人気記事
    カテゴリ記事リスト
    ねじれた家 アガサ・クリスティー著/田村隆一訳(クリスティー文庫)(11/09)
    シタフォードの秘密 アガサ・クリスティー(2012/5/19読了)(06/08)
    ゴルフ場殺人事件 アガサ・クリスティー(2012/4/28読了)(05/11)
    「明るい館の秘密(若島正)」の過失(その5)(2012/3/9改訂)(03/20)
    「明るい館の秘密(若島正)」の過失(その4)(2012/3/8改訂)(03/19)
    「明るい館の秘密(若島正)」の過失(その3)(2012/2/27改訂)(03/13)
    「明るい館の秘密(若島正)」の過失(その2)(2012/2/24改訂)(03/11)
    「明るい館の秘密(若島正)」の過失(その1)(2012/2/17改訂)(03/09)
    チムニーズ館の秘密 アガサ・クリスティー(2011/11/10読了,再読)(12/14)
    ABC殺人事件 アガサ・クリスティー(2011/10/12読了,再読)(11/26)
    オリエント急行の殺人 アガサ・クリスティ(2011/10/12読了,クリスティ文庫新訳)(11/14)
    スタイルズ荘の怪事件 アガサ・クリスティ(2011/10/23読了,再読)(10/31)
    青列車の秘密 アガサ・クリスティ(2011/10/19読了)(10/26)
    そして誰もいなくなった アガサ・クリスティー著/青木久惠訳(クリスティー・ジュニア・ミステリ,2011/3/?読了)(03/28)
    「そして誰もいなくなった(アガサ・クリスティー作、青木久惠訳)」の翻訳について(02/12)
    清水俊二訳「そして誰もいなくなった(ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 1-1)」を探して(12/06)
    新訳「そして誰もいなくなった(アガサ・クリスティ)」の意義(11/14)
    アクロイドを殺したのはだれか ピエール・バイヤール(筑摩書房、2001年)(06/10)
    アクロイド殺し アガサ・クリスティー(2008/5/14読了、再読)(05/20)

    2025年11月09日

    ねじれた家 アガサ・クリスティー著/田村隆一訳(クリスティー文庫)

     読後に最初にやったのはクリスティーの著作一覧を探す事だ。今まで気にしてなかったのは、僕がクリスティの熱心な読み手ではなかったからだろう。手元にあるのは名探偵読本3『ポアロとミス・マープル』(1978年)だけで、この読本では基本的に「探偵の事件簿」(関わった事件順)の形式を採用しているので、他の探偵(例えばトミーとタペンス等)やノンシリーズ物については一切眼中にない。でもクリスティはひととおり読もうと思って古書を買いあさってきたので、『スタイルズ荘の怪事件』から刊行順に読み進めてきた。ならば、どうやって刊行順に読んできたのだろう。
     今となっては『アガサ・クリスティー完全攻略[決定版]』(霜月蒼)があるから問題ないと安心していたのだが、この本には刊行順の全著作リストは含まれていない。僕の基本信条としては「全作品を読む場合には原則として刊行順に読んでいく」事にしている。だが、それはクリスティーの一般的な読み手としては普通の事ではないらしい。『完全攻略』では1.ポアロ 2.ミス・マープル 3.トミー&タペンス 4.短篇集 5.戯曲 6.ノンシリーズの6カテゴリーに分けた上で刊行順に紹介している。もちろん紹介する都合としては問題ないが、読む側の都合としては、ポアロの全長編を読んだら、次にマープルの全長編に取りかかる事を強いられているように感じてしまう。
     すっかり忘れていたのだが、2003年にネットで見つけた「アガサ・クリスティ年代順長篇作品リスト」なるものを印刷して大事に保存してきた。今はURL自体が消えているようだが、代わりとなる個人サイトにて『アガサ・クリスティー作品リスト(刊行順)』(都会草庵ブログ)が入手可能だ。もちろんWikipediaにも「アガサ・クリスティの著作一覧」が掲載されている。だが、できれば『完全攻略』に全著作刊行順一覧が掲載されているのがベストだったと思う。

     なんで読後にジタバタと著作一覧を探したかというと、本書の巻末にある解説(評論家・末國善己)に次のような一節があるからだ。
    『ねじれた家』は、(略)不思議な作品である。ミステリ史に残る大トリックを数多く創出したクリスティーが、晩年に到達したのが、こうした枯淡な味わいの世界だと思うと、感慨深いものがある。
     「晩年に到達した…枯淡な味わいの世界」というのは本当だろうか。それを確かめるためには刊行順のリストが必要だったわけだ。『ねじれた家』は1949年に出版された。クリスティーが59歳の時だから、果たして「晩年」と言えるだろうか。しかも86歳まで生きて最後に執筆したのが『運命の裏木戸』(1973年出版)なので、83歳まで執筆を続けた事になる。長篇は全部で66作あり『ねじれた家』は39番目に当たる。その直後にマープルもの『予告殺人』(1950年)を書き、『ポケットにライ麦を』(1953年)、『パディントン発4時50分』(1957年)、『鏡は横にひび割れて』(1962年)などが続々と待ち受けている。本作が「晩年に到達した…枯淡な味わいの世界」とは到底言えないような精力だろう。

     ただし、解説で「不思議な作品」だと書かれている事については同意する。クリスティーにしては分かりにくいという意味で、めずらしい作品だ。冒頭、語り手でもある外交官チャールズはソフィアと出会い、恋に落ちる。待ち受けている海外勤務を終えたら求婚したいと伝えると、ソフィアはチャールズがその気なら求婚しにきてかまわないと思わせぶりな態度で答える。その上、思わせぶりな歌(マザーグースの「ねじれた家」)で、自分の身の上を説明する。二年が過ぎてチャールズが英国に戻ると、ソフィアの祖父アリスタイド・レオニデスの死亡広告が待ち受けていた。ソフィアと連絡を取ると、祖父殺害の犯人が分かるまでは結婚できないと言われる。チャールズは、ロンドン警視庁副総監の父からの助言もあって、レオニデス家に潜入して事件を捜査する事になった。
     読み出して最初にやったことは、レオニデスの家系図を作る事だ。普通は不要な作業だが、本作の場合は一人一人がクローズアップされることが極端に少なく、ことに前半は人物像も輪郭をともなって現れないし、住んでる建屋もなんとなくぼんやりしたままなのだ。そのため、それほど多くはない登場人物を家系図に当てはめて、ちらちらと確認しながら読んでいった。
     そもそもマザーグースものとしても異例の書き方だ。クリスティー自らがお手本となるような『そして誰もいなくなった』を書きあげ、この後にも『ポケットにライ麦を』で同様な趣向を用いることになるが、本作では「見立て殺人」は行われず、殺害された当主アリスタイドの犯人捜しに終始する。そのせいか、どこまでいっても散漫な印象が続き、相変わらず思わせぶりな言動が続き、いっこうに収まる気配がない。

     流れが変わるのは、遺言状の謎が明らかになると同時に「第二の殺人」が遂に実行された時だ。それ以降は焦点が次第に合ってくるように、「ねじれた家」に住む「ねじれた人間たち」が本音をぶつけ合う、あるいはチャールズに向けて本音を吐露する描写が増えていき、思わせぶりな言葉が特定の方向に僕らを導いているかのように感じられる。これは明らかにいつものクリスティーの文体だ。一見すると緩慢な描写に見えて、登場人物たちの思わせぶりな言葉や語り手の心象から、非常に切迫した状況が立ち上ってくる。そのすべてがくっきりと像を結ぶのは一体どのタイミングだろうかと、読者はドキドキしながらページを繰るのだ。ネタバレになるのでこれ以上は何も言えないが、この「不思議な作品」は再読を読者に要求する。初読では散漫な印象だった前半から、すべては著者によって巧妙に仕組まれていたのだ。クリスティーの愛読者ならば確かめずにはおられまい。

     さて、今回「刊行順に読む」という方針をやぶって本書を読んだ理由は、『ミステリな建築 建築なミステリ』(文 篠田真由美/イラスト 長沖充)の第二部「ミステリを建築で読む」で紹介されているからだ。具体的な建物描写は外観・内部ともほとんどないと思っていたが、篠田さんの文で、ある程度ハッキリとした。正直言って、レオニデス邸ってこんな立派な家だったのか。
     信じられぬ光景だった! 私はスリー・ゲイブルズ(三つの切妻)と呼ばれているわけがわからなかった。イレブン・ゲイブルズ(十一の切妻)といったほうが、ふさわしいのに! 奇妙なことに、家は見なれない具合にねじれていた(略)
     これは翻訳に文句をつけたいところで、「スリー・ゲイブルズ」をずっと地名だと思っていた(ちなみに「スルミナ」は人名だと思っていて「スルミナの母」って誰?と、家系図に現れない名前を探し回ったりした。)
     「ゲイブル(gambrel あるいは「〜roof」)」は、腰折れ屋根・入い母屋屋根の事だ。三つ並ぶと「三破風館」(スリー・ゲイブルズ)となり、見なれた言葉になる。これが当主アリスタイド、長男ロジャー、次男フィリップのために三倍に増改築したので「十一破風館」(イレブン・ゲイブルズ)になったわけだ。さすがに平面図は書けないだろうと思ったら、案の定、図はないが文章で全体像を補ってくれている。
     他にも「木骨石積み造り」とは「ハーフティンバーのコテッジふう」で、ハーフティンバー(half-timbered)とはランダムハウスによると「〈家・建物が〉外面真壁づくりの、ハーフティンバーの、英国中世の柱・梁などを外面に現し、その間をれんが・しっくいなどで埋めた建築様式についていう。」と書かれている。
     本書再読の際には、『ミステリな建築 建築なミステリ』をかたわらに置きながら読むことにしよう。

     蛇足ながら、本書の後半で結末が近づいてくると「これは、あれなんじゃないだろうか?」と気づいた事がある。同時期のミステリ作家は互いの動向が気になるらしく、「クリスティーは他の作家のある有名な作品の結末を、別の視点で書いてみたのではないか」という疑問が頭をもたげた。そうなると偶然にも『ミステリな建築』の第二部の並び順は、クリスティが結末を書き替えた作品の次に配置したようにしか思えない。この事を引用すれば直接ネタバレする事はなくなるので好都合だなと思ったら、すでに著者自身の文章にその通りの事が書かれていた(誰の何という作品なのかも)。しかも参考文献として、例の『アガサ・クリスティー完全攻略[決定版]』が挙げられている。未読なので全然気づかなかった。
     実際に読んでみると「あの名作のトリビュート作品では?」という観点で『ねじれた家』の分析を行っている。ただし、『完全攻略』の解釈では、クリスティーが結末を書き替えたのは「○○」ではなく、「○○」が結末を書き替えた「△△」の方だったのではないだろうか。
     「名作」のほうは「必要性はあるんだけど書きすぎで展開がもっさりしている」という、あの著者らしいものであり、(略)
    という部分を読んでも、「△△」の方が「展開がもっさりしている」。いや、そもそも「あの著者」の全作品に「もっさりしている」という形容が当てはまるはずだ。その上で『ミステリな建築』ではハッキリと「○○」と書いているので、著者(篠田さん)も僕と同じように「クリスティーは△△ではなく○○を書き替えている」と思ったという事だろう(一部の本格推理愛好家以外には何のこっちゃわからん話に過ぎないが)。

     いずれにしろ、本書は癖があって前半は読みにくいが、後半からは非常にスリリングな展開で読ませる。その上、再読する事で真価が見えてくるという作品で、「読者を選ぶ」傾向がある。例の「晩年に到達した…枯淡な味わいの世界」という解釈は、前半に限って読みにくくて思わせぶりに終始するところが、これまでのクリスティーとは違って癖のある書き方になっているので、評論家が思い違いをしたのかもしれない。だが、事件解決後の父とチャールズとのやり取りがあまりにあっさりとしている点などを考えると、「枯れている」という解釈もあながち間違いとも言い切れない。ただ、正直言って「書きたい結末に書き替えた」事にクリスティー自身が満足した結果、以後は急激に関心が薄らいで、あっさりと文章を終えたと考えると辻褄があう。
    posted by アスラン at 21:00 | 東京 ☁ | Comment(2) | TrackBack(0) |  書評(アガサ・クリスティー) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2012年06月08日

    シタフォードの秘密 アガサ・クリスティー(2012/5/19読了)

     登場人物が多く、人間関係を把握するのに手間取る作品だ。大雪の中、退役した大佐が殺され、当初は物取りによる偶然の犯行かと思われたが、次第に計画殺人の可能性が疑われ、容疑者のすべてが洗い出されていく。すると、大佐の遺産の受取人である親族が山ほどでてくる。大佐の管理するアパートのたなこである間借り人など、これまた容疑者が増えてしまう。

     それを整理する役目をいったい誰が負うのか、名探偵役が誰なのかというと、これがなかなか見あたらない。前半は警部がねばり強く慎重な捜査を進めていくが、結局は犯行当日に大佐のすむ町に出向いて身元を隠して宿屋に宿泊していた大佐の甥っ子を、捕まえるべくして捕まえてしまう。

     そこから探偵役がチェンジして、その甥っ子のフィアンセである女性が奮闘する。人を誘導する術にたけた彼女は、打つべき手を打って、素人ながら見事な捜査を行って真相に肉薄していく。それには手足となって動き回ってくれる相棒が必要だ。都合のいい事にうかうかと特ダネをもとめてやってきた若き新聞記者を籠絡して、彼女はともに行動する事を青年に約束させる。

     ならば名探偵役は彼女だったかと思うと、そのうちに甥っ子と彼女と記者の三角関係が浮き彫りになって、事件の捜査のクライマックスと平行して「はたして彼女は最後にどちらを選ぶのか」というロマンスの要素も重要になってくる。言ってみれば、後年TV番組でソープオペラと言われたジャンルのTVドラマが一世を風靡したが、小さな町で事件をきっかけに右往左往する人々の姿を活写したドラマチックなストーリー構成を本作もとっている。

     だが、この作品の品ぞろえはそれだけではない。大佐から是が非でも冬の間貸してほしいとやってきた母娘が、シタフォード邸で開いたパーティで余興に降霊会を行う。「大佐が殺される」と霊が予言したことが発端となり、大雪の中で一人暮らす大佐が予言通り殺されてしまう。この怪しげでスキャンダラスな設定が読者を惹きつけやすい事はたしかだが、僕が一番感心したのは、玄人探偵(警部)と素人探偵(女性)のそれぞれが真犯人を見つけるための捜査をする場面に、本格ミステリーによくある場当たり的で単なるつなぎのような展開がひとつもないという点だった。

     すべての人物、すべてのエピソードを整然とまとめていくかのように、探偵たちは慎重に歩を進めていく。これはミステリーの描写としても見事で、名探偵ならば結末で一言で片付けてしまうような事を、本作の探偵たちは頭で考え、仲間に相談し、たちまち行動にうつす。あたかも現代のミステリーの手本となるようなライブ感に富んだ本格ミステリーが、この時期に書かれていたことが真の驚きと言えるだろう。
    posted by アスラン at 13:01 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) |  書評(アガサ・クリスティー) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2012年05月11日

    ゴルフ場殺人事件 アガサ・クリスティー(2012/4/28読了)

     クリスティが長きにわたってエルキュール・ポアロという探偵とつきあうつもりがなかったことは、シリーズ当初からあきらかだったと僕は思う。彼女の作品を発表順に呼んでいくと、本格ミステリーの成分よりも冒険小説やハーレクイン・ロマンスの成分の方が多い。そして興味深いのは、ポアロ物が本格ミステリーを分担し、ノンジャンル物がそれ以外を担うという切り分け方になっていないという点だ。

     たとえば、処女作の「スタイルズ荘の怪事件」は純粋な本格ミステリーと言っていいが、第二作である本作ではミステリー以外に様々な要素が盛り込まれている。ヘイスティングと”シンデレラ”と自称する女性とのエピソードは、あきらかにコミカルでサスペンスに満ちたロマンス風だし、復讐に彩られた過去の犯罪などは、シャーロック・ホームズの初期の作品のような伝奇小説を思わせる。しかも、今回、ポアロのライバルとしてフランスから自信満々な刑事ジローがでてくるところなどは、まさにモーリス・ルブランの「ルパン対ホームズ」をなぞったかのようだ。

     このような人物設定・舞台設定の中で、あえて奇妙な風体の滑稽な小男という探偵像を選択したのは、ユーモアを基調としたミステリーを書くための作者の方便だったはずだ。まさか生涯をともにするようなキャラクターにまで成長するとは、作者自身考えもしなかったのだろう。

     しかも、このときのクリスティもポアロも、まだまだ無邪気だと言っていい。犯罪の暗黒面に取り込まれて事の残酷さに気がついたのは、おそらく「カーテン」をポアロの最後の事件として着想した1940年代だったに違いない。

     ところで「ゴルフ場殺人事件」などというタイトルにはなっているが、ゴルフ場はまだオープン前で、その広大な地の端っこに死体を埋める穴が開けられた事以外に「ゴルフ場」がトリックに関わる事はない。やはり、当時はまだ目新しいスポーツだったゴルフを、タイトルにつけるように出版社から促されたのだろうか。ゴルフなど当たり前のスポーツになった現代人から見ると不思議なタイトルだ。

     さきほど、ホームズやルパンなどを引き合いに出したが、本作はとりたてて凝ったトリックはなく、物語が進行するにつれて謎が少しずつ明らかになっていくという点でも先人たちの作風に近い。登場人物は多いが、それぞれがそれぞれのジャンル担当(例えばロマンス担当とか冒険担当とか、暗黒街担当とか)に切り分けられているので、それほど謎が複雑化するという印象もない。だいたいあたりをつければ、そのとおり犯人だったという感じでクライマックスを迎える。

     後にも先にもヘイスティングが物語の中心に存在するという希有な作品というところが見どころかもしれない。
    posted by アスラン at 12:50 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) |  書評(アガサ・クリスティー) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2012年03月20日

    「明るい館の秘密(若島正)」の過失(その5)(2012/3/9改訂)

    (この記事では、アガサ・クリスティー著『そして誰もいなくなった』のネタバレを行っています。未読の方は読まないようにお願いします。)

     今回が、このエッセイ(評論)の最終回だ。僕が言いたいことは3点あると(その1)に書いた。

    (1)若島の主張する「叙述トリック」は、言わば手品のタネである。若島は手品のタネをあばいた上で「作者の手際の良さ」だけを賞賛するが、「手品そのものの出来映え」に対する正当な評価を欠いている。
    (2)若島は「(『そして誰も…』は)論理的に構築されている」と主張するが、必ずしも論理的な構成とは言えない。
    (3)「(『そして誰も…』は)犯人のトリックはつまらないが、作者クリスティの叙述トリックは賞賛できる」という若島の主張には異論がある。ましてや「再読しないと真価がわからない作品」という独断には、なんら正当な根拠はない。


     (1)(2)については、ほぼ言い尽くしたように思う。(3)については、著者・若島正による『そして誰もいなくなった』の叙述トリックの偏った見方にたいしてのみ、かなり詳しく異議申し立てをしてきた。言いそびれたことがあるとしたら『そして誰も…』」という作品のおもしろさについてだ。若島の主張を解体する事に主眼があるので、行きがかり上、叙述トリックの出来映えばかりに言及しているが、『そして誰も…』はトリックだけに注目すべき作品ではない。たとえばポアロやミス・マープル物のように、物見遊山の一つのように殺人が扱われるのと違って、孤島で進行する連続殺人の緊張感は他のクリスティ作品の中でも群を抜いている。まあ、そんなことを言い尽くしてみたいのだが、この評論で語るのがふさわしいとは思えない。機会をあらためて書評で書きたいと思う。

     ここでは最後まで、若島正の「明るい館の秘密」という小論に限定して、残された課題をやり遂げて終わるとしよう。その課題とは『そして誰も…』の導入部(第一章1〜8節)の詳細な分析だ。(その4)で第一章1節(ウォーグレイヴ判事の関する描写)のみくわしく分析した。叙述トリックを読み解いて「判事は犯人の可能性あり」という結果が得られた。と同時に「(初読者が)叙述トリックを見破れるか」という点については、「かなり困難である」ことが、1−1の地の文や心理描写の巧みな構成から理解できた。

     何故ここまでウォーグレイヴ判事に関する地の文(客観描写)や判事の心理描写を重点的に分析したかといえば、早い話が再読者にとって「判事が犯人である」のは自明だからだ。自明なことを前提にして、いかにして叙述トリックによる「犯人の痕跡の消去」が実現されているかをみるのは、それこそマニアックなファンならではの楽しみ方だ。しかし、若島の主張する「犯人を見破れる」かという点については、初読者が犯人当てに挑むのであるのだから、すべての登場人物の描写を等しく分析しなくては犯人の目星などつきようがない。

     そこで判事同様、他の登場人物についてもくわしく原文や訳文をつきあわせて読み解いてみたいところだが、それだけの時間的余裕と英文の読解力の持ち合わせがない。やむを得ず今回は、作者クリスティの気持ちになって作品全体を俯瞰する視点から考えてみる。

     若島正は『そして誰も…』の特徴として、登場人物の心理描写には「本当のことしか書かれていない。ならば犯人の心理描写には叙述トリックが仕掛けられている」と考えた。しかし、(その4)でみてきたように語り手が語る地の文(客観描写)にも叙述トリックが多数混入している。僕らは、まず何よりも先に一つの問いについて考えなければならない。

    (A)語り手は、犯人が誰かをいつ知ったか?


     一見するとばかげた問いにみえるだろう。しかしこの問いが「ばかげている」と言い切るためには、語り手が「全能の話者による三人称の語り(若島)」であるという、ジャンルとしての小説の決まり事を鵜呑みにすることから始めなければならない。ところが「叙述トリック」というジャンルは、この決まり事(信念と言ってもよい)を逆手にとることを主眼においたミステリーである事を、前回身をもって体験した。だから、まずはこう考えるべきだ。

     作者(演出家)と語り手と登場人物(役者)は別々の存在であり、彼らをつなぐものは台本でしかない。しかも、近頃なくなった井上ひさしばりに遅筆の作者によって、提供される台本は最後のシーンまで書かれていない。たかだか演じ手が、場面場面を演じきる部分のみを直前に渡されると考えたらいい。あるいは、彼ら一人一人は自分が話す台詞は与えられるが、その他の人物の台詞は空白のままに、自分用の台本が用意されているとする。

     同様に語り手には語り手専用の台本が用意されている。各人は自らの台詞をしゃべる、あるいは語りを挿入するきっかけだけが何らかの合図で教えられる。そのようにして順番に台詞や語りが組み合わされて、物語が進行する。聴衆(読者)は、だれがどの台詞を言うのかを会話の部分のみ区別する事はできるが、独白の部分については声質を変換する機械処理が施されていて判別できない。

     こう考えると、すべての結末と仕掛けを知っているのは「作者」ただ一人という事になる。僕は文芸評論を読みだした当初、作者と語り手を区別して考える事に何の意味があるのだろうと思っていた。「語り手=作者」とみなしていいのではないかと安易に考えていた時期があった。しかし、『そして誰も…』のような非常にトリッキーな作品では、この手の「盲信」は危険この上ないという事が実感できる。

     語り手も登場人物も、それぞれの分担において真実のみを語る。そうは言うが、ここで言う「真実」とは、たかだか作者によってコントロールされた真実でしかない。語り手も登場人物も、自らが語ったり考えたりした事が「真実であるか否か」の責めを負う必要などないのだ。

     そこで(A)の問いを念頭に置いて導入部を見渡してみると、おどろくほど「語り手」の立場を知る手がかりが少ないことに気がつく。当然だが語り手の立場を疑うこと自体、小説という枠組みそのものへの疑義にほかならない。それ故に作者もことさらに語り手の手口をさらけ出す必要を感じていなかったに違いない。だが、決定的な場面は導入部の最後の最後(第一章8節)にやってくる。

     元警部のブロアは、島の所有者から依頼されて、島にやってくる人々を監視するために列車に乗っている。そこでたまたま同乗していた船乗りらしき老人から意味深な警告を受ける。

    「お前にいってるんだよ。…審判の日はすぐそばまできているのだ。」

     それに反発したブロアは、審判の日が近づいているのは老人の方だろうと独白するが、その直後に語り手は、こう言う。

    しかし、ブロア氏の考え方はまちがっていた。


     この場面は「思わせぶり」な会話と心理描写の典型だ。叙述トリックというよりは序盤のサスペンスを盛り上げる〈演出〉とみるべきだ。重要なことは、語り手が「ブロアの末路」を予見しているという点だ。ブロアが殺される(すなわち審判の日が訪れる)のは『そして誰も…』の終盤だ。ということは、少なくともブロアが亡くなるまでのストーリー展開も、各登場人物の動向や心理も頭に入っているようだ。

     語り手が全知全能の力をもって未来を見渡せることが、この一文をもって担保されている。再読者・若島ならば「語り手は真実のみを語っている」と確信するかもしれないが、それは先走った考え方だろう。あくまで、語り手を支配しているのは狡猾な作者であることを忘れてはいけない。とりあえず(A)の問いに答えるとしたら、「導入部の時点で、語り手はブロアが殺されるまでを全知全能の力で予見している。語り手は可能な限り客観的に描写することを使命とするが、思わせぶりな描写をすることはいとわない。」と言えばいい。確証はないが、導入部の時点で「語り手は犯人を知っている」とほぼ考えていい。

     引き続いて、もうひとつばかげた問いをしてみよう。すなわち、

    (B)犯人は、いつ自分が犯人だと知ったか?


    だ。実はこれは(A)ほどばかげた質問ではない。語り手を疑う事は小説の決まり事を疑う事だから、それを疑う僕の方がどうかしていると言われても致し方ない。しかし、登場する人物の精神状態までがすべて「普通」であると誰が確約できるというのだろうか。

     これは『そして誰も…』でクリスティが成し遂げた功績の一つと言っても言い過ぎではないと思うが、「犯人が犯人らしくなく、犯人以外の人物がすべて怪しい」という描写を、作者はそれこそ「愚劣にならずに(クリスティ自伝)」なるようにかなり工夫している。それが「思わせぶり」の叙述トリックの効果だ。そして(B)の問いかけの究極の回答が、「多重人格(サイコ)による殺人」というアイディアである事は言うまでもない。もちろん『そして誰も…』はサイコによる連続殺人とまでは言えないが、あと一歩というところまで来ていた。エラリー・クイーンが後年、まさにこのモチーフに磨きをかけた作品を実現している。

     すでに結末まで読んだ再読者にとっては、問い(B)の答えは明らかだ。「犯人は導入部の最初から自分が犯人である事を自覚している」。もちろん、初読者がそうだと気づくような手がかりは導入部には見あたらない。当然だろう。クリスティの没後に大流行することになる「サイコミステリー」では、日常生活をふつうに営む一市民が少しずつ本性を現していく。手がかりはゆっくりとページを追うごとに与えられていくものだからだ。

     だが、書かれていない事をあれこれ詮索しても始まらない。導入部を分析する際に問い(A)(B)から僕らが考慮すべき前提は、
    ・作者は語り手や登場人物を自在に操って、読者に叙述トリックを仕掛けてくる。
    ・語り手は「犯人」を知っている。犯人をばらすような「あからさまな描写」は書かないし、犯人をばらさないように「思わせぶりな描写」をする。
    ・犯人は犯人である事を自覚している。犯人だとばれるような「あからさまな独白」はしないし、犯人だとばれないように「思わせぶりな独白」を胸にいだく。
    ・犯人以外は犯人を知らない(導入部に限っていえば、島に殺されに行く事になるとは知らない)。犯人でないとばれるような「あからさまな独白」はしないし、犯人でないとばれないように「思わせぶりな独白」を胸に抱く。
    ・島に集められた10人は大なり小なり罪を犯しているために、犯人でなくてもあたかも犯人らしくみえるような「思わせぶりな独白」を抱く。


     若島が小論で主張した叙述トリックは、3番目の箇条書き(犯人に関する前提条件)に含まれる。

     次に犯人の要件を列挙していこう。ここでは再読者(若島)の手法に則って、結末で知り得た情報を利用する。作品全体が「論理的に構築されている」という前提で犯人像を追い込んでいく。何度も言うようだが、「だから犯人を推定できる」わけではない。あくまで「つじつまがあっているか否か」の問題にすぎない。

     犯人はモリスという共犯者に、犯人以外の9人を一箇所に集める算段をまかせた。そのうえでモリスを事前に殺害しておいたことは、海で見つかった瓶の中の手記でわかっている。この犯人の手記を根拠として、以下の事が言える。

    (1)犯人は9人の名前・性別・人となり・犯した犯罪について知っている。ただし9人と面識がある必要はない(あるいは「顔の判別」ができる必要はない)。彼らを殺害する目的は「法で裁けない犯罪者」を断罪することだ。
    (2)犯人と共犯者モリスとは面識がある。知らないそぶりで会話することはできない。
    (3)手紙はモリスが書いたので、手紙の外見的特徴を犯人は知らなくてもいい。たとえば、
     - 手紙の外見(字が読みにくい)
    - U.N.オーエン=UNKNOWNというこけおどし(思いついたのは、犯人とモリスのいずれの可能性もある。)
    (4)犯人は、自分を含めた10人全員を島に誘い出す口実(手紙の差出人、仕事の依頼、旧交の再会など)について事前に知っている。
    (5)犯人は、集められる場所が「インディアン島(兵隊島)」であることを知っている。富豪が建てた邸宅の存在も知っている。必ずしも上陸したり見たりしたことがある必要はない。
    (6)オーエン夫婦が架空の存在だと知っている。


     これらの要件を満たす人物が、若島が言うとおり「ウォーグレイヴ判事」しかいないのかを見ていこう。判定記号は以下のとおりである。

     ○…犯人である
     ×…犯人ではない
     △…犯人の可能性あり(犯人でない可能性もある)
     −…判定材料がない

    [ウォーグレイヴ判事の場合]

    (1)−:他の9名と(一章では)接触なし。
    (2)−:共犯者との接触なし。
    (3)△:「発信者は”あなたのコンスタンス・カルミントン”と美しい筆蹟で署名していた」が、語り手の叙述トリックの可能性あり(「発信人」の真偽は不明)。
    (4)△:また、「自分が下した結論」が、語り手の叙述トリックの可能性あり(判事の結論とは「カルミントンが島を買い取った」ということなのか、あるいは「カルミントンを差出人としたのは正解だった」ということなのか、いずれとも考えられる。)
    (5)−:新聞記事の客観描写のみ。心理描写なし。
    (6)−:手紙の差出人はオーエンではない。

    [ヴェラ・クレイソーンの場合]
    (1)△:客車内でロンバートと向かい合わせになるが、面識の有無は不明。参加者の一人だと気づいていない可能性もあるが、「しじゅう旅行して、さまざまのおもしろい経験を持っている男にちがいない」という推定は、手持ちの情報から類推したかのようにも感じられる。
    (2)−:共犯者との接触なし。
    (3)−:文面について主観的な心理描写は一切ない。
    (4)△:「こんどの仕事が見つかったことは大きな幸運だった。」は、ヴェラの叙述トリックの可能性あり。「こんどの仕事(this job)」とは「島での殺人」を指しているかもしれない。秘書の仕事口が見つかったことを素直に喜んでいる確証はない。(また、そもそも前後を含めたこの主観描写は語り手のものである可能性も否定できない。)
    (5)△:「ちかごろ、しじゅう新聞に出ていた島だ!」というヴェラの心理描写から、必ずしも「島を知らない」とは断定できない。現に「邸宅はたしかにある富豪によって建てられた」と邸宅の存在を確信している。
    (6)−:雇い主のオーエン夫妻に関する描写なし。


    [フェリップ・ロンバート大尉の場合]

    (1)△:ヴェラと向かい合わせになる。一目見ただけで「少しばかり女教師のようなところがあるが」とか「冷たい心の持ち主であろう」と見抜くところは、洞察力に優れているか、あるいは事前に手持ちの情報があることを思わせる。
    (2)×:共犯者であるモリスとの会話あり。互いに面識がない事は確実である。
    (3)−:手紙をもらっていない代わりに、犯人の共犯であるモリスと対面している。
    (4)×:「君は私の依頼人にからだをまかせればいいのだ」というモリスの言葉から考えて、ロンバートが依頼人(犯人)だすると辻褄が合わなくなる。
    (5)△:「ボートでインディアン島にわたる」とモリスから説明されても、「インディアン島」の事を聞き返さないので、島をすでに知っている感じがする。
    (6)−:オーエン夫妻について言及がない。

    [エミリー・ブレント婦人の場合]
    (1)−:他の登場人物と接触なし。ミス・ブレントの乗っている「混みあっている三等車」は、「他の五人の乗客」しかいないヴェラのいる客車とは異なる。
    (2)−:共犯者と接触なし。
    (3)△:手紙が本物だと信じている確証はない。「字が読みにくい」といらいらしているが、読みにくい筆跡の演出は犯人の仕掛けではなく、共犯者のアイディアの可能性もある。昨年ベルヘヴンのホテルで一緒になった人々の中から差出人を「オリヴァー」と特定するようなブレントの心理描写があるが、差出人の事に思いを巡らしているという明確な描写はない。「あの婦人ーミス・オリヴァーであったと思うがー彼女について、もっと想い出せるといいのだが」という心理描写は、判事の「自分が下した結論」という言い回し同様に、差出人をミス・オリヴァーとするための辻褄が合うかどうかを気にしている「思わせぶりな表現」ともとれる。
    (4)×:「とにかく、ただの休暇を楽しめるのだ」というミス・ブレントの独白は、誘いの手紙を真に受けている。もし、犯人であれば島を買い取るのに費用がかかっているはず。そもそも連続殺人の準備費用を考えると、年金暮らしの老婦人には無理な犯行かもしれない。、
    (5)△:インディアン島のゴシップ記事はすでに読んだ事があり、いろいろと想像をめぐらしているが、島の存在を知っているか断定はできない。
    (6)−:差出人はオーエン夫妻ではない。そもそもオリヴァーとも書かれていない。

    [マッカーサー将軍の場合]
    (1)−:他の9人との接触なし(2章以降で、将軍が乗っている「エクセターで乗り換える列車」はヴェラたちの乗る列車とは別であることがわかる)。
    (2)−:共犯者との接触なし。
    (3)(4)△:手紙の文面と差出人の明確な記述はないが、おそらくオーエンが差出人で「閣下の御旧友もお見えになります。ー昔ばなしをなさるのも一興と存じ…」が文面の一部だと推測できる。「彼(将軍)はオーエンという男がどんな人物であったか、はっきり頭に浮かべることができなかった」という記述から差出人をオーエンと信じているようにもとれるが、差出人に見立てたオーエンという実在の人物の事をはっきりとは思い出せないという独白の可能性もある。
    (5)△:「インディアン島などは眼と鼻のあいだなのだ」「ところでインディアン島というところは、彼も行ってみたいと思っていたところだ」というように、インディアン島の事を招待を受ける前から知っている。
    (6)△:ほとんどの人々にとってはオーエンは架空の人物だが、マッカーサー将軍にとっては実在の人物が該当する。犯人が名前を利用したのか、あるいは将軍自身が犯人かのいずれの可能性もある。

    [アームストロング医師の場合]
    (1)−:マーストン青年のスポーツカーらしき無謀な車が、アームストロングの車を追い越すが、医師は気づいていない。もしくは語り手の叙述トリックで、マーストンとは別の自動車の可能性もある。
    (2)−:共犯者との接触なし。
    (3)△:「休暇といえるものであるかどうかは、明らかではなかった。彼が受けとった手紙では、どういうことであるのか、はっきりしたことはわからなかった。」「このオーエンという人物は金がありあまっている人間にちがいない。」は、手紙の文面に対する主観描写である。医師の主観であるならば「手紙の文面を信じている」。一方で文面から読み取った語り手の主観描写の可能性もある。
    (4)△:手紙の文面についての主観描写のあとに続く「神経!…婦人患者にはありがちのことだ!」は明らかに医師の心理描写である。依頼内容を真に受けて考えているというよりも、依頼内容に関連した神経症の女性患者一般に対する治療について考えている。
    (5)△:「デヴァンの海岸の島に…」という言いまわしが、インディアン島について「知らない」ような印象を与える。
    (6)△:(3)(4)で考察したように、オーエン氏の実在を信じているようにもみえるが、確証はない。

    [アンソニー・マーストン青年の場合]
    (1)−:「どうして、のろのろ走っている自動車が多いのだろう。…そういう連中にかぎって、道路のまん中を走っているのだ!」とは、アームストロング医師の車のことかもしれないが、確証はない。
    (2)−:共犯者との接触なし。
    (3)×:手紙の記述はないが、「…それにしても、オーエン夫婦というのは、どんな人間なのだろう。」と手紙(友人バジャーからの電報)を疑っていない。
    (4)×:「とにかく、酒だけはたっぷりと飲ませてもらいたいものだ。」「それにしても、若い娘がいるといいのだが…」という独白は、犯人だとつじつまがあわない。
    (5)△:「ゲブリエル・タールがインディアン島を買ったという話が嘘だったのは残念だ。」からインディアン島については事前に知っていた。
    (6)×:オーエン夫婦の実在を信じている。

    [ウィリアム・ブロア元警部の場合]
    (1)△:自分以外の9人の名前やプロフィールを知っている。
    (2)−:共犯者との接触なし。
    (3)−:9名の監視依頼をどのように受けたかの記述なし。
    (4)△:「わけのない仕事さ」「やりそこなうはずはない。怪しまれなければいいんだ」という独白は、探偵としての依頼を指すか、あるいは連続殺人を指すか、いずれの可能性もある。
    (5)△:インディアン島は少年時代から知っている。邸宅の存在も知っている。
    (6)−:依頼人についての記述なし。
    (7)×:ブロアのみ客車内で船乗り風の老人との会話を交わし、審判の日が近づいていると警告される。犯人であれば、まさに10人全員がいなくなるその日こそ「審判の日」にふさわしい。「自分の方が審判の日に近づいているじゃないか!」などと独白するはずがない。

    [ロジャース夫婦の場合]
    (1)〜(6)−:彼らは一章に登場しない(すでに島で執事の仕事を始めている)。

    △ウォーグレイヴ判事 (1)−(2)−(3)△(4)△(5)−(6)−
    △ヴェラ       (1)△(2)−(3)−(4)△(5)△(6)−
    ×ロンバート大尉   (1)△(2)×(3)−(4)×(5)△(6)−
    ×ミス・ブレント    (1)−(2)−(3)△(4)×(5)△(6)−
    △マッカーサー将軍  (1)−(2)−(3)△(4)△(5)△(6)△
    △アームストロング医師(1)−(2)−(3)△(4)△(5)△(6)△
    ×マーストン青年   (1)−(2)−(3)×(4)×(5)△(6)×
    ×ブロア警部     (1)△(2)−(3)−(4)△(5)△(6)−(7)×
    −ロジャーズ執事   (1)−(2)−(3)−(4)−(5)−(6)−
    −ロジャーズ夫人   (1)−(2)−(3)−(4)−(5)−(6)−


     名前の前につけた記号が総合判定結果だ。導入部の詳細な分析から「犯人でない」と明らかに言えるのは、

    ロンバート、ミス・ブレント、マーストン、ブロア


    の4名である。ロジャース夫妻は導入部に現れないので「判断できない」。「犯人の可能性がある」と判定されたのが、

    ウォーグレイヴ、ヴェラ、マッカーサー、アームストロング


    の4名であり、「犯人である」と判定された人は一人もいなかった。

     これらの判定結果から何がわかるかと言えば、「導入部では犯人は確定できない」ということだ。しかし、これでは若島の結論とは食い違ってしまう。若島は導入部のウォーグレイヴ判事の描写のみを分析し、そこに叙述トリックを見いだし、犯人だと断定した。しかし、何度も言うが、再読者・若島はあらかじめ犯人を知った上で、犯人の心理描写をあら探ししたにすぎない。手がかりが見つかって思わず有頂天になってしまったのだろう。

     これと比べて、1-2〜8の七人の心理描写は、彼らが本当にインディアン島への招待に応じて旅立ったことを保証する書き方がしてあるのだが、その検討は読者各自で行ってみていただきたい。


    と自信ありげに言い放ってしまった。一読者である僕が検討した結果が、先に見たとおりである。若島の方法論の問題点は、

     ・叙述トリックは登場人物の心理描写だけでなく、語り(地の文)にも含まれる。

    を見落としていたことだ。

     実は、当初ぼくも導入部を詳細に分析すれば、「犯人の可能性がある」のはウォーグレイヴ判事ただ一人になると考えていた。つまり、油断しまくった若島の結論と結果的には同じになるものだと思いこんでいた。それが変わった理由は3つ考えられる。

    ・若島とは違って、登場人物の心理描写だけでなく語り(地の文)についても叙述トリックの存在を仮定して検討したこと。
    ・アガサ・クリスティの原文を併用して、心理描写と客観描写との区別を逐一調べたこと。
    ・出版された新訳(青木久恵訳)だけでなく、旧訳(清水俊二訳)も併用して、翻訳家の先入観によるニュアンスを排除したこと。


     当然のことながら、若島のように語り(地の文)を無条件に信用して登場人物の心理描写だけに狙いを定めれば、導入部の分析は楽々とできるだろう。しかし客観描写に徹するはずの語り手が読者を騙そうとしているとなると、何もかもが信じられなくなる。頼りになるのは、作者クリスティが、自伝で「十人の人間が死んで、しかも愚劣にならずに、犯人も明らかではないという、実現困難なアイデア」と書いたように、「愚劣にならずに」節度を守った騙し方をしていることを信用するしかない。

     (その4)でウォーグレイヴ判事の描写を詳細に分析した際にわかったように、原文は「語り手の客観描写」「語り手の主観描写」「人物の主観描写」のつなぎ目が曖昧なままに接続されている。原文をみるかぎり、人物の主観描写が間接話法で書かれていると判断するか、語り手自身の主観描写とみなすかによって、「犯人かどうか」の判定はまったく変わってくる。

     原文でも区別が付きにくい内容を翻訳するとなると、訳者によっても解釈が変わってくる。語り手の主観か登場人物の主観かわからないように書かれているところが、訳者によっていずれかの主観に確定されるように書かれている。特に新訳では、もっぱら登場人物の主観を明確に繰り込んだ翻訳を採用している。そのために、新訳で導入部を分析すると、ほとんどの人物が「犯人ではない」と判定されてしまう。たとえば原文で「Indian Island !」と感嘆符をつけて強調されているだけなのに、新訳では「あらっ、兵隊島って…」みたいに、島を知らないかのような心理に傾いている。複数の人物に「兵隊島とやらに」などと独白させるにいたっては、もう作者の叙述トリックに引っかかりまくっていると言っていい。

     もうちょっと旧訳と新訳との解釈の違いにふれておこう。ヴェラ・クレイソーン(女教師)の描写で、「まったく、こんどの仕事が見つかったことは大きな幸運だった。…」で始まる一節は、原文をみてもヴェラ本人の心理なのか、語り手の主観なのか判別がつかないように巧みに書かれている。ところが旧訳と新訳とを比べると、旧訳では原文どおりのニュートラルな描写で、語り手・ヴェラのいずれの主観とも区別がつかない。しかし新訳では一歩踏み出して、あきらかにヴェラの主観描写と決定してしまっている。具体的に、第二章2節のヴェラ・クレイソーンに関する冒頭の描写を抜き出して、原文・旧訳・新訳の順に並べてみよう。

    [原文]
    (1)Vera Claythorne, in a third-class carriage with five other travellers in it, leaned her head back and shut her eyes.
    (2)How hot it was travelling by train today!
    (3)It would be nice to get to the sea!
    (4)Really a great piece of luck getting this job.
    (5)When you wanted a holiday post it nearly always meant looking after a swarm of children - secretarial holiday posts were much more difficult to get.
    (6)Even the agency hadn't held out much hope.

    [旧訳]
    (1)他の五人の乗客とともに三等車に乗っていたヴェラ・クレイソーンは頭をうしろにそらせて、眼を閉じた。
    (2)汽車で旅をするにはなんという暑い日であろう!
    (3)海に着いたら、どんなに気持のいいことであろう!
    (4)まったく、こんどの仕事が見つかったことは大きな幸運だった。
    (5)休暇のシーズンの仕事といえば、たいてい、大勢の子供たちの世話をすることだった。
    (5)秘書の仕事はほとんどなかった。
    (6)職業紹介所へたのんでも、ほとんど望みはなかった。

    [新訳]
    (1)他に乗客が五人いる三等車で、ヴェラ・クレイソーンはシートの背に頭をもたせかけて、目を閉じた。
    (2)今日は列車で旅行するには、いくらなんでも暑すぎる!
    (3)海に着いたら、さぞかし気持ちがいいだろう!
    (4)今度のこの仕事がもらえたのは、本当にラッキーだった。
    (5)学校休みのアルバイトといえば、大勢の子供の世話と相場がきまっている
    (6)―秘書の仕事はそうおいそれとはない。
    (7)職業紹介所の人も首を傾げていた。


     決定的なところを見ていくと、(1)の「こんどの仕事が見つかった(旧訳)」に対して「この仕事がもらえた(新訳)」、(7)の「職業訓練所へたのんでも、ほとんど望みはなかった(旧訳)」に対して「職業紹介所の人も首を傾げていた(新訳)」というように、新訳(青木久惠訳)だとヴェラの心理としか解釈できない。(1)の「本当にラッキーだった」というのも、ヴェラの若さを意識したくだけた表現だろう。旧訳の清水俊二が叙述トリックの落とし穴に気づいていたのかは正直わからないが、導入部全般の訳を見るかぎり、不用意な思い込みは避けて慎重に表現を選んだのは確かだ。一方で、新訳の青木久恵は叙述トリックのミステリーに対して油断しすぎているような感じをうける。とりあえず、旧訳と新訳の比較については、これくらいにしておこう。冒頭でも述べたが、新訳版を読んだ感想は改めて書きたい。

     ちなみに、導入部では決定できなかった犯人は、いつどこで確定できるのか?

     2章以降をここで分析するつもりはないが、先ほど「犯人の可能性あり」とした4人のうち、マッカーサー以外の3人は終盤まで生き延びる。ヴェラに至っては最後の一人(犯人は隠れている)なのだから、結局のところ、若島正がピックアップした3カ所の「登場人物の心理描写」だけでは、犯人は確定できないようだ。

     もっとも、そんな事はすでにどうでもいいことだろう。要するに、僕らはもう一度、いや何度でもアガサ・クリスティ作『そして誰もいなくなった』を読むべきだ。そして、それは若島正が主張するような「再読者として」読むべきではなく、過去の読書体験をうっすらと記憶の彼方に追いやった頃に、繰り返し新たな体験を求めるように読むべきだ。その限りにおいて、僕らは初読者として『そして誰もいなくなった』の本当のすばらしさにあらためて出会う事ができるのだ。(了)
    (2011/1/13初出、2012/3/9改訂)


      
    posted by アスラン at 21:19 | 東京 ☁ | Comment(4) | TrackBack(0) |  書評(アガサ・クリスティー) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2012年03月19日

    「明るい館の秘密(若島正)」の過失(その4)(2012/3/8改訂)

    (この記事では、アガサ・クリスティー著『そして誰もいなくなった』のネタバレを行っています。未読の方は読まないようにお願いします。)

     今回から2回にわたって、『そして誰もいなくなった』に隠された「叙述トリック」のありかとして若島正が指摘した3箇所のうち、1番目(第1章1節〜8節)を詳細に分析していく。

     若島正の小論「明るい館の秘密」では、第11章6節と第13章1節の2箇所に出てくる「誰のものとも特定されない心理描写」がクローズアップされる一方で、1番目の導入部の分析は少々軽んじられている。若島自身も次のように書いている。

     (導入部における)登場人物たち各人の意識の断片をつぶさに検討してみることは、それなりに興味深いことではあるが、本稿の目的ではない。


     若島は導入部で「犯人の心理描写」だけしか分析していないが、この姿勢にはかなり問題がある。その点は、前回つぶさに検討したので詳しくは書かない。要点のみを挙げておく。

    [若島の主張]
    ・「登場人物の心理描写」に叙述トリックが仕掛けられている。叙述トリックには、だましはあるが嘘はない。
    ・心理描写の叙述トリックを読み解けば、犯人が特定できる。


     これに対して僕の主張(反論)の要点も挙げる。
    [私の主張]
    ・作者クリスティは、語り(地の文)にも叙述トリックを仕掛けている(だましはあるが嘘はない)。
    ・犯人の叙述トリック(犯人らしくみえない)だけでなく、他の登場人物の叙述トリック(犯人らしくみえる)が存在する。
    ・心理描写のみを読み解いても、初読者が犯人を特定することはできない。


     若島が小論「明るい館の秘密」でやってみせた事を僕なりに評価すれば、

     結末まで読んだ上で再読すれば、「犯人やトリックの痕跡」および「作者の巧みな語り口」が見てとれる。

    という事ぐらいだろう。もちろん、これはこれで興味深い事実だ。作品の読みが深まれば深まるほど作品への愛着が増してゆくのであれば、一般の読者にとっても再読は有益な方法だ。僕もそうやって、大好きなエラリー・クイーンの作品を味わいながら再読している。

     だが、僕は安易に「叙述トリックを読み解けば犯人がわかる」とは考えない。すでに犯人を知っている再読者が、犯人の心理描写になんらかの叙述トリックを見いだしても何の不思議もない。それよりも犯人を知らない初読者が、すべての登場人物の心理描写から「犯人を特定できる」か否かが問われなければならない。単純に言い切ってしまえば、

     叙述トリックが犯人の心理描写に仕込まれていると、どうやったら(再読者ではなく)初読者にわかるのだろうか?

    について、真剣に検討する事が要求される。

     再読者は、二度と初読者に戻ることはできない。もちろん時間が経って読んだ記憶が失われるという、愛読者にとってラッキーな場合もあり得なくもないが、『そして誰も…』ではまず起こり得ない。それほど忘れがたいトリックと結末だからだ。

     再読者は、結末から遡ってすべてを論証しようとする。文学作品の読み直しには有効な再読という手法も、ミステリーに限って言えば因果関係を見失って誤った結論を導き出す危険性をたえずはらんでいる。

     そこで、若島のように「登場人物の心理描写、とりわけ犯人の心理描写を分析する事だけが重要だ」と考えるのではなく、「すべての登場人物のすべての描写(語りを含む)を分析する事が重要だ」と僕は考える。なんだ、当たり前ではないか、などと言ってはいけない。このことを禁じたのが(あるいは必要ないと言ったのが)、だれあろう若島だったからだ。

     以上の点を踏まえた上で、アガサ・クリスティ作『そして誰もいなくなった』(原題「And THEN There WERE NONE」)の導入部(第1章1節〜8節)を見ていこう。都合のいい事に、「明るい館の秘密」では原文と若島自らの試訳とを対照している。こちらも、そこから分析を始めよう。

     ちょうどハヤカワ・ミステリ文庫(クリスティ文庫)から新訳が出版されたばかりなので、以後、原文と若島試訳、旧訳、新訳の4通りの文章を併記することにする。出典は以下の通りである。

    (原文)「And THEN There WERE NONE」(おそらくは1940年の米国出版)
    (若島試訳) 「明るい館の秘密」(若島正『乱視読者の帰還』所収)より引用
    (旧訳)「そして誰もいなくなった」(ハヤカワ・ポケットミステリ,1975年,清水俊二訳)
    (新訳)「そして誰もいなくなった」(クリスティ文庫,2010年,青木久惠訳)


     前もって言及しておくと、若島試訳と旧訳は原文の直接の翻訳であるが、新訳だけはクリスティの死後に一部重要な表現が改変された版を元に翻訳されている。作者の死後に手直しされた部分とは「インディアン」に関する記述だ。インディアンとは、コロンブスの新大陸発見以来、誤解に基づいた表現であるにも関わらず、一貫して使われ続けてきた。しかし近年の「政治的に正しい」事を文学作品自体に求める動きが流行した結果、政治的に正しい『そして誰も…』改訂版が現れた。

     『そして誰も…』では舞台がインディアン島であるだけでなく、マザーグースの童謡「十人のインディアン」の詞どおりに殺人が実行される。元々の童謡は「十人のインディアン」ではなく「十人の黒人少年」だったのだが、イギリスでは問題のなかったニガーという俗称が米国では認められなかったので、ニガーをインディアンに手直しする事を作者自身が許していた。そういった前例があるから、作者の死後であってもインディアンを兵隊に入れ替える事に遺族も抵抗は少なかったのかもしれない。

     そういう事情から「十人のインディアン」は「十人の兵隊」に、「インディアン島」は「兵隊島」に置き換えられた。旧訳を読んだときの印象を大事にする人にとっては違和感のある変更ではあるが、僕が気になったのは朗読する際の語感だ。「インディアントウ」だった舞台が、突然「ヘイタイジマ」に変わってしまった。なにやら横溝正史のおどろおどろしさを伴ってイギリスの海から瀬戸内へと移動してしまったかのようだ。

     余談はさておき、導入部の分析に取りかかる。

    [第一章1節 ウォーグレイヴ判事]
     作品の冒頭を飾るのは、最近引退したばかりのウォーグレイヴ元判事の描写だ。インディアン島(兵隊島)へ向かう一等車の中で、今回の旅のきっかけとなった手紙を取り出して、物思いにふけるシーンから始まる。今回ピックアップするのは、文頭から2番目のパラフレーズから1節の最後までだ。その部分を以下の11箇所にあらかじめ分類してナンバリングしておく。

    [原文]
    (1)From his pocket Mr. Justice Wargrave drew out a letter.
    (2) The handwriting was practically illegible but words here and there stood out with unexpected clarity.

    [旧訳]
    (1)ウォーグレイヴ判事はポケットから一通の手紙を取りだした。
    (2)ほとんど文字の判別がつかぬ筆跡だったが、ところどころに、思いがけないほどはっきりわかる文句があった。

    [若島訳]
    (1)ウォーグレイヴ判事はポケットから一通の手紙を取り出した。
    (2)ほとんど判別できない筆跡だったが、ところどころに、思いがけないほどはっきりわかる文句があった。

    [新訳]
    (1)ウォーグレイヴ判事はポケットから手紙を一通取りだした。
    (2)手書きの文字はひどく読みにくかった。だが、ところどころ、いやにはっきり読みとれるところがある。


     (1)(2)は、著者が言うところの「全能の話者による三人称の語り」である。3者の訳をざっとみる限り、違いはほとんどない。いや、一言で言って若島訳は旧訳をなぞっただけだ。簡単な文章だから誰でも同じような訳になる、というわけではないことは新訳を見てもらえば一目瞭然だろう。若島は自らの試訳を用いる理由を次のように述べている。

    なお、叙述トリックは文章技巧に関わる微妙な問題だけに、後に述べるように翻訳で読むと落とし穴にはまる危険性があり、ここから先は原文とその試訳を並べて掲げる。


     「ならば、最初から自前で翻訳しろよ!」と清水氏になりかわって声を荒げたいところだ。手抜きというだけでなく、旧訳者に礼を失するふるまいだろう。「いや、ちゃんと自前で翻訳している」と言い訳したりできないように、この後で証拠をお見せしよう。

     分析を進める。(1)は、どうみても客観描写なので問題ない。(2)もそう見えるが、少し「微妙な問題」をかかえている。「(手書きの)文字の判別がつかない」とか「思いがけないほどはっきりわかる」のように判断しているのは誰だろうか。原文をみれば、あきらかに地の文なので、語り手の客観的判断ということになるが、 「わかりにくい、わかりやすい」というのは、一個人の主観をともなわないと表現できない。とくに「思いがけないほど」というところに、判断する者の「主観」が色濃くにじみでている。だからこれは「判事の心理」ではないかという「思わせぶり」が語りの中に込められていることになる。

    [原文]
    (3)Dearest Lawrence... such years since I heard anything of you... must come to Indian Island... the most enchanting place...so much to talk over... old days... communion with Nature... bask in sunshine... 12:40 from Paddington... meet you at Oakbridge...

    [旧訳]
    (3)おなつかしきローレンスさま…あなたの消息を聞かなくなってから、永年…ぜひインディアン島へ…ひじょうに美しいところで…お話したいことがたまって…懐かしいむかしのことを…自然に親しみ…日光を浴び…パディントン二時四十分…オークブリッジでお待ちして…

    [若島訳]
    (3)親愛なるローレンス様…長いあいだご無沙汰して…ぜひインディアン島へお越しいただきたく…魅惑の島…つもる話が…懐かしい日々を…自然との交わり…日光を浴び…パディントン二時四十分…オークブリッジでお待ちして…

    [新訳]
    (3)”ローレンスさま…あなたさまのお噂を、最後に耳にしたのはいつのこと…ぜひとも兵隊島においで…こんなすばらしい所は、ほかには…積もる話が、たんと…なつかしいあの頃…自然に囲まれて…日光浴…ロンドンのパディントン駅二時四十分発…オークブリッジで、お目にかかり…”


     (3)は手紙の文面だが、全文は引用されず断片だけで構成されている。これは、話者であり差出人であるはずのレディ・カルミントンの言葉尻をとられないようにと考えた語り手(あるいは作者の)戦略ともとれるし、(2)で描写されているとおりに「読める文字」を拾い読みした結果ともとれる。しかし、もっとも説得力があるのは、得体のしれない手紙であることを読者に強調してサスペンスを盛り上げようとする「作者の演出」というとらえ方だろう。

     3者の訳の差はあまりないのだが、若島訳は文脈に依存した意訳をことさらに回避して直訳を採用する。「親愛なるローレンス様」「魅惑の島」「自然との交わり」などは、書かれているフレーズだけで辞書引きして訳語をあてたかのような直訳調だ。他の訳者は手紙の文面としてきちんとつながるように工夫しながら意訳している。例の13章1節の「心理描写」において旧訳と訳者とを糾弾した経緯があるから、ここで下手に訳すと原文に仕組まれた叙述トリックをとりこぼすかもしれないと考えての事だろうが、誤訳糾弾の先鋒による訳としてはいささか工夫が足りない。

    [原文]
    (4)and his correspondent signed herself with a flourish his ever Constance Culmington.

    [旧訳]
    (4)そして発信者は「あなたのコンスタンス・カルミントン」と美しい筆跡で署名していた。

    [若島訳]
    (4)そして差出人は”あなたのコンスタンス・カルミントン”と美しい筆跡で署名していた。

    [新訳]
    (4)そして最後に、きどった飾り文字で”コンスタンス・カルミントン”と書名があった。


     再び、語り(地の文)だ。「 with a flourish」の訳に食い違いが目立つが、それはひとまずおいて、注目すべきは「差出人(発信人)は…署名していた」という語りだ。これは見事な叙述トリックと言っていい。「カルミントンが」とは書かれていない。もちろん手紙の真偽は、この時点では不明なのだが、少なくとも「あけすけに」真実を書けないために、語り手は「思わせぶりな」叙述をしている。ところが新訳では、意訳によって叙述トリックの痕跡があっけなく消えてしまっている。

     だからと言って、新訳の青木久惠さんを糾弾するつもりは僕にはない。この程度の翻訳の工夫で「あっけなく」消えてしまうのが、叙述トリックの特徴だ。それは「言い回し(レトリック)」に仕掛けがあるからだ。翻訳で読む読者に原文のレトリックが伝わるように訳す事が翻訳家の使命である以上、これは致し方ない。どうしても消させないためには、翻訳家と、若島のような再読者(分析者)との協力が必要だ。ただし、この箇所の叙述トリックは若島の小論でも指摘されていないので見逃されている可能性がある。

    [原文]
    (5)Mr. Justice Wargrave cast back in his mind to remember when exactly he had last seen Lady Constance Culmington.
    (6)It must be seven - no, eight years ago.
    (7)She had then been going to Italy to bask in the sun and be at one with Nature and the contadini.
    (8)Later, he had heard, she had proceeded to Syria where she proposed to bask in yet stronger sun and live at one with Nature and the bedouin.

    [旧訳]
    (5)ウォーグレイヴ判事は、レディ・コンスタンス・カルミントンに最後に会ったのはいつだったであろう、と回想した。
    (6)七年ーいや、八年もむかしのことだ。
    (7)そのとき、彼女は日光を浴び、自然と農民とに親しむためにイタリアへ旅行しようとしているところだった。
    (8)その後、彼女はさらに強い日光を浴び、自然と遊牧の旅とに親しむために、シリアへ行ったということだった。

    [若島訳]
    (5)レディ・コンスタンス・カルミントンに最後に会ったのはいったいいつのことだったか、とウォーグレイヴ判事は回想した。
    (6)きっと七年ーいや、八年前だ。
    (7)当時彼女は日光を浴び、自然や農民と交わるために、イタリアへ旅行しようとしているところだった。
    (8)その後、聞くところでは、さらに強い日光を浴び、自然や遊牧民と交わるために、シリアまで足をのばしたらしい。

    [新訳]
    (5)レディ・コンスタンス・カルミントンに最後に会ったのは、いったいいつだったろう。ウォーグレイヴ判事は思いだそうとした。
    (6)あれは七年前ーいや、八年前だったか。
    (7)あのとき婦人はイタリアに出かけるところだった。自然と農民に囲まれて、日光浴をするのだと言ってー
    (8)そのあと、はるばるシリアまで足をのばしたという噂が耳に入ってきた。自然と遊牧の民ベドウィン族に囲まれて、さらに強い太陽を浴びるためにー。


     (5)〜(8)は、一言で言えば、すべて判事の心理描写だ。しかし、ここは原文をみながらでないと、語り手が非常にあやうい綱渡りをしていることに気づきにくい。いわゆる間接話法と直接話法とがシームレスにつなげられているからだ。

     まず(5)では「…と回想した(思いだそうとした)」と書かれているので「レディ・コンスタンス・カルミントンに最後に会ったのは…」の部分が判事の心理であることを疑う理由はない。つぎの(6)は話者の主観がにじむ「no,eight years」というフレーズで、判事の心理だとわかる。

     (7)は、それだけでは間接話法か(判事の回想か)、客観描写(話者の語りか)の区別がつかない。しかし(7)と(8)が対の表現になっていることに注目すると、(8)が「聞いたところによると」というフレーズが挿入されていることから、(7)(8)いずれも判事の心理描写になる。

     このように引用符もなくイタリック体でもなく、間接話法の目印さえもない書き方をするっと忍び込ませることで、作者は僕らを罠へと誘う。まんまとひっかかったのは、誰あろう著者自身だ。

     (5)〜(8)には、ひっかけめいた叙述は目立たないが、次の出番をまっている判事の心理に説得力を持たせる「呼び水」の役割を果たしている。

    [原文]
    (9)Constance Culmington, he reflected to himself, was exactly the sort of woman who would buy an island and surround herself with mystery!

    [旧訳]
    (9)たしかに、コンスタンス・カルミントンは島を買いとって謎の生活を送ろうとするような女だった。

    [若島訳]
    (9)コンスタンス・カルミントンは、いかにも島を買いとって、謎に包まれるのを喜びそうな女だ。

    [新訳]
    (9)判事は思った。コンスタンス・カルミントンこそ、いかにも沖合いの島を買いとって謎めいた噂に包まれそうな女性ではないか!


     (9)が判事の心理であることは原文をみればあきらかだ。「he reflected to himself」という挿入句の存在が間接話法であることを明示している。それだけでなく文末に感嘆符がつくことからも、一般的にいって語り手が主観を込めて描写しているとは信じがたい。以後、登場人物の心理を示す感嘆符は多用されるので、話者と登場人物とのいずれの主観なのかを判別する目印として、あてにできるかを注目していきたい。

     ところで、これまでの訳文を比較する限り、若島訳は自分に都合がいいように清水訳から「いいとこ取り」しているにすぎない。それがもっともわかるのが、この(9)だ。3者の訳の中で新訳のみが「判事は思った」という間接話法の目印をきちんと訳しているが、若島訳は旧訳にならって省いてしまった。少なくとも叙述トリックの罠を知り抜いているはずの「乱視読者」ならば、まっさきに訳さねばならない箇所だろう。目印を落とす事で判事の心理なのか語りの陳述なのかの区別が訳文からはつきにくくなってしまった。

    [原文]
    (10)Nodding his head in gentle approval of his logic, Mr. Justice
    Wargrave allowed his head to nod...
    (11)He slept...

    [旧訳]
    (10)ウォーグレイヴ判事は自分が下した結論にみずからうなずきながら頭をうなだれた…
    (11)彼は眠りはじめた…

    [若島訳]
    (10)自分の論理に満足そうにうなずいて、ウォーグレイヴ判事はそのまま頭をうなだれた…。
    (11)彼は眠りはじめた…

    [新訳]
    (10)自分の出した結論に満足した判事は、こっくりうなずいた、そして、うなずいたままうなだれて…
    (11)判事は眠っていた…


     若島訳がいつになく自己主張しているのは、ここに若島がねらいをつけた重要な記述があるからだ。(5)〜(9)の判事の回想で、コンスタンス・カルミントンが旅行好きで、強い日差しを浴びながら自然や農民に囲まれて過ごすことをなによりも好む人間だということを判事は思いだしている。そこで結論として「(カルミントンは)島を買いとって暮らしていそうだ」と納得する場面だ。いや、ふつうはそう解釈できる。

     ところがここはそうみえるだけで、実はレディ・カルミントンが「島を買いとりそうな女性」なので、「(偽の)手紙の差出人としてうってつけである」と考えた事に判事自身が満足する場面だとも解釈できる。まさに叙述トリックだ。その点を指摘した著者は得意満面な口調で、

    ウォーグレイヴ判事が「自分の論理に満足そうにうなずい」たのは実はそうした理由だったのである。


    と書いている。旧訳の「自分が下した結論」という言い方が気に入らず、わざわざ「自分の論理」という訳に置き換えたのも、若島が見つけた虎の子の叙述トリックを台無しにしてほしくないからだ。しかし、直訳調の訳でなければ叙述トリックが見えにくいと考えるのは若島の邪推ではないだろうか。旧訳も新訳もそろって「自分が下した(出した)結論」と訳しているが、翻訳としては若島の訳より分かりやすい。それだけではない。「自分が下した結論」の方が「自分の論理」よりも叙述トリックらしく思わせぶりが利いている。

     そもそも「結論」とすると判事が犯人である可能性がなくなり、「論理」とすると可能性が出てくるという若島の”論理”(あるいは”結論”)は承認しがたい。いみじくも若島が指摘してみせたように、この箇所では「レディ・カルミントンが島を買い取りそうな女性」であった過去の印象から、判事は「手紙の差出人は彼女に違いない」と結論づけたかもしれないし、あるいは「手紙の差出人として彼女を選んだのは正しかった」と結論づけたのかもしれない。読者はいずれとも受け取れるからこそ、叙述トリックが成立している。だが若島訳の「自分の論理」という表現では、そもそもが何を指し示しているのかが分かりにくいため、叙述トリックが成立しにくくなっているように僕には感じられる。

     だが、翻訳家・若島正をいつまでも糾弾すべきではない。なによりもまっさきに指摘しなければならないのは再読者・若島正の誤謬だ。それは、(10)が「判事の心理描写」ではないという一点だ。ここは誰がみても「全能の話者による三人称の語り」に間違いない。つまり「自分が下した結論」であろうが「自分の論理」であろうが、いずれの訳を採用しようとも、このような思わせぶりな表現を選択したのは語り手自身だ。

     一方で、この箇所の叙述トリックは「明るい館の秘密」の著者が自らの主張を裏付けるために、わざわざ作品の導入部から採り上げてみせた実例だったはずだ。その主張というのが「登場人物の心理描写に叙述トリックが隠されている」というものだった事はすでに説明した。しかし若島は、分析する際にはもう心理描写なのか地の文なのかの区別を忘れている。実例にそもそも若島の勘違いがあるようでは、何を証明しようとしていたのかわからなくなってしまう。

     ここでもう一度、(1)〜(11)までの分析結果をまとめる。○△×は叙述トリックの有無を検証した結果(×は無し、△は有るか無いかは微妙、○は有り)を示している。

    (1)語り        ×
    (2)語り        △(筆跡の読みづらさを感じているのは「判事or語り手」)
    (3)手紙文面(差出人の会話に相当)      ×
    (4)語り        ○(手紙を書いた人物名をあかさない)
    (5)判事の心理(+語り)  ×
    (6)判事の心理     ×
    (7)判事の心理     ×
    (8)判事の心理(+語り)  ×
    (9)判事の心理(+語り)  △((10)の「結論(論理)」の解釈をアシストする心理)
    (10)語り        ○(「結論(論理)」が二つの意味にとれる)
    (11)語り        ×

     すぐにわかる事は、主として「語り」の部分に叙述トリックが仕掛けられているということだ。著者の主張に合致するのは、たかだか(9)一箇所だが、ここは直後の(10)の語りを手助けする“アシスト”にすぎない。

     また、(1)〜(11)を通して眺めると、

    語り→差出人(会話)→語り→判事の心理(間接話法)→判事の心理→判事の心理(間接話法)→語り


    のように見事な手際で「語りと心理のつなぎ目」が消されている。著者が(10)を「心理描写」とみなしてしまったのも、一概に責められない。それほど作者クリスティの叙述トリックは周到で巧妙なのだ。では、ここで作者に登場してもらって『そして誰もいなくなった』の核心について語ってもらおう。筆者・若島も小論の中で引用している文章だ。

     わたしが『そして誰もいなくなった』を書いたのは、十人の人間が死んで、しかも愚劣にならずに、犯人も明らかではないという、実現困難なアイデアに魅了されたからだった。書く前にはかなり綿密な計画を立てたし、その出来上りには満足している。簡明直裁で、不思議な事件だが、まったく合理的な解決が与えられる。実は、その解決をつけるためにはエピローグが必要だった。この作品は好評で迎えられたが、いちばん満足しているのはこのわたしである。なぜなら、わたしはどの批評家よりも、これがどれほど実現困難かを知っているのだから。(アガサ・クリスティ『自伝』)


     クリスティがここで触れている『そして誰もいなくなった』の「実現困難」な部分とはなにをさすのか?若島は、「十人の人間が死んで犯人も明らかでない」というトリックの事ではなく、叙述トリックにあるとみた。これはある意味では正しい。なぜならば、犯人が実は最後まで死んでいないというトリックについては、誰を犯人とするかは作者の裁量にまかされているからだ。結末での告白の書き方で、いかようになりそうだ。

     だからこそ「愚劣にならずに」という点に作者の苦労があったはずだ。その苦労こそが、さまざまな箇所に仕組まれた叙述トリックである事は間違いない。

     だが若島は叙述トリックの使い道を「登場人物の心理描写」に限定してしまった。三人称の語りをさっさと視野からのぞいた挙げ句に、著者は次のように断定する。

    しかし、クリスティーの独創性は、そこに登場人物たちすべての心理描写を直接に書き込んだところにあった。彼らの心理描写は、会話と違って、嘘をつくことができない。普通に考えれば、犯人の心理が明るみに出されると、そこでその人物が犯人だとばれてしまうはずである。クリスティーは、犯人の心理もさらけだしながら、しかもそれでいて容易に犯人だと見破れないという、一見不可能に思える叙述トリックを狙ったのだ。


     著者の主張に反して、クリスティの叙述トリックの巧妙さは、語り(地の文)を含めた全体の構成をつかまないと理解できない。若島はクリスティの「実現困難」なトリックの核心に近づく読みの冴えをみせておきながら、さらに奥にかくされたトリックの森へと足を踏み入れそこなったのだ。

     ところで、ここまでの読み方は「再読者」としての解釈だ。改めて(1)〜(11)の分析一覧表を見てほしい。今度は「初読者」として叙述トリックをみたとき、「判事が犯人である」という根拠になるものが存在するだろうか?

     (2)の「筆跡の読みづらさ」を感じているのが判事ならば、読者は逆に「犯人ではない」という印象を受けるだろう。手紙が共犯者(モリス)によって書かれた可能性は、この時点での初読者には想像できない。

     (4)は語りである以上は「差出人」と書いても不自然ではない。そもそもが『そして誰も…』では、謎の手紙という印象を受けるように描写されるので、「差出人」という書き方は「レディ・カルミントンの書いた手紙」だと語り手自身も信じていないことを暗にほのめかした表現になっている。つまり、初読者は「差出人」という記述を、サスペンスの演出として受け止めるだろう。

     (9)は、犯人であろうとなかろうと、判事がカルミントンに対していだいた印象にすぎない。どちらかといえば、判事が手紙の内容を鵜呑みにしているという印象を読者に与えそうだ。

     (10)の「結論(論理)」は再読者にとっては再重要キーワードだろうが、初読者は見抜けるだろうか。語りの客観性を信じる読者ならば、見落とす可能性が高い。たとえ見抜いたにしても、たかだか犯人である「可能性」を示すにすぎない。

     結論を言うと、

     判事は「犯人である」可能性は残るが、確定的な根拠はない。

    ということになる。判事を犯人扱いするためには、引き続き他の登場人物の導入部での描写を分析する必要がある。

      
    (2010/12/18初出,2012/3/8改訂)
    posted by アスラン at 12:50 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) |  書評(アガサ・クリスティー) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2012年03月13日

    「明るい館の秘密(若島正)」の過失(その3)(2012/2/27改訂)

    (この記事では、アガサ・クリスティー著『そして誰もいなくなった』と『アクロイド殺し』のネタバレを行っています。未読の方は読まないようにお願いします。)

     前回は『そして誰もいなくなった』の第11章6節と第13章1節に出てくる「誰のものとも特定されない心理描写」に関する若島正の分析の是非を詳しく検討した。引き続き若島が取り上げた3箇所の心理描写のうち、導入部(第1章1節〜8節)の分析についても同じように詳しく検討する。

     しかしその前に1回分を費やして、若島の主張する「叙述トリック」についておさらいしておこうと思う。これまで僕ら読者は、若島から教えられた「叙述トリック」の仕組みを鵜呑みにし、指摘された場面で提示された実例に従ってレクチャーを受けるだけだった。だが、いつまでも受け身でいるわけにはいかない。これから僕が問題にしようとしているのは、若島の思い描く「叙述トリック」そのものの信憑性なのだ。

     『そして誰も…』で本当に評価すべきは、犯罪(犯人)のトリックではなく作者の叙述トリックにあると若島は言う。その叙述トリックは、ふつうの意味の叙述トリックとはかなり違っていて、「登場人物たちすべての心理描写に嘘が書かれていない」という点にあるらしい。これのどこが普通の叙述トリックと違っていて、どのようにすごい事なのかを説明するために、若島は同じ作者の『アクロイド殺し』という作品を持ち出す。

     『アクロイド殺し』は、ミステリファンにはおなじみの「語り手(医師)イコール犯人」という究極の「叙述トリック」を使った問題作だ。ポイントは「犯人による一人称の語り」にある。語り手が犯人ならば、嘘をついている可能性を排除できない。アンフェアと言われても致し方ない。ところが『そして誰も…』はそれとはずいぶん違っているとして、若島は次のように説明する。

    しかし、『そして誰もいなくなった』の場合は、まったく事情が異なっている。つまり『アクロイド殺し』の一人称に対して、『そして誰もいなくなった』はいわゆる全能の話者による三人称の語りなのだ。三人称の語りにおける地の文は、読者が真実として受け取らなければしかたがない(これはクリスティが自らに課していた条件でもある)。鵜呑みにできないのは、登場人物たちの会話である。しかし、クリスティの独創性は、そこに登場人物たちすべての心理を直接に書き込んだところにあった。


     若島の主張を、順を追って要点のみ列挙してみよう。

    (1)『アクロイド殺し』は一人称の語りだ。

    (2)『そして誰もいなくなった』は、全能の話者による三人称の語りだ。
    (三人称の語りは真実しか書かれていない。クリスティも自らに課している。)

    (3)登場人物の会話は信用できない(嘘をついているかもしれない)

    (4)登場人物の心理描写には嘘はない。
     (ただし、「誤読を誘う書き方」(叙述トリック)が仕組まれている。)


     若島の主張の核心はもちろん(4)だ。ここでぜひとも注目したいのは、誤読を誘うような書き方(叙述トリック)自体を若島は嘘だとは考えていないという点だ。では、若島はどのようなものを「叙述トリック」として想定し、同時に「嘘ではない(フェアである)」と認定しているのだろうか。大まかに言って、次のような二大原則が考えられる。

    ・一見すると「犯人ではない」と読者に思わせる心理描写(「思わせぶりの心理」)を書いてよい。
    ・犯人だとすぐに読者が見破ってしまうような心理描写(「あけすけな心理」)を書かなくてよい。


     このような描写には「だましはあるが嘘はない」というのが、(4)において著者・若島正が考える「真実」の意味である。

     それでは、遡って(2)の「全能の話者による三人称の語り」について考えてみよう。若島は『アクロイド殺し』における「一人称の語り」と違って、『そして誰も…』における「全能の話者による三人称の語り」は、真実と受け取らなければしかたないと言っている。要するに鵜呑みにしていいと考える。しかしそうすると、(2)における「真実」は(4)における「真実」とはずいぶん違った意味で使われている事になる。

     もし(4)で「心理描写」に叙述トリックを持ち込む事が真実であってアンフェアではないのだとすると、(2)の「語り(客観描写)」に叙述トリックが仕組まれたとしても、若島の立場からすればアンフェアだとは言えないのではないだろうか。そうなると、若島が易々と信じている「地の文」の真実を、本当にクリスティが遵守しているのかも疑わしい事になる。

     事実、『そして誰も…』では、登場人物の心理描写に限定されることなく、全能の話者が語る地の文の至るところに「叙述トリック」が仕組まれている。これについては若島の導入部に対する分析を検討する際に明らかにできるだろう。

     では何故に、若島は「叙述トリック」の分析を登場人物の心理描写だけに限定してみせたのだろう。もちろん「全能の話者による三人称の語り」を小説に採用する際の約束事を無条件で信じたからだろう。それはいわば”小説の作法”と言ったもので、文学作品をテクストとして読み解いていく評論家としての立場からすれば当然の姿勢なのかもしれない。

     それとは別に、若島が自身の独創的なアイディアを際だたせる必要に駆られたという事もあったはずだ。地の文には〈真実〉が書かれているとしても、心理描写という境界では「叙述トリック」という形式で犯人の手がかりが露わになっていると信じた上で、そこだけにしか手がかりはないと読者に思い込ませようとした。

     そこまでならばミステリーファンをも唸らせる見事な発見だと賞賛されるところだが、若島は心理描写だけを分析すれば誰でも次の事を明らかにできると口がすべってしまった。

    (a)(初読者であっても)叙述トリックの手口が理解できる(だましはあるが嘘はない)
    (b)犯人を特定できる。


     (a)(b)の主張に根拠がない事は前回までに証明した。「登場人物の心理描写における叙述トリック」という若島のアイディアにみどころがあるとしたら、400頁近くある長編の中に心理描写は限られていて、簡単に検証できるという点だろう。この部分に「思わせぶりの心理」が仕込まれている可能性は高いとふんだわけだ。

     だが、言ってよければ作者クリスティは「語り手や登場人物」と結託して、三者一丸となって読者をだましにかかっている。さきほど列挙した要点の(2)と(4)での「真実」を使い分ける分別など、ミステリーの女王には無用というわけだ。だとすると、若島のように「心理描写」だけにこだわる視点では、クリスティの仕掛けた「叙述トリック」のほんの一部しか見ていない事になる。僕らは若島の主張を鵜呑みにせず、地の文(語り)を含めた視野を回復しなければならない。

     具体的には、犯人以外の登場人物の心理描写も、地の文(語り)さえも、「叙述トリック」の分析対象とするしかない。若島のように『そして誰も…』の導入部で犯人の心理描写だけを分析するのでは不十分であり、二重、三重の過ちを犯している可能性がある。

     (その2)で詳しく見てきたように、「思わせぶりの心理」を完全に読み解くことができるのは再読者しかいない。しかるに若島は、初読者が場面ごとに「思わせぶりの心理」を読み解く根拠がどの程度存在するかを示していない。しかも、問題はそれだけでは済まない。犯人以外の登場人物も、犯人とは逆の意味で「思わせぶりな心理」を抱いているかもしれないのだ。叙述トリックの奥深さはここにもある。犯人でない人物が犯人らしくみえる「思わせぶり」もまた、初読者を惑わすからだ。となると「叙述トリック」の分析では、犯人らしくみえて実は犯人ではない事を読み解く根拠がどの程度存在するかも検証していかねばならない。その上に、語り(地の文)の叙述トリックも待ちかまえている。

     ずいぶんと入り組んできたので図式化しておこう。

    ・犯人は「犯人でない」かのように振る舞い、「犯人でない」かのような心理を抱く。
    ・犯人以外の人物は「犯人である」かのように振る舞い、「犯人である」かのような心理をいだく。
    ・語り手は真実を客観的に述べるが、時に「客観的にみえる」ような描写をする。


    さらには、

    ・作者は、犯人に「あけすけな心理」を抱かないようにできるし、登場人物全員に「思わせぶりな心理」を抱くようにできる。


     こうまでも周到に仕掛けられた叙述トリックを初読者が見破れるわけがない。叙述トリックに感嘆するのであれば、ここまで言うべきだろう。若島が「叙述トリック」を見る視野はせまい。そのせまさのせいで、犯人も犯行もすべて知った上で「(初読者にも)犯人が推定できる」という結論に飛びついたのはあまりに迂闊だった。迂闊さを呼び込んだ根本には、若島が得意とする「再読」という手法の危うさが潜んでいる。

     再読者は、おそらく一度は初読者として小説を読み通してから、遡ってトリックの痕跡を洗いざらい白日の下にさらす。その上で再びスタート地点に立って読みだした時には、作者が用意したトラップ(罠)に引っかかる事なく、一直線に犯人の言動や行動だけに注目できる。だからと言って、初読の時から作者のトリックをすべて見抜いていたと主張できるわけではない。なのに自分以外の読者には何故か「叙述トリックが見抜ける、犯人が特定できる」などと理屈に合わない事を一貫して主張してしまう。

     ところで、ここまで若島の主張にどっぶりとつきあってみると、とても変な気分がしてきた。なぜか居心地が悪い。実は若島正も僕ら読者も、作者アガサ・クリスティの恐るべき罠にまんまとしてやられたのではないだろうか。何のことかと言えば『アクロイド殺し』の事だ。

     クリスティ作『アクロイド殺し』では、田舎町の医師ジェイムズ・シェパードによる一人称の語りで事件の一部始終が語られる。その中には、医師から見た客観描写もあれば、医師自身の心理描写もある。言ってみれば『アクロイド殺し』という作品は、徹頭徹尾シェパード医師の主観から成り立っている文章だという事になる。こういう文章を僕たちは「独白」と言ったり、「手記」と言ったりする。

     客観的な描写と言っても、医師自身によって書くことと書かないことの選別が行われている以上、「語り手イコール犯人」だとあかされた時点でアンフェア論争がまきおこるのは必然だった。その根拠は簡単に言うと次のように説明できる。

    ・語り手が犯人ならば、嘘をつくのも簡単だ。嘘は書かれていないとしても、思わせぶりな表現で読者をだましている。
    ・犯人ならば当然書くべきこと(人を殺して血をぬぐって…など)を書かないですます事も簡単だ。


     こういってクリスティは一部の評論家やミステリーマニアから袋叩きにあったのではなかったか。しかし、実際に『アクロイド殺し』の文章を分析してみればわかるように、どこをどう叩かれようともクリスティは嘘は書いていなかった。語り手自身が自らを犯人でないかのように、言い換えれば読者の「誤読をさそう」ように、書き方を工夫したにすぎない。

     この『アクロイド殺し』におけるクリスティの手際は、『そして誰も…』で登場人物の心理描写に用いた手法となんら変わるところがないように思われる。つまり『アクロイド殺し』の全文が「一人称の語り」ではなく、シェパード医師の主観描写あるいは心理描写だと見なしたとしても同じ事だ。前述した若島の主張の要点(1)と要点(4)を比較してみればいい。クリスティは『アクロイド殺し』で一人称の語りを採用したからといって、でたらめを書いたわけではない。「語り手イコール犯人」という綱渡りをするからには、できるだけ真実に添うようにシェパード医師に語らせたに違いない。と同時に作者は、シェパード医師に主観的な陳述に関しては思わせぶりに描くことを許し、肝心な場面(夫人が殺される当日の描写など)では、容易に肝心な事は書かせなかった。それでも若島は『アクロイド殺し』の一人称はアウト(アンフェア)だが、『そして誰も…』の犯人の心理はセーフ(フェア)だと言っている。これは奇妙な事ではないだろうか。

     実は『そして誰も…』における心理描写の「セーフ(フェア)」を保証しているのは、「全能の話者による三人称の語り」の信頼性そのものなのだ。この話者が責任をもって客観描写を行うと信じられるからこそ、登場人物の心理描写でさえも客観性が保たれている。言い換えれば「嘘がない」ことが保証される。一方、『アクロイド殺し』では一人称の話者そのものに信頼が置けないので「嘘をつかない」事がどうしても保証されないと見なされる。だからこそ『アクロイド殺し』アンフェア説は今なお消える事がない。

     話者の人称の違いに着目した若島は、次のように書いている。

     その読み終わってからの疑問とは何か? それはすでに述べたように、登場人物全員の心理が明かされていたにもかかわらず、なぜ犯人が犯人だと見破れなかったのかという疑問である。犯人の心理描写はどうなっていたのかという視点で再読を試みれば、たしかにクリスティーの「綿密な計画」が読み取れる。そして、「クリスティー自身に、手がかりを与える気など最初からなかった」のではなく、充分な手がかりを与えながらかつ容易に尻尾をつかませない、その叙述の手口の巧みさに感嘆することになるのだ。


     しかしクリスティが飼い慣らしている話者は、若島が言うほどには「真実」を語っていないようだ。嘘はないかもしれないが、思わせぶりな描写はいたるところで見られ、肝心な事は描写しない戦略が、作品の地の文全体に貫かれている。若島は、そこにこそクリスティの「綿密な計画」を読み取るべきだった。ところが、三人称の語りは「真実」だと無条件に信じて、再読の対象から除外してしまった。若島にしてみれば、地の文を除外できた事で「登場人物の心理描写」の重要性が高まったかのように見えたかもしれない。しかし、それこそクリスティの思うつぼだった。

     作者クリスティは『アクロイド殺し』のアンフェア論争を教訓として、『そして誰も…』では「全能の話者による三人称の語り」を採用した。「(語り手に真実のみを語らせる事を)自らに課した」からだと若島は考えたが、実はクリスティの狙いは別にあった。三人称の話者に語らせることで地の文(客観描写)から読者の注意をそらそうとしたのだ。

     これは、かつてエラリー・クイーンを評したディクスン・カーに「読者の前をたった一つの手がかりさえ通過させてしまえば、あとは何から何まで”密輸入”することに成功してしまう」とまで言わしめたクイーンのマジック以上のマジックと言えるかもしれない。クリスティは「登場人物の心理描写」というたかだか一枚のカードを、瞬時に別のカードに変えるクローズアップマジックを演じてみせたわけではなかった。地の文(語り)という「動かしがたい巨大建造物」を、あの天才魔術師デヴィッド・カッパーフィールドさながらに、僕らの目の前から消してみせたのだ。
    (2010/12/11初出,2012/2/27改訂)
    posted by アスラン at 19:28 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) |  書評(アガサ・クリスティー) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2012年03月11日

    「明るい館の秘密(若島正)」の過失(その2)(2012/2/24改訂)

    (この記事では、アガサ・クリスティー著『そして誰もいなくなった』のネタバレを行っています。未読の方は読まないようにお願いします。)

     今回は小論「明るい館の秘密」で著者・若島正が行った『そして誰もいなくなった』の分析について詳細に検討する。その前にまず、『そして誰も…』とはどんな作品であるかをおさらいしておこう。

     ミステリーの女王アガサ・クリスティが世に送り出した100以上の作品の中でも一、二を争うほどに有名な代表作である。ストーリーの性質上、ポアロやマープルなどの名探偵は登場しない。

     大富豪の邸宅があると噂される孤島に10人の男女が招かれる。リゾート気分を満喫できると思って集まった彼らを待ち受けていたのは、謎の富豪の声による、過去に彼らが犯した罪に対する糾弾と死の宣告だった。彼らは次々にマザーグースの童謡の見立てどおりに殺されていく。島には彼らのほかに誰も隠れていないとわかり、残された人々は疑心暗鬼に陥る。最後に残った一人が異常な興奮状態の中で自ら命を絶ったことで、ついに島には「誰もいなくなった」。

     だが、漁船が拾い上げた瓶に封じ込められていた手紙には、ウォーグレイブ元判事の告白が綴られていた。判事は長年の判事人生で出会った「法律では罪を問えなかった人々」を自らの手で断罪する事にした。判事は、島で出会ったアームストロング医師を欺いて、自らが死んだように見せかけて真犯人に罠を仕掛けるという偽の計画に協力させる。判事のたくらみによって、判事の見せかけの死後、生存者は彼らの中に犯人がいると思いこみ、アームストロング医師も判事にだまされたまま殺害される。引退して悠々自適のはずの判事が犯罪を犯すにいたった動機は、不治の病で余命わずかと宣告されたためだと手紙の最後で初めて読者に明かされて、物語は幕を閉じる。

     あらすじからわかるとおり、『そして誰も…』は2つの部分から構成されている。一つは、一人また一人と殺されていくスリラーの第一部であり、その後の第二部では、犯罪が完結して誰一人残らなかったトリックのタネが明かされる。ここでは、第一部のスリラーとはうってかわって本格ミステリーらしくきちんとした辻褄を犯人自らに語らせるという趣向の面白さが際だっている。

     しかしどちらかというと、第二部はミステリーとしての辻褄合わせの意味合いが強く、第一部の強烈なスリルとサスペンスには勝てない。クリスティー文庫の新訳の解説でも赤川次郎氏は「エンターテイメントとしてのミステリー」の傑作だと言い切っている。

     その言葉どおり、作者は本編でもっぱらスリラーの演出に力を注ぎ、犯人を指摘するための手がかりをあまり与えようとはしていないというのが、大方の読者や批評家の印象のようだ。これに対して、若島正は『明るい館の秘密』の中で登場人物の心理描写に着目すれば、作者クリスティが仕掛けた「叙述トリック」の存在があきらかになり、犯人が誰かも解読できると主張した。つまり第一部でクリスティは読者に対して十分にフェアな手がかりを与えていると、従来の大方の印象とは異なる持論を展開したのだ。

     若島が分析に使用した「登場人物の心理描写が描かれている3カ所」を以下に示す。

    @登場人物たちがインディアン島におもむく導入部(1-1〜8)
    A4人が死んで、残りの6人の心理描写が特定されずに列挙される箇所(11-6)
    Bさらに一人死んで、残り5人の心理描写が特定されずに列挙される箇所(13-1)


     この3カ所で著者が主張するポイントは以下のとおりである(分析の都合から便宜的に5つに分類した)。

    (a)この箇所には、叙述トリックが仕掛けられている。言い換えれば、ある人物(=犯人)の心理描写において、読者の誤読を誘うような書き方がしてある。
    (b)その誤読を正せば、犯人以外の登場人物たちの心理描写との比較から、いかにそれが書き分けられているかがわかる。
    (c)AおよびBでは、特定されていない心理描写が、その言葉遣いなどに注目すると、誰の心理描写かがすべて特定できる。
    (d)誰の心理描写か特定できた後で読み直せば、舞台裏で進行しているある計画の姿が見えてくる。
    (e)そこでも、犯人を推定することは可能である。つまり、小説全体は論理的に構築されている。
    (注)(a)(b)…の記号は便宜的に付与した。


     この若島の主張が正しいか否かを検討するにあたって、前提条件を確認しておこう。

    ・分析者は初読者とする。初読者は犯人の名前も犯人のトリックも、以後の事件の経過も、結末も知らない。
    ・分析者は、再読者から『そして誰もいなくなった』には「叙述トリック」が存在する事を耳打ちされているものとする。
    ・再読者から耳打ちされた叙述トリックとは、「登場人物の心理描写にはすべて本当の事が書かれている」という事である。
    ・叙述トリックが仕掛けられた箇所として@〜Bに注目するように、初読者はあらかじめ教えられている。
    ・分析者は、分析する箇所(時点)までに知り得た事は分析に利用してかまわないが、それ以降に知る事になる情報は使えない。


     ここで注意したいのは最後のポイントだ。分析者は「叙述トリック」を耳打ちされた初読者であるというのが大前提であるが、実際には若島のような再読者が初読者の振りをして分析せざるをえない。そのため、分析者はついつい前提を踏み外してしまいがちだ。本当に既知情報だけで「犯人の推定」が可能なのかは、よくよく検討する必要がある。

     それでは若島の主張の検証にとりかかる。
    若島が実際に小論で分析した心理描写は3カ所あるが、前述の5つの主張のうちの(c)以降はAおよびBに関するものなので、AとBをはじめに分析する。なにより著者は、AとBの分析に「ご執心」なのだ。僕としても@は後でじっくりと分析したい。

    [Aの分析]
     11章6節(以下11-6)では、すでに4人が殺害されている。この箇所では生き残りの6人の心理描写が「誰のものだと特定されることなく」列挙されている。生き残りの6名とは、
    ウォーグレイヴ(元判事)
    ヴェラ・クレイソーン(秘書)
    フィリップ・ロンバード(元陸軍大尉)
    エミリー・ブレント(老婦人)
    マッカーサー(元将軍)
    アームストロング(医師)
    ウィリアム・ブロア(元警部)

    である。

     Aで列挙されている心理描写は、以下のA〜Fである。
    A「次は?次は?誰が?どの人間が?」
    B「うまくいくだろうか?どうだろうか。やってみる価値はある。時間さえあれば。まったく、時間さえあれば…」
    C「狂信者だ、きっとそうにちがいない…。外見ではおよそ信じられないが…。もしまちがっていたら…」
    D「狂っている−何もかも狂っている。気が狂いそうだ。毛糸が消えて−赤い絹のカーテンも−わけがわからない。さっぱりわからない…」
    E「ばかな男だ、こっちの言葉をすっかり鵜呑みにして。ころりとひっかかった…。しかし、充分警戒しなければいけない」
    F「あの小さな陶器の人形が六つ…たった六つ−今夜にはいくつになるのか?…」


     このように心理描写も6人分なので、それぞれが生き残りの6名の誰かに当てはまるはずだ。クリスティの原文にあたりたい方は、若島の小論で訳文と原文が併記されているので確認してもらうといいだろう。なお、小論の訳文(上記のA〜Fも)は翻訳家でもある若島自身の試訳だ。Bの分析で明らかになるが、若島はハヤカワ・ミステリ文庫の旧訳に不信感を抱いている。

     若島が最初に狙いを定めるのは、登場人物の口癖だ。Cの「狂信者だ」という非難めいた独白は、この場面に至るまでにブロア警部がエミリー婦人に対して何度も使っている。こういう口癖は叙述トリックの手がかりとしては重要だ。心理描写では人の口癖を真似る事はありえない。よってCはブロア警部である。

     Dの「毛糸が消えて」という部分は、編み物に用いる毛糸玉を指している。毛糸玉の所有者はエミリー婦人であり、彼女以外に毛糸玉に関心をいだく人物はいない。よってDはエミリー婦人である。

     Eの「充分警戒しなければいけない」という言い方は、ウォーグレイヴ判事の口癖だ。導入部@でも確かに同じ表現が使われている。よってEは判事だ。

     Eが判事の心理描写であるならば「ばかな男」はアームストロング医師を指すに違いないと若島は断定する。判事が二人きりで話し合う場面が描かれる相手はアームストロング医師しかいないからだ。しかし、この論拠はかなり怪しい。本格ミステリーファンであれば、即座に却下するだろう。書かれた事はすべて論理的に説明がつかねばならないが、書かれていないからといって「他の登場人物と二人きりで話し合ってはいない」とは言い切れない。そんな事を言い出したら、作者は犯人が犯行におよぶ殺害場面まで書かねばならなくなってしまう。「ばかな男」という表現が、判事が初対面の時に抱いた「医者はどいつもこいつもみんなばかだ」という印象と合致すると言うが、口癖とは違って根拠が薄弱だ。

     「ばかな男」がアームストロング医師であると若島が断定したがるのには訳がある。Eの「ころりとひっかかった」という心理には、次のような意味が込められていると解釈したいからだ。
    ここで明らかになるのは、ウォーグレイヴ判事がアームストロング医師に嘘をつき、二人で何かの計画を舞台裏でひそかに進行させているという可能性である。


     つまり判事はアームストロング医師をだましているうえに、「なんらかの計画の片棒をかつがせよう」としているらしい。そう考えるとBの「うまくいくだろうか?」という心理描写は、判事にもちかけられた「計画」の成否を心配するアームストロングに当てはまる。まるで千里眼のような見通しではないだろうか。まさに再読者・若島は結末まで既に知り抜いている事を棚にあげて、自らを千里眼に仕立てている。

     Eの心理描写から判事が誰かをだましているのは確かだ。若島の言うとおり「何かの計画を舞台裏でひそかに進行させている可能性」を読み取るのも妥当な解釈だろう。だがEの心理描写だけで「二人で何かを計画している」と考えるのには無理がある。普通に考えれば、Eが単独で誰かをだまそうとしているとしか解釈できない。これこそが再読者・若島正の顔が出る瞬間だ。「二人による計画」という腹案は、結末での犯人の告白を判断材料にしない限り直接には出てこない。僕ら分析者は初読者であるから、慎みをもって千里眼を気取るのはやめにしよう。Bは未確定とする。

     ロジャースの死後、人形が1つずつ減っていくのを気にする役回りをヴェラが引き継いでいた事から、若島はFがヴェラの心理描写だと断定する。しかし、このような推論は口癖や物的証拠(毛糸など)と比べると根拠が弱い。状況証拠というか外延的な推論にすぎない。Fは保留とする。

     結局、(C=ブロア警部、D=エミリー、E=ウォーグレイヴ)の推定は妥当であるが、(A、B、F、ロンバート、アームストロング、ヴェラ)の対応関係は未確定のままに終わった。

    [Bの分析]
     13章1節(以下13-1)では、Aの場面の6人のうちエミリー婦人が殺害されて、生き残りは5人となった。「特定されない心理描写」は五人分、列挙されている。

    G「アームストロングだ…ちょうどあのとき、彼は横目で私を見ていた…あの目つきは狂っている…完全に狂っている…。医者ではないのかもしれない…そうとも、決っている!…どこかの医院から逃げてきた狂人で−医者のふりをしているのだ…。きっとそうだ…みんなに話そうか?…大声を出して?…いや、警戒させるのはまずい…。それに、彼は正気のように見えるだろうし…。何時だろう?…まだ三時十五分だなんて!…ああ、私も気が狂いそうだ…。そうだ、アームストロングだ…。彼は今、私の方を見ている…」

    H「おれはやられないぞ!やられるはずはない…。何度も危い橋を渡ってきているんだ…。それにしても、ピストルはどこへいったんだろう?…誰が盗ったんだろう?…誰が持っているんだろう?…誰も持っていない−それはわかっている。全員、身体検査を受けたから…。誰も持っているはずがない…。しかし、誰かがありかを知っているはずだ…」

    I「みんな気が狂いかけている…みんなそのうちきっと気が狂う…。死ぬのが怖くて…われわれはみな、死ぬのが怖い…。私だって怖い…。そうとも、だからといって死を免れることはできない…。<霊柩車が戸口に来ております。>どこで読んだんだろう。あの女…あの女を見張っていよう…。そうだ、あの女を見張るんだ…」

    J「四時二十分前…まだ、四時二十分前だ…時計が止まっているのかもしれない…。わけがわからない…まったくわからない。こんなことが起こるはずはないのに…現に起こっているなんて…どうして目がさめないのか? 目ざめよ−最後の審判の日だ−いや、そんなばかな! 考えることさえできたら…。頭が−頭がおかしい−破裂しそうだ−割れそうだ…。こんなことが起こるはずはないのに…。何時だろう?ええっ、まだ四時十五分前か!」

    K「正気でいるんだ…。正気でいるんだ…。正気でいさえすれば…。すべては明白だ…すっかり読めている。しかし、誰にも疑われてはいけない。うまくいくかもしれない。うまくいってくれないと!誰だろう?それが問題だ−誰だろう?きっと−そう、きっと−そうだ−あの男だ」


     Aの心理描写とくらべるとそれぞれの分量が増え、追いつめられた一人一人の内面がよく描かれている。クリスティのサスペンスの盛り上げ方はさすがというしかない。その一方で、作者は人物を特定できるような手がかりをどれだけ与えてくれているだろうか。若島は再び口癖から推論してゆく。

     Hの「何度も危い橋を渡ってきているんだ」と表現は、ロンバートの口癖だ。小説の導入部で最初に登場した際にも、ロンバートはまったく同じ独白をしている。Hはロンバートである。

     Jで「最後の審判の日」におののく人物は、ブロア警部以外に考えられない。若島が指摘しているように「審判の日」という言葉は、導入部でブロアと同じ列車に乗り合わせた「船乗りらしい老人」がブロアに向けて予言した言葉だった。悪趣味な冗談だと思って気にも留めなかったのに、ここに来て予言の通りになった自らの境遇に呆然としている。よってJはブロア警部だ。

     その次に若島は、Gはヴェラだと言う。なぜなら、以前ロンバートに誰が犯人だと思うか尋ねられて、「アームストロング医師が怪しい」と即座に答えていたからだ。だが、これは確定判断とは認めがたい。ヴェラ以外に「アームストロング医師が怪しい」と考えている人物がいない事が証明できていないからだ。よってGは未確定とする。ただし、Gはアームストロング医師でない事だけは言える。

     Kで「うまくいってくれないと」と心配している様子は、Bの「うまくいくだろうか」の繰り返しに見える。この部分は口癖ではないが、心理表現に統一感があるのでBと同一人物であるとほぼ断定してもいいだろう。ただしBが未確定だったので、Kも未確定になる。

     若島は最後にIを特定するためになんと消去法を用いている。だが、若島の分析と違って僕らの検証結果では一部の心理描写が未確定のままなので、Iの特定に消去法は使えない。Iに出てくる「あの女」とは、 女性で唯一生き残っているヴェラである事は間違いない。と同時に、Iはヴェラではない。

     結論としては、H=ロンバート、J=ブロア警部である事がわかる。(G、I、K、ウォーグレイヴ、ヴェラ、アームストロング)の対応関係は確定できなかったが、「K=B」および「Iはヴェラではない」という判断から、
     K=アームストロングorヴェラ
     I=ウォーグレイヴorアームストロング
     J=ヴェラorウォーグレイヴ
    というところまでは分析可能だ。

     初読のミステリー愛読者がふつうに考えれば、ここまではなんとか読み解けるのではないかと思う。しかし、論理的かつフェアに推理しようと心がければ、これ以上の特定は難しい。ストーリー重視、サスペンス重視の読者はさっさと特定をあきらめて、物語の興奮が冷めやらぬうちに結末へと先を急ぐだろう(僕もその一人だ)。あるいは、ハヤカワミステリ文庫(旧訳版)の解説をつとめたミステリー評論家・各務三郎氏のような玄人に「クリスティ自身に手がかりを与える気は最初からなかった」という印象を抱かせる事になる。

     僕ら初読者はこれ以上の人物の特定はできないが、若島は消去法を用いて導き出した(と信じる)「I=ウォーグレイヴ判事」という結論を根拠にして、さらに分析を続ける。これは非常に危険な行為だ。これまでの判断に一つでも誤りがあれば、以後の推論は雪崩のように総くずれになってしまうからだ。そんな危険もかえりみず「I=判事」を根拠にして若島が明らかにしようとするのは、次の2点である。

    1.「私だって((死ぬのが)怖い」という箇所は、不治の病を宣告された判事の心理を描写している。
    2.ハヤカワミステリ文庫(旧訳版)の「怪しいのはあの娘だ」という訳は、叙述トリックにひっかかった誤訳だ。


     Iは若島が「叙述トリック」の勘どころとして取り上げている箇所なので、この2点を論駁すれば若島の主張はそれこそガタガタになるはずだ。

     まずは1について。ここまで読んでいただいた方は、僕が何を言いたいかすぐにわかってもらえるはずだ。そう、ウォーグレイヴ判事が不治の病に侵されているとわかるのは、十人全員が死んだ後に、判事が犯行を告白した告白書(が入った瓶)が海で発見された後に、語り手によって公表された時点だ。つまり、Bの場面で判事が不治の病をわずらっている事を知る手立てなど初読者にはない。

     ならば、たとえ「I=判事」だと推測できたとしても、「私だって怖い」という心理描写が犯人である事の根拠になりえない。要するに「私だって怖い」という心理が殺人鬼に怯えた心理でないと疑う根拠は、分析者(初読者)にはない事になる。たしかに、この表現には「誤読を誘う叙述トリック」が隠されているが、初読者にとって論理的かつフェアなトリックとは言えない。

     2について検討する前に一言言っておく。若島に誤訳呼ばわりされた「旧訳」とは、ハヤカワ・ミステリ文庫(旧訳版)『そして誰もいなくなった』であり、訳者は清水俊二である。ややこしい事に、若島の評論がミステリーファンのあいだで有名になったせいか、アガサ・クリスティ文庫が新たに刊行された際に、『そして誰もいなくなった』はハヤカワ・ミステリ文庫の旧訳をそのまま採用しつつも、既に亡くなられていた清水氏に代わって「誰か」(これも特定されていない。果たして誰だろう?)によって、若島の指摘どおりの訳に直されている。僕から言わせれば、出版社はうかうかと乗せられて早まった対応をしたものだ。

     著者が指摘した旧訳の誤りとは、Iの次のような箇所である。

    (原文) The girl...I'll watch the girl. Yes, I'll watch the girl...
    (清水訳)怪しいのはあの娘だ…そうだ、あの娘を警戒しなければならない…
    (若島訳)あの女…あの女を見張っていよう…。そうだ、あの女を見張るんだ…

     ちなみにクリスティ文庫の訳は「娘…あの娘を見張っていよう…そうだ、あの娘を見張るのだ…」となっている。先ほども書いたが、全面的に若島訳を採用したと見るべきだろう。そして若島の考える「清水訳の致命的な誤訳」とは、結局のところ「怪しいのはあの娘だ」という表現だということになる。しかし何故これが致命的な訳なのだろうか。

     原文のI'll watch the girlは、直訳すれば若島訳のように「見張っていよう」となる。これはニュートラルな訳だが、人物Iの感情にもう少し踏み込むと、次のフレーズのように「あの女を見張るんだ」という意志あるいは義務となる。実は若島自身も、知らず知らずにニュートラルな直訳からIの心理に一歩踏み込んだ訳し方をしている。

     若島訳の「あの女を見張るんだ」からさらに一歩踏み込んだのが、清水訳の「あの娘を警戒しなければならない」という訳だと見ていいだろう。若島訳のようにwatchを単に「見張る」と訳すだけでは、Iの心理が充分反映されていないと判断して、清水訳は「警戒する」という言葉を用いている。つまり清水氏は、Iが「あの娘が犯人ではないか」と疑っていると見なした上で、Iの心理状態を反映した訳出を行っている。「怪しいのはあの娘だ」というのは「警戒」から導きだされる意訳だ。まさに心理が露出している訳し方で、普通に考えれば誤訳ではなく意訳として許容される範囲だろう。

     一方、若島の「あの女を見張っていよう」という訳はわかりにくい。若島の指摘に沿えば、原文が読者を「叙述トリック」でだまそうとしているために曖昧な表現にとどめているとも言えるが、果たしてそうだろうか。そもそもIが犯人だとすると、何故「あの女を見張」らなければならないのだろう。若島は次のように推測している。

     実際には、彼(Iの事)はヴェラのタフさを充分に見抜いていて、最後には彼女が残ることをすでにこの時点で予測しているのだ。要するに、訳者はそこのところを読めていない。その翻訳を通じてしか『そして誰もいなくなった』を読んだことのない一般読者には、もちろんそれがわかるはずがない。わたしが本稿を書く気になった本当の理由は、実はそこにある。


     若島は、これまで「叙述トリック」のうがった読みで僕らを導いておきながら、最後に「本稿を書く気になった本当の理由」が旧訳のたった一箇所の誤りを正すためだと言っている。しかもこの誤りは「小説全体の読みに関わる重大な問題をはらんでいる」とまで言い切っている。こうして旧訳の責任者・清水俊二は徹底的におとしめられる。

     だが、致命的な間違いをおかしているのは著者・若島正のほうだ。以下で証明しよう。

     先ほどのBの分析の検証から、次のことが言える。

    ・Iがウォーグレイヴ判事の心理である正当な根拠は存在しない。(判事orアームストロング医師である。)
    ・「私だって(死ぬのが)怖い」という表現に叙述トリックが仕組まれていると解釈する合理的根拠はない(「不治の病」を根拠にするのはNG)。
    ・だとすると、ほとんどの読者はIが犯人かどうかわからない。
    ・その「ほとんどの読者」の中には、誤訳をしたとされる当人(清水俊二氏)も含まれる。
    ・ならば、清水俊二氏が重大な過失をおかしたとは言えない。


     しかし若島は、あくまで旧訳版の「怪しいのはあの娘だ」という訳が「あの女を見張っていよう」と訳されていれば、ここに叙述トリックが仕組まれている事は「一般読者(初読者)」に容易にわかるはずだと主張するだろう。「あの女」を見張らねばならない理由は、「(Iが)最後には彼女が残ることをすでにこの時点で予測している」からだ。

     ほらね。待たしても若島は無意識に前提条件を踏み外してしまっている。一般読者(初読者)は、どうやったらBの場面でヴェラが最後まで残る事を知ることができるのですか?知ることができないのであれば、「あの女を見張っていよう」という表現に叙述トリックが仕組まれていると、初読者が考えうる合理的かつフェアな根拠はなんですか?

     要するにこういうことだ。「Iが犯人だ」とは確定できていない。未確定なので、訳語を「あの女を見張っていよう」に置き換えたところで、「あの女を見張る」が叙述トリックである合理的根拠はない。たとえIが犯人だと確定していたとしても、「見張る」ことの合理的解釈はない。どう考えても一般読者には、叙述トリックの持つ意味がわかるはずがない。若島の決め言葉にならって言えば「僕がこの書評を書く気になった動機は、まさにここにある」。若島の「要するに、訳者(清水)はそこのところを読めていない」という非難は言いがかりもはなはだしい。

     だが一方で、翻訳家はいつだって再読者ではないかという主張もありうる。訳者は犯人のトリックも結末もすべて知っている。ならば、やはり誤訳(本当は意訳)をした事の責任をとるべきだろうと考える人もいるかもしれない。しかし、それは見当違いだ。もう一度、この分析に入る前の前提条件を思い出してほしい。僕らは「叙述トリック」の方法論と場所を再読者から耳打ちされた初読者であった。方法論とは「登場人物の心理描写にはすべて真実が書かれている」というものだった。

     ならば翻訳家・清水俊二は、再読者・若島正から「叙述トリック」に関する耳打ちをしてもらっただろうか。答えは否。断じて否だ。耳打ちされていない一翻訳家が、玄人受けをねらった奇妙な「叙述トリック」を自力で見とおすことが果たしてできただろうか?しかも若島の発見した「叙述トリック」は、一般読者(初読者)の謎解きには一つも貢献しない事は今見てきたとおりだ。この場合でも、やはり翻訳家の責任は「重大であり致命的だ」などと言えるだろうか?

     これも否だ。そもそも「怪しいのはあの娘」という清水訳は、若島が言うような「小説全体の読みに関わる重大な問題」をはらんでなどいない。せいぜい「叙述トリックの読みに関わる重大な問題」をはらんでいると言えるだけだ。つまり「叙述トリック」には綻びがないという若島自身の自己満足(作者クリスティの自己満足でもある)が得られるだけだ。そんな自己満足などは一般読者には知ったことじゃない。

     それでも若島にしてみれば、訳者の不可抗力にせよ、トラの子の「叙述トリック」が訳文のニュアンスによって失われてしまうのは悔やんでも悔やみきれないのだろうと、同情する声もどこからか聞こえてきそうだ。しかし、これについても僕の答えは否だ。というのも、若島は「叙述トリック」分析のいかしどころを、心理描写の特定が最も難しい箇所(AおよびB)に求めているからだ。あたかも他には分析のしやすい箇所はないかのような振る舞いをしているが、これは若島の身勝手な都合にすぎない。なぜなら、若島が「叙述トリック」のありかとして注目した3箇所のうち、導入部の@(1-1〜8)で早々に犯人である判事の心理描写に「叙述トリック」が仕組まれていると、若島自身が指摘しているからだ。

     しかも、若島は@の分析を判事の心理に限っておこなっている。判事の心理描写に「叙述トリック」の存在を指摘しただけで「判事が犯人であること」を断定している。このような分析の手つづきも、今となっては不十分であると言わざるを得ない。ここで若島が分析した事は、せいぜい「判事が犯人であるかもしれない」という可能性だ。なにしろ、他の人物たちの心理描写にトリックがない事を検証していないのだから。

     若島は次のような言い訳をしている。

    登場人物たち各人の意識の断片をつぶさに検討してみることは、それなりに興味深いことではあるが、本稿の目的ではない。


     この言葉を盾にして、若島は判事以外の登場人物の心理描写を分析せず、なおざりにする。これはあきらかに片手落ちだろう。もし「導入部での全員の心理描写を分析すれば犯人が特定できる」というのでは興ざめなので、どうせなら「ひときわ目立つ書き方」(若島)をしている箇所で、「叙述トリック」の手口の巧みさと、その論理性(犯人を正しく推理できる)という2点を一挙に示してみせようというのが、若島の野心であり身勝手な魂胆だった。つまりAやBは、自らの読みの切れ味を読者に示すためだけに選ばれたにすぎない。

     と同時に、そこには「悪意」がともなっている。さきほどの若島の言葉の中に、導入部を「つぶさに検討する」のは「本稿の目的ではない」と書かれている。そして、小論の終盤でBの分析を終えた直後に、「本稿を書く気になった本当の理由」は訳者・清水俊二の誤訳を糾弾することにあったと書かれている。語るに落ちたとはこのことだろう。著者・若島正にとって翻訳家・清水俊二の訳は「目の上のたんこぶ」だと自白しているも同然だ。それを「小説全体の読みにとって」とか、あるいは「一般読者にとって」の致命的な誤りだと思わせた罪状は、どうつぐなってくれようか。

     これで僕の言いたかった事、この書評を書く気になった理由を満足させる事ができたように思う。これからは、『そして誰もいなくなった』で作者クリスティがひそかにすべりこませたという「叙述トリック」の巧みさを楽しんで味わいたいと思う。本来ならば、これは言い出しっぺの若島正氏がすべきことだったはずだ。なのに、彼は「叙述トリック」という発見の独創性に目がくらんで、誤った方向に読者や翻訳者を道連れにしてしまった。

     次にやるべきことは、導入部での登場人物全員の心理描写を丁寧に分析する事だ。その際に、僕の楽しみとして、原文と旧訳と新訳(青木久恵訳)、ついでに若島訳(判事のみ)を併記して、どの訳が翻訳として妥当か、叙述トリックとして妥当か、などを見ていこうと思う。(つづく)

    (2010/12/1初出,2012/2/24改訂)
    posted by アスラン at 05:13 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) |  書評(アガサ・クリスティー) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2012年03月09日

    「明るい館の秘密(若島正)」の過失(その1)(2012/2/17改訂)

    (この記事では、アガサ・クリスティー著『そして誰もいなくなった』のネタバレを行っています。未読の方は読まないようにお願いします。)


     以前、『ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18(小森収 編)』の中に収められた『明るい館の秘密』という小論を興味深く読んだ。これは「乱視読者」を名乗る批評家・若島正が、アガサ・クリスティー作『そして誰もいなくなった』の深読みを行った小論である。著者の深読みの独創性には敬意を払いたいが、結論から言うと主要な論点に致命的な欠陥がある事を感想(書評「ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18(小森収 編)」(その5))に書いた。しかし今回は、この小論が誤読に満ちている事、それだけでなく『そして誰もいなくなった』を愛する読者にとって弊害になる事を改めて説明したい。

     僕が言いたい事は3点ほどある。
    (1)若島の主張する「叙述トリック」は、言わば手品のタネである。若島は手品のタネをあばいた上で「作者の手際の良さ」だけを賞賛するが、「手品そのものの出来映え」に対する正当な評価を欠いている。
    (2)若島は「(『そして誰も…』は)論理的に構築されている」と主張するが、必ずしも論理的な構成とは言えない。
    (3)「(『そして誰も…』は)犯人のトリックはつまらないが、作者クリスティの叙述トリックは賞賛できる」という若島の主張には異論がある。ましてや「再読しないと真価がわからない作品」という独断には、なんら正当な根拠はない。

     これだけの事を言い尽くせば、若島の小論に対して一矢を報いる事ができるのではないかと思う。と言うのも、若島の小論を読んで内容を鵜呑みにする読者や評論家が少なからず存在しているからである。若島の小論を収めた『ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18』の編者も、まさに鵜呑みにした一人だろう。これではクリスティーの名作の価値が正しく後世に伝わらない。さらには、著者が書いた無責任な一言によってハヤカワ・ミステリ文庫の旧訳が不当におとしめられたという事実も明らかにしたい。

     とりわけ、ちょうど新訳が出たばかりで、旧訳を正当に比較検討できる好機だ。きちんとしたミステリーマニアであれば、単純に「旧訳はNGで新訳はOK」という事にはならないと気づくはずだ。若島は旧訳の「ある一箇所の訳」を取り沙汰して、訳者の無能を証左したつもりになっているが、この点については既に他界されている訳者に代わって若島氏を糾弾したい。

     まわりくどい言い方をしないで率直に言えば、「ある一箇所の訳」は若島が主張するような誤訳とは言えない。ましてや「作品全体に関わる致命的な誤訳」と言うのは、勘違いもはなはだしい。なのに、たった「ある一箇所の訳」を根拠にして、一つの翻訳書と一人の翻訳家を不当におとしめた罪は大きい。

     若島は論旨を展開するのに先立って「わたしの読み方が正しいのかどうか、それが愛読者の常識なのかどうか、確かめるすべがない」と書いている。この一見すると愛読者の常識に訴えるような謙虚さにだまされてはいけない。著者のしたたかさは、その後の強引な論調からも明らかだ。もうそろそろ、この「乱視読者」の深読みが的を射ていない事を誰かが指摘してあげるべきだろう。

     前置きはこのくらいにして、小論の検討にとりかかろう。

    [(1)叙述トリックは手品のタネである]
     『明るい館の秘密』というミステリー評論を読んだ読者は、著者のあざやかな読みにうならされたはずだ。と同時に、以下のような2点を頭に思い浮かべたのではないだろうか。
    (A)『そして誰もいなくなった』という作品は、再読して初めて評価に値する作品だったのか。
    (B)それにしても、何故こんなあからさまな読みを若島以外に気づく人がいなかったのだろう。

     (A)のような印象が出てくるのは、犯人の用いたトリックは「つまらない」と断言し、真に評価すべきは作者クリスティの「叙述トリック」の方だと若島自身が書いているからだが、実はそれだけではない。後で詳しく述べるが、『そして誰も…』の主要なモチーフ(トリックや設定、サスペンスなど)が、何度も何度も後発の小説あるいは映画やテレビドラマで再利用され、いまや『そして誰も…』にはパイオニアとしての価値しかなくなっているという現状がある。そうなると、新たな若い読者は『そして誰も…』の独創性に気づきにくい。

     くだけてたとえるならば、「古畑任三郎」を見て育った後発の世代は、わざわざ「刑事コロンボ」を見ないだろう。いや、見ても評価しないだろう。しかし「コロンボ」がなければ、それが大ファンだった脚本家三谷幸喜に「古畑」を書かせるモチベーションを与えなかっただろうし、なにより「コロンボ」を洗練させたミステリドラマを作り上げる事もかなわなかっただろう。もちろん不可能だったと言うつもりはない。できたとしても、作品を一から作り上げるためには、パイオニアとしての並々ならぬ力量と膨大な労力がかかったはずだ。

     しかし、やはりまっとうに考えて『そして誰も…』は、初読から読むに値する驚くべき小説ではないだろうか。それについては(3)の論点で詳しく述べようと思う。ここでは、まず(B)の問題をとりあげよう。

     何故、若島以外にこれまで指摘されてこなかったかと言えば、最初に指摘しておいたように、若島の評価法が通常のミステリ評論の方法と異なるからだ。僕は「叙述トリック」を手品(作品)におけるタネにたとえた。手品のタネは、通常は「作品の出来映え」に奉仕する。そうであるからこそ、観客(読者)は手品(作品)に対して惜しみない拍手をおくる。なのに若島は「作品の出来映え」にはいっさい言及しない。言い換えると「初読の際の感動」については一切語らない。いや、それどころか「犯人のトリックはつまらない」とまで言い切っている。これでは、手品(作品)としては駄作だと言っているに等しい。

     しかし、若島のような”慧眼”の持ち主からすれば、この作品で作者クリスティがやろうとしたねらいは明白であった。僕らのように”慧眼”を持たぬ読者に配慮するかのように、ご丁寧にも「作品を論じるにあたって、わたしは難解な批評用語を弄ぶつもりはない」と言っておきながら、「(ミステリー評論家の)各務氏の意見をパラフレーズすれば」だとか「ナラトロジーでいうところの」などと小難しい用語を弄して、さっそく「お里が知れる」始末だ。

     要するに、文芸評論家である彼がなんと言おうとも現代言語理論の力にあずかっているのは明らかだ。普通のミステリー愛読者が若島のように気づかなくても当然である。小説の現代的な読み直しが若島正の課題であるからこそ、若島は「作者」にも「作品そのもの」にも関心がない。若島自身も「わたしの関心はそこ(注:作品のテーマ批評)にはない」と言っている。僕はその点にケチをつけるつもりはさらさらない。しかし、若島が「手品の手際の良さ(作者の手口の巧みさ)」に感嘆すればするほど、「手品の出来映え」、言い換えれば『そして誰も…』という作品自体の価値は下がっていく。

     しかも若島の方法論に従えば、『そして誰も…』は再読して初めて評価できる作品となってしまう。何故ならば「作者の手口の巧みさ」は再読しないと見えてこないからである。若島の説明からは「作者の手口の巧みさ」への評価は聞こえてくるが、いっこうに「作品に対する賞賛・愛着」は聞かれない。これはミステリーの女王クリスティへの不敬に等しい。もちろん若島の主張が正当なものであれば、素直にひきさがるしかない。だが、若島の深読みの正当性を裏付けるためだけに作品が利用されているとしたら、話は違ってくる。

     若島の言い分では、『そして誰も…』最大のトリックとも言える「叙述トリック」は、読者が再読して作品をより深く楽しむために存在しているのではない。
     クリスティは『アクロイド』(引用者注:小説『アクロイド殺し』の事)がフェアかどうかという議論を巻き起こしたのを教訓として『そして誰もいなくなった』ではそのような非難を浴びない叙述トリックを用いたのではないか(若島正『乱視読者の帰還』所収の「明るい館の秘密」より)

     このように「叙述トリック」は愛読者の期待に応えるものではなく、批評家をうならせるためのトリックだったと若島は考える。しかも、それこそがクリスティの野心的なねらいだったと言う。はたしてそんな事があるだろうか。クリスティが玄人受けする作品を作ろうとした事は事実かもしれないが、肝心の「作品の出来映え」がつまらないと言われては元も子もないではないか。若島の主張はうがちすぎて辻褄があわない。

     しかし、本当に辻褄があわないのは、若島の思い描く「叙述トリック」のもつ意味だ。ミステリーを読みなれた人ならば、叙述トリックがいかなるものか知っているはずだ。一見すると「そう見える」ように書かれていた事が実際には違っていたというトリックだ。そこには「読者の誤読を誘う書き方」(若島)がなければならない。そして、もちろん『そして誰も…』という作品は、普通の意味で叙述トリックが仕組まれたミステリーの傑作であることは、ミステリーファンにとっては周知の事実だ。

     ただし、その事実が「活字になっているのを目にした事がない」「愛読者の常識なのかどうか、確かめるすべがない」という疑問を若島が投げかけるのもムリはない。もし叙述トリックがある事が公になれば、未読者に対して重大なネタバレになるからだ。もし、登場人物の心理描写にクリスティの野心的な「叙述トリック」が仕組まれているという若島の指摘が事実だとすれば、400ページ弱の長編であっても、目の付けどころとなる心理描写はかなり限定される。そこをあら探しされたら、作者の周到な計画もひとたまりもない。

     僕が「叙述トリック」を手品のタネにたとえた理由もここにある。タネがわかった手品くらいつまらないものはない。作者は是が非でもタネがばれないように細心の注意を払うだろう。ミステリーファンであれば、「ネタバレ」を良しとしないのは当然の事だ。

     だが、すでに『そして誰も…』を読み終わっている再読者であれば、話は違う。若島に従えば、
    充分な手がかりを与えながらかつ容易に尻尾をつかませない、その叙述の手口の巧みさに感嘆する(同上)

    ことが再読の目的であり。楽しみでもある。

     ここから再読の達人・若島正は「叙述の手口の巧みさ」をつぶさに確認するだけでは物足らず、不思議な事を言い出す。「叙述トリック」が仕掛けられた箇所の誤読をただしく読み解けば、結局のところ「犯人を推定できる」などととんでもない事を言い出すのだ。これがどれほど「とんでもないこと」なのかは、すぐに明らかになる。


    [(2)『そして誰もいなくなった』は論理的に構築されたか?]

     若島は、孤島に集められた10人の登場人物の心理描写が現れる章・節をすべて列挙したうえで、以下の3箇所にねらいを定めて「叙述トリック」の分析に取りかかる。

     @登場人物たちがインディアン島におもむく導入部(1-1〜8)
     A4人が死んで、残りの6人の心理描写が特定されずに列挙される箇所(11-6)
     Bさらに一人死んで、残り5人の心理描写が特定されずに列挙される箇所(13-1)


     若島がとりわけ注目するのはAとBである。この二カ所は、生き残っている全員の心理が描かれていて誰の心理描写か特定されていない点が「小説の中でもひときわ目立つ」(若島)からだ。すでに半数が殺され、互いに疑心暗鬼になっている。心理描写は緊張感にあふれ、サスペンスも最高潮に達している。

     確かに、この部分の描写を意識しない読者はいないだろう。どれが誰の心理描写か頭を悩ましたのではないだろうか。僕もそうだったが、早々に特定を諦めた。しかし、若島はAとBに隠された「叙述トリック」を力業で読み解いていく。

     若島の言いたい論点は以下の5点だ。ここは重要なポイントなので一字一句違えずに引用しておこう。

    (a)この箇所には、叙述トリックが仕掛けられている。言い換えれば、ある人物(=犯人)の心理描写において、読者の誤読を誘うような書き方がしてある。
    (b)その誤読を正せば、犯人以外の登場人物たちの心理描写との比較から、いかにそれが書き分けられているかがわかる。
    (c)AおよびBでは、特定されていない心理描写が、その言葉遣いなどに注目すると、誰の心理描写かがすべて特定できる。
    (d)誰の心理描写か特定できた後で読み直せば、舞台裏で進行しているある計画の姿が見えてくる。
    (e)そこでも、犯人を推定することは可能である。つまり、小説全体は論理的に構築されている。
    (注)(a)(b)…の記号は便宜的に付与した。

     若島の分析の是非は次回に詳しく吟味するとして、まずは(a)〜(e)の順で展開される論旨に明らかに辻褄があわない点があることを指摘しておこう。

     若島の分析は再読を前提としている。若島自身も小論の冒頭で、再読の意義について次のように書いている。

    すべては、犯人のトリックが明らかになり、小説が終わった後で、ふと疑問に思ってもう一度この小説を最初から読み直してみるような、読者の勘に委ねられているのである。(同上)


     再読者は「犯人のトリック」を知るだけでなく「犯人が誰か」も既に知っている。その再読者が@〜Bを分析すれば、主張の(a)や(b)はそのとおりだと言うしかない。(c)についても条件付きで同意しよう。ただし「言葉遣いなどに注目する」だけでは特定は難しい。再読で入手したあらゆる情報(犯行のトリックや犯人名など)を利用しなければ特定は無理だ。理由は後述する。

     若島は、(d)で「ある計画の姿がみえてくる」と主張する。ある計画とは、犯人(ウォーグレイヴ判事)がアームストロング医師をだまして、犯人をあぶり出すための陥計の片棒をかつがせるという部分を指している。しかし「みえてくる」というのもおかしな表現だ。すでに僕ら再読者は犯人の計画の存在を知っている。知った上で、叙述トリックの手口を確認しているのではなかったか。

     極めつけは(e)の「犯人を推定することは可能である」という結論だ。いつの間にか若島は健忘症にかかってしまったようだ。僕ら再読者は犯人の名前もトリックも忘れる事はできない。だから(d)や(e)の主張は再読者にとっては無意味だ。

     では再読者ではなく初読者が@〜Bを正しく分析すれば、「ある計画の姿がみえてきて、犯人を推定できる」と若島は言いたいのだろうか。それもあり得ない。この分析そのものが「登場人物の心理描写に叙述トリックが仕組まれている」という事を前提にしているからだ。そして叙述トリックの存在を知り得るのは再読者に限られる。

     状況を変えて考えてみよう。再読者は「叙述トリック」の存在を知っている。そこで初読者に次のように耳打ちしたとしよう。『そして誰も…』には作者の巧みな「叙述トリック」が存在し、それは@〜Bに隠されていると。ここまで耳打ちするのはかなりのネタバレと言えるが、やむを得ない。

     もしこうなら(a)->(e)にいたる若島の主張はすべて満たされるだろうか?これまた満たされる事はない。さきほど書いたように(c)は「言葉遣い」だけでは一部の人物の心理しか特定できない。全員を特定するには、やはり「犯人のトリックや結末」をすべて知っておく必要がある。(c)が確定しない以上、(d)の「ある計画」は存在を想像する事すらできない。当然の帰結として、(e)の「そこでも、犯人を推定することは可能である」という主張も、初読者では不可能だ。

     では、若島の「小説全体は論理的に構築されている」という結論は一体何を意味しているのか。僕が思うに、若島が言いたい事(言える事)は「登場人物の心理描写に仕組まれた叙述トリック」が小説全体と整合がとれているという事だけではないだろうか。確かに辻褄は合っているが、だからと言って「小説全体が論理的に構築されているか」と言えば、若島が考えているほどには論理的ではない。

     こう書いてもまだ、本論の分析を鵜呑みにしている人には信じられないかもしれないので、次回は若島の分析を詳細に検討して、若島の思い違いを一つ一つ指摘していこうと思う。
    (2010/11/29初出,2012/2/17改訂)
    posted by アスラン at 19:24 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) |  書評(アガサ・クリスティー) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2011年12月14日

    チムニーズ館の秘密 アガサ・クリスティー(2011/11/10読了,再読)

     久しぶりにクリスティ読破プロジェクトが再開した顛末については、「ABC殺人事件」の書評で書いたが、さてどこまで読んだかと調べてみると「茶色の服の男」も「秘密機関」も「チムニーズ館の秘密」も読んでいることになっている。いや[ビッグ4」も既読らしい。にも関わらず、どれもこれもストーリーが頭に入っていない。誰が犯人なのか覚えていない。そんな事があるだろうか、いや、あるんです。

     どうやら初期のクリスティ作品というのは、特徴らしい特徴が感じられない。どれも似たり寄ったりという印象がある。その中でもいわゆるスパイ小説や冒険小説というジャンルの作品に個性の希薄さが感じられると言っていい。北上次郎さんによると、初期の段階でクリスティ自身、スパイ小説に見切りをつけたようなので、いわば今読んでいるあたりが一つの山場なのかもしれない。

     とにもかくにも「青列車の秘密」を割と面白く読み終えたので、次は「七つの時計」だとテンポ良く読み出そうとしたのだけれど、冒頭からあまりに無造作にいろんな人が登場するので、なにがなんだか分からなくなってしまった。「チムニーズ館」という、なにやら聞き覚えのある邸宅で、外交官の卵たちや、鉄鋼王とその夫人、そして館付きの使用人たちが、そこに存在するのが当たり前のように最初から癖のある会話を繰り広げる。館の当主の気質を十分に承知している執事は、成り上がりの現主人に対しても有能ぶりをさりげなく見せつけてくれるし、無駄に野菜や草花を栽培し、現夫人の命に従う事なく庭における実権を掌握する偉そうな庭師が出てきたりして、それはそれで楽しいのだが、でもやっぱりなんだか分からない。

     どうやら「チムニーズ館の秘密」を思い出すところから始めるべきだと思い知った。そうして本書に戻ってみると、するすると人間関係が頭に入る。なんだ、そうだったのか。「七つの時計」は、あくまで続編として成り立っている作品なのだ。もちろん、それぞれの事件に共通した舞台(チムニーズ館)と共通した登場人物が存在するだけで、それ以上の関わりは皆無だ。本作/続編の順に読まねばならないという制約はないけれども、人物に対する思い入れを考慮しないと「七つの時計」の面白さが損なわれる事は確かだろう。

     「七つの時計」の冒頭の分かりにくさは、脇役級の人物が次々と登場するばかりで、その状況を整然と仕切っていく探偵役がなかなか姿を見せない点にある。やがては、館の真の当主の娘であるバンドルを仮の探偵役として物語が進行する事になるにしても、彼女は本書の主役であるヴァージニア・レヴェルの女友達であり、派手で男勝りのきわめて魅惑的な女性ヴァージニアの引き立て役という定位置に収まっていて、本作では非常に影が薄かった。

     一方、南アフリカから友人の依頼を果たすべくイギリスを訪れたアンソニー・ケイドも、無鉄砲で冒険好きな、これまた怪しげな魅力のある若者であって、この新たな闖入者がヴァージニアと仲良くやっているのを快く思わない外交官秘書のビルもまた、本作ではアンソニーの引き立て役に過ぎない。ところが「七つの時計」では、再び引き立て役に終わるかと思うと、意外な頑張りを見せて重要な位置を占めている。

     何を言いたいかと言えば、「七つの時計」の最大の欠点が「チムニーズ館の秘密」の最大の魅力であるという点だ。ヴァージニアとアンソニーの二人のコンビが、実は例の「トミーとタベンス」とか、その後の「なぜエヴァンスに頼まなかったか」の主役のカップルのように、非常に魅力的で存在感があり、かつハーレクイン・ロマンスのような恋愛のテイストも十分に味わえる。そういう意味で単なるスリラーではない。どちらかと言えば、ロマンスに重点が置かれてこそミステリーの筋立てが映えるのは、ヒッチコックの「北北西に進路を取れ」や「おしゃれ泥棒」などを見ればわかるだろう。

     それにしても、たんなる国際紛争だとか王位継承問題ならばわかるとして、秘宝を狙う大泥棒までが入り交じる筋立てというのは、かなり古めかしい。「青列車の秘密」でも宝石を狙う大泥棒と殺人者とのいずれをもポアロが追い詰めていくところが、一見バランスが悪そうで、最後にはミステリーらしくまとまっていた。さすがに、ポアロに国際紛争まで解決させるという荒唐無稽な展開を持ち込む事はなかった。そんな事をしてしまったら、これはもうシャーロック・ホームズの事件簿そのものではないか。

     「青列車の秘密」の書評で、この作品はポアロを本作のアンソニー・ケイドのような若き冒険者に置き換えたらば、きっと荒唐無稽だが魅力的なスパイ小説になっていただろうと書いた。あそこで何気なく登場するキャサリン・グレーはロマンスの片割れになっていたはずだが、ポアロではロマンスが生まれようがない。ポアロを探偵役に据えた事によってキャサリンは冗長な存在に堕してしまったのだ。しかし、一方でポアロの位置にアンソニータイプの若者を据えてしまったならば、ロマンスがクライマックスを飾る事は確かだが、あの魅力的な推理の醍醐味は味わえなくなってしまう。

     その意味で、クリスティのスパイ小説・冒険小説は事件を構成する要素があきらかに冗長だ。冗長さを抱え込む事で、読者に結末を予想させないという狙いもあったかもしれないが、やはりクリスティ自身がスリラーでいくのか、ロマンスものでいくのか、はたまた本格ミステリーに重点をおいて描くのか、いろいろと試したいという欲求があったのではないだろうか。そして、確かに冗長ではあるのだけれど、ラストにおいてそれらが一挙につながって解決し、その上に一組のカップルが誕生し、何人かの失恋者が生み出されるというオチがつく。その点が、小説にいろいろな楽しみを求める欲張りな読者(北方次郎さんもその一人だろう)の好みに合っているのかもしれない。

     僕はと言えば、一作も読めば十分だという気がしている。それがどの作品かと言えば、今のところ、この「チムニーズ館の秘密」という事になりそうだ。主人公の二人の事件への関わり方も面白いし、出逢い方(出逢わせ方)もなかなか凝っている。こういう手腕を活かし続けたら、ひょっとしたらクリスティという作家は、器用なハーレクイン・ロマンス作家として一部に知られる作家で終わっていたかもしれないが、彼女にはさらに大化けするミステリーの才能が秘められていた。
    posted by アスラン at 12:25 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) |  書評(アガサ・クリスティー) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2011年11月26日

    ABC殺人事件 アガサ・クリスティー(2011/10/12読了,再読)

     中学の国語の授業で作らされた読書ノートは、本のタイトルとページ数、そして短めの感想を書くことになっていた。感想は一行程度で、長く書くと偏屈な国語教師からおしかりをうけた。目的は本を読む習慣をつけることであって、感想よりも読んだ本のページ数の累計が重要だった。

     感想を書くことにしばられるな、という意図が込められているとしたならば、なんとも素晴らしいアイディアだ。当時の僕には、やはり本を読む事には、どこか強制されているかのような実感が伴っていたからだ。本を読むのは好きだったが、感想を書かされるのは苦手だった。

     高校に通うようになってからも、読書ノートにタイトルを控える習慣は続けた。イヤだった感想は、さっさと取りやめてしまった。あの国語の教師には、なんで日付をつける書式にしておかなかったのかと、いまさらながら不平が言いたい。高校1年から読んだタイトルは切れ目なく並べられ卒業まで続いたが、いつ頃に読んだのかははっきりとはわからない。位置で判断するしかない。

     高校では思う存分好きな本が読めたから、エラリー・クイーンや、その他の海外名作ミステリーを読みまくった。その中に当然ながらクリスティの代表作の一つ「ABC殺人事件」も入っている。当時はクイーンの初期作品への強い執着があったので、ハヤカワ・ミステリよりも創元推理文庫を読む比率が圧倒的に高かったように思う。だから「ABC…」も創元推理文庫で読んでいるはずだ。そこらへんの情報は読書ノートには一切書かれていない。

     創元推理文庫の「ABC…」は、2003年に現在流通している深町真理子訳に改められているので、今回読んだ深町版で当時の印象を正確に再現できるわけではないだろうが、ABC順に無作為に選ばれた名前の持ち主が殺されていくという、今でこそありきたりになってしまった連続殺人鬼(シリアルキラー)を描いたストーリーに、当時としてはかなり意表を突かれたように思う。ただし、当時はクイーン式の緻密な演繹推理でないと満足できなかったのも事実で、ポアロが関係者の会話や状況証拠から真実を見抜いていくという「なしくずし」の解決方法に対する不信がどうしてもぬぐえなかった。だから、本作もストーリーには相応の興味を惹かれたにも関わらず、解決は物足りないと感じたような気がする。

     しかし、今回再読してみると、一見無関係に見える3件の犯罪に共通するものが、実にさりげなく、だがひとたび気づいてしまえば忘れようがないほど際だった部分に配置されている事に驚かされた。こういう伏線の折り込み方へのクリスティらしいあざやかな手際については、以後シリアルキラーものを書く作家たちのお手本になっただろうと思う。

     もう一つ言っておきたい事がある。連続殺人ものというのは、前半〜中盤にかけて「動機無き無作為な殺人」というストーリー展開のサスペンス性に、著者の主眼があるはずだ。だから、このジャンルでは有能すぎる探偵の出る幕はない。いや、早々と見抜いてしまわれては作者としても困るわけだ。そのため、本作でもポアロは最後の最後まで「灰色の脳細胞」の輝かしきひらめきを封じられている。まるで「殺されるだけ殺された後で初めて気づく」と揶揄される事が多かった金田一耕助の姿が透けてみえてくるではないか。こういった点からも、日本の作家が学ぶところが多かったスタンダードな作品と言えそうだ。
    posted by アスラン at 12:56 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) |  書評(アガサ・クリスティー) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2011年11月14日

    オリエント急行の殺人 アガサ・クリスティ(2011/10/12読了,クリスティ文庫新訳)

    「ヒルデガルデ・シュミットが犯人だったら、彼女の荷物から制服が出てくるかもしれない。だが、もし犯人でなかったら、かならず制服があるはずです。」(クリスティ文庫・山本やよい訳)


     ヨーロッパを縦断して走る「オリエント急行」の車中で殺人事件が起きる。雪で立ち往生した列車内で救援を待つという状況下で、たまたま乗り合わせた探偵エルキュール・ポアロは臨時の捜査を依頼される。クリスティの数ある長編の中でも一、二を争うほどの代表作であり、最も読まれた作品の一つであり、センセーショナルな結末という点でも名高い一作だ。そんな事は、ミステリーファンであれば誰もが感想(書評)に書き綴っているはずなので、改めて詳しく述べるまでもないし、内容についてあれこれ述べ立てるのも今更という気がする。

     実はクリスティ文庫版「オリエント急行の殺人」が新訳で出版された際に、珍しく新品を購入してあたためておいた。旧訳版も古本で買い込んであったから、双方を読んで翻訳の善し悪しを吟味してやろうという魂胆だった。ところが、その前に「そして誰もいなくなった」の旧訳(清水俊二訳)と新訳(青木久惠訳)との比較に、思いの外、興が乗って長引いてしまったので、なかなか「オリエント」の方に手が回らなかった。なんとペーパーバックの原書までブックオフで購入して準備万端整えていたというのに…。

     それでようやく今回、新訳(山本やよい訳)を読んでみて、やや肩すかしを食らった。特に取り上げるほどの違和感を新訳の文章に感じなかったからだ。そもそも「そして誰もいなくなった」とは翻訳を吟味する動機付けが違う。「そして誰も…」の方は叙述トリックの作品なので、作者の意図を意識した翻訳ができているかどうかが一つの重要なポイントであったが、「オリエント急行」の方は特にそういうレトリックはない。元々クリスティの文章は平易でわかりやすいし、「オリエント急行」では特にストーリーで読ませるところがあるので、女性らしい翻訳の柔らかさを感じただけで、それ以上に不満は感じられなかった。一箇所を除いては。

     ポアロはあらゆる人々から証言を集めて、やがて綿密なタイムテーブルを作り上げる。その中で、正体不明の人物が2名存在したことをつきとめる。一人は「真っ赤なガウンを着た女」、もう一人は「偽の車掌」だ。そして、この二人が車内の人間の変装か、あるいは車外から入り込んだ人間の仕業なのかに関わらず、真っ赤なガウンと車掌の制服は、車内のどこかに隠されていることは確実だった。

     そこでポアロは「制服はヒルデガルド・シュミット(公爵夫人のメイド)の荷物のなかにある」と予言する。国際寝台会社の重役が「メイドが犯人なのか」と問いただす前に先回りしてポアロが言った言葉が、冒頭のフレーズだ。

      えっ?どういうことだろう。「Aが犯人ならば制服がでてくるだろう、犯人でなければ制服が出てくるはずだ」と言ってるよねぇ。ってことは、どちらにしても制服が見つかるってことでしょう。それってつじつまが合わなくないだろうか。

     これが、「Aが犯人ならば制服は出てくるが、犯人でなければ制服は出てこない」あるいは「犯人ならば制服は出てこないが、犯人でなければ制服は出てくる」と書かれていれば、つじつまが合うし、日本語として自然だ。では、山本訳は間違ってるのだろうか。

     そう思って、他の翻訳と比べてみることにした。まずは、クリスティ文庫の旧訳版である中村能三訳だ。

    「もしヒルデガード・シュミットが犯人だったら、制服はあの女の手荷物の中で発見されるかもしれない−だが、もし犯人でなかった、かならずあの女の手荷物の中にあります。」(クリスティ文庫・中村能三訳)

     旧訳(中村訳)は、ほぼ新訳(山本やよい訳)と同じ表現とみていいだろう。ひょっとしたら山本さんは中村訳を参考にして訳を決めたのかもしれない。

     創元推理文庫の長沼弘毅訳では、前半をこう翻訳している。

    「もし…が犯人だとすれば、制服は彼女の荷物のなかで発見される程度ですが…」(創元推理文庫・長沼弘毅訳)

     なるほど、この訳でようやくつじつまが見えてきた。つまりポアロは、メイドが犯人であった場合と犯人でなかった場合とでは、彼女の手荷物の中に制服が発見される「確実さ」の程度に違いがあることを指摘しているのだ。

     そこで手元にあるBERKLEY MYSTERY版「MURDER ON THE ORIENT EXPRESS」(2004年)
    を読むと、確かにこう書かれている。

    "If Hildegarde Schmidt is guilty, the uniform maybe found in the baggage. But if she is innocent, it certainly will be"


     この原文を見ればわかるように、

    (a)the uniform may be found
    (b)it     certainly will be (found)

    の二つが対比されている。どの翻訳もつじつまが合ってる事はわかった。その上で、僕は山本訳と中村訳は落第だと思う。なぜなら「may be」と「certainly willl be」との確実性の度合いが、英語の表現どおりにそのまま比較されているという点が日本語には馴染まないからだ。

     例えば「Aが犯人ならば制服が見つかる可能性は50%ですが、Aが無実ならば100%見つかります」と言い換えれば、日本語でも不自然ではないし、理解可能だ。長沼訳は、その点に配慮して「may be」を「発見される程度ですが」のように度合いを強調して訳してあるので、日本語としてもつじつまが見えやすくなった。及第だ。

     しかし僕が今回の調査で恐れ入ったのは、ブックオフの書棚で見つけた、表紙が例のアカデミー賞受賞映画のワンシーンに差し替えられた新潮文庫の蕗沢忠枝訳だ。

    「…が犯人とすれば、制服は彼女の荷物の中にないかもしれないが、もし彼女が潔白なら、必ずそこにあるに違いない、と。」(新潮文庫・蕗沢忠枝訳)


     これです。日本語として百点満点。頭にすんなり入ってくるし、つじつまもバッチリあっている。でも果たして翻訳としてはどうなんでしょう?

     僕の素人判断だが、「may be」って「or may not be」って表現を隠し持っているんでしょう?つまり「〜かもしれない、そうでないかもしれない」という意味になる。ならば思い切って「〜でないかもしれない」の方を表に出して訳せば、日本語として座りがよくなるのは間違いない。この「思い切り」が、蕗沢さん以外の方々には足りなかったのだろうか?

     いやいや、長沼さんと蕗沢さんのお二人だけが原文の直訳の不自然さに気づき、他2名は不自然だと思いもしなかったという事のようだ。さらに蕗沢さんただ一人が「大胆かつ繊細に(by児玉清)」訳したという事でしょう。蕗沢さん、二重マルです。

     ところで、だからなんだと言えば、それだけの事だ。この一箇所で新訳がダメだとか、アガサ・クリスティ文庫の新旧ともども翻訳がダメとか言うつもりはない。たまたま、この一箇所が最後まで頭に引っかかってしまっただけで、本当に山本さんには申し訳ない限りです。新訳の1冊は、十分堪能させていただきました。ごちそうさまです。

     また、今回通して読んでもいない新潮文庫・蕗沢訳を、必要以上に持ち上げるつもりもない。あの箇所の「大胆かつ繊細さ」で全編が貫かれていたら、それは素晴らしい翻訳になっているかもしれない(may be…)。でも、それはまた別のお話だ。機会があればトライしてみよう。
    posted by アスラン at 19:41 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) |  書評(アガサ・クリスティー) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2011年10月31日

    スタイルズ荘の怪事件 アガサ・クリスティ(2011/10/23読了,再読)

     相続人と被相続人とのあいだでいさかいが起き、被相続人である老女が殺される。そして、それが毒殺ともなれば、古き良き時代のミステリー黄金期に書かれた完全無欠の探偵小説の舞台設定であることは間違いない。その典型に寄与した功績の多くを、クリスティ女史に与えても異論はあるまい。このデビュー作は、まさに完全無欠の古き良きミステリーなのだ。


     例えば、老婦人の殺人直前に書かれたとおぼしき"新しい遺言書"に、クリスティは徹底的にこだわる。遺言書は犯人によって燃やされたという事実から、非常識なほどに年齢差がある献身的な若い夫に容疑がかかる。事件当日に二人が口論しているのを聞いたという証言がでてくる。

     下書きと思われる老婦人の走り書きや、法的に有効と見なされる一つ前の遺言書から、老婦人の筆跡のサンプルが挿入されている。そのサンプルに、何事か重要な事実が隠されているということまでは僕らにもわかるが、僕ら読者(特に日本語を操る人間)には、今一つポイントがつかめない。

     作者のもうひとつのこだわりは、もちろん"ストリキニーネ"だろう。青酸カリや砒素についで黄金期ミステリーの毒薬の代名詞となっている。殺人に縁のない僕らには、それがどんな形態で、どんな味や匂いがするものかわからないが、なにより当時の人々にはどの程度一般的な薬物であったかも、よくはわからない。ポアロが犯人をあばいた後で、「いかにして老婦人にストリキニーネを与えたか」というトリックを解説するが、実に現代人にはわかりにくい。

     都会に暮らせば、いたるところに調剤薬局があり、病院で医師から処方された内容どおり正確にパッケージングされた薬が小包装で手に入る現代において、薬の飲み方を犯人の思いのままにできるとする手口というのが、もはや古めかしく理解できない。いや、それは僕の早とちりで、ひょっとすると今でも通用する「かしこい」手口なのかもしれない。だが、ストリキニーネという薬物にまつわる、オーソドックスでオールドファッション的なイメージが僕の頭から離れない。

     もちろん当時の読者(イギリスの郊外の生活を楽しみながら、ミステリーを愛読する読者)には、文字通り刺激的な殺し方だったと思われるが、今の僕らにはセンセーショナルな手口とは言えなくなった。

     とは言え、本作のミスディレクション(誤導)の手際や、錯綜した会話の中に正しい糸口を忍び込ませる見事なやり口など、その後のクリスティ作品でおなじみとなった要素があちこちにみられる。僕もそうだが、すでにクリスティという作家の偉大さを少しでも知っている読者ならば、さかのぼって原点を味わうという喜びが感じられるだろうが、それには少々難点がつきまとう。

     さきほど述べた「古めかしさ」もその一つには違いないが、僕の全体を通した印象では、クリスティにしてはストーリー運びにもたつきが感じられる。序文やあとがきにも書かれているように、この輝かしき処女長編は、なかなか買い手がつかなかった。出版社に先見の明のある人物がいなかったとも言えるが、文章自体がまだまだ洗練されていなかったからかもしれない。しかも今も昔も、最前線の出版社は、エキセントリックでセンセーショナルな読み物を追い求める。この、あまりにオーソドックスな骨格をもつミステリーに、その後の一大潮流を形作ることになる新しい試みが隠されているとは、気づきにくかったのかもしれない。だが、いつの時代にも読者は正直だ。出版された本作は好評をもって迎えられた。
    posted by アスラン at 12:44 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) |  書評(アガサ・クリスティー) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2011年10月26日

    青列車の秘密 アガサ・クリスティ(2011/10/19読了)

     最近「そして誰もいなくなった」の新訳(アガサ・クリスティ文庫)を手がけた青木久恵さんが翻訳した作品だ。クリスティの作品を出版順に読みだして、気がついたら「青列車」の番になっていた。出版順リストによると、一作前が「ビッグ4」だった。おいおい、本当かよ。まいったな。読んだことも忘れてるぞ。

     僕自身は、これまでクリスティの良い読み手とは言えず、「ミス・マープルもの」の愛読者ではあったので、彼女のシリーズばかりを読んで、それ以外の作品は熱心に読んではいない。もちろん「アクロイド」「オリエント急行」「そして誰も」などのビッグ・タイトルは読んでいるが、ポアロが登場する作品には未読が多い。だから「トミーとタペンス」や「クイン氏」だとか、初期の冒険小説、スパイ小説を含めたノンジャンル作品は、タイトルを知っている程度の知識しかない。そもそも「茶色の服の男」や「秘密機関」あるいは「ビッグ4」といった平凡なタイトルで、書棚から手にとってみようなどと思う方がどうかしている。

     ところで、僕は「茶色の服の男」も「秘密機関」も「ビッグ4」もすでに読んでいる。驚きだ。「スタイルズ荘の怪事件」から始めて「ビッグ4」まで計7冊を読んだわけだが、内容を思い出せるのは「スタイルズ荘」と「アクロイド」だけだ。「ビッグ4」も「チムニーズ館の秘密」も、読んだという事実さえ忘れていた。それも、この一年のことだ。この健忘症をなんとかしなければならない。そこで、またまた「スタイルズ荘」にさかのぼって読み直し、こんどはかならず書評を残す事に決めた。なんだか、このブログは老後のためのリハビリ教材となりそうだ。

     忘れてしまう理由を僕の健忘症以外に求めると、いわゆる冒険小説のたぐいに僕自身があまり興味を持てないという点が考えつく。本作の解説で北上次郎さんが力こぶをいれて、クリスティの冒険小説作家としての力量を評価している。やがてクリスティは謎解き一辺倒の本格ミステリーの作家に成長してしまったために、冒険小説というジャンルを切り捨ててしまったことを、北上さんは盛んに惜しんでいるのだが、僕には今一つピンとこない。

     もちろん、もう一度読み直せば北上さんの言い分も理解できるのかもしれない。それは後日にゆずるとして、ともかく本作からクリスティの良き読者になろう。この作品は、主人公がポアロなので、謎解き小説であることは確かなのだが、冒頭から勝手が違う感じが続く。様々な登場人物それぞれの思惑が錯綜し、いったいこれからなにが起きようとしているのかが、なかなかつかめない。なんといっても、最初で最後の殺人が起きるのが120ページもすぎてからなのだ。そこにたどり着くまでに、富豪が現れ、溺愛する娘がいて、娘と夫にはそれぞれに愛人が存在する。なにより富豪が娘にプレゼントした20万ドルもするという途方もないルビーに対する争奪戦も陰で繰り広げられる。

     そうかと思えば、セント・メアリ・ミード村というなにやら聞き覚えのある田舎からでてきた、聞き上手で人受けのする知性ある女性までもが登場し、かつての女主人から思いがけない遺産を受け継いで、青列車に乗り合わせる。そんな彼女がまっさきに見つけた話し相手が、小柄で卵形の顔をして、口髭をのばした男、ポアロなのだ。

     殺人が起きた後に、ポアロが「これはわれわれの探偵小説ですよ」と言うように、クリスティは、この女性の設定をいたく気に入っていたように感じられる。だからこそ、本作の2作後に、あのミス・マープルを探偵役に据えた「牧師館の殺人」が書かれる事になった。この作品のキャサリン・グレーという女性は、思慮深くて知恵があり、しかしいまだ控えめで実行力に乏しい。セント・メアリー・ミードに戻って仕えることになるミス・ヴァイナーの、あけすけな人を見る目を「ものにした」のちに、自らの資質を開花させた女性グレーこそが、のちのミス・マープルなのかもしれない。うがって考えると、ポアロは若き日のミス・マープルと早々と競演していた事になる。

     ところで、本作のポアロはとにかく切れ者で、打つ手打つ手が見事にツボにはまり、周りに人々をおそれさせる。言わせてもらえば、なんともポアロらしくない。小男の容姿ゆえに侮られ、突飛な言動ゆえに「外国人」とさげすまれる。変人という人物評がポアロにはつきまとう。しかし、本作に限っては、とにかくかっこいい名探偵なのだ。思うに、本作の骨格は冒険小説であり、その中に北上次郎好みの「ハーレクイーン・ロマンス」の要素が盛り込まれている。ポアロではなく、色男の探偵を配せば、まちがいなくキャサリン・グレーとのロマンスも盛り込まれたに違いない。

     ポアロものとしては異色作ではあるが、存分に楽しませてもらった。それにしてもタイトルの「青列車」だが、今や明らかに古めかしい訳だ。日本でもおなじみの「ブルー・トレイン」の呼称に置き換えると、少々俗っぽいと早川編集部では思っているのだろうか。
    posted by アスラン at 12:59 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) |  書評(アガサ・クリスティー) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2011年03月28日

    そして誰もいなくなった アガサ・クリスティー著/青木久惠訳(クリスティー・ジュニア・ミステリ,2011/3/?読了)

     ハヤカワ・ジュニア・ミステリのスタンス(果たす役割)は、原作のよさを損なうことなく、古典にも近いミステリー黄金期(1930〜40年代)の作品を今の10代くらいの少年少女に読んでもらおうとするものだろう。児童書と一線を画すのは、通常のジュブナイルのように子供にはふさわしくないエピソードを割愛したり、全体的に親が子供に買い与えやすいような配慮をほどこしたストーリーの改変といったものが、この本にはみられない点が挙げられる。

     たとえば女教師ヴェラ・クレイソーンは、家庭教師の勤め先の男性を愛するあまりに、結婚の障害となりそうな彼の甥を死に至らしめる。彼女にそうさせるのは色恋沙汰の末の、いわゆる「痴情のもつれ」にあるわけだが、この点は児童書には少々ふさわしくない。だが、想定する読者が、小学生高学年〜中学生であるならば、今どきの早熟な子供たちには毒にもならない。

     だから、これをジュブナイル(児童書)とみなしていいものかとよくよく考えると、少々疑わしい感じがする。ウェブで見つけたブログでも、本書を児童書のつもりで読んではみたものの、児童書の作家ではなくて、大人向けの翻訳を手がける訳者による〈本格的な〉児童書という点が、かえってあだになっているのではないかという指摘が書かれていた。どうやら、児童書のように話を要約することなく、全体的に原作そのままを子供向けの言葉遣いで翻訳しているというところが、本書のいわば「ミソ」になっている。そのことが、かえって児童書としては読みにくい出来になっているという事らしい。

     それだけでなく、想定する読者(10代の少年少女)のために、原作にはない解説文を挿入するという仕草が、いらぬお節介ではないかという指摘もあった。確かに、僕が今回ざっと本書を読んだ感触では、昨年出版されたばかりのハヤカワ・ミステリ文庫の新訳の文章と、それほど変わるところがない。もちろん、難しい表現をやさしく置き換えてはいるが、内容が改められているわけではない。そもそも、ハヤカワ・ミステリ文庫の新訳自体に「原作にはない、いらぬお節介な解説的表現が散見される」事が気になって、もしやと思ってこちらの訳文を読んでみようと思い立っただけの事なのだ。

     ハヤカワ・ミステリ文庫(新訳)とクリスティ・ジュニア・ミステリとに共通する翻訳家の青木久惠さんは、昨年の新訳を書くにあたって、こちらのジュニア・ミステリの訳を底本としたのは明らかだ。そして、当然ながら大人向けの翻訳表現に戻すだけでなく、子供向けの「お節介な説明」も邪魔にならない程度に残し、さらには、訳出が曖昧な部分の改稿をおこなったとみるべきだろう。というのも、このブログですでに書いたハヤカワ・ミステリ版「そして誰もいなくなった」で指摘したいくつかの訳が、ジュニア・ミステリと比べると変わっているからだ。

     もちろん良くなっているならば何の問題もない。改良が改悪になっていたならば、それはいただけない。いただけないだけでなく、何故にそんなことが起こりうるのかが納得できない。だって、ジュニア・ミステリの方の訳がわかりやすいのだから。そこで思い付いたのは、もしかすると、ジュニア・ミステリを書くにあたって青木さんが底本にしたのが、日本で唯一「そして誰もいなくなった」の翻訳を提供しつづけてきたクリスティ文庫(旧訳)の清水俊二さんの翻訳ではないかという推測だ。清水訳を参考にしながら、ざっと書き流した翻訳が本作で、さらにハヤカワ・ミステリ文庫の翻訳へグレードアップするために、不明な部分を正確に訳出しようとして、かえって分かりにくい曖昧な訳が混入してしまったのかもしれない。

     極論かもしれないが、今回読んだ感想としては、ハヤカワ・ミステリ版を読むよりも、ジュニア・ミステリ版を読む方が、青木さんの訳はしっくりとくる。読みやすいのも長所の一つだし、なにひとつ省略していないがゆえに、児童書だというあなどりは無用だという点も、僕がオススメしたい第一の理由になる。
    posted by アスラン at 20:01 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) |  書評(アガサ・クリスティー) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2011年02月12日

    「そして誰もいなくなった(アガサ・クリスティー作、青木久惠訳)」の翻訳について

    (追記2022/11/19)
     以下の文章では、旧訳(清水俊二)と新訳(青木久惠)の比較を行っているが、旧訳と新訳との間でクリスティの原書「And Then There Were None」自体が幾たびか改訂されていて、そもそも旧訳と新訳とで底本が違うという指摘があった(記事末尾のコメント参照の事)。
     つまり、旧訳と新訳を比較する際の原文自体も、それぞれの底本とは違う可能性があるため、僕が転記した原文で両者を比較する事が無意味な部分がある事がわかった。
     ただ、底本の違いがない(と思われる)原文をそれぞれの翻訳者がどう訳したかというニュアンスの違いについて語っているところは、あくまで僕個人の意見として読んでいただければ、と思う。終わりの方に差別用語を含む一文について翻訳の是非を指摘している部分があるが、これは新訳の底本で改訂されている可能性が高いので撤回する(すでに撤回済み)。

     クリスティ生誕120周年を記念して、昨年から今年にかけて10作ほどの作品が新訳で刊行される。その皮切りが、クリスティの代表作「そして誰もいなくなった」だ。昨年の秋に書店にならんだのでさっそく入手した。なにより気になったのは旧訳(清水俊二訳)との違いである。


     旧訳の初出は1955年のハヤカワ・ポケットミステリで、ハヤカワ・ミステリ文庫として出版されたのが1974年。以後、多少の改訂を経てアガサ・クリスティ文庫として装丁も新たに清水訳は生き延びてきた。いまだにそれほど古さを感じないのは、僕自身が歳を重ねてきたからだろうか。いや、それ以前に「そして誰も…」が、極力その当時の風俗などを取り入れずに、無人島という現代社会から隔絶された空間に限定して物語が進行するからだろう。そこは空間だけが外部から切り離されているわけではなく、時間さえもが外部とは切り離されている。いまだに「無人島」における連続殺人というテーマがなんどでも再生するのには、そこに普遍性があるからだろう。

     旧訳では、「無人島もの」というテーマの普遍性を見抜いて徹底的に抽象的な描写にこだわった作者の先見性が見てとれると同時に、ヒステリックな心理描写を徹底的に排除して冷静な筆致でサスペンスを演出した訳者の手腕が実感できる。しかし、初出から50年以上たった今、ついに生まれ変わるときがやってきた。でも、新しい読者を待ち受ける青木久恵訳とはどんなものなのだろう。新訳は果たして旧訳を乗り越えているのか。若い新たな読者のニーズに応えているのだろうか。そこが僕のなによりの関心事であり、もう一度小説を味わうのは後回しになった。

     ここでは、「そして誰もいなくなった」の新訳と旧訳との比較を行う。ポイントは3つある。
    (1)どちらが読みやすい訳か?正しい訳はどちらか?
    (2)登場人物の造形(演出)はどう違うか?
    (3)ミステリーの翻訳として、どちらが適切か?

     このブログですでになんども言及しているが、ここのところ清水俊二という翻訳の大家(同時に字幕翻訳の大御所でもある)の訳を非難する声があちこちで聞かれる。一読者から聞かれるというよりは、ミステリー評論家や同業者である翻訳家からケチがついている。おそらくは1988年に亡くなる以前から思うところあった人たちが、故人を偲ぶかわりに生前言えなかった心の丈を、思う存分ぶちまけているのではないだろうか。僕は正直、こういう取り上げ方には関心しない。もちろん専門家でもない一読者としては、正しい翻訳で読みたいとつねづね思っているが、この「正しい」という意味には、いろんなレベルの事柄が含まれている。

     例えば「誤訳だらけではないか」とか「はしょったり、要約したりしていないか」と言うものから、「原文の意図が伝わるかどうか」や「日本語としておかしくないか」というものまで、様々な事で人は翻訳にケチをつける事が可能だ。自身が名翻訳家で、「翻訳の世界」という雑誌で欠陥翻訳時評を長い間続けてきた別宮貞徳さんは、「誤訳・悪訳・欠陥翻訳」という分類を編み出している。誤訳ばかりがあげつらわれる事が多いが、翻訳という作業が一個人の孤独な作業であるかぎりは、一つの翻訳作品に多少の誤訳が混入する事はやむを得ない。だから誤訳の多寡を指摘するだけでは翻訳の本質を見落とす事になると、別宮さんは以前から一貫して主張してきた。そこで僕も別宮さんにならって、なるべく誤訳だけにこだわらないように、いくつかの観点で新旧の「そして誰も…」を評価しようと思う。

     しかし、まずは翻訳そのものの形を比較しなければ話は始まらない。「(1)どちらが読みやすい訳か?正しい訳はどちらか?」から見ていく事にしよう。ところで、僕は翻訳の正確さや読みやすさについて、すでに多少の比較を試みている。

    新訳「そして誰もいなくなった(アガサ・クリスティ)」の意義
    「そして旧訳が残った 〜旧訳『そして誰もいなくなった(アガサ・クリスティ)』の意義〜」


    の2つの記事がそれだ。実は入手したての新訳(青木訳)と、手元にあったクリスティー文庫版の旧訳(清水訳)とを比べてみた。最初の記事では、原文を参照する事なく憶測を書いてしまった。思うに、誤訳の多さを指摘された清水訳に置き換わるくらいだから、少なくとも「正確さ」の点では、新訳が旧訳を凌駕しているものと最初から先入観をもっていた。それが失敗のもとだった。結局、原書を図書館で借りてきて、3つを並べて比較したら、あれれっ?なんと僕が指摘した部分の多くは旧訳の方に軍配があがったのだ。だから「そして旧訳が残った」と下手なシャレではあるが、比較しなおした結果を後追い記事にして載せた。

     あらかじめ断っておくが、上記の2つの記事で比較したのは第一章第1節だけだ。たかだか3ページに過ぎない。だから、これをもって「新訳は出来が悪い」と言いたいわけではないし、旧訳を必要以上に擁護したつもりもない。ただ、2つの翻訳の性質の違いが見えてくる事を指摘したい。詳しくは上記の記事を読んでもらえればありがたいが、要点を挙げておくと、

    [新訳の特徴]
    ・並列句を入れ替える事が多い。それによって文章の論理構造が変わる場合がある。
    ・原文に書かれた事を漏らさず訳そうと心がけている(ように見える)。
    ・「原文に忠実」をモットーとしたせいか、文章の流れ(伝わりやすさ)が悪いと感じる事がある。
    ・勢い余ってなのか、原文にない解説的表現を加えている。
    ・「彼」「彼女」という表現を極力使わない。名前さえも肩書きに置き換える事がある。


     「文章の論理構造」に無頓着だと感じたのは以下のような箇所だ。

    (原文)In the corner of a first-class smoking carriage, Mr. Justice Wargrave, lately retired from the bench, puffed at a cigar and ran an interested eye through the political news in the Times. 
    (旧訳)最近現職から引退したウォーグレイヴ判事は一等喫煙車の隅で葉巻をくゆらせ、《タイムズ》の政治記事を熱心に読みふけっていた。
    (新訳)ウォーグレイヴ判事は、一等喫煙車の隅の席で葉巻をくゆらせていた。少し前に公職を退いた判事の目は、《タイムズ》紙の政治記事を追っている。


     原文では、ウォーグレイヴ判事が客車で「葉巻をくゆらせ」、かつ「(新聞の)政治記事を読みふけって」いる。ただし、ただの「判事」ではない。「最近引退したばかりの判事」が、これこれしたと書かれているのだ。ところが、旧訳のように書けたはずなのに、新訳は後半の「新聞を読みふけっている判事」にのみ、「引退した」という修飾節をかぶせる。これではニュアンスが微妙に変わるはずだ。下手をすると因果関係が入れ替わってしまうことすらある。前述の記事では「おなかをすかせたポチは、たっぷりとご馳走にありつき、眠りについた。」という文を例に挙げた。これが、新訳者の手にかかると「ポチはたっぷりとご馳走にありついた。おなかをすかせたポチは眠りについた。」になってしまうかもしれない。

     「原文にない解説的表現」というのは、
    (原)Somerset
    (旧)サマセット
    (新)イギリス南西部のサマーセット州

    (原)the Devon coast
    (旧)デヴォンの
    (新)サマーセット州の西どなり、デヴォン州の

    という部分だ。なぜこうまで原文に書いていない地理的説明を加えなければならないのか、どうにも分からなかった。しかし、最近ようやく手がかりらしき指摘がブログに書かれているのを見つけた。

     新訳の青木久惠さんは、今回のアガサ・クリスティ文庫版の翻訳を担当する前に、クリスティー・ジュニア・ミステリ版「そして誰もいなくなった」の翻訳を手がけている。それを読んだ方の感想では、説明的な記述が親切にも付け加えられているが、子どもが読んで想像する余地が少なくなってしまうのではないかとの危惧が綴られていた。このブロガーも僕同様「余計なお世話」と感じている事になる。またしても僕の憶測だとまずいので、ただいま、ジュニア・ミステリ版「そして誰も…」を図書館から取り寄せ中だ。追って、検討結果を紹介できるだろう。

     では引き続いて、第一章で原書と旧訳と新訳を比較して気になったところを一つ一つ見ていこう。あらかじめ断っておくが、原書と旧訳は対応が一致するため、舞台はインディアン島(Indian Island)だが、新訳は最近イギリスで出版された原書をもとに「兵隊島(Soldier Island)」に変えられている。事情は推して知るべしだ。インディアンが「政治的に正しくない用語」だからだろう。

    [1-1 ウォーグレイブ判事]
    (原)Nodding his head in gentle approval of his logic, Mr. Justice Wargrave allowed his head to nod.
    (旧)ウォーグレイヴ判事は自分が下した結論にみずからうなずきながら頭をうなだれた…
    (新)自分の出した結論に満足した判事は、こっくりうなずいた。そして、うなずいたままうなだれて…。


     新訳の「うなずいた、うなずいたまま、うなだれて」という流れは、くどく感じられないだろうか。確かに判事は「うなずき、うなだれる」。しかし、同じ部分を旧訳はすっきりと訳している。原文もひとまとまりの文なのに、なぜ新訳は文を分けた上に、わざわざ「そして、うなずいたまま」などと言い直したのだろう。

    [1-2 ヴェラ・クレイソーン]
    (原)But the house had certainly been built by a millionaire and was said to be absolutely the last word in luxury.
    (旧)しかし、邸宅はたしかにある富豪によって建てられたもので、贅沢きわまるものであるといわれている。
    (新)とはいえ、その島に大金持ちが邸宅を建てたことは本当らしい。これ以上ないほどの、すばらしい豪邸という評判だ。


     新訳の「本当らしい」は変だ。原文の前半は「certainly(確実な事だが)」と言っている。ここはヴェラの独白だから、本人が邸宅の存在を確信しているわけだ。後半の「was said to」を前半にも適用してひとくくりにして「らしい」と書いてしまったようだ。

    [1-3 フィリップ・ロンバート]
    (原)That little Jew had been damned mysterious.
    (旧)モリスがいったことは謎であった。
    (新)あのチビのユダヤ人、やたら謎めいたことを言っていたなあ。


     ロンバートから見たモリスの描写がなんどもでてくる。旧訳では「ちびのユダヤ人」という表現を差別用語だとして訳出していない。しかし、現代こそ「political corectly(政治的に正しい)」表現が求められるのに、旧訳の方に「気遣い」が目立つのは不思議だ。もし、今の作家が書くとしたら、こういった表現は避けるだろう。本作のように過去の作家の書いたものは、目にあまる場合は手直しもやむを得ない。作者に差別する意図がなく、当時の社会状況がそうさせたと見なせる場合にかぎり、読者に理解をもとめる文言が巻末に書かれる事が多い。

     ただし、こういった文言をハヤカワ・ミステリー文庫で見たことはほとんどない。人が殺されるのが当たり前の小説を扱う出版社にとって、こうした問題に真正面から本気で取り組む必要はないという不文律でもあるだろうか。

     いずれにしろ、清水訳は差別用語に配慮して訳文を「改変」している。これは、抄訳が当たり前だった戦前のミステリー状況と比較すれば、きわめて穏当な(言い換えれば「きわめて誠実な」)対応と言えるが、現代の読者から見ると「くさいものにフタ」的な、ぬるい対応と見られるだろう。作者の独断なのか、当時の出版社の方針なのかは不明だ。文責は棚上げするとしても、旧訳では「ちびのユダヤ人」を人名の「モリス」に置き換えたせいで、次の文で初めて「アイザック・モリス氏は…」と名前をあかすところとのつじつまが合わない。

    (原)There wasn't much he drew the line at really...No, there wasn't much he'd draw the line at.
    (旧)たとえ、不正なことでも、あまり気にしていないことは事実だった。いや、むしろ、危い橋を渡ってみたいのだった。
    (新)彼があまりこだわらないのは、本当のことだった…。四の五の言う気はない。


     新訳の文章では、ときどきつながりがわからなくなる表現がある。上記の「四の五の言う気はない」というのも、なんだか唐突だ。もしかしたら新訳の方が正確な表現で、旧訳の方がざっくりとした意訳なのかもしれない。しかし「伝わる訳文」はどっちだろう。

    [1-4 エミリー・ブレント]
    (原)Enveloped in an aura of righteousness and unyielding principles, Miss Brent sat in her crowded third-class carriage and triumphed over its discomfort and its heat.
    (旧)ミス・ブレントは自分が正しいと信じている主張をかたく持して、混みあっている三等車にきちんと座り、不快と暑さをじっとこらえていた。
    (新)独りよがりな思い込みと頑迷のオーラに包まれたミス・ブレントは、混み合う三等車の暑さと人いきれに耐えて、得々としていた。


     もちろん「Enveloped in an aura of righteouness and nyielding princlipales」の訳し方が問題だ。ここはどちらがいいとは一概に言いにくい。まず1970年以前には「オーラ」という言葉は日本語としてなじみがなかった。だから今の読者にはなんの抵抗もない「オーラに包まれた」と表現できる青木訳には、一日の長がある。旧訳のように、あえて言い換える方が読者には古めかしく感じられるかもしれない。

     ただし、新訳の「独りよがりな思い込み」と「頑迷」という言葉が、それぞれ「righteouness」と「unyielding principles」に対応しているのか、今一つ腑に落ちない。righteousnessは「自分こそ正しい」という信念を意味する。そこから「思い込み」と表現するのは可能だろうが、「独りよがりな」とまで言い切っていいものか。旧訳は、名詞句をそのまま直訳するのを避けて、かなりざっくりと意訳することで「an aura of A and B」のような並列句の訳出という難題をいっきょに乗り越えている。アバウトに言えば、断然旧訳の方が伝わってくる。

     もう一つは「Miss Blent…triumphed over its discomfort and its heat」の部分の訳だ。

     (旧)不快と暑さをじっとこらえていた。
     (新)暑さと人いきれに耐えて、得々としていた。


     新訳では「耐えられる自分に喜びを感じていて、平然としていた」というニュアンスが感じられる。しかしtriumph overには「打ち勝つ」という意味はあるが、「喜々として」というニュアンスまではないのではないか。「得々としていた」というのは、まるでガマン大会のチャンピオンのような言いぐさではないか。

     ところで新訳の青木さんは、なぜか並列表現の順番を入れ替えるのが好きだ。「人いきれと暑さに耐えて」だとまずいと考える”合理的な”理由があったのだろうか。これが度を超すと、最初に採りあげた関係代名詞の係り受けに見られたように、因果関係が逆転する誤りを呼び込んでしまう。

    (原)「Bellhaven Guest House」「a guest house of my own」
    (旧)「ホテル」「家族的なクラブのような宿」
    (新)「旅館」「旅館」


     おそらく「Geust House」のようなタイプの宿は、日本には存在しないのだろう。二人とも訳出に苦労している。いや、苦労せずに割り切っているのかもしれない。僕がまっさきに違和感を感じたのは、新訳の「旅館」という表現だ。そもそも日本語では「旅館」と「ホテル」とを使い分けているからだ。「旅館」といえば純和風の宿泊施設と決まっている。ホテルの方は、大きなリゾートホテルからビジネスホテルや簡易ホテルまで、さまざまな形態の宿泊施設が該当する。「宿」は一般名詞として使えるが、多少の和風なイメージがつきまとうので、旧訳のように「クラブのような宿」という断り書きをつけるのも一つの手だろう。よくわからないが、日本で言う「ペンション」とはまた違うのだろうか?

    [1-6 アームストロング医師]
    (原)It had been a near thing, that!...By Jove, it had been a near thing though...That had been a near shave, too. Damned young fool!
    (旧)(前略…)もう少しで、自動車をぶつけるところだった。向こう見ずな奴だ!
    (新)(前略…)またも、あぶないところだったじゃないか。いまいましいったらない!


     旧訳は、原文に見られる表現の繰り返しに無頓着だ。とくに最後の文の「too」の意味を見落としている。一方で、新訳の方はきっちり押さえた訳になっている。15年前も「あぶなかった!」、そして今度も「またあぶないところだった」という意味だ。

    [1-7 アンソニー・マーストン]
    (原)Who were these Owens, he wondered? Rich and stinking, probably.
    (旧)それにしても、オーエン夫婦というのは、どんな人間なのだろう。おそらく、金はあるが、あまり愉快ではない人間だろう。
    (新)それにしても、このオーエン夫妻というのは、いったいどういう人間なんだろう。きっと腐るほど金がある連中なんだろうなあ。


     「Rich and stinking」の訳だが、"stinking"の解釈が分かれている。旧訳では「(人柄が)うんざりさせられる」と解し、新訳では「うんざりするほど(金を)もっている」と解している。手元の英和辞典では「実にいやな」とか「いまいましい」という意味で、旧訳を支持している。だが「stinking rich」という成句で「大金持ちの」という意味があるようだし、リーダース英和辞典によると、stinkingだけで口語として「腐るほどの金をもった」と意味があるようだ。ただし、この口語の語義が1939年当時のイギリスで使われていただろうか?理屈で考えると旧訳に軍配があがりそうだ。

     第一章でめぼしいところは比較した。最後に第二章第8節から引用して、新旧の訳の違いを総ざらいしておこう。

    [2-8]
    (原)
    the Judge asked him:
    "Is Lady Constance Culmington expected, do you know?"
    Rogers stared at him.
    "No, sir, not to my knowledge."
    The judge's eyebrows rose. But he only grunted.
    He thought:
    "Indian Island, eh? There's a nigger in the woodpile."

    (旧)
    判事はたずねた。
    「コンスタンス・カルミントン」という婦人が来るかどうか知っているかね」
    ロジャースは判事を見つめた。「いや、存じませんが」
    判事は眉をあげた。しかし何かききとれぬことをつぶやいただけだった。彼は考えた−
    インディアン島か。まきの中にインディアンが一人いる。

    (新)
    判事は尋ねた。
    「コンスタンス・カルミントンさんは来られることになっているのか」
    執事は判事を、まじまじと見た。
    「いいえ、判事さま。わたくしはうかがっておりませんが」
    判事は眉をピクリと上げた。だが、なにやらうめいただけだった。
    ”兵隊島だと? いささか、興ざめだな”と、判事は思った。


     これまで見てきたように、新訳はできるだけ「原文に忠実な翻訳」を心がけている。英語のheやsheを「彼」「彼女」と訳さないのも、青木訳のこだわりの一つだろう。日本語の「彼」「彼女」は、英語の三人称代名詞と違って「つきあっている異性」の意味が付着するからだ。また、時に代名詞や名前よりも肩書きで表現する方が日本語としてなじみがいい。上記の文でも旧訳は原文通りに「ロジャースは判事を見つめた」と訳しているが、新訳はあえて「執事は判事を、まじまじと見た」と肩書きに置き直している。

     ところが正確さを追求すれば「読みやすさ」に直接つながるとは言えないところに、翻訳の難しさがある。上記の文章だと「執事は判事を」というように語呂が重なる。ぱっと見にどちらがどちらがどちらかわかりにくい。旧訳の清水は「彼」「彼女」を使う事にこだわりはない。名前も同様だ。正確さにこだわるよりもわかりやすさを優先する。僕はおおむね青木訳の「彼」「彼女」撲滅キャンペーンに賛同するが、青木訳には「わかりやすさ」を第一とする臨機応変さが不足しているように思う。

     旧訳はあまり感情のたかぶりを登場人物のせりふにこめないし、語りも簡潔だ。その分、客観的で物静かなトーンが作品全体を支配しているが、新訳は登場人物の感情の高まりをすなおに台詞にこめていて、語りも登場人物の心情に沿うように起伏にとんでいる。新訳の方が、今の若い読者には感情移入しやすいかもしれない。

     これは以前にも指摘したが、文の格調としては旧訳の方が一歩も二歩も先んじている。たとえば「カルミントンさんは来られることになっているのか」。せっかく女友達に敬語を使うのであれば「来られる」ではなく「いらっしゃる」なのは言うまでもない。旧訳では友人扱いなので「来るかどうか」ですませている。「わたくしはうかがっておりませんが」は申し分ないが、旧訳の「いや。存じませんが」の簡潔さには、余計な事を言わぬ執事の姿勢が自ずと表現されている。

     さて最後の一文だ。これはいまだに理解に苦しむ。受け取った手紙の差出人と考えるカルミントンが島に来る気配がないことを確認した上で、判事がインディアン島(兵隊島)についてひとりごちる場面だ。

     旧訳の「まきの中にインディアンが一人いる」には、なにかのレトリックが含まれている事は容易に予想がつく。そうでなければ意味が不明だからだ。レトリックの存在がわかったとしても、やはり読者には意味がわからない。原文は「There's a nigger in the woodpile.」と書かれている。niggerは、題材となった元々の童謡「Ten little niggers」に由来する。ウェブで調べたところ、片山暢一著「ES・Gardnerに現われた米語のFigurative Use」という論文の一節に手がかりが見つかった。この論文に、
    「まきの山の中の黒人」から「かくれた事実叉は動機」更に単に「間違い」の意味となる。

    との記述が見られる。すると、さきほどの例文は、カルミントンが来ないことを怪しんだ判事が「何かあやしい、何か間違いがある」と比喩的につぶやいたと解釈できそうだ。これなら辻褄が完全に合う。ただし旧訳は直訳しただけなので、手抜きと言われて仕方がない。

     一方、新訳では「兵隊島」という島名について「興ざめだ」と言い切っている。当初は原文に隠されたレトリックとは「興ざめ」という意味だったのかと考えたのだが、新訳では、そもそも違う原文を翻訳している可能性がある。というのもniggerが差別用語なので、このレトリックに満ちた一文も別の表現に改訂されていたとしてもおかしくないからだ。なので、この一文についての新訳の是非は問わない事にする(最新の原書ではどのような文に改訂されているかを確認する機会があれば、あらためて検討してみたい)。
    posted by アスラン at 14:20 | 東京 🌁 | Comment(2) | TrackBack(0) |  書評(アガサ・クリスティー) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2010年12月06日

    清水俊二訳「そして誰もいなくなった(ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 1-1)」を探して

     我ながら、自分のトリビア主義にあきれてしまう。店頭で新訳の「そして誰もいなくなった」を見かけて思わず買い求めた時から、順調に進んでいた読書計画が途端に滞ってしまった。手元には、村上龍最新作「歌うクジラ」上下巻を図書館からまんまと入手できたというのに。2週間きっかりで返却しなくてはいけないというのに、「『そして誰も…』祭り」と天秤にかけて、今のところ、お祭りを優先しているに至ってはもう、本末転倒というしかない。

     とりあえずどういう状況かを整理しておこう。

     まず、ハヤカワミステリ文庫で久々に新訳の「そして誰もいなくなった」(青木久恵訳)が発売された。そこで気になるのは、旧訳の「そして誰もいなくなった」(清水俊二訳)の取り扱いだ。訳が改められるにはいくつかの理由が考えられる。一つは文章が古びたという事だ。翻訳というのは永遠不変のものではなく賞味期限がある。例えば僕の生まれた当時の昭和30年代をメディアで語るとき、かならずノスタルジーたっぷりのイメージと言葉で語られるように、その時代を生きてこなかった若い世代にとってはセピア色にいろあせた世界だ。翻訳もかならずそうなる。wikipediaによると、清水俊二訳の初出は1955年のハヤカワ・ポケットミステリだそうだ。となると、すでに半世紀前の時を経てきている事になる。新訳が出ても当然という事になりそうだ。

     もう一つ容易に考えられるのは「訳がよろしくない」という事だ。間違いが多いという点が取り沙汰される場合がある。その場合、訳者に権威がある場合はなかなか生前に改められることは難しい。清水俊二さんは1988年にお亡くなりになっているので、そろそろ新訳に変えましょうという機運が高まったのかもしれない。こう書くのは、だいぶ以前から清水訳には問題ありというミステリーファンや評論家の意見を見かけるからだ。

     僕が以前に書評した「ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18(小森収 編)」では、何故か収録された評論の2つ(作者はもちろん異なる)で、清水訳を糾弾していた。これは清水氏の翻訳のまずさを物語るものと考えるよりは、編者の偏見を意味すると考えるべきだ。新書に収録されたジャンルの異なるミステリ評論を選ぶにあたって、わざわざ清水批判の評論を並べて読者に故意に清水氏への悪印象を与えたわけだ。だが、何故?以前からどうしても気になっていた。

     その二つというのは、池上冬樹「゛清水チャンドラー゛の弊害について」と、若島正「明るい館の秘密」だ。これを隣り合わせに並べて評論集のトリに持ってきた編者には、偏見というだけではなく「悪意」が感じられる。よっぽど訳者の生前に編者とは因縁でもあったのだろう。知りたくもないが、つまらない事をしたものだ。

     その時に「明るい館の秘密」についてはずいぶんとのめり込んだが、どこかつじつまが合わない解釈が気になっていた。立論が怪しければ、その中で若島氏が糾弾する「清水訳の致命的な誤り」という説も疑わしい。それを正当に評価できる機会はなかなかこなかった。何しろ原書にあたるには、素人の手に大いに余る。かといって、清水訳と、もう一人の新たな権威・若島氏の評論中の試訳だけでは、いくら僕なんかがとやかく言ったところで話にならない。そこへ「飛んで火にいる、なんとやら」。新訳が飛び込んできたわけだ。

     これで持ち駒はそろった。新訳(青木訳)と旧訳(清水訳)をつきあわせれば、僕でもそれぞれの訳の是非は評価できそうだ。と同時に、少ないながらも「明るい館の秘密」の中に載っている試訳(若島訳)の是非についても、同時に比較検討できるというものだ。若島氏の評論の値踏みが目的でもあるが、もう一方で翻訳家・若島の値踏みでもある。

     また、原書も最近イギリスで出版されたという「兵隊島」バージョンを図書館で借りられた。すでに別の記事で指摘したが、旧訳では「インディアン島」で起こる「10人のインディアン人形」という童謡になぞらえた連続殺人だったのが、新訳では「兵隊島」で起こる「10人の小さな兵隊人形」という童謡になぞらえた連続殺人に変更されている。

     原書を入手した最大のポイントは、それぞれの翻訳の評価もさることながら、叙述トリックの有無の確認のためでもある。例えば、今回調べてみて、若島氏が取り上げた「特定されない心理描写」のように、字体がイタリックになって引用符に囲まれているものは心理描写とすぐにわかるが、そうでない場合に「語り手」の客観的心理描写なのか、登場人物の主観的心理描写なのか、容易にはわからない場合が結構あるからだ。そういう意味で原書をしげしげと眺める必要がでてくる。

     しかし、なんといっても旧訳を入手するのが実は一番難しい。新訳が登場する前のクリスティ文庫は、ブックオフなどの古本屋に行けば容易に入手できる。ところが、この翻訳にはちょっとした曰くがある。例の「明るい館の秘密」で若島正氏が「致命的な誤訳」であるかのように糾弾した箇所があり、それがためにハヤカワ・ミステリ文庫からクリスティ文庫へ、訳がスライドした際に、どなたかがその部分を修正した。2003年の事だ。すでに1988年に清水氏はお亡くなりになっているので、これ幸いと「くさい物にフタ」をしたわけだ。

     僕は当初、どこにも「変更しました」とも「改訂しました」とも書かれていないのは、早川書房編集部が一存で修正したのだろうと思っていた。ところが、修正はそれだけじゃなかったのだ。これも、「そして旧訳が残った 〜旧訳「そして誰もいなくなった(アガサ・クリスティ)」の意義〜」という記事で指摘した事だが、旧訳では「三番目の妻」となり、新訳では「三番目の新妻」となっていて、新訳はまるで新妻を一人二人…と数えているかのようで不自然だと、清水氏の訳に軍配を上げた。ところが、清水訳も時代を遡ると「三番目の新妻」だった時期がある事が判明した。

     図書館で取り寄せるにあたって、1974年に出版されたハヤカワミステリ文庫版「そして誰もいなくなった (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 1-1))」 は貸し出されていてすぐには手元に届かないので、仕方なく早川から1972年に出版された「世界ミステリ全集 1 アガサ・クリスティー」で「そして誰もいなくなった」の文章を確認すると、「三番目の新妻」になっていた。そして今週末手に入れたポケミス版(1955年出版)を見ても「三番目の新妻」になっている。こう考えると、まだ見ぬハヤカワ・ミステリ文庫版は、全集のたかだか2年後に出ているので、「三番目の新妻」のままである可能性が高い。

     すると、いつ「三番目の妻」に変更されたのかと言えば、やはりクリスティ文庫収録時という事になるのだろう。つまり、このトリビアな修正も清水俊二氏によるものではない。確かに「致命的と思われる修正」を有無をも言わせずに実行するのに、他の翻訳家の権威など不要かもしれない。しかし、「新妻」を「妻」に差し替えるような微妙な修正を果たして出版社がやってしまうものだろうか?どちらが正しいかという白黒はっきりする違いはない。ニュアンスの問題だろう。これ以外にどれほどのトリビアな差し替えがあるのだろう。怖くてクリスティ文庫版の清水訳は使いたくない。

     しかしハヤカワ・ミステリ文庫は、もうちょっと手に入れるまでに時間がかかりそうだ。見切り発車で、1972年出版の全集の文章を底本にしようと思う。だが全集を持ち歩くのは大変だ。しかも古いためにぼろぼろでかび臭い。カフェで取り出すと隣のお姉ちゃんに目くじらたてられそうだ。なので当面はクリスティ文庫の文章を用いる。「三番目の妻」と「三番目の新妻」のような違いが後で見つかれば、それはそれで面白い酒の肴のなるかもしれない。

     そこで鋭意、「そして誰もいなくなった」の導入部(第1章1節〜8節)までの文章を比較検討中…だ。
    posted by アスラン at 20:03 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) |  書評(アガサ・クリスティー) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2010年11月14日

    新訳「そして誰もいなくなった(アガサ・クリスティ)」の意義

    (本稿で書く翻訳の比較において原書は参照していません。あくまで僕の推測に従って書いていますので、ご承知のうえでお読みください。)

    (新訳)ウォーグレイヴ判事は、一等喫煙車の隅の席で葉巻をくゆらせていた。少し前に公職を退いた判事の目は、《タイムズ》紙の政治記事を追っている。


    (旧訳)最近現職から引退したウォーグレイヴ判事は一等喫煙車の隅で葉巻をくゆらせ、《タイムズ》の政治記事を熱心に読みふけっていた。


     それぞれ新旧の冒頭の一文だ。いくつかのことがわかる。まずざっと読むと、新訳も旧訳もそれほどの違いがないように思える。もちろん文体は違うが、伝えたい内容をどう伝えるかにおいては両者間に齟齬は感じられない。いや、それどころか共通する点が多い。

    ・ウォーグレイヴ判事
    ・一等喫煙車の隅
    ・葉巻をくゆらせ(る)
    ・《タイムズ》(紙)の政治記事


     たとえば「判事」は誰が訳そうが「判事」なのは理解できるが、「一等喫煙車の隅」だとか「葉巻をくゆらす」とか「政治記事」などの表現は、表記の選択も含めて微妙な差異があってしかるべきなのに妙に一致している。おそらく、新訳の訳者は旧訳を参考にしながら訳づくりをしている。というか、なるべく旧訳の印象を損なわないように配慮している(させられている?)のかもしれない。

     では、違う点はあるだろうか?

     新訳は単文の二文構成だが、旧訳では重文の一文構成になっている。想像するに原文は一文構成なのだろう。英文は構文的に延々と文をつないでいっても不自然ではないが、日本語で長めの単文を連ねていくと読みづらい。さらに後で指摘するが、関係代名詞節を含む英文の場合は、訳文はなおさら読みづらくなる。そこで新訳では文を区切ったのだろう。

     ここでわかるのは「翻訳の技術」の差だ。もちろん翻訳家自身の技量そのものを問うこともできるだろうが、僕が言いたいのは60才の年齢差がある二人の訳者の間には、よってたつ技術論に違いがあるという事だ。ある時期から歯医者は開業したての方が信頼がおけると実感した。それは新しい治療器具と治療技術の進歩があったからだろう。翻訳技術も時代とともに進歩しているはずだ。

     しかし、少し腑に落ちない点もある。新訳では単文の主語が変わるが、旧訳では「判事」に統一されている。統一できるからこそ重文のままにしておいたのだ。推測するに原文は、
    (A)ウォーグレイヴ判事は…葉巻をくゆらせ、
    (B)(判事は)自らの目に記事を追わせていた。

    という構成だったのではないだろうか。

     すると、後半の無生物主語構文の扱いについては、直訳のままにはしないという点では新旧意見が一致していて、
     (新訳)判事の目は記事を追っていた。(使役構文を解体)
     (旧訳)判事は記事を熱心に読みふけっていた。(意訳)

    という方法をそれぞれ選択した事になる。どちらが正しいという問題ではない。直訳は問題外にしても、なるべく原文のニュアンスが伝わる訳が読者に対して誠実であるというのが、現在の翻訳法のトレンドであるのならば、新訳は確かにトレンドに忠実だ。

     問題は他にある。関係代名詞節の扱いだ。
    (新訳)少し前に公職を退いた判事は…
    (旧訳)最近現職を引退した判事は…

     ここでようやく表現の違いが顕わになってきて僕を安心させる。原文ではリタイヤという英語かもしれないが、新訳の「公職を退く」というのは、主体が「判事」である事から来る是正表現だろう。

     不思議なのは、新訳では後半の文の「判事」を修飾し、旧訳では前半の「判事」を修飾しているという点だ。もし後半の「判事」にかかる関係代名詞節であれば、新訳のねらいが分からなくなる。「少し前に公職を退いたウォーグレイヴ判事は…」で第一章を始めてもいっこうに構わないように思えるからだ。

     逆に、後半の「判事」にかかるのが原文どおりだとすると、旧訳の修飾は「ありえない」と言わざるを得ない。語り手は、まず判事を読者に紹介する。判事は「葉巻をくゆらせている」。その判事は「少し前に公職を退いた」ばかりだ。なるほど、葉巻をくゆらしているのはリタイアからくる悠々自適な人生を楽しんでいるわけか。ところが、その後で「目は新聞の政治記事を追っている」。引退した身分に慣れていない雰囲気が出ている。つまり、「公職を退いた」という表現をはさんで、判事の心象描写が逆転する。

     ところが旧訳では、「現職を引退した判事」が「葉巻をくゆらせ」かつ「記事を熱心に読みふける」。さきほど指摘したように、前半と後半とでは判事の心象描写が逆転するのだから、そのまま順接でつなぐのはおかしい事になる。となると、やはり関係代名詞節は後半の判事に掛かっているとみた方がよさそうだ。旧訳は、一文構成にして主語を「判事」で統一した事から、訳者が構文に手を入れた事になる。さすがに、これはちょっとやりすぎではないか。

     なるほどこういうところに、以前から耳に入ってくる「旧訳は誤訳が多い」という主張の一端があらわれているのかもしれない。実は、ざっと1章の第1節を読んだのだが、とくにこれといった差異は感じられなかった。もちろん、その後もそうだという保証はないのだが、要するに旧訳では、訳者が原文を都合良く変形した上で訳文を作り上げているのかもしれない。これは、かつての「達人」と呼ばれる人によくみられることで、結構始末に悪い。「欠陥翻訳」シリーズの別宮貞徳さんも、どこまでが意訳でどこからが誤訳かの境界をみさだめるのは難しいと書いていた。

     これまで旧訳を何度も読んできたが、不都合を感じたことは一度もない。控えめに言っておきたいが、作者クリスティと旧訳の翻訳家との、いわばコラボレーションを読まされてきたからかもしれない。日本語としてこなれた文章であれば、こちらとしては原文通りだと信じるしかない。同じ訳者のレイモンド・チャンドラー作品(ハヤカワミステリ)が、原作のもつ雰囲気を台無しにしているという批判を見かけたが、訳文なのか翻案なのか判然としない部分が影響しているのかもしれない。

     それ以外に気づいた点では、新訳は「彼」「彼女」をほとんど使っていない。日本語では「彼、彼女」には特別な意味(ステディな関係)が付帯する事が多い。それを避けるには、名前か役職(判事)を連呼する。だが、新訳では連呼が目立つようにも感じられる。日本語では「判事は」と一度書けば、次の文で繰り返す必要はない。しかし新訳の方法論はきわめて正当だ。いわゆる直訳調からくるバタ臭さが少なくなっている。

     それから、驚いたことに10人の男女が集まる「インディアン島」が、新訳では「兵隊島」に変わっている。例の童謡も「10人のインディアン」ではなく「10人の兵隊」に変わる。当然ながら暖炉に置かれた人形も兵隊の人形だ。あきらかに差別用語への対処だろう。そもそもイギリスで初めて出版された時のタイトルが「Ten Little Niggers」だから、童謡も人形も「10人の黒人(ニガー)」だった。米国で出版されるにあたって問題となり、タイトルは「And Then There Were None」に変わり、黒人はインディアンに変わった。

     だが、今やPolitical Correctly(政治的に正しい)の波は世界中すみずみにまで行き届いてしまった。「インディアン」さえもが新たな問題を引き起こし、「ネイティブアメリカン」になおすように強制される。そうなる可能性もあったのだろうが、Wikipediaによると英国で出版された最近の「そして誰も…」では、10人の兵隊(soldiers)を採用したそうだ。日本の新訳も、それにならって「兵隊」「兵隊島」に変えたのだろう。理屈は分かるが、「インディアン島」(「島」の読みは「とう」がふさわしい)が「兵隊島」(こちらは「じま」だろう)になると、なにやら横溝正史の金田一シリーズのようなおどろおどろしさが一気に増してくる。

     さて、第一章第1節に限って気づいた違いをすべて言って終わろう。

     冒頭から3つめの段落(旧訳では2つめ)に目を移してみると、これも関係代名詞節の係り先が新旧で違っている。
    (新訳)…デヴォン州の海岸沖にある、その小島を買いとった話から始まった。そして、そこに建てられたモダンな邸宅が、…
    (旧訳)…島を買いとって、デヴォンの海岸に近い島に贅を尽くした近代邸宅を建てた記事が最初だった。


     こまかいところを見ていくと、新訳に比べて旧訳は訳し残しがあるようだ。

    (新)イギリス南西部のサマーセット州 (旧)サマセット
    (新)サマーセット州の西どなり、デヴォン州の (旧)デヴォンの
    (新)三番目の新妻 (旧)三番目の妻
    (新)小耳にはさんだ (旧)(該当表現なし)
    (新)ジョーナスという記者によれば (旧)「ジョナス」は
    (新)きどった飾り文字で (旧)美しい筆跡で


     旧訳の責任者、清水俊二は、映画の字幕翻訳家としても有名だ。近頃、字幕の翻訳の誤りについてとやかく言われている戸田奈津子の師匠にあたる。こまかいことにこだわらないという手際は、師匠譲りなのかもしれない。それはともかく、字幕という制約の厳しい表現形式でつちかった翻訳法が、清水訳(旧訳)には存分に発揮されているのではないだろうか。それが、一見するとアバウトにみえる訳し残しを生んだり、構文の大きな変形(翻案)を生んだりする。

     正確か正確でないかを誤訳の唯一の判断基準とするならば、清水訳は許せる範囲を逸脱しているような気がする。ここまで〈ざっくりと〉翻訳しているとなると、もう旧訳は用済みでいいんじゃないかという事になってしまいそうだ。だが、事はそう簡単ではない。

     青木久恵の訳(新訳)にも問題がないわけではない。清水訳の誤りは十分検討した上で修正しているようなので、あからさまな誤訳は少なくなった(と期待したい)。しかし一方で、日本語としてこなれているかどうか、あるいは格調の高さという点では、旧訳に劣る。たとえば次のような部分だ。

    (新訳)そこに建てられたモダンな建築が、どんなに豪奢なものか
    (旧訳)贅を尽くした近代邸宅を建てた


     新訳のバランスの悪さは一目瞭然だ。「モダンな邸宅」と、幾分くだけた言い方をしているのに対して「豪奢」のような堅苦しい表現は合わない。旧訳は全体的に堅めの表現で統一されていてバランスがいい。

    (新訳)ロレンスさま…あなたさまのお噂を、最後に耳にしたのは、いつのこと…ぜひとも兵隊島において…こんなすばらしい所は、ほかには…積もる話が、たんと…なつかしいあの頃、…自然に囲まれて…日光浴…
    (旧訳)おなつかしきローレンスさま…あなたの消息を聞かなくなってから、長年…ぜひインディアン島へ…非常に美しいところで…お話ししたいことがたまって…懐かしいむかしのことを…自然に親しみ…日光を浴び…


     かつての判事は浮き名を流した事があったのだろうか。魅力的な女友達レディ・コンスタンスからの手紙の文面が、新訳では、かつての使用人か乳母から届いたかのようなばか丁寧なものに化けてしまっている。

     また文章表現やレトリックの技量をあげつらえば、第一節の終盤で判事がレディ・コンスタンスとの思い出を回想する場面での描写に差があらわれる。

    (新訳)…夫人はイタリアに出かけるところだった。自然と農民に囲まれて、日光浴をするのだと言って―そのあと、はるばるシリアまで足をのばした、…。自然と遊牧の民ベドウィン族に囲まれて、さらに強い太陽を浴びるために―。
    (旧訳)日光を浴び、自然と農民とに親しむために、イタリアへ旅行しようとしているところだった。その後、彼女はさらに強い日光を浴び、自然と遊牧の民とに親しむためにシリアへ行った…


     全く同じフレーズを繰り返す事でレトリック(揶揄)が表現されている部分だ。原文の意図がきちんと反映しているのは旧訳のほうだ。新訳は原文を正確に訳そうとするあまりに、レトリックの部分を見落としている。

     さて、新訳を読み切るための準備は、さしあたってこれで十分だろう。訳の正しさにこだわるか、日本語の流れの良さをとるかという違いに注目して、読んでいきたい。ちなみに第2節の冒頭は、次のような文で始まる。

    (新訳)他に乗客が五人いる三等車で、ヴェラ・クレイソーンは…
    (旧訳)他の五人の乗客とともに三等車に乗っていたヴェラ・クレイソーンは…


     もし、これが本書の冒頭の一文だったら、おそらく僕は新訳に何も期待しなかったに違いない。

    (漁船「AND THEN THERE WERE NONE」号から送られた告白書)
     実は今日になってようやく原文を見る機会ができたのだが、その内容は僕の思い込みをずいぶんと打ち砕くものだった。しまった…。もうちょっと待って原文とつきあわせてから記事にすればよかった。そうすれば、このような赤っ恥をかくこともなかったのに。

     いや、何よりも旧訳の清水俊二さんに謝らなければならない。いっそ墓参りして墓前に手をついてお詫び申し上げようか。なんと、「そして旧訳が残った」と言わざるを得ないのだ。よってこの記事は続く事になる。(つづく)
    posted by アスラン at 06:53 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) |  書評(アガサ・クリスティー) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2008年06月10日

    アクロイドを殺したのはだれか ピエール・バイヤール(筑摩書房、2001年)

     先日「アクロイド殺し」を再読して書評を書いた。そこでも書いたが、いまさら「アクロイド…」を読んだ最大の理由は、この本を読みたかったからだ。出版された当時から心の中で〈積ん読〉しておいたのだが、ずいぶん前にいきつけの古本屋で見つけたので購入して自宅に積んでおいた。

     タイトルどおり、この本はクリスティの「アクロイド殺し」を詳細に分析して、〈ほんとうは誰がアクロイドを殺したのか〉と問いかける刺激的な評論だ。著者はフランスの大学教授だそうだ。つまりミステリーの評論ではなく、テクスト論の一応用というわけだ。

     だから横溝正史ブームが起こった70年代に数々書かれた名探偵・金田一耕助の推理が行き当たりばったりで本当は別に犯人がいるのではないかという、いわばブームに乗ったおちゃらかし本とは訳が違う、と思ってぜひ読んでみたかった。もちろん、純粋にミステリー評論の方がおもしろい場合もあるが、こと「アクロイド…」について言えば、メタミステリーの代表作もしくは問題作と言われ続けてきたから、本書でもその点をつまびらかにしてくれると期待したのだ。

     ところが一向に読めない。ウンザリする。飛ばすしかない。しばらくは読む。また飛ばす。ずっと飛ばす。いっそ章の結論をはしょり読みして、次の章を読んでみる。やはり飛ばさなくてはならない。なんだ、読めるところがないじゃないか。

     なんのことか分からないだろう。実は本書は〈学問のため〉という大義名分を水戸黄門の印籠のように振りかざした著者が、無造作に「アクロイド殺し」以外のクリスティ作品のネタばらしをしている。しかもミステリーファンの間でお約束である「ここからネタを割りますよ」という断りはいっさいない。それどころか、「〜というトリックを用いた作品Aや作品B」とか「〜が犯人である作品Cや作品D」といった具合に、無神経にも二三冊まとめてタイトルを列挙していく。おかげで数ページ読むだけで、クリスティの未読の作品5、6冊の犯人が分かってしまった。

     クリスティの作品をいずれは読破したいと野望を抱いている僕としては読書を断念せざるを得なかった。それにしても本の帯に「本国フランスで絶賛!」のような惹句が書いてあったが、ネタばらしの無神経さを指摘した批評家はいなかったのだろうか。いや、たぶんいたはずだ。

     では誰がこの本を読むのか?単なる文学論や言語論を専門にしている人たちは読むだろうが、同時に参考資料として引用されている他のクリスティ作品もネタバレした上で読むのだろうか。だとしたらご苦労なことだ。一読者は、一ミステリーファンは読まないだろう。あとはコアなクリスティファンや評論家しか残っていない。彼らはネタバレされても一向に困らないからだ。ただし僕と同じように著者の無神経さに憤る可能性は高い。やはり著者の同業者だけが内輪でありがたがるだけのようだ。

     それにしても、何故他の作品のネタ割りをしなければならないのか、よくよく考えてもわからない。テクスト論であれば、作家としてのクリスティがどんな作品を残したとか、どんなトリックや犯人の設定を好んだとかは、括弧に括ってしまってよかったのではないか。僕には単なる箔づけにすぎないように思えた。


    読みたいと思った日:2006年のいずれか
    読みたいと思った処:会社最寄り駅近くの古本屋さん
    積ん読?: 自宅に積ん読(ただしクリスティ全作品読破が条件なので、処分しちゃうかも)


    ↓クリックの応援よろしく!
    banner_04.gif
    人気ブログランキング
    posted by アスラン at 12:49 | 東京 🌁 | Comment(0) | TrackBack(0) |  書評(アガサ・クリスティー) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2008年05月20日

    アクロイド殺し アガサ・クリスティー(2008/5/14読了、再読)

    (以下の文章では、アガサ・クリスティ作「アクロイド殺し」に関してネタバレを含む詳細な分析を行っていますので、未読の方は読まないようにお願いします。)

     図書館で借りたアガサ・クリスティ文庫をカバーも掛けずに電車の中で読んでると、ある妄想がわき起こってくる。隣の見知らぬ男がタイトルを確認し、からかうような意地の悪い笑みを浮かべて「犯人は誰か教えてやろうか」と不意打ちを食らわせるのだ。僕は不躾な男の突然の言葉に面食らいながらも平静を装って、「僕はかまわないが、この車内に読んでない人もいるかもしれないので、やめた方がいいんじゃないかな」と答える。「やめた方がいい」ではなくて「オススメしないな」の方がクールで、まるで伊坂幸太郎の作中のせりふみたいだと妄想は続く。要は、いまさら「アクロイド殺し」はないだろうというツッコミに対する言い訳を考えていたのだ。

     この作品をいつ頃読んだか。中学か高校か。エラリー・クイーンを読むことから始まった本格ミステリーへの愛着は、クリスティの有名な作品を何作か読ませる動機にはなった。ただし、いまだに問題作として取り上げられる本書を読む前に、本書のトリックの是非を論じた文章を先に読んでしまっていた可能性は高い。つまり犯人は知っているし、有名なトリックの核心部分も知っていて読んだかもしれない。だから、知らずに読んだときの一読者の感想がいかなるものになるかわからない。玄人による「ミステリーとしての是非」など、どうでもいいことだ。

     会社の同僚でクリスティは全作読んだという女性に聞いたら、トリックを知らずに読んだそうだ。彼女はクリスティのおもしろさはちゃんとわかった上で読んだので、とにかくおもしろかったし、結末にも驚かされたと言う。ただし、クリスティを初めて読む人にはオススメしないそうだ。確かにあまりに特殊なケース過ぎて、手品のように騙された事に快感を覚えればしめたものだが、「そりゃないよー」と突っ込まれたら最後、クリスティの他の作品を敬遠してしまうかもしれない。しかしなんでもありのエンタメ本全盛の新たな読者ならば、この作品の面白さを素直に受け入れてくれそうだ。

     ここまでグダグダ書いてきたのには理由がある。ネタを割るからだ。いまさら「アクロイド」を再読した第一の理由は〈伏線読み〉をするためだ。著者の工夫がどの部分か見ていくことになる。さらに再読のきっかけになったのは『アクロイドを殺したのはだれか』というフランスの文学理論学者が書いたテクスト論を中古で手に入れてあったので、この機会にセットで読もうと思ったのだ。この本では、アクロイド殺害の犯人はポアロが与えた解決以外の可能性を示唆している。

     アガサ・クリスティ文庫では新訳になったと同時に、解説をミステリー界きっての理論家・笠井潔が書いている。彼の文章の要旨はひとことで言うと、「一人称小説」であると思わせておいて、実はシェパード医師の「手記」だったという点にトリックの核心があるということだ。では「一人称小説」と「手記」とではどんな違いがあるのだろう。

     実は漫然と小説を読んでいるときには、著者と語り手と登場人物との関係など読者には意識されない。「語り手」というが、要は著者が語ってるのだろう、同じことじゃないかと思う人もいるだろう。それで問題があるわけではない。

     しかし小説という形式が普及し次第に複雑化していくに連れて、著者と語り手を明確に区別する事で表現範囲が広がることに意識的な作家が現れた。語り手という立場を用意すれば、全知全能の神のように違う時間・違う場所に存在するすべての登場人物を見渡すことができ、しかも彼らの考えている事を描写する事ができるのだ。著者はいちいち語り手がどこにいてなにを見てるかを説明する必要もない上に、登場人物について書きたいことが書けるし、させたい事をさせることができる。

     ここで言うのは三人称の「語り手」の話だが、一人称の「語り手」も同様に考えられる。「わたし」は作中の登場人物の一人であることもあるし、登場しないで外側から傍観する何者かという場合もある。いずれにしても三人称の語り手と違うのは、自在にすべてを知りうる「神」のような存在と見なすにはやや物足りないと感じられる事だ。特に登場人物の一人である場合には、知りうる事実・知りうる他者の内面については制約があると考えるべきだ。傍観者である場合にはほぼ三人称の語り手と等価と見なせる場合もある。

     三人称との一番の違いは、「わたし」の目を通した描写・心理描写だと言う点だ。つまり、「わたし」の〈主観と選択〉が働いている可能性は否定できない。「わたし」が書きたくなければ書かなくてもいいのだ。ただしミステリーという独特なジャンルでは、一人称の「わたし」は三人称のように全知全能の語り手であることが要求される。そうでなければ、読者は探偵と同じ立場で解決に至ることなど不可能になってしまうからだ。

     その点を踏まえた上で、笠井潔は本書を一人称小説ではなく単なる手記であると指摘する。手記であれば「わたし」は全知全能でもないし、たとえミステリーあっても書きたくない事は書かなくてもいいのだ。しかし手記である事は、結末近くまで作者によって周到に隠されているので、読者はまさか語り手が「書きたくない事を書いていない」とは想像しない。

     この詐術スレスレの手際が本格ミステリーのファンや専門家の賛否両論を引き起こしてきたわけだが、もちろん一読者の立場からすると、一人称小説か手記かでトリックの正当性が変わるなどとはおよそ理解しがたい。あくまで「だまされた〜、やられた〜」という快感にひたれるかどうかが分かれ道だ。

     いったい作者が仕掛けた遊び心を本当に楽しめるのか。そこがすでに遠い日に読んでいる自分には定かでない。わからない。と思ったら、身近につい最近「アクロイド殺し」を読んだ同僚を見つけた。なんたる偶然!彼はそれまでクリスティを一冊も読んでない。今回「ABC殺人事件」「オリエント急行の殺人」と本書をまとめて読んだ。確認したが結末もトリックも知らなかった。感想を聞くと、読後よく解らなかったので、犯行時の記述を読み返したと言う。そうだ、それで良いんだよ、この本は。

     つまり本格ミステリー初心者あるいはクリスティ初心者にとって正しい感想とは、「そんなこと、ありうるのかなぁ」という疑いだ。はたして犯人がそんな事やれたのだろうか。やったとしてどこにそう書いてあったのだろうか。いや、ポアロ自身が犯人の手記を読んだ上で、「ここに大胆にもほのめかしているではないか」と語っている。それを確かめない読者はいないはずだ。

     だから、この本は再読が不可欠だ。「ミステリーは、本質的に再読を要求されるジャンルだ」と、どこぞの書評家が書いていたが、そういう意味でなくても、本書は本質的に読者に読み直しを要求する。読み直さねば面白さはわからない。なぜか。語り手である「わたし」は、全知全能の語り手であれば、あるいはミステリーにとっての一人称であれば「当然書かなければならない事」を書いていないからだ。

     そして、ここが一番重要な点だが、本当に書いてなければ読者は詐欺だと言うだろう。ところがクリスティは大胆にも犯行をほのめかしている。これは手記の「わたし」が犯人であると知った後でもう一度読みなおしてみると、なんとあからさまなほのめかしなのだろうと関心するくらいにぬけぬけと書いている。今回〈伏線読み〉をしてみて思ったのは、作者の大胆な手際だ。おいおい、ここでこんな文章書いてしまってよくバレないなぁという驚きだ。それは、たとえばこんな感じだ…。

     夫を毒殺したと脅迫されて自殺したフェラーズ夫人について、脅迫相手はだれなのか、アクロイドと「わたし」が話し合う場面(P.67)で、「もしかしたら」とアクロイドの息子ラルフを疑っているように「わたし」はみせかけている。その実、自分が脅迫者であるとアクロイドにバレてないかを気にかけて「もしかしたら」と動揺している。

     アクロイドの書斎を立ち去る場面(P.74)では、「わたし」が殺したとはもちろん書かないが、「振り返って、やり残したことがないだろうかと考えた。…」とほのめかしている。では〈やり残したこと〉とは何だろう。アクロイドを殺した事ではあるまい。

    ・フェラーズ夫人の手紙を持ち去る
    ・目覚ましに似た録音機(ディクタフォン)のスイッチをセットする
    ・ドアとテーブルを結ぶ線上に椅子を引き出して、テーブルに置いた録音機を見えにくくする
    ・外からラルフの靴跡を残すために窓を開けておく

     これだけの事を殺害後やらねばならなかったはずだ。それもアクロイドが手紙を読み出した時刻から、「わたし」が部屋を出たわずか10分でだ。「わたし」が〈やり残した事〉を気にかけて手記でふれたのはむしろ当然と言える。

     そして、偽の電話で呼び出されたと見せかけた「わたし」は、アクロイドの書斎に執事とともに入って死体を発見する。執事には警察へ電話するように命じ、自分は書斎に一人残る(P.83)。手記に「やるべきことはほとんどなかったが、わたしはそれをすませた。…」と書いている。もちろん、録音機を手持ちの診察鞄に入れて、椅子を元の位置にもどすことが「やるべきこと」のすべてだった。

     アクロイドの姪フローラがやってきて、「ポアロに捜査を依頼するのに同道して欲しい」と頼まれ躊躇していると、姉のキャロラインに何故グズグズしていると非難される(P.117)。「わたし」は「頭が働かなかったわけではない。キャロラインが、わたしの胸の内を常に察しているとは限らないのだ。」と吐露する。つまり隣人ポアロが捜査することに気が進まないわけだ。

     終盤でポアロが「わたし」の自宅を訪れ、趣味の工作の作業部屋を見せる場面(P.354)では、「わたしはさっそく手製のラジオをポアロに見せた。彼が興味を示したので、独自のちょっとした発明品もひとつ、ふたつ披露したーささやかなものだが、家庭では役に立つ。」と書いている。ここでは「わたし」にラジオなどを工作する知識と技術があることを、それとなく明かしている。録音機を仕掛ける技術があるという事だ。ただし「家庭では役に立つ。」という〈発明品〉については、ここまでほのめかしが過ぎると何のことか分からない。いや、それ以上に何か怪しいと読者に思わせてしまうのではないか。しかし、そろそろ読者に「わたし」が怪しいと気づかせようと、作者が意図して書いたとしたらどうだろう。クリスティならやりそうなので、迂闊に「苦しまぎれの表現」などとは言えない。

     ほぼ犯人を特定する証拠が出そろった時点で、ポアロは「わたし」にヘイスティング大佐(書記)がいないことを残念がってみせて、「わたし」が手記を残している事を白状させる(P.394)。「わたし」は 「そんなにすぐに見せてくれといわれても、心の準備ができていなかった。頭を絞って、ある細かい部分を思いだそうとした。」と書く。ポアロの悪口を書いていないか気にしてるようにとれるが、ほんとうはポアロに真相がばれやしないかと恐れていたのだ。それにしても、ポアロはどうして「わたし」が手記を書いていると推測したのだろうか?

     手記を読んだポアロは「すべての事実を忠実に、ありのままに記録しているーただし、あなた自身が果たした役割については、適度な沈黙を守っていらっしゃいますね」と意味ありげに語る(P.396)。今までのほのめかし同様に、ここでも二重の意味にとれる。すなわち、医師として果たした責務や捜査協力については〈謙虚にも〉書いていないという意味にもとれるし、裏の意味で「言うべきことを言って(書いて)ない」ともとれる。どちらかというとポアロは「我が友(モナミ)」と親しげに呼びかけることで「わたし」の誠実さを疑ってないかのような印象を読者に与える。

     だがいよいよ決定的な場面が近づいて、最重要容疑者と目されていたラルフ・ペイトンが姿を現し、「わたし」が彼をかくまっていた事が知れるに至って、ポアロは次のように指摘する(P.415)。

    「書かれている部分は正確でしたーしかし、すべては書かれていなかった、そうでしょう、わが友よ?」

     そう、今見てきたように「手記に書かれていない」ことがトリックの核心であることは確かだ。と同時に、クリスティにとって「如何にして読者に犯行をほのめかすか」という難問こそが最大の挑戦だったと言えそうだ。

    人気ブログランキング

    ↓クリックの応援よろしく!
    banner_04.gif
    posted by アスラン at 01:54 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) |  書評(アガサ・クリスティー) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする