなられた目黒考二さんの追悼号。ぶ、分厚い。目黒考二でもあり北上次郎でもあり藤代三郎でもある彼の追悼号は通常のサイズでは追いつかない。パラッとめくると、巻頭の「本棚が見たい」の写真は、目黒さんの書棚だ。自宅近くに借りたマンションの一室だと言う。圧倒された。これを手に入れただけでも良しとして東京堂を出た。
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     これですずらん通りに心残りはない。PASSGEに次いで、この日のお目当ては富士鷹屋だ。篠田真由美氏から教えていただいたオススメの古書店。水道橋駅寄りにあるそうだ。事前にgoogleで「水道橋最寄りの古本屋」と検索しても出てこないので困った。何しろ、以前に教えてもらったのに肝心の店名を忘れてしまったからだ。ようやく見つけた「富士鷹屋」は、住所としては千代田区神田神保町なのだった。神保町から水道橋に歩く道沿いには古くからの古書店が点在しているので、店名を忘れてしまうと痛い。場所的には、かつて旭屋書店があったところの近くの路地にある事は分かった。

     ようやく見つけたそれは、およそ店とは思えないようなたたずまいで、看板も何もでていない。引き戸をガラガラと開けると民家なのではないかという雰囲気があるが、売り物らしき文庫を入れたワゴンが脇に置かれている。おそらくここだ。おそるおそる戸を引くと、間違いなく富士鷹屋だったが、間口と同じ狭さのスペースの両脇に本棚がしつらえてあるだけで、誰もいない。入ると奥があるのかと思いきや、本当に細長い五畳程度のスペースしかないので、あっという間に見終わってしまうのではないかと心配になる。ただし狭いとは言え、誰もいないので好きなだけ本を吟味できる。端からずっと見ていくが、正式名称の「富士鷹屋ミステリ倶楽部。」に相応しく、日本のミステリー作家の品ぞろいがいい。とは言え、ちょっと僕が読んできた作家からは外れているので、ど真ん中というわけではない。クイーンの昔の角川文庫版などがあったり、久しぶりに「刑事コロンボ」のノベライズ本があったりして楽しい。

     それにしても、ゆっくり見てる間、僕以外誰も入ってこないなと心配になってきたところで、ようやくガラガラと戸が開いて人が入ってきたのでホッとした。と思ったら、さっさと奥に進んで姿を消してしまった。あっ、店主だったのか。いやいや、それじゃ僕は店主を含めて誰もいない店内で本を見てたのか。それって「怖っ!」。

     お近づきに何か買って帰ろうかと思いながらも、これと言った本はないなぁと考えていると、最後の最後に洋書が一握りほど置かれているのを見つけた。調べていくと「Ellery Queen's」の文字が目に入った。
    ELLERY QUEEN'S BOOK OF MYSTERY STORIES (エラリー・クイーン編「犯罪文学傑作選」)

     クイーンの片割れ、フレデリック・ダネイが編纂したアンソロジーは数知れないが、これはEQMM(エラリー・クイーンズ・ミステリー・マガジン)に掲載されたミステリ作家たちの短編集ではなく、文豪たちの書いたミステリ短編を集めたアンソロジーだ。かつてはクイーンが編纂したテーマ別のアンソロジーが山ほど出版されていて、この「犯罪文学傑作選」もその中の一冊だった。だが、高校時代は文豪たちが書いたミステリーに魅力を感じていなかったので、おそらく読んではいない。表紙を見るだけでも、ヘミングウェイ、スタインベック、マーク・トウェイン、パール・バック、H.G.ウェルズなどが名を連ねていて面白そうだ。
    神保町20220414-04.JPG

     そう言えばとネットで「犯罪文学傑作選」のラインナップを確認すると、キップリング、ヘミングウェイ、モーパッサン、カズンズの短編が割愛されている。版権の問題でもあったのだろうか。ならば、これは掘り出し物でもあり、お買い得でもある。この一冊を挨拶として買って帰るとしよう。しめて9冊。これだけの収穫がある日も珍しい。ただし、積ん読だけにならないように、持ち帰ってせっせと読む算段をしないと、だな。
    posted by アスラン at 09:30 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 評論・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2023年04月16日

    神保町逍遙2023/04/14 〜PASSGE、羊頭書房、東京堂書店、そして富士鷹屋〜(その1)

     三ヶ月おきの通院。今回は期初の4月で仕事に余裕があるので年休を取得。主治医の順番待ちが割とスムーズに終わり、なにより会計の待ち時間が大幅に短縮したので午前中で用が済んだ。大井町から京浜東北線で田町駅下車、三田線に乗り換えて神保町へと向かった。着いたら、まず昼食と思っていたが、すずらん通りをPASSAGEの前まで来て、通り過ぎる事ができなくなった。

     1月に来た時にはJR御茶ノ水駅から坂を下りてきたので、新しい書店の存在に気づいた時には手遅れで、外観と中をのぞく程度の時間しか残されてなかった。今回はまっさきに見ていこうと決めていた。着いたのが平日の12時過ぎ。昼食に出てきたサラリーマンで通りはごった返していたので、食事処はどこもまだ混雑しているだろう。それならと、昼食をおあずけにして見ていく事にした。

     PASSGE by ALL REVIEWSは、小分けされた書棚を別々の店主が借りて、思い思いの品揃えで書棚を運営する形式の共同書店だ。通常の書店と違ってジャンル別、出版社別、著者別になっているわけではないので、とにかくすべての書棚を舐めるように吟味していくしかない。もちろん、やっかいな分だけ、本好きにはたまらない楽しみが待ち受けている。PASSAGEのHPで確認したら、店主が380人(社)いるようだ。書棚自体は400前後というところだろう。そうか、そんなにあったのか。どうりで、一通り見終わって出てきた頃には1時間半は経っていた。一列に棚が7段ほどあるので最上段から縦に見ていき、最下段まで見るために一々しゃがみ込む。次の列を見るために立ち上がって再び見上げるのだから、どうやっても立ちくらみはするし、次第に足の踏ん張りが利かなくなる。最後の方はよろけてばかりいた。それでもなんとか全書棚をコンプリートした。

     まず気になったのは1F ギュスターヴ・フローベール通り 3番地の「ehescbook」。日本語を「述語制言語」と呼称した書籍が二冊ある。金谷武洋さんと山本哲士さんの書籍だ。「述語制言語」とは、主語を必須とする英語を「主語制言語」と見なした上で比較対照するために考え出された用語のようだが、聞きなじみがない。もちろん「日本語には主語がない」と主張した国語学者・三上章さんの考え方を継承する書籍だろう。特に山本哲士さんの本は、吉本隆明「言語にとって美とはなにか」での表出論に時枝誠記が衝撃を受けて、自説の正しさを繰り返し主張したという話が載っている。この個所だけでも読みたくなったが、とにかく値が張るため手が出ない。山本さんの本は、「知の新書」のラインナップにもあってお手頃価格だが、よく見ると装丁に見覚えがある。このレーベルから出版された吉本さんの「心的現象論・本論」を既に購入してあって、積ん読状態にある。それを読むのが先だな。

     Twitterでフォロワー同士の「北烏山編集室」(1F エミール・ゾラ大通り 14番地)の書棚を見つけた。キーワードは「翻訳・文学・シャーロック・ホームズ」だとサイトに書かれていて棚の画像も出ていた。「小さなことばたちの辞書」あるいは「世界シネマ大辞典」が気になっていた。「シネマ大辞典」の方は、かつての映画三昧の日々を思い起こすのによさそうだ。ただし本が詰まっていて、手前の本をどかさないと奥の「シネマ大辞典」には手が届かないので断念。せめてホームズ本の方は見ておこうと思ったが、こちらは横に積み上げられている。下の方を引き抜いたら、それを元の位置に戻すのか上に乗せればいいのか悩む。戻すのは本を傷めそうなので上に乗せることにした。「シャーロック・ホームズ人物解剖図鑑」がイラストが可愛らしくて気になったが、やはりどれか一つ買うとするなら日暮さんの「シャーロック・ホームズ・バイブル」かな。やみくもに原作を読むのでは無く、聖典の様々なエピソードを仕込んでから読むのが楽しそうだ。でも4000円を超えてしまう。こちらも今回は保留だ。

    神保町20220414-01.JPG 結局もっとも僕が魅せられた棚は1F ディドロ大通り 3番地の「オジマ」だ。辞書編集者が店主で、辞書関連の本が並ぶ。辞書の使い方の冊子なども捨てがたいが、なにより買おうと思っていた「三省堂国語辞典から消えたことば辞典」と「奇跡のフォント 教科書が読めない子どもを知って−UDデジタル教科書体 開発物語」の二冊が、ひとつの棚に収まっている。これは「買え!」と言う事だろうな。後者は、弱視や読み書き障がいのある人にも見やすい、ユニバーサルデザインを徹底して作られたモリサワフォントの開発物語だ。このUDフォントの存在は最近知った。エクセルで作った表をツイートに載せる際に実際に使ってみて、良さを実感しているところだ。もっと詳しい特徴を知りたい。

     この二冊だけでも十分だが、1F アルチュール・ランボー遊歩道 7番地の「教育研究会Festina Lente」も気になった。研究・教育を実践する中での「知」をテーマにした書棚だ。こちらも読みたくなる本が多いが、特に英文解釈の本が目立った。北村一真さんの最新作「英文読解を極める」もあったが、すでに立川のオリオン書房で購入済みだ。『知られざる英語の「素顔」』は以前に図書館で借りたが、そう簡単に読み切れる内容でもなく、一章も読み切れずに返却となった。なぜか一冊だけ、ちょびっと割引になっていたので購入の踏ん切りがついた。新刊本が割引って珍しい。高々30円だけどね。200円も安くなっていたので購入。(2023/05/11追記。「高々30円だけ」などと書いてしまったのは勘違い。大変失礼しました。本としては超お得でした。)

     すべての書籍は壁の書棚に収まり、中央のテーブルにて会計をすませる。レジはなくキャッシュレス決済のみで、紙のレシートも出てこない。家計簿を付ける必要があるのでレシートは欲しい。スマホの電話番号を伝えてショートメールで受け取った。ビルの3Fにあるカフェの100円割引券をもらったが、ようやく昼食なので使わず。期限はないので次回に立ち寄る事にしよう。(つづく)
    posted by アスラン at 04:50 | 東京 🌁 | Comment(0) | TrackBack(0) | 評論・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2023年03月20日

    日本語の読点と英語のカンマ

     絶賛、伊藤和夫先生の「英文解釈教室 改訂版」を購読中だ。もちろん、予備校時代にお世話になった学習書を再読するのは、当時よりは多少はまともになった英語力できちんと読めるかどうかを確認するという意味合いもあるが、もう一つはきちんとした日本語に訳せるかという翻訳力を高める意味合いもある。というのも、この学習書では、公式どおりの訳出では日本語として不適切な事例に対して「訳出の工夫」という形で説明してくれてはいるが、あくまで大学受験を志す高校生や予備校生を対象に書かれているので、訳文も受験で満点をとれるような範囲から大きく逸脱するような訳にはなっていない。そこら辺を考えながら、伊藤先生の訳にエラそうに「もうちょっとこなれた日本語にならないか」とツッコミを入れながら読んでいる。

     それだけではない。翻訳うんぬんの前に英語の特徴と日本語の特徴の両方を考えながら、双方の文章を比較する事がなにより面白い。自分の英語力はたいしたものではないが、日本語についてならば多少なりとも何か言えそうな気がする。そんな事を考えながら「英文解釈教室」を読んでる人など、僕ぐらいなものじゃないだろうか。

     それで、つい最近遭遇した例文が「Chapter8 意味上の主語」に出てくる8.2.7の例文だ。
    8.2.7 Their house may yet be seen, and on its wall is a picture of the boy in a blue suit with his brown hair hanging over his shoulders, painted by his father.
    [伊藤訳]彼らの家はまだ見ることができるし、その壁には、青い服を着て茶色の髪が肩まで垂れている少年の絵がかかっている。それは少年の父親が描いたものである。

     この例文のポイントはwithで始まる部分がwith+S'+P'の形式になっている点で、his brown hairがhanging over …の意味上の主語になっている。そして、伊藤先生は、この種の文の意味を考えるときには、
    @S'+P'を本来のS(主語)+P(述語)にもどして、その意味をとり、
    Aこれを主節につなぐにはどういう日本語が適当かを考える
    事が大切である。

    と書いている。そして、この例文では「茶色の髪が肩まで垂れている」という従属節を「少年」に掛けている。

     実は僕が引っかかったのは、ここではない。続く"painted by his father"の部分だ。paintedはa pictureを後ろから修飾する過去分詞なのだが、a pictureにはof以下の長々と続く修飾句がすでにあるため、カンマで区切った後にさらに修飾句を追加している。paintedが、遙か前方にあるa pictureを修飾できる事に驚かされたのだが、これはひとえにカンマで前方の修飾句と区切った事から来る効果なのだ。これってなんだか日本語の読点と似ている。

     伊藤先生の訳は、painted以下を「絵」にそのまま掛けると分かりにくい日本語になってしまうのを避けるために、文を分けて「それ(絵)は少年の父親が描いた」と書いているが、もし「絵」にそのまま掛けたとすると「父親が描いた、青い服を着て茶色の髪が肩まで垂れている少年の絵」のようになるはずだ。ポイントは読点だ。
    (a)父親が描いた、青い服を着て茶色の髪が肩まで垂れている少年の絵
    (b)父親が描いた青い服を着て茶色の髪が肩まで垂れている少年の絵

     読点がない(b)の方は、「父親が描いた」が直後の名詞「服」に係るように読めてしまう。極端に言えば、父親は少年の青い服をデザインしたか、あるいは服のイラストを描いたのかもしれないし、絵の中で少年の青い服だけを担当して描いたのかもしれない。そう読める可能性を排除するのが読点の効果だ。読点で区切る事で直後の「服」ではなく「少年」もしくは「絵」に掛かるように視線を後方に誘導している。

     そう考えると、英語の"painted by his father"は、前方をカンマで区切る事で直前のshouldersではなく前方の名詞に係るように視線を誘導している。いや、英語の場合は日本語と違って既に出てきているので、視線が誘導される事無く即座に係り先を見極めるのだろう。だとすると、例文8.2.7のカンマ以降の過去分詞はa pictureだけでなく、その手前にある名詞を修飾する事が可能なのではないか。そしてそれを可能にするのは、どの名詞に係るのが適切かという常識的な判断もしくは文脈ではないのだろうか。

     そこで以下のような例文を考えてみる。
    (A)Their house may yet be seen, and on its wall is a picture of the boy in a blue suit with his brown hair hanging over his shoulders, painted by his father.
    (B)Their house may yet be seen, and on its wall is a picture of the boy in a blue suit with his brown hair hanging over his shoulders, called John.
    (C)Their house may yet be seen, and on its wall is a picture of the boy in a blue suit with his brown hair hanging over his shoulders, tailored in Dick's shop.

     これらをgoogle翻訳で訳してみた結果は以下のとおりだ。
    (訳A)彼らの家はまだ見られるかもしれず、その壁には、父親が描いた、茶色の髪を肩に垂らした青いスーツを着た少年の絵があります。
    (訳B)彼らの家はまだ見られるかもしれず、その壁には、ジョンと呼ばれる茶色の髪を肩に垂らした青いスーツを着た少年の写真があります。
    (訳C)彼らの家はまだ見られるかもしれず、その壁には、ディックの店で仕立てられた、茶色の髪を肩に垂らした青いスーツを着た少年の写真があります。

     いろいろと問題がある。「少年の絵」である事はpaintedから間違いはないのだが「写真」になっていたり、mayを「かもしれず」と訳したりしている。それ以外には、(訳B)では「ジョンと呼ばれる」の後ろに読点がないので、直後の「髪」に係るように見えて、さすがに髪に人名は付けないだろうと、先へ先へと視線を延ばして「少年」を見つける。たまたま解釈が適切なのが「少年」しかないので誤解は少ない。おそらく読点がなかった理由はそういう事なのだろう。世の中の多くの人は、こういう時に「呼ばれる」の後に読点を打たないからこそ、google翻訳も読点を打たない。ただし、本多勝一さんならば読点を打てと言うだろう。

     (訳C)の問題は致命的だ。「ディックの店で仕立てられた」の後ろに読点があるので、一見すると直後を飛び越えて「スーツ」に係ると解釈できそうだが、「茶色の髪を肩に垂らした」が邪魔をしている。これは当然ながら「スーツ」を飛び越えて「少年」に係る。すると、係り受けの非交差条件を違反する事になる。これはどういう事かを簡単に図解すると次のようになる。
    ○水車小屋の長い髪の少女:  (水車小屋の&(長い→髪の))→少女 (「水車小屋の」は「長い→髪の」を飛び越えて「少女」に係る)
    ○長い髪の水車小屋の少女: ((長い→髪の)&水車小屋の)→少女 (「長い→髪の」は「水車小屋の」を飛び越えて「少女」に係る)
    ×長い水車小屋の髪の少女: (長い→髪の→少女、水車小屋の→少女) (「長い→髪の」と「水車小屋の→少女」の係り受けが交差する)

     そこで、伊藤先生の訳を参考に(訳A)〜(訳C)を修正してみる。
    (修正訳A)彼らの家はまだ見ることができるし、その壁には、父親が描いた、青い服を着て茶色の髪が肩まで垂れている少年の絵がかかっている。
    (修正訳B)彼らの家はまだ見ることができるし、その壁には、ジョンと呼ばれる、青い服を着て茶色の髪が肩まで垂れている少年の絵がかかっている。
    (修正訳C)彼らの家はまだ見ることができるし、その壁には、ディックの店で仕立てられた青い服を着て茶色の髪が肩まで垂れている少年の絵がかかっている。

     (修正訳C)のみ、「ディックの店で仕立てられた」が直後の「服」に係るので読点がいらない。それ以外は直後を飛び越えて係るので読点が必要。ただし、厳密な意味からすると「父親が描いた」や「ジョンと呼ばれる」が、後方のどの名詞(体言)に係るかは明確とは言えない。そもそもgoogle翻訳は本当の意味で正しい係り先に係るように訳せているのかという疑問は残る。

     そこで、最近の流行ではないけれど、chatGPTに聞いてみる事にした。
    「Their house may yet be seen, and on its wall is a picture of the boy in a blue suit with his brown hair hanging over his shoulders, painted by his father.」を訳してください。

    というように(A)〜(C)を訳してもらったところ、以下のような結果となった。
    (訳A-2)彼らの家はまだ見ることができ、その壁には青いスーツを着た少年の絵がかかっており、茶色い髪が肩にかかっている。父親が描いたものだ。
    (訳B-2)彼らの家はまだ見ることができ、壁には青いスーツを着た少年の絵が掛かっており、彼の肩にかかる茶色い髪が描かれています。その少年の名前はジョンと呼ばれています。
    (訳C-2)彼らの家はまだ見ることができ、その壁には青いスーツを着た少年の写真が掛かっています。彼の茶色の髪が肩にかかっています。そのスーツはディックの店で仕立てられたものです。

     google翻訳とは違って、分詞構文や過去分詞の後置修飾句などを後ろから遡って訳すのではなく、すべて開いて追記していく非限定用法を採用している。この訳出方法の是非はともかくとして、カンマ以降の過去分詞句の訳を見るだけで、係り先を正しく解釈できている事がわかる。

     だから何なのかと言えば、日本語の読点と英語のカンマは、まったく異なる働き方をするのは当然だとしても、係り先をコントロールし、かなり離れた名詞に掛ける事が可能だという点が似ているという印象をもったというお話だ。ちなみにここで使用した例文(B)(C)は、英語として適切なものかどうかは分からない。あくまで机上の操作によって生み出された例文に過ぎないという事は言い添えておく。
    posted by アスラン at 02:50 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 評論・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2022年10月31日

    助詞「の」の連続は何故いけない?

     僕のパソコンには昔からジャストシステムのATOKを搭載している。ATOKとは仮名漢字変換で日本語を入力するためのソフトウェアだ。当初は同社の日本語ワープロソフト「一太郎」のための入力ソフトとして開発されたが、パソコン上で日本語を入力するあらゆるソフトウェアの入力を受け持つIME(Input Method Editor)としての役割を果たすようになった。Windowsが動作するPCでは、開発元のMicrosoftが用意したIMEが最初から搭載されているため、わざわざ別のIMEに変更する必要など感じない人が多いだろうが、昔から使い続けているユーザーにとっては、日本語入力のために考えられた様々なアイディアと試行錯誤とが積み重なってできた、特別な存在となっている。

     そのATOKで「まとをえたはつげん」と入力して変換キーを押すと「的を得た《「当を得た/的を射た」の誤用》発言」という表示を出す。これは、ATOKが仮名漢字変換のタイミングで誤用・誤字・脱字あるいは不適切な表現を指摘してくれる機能だ。この例では「当を得た」「的を射た」を訂正候補として提示してくれるので、入力しなおすことなく誤りを修正する事も可能だ。そこで今度は「わたしのいもうとのゆうじんのおかあさんが」と入力すると「私の妹の友人の《「の」の連続》お母さんが」という表示を出す。これは助詞の「の」が3回連続で使われているという指摘だ。ただし訂正候補は出ない。「的を得る」とは違って誤用ではないからだ。助詞「の」が3回以上連続する文章に再考を促すのが目的だ。

     この助詞「の」の連続は、ずいぶん以前から避けるように戒められてきたが、何故ダメなのかについて明確な指標があるようには思えない。単純に考えて、「が・を・に」などの格助詞が述部に対して通常は1個に限定されるのとは違って、連体助詞「の」は個数に制約がないからだ。「AのBのCのDの…」といくらでも繋げる事が可能だ。このことから容易に想定しうる事態として、いくらでも複雑な修飾関係が表現できてしまい、果たして相手に内容が伝わるのかどうか分からない文章になってしまうという事が挙げられる。この「の」の性質を利用したユーモアたっぷりの文章を、夏目漱石は「吾輩は猫である」で書いている。主人公の名無しの猫が、隣家に住む二弦琴の師匠の飼い猫・三毛子に「(あなたの主人の)御身分は何なんです。」と問いかけたところ、三毛子の口から出てきたのが次の言葉だ。
    「何でも天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先きの御っかさんの甥の娘なんだって」

     なんと「の」が6個も使われている。これによって「天璋院様」を起点として家系図を縦横に経巡る事になり、三毛子の飼い主との関係がいかなるものかは誰にも分からなくなる(ここまでくるともはや無関係と言っていい)。しかし、「の」を多用した文章に間違いがあるわけではない。身分の高い方とつながりがあると思いたがる人間の滑稽さを、漱石は「の」の連続によって落語のように語ってみせたわけだ。

     これほど極端ではなくても「私の妹の友人のお母さんが、高校時代の父と同級生だった。」であれば、理解が届く範囲で「の」が使われている。これをダメだとすると、どう書き直せばいいのか僕には良い代案は思いつかない。では、いったい「の」の連続を避けろという主張の正当性はどこにあるのだろうか?ネットで流布されている記述を調べてみると、以下のような主張に出くわした。
     
    「の」を3つ以上連続して使わない

     理由として「3回以上続くと、文が間延びした感じになり、稚拙な印象を与える」と書かれている。何故「の」が3回続くと「間延び」するのだろう。先に挙げた「私の妹の友人のお母さん」に間延びした感じはない。これより簡潔には書けないので「私には妹がいて、妹の友人のお母さんが…」のように、「の」を使った修飾関係を分解するしかない。しかし、これこそ「間延び」した文章になっている。ところが、まさにこの「間延び」した文章を、この主張の著者は推奨している。(A)〜(C)の例文に対して、それぞれ著者が改善した例文を以下に示そう。
    (A)A社の前年度の売り上げの大半は既存客に占められている。
     (A-1)A社の前年度売り上げの大半は、既存客に占められている。
     (A-2)A社の前年度における売り上げの大半は、既存客に占められている。
    (B)本イベントのプログラムの内容の詳細をお知らせいただけますでしょうか。
     (B-1)本イベントのプログラム内容の詳細をお知らせいただけますでしょうか。
     (B-2)本イベントのプログラムの内容に関する詳細をお知らせいただけますでしょうか。
    (C)各社の代表者の主張の中には、賛同を得られないものもあった。
     (C-1)各社の代表者による主張の中には、賛同を得られないものもあった。
     (C-2)各社代表者の主張の中には、賛同を得られないものもあった。

     こういった例文の馬鹿げた点として、そもそも書き換える必然性が見当たらない文章が使われているという事が言える。以前に「分かりやすい文章を書くためには、長文をやめて短文に分ける」と主張する本があり、なんと谷崎潤一郎の文章を切り刻んでみせていたが、そもそもが分かりにくい文章でもなんでもなかった。この例文も「の」によって何か理解を妨げる事が起きているわけではない。(A-2),(B-2),(C-1)のように「における」「に関する」「による」を挿入せずとも十分に意味は伝わるし、挿入することでかえって間延びした文章になっている。

     (A-1),(B-1),(C-2)の方は、たまたま「の」を省略して複合名詞にできる例文だったので省略してみせたに過ぎない。確かに「現代の用語」よりも「現代用語」、「読書の方法」よりも「読書方法」と書く方が「間延び」感は少なくなるが、そうすることで今度は複合語が妥当かどうかが気になってくる。特に(C-2)の「各社代表者」などはこなれた表現ではないので改悪に感じられる。

     さきほど「書き換える必然性が見当たらない」と書いたが、それは「の」の連続に限った話で、そもそも冗長な表現を含む場合は書き換える必然性が出てくる。(B)や(C)は
    (B')本イベントのプログラムの詳細をお知らせいただけますでしょうか。
    (C')各社の主張の中には、賛同を得られないものもあった。

    のように書き直しても意味は伝わる。「の」の連続は確かに減ったが、それが目的ではない。どうしてこういう例文が使われているかについては、例文のための例文を著者が用意したとも邪推できるが、それ以外に機械翻訳による直訳調の訳文にありがちな表現を例文としている可能性もある。いずれにしろ、「の」の個数を制限する前に推敲すべきところがあるのではないだろうか。

     別のサイトでは、このように主張している。
    同じ助詞のくどい連続使用にご注意!

     理由は「同じ助詞が連続して登場すると読みにくくなってしまう。読む人に幼稚な印象を与えてしまうこともある」と書かれている。またしても「幼稚」だ。「稚拙」「幼稚」な印象がどこから来るのかは改めて検討したいが、とりあえず「同じ助詞が連続すると読みにくくなる」という主張を検討しよう。こちらは容易に検証できる。本多勝一著「日本語の作文技術」には以下のような例文が挙げられている。
    (D)私は小林が中村が鈴木が死んだ現場にいたと証言したのかと思った。
     (D-1)鈴木が死んだ現場に中村がいたと小林が証言したのかと私は思った。

    これも例文のための例文と言えない事もないが、「中村が鈴木が死んだ現場にいた」くらいは誰もが書いてしまう可能性がある。これは、修飾する側とされる側が離れている事に問題がある。(D)は修飾関係が入れ子構造になっているので、必然的に距離が離れてしまう。それをそれぞれ直結させたのが(D-1)で、あきらかに読みやすくなった。

     では、サイトの著者が助詞「の」の「くどい連続使用」の例として取り上げた例文はどうだろうか。
    (E)健太の兄の大輝のお気に入りのレストランに行った。
     (E-1)健太の兄(大輝)のお気に入りのレストランに行った。
     (E-2)健太の兄の大輝がお気に入りだというレストランに行った。
     (E-3)健太の兄である大輝がオススメするレストランに行った。

     こちらの例文は、さきほどの(A)(B)(C)よりは「の」の連続の問題点を端的に表現していると言えそうだ。「の」を4つも連続して使っているが、意味が伝わらないという事はない。ただ、確かに「稚拙」や「幼稚」な文章という印象を受ける。「私の妹の友人のお母さん」との違いはどこにあるのだろう。それは「の」の働きが明らかに違う事から来ている。

     「私の妹の友人のお母さん」の方は、それぞれの単語が人間関係を表す言葉になっているため、「の」で直結するのは至極合理的な用法になっている。それに対して「健太の…」の方は「兄の大輝(兄である大輝)」「大輝のお気に入り(大輝がお気に入り)」「お気に入りのレストラン(お気に入りだというレストラン、気に入ってるレストラン)」のように、それぞれ「の」の役割が違っている。それを単純に「の」で表現するのは、一方的に相手の理解に身をゆだねた文章になっているという事だろう。ここらへんに「子供っぽい」「幼稚だ」「稚拙だ」と感じさせる何かがあるのかもしれない。「くどい」という意味では「の」を使わずに書ける部分が多いので、(E-1)〜(E-3)に限らず、いろいろと書き直す手立ては考えられる。

     ここまで見てきたように「の」の連続は避けるべきというよりは、推敲を検討する目印程度に考えた方が良さそうだ。連続する個数を制限するなどの規定はもってのほかだ。それよりも「の」を使う事の本質的な課題から目をそらす方が問題だ。それは「の」の多義性の問題である。小池清治著「日本語はどんな言語か」で、著者は『「の」は二つの名詞がなんらかの関係にあることを示すだけで、二つの名詞の関係がどのようなものであるかは、名詞相互の意味や文脈にゆだねられているのである。』と書いている。そして「の」の多義性の例として、次のような例を挙げている。
    金の秤(金を量る秤、金でできた秤、金さんが所有している秤)
    父の手紙(父から来た手紙、父の所へ来た手紙、父が書いた手紙)

     もちろん、括弧内の表現は、これまで掲げた(A)〜(E)のように「こう書き直せ」と提示されているわけではない。文脈にゆだねられた「の」を使った表現は、誤解がないような文脈が提示されているのであれば、そのまま使ってかまわない。しかし、前後の文脈で判別しにくいのであれば、間延びする事をいとわずに「父から来た手紙」と書くべきだ。「AのB」という表現形式は、様々な意味を単純な近接関係に圧縮しているという事を考えれば、軽々しく「の」を連続させた文章を書いてはいけない。他にもっと分かりやすい文章にできないかと腐心する事が重要だ。あくまで分かりやすさが推敲の基準だ。3回連続した「の」を一掃する事が目的ではない。
    posted by アスラン at 07:45 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 評論・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2022年10月03日

    「声をあらげる」が本当に間違っていると思ってますか?

     毎年行われて結果が発表されるたびに、新聞やテレビ、ネットなどで話題になるのが「国語に関する世論調査」だ。こういう企画って国立国語研究所(通称、国研)が担うものだと思ったら、文化庁国語課というところが担当している。さらには一般社団法人中央調査社という会社に委託(丸投げ?)している。どういう根拠や考え方で、アンケートの事例を選んでいるのだろうか。
    調査目的:現在の社会状況の変化に伴う日本人の国語に関する意識や理解の現状について調査し、国語施策の立案に資するとともに、国民の国語に関する興味・関心を喚起する。

     なんか、分かったようで分からない目的だ。要は「ちょっとこの使い方はどうなの?」って世代間で話題になっている問題を恣意的にとりあげて、小言幸兵衛(こごとこうべい)のように"のべつまくなしに"世の中の言葉の乱れに小言を言ってるみたいな気がして、ちょっと嫌だ。そう言えばwikipediaの「小言幸兵衛」の解説に「のべつまくなし」が出てくるが、今年の世論調査にも「のべつまくなし?のべつくまなし?」という設問があった。正しい使い方の「のべつまくなし」が41.9%で、「のべつくまなし」が27.1%という結果で、さすがにこれは間違えて欲しくないと思いつつも、そもそも「どちらも使わない」が29.7%もいるので、今後はどうなっていくのか分からない。

     この「のべつまくなし」と同じ設問に出てくる事例が「声をあらげる」と言うか、あるいは「声をあららげる」と言うかというものだ。こちらは「両方使う」「どちらも使わない」が数パーセント程度で、「のべつまくなし」とは状況がかなり違う。使われなくなっていく過程にある語ではなく、まさに使われている語だけれど、使い方の推移に関心がある語という事だ。そもそもこの設問では、「本来の言い方とされてきたものとは異なる」言い方がどれだけ使われているかという比較を行っていて、「あらげる」が79.1%、「あららげる」が12.2%という結果になっている。そして「あららげる」が本来の使い方で、そういう意味では世の中の人の大多数は間違った使い方をしているという事例になる。まあ、「間違った」という表現はアンケートにはないのだが、「のべつくまなし」は明らかに誤用なので、「あらげる」も本来は誤用だと言ってるように聞こえる。そう聞こえるからこそメディアにも取り上げられ、たぶん「自分は正しい言い方をしてきた」とか「自分は間違ってきたから今後改めよう」などと考える人が出てくる。

     でも、果たして「声をあらげる」は間違いなのか。あるいは「本来の言い方とされてきたものとは異なる」と言えるものなのか。僕が言語に関わる仕事についた1980年代には、すでに「あらげる」と「あららげる」の二通りの用法があることは知られていた。そして、その時の僕は正しい用法がどちらで、一方は「本来は間違っている」ので、正しい使い方をしようと心に決めたはずだ。と言うことは、ふだんから「あらげる」と使っていて「あららげる」になおそうと思ったという事になるが、結果的に40年後、僕は「あらげる」を使い続けている。そして「あらげる」が本来正しい使い方だと思い込んでしまったようだ。自分の語感の貧しさを嗤うべきなのか、それとも「あらげる」が定着したと思うべきなのか。これはもう専門家(辞書)に聞いてみるしかない。

    (精選版日本国語大辞典)
    あらげる【荒】
     《他ガ下一》[文]あらぐ《他ガ下二》(「あららげる(荒)」の変化した語)荒くする。物事を乱暴に行なう。
     *浄瑠璃・山崎与次兵衛寿の門松(1718)中「声あらけても泣顔はかべより外にもれにけり」
    (広辞苑)
    あらげる【荒げる】
     《他下一》アララゲルの約。「声を―げる」
    (明鏡国語辞典)
     《他下一》→あららげる
     [文]あらぐ(下二)
    (新明解国語辞典第七版)
     (記載無し)
    (学研現代新国語辞典第五版)
     (記載無し)
    (三省堂国語辞典第六版)
    あらげる【荒げる】
     (他下一)あららげる。

     これを見る限り、誤用と書かれている辞書は一つもない。ただし「新明解」と「現代新国語」は見出しを立てていないので、明らかに誤用と判断して関心の埒外においている。気になるのは「日本国語大辞典」だ。「あらげる」は文語の「あらぐ」に対応していて、「あららげる」から変化した語だと書いている。しかも「あらげる」の用例は1718年だ。つまり「あらげる」は江戸時代から既に使われていた。広辞苑も同様に「アララゲルの約」だと書いている。「明鏡」は「あららげる」を参照しろと言い、「三国」に至っては「あららげる」と同じと言っている。では「あららげる」を見てみよう。
    (精選版 日本国語大辞典)
    あららげる【荒】
     《他ガ下一》[文]あららぐ《他ガ下二》荒くする。物事を乱暴に行なう。
     *仮名草子・花山物語(1648-61年頃か)一五「行王、勅定にはちちみかどこそ、あららくとも、丸は心の内おさめんとて」
    (広辞苑)
    あららげる【荒らげる】
     《他下一》[文]あららぐ(下二)荒くする。「声を―げる」
    (明鏡国語辞典)
    あららげる【荒らげる】
     《他下一》言葉づかいや態度を荒くする。「声[態度]を―げて詰め寄る」
     [注意]本来は「あらげる」ではなく、「あららげる」。送りがなは「荒ららげる」としない。
     [文]あららぐ(下二)
    (新明解国語辞典第七版)
    あららげる【荒らげる】
     (他下一)相手の(不快な)言動に刺激されたり状況のやりきれなさにいらだちを覚えたりなどして、反撥的な態度に出る。荒げる。
     「声を―〔=声を必要以上に高くする〕」
    (学研現代新国語辞典第五版)
    あららげる【荒らげる】
     《他下一》乱暴にする。あらくする。「ことばを―げる」「態度を―げる」
     [注意]「あらげる」は誤用。また送りがなは「荒ららげる」としない。
     [文]あららぐ《下二》。
    (三省堂国語辞典第六版)
     あららげる【荒らげる】
     (他下一)あらくする。あらげる。「声を―」

     「誤用」という言葉が初めて出てきた。「現代新国語」は現代と謳っておきながら辞書の中では一番保守的な立場を示しているように見えてしまう。「明鏡」は慎重に本来説を唱えるにとどめている。「新明解」は「あらげる」を見出しとして立ててないくせに、「あららげる」の語釈に「荒げる」を挙げているのは不整合だろう。ただし、語釈が他の辞書と比べて格段に詳しいのはさすがだ。そして、その他の辞書は「あららぐ」を「あららげる」同様に認めていると言っていい。「三国」は本来説も省略していて同一扱い。さすが最新の言語状況に合わせて攻めた姿勢だ。

     この辞書の状況を見る限り、「あらげる」「あららげる」を取りざたするのに何か意味があるのだろうかと思ってしまう。古くは文語が使われていた時代に「あららぐ」を言いやすい形で変化させた「あらぐ」が使われていた。そこから、それぞれ派生した口語の「あららげる」と「あらげる」が江戸時代から使われてきたのは、「日本国語大辞典」の用例で明らかだ。つまり、本来説を採るにしても、江戸時代から使われてきた言葉に、今さら語源を遡って本来の用法にこだわる理由が見いだせない。言葉の専門家の間ではほとんど決着を見た用法だと言っていいだろう。では何故、いまだに「声をあらげる」と言うと「それ、間違い」などと指摘されなければならないのだろう。どうやら、小言を言い続ける存在が別にいるようなのだ。

     僕の電子辞書に入っている別の辞書の解説を以下に示そう。
    (学研 常用漢字の難読辞典2004年版)
    あららげる【荒らげる】
     乱暴にする。荒くする。「声を―」「態度を―」
     ▶「あらげる」と読むのは誤り。
    (学研 言葉の作法辞典2003年版)
     ○あららげる
     ×あらげる
     声を荒々しくすること。「ら」が二つ続くので、間違って一つ省略してしまいがちである。「荒(あら)らげる」であって、「荒(ら)げる」ではない。

     いずれも学研の辞書で、学研辞書編集部編と書かれている。しかもネットで調べると、それぞれの辞書のタイトルは、「新版 読めそうで読めない常用漢字の難読辞典」「新版 恥をかかないための言葉の作法辞典」となっていて、辞典という名前を冠してはいるが、実質は新書だ。なので、国語辞典とは性格が違う。どちらかというと、蘊蓄やマナーに重点をおいた読み物と言える。ただし、気になるのは、さきほどの辞書で「誤用」と言い切ったのが「学研 現代新国語辞典」だという点だ。学研辞書編集部では、いまだに「あらげる」を認めていないという事だろうか。

     このように、小言を言いつづける人や本は後を絶たない。辞書の世界ではほぼ決着が付いているというのに、いまだに語源や本来を正義にして言いつのる人がいるから、文化庁などというお役所も、またマスコミも、そして読者も踊らされ続ける事になる。
    posted by アスラン at 08:45 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 評論・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2022年09月04日

    「肉々しい」と「ボリューミー」と「えんみ」

     ちょっと前に「えんみ」という言い方が流行っているという記事を書いた際に、他の言葉も取り上げようと思っていたら、肝心の言葉を忘れてしまって書けなくなってしまった。一昨日の夜のバラエティ番組で、激安スーパーの食材を使った料理をゲストが食べた際に、その言葉が出てきてようやく思い出した。「にくにくしい」だ。

     最近のテレビではグルメを題材にした番組が非常に多い。しかも視聴者の共感をくすぐるために、芸人や若いタレントにコメントを求めるから、聞き慣れない言葉がポンポンと出てくる。昔から新しい造語を発信する担い手は女子高校生たちだった。今だとSNSなどで、性別や年齢を問わず、様々な人たちが新しい言葉を発信するので、女子高生限定という考え方は古いのかもしれない。「えんみ」もそうだったが、「にくにくしい」も結構広い範囲の人たちが使い出している。しかも、おそらくだが、それが造語であるという意識がないままに使っているような気がする。

     「にくにくしい」が使われるのは、肉がふんだんに使われる料理を食べたときだ。肉のうまみ、ボリューム感に満足した際に「にくにくしい」と言う言葉が出てくる。だから漢字を当てるとするなら「肉肉しい」あるいは「肉々しい」となる。でも、こんな言葉は日本語にはない。正確に言えば「憎憎しい」あるいは「憎々しい」という表記は存在する。
    (精選版日本国語大辞典)
    にくにくしい【憎憎】
     〔形口〕[文]にくにくし〔形シク〕はなはだ憎らしい。いかにも憎らしい。
    (明鏡国語辞典)
    にくにくしい【憎憎しい】
     〔形〕少しもかわいげがなくて、たいそう憎らしい。「あの口の利き方がなんとも憎々しい」

     日本国語大辞典によると、文語の「憎憎し」に由来する形容詞のようだ。1755年に遡る用例も挙げられているので、非常に由緒正しい言葉だとわかる。明鏡国語辞典では口語としての用例が出ているが、現代では「憎らしい」を使うのが一般的だろう。そのため、実質的には「憎憎しい」は死語に近いというか、開店休業状態にあったわけだ。それが突如、流行語ランキングの上位に現れるようになったのには、なんらかの理由があるのだろうが、それはよく分からない。ただ、「肉を食べてるぞ」という気持ちが前面に出た表現で、今後も使われていきそうだ。もしかしたら「にくにくしい」の語釈の筆頭に「肉々しい」が来る時代が近いうちにやってくるかもしれない。

     使い方はちょっと違うが、肉のボリューム感などを表現する言葉として「ボリューミー」が使われ出したのも、「肉々しい」同様、グルメ情報がテレビやネット、雑誌などでさかんに取り上げられるからだろう。あきらかに「ボリューム(volume)」という言葉が元になっている。「体積、容積、容量」という語義の他に「大きさ、かさ、分量、数量」などを意味する英語だ(ランダムハウス英和大辞典より)。「食べ応えがある」という事を指して「ボリューミーだ」と言っている。これは「クリーム(cream)」-->「クリーミー(creamy)」、「ミルク(milk)」-->「ミルキー(milky)」と同様の考え方で作られた言葉だが、実際には英語に「volumy」なる言葉はない。「volume」のようにeで終わる綴りなので元々はフランス語から来ている名詞だから、yを使って形容詞にすることなど考えられなかったのだろう。しかしカタカナ語として摂取した日本人にとっては、そんなことは関係ない。やはり最近見たグルメバラエティ番組に出演していたKing&Princessの平野紫耀は、大人向けの味を評して「アダルティ?」と表現していた。無理矢理絞り出したのだろうが、言いたいことは伝わったので会場の笑いを誘っていた。

     もちろん、以前に取り上げた「えんみ(塩味or塩み)」を含めて「肉々しい」も「ボリューミー」も日本語としてどうなの?と取りざたするつもりは毛頭無い。どれも使うつもりはないが、言葉の移り変わりの現場に立ち会えているという事の面白さを感じているだけだ。もっと面白いと感じるのは、造語として創り出される過程が3語でそれぞれ違うという点だ。「えんみ」は「塩味」の読み方の違い、あるいは「甘み」「辛み」などと同様な使い方としての「塩み」から来ている可能性がある。「肉々しい」は「派手派手しい」「禍々しい」のように言葉を繰り返す事で、状態を強く表現している。「肉」が名詞そのもので、形容動詞でも形容詞でもないのが斬新だが。そして「ボリューミー」はカタカナ語特有の変化が起きている。そもそも「トライする」とか「トレーニングする」のように、「する」を付ければなんでも動詞になるというのも大きな発明だったから、「ボリューミー」も目くじらたてる事ではない(英語を真面目に勉強する人はカタカナ語に引っ張られないように)。

     翻訳家の柳瀬尚紀さんは「日本語は天才である」と言っていたが、この造語能力は日本語の天才性なのか、それとも日本人特有の気質なのか。興味は尽きない。
    posted by アスラン at 09:00 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 評論・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2022年08月23日

    塩味は「しおあじ」?「えんみ」?それとも「しおみ」?

     さいきんの食レポ番組を見てると、さかんに「えんみ」という言葉が聞こえてくる。若いレポーターが「えんみが効いてる」とか言っている。かと思うと、料理番組でも「(この食材は)えんみが強いので、しっかりと塩抜きしましょう」などと言う料理研究家がいる。何故か、「えんみ」が大流行している。でも「塩味」と書かれていれば、まずは「しおあじ」と読むのが一般的だろう。いつから「えんみ」が幅を利かすようになったのだろうか。最初は「塩味(しおあじ)」の誤読なのかと思ったのだが、どうやらそうではないようだ。

     精選版日本国語大辞典を引くと、「塩味」には3種類の読み方がある事がわかる。

    しおあじ【塩味】
     塩でつけた味。
    *助左衛門四代記(1963)〈有吉佐和子〉「…を口に入れて、その塩味の底に麦一品にしては奇妙に複雑な味を」

    えんみ【塩味】
     1.食物を料理する時の塩のきかせかげん。塩加減。また、塩のまじりぐあい。しおあじ。〔書言字考節用集(1717)〕
     2.物事の味わい。おもしろみ。
     *紹三問答(1579)「さゆると寒きとを同事といはば、哥道の塩味は少もなき事也」
     3.事情を考慮して、物事をほどよく処理すること。手加減。斟酌。
     *伊達家文書(天正十七年(1589)二月)「能々御塩味を以可承候」

    しおみ【塩味】
     1.塩のはいった味。しおあじ。
     *おあんさま(1965)〈大原富枝〉「あの菜飯の下に馴れ寄る鄙びたやわらかい塩味(シオミ)のほのかな味わいを」
     2.塩と味噌。塩噌(えんそ)


     これを見る限り、「しおあじ」と「しおみ」は第一の語釈としては、ほぼ同じ意味で使われている。用例も1960年代で同じ時期の小説が引用されている。しかし「えんみ」だけは料理の際の塩加減に限定された語釈が第一にきていて、なんと1717年の書物に用例がある。さらに遡ること1570〜80年代に第二、第三の語釈の用例があるところを見ると、当初は「物事の味わい」だとか「手加減。斟酌」の意味で使われた言葉が、やがて料理の塩加減にも使われるようになったという事だろうか。とにかく「えんみ」の歴史がべらぼうに古い。

     だとすると、料理研究家が「塩味(えんみ)」と表現しているのは由緒正しい用法だという事になる。ところがネットで調べると「料理の世界では、"えんみ"とは言わず、"しおみ"と言う」と主張する人がいる。"えんみ"という言い方をする料理人は100%いないと断言する人までいた。何故、断言できるのか、僕には一向に理解できないのだが、すくなくとも由緒正しいはずの「えんみ」を塩加減の意味で使う料理人は、現代では少ないようだ。ならば料理研究家と呼ばれる人たちと料理人との間で、用法の乖離が生じているのか。料理人が"えんみ"を使わないというのが正しいとしたら、「えんみ」の由緒正しさは1717年から連綿と継承されてきたわけではなく、どこかで途絶えてしまった事になる。では、何故また、料理研究家の間で「えんみ」という古風な言い方が流行ってきたのだろうか。

     ここには二つの解釈が考えられる。「えんみ」は、かつては当たり前のように使われた料理のおける塩加減の意味である、という事を料理研究家たちが掘り起こして光を当てた結果だという考え。つまりルネサンスのような再生を意味する。これはこれでありそうではあるが、なぜ専門家でもない一般人に普及していったのかが、今ひとつ腑に落ちない。特に若い世代に「えんみ」という言い方が流行っている事を考えると、向きが逆なのでは無いかと思えてくる。つまり若い世代の使う「えんみ」という用法が、次第に料理研究家やその他の世代の言葉遣いに影響を与えているのではないか?

     そこで、もう一つ考えられるのは、「えんみ」が「塩味」の意味で使われているのではないという可能性だ。最初の方で既に書いたとおり、「塩味」は「しおあじ」と読むのが一般的で、その場合に「塩加減」という意味はない。「塩味か醤油味か」のように味の種類を指すだけだ。しかし若い世代が「えんみ」と言う時は、あきらかに「塩加減」の意味で使っている。だとすると「えんみ」に「塩味」の漢字を当てるのは間違いで、「甘み」「辛み」と同列に使える「塩み」という言葉を当てるのが妥当なのではないか。もちろん「甘み」も「辛み」も形容詞「甘い」「辛い」を名詞化したものだから、「塩み」の元になる形容詞がない以上、本来は誤用という事になる。

     しかし、流行語は用法の逸脱から生まれることが多いし、他の世代が使わない用法であればあるほど、仲間内だけに通用する特別な言葉だと感じられる。「甘みが足りない」と同様に「塩みが足りない」と言える便利さを易々と生み出すのが流行語であり、若者たちの発想力だろう。訓読みの「塩み(しおみ)」を使わずにあえて「塩み(えんみ)」と読むのも、若者の一工夫だったのかもしれない。

     などと、訳知り顔で書いてはみたが、結局のところ「えんみ」が何故流行しているのかはよく分からない。「塩味(えんみ)」なのか「塩み(えんみ)」なのか、その正体も定かではないが、結局のところ1570年に遡る由緒正しい言葉「塩味(えんみ)」が突然変異のように使われ出したところが面白い。ただ、その裏側では「塩梅」とか「塩加減」という言葉が着々と語彙の表舞台から消えようとしているのではないかと考えると、複雑な気分になる。
    posted by アスラン at 22:05 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 評論・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2022年07月09日

    なぜ平匡はみくりの「因数分解」を「素因数分解」と言い直すのか?

    逃げるは恥だが役に立つ.jpg 高校時代、理系組と文系組に分かれて、進路に合わせた授業を選択した。僕はいちおう理系組だったが、それは積極的な理由があったというよりも、単なる消去法によるものだった。理系組で気を吐くメンバーは数学が得意で、雑誌「大学への数学」の問題を競い合って解くような奴らだったが、僕はそこまで数学や物理などに関心があったわけではなかった。学校で習う学科をまんべんなく勉強してきたので、進路は理系・文系どちらにも決めかねた。ただ、当時、古文だけは明らかに苦手意識があり、文系に向けて進路の舵を切った場合に古文が障がいになりそうだと思って理系組を選択したのだった。

     そんなわけで、受験にまっさきに役立ちそうな数学の選択授業を取る気になれず、学問としての数学の面白さを味わいたいと思って「整数」の授業を選択した。タイトルは「整数」ではなく「数論」だったかもしれない。いや、さすがに高校生に「数論」はないか。ともあれ、教材は科学振興新社が出版しているモノグラフシリーズの「整数」だった。モノグラフは、名前の通り、数学の中の1項目を「徹底的に深く」掘り下げた数学読本で、「整数」は整数のもつ美しい性質や理論を取り上げていた。と言っても、もはや40年以上も前の事なので、授業でどんなことを習ったのか、それは面白かったのかは記憶の彼方だ。選択授業とは名ばかりで、いたく平穏でのんびりとした授業だったという印象は残っている。

     実はまっさきに思い出されるのは、あの「フェルマーの定理」に関する記述があったことだ。「フェルマーの大定理」とも「フェルマーの最終定理」とも呼ばれる、あの定理だ。フェルマーの死後300年以上も経った1995年にアンドリュー・ワイルズが証明したことで、当時話題になった。ただし、数学に興味がない一般人にとっては「なんのこと?」というぐらいの話題だったかもしれない。でも僕はすでにフェルマーの定理にまつわるエピソードをこのモノグラフで知っていたので、「証明されたんだ!」というぐらいの衝撃的なニュースとして受け止めた。ピタゴラスの定理と似通った数式に対して、ピタゴラスの定理とは違って整数解が存在しないというエレガントな定理に魅せられただけでなく、それ以上に「私は証明したが、余白が足りないのでここには書かない」というメモをフェルマーが残した事もモノグラフに書かれていた。当時授業で使っていた「整数」は処分してしまった。後年懐かしくなって改めて購入したが、3訂版にはフェルマーの定理の記述は削除されていた。ひょっとしてワイルズが証明してしまったからなのかと思ったが、改訂時期が1989年なのでまだ証明されていない。「深入りを避けるため」という理由から削除されたようだ。非常に残念だ。

     さて、長い前置きになったが、ここからが本論だ。今あらためて読んでみると、あの当時、こんなに面倒な定理や証明の記述をよく読んでいたものだなぁと言うくらい、なかなか手強い。なのでボチボチと読み進めているのだが、僕が引っかかったのは数学読本としての内容ではなくて「因数分解」と「素因数分解」という用語の使い分けについてだった。この2つは中学でそれぞれ習うはずだが、モノグラフ「整数」で重要なのは、もっぱら「素因数分解」の方だ。「素因数分解」とは何かというと、整数を素数の因数の積に分解することを指す。「因数」とは何かという事に関してモノグラフでは定義が書かれていないので、手持ちの電子手帳で精選版日本国語大辞典を引いてみる。
    いんすう【因数】
    (2)整数または整式をいくつかの整数、または整式の積の形で表したときの、個々の整数や整式。因子

     何か「岩とは大きな石」「石とは小さな岩」という循環参照のような定義になっているが、要するに整数を積の形で表現したときの一つ一つの数が因数であり、12=2×2×3と表現できるので、2や3が12の因数という事になる。ただし12=2×6=3×4のように表現したときの2や6、あるいは3や4も因数である。そして12を「2×2×2」「2×6」「3×4」という因数の積で表現することを「因数分解」と言う。さらにその中で「2×2×3」(もしくは2^2×3)という素数の因数で表現する事を「素因数分解」と言う。

     ここまでは、「素因数分解」は「因数分解」の一部に過ぎない。しかし、先ほど挙げた「因数」の語釈には整数だけではなく整式が含まれている。つまり「因数分解」は、単に整数の積だけでなく整式の積に分解する事も意味する。中学の数学で習う「因数分解」は、もっぱら整式(正確には多項式)を整式(多項式)の積に分解する事を指している。具体的にはa^2-b^2=(a+b)(a-b)のように多項式「a^2-b^2」を多項式「a+b」「a-b」の積で表現する事を指す。この時、aやbはすでに整数だけでなく小数であっても成立するので、もはや「素因数分解」と「因数分解」とは扱う対象が違っている事になる。

     そこで僕が思い出したのはTBSドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」のワンシーン(第8回)だった(https://www.youtube.com/watch?v=fghMITSKFJ0)。ドラマの後半、契約結婚をしたみくりと平匡は次第に心を通い始めるも、「そういう関係」になってもいいと告げるみくりを拒否してしまった平匡に対して、いたたまれなくなったみくりが実家に帰ってしまう。自分の気持ちを整理したみくりが平匡に電話を掛ける。
    みくり「私、自分の気持ちを因数分解してみたんです。余計な事を取っ払って、最後に何が残るか。」
    平匡「素因数分解ですね。」
    みくり「はい。仕事とか、収入とか、自分のやりたい事とか、なりたい自分とか、いろいろ考えて。それで…。」

     このやりとりがずっと心に残っていた。好きなドラマで何回も見直したので次第に違和感が無くなっていったが、最初に観た時にはあきらかに「なんで?」と思ったはずだ。なんで平匡は、みくりの「因数分解」という言葉を「素因数分解」という言葉に言い直したのだろう。細かい事が気になり、いい加減な事を見過ごせない平匡の性格を反映した台詞だと理解できるが、果たしてそれに気づいた視聴者がどれくらいいただろうか。いや、そもそも、これって本当に「素因数分解」が正しいのだろうか?

     みくりの言う「因数分解」が隠喩(メタファ)であることは言うまでもない。「恋の因数分解」のような言葉で万人に通じるものがあるように、ここでみくりは「自分の気持ち=仕事×収入×自分のやりたい事×なりたい自分×…」のような因数の積で表現してみたと平匡に伝えたかったわけだ。対する平匡は、「その因数は素因数なのでは?」と問いかけて、みくりも「そうでした」という意味で「はい」と受け流している。でも、そもそも「自分の気持ち」は整数ではない。「因数分解」はあくまで例えなのだ。しかも因数に挙げた「仕事」や「収入」がそれ以上分解不可能な「素数」のメタファになっているかどうかも怪しい。僕から見ると「仕事=やりがい+収入」という多項式で表現できるのではないかとツッコミを入れたくなる。メタファとして使う限り「因数分解」を使う方が妥当、というか無難な感じがする。

     いずれにしろ、今後も「恋の素因数分解」とか「人生を素因数分解する」などと表現する人は出てきそうにない。だからこそ平匡の「素因数分解ですね。」という一言は、日本全国の視聴者に「面倒くさい奴だな、平匡って」とツッコミを入れさせる絶妙な台詞だったのかもしれない。僕は制作側の思惑にまんまと乗せられたわけだ。
    posted by アスラン at 08:45 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 評論・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2022年05月10日

    三省堂書店神保町本店が一時閉店(2022年5月8日)

     三省堂書店本店が、社屋建て替えのために一時閉店したようだ。板橋の実家に住んでいた頃には、通っていた高校も都営三田線沿線にあったので、毎週のように通い詰めていた。立川に越してからは、そうそうは訪れる事ができなくなってしまった。それでも最近は、確か半年前ぐらいに行っている。JR中央線に乗ってお茶の水で下車。坂を下って靖国通りにぶつかる大きな交差点の一角に、8階建ての三省堂書店神保町本店が見えてくる。

     とは言え、まずは裏手方面にある神保町よしもと漫才劇場近くに数年前に移転した「キッチン南海」で昼食をとり、向かいのミステリとSFの専門古書店・羊頭書房を物色、次に東京堂書店を舐めるように見て回り、それから三省堂書店、書泉グランデという順にはしごするというのが定番になっている。本屋街として古くから知られる神保町の中でも、一二を争う書籍数を誇る三省堂書店本店だが、今となってはそれほど大きな店舗ではなくなった。立川からわざわざ神保町に出向いているが、立川にもオリオン書房ノルテやジュンク堂書店(高島屋内)があるので、蔵書数の点だけで言うと、もう三省堂本店でなければならない理由はなくなった。やはり、東京堂書店のような個性的な店舗の書棚を見て回りたい、あるいは羊頭書房のような専門分野の古書店を見て回りたいというのが、訪れる最大の理由だ。若い頃には、これに、マニア受けする書泉グランデ、漫画の充実度が半端ない書泉ブックマート(ずいぶん前に閉店)などが加わった。

     それでも時間があるときには立ち寄りたくなるのが三省堂書店本店だ。前回行った時には、8階の特設スペースで古書の展示をやっているのを見とがめて、エスカレーターで上がると6階までしかたどり着かない。よく分からないが、エレベータで乗り継ぐと8階まで上がれる。変な構造なので、念のため非常階段の位置を確認してから古書をゆっくりと見ていった。その時に、本店とは言え、売り場面積の手狭さと建物の老朽化とが見て取れた。記事によると、現店舗は創業100周年を記念して1981年(昭和56年)に建設された。築41年になる。僕が通い詰めた高校・大学時代には、ここより大きな店舗は新宿の紀伊國屋書店ぐらいだったから、当時の書店散策の要となっていたのが三省堂書店本店だった。

    三省堂本店01.jpg 築41年と言うが、その前の店舗に何度か入った事がある。高校で使う和英中辞典を買う目的で入ったのが最初だったのではなかったろうか。旧社屋は3階建てで、1929年(昭和4年)完成というから築52年で建て替えられた。戦争を経験した建屋だったわけだ。写真は昭和12年ごろの旧社屋だ。すずらん通り側から撮影されている。「老舗を訪ねて」という記事によると、衣類・日用雑貨・スキー用具までそろえた「学生のデパート」だったそうだ。この頃から神保町・小川町界隈は、今のスキー用品の街になる素養を兼ね備えていた事になる。

    三省堂本店02.jpg 僕が訪れたのは旧社屋の立て替え間近の頃ということになる。1979年当時の写真も見つけた。こちらは靖国通り側からの写真だろう。3階建てとは言え、上階にあがった記憶は無い。当時は一階に参考書や辞書など、学生のための書籍スペースがあったので、そこで事足りた。書架が高くなく平積みが中心の店内は見通しがよくて、だだっ広い印象がある。その頃に読んだ梶井基次郎の「檸檬」に出てくる京都の丸善のイメージとダブった。檸檬でも置けば、さぞかし似合うだろうなと考えた事があったような気がする。

     新社屋は2025〜6年頃の竣工を予定していると言う。僕にとっては3代目の社屋になる。過去は過去として懐かしみたいが、新しい社屋になるのを楽しみに待ちたいと思う。それまでは靖国通りを小川町方面に300m程度向かった先に、仮店舗で営業を続けるそうだ。
    posted by アスラン at 05:10 | 東京 🌁 | Comment(0) | TrackBack(0) | 評論・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2022年04月21日

    「月が綺麗ですね」は「いい話」だろうか?

    月が綺麗ですね.jpg 漫画「ミステリと言う勿れ」の主人公・久能整は、たびたび「いい話」とか「好きな説」という言葉遣いをする。子坊脳の刑事が最近娘から「お父さん、臭い、ウザイ」と言われて悩んでいると、それは「生き物としての反応」であって「遺伝子レベルで警戒警報を出している」だけだと説明する。「(父としての)育て方は間違っていない、娘さんはちゃんと大人になろうとしている。そういう、これ、いい話です」と。

     あるいは、亡くなった母へのあてつけでサッカー部をやめた事を悔やむ若者に向かって「運動能力は母親から遺伝する」という説があると紹介し、「僕は好きな説です」と言いきる。久能の一言で若者は亡き母とのわだかまりがほぐれていく。そうかと思うと、親から虐待され保護された幼子が「お母さんに会いたい」と泣き続けていると聞いて、「どんな親でも子供は大好きだろう」と納得する刑事に向かって「それ、いい話じゃないです」と言う。子供のその気持ちに、虐待する親はつけ込むから、と。「いい話」が真実であるかは重要ではない。たとえ嘘であっても、当事者の傷を少しでも癒やせるのであれば、それは方便として「いい話」だと久能は言っているのだ。

     そして、「月が綺麗ですね」も「いい話」ではあるが、真実ではない。夏目漱石が大学講師時代に学生らに「I love you.」を訳させて満足せず、「月が綺麗ですね」とでも訳せと言ったという逸話が、あちこちで一人歩きをしている。僕もかつて、2ちゃんねる(mixiだったかも)の掲示板で見かけて逸話の存在を知った。以来、長い間、その逸話を信じてきたが、考えてみれば夏目漱石に関する書籍でそういった記述に出くわした事はなかった。20代の頃から夏目漱石フリークを自認するようになり、漱石の作品はすべて読んだし、かなりの量の関連本を読んできたが、その中に出典となる記述はない。最近では、いわゆる都市伝説なんだろうなと思っている。

     しかし、都市伝説であろうと真実であろうと、出典は知りたいと思っていた。すると、すでに検証サイトを立ち上げている人がいる事が分かった。そのサイトによると、真実であると確認できる出典は見つからないが、逸話に言及している文献を1970代にまで遡って確認できたと言う。そして、逸話に言及している文献を現在に至るまですべて網羅する事に、主催者の関心が移っているようなので、以下に「月が綺麗ですね」という都市伝説の流布の経緯をまとめておこうと思う。

     まず、夏目漱石が"I love you."を「月が綺麗ですね」と訳せと言ったという逸話は正確ではないようだ。作家の豊田有恒が、「奇想天外」というSF雑誌に連載した「あなたもSF作家になれるわけではない」というエッセイで、夏目漱石の言葉として以下のように書いているそうだ。
    「これは、月がとっても青いなあ――と訳すものだ」

     「月が綺麗ですね」ではなく「月がとっても青いなあ」が、現在確認できる最古の言及だと、このサイトでは結論づけている。それが1977年11月だ。しかも豊田は、このエッセイで「夏目漱石は、…学生たちに、I love you.を訳させた話は、有名です。」と書いている。すでにこの時点で逸話が世間に流布されている事を思わせる口ぶりだ。

     その翌年1978年5月号の雑誌「翻訳の世界」では、小田島雄志との対談の中で、つかこうへいは以下のように発言している。
    夏目漱石はI love youはどう訳せるかって言ったという有名な話がありますよね。生徒たちがそれは「愛してます」って訳すると言ったら、…「月がとっても青いから」って訳すのだと言った話がありますけど、…

     「月がとっても青いなあ」とは違って理由表現になっているのは少し変だ。たぶんだが、菅原都々子の名曲「月がとっても青いから」の歌詞の一節が混線してしまったのではないだろうか。

     1981年9月には山下洋輔が自著「ピアノ弾き翔んだ」で、こう書いている。
    「月がきれいだ」というのが日本古来の言い方だと聞いたことがある。

     夏目漱石との関係は不明だが、「月が青いなぁ」と同時期に「月が綺麗ですね」も広まっていた事がわかる。

     さらに1987年4月の雑誌「言語生活」に掲載された、吉原幸子「うまい恋文といい恋文」というコラムには、以下のような言及がある。
    最近もどこかで見かけたエピソードに、<I Love Youという言葉を学生が「我汝を愛す」と訳し″たら、夏目漱石先生が誤訳だ、と訂正された。「そりゃあ君、″月がきれいですねえと訳さなきゃいかんのだよ」>―というのがあって…

     「夏目漱石・I love you・月がきれいですね」の3つがそろい踏みしている最古の文献がこれだそうだ。そして以後、件のサイトでは、逸話が言及された書籍、雑誌、漫画、アニメなどが延々と引用されて現在に至っている。

     そして、この逸話が都市伝説であることを決定づける文献として、なんと三省堂国語辞典第八版(2021年12月17日発売)がある事を知った。つい最近ではないか。これはもう中身を見てもらうのが早い。三省堂国語辞典は第八版から新たに「お役立ち情報」という欄が追加された。そして"I love you."を普通に訳す場合のloveの訳語「愛する」は、語釈の後にお役立ち情報が追加されていて、まさに夏目漱石の逸話が掲載されている。
    あいする[愛する](他サ)
    @〈相手/ものごと〉を大切に思い、できるかぎりのことをしようとする。「子どもを―〔=かわいがる〕・郷土を―」
    A恋を感じた相手を、自分にとって特別で、大切な人だと思う。「―人にめぐり会いたい」
    !「I love you」を「君を愛する」と訳した生徒に、教師が「日本人はそう〔=直接的に〕は言わない。『月がきれいですね』と訳しなさい」と言ったという話がある。これを夏目漱石の発言とする人がいるが、実は一九七〇年代にあらわれた話。

     どうやら辞書編纂者の飯間浩明さんの調べでも、1970年代までしか言及を遡れなかったらしい。それで「1970年代にあらわれた話」と断定できると結論づけたのだろう。これでようやくすっきりした。
    posted by アスラン at 22:20 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 評論・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2022年04月20日

    帰ってきたチキンタツタとシン・タツタと…

    帰ってきたチキンタツタ.jpg 本日4/20からチキンタツタが期間限定で発売されるそうだ。チキンタツタには特に思い入れがあるわけではないけれど、今回は「シン・ウルトラマン」公開が近づいている事もあって、ウルトラマンシリーズとのコラボ企画になっているのにひっかかった。

     単に「シン・ウルトラマン」とのコラボではなくて、「帰ってきたウルトラマン」とのコラボになっている点が素晴らしい。直前の「サンダーバード」の記事でも書いたが、ウルトラマン一期生である僕にとって「ウルトラマン」「ウルトラセブン」「帰ってきたウルトラマン」は、現在まで続くウルトラマンシリーズの中でも特に思い入れが強い作品だ。ウルトラセブン終了からしばらく間があいて、3年後にようやくウルトラマンが帰ってきたという僕ら少年たちの気持ちを代弁するかのようなタイトルが当時話題になった。そのことと、一年ぶりに帰ってきたチキンタツタへのファンの思いとを重ねるように広告もCMも作られている。

     CMでは、帰ってくる事を信じて疑わない少女の祈りを表現するかのように、首から胸にかけたタツタ型のペンダントが点滅する。もちろんウルトラマンの胸に輝くカラータイマーを暗示している。そして、これが同時にシン・ウルトラマンがカラータイマーを持たない事を対照的に表現しているのだ。シン・ウルトラマンの姿が公開された際に、カラータイマーが付いていない事がコアなファンをざわつかせた。実は、初代ウルトラマンや怪獣の造形を担当した美術作家・成田亨が描いたウルトラマンにはカラータイマーはない。無敵のヒーローにも3分間しか戦えないという弱点を持たせる事で、サスペンスを際立たせる演出をするためにカラータイマーは発案された。成田は後年、カラータイマーは嫌だったとインタビューで答えたそうだ。シン・ウルトラマンの監督・庵野秀明は、成田へのリスペクトをこめてシン・ウルトラマンからカラータイマーを取り除いた。そのこだわりが、マクドナルドのCMにもさりげなく描かれている。

    ウルトラマン.jpg帰ってきたウルトラマン.jpgシンウルトラマン.jpg
     ウルトラマンのロゴは非常に個性的で美しい。「ル」や「ト」が小さめのフォントで、文字全体が横並びでは無く波打つように上下にずれている。ただし、「ウルトラマン」と「帰ってきたウルトラマン」とでは、デザインが微妙に違っている。「ウルトラマン」のロゴはカクカクとした力強いフォルムであるのに対し、「帰ってきたウルトラマン」の方は流線形を取り入れてスピード感があるフォルムになっている。これは、実際に両ウルトラマンのキャラクターの違いを表現している。さらに言うと、「シン・ウルトラマン」は初代ウルトラマンへのオマージュが作品に込められているので、当然ながらそのロゴは「ウルトラマン」のロゴに基づいてデザインされている。「空想特撮シリーズ」というサブタイトルや、スクリーンバックの赤色についても統一されている。

     そして、広告の細部も見事なほどのこだわりに満ちている。「帰ってきたチキンタツタ」は「帰ってきたウルトラマン」のロゴに基づいた流線形のフォントで、「シン・タツタ」は「シン・ウルトラマン」のカクカクとしたロゴを踏襲している。ちょっと見ると「タツタ」ではなく「タッタ」と読めるのは、元々の「ウルトラマン」の小さめの「ル」や「ト」に相当するデザインになっているからだ。さらには中点無しの「チキンタツタ」、中点ありの「シン・タツタ」というネーミングも、さすがと言うしかない。お見事です。

     残念なのは、ツィッターにつぶやいた広報担当者には、この広告のこだわりは理解されていなかったという点だ。「シン登場」とは書いているくせに、肝心の商品名からは中点が消えている。これでは「シン・ウルトラマン」へのオマージュが感じられないではないか!

    マクドナルド
    @McDonaldsJapan
    \ た だ い ま /
    ついに本日4/20(水)発売🎉

    1991年より愛されてきた #チキンタツタ に加えて、シン登場の #シンタツタ宮崎名物チキン南蛮タルタル も!

    待ってました…という人は”おかえリツイート”を!
    #帰ってきたチキンタツタとシンタツタ

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    posted by アスラン at 04:10 | 東京 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | 評論・エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする