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    谷山浩子「眠れない夜のために」、数少ないコンパを断る、バルサンを焚く(日記1985年6月17〜21日)(08/16)
    青焼きコピー、研究室旅行、テニス、ギターと歌本、助手Mの過激な運転(日記1985年6月13〜16日)(06/08)
    休講の事、代償行動の事、慣れないアンプ作りの事、友人とのたわいもない陰口の事(1985年6月11日)(10/10)
    夏場は体調が悪い事、雑誌「現代思想」1985年6月号の事、吉本隆明と別役実の事(1985年6月10日)(10/01)
    「高田みずえ さよならコンサート」を見た事、ワープロソフト「ユーカラ」の事(1985年6月9日)(09/20)
    オムライスの事、「愛と喝采の日々」の事、ふたたび「n個の性」あるいは安眠マスクという事件の事(1985年6月8日)(09/02)
    Hi-Fiビデオの事、「n個の性」の事、安眠マスクの事、友人の悩みの事(1985年6月7日)(08/29)
    高橋真梨子コンサートの事、通院の事、「さよならジュピター」の事(1985年6月6日)(08/25)
    睡眠不足、アイマスクが必要な事、東京標準テストの事(1985年6月5日)(08/24)
    引き続き体調不良、不動通りのタコ焼き、科学博、パソピア(1885年6月1日〜4日)(08/19)
    風邪と腹痛の事、祖母の事、CDプレーヤーの事(1985年5月30日〜31日)(08/17)
    「金曜日の妻たちへ」の事、希薄な生活感、持病について(1985年5月29日)(08/14)
    高校の友人との再会、自動制御応用ゼミ、トポロジー、風船の法則(1985年5月26日〜5月28日)(08/13)
    アルバイトの帰り道考えた事、再び「死語の戯れ」(1985年5月25日)(08/11)
    キャンパスの行き来の事、授業「視覚情報処理」の事(1985年5月24日)(08/02)
    友人からの電話の事、加藤典洋「アメリカの影」の事(1985年5月23日)(07/29)
    大学の事、「アメリカの影」「死語の戯れ」の事(1985年5月22日)(07/28)

    2023年08月16日

    谷山浩子「眠れない夜のために」、数少ないコンパを断る、バルサンを焚く(日記1985年6月17〜21日)

    1985.6.17(Mon) 曇り
     12:00まで寝た。前進ギシギシいっている。だるい。大学に行き、F田先生の授業。
     生協でCD(谷山浩子)を買う。帰りの都営三田線で寝過ごして、最寄り駅の「板橋区役所前」駅を乗り越し「蓮根」駅で下車。折り返す。
     帰宅は21:00すぎ。三田駅でもトイレで吐いた。家に戻って吐いた。最悪。
    [補足]
     生協で購入した谷山浩子のCDとは、おそらく『眠れない夜のために』。なんと絶妙なタイトル。日々、体調の悪さで「眠れぬ夜」をやり過ごそうと悩んでた時期だったので、すがるように手に入れた。今に至るまで何回聴いたかわからないぐらいにリピートした。最高の一枚。
    もみの木
    すずかけ通り三丁目
    風を追いかけて
    パステルウェザー
    カントリーガール
    おやすみ
    真夜中の太陽
    地上の星座
    風になれ−みどりのために−
    不思議なアリス
    鏡よ鏡
    銀河通信


    1985.6.18(Tue) 雨
     最悪。朝方から腹がなんとなく痛くて眠りが浅かったが、昼頃にはむかつきが始まり、それでも昼食をとったので、案の定吐いた。すぐに薬を飲んだが、しばらくしたらまた気持ち悪くなって吐いた。この間、腹もシクシク痛かった。帰るときは最悪で、もう一度吐くかと思った。
     夕食後は少し落ち着いたが、今度は熱っぽい。すぐに寝た。23:00ごろ起きたが、熱は37.0℃。少し下がったようだ。腹はやはりシクシク痛む。薬を飲む。今度は効いたようだ。
     いったい、胃の薬はどう飲めば効くのか?昼と夜では全然効き目が異なるのは何故か?吐くとわかるのだが、吐くときは胃の薬も全然消化されていない。昼間2度目に吐いたのは、1度目に吐ききっていなかったためかもしれない。そんなときにすぐ薬を飲むのは危険だ。しばらく様子を見ることが必要だ。
    [補足]
     この時期の薬は何を飲んでいただろう。胃薬と制酸剤を飲んでいたように思う。それでも吐き気は止まらなかった。

    1985.6.19(Wed) 雨
     だるい。前日から熱っぽく風邪気味。おまけに胃の調子は最低。12時頃に起きたが、とにかくだるい。飯も1杯ちょっと。風邪薬は毎回飲む。
     アルバイトに言ったが、汗を掻くし、疲れた。明日のコンパは断るのが良策。吐いても何も出ず。それでも腹が痛くてむかつくのだから、どうしようもない。
    [補足]
     「風邪」とは言っているが、体調を崩しているための微熱だろう。コンパはどこと女子学生と、だったのだろう。何しろ自大学ではコンパしようにも女子が少ないので、顔が利く奴がコンパを拾ってきた。僕は二度ほどしか参加しなかったが、その一度は聖心女子大のグループと渋谷で待ち合わせしたのに、何故かすっぽかされた。口利きの同期がいいかげんだったのか、本当にすっぽかされたのかはいまだに謎だ。

    1985.6.20(Thu) 雨のち晴れ
     朝、すこし持ち直して気分がやや良い。ディジタル制御ゼミのあと、湿気にあてられて気分が悪くなり疲れが出てきた。どうも不安定なので、結局コンパの件は断った。H田には悪い事をした。
     午後はお腹が痛くて痛くて、それなのにトイレに行っても何も吐けないのでつらかった。吐いて楽にならない時が一番こたえる。17:00には大学を出て帰宅。地下鉄内では眠気が出て乗り越し。
     家でもすぐ一眠りしたので、だいぶ楽になった。あとは胃の調子が復活してくれたら良いが。

    1985.6.21(Fri) 小雨
     明け方、腹が痛くなり、やはり睡眠が十分にとれなかった。今日は自宅でゴキブリ退治のバルサンを焚くというので、ゆっくりとは寝ていられない。朝食(コーンフレーク)をとって、11時頃に家を出る。O経由でNキャンパスに行ったが、約1時間早く着いた。
     駅近くの喫茶店に入って時間をつぶす。ホットケーキとオレンジジュースを注文。ホットケーキはゆっくりゆっくり食べた。注意しすぎるということはないのだ。
     ○○システムの授業はF川先生の講義。予想はしていたが、それ以上にたるい講義だ。もうちょっとテンポ良くやってくれないものか。しかも授業中に腹が痛くなって困った。Hンさんは僕が眠いのかと覗き込んでくるので、弱ったものだ。
     帰る電車の中でも腹は痛かった。こんな時は寝るのが一番いい。地下鉄ではほとんど寝ていた。また寝過ごして「蓮根」まで行ってしまった。
     夕食後は調子は悪くない。腹は時々痛くなるけれど、吐き気の峠は越えたようだ。それでも当分は消化の良いものをとるように心掛けねば。
    [補足]
     子供の頃は長屋住まいで天井裏をネズミが駆け回ったり、台所付近でゴキブリが出てくるのは当たり前だった。中学の時に建て替えてネズミからは解消されたが、ゴキブリの侵入は防げなかった。だから一年に1,2回はバルサンを焚いて、煙でゴキブリらをいぶし出した。最初は火を付けて燻煙したが、そのうち火は使わずとも煙が出てくるタイプに代わった。このときがどうだったかは覚えてない。食器類などは洗い直さなければならないし、結構大変だった。
     Nキャンパス最寄り駅近くの喫茶店でホットケーキを食べたのは覚えている。なにしろ当時はなんにもないところにキャンパスがあり、学食の他には駅近の喫茶店しか立ち寄れるところはなかったからだ。いちど普通のペースで食べたら吐いた記憶もある。それから慎重に食べる事にしたのだ。
    posted by アスラン at 03:20 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記(1985年) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2023年06月08日

    青焼きコピー、研究室旅行、テニス、ギターと歌本、助手Mの過激な運転(日記1985年6月13〜16日)

    1985.6.13(Thu) 雨(どしゃぶりに近い)
     ディジタル制御の演習問題の青焼き作りのため、少し早めに家を出た。久しぶりに胃の調子が悪い。昼食後もむかつき、3:00PM頃に吐いた。
     生協に行き、CD2枚購入。めずらしく105号室でM尾さんがギターを弾いていた。昨日、M子、N田、M尾さん、Cさんとで飲んで明け方の4時まで起きていたらしい。M子は3階で地ベタに直に寝てしまったと言う。疲れていた。
     自動制御応用(の課題)は「Sensorの化け物」を作る事にほぼ決まり。色を見分け、大きさを認識させようというもの。O本さんと僕とで物体をsenseして、正面に行って、ある距離まで近づくという機能を考える。超音波を使う方法があるがどういう理屈なのか全然わからない。O本さんは光でsenseする事を考えたいと言っている。
    [補足]
     青焼きは、昔のコピーの事。今のような普通紙へのコピーはコストがかかるため、研究室の事務室にあるコピー機は青焼きという時代だった。
     僕はよほどの事がない限り、毎日自宅に帰ったが、他の同期のメンバーは研究室に寝泊まりする事もしばしばあった。毎回というわけではないだろうが、酒好きの連中は酒盛り。この日は助手のM尾さんも付き合ったようだ。

    1985.6.14(Fri) 曇り
     起きたら12時だった。あわてて起き上がって食事してNキャンパスへ行った。講義は間に合った。帰りはN田の車でOキャンパスへ戻った。少し休んでから帰宅。VIDEOテープ5本購入。夕食前に吐いた(立ち食いソバを全部吐いた)。
     明日からは研究室旅行なので、その支度。途中で、I上(高校からの友人)が高エネ研から電話を掛けてきた。CADの順番を待つ間、暇なのだそうだ。K林さんと一言交わしたのが、I上を有頂天に(とまでは言わないが、ウキウキ)させている。「幸せだ」とは可笑しい。

     幸福とは相対的なものか? 個人の実感が時代の実感に収斂してしまうのなら「幸福とは相対的なもの」というテーゼも、すでに時代のものだ。「幸福は存在しない。単なる幻想だ。」という言葉と等価と言ってよい。では?
     こういうしかない。「幸福とは?」という問いが禁じられた環境において、幸福は存在する可能性をもつ、と。

    [補足]
     高校時代、一緒にいる時間が最も長かった友人がI上。現役で筑波大物理学部に合格し、僕は健康を害した影響で一年浪人、某大学の機械工学部に進んだ。居場所も違ってしまったのでなかなか会えなくなった。理論物理が専門だったので、当時大型加速器を作っていた高エネルギー加速器研究機構と一緒になって、実験装置などを作っては研究する日々を送っていた。その暇な時間に電話をかけてくるとは、いかにも傍若無人な彼らしい。その彼が「恋愛」という千載一遇の体験を彼なりにかみ砕こうとしていたのに対して、僕は高校2年に発症した謎の病気に相変わらず悩まされて、寿命という事を考えざるを得ない状況だった。そんな状況で幸福の意味を考える事は矛盾でしかなかった。

    1985.6.15(Sat) 雨のち曇り
     研究室旅行当日。雨の中8時に家を出た。都営三田線で水道橋まで行き、JR中央線に乗り換え、四谷で快速を乗り継いで三鷹に9時についた。30分も早く着いてしまった。T橋さんの車で河口湖に向かう。11時は着いたが、これまた相当に早い。
     13時からテニスなのだが、誰もテニスコートの名前を知らず、行ったり来たりしてしまった。しばし、アドベンチャーゲームの宝探し状態だった。
     17時過ぎまでテニスをやり、宿屋に戻る。風呂の後、宴会。鉄板焼きが旨かった。23時すぎまで宴会場で呑み、〆の珈琲のあと、上階へ上がって、今度は歌会になった。M尾さん、Y形さん、僕、M子、T石、H原という顔ぶれで、歌の本とギターとで歌い続け、深夜2:30頃に終わる。他の部屋ではトランプゲームが延々と続いていて、まだ終わりそうになかった。僕は3時就寝。
    [補足]
     大学の研究室に所属して、初めてテニスを覚えた。麻雀もやらないし、酒も苦手な僕が大学で覚えた事はテニスだった。当時は大学のサークルといえばテニスが花形で、まあ女性にもてたい人はテニスかスキーをやるという感じだった。もちろん工学部ではそんな下心があっても女性がそもそもいないので意味は無い。ただ、小中と卓球をやっていたのでテニスに親近感があったし、その頃のテニスブームはかなりなものだった。
     夜はひたすらギターでコードを弾いて流行歌を歌う。カラオケが普及するのはこれからという時代なのでギターの伴奏でみんなで歌うのが楽しかった。

    1985.6.16(Sun) 晴れ
     8時に朝食。10時に宿を出て今日もテニス。12時までやって、いったん宿に戻る。それから河口湖畔で昼食。注文してから出てくるまでが、やたら長かった。
     現地解散して、帰りはM尾さんの車に同乗。M尾さんの運転は過激だ。とても見ていられない。おもわず全身に力が入ってしまう。ただ、ほとんど寝てしまって、気がついたら中央道を降りていて、成城付近にいた。大学には16時ごろ着いた。ビールを買って、H原とM尾さんと僕の三人で呑む。Iさんの車も18時ごろ帰ってきた。いつのまにか研究室のソファーで寝ていた。帰るときには気分は最悪。三田駅で吐いた。
     帰宅して風呂に入り、テレビで「シャレード」を見てから寝た。疲れた〜。
    [補足]
     河口湖畔で、なんかワカサギフライの定食を食べたような記憶がある。M尾さんは若くして僕が所属する研究室の助手を務めていた。かなりのセンスと知性とを合わせ持った若きカリスマ助手だった。彼からはフォークやニューミュージック以外の様々な音楽を教えてもらった。ただ、少々自信過剰なところもあり、自分を頼む性格からか、謎な一面も見せてくれた。この時の帰りの中央道でも、その性格をいかんなく発揮。過激な運転は、今で言うところの「あおり運転」そのものだったりする。追い越し車線を制限時速超えで前方の車にスレスレまで近づいていくなんて芸当を、解説付きでやってみせるので、こちらはヒヤヒヤ物だった。
    posted by アスラン at 09:10 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記(1985年) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2022年10月10日

    休講の事、代償行動の事、慣れないアンプ作りの事、友人とのたわいもない陰口の事(1985年6月11日)

    1985.6.11(Tue) 曇り時々雨(梅雨冷えつづく)
     午後から大学へ行く。自動制御設計論は休講。生協でCDを注文。トラ技から「OPアンプのノイズ対策」についてコピーをとる。そろそろ、AMP直しの重い腰をあげねば。K研に行って、しばしS水と談話。「M子は何か夢をもとめて、それがかなえられず、常に失望している」のだと言う。
     105では、冷凍のミックスピザを焼いて食べている。僕も食べた。
    [補足]
     今はメールやLineなどがあるので一斉連絡は簡単なのだろうと推測するけれど、当時は大学に行って全学部共通の掲示板を見なければ、休講の情報は入手できなかった。行ってみると休講という事が何度かある。とたんに暇になる。まあ、研究室に所属していたので、いざとなったら顔を出せばいいだけだが、学部の1,2年だったら学食で食事かお茶、生協で暇つぶし、あるいは図書館で勉強という事になる。サークルは故あって入らなかった。いや、一年の時に一瞬だけディベート部に入ったのだが、すぐに辞めたのだった。

     話は日記からそれてしまうが、せっかく思いついたので書いておこう。大学に入ったとたんに、精神的に変になった。今まで与えられたカリキュラムで勉強してきた日常から、自分で選択し自分で目標に向けてアクションを取っていくという日常にうまく対応できなかった。友人も出来ない。ただ、選択した講義を受講し、学食で食事し、再び受講して、アルバイトに通い、帰宅する日々。そのうち、妙に足元がフワフワするようになった。踏みごたえがない。「足が地に着かない」とは、まさにあの時の事を指していたのだろう。それをなんとかするには、どこかサークルに入るしかないと思い込んだ。別にサークルでもなんでもいいのだが、何か思いきって違う事をやるしかないと思ったのだ。それで、数少ない話し相手だった同期入学の友人らしき男と同じサークルに入ろうと見学に行った。もしかしたら入部届も出したのかもしれない。

     見にいって最初から気が重くなった。元々入りたくて入ろうとしてるわけではない。でも、これを頼みの綱にして自分を変えていかなければと思い込んでいたので、よけい辛くなった。それで悶々として夜も寝付けないような状況が一月ほど続いたが、ちょうど受講していた心理学の講義で「代償行動」という言葉に行き当たった。「ある目標を達成できなかったときに、その不満を解消するために別の行動をすること」という事だった。今改めて調べると、いわゆるフロイト心理学の「防衛機制」の中の「反動形成」という概念の方が、当時の状況としっくりくるかもしれない。「あえて自分の思考や感情とは逆の行動をとること」で、自らのアイデンティティ・クライシスに対応しようとしていたのだ。

     それに気づいてから、あっさりとサークル通いは辞めた。ちょうど高校時代の親しい友人達と定期的に集まって何か創作活動をやろうという計画が動き始めていたので、これ幸いと代償行動とはおさらばした。1ヶ月ほどは続いた「足に地が付かない」状況も気がつけば解消していた。

     ようやく話は日記に戻る。当時の研究テーマは電力制御に関するものだった。そこで実験装置を自作しなければならなかった。ところが、僕には電気回路を自作した経験がなかった。ただ簡単な手書きの回路図を助手のM尾さんから渡されて、それを作る必要があった。どう考えても自分には荷が重く、それでトランジスタ回路の本を読んで勉強して少しずつ作業を進めた。だが、最終的にとんでもない高周波が発生するアンプが出来てしまって、それのノイズ対策をしようと、雑誌「トランジスタ技術」の該当ページを見つけ出してコピーしようとしていたらしい。

     S水は僕とは違う研究室に所属している、当時一番仲良くしていた友人だ。M子は僕と同じ研究室の同期だが、あまり馬が合わなかった。S水とよく、M子のネガティブな性格や見栄を張りがちなところを影でディスっていた。もちろんその頃は「ディスる」なんて言葉はなかったから、あけすけに言えば陰口に近い。と言っても悪口を言ってるつもりはなく、なんであんななんだろうなと揶揄していた。もう当時の事だから上手くは言えないが、結構M子の話の端々から自分を自分以上に見せたいという見栄のようなものが見え隠れしていた。ただ、それが周囲に理解されてない事も分かっていて、それで何事にも傷ついている。でも、それって自分で気づかない限り、誰も手助けしてあげられない。だから「しょうがないなぁ」という意味がこめられた陰口をS水としていたようだ。まあ、自分たちもまだ「何者でもない」状況だったのだけれど。
    posted by アスラン at 03:30 | 東京 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記(1985年) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2022年10月01日

    夏場は体調が悪い事、雑誌「現代思想」1985年6月号の事、吉本隆明と別役実の事(1985年6月10日)

    1985.6.10(Mon) 雨(蕭々と降る雨)
     明け方の4:00まで眠れず。計測基礎論をサボる。11時頃起きて大学へ行く。OS-9ゼミと線形システム理論Tを受講して、生協へ行って本(現代思想6月号)とテープを購入。
     7時頃、M子(同じ研究室の同期)と一緒に大学に出る。地下鉄(都営三田線)の中で急に眠気がして、乗り過ごした(志村坂上駅で下車)。
     夜、ビデオのライブラリ作りの続き。ほぼ映画に関しては完成。映画だけで40本はある。
    [補足]
     思い出した。夏場(特に梅雨時以降)は特に調子を落としがちだった。まあ、この頃は原因不明とされていたが、薬は対症療法的に飲んでいた。だから、ある程度収まるときは収まるし、我慢できないほどではなかった。いや、もう日常茶飯事的に痛みや吐き気と格闘していたので耐性がついてしまっていた。我慢できるうちは我慢すればいいだけと思っていた。どうせ、原因など分からないだから、医者にも治せない。そういうものだとあきらめて病気と付き合っていた。大学というのはなんというか、言ってみれば成果主義を先取りしているようなところで、よっぽどの事(単位を落とす、落第する)という事さえなければ、誰も文句は言わない。僕が休んでいても、プロジェクトが滞る事もない。まあ、ゼミの輪講とかで担当分をやりそびれると、まずいことにはなるけれど。この日も午前の授業をスキップしたようだ。

     生協で本を注文して購入すると、学生はなにがしか割引になった。本はいまだに新品であれば割り引かれる事はないので、少しでも安くなるのは本当にありがたかった。「現代思想」6月号を買ったらしい。これが生協の書籍コーナーにあったのだろうか?あったのかもしれないし、注文したのを受け取りに行ったのかもしれない。
    現代思想1985年6月号.jpg
    現代思想 1985年6月号 特集=家族のメタファー
     ● 対談<フェミニズムと家族の無意識> 吉本隆明/上野千鶴子
     今村仁司/本田和子/桜井哲夫/池内紀/佐々木孝次
     ●対談<事件のなかの家族神話> 別役 実/山崎 哲

     買った記憶がまったくないが、これは当時なら必ず買っただろう。吉本隆明さんの対談と、別役実さんの対談の二本立てだ。当時、華々しく批評メディアの表舞台に躍り出た上野千鶴子さんと吉本さんとの対談は、あれじゃないかな。「共同幻想論」を書いた吉本さんをリスペクトしながらも、”対幻想”にフェミニズムの観点が抜け落ちているという事を指摘した対談だったんじゃないだろうか。僕がいまだに覚えているのは、吉本さんが笑顔で申し訳なさそうに「でも、僕は本当に家では妻を助けて料理でも洗濯でもなんでもやるんですよ」と言っていたことだ。これはたぶん本当で、どちらかというと妻の方が家事が苦手で、吉本さんは文筆業にいそしみながら宵子さんやばななさんを育てた。在宅勤務による働き方改革の先頭を歩いていたわけだ。
     それと、別役実さん。「犯罪症候群」は僕にとってのバイブルにも等しい。現代における犯罪の意味を考え尽くした思想家でもある別役さんに、"家族"について語ってもらったのだろう。どんな対談だったのだろうか。興味深い。また、そろそろ「犯罪症候群」を読み直そうか。

     ビデオのライブラリ(目録)作り。映画だけで40本という事は、全体で60本以上はあっただろうか。当時のVHSビデオテープは既になく、作ったライブラリーも手元に残っていない。ビデオも惜しいが、せめて目録があれば思い出のよすがになっただろう。それだけではない。ドットプリンターによる印字を懐かしむことができたはずだ。残念。 
    posted by アスラン at 11:00 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記(1985年) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2022年09月20日

    「高田みずえ さよならコンサート」を見た事、ワープロソフト「ユーカラ」の事(1985年6月9日)

    1985.6.9(Sun) 時々雨(気温が下がって涼しい)
     1:00PM頃に起きた。「高田みずえ さよならコンサート」を見た。録画しておいて良かったなと思った。
     部屋の掃除をするように母に言われてたが、そっちのけでビデオのLibrary作りに励んだ。ワープロを使って、1本々々ビデオの内容および一言コメントを付けた。
    [補足]
     高田みずえは、1976年デビューのアイドル歌手。同期に太川陽介や榊原郁恵がいる。デビュー曲の「硝子坂」で既に実力派歌手として抜群の歌唱力を発揮していた。6歳年上の兄がファンだったので僕も自然と聴くようになった。デビュー曲を含めて「ビードロ恋細工」「パープル・シャドウ」「女ともだち」など、初期に良い曲が多いが、人気を不動のものとしたのは、ピアノ曲で当時流行っていたフランク・ミルズ「愛のオルゴール」に歌詞をつけた「潮騒のメロディー」と、桑田佳祐が作詞・作曲を手がけた「私はピアノ」との2曲だろう。桑田さんからはその後「そんなヒロシに騙されて」も提供されている。
     そんな彼女は人気絶頂だった1985年に、売り出し中の大関・若島津と婚約を発表し、芸能界から引退してしまう。「さよならコンサート」はWikipediaによれば6/1東京厚生年金会館、6/2大阪フェスティバルホールで開催されたようだ。つまり、開催当日の生放送か、数日後の放送だったようだ。当時のテレビって凄いな。どんなセットリストだったかは、まったく記憶にないのでわからない(実は見た事も覚えていない)。でも、6/1の内容はそのまま7/21に発売されたCD4枚組に収録されている。たぶん、エンド曲がさだまさし作詞・作曲「カーテン・コール」で、アンコールに「私はピアノ」「硝子坂」の2曲。この2曲はセットリストに入っているので、ファンに感謝を込めて代表曲を贈ったということだろう。

     当時は、録画したビデオテープ(VHS)の内容をテキスト入力して、プリントアウトしていた。そんなことやってないで、さっさと母の言ったとおり部屋の掃除をやれよと、今の自分なら言ってるところだ。それはとりあえず置いておいて、ツッコミポイントはそこではない。これがNECのパソコンPC-8801mkUで動かしたワープロソフトでやっていたという点だ。まだWindowsなんて影も形もない。MS-DOSも動いてない。パソコンと言っても「ソフトウェアがなければタダの箱」という時代だった。パソコン本体にモニター、フロッピーディスク装置、ドットインパクト式プリンターを専用ラックに積んで使っていた。フロッピーのサイズは5.25inchi。今の若い人には何のことやらだろうが、昔はペラペラに薄い磁気ディスクを袋で四角く覆ったものが、今で言うところのCDに相当した。CDというと語弊がある。HDDが内蔵型の磁気記憶装置で、あれは言ってみればバームクーヘンのような筒状のもの。それを薄くスライスしてぺらぺらに切り出したものの側面ではなく表面の方に情報を記録する(嘘ですけど。まあイメージです)。
     大きさも最初は8inchiから始まって、5.25、そして3.5ichiになって初めてプラスチックのしっかりとした覆いになった。で、この頃はまだ、5.25inchi(約13cm)。この形態でゲームやユーティリティーのソフトが売られていた。フロッピーディスク装置に挿入して起動すると、ガチャガチャとメカニカルな音がして結構うるさかった。「ユーカラ」は、日本語テキストが入力できるだけのワープロソフトウェアの一つ。当時、ビジネス用に有名だったのは「一太郎」や「松」だったけれど、一般の庶民にはまだ手に届くものではなくすべては手書きするしかなかった。
     理系に進んではみたものの、プログラミングの素養もないし、ゲームもそれほど熱中してこなかった僕は、PC-8801の能力の活かしどころに悩んでいた。たまたま、当時神保町にソフトウェアのレンタルショップがあって、興味本位で借りたのが「ユーカラ」だった。どういう画面イメージだったかは、もう覚えていないが、結構本格的なワープロソフトだったようだ。とにかく仮名漢字変換でテキストを入力できて印刷できるというだけで衝撃だった。しかも文字サイズをビデオのラベル用に大きくしたり、ルビを振ったりできた。以降、我がPC-8801mkUは日本語ワードプロセッサーと化した。明けても暮れても、ひたすら日本語を入力しては印字する。それだけで楽しかった。
     ちなみに「ユーカラK2」というのがPC-8801用ソフトウェアの正式名らしい。18000円もした。当時本当に購入したのだろうか。そんなお金がよく出せたなぁ。当時レンタルショップ通いしてたのは、多くのソフトウェアが「コピーキャット」というユーティリティソフトでコピー出来てしまったからだ。「ユーカラ」もコピー出来たかどうかは覚えていない。でも「ユーカラK2」を愛用していたことは確かだ。当時のパソコンの標準装備では、JIS第1水準の漢字しかROMに装備されていなかった。JIS第二水準の漢字を出力するには専用のROMを購入しなければならなかったので、人名の一部が入力できないという、ビデオのライブラリー作りにとって大きな障害となる事実があった。ROMが買えた時はうれしさのあまり、第二水準文字全部を大きなフォントで印字して、プリンター用紙をずいぶん無駄に使った事があった。
     この当時プリントアウトしたものは一切残っていない。VHSのラベルに痕跡が残っていたはずだが、ビデオも実家を整理する際に一緒に処分してしまった。ただ、僕の人生にとって決定的な影響を与えてくれたソフトウェアであった事は確かだ。
    posted by アスラン at 04:56 | 東京 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記(1985年) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2022年09月02日

    オムライスの事、「愛と喝采の日々」の事、ふたたび「n個の性」あるいは安眠マスクという事件の事(1985年6月8日)

    1985.6.8(Sat) 朝から雨(梅雨入り)
     雨が降っているので、大学へ行くのはやめた。ゆっくりと起きて、オムライスを作って食べた。安眠マスクのおかげで眠りが深かった。
     「愛と喝采の日々」を録画で観た。「愛と追憶の日々」と間違えていた。映画としては、ちょっとダメだ。
     夕方、アルバイトへ行った。取り立てて言うべきことなし。帰りは、兄貴の車で一緒に帰った。無くした傘は見つからず。

     「n個の性」は存在しないかも?少なくとも僕らの世代では無理か。あいかわらず自分はフェティッシュだ。のぞき行為というのも一種のフェティッシュではないか。スコープを通して見た人の動きは、テレビの映像のように一種の快楽だ。だから、ことさら自分が「n個の性」であると主張するのは、おこがましくなってきた。でも、確かに今までとは違うのだ。これは何なのか?
     例えば、昨日の安眠マスク、あれを買ってきた事が1つの事件になりうるのだ。そして、ここ数日、今までやらなかった夜の歯磨きを始めたことさえも事件だ。この状況は、今までになかった。そして、これらの事件はいずれ、今までのように物語を物語るために自分からやろうとしたものではないのだ。面白い。
    [補足]
     雨なので大学に行かないと書いている。土曜日だから授業はなかったか。当時はまだ週休二日制導入前だったから、大学自体は授業はやっていたはずだ。ただ自分の受ける授業はなく、研究室に通うかどうかだけを考えてやめたのだろう。朝食ではなくブランチでオムライスを作って食べたようだ(そう言えば「ブランチ」という言葉を今の若い人は使ってるのだろうか。いや、TBS「王様のブランチ」がまさに土曜日にやってるではないか)。
     オムライスを自分で作るようになったのが、ちょうどこの頃だ。オムライスというと洋食屋か蕎麦屋で食べるものだった。伊丹十三監督の「タンポポ」に登場するフワフワ卵のオムライスが大流行する前は、錦糸卵を作るのに使う薄めの卵焼きでチキンライスを包んで、真ん中にケチャップをたっぷりかけたものがオムライスだった。前に書いたように麹町に通っていた東京標準テストのアルバイトでは、夕食がついていて、近所の蕎麦屋などから好きな出前をとってくれた。僕はオムライスを注文する事が多く、なんとなくこれなら自分でも作れるんじゃないかと思ったのが、自宅で作るきっかけだった。作ってみるとオムレツを作って包むところは手こずったけれど、味は驚くほどそっくりに出来た。
     このレシピは、結婚し、子供が出来て、今に至るまで、家族のために使い続けている。変わったのは卵焼きのくるみ方だ。錦糸卵用の卵焼きではなく、油多めのフライパンを熱して、一気に流し込んだ卵液を手早くかき混ぜ、表面が半熟状になった頃合いで、すでに皿に盛ってあるチキンライスの上に滑らす。理屈はタンポポオムライスと同じだが、難易度が高いオムレツはあきらめて、半熟状になった表側をそのまま表になるようにチキンライスにのせて軽く包むと、見ばえも良いし、食べるときの口当たりも良くなる。
    オムライス.jpg

     「愛と喝采の日々」を観たと書いている。これまた記憶にない。もちろん映画は知っている。シャーリー・マクレーンが主演。いやアン・バンクロフトとのW主演だったが、「アパートの鍵貸します」のシャーリーの方がよっぽど馴染みがあった。よくよく調べるとハーバート・ロス監督作品。悪くはないはずだが、当時の自分には合わなかったようだ。ロス監督と言えば、同じ1977年公開の「グッバイ・ガール」を撮っていて、こちらは僕の永遠のお気に入り作品だから、もう一度今見直したらどうなのだろうと考えてしまう。

     「n個の性」についての批評について。こちらも映画同様、今となっては記憶が曖昧で、何を書こうとしていたのか完全には分からない。ただ、身体的な変調が起こっていた事は覚えている。腹痛や背痛。そういった痛みに耐える日々を続けるうちに、風呂に入って頭を洗うと髪の毛が大量に手に絡みついてきたりした。まるで「四谷怪談」だと思った。痛みの波が退いた日が続くと、自分の体が透明になったかのように感じる事があった。生にしがみついて死を恐れるよりも、このままどこまでも透明になっていくのであれば死は怖くない。そういう自分は「n個の性」を体現しているのではないか?そう感じていたのだ。
     とはいえ、一方で物に対する執着に囚われているのは現実の僕自身であり、それはフェティシズムに違いない。それが捨てられない以上は、自分が「n個の性」を体現しているなどとは言えないのだろうという、なにやら葛藤のようなものがあったのかもしれない。しかし、今から考えると、この時期はつかの間「死に近づいて体も心も透明になっている」という自覚があって、安眠マスクや夜の歯磨きという行為がそれを際立たせているように感じられた。それは自分にとっても、あまりに意外な展開だったので、このような記述を日記に書き留める事になったようだ。 
    posted by アスラン at 01:15 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記(1985年) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2022年08月29日

    Hi-Fiビデオの事、「n個の性」の事、安眠マスクの事、友人の悩みの事(1985年6月7日)

    1985.6.7(Fri) 晴れのち曇り
     視覚情報処理のあと、O本さん(ブラジルからの留学生)の自室(A台にある寮)へ行った。Hi-Fi ビデオがすごい。色がキレイだ。それから個室にクーラー(cooler)。とんでもない!2:45から精密システムの授業。その後、図書館に本を返却に行った。

     M宮(同期の友人)は、性を究極にすれば、釈迦のように悟りがひらけるのではないかと考えているが、性はそのようなものではないし、悟りという意味では「n個の性」という状況しかない。しかも、それになれる方法もない。簡単な事ではないが、話としては単純な事なのだ。
     
     大学の帰りに渋谷に出て、東急ハンズで安眠マスク(440円)を買う。パーティ用品のコーナーで、やっと見つけた。もう少しで見逃すところだった。どこにでもありそうなのに売ってないものは意外とあるものだ。原宿まで歩いてから山手線に乗った(1万円札がくずせなかったので…)。

     夜、I上(筑波の大学に進んだ高校の友人)から電話。K林さん計画が、すでに物語に先行されているのが気にくわないらしい。

    I上のテーゼ
     相手に対して自分の好意を打ち明けたときに、それが相手を傷つけるのではないか?という考えが出てくる事に対して、どうするか?

    問題点
     ・物語の進行をどうすべきか?
     ・物語だと知っている自分が、どう物語をせずに、または、物語をあえて物語るべきなのか?
     ・理想の女性がいて、理想の友人という位相がなくなっているのは何故か?


    [補足]
     当時、Nキャンパスの近くのA台に大学の寮があった。授業の空き時間に、日系ブラジル人の留学生・O本さんの部屋に数人で押しかけたのだろう。Hi-Fiビデオはまだ高くて買えなかったのに、O本さんが持ってるのにビックリした。Hi-Fiビデオは、当時ビデオが抱えていた構造的な問題で劣化していた音質を格段に向上させた機器の事。本当は音質がよくなるのであって「色がキレイ」は関係ない。まあ、自宅のビデオが古くなって画質が劣化しているとか、テープをケチって画質を落として録画する習慣だったとか、別の理由があったのだろう。とにかくも、Hi-Fiビデオを含めてクーラー付き個室でリッチな学生生活だなと思った。

     M宮とは正直言って冗談話をした記憶しかないので、「性」について何事か話した覚えがない。「性を究極にすれば」とは変な言い方だが、「性を極める」という話ではなく、性(ジェンダー)のあり方を極限まで延長すれば、そこに悟りのようなものがあるのではないかという主張だったかもしれない。まあ、ここで言う「悟り」も変な言い回しで、人生を悟るという意味での「悟り」ではなく、男女の性愛だとか、そういう一切のものを超越できるのではないかという事がM宮の主張(というより思いつき)だと考えれば、納得はしないが意図はわかる。

     それに対して、当時の僕は「n個の性」という言葉を用いて異議を唱えている。「n個の性」は、ポスト構造主義の急先鋒だったドゥルーズとガタリの共著「アンチ・オイディプス」に出てくる用語で、性を男女というジェンダーに限定するのではなく、複数個あるいは任意の性を前提に考えるべきではないかという、ごくごくまっとうな主張だ。僕は直接彼らの著書の薫陶を受けたわけではなく、吉本隆明の「対幻想―n個の性をめぐって」を読んだ直後に、何事かを感じて使っていた。うまく言う自信はないのだが、この頃自分は長生きできない、死に向かって生きているという実感めいたものを感じていた。その渦中で、性に対する執着のようなものが薄れている身のうちをどう表現すべきかと考えると、すでに自分は男や女というものを超越している、超越はおこがましいが、何か違ったものとして存在しているのではないかと感じていた。それがすなわち「n個の性」であるとすると、そこに「悟り」があるわけではないと直感的に理解していた。だからM宮の主張は正しくはないと思った。

     今となれば、単に身体的な不調が精神的な不調を生み出していると言えてしまうが、その頃は、痛みの波に耐えて寝不足に耐えるという毎日だったので、少しでも外界の刺激を断ち切るために、安眠マスクが大切だった。それが東急ハンズのパーティ用品コーナーで手に入った事は、かなり重要な事だった。

     その後、渋谷から原宿まで歩いている。「1万円札を崩せなかったから」の意味が伝わらない。1万円札が使える券売機が無くて、窓口で両替をしなくてはならなかったという事だったかもしれない。当然ながらSUICAは存在せず、プリペイドの「オレンジカード」すら、この年に発売されたばかりだ。両替の手間を惜しんで原宿まで歩けば、小銭で切符が買えると考えたのだろう。もちろん、歩きたかった事の言い訳かもしれない。今はなき宮下公園を通って歩くのが、その頃の定番だった。人気(ひとけ)があまりない公園だったんだけどなぁ。

     夜のI上からの電話は、正直彼にとって初めての恋の相談の続きだった。大学のサークルで一緒のK林さんに惹かれているが、それをどう前に進めていけばいいだろうかという彼なりの悩み相談だった。「K林さん計画」とは、意識的にこちらから好意を打ち明けるべきか、それとも相手がこちらに好意を持っている事を知り得てから打ち明けるべきか、あるいは好意を打ち明ける事無く、このままサークルのメンバーとしてのつきあいを深めていくべきかの選択を検討していく事を指す。「I上のテーゼ」と書かれている部分に「物語」という言葉が頻出するのは、当時絶対的にかぶれていた蓮實重彦の「物語批判序説」から来ている。「物語」とは互いに知り得ぬ事を語る事ではなく、お互いが知る事を確認しあう事を指す。つまりは紋切り型の思考であり、それから抜け出るためには「物語が物語られる現場」を見て見ぬふりをするという戦略が必要になる。

     しかし、そうは上手くいかない。すでに何事かを意図して計画を進めるだけで、自分の中で、相手の中で、周辺の人々の中で、誰もが知る物語が先行しだす。そうなると、自分がこれからやろうとしている事はすべて「誰もが知る物語」に身をゆだねる行為にすぎないのではないか、とI上は言いたいのだ。彼の計画ではデートに誘うはずだったのだが、実際、サークルのレクリエーションで筑波山に登った後で、映画に誘ったはずだ。でも断られて、計画はあっさり破綻し、K林さんとの事もそれっきりで終わってしまった。
    対幻想―n個の性をめぐって - 隆明, 吉本, 俊介, 芹沢
    対幻想―n個の性をめぐって - 隆明, 吉本, 俊介, 芹沢
    物語批判序説 (講談社文芸文庫) - 蓮實重彦
    物語批判序説 (講談社文芸文庫) - 蓮實重彦
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    2022年08月25日

    高橋真梨子コンサートの事、通院の事、「さよならジュピター」の事(1985年6月6日)

    1985.6.6(Thu) 晴れ(今日も暑い)
     午前中、ディジタル制御ゼミ。午後から医者へ行く。N田(兄弟研究室の同期)から高橋真梨子のコンサートの誘いがあった。M尾さん(研究室の助手)の購入したチケットが余っているらしい。が、視覚情報処理のレポート提出が迫っているので断った。風邪もなおったばかりだし。医者は、予約してなかったので1時間以上待たされた。その間、寝ていた。風邪の薬も一応もらった。
     帰りにお茶の水でCDの中古3枚を買ってから帰った。

     夜「さよならジュピター」を見る。M子(同じ研究室の同期)の言ったとおり、どうしようもない映画だ。スタッフが日本人だけでなく世界中の代表が集まっているという設定にするなら、何故最初から最後まで英語を使わないのか。ところどころ日本語と外国語が混在するだけでは、見ていてとても違和感がある。英語がいやなら、はじめから一つの言語に統一しておくべきだ。その方が納得がいく。小松左京にしてはストーリーがちぐはぐ。「日本沈没」は、よくできたラブロマンスだったのに、それと比べて主人公とマリアの愛のちゃちなこと!!

    [補足]
     体調が悪い中、ゼミやレポート提出に追われている様子が垣間見られる。それでも、当時は暇を見つけては映画も見に行ったし、コンサートのお誘いにもできる限りのっていた。高校まではコンサートに行く事はほぼ皆無だったが、大学時代はアルバイトでお金に余裕ができた事もあって、いままで関心がなかったアーティストのコンサートにも行った。特に助手のM尾さんはあらかじめ余分にチケットを購入しては、研究室の音楽好きに誘いをかけてくれた。高中正義のコンサートをどでかいスピーカーを前にかぶりつきで聴いたのもM尾さんのおかげで、以来今にいたるまでのファンになった。

     高橋真梨子も、ペドロ&カプリシャス時代の「ジョニーへの伝言」などは知っていたが、聴くようになったのは当時ハマっていた尾崎亜美が提供したデビュー曲「あなたの空をとびたい」を、あらためて再評価した事と、前年(1984年)に「桃色吐息」が大ヒットしたのを受けて、お誘いがあったのだと思う。だが、残念ながらコンサートに行く余裕がなかった。体調不良でレポート作成が遅れたからだ。

     「医者に行く」は風邪のための通院ではなく、持病の通院だろう。この頃も定期的に(月一程度)、病院に通っていた。高校の頃から続く腹痛と微熱。それを抑えるために対症療法的に出された万能薬(副腎皮質ホルモン剤)をずっと飲み続けていた。それでも、波のように痛みはぶり返しては引くの繰り返し。今回、風邪が引き金となってひどく調子を落としたので、定期通院ではないが救急的に主治医に様子を診てもらったのだろう。当時の病院は予約制にも関わらず、平気で1,2時間待たされる事もあった。電子カルテシステムなど影も形もない頃だ。そんなときはロビーのソファーで寝ながら待っていた。

     病院は飯田橋にあったので、通院後はお茶の水まで足を延ばして中古CDを見繕って買ったようだ。タイトルが書いてないのが残念だ。CDの黎明期だったので、とにかく広く買いあさっては自宅で聴いていたように思う。

     問題の「さよならジュピター」。正直観た事をすっかり忘れている。M子の言葉が本当かどうか確かめるために観たように日記には書かれている。どうやって観たんだろう。当時はまだTSUTAYAは無く、街のレンタルビデオ屋があるだけ。借りて観たのか、たまたまその日テレビで放映したのか。設定やストーリーのちぐはぐさだけを論って、特撮などには一切言及していないのが気になる。「さよならジュピター」は原作者・小松左京が総監督を務め、特技監督は「ゴジラ」シリーズの川北紘一が担当している。それなりに特撮に見どころはあったように思うのだが、書いてないから仕方ない。それにしても、自分の映画評の稚拙さにあきれる。たぶん映画としてはうまくいってなかったのだろうが、自分のツッコミも的を射てはいないようだ。
    さよならジュピター.jpg
     
    posted by アスラン at 03:43 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記(1985年) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2022年08月24日

    睡眠不足、アイマスクが必要な事、東京標準テストの事(1985年6月5日)

    1985.6.5(Wed) 晴れ(暑い、2階は27〜30℃)
     又々、大学を休む。どうも朝方に眠りが浅くなって、睡眠不足だ。午後1時頃に起きて食事。やっと昨晩から人並みの食事を摂れるようになった。3時半ごろに自宅を出て、神保町で本を物色。大学の生協で買うためにメモを取る。

     アルバイトに行く。S吉、I沢(いずれもアルバイト先の生徒)あたりは、どうも根気がない。今日の講義はほとんど聞いてくれない。実増の方は、S木がやる気をみせているのはいいが、英語はシッチャカメッチャカだから、あいつの質問は授業後にまわした方がいい。N藤は宿題がたまったツケをこちらに回してくるので、エラい目にあった(9時過ぎまでつきあわされた)。

     アイマスクが必要!!(睡眠不足で疲れてしまう)

    [補足]
     梅雨入り前だろうか。自宅2階の部屋の温度が27〜30℃で「暑い」と言っているが、今と比べたらまだマシだったかも。体調が悪い事も影響しているようだ。体調不良と暑さとがあいまって、眠りが浅い日が続いた。持病がなかった頃は睡眠不足とは夜更かしと同義であったけれど、この頃は真剣に「眠れない」事に苦しんでいた。眠りに集中できないのをなんとかしたい。何かで「アイマスク」が有効だと言っていたのだろうか、アイマスクを手にいれなきゃと、下線付きで当時の日記に書いてある。当時はネットでなんでも買える世の中ではなかったので、どこで買えるのか、まったく分からなかった。

     大学を休むほど、まだ本調子ではないのに、本屋街まで外出している。どうやら、この頃は買いたい本を書店でメモしては生協で学割で注文していたようだ。いかにも勉強のために必要な本を物色しているように見えるが、おそらくは自分が読みたい新刊を見て回ったのだと思う。

     アルバイトは麹町にある小中学生向けの教材会社と以前に書いた。今は無くなってしまったが「東京標準テスト」という会社だ。東京標準は元々は小学生の会員向けの教材を作って提供する事業から始めたが、親から勉強も見て欲しいという希望が寄せられるようになったので、会員および一般の生徒向けの塾を展開するようになった。今でこそ公文(くもん)が全国的に名が知られているが、80年代当時は「東京標準テスト」も業界内では知られた会社だったようだ。「ようだ」というのは、そんな事情は全く知らずにアルバイトの講師をやっていたからだ。6歳上の兄が東京標準に勤めていたので、やってみないかと誘われたのだ。

     正直言って、やりがいは感じていた。何しろ理系の大学に進んだ後に、文系の方が向いていたのではないかと思い悩んでいた時期だったので、「一言語として英語の構文をどう理解すればいいのか」というテーマで考えながら授業で試していた。それは同時に「どう説明すれば、少しでも生徒が英語を理解しやすくなるか」という試行錯誤でもあったのだが、何しろ生徒の学力とやる気にバラツキが多すぎた。それは端的に言って、会員とそれ以外とのモチベーションがあまりにかけ離れている事から来ていた。日記には、各生徒との悪戦苦闘の状況が書かれている。でも、教えるという情熱だけはあったので、時間外でアルバイト代にもならないのに生徒の質問攻めにつきあっていたみたいだ。

     「実増」というワードは、使う教材で生徒を振り分けてた際の教材の略称だったように記憶しているが、それ以上は思い出せない。「実践学力増進うんたら」みたいな教材だったのかな。 
    posted by アスラン at 01:50 | 東京 🌁 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記(1985年) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2022年08月19日

    引き続き体調不良、不動通りのタコ焼き、科学博、パソピア(1885年6月1日〜4日)

    1985.6.1(Sat) 晴れまたは曇り
     朝から熱っぽく、ダルかった。寝ては朝食、また、寝ては昼食。さらに寝て6時PMに起きた。お腹が空いたので、たのんでタコ焼きを買ってきてもらったのが、まずかった。夕食の頃には気分が良くない。腹が重い。
     夜、「椿三十郎」を観ながら寝ていたら、とてつもなく腹が痛くなり、気分が悪くなった。やはり吐いた(タコ焼きの味がした)。それからしばらくは、腹が痛くて眠れない。やはり消化が極力良いものだけを食べるように心掛けなければダメだ。

    1985.6.2(Sun)
     ねてた。昼に卵サンドとチョココロネを食べたら、吐いた。

    1985.6.3(Mon)
     大学休んだ。熱はもうないが、胃の調子がおかしいので休んだ。でも今日は比較的良くなった。

    1985.6.4(Tue) 晴れ
     大学へ行ったら、研究室のみんなは科学博へ行って、いなかった。居たのはM尾さん(所属研究室の助手)とT橋さん(兄弟研究室の助手)とO俣さん(博士課程の先輩)。「自動制御設計論」に出て、それから建屋屋上にあるF研のバラックで、パソピアを用いた音声合成実験を行った。
     S水(同期の友人)はCDプレーヤーを買ったが、マランツの「○○MKU」とかいうやつに変わっていた。
     M尾さんの冷たい視線を横目で感じながら、ダルいので早々に帰宅した。

    [補足]
     元々37℃を少し超すくらいの微熱でも寝込むほど、熱には弱い。風邪になると2,3日は休むのが普通だったが、この時期は持病との合わせ技で胃痛、背中痛で症状が倍加、三倍加していた。
     しかし、土曜日は表通りの商店街にタコ焼きのおばちゃんの屋台がでる日。板橋区の不動通り(旧中山道)では毎月1日、15日に縁日が立ち、幼い頃からタコ焼きの屋台で串刺しになったタコ焼き3ヶを買って食べるのが定番だった。その後、縁日の規模は次第に縮小していったが、おばちゃんの屋台は毎土曜に決まって現れるので、この日も買ってきてもらったのだろう。今売られているタコ焼きのどれとも似ていない、非常にシンプルな味だったが、幼い頃からの刷り込みがあるからだろうか。今でも食べたくなる。
     「椿三十郎」は、ご存じ黒澤明監督の名作。「用心棒」の続編にあたる。ちょうどテレビでやっていたのか、ストックのビデオを鑑賞したのかは定かでない。

     翌6月2日は、卵サンドとチョココロネという僕にとっての黄金の取り合わせが昼食。なにか美味しい物なら食べられると思って、母親が買ってきてくれたのだろうが、結局無駄にしてしまった。

     五日ぶりに大学に行ったら、ほとんど誰もいなくて拍子抜けしたという話。こんな事ならもう一日休んでおけばよかったと、さぞかし後悔した事だろう。「科学博」とは、茨城県筑波研究学園都市で開催された「つくば万博」あるいは「つくば科学万博」の事を指している。総入場者数が2033万人を超え、かなり成功した部類の博覧会だが、小学生の頃に大阪万博(Expo'70)を経験しているので、あきれるほど関心がなかったようだ。しかし、まもなく「電子立国」と呼ばれるほどに世界に名をとどろかせる事になる日本の科学技術を紹介する博覧会だったのだから、エンジニアを目指す学生ならば、もっと関心があってしかるべきだったか。そう言えば、つくばの大学に通うI上からは、一緒に行かないかとは誘われなかった。お互い関心がなかったということか。

     「自動制御設計論」では、まだ当時珍しかった音声合成技術のデモを初めて見たのではなかったか。コンピューターが人間の言葉を話すという事の意味がよく分かってはいなかったが、新しい技術の持つ可能性みたいなものをひしひしと感じていた。パソピアは東芝が独自仕様で製品化したパーソナルコンピューターだ。当時は先行するNECを追って、日立やシャープ、東芝などが競ってパソコンを作り出した。同期のM井は、その後パソピア7というゲーム仕様に特化したパソコンを購入した。ジョイスティックを最大16個つなぐことが出来ると自慢していたが、そんなにつなげて楽しむゲームソフト自体が開発されていなかったので、オーバースペックと言っていい。
    パソピア.jpg
    posted by アスラン at 03:10 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記(1985年) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2022年08月17日

    風邪と腹痛の事、祖母の事、CDプレーヤーの事(1985年5月30日〜31日)

    1985.5.30(Thu) 曇り
     胃の調子がおかしい。咳が出る。火曜日にクーラーの効いた部屋で寝たのが原因だ。昨日大学を休んだおかげで、デジタル制御の予習ができず、冷や汗をかいた。パターン認識原論の後に、我慢できずに吐いた。早々に帰宅。お婆さん(同居している父方の祖母)も気分が悪いらしく、二人して夕食はおかゆだった。
     S水(大学の友人)がCDプレーヤー(YAMAHA CD-3)を買うらしい。トポロジーの本を一冊図書館で借りた。
    YAMAHAcd-3.JPG

    1985.5.31(Fri) 曇り
     朝、熱が下がった。咳はひどい。朝・昼・夜と、おかゆ・うどん・おかゆ。しかし昼食後と夕食後に、それぞれ吐いた。吐いた後はしばらく気分が良い。どういうわけか、胃が重いと背中が痛くなるのだ。吐くとすっきりする。どうしてだろう?
     父母、京都旅行から帰る。夜、ふたたび熱が上がって37.8℃。明日のアルバイトはお休み。
     巨人vs.中日(1-0)。西本完投。

    [補足]
     風邪をひくと扁桃腺が腫れる、咳が出る、熱が出る、胃の調子が悪くなる。対症療法は、布団をしっかりかけて水枕をし、とにかく安静。汗をたっぷりかいては、お湯を絞ったタオルで拭いて、パジャマを着替える。食事はとにかく消化のいいもの。お米から作ったおかゆ、うどん、少しよくなってきたらホットケーキ。80年代はクーラーがあったので、だいぶ過ごしやすくなってきたが、それ以前はとにかく暑かった。この頃には「汗をかく」事が風邪を治す最良の方法という民間療法はすたれつつあった。

     咳が出てるので風邪である事は確かだが、胃が重いのは持病のせいもある。特に「腹痛と背中の痛み」がセットで出てくる。この頃にはよく分かってなかったが、どうやら腹痛があまりに連続的におこり、長時間継続するので、無意識に体中の力が入り、背筋などを痛めてしまっていたようだ。「吐くとすっきりする」のは一時的なもので、炎症がおさまるまでは胃のむかつきは、なかなか解消しない。

     祖母は、このとき77歳。時々、体調を崩してはかかりつけの医者に往診に来てもらった。見立ては自家中毒。吐くと茶色い胆汁がまざったので、注射を打ってもらっていた。往診にきてもらうのは祖母だけで、他の家族は歩いて15分はかかる医者のところまで行って受診した。しかし30日は母は旅行中。医者には行ってないし往診も頼んでないだろう。おかゆは自分で作ったのだろうか?

     CDプレーヤーを友人が買う事を気にしている。当時、急速にCDプレーヤーは普及しはじめた。僕がCDプレーヤーを購入したのも、この年か前年ではなかったか。テレビでPVを流す番組が流行し、佐野元春の「NEW AGE」のPVを見て聴いて、アルバム「VISITORS」(1984)を購入したのが、最初のCDだったような気がする。CDプレーヤーは秋葉原でも値段がかなり下がってきたので、そろそろ欲しいなと思っていた時期だ。
    posted by アスラン at 04:15 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記(1985年) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2022年08月14日

    「金曜日の妻たちへ」の事、希薄な生活感、持病について(1985年5月29日)

    1985.5.29(Wed) 曇り時々雨
     今日は大学を休む。前日深夜「金曜日の妻たちへ」を4本観るというバカをやった。おかげで調子が悪く、アルバイト終了後に気分が悪くなり、お腹が痛かった(往きと帰りに一回ずつ吐いた)。傘を忘れた。

     今日、父と母は会社の退職者旅行で京都に出発した。帰りはあさって。

     生活感が希薄だからだろうか。人と話した事、覚えた事、日々起こる出来事など、他の人の1/10ぐらいしか覚えていないような気がする。というより実感だ。何しろ、たった今聞いたばかりの事を忘れる事があるのだ。「人の話を聞いていない」とは、I上(高校からの友人)の僕への批評だが、それもこれも生活感が伴わないということの属性なのではないだろうか。日記をつける事の意味は、ここに半分ある。もう半分は病気のスケッチかな?

    [補足]
     「金曜日の妻たちへ」は、脚本・鎌田敏夫、プロデューサー・飯島敏宏によるTBS金曜ドラマの一本。金曜ドラマの枠には、山田太一脚本の「岸辺のアルバム」(1977)、「想い出づくり。」(1981)、「ふぞろいの林檎たち」(1983)、小山内美江子脚本「父母の誤算」(1981)などがあり、当時の社会問題とリンクして、個人から男女・夫婦・家族の様々な生き方を描いたシリアスなドラマが多かった。その後「金妻」と呼ばれるようになるシリーズの1作目で、60年代に一世を風靡したメッセージフォークの名曲「風に吹かれて」( ピーター・ポール&マリー)が主題歌に使われている。「不倫」が題材になっているが、戦後の「戦争をしらない子供たち」として、60年安保、高度成長期を経験してきた団塊の世代が、新興住宅地に家を持ち、子を育て、都会の核家族化の中で人生に惑う姿を丁寧に描いた作品だった。まだ社会とのつながりがない一学生にとっては、実感が伴うドラマではなかったが、続く「ふぞろいの林檎たち」とワンセットで非常に心に残る作品となった。4本をいっぺんに観ている事から、この頃には、VHSビデオレコーダーに録画して観る事が当たり前になっていた。
    金曜日の妻たちへ.jpg
     体調不良については、前日の夜更かし、前々日のゼミの予習などが原因である事は確かだろうが、そもそもこの頃は持病との折り合いをつけるのに苦労していた。後半の「生活感の希薄さ」は、持病からきている。高校生の時に発症した原因不明の熱と腹痛は、結局原因不明のまま、対症療法的に強い薬を飲み続ける事で、なんとか大学生活へと繋がっていったが、ちょっと気を抜くと症状が悪化してしまい、思い通りの生活ができなくなる時期を繰り返した。この当時は家族以外は誰にも持病の事は明かしていなかったので、人知れず痛みを耐え続けて生活していた。おそらく長生きはできないのだろうという諦念のようなものが、芽生えていた。

     「退職者旅行」とある。この年、父は58歳。当時はまだ60歳定年ではなかったのか。何気なく書いている一行だが、自分もそういう年になって初めて、父や母が僕の病気をどれほど心配していたかについて思いを馳せるようになった。僕自身は自分のことで手一杯だったが、両親は息子の将来がどのように開けていくかを案じていたはずだ。
    posted by アスラン at 03:40 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記(1985年) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2022年08月13日

    高校の友人との再会、自動制御応用ゼミ、トポロジー、風船の法則(1985年5月26日〜5月28日)

    1985.5.26(Sun) 曇り
     I上(高校からの親友)が筑波から帰ってきた。秋葉原に行き、I上は電機パーツと500円の靴2足を買った。神保町に行き、本を見て帰った。レコード数枚借りた。本を数冊貸した。

     夜は、明日のOS−9ゼミの予習でてんてこ舞いだった(現在4:00AM。眠い…)。
     今度、お茶の水の中古CD屋でCDを買うこと!

    1985.5.27(Mon) 晴れ(ものすごく晴れ)
     OS−9ゼミで、Arc炉関係について発表した。どうも不手際で内容の把握ができていない。M尾さん(研究室助手)にところどころ助けられた。
     帰って早めに寝たが、疲れていたこともあって、深い眠りにはならなかった。

    1985.5.28(Tue) 夕方雨
     自動制御応用ゼミに遅刻。前日の睡眠不足がたたった。鬼ごっこのアイディアが振り出しに戻った。鬼ごっこの機能にこだわりすぎて、面白い部分を全部そぎ落としたのが失敗、ということか? 今度から木曜の15:00〜にゼミを移動。

     夕方、B(研究室の同期。タイからの留学生)とトポロジー(Topology)について話した。Open setとClose Setについては理解できたが、「OpenでもCloseでもない」とは、どんな場合だろうか。トポロジーの本を読む必要がある。

    [風船の法則]
     子供の頃、整った顔をしている子(娘)は、大きくなると必ず顔つきが崩れる(風船をふくらます時の例えから)。女性の顔は25歳がピークだろう。
    (ミーハー「S水くん」の言葉)

    石丸電気.jpg
    [補足]
     高校生活の3年間は、ほぼ毎日のようにI上と一緒に行動した。今から思うと、音楽も本も思想書もみんな、彼から教わった。真空管を使ったアンプを自作したり、シンセサイザーを購入して現代音楽に心酔したり、テクノにいち早く関心をもったりしていた。ドラマもアイドルも、そして僕という人間も、一つの批評対象にしていた。彼の影響は計り知れず、それぞれ別々の道を歩み始めていた大学時代も、時々交流を続けていた。都営三田線で神保町へ行き書泉グランデで本を物色し、坂を上ってお茶の水駅途中の中古レコード屋を見ていく。さらに秋葉原まで足を延ばして石丸電気で彼が予約したレコードを取りに行き、ラジオ会館でパーツを見て回ってから帰るのにつきあうのが、いつもの散歩&おしゃべりのコースだった。

     自動制御応用ゼミで「鬼ごっこ」? まったく記憶にない。何か複数のロボットを使ったゲームに制御系を取り入れるという課題だったのか。

     今は珍しくもないが、当時の大学の研究室でも海外からの留学生が結構いた。中国人がもっとも多く、タイやブラジルの留学生もいた。B君はそのなかでも飛び抜けて日本語が達者で、僕らとの会話も日本人のように打ち解けて話すことができた。冗談ばかり言いあっていたので、その中でトポロジーの話になったのは今から考えるとちょっと意外。数学は彼の専門だったのだろうか?ここで議論しているのは、集合としての位相(トポロジー)の事のようだ。集合Xの部分集合には開集合、閉集合、開でも閉でもある、どちらでもない、の4通りがあるという事の意味を議論していたようだ。お互いの研究テーマに関係するとも思えないので、何かの授業で出てきたのかもしれない。

     「風船の法則」は、大学で最も親しくなった友人・S水の口から飛び出た軽口。子供の頃に整った顔の持ち主が大人になってもそれを維持する事は少ないという印象にすぎない。特に後半は偏見以外の何物でもないが、まあ、そういう軽口を好き放題言い合える仲間内の戯れ言だ。それにしても、その時期、その時期で都度、友人関係は変わる。結婚式で、節目節目の友人が一つのテーブルに同席したりすると、同じ人間とは思えないくらい本人への印象が食い違う。本人は思ったほど変わっていないと思っているが、外面は思ったよりも変わっていくのかもしれない。
    posted by アスラン at 14:30 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記(1985年) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2022年08月11日

    アルバイトの帰り道考えた事、再び「死語の戯れ」(1985年5月25日)

    1985.5.25(Sat) 雨(台風)
     大学に行く。S島さん関係のプログラムのつながりがはっきりしない。白色化フィルタのプログラムは、どこにいったのでしょうか?

     アルバイトの帰り道、考えた事。

     松本健一「死語の戯れ」についてもう一度考えた。「死語の戯れ」とは、言ってみればテレビでタケシ(ビートたけしの事)やタモリが軽やかに自分の子供時代の出来事と戯れてみせる、あのポーズと同質なのではないか。今は無き良き時代、それはいつの時代であっても、自分の幼い頃を振り返れば存在してしまう、そんな位相ではないのか?そういう意味で振り返った〈時代の面影〉というのは、例えば日本人全体が共有できるイメージであるが故に、結局は誰にとっても、本当の意味では自分自身の過去ではないのか?

     「高度成長期の頃は、だれもが一生懸命であった」などという言葉。「高度成長期を境に、日本の風景は変わっていった」などという、あの頃を生きた人々の口から必ず出てくるような言葉は、当人の実感である前に、時代としての実感であったはずだ。各人の様々な実感というものは、結局は歴史としての実感に収斂してしまう。そして、そういう歴史としての実感は、紋切り型の表現しか許さない。

     現代において「家族」「母」「故郷」が死語になり、「校内暴力」「家庭内暴力」「核家族」が生きた言葉だとするならば、それは一体、誰の実感であるのだろうか?
    死語の戯れ - 松本 健一
    死語の戯れ - 松本 健一

    [補足]
     白色化フィルタは、当時研究室で研究していたテーマに関連したノイズ除去の制御プログラムの事。アーク放電によりパルス状のノイズが乗った電力システムに対して、ノイズの周波数成分を白色化するためのもの。とはいえ、大学で習った知識は直接活かされる事はなく、エンジニアとしての素養としての意味しか持たなかったけれど。

     アルバイトは当時、麹町に本社があった小中学生向けの教材会社に通っていた。会員相手に教材を使った教室を開いていて、僕ら大学生が思い思いに自分のスキルを活かして教えていた。その頃には、理系の学生でありながら関心は言語に移っていたので、教える教科も数学ではなく、英語だった。あの頃の生徒たちは、僕の理屈っぽい英語の授業を受け止めてくれたのだろうか。ふと振り返ると、ずいぶん無茶な事をしたものだ。

     「死語の戯れ」について考えた事がなんだったのか、この文章でも自分自身よく分からない。何か世間で流通している、安易な考え方、紋切り型の思考にいらだっている事だけは伝わってくる。自分の過去を振り返って美化したくない、だが「死語」という言葉で過去を否定されたくはない、そういう二律背反な想いにとらわれていたのかもしれない。
    posted by アスラン at 05:06 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記(1985年) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2022年08月02日

    キャンパスの行き来の事、授業「視覚情報処理」の事(1985年5月24日)

    1985.5.24(Fri) 雨
     Nキャンパスへ行く。また、一駅乗り越してしまった(寝過ごした)。授業が終わってからOキャンパスに戻った。OS-9ゼミ関連でプログラムを見直していたが、使用法を忘れたり、S島さん(研究室の2年先輩)のやってくれた部分がさっぱり分からなかったりで、さんざんだった。

    経験則
    人は、赤色(黄色)を見るとき、その中に緑色(青色)を見ることはない。
    (「視覚情報処理」より)

    補色図.jpg
    [補足]
     当時、大学院の修士課程で所属する研究室はOキャンパスの片隅にあったが、選択した講義を聴講しにNキャンパスに移動した。往きは自宅から直接向かう事が多かったが、帰りはNキャンパスからOキャンパスの研究室に戻る。両キャンパスの行き来に片道40分ぐらいかかった。一週間のうち、数回の講義を受講するだけのために通ったのだが、その労力を掛ける意味があったのかどうか。当時は体調も悪くて、疲れて寝過ごす事もあったのだろう。今はどうか知らないが、当時はNキャンパスの最寄り駅は本当に閑散としていて、喫茶店がポツンと一見あるくらいで、キャンパス以外何もない駅という印象だった。
     「視覚情報処理」は、当時受講した中でも気に入っていた講座だった。補色とか反対色の話で教材に書かれていたのか、教師が言った言葉なのか、定かではない。何かの比喩として印象に残ったのだろうか。つまり、「目に見えるものの中に見えないものが隠れている」とか、「目に見えるものは、ほんの一部に過ぎない」とか、いうように。
    posted by アスラン at 11:01 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記(1985年) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2022年07月29日

    友人からの電話の事、加藤典洋「アメリカの影」の事(1985年5月23日)

    1985.5.23(Thu)
     大学の身体検査に行った。血圧120〜61、他は正常。視力 右1.2、左1.0。以前より良くなったのは何故か?
     I上(中学・高校からの友人)から電話あり(通っている大学の研究室から掛けてきた)。日曜日の午後、池袋の東急ハンズに一緒に行く約束をする。OS-9ゼミの発表原稿をそれまでに作らねばならない。

     加藤典洋「アメリカの影」より引用。
    しかし、そのようにして、この「自然」と「もう自然でないもの」の境界がぼく達に触れ、ぼく達自身が「もう自然でないもの」になった時、ぼく達の生きるということにまつわる意味は、どこかで完全に、逆転することになったのではないか。
    (崩壊と受苦―あるいはフロンティアの消滅)

    アメリカの影.jpg

    [補足]
     I上とは同じ中学に通っていたが接点はなく、同じ高校に通うようになって親しくなった。詩人であり、僕と違って物理好き。本当の意味で理系の理論家。早くからシンセサイザーに興味を持ち、音楽の関心もアイドルからテクノポップなど多岐にわたる。僕のようにのほほんと生きてきた人間に対する興味が尽きないようで、僕は僕で自分にない大人びた考え方や生活に惹かれたり反発したりするところが多く、高校3年間はほぼ一緒に行動する親友となった。大学は茨城県筑波の大学に進学したため、一緒に行動する事は少なくなった。彼は現役で合格。僕は病気の影響で浪人してから東京の大学に合格。以後、高校時代のようには一緒に行動することはなくなったが、たびたび常磐線を使って上京(いや帰省)してきては、友人関係を維持していた。
     吉本隆明やポストモダンの批評家(蓮實重彦、柄谷行人、浅田彰)などを教えてくれたのは彼だ。自分の生き方、家族との息苦しさに悩んでいた僕に、精神分析からのアプローチで唯幻論を唱えた岸田秀の「ものぐさ精神分析」を読むように勧めてくれた。自分を客観的に見つめ直す事ができるようになったのは岸田秀の著作をおかげだが、そこから社会との距離感を探っていくには様々な考え方に触れていく必要があった。蓮實や柄谷の颯爽とした理論ではないが、目の前にそびえる現実に向き合うために足が地に着いた加藤典洋の「アメリカの影」の文章にたどり着いたのは、ちょうどこの頃だった。
     自然の一部として誕生しながら自然から疎外される事で、様々な幻想を生み出していったというのが吉本隆明の「共同幻想論」の核心だったが、加藤さんはそれを、戦後数十年経った目の前にある日本の現実に当てはめて徹底的に考える事から始めた。国家にまでおよぶ共同幻想は、個人幻想とはちょうど「逆立する(逆立ちの関係になる)」と吉本隆明は言ったが、加藤さんは考えを一歩進めて「ぼく達の生きるということにまつわる意味」=個人幻想が、戦後の日本では逆立(逆転)してしまったのではないかと考えたのではないか。僕は自分の目の前にある社会に怖じ気を震って、この文章にビビッドに反応したようだ。
     ちなみに「OS-9」とは当時流行っていたUNIXライクなオペレーティングシステムの一つ。社会人になってからはUNIXの洗礼を受けることになるが、その前にOS-9に慣れ親しんでいた事が非常に役に立った。
    posted by アスラン at 08:21 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記(1985年) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2022年07月28日

    大学の事、「アメリカの影」「死語の戯れ」の事(1985年5月22日)

    1985.5.22(Wed)
     今日は12:00に研究室の写真撮影があった。13:00からだと勝手に決め込んでいたので間に合わなかった。M子(同じ研究室の同期、もちろん男性)の電話で驚かされて、あわてて飛んでいったが、大学に着いたのは12:30だった(と言っても、あわてて飛んでいったというのは、いかにも紋切り型な表現だ)。T橋さん(研究室助手)には「君の写真は(全体写真の上段に)黒枠で挿入される事になるよ」なんて嫌みを言われた。いやにもあの人らしいと思った。面白かったけれど…。

     本の話。
     加藤典洋「アメリカの影」は面白い。松本健一には少々幻滅していたので、余計そう思える。寸評は読み終えてからにしたい。
     松本健一「死語の戯れ」。この本は、読んでいて一々もっともに感じられるところがある。というのも書き方が、いかにも僕自身が書きそうな書き方だからだ。自分の文を読み直すと必ず思うのは、紋切り型の思考をしているなという事。事象を外見どおりにとらえているという事、である。松本健一が捉えている高度成長期および現代は、いわば誰もが思いつく「等身大の世界」だ。クイズじゃないが、100人に聞けばおそらく80人以上の人が、そう思うようなイメージどおりの高度成長期。その中で、やがて「故郷」「母」といった、かつては重要な意味を帯びていた言葉が死語になっていく。死語になる過程について僕がとやかく言えるわけではないが、〈死語の戯れ〉によって現在の言葉の活性化が促されているとは、どうしても思えない。例えば、松本が「『故郷』が死語になっている」と言うとき、「故郷」のもつ等身大のイメージあるいは紋切り型のイメージが死に瀕していると考えているわけだ。そして「故郷」の〈意味の変容〉がもたらされると考えている。であるとするならば、死語の戯れは、あくまで等身大のイメージに対する反抗と捉えるべきだ。戯れなどではなく、死語の死語による死語への志向という事になる。死語は、この本で扱われているほどには死語になっていない。そこには言葉と世界とのズレしかないのだ。
    死語の戯れ.jpg

    [補足]
     当時大学生だった僕は、色々と行き詰まっていた。将来の事、生きる意味などに、だ。10代、20代の誰しもがかかえる将来や人生への不安という意味もあるが、高校の頃に発症した原因不明の病気に悩まされて、思い通りの人生を生きる事がかなわない事への苛立ちがあった。おのずと、自分なりに生きる意味を模索して、本を読んだり映画を観たりしてひたすら考えていた。「死語の戯れ」も、そんな中で見つけた一冊。松本健一の文章に自分なりの共感と反発があったようだが、すでに本の内容はあまり記憶に残っていない。言葉が堂々巡りして、何か言いたいことがあるのだけれど、うまく吐き出せていないような文章だ。ちなみに「クイズじゃないが…」の件(くだり)は、関口宏が司会を務めた「クイズ100人に聞きました」というテレビ番組を指している。
    posted by アスラン at 02:25 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記(1985年) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする