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    2024年03月12日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(14.1.2)

    「Chapter14. 共通関係 @文の主要素の共通関係」より。

    14.1.2 It is, and has been for a long time, the most prized national possessions, the sense of humor.
    (訳)ユーモアの感覚は、わが国民が持っているものの中で、現在もこれまでの長い時間にも最も尊重されているものである。
     共通関係をどう日本語で表現するかが、この章の僕にとっての課題なのだけれど、この訳文を推敲するにあたっての最大の課題は、Itと末尾のthe sense of humorが同格だという点だ。日本語で同格を「どう書く」か。ダジャレだけど、まさにそこが肝だと思う。伊藤先生は同格の事をあらかじめ指摘しながら、Itを無視して「ユーモアの感覚は」と書きだしているが、正しくはない。正しくは無いけれど、この英文だけの構造を捉まえて意味が分かればとりあえず十分という受験生に向けての「訳」としては間違いではない。

     Itはもちろん直前までに語られた内容を受けて、「これは」と書き出すところだ。そこで、後ではthe sense of humorだと言い換えられもするItの内容を踏まえるために、いろいろと調べて考えてみた。Wikipedia(eng)で検索するとHumorにリダイレクトされ、そこの中身を読んでもなかなかピンとこないし、ネットに直にググってみても当の「我が国民」と思しきイギリス人がどれほどユーモアを解する人々かという事よりも、変わったユーモア精神の持ち主だというような意見の方が多く見つかってしまう。なかなかthe most prized national possessionsと思えるようなエピソードが見つからないのだ。

     それでもニッポニカの「ユーモア」の解説が使えそうな気がした。途中から引用する。
    (ニッポニカ)
    ユーモア
    …ユーモアは近代イギリスに特徴的な精神性に対応した特質と考えられている。

     ユーモアはその対象となる人間等に対する同情、哀れみを含んだ情的寛容的性格を有し、この点で風刺の攻撃性とは対照的であり、またウイットやエスプリのようなもっぱら理知的性格の能力である機知とも異なっている。ユーモアの場合でも、矛盾と不条理に満ちた現実を、鋭い人間観察の目を通して見つめていないのではない。しかしそのことを表に出さず、むしろ不完全な人間に宿命的なものとしてそのまま肯定するような態度で、愚かしきふるまいを本意ならずも演じざるをえない人間の姿を慈しむ心をもったものであり、そこに独特の滑稽さが生まれる。…
     いやあ、これで三分の一ぐらいの引用なのだが、なかなか難しい事を言っている。ここからちょっと何事か言った振りをしてみよう。

    (想定する直前の文) 我が愛するイギリス人は、どこぞの国のように愚かな人間を皮肉ったりあざ笑ったりしない。フランス人のように人間観察によって現実の矛盾と不条理に帰着すると言うこともしない。どちらかと言えば人間とは愚かで不完全な存在である事を認め、愚かな姿を肯定し慈しむ事を良しとしてきた。
     ここで冒頭の英文が来る事を考える。

     肝心の共通関係について何事も触れていなかったので、蛇足ながら書いておく。この英文ではS (V+V) Cという形式で二つの時制が違う動詞(動詞自体は同じ)の共通関係となっている。英語の時制の違いは日本語のムードやアスペクトで味付けする事になる。だから訳文のように「現在もこれまでの長い時間にも…尊重されている」という括り方は本来正しくないし違和感が残る。ここはS+V1, (S+)V2のように展開すべきだろう。

    (推敲訳)これこそが、今も我がイギリス人が他のなによりも重んじる国民性であり、長きにわたって育んできたものだ。一言で言えばユーモアのセンスである。
    posted by アスラン at 01:02 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年03月06日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(14.1 例題(2))

    「Chapter14. 共通関係 @文の主要素の共通関係」より、まとめの例題を書き直す。

    14.1 例題(2)
     In the late summer of that year we lived in a house in a village that looked across the river and the plain to the mountains. In the bed of the river there were pebbles and boulders, dry and white in the sun, and the water was clear and swiftly moving and blue in the channels. Troops went by the house and down the road and the dust they raised powdered the leaves of the trees. The trunks of the trees too were dusty and the leaves fell early that year and we saw the troops marching along the road and the dust rising and leaves, stirred by the breeze, falling and the soldiers marching and afterward the road bare and white except for the leaves.
    (訳) その年の夏も終わるころ、私たちはある村の、川と平野のかなたに山が見える家に住んでいた。川床には小石や丸石が陽の光に白く乾いていて、水路を流れる水は澄んで速く青かった。軍隊が家のそばを過ぎて街道を通り、木の葉はそのあげるほこりにまみれていた。木々の幹にもほこりがついていた。その年は木の葉が早く落ちた。私たちの目には軍隊が街道を行軍し、土煙があがり、微風にゆすられて木の葉が落ち、兵士が進み、彼らが通過したあとは道は人気がなく白々として木の葉だけが残るのが見えた。
     ヘミングウェイの『武器よさらば』(A Farewell to Arms)の一節だそうだ。ヘミングウェイは『老人と海』の他に何かを中学生の時に読んだ記憶がある。『武器よさらば』だったか『誰がために鐘は鳴る』だったか。さすがに覚えてない。後年、吉田秋生『BANANAFISH』の主人公が『海流の中の島々』を読んでいるのに感化されて読んだところ、とても読み心地が良かった記憶がある。もっとも上巻と比べて下巻の印象が違っていて、読書が中断したまま今に至っている。そろそろ読み終えておかないとまずいだろう。『老人と海』の彼のように人生の黄昏の風景にたどり着いてしまう。

     それはともかく、従軍記者か何かをやっていた時期があったからか冷静で客観的な眼差しで書かれているように感じられる。余計な言葉を使わず簡潔に書くのがモットーなのかもしれないが、この文章などは、あえて伊藤先生が例題に採用した狙い通り、少々強引とも言えるandの多用で、「軍隊の行軍」が穏やかな田舎の雰囲気をかき乱しながら通り過ぎる様子を、息継ぎせずに有無をも言わせぬタッチで描いている。感心しながら英文と訳文をくらべているが、決してヘミングウェイの文体を訳文に再現しようとするつもりはない。あくまで、僕が理解し、納得するために訳文を推敲するのが狙いだ。

     a house in a villageなので「ある村のある家に住んでいる」と言い切った方が日本語の係り受けからも安定する。そもそも「川、平野、山」が見えるのは家でもあるし、村でもあるのだ。「平野」は本当に何もない広大な平地というイメージなので少し手を入れてみる。
    (推敲訳)その年の夏も終わろうとする頃、僕たちはある村に家を構えて暮らしていた。平らな土地と川のむこうには山が見えた。

     「川床」というと川底の意味に感じられる。日本国語大辞典では「川の水底の面。また、河原など土手の内側の地帯をもいう」と書かれているが、広辞苑や明鏡、新明解はいずれも「川の底の地盤(地面)」の意味。ここでは「河原」が妥当だろう。
     pebbleとboulderは「大小の丸い石」。おそらく丸い石だらけだと言いたいのだ。the channelsはおそらく田畑に水を引くための用水路だろう。
    (推敲訳)河原には大小さまざまな丸い石があり、日の光で乾燥して白くなっている。用水路の水は透明で、流れは速く、青みがかっている。


     the roadを「街道」と訳すのはとりあえず避けたい。急に日本の昔の風景が見えてきてしまう。とりあえず「道」としておく。go down the roadを「道を下る」と書くか、単に「道を行く」と書くか。「木の葉はそのあげるほこりにまみれていた。」というのは是が非でも推敲したい。
    (推敲訳)軍隊が家のそばを通り過ぎ、道を下っていった。舞い上がった埃が木々の葉に降りつもった。


     この後はandでつながれたたくさんの共通関係を含む一文なのだが、あきらかにand we saw…のところで切れ目がある。気になるのはearlly that yearの意味で、普通に考えれば「埃まみれになった」事が原因で、その年は例年よりも早く「葉が落ちる」事になったという意味にとれる。伊藤先生もそう訳してるので僕もそれにならうが、どうも最後まで読むと、その場で葉が落ちてしまったようなのだ。推敲の推敲が必要だろう。
    (推敲訳)幹も埃にまみれたせいで、その年は早くに葉が落ちた。


     ランダムハウス英和大辞典にはa bare slope(地肌がむき出しの斜面)という用例がある。第一義は「裸の、むき出しの」だが、伊藤先生は「〈部屋などが〉がらんとした、空っぽの」の方を採用して「人気(ひとけ)のない」と訳している。どちらでも良さそうだが、後者だとwhiteの意味が浮いてしまう。「白々と」と書くと何か空疎な感じがするが、英語のwhiteにはそういう意味合いはなさそうだ。とりあえず僕は前者を採用。
    (推敲訳)軍隊が道を行進し、埃が舞い上がり、そよ風に揺れて葉が落ちた。大勢の兵士が行進し、後には落とされた葉っぱだけが残り、道は地肌がむき出しになって白くなった。


     全体のバランスをとるために、いろいろと細かな変更をした。ここからは英文にもあまりとらわれてないので、例えば家からは「平地と川の向こうにある山が見えた」のであって、「平地と川と山が見えた」のではないというような些末な事には頓着しない。最後の推敲で考えたのは、やはり最後のand we saw…の部分だ。ここから今まで描写してきた事を繰り返しているので、特に書き手の言いしれぬ感情がおもてに出た文章にした方がよさそうだ。
    (推敲訳)その年の夏が終わりを迎える頃、僕たちはある村に家をかまえていた。そこからは平らな土地と川と、むこうには山が見えた。河原には大小さまざまな丸い石がちらばり、日が照って乾燥し、白くなっていた。用水路の水は透明で、流れは速く、青みがかっていた。ある日、軍隊が家の近くの道を通り過ぎていった。埃が舞い上がり、木々の葉に降りつもった。幹にも埃がかかったせいで、例年になく早々と葉が落ちた。僕たちは見た。軍隊が道に沿って行進し、埃が舞い上がり、微風に揺すられて葉が落ちていくのを。大勢の兵士が行進し、後に残ったのは落ちた葉っぱだけで、地肌がむき出しになって白くなっていったのを。
    posted by アスラン at 02:50 | 東京 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年03月03日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(14.1.1)

    「Chapter14. 共通関係 @文の主要素の共通関係」より。

     14章の冒頭に戻る。共通関係とは「and,but,orなどの等位接続詞で結ばれる2つの語句の関係」を指す。従来の参考書では「例外的な形を雑然と収集し、雑然と提示するだけ」にとどまっていると指摘し、この本では「文の基本構造と修飾構造の2面から順を追って考え」るとしている。もちろん、全15章からなる「英文解釈教室」をここまで読んできた人にとっては当たり前の事だが、全体の構造を分析して、どことどこが共通の構造として並んでいるのか、どこがどこと修飾関係にあるのか、構文を構造として捉えるという姿勢から、一見簡単なように見える「共通関係」の奥深さを順を追って見直していこうという事だ。省略によって共通関係の構造が見えにくくなる事が、このセクションのハイライトではあるが、そこばかりに光を当てても、この形式の本質を十分に理解した事にはならない。と、きっと今も空の上の教壇で口角泡を飛ばしながら、息継ぎせずにしゃべり倒していらっしゃるのではないだろうか。
    14.1.1 Everybody can and does achieve emotional release through self-expression.
    (訳) 誰でも自己表現を通じて感情の解放をなしとげることができるし、また、現実にそうしている。
     簡潔な文で、日本語として何も問題はないようだ。でもおそらく僕はこんな文章は書かない。「自己表現」「感情の解放」「自己表現を通じて」「感情の解放をなしとげる」のように、合成名詞、名詞句(AのB)、動詞句を切り出してみると違和感は増していく。これは、1文に仕立て上げた時にそれぞれの違和感が全体として緩和されながら成立している文だ。だとすると、一つ一つを潰していかねばならない。

     「自己表現」という言葉は国語辞典の見出しにはない。ではself-expressionは日本語ではなんと言っているのか。そもそもself-expressionとは何の事か。ランダムハウス英和大辞典では「(会話・振る舞い・詩・絵画などのおける)自己表現、自己表出、自己表明」と書かれている。ここに出てくる三つは、すべて国語辞典にはない。「自己紹介、自己実現、自己責任、自己申告」などは出てくるのに何故だろう。それは「表現、表出、表明」という言葉だけで最初から「自己」が隠れているからではないだろうか。「表現」の語釈はどの国語辞典でも難しいが、例えば新明解では「内面的・主観的なものを外面的・感性的にとらえられる手段・形式によって伝達しようとすること」とある。つまり内面や主観ありきなので、最初からそこに自己は含まれている。だとしたら「自己表現」は冗長な言い方だろう。
     でも実際には冗長でもなんでもなくて「僕はこう思う」を形にするのが表現だが、「こう思う僕を見て」を形にするのが自己表現なのだ。ここまで考えると話は早い。「内面をさらけ出す」という事がself-expressionだ。

     とすると「感情の解放」も「気持ちが外に出る」事を指す。「なしとげる」は堅苦しいので、達成するまでの道のりが伝わるような言葉(例えば「なんとかして」など)を補えばいい。

     共通関係の「can and does」の部分は、英語だと形式上は一文だが、日本語は一文にする必要はない。接続助詞でつなげるとdoesの強意が弱まるので、別々にして、接続詞で印象づける方が日本語として自然だと思う。

    (推敲訳)誰でも、内面をさらけ出すことで自分の感情がおもてに出てくるようになる。実際、みんなそうやってなんとかしているのだ。
    posted by アスラン at 02:20 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年02月26日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(14.1 例題(1))

    「Chapter14. 共通関係 @文の主要素の共通関係」より、まとめの例題を書き直す。

    14.1 例題(1)
     When I was young we all knew, or thought we know, that a man consists of a soul and a body; that the body is in time and space, but the soul is in time only. Weather the soul survives death was a matter as to which opinions might differ, but that there is a soul was thought to be certain.
    (訳) 私の若いころには、人間は霊魂と肉体からできていて、肉体は時間空間の中にあるが、霊魂は時間の中にのみ存在するということを誰でも知っていた、いや知っているつもりでいた。魂が人の死後も生き残るか否かは議論の分かれることもある問題であったが、魂が存在するということは確実なことと考えられていた。
     まずはyoungの訳し方だろうか。「若いころ」と言うと、「あぁ、この親父は説教たれようとしてるのか」と職場の若い連中に煙たがられそうだ。そもそも世代間のギャップ程度の差では無く、慣習や因習が違うような時代の話をしようとしてるのだから、「若いころ」では不自然だ。では「子供のころ」と書けばいいのか。
     youngは「若い」を意味する一般語で、語義は「若い、年若い、年少の、幼い、年下の」のように幅広いので、「子供のころ」と言ってもよさそうだ。ただ、この言い方だと昭和レトロに魅力を感じる世代にウケるような思い出話を披露している感じがする。ここはニュートラルに「昔は」と書きたい。「昔は」がどのくらい昔か分からないとツッコまれそうだが、「自分も含めて〜だった」のニュアンスが述部の方に入れば問題ないはずだ。

     次はknowだ。一般的には「知る」とか「知っている」という訳語を当てることが多いが、それだとこの例文には不適切だ。新明解国語辞典では、「知る」は「@なんらかの情報や直接の体験などによって、新たな事態に気づいたり、その物事の意味内容・性質および適用範囲・是非善悪などを把握する」としている。「英語の面白さを知った」のような体験・経験に基づく行為だ。「知っている」については「Aあることについてすでに記憶にとどめている状態にある」ということをさし、「彼はスポーツに関することはなんでも知っている」などのように使う。ただ、霊魂と肉体の二元論的な考え方は前世紀的な古くさい考え方になっているという事実を伝えたい文なのだから、情報や体験で「知った」ものでも、あえて「(記憶にとどめて)知っている」というものでもない。生まれてから生きていくうちに「了解していた」ということを言いたい。だから「〜ということを誰でもわかっていた」ぐらいが良さそうだ。

     「人間は霊魂と肉体からできていて」は日本語としてしっくりくるが、「肉体は時間空間の中にある」は分かるようで分からない。日本国語大辞典では「霊魂」のことを「肉体と区別され、肉体に宿りながら心の働きをつかさどり、生命を与えていると考えられている非物質的実体。肉体の死後も存在すると考えられることも多い」とある。もう、妥当な訳文は、この語釈の中にあるのではないかと思えるくらいだ。霊魂は非物質的な実体であるからには、空間を占めることはないが、時間を占めることはある。ここから「肉体は空間や時間を占有するが、霊魂は時間を占有するだけだ」ということになる。ちなみに「魂」は古来からある言葉で「霊魂」はsoulの訳語なのかと思ったが、日国によると1179年の中国の書物の用例があり、こちらも古くからある言葉のようだ。ただ「魂」は日本語として手垢がついている感じがするので、「霊魂」で統一したい。

     なお、「a soul and a body; the body …, the soul …」の語順は日本語的ではないので手を加える。中学で初めて英語を習ったときに、誰しも"You and I" を「あなたと私」と訳す事の違和感を覚えているはずだ。
    (推敲訳前半)人は肉体と霊魂からできていて、肉体はある時間とある場所に存在することが可能だが、霊魂はある時間にしか存在できないのだと、昔は僕のまわりの誰もが分かっていた。いや、分かったつもりになっていた。

    survive deathを「死後も生き残る」というのは日本語としては矛盾しているので「死後も消滅しない」あるいは日国の語釈どおり「死後も存在する」が妥当だろう。a matter as to which opinions might differは「議論の分かれることもある問題」としているが、非常にまだるっこしい。「こともある」としているのはmightの可能性の意味合いを含めたいからだろう。ここが重要であれば、いっそのこと「こともある問題」を解消してしまった方がわかりやすいので「議論が分かれるかもしれない」あるいは「議論が分かれるだろう」でも悪くない。

     最後の部分の「考えられていた」は原文どおりだけれども、前半との釣り合いで考えるとwe all thoughtと見なすべきではないだろうか。そう考えて最終的には、
    (推敲訳後半)「死後も霊魂は存在しつづけるのか」については、議論が分かれるところだろう。しかし、霊魂は確実に存在していると誰もが考えていた。

    前半と後半の書き直しをまとめるが、日本語として微調整を行う。
    元の推敲ではa soul and a body; the body …, but the soul …のセミコロンの区切りの意味が曖昧なので調整。「分かっていた」がまだ違和感があるので「確信していた」に差し替え。最後の「誰もが考えていた」を前半のweと呼応させるために手を加えた。
    (推敲訳) 人は肉体と霊魂からできている。ただし、肉体はある時間とある場所に存在することが可能だが、霊魂はある時間にしか存在できない。そのように、昔は僕のまわりの誰もが確信していた。いや、確信したつもりになっていた。「死後も霊魂は存在しつづけるのか」については、議論が分かれるところだろう。しかし、霊魂は確実に存在していると、当時の僕らは考えていた。
    posted by アスラン at 02:55 | 東京 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年02月23日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(14.1.11)

     唐突に始めてしまうが、伊藤和夫先生の「英文解釈教室(改訂版)」を毎日のように読み直しているというところから話を進めよう。つたない英語力しかなかった僕がまがいなりにも英語が好きになり、同時に日本語を偏愛するようになったのは、この参考書と伊藤先生の薫陶とに寄るところが大きい。入試の際に、この本を十分に理解できていたかは心許ないが、その後の人生においても繰り返し繰り返し読むことで、英文に当たって砕けるためのアプローチの仕方を教えてもらってきた。

     ただ、同時に今の僕には、当時は見えなかったし、考えもしなかった事が気になるようになってきた。伊藤先生の訳文は「受験生が入試で正解をもらうための訳文」であって、日本語としての訳文ではないという事だ。これは、伊藤先生に問題があるのではなく、入試のための参考書としての限界を示している。日本語として熟れた訳文にすると、当時の僕を含めて受験生レベルの生徒にはどうしてそうなるのか理解ができないだろうし、受け入れる側の方も逐次訳でない部分を果たして正解とみなしていいか判断に迷うだろう。

     「日本語として妥当な訳文に書き直したい」というのが何よりの動機だが、これは「本格的に翻訳する」という事とも違っている。僕には翻訳を生業とした方のような正確で緻密な訳文は書けないし、文脈や状況にそって文体を書き分けるなどという芸当もできない。もとよりそんな事を望んでいるのではなく、与えられた英文と釣り合うような日本語の文章で、最終的な理解を得たいのだ。つまりは「日本語として納得したい」という事だ。だから、分かりやすい事が何よりだし、その上で日本語として変な言葉遣いは排除したい。文字数に制約はないので、華麗で洗練されてなくてもいい。ダサダサでも日本語としておかしくなければOKという文章に書き直そうという試みだ。

     拠り所は伊藤先生の訳文である。当然ながら、入試レベルでは文句のつけようがない文章を恐れ多くも推敲しようというわけだ。あえて言わせてもらえば「僕自身が内容に納得できて、日本語として納得のできる文章に推敲する」という事だから、結果的に出来上がった文章が日本語として「まだおかしい」のであれば、僕の日本語が拙いという事になる。

     まだ言い足りない事はいろいろとあるが、追って書き足していけばいいと思うので、まずは何より「隗より始めよ」だ。思いたったところから始めるとしよう。Chapter14「共通関係」の中の例文14.1.11を書き直す。
    14.1.11 Through the trees they look out across the fields and see farmers at work about the barns or people driving up and down on the roads.
    (訳)木の間越しに、彼らは畑を越えて遠くを眺め、農民が納屋のあたりで働いているのや、人々が道にあちこち車を走らせているのを見る
     「共通関係」とは変な用語だ。日本語で言うところの並列構造だと思うのだが、日本語構文に出現する並列関係とは区別するための専門用語なのだろう。少なくとも日本語の研究本でお目にかかった事は無い。この英文ではandによる共通関係の後半が、they(S)、see(V)としてS+V(O+C)(O+C)という構文になっている。
     なぜ、この文が気になったかというと、最近読んでいるジョン・ディクスン・カー『髑髏城』の原文にacrossが頻繁に出てくるからだ。the bridge across the riverのように「〜を横切って」の意味で使われる場合が多いが、walk across the bridgeのように「〜(の端から端)を渡って」という意味でも使われるので、日本語の「横切る」というイメージで考えると危険だ。ただ、この場面では手前に木が間隔を置いて植えられていて(あるいは生えていて)、向こうにthe fieldsが広がっているようなので「横切って」というイメージがあっているだろう。farmersが出てくるので野原や牧場や牧草地ではなく田畑なのだろう。いや、ランダムハウス英和大辞典では《the fields》で「田畑、田園」としている。
     ここまでで「畑を越えて遠くを眺める」というのが、いやに説明的なのが気になる。木の間越しに田園風景が広がっているはずなので、「畑を(手前から向こうへと)見わたす」で十分だろう。

     「農民が納屋のあたりで働いている」も「納屋の近くで農作業をする人がいる」としたい。farmersの複数形は後回し。もう一方のdriving up and downは「道路を車で往き来する」という事だが、こちらもthe roadsと複数になっているのは幹線道路のように一本ではなく、東西南北に張り巡らされているのか。peopleはfarmersとは関係なさそうなので、「あちらこちらの道では車が行き来する」というイメージだろうか。

     最後の「見る」が一番やっかいだ。現在形を使う意味は時制というより静止しているというイメージだ。「彼ら」とはいったい誰だろう。監督が役者に稽古でもつけているのだろうか。それとも、絵画や写真で手前に描かれた人々(例えば列車から風景を見ている人々)が遠くを見ているという様子を、美術評論家が説明しているのだろうか。あるいは、カーの『髑髏城』でも出てきたが、その場にいあわせた人が過去の体験を説明する際に、過去形ではなく目の前で今起きているかのように現在形で話しているのだろうか。いずれにしても、こういう場合は日本語では状態動詞の「見える」と訳すべきだ。
    (推敲訳)彼らが木と木の間から向こうの畑を見わたすと、納屋の近くで農作業に勤しむ人々や、あちこちの道を往き来する車が見える。
    posted by アスラン at 02:10 | 東京 🌁 | Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする