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    2025年12月10日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(15.1.9)

    Chapter15 挿入の諸形式「@語句の挿入――andとif」より。
    15.1.9 My mother felt my father's loss of fortune more keenly than my father himself, and it preyed upon her mind, though rather for my sake than for her own.
    (訳) 父が財産を失ったことを母は父自身より切実に感じ、そのために悩んだが、それは自分のためよりむしろ私のためであった。
     とりあえず、前半の比較構文について考えよう。伊藤先生は本書で「AとBをXについて比較する」ように説いている。
    (A) My mother felt my father's loss of fortune keenly.
    (B) My father felt his own loss of fortune keenly.
     という二文についてX「keenlyの強さ(大きさ)」を比較した結果、(A)のほうがXについて優っているという意味なので、以下のような推敲訳になる。
    (前半の推敲訳) 父が自らの財産を失ったことを切実に感じたのはもちろんであるが、それ以上に母はその事を切実に感じた。
     まだ日本語として問題はあるが、英文解釈から修正した訳としてはとりあえず満足しておくことにする。

     後半はふたたび比較構文で、「CとDをYについて比較する」ことを考える。
    (C) it preyed upon her mind for my sake.
    (D) it preyed upon her mind for her own sake.
     そして比較の対象となるYは「母の心を悩ませた目的」であり、手早くいえば「母の心を悩ませたのは誰のためか」ということだ。比較といっても強さや大きさの優劣を図るのではない。「C(for my sake)もしくはD(for her own sake)」の二択だ。二択からCを選択したので、以下のようにrather … thanを用いた[C>D]という比較構文になる。
    [C>D] it preyed upon her mind rather for my sake than her own.
     [C>D]の訳文は以下のようになる。
    ([C>D]の訳文) 母がそのこと(父が財産を失ったことを父以上に切実に感じたこと)に悩んだのは、母自身のためというよりもどちらかといえばわたしのためだった。
     伊藤先生の解説では「thoughが挿入されているのは、副詞節を導くthough本来の用法とは別のもの」だと書かれている。確かにこの比較構文には〈thoughが導く副詞節〉は存在しないので、"rather…than…"の直前にthoughが突然割りこんできては辻褄があわない。伊藤先生が「主語と動詞を補うという考え方では読めない形である」から、それ以上は構文を掘り返さないほうがよいとする所以だ。
     ただし、受験生にとってはそうでも、この突然姿を現すthoughは「前とは逆接の関係にあること示している」というヒントを伊藤先生は残しておいてくれている。今ならもう少し深掘りはできそうだ。前提として[C<D]となるのが一般的(普通)だという文脈で、[C>D]という結果が現れると逆接関係が顕在化する。その際、母が実際にとった行動(過去形)ではなく、一般的にとるであろう行動(現在形)に置き換えた比較構文「C’とD’をY’について比較する」ことを考える。
    (C') it preys upon her mind for my sake.
    (D') it preys upon her mind for her own sake.
     Y'は「母の心を悩ます理由(目的)」であり、手早くいえば「母の心を悩ますのは誰のためか」ということになる。常識的にも感情的にも「D'(for her own sake)」が選択されるのが普通なので、[C'<D']という比較構文になる。
    [C'<D'] it preys upon her mind rather for her own sake than for my sake.
     そして[C'<D']の訳文は以下のようになる。
    ([C'<D']の訳文) 母がそのことに悩むとすれば、わたしのためではなく(当然ながら)母自身のためだ。

     しかし、現実には「一般的とは逆の理由(目的)」から(C>D)という結果になっている。要するにここで考えるのは
    (a)〈現実とは逆の関係[C'<D']を導くthoughの副詞節〉+《現実の関係[C>D]》
     である。これを実際に構文として表現すると以下のようになる。
    (a) it preyed upon her mind rather for my sake than her own, though it preys upon her mind rather for her own sake than my sake.
     さらにthoughが導く副詞節をrather … thanの直前に挿入し、前提となる文脈に相当する部分をすべて省略すると(a')になる。
    (a)' it preyed upon her mind, though (it preys upon her mind rather for her own sake than my sake,) rather for my sake than her own.
     この構文がまさしく例文そのものである。

     ずいぶん回り道をしたが、結局thoughの存在理由がわかってしまえば、あとは挿入形式の訳を考えるだけだ。この章の例文では一貫して主節を先に訳して、従属節は添加や補足として訳してきた。今回も変わらない。
    (後半の推敲訳) 母がそのことに悩んだのはわたしのためだった。本来は母自身のために悩むところなのに。
     前半と後半をまとめる。
    (推敲訳) 父が自らの財産を失ったことを切実に感じたのはもちろんであるが、それ以上に母はその事を切実に感じた。母がそのことに悩んだのはわたしのためだった。本来は母自身のために悩むところなのに。

     さらに日本語として推敲する。例文の訳ではfeel keenly(切実に感じる)とpreys upon one's mind(悩む)との区別があまり感じられない。feel keenlyは「身に染みる、痛感する、ひどくこたえる」などが妥当な訳のようだ。preyは「苦しめる、悩ます、痛めつける」などがあるが、feel keenlyとなるべく区別がつくような訳を選択する。
    (推敲訳) 自分の財産を失って父はひどくこたえたが、父以上にひどくこたえたのは母だった。母は苦しんだが、それはひとえに私のことを思ってのことだった。本来ならば自分のことを思って苦しむところなのに。
    posted by アスラン at 03:30 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2025年11月22日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(15.1.8)

    Chapter15 挿入の諸形式「@語句の挿入――andとif」より。
    15.1.8 Purely physical fatigue tends if anything to be a cause o happiness.
    (訳) 純粋に肉体的な疲労は、どちらかと言えば幸福の原因になることが多い。
     前回のif anyは副詞節でif there are any …を意味していたように、今回のif anythingはif there are anything …を意味する。つまり、
    (A)Purely physical fatigue tends to be a cause o happiness,
    (B)if there are anything which purely physical fatigue tends to be.
     という構文になる。ここから「主節(A)+譲歩節(B)」の訳文を考えると訳文(a)のようになる。
    訳文(a) 純粋に肉体的な疲労は何かの原因になる事が多いとすれば、幸福の原因になることが多い。
     さらに、述部は「〜の原因になることが多い」の繰り返しになるので、譲歩節(B)を簡潔に表現して、そのままの位置に挿入すると訳文(b)になる。
    訳文(b) 純粋に肉体的な疲労は、どちらかと言えば幸福の原因になることが多い。
     これがまさに伊藤先生の訳文だ。

     これくらい短い文ならばこのままでも問題ないが、今回もいつものように主節を言い切ってから補足する書き方を優先する。
    訳文(c) 純粋に肉体的な疲労は幸福の原因になることが多い、どちらかと言えば、だが。

     訳文(c)を基本にして日本語を推敲する。主語や目的語に使われている名詞句「純粋に肉体的な疲労」「幸福の原因」を述部表現に言いかえる。特に主語は《従属節+主節》を内包している。
    (推敲訳) ただ単に体を動かすだけなら、疲れても満足感が得られる事が多い。どちらかと言えば、だが。
    posted by アスラン at 07:05 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2025年11月17日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(15.1.7)

    Chapter15 挿入の諸形式「@語句の挿入――andとif」より。
    15.1.7 Few, if any, Americans grasped the significance of what had been accomplished.
    (訳) 達成されたことの意義を理解したアメリカ人がたとえいても、その数は少なかった。
     伊藤先生は「ifは、あとのS+Vを従属節にまとめる役目をする」と考えることはできるが、if possibleのような省略には一般的な規則がないものも多いので、「if possible、if necessary、if anyなどの挿入的な表現は熟語としてその意味を記憶するにとどめ、それ以上掘り返さないのがよい」と書いている。
     しかし、さすがにそれでは説明が淡泊すぎる。それに、ifに限らず従属節を形成する接続詞(whenなど)からして既に省略が発生するので、もう少し省略表現について最低限の事はふまえておくべきだろう。そこで江川泰一郎『改訂三版 英文法解説』に登場ねがおう。
    §267 副詞節における省略
    A. 「主語+be動詞」の省略 時・条件・譲歩などの副詞節に見られる。
    (1)基本形
     When (I was) a child I had a habit of blinking my eyes. (子供のころ、私は目をパチパチまばたきする癖がありました。)
       (略)
    (2)実例検討
     When eating soup, you must sip the liquid quietly from the spoon. (スープを飲むときには、音がしないようにスプーンで少しずつ飲みなさい。)
       (略)
    B. it is/was の省略 この場合のitは主節の内容を指す。
     I'll check the list again if (it is) necessary/possible. (必要ならば/できれば、リストをもう一度チェックしよう。)
       (略)
    C. その他 ifとalthough(though)には「主語+一般動詞」の省略がある。
     Drop that gun ! If not (= If you don't), you'll be sorry. (銃を捨てろ。さもないと、後悔するぞ。)
     He seldom, if ever (=if he ever does), goes to church. (彼は教会に行くにしても、ごくたまにしか行きません。)
       (略)
     《参考》if の場合は、次のような例にまで及ぶ。
      Correct errors, if any (= if there are any). (誤りがあれば訂正せよ。)
        (略)
     とりあえず、これくらいふまえておけばいいだろう。『英文法解説』の「A.(2)実例検討」には様々な実例が挙げられているし、if anyは《参考》で特殊な形式として取りあげられている。確かに一般的な規則に該当しないものも多いのだろうが、基本的なものを押さえておけば、熟語扱いしないで考えることができる。

     そこで、あらためて例文の検討に戻ろう。
    (a)Few Americans grasped the significance of what had been accomplished, if any.
    (b)If any, few Americans grasped the significance of what had been accomplished.

    (a')Few Americans grasped the significance of what had been accomplished if there are any Americans who did.
    (b')If there are any Americans who grasped the significance of what had been accomplished, few Americans did.

    (c)Few, if any, Americans grasped the significance of what had been accomplished.
     挿入形式を除外すれば(a)(b)のいずれかになるはずだ。パンクチュエーションとしては(a)はカンマで区切らず、(b)のみカンマで区切るはずだが、省略表現になると副詞節の認定が難しくなるので、どちらもカンマで区切る事になるようだ(あくまで僕の推測に過ぎないが)。
     いずれにしても(a)(b)の省略前の原文は、さきほどの『英文法解説』によるとif there are anyだが、これ自体も省略されているので本例文ではif there are any Americans who grasped the significance of what had been accomplishedとなる。しかも、従属節と主節の順番によっては代名詞や代動詞(does/didなど)の使いどころが変わってくるので、それぞれが(a')(b')になる。
     (a')または(b')のような従属節の省略表現に挿入形式を組み合わせると(c)、要するに例文そのものになる。

     まずは(a)または(b)について考える。「(a)主節 if 従属節」が正順で「(b)If 従属節, 主節」は逆順と考え、カンマの有無が異なるだけで意味は変わらないと、パンクチュエーション(句読法)では教える。しかし、推敲のレベルで文章を考えたら「どちらを前にするか」にまったく意味が無いとも思えない。ニュアンスを日本語に移し替えると、以下のような違いに対応するのではないだろうか。
    ((a')の推敲訳)たとえいたにしても、成し遂げられてきた事がどれほど重要な事だったか把握できた米国人はほとんどいなかった。
    ((b')の推敲訳)成し遂げられてきた事がどれほど重要な事だったか把握できた米国人がたとえいたにしても、ほとんどいなかった。

     伊藤先生の訳文は(b')に対応する。これでは日本語として不十分だと思う。何故なら、(a)系列と(b)系列の文は従属節の省略表現を解決しただけで、挿入形式についてはなんら手心が加えられていないからだ。そうなると訳さねばならないのは(c)だ。
     この16章の例文で何度も検討してきたが、日本語の場合は英語のように無理に文章の途中に副詞句を挿入すべきではない。主節を日本語として言い切ってしまってから、従属節を追加(補足)する形にした方がよい。
    (推敲訳)成し遂げられてきた事がどれほど重要な事だったか把握できた米国人はほとんどいなかった。たとえいたにしても、だが。
     さらに日本語を推敲する。had been accomplishedなので時制は過去完了形だ。しかも自分以外が成し遂げる訳なので、時間的な観点を顕在化するために「あの当時に成し遂げられた事」になる。その事の重要性(意義)をいつ把握したかと言えば「あの当時」なので、「(あの当時に)成し遂げられた事を(あの当時)どれほど重要だったかをあの当時把握できた」のように、「あの当時」がどんどん後ろに掛かっていく事になる。最終的には「あの当時、ほとんどいなかった」になるので、「成し遂げられた(完了)」以外はすべて現在形にしても問題ない.逆に今のようにすべて過去にしてしまうと、日本語としてはうざったい。
     また、if anyはこれまで通り添加(補足)を意味する。主節では「ほとんどいない」だが、その上で「まったく存在しない」可能性も追加している。なので「存在したとしても」を後ろから挿入する。
    (推敲訳) 成し遂げられた事がどれほど重要なのかを把握する米国人は、あの当時ほとんどいなかった。もちろん、いたとしての話だが。
    posted by アスラン at 23:05 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2025年10月25日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(15.1.6)

    Chapter15 挿入の諸形式「@語句の挿入――andとif」より。
    15.1.6 People who were presented to him often felt a certain awkwardness, and that not entirely because they were alarmed by his reputation.
    (訳) 彼に紹介された人々はいくらか気おくれすることが多かった。しかもそれは、必ずしも彼の名声に押されたためばかりではなかった。

     さっそく訳文を手直ししよう。「彼に紹介された人々」という部分が気になる。「彼に」は英文のto himから単純に格助詞「に」を選択しているのだと思うが、これだと助詞「に」が何の格として働いているのかがハッキリしない。
    (a)主催者が人々を彼に紹介した。
    (a-1)人々が彼に(主催者に)紹介された。⇒ 彼に紹介された人々
    (a-2)人々が(主催者に)彼に紹介された。⇒ 彼に紹介された人々
    (a-3)人々が主催者に彼を紹介された。⇒ 彼を紹介された人々
    (a-4)人々が彼に拝謁した。      ⇒ 彼に拝謁した人々
     明示されてはいないが「紹介する」の主格が存在するはずなので、仮に(a)としておく。これを受動態に変換すると、(a-1)(a-2)のように助詞「に」が2つ使われる事になる。一つは能動格(能動態の主格)であり、もう一つは与格(「猫に餌を与える」)になる。さらに「主催者に」の部分を明示しないで連体修飾句に変換すると、どちらも「彼に紹介された人々」になる。こうなると「彼に」が能動格なのか与格なのかは文脈次第で、明確とは言えない。

     例えば「人々」と「彼」が対等な関係であれば、対格と与格は入れ替え可能なので「(a')主催者が彼を人々に紹介した。」と考えた上で受動態にすると(a-3)になる。さらに連体修飾句にすると「彼を紹介された人々」となり、(a-1)(a-2)のような誤解は生じない。ただし、あくまで対等な関係であれば問題はないが、後半の文章を見る限り「彼」の方が目上か、もしくは格が高い存在のようなので、入れ替え表現(a-3)はやや違和感を感じる。

     逆に王族(皇族)のような高貴な存在が相手であれば、「紹介する」ではなく「拝謁する」を使う事ができる。その場合「主催者」のような仲介は不要なので(a-4)のような表現になり、連体修飾句に変換すると「彼に拝謁した人々」になる。しかし、今度は「彼」がそれほど格上ではないのことが問題となる。この例文では「拝謁」は不自然だ。結局、(a-3)と(a-4)の間になるように「紹介」「拝謁」以外の言葉を考えて「引き合わせる」と訳す事にした。この動詞を使えば助詞「に」の重複問題を回避することができる。
    (前半の推敲訳) たいていの人は、彼と引き合わされると多少気おくれがした。

     訳文の「気おくれする」はとても良い表現だが、後半の「彼の名声に押された」は分かりにくい。これはおそらく「彼の名声に押されて気おくれした」という表現を念頭に置いて書かれたものだと思う。新明解国語辞典の「きおくれ【気後れ】」には「相手の気迫に押され―(が)した」という用例が挙げられているが、「名声に押される」という表現は不自然だ。そもそもalarmed by his raputationの訳としてしっくりこない。「彼の評判を聞いて不安になった」ぐらいがよさそうだ。

     最後の最後に挿入形式について考えていく。例文のand thatの代名詞thatは、前半のPeople … awkwardnessまでを表すから以下のような構造になっている。
    (A)People who were presented to him often felt a certain awkwardness,
    and
    (B)people who were presented to him often felt a certain awkwardness not entirely because they were alarmed by his reputation.
     (B)が挿入形式になっているのだが、because節が「Xだけではない」という部分否定になっている事から「Xが理由だが、X以外にも理由がある」という2つの部分に分かれる。それを書き下すと以下のようになる。
    (B-1)People who were presented to him often felt a certain awkwardness because they were alarmed by his reputation.
    (B-2)People who were presented to him often felt a certain awkwardness not entirely because they were alarmed by his reputation.
     このように分析すると(A)、(B-1)、(B-2)の3つの文から構文が出来ているようにみえるが、そうではない。not entirely が出てきた時点で(A)にはbecause節が含意されている事になるので、(A)と(B-1)は同一表現とみなせる。それをあえて構造として記述すると、以下のようになる。
    (A')People who were presented to him often felt a certain awkwardness because they were alarmed by his reputation,
    and
    (B-2)people who were presented to him often felt a certain awkwardness not entirely because they were alarmed by his reputation.
     この構文構造を基にして訳文の後半を推敲する。
    (後半の推敲訳) 彼の評判を聞いて不安になったからでもあるが、それだけではなかった。

     前半と後半の推敲訳をまとめる。
    (推敲訳) たいていの人は、彼と引き合わされると多少気おくれがした。彼の評判を聞いて不安になったからでもあるが、それだけではなかった。

     さらに推敲する。やはり「彼と引き合わされる」では落ち着かない。「彼に」を使った上で与格である事が伝わるように「面と向かって」という状況を追加する事にした。また、係る言葉「たいていの人は」と受ける言葉「気おくれがした」を直結した。それと、訳文では「気おくれ」を量で評価して「いくぶん気おくれする」と訳している。推敲訳でもそれを踏襲してきたが、後半で気おくれの原因が「彼の評判」とそれ以外の事だと主張しているので、量では無く質が取り沙汰されていることがわかる。最終的に以下のように推敲した。
    (推敲訳) 面と向かって彼に引き合わされると、たいていの人はある種の気おくれがした。というのも、あらかじめ彼の評判を聞いていて不安になったからだが、単にそれだけとも言えなかった。

    (参考)
    awkward 落ち着かない、きまずい
    alarm ハラハラする、不安にさせる、心配になる
    present(v.t.)
     5《文語》〈人を〉(ある人に)正式に紹介する、引き合わせる;〈人を〉(目上の人に)拝謁させる、伺候させる《to …》
     She had the honor of eing presented to the Queen. 彼女は名誉にも女王陛下の拝謁を賜った。
    posted by アスラン at 08:30 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2025年10月04日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(15.1.5)

    Chapter15 挿入の諸形式「@語句の挿入――andとif」より。
    15.1.5 Some books are to be read only in parts; others to read but not curiously, and some few to be read wholly, and with diligence and attention.
    (訳) 書物の中には部分的に読めばよいものもあるし、読むべきではあるが、しかし好奇心を持つ必要はないものもある。そして何冊かの少数の書物は、全体を入念に注意深く読むべきなのである。
     いきなり例文の難易度があがった。これを当時の受験生が読み解くのはかなり難しいと思う。いや、僕自身も伊藤先生の解説抜きの初見では読み間違ってしまった。この例文はPUNCTUATION(句読法)の正しい理解がないと、どのような構文になっているか分からないと思う。にも関わらず、伊藤先生の解説は非常にあっさりとしたもので、句読法の勘所がまったくスルーされてしまっている。なので改めて例文の構造をゆっくりと考えてみよう。
    (A-1)Some books are to be read only in parts;
    (A-2)others (are) to read (but not curiously)
    (B),and some few (books are) to be read wholly, and with diligence and attention.
     are to be readという表現が繰り返し使われているが、二度目以降はそれぞれ省略されている。そこをふまえると(A)と(B)が等位接続詞andでつながれているという事が分かる。(A)と(B)が区切られている事(andを介した並列関係である事)がはっきりするようにカンマが挿入されている。さらに(A)にはセミコロンが使われていて前半も後半も完全な文なので、(A-1)と(A-2)という並列関係が成立する。

     実はここまででbutの存在が非常にやっかいだ。andが等位接続詞であれば、このbutも等位接続詞の可能性がある。では、どことどこが並列なのか。直前のothers to readと直後のnot curiouslyとでは釣り合わない。もうちょっと前方を長くしてSome books are to read …others to readとnot curiouslyの並列関係と考えてもやはり釣り合わない。結局、(A)と(B)の並列関係が見えてさらに(A-1)と(A-2)の並列関係が見えてくると、but not curiouslyは(A-2)の一部としか考えられない。だとすると(A-1)のonly in partsがSome books are to be readを修飾する副詞句であるのと同じように、but not curiouslyもまたother to readを修飾する副詞句である事になる。

     ここまではいいとして、僕はbut(=except)という前置詞だと解釈してしまった。よくよく考えれば前置詞の目的語は名詞でなければならない。それにbut not だと二重否定の前置詞句(〜でないものを除いて)になってしまって意味的にもナンセンスだ。ここにいたって伊藤先生は、前回の例文15.1.4でのandと同じようにbut not curiouslyも挿入句だと解説する。そう言われれば確かにそれ以外には考えられないのだが、何故そう思えるのかについては答えてくれてはいない。そもそも最初に伊藤先生が本書で挙げた例文は"We had to judge, and very hastily"であり、
    何故and very hastilyが挿入句に見えるかと言えば、andの前後が単なる並列関係には見えない(釣り合わない)事を文意から解釈できるからだ。さらに言うとカンマの存在が「挿入句である」という解釈を補強してくれている。しかし今回の例文の(A-2)ではカンマが存在しないので、文意だけから通常の等位接続詞butの用法とは違っている事にたどり着かなければならない。そこが経験不足の受験生や僕には難しい。

     では何故butの前にカンマがないのか。簡単な理由は「これだけ短い挿入句なのでカンマは不要(なくても挿入句と分かる)」という事だろう。それ以外にも、「カンマがある事で全体の構成(構造)が分かりにくくなる」という事もあるかもしれない。(A)と(B)の区切りが",and"になっていて、カンマが(A)と(B)の並列関係を補強しているのだが、その直前が",but not curiously, and …"となると「等位接続詞どうしが干渉して全体の構成が見えにくくなる」という配慮が働いたかもしれない。あるいは(A-1)と(A-2)を区切るセミコロンとカンマは、区切れの強弱が「セミコロン<カンマ」という関係になるので、「"others to read, but not curiously"のカンマの前後で文(節)が区切れるように見えてしまう」という配慮が働いたかもしれない。いずれにしろ、理詰めで正解にたどり着くのは難しい。よく「英語にはPUNCTUATION(句読法)があるのに、日本語にはない」と言われるが、最終的に「カンマをどこに打つのか」という問題は「読点をどこに打つのか」と同様に一筋縄ではいかない。PUNCTUATIONの理解は必要だが、それで十分という訳ではないのだ。

     butの挿入句の問題を解決すれば残りは簡単かと思えば、さにあらず。もう一山残っている。(B)の末尾に出てくるwholly, and with diligence and attentionの部分を伊藤先生は「andは対等なものを結ぶ用法」と解説していて、挿入句ではないと見なしている。ここで受験生や僕はまたまた悩まされる。確かに文意から捉えると対等な(釣り合いがとれる)関係に読む事が可能だが、では何故wholly and with diligence and attentionではなくカンマが使われているのか。これは "We had to judge, and very hastily"と同じように、挿入句である事を補強する役目を果たしているのではないのか。それに形式的に言っても、(A-1)に出てくるbut not curiouslyが挿入句であるのに呼応して、(B)でもand with diligence and attentionが挿入句になっていると考えた方がスッキリする。これについては最終的な推敲でもう一度考えることにする。とりあえず例文の構造は、以下のように修正しておく。
    (A-1)Some books are to be read only in parts;
    (A-2)others (are) to read (but not curiously)
    (B),and some few (books are) to be read wholly(, and with diligence and attention).

     ここから訳文を推敲していく。あらためて訳文を確認しておこう。
    (訳) 書物の中には部分的に読めばよいものもあるし、読むべきではあるが、しかし好奇心を持つ必要はないものもある。そして何冊かの少数の書物は、全体を入念に注意深く読むべきなのである。
     (A)の方はsome…others…という典型的な表現になっている。なんとなくsomeは一部だからothersは残りを指していると思ったのだが、someとは違う一部を指すようだ。
    [ランダムハウス英和大辞典]
    Some are cheerful and others are not. 陽気な人もいればそうでない人もいる。
    [ジーニアス英和大辞典]
    We have three colors: some are red, others are green, and the rest are blue. 色は3色あります。いくつかは赤で、ほかのものは緑で、残りのものは青です。
    [ジーニアス英和辞典]
    Some books are to be tasted, others to be swallowed, and some few to be chewed and digested. 味わうべき本もあれば一気に飲みこんでしまうべき本もある。また咀嚼し、消化すべき本も少数ながらある。
     2番目のジーニアス英和大辞典の用例を見ると、othersが「残り」を意味しない事は一目瞭然だ。訳文は日本語としてどうかなと思うが、othersの意味を理解するには最良の用例だ。そしてなんとジーニアス英和辞典の用例は、今回の例文そのものと言ってもいい。ただしsome books、others、some fewの3つが並列関係になっているところが例文とは異なる。
    ((A)の推敲訳) 本には読みたいところだけを読めばいいものがある。あるいは、とりあえずは読んでおいた方がいいものもある。ただし興味津々になる必要はない。

     (A-1)は必要なところを拾って読む、(A-2)は読まないよりは読んでおく方がいい、という本が含まれている。それに対して(B)では全部を読む方がいいという本について書かれている。微妙なのだが、(A-2)を「一応は全部(ひととおり)読む」と解釈するならば、(B)は「全部を入念に読む方がいい」という本について書かれている事になり、最後のwholly, and with …の部分の「andは対等なものを結ぶ用法」だという伊藤先生の解説が正しい事になる。ただ、僕自身は(A-2)は「読まないよりも読め」という選択の問題だと捉えたいので、最後の, and with…は挿入句だと考えて推敲する。 
    ((B)の推敲訳) 全部読んだ方がいいものは、ほんの一握りの本だ。できれば、そういう本は入念に読んだ方がいい。
     以上(A)と(B)の推敲訳をまとめる。
    (全体の推敲訳) 本には読みたいところだけを読めばいいものがある。あるいは、とりあえずは読んでおいた方がいいものもある。ただし興味津々になる必要はない。全部読んだ方がいいものは、ほんの一握りの本だ。できれば、そういう本は入念に読んだ方がいい。
     さらに日本語として分かりやすい表現に直していく。特に(A-1)(A-2)(B)それぞれがどのような本に限定しているのかが分かるように言葉を補っていく。
    (全体の推敲訳) 本のなかには読みたいところだけ拾って読めばいいものがある。あるいは、読まないよりは読んでおいた方がいいものもあるが、そういう本は特に興味をそそられなくてもよい。まるまる一冊を全部読んだ方がいい本は、ほんの一握りにすぎない。できれば、そういう本は入念に読んだ方がいい。


    (メモ)
    in parts ところどころ、あちこち、部分的に
    curiously 興味ありげに、物珍しそうに、《古》丹念に
    be+to 不定詞
     (1)…する予定である、することになっている
     (2)…すべきである
     (3)《通例否定文》…できる
     (4)《条件節内で》…するつもりだ、…したい
     (5)《目的》…するためのものである
     (6)《実現性の乏しい仮定》《条件節内で》もし(万一)…するとしたら
    diligence
     不断の努力、勤勉、精巧
     注意、安全配慮、相当な注意・配慮
    attention
     (…への)注意、注目、傾聴、留意、注意力
     丁重さ、いんぎん、親切、好意、敬意、丁重な好意
    posted by アスラン at 13:10 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2025年09月21日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(15.1.4)

    Chapter15 挿入の諸形式「@語句の挿入――andとif」より。
    15.1.4 It is frequently said, and with considerable justice, that some persons enjoy ill-health.
    (訳) 健康でないことを楽しんでいる人もあるということが、しばしば、しかもかなりの正しさをもって言われている。
     伊藤先生、申し訳ありませんが全然意味がわかりません。たった一文なのだが、腑に落ちるような日本語にはなっていない。「健康でないことを楽しんでいる」とはどういう事だろう?そして、それが「かなりの正しさをもって言われている」とはどういう事だろう?

     まずは「健康でないことを楽しむ」を文字どおりに解釈すれば、テレビでよくやっている大食いや激辛の完食企画だろうか。あるいは、不眠不休でゲームを続けて最速で終わらせる企画などもありそうだ。「体に良くない」と知りつつも好きな事を最優先に楽しむ事。現代人にはありがちだし、共感は得られずとも「あるある」として納得はしやすい。

     そもそもill-healthとはどういう事を指すのだろう。お気に入りのランダムハウス英和大辞典には見出しがないので、代わりに研究社のジーニアス英和大辞典を調べると「体調不良、不調《肉体的[精神的]に健康でないこと》;(病気などからくる健康上の)長いスランプ」と書かれている。どうも「健康的でない」という状況を指してはいないようだ。なので「体調不良、不調、長いスランプそのものを楽しむ」という、一見すると矛盾した事を意味するようだ。さらに例文を調べてみた。
    [リーダーズ]
    enjoy good health 壮健である
    enjoy poor health 体が弱い
    [新英和大辞典]
    enjoy (the blessing of ) good health 達者でいる
    enjoy good [perfect] health 健康で[とても健康で]ある
    [ジーニアス大英和辞典]
    I enjoy poor [ill] health. [おどけて]私は体が弱い。
    [ランダムハウス英和大辞典]
    I enjoy poor health. 私は病気だ; 仮病を使っている。
    [ウィズダム英和辞典]
    enjoy good [poor, ill] health おかげさまで健康だ[体が弱い] (poor, illを用いると反語的)
    [オーレックス英和辞典]
    enjoy halth and longevity 達者で長生きする
    [英和活用辞典]
    those who are fortunate enough to enjoy good health [longevity, a good salary] 《文語》健康(など)を享受している幸運な人々

     enjoyとhealthが組み合わさった慣用句はなかなか奥が深いようだ。enjoy good healthならば、単純に「壮健である、健康である」あるいは「おかげさまで健康だ」「健康を享受している」などとなる。しかしenjoy poor [ill] healthになると、単純に「体が弱い」とも言えるが、「(おどけて)私は体が弱い」のように、やや自虐的に言う場合があるかと思えば「仮病を使っている」とも言ったりする。反語的に「おかげさまで体が弱い」と皮肉っぽく言う事もできる。その究極には「体が弱い事を享受している」がある。ここには自虐や皮肉に限らず達観のようなものも含まれている。
     「無病息災」をもじった「一病息災」という四字熟語には「一つぐらいは病気をもっている方が無病の人よりも健康に気を配るので、かえって長生きをするということ」(明鏡国語辞典)という意味がある。非常に日本人的な考え方で、僕自身若い頃から持病があるので、この熟語を心の支えにして生きてきた。ただし英語のenjoy poor [ill] healthにそう言った意味があるかと言えば疑わしい。どちらかと言えば欧米の人たちの考え方の根底にはポジティブシンキングがあるのではないだろうか。つまり「体が弱くても前向きに生きる」という事だ。
    (挿入形式無しの推敲訳) 体が弱くても前向きに生きている人がいるとはよく聞く話だ。

     挿入形式の and with considerable justiceは、justiceが「(主張・論拠・理由などの)正当さ、妥当性、道理」を意味する。さらにランダムハウスには「complain with justice (that …) (…と)不平を言うのも無理はない」という用例が載っている。A ,and Bのandは「等位接続詞のandの普通の用法と少しズレている」と伊藤先生が書いているように、挿入形式の「添加」を意味する。それを英語のように文の途中に挟み込むのではなく、日本語の場合は「添加」と分かるように後から付け加える。
    (推敲訳) 体が弱くても前向きに生きている人がいるとはよく聞く話だ。それもかなり的を射ている。
    posted by アスラン at 04:10 | 東京 🌁 | Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2025年09月09日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(15.1.3)

    Chapter15 挿入の諸形式「@語句の挿入――andとif」より。
    15.1.3 You can examine them carefully under a good magnifying glass, or, better still, through a microscope lens.
    (訳) 良質の拡大鏡や、このほうがよいが、顕微鏡のレンズを通して、それらを注意深く調べることができる。
     意味はもちろん通じるけれど、日本語としてはしっくりこない。特に挿入句の「このほうがよいが」は言い方が適切とは言えないし、リズムも悪い。そこを踏まえて日本語を推敲していく。

     英語の面白いところはa magnifying glass(拡大鏡)もa microscope(顕微鏡)も同じ目的をもった道具なのに、片方はunderで受け、もう片方はa microscope lensをthroughで受けている点だ。日本語だとどちらも区別無く道具格の助詞「で」で受けるところだと思う。そう思って電子辞書で調べてみると、ウィズダム英和辞典には以下のような用例が見つかった。
    take a look at a picture with [through] a magnifying glass 虫めがねで絵画を見てみる。
     これは肯ける。確かに顕微鏡は2枚のレンズを組み合わせて筒状になった部分(それらもレンズと呼ぶ)を通して物を拡大しながら観察するわけだが、拡大鏡(虫眼鏡)も1枚のレンズ越しに観察するだけで物の像(光)がレンズを「通っていく」事に変わりはない。だから、結論としてはwith(〜を用いて)もthrough(〜を通して)も、そしてunder(〜越しに)も同じ意味になるというわけだ(ああ、この文、「そして」以下が挿入形式になっている事に注意しておこう)。そして恐らくは英語では違う言い方を使い分けているが、この文に関する限り、拡大鏡か顕微鏡かという事が一番大事な点だから、日本語では道具格の助詞「で」で十分だと思う。

     次は語彙の問題。a magnifying glassだが「拡大鏡、虫眼鏡」のいずれにしようか。英和辞書の例文だが半々といったところだ。拡大鏡などと言うよりは虫眼鏡の方が慣れ親しんでいるので、こちらにしようかと思っていたら国語辞典を調べるとちょっと気がかりな点がでてきた。
    むしめがね【虫眼鏡】
    (日国)
     (1)小さな物体を拡大して見るための焦点距離の短い凸レンズ。像は正立の虚像。拡大鏡。
     (2)顕微鏡のこと。
     (3)大相撲の序の口力士の俗称。番付の最下段に細字で記入され、(1)を用いなければ容易に探し出せないところからいう。
    (広辞苑)
     (1)江戸時代、凸レンズを円筒に仕掛けた簡単な顕微鏡。筒の中に虫などを入れて観察する。
     (2)小型の拡大鏡。ルーペ。
     なんと虫眼鏡には歴史的に「顕微鏡」的な用法があったらしい。なので、味がいい「虫眼鏡」はあきらめて今回は「拡大鏡」を使う事にする。

     carefullyは普通ならば「注意深く」と訳すところだろう。examineと合わせると「注意深く〜を調べる」という意味になるから訳文どおりなのだけれど、canと併せるとちょっと意味合いが変わってくる。「注意深く」というのは動作主(主体)の姿勢を示しているが、拡大鏡や顕微鏡を使うとそういう姿勢が可能になると言いたいわけではないだろう。だとすると他の日本語を考える必要がある。carefullyには「入念に」という言葉もあるから、こちらの方が動作主側ではなく動作それ自体の状況を説明しているような感じがしてくる。そこで、とりあえずorの前までを推敲する。
    (前半の推敲訳) 高品質の拡大鏡でそれらを入念に調べることができる。

     後半は、orで始まる並列句だ。訳文のように「AやB」「AあるいはB」となるのが普通だが、この文章では日本語の述語表現を生かして「拡大鏡で調べる」と「顕微鏡で調べる」事を比較する方がよい。
    (後半の推敲訳) あるいは、尚よいのは顕微鏡で、これを使えばさらに入念に調べる事ができる。

     全体を併せると以下のようになる。
    (推敲訳) 高品質の拡大鏡でそれらを入念に調べることができる。あるいは、尚よいのは顕微鏡で、これを使えばさらに入念に調べる事ができる。
     さらに日本語を手直しする。a good magnifying glassのgoodだが、結局は「倍率が高い」という意味だろう。顕微鏡ならば格段に倍率が高くなるわけだから、(what is) better stillと言っているわけだ。また、そうであるならば「調べる事ができる」を修飾する副詞carefullyは「入念に」というより「細部まで、細かいところまで」という意味になる。

     それと英語の主語と目的語の扱いを考えておく。英語のYouは一般人称なので日本語だと訳さない。となると日本語としては目的語のthemを題目部として立てた方が安定する。ちなみにthemは文章における距離感で「あれら、それら、これら」のどれにも当てはまる。この例文の場合、直前にthemについて列挙されていると考えて「これら」とするのが無難だろう。
    (推敲訳) これらは、倍率の高い拡大鏡を使えば細部まで調べることができる。あるいは、顕微鏡ならば尚のこと倍率が高いので、さらに細部まで調べる事ができる。
    posted by アスラン at 03:21 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2025年08月15日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(15.1.2)

    Chapter15 挿入の諸形式「@語句の挿入――andとif」より。
    15.1.2 I am always struck by the precedence which the idea of a "position in life" takes above all other thoughts in the parents’−more especially in the mother's―minds.
    (訳) 私はいつも、「社会的地位」という考えが両親の――特に母親の――心の中で、他のどんな考えよりも優先していることに驚く。
     挿入形式をどのように日本語に移し替えるかがここでの主題ではあるが、その前に訳文では内容にピンとこない事が多すぎるので、1つ1つじっくりと検討していこう。以下は例文の構造を示したものだ。
    I am always struck by the precedence
                    └─ which the idea of a "position in life" takes above all other thoughts in the parents’ minds.
      (−more especially in the mother's−)─┘
     strikeはランダムハウス英和大辞典によると「10.〈人の心を〉打つ、〈人に〉強い印象を与える;〈好み・センスなどに〉快い印象を与える;《通例受身》《俗》(…に)魅せられる、うっとりする《on…》」とある。strikeには非常にたくさんの語義があるのだが、この語義が当てはまるとすると例文のI(私)は非常に良い(心地よい)印象を受けている事になる。伊藤先生の訳の「驚く」はどちらにもとれる言葉だが、やや悪い印象を受けているように感じられる。おそらく「29.《しばしば受身》〈人を〉(驚き・恐怖・不安などで)圧倒する、苦しめる、打ちのめす《with…》」あたりの語義を選択したのだろうと推察される。どちらの意味に受け取るかは、関係代名詞節の中に出てくるa position in lifeをどのように解釈するかにかかってくる。

     一般的にはone's position in lifeは「人の社会的地位、身分」という意味だと辞書には書かれているが、やはりこれだけだとよく分からない言葉だ。身分は分かるとして社会的地位というのは、「自分は何者なのか、どういった肩書き(役職)なのか、世間からどう評価されているのか」という事を指すのだろうか。つい「自分は」と書いてしまったが、後段の意味を考えると「他人の身分、肩書き」という意味にも取れる。だとすると、ここで言いたいのは、この文の書き手の親世代(当然、書き手の親も含む)が今の自分よりも「身分」にこだわるという事をいいたいのだろうか。この場合、父親よりも母親の方がその傾向が強くなるものだろうか。家柄という意味では、かつては人を家で判断する時代があった。そうであるならば、より現代人の書き手は「今どきばかばかしい」事だと、彼らの旧弊な考え方に「驚く」かもしれない。
    (推敲訳A) 自分たちの身分がまわりと釣り合っているかなどと、親は――特に母親は――心の中で何にもまして考えている事に、いつも驚かされている。
     さきに推敲訳を書いてしまったが、適切な日本語に推敲するためにいろいろと考えた。the idea of a "position in life"は、普通で考えれば「社会的地位(身分)という考え」になるだろうが、これを関係代名詞節の中のall other thoughts (他のどんな考え)と比較してるわけだから、「Aという考えがBという考えよりも優先する」とするよりも「BにましてAについて考える」とした方が収まりがよい。それと主節(I am struck)の現在形は、日本語では状態の述語を意味するので「驚かされている」に直した。

     それと関係代名詞節の訳し方についても一言触れておこう。学生だった当時は直訳調に訳す事が唯一の方策だったので、まずはA take the precedence above B(AはBにまさる)からthe precedence which A take above B(AがBに対してもつ優先さ)のように日本語を変換して、主節のbyの目的語に収めようとする。これは英語の基本文型を考えれば分かるが、基本的な要素は名詞(名詞句、名詞節)から成り立っているため、文と文を接続して表現を深く展開していくには名詞(先行詞)の移動が不可欠だからだ。しかし、日本語はそうではない事は明らかで、述部に対して前方から様々な格表現が係り、さらに次なる述部につなぐために接続詞を多用する事で、表現を深く展開していく。「英語の先行詞に該当するものを仮想的に作りだして無理やり別の節につないでいく」などという努力は不毛としか言いようがない。まず手をつけねばならないのは「英語の名詞句に潜在する述部表現を顕在化する」事だ。しかし今回のような特定のフレーズがどのような意味で使われるのかは、前後の文脈や基本的な英語の知識に依存するので、結構難しい。

     という言い訳をしておいて、別の解釈で推敲してみる。ヒントは研究社新英和大辞典のcommensurateの項に出てくる用例clothes commensurate with one's position in life (身分相応の衣服)だ。つまりthe idea of one's position in lifeには「身分相応という考え方」という意味合いがあるのではないか。そう考えると、常日頃から父親以上に暮らし方について考える母親の方が「特に」という挿入形式の意味がしっくりくる気がする。しかも、position in lifeを肯定的にとらえる事により、主節のstrikeも本来の肯定的な印象に変わる。
    (推敲訳B)どうしたら「分相応」に暮らせるかを、親は――特に母親は――心の中で何事にもまして考えていて、その事に私は絶えず感銘をうけている。

     ここからは挿入形式について改めて考える。例文は「連体修飾句+名詞」の間に挿入される形なので、両側に区切り記号のダッシュ(―)が入っている。伊藤先生の訳文もそれにならって両側にダッシュ(本書では二重ダッシュ)が使われている。ただし、日本語として考えると少々違和感がある。係る言葉と受ける言葉との間に挿入するという形式は英語独自のもので、日本語では言い替え(言い直し)のような形式になるのが普通だ。だとすると(推敲a)にように句点で区切って言い直す形になり後方の「特に母親の」の後ろには句点は必要ない。ただし、あくまで例文の意味にこだわるのであれば、(推敲b)のように受ける言葉「心の中で」を両方に書く。これによってダッシュを用いた挿入形式も活かせると同時に、日本語としても違和感が解消する。

     推敲訳ではさらに一工夫してある。例文を適切な日本語に書き替える際に、係る言葉(the parent's)から主格を、受ける言葉(minds)から場所格を抽出して述部に係るようにした。そのため「心の中で」を繰り返す必要がなくなり、あくまで主格の部分だけを(推敲c)のように挿入すればよくなった。
    (例文)in the parents’−more especially in the mother's―minds.
    (訳文)両親の――特に母親の――心の中で
    (推敲a)両親の、特に母親の心の中で
    (推敲b)両親の心の中で――特に母親の心の中で――
    (推敲c)両親は――特に母親は――心の中で

     さらに推敲する。前回15.1.1でも書いたが、英語では五文型の一要素として挿入の位置が決まるが、日本語の場合は、挿入句を除いた部分を言い切ってしまってから、挿入句を関連づける事が可能だ。その際に挿入であることを明示するためにダッシュを残す。ただし文末に挿入部分を付ける場合は、後方のダッシュはなくても構わない。
    (推敲訳B')どうしたら「分相応」に暮らせるかと親は何にもまして心がけている――とりわけ母親はそうだ。その事に私は絶えず感銘をうけている。
    posted by アスラン at 23:50 | 東京 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2025年08月02日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(15.1.1)

    Chapter15 挿入の諸形式「@語句の挿入―andとif」より。
    15.1.1 Years ago, I used to receive letters from a friend, ―very interesting letters, too.
    (訳) 何年か前、私はある友人から手紙、それも非常におもしろい手紙をよくもらった。
     今回から『英文解釈教室』の掉尾を飾る第15章「挿入の諸形式」について考える。受験生だった当時の僕や、今まさに受験生である高校生だったら、ついつい飛ばしてしまいそうな内容だろう。第14章が「共通関係」で、これまたつまらないので後回しにしてしまったかも。当時の僕は第11章「比較の一般問題」と第12章「比較の特殊問題」が英文解釈のクライマックスだと信じて疑わなかったからだ。確かに今でも「比較構文」を日本語としてどう捉えるかは魅力的な問題だが、それよりもややこしいのが共通関係であり挿入形式である事は間違いない。何故なら、英語と日本語とでは基本となる構文構造が異なるからだ。共通関係や挿入形式によって英文の一部が省略されたり語順が制限されたりするのだが、それをそのまま日本語の構文に移し替える事ができない事が多い。特に挿入形式は、そのまま訳すと日本語としては不自然な感じがする。英文解釈上は理解できるが、英文の特徴を活かした形で日本語を書くと途端に日本語らしくなくなるように思える。その事をじっくりとこの第15章の例文で検討していこうと思う。

     まずは、例文の構造を見てみよう。
    Years ago, I used to receive letters from a friend,
                  ―very interesting letters, too.
     ダッシュ(―)で区切られてveryで始まる名詞句部分が、元々の文のlettersと同格表現になっている。伊藤先生は「very以下が思いついたことを追加した同格表現」と書いている。同格表現である以上、後半は単なる名詞句ではなく、前半のS+Vを共有もしくは省略していると見なせる。つまり英語構文としては I used to receive very interesting letters, too.という構造になっている。それを踏まえて訳文を見るとletters(手紙)を「思いついたこと」であるvery ineteresting letters(非常におもしろい手紙)に言い直して挿入しているので、日本語としては違和感が残る。通常で考えれば後方に出てくる述部表現「よくもらった」にかかる形式で書くべきだろう。
    (a)私はある友人から手紙、それも非常におもしろい手紙をよくもらった。
    (b)私はある友人から手紙を、それも非常におもしろい手紙をよくもらった。
     訳文の(a)は同格表現を名詞句に限定した書き方だが、(b)のように格助詞「を」を添えるだけで後方に述部の存在を予想させる事ができる。これによって挿入形式の宙づり感を減らす事ができるため日本語としての違和感が少なくなる。

     さらによくよく英語の原文を見ると、「挿入の諸形式」という章題でありながら実は全然挿入にはなっていない事に気づくだろう。前半の I used to … from a friend はS+V+Oの完全に自立した英文である。ただし、friendの次にピリオドを打たず、カンマで継続して同格表現が「挿入」されているというのが、英語から見えてくる挿入形式の意味だ。ならば日本語の場合も前半の文をひとまず言い切ってしまっても問題ないだろう。いや、こちらの方が自然に思える。
    (c)私はある友人から手紙をよくもらった。それも非常におもしろい手紙をよくもらった。
    (d)私はある友人から手紙をよくもらった。それも非常におもしろい手紙だった。
     あくまで原文の「挿入」の意味を構文上の問題として捉え、日本語では「思いついたことを追加した」という観点で推敲したのが(c)だ。これで随分と日本語として分かりやすくはなったが、別の問題として「〜をよくもらった」を繰り返していてくどい文になった。英文としてはS+Vの部分(I used to receive)を共有しているという事が構文上も、そして意味上も正しいが、日本語としてはそもそも主語や述語は必須要素ではないので、繰り返すのではなくウナギ文「僕はウナギだ」のように前半のS+Vに対応する部分(〜をよくもらった)が関係づけされている表現にした方がしっくりする。それが(d)だ。
    (推敲訳)何年か前、私はある友人から手紙をよくもらった。それも非常におもしろい手紙だった。

     さらに推敲する。years agoがどの程度むかしの事になるかわからないが、その時点でused to(よく…した、…するのが常だった、…する習慣だった)という流れになるので、単に時制を過去にするだけでは伝わらない。少し工夫が必要だ。過去の時点を示すために「何年も前になるが」と但し書きのように書き、その上でその時点での習慣をしめすので「(よく)もらった」ではなく「(たびたび)もらっていた」のようにする。そして同格表現の方はlettersの複数形を日本語に反映した。

    (推敲訳)何年も前になるが、私は友人の一人からたびたび手紙をもらっていた。しかも、どれもこれも私の好奇心を大いにくすぐる内容だった。
    posted by アスラン at 11:50 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2025年07月20日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(7.3 例題(3))

    Chapter7. It . . . that . . .「B 強調構文」より。
    7.3 例題(3) @It is generally accepted that every intelligent person should know something about the history of the country―and if possible of the world―in which he lives, of the literature which he reads, of the trade or profession which he follows, of the religion he believes in. AWhy not, therefore, of the language which he speaks? BIt is in the belief that there is a real necessity for this, and that one of the most certain ways to ensure an intelligent use of any language is to study it historically, that the present book has been written.
    (訳) 知性を備えた人は誰でも、自分が住んでいる国の、できれば世界の歴史、自分が読む文学の歴史、従事している商売や職業、信奉する宗教の歴史について、ある程度知っているべきだということが一般に認められている。では、自分の話す言語について、なぜそうであってはならないのか。この書物が書かれたのは、言語の歴史について知識を持つことが真に必要であり、言語の知的な使い方ができるようになるための最も確実な方法の1つは、その言語の歴史的研究であると信ずるからである。
     英文解釈の観点から作られた訳文と考えれば、伊藤先生の訳文は解釈の細かい部分までが透けて見えるので、受験生にとっては価値のある文章になっている。しかし、日本語としては非常に回りくどいし、原文では明解なはずの論旨が非常に迂遠な感じがするので手直しが必要だ。

     まずは@の文。It is … thatは形式主語の構文だが、that節に含まれる名詞句がズラズラと並列に並び、その1つ1つに関係代名詞節が付随している。日本語の言い回しとはかなり相容れない構成になっている。おまけにダッシュ(―)で括られた挿入句まで存在するので、特に注意が必要だ。
    It is generally accepted that
    every intelligent person should know something about
       the history of the country (and if possible of the world)
                └─in which he lives
           └─of the literature
                 └─which he reads
           └─ of the trade or profession
                 └─ which he follows
           └─ of the religion
                 └─ he believes in.
     この文の核となるのはthat節に含まれるevery intelligent person should know something about the historyであって、この文のthe historyの詳細をof the …を並列にして展開していく。しかし日本語の場合は述語表現が基本構成になるので「…についてある程度知っておくべきだ」という表現を繰り返す形にしておかないと落ち着かない。原文の文法的構成を変えてでも日本語の構成を優先する事にする。それと同格の挿入節and if possible of the worldの部分も、伊藤先生(だけでなくほとんどの人)は「自分が住んでいる国の、できれば世界の歴史、」のように訳しているが、「自分が住んでいる国の&世界の→歴史」のような係り受け関係と受け止めるにはかなり違和感があり、落ち着かない。とりあえず「自分の国の歴史」と「できれば世界の歴史」とを並列関係として表現する事にする。それと、同格部分を強調するために、この時点でいったん「…についてある程度知っておくべきだ」と述部表現を用い、その後に出てくる「文学」「職業」「宗教」の歴史については、別途述部表現を繰り返す事にした。

     intelligentについてちょっと言っておきたい。ランダムハウス英和大辞典によると「〈人・動物が〉高い知能を持つ、頭のよい、聡明な」を第一義にして、さらに「〈行為・発言が〉理解の早さを示す、頭の良さを示す;理にかなった」などとしている。だが、日本語では「知能」うんぬんを取り沙汰した言い方はあまり馴染まない。よくこういう時の常套文句として「知性と教養を備えた」などと言うので、その線で訳そうかと思ったが、どうやら「教養」の方がshould know something about…に対応しているようなので「知性」に絞った方がよさそうだ。
    (@の推敲文)知性のある人なら誰でも、自分の国の歴史や、可能ならば自分が存在する世界の歴史についてはある程度知っておくべきだし、日頃読んでいる文学や自分が就いている職業、自分が信じている宗教の歴史についても同様に、ある程度知っておくべきだという事を誰もが認めている。
     さらに推敲する。intelligentを「知性のある」としてみたが、やはり気になる。「聡明な」がよいかも知れないが、原文の意図がぼやける気もするので冗長ではあるが「知性を備えた聡明な人間」としてみた。また、「…の歴史」という名詞句を繰り返すのも日本語として熟れていないので、疑問詞を用いた述部表現に変更する。
    (@の推敲文)知性を備えた聡明な人間ならば、自分がどんな国に住んでいるのかとか、可能ならば自分はどんな世界に生きているのかを多少なりとも理解しておくべきだし、さらには自分が日頃読んでいる文学や、自分が就いている職業や、自分が信仰している宗教がどのような経緯で生まれたのかについても、同じように多少は理解しておくべきだという事は誰もが妥当だと思っている。

     AのWhy not…?は反語表現で「何故…であってはならないのか?」という意味で、結局は@の核となる部分「…についても多少は知っておくべきだ」の強調表現になっている。それが分かれば「言語の歴史」を@と同様に述部表現に直せばいい。
    (Aの推敲文)それならば、自分が今話している言語がどのような経緯で生まれてきたかも理解しておくべきではないのか。

     Bの強調構文について。伊藤先生は解説で「Bの最後に出てくるthe present bookは言語の歴史に関する書物で、問題文はその序文の一部らしいと検討がつくようなら、この問題は大丈夫。」と書いている。しかし、それにしては前段の序文にあたる部分に比べると、Bの主張はなんとなく明確さに欠ける。だが、とりあえずは@A同様に名詞句から述部表現に書き替える点に留意して推敲しておく。全体をまとめた際に、あらためて文意の明確さを考慮して推敲する。
    (Bの推敲文)各自が話す言葉が生まれた経緯を知っておく必要が絶対にあるし、言語を的確に使えるようになるのに最も確実なアプローチの1つが、その言語がどのように発展してきたかを分析する事にあると信じるからこそ、今話題にしているこの書籍が書かれてきたのだ。

     全体をまとめると推敲文は次のようになる。
    (推敲文) 知性を備えた聡明な人間ならば、自分がどんな国に住んでいるのかとか、可能ならば自分はどんな世界に生きているのかを多少なりとも理解しておくべきだし、さらには自分が日頃読んでいる文学や、自分が就いている職業や、自分が信仰している宗教がどのような経緯で生まれたのかについても、同じように多少は理解しておくべきだという事は誰もが妥当だと思っている。それならば、自分が今話している言語がどのような経緯で生まれてきたかも理解しておくべきではないのか。各自が話す言葉が生まれた経緯を知っておく必要が絶対にあるし、言語を的確に使えるようになるのに最も確実なアプローチの1つが、その言語がどのように発展してきたかを分析する事にあると信じるからこそ、今話題にしているこの書籍が書かれてきたのだ。

     さらに推敲する。一つは「…の歴史」という名詞句を述部表現に変更したので、どうしても文章が長ったらしくなる点だ。そこで名詞句のパッケージを開いた事を明示するためにかぎ括弧を駆使する。次に同格の挿入句の部分。「A、できればBの歴史」を「Aの歴史、できればBの歴史」さらには「Aはどんな歴史をもつのか、できればBはどんな歴史をもつのか」としたが、名詞句を述部表現に変えた事も影響しているので、「Aはどんな歴史をもつのか知っておくべきだし、できればBはどんな歴史をもつのかも知っておくべきだ」のように書き替える。好みと言われればそれまでだが、英語の同格表現(挿入)は日本語としてはなかなか馴染まない事をよくよく踏まえた上で対処すべきだろう。

     さらにBの文章についてもあらためて、ここで考える。問題はthe present book has been writtenおよびin the reliefについて主体(主語)は誰なのかという点だ。強調構文を元に戻すと
    The present book has been written in the relief that …
    となるので、本(the present book)を書いたのも信念(the relief)を抱いたのも著者という事になる。その点を考慮して推敲する。
    (推敲文A) 知的で聡明な人間ならば「自分がいったいどんな国に住んでいるのか」を多少なりとも理解しておくべきだし、可能ならば「どんな世界に生きているのか」も理解しておくべきだ。さらには「日頃読んでいる文学や、就いている職業、信仰している宗教がどのような経緯で生まれたのか」についても同じように多少は理解しておくべきだ。こういった事は多くの人が妥当だと思っている。ならば「自分が今話している言語がどのような経緯で生まれてきたか」についても理解しておくべきではないのか。今話題にしているこの書物を著者が書きあげたのだって、「言語がいかにして生まれたか」を理解しておく必要が絶対にあると信じているからであろうし、どうすれば言語を的確に使えるようになるかに対する最善の解決策は言語の発展過程を研究する事だと信じているからだろう。

     通常ならこれで推敲完了というところだが、Bについてはもう一つの解釈がある。the present book has been writtenのように受身表現にしたのは、著者うんぬんではなく一般論として(あえていえばこの例文の書き手の意見として)書かれているとも考えられる。そこで一般論としての主張に直した推敲文Bも挙げておく。
    (推敲文B) 知的で聡明な人間ならば「自分がいったいどんな国に住んでいるのか」を多少なりとも理解しておくべきだし、可能ならば「どんな世界に生きているのか」も理解しておくべきだ。さらには「日頃読んでいる文学や、就いている職業、信仰している宗教がどのような経緯で生まれたのか」についても同じように多少は理解しておくべきだ。こういった事は多くの人が妥当だと思っている。ならば「自分が今話している言語がどのような経緯で生まれてきたか」についても理解しておくべきではないのか。今話題にしているこの書物がどうして書かれたのかと言えば、多くの人が「言語がいかにして生まれたか」を理解しておく必要が絶対にあると信じているからであり、どうすれば言語を的確に使えるようになるかに対する最善の解決策は言語の発展過程を研究する事だと信じているからであろう。

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    2025年06月26日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(7.3 例題(2))

    Chapter7. It . . . that . . .「B 強調構文」より。
    7.3 例題(2) The Englishman learns by his mistakes, when once he is convinced of them; but it is only the brutal evidence of hard facts which will convince him,and,until these hard fact hit him in the face, his doggedness will make him hold on. It has been said that the English lose all battles and win all the wars; and it is only after he has lost a certain number of battles that the Englishman changes his tactics.
    (訳) 英国人はいったん自分がまちがっていると納得するとその誤りから学ぶが、英国人を納得させられるのはきびしい現実の過酷な証拠だけである。このきびしい現実に正面衝突するまでは、英国人はかたくなな性質のためやり方を変えようとしない。英国人は戦闘にはすべてやぶれるが、戦争にはすべて勝つと言われてきた。いくつかの戦闘にやぶれた後はじめて英国人は戦術を変えるのである。
     何を言わんとしているかは分かる訳文にはなっているが、翻訳調特有のよそよそしさが感じられて、どこに話のフォーカスが当たっているのかがよく分からない。伊藤先生の解説はとてもよく分かるし、the brutal evidence of hard factsの例えとして「自らの学力にバラ色の幻想を抱いている人」でも「合格者の中に自分の名前がない」事で「自分はやっぱりダメだったのか」と納得させられるものだと書いている。このシニカルなユーモアが訳文に活かされていないのは非常に残念だ。とにかく、まずは適切な日本語に推敲していこう。

     伊藤先生はセミコロンを接続詞相当と見なして一つながりに扱っているので、この例題の文は2つのパートから構成されている事になる。前半のパートではlearns by his mistakesを「誤りから学ぶ」としている。他動詞ならば「…を学ぶ」になるので分かりやすいが自動詞である以上はただ「学ぶ」ではダメだ。誤りを自覚したら次はどうしたらいいのかを「学ばねばならない」だろう。とりあえずはそんな風に推敲しておこう。問題はどうやら「どのようにするか」にはない。「どうなったらイギリス人は自らの誤りに気づくのか」という点にフォーカスが当たっている。それが分かるのは、続く文にでてくる強調構文でだ。

     セミコロンに続く部分は2つの文がandで結ばれており、前半がit is only … which 〜という強調構文になっていて、後半が(until … ) his doggedness will make him hold on.という文になっている。強調構文の方はthe brutal evidence of hard factsという英語特有の名詞句を伊藤先生も名詞句のままに訳している。解説ではあれほど分かりやすく例えたのに。なので日本語らしい述部表現に修正する。後半のuntil these hard fact hit him in the faceの訳「このきびしい現実に正面衝突するまでは」というのは意訳になっているが、日本語の表現としては違和感があるので手を加える。
    (前半の推敲訳) イギリス人は自分が間違っているとひとたび確信すると、どうすればよいかを学ぶようになる。ただし、間違っている事の根拠となる厳しい現実を容赦なく突きつけられて、初めて彼らは間違っていると確信するのであって、そのような厳しい現実に直面しないかぎりは生来の頑固さゆえに自らの信条を変えようとはしない。


     後半はIt has been said that …という形式主語の構文で始まる。thatの中ではthe Englishが主語で、伊藤先生はthe Englishmanと同じ「英国人」と訳している。でも、それならばthe Englishmanと書かれていないと不自然だ。直後の文でもthe Englishmanが使われているので、the Englishには違う意味が込められているはずだ。ほぼ同じ意味でもかたや単数形、もう一方が複数形扱いなので、英国人が集団として行動する事をイメージしてthe Englishが使われているようだ。ランダムハウス英和大辞典では「英軍、(国際試合などの)イギリス勢」という使い方も示している。

     それとbattleとwarが対比される形で使われているが、単に「戦闘」と「戦争」だと違いが分かりにくい。ランダムハウスによるとwarは「(国家間や国内の党派間の)武力衝突、戦争、戦闘」とあり、「戦争中の個々の戦闘はbattle」だと書かれている。一般に「war=戦争」という図式が日本では成り立っているので、battleの方を説明的に訳しておこう。
    (後半の推敲訳) イギリスの軍隊は、戦争中の一つ一つの戦闘にはことごとく敗れるが戦争にはことごとく勝つと、昔から言われてきた。つまり、何度か戦闘に敗れてみないと自らの戦術を変えようとはしないのである。

     以上、前半と後半をまとめる。
    (推敲訳) イギリス人は自分が間違っているとひとたび確信すると、どうすればよいかを学ぶようになる。ただし、間違っている事の根拠となる厳しい現実を容赦なく突きつけられて、初めて彼らは間違っていると確信するのであって、そのような厳しい現実に直面しないかぎりは生来の頑固さゆえに自らの信条を変えようとはしない。イギリスの軍隊は、戦争中の一つ一つの戦闘にはことごとく敗れるが戦争にはことごとく勝つと、昔から言われてきた。つまり、何度か戦闘に敗れてみないと自らの戦術を変えようとはしないのである。

     さらに日本語を推敲していく。後回しにしておいたが、やはり「learn=学ぶ」では日本語としてピンとこない。要するに「間違いを繰り返さない」という事だろう。前半の「厳しい現実を容赦なく突きつけられ」るという事と「厳しい現実に直面」するというのは同じ事を言っているように感じる。これはthe brutal evidence of hard factsを名詞句から述部表現に変換した際に「突きつけられる」という潜在表現を表に出したせいで、後のthese hard fact hit him in the faceという表現とあまり差が無くなってしまったからだ。要するに「突きつけられる」は書きすぎだったわけだ。「…を…突きつけられる」をもうちょっと控えめな表現にして、hit him in the faceの方をもっと大げさに表現する事にした。

     最後に全体を見直してみる。この文章は強調構文がところどころに挿入されているが、以下の4つの部分を日本語としてどう訳すべきかで、日本語としての文章の調子が変わってしまう。
    (1)The Englishman learns by his mistakes, when once he is convinced of them.
    (2)but it is only the brutal evidence of hard facts which will convince him,
    (3)and, until these hard fact hit him in the face, his doggedness will make him hold on.
    (4)it is only after he has lost a certain number of battles that the Englishman changes his tactics.
     これまで(2)や(4)の強調構文の訳し方を考えてきたが、一般には「…なのは〜だ。」式の訳がテンプレートになっている。しかし日本語としては「〜だからこそ、…なのだ。」のように取り立ての助詞相当を使いつつ訳す方が自然な場合もある。さらに別の問題が(1)や(3)(4)に含まれている。例えば(3)のようにuntilで時間軸を区切るような場合には以下のようなバリエーションが考えられる。
    (a)厳しい現実に直面するまでは生来の頑固さゆえに自らの信条を変えようとはしない。
    (b)厳しい現実に直面しないかぎりは生来の頑固さゆえに自らの信条を変えようとはしない。
    (c)生来の頑固さゆえに、厳しい現実に直面してようやく自らの信条を変える。

    さらには、make him hold onを「信条を変えようとしない」にするのか、「信条を守り続ける」にするのかでバリエーションが増える。
    (a')厳しい現実に直面するまでは生来の頑固さゆえに自らの信条を守り続ける。
    (b')厳しい現実に直面しないかぎりは生来の頑固さゆえに自らの信条を守り続ける。
    (c')生来の頑固さゆえに、厳しい現実に直面してようやく自らの信条を守らなくなる。
     日本語は述部表現が文全体に与える影響が大きいので、否定表現をどこにもってくるかで文章の流れがかなり変わってくる。ここでは(2)を例に取りあげたが、(1)や(4)にも同様のバリエーションが存在するので、最終的にどれを選択するかについては文章(段落)全体を見直す必要がある。さきほどの推敲訳を見ると、「信条を変えようとはしない」「戦術を変えようとはしない(のである)」というように(3)と(4)が繰り返しになっているように感じられる。しかし大事なのは(1)の前提と(4)の結論が呼応した文章にする事だと思われる。その点を考慮して推敲する。
    (推敲訳) イギリス人は自分が間違っているとひとたび確信すると、同じ間違いを二度と繰り返さない。ただし、自分の間違いが疑いようもない事実であるという容赦のない根拠があってこそ確信に至るのであって、そのような現実を突きつけられて一発お見舞いされないかぎりは、生来の頑固さゆえに自らの信条を変えようとはしない。イギリスの軍隊は戦時下に起きる個々の戦闘にはことごとく敗れるとしても戦争自体にはことごとく勝つと、昔から言われてきた。つまりイギリス人は、戦闘に何度も敗れた後になってようやく自らの戦術を見直すのである。
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    2025年05月28日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(7.3 例題(1))

    Chapter7. It . . . that . . .「B 強調構文」より。
    7.3 例題(1) It is not the rough and stormy sea that is most perilous to the ship. It is the dangerous rock-bound shore. When a ship is safely laden and fully manned, she is as safe on the sea as in a harbour. It is when she leaves the shore on departing and reaches it on returning, that she runs the risk of shipwreck. perish.
    (訳) 船に最も危険なのは荒れた、嵐の海ではない。岩に囲まれた危険な岸である。船が危険でない程度に荷が積まれ、乗組員が十分に配置されている場合には、船は海上でも港にいるときと同じように安全である。船が難破の危険をおかすのは、出発に際し岸を離れるときと、帰路岸に到着するときである。
     いよいよ強調構文が身についたかどうかを試す例題だ。この中には4つの文が含まれるが、そのうちIt is … that構文は2つあり、いずれも強調構文である。理由は本書を読めば十分に説明されているので割愛して、訳文の推敲に取りかかろう。第一の文と第二の文は、伊藤先生も説明しているように、焦点部が共通関係になったIt is not A, but B that…の変形 It is not A that…, but Bのbut以下の部分が別の文に分かれたと考えればいいので一緒に扱う。以下3つの部分に分けて推敲しよう。

     第一の文の訳で気になるのは「船に最も危険なのは」という部分。perilous to …のtoが助詞「に」に対応しているように訳されているが、日本語らしくない。「船にとって危険な」あるいは「船が危険である」とすべきところだ。それと読点の位置も気になる。短い文なので誤解はないだろうが、係り受け関係を明確にするならば「船にとって最も危険なのは、荒れた嵐の海ではない。」に変えた方がよい。この結果「荒れた→海」ではなく「荒れた嵐」という係り受け関係が生じてしまうので、「荒れた&嵐の→海」という関係をハッキリさせる為に、あえて並列関係を入れかえて「船にとって最も危険なのは、嵐で荒れた海ではない。」とすると、さらにシックリする。そもそもroughとstormyはどちらも「天候が荒い」「荒天の」という意味だが、船がお題である事を考えれば「嵐」でも良いが「時化(しけ)」で「波が荒い」と考えた方がよさそうだ。

     続いて第二の文にはdangerous(危険な)という形容詞が出てくる。第一の文のperilousも「危険な」という意味だが、訳文を見ると「船に(とって)最も危険なのは…岩に囲まれた危険な岸である。」と書かれている。煎じ詰めると「危険な岸が最も危険だ」と、当たり前のような事を言っているようにも感じられる。ランダムハウス英和大辞典ではdangerousは「〈事柄・事情などが〉危険な、危険を伴う、危ない」を意味し、perilousは「〈行動・計画などが〉危険をはらんでいる、危険に満ちた、冒険的な、危うい」などとなっている。dangerousは直接的な危険を表すのに対し、perilousは潜在的な危険の可能性について強調しているように感じられるので、やや違いを持たせた日本語に変えた。また訳文の「岸」は危険な状況が分かりやすいように「浅瀬」に変えた。
    (第一、第二の文の推敲訳) 航海中の船にとって最も危険をはらんでいるのは、時化て荒れた海ではない。岩に閉ざされて危険な浅瀬だ。

     次は第三の文。a ship is safely laden and fully mannedの部分の訳は「安全に(=危険でない程度に)」「十分に」あたりが翻訳臭が抜けていないので、意図が伝わるような日本語に変更する。
     後半は比較構文であるが、以下のように(A)と(B)を比較して同格(同じ程度)である事を(X)のように表現している。
    (A)she is safe on the sea.
    (B)she is safe in a harbour.
    (X) she is as safe on the sea as (she is safe) in a harbour.
     この際に基準となる(B)の一部が省略されることから、訳文の方もそれに従って省略しがちで、「船は海上でも港にいるときと同じように安全である」となっているが、日本語としては翻訳調で違和感が残る。「船は港にいる時は安全だが、海上でも同じように安全だ。」とした方が自然だ。
    (第三の文の推敲訳) 積載量の制限に従って積み荷を載せて必要な乗員を配置していれば、船は港に停泊している時が安全なのはもちろんの事、海上にいても安全である。

     第四の文の訳で違和感を感じるのは、船が擬人化されている点だ。「船が難破の危険をおかす」というのは、確かに「she runs the risk of shipwreck.」と書かれているからだが、主語のない日本語では不自然だ。第三の文までの「船は」はもちろん主格の「は」であり、ほとんどは題目の「は」である。ここでは題目はでてこないので「船が〜危険にさらされる」のように受け身の表現に修正する。
    (第四の文の推敲訳) 船が難破する危険にさらされるのは、出港に伴い離岸する時と入港に伴い接岸する時である。

     以上をまとめて推敲訳とする。
    (推敲訳) 航海中の船にとって最も危険をはらんでいるのは、時化て荒れた海ではない。岩に閉ざされて危険な浅瀬だ。積載量の制限に従って積み荷を載せて必要な乗員を配置していれば、船は港に停泊している時が安全なのはもちろんの事、海上にいても安全である。船が難破する危険にさらされるのは、出港に伴い離岸する時と入港に伴い接岸する時である。

     さらに日本語として推敲していく。さきほどdangerousとperilousの違いを直接的か、あるいは可能性かで区別するとしたが、さらに調べていくとchat-GPTでは以下のような違いがあると指摘してくれた。
    dangerousとperilous.jpg
     つまりdangerousは「日常的な危険」であり、perilousは「深刻な危険」である。と同時にperilousは文語的で固い表現だという事らしい。英語の違いをすべて満たす事はできないが、perilousの方をレトリックを駆使して大仰な言い方に変えてみた。また、いつものように英語では名詞中心の表現が多用されるが、日本語では述部表現に書き直す。第一の文の「…の海」や「…の浅瀬」は、「海が…の時」「浅瀬が…の時」のように変えた。
     例の比較構文だが、基準となる(B)の方は、積み荷や乗組員の件にかかわらず安全は保証されるだろう。なので条件による限定の外側に追い出して、一定の条件下では(A)の方も同じように成立するという日本語に変えた。
     最後に、これは英文解釈教室の章立てには含まれていないし、そもそもほとんどの学習書で取りあげられていない点として、文接続詞について一言言っておきたい。この例題でも文接続詞はひとつも使われていないが、日本語ではかえって不自然だろう。いたるところで挿入したくなる欲求に駆られるが、少なくとも第三の文の帰結として第四の文の主張が成立するのは明らかなので「故に」と控えめに挿入しておこう。
    (推敲訳) 航海中になによりも増して危険と隣り合わせになるのは、海が時化て荒れている時ではない。浅瀬が岩で閉ざされて危険な状態の時だ。船は港に係留されていれば安全だが、積み荷の積載量を限度内におさめ必要な船員を配置しさえすれば、海上にいても安全である。故に、船が難破する危険にさらされるとしたら、出港に伴って離岸する時か、あるいは入港に伴って接岸する時だという事になる。
    posted by アスラン at 00:05 | 東京 🌁 | Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2025年05月09日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(7.3.9)

    Chapter7. It . . . that . . .「B 強調構文」より。
    7.3.9 It was my teacher's genius, her quick sympathy, her loving tact which made the first years of my education so beautiful. It was because she realized the right moment to impart knowledge that made it so pleasant and acceptable to me. perish.
    (訳) 私が受けた教育の最初の数年間をすばらしいものにしてくれたのは、私の先生の非凡な才能、その素早い共感と愛情にあふれた技量であった。それは、先生が知識を与えるべき時を心得ていて、そのおかげで知識が私にはおもしろく受け入れやすいものとなったからであった。
     この例文のポイントはIt is … that構文が2つあるように見えて、2番目のIt was because… thatの方はそうではないという点だ。特に強調構文としては、焦点部には(a)副詞的要素もしくは(b)名詞(句)が来る。(a)ならばthat以下は完全な文でなくてはならないし、(b)の場合はthat以下の文の主語もしくは目的語が欠けていなければならない。この例文の場合because…は副詞的要素なのでthat節には完全な文がこなくてはならない。ところがmadeの主語が欠けているため、このthatは関係代名詞でなければならない。つまり強調構文ではないという事になる。もちろん形式主語の構文でもないのは明らかだ。

     これを踏まえた上で訳文を推敲していく。前半の強調構文では焦点部は3つの名詞句で構成されている。これらはすべて述部表現に変えよう。それと私と先生とがどういう人となりなのかも考えておく必要がある。「私」は普通に学校に通っているのか、それとも「私」はいいとこのお嬢さんで、家で家庭教師の先生がついているのかどうか。先生は女性である事を考えると、私も女性で子供の頃から家庭教師の先生に教わってきたというように考えてもよさそうだ。ただし、そこまで昔の思い出を回顧していると考えるのはさすがに英文解釈の例文としては相応しくないかもしれない。あくまで学校の先生との出会いだと考えよう。となるとeducationは「学校教育」すなわち「学校の授業」「学校生活」ぐらいに書き直したい。
    (前半の推敲訳) 最初の5年間の学校生活があんなにも素晴らしいものとなったのは、私の先生が非凡な才能の持ち主であって、私の言う事に即座に共感してくれたし、愛情をもって臨機応変に接してくれたからだ。

     後半の文では、thatはおそらくthe right moment (to impart knowledge)の先行詞だと思われるし、made it so pleasant…のitはknowledgeではなくてmy education(学校生活、学校の授業)を指していると思う。そうでないと先生が授ける「知識」ばかりが私の楽しさの根源のように読めてしまう。
    (後半の推敲訳) 何故かと言えば、先生は私たち生徒にどのタイミングで知識を授けたらいいかをよく分かっていて、そのおかげで私は授業が楽しくて、進んでやりたいと思えたからだ。

     以上をまとめると、このようになる。
    (推敲訳) 最初の5年間の学校生活があんなにも素晴らしいものとなったのは、私の先生が非凡な才能の持ち主であって、私の言う事に即座に共感してくれたし、愛情をもって臨機応変に接してくれたからだ。何故かと言えば、先生は私たち生徒にどのタイミングで知識を授けたらいいかをよく分かっていて、そのおかげで私は授業が楽しくて、進んでやりたいと思えたからだ。

     さらに推敲する。前半も後半も「〜からだ。」という理由に解釈すると「AがPだったのはBだからだ。それが可能だったのはCだからだ。」のようになって、次々に理由が続く事になる。だからちょっと変えて「AがPだったのはBがあったからだ。(Bがあると)Pが可能になるのはCだからだ。」のような接続関係を日本語で表現する必要がある。
    (推敲訳) 私が最初に学んだ先生は特別な才能を持っていて、私の言う事にたちどころに賛成してくれたし、その場その場で臨機応変に対応する事に骨身を惜しまなかった。その結果として最初の5年間の授業は私にとってあのようにかけがえのないものとなったのだ。何故それが可能だったかと言えば、先生がここぞというタイミングで私たち生徒に知識を授けようと考えていて、そのおかげで私は授業が楽しくて自分から受けたいと思えたからだ。
    posted by アスラン at 00:50 | 東京 🌁 | Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2025年04月05日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(7.3.8)

    Chapter7. It . . . that . . .「B 強調構文」より。
    7.3.8 Science may tell us that in the struggle for life it is the fittest who survive, but we who have lived through two great wars have seen with our eyes that it is the bravest, the noblest and the best who perish.
    (訳) 生存競争で生き残るのは、生存に最も適した者であると科学は教えてきたかもしれないが、2度の大戦を生き抜いてきた我々は、滅びるのは最も勇敢で高貴で最もすぐれた人々であることを自分の眼で見てきている。

     強調構文というと基本はIt is … thatだが、焦点部が「人」の場合はIt is … whoが使われる事があるし、「物」の場合はIt is … whichが使われる事もある。今回の例文はIt is … whoの強調構文が2つ含まれている。どちらも主語が焦点部になってはいるが目的語の場合でもwhoが使われるはずだ。
    (a) Tom met Jennifer yesterday. 昨日トムはジェニファーに会った。
    (a') It was Tom who met Jennifer yesterday. 昨日ジェニファーと会ったのはトムだった。(主語が焦点部)
    (a") It was Jennifer who(m) Tom met yesterday. 昨日トムが会ったのはジェニファーだった。(目的語が焦点部)
     (a")の場合は目的語なのでwhomも使えるようだが(というか正確にはこちらが文法に忠実だが)、実際にはwhoを使うのが一般的のようだ。

     また、ジーニアス英和辞典の例で初めて知った(というか意識した)のだが、giveの間接目的語が「人」の場合はwho(m)を使えないらしい。
    (b) Mr. White gave Joe the ticket. ホワイトさんはその切符をジョーにやりました。
    (b') It was Mr. White who gave Joe the ticket. その切符をジョーにやったのはホワイトさんでした。(主語が焦点部)
    (b") It was to Joe that [×who(m)] Mr. White gave the ticket. ホワイトさんがその切符をやったのはジョー(に)でした。 (目的語が焦点部)
     これは要するにS+V+O1+O2の構文になるのは(b)や(b')の時で、間接目的語O1が焦点部として前方に出る形式では成立しないという事だろう。(b")の場合にはS+V+O2という構文が基本形になってto O1という副詞的要素が焦点部に移動するのだからwhoではなくthatが使われるという事になる。

     以上の話は例文の推敲とは何の関係もない。単なる僕自身の興味に過ぎないので話を元に戻して例文の推敲に取りかかろう。まず前半で気になるのは「科学は教えてきた」のように科学を擬人化している点だ。英語教育の影響なのか、今や日本語でも当たり前のように使われるかもしれないが、とりあえずは擬人化しない方向で考えたい。mayが使われているからと言って「(科学は)教えてきたかもしれない」という他人事のような表現になっているのも気になる。もっとも気になるのは「生存競争で生き残るのは、生存に最も適した者である」という部分だ。これって当たり前の事しか言ってないように感じる。もうちょっと因果的な法則が含まれるのではないだろうか。

    (前半の推敲訳) 科学的見地からすると、自然界の生存競争においては環境にもっとも適応した生物の方が最後まで生き残る事になるだろう。

     後半の方は、主語である「我々」に関係代名詞節が連体修飾していて非常に長くなっているのがバランスが悪い。しかも「〜我々は、…を自分の目で見てきている」のように長ったらしい主語と述部が、強調構文を間に抱え込んだままで非常に離れている。このままでは係り受け関係が離れすぎと感じるだけでなく、強調構文の主張も目立たなくなる。この2点を解決するには「我々は」を題目部として冒頭で独立させてしまえばいい。題目部ならば、文や節を超えて後々の文章の述部に影響を及ぼすので安定するのだ。
    (後半の推敲訳) しかし我々は、二度の大戦を生き延びてきた経験から、誰よりも勇敢で高潔で優秀な人間の方がかえって天寿を全うできないという現実を目の当たりにしてきた。

     一つにまとめると、次のようになる。
    (推敲訳) 科学的見地からすると、自然界の生存競争においては環境にもっとも適応した生物の方が最後まで生き残る事になるだろう。しかし我々は、二度の大戦を生き延びてきた経験から、誰よりも勇敢で高潔で優秀な人間の方がかえって天寿を全うできないという現実を目の当たりにしてきた。

     推敲はほぼこれで良しとするが、内容については一言触れておきたい。ダーウィンの唱えた進化論で重要な柱となる「適者生存」は、種として生き延びるためには、それぞれ環境に最適な個体が生き抜く事を原則としているわけだが、それと社会生活を生きる人間とでは原理原則がそもそも違っている。人間という個体が生き延びるためには、当然の事ながら個体として環境に最も適した者が求められるであろうが、人間が形成する社会の目的はそれとは異なっている。人間が考えているのは種の保存ではなく、社会の継続だろう。社会無くして人間は生きられないという事を結論づけた結果、社会を維持するための理念や倫理といったものを人間は重要と考えた。「勇敢」「高潔」「優秀」などの観念は、自然という環境に個体が適応するための資質とはまったく関係ない。あくまで社会にとって有効な資質であるか、もしくは美的な理念でしかない。

     この例文の考え方では、科学的進化論と社会的進化論とを混同しているのだ。もっとも、自然を離脱して社会的生活を営む人間にしても遺伝子の命令に基づいて行動しているというトンデモ理論もあるので、そういう大枠の原理が存在するとなると、例文の主張は一周回って考えるに値する内容になっているのかもしれない。まあ、例文の直接の主張とはまったく違ってはいるけれど。
    posted by アスラン at 11:25 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2025年03月14日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(7.3.7)

    Chapter7. It . . . that . . .「B 強調構文」より。

    7.3.7 It is not by prayer that you cause things to go as you wish, but by acquiring a knowledge of natural laws.
    (訳) 物事を思いどおりに進行させられるのは、祈祷によってではなく、自然法則の知識を得ることによってである。
     前回も書いたが伊藤先生は、not A but Bのような共通関係を主語にもつ英文(a)に対する強調構文には二通りの書き方(a')(a")があることを示している。今回の例文は二つ目のパターン(a")に相当する。
    (a) Not A but B is P.  (AはPではないが、BはPである。)

    (a') It is not A but B that is P. (PなのはAではなくBだ。)
    (a'') It is not A that is P, but B.  (PなのはAではない。Bだ。)
    (*)日本語は私訳
     この例文は強調構文の構造も分かっているし、内容もおおよそのところはつかめている。だからあとは推敲あるのみだ。内容はおおよそ分かっていると書いたが、具体的にどんな内容なのかというと今ひとつ分からないところがある。それはthingsの具体的な中身だ。「物事を思い通りに進行させる」には祈祷では駄目で、自然法則の知識を知らなければ駄目だと言っている。これにうまくあてはまるのは「豊作」や「豊漁」だろうか。あるいは「(病の)平癒」なども良さそうだ。これらは、かつては「願かけ」をして叶えようとしたが、今では品種や土壌の改良、気象情報などが「豊作」を、最新の装置を搭載した漁船と、やはり気象情報などが「豊漁」を、そして近代医学の進歩が「平癒」をもたらす。これらはいずれも自然法則に関する知識を活用したものだと言える。一方で「立身出世」や「世界平和」などは社会的な法則、あるいは経験則が有効であって自然法則の知識は直接には関係しない。こういう時にthingsとは何を指すのか。

     もうちょっとジタバタするためにニッポニカの「自然法則」の項を読んでいたら「生産・労働と自然法則認識」という項目に非常に分かりやすい解説が載っていた。
    人間は、生存の必要上、絶えず環境である自然に働きかけてこれを改変し、このことを通じて、人間からは独立した自然法則を発見してきた。
     (中略)
    …このように、物質的生産・労働のなかに自然の法則性についての観念の根があった、…そしてこの根から、近世ヨーロッパにおける資本主義の勃興という社会的大変革過程の一要素として、自然科学という木が生まれ育ち、これはしだいに自然法則の認識という果実をつけていくようになったのである。人間がその後この成果を深化させ拡張することによって自然をますますうまく統御して、自らの利益に役立てることができるようになったことは、改めていうまでもない。
     これを要約すると「人間は環境(自然)に働きかける事で自然法則を発見し、やがて自然法則という存在を認識するまでになり、その認識によって自然そのものを思い通りに統御(コントロール)する事ができるようになった。」という事だろう。だとすると、thingsの意味は「自分の身の周りの環境」であり「自然のあらゆる物事・状況」だと言っていいだろう。

    (推敲訳) 身の周りで起きる諸々の状況を自分の望むとおりに変えていくには神頼みでは駄目だ。自然法則に関する認識をちゃんと習得しておく必要がある。
     少しくどいので、あっさりと推敲してみよう。
    (推敲訳) 思いどおりに現状を変えていくには神頼みでは駄目だ。自然の摂理がいかなるものかを身につける事こそが重要だ。
    posted by アスラン at 00:25 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2025年02月28日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(7.3.6)

    Chapter7. It . . . that . . .「B 強調構文」より。

    7.3.6 It is not what people eat, but what they digest, that makes strong.
    (訳) 人間を強健にするのは、食べるものではなく消化するものである。
     強調構文で主語、目的語、副詞的要素の順に例文が出てきたが、今度は主語に戻ってandやorで並列関係(共通関係)になっている例文を扱う。伊藤先生は、
    (a) Not A but B is P. (AではなくてBがPである。)
    のように訳しているが、日本語としては主語の部分が頭でっかちになっていて適切ではない。しかも強調構文ではない形では、この英文は題説構文+対照文と見なすべきなので「AはPではないが、BはPである。」のように訳すのが自然だ。
    (a') It is not A but B that is P.
    (a'') It is not A that is P, but B.
     そうすると、強調構文として本書が挙げている上記の二種類のパターンのうち、日本語として適切な訳文に近いのは(a'')の方になる。これは「PなのはAではない。Bである。」と訳す事になる。これに沿って日本語を考えてみる。make strongは「強健にする」のような日頃使わない言葉ではなく、単に「健康にする」と考える。それと「食べるもの、消化するもの」のようにわざわざ現在形に訳しているが、慣習あるいは習慣を表すのであれば「食べたもの、消化したもの」と表現した方が日本語としてしっくりくる。
    (推敲訳) 人を健康にしているのは食べたものではない。消化したものである。

     さらに日本語として推敲していく。「人を健康にする」よりも「人が健康になる」の方が日本語として適切だ。そうなると「健康にするのは〜だ」よりも「健康になるために必要なのは〜だ」のように解釈する事になる。
    (推敲訳) 人が健康になるために必要なのは食べた内容ではない。摂取した内容だ。

     最後にもう一手間加える。whatを用いた関係代名詞節は要するに名詞なので「食べた内容」「摂取した内容」としたが、日本語としてはなんとなく気持ちが悪い。日本語の疑問代名詞節とみなした述部表現に変換する。
    (推敲訳) 人が健康になるために重要なのは、何を食べたかではなく何を摂取したかだ。
    posted by アスラン at 17:50 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2025年02月24日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(7.3.5)

    Chapter7. It . . . that . . .「B 強調構文」より。

    7.3.5 It was not until the shadow of the forest had crept far across the lake and the darkening waters were still that we rose reluctantly to put dishes in the basket and start on our homeward journey.
    (例) 森の影が湖の上に遠くまでのび、暗さをます水面が静かになってはじめて、私たちは気の進まぬまま立ち上がって皿をバスケットに入れ家路についた。
     この例文に取りかかる前に、伊藤先生がtillで始まる従属節を副詞的要素として持つ英文について解説をしているので、まずはそれについて考える。
    (a)暗くなるまで彼らは出発しなかった。(They did not start till it got dark. )
    (b)暗くなってはじめて彼らは出発した。(It was not till it got dark that they started.)
     日本語として考えると「(a)暗くなるまで…」と「(b)暗くなってはじめて…」は見方が異なるだけで同じ事を言っている。この(a)から(b)への発想の転換に対応するのがIt was not till … that …という英文だと言っている。しかし、これには異論がある。「同じ事を見方を変えて表現する」という事と「強調したい部分を焦点部として前方に出す」という事とは全く別の事ではないだろうか。それに、(a)と(b)のように日本語側から考えるのではなく、まずは英語側で考えるべき事があるはずだ。もうちょっとじっくりと英語で考えていこう。
    (A)They did not start till it got dark. (暗くなるまで彼らは出発しなかった。)
     この英文の副詞的要素つまりtillで始まる従属節を焦点部とする強調構文を考えると、次のようになる。
    (A')It was till it got dark that they did not start.
     しかし、この文は「文法的に不自然です」とchatGPTに指摘されてしまった。それを言いたいなら次のように書くように訂正された。
    (A'')It was not till it got dark that they started. (暗くなるまではなんとしても彼らは出発しなかった。)
     これは従属節だけでなく主節の否定を表す副詞notも同時に焦点部に出す必要があると言う事だ。訳文については強調の副詞「なんとしても」を追加して(A)の訳文を強調した言い方にしてみた。これで思い出すのは倒置構文だ。『英文解釈教室』ではChapter5で倒置形を扱うので、順番的には強調構文より先に学習する。この順番には伊藤先生による配慮があったことになるが、いずれ倒置形についてもあらためて検討する事になるだろう。とりあえず重要な点を挙げておくと、倒置形は「否定の副詞+v(助動詞)+S+V」という語順になるという点だ。そして否定の副詞は副詞句・副詞節なども一緒に前方に引き連れてくるので、(A)の文では従属節もnotと一緒に前方に出る。
    (A''')Not till it got dark they started. (暗くなるまではなんとしても彼らは出発しなかった。)
     倒置構文にした事で訳文にどんな影響を与えるかは改めて考えたいが、伊藤先生は「強意のために否定の副詞が前に出る」と書いている。これが強調と同じ意味ならば、(A''')と(A'')とは意味的には変わらないので、訳文も一緒にしておく。結論としては、主節の否定を伴う副詞的要素(従属節)をもつ英文の場合は、まずは強調としての倒置構文の変形を行った上で、それを強調構文のフォーマットにはめ込むという順番になる。おそらくは倒置構文と強調構文としては、副詞的要素に焦点を当てて強調するという役割はまったく変わらない。ただ、強調構文の方が焦点となる部分を明示するという意図がハッキリしているという点が異なるだけなのだと思う。

     以上の事とは別にnot〜tillについては見方を変えた表現が考えられる。日暮れを境にして時間軸を区切り、「やった事」と「まだやっていない事」のいずれを表現するのかで選択肢が2つに分かれる。これは強調とは別の考え方で「主観的表現」に相当する。事象としてはまったく同じ事を表現するのだが、主観として「どう感じたのか」を文に反映させている。だから(A)とは別の選択肢として以下の(B)が存在する。
    (B)They started when/after it got dark. (暗くなってから彼らは出発した。)
     whenもしくはafterについては伊藤先生がnot〜tillとは別の表現として挙げたものだ。whenは「暗くなった途端」という表現だし、afterは「暗くなってから」という表現だが、いずれにしろ日本語は「暗くなってから」でいいだろう。強調構文にしたので「ようやく」で強調しておく。
    (B')It was when/after it got dark that they started. (暗くなってからようやく彼らは出発した。)

     これで例文にとりかかる準備はできた。例文7.3.5を強調構文で強調する前の形に戻す。
    (強調前の7.3.5) We did not rise reluctantly to put dishes in the basket and start on our homeward journey until the shadow of the forest had crept far across the lake and the darkening waters were still.
     これを元に訳文を推敲する。
    (推敲訳) 森林の木々の影が湖の対岸へと伸び、湖水が暗くなって波が穏やかになるまでは何があっても、私たちは嫌々ながらも起き上がりかごに食器類をしまって家路につこうなどとはしなかった。
     さきほど検討したように、あくまでnot〜until…の訳文を否定の副詞要素で強調したが、日本語としてあまりうまくいっていない。その理由は、主節の部分が「やった事」中心で詳細に書かれているからだ。ただ単に「起き上がる」ではなく「しぶしぶと、嫌々ながら、不本意ながら」という心情をこめた副詞が伴っているため、これを全面的に否定するためには「嫌々ながら起き上がろうとしなかった」では駄目で、「嫌々ながら起き上がるという事はしなかった」のように「嫌々ながら」の係り先を明確にしないといけない。「起き上がる」に「食器類をしまう」「家路につく」などが連用修飾しているのもさらに状況を複雑にしている。なので日本語としては「まだやっていない事」に拘るのは得策ではないので、見方を変えて「やった事」で書き替える事にする。
    (推敲訳) 森林の木々の影が湖の対岸へと伸びてゆき、湖水が暗くなって波も穏やかになったのでようやくのこと、私たちは嫌々ながら起き上がって、かごに食器などをしまいこんで家路についた。
    posted by アスラン at 13:08 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2025年02月11日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(7.3.4)

    Chapter7. It . . . that . . .「B 強調構文」より。

    7.3.4 It's in self-sacrifice that a man fulfils himself.It's in giving all he has to those who are near and dear to him that he solves the riddle of life.
    (例) 人間が自己を実現するのは自己犠牲においてである。持てるもののすべてを、身近にいる親しい人に与えることにおいてこそ、人間は人生のなぞを解くのである。
     今回から副詞要素が焦点部に来て強調される例文を扱う。名詞と違って副詞要素になる場合は強調構文パターンの「…なのは…だ」にすると日本語として不自然な場合もある。この例文では2つの強調構文があるが、前半と後半とで明らかに強調構文パターンを使う使わないの判断が変わってくる。

     まずは前半の文を考えよう。特に解釈に難しいところはないが、内容がよく分からない。fulfilと言うと「自己実現」とか「自己を実現する」という言葉が出てくるのだが、いったい自己実現ってなんだろう。以前から不思議に思ってきたのだが、日本語ではあまり使われない言葉だ。ぱっと思いつくのは「一人前の人間になる」という意味だろうか。それならしっくりくるが、それと「自己犠牲」とが抱き合わせになるというところもよく分からない。自己犠牲と言えば、例えば例の倫理学的トライアルとして有名な「トロッコ問題」が想像される。あれは倫理上5人の死を選ぶか1人の死を選ぶか」という設定だったが、もし第3の設定として、誰も犠牲者のでない支線があるが、それは行き止まりになっていて自らの死を選択するという事になっていたとしたら、それを選ぶべきだろうかというのが「自己犠牲」の問題だろう。そのように尋常ではない事を言いたいとはどうにも思えない。

     広辞苑によると「自己実現」は「自分の中にひそむ可能性を自分で見つけ、十分に発揮していくこと。マズローは、人の欲求階層の最上位に置いて重視した。」とある。明鏡では「自分のもつ能力を最大限に開発し、より成長した自己を実現すること。」と書かれているが、「自己実現」が「より成長した自己を実現すること」というのは自己言及的で、さらに「より成長」するので無限に成長していってしまうのではないだろうか。まあ、それはおいておくとして「自分の能力を開発して、最大限に発揮していく」事を指すようだ。ランダムハウス英和大辞典では「《通例再帰的》…に(…としての)資質を十分に発揮させる[伸ばさせる]、自己実現させる《as…》」とある。as…の部分があると分かりやすいようでHe fulfilled himself as a writer.(彼は作家としての力量を十分に発揮した。)となる。まあ、なんとなく分かったとして、今度はself-sacrificeの方だ。「自己犠牲」は犠牲という言葉の響きが強すぎるのでイメージが悪い。精選版日本国語大辞典では「自己犠牲」が立項されていて、「ある目的のために自分の欲望や幸福を捨てて尽くすこと。」とある。ここは「献身」ぐらいにするのがよさそうだ。
    (第一の文の推敲訳) 自分の力量が最大限に発揮されるのは、献身的に人に尽くす時だ。

     第2の文は焦点部にあたる部分が長い。副詞的要素を構成する述部(giving)の前置詞節に関係詞節が含まれるからだ。焦点部となる部分の訳が長くなると、強調構文の翻訳パターンは使いにくくなるのは前回までに確認したが、副詞的要素の場合は特に使いにくくなる場合がある。ただし、この例文では第1の文とほぼ同じ内容を具体的に説明しているだけなのでパターンを使っても問題ない。だが、やはり長いのは訳しにくいらしく、伊藤先生の訳でもパターンは使わずに、「…身近にいる親しい人に与えることにおいてこそ」と訳している。この「こそ」という取り立ての助詞で焦点が当たっていることを示している。図らずも前回(7.3.3)での検討が間違っていなかった事が伊藤先生の訳でハッキリしたのは心強い。

     とは言え、訳文に気になるところはいくつかある。翻訳臭が感じられるところがところどころにあり、中でも一番は「人生のなぞ」だろう。これをそのまま訳すのではいくらなんでもピンとこない。おそらくは「人生の意味はどこにあるのか」とか「なんのために生まれてきたのか」といったたぐいの謎だろう。英語特有の名詞句から日本語として適切な述部表現に展開しておくべきだ。
    (第2の文の推敲訳) 身近にいる大切な人に自らの何もかもを捧げてはじめて、人は「人生とは何か」という謎が解けるのだ。

     まとめると、以下のようになる。
    (推敲訳) 自分の力量が最大限に発揮されるのは、献身的に人に尽くす時だ。身近にいる大切な人に自らの何もかもを捧げてはじめて、人は「人生とは何か」という謎が解けるのだ。

     ここまで手直ししてみたが、やはりまだ日本語としては腑に落ちないのでもうちょっと状況が分かりやすいように推敲する。
    (推敲訳) 人が己の力を出し切る時があるとすれば、それは誰かに献身的に尽くす時だ。ごく親しい人に何もかもを捧げた時にはじめて、「人生とは何か」という謎が解けるのだ。
    posted by アスラン at 22:35 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2025年02月01日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(7.3.3)

    Chapter7. It . . . that . . .「B 強調構文」より。

    7.3.3 It is worth while to consider what it is that makes people happy, what they can do to make themselves happy.
    <(訳) 人間を幸福にするものは何か、自己を幸福にするために人間は何をなしうるかを考えてみるのは価値のあることである。
     どこが強調構文なのかと言えば、It is something that makes people happy.のsomethingが疑問詞whatに変わって先頭に移動したのが例文のwhat it is that …なのだと伊藤先生は書いている。僭越ながら例えとしては不適切では無いだろうか。somethingにしてしまうと「人間を幸福にするものが(具体的には言わないが)何かある」という意味になってしまって、前回の7.3.2で検討した「強調構文は初めに条件ありきの文である」という話と合わないからだ。この場合「人間を幸福にするものがある」というのが前提であって、それを具体的に示唆する(焦点を当てる)のが強調構文の役割だから、It is XXXX that makes poeple happy.という文でなければならないはずだ。XXXXの部分に「お金」「家族」「仕事」のようなものが入るわけだ。まあ、それはそれとして結局は疑問詞が先頭に移動するのは同じ事だ。

     ここまで分かれば、訳文自体に不明瞭なところは何も無い。ただし、日本語としては英語臭さが残っているので、それをいかに「消臭」するかという点に気を配るだけだ。「人間を幸福にする」というところが、モロ翻訳調だ。ついつい文型S+V+O+Cを意識した訳し方になってしまうが、日本語としては「人間が幸福になる」と訳すところだろう。すると疑問詞の方を述部表現で訳す事でバランスをとる必要がでてくる。また、what they can do …は同格表現(言い替え)のはずだ。前半は「人間」にとっての一般論的な言い方で、後半は「人間」一人一人にとっての具体的な言い方になっている。そこらへんを意識してちょっとだけニュアンスを変えてみる。それとworthは一般的には「価値がある」と訳すのが定番だが、あまり日本語では使わない言い方だと思う。こういう時は「〜に足るだけの事はある」みたいな言い方になりそうだ。僕が思いついたのは「〜するのは無駄ではない」という言い方だ。「価値がある」と「無駄では無い」が互換性があるかは気になるところだ。積極的か消極的かの違いが問われそうだ。ただし、辞書の用例にはnot worth(無駄だ)という訳が見つかったので、worth(無駄ではない)は訳としては妥当なようだ。
    (推敲訳) 人が幸せになるには何が必要か、言い換えれば、どうすれば人は幸せになれるのだろうか。そんなことをじっくりと時間をかけて考えてみるのも無駄ではあるまい。
    posted by アスラン at 00:50 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2025年01月26日

    英文解釈教室の訳文を書き直す(7.3.2)

    Chapter7. It . . . that . . .「B 強調構文」より。

    7.3.2 It is just the literature that we read for "amusement," or "purely for pleasure" that may have the greatest influence upon us.
    (訳) 我々に最も大きな影響を及ぼす可能性があるのは、まさに「娯楽」のため、つまり「楽しみだけを求めて」読む文学である。

     強調構文のつづき。強調構文It is 〜 that …を「…なのは〜だ。」と訳すのが、強調構文パターンのお約束だ。それについて、今回も日本語の側面から検討してみる。
    (A)象は鼻が長い。 (「象は」は題目。)
    (B)象は鼻が長いが、キリンは首が長い。(「象は」「キリンは」は題目&対照。)
    (C)象は鼻は長いが、首は短い。 (「象は」は題目。「鼻は」「首は」は対照。)
     主語廃止論を唱えた三上章さんの主張の骨子となる「象は鼻が長い。」で考えてみる。日本語には英語で言う「主語」にあたるものは限定的にしか存在しない。ということは日本語側の立場からは「主語は存在しない」という事になる。代えて日本語は述語表現(動詞・形容詞・形容動詞などを基本に作られた述部)のみが構文的な必須要件で、それに付随する格要素があるだけだ。だから主語は存在しないが、主格は存在する(ただし必須ではない)。その中でも助詞「は」が形成する題目部は重要な要素だ。それをふまえた上で、(A)〜(C)について順に考えてみる。

     (A)は「象は」という題目部と、「鼻が長い」という解説部から構成された題説構文である。題説構文は自問自答型の構造をもち、「象と言えば」という問いを自分で立てて、自分で「鼻が長い」と答えている。日本語では非常によく見られる形式の構文である。

     一方、係助詞「は」は題目を意味する以外に対照の意味で使われる事がある。(B)や(C)がその例だ。「象は鼻が長い。」「キリンは首が長い。」という文は、単独では各々の「〜は」は題目を意味するが、(B)のように並置することで「〜は」は対照の意味を持つ事になる。比較する対象に対して「(他はどうであろうとも)〜は」というように強調した表現になっている。言い替えれば、(B)では対照部に焦点を当てる事になるわけで、実は英語の強調構文の焦点部とは、この対照部の事なのではないかというのが僕の考えだ。

     だが、少し先走ったので話を(C)に戻そう。(B)では「〜は」の役割が題目と対照とを兼ねているので分かりにくいかもしれない。(C)では「象は」は題目部で、対照部は「鼻は」「首は」のように別に存在する。元々は「象は鼻が長い。」「象は首が短い。」という単独の文が想定され、それぞれ「鼻が」「首が」であったが、並置することで「鼻は」「首は」に入れ替わり、対照の意味を持つ表現になっている。

     (B)や(C)では、比較対照する格要素が対照部として顕在化していて、同時に対照部に焦点が当たって強調される文を見てきた。しかし(B)や(C)のようには対照部が並置されてなくても、(A)に発話上の操作を行う事で特定の格要素を強調(焦点化)する事が可能だ。それはこんな具合だ。
    (A)象は鼻が長い。 (焦点部無し)
    (B')象は鼻が長い。(「象は」が焦点部。太字の部分を発話する際に強調する。)
    (C')象は鼻が長い。(「鼻が」が焦点部。太字の部分を発話する際に強調する。)
     これはあくまで発話を前提にした焦点の当て方なので、字面から焦点がどこにあるかを分かるようにするには、取り立ての助詞や副詞などを補う必要がある。
    (B")何と言っても象は鼻が長い。
    (C")象は何と言っても鼻が長い。
     これが日本語としての焦点の当て方、つまりは強調の仕方だ。一方で、英語の強調構文パターンでは、それぞれを次のような日本語で表現する事になる。
    (D)鼻が長いのは象だ。
    (E)象が長いのは鼻だ。
     先ほどの(B")や(C")と比べると、同じ事を言ってるようで微妙に違うのが分かるだろうか。違いが分かるようにそれぞれを並べてみよう。
    (B")何と言っても象は鼻が長い。
    (D)鼻が長いのは象だ。

    (C")象は何と言っても鼻が長い。
    (E)象が長いのは鼻だ。
     (B")(C")はそれぞれ「象は」を題目部とした題説構文となっている。これは日本語として自律している。それに対して(D)や(E)は「象は」という題目部は消えてしまっていて、「鼻が長いのは」「象が長いのは」という問いかけの部分が題目部になっている。これは次のような過程を経て表現される文だと言える。
    問: 鼻が長いのは何か?
    答: 鼻が長いのは象だ。

    問: 象が長いのは何か?
    答: 象が長いのは鼻だ。
     なぞなぞのように問いかけがあれば答のような言い方は可能だが、いきなり何の前提も無しに答のような言い方は不可能だ。(D)や(E)はそういう文になっている。そういう意味では(D)や(E)は「自律していない」と言える。

     (B")の場合、「何と言っても象は鼻が長い。」という文は「象」を話題にしているため、いきなり相手から言われても聞き手は受け止める事ができる。しかし「(D)鼻が長いのは象だ。」といきなり相手から言われたら「何の話をしてるんだ?」と戸惑うだろう。だが、前もって「ここに象、ライオン、キリン、虎がいるとしよう。鼻が長いのはどれだと思う?」という問いを共有していたとしたら、「(D)鼻が長いのは象だ」という言い方を聞き手は受け止める事ができる。つまり、強調構文(分裂文)の翻訳としてお約束になっている「…なのは〜だ」という言い回しは、前提となる文脈を話し手と聞き手とが共有していないと成立しない事になる。だが、強調構文が「前提となる文脈を必要とする」という話は聞いた事がないので、実は「…なのは〜だ」というお約束の翻訳パターンは翻訳としては適切ではないのではないだろうか。本当であれば(B")や(C")のような日本語の方が適切なのではないだろうか。かなり以前から、そう考えてきた。

     ただし、これはあくまで日本語側から一方的に適切な日本語を追求した結果であって、はたして強調構文と言われる形式が本来「自律している表現なのか、そうではないのか」は僕には分からない。少なくとも、この構文のもつニュアンスについて書かれた文法書は一度も見た事がない。江川泰一郎『英文法解説』でも「焦点(〜)の位置に来て強調されるのは、(代)名詞と副詞語句である」と書かれるだけで、あとは例文と「…なのは〜です」という対訳が併記されているだけだ。はたして、強調構文とはどういう状況(前提)で使われるものなのだろうか。分からないまま見切り発車して「強調構文は自律している」と考えた。だからこそ7.3.1では強調構文パターンからの脱却を図ってみたのだが、実は身近なところに答が転がっていたのだ。

     北村一真著『英文解体新書』の「3.3 itを用いた構文(1)」(P.95〜)には分裂文が解説されているが、そこでは分裂文の最大の特徴は「その条件を満たす値は. . .」という指定文と呼ばれるタイプの文であると書かれている。重要なのは次の一節だ。
     分裂文は前提となる条件ありきの文ですから、通常はthat以下の内容は聞き手や読み手にとっても既知の、意識が向いているものでなければなりません。何の脈絡もなく、It's the TV that Taro fixed. などと言うと違和感があります。太郎が何かを修理したという話などしていなかったのに突然「太郎が修理したのはテレビだ」といった発言がなされると、日本語でもおかしく感じるのと同じことです。(P.98)
     まさに僕が知りたかった事が書かれている。僕が強調構文の訳に違和感を感じていたのは「前提となる条件ありきの文」であるにも関わらず、前提無しで一文が提示されているせいだった。要するに情報不足なのだ。それを無理やり「そんなはずはない。前提となる条件なしの日本文に訳すべきだ。」と思い込んでしまったわけだ。

     これで強調構文の伝えたい情報・状況はわかったので、あらためて日本語から考えてみる。「分裂文(強調構文)は前提となる条件ありきの文である」という前提から検討しなおしてみよう。
    問1 (この動物園で) どの動物が鼻が長いだろうか? (二人が共有する前提)

    答1 象が鼻が長い。
    答2 象だ。
    答3 鼻が長いのは象だ。
     動物園にいる二人の会話という状況で、問1が二人が共有する前提(話題の中心)であるとしよう。これに答える形で一方が発話すると考えると、答1〜3のようになる。いずれも特に日本語としては問題はなく、正しい日本語だ。あえて言うなら答1は助詞「が」が重複するので、文字づらを見るだけでは違和感があるが会話ではよく使われる。それは「象が鼻が長い。」というように「象が」に焦点を当てて発話するからだ。もっとも一般的なのは答2で、問1の疑問詞(どの動物)で焦点が当てられた部分だけを一語文(一つの単語もしくは文節から述部が構成される文)で回答している。「象だ」だけで二人の会話の「何」に焦点が当てられているかが把握できる。この答2は、二人が共有した前提を省略したものだと見なして元に戻したのが答3になる。そして、まさしく答3こそが強調構文の翻訳パターンそのものなのだ。しかし、だとすると答1も翻訳として正しいのではないだろうか。
    問2 (あそこにいる)象は何が長いだろうか? (二人が共有する前提)

    答1 象は鼻が長い。
    答2 鼻だ。
    答3 象が長いのは鼻だ。
     答1は「象は鼻が長い。」というように「鼻が」に焦点を当てて発話する。答3が強調構文の翻訳パターンだ。以前に『象は」という題目が失われてしまったと指摘したが、そもそも前提として「象」という話題を二人が共有しているので、ここでは「象だ」に焦点を当てるために題目部が「象が長いのは」に変わっている事は何ら問題はない。

     以上の2通りを見ていて分かるのは、答1では一見するとどこに焦点を当てているのか分からないと言う点だ。会話と違ってアクセントの強さで焦点の位置を示す事ができないので、例えば問2の方の答1「象は鼻が長い。」では、焦点無しの文(A)なのか、焦点ありの文(B)なのかの区別がつかない。問1の方の答1「象が鼻が長い。」の方がまだマシだ。通常の題説構文「象は鼻が長い。」とは違う事から「象が」が取り立て(強調)られていると感じられる。結論から言えば、答3の強調構文パターンを用いるのが焦点の在処を示すのにはもっとも確実で手っ取り早いという事になる。

     長々と検討してきたが、結局振り出しに戻った事になる。だが、それでいいかと言えば大間違いだ。7.3.1で検討したように、英語では焦点部に名詞句が出てきても、日本語としては述部表現に展開する必要がある場合も少なくないので、強調構文パターンがいつでも使えるというわけではない。他のパターンもちゃんと検討しておくべきだろう。
    問1 (この動物園で) どの動物が鼻が長いだろうか? (二人が共有する前提)

    答1 象が鼻が長い。 (「象が」が取り立ての効果で強調される。)
    答2 象だ。
    答3 鼻が長いのは象だ。 (焦点となる「象だ」が述部に来る事で、強調される。)
    答4 象が鼻が長い。 (焦点となる「象が」を文頭に置くことで強調する。この例では元々先頭に置かれているので答1と同じ。)
    答5 何と言っても象が鼻が長い。 (焦点に対する強調を明示するために強調の副詞句などを追加する。)
    答6 象こそが鼻が長い。 (焦点に対する強調を明示するために強調の副助詞などを追加する。)
     もちろん、こんな短い文では答3が無難であることは言うまでもない。答5や答6は焦点に対する強調として有効ではあるが、答3がただ単に焦点部分を構文的に明示するだけなのと比べると、強調し過ぎているようにも感じられる。

    問2 (あそこにいる)象は何が長いだろうか? (二人が共有する前提)

    答1 象は鼻が長い。 (題目部「象は」の通常の文と同形なので、このままでは書き言葉として「象は」に焦点が当たらない。)
    答2 鼻だ。
    答3 象が長いのは鼻だ。 (焦点となる「鼻だ」が述部に来る事で、強調される。)
    答4 鼻が象は長い。 (焦点となる「鼻が」を文頭に置くことで強調する。)
    答5 象は何と言っても鼻が長い。 (焦点に対する強調を明示するために強調の副詞句などを追加する。)
    答6 象は鼻こそが長い。 (焦点に対する強調を明示するために強調の副助詞などを追加する。)
     答4のように焦点部分を文頭に持ってくると強調の効果はある程度感じられるが、この文だと題目部「象は」が後方に追いやられる事による違和感がまさってしまう。答5や答6については、問1の場合と同様に有効であるが、強調し過ぎに感じられる事もまた同じだ。

     以上、現時点での結論めいたものがあるとしたら、基本的には強調構文の翻訳パターン「…なのは〜である」によって焦点となる部分(〜)を強調した日本語を採用する。ただし、焦点部が名詞句におさまらず述語表現に展開する必要があったり、焦点部が長くなりすぎて問いの部分(…)とのバランスが悪くなったりする場合には、元々の文(基本的な文)をそのまま日本語に訳した上で焦点部を強調させる手立てを採り入れる事にする。

     という事で7.3.2にようやく取りかかることができる。実はまさにこの例文が後者の手立てが必要となる文に相当するのだ。
    7.3.2 It is just the literature that we read for "amusement," or "purely for pleasure" that may have the greatest influence upon us.
    (訳) 我々に最も大きな影響を及ぼす可能性があるのは、まさに「娯楽」のため、つまり「楽しみだけを求めて」読む文学である。
     焦点部はthe literature that we read for "amusement" (「娯楽」のために読む文学)という事になるが、そこに同格のフレーズが挿入されているせいで、少しややこしい言い回しになってしまっている。問い(我々に…可能性があるのは)に対して「『娯楽』のため」だと言っているように一瞬読める。しかしこの部分は「まさに『娯楽』のため…読む文学」という焦点部を構成しているはずなのだ。だったらせめて「『娯楽』のために…読む文学」と書いて欲しかった。それと並列して同格のフレーズ「つまり『楽しみだけを求めて』…読む文学」が挿入されている構成になっているために焦点部が長いし、単なる名詞句という枠組にはおさまっていない。

     そこで基本となる文に沿って、まずは訳文を考えてみる。ちなみに同格についてはあらためて考えたいが、少なくとも日本語で同格表現を挿入する場合は、きちっと並列関係がそろうように書くべきだ。英文ではクオーテーションマークが片方はforを含まず、もう片方は含んでいるのは英語の都合に過ぎない(purelyを括るためにはforを入れざるを得ない)。日本語ではどちらも「のために」は外す事にした。
    (強調前の例文) The literature that we read for "amusement," or "purely for pleasure" may have the greatest influence upon us.
    (強調前の推敲訳) 私たちが日頃から「娯楽」のために、すなわち「ただ単に自分が楽しむ」ために読んでいる小説は、私たちに何よりも大きな影響を与える事がある。

     あとは「小説」の部分に焦点が当たるように強調するだけだが、同時に訳文に日本語として手を入れておこう。the literature that …を関係詞節を伴った名詞句として訳すと長々しいので、存在文としていったん区切ってから、あらためてthe literature(文学)を代名詞として言い直す事にする。それと「文学」はなんとなく偉そうなので文芸作品一般という意味で「本」にする。後半のmay have …の部分は前半のweとそろえるために主格を「人」に統一する。肝心の焦点の強調は「そういう本に限って」という強調フレーズを入れ込む事にした。
    (推敲訳)人には日頃から「娯楽」のために、すなわち「ただ単に自分が楽しむ」ために読んでいる本があるが、そういう本に限って何よりも大きな影響を受ける事がある。
    posted by アスラン at 04:10 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 英文解釈教室を書き直す | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする