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    2024年10月10日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(7.1.1)

    Chapter7. It . . . that . . .「@ It+V+that . . .」より。

    7.1.1 If you are not honest with the doctor when you are ill, it may be that instead of curing you he will make you worse.
    (訳) 病気のとき医者にうそをつけば、おそらく医者のおかげでよくなるどころか、病気は悪化するだろう。
     Chapter9関係詞は「@主格の関係詞」をすべて終えたが、そろそろ飽きてきたので河岸を変えよう。Chapter7は、It…thatの形式を持つ構文を取り扱う。その中にはいわゆる強調構文も含まれる。強調構文については、以前から日本語としてその訳し方に思うところがいろいろあるのだが、とりあえずは「@It+V+that」から始めよう。これはなんというか主節の文(S+V+…)のVに助動詞でモダリティなどを追加するところを、入れ子構造を使って外側からモダリティの助動詞を伴ったIt…that構文でラッピングするような感じだ。
    (a) He is wise.
    (b) He may be wise.
    (c) It may be that he is wise.
     (b)と(c)は形式は違うが同じ意味になる。『英文解釈教室』では、日本語の方は(c)と同じ形式を採用しているとして、伊藤先生は次のような訳文を挙げている。
    彼は賢明である。
    彼は賢明(である)かもしれない。
     しかし、これはおかしい。丸括弧で「である」を消していても入れ子の中身は同じだとするのは日本語として雑だ。例えばHe is intelligent.に対してHe seems intellligent.という文を考えた場合、日本は「彼は賢い」が「彼は賢そう」になる。この場合、It seems that he is intelligent.という英語の構文と違って、入れ子構造の中身が同じというわけにはいかない。ただ、日本語は「動詞+モダリティの助動詞」というひとまとまりで述部となり、英語は「モダリティの助動詞+動詞」というひとまとまりで述語となるので、どちらかと言えば(c)よりも(b)の構造の方が日本語と似ているように見える。英語と日本語とが根本的に違うのはVの位置だ。基本として英語はS+Vの語順になるが、日本語はVに当たる述部が文末に来る。

     などと言う事を考えてはみたものの、It+V+that構文の意味を踏まえて訳文を考えればいいだけなので、ここでは(b)か(c)かは問題ではない。訳文については「こんな日本語を書かない」とは言わないが、「病気のときに医者にうそをつく」というシチュエーションが気に入らない。そんな奴はいないだろう。そもそも病気だから医者にうそをつくという前に、医者にかかるという行為が発生するはずだ。そこで嘘をつくというのもおかしいが、聞かれた事に正直に答えにくいという経験はよくある。例えば血圧が高いのに「不摂生な事してませんか」と聞かれれば「してません」と言ってしまったり、「体重はお変わりありませんか」と聞かれれば「たぶん変わらないと思います」ぐらいは言ってしまいそうだ。うそをつくというよりも、自分に都合がいい解釈で回答すると言った方がいい。例文もlieではなくbe not honestになっているのだから、そちらのニュアンスに戻しておこう。

     それと「悪化するだろう」はやめたい。willは未来の助動詞で「〜だろう」という訳があてられるけれど、これは推量であって単なる未来ならば「だろう」は使わない。そもそもこの例文ではmayの意味が付加されるので「〜かもしれない」や「〜する可能性がある」などの表現がふさわしい。
    (推敲訳) 体調が悪いにもかかわらず、かかった医者から聞かれた事に正直に答えないと、よくなるどころか、さらに悪くなるかもしれない。
    posted by アスラン at 03:10 | 東京 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年10月04日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(9.1 例題(2))

    Chapter9.関係詞 「@主格の関係詞」より。

    9.1 例題(2) A schoolmaster recently said that out of the 250 pupils he taught the ones who watched TV were undoubtedly the most intelligent.
     We all know the people who sit through any and every programme night after night because they are drugged by TV.
     But I have yet to meet the child who, allowed to watch as much as he likes, fails to show discrimination.

    (訳) ある先生が最近、自分が教えている250人の生徒の中で、テレビを見ている子がいちばん知恵が進んでいることはたしかだと言った。
     テレビ中毒になっているため、来る夜も来る夜も、ありとあらゆる番組を最後まで見ている大人のことは誰でも知っている。しかし、好きなだけテレビを見てよいと言われて、番組に対する識別力を示さぬ子供には、私はまだ会ったことがない。
     「@主格の関係詞」の掉尾を飾る例題だ。連鎖関係詞節こそ出てこないが、3つある文のいずれにも主格の関係詞が出てくるというところが、この節の最後の例題にふさわしい。

     最初の文は関係詞節が2つ含まれていて、そのうち目的格の関係詞は省略されているので若干ややこしいが、英文の構造が分かってしまえば内容はそう難しいわけではない。
    A schoolmaster recently said that  the ones were undoubtedly the most intelligent.
                         │    └who watched TV
                         └out of the 250 pupils
                                    └(whom) he taught
     out of 〜は「〜の範囲外に」だと思ったが、最上級の場合には母集団が出てこないとおかしい。訳文にもあるように「ある数・グループなどの)中から」という意味になるようだ。訳文で気になるのは「テレビを見ている子がいちばん知恵が進んでいる」というところだろうか。250人の生徒の中にどれだけの比率で「テレビを見ている」生徒がいるのだろうか。今ならテレビではなく、ネットTVやYou Tubeに置き換わるところだろう。訳文の言い回しだと「テレビを見ている」生徒は一人しかいないように聞こえるのが気になる。それに「知恵が進んでいる」という表現も僕は聞いたことも使ったこともない。それと、おそらくこの「ある先生」の発言は当時かなり物議を醸したのだろうと推測できるので、そのような含みを持たせて以下のように推敲する。
    (第一の文の推敲訳) ある男性教師が最近、「私が教える250名の生徒の中では、テレビを見ている生徒の方が断トツで頭がよいのは疑問の余地がありません。」と言った。

     次の文は構造としてはシンプルだ。
    We all know the people
               └ who sit through any and every programme night after night
                   └because they are drugged by TV.
     sit throughは「…の終わりまでいる(じっとしている)」という意味だそうだ。訳文で気になるのはthe peopleを大人と訳している点だ。生徒と対比する意味で大人としているのだろうが、なんとなくこの文章では小学生から中学生くらいのテレビ視聴を問題にしているので、それ以外の「人」一般を指してpeopleと言っているように感じる。もちろん当の小学生、中学生も含めてもいいはずだ。
    (第二の文の推敲訳) テレビ中毒になっているせいで、夜な夜な、ありとあらゆるテレビ番組を最後まで観る人がいる事はもちろん誰もが知っている。

     最後の文の構造は次のようになる。allowed〜の部分はthe childに係る分詞構文だ。
    But I have yet to meet the child
                     └who fails to show discrimination.
                     └allowed to watch as much as he likes,
     訳文で気になるのは「番組に対する識別力を示さぬ子供」という部分だ。前回の例題でもdiscriminatingというところに「識別力」という訳をあてていたが、どうも僕には馴染みがないし、隔靴掻痒の訳に思える。ここでは「ありとあらゆるテレビ番組」を観る事でテレビ中毒になるのではないかという、周囲の大人達の懸念に釘を刺していて、一見そういうふうに見えるけれど「ちゃんと良い番組、悪い番組を見分けている」という事が言いたいのではないか。それを踏まえて推敲する。
    (第三の文の推敲訳) 好きなだけ見てもいいと言われたからと言って、番組の良し悪しを見分ける力を発揮できないような子供にお目にかかった事がない。

     以上3つの文をまとめて、さらに推敲する。
    (推敲訳) つい最近の事だが、ある男性教師が「私が受け持つ250名の生徒に限って言えば、普段からテレビを見ている生徒の方が断然頭の回転が速いのは間違いありません。」と言っている。
     もちろん、テレビに夢中になるあまりに、毎晩毎晩手当たり次第に番組を見続ける人が世の中には存在するという事は周知の事実だ。でも、好きなだけテレビを見てもいいと言ったとしても、見ていい番組かどうかを区別できない子供には、まだお目にかかった事がない。
    posted by アスラン at 03:26 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年10月01日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(9.1 例題(1))

    Chapter9.関係詞 @主格の関係詞」より。

    9.1 例題(1) The building up of a taste for those books which genuinely discriminating readers have decided, generation after generation, are worthy of preservation, is gradual. As your taste for books and knowledge of them increase, your earlier opinions will in many instances be changed, for this is a process of real development.
    (訳) 真に識別力のある読者が何代にもわたって保存に価すると定めた書物の良さを知る力は、徐々に形成されてゆくものである。書物の良さを知る力が高まり書物についての知識がふえていくにつれて、多くの場合、以前の考え方は変わってゆく。これこそ真の進歩の過程だからである。
     この例題の前半の文でも連鎖関係詞節が出てくる。この前半の文の構造解析を伊藤先生は以下のように示している。
    The building up of a taste for those books is gradual.
                         └which are worthy of preservation,
                              │
                          (… readers have decided)
     以前の例文を書き直す際に、越前敏弥さんが連鎖関係詞節のS+V+Vのところを(S+V)Vのようにいったん囲ってしまう事を勧めていると書いたが、伊藤先生もまったく同じだ(というより越前さんも伊藤先生から薫陶を受けたわけだ)。それで関係代名詞の係り方を理解した上で、括弧に括った部分を訳文に反映するという手順だが、伊藤先生の訳文はすべてを限定用法として連体修飾節に盛りこんでいる。しかし、それには違和感がある。この連体修飾節の部分「真に識別力のある読者が何代にもわたって保存に価すると定めた書物の良さを知る力」の意味が頭にすんなり入ってくる人がいるだろうか。
    真に識別力のある┐
              読者が─────┐
              何代にもわたって┐
              保存に価すると─┐
                         定めた┐
                             書物の┐
                                 良さを┐
                                     知る力
     伊藤先生の挙げた英文の構造は分かりやすかったのに、訳文になると分かりにくくなるのは何故だろうか。ぱっと見に前半の構造解析で「保存に価する書物の良さを知る力」と読めるのに、伊藤先生が括弧の中に閉じ込めた後半の叙述をすべて連体修飾節に持ち込もうとするので、訳がとっちらかってしまっている。

     再び前回でも示した日本語特有の表現で考えよう。「昔々あるところにおじいさんがいました。おじいさんは山に柴刈りに行きました。山にある柴は町ではお金になるのです。」という文があるとしよう。それを「昔々あるところに、町ではお金になるので山に柴刈りに行くおじいさんがいました。」と直しても同じことだと思えるだろうか。未知の存在を既知に変え、既知になったものについて一つ一つ叙述していくという段取りを経ないで、いきなり「昔々あるところに、〜に行くおじいさんがいました。」となれば、そういう特徴(状況)をかかえた「おじいさん(未知)」が存在するのだなと納得するしかない。最終的に伝えるべき情報は同じでも、表現は異なる。いや、連体修飾節にまとめた事で「山にある柴」とか「(いつものように)柴刈りに行きました」という細かい部分が抜け落ちている。

     そういう目でもう一度、伊藤先生の構造解析を見るとthose booksは「保存に価する書物」を指している。それが実際の訳文では「…読者が何代にもわたって保存に価すると定めた書物」となっている。これが「訳がとっちらかってしまっている」原因だ。そこで、括弧の中をきちんと構造解析してみよう。
    The building up of a taste for those books is gradual.
                         └which are worthy of preservation
                           └──────┐
    Genuinely discriminating readers have decided that they are worthy of preservation.
                                 └ generation after generation
     この構造解析を元に、訳文を修正すると、結局つぎのようになる。
    保存に価する書物の良さを知る力は、徐々に形成されてゆくものである。
    真に識別力のある読者が、何代にもわたって書物が保存に価するかどうかを定めた。
     これならば少なくとも頭にすんなりと入ってくるだろう。これを推敲する。
    (前半の推敲訳) 保存する価値がある書籍を見分ける力は、徐々に身についていく。正真正銘の鑑賞力を備えた読み手が、何世代にもわたって書籍の価値を決めてきたのだ。

     後半の文は特に問題はないが、最後の「これこそ真の進歩の過程だからである。」がよく分からない。人類規模の「進歩」の話をしていたのではなく、個人の能力(鑑賞力)の「成長」の話をしていたはずなのだ。
    (後半の推敲訳) 書籍に対する鑑賞力や知識が増えていくにつれて、以前に抱いていた個人的な考えは、たいていは変わっていく。現実に成長していく過程とはこのようなものだからだ。

     最終的にまとめて、さらに推敲する。特にyour earlier opinions will … be changedの部分は比較級のearlierが成長の繰り返しを含意しているように感じられるので、訳を工夫してみる。
    (推敲訳) ある書籍が保存に価するかどうかを見極める力は、徐々に身についていくものだ。これまでも、紛れもない鑑賞力を備えた読み手たちが、何世代にもわたって書籍の価値を決めてきたのだから。書籍に対する鑑賞力や知識が増えていくにつれて、たいていの人は、以前に抱いていた個人的な考えをその都度変えていく。人が現実に成長していく際には、このような過程をたどるものだからだ。
    posted by アスラン at 21:00 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年09月28日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(9.1.8)

    Chapter9.関係詞 @主格の関係詞」より。

    9.1.8 America is now called on to do what the founders and the pioneers always believed was the American task.
    (訳) アメリカは現在、建国者や開拓者たちがアメリカの使命であると常に信じてきたことをするように要求されている。
     またしても連鎖関係詞節の問題だが、それを読み解く以前に、出来上がった訳文が日本語として難があるという点を指摘しておこう。係り受け構造を解析すると以下のようになる。

                          アメリカは──┐
                          現在────┐
    建国者や開拓者たちが─┐              │
    アメリカの使命であると─┐              │
               常に─┐              │
                  信じてきたことを─┐    │
                           するように─┐

                                 要求されている。
     非常に危うい構造になっている事が分かるだろうか。「アメリカは」の係り先は文末の「要求されている」で、非常に遠い。この場合、『日本語の作文技術』の本多勝一メソッドに則って「アメリカは現在」の後に読点が打たれているので誤解は少ない。ただし、「〜するようにアメリカは現在、要求されている」とした方が分かりやすい。それ以上に問題なのは「建国者や開拓者たちが」の係り先だ。ここは直後に読点が打たれていないので、普通に考えると「アメリカの使命である」が係り先に感じられる。しかし「建国者や開拓者たちがアメリカの使命である」では意味が通じないと考えて、さらに先の「信じてきたことを」が係り先だと考えなおす事になる。

     だが、もしも「建国者や開拓者たちがアメリカの財産であると常に信じてきた」という文章だったら、「建国者や開拓者たちがアメリカの財産である」でも意味が通じてしまう。その場合「信じてきた」の主格に相当するものが存在しなくなるように見えるが、「アメリカは」が題目部として前方にあるので「(アメリカが)信じてきた」と読む事が可能になってくる。ではどこで解釈が間違っていると気づくかというと、「建国者や開拓者たちがアメリカの財産であると信じてきたことをする」で「こと」が出てきた時点でようやく間違いに気づく。「建国者や開拓者たちがアメリカの財産である」という内容はアメリカが「する」事ではないからだ。「アメリカの財産であると信じてきたこと」こそ、建国者や開拓者たちが「する」事なのだ。要するに例文の訳は、日本語として係り受けに曖昧性を抱え込んでいる。係り受けの問題を解消した推敲を行なうと、以下のようになる。
    (推敲訳) アメリカの使命であると建国者や開拓者たちが常に信じてきたことをするように、アメリカは現在、要求されている。
     係り受けの点では誤解が生じないが、分かりやすくなったとも言えない。その原因がどこにあるかと言えば連鎖関係詞節+関係詞whatの組み合わせを、英語の構文構造のままに訳しているからに他ならない。早い話が、英語と同じように一つの文章に盛りこみすぎて、日本語として一向に分かりやすくなっていないのだ。

     まずは例文の構造解析をしておこう。
    America is now called on to do what
                        └───────┐
    The founders and the pioneers always believed that it was the American task.
     whatは先行詞を兼ねた複合関係代名詞(江川泰一郎『英文法解説』)だから、通常の関係代名詞と違って二つの文に分けにくい。かといって、これを一文にしようとすると、what … was the American taskを名詞節としてひとまとめにする事になり、先ほどの推敲訳のようになってしまう。しかし、後半の部分はあくまで「建国者や開拓者たちは、それがアメリカの使命であると常に信じてきた。」と叙述的に説明しているにすぎない。それを「…常に信じてきたこと」と連体修飾部に盛りこもうとするから日本語として分かりにくいだけでなく違和感が生じている。

     とりあえず構造解析に従って日本語に訳してみるとこうなる。
    アメリカは現在、あることをするように要求されている。
    建国者や開拓者たちは、それがアメリカの使命であると常に信じてきた。
     「あること」と訳したのはwhatが先行詞をもたないからだが、そこに目をつむればずいぶんと分かりやすくはなった。しかし、やはり日本語としては「あること」と書くのは勿体をつけているように感じられてよろしくない。what(あること)は、書き手(話し手)と読み手(聞き手)との間ではまだ共有されていない未知語だ。以前にも書いたが、日本語では未知語の存在を既知に変えた上で、それに関する状況や動作を示す。つまり「昔々あるところにおじいさんがいました。おじいさんは山に柴刈りに行きました。」式の段取りを踏むのが一般的だ。だから、この例文の場合も、what(あること)の存在を既知に変えておくのが日本語として先決だ。そこで、こんな推敲訳が考えられる。
    (推敲訳) アメリカの使命であると建国者や開拓者たちが常に信じてきた事がある。アメリカは現在、その事をするように要求されている。
     「〜事がある」のような存在構文など無いではないかと思う人がいるかもしれないが、日本人が日頃から見過ごしている冠詞や単数形・複数形の区別を日本語として顕在化しようとすると、存在文が出現する。what … was the American taskという名詞節からも存在文が出現するとともに、それは前もって言明しておく必要がある。こうすると「後ろから訳し上げている」と考える人もいるかもしれないが、そもそも英語のVにあたる is now called on to doの部分は日本語として文末に書かざるを得ないので、後ろから訳し上げているも何もないのだ。

     文の骨格が決まったので、さらに推敲する。
    (推敲訳) アメリカを作った草創期の人々には、これこそがアメリカが果たすべき役目だと一貫して信じてきた事があった。今まさにアメリカは、それをやってくれと求められている。
    posted by アスラン at 05:30 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年09月22日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(9.1.7)

    Chapter9.関係詞 @主格の関係詞」より。

    9.1.7 He was not excited over the prospect of marring her, for she stirred in him none of the emotions of wild romance that his beloved books had assured him were proper for a lover.
    (訳) 彼女と結婚すると考えても、彼は心がおどらなかった。彼の愛読する書物によると恋する者にふさわしいと断言されている熱烈なロマンスの感情が、彼女を見ても彼の心には少しも起こらなかったからである。
     状況が分かりにくいなぁ。一体「彼女」と「彼」の関係性はどんなものなのだろう。彼と彼女が恋人同士だという事はわかる。だが、要するに恋愛対象ではあるが、結婚対象とまでは考えていないという事だろう。それは日本式に「結婚を前提につきあってください」というものではないという事なのか。いや、そもそも後半の「彼が愛読する書物」というのが、いわゆるハーレクイーン・ロマンスのような物語であるならば「結婚を前提にする」イコール「熱烈なロマンスの感情が湧き上がる」という事であってもおかしくない。だが、果たして男である「彼」がハーレクイーン・ロマンス的な小説を読むかどうかもあやしい。うーむ、わからん。

     日本人として理解しようとするから分からないのかもしれない。格好な例があった。ジョージ・ルーカスの若き日の習作『アメリカン・グラフィティ』だ。後年、監督として名を馳せる事になる俳優ロン・ハワードが演じるスティーブは、高校時代にステディとなったローリーに別れを告げて田舎町を出ていこうとする。アメリカの高校生活ではガールフレンドがいることが当たり前で、そこには「結婚を前提に」とか「末永く」といった感情は薄いのか。少なくともあの映画で描かれていた男と女とでは感情にギャップがあった。1960年代が背景にあるので、田舎町に住む男は野心を抱いて都会の大学に出て行き、女性は田舎町に留まる。まるで「木綿のハンカチーフ」のような世界観だ。だとすると、例文の前半はこうなるのではないだろうか。
    (推敲訳@) この先、彼女と結婚する事になるかもしれないと考えても、彼の心ははずまなかった。

     さて、例文の後半が例の「連鎖関係詞節」だ。構造解析するとこうなる。
    she stirred in him none of the emotions of wild romance
                        └ that┐
    his beloved books had assured him that they were proper for a lover.
     この構造で文意を把握するかぎり、例文の訳のようにあえて限定用法で訳す必要は感じられない。なので2つの文に分けて重文相当の訳を考える。それよりも、やはり「彼の愛読する書物」がいかなるものかを考えた方が訳し方に力が入るというものだ。こちらに関しては『アメリカン・グラフィティ』ではなく、別の作品が参考になりそうだ。ジョージ・ルーカスの盟友スティーブン・スピルバーグが制作総指揮を努めた『バック・トゥ・ザ・フューチャー』だ。主人公マーティの父ジョージは若い頃から奥手で臆病者のSFオタクだった。タイムマシンで過去にもどったマーティは父と母の大切な出逢いに割りこんでしまい、図らずも二人が愛し合うという未来を奪ってしまう。マーティの活躍でなんとか二人を結びつける事に成功したが、現実以上に父と母は成功した人生を送ってしまい、ジョージはSF作家となっていた。だから思うに「彼(ジョージ)の愛読してきた書物」はエドガー・ライス・バローズの『ターザン』のようにジャングルという未開の地で愛するジェーンとともに暮らすような「冒険とロマン」に満ちた小説ではなかったか。そんな事を考えながら後半を訳してみる。
    (推敲訳A) 彼は彼女に対して燃え上がるような恋愛感情を抱くことは一切なかった。恋人ならばそういった感情を抱くのが当然だと、お気に入りの小説を読んで確信してきたのに。

     前半と後半を合わせて、さらにくだけた表現に推敲する。
    (推敲訳) この先、彼女と結婚するかもしれないと思っても彼はウキウキとはしなかった。というのも、彼女に対して好きで好きでたまらないという気持ちがまったくと言っていいほど起きなかったからだ。恋人であればそういった気持ちが起きて当然だと、お気に入りの小説を読んで常日頃から信じてきたのに。
    posted by アスラン at 08:01 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年09月14日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(9.1.6)

    Chapter9.関係詞 @主格の関係詞」より。

    9.1.6 Our guide was a man who we had been told was familiar with the locality.
    (訳) 案内人は、我々の聞いたところでは、その地方をよく知っている人だった。
     この例文も前回(9.1.5)同様に「連鎖関係詞節」を用いた構文になっている。このぐらいの長さの文ならば特に日本語として問題ありとは思わないが、2点ほど気になるところがある。それは、英語の構文に合わせて日本語文も係り受けを駆使して一文にまとめた結果、a manを単に「人」と訳している点だ。例えばエベレストなどの高い山に登るとかジャングルの奥地に入っていくとかならば男性である事が前提だから、特に「一人の男性」と言う必要もないと思ったのかもしれない。しかし、もしこれがa womanだったら「人」とは訳さなかっただろうし、そもそも、ここでは「ガイドが一人だ」ということを強調する意図があってもおかしくない。あくまで直前の文脈に依存するけれど、「一人」だとか「男性」だとかをきちんと前面に出す工夫が必要だろう。

     もう一つは、やはり連鎖関係詞節という英語特有の構造を日本語に移し替えようとすると、「〜ところでは」みたいな余分な副詞句を使わざるを得なくなる点だろう。例文を構造解析すると、以下のようになる。
    (A) Our guide was a man.
                └who┐
       we had been told that he was familiar with the locality.

     僕の愛読する越前敏弥さんの本などでも、連鎖関係詞節という特殊な構造を理解するためにはとりあえずthat節を抱え込むS+Vの部分を「括弧で括る」事を推奨している。つまりOur guide was a man who (we had been told) was familiar with the locality.とすれば、関係代名詞節の修飾関係が見えやすくなる。それで意味を把握した上で、括弧で括った部分を付け足すから「〜ところでは」が生まれるわけだ。さきほどの構造解析でも関係代名詞whoは、下の文の途中に出てくるwasに接続するので日本語として訳文を考える際には非常に気持ちが悪い。そもそも例文の訳は係助詞「は」を用いた題目化によって「案内人は」を先頭にもってきてはいるが、通常の並びで考えると、
    我々の聞いたところでは、案内人はその地方をよく知っている人だった。
    とした方が日本語として熟れている。これは、
    案内人はその地方をよく知っている人だと我々は聞かされていた。
    とも言い換えられる。例文がこうだったら日本語として何も問題はないが、英文と見比べると物足りないのは、この訳文では
    We had been told that our guide was familiar with the locality.
    としか言っていないからだろう。つまり、元々の例文の訳は、日本語の語順を変えて「案内人は」を主題として際立たせている(強調している)けれど、例文はOur guideを強調しているわけではないという点が、物足りないと感じる一番の原因だと思う。だとすると、やはり「一人の男性である」という点をきちんと前面に出す事が必要で、それによって「〜ところでは」の問題も同時に解決できる。
    (推敲訳)我々に同行するガイドは男性一人だったが、現地には詳しいと前もって聞かされていた。
    posted by アスラン at 11:45 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年08月25日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(9.1.5)

    Chapter9.関係詞 @主格の関係詞」より。

    9.1.5 There are plenty of people who we know quite well are innocent of this crime.
    (訳) この犯罪とは無関係であることを我々がよく知っている人が多数いる。
      =我々がよく知っているところでは、この犯罪と無関係な人が多数いる。
     伊藤先生は二通りの訳文を読者である受験生に示しているが、こういう日本語を僕は書かない。それだけでなく、実はこの二通りの訳文は、そもそも意味が微妙に違っている。
    (a)この犯罪とは無関係であることを我々がよく知っている人が多数いる。
    (b)我々がよく知っているところでは、この犯罪と無関係な人が多数いる。
     (a)のほうは「我々」が「(多数の)人」の事をよく知っていると言っている。もちろん知人とまでは言わないが、少なくとも犯罪を犯すような人じゃないくらいには「知っている」事になっている。一方(b)では「(多数の)人」が何者なのかを「我々」が知っているかどうかは関係ない。現実の状況として「犯罪に無関係な人が多数いる」という事実を「我々」が知っているという意味だ。では、果たしてどちらが正しいのか。

     そこで、関係代名詞をかすがいにして結びつけられた例文を分けてみよう。
    (A)There are plenty of people.
    (B) We know quite well that they are innocent of this crime.

    ((A)の訳)沢山の人がいる。
    ((B)の訳)その沢山の人はこの犯罪には無関係であることを我々はよく知っている。
     (B)の訳を見る限り、ニュアンスとしては(b)の方が原文に近い事になる。ただし、(b)の意味が近いからといって(a)の意味が排除されているわけではない。(a)の解釈は(b)の解釈に包含されているので、文脈によれば(a)で訳した方がいい場合もある。ただし例文だけを対象に考えるかぎり、広い方の解釈つまりは(b)の解釈で考えるべきだろう。

     この違いが何に由来するかと言えば、いわゆる限定用法と非限定用法をどう考えるかという問題なのだと思う。(A)と(B)という2つの文は、例文の構造を理解するために関係代名詞による結合を解除してみせたに過ぎない。このやり方は関係代名詞の働きを理解する上では役に立つ。特に先行詞という形で消えてしまったtheyがplenty of peopleだと理解できるようになったわけだ。その意味では後半の文(B)については訳が確定したけれど、前半を(A)のままで考えていいかどうかは、関係代名詞節が限定用法か非限定用法かに依存している。これをもっと分かりやすい例で考えてみよう。

     以下は、江川泰二郎著『英文法解説(改訂三版)』の例文である。
    (C)He has two daughters who are studying music. (彼には音楽を勉強している娘が2人います)
    (D)He has two daughters, who are studying music. (彼には娘が2人いて、2人とも音楽を勉強しています)
     (C)が関係代名詞節の限定用法であり、(D)が非限定用法である。(C)では「(彼には2人だけでなく)ほかにも娘がいるかもしれない」という補足があり、同様に(D)には「(彼には2人だけで)ほかには娘はいない」と書かれている。もちろんその通りなのだが、重要なのはこの関係代名詞節の働き方が違うという点にある。(C)の関係代名詞節はdaughtersに係る連体修飾節であり、その意味では前からdaughtersに係るtwoと対等な修飾部である。日本語は必ず修飾部は被修飾語の前方に置かれるが、英語の場合は前と後ろで修飾を分担する事ができる。そういう意味では(C)の文はHe has daughtersという単文であり、"two" & "who are studying music"という2つの修飾部がdaughtersを限定している。論理的にAND(かつ)の関係になったことでHe has daughtersが単独でtwoであるわけでもないし、単独でwho are studying musicになるわけでもなくなる。要するにHe has another daughter who are studying science.が成立する余地が出てくる。

     これに対して(D)の文は関係代名詞をはさんで前半と後半の重文相当になっている。だから前半のHe has two daughtersは単独で成立しているので、「(2人の)ほかには娘はいない」という事になる。これは日本語でもまったく同じで「彼には音楽を勉強している娘が2人います」と書くと「彼には(少なくとも)娘が2人いる」という含意が生じているが、「彼には娘が2人います。2人とも音楽を勉強しています」と書けば「2人のほかに娘がいる」という含意は生じない。この限定用法と非限定用法との違いを考慮にいれた構造分析を行なうと以下のようになる。
    (C-1) He has two daughters
              └(who) are studying music.

    (D-1)He has two daughters,
       ┌── (who) ┘
    (D-2) they are studying music.
     これならば、英文の解釈をするのにも訳文を作るのにも差し障りがない構造分析になっている。これを例文にも適用してみよう。
    (A')There are plenty of people.
                └(who) are innocent of this crime
                  └─┐
    (B') We know quite well that they are innocent of this crime.
     この構造は、さきほどの訳文(b)のニュアンスに基づいて作ってある。(a)のニュアンスで考えれば単文構造になり、we knowから始まる節全体がplenty of peopleを修飾する構造になるが、そうしなかった理由は限定用法として最低限理解しなければならない事が(A')だからだ。(A')という構造で考えれば、さきほどの『英文法解説』の例文の(C-1)と同様にplenty of peopleの意味を限定する事は出来ている。元の例文が英文解釈の例題として難易度が高いのは、関係代名詞が直後の文の主語や目的語を置き換えたものではなく、that節の中に出現する主語を置き換えているというトリッキーな構造になっているからだ。そのために日本語の訳し方も英語の構造の呪縛にとらわれがちだが、後半のwe knowでは始まる文を見る限りWe know quite wellの部分は限定的に修飾するよりも、重文相当にして後から叙述を追加していく形にした方が日本語として自然だ。

     そこでようやく例文の訳を提示する事ができる。
    (推敲訳) 多くの人がこの手の犯罪に手を染めてはいない。その事を私たちは確信している。
    posted by アスラン at 12:10 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年05月22日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(9.1.pre5)

    Chapter9.関係詞 @主格の関係詞」より。

    例文9.1.5の直前の解説について考える。
    (a) My friend did not appear.
    (b) I expected that he would help me.

     この2文を関係詞を用いて1つにまとめると以下のような文になる。
    (A) My friend, who I expected would help me, did not appear.

     この解説は、つまりは(A)のような関係詞を用いた構文を伊藤先生が優しく逆向きにして説明してくれているところだ。I expected that…のようにthat節を目的語とする構文では、that節の中の主語が関係詞whoに変わり、同時に接続詞thatが消えるため、「関係詞S+V…V」のような構文になる。この構文に最初から直面すると、どういう構造なのか分かりにくくなる。ただ、(a)と(b)という2文に分解できれば、何も恐れる必要はない。どこにも意味不明なところはなくなったのだから。

     しかし、そこから伊藤先生は2つの訳を僕らに提示する。
    (1)助けてくれるものと私が思っていた友達が姿を見せなかった。
    (2)私の期待では助けてくれるはずであった友達が姿を見せなかった。

     ここまでくれば、僕の主張はただ一つ。こんな日本語を僕は書かない。おそらく、受験生にとっては、このような訳し方をしないと、この文が理解できた事をアピールできないと思うだろう。もし、もっと日本語としてまともな訳(それは意訳に見えるかもしれない)を書いた場合、採点する側は意図をくみ取ってくれるだろうか。そもそも採点する側も、どこまでを正解と見なしていいものか判断に迷うかもしれない。要するにさきほどの(1)(2)は、受験というゲームでのみ成立するルールのようなものだ。

     だからこそ、ここでは(1)(2)では満足せず、あくまで僕が納得する日本語に推敲する必要がある。
    ((a)の推敲訳) 友人は姿を見せなかった。
    ((b)の推敲訳) 友人が助けてくれる事を私は期待していた。

    これを(A)の訳として一つにまとめるまえに、以下の2文を考える。
    (B) My friend did not appear. I expected that he would help me.
    (C) I expected that my friend help me. He did not appear.

     伝えたい内容が2文であるが、伝え方の順番が違っている。そのせいで2つの文の間に置くべき接続詞が日本語では変わってくる。
    ((B)の訳) 友人は姿を見せなかった。私を助けてくれる事を期待していたのに。
    ((C)の訳) 友人が助けてくれる事を私は期待していた。なのに姿を見せなかった。

     そして、元々の文が、この(B)でも(C)でもなく(A)である理由を考えなければならない。2文の内容を伝える順番としては(C)の方が似ているが、(C)の訳を見てわかるように、最初の文の題目(topic)が「私は」になっていて「友人は」ではない。(A)の文がMy friendで始まっている以上、これは2つの文の内容を伝える際の題目が「友人は」であるように訳すべきだという事を意味している。その上で伝え方の順番が、より(C)に近くなるようにできればよい。

     その訳し方を考えるために、(A)の前提である文脈を考えてみよう。例えば、「私」がルームシェアしている同居人にして「友人」は、奇矯にも探偵を生業としている。ある日、彼の留守中に一人のうら若き女性が依頼に来た。可憐にして慎ましやかな姿に魅せられた私は、友人抜きで彼女の悩みを聞いて友人の代わりに依頼を受けてしまう。後で友人に依頼を伝えたが、友人はあまり気乗りしないようだった。それどころか「君のロマンティックにして感傷的な想像力で、僕の解決した事件をゴテゴテと飾り立てて書いたりしないだろうね」と釘を刺されてしまった。翌日の午前中は往診の予定が入っていて、それをすませてから依頼人の待つ現地で落ち合う約束を友人と取り付けた。翌日、私は予定通り現地に赴いた。という、どこかで聞いたことがあるような文脈を前提にする。
    ((A)の推敲訳) その友人だが、きっと助けてくれるはずだと私はあてにしていたが、結局は姿を見せなかった。
    posted by アスラン at 02:24 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年05月19日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(9.1.4)

    「Chapter9.関係詞 @主格の関係詞」より。

    9.1.4 Quite a number of my best friends are people who, when I knew them only by sight or repute, filled me with positive loathing.
    (訳) 現在、私の最良の友人になっている人の多くは、顔や評判を知っているだけのときには、何ともいやなやつだと思えたような人である。
     英語を習いたての中学生の頃、最上級で「最も〜な…の一つ」という言い方にビックリした。日本語の「最も(もっとも)」は「一番」という意味で、一番がいくつもあるのはおかしいと思ったからだ。「富士は日本一の山です。」を言い換えて「富士は日本で最も高い山です。」とは言えるが「富士は日本で最も高い山の一つです。」とは言えない。違和感があった。でも英語の授業では、それが正しいと教えられた。ここでは日本語として適切な表現に推敲する事が目的なので、その違和感をきちんと形にしなければならない。おそらく「エベレストは世界で一番高い山です。」の次に「キリマンジャロは世界で一番高い山の一つです。」に違和感を感じる以上、highestと「一番高い」はイコールではないという事だ。

     日本の文化では「最も」「一番」という心情的・情緒的な事実が重要だが、英語圏の文化では「最上位の」という論理的な事実が重要だという事かもしれない。少なくとも日本人から見ると、英語の最上級は「一番」にこだわっていない。どこかで「一番だと断定できるものは極々限られているので、ある範囲の上位にあれば同等に扱おう」という意識が感じられる。だとすると、best friendsを「最良の友人」と訳すのはマズいだろう。そもそも「最良の」と言ってるのに複数形なのは、日本人にとっては矛盾している。これはもう「親友」もしくは「仲の良い友人」ぐらいに訳さなければ、辻褄が合わない。

     次は「私の最良の友人になっている人の多くは…と思えたような人である」という、およそ日本語らしくない言い回しをなんとかする必要がある。こうなった原因はもちろん、この章の主テーマである関係詞の訳し方にあるのは確かだが、それ以外にも名詞句からなる主語を直訳調で訳している事も大きい。英語は主語や目的語に長々しい名詞句を採用して、その中に日本人からみると一つの文章になるような述部表現を圧縮している事が多い。ここでもQuite a number of my best friendsという名詞句から、きちんと言うべき事を抽出する必要がある。

     ポイントは日本語ではおざなりになりがちな冠詞や単数・複数について、どのように日本語に還元するかという点だ。もし、この直前に「私には親友と呼べる人間がたくさんいる」みたいな文があるのであれば、「この友人の多くは」で済ます事もできるが、その場合はおそらく「my best friends」自体がthemなどの代名詞になっているはずだ。文脈上、初見の対象についてはきちんと説明しておく必要が日本語にはある。それと同時に、話題(topic)が「私」から「親友の多く」に移った事を明示するために、題目の「は」を使って仕切り直す必要がある。
    (推敲訳)私には親友が何人もいるが、その中の多くは…

     次はpeople who,…以下の関係詞構文をどのように日本語に訳すか、だ。この英文はwhoの後にカンマが来ているが、もう一つのカンマで区切られたwhen I knew them only by sight or reputeが挿入節になっているだけで、本来は関係詞の制限用法だ。つまり、以下のようになる。
    (A)Quite a number of my best friends are people who filled me with positive loathing (when I knew them only by sight or repute).
     では何故、(A)は関係詞を使わずに以下のように書かれていないのだろう。
    (B)Quite a number of my best friends filled me with positive loathing (when I knew them only by sight or repute).

     これはあくまでニュアンスの違いに過ぎないが、(B)のように書いてしまうと、「私の友人の多く」が、かつては揃いも揃って「嫌悪感を抱かせるような存在だった」という客観的な事実を述べているように感じられる。つまり「親友だなんて言ってるけれど、そもそもは嫌悪感を抱かせる存在だったんだよ」という事実にフォーカスを当てている事になる。対して(A)の方は「今現在、親友がたくさんいる」という点にフォーカスを当てた上で、過去には「嫌悪感を抱かせる存在だった」という事実を補足している。(A)に含まれるニュアンスをなるべく反映するように推敲する。
    (推敲訳)私には親友が何人もいる。今となっては親友だがその多くは、見かけや噂などのうわべしか知らないうちは紛れもなく嫌悪しか感じなかった。

     もうちょっと「親友である」という事にフォーカスを当てたい。さらに推敲する。
    (推敲訳)私には結構な数の親友がいる。その多くは、ちらっと見かけたり噂を耳にしたりするだけでまだ何も知らない頃は、間違いなく大嫌いだった。なのに、今となっては親友だ。
     
    posted by アスラン at 00:10 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年05月14日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(9.1.3)

    「Chapter9.関係詞 @主格の関係詞」より。

    9.1.3 People regard the multiplication table as characteristic of all education―something which once learned stays with you through life.
    (訳) 人は九九の表をすべての教育の特徴をなすもの、つまり一度覚えてしまえば忘れることのないものと考えている。
     正直言って、訳文を読んでも全然ピンときません。九九の表ってこんな感じのものですかね。
    九九の表.jpg
    これが「すべての教育の特徴」をなしているとは一体どういうことでしょうか?湯川先生じゃないが「さっぱり分からない」。

     さらに、この九九の表が体現する「すべての教育の特徴をなすもの」というのは、「一度覚えてしまえば忘れることのないもの」と同義だと言っている。これまた理解できない。そもそも小学校で習ったことの大半は「一度覚えただけでは忘れてしまうようなもの」ばかりだった気がする。そういう趣旨のクイズ番組がある。あの番組の趣旨は、小学生が人生のうちで一番賢くて、年を経るに従ってどんどん馬鹿になっていくと思わせるところにある。もちろん、それが小学校で習うべき「教育」の理念ではないのは承知の上で言っているのだが。

     それでよくよく見ると後半の関係詞whichが使われている文はstays with youと書かれている。これは「忘れる事が無い」という意味ではなくて、「そのままとどまる」という事ではないだろうか。つまりその人に一生寄り添う、あるいは財産となるという意味に解釈すれば、前半の意味もおのずと見えてくるような気がする。前半の文で問題になるのは、やはりcharacteristicだ。よく知っている形容詞の「特徴的な、特質のある」という意味でそのまま日本語を組み立てても、今ひとつ腑に落ちない。ランダムハウス英和大辞典では「典型的な」という訳語も示されている。確かに九九の表を見ると、誰しもが「あぁ、小学校で覚えさせられたなぁ」と思い出すのではないだろうか。つまりはそういう事を言いたいのだ。そう考えれば、何故九九そのものではなく「九九の表」なのかが分かる。「にさんが6」は日常で計算する時の口癖のようなもので習慣となっているだけだが、「一の段、二の段、…」と整然と並んだ表を見ると、子供の頃の授業風景が連想的に立ち現れるはずだ。そこを意識して推敲してみる。
    (推敲訳) 九九の一覧表をながめていると、あらゆる教育の典型例がまさしくこれだなと、誰しもが思う。

     二番目のsomethin which…は、直前のcharcteristic of all educationと同格関係にある。そして、once learnedをちゃんと外側に出すと、以下のような文になる。
    If it is once learned, something stays with you through life.

     これをそのまま訳せば、
    (推敲訳)その何かは、一度覚えてしまえば一生そのまま寄り添ってくれる。

     まとめて、さらに推敲する。
    (推敲訳)九九の表を見ると、教育という教育の典型がまさにここにあると誰もが思う。それは何かと言えば、一度覚えたら生涯ずっと寄り添ってくれるものだという事だ。
    posted by アスラン at 09:33 | 東京 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年05月10日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(9.1.2)

    「Chapter9.関係詞 @主格の関係詞」より。

    9.1.2 The modern American schools provide the young of all classes with the common background that in an old, rural society is provided by tradition, by the dairy life in each community.
    (訳) 現代のアメリカの学校はあらゆる階級の若者に共通の生活体験を与えているが、それは昔の農村社会であれば、伝統によって、つまり、それぞれの地域社会の日常生活によって与えられるものなのである。

     ここには関係代名詞でしっかりと結びつけられた二文があると同時に、同格関係と言われるものが含まれる。これらをまず解体してみよう。
    (A)The modern American schools provide the young of all classes with the common background.
    (B)In an old, rural society it is provided by tradition.
    (C)          (it is provided by the dairy life in each community.)
    (a)現代のアメリカの学校はあらゆる階級の若者に共通の生活体験を与えている。
    (b)昔の農村社会であれば、それは伝統によって与えられる。
    (c)つまり、それはそれぞれの地域社会の日常生活によって与えられる。
     いくつか手直しをしないといけない。まずは(A)だが、先行詞がthe common backgroundとなっていて定冠詞がついている。これは本来(B)が関係代名詞節として、common backgroundの内容を修飾して「〜という共通の生活体験」という限定が生じている事を意味している。いわゆる制限用法というやつだ。これを非制限用法の形式に訳しているのは、同格関係の(C)を含めてすべてを後ろから訳して先行詞に掛けると、非常にバランスが悪い日本語になってしまうからだ。だからと言ってそのまま非制限用法で訳すと、日本語として意味がうまくまとまらない。ここはとりあえず(B)を予告するように、つまりは定冠詞のtheをきちんと表に出して訳さないといけない。
    ((a)の推敲訳)現代のアメリカの学校では、あらゆる階級の若者に、ある特定の、共通した生活体験が与えられる。
     まだ、これでも日本語としては熟れていない。theの問題もそうだが、それ以外にも日本語では「学校が生徒に生活体験を与える」とは言わない。原文の主語をそのまま訳そうとするからそうなるのであって、ここでは「学校では、生徒に生活体験を与える」もしくは「学校では、生徒に生活体験が与えられる」となるのが自然なので、すでに推敲しておいた。

     ただ、まだ坐りが悪いのは、common backgroundを「共通の生活体験」にしているからだ。次の(b)にあるように、「かつての農村」ではきちんと与えられてきたものでなくてはならない。どちらかというと、backgroundの訳語の「教養、経験、環境」などが当てはまりそうだが、もう少し熟れた言い方はないかと思い、日本国語大辞典の「バックグラウンド」を検索してみた。すると「ある個人の正確や思想を形成する基板となった境遇や環境など」という語釈がでてきた。なんとなく使えそうだ。それ以外にも「階級」は少し日本語としてはニュアンスが違っているように感じられるし、「若者」はこの文では「子供」に寄せた方がよさそうだ。
    ((a)の推敲訳)現代のアメリカの学校では、どんな階層の子供たちに対しても同じように、人間形成の基礎となる、ある特定の体験をカリキュラムに取り入れている。

     (b)の「農村社会」は確かにrural societyの訳語だが、日本語としては坐りがわるい。単に「農村」と言えば場所・地域だけでなく共同体・社会も意味する。「伝統」もここでは大げさで、「慣習やならわし」程度がよさそうだ。それと、よくよく見れば(b)(c)は現在形なので「昔の農村」ではなく「昔ながらの農村」だろう。
    ((b)の推敲訳)昔から続く農村では、今も慣習がその役目を担っている。

     最後が同格関係の(c)だ。元の訳文では、英文らしく動詞をひとまとめにしてby traditionとby the dairy life…とが同格関係として示されている。それをそのまま枠組みごと訳すと「伝統によって、つまりは、…日常生活によって与えられる」という形になる。しかし、これも日本語として坐りが悪い。「伝統」と「それぞれの地域社会の日常生活」がイコールであることを示したいのなら、「伝統、すなわち、それぞれの地域社会の日常生活によって」と言えるだろうが、おそらくこの文では「伝統によって…与えられる」と「それぞれの地域社会の日常生活によって…与えられる」と
    が同格である事が示されている。日本語のように述部優位の言語では、述部を省略せずに文を分け、間に適切な接続詞を挿入する方が安定する。
    ((c)の推敲訳)つまり、共同体ごとの日々の暮らしがその役目を担っている。

     さらに推敲して全体をまとめる。
    (推敲訳) 現代のアメリカの学校では、どの階層の子供たちにも等しく、人間形成の基礎となるようなある特定の体験が用意されている。それは、昔ながらの農村では、今も慣習がもたらしてくれる体験である。要するに、子供たちが各々の地域社会で日々暮らしていればおのずと得られるような体験である。
    posted by アスラン at 09:45 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年05月04日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(9.1.1)

    「Chapter9.関係詞 @主格の関係詞」より。

     そろそろ「共通関係」に飽きてきたので、Chapter14の序盤の@が終わったところで中断。関係詞のChapter9に取り組もうと思う。

    9.1.1 I know no stateman in the world who with greater right than I can say that he is the representative of his people.
    (訳) 自分が国民の代表であると、私よりも大きな権利をもって言うことのできる政治家を私は世界中で知らない。
     当然ながら、こういう日本語を僕は書かない。あくまで、この文が通用するのは英文解釈の教材という枠組みの中だけの事で、大学を受験する生徒には頭の中でここまでは正しく文意を拾えるようにという、伊藤先生の「口伝え」のようなものだと思うべきだ。そこから先に、日本としてきちんと文意を理解できる文に推敲するというモチベーションが僕にはある。まずは英文の構造について考えておく。
    I know no stateman in the world
          └ who
            └ can say that he is the representative of his people.
               └with greater right than I
     相変わらず英文は、9.1.1のような短めの文章に、よくぞここまでという程にコンパクトに言いたい事を詰め込んでいるなぁという印象だ。それは前回(14.1.10)も書いたが、合理的で効率を重視する英語の利点ではあるが、一方でネイティブ以外の人が理解するには背景情報(文脈や文化や習慣)が求められ、ハードルが高いという印象を受ける。

     この構造に詰め込まれた内容を文に解体すると、以下のようになる。
    (A) With great right, I can say that I am the representative of my people.
    (B) With great right, any stateman in the world can say that he is the representative of his people.
    (C) I can say that I am the representative of my people with greater right than any stateman in the world can (say that he is the representative of his people).
    (D) I know [(C)]
    比較構文については、あらためてChapter12「比較の一般問題」で考えるが、伊藤先生は「AとBについて」比較するだけでは不十分で、「AとBをXについて」比較するという事に注意しなさいと書いている。この文で言うと以下のようになる。
    A. 私は、自分が国民の代表であると大きな権利をもって言うことができる。
    B. 世界中の、私以外の政治家は、自分が国民の代表であると大きな権利を持って言うことができる。
    X. 大きな権利を持って(言うことができる)
     結果、Aの方がBよりもXの程度がまさっているという事を主張している。さらにその事を自分が分かっているという主観の視点(D)が付け加わったのが、9.1.1の例文だ。

     ちなみに(C)の部分は「no stateman=not…any stateman」に変換して考えたが、ここに一種のレトリックがある事も考慮する必要がある。通常はMikeとJaneのように一対一の比較の場合は比較級を用いるが、複数の中で「もっとも…」という場合は最上級を用いる。この本来最上級になるべき内容を比較級で表現する定番の言い方がnoやnot anyを使った表現だ。こんな事は英語をかじった人には耳にタコだろうが、これを日本語にする際には、こういう言い方は本来はしないのでは?という疑問からはじめるべきだ。「私以外の政治家」と「私」を比較して、「私以外の政治家で私よりまさっている者はいない」という英語特有のレトリックを採用しているが、日本としてはちょっと勿体ぶっている。「私は、私以外の政治家よりまさっている」と考えた方が自然だ。

     さきほど挙げた(A)〜(D)の中で一番言いたい事はなにかと考えると、(A)だという事は明らかだ。それを強調するためのレトリックとしてnoやnot anyを用いた比較構文を使っていると考えると、まずは(A)だと言い切ってしまう方が分かりやすい。その上で(B)(C)(D)のニュアンス(レトリック)を積み上げていけば構文的にも安定するだろう。なお、元の訳文の「…言うことのできる政治家を私は世界中で知らない」という部分は誤解される表現だと思う。文字どおりに捉えると「まだ知らないだけで、いるかもしれない」という解釈(屁理屈)も可能だ。このI know no statemanは「…言うことのできる政治家が世界中にいないと知っている」という意味だ。さらに言うと、knowを「知る、知っている」という意味に捉えるから誤解を生むのであって、「確信している」という意味に捉える方が適切だと思う。

    (推敲訳) 私には自分が国民の代表だと言える資格が充分にあるし、世界中のどの政治家が同じように言っても引けを取らないと確信している。
    posted by アスラン at 22:00 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年05月01日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(14.1.10)

    「Chapter14. 共通関係 @文の主要素の共通関係」より。

    14.1.10 You can hardly imagine a blind deaf girl holding a lively conversation, reading books, writing letters, and above all, enjoying life. But such is Helen Keller.
    (訳) 盲目で耳の聞こえぬ少女が活発な会話をし、本を読み、手紙を書いているところ、特に人生を楽しんでいるところは、ほとんど想像できません。しかし、ヘレン・ケラーとはこういう人なのです。

     伝えたい事はすべて伝わるけれど、日本語としては違和感がある。もし違和感がないとすると、翻訳調という文体に日本人が少しずつ浸食されてきた結果かもしれない。どういう事かというと、ある話題となる物事や人物などについて日本語で語る場合には、まず存在を周知するための述部表現によって未知の物事や人物を既知に変えた後、既知の物事や人物を話題(題目)にした上であらためて何事かを述部表現で語るという段取りになる。例えば、こんな風にだ。
    むかしむかしあるところにおばあさんがいました。
    おばあさんは川に洗濯に行きました。
     この民話のような風景がかつては日本のどこかにあったという事を、今の僕らには「想像もつかない」という事であれば、上記の2文をつなげて題目として以下のような文にする事はできるだろう。
    むかしむかしあるところにおばあさんがいて、川に洗濯に行ったなんてところは、今の人には想像もつきません。
     これよりも表現を圧縮しようとすると、違和感のある日本語になってしまう。
    むかしむかしあるところでおばあさんが川に洗濯に行ったなんてところは、今の人には想像もつきません。

     そして、元々の訳文は、まさにこのような文になっている。どうしてこのようになってしまったかと言うと、日本語は述部を基本とした文構造を持つのに対して、英語では主語+動詞(S+V)を基本とした文構造を持つという違いが大きく影響している。元々の例文で言うとa blind deaf girlという名詞句は確かに「盲目で耳の聞こえぬ(一人の)少女」を意味するが、これを主語に据えた事で「盲目で耳の聞こえぬ少女がいる(いたとする)」という状況(前提)を示す役割を持つ事になる。その役割に大きく貢献しているのが不定冠詞のaだ。英語は、日本語にはない2種類の冠詞(aとthe)を駆使する事で、日本語の「〜がいる」「〜は…する」という表現を一つの文表現の中に収めてしまう。

     これは一見すると、英語がコンパクトな文構造になっていて合理的であるかのようだが、その一方で主語(主語として据えられた存在)と動詞との関係が極めて見えにくくなっている。さらには、この英文のように、動詞句を整然と並べる事も多いし、時に分詞構文など使って、さまざま関係(順接や逆接、理由や原因、結果など)を表す事も多い。日本人から見ると、接続詞や副詞がきわめて少なくて文化的な背景や文脈に極めて依存しているように見える。「日本語はS,V,O,Cなどの基本となる要素がなく、文脈に依存してSやOなどが省略されるきわめて非合理的な言語」と、かつては自虐的に語られる事があったが、こうして冷静に比較してみると、英語自体もかなり文脈に依存した言語である事がわかる。

     こうした事を踏まえて、この訳文を推敲する。もちろんの事だが、ヘレン・ケラーという希有な人生を送った女性をリスペクトするためのレトリックが、この文章には潜んでいる。普通に考えて「盲目で耳が聞こえない」という障がいをもった人間が、目や耳の機能を前提とした会話や読書や手紙を書く事など出来るとは思えない。だから、普通の人が考えるのとは違う手段だけれど、並はずれた意志と努力で実現したという意味が含まれているはずだ。そこで、主語から存在の述部表現を表に出した上で、彼女が実現した事とのギャップがわかるように接続詞を挿入してみる。
    (推敲訳)盲目で耳の聞こえぬ少女がいて、にもかかわらず彼女は活発な会話をするし、本も読むし、手紙だって書く。なにより人生を楽しんでいる。そんなことは、ほとんど想像できません。でも、それがまさしくヘレン・ケラーという人なのです。

     ここから、さらに推敲する。会話や、本を読む事や、手紙を書く事の各々にもレトリック(仄めかし)が含まれている。それをかぎ括弧で強調しておく。また、ヘレン・ケラーの偉業をえらそうな言葉で語るのは相応しくない。もっとくだけた言葉で分かりやすく書いてみる。
    (推敲訳)目が見えないし耳も聞こえない一人の少女がいて、なのに彼女はぺちゃくちゃ「おしゃべり」するし、「読書」だってするし、「手紙」だって書きます。なんといっても今このときを楽しんでいる。そんな人がいるなんて誰も考えられないでしょう。でも、それこそがヘレン・ケラーという人なんです。
    posted by アスラン at 06:10 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年04月21日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(14.1.9)

    「Chapter14. 共通関係 @文の主要素の共通関係」より。

    14.1.9 Queen Elizabeth introduced several reforms that were helpful to the nation, and guided her people step by step to prosperity and power.
    (訳) エリザベス女王は、国民のためになるいくつかの改革を導入し、国民を一歩一歩繁栄と強国へと導いた。
     この訳文についてもいろいろと言いたい事がある。まずは英文解釈としての課題を確認しよう。andで示されている共通関係はどれとどれか。以下に示した2通りの解釈がありうる。
    (A)Queen Elizabeth introduced several reforms that were helpful to the nation,
          └─ guided her people step by step to prosperity and power.

    (B)Queen Elizabeth introduced several reforms that were helpful to the nation,
                             └ guided her people step by step to prosperity and power.
     (A)は主語Queen Elizabethに対して2つの動詞が共通関係にあるS (V+O)(V+O)の形。(B)はintoroducedの目的語several reformsに対する2つの関係代名詞節が共通関係にあるS+V+O(M+M)の形。伊藤先生は「形からは決められない」として、文の内容から(A)を選択している。でも、本当に形からは決められないのだろうか。例文14.1.9には一箇所だけカンマが打たれている。このカンマの持つ意味を深く追求すれば、この文の解釈は「形から決められる」のではないだろうか。

     これについては、そうとも言えるし、やはりそうでないとも言える。「そうとも言える」というのは、やはりカンマには重要な意味があるからだ。以前、Practical English Usage, 3rd edition (by Michael Swan)の句読法(punctuation)の章でカンマ、コロン、セミコロンについて詳しく調べた。そこに書かれていたカンマの用法を抜き出してみよう。
    1. 等位節
     andやbut、orでつないだ節どうしは大抵の場合はカンマで区切る。ただし節がきわめて短い場合は、この限りではない。以下の2つを比較するように。
      ― Jane decided to try the home-made steak pie, and Andrew ordered Dover sole with boiled potatoes.
        Jane had pie and Andrew had fish.
      ― She had very little to live on, but she would never have dreamed of taking what was not hers.
        She was poor but she was honest.
     これを見る限り、等位接続詞andやorで等位節が共通関係にある事を示すためにはandの前にカンマを打つ。つまりさきほどの解釈(A)に該当するのではないか。そう考えるのはまだ早い。実はthatで始まる節が共通関係にある解釈(B)の場合にも等位関係が成立するので、そちらにカンマが役立っている可能性もあるのだ。そこでsevaral reformsを後置修飾する関係代名詞節O+(M+M)の部分をS+(V+O)(V+O)の文表現に変換してみる。
    (b1)Several reforms were helpful to the nation, and guided her people step by step to prosperity and power.
    (b2)Several reforms were helpful to the nation and guided her people step by step to prosperity and power.
     カンマの有無で(b1)(b2)の二通りの文を用意したのは、さきほどのPractical English Usageのルールに対応している。通常、等位接続詞andで2つの節をつなぐ場合にはカンマで区切るが、節が短い場合はカンマを挿入しなくてもいい。この感覚はおそらく日本語の読点にも共通している。一つの節が長くなってまとまりが分かりにくくなった場合には適当(適切)な位置に読点を挿入する必要がでてくる。ただ、このように共通関係(並列関係)の場合に区切るなどというような論理的な読点の使い方を指南する本は極めて少ない。英語は句読法をきっちり教わると聞いたことがあるのだが、「文の長さがどれくらいより長ければカンマで区切る」という厳密なルールはさすがに作れないだろう。

     もし前半部分の…were helpful to the nationが長いと思うならば(b1)のようなカンマが必要になる。その場合、例文のカンマが解釈(A)に基づくものか、解釈(B)によるものかの区別が付かなくなる。一方、前半部分は短いので(b2)のようにカンマは不要だと思えるのであれば、例文のカンマは解釈(A)に基づいて挿入されているという事になる。僕の拙い英語の語感から言っても前半部分が長いとは思えないので、(b2)になるだろうなと思う。だから、元の例文も解釈(A)の共通関係の構文とみなせる。ただ、高校生レベルだとpunctuationの詳細は習わないし、長い短いの判断を生徒の求めるのは難しいと考えて、伊藤先生が一足飛びに「形からは決められない」と言い切ってしまうのはやむを得ない。ただ、この例文で使われているカンマは、自ずから一つの解釈を主張している事は確かだ。

     一方で「形からは決められない」別の例として、14.1.9に続いて次のような[参考]の例文を挙げている。
    [参考] He was left to the care of his grandmather, who was very kind and sent him to school.
    (訳) あとに残された彼は、祖母の世話を受けることとなった。祖母は非常にやさしく、彼を学校へやってくれた。
     こちらは関係代名詞節が非制限用法になっている。こちらも可能性を考えるのであればHe was left…and sentとwho was kind and sentのいずれかになる。ただ「形から決められない」というよりも「内容からの方が決めやすい」という例だろう。主語のHeをandの後方のsentにつなげてしまうと明らかに意味が通らなくなるからだ。

     ただ、この参考の例文も、形から考えれば一つの解釈に行き着く。それは内容から考えた場合とたまたま一致するだけで、カンマの重要性は損なわれてはいない。例えば以下のような文を比較してみよう。
    (c1)He was left to the care of his grandmather, who was very kind and sent him to school.
    (c2)He was left to the care of his grandmather, who was very kind, and sent him to school.
     (c1)は参考の例文そのままで、(c2)はandの前にカンマを加えた文になっている。ここまでの検討で分かるように、一般的にカンマは等位接続詞andやor,butなどよりも区切りとしての優先度は高い。そこの前後で文や節が意味的に切断されるように感じられる。しかし再びカンマが挿入されると、最初のカンマの影響をキャンセルする効果が生まれる。(c2)の場合だと非制限用法の関係代名詞節はwho was very kindで終わるので、それ以降は本流であるHeを主語とした構文に戻るように感じられる。当然ながら(c2)だと解釈すると内容との齟齬が生じるので「あれ?2番目のカンマはタイポかな」と考えて、内容で考える事になるだろうけれど。

     そこでもう一度14.1.9の例文に戻る。カンマの効果を考える上で、以下の4つの例文の内容(意味)を「形から」だけで考えてみよう。
    (1)Queen Elizabeth introduced several reforms that were helpful to the nation, and guided her people step by step to prosperity and power.
    (2)Queen Elizabeth introduced several reforms that were helpful to the nation and guided her people step by step to prosperity and power.
    (3)Queen Elizabeth introduced several reforms, that were helpful to the nation and guided her people step by step to prosperity and power.
    (4)Queen Elizabeth introduced several reforms, that were helpful to the nation, and guided her people step by step to prosperity and power.
     (1)は14.1.9のままで、さきほど見てきたようにカンマが解釈(A)を支持しているように見える。
    (1の訳) エリザベス女王は、国民のためになるいくつかの改革を導入し、国民を一歩一歩繁栄と強国へと導いた。

     (2)はカンマが一切使われていないので、解釈(A)になるのか解釈(B)になるのかは形では決められない。ただ、本来はこの程度の長さならばintroducedとguidedの共通関係を際立たせるためにandの前にカンマを挿入しても不思議ではないのに実際にはカンマがない事から、解釈(B)なのではないかと考える。
    (2の訳)エリザベス女王は、国民のためになり彼らを一歩一歩繁栄と強国へと導いたいくつかの改革を導入した。

     (3)は14.1.9の例文の関係代名詞節を非制限用法にしたものである。カンマ以後は非制限用法の関係代名詞節どうしの共通関係と見なせる。
    (3の訳)エリザベス女王はいくつかの改革を導入した。それらは国民のためにと考えて行ったものであり、実際に国民を一歩一歩繁栄と強国へと導いた。

     (4)は(3)と同じように関係代名詞節の非制限用法であるが、andの直前のカンマが非制限用法のための最初のカンマをキャンセルする効果が発生する。
    (4の訳)エリザベス女王はいくつかの改革を導入したが、それらは国民のためにと考えて行ったものだった。そうして女王は国民を一歩一歩繁栄と強国へと導いた。
     面白い事に、と言ってしまったらなんだが、どれも五十歩百歩の違いしかない。「女王が国民を導いた」と考えるのか、「女王が導入した改革が国民を導いた」と考えるのかはレトリックの違いであって、文意に大差はない。また(1)と(2)の違いは何かというと、歴史的な事実を俯瞰して見るレベルが違うだけで、「女王が改革を導入して、結果的に国民を繁栄と強国へと導いた」とみるのか、「結果的には国民を繁栄と強国へと導くことになった改革を、女王が(この時点で)導入した」というニュアンスの違いで、矢張り文意に違いはない。そして、このニュアンスの違いはこの文の直前までの文脈から明らかになるものなので、結局は、この文に関する限り、形で考えようと内容で考えようと、受け手である僕ら次第という事になる。

     ちなみに、伊藤先生が「形からは決められない」と言い切った理由の一つには、必ずしも適切な位置にカンマが打たれているとは限らないという現実的な側面も含まれていると思う。これは他人が書いた日本語を読んでいると度々出くわす事なので、よくわかるだろう。「こいつ、こんな事書いてるけど、誤解される書き方してるなぁ。ここに読点をひとつ打っておけば誤解されずに済むのに」なんて事は日常茶飯事だ。いや、自分の文章も、読み返すたびに読点の打ちどころを探したり、あるいは取ってみたりと、考え直している事がしょっちゅうある。英語でもきっとそれが日常的に起きているはずだ。だから「形から考えずに内容で考えろ」と言いたくなるところだが、やはり基本は「形から考える」べきで、そのうえで「内容でも考えていく」しかない。

     と言うわけで、言いたい事はほぼ言い尽くしたので、例文の推敲に取りかかろう。
    14.1.9 Queen Elizabeth introduced several reforms that were helpful to the nation, and guided her people step by step to prosperity and power.
    (訳) エリザベス女王は、国民のためになるいくつかの改革を導入し、国民を一歩一歩繁栄と強国へと導いた。

     つい最近テレビで耳にしたが「国は人なり」と言ったのは武田信玄だそうだ。nationというと普通は「国、国家」が出てくるが、筆頭の語義は「国民」だ。君主というものはどこも同じような事を考えるようだ。エリザベス女王とはエリザベス一世の事だろう。西洋史に詳しくはないが、かつてアッテンボロー監督の「エリザベス」を見たときの印象が強いので、「国民のため」なのか「国家のため」なのか、あるいは「自らの権威のため」なのかと考えてしまう。特に、前半はともかくとして、後半の「国民を繁栄と強国へと導いた」というところがしっくりとこない。

     マイペディアの「エリザベス1世」の項には「国際紛争にまきこまれることを極力避け」とか「1588年スペインの無敵艦隊の襲撃を退けて国威を高めた」と書かれている。また「内政面では、中産階級を積極的に登用し、困難な社会情勢に多くの立法をもって対処し、〈楽しきイングランド〉と謳歌された」とあるように、体制が安定していた時期は「国民本位」という姿勢があったようだ。ニッポニカには「内政面でも、エリザベス的施策が種々試みられ、1560年グレシャムの提案により銀貨の改鋳を命じ、1563年には『囲い込み取締法』『職人法』『救貧法』を制定、急激な変革を抑えて経済、社会の安定を目指した」とも書かれている。

     名君でありつづけたかは怪しいが、この例文に関しては、まさにこれらの辞典に取り上げられている改革を取り入れた時期の事が書かれているようだ。ただし、「国民のため」というお題目で「繁栄」を目指し、「強国」となることで平和を担保したと言い切れるのか。おそらく国民本位の改革と、強国を目指した事とは別だと考えた方がいい。それが分かるような表現に変える。

    (推敲訳)女王エリザベス一世は、国民のためを思っていくつかの改革を取り入れた。と同時に、国家が繁栄し強国へと至る道へと国民を導いた。
    posted by アスラン at 02:56 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年04月13日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(14.1.8)

    「Chapter14. 共通関係 @文の主要素の共通関係」より。

    14.1.8 Formerly girls were usually taught at home by governesses and received only a very narrow kind of education, in which science played no part at all.
    (訳) 昔は、女の子はふつう家で家庭教師につき、受ける教育の範囲は非常に狭く、その中に科学はまったく含まれていなかった。
     状況を考えれば、アニメ『アルプスの少女ハイジ』のクララとロッテンマイヤー女史とが思い浮かぶところだろう。girlsを「女の子」としているが、これはヨーロッパもしくはイギリスにおける上流階級もしくは良家に限定された慣習であり、まだまだ一般人が教育を受ける事ができない前時代の話だ。しかも元々は上流階級の子弟だけがtutorと呼ばれる家庭教師から教育を受けていた。その後に女子にも家庭教師が付くようになるようだが、どちらかというと教育というよりもしつけに重点が置かれていたようだ。だから最低限の教育としつけ以上の学科(ここでは科学)などは含まれなかったという話になる。

     男子には男のtutorが雇われ、女子にはgoverness(女性)が雇われる。しかも通例は住み込みで雇われる事が多いようだ。そこらへんの事も説明的にはなるが、この一文だけで伝えるならば補足しておこう。

    (推敲訳)かつて、良家の未成年の娘は、住み込みで雇われた女性の家庭教師から物事を学ぶのが一般的だった。その上、教わる内容は極めて限られていて、科学の出番などまったくと言って無かった。
    posted by アスラン at 02:07 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年04月10日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(14.1.7)

    「Chapter14. 共通関係 @文の主要素の共通関係」より。

    14.1.7 People used to think, and some still do, that Latin should be a universal model for language.
    (訳)ラテン語が言語の普遍的範型であるべきだと昔の人々は考えていたし、今でもそう考えている人もいる。

     この文はいろいろと考える事がある。何よりも「ラテン語が」で始まっている事に違和感がある。この文が単独で成立するためには、少なくとも「ラテン語は言語の普遍的範型であるべきだと昔の人々は考えていた…」としなければならない。何故そうなのかを、次の文で考えてみよう。
    (A)ラテン語は言語の普遍的範型であるべきだ。
    (B)ラテン語が言語の普遍的範型であるべきだ。

     この二つを比べたとき、何も前提がない状態で受け止めるとすると、(A)は安定している表現で違和感は感じないが、(B)については落ち着かなくなる。何かもっと先に聞いておくべき事があるのではないかと。
     係助詞「は」の働きは題目(topic)であるというのは一般的になってきたが、英語の構文や品詞の考え方に引きずられて主語と解釈する考え方はまだまだ根強い。そして主語であるからには「は」と「が」は交換可能であり、つまりは(A)と(B)は同じ事を指していると考えがちである。いや、一歩踏み出して考えると、「は」は題目を示す働きもするが、元々の助詞を兼務する事も可能なので主語を示す格助詞「が」を兼務しているだけだと考える人もいるかもしれない。そうなると、基本となるのは(B)であって、(A)は(B)を題目化(有題化)したものだという主張があってもおかしくない。

     しかし、それは考え方が逆で、「AはBである」という天秤型の文(題説名詞文)では「は」を使うのが原則である。この形式の文は、話題を提示した上で、それとつり合うもの(言い換えや属性)を示すという対話型(ダイアローグ)の文になっている。そのため「Aは」という題目を使うのが基本である。では何故(B)の表現が存在するかというと、「が」の方が「は」を強調した言い方になっているのだ。そしてこの強調を聞き手が受け入れるためには、なんらかの文脈(前提)が必要になる。一般的にはAに焦点(focus)が当たっている場合に「AがBである」という表現が受け入れ可能になり、違和感を感じることがなくなる。
    (C)何語が言語の普遍的範型であるべきか?
    (B')ラテン語が言語の普遍的範型であるべきだ。

    (D)言語の普遍的範型に相応しい言語の候補としてラテン語、英語、フランス語、ドイツ語、…などが考えられますが、どう思いますか?
    (B'')ラテン語(こそ)が言語の普遍的範型であるべきだ。

     このように(C)(D)などの前提となる文脈が直前に存在していれば「ラテン語が」で書き出しても構わない。

     次に「昔の人々は考えていた」の「は」が何故「が」ではないのかも考えてみよう。少し回り道をしてみるために、英文科の友人Aに登場願おう。
    (E)(いつものカフェに行ってみると、)英文科の友人Aがラテン語は言語の普遍的範型であるべきだと考えていた。
    (F)(ラテン語にも精通しているので日頃から)英文科の友人Aはラテン語は言語の普遍的範型であるべきだと考えていた。

     どちらの表現も問題はないだろうが、「考えていた」の意味が違っているために「が」と「は」の使い分けが必要になっている。(E)は叙述構文であり、客観的に一時的・個別的な事象を描写する際に用いられる。だから(E)で「友人Aが〜考えていた」は安定した表現である。この場合、題目として「友人Aに関して言えば」という心持ちを付加するために「友人Aは〜考えていた」という表現にすることは可能だ。ただ、「は」が連続するので少し工夫が必要で、例えば(E')(E'')のように変形する必要がある。
    (E')(いつものカフェに行ってみると、)英文科の友人Aは、ラテン語は言語の普遍的範型であるべきだと考えていた。
    'E'')(いつものカフェに行ってみると、)ラテン語は言語の普遍的範型であるべきだと、英文科の友人Aは考えていた。


     一方、さきほどの(F)の方は叙述構文ではなく、題説構文である。何が異なるかというと「考えていた」が一時的・個別的な事象を扱っているのではなく「(日頃から)考えていた」という凡時的・一般的な事象の意味で使われている。英語との対応で考えるとthoughtではなくused to thinkである事と対応している。この場合、客観的な叙述とは言えないため、通常の「が」を使った叙述構文は使えず、「友人Aは〜考えていた」という表現になる。ここでようやく「昔の人」に再登場してもらう。
    (G)ラテン語は言語の普遍的範型であるべきだと昔の人が考えていた。
    (H)ラテン語は言語の普遍的範型であるべきだと昔の人は考えていた。
     「昔の人」がいつものカフェに勢揃いしている風景がイメージできるのであれば、(G)の叙述構文で表現する事も可能だが、おそらく無理だろう。歴史的な公証に基づいて「そういうものだった」という凡時的・一般的な行為を描写しているので、(H)の題目構文が使われる事になる。
     ただ、(H)の「昔の人は」を強調する形で「昔の人が」を使う事は可能だ。
    (I)今と昔とでは、どちらの人がラテン語は言語の普遍的範型であるべきだと考えているか(もしくは考えていたか)?
    (H')昔の人が、ラテン語は言語の普遍的範型であるべきだと考えていた。

     蛇足ながら、(H)の2つの「は」を強調の「が」に変える事も可能だ。
    (J)言語の普遍的範型であるべきなのは何語で、今と昔のいずれの人がそう考えていたか?
    (H'')ラテン語が言語の普遍的範型であるべきだと昔の人が考えていた。


     さて、これで冒頭の例文の訳文を推敲する準備が整った。例文と訳を再掲する。
    14.1.7 People used to think, and some still do, that Latin should be a universal model for language.
    (訳)ラテン語が言語の普遍的範型であるべきだと昔の人々は考えていたし、今でもそう考えている人もいる。

     ここでは、文脈によって特定の言葉に焦点が当たっていないという前提で推敲する。ラテン語が何故univarsal model for languageに位置づけられたのか。歴史的経緯の詳細は知らないが、少なくともヨーロッパとイギリスの国々が権勢を振るっていた時代の考え方には違いないだろう。「普遍的な標準言語」ぐらいに訳しておく。
     もう一つ、いわゆる共通関係を訳した日本語が「昔の人々は考えていた」「今でもそう考えている人もいる」という並列関係になっているのは、どうにもバランスが悪い。この部分は、日本語でいう対照の「は」の使い方に当たる。
    (a)昔の人々はAだと考えていた。今の人はBだと考える。

    のように「〜は…、〜は…」となるのが普通だ。もし、今でも同じように「Aだと考える」のであれば、以下のようになる。
    (b)昔の人々はAだと考えていた。今の人もAだと考える。

     2番目の「は」は対照でありながら累加でもあるので「も」を使うのが当たり前になる。しかし、現実には大多数の人がAとは考えなくなっていて、一部の人だけがAと考えるのであれば、累加にはならずあくまで対照のままになるはずだ。
    (c)昔の人々はAだと考えていた。今でもそう考えている人はいる。

     あくまで「も」もあり得ると思っている人は、累加の対象を勘違いしているのだ。
    (d)昔の人々はAだと考えていた。今では多くの人がAだと考えていない。しかし、Aだと考えている人もいる。

     こうであれば、後半が「も」になるのは当然だが、訳文は(c)のパターンに該当するので、言って見れば「今でも〜も…」のように「も」を使いすぎだ。ついでに前半の「昔の人」を出すのは日本語的ではないので表現を変える。
    (推敲訳)ラテン語は普遍的な標準言語の位置に置く事が望ましいと、かつては考えられていた。いまだにそう考えている人は存在する。
    posted by アスラン at 02:30 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年04月02日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(14.1.6)

    「Chapter14. 共通関係 @文の主要素の共通関係」より。

    14.1.6 Every aged person reminds us of our own death, that our body won't always remain smooth and responsive.
    (訳)老人は誰でも我々に、自分もいつかは死ぬこと、自分の体もいつまでも柔軟で敏感なままではいないことを思い出させる。

     この文には納得できない。訳文がというより、この英文の主張自体に納得ができないのだ。これがusではなくmeであるなら個人の意見として受け止める事ができるが、usにする事で僕を含めて多くの人を道連れにしながら、あたかも真理であるかのように語るのはやめてほしいものだ。少なくとも僕は老人を見てこんな風に感じる事はない。それは僕自身が時を経てそれなりの年齢になったからではなく、若い頃から死の象徴のように老人を見たことはないのだ。
     老いていく事、それは誰にも止められない。それを目撃する事は痛ましい。そしてそれは顧みて自分の死が痛ましいのでは無く、あくまでその人が死に行く事自体が痛ましいだけだ。祖母が逝き、父が逝き、兄が逝き、最後に母が逝った。あの子供の頃に家族団らんをすごした幸せなひとときは二度と戻ってはこない。老人を見て思う事はただ一つ。老いた父と老いた母の面影を見いだす事だ。それは痛ましくもあり悲しくもあると同時に、父と母と、あの頃の思い出を束の間思い出す安らぎでもある。
     そんな事を考えながら、usをmeに変えた時の訳文を推敲してみたくなった。個人がどう考えようがそれは勝手だ。と同時にusのままでいくのであれば、もっと感情を廃して冷静に、というより冷徹に断定する文章に推敲すべきなのではないだろうか。

     ところで、その前に僕自身が頭を冷やしてクールダウンするためにも、ちょっと共通関係について触れておく。伊藤先生は、reminds us ofがうける共通関係の形が「同じではなく崩れている」と言っている。ただ、「いつか死ぬこと」と「自分の体もいつまでも柔軟で敏感なままではいない」の2つがA and Bのような等位関係にあるとは思えないのだ。これが「体が柔軟なままではいない」と「記憶もハッキリとはしない」であればそうだろうなと思う。どちらかというと後半のthat節は同格なのではないだろうか。正確には「AイコールB」の同格ではなく、近似的なイコールあるいは時系列的な展開を含む言い換えのような関係ではないかと思う。そこらへんを考慮しつつ、あとは英語の共通関係を日本語に訳す際に、重文の間に適切な接続詞を挟み込むことで、共通関係もしくは同格関係を日本語として納得できる文章に変えていこう。

    (usをmeに変えた推敲訳)老いた人を見かけるたびに、他人事ではなく自分も死から免れてはいない事を思い出す。なにより、今は何の支障もなくすぐに動けるとしても、ずっとこのままではいられないと改めて思う。


     原文のままusで主張を展開するのは「人間とは?」「善とは?」「真実とは?」のような一種の真理を扱う時の手つきに過ぎない。断定は時に独断である事を踏まえて、できるだけ物事の一面を捉えたような表現に変えておく必要がある。でなければ、僕が校正者ならばusをmeに変える事を書き手に勧めるだろう。
    (推敲訳)老人という存在は、私たちもまた死すべき存在であるという現実を常に想起させる。要するに、私たちの肉体もいずれは同じようにぎくしゃくして、のろのろと動くようになるのだという現実を想起させるのだ。
    posted by アスラン at 01:40 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年03月25日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(14.1.5)

    「Chapter14. 共通関係 @文の主要素の共通関係」より。

    14.1.5 She has a good memory for bits of fresh gossip, or little stories of some celebrity that she had read or heard somewhere, and a knack of telling them entertainingly.
    (訳)彼女はいくつかの新しいうわさ話や、どこかで読んだり聞いたりした、有名人に関する小話をよく覚えていたし、また、それをおもしろく話すこつを心得ていた。
     『プレバト』の俳句のコーナーは僕を含めて家族みんなが好きでよく見ている。特に息子が好きなのだが、僕もついつい見ているうちにハマってしまっている。特に夏井いつきさんの解説が秀逸で、かの正岡子規が俳句に革新をもたらした「写生」の核心を僕ら素人にも分かりやすく伝えてくれている。「季語の力をもっと信じましょう」という名言を時々口にされる。季語は俳句に必ず入れなければならないお約束の単語ではなく、残りの文字を有効に機能させて表現を拡大するための土台となる言葉なのだ。何故そんな話をするかというと、英語を逐語的に(直訳で)訳すと、しばしば日本語には余計な言葉が付帯してしまう事が多いからだ。たとえば「いくつかの」とか「自分自身の」とか「学生らは」とかのように、本来は文脈にまかせて表には出てこないような表現が訳文に残ってしまっている。それはもっと日本語の単語やフレーズ、あるいは文脈の力を信じる事によって最小限に減らすべきものなのだ。という事を言いたいがために「季語」を持ち出したのは、かなり大げさな事だと思いつつも、思いついてしまったのだから仕方がない。

     「たくさんの」というならともかく「いくつかの」は不要だろう。「小話」の方は複数形になっていないし。
     「うわさ話」は今や「ゴシップ」で通じるし、なにより「セレブ」という言葉が使えるようになったのはありがたい。1995年に日本で公開されたロバート・アルトマン監督の『プレタポルテ』では、パンフレットに「セレブリティ」という耳慣れない言葉が出てきて、そういう言い方があるのかと思った事が思い出される。いまや「セレブ」という言葉は多くの日本人が口にするまでになった(ちなみに「セレブ」は日本語お得意の外来語の省略かと思いきや、本国でもcelebという略語を使うようだ)。
     それに「読んだり聞いたり(read or heard)」は英語的で、日本語ならば「見たり聞いたり」あるいは「見聞きした」になるような気がする。もちろん日本語の「見る」は「読む」を含めた意味になる。特に今や新聞・雑誌・テレビ・ラジオに加えてネットからの情報摂取が主流になっているから、なおさら「見る」の力を信じる必要がある。

    (推敲訳)彼女は最新のゴシップや、どこかで見聞きしたセレブネタをよく覚えていて、面白おかしく話すコツを心得ていた。


     よくよく気づいたら原文の時制は過去形ではなかった。共通関係の前半も後半も「彼女」の気の置けないところを説明してる感じがでているので、もうちょっとくだけた言い方に変えてみよう。
    (推敲訳)彼女は、最新のゴシップや、何かで仕入れたセレブのたわいもない話をいつまでも覚えていて、ここぞとばかりに面白おかしく話してくれる。
    posted by アスラン at 22:55 | 東京 🌁 | Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年03月24日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(14.1.4)

    「Chapter14. 共通関係 @文の主要素の共通関係」より。

    14.1.4 It is hard enough to know whether one is happy or unhappy, and still harder to compare the relative happiness or unhappiness of different times of one's life.
    (訳)自分がいま幸福なのか不幸なのか知るだけでも容易なことではないのに、一生の中の異なった時代の相対的な幸・不幸を比較することは、それよりはるかにむずかしいことである。

     どこにも不明な点はない。何も書き直すことなんてないじゃないか。そういう声も聞こえてきそうだが、僕はこんな風には書かない。そもそも元の英文は、こういう設問ではないんじゃないだろうか。

     テレビか何かの街頭インタビューか、もしくはアンケートで「あなたは今、幸せですか?」と聞かれて逡巡した経験はないだろうか?この問いに答える事が「容易なことではない」のは、「いま幸せなのか不幸なのか」という二択だからではない。多くの場合「幸せ、普通、不幸」の三択だから「幸せ」を選ぶのが難しいのだ。可も無く不可も無い時期が人生の多くを占めるので、そこからあえて「幸せ」だと絶対的に思えるかどうかを問われたら、これはもう難しいとしか言えない。前半の問いはそう聞かれているのだ。英語の形式は二択の形式になっているが、要するに「幸せですか(あるいはそうではないですか)」と聞いているのだ。その証拠に、誰しも「不幸ですか」の問いに答えるのは難しくはないだろう。報われないと思えば不幸はすぐにでも自分の中で確定するはずだ。
    (推敲訳)自分が今しあわせなのかどうかを考えて答を出すだけでも難しい。

     前半は「今の自分」の幸・不幸の度合いを絶対的に判断しろという事になるが、後半は英語の形式としては「人生の2つの時期」の幸・不幸の度合いを相対的に判断しろと言っているように読める。しかし実は、これも英語ならではの形式に過ぎない。こういう時、日本語では「あの時の自分」と「今の自分」とを比較するはずだ。二つを比較するから絶対的ではなく「相対的(the relative)な」判断になるので、この言葉もいらないだろう。
    (推敲訳)ましてや、あの頃と今とではどちらがしあわせだったかなんて考えて答を出すのは、なおさら難しい。

    「know=知る」ではなく「了解する、理解する、確信する」などが適切な場合があることを、以前の例文で確かめた。ここでももうちょっと工夫してみたい。さらにhard to enough to …とstill header to …の部分も、一文ごとに訳すと日本語だとくどくなる。この2つが呼応しているとなれば、接続詞だけでうまく状況を調整した方が良さそうだ。
    (推敲訳)自分がいま幸せかなんて簡単にはわからない。ましてや「あの頃の自分」と「今の自分」のどちらが幸せだったかなんて答の出しようがない。
    posted by アスラン at 10:21 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2024年03月19日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(14.1.3)

    「Chapter14. 共通関係 @文の主要素の共通関係」より。

    14.1.3 The New World has a large and rapidly increasing population of its own and, after more than a century of abuse, not a little of its soil has lost or is in process of losing its fertility.
    (訳)新世界ではそれ自体の膨大な人口が急激に増加しているし、1世紀以上にもわたる酷使のあとでは、少なからぬ土壌も生産性を失ってしまったか、あるいは失いつつある。

     The New Worldは「新世界」ではない。少なくとも日本語では直訳の「新世界」は別の意味になる。すなわち「ヨーロッパ人が新しく発見して開拓した世界、大陸の事」。広辞苑などでは「南北アメリカとオーストラリア」と書かれている。さらにはドボルザークが作曲した『新世界より』のタイトルでおなじみの新世界。これはアメリカに滞在した体験に触発されて書いた曲で、つまりは「アメリカ」を指す。この英文のthe New Worldも比喩的な表現には違いないが、その後の文章を読む限り「南北アメリカ(大陸)」を指していると思われる。ただし、これは先進国である米国やカナダなどを除く、いわゆる発展途上国と呼ばれる国々を漠然と指しているように読める。時代的にも1970年代あたりで書かれた文章だろう。名指ししても意味がないので、漠然と「かつて新世界と呼ばれた大陸」と書くのがいいかもしれない。

     英文の共通関係が名詞句を並列にする際に、形容詞をandでくくって(形容詞1+形容詞2)名詞の形になっているが、日本語は述部1+述部2のように分配した方がいい。訳のように(形容詞1+名詞)述部2のような形式にしてしまうと、共通関係が対等なものではなくなってしまう。

     さらに「それ自体の(of its own)」は絶対に取り除きたい。所有格を示す後置修飾になっているが、日本語の場合は無くても意味が通じる。
    (推敲訳)かつて新世界と呼ばれた大陸は膨大な人口をかかえているが、今も急速に増加しつつある。


     abuseは「乱用、酷使」だが、あとでits soil(耕作地)の事に触れているので「耕作地を酷使してきた」のようにちゃんと先に書いた方がいい。「土壌が…生産性を失う」もあまり日本語らしい表現ではない。fertilityは「(土地の)生産力、肥沃度」だとランダムハウスには書かれているが、訳語というよりは解釈(意味)に過ぎない。「肥沃度」なんておそらく人生で一度も使った事はないだろう。こう書いているからには「土壌」には「肥沃な」という形容詞が付いていると考えるべきだ。「肥沃な土壌がやせ細る」という言い方でもいいかもしれない。

     それと、「生産性を失ってしまったか、あるいは失いつつある」と言う書き方は英語の共通関係の枠にとらわれすぎていて、日本語の述部+述部の畳みかけが効かなくなっている。おそらく「あるいは」では言い換える意味が感じられない。
    (推敲訳)一世紀にもわたって耕作地を酷使してきた結果、多くの肥沃な土地が少なからずやせ細ってしまった。とまでは言わずとも、やせ細ってきている。

     ここから、さらに日本語としてのバランスを考えて、さらに推敲する。すでに度々書いてきたが、英語は単純ではない並列関係を単純にand,orあるいはand,butの中に押し込める。さらには接続詞無しで文を続けても、その間の展開については文脈で読み取るように促す言語だ。日本語は、さまざまな助詞や副詞や接続詞を駆使して、文と文の間を隙間無く埋めていく。一般に日本語の方が「構文的には(省略可能なので)必須要素が少ない」イコール「曖昧」「非合理的」と言われてきたが、英語も「日本語から見たら文脈に委ねられた成文が多い」と言える。と、一言、二言、戯れ言を言いおいて、推敲する。
    (推敲訳)かつては「新世界」と呼ばれた大陸は、今や膨大な人口をかかえているにも関わらず、急速に規模を増やし続けている。一世紀以上にもわたって大地を酷使してきた結果、多くの肥沃な土地が少なからず痩せて取り返しがつかなくなってしまった。そこまでとは言わずとも、取り返しがつかなくなりつつある。
    posted by アスラン at 23:15 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする