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    2024年07月30日

    夜汽車は南へ(1977年) 風

     中学生の時にかぐや姫を知り、風を知った。それ以来だから四十年以上も伊勢正三のファンを続けてきた事になる。だから、今さら言うのも何なんだけれど、正やんという人は結構変わった人だと思う。本人いわく、かぐや姫解散後に先の予定が決まっていなかった彼と、同じく猫解散後に先が決まってなかった大久保一久とが、残り物同士で結成したのがフォークデュオ「風」だった。だから当初から長く続くとも思っていなかったように言っていたような気がするが、ともかくも足かけ五年の歳月にシングル6枚、アルバム5枚を出して解散した。

     何が変わっているかと言うと、シングル6枚のうち3曲もアルバムに収録しなかったという点だ。そのうちの2曲「22才の別れ」「ささやかなこの人生」は風の代表曲なのだ。逆もまたしかりで、アルバムの収録曲でその後の代表曲となった作品もシングルカットしなかった。「海岸通」「君と歩いた青春」「海風」などがそうだ。言わば、大きくブレイクすることを拒否しながら、正やんの好き勝手に曲を作り、唄い、そして解散したことになる。もちろん、僕としては自分やフォークソング仲間の間でブレイクしていた風の曲を聴き、ギターで弾き語りして楽しんでいたので、実は世間でどれほど注目されているかどうかなんて、これっぽっちも気にしてなかった。ただ、何故こんな良い曲がアルバムに収録されないのかと思っていただけだ。今にして思えば音楽界のセオリー通りに、売れ線の曲をシングルとしてヒットさせ、ヒットしたシングルをアルバムに収録して売り上げを伸ばしていたならば、もっと風は長続きしていたかもしれない。とはいえ、漱石の『草枕』の一節ではないが「情に棹させば流される。意地を通せば窮屈」かもしれないが、意地を通さなかったら正やんにとって風はさらに窮屈だったかもしれないので、所詮は「たられば」の話だ。

     「22才の別れ」がアルバムに入らなかった理由は、ひとえにこの曲が「かぐや姫」の曲としてアルバムに収録されていたからだと、正やんは言っていた。風としてデビューする際に「22才の別れ」をセルフカバーした事になるが、当時は自分が作った曲だとは言っても納得はいかなかったようで、結局ファーストアルバムには収録しなかった。その信念は最後まで揺らぐ事はなく、解散の年に出したベスト盤「Old Calendar〜古暦〜」にも遂に収録することはなかった。2枚目のシングル「あの唄はもう唄わないのですか」は、2枚目のアルバム「時は流れて…」に別アレンジで収録されたが、3枚目のシングル「ささやかなこの人生」は、3枚目のアルバム「WINDLESS BLUE」には収録されなかった。「ささやかなこの人生」は風の代表曲中の代表曲という存在なので、当然ながら収録すれば必ずそのアルバムは当たるはずだったが入れなかった。代わりに「WINDLESS BLUE」から「ほおづえをつく女」をシングルカットしている。ハッキリとした理由は知らないが、正やんが「WINDLESS BLUE」で、従来の素朴で叙情的なフォークからフュージョン系のシティ・ポップに舵を切った時期だったので、「ささやかなこの人生」がアルバムの統一感とは相容れなかったからのようだ。風としての最後のフォークソングである「ささやかなこの人生」は以後のアルバムに収録されず、かろうじてベスト盤「Old Calendar」には入った。ただし、新録音された「ささやかなこの人生」には、もはやフォークソングのテイストは感じられない。

     「夜汽車は南へ」は「ほおづえをつく女」に次ぐ5枚目のシングルとして6ヶ月後に発売された。さらに5ヶ月後に発売された4枚目のアルバム「海風」には、またしても収録されなかった。これが何故なのかと言えば、よく分からない。おそらくは、この曲が、これまでの瀬尾一三編曲ではなく、佐藤準編曲である事が関係しているのかもしれない。アルバム「海風」はロサンゼルスで全曲レコーディングされており、瀬尾一三が全曲を編曲している。当時流行していた西海岸のサウンドを意識しており、音作りは完全に前作の「WINDLESS BLUE」とは違っている。だから「夜汽車は南へ」をアルバムに入れるには、あらたに編曲し直して録音し直す必要があったわけで、その手間をかけるよりは収録しないという選択をしたという事だろう。そういう意味では「夜汽車は南へ」は音作り的にはアルバム「WINDLESS BLUE」ともアルバム「海風」とも違っていて、浮いているように感じられる。

     詞の内容としては「ささやかなこの人生」のようなフォークソング特有の力強いメッセージのようなものは感じられない。どちらかというと日常の一こまを切り取ってエッセイのように感慨を吐露するところが「少しだけの荷物」や「そんな暮らしの中で」と共通しているように感じられる。当時シングル盤を購入したのが高校生ぐらいだったが、「ささやかなこの人生」のように分かりやすくはないが心に残る不思議な曲だと感じた。当然ながら風や伊勢正三としての代表曲ではないにも関わらず、ずっと自分の中では好きな一曲として刻まれてきた。

     さて、ここまでが長い前ふりだ。先日、息子を乗せた車を運転しながら、日頃妻が同乗していると気兼ねして流せない70年代のフォークやニューミュージックの曲をシャッフルして思う存分聴いていたら、この曲が流れてきた。心地よく聴いてるうちに四十数年ぶりに、僕はこの歌の詞の解釈を間違っていた事に突然気づいてしまった。その話をしようと思う。

    愁いを残して夜汽車は南へ走る
    時の流れとすれ違うように走る
    静けさが今 友達なら
    黙って窓にもたれよう
    どこかで目覚めたばかりの
    赤ん坊の声がよく響く
    そのけたたましいほどの泣き声を
    誰も憎むことはできない
    ああ 人生がくり返すものなら
    またいつか君に出逢うだろう
     これが一番の歌詞だ。南へ走っていく夜汽車に乗っている主人公は、「愁い」をどこかに残して、夜の、夜汽車の「静けさ」に身を任せている。その静けさを破るように泣く赤ん坊のけたたましい泣き声も、むしろ心地よい。そういった心情を抱えながら「またいつか君に出逢うだろう」と独白する場面を、僕はずっと「君=彼女」との別れを描いたラブソングだと思ってきた。つまり、夜汽車に乗る前の「愁い」とは、彼女とまさに別れてきたばかりの主人公の心情に違いないと。そう思ったのは「ささやかなこの人生」の歌詞からの類推によるところが大きい。
    誰かを 愛したその日には
    たとえば ちっぽけな絵葉書にも心がうごき
    愛をなくしたその日には
    街角の唄にも ふと足を止めたりする
     赤ん坊の泣き声は「街角の唄」なのだと思ったのだ。突然気づいてしまったのは、この「君」が赤ん坊だという解釈だ。人生がくり返すならば、また同じように夜汽車に乗って「幸せ」というささやかな日常に出会えるかもしれない。その時には「君」は成長していて、僕自身は彼もしくは彼女となったその人の「時の流れとすれ違う」事があるだろう。いや、きっと「またいつか君に出逢うだろう」という夢想を描いていたのだ。こんな壮大なロマンを日常の風景として描いていた事にあらためて驚いたのだ。

     それにしても何故「君」を別れた彼女と思ったのかと言えば、二番の歌詞にも彼女らしい「君」が出てくるからだ。
    走りゆく列車の網棚の上に置かれた
    誰にもなじみの菓子箱がひとつゆれてる
    その帰りを待つ人々達
    そして帰ってゆく人
    ひとりの人生は
    いくつかの絆で結ばれている
    その美しすぎるほどの絆を
    ほどきながら汽車はゆく
    ああ 遠ざかるほど君は近づく
    ぼくの心のレールを走って
     二番の後半は少し分かりにくい。菓子箱を持って帰る人と、その帰りを待ちわびている人。そういう美しい絆を「ぼく」は身近に感じながら夜汽車にゆられている。「ひとりの人生」が抱えている絆を「ほどきながら汽車はゆく」のでは、絆が失われていくようで変だなとずっと思っていた。しかし、これもまたしても読み違いで、夜汽車にはいくつもの人生が交差していて、それぞれが抱えている「美しすぎる絆」を「ぼく」は身近に感じる事ができる。そしてやがてはひとりまたひとりと、帰りを待つ人々のもとに帰って行く。これが「ほどきながら汽車がゆく」の意味だ。そして菓子箱を携えて「ぼく」から遠ざかっていけばいくほど、「君」は僕の心の中に刻み込まれて近づいてくる。そう考えれば、やはり一番同様に「君」は別れた彼女ではなく、人生の美しさの比喩である事がわかるのだ。
    posted by アスラン at 02:20 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 僕の音楽ヒストリー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2022年04月27日

    喜多條忠さん追悼(その3)

    私の歌.jpg暑中お見舞い申し上げます.jpgいつか街で会ったなら.jpg風に抱かれて.jpgハロー・グッバイ.jpg 昨年(2021年)11月に亡くなられた喜多條忠さんの追悼記事をその2まで書いたけれど、かぐや姫、風、南こうせつ、山田パンダへの提供曲までで終えていた。その3を書く事を予告しておきながら、すでに4月になってしまった。今回は、歌謡曲を中心に喜多條さんが生み出した楽曲の数々を取り上げて、追悼を締めくくりたいと思う。

     頼りとするのは歌詞検索サービスサイトだ。検索順で最初に出てくるUta-Netは発表日順に並び替えできるので便利かと思ったが、肝心の発表日の記載がない。しかも、古い順に並べても、かぐや姫の「神田川」が最上位に出てこない。これは怪しそうだ。別のサイトを調べたらUtaTenというサイトが出てきた。古い順(発売古順)に並べると、かぐや姫ではなく南こうせつの「神田川」が筆頭に出てきた。本当にこれで合ってるのかなと思って、歌詞ページをたどると「1973.7.20リリース」と書かれている。これは信用できそうだ。しかも、一覧ページには、タイトル・歌手・作詞者・作曲者とともに歌い出しの歌詞まで付いていて親切だ。それだけではない。歌詞のページに進むと、漢字にルビまで振られている。本当に工夫されていて好感が持てる。これにしよう。

     ただ、調べを進めてみてわかったけれど、やはり歌詞サイトの情報はちょっと疑いながら参考にするのがよさそうだ。同じ曲でもカバーであったり、同じ歌手がニューアレンジで再発売する場合もあるので、発売年月日がオリジナルのものとは限らない。それに、ファンにとっては間違いようがない歌手・作曲家・作詞家なども違ってる場合がある。特に古い曲は一度間違って記録されると訂正される事は滅多にないのではないか。仕方が無いでの複数の歌詞サイトおよびWikipediaを併用して調べた結果が、以下の楽曲だ。
    私の歌 松崎しげる(都倉俊一) 1976年6月
    メランコリー 梓みちよ(吉田拓郎) 1976年9月
    やさしい悪魔 キャンディーズ(吉田拓郎) 1977年3月
    暑中お見舞い申し上げます キャンディーズ(佐瀬寿一) 1977年6月
    アン・ドゥ・トロワ キャンディーズ(吉田拓郎) 1977年9月
    いつか街で会ったなら 中村雅俊(作曲 吉田拓郎) 1979年
    男達のメロディー SHOGUN(ケーシー・ランキン) 1979年
    風に抱かれて 西田敏行(芳野藤丸) 1980年
    ハロー・グッバイ 柏原芳恵(小泉まさみ) 1981年

     調べた結果の感想としては、意外と少ない。喜多條さんは、僕の好きなフォーク歌手に歌詞を提供してのち、歌謡曲それも特に演歌のジャンルに多数の歌詞を提供している。残念ながら演歌には関心が薄いので、歌謡曲としては思い出深い曲が少なかった。でも、一つ一つの楽曲は中身が濃いと感じている。

     まずは松崎しげるの「私の歌」だ。今回調べてタイトルを拾い上げても、何の曲だろう、知ってる曲かなあと思って、YouTubeでも音源を探してしまった。なるほど、グリコ・アーモンドチョコレートのCM曲だ。存在をすっかり忘れていた。松崎しげるというと、「愛のメモリー」がまっさきに思い浮かぶ。この曲は海外で賞をとり、その後アーモンドチョコレートのCMに使われて日本でも大ヒットした。それ以前にも、アーモンドチョコレートのCMにはすでに松崎しげるの曲が使われていた。「黄色い麦わら帽子」も、この「私の歌」もCM曲で、当時それなりにヒットしたはずだが、Wikipediaによると「愛のメモリー」に至るまではなかなかヒット曲に恵まれなかったように書かれている。「私の歌」は、フランク・シナトラの「マイ・ウェイ」を意識した曲を都倉俊一に持ちかけて作ってもらったそうだ。美しく壮大な詞とメロディ。「愛のメモリー」のような派手さはないが、松崎しげるのヒット曲の中でも、これがマイベストだ。
    遠い世界へと 白い帆を広げて
    愛の言葉 溢れる海へ
    私は漕ぎ出す
    たとえ嵐が来ようと 私には歌がある
    孤独と愛の歌を 私は歌おう
    (私の歌)

     梓みちよは、僕が子どもの頃は「こんにちは赤ちゃん」を歌うおねえさんというイメージだったので、ステージであぐらをかいて歌う「二人でお酒を」(1974年)からのイメージチェンジは強烈だった。その2年後に出した「メランコリー」は、チェンジ後のイメージがすっかり定着していて、力みがなく大人の恋を歌っていた。吉田拓郎と喜多條さんがタッグを組んだ最初の曲だ。当初、「お前に売れる曲の歌詞なんて書けるか」と言われたという話を喜多條さんがしていた話をどこかで聞いたような気がする。この曲は女性の一人称の語りで、当時としてはずいぶん長い歌詞だ。拓郎調の軽快なメロディ展開で「メランコリー メランコリー」とアンニュイな歌い方で連呼されても暗さはない。しかも次のフレーズからメジャーに転調するのも、当時の歌謡曲としては新鮮だった。
    メランコリー メランコリー
    それでも乃木坂あたりでは
    私は いい女なんだってね。
    (メランコリー)

     メランコリーの成功で自信を付けたのか、喜多條・吉田コンビによる作詞・作曲の楽曲が70年代末まで続く事になる。喜多條さんは、1977年に「やさしい悪魔」「暑中お見舞い申し上げます」「アン・ドゥ・トロワ」のシングル曲の歌詞を立て続けに提供した(「暑中お見舞い…」は作曲は吉田ではない)。「暑中お見舞い…」発売直後、1977年7月17日の日比谷野外音楽堂でのコンサートで、突然の解散宣言が本人からファンに伝えられた。キャンディーズが伝説化していく前後の曲の作詞家として、喜多條忠の名前が歌謡史に刻まれる事となった。もっとも、当時の僕はと言えば、「暑中お見舞い…」の歌い出しとポージングの鮮烈なイメージを覚えているに過ぎない。「アン・ドゥ・トロワ」も、その後の解散を記念して阿木燿子さんが書いた「微笑みがえし」の軽やかなフレーズの方が印象的で、元の曲はそれほどの印象はなかった。
    レースのカーテンに
    あの人の影が映ったら
    私の心は もう動けない
    (やさしい悪魔)

    暑中お見舞い申し上げます
    まぶたに口づけ 受けてるみたいな
    夏の日の太陽は まぶしくて
    (暑中お見舞い申し上げます)

    人は誰でも一度だけ
    すべてを燃やす夜がくる
    アン・ドゥ・トロワ
    今がその時ためらわないで
    (アン・ドゥ・トロワ)

     吉田拓郎とのコンビの掉尾を飾るのは「いつか街で会ったなら」だ。これは、「太陽にほえろ!」で前年に殉職した後の松田優作と、やはり前年放送の「われら青春」で人気を博した中村雅俊との二人を主人公に据えた刑事ドラマ「俺たちの勲章」の挿入歌だ。詳細は、最近読んだ「青春ドラマ夢伝説」というエッセイの書評で紹介したいと思うが、主題歌「あぁ青春」(吉田拓郎作詞・作曲)をトランザムが歌っていたように、活きのいい青春スターを配して、歌をフォークソングで固めるというのが、プロデューサーの戦略だったようだ。「われら青春」の挿入歌「ふれあい」同様、この「いつか街で会ったなら」で中村雅俊は歌手としての人気も不動のものとする。この歌詞は喜多條忠の面目躍如たる郷愁に溢れている。
    何気ない毎日が
    風のように過ぎてゆく
    この街で君と出会い
    この街で君と過ごす
    この町で君と別れたことも
    僕はきっと忘れるだろう
    それでもいつか
    どこかの街で 会ったなら
    肩を叩いて 微笑んでおくれ
    (いつかこの街で会ったなら)

     痛快な探偵ドラマ「俺たちは天使だ!」は、正直、それほどちゃんと見ていた記憶はない。でも、おしゃれで軽快なメロディに乗せて「運が悪けりゃ死ぬだけさ」と歌うSHOGUNのサビが、今でも耳に残っている。元々、主役の沖雅也を沖田総司に据えた青春時代劇を撮るつもりが、時代劇では視聴率が取れないと上からクレームがついて、仕方なくハチャメチャな探偵事務所の話に変えたという逸話が残っている。「運が悪けりゃ死ぬだけさ」というのは元の企画からあった幕末の志士の生き様を象徴するコンセプトだったのかもしれない。プロデューサーが喜多條さんに無理を言って歌詞に挿入してもらったようだ。
    走り出したら
    何か答が出るだろなんて
    俺もあてにはしてないさ
    してないさ
    (男達のメロディ)

     「風に抱かれて」は、伝説のテレビドラマ「池中玄大80キロ」の主題歌だ。パート2の主題歌「もしもピアノが弾けたなら」が大ヒットしたので影が薄くなってしまった感があるが、この曲を聴くとパート1のドラマを、西田敏行の熱演を思い出して涙が出てきてしまう。実は前年(1979年)にSHOGUNが出したアルバム曲のカバーだと知った。つまり、「男達のメロディ」のヒットが縁で、喜多條さんにはこの曲の作詞のオファーがあったという事か。芝居も歌もこなす芸達者な西田さんの温かさがよく伝わってくる歌詞とメロディだ。
    微笑みがひとつ 淋しさがひとつ
    風の中で揺れている
    愛した人達 去りゆく人達
    振り向けば そこに朝がある
    (風に抱かれて)

     いよいよ、最後は「ハロー・グッバイ」だ。柏原芳恵が歌って大ヒットした曲だけれど、カバー曲だと後に知った。いや、当時は「カバー」とは言わず、リメイクとかリバイバルと言っていた。元々は1975年にアグネス・チャンに提供された曲だったようだ。当時のタイトルは「ハロー・グッドバイ」。その後、讃岐裕子が1977年にカバーした。その際に歌詞を一部手直しして、タイトルも「ハロー・グッバイ」に代わった。さらに1981年に柏原芳恵がカバーして、ようやく世間の注目を浴びる曲となった。Wikipediaには、冒頭の歌詞に出てくる「紅茶のおいしい喫茶店」とは、南こうせつの実兄が地元・大分で経営していた店がモデルだと書かれている。この記事の最後も、盟友・南こうせつとのつながりで締めくくる事になった。
    紅茶のおいしい喫茶店
    白いお皿にグッバイ…バイ…バイ
    そしてカップにハローの文字が
    お茶を飲む度行ったり来たり
    (ハローグッバイ)
    posted by アスラン at 05:10 | 東京 ☀ | Comment(0) | 僕の音楽ヒストリー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2021年12月05日

    喜多條忠さん追悼(その2)

     訃報が流れたその日に、とにかく追悼文を書かねばと思い立って、「神田川」にまつわる思い出周辺を語ってお弔いに代えようと思った。なので、結局「南こうせつとかぐや姫」に喜多條さんが提供した楽曲についての思い出で終わってしまった。そこから、まだまだ僕は喜多條さんの詞のお世話になっているのだ。

     かぐや姫が解散したのが1975年。南こうせつと山田パンダはソロで活動し、伊勢正三は大久保一久と風を結成する。かぐや姫のファンだった僕は当然のことながら、こうせつや風の曲に熱中していった。まずは、こうせつからだ。解散した同じ年にソロとしてのファーストアルバム「帰り道」をリリースしている。このアルバムに喜多條さん作詞の歌が5曲も入っている。「旅するあなた」「花一文目」「昨日にさようなら」「荻窪二丁目」「コンサートが終わって」だ。どれもこれも好きな歌詞だが、かぐや姫時代の歌詞と明らかに違うのは、60年安保や大学紛争後の暗い世相を反映したかのようなメッセージ性や空虚感から離脱して、ギターケース片手に旅をするこうせつの生き方にフィットした歌詞になっている。このアルバムの、というか初期のこうせつのイメージを決定づけたのも、やはり喜多條さんの詞だった事は間違いない。
    旅をするあなた
    あなたは どこへ 行くのですか
    スーツケースの中は
    そんなに つまっているのに
    どうして 心の中は
    からっぽなのですか
    (旅をするあなた)

    もしも君が 恋に破れて
    この海辺に来たのなら
    船をごらんよ 一人ぼっちで
    この広い海 さすらう船を
    さよならするんだ 今日までの君に
    夕焼けが 笑ってる
    (昨日にさようなら)

    荻窪二丁目 裏通り
    どこかの窓から幸せそうな
    カレーライスのにおいがいつか
    僕の心を急がせている
    (荻窪二丁目)

     翌年1976年にリリースしたセカンドアルバム「ねがい」にも4曲、喜多條さん作詞の歌が収録されている。「帰っておいでよ」「名物せんべい」「恋唄」「今日は雨」だ。このアルバムでは、1曲目が「さよならの街(南こうせつ作詞)」で2曲目が「帰っておいでよ」。情に訴える歌詞が似ている。こうせつの歌詞が喜多條さんの世界に引っ張られているのか、喜多條さんがこうせつの心に寄り添って書いているのか。それくらい、気心がしれた仲の二人ならではの歌詞になっている。「名物せんべい」は、フォークに定番の愛だとか故郷とかは離れて、旅するアーティストから見た田舎町の現実みたいな視点から書かれている。当時は「南こうせつin武道館」など、ラジオで彼のライブを頻繁に聴く事ができたので、ノリの良いメロディで楽しませてもらったが、かなりの異色作だ。でも、そういう意味ではシングルカットされた「今日は雨」の方がかなりの問題作で、当時は(いや、今でも)詞が難しい。詞の内容が難しいというよりも主人公の心情に共感する事が難しい。時代に対する鬱憤、空虚感ではなく、完全に彼女に対するいらだち、自分の孤独に対する自問自答だけの詞だ。どちらかと言えば私小説に近い。いわば、ニューミュージック前夜の詞になっている。
    どんななぐさめの言葉より
    見知らぬ人のうすっぺらな
    親切が身に沁みる時があるよね
    泣いても泣いても 泣いても
    消えない悲しみがあるよね
    あなたは ほんとに弱虫だった
    (帰っておいでよ)

    きっと陽気なママさんでも囲んで
    このまま朝まで騒ぐつもりでしょう
    それでも茶うけの名物せんべい
    とてもうまいのが救われる
    (名物せんべい)

    一人のベッドで眠り目覚めた
    僕のさびしさを轢いて走る 今日は雨
    昨日ほどお前のことを 憎んだ夜はない
    (今日は雨)

     このセカンドアルバムのタイトル曲が「ねがい」であるように、少しずつこうせつの好みが岡本おさみの歌詞にシフトしていったように感じられる。このアルバムでは岡本の歌詞は「ねがい」一曲だけだが、ライブでは名曲「思い出にしてしまえるさ」が重要な一曲になり、それはシングルリリースされた「愛する人へ(1977年)」、さらには「オハイオの月(1978年)」へと続く。岡本の歌詞は、物語を感じさせながら人生を俯瞰するかのようなやわらかな歌詞だ。サードアルバム「今、こころのままに(1977年)」には、喜多條さんの「くれない丸」「どうせ人生に迷うなら」「おばあちゃん」の3曲が入っていたが、あまり印象に残っていない。このアルバム自体が、「武道館ワンマンライブ」以降、こうせつ自身がかなり方向性に苦しんだ時期のアルバムだという印象で、全体的なまとまりに欠けている。それとともに、僕自身が長年のおっかけを終えてしまったので、以後の事はよくわからない。

     ただ、この当時でも「思い出にしてしまえるさ」と対になるくらい、ライブで盛り上がっていた曲「九州に帰る友へ」が、何故サードアルバムに収録されなかったのかは、いまだに謎だ。1988年になってシングルカットされた「思い出にしてしまえるさ」のB面に、ひっそりと「九州に帰る友へ」が収録された。ライブのアレンジにあまりにもなじんでいたので、シングルでの2曲のアレンジには非常に違和感を感じた。それでも、これが南こうせつと喜多條忠とのコラボレーションの70年代最後の輝きだったと思う。
    今夜はどうしても九州(くに)に帰るのかい
    俺はもう少し東京でやってみるよ
    たとえ白いビルの谷間で
    冷たいこだましか帰ってこなくても
    いつか会おうやさしい友よ
    全てが笑い話になった時
    (九州へ帰る友へ)

     つづいて、風だ。正直、当時は誰が書いた歌詞かについて注意していなかった。かぐや姫は、メンバー三人がそれぞれ作詞をしたし、外部の作詞家の手になるものも結構あったので、なんとなく頭に入っていたが、風は、ほぼ正ーやんと大久保君の二人の作詞という印象だった。しかし、初期も初期、ファーストアルバム、セカンドアルバムに限って喜多條さん作詞の曲が入っていた。ファーストアルバム「風ファーストアルバム(1975年)」には「星空」「桜の道」、セカンドアルバム「時は流れて…(1976年)」には「まぶしすぎる街」が入っていた。今考えると、「桜の道」は、なんとなく正やんのメロディーがのりにくいような歌詞で、譜割りに苦心したのではないかという印象がある。驚いたのは「星空」だ。1番のみの歌詞しかない、女子高生の回想らしきショートストーリーの曲の歌詞が喜多條さんの手によるものだったとは…。当時付き合っていたバレー部のキャプテンは死んでしまう。それは「マキシーのために」の女性活動家と呼応するかのようで衝撃的だが、風の世界には60年安保は無縁だ。何故かは分からないが、新しい時代の到来とともに、また新しい孤独とも僕らは付き合わなければならない。人生の端緒を切った女子生徒もまた、きれいな星空を見あげて何事かを感じる年頃になっていく。やはり美しい曲だ。
    道は歩くためよりも
    春には むしろ 見るためにある
    二人で歩いた この道も
    舞い落ちる ピンクの花びらいっぱい
    (桜の道)

    でも死んじゃったの その人
    どうして?
    ううん お母さん教えてくれなかった
    こんなきれいな星空だったわ
    その人思いきり ジャンプして
    そう、お星さまに手が届いちゃったのよ
    (星空)

     最後は山田パンダさん。パンダさん自身もエッセイストとしての文才もあり、かぐや姫当時から隠れた名曲がある。かぐや姫を代表する名曲「僕の胸でおやすみ」や「君がよければ」「黄色い船」など、味わい深い歌詞ばかりという印象がある。ただ、ひとたびソロとなってしまえば、彼の歌詞の持ち味はヒット曲を生み出すには弱いのかもしれない。要するにパンダさんの歌詞の良さを理解してもらうには時間がかかるという事だ。その意味では作詞家というより文章家だったわけだ。パンダさんのシングルとして、喜多條さんは2曲歌詞を提供している。セカンドシングル「風の街(1975年)」、サードシングル「欅並木(1976年)」だ。この中でも「風の街」は当時流行っていたし、よく覚えている。TBSドラマ「あこがれ共同隊」という、原宿・表参道を舞台にして当時の第一線のアイドルたちが活躍する番組の主題歌だったからだ。パンダさん自身も、表参道の架空のカフェ「ペニーレイン」のマスター役で出演していた。作曲は吉田拓郎だった。吉田拓郎の曲は当時はあまり聞いていなかったが、森進一の「襟裳岬」に始まり、アイドルなどに楽曲を提供するようになるヒットメーカーとしていろんな曲を吉田拓郎作曲とは知らずに聞いていた。この曲は、番組の内容と合わせるように屈託のないすがすがしい印象の曲だ。パンダさんの木訥な歌唱ともマッチしていて、今でも大好きな曲だ。
    道の向こうで 手を振った
    大きな声で サヨナラ言った
    あいつをふと 思い出す
    今も元気で いるだろか
    (風の街)

     ここまでは、僕が好きだったアーティストへの喜多條さんの提供曲を見てきたが、その後歌謡曲などに幅広く詞を提供する事になる。その中でも印象的なものもピックアップして、喜多條さんへのお弔いとしたい。それはまた別の記事にしよう。
    posted by アスラン at 08:55 | 東京 ☀ | Comment(0) | 僕の音楽ヒストリー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2021年12月02日

    作詞家・喜多條忠さん亡くなる。

     作詞家の喜多條さんが亡くなられた。報じられたのは昨日(2021/12/01)だったが、亡くなったのは11/22だそうだ。日本作詞家教会会長も務めた方であっても、ニュースとして報じられるまでには一週間もの期間がかかってしまう。芸能界という人気商売の気まぐれさをしみじみ感じてしまう。しかも僕が知ったのは、朝のめざまし8の冒頭で紹介される「ニュースHOTワードランキング」で、だ。そこでは「神田川の作詞家亡くなる」が第2位にランクインしていた。MCの谷原章介さんが紹介する前に「ああ、喜多條さんが亡くなったんだ」と思ったが、世間にはあまり知られていない名前ではなく、一世を風靡した「神田川」の作詞家という肩書きでの紹介になった事が残念だ。それくらい、僕にとっては重要な位置を占める作詞家だった。

     「あの『神田川』の…」と呼称されるのは、もちろん自身最大のヒット曲であったから致し方ないのだが、放送作家に始まって、作詞家に転身、のちに一時期作詞に疲れてコラムニストになったりという、作詞家一筋ではない異色の経歴にも原因があるのかもしれない。元々はラジオの文化放送の放送作家をしていて、当時人気だったフォークグループ「かぐや姫」のリーダー・南こうせつと出会い、意気投合した。こうした経緯から詞を書いてみないかと依頼があったのだと思うが、作詞家としてのデビュー作は「マキシーのために(1971年)」だ。Wikipediaによると、第1期かぐや姫の2枚目のシングル「変調田原坂」のB面に入っている。僕が知っているのは第2期かぐや姫(南こうせつ、伊勢正三、山田パンダ)のファーストアルバム「はじめまして(1972年)」に入っている「マキシーのために」だ。このアルバムは吉田拓郎がプロデュースしていて、スタジオ録音時のアドリブっぽい音声が入っていて、フォーク仲間の手作り感が味わえるアルバムになっている。「マキシーのために」も吉田拓郎が編曲していて、エレクトーンのフレーズがとても印象に残っている。60年安保の大学紛争で活動家だった知人の女性が、紛争終焉後に自殺した事を体験として詞にしたそうだ。当時中学生だった僕は、初めてこの曲を聞いたとき「渋谷まで歩いていってネオンの坂道で倒れたって」と、マキシーと呼ばれた女性の死を歌った歌詞に衝撃を受けた。

     そして「神田川」だが、この曲は、第2期かぐや姫の三枚目のアルバム「かぐや姫さあど(1973年)」に収録されている。南こうせつが喜多條さんに新しいアルバムのための作詞を依頼した。「締め切りは今日なんだけど」という無茶ぶりにあきれていったんは断ったらしいが、帰宅途中に神田川を見ながら、自らの学生時代を思い出して一気に書き上げた。電話で連絡を受けたこうせつは、時間が無いので電話越しに手元にあったチラシの裏に詞を書きとめた。書きとめながら、自然とメロディーが口について曲ができあがったと後年語っている。なんと言っても「若かったあの頃 何も怖くなかった ただあなたのやさしさが怖かった」というフレーズが、時代の空虚感を表していて秀逸だ。時代背景を知らない若い世代には「あなたのやさしさが怖い」という部分が誤解されているかもしれない。「やさしさ」がいつ終わるのか、いつ心変わりしてしまうのか、とか、あなたのやさしさには裏表があるのではないか、とか、そういう意味ではない。大学紛争に疲れて、平凡でも幸せなくらしを大事にしようとしている二人だけれども、彼のやさしさの裏には、まぎれもない空虚感が見え隠れする。傷つきながらも「この平凡な生活」を大切にしようと無理をしている彼を思って「やさしさが怖かった」と表現している。過去形は彼女の回想だ。うまくいかなかったという現実を暗示していて、どこまでも悲しい。そしてどこまでも美しい詞だ。

     この曲はその後シングルカット(1973年)されて、160万枚のヒット曲になる。もちろんまだ小学生だった僕は、流行歌としてこの曲を知り、その後中学生になってフォークギターにハマった時に、フォーク好きの同級生からかぐや姫を教えてもらい、「マキシーのために」を知るという順番になる。「神田川」の大ヒットを受けて、同じテイストの詞の依頼がレコード会社から続き、「赤ちょうちん(1974年)」「妹(1974年)」がシングルとして連続して発表された。「赤ちょうちん」では、「神田川」の二人とおぼしきカップルの同棲生活が綴られるが、2番の歌詞で別れのシーンが描かれている。「あなたと別れた雨の夜 公衆電話の箱の中 ひざをかかえて泣きました」という描写は喜多條さんの体験談だという話をこうせつから聞いた事がある。あの頃の公衆電話は、ガラス張りで下の方だけが目隠しになっていたので、喜多條さんは人目を気にしてひざをかかえてしゃがみ込んで泣いた。そういう自身のエピソードが詞に盛り込まれている。

     「妹」については、「かぐや姫ライブ(1974年)」でこうせつからエピソードが語られていたように思う。2番で「妹よ お前は器量が悪いのだから 俺はずい分心配していたんだ」と書いたせいで、妹から「お兄ちゃんのせいで私は婚期が遅れた」と文句を言われたと喜多條さんが言っていたそうだ。「神田川」「赤ちょうちん」「妹」は四畳半フォークと呼ばれ、人気を博した。それとともにかぐや姫のイメージを決定づける事になり、それが逆に解散を早める事にもなった。それほど、喜多條さんの詞のもつ力が大きかったという事だろう。

     他にも「この秋に(1972年)」「雨に消えたほゝえみ(1974年)」「おまえのサンダル(1974年)」「ペテン師(1974年)」「春の陽だまりの中で(1978年)」「笑いしゃんせ 泣きしゃんせ(1978年)」などの詞を、かぐや姫に提供した。僕にとってのベストの歌詞は「この秋に」だ。喜多條さんの曲はどれも悲しくて美しい。そしてこの曲も悲しいけれど、最後に救いがある。それはデビュー作「マキシーのために」のエンディングと同じように、未来に向けたメッセージになっている。素敵な曲をありがとうございます。合掌。

    君と別れて 三度目の秋
    ほんのささいな 出来事なのに
    傷つけあって 別れた二人
    心の何処かで さよなら言って

    明日が来ない 小さな店で
    君の噂を 他人から聞いた
    雨を見ながら 朝まで飲んで
    指輪みつめて やつれていたと

    昔の街まで 夜汽車にゆられ
    訪ねた下宿の おやじが言った
    あの娘は こないだ一人で死んだ
    胸に真赤な コスモスの花もえて

    僕は悲しい 少女に会った
    マッチ一つの あかりの中で
    涙ぐんでた 少女を抱いた
    この秋 僕には子供が出来る
    posted by アスラン at 04:50 | 東京 ☀ | Comment(0) | 僕の音楽ヒストリー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2021年05月17日

    歌詞を変える意味とは…その2(南こうせつ「愛する人へ」)

     さだまさしの「檸檬」の歌詞変更の事を記事に書いてるときにずっと考えていたのは、その前にも経験があるよなぁということだった。それは南こうせつの「愛する人へ」だ。その前にも、と書いて、あれ、本当に「檸檬」の前なのかあやしくなったので発表年を調べた。「檸檬」が収録されたアルバム「私花集」の発売が1978年3月。新アレンジでシングルカットされたのが1978年8月だ。南こうせつのシングル「愛する人へ」が発売されたのが 1977年1月、同じアレンジで収録されたアルバム「今こころのままに」の発売が1977年6月だ。やはり、「愛する人へ」の方が先だったが、たったの一年しか違わなかったとは驚いた。

     「愛する人へ」は作詞・岡本おさみ、作曲が南こうせつなので、作詞自身を自ら担当するさださんの場合とは事情が異なるだろうし、そもそも「愛する人へ」の歌詞が変更された事を知らない人も多いと思う。まずは地ならしから始めよう。僕は中学で知り合った友人の影響でフォークギターで弾き語りをするようになった。最初によくコピーしたのが「かぐや姫」の曲だった。その頃はテレビでは歌謡曲しか流れないし、そもそもフォークやその後のニューミュージック系の歌手はテレビに出演する事を拒否したりしていたので、当時の子供がフォークの曲を知る機会はラジオかレコードだけということになる。僕はと言えば、小学校までは歌謡曲オンリーだったので、中学生になって洋楽を聞いてる女子やロックにかぶれている男子の話はちんぷんかんぷんだった。

     フォーク好き、ギター好きの数人が寄り集まってあれこれ話したり練習するうちに、各自購入したレコードを持ち寄ったりして音源を共有した。友人がリードをとれる腕前だったので、僕がサイドギターを担当し、中学の文化祭では「加茂の流れに」と「置手紙」を体育館でみんなの前で披露した。かぐや姫がフォーク好きの原点だったことは確かだけれど、ギターのフレーズに惹かれていた友人は、かぐや姫解散後のしょーやんが作った「風」に注目して、僕らはそちらの虜になっていった。当時まだめずらしかったコピー譜を友人が手に入れたので、それをなんとかコピーして「海岸通」「あいつ」などを熱心に練習した。風の強みは、なんといってもしょーやん、こと伊勢正三が作詞・作曲ができるアーティストだった事だ。その強みはかぐや姫時代に鍛えられたものであり、才能を開花させたのが南こうせつだと言えそうだ。

     こうせつはリーダーとして、あるいは作曲家として、かぐや姫をデザインしていった。同じアパートに同居して「風呂に入ってる間に詞を3曲書いといて」と言われたと、しょーやんが当時を振り返っていた。ビートルズのポールとレノンではないが、伊勢正三作詞・南こうせつ作曲の歌が非常にバランスがとれていた。山田パンダさんは後年エッセイストとしても文才を振るったように、どちらかというと詩人のような佳作が多かった。こうせつ自身には「突然さよなら」「加茂の流れに」などの名曲の作詞もあるが、多くは故郷を歌った素朴な詞だった。ただ、作曲と歌唱の点では抜きん出ていたので、どんな詞でも曲と歌でまとめてしまう力強さがあった。そもそもグループがブレイクした「神田川」だって、喜多条忠ができたてほやほやの歌詞を電話で伝えると、書きとめながらメロディも同時に出来上がったと、こうせつ本人が語っている。「妹」「赤ちょうちん」のいわゆる四畳半フォークの三部作もすべて喜多条忠の詞だ。これがうけた事が、皮肉にもかぐや姫の解散を早めた原因になったようだが、それはともかくとして、こうせつには良い歌詞を提供してくれる協力者が不可欠だった。

     こうせつのソロ1作め「かえり道」の色を決めている「旅するあなた」「花いちもんめ」「昨日にさようなら」「荻窪二丁目」などは、いずれも喜多条忠の作詞。こうしてあらためて振り返ってみると、喜多条さんの詞はすばらしい。喜多条・こうせつコンビのフィット感が半端ないので、2作めのアルバム「ねがい」でも「帰っておいでよ」「名物せんべい」「恋唄」「今日は雨」などの作詞を喜多条さんが担当、主要な位置を占めている。しかし表題作「ねがい」は岡本おさみの詞だ。この他に「私の詩」も彼の作詞だ。この後、南こうせつは日本武道館で日本人ソロアーティスト初となるワンマンコンサートを実現する事になるが、その際に、この2曲と「思い出にしてしまえるさ」の都合三曲がコンサートで歌われた。さも、その場にいたかのような物言いをしたが、当時FM東京で「マクセル・ユアポップス」という番組があり、こうせつのコンサートを「南こうせつ・イン・武道館」というタイトルで、ほぼ全編を放送したからわかっている。「ほぼ全編」だと推測するのは、MCのパートも結構収録されていたからだ。「新婚白書」という曲を余興で歌う場面もあった。今回調べて初めて知ったのだが、バンド「猫」に提供した曲だったのか。また、最後にナレーションの伊武雅刀さんがセットリストを読み上げるので、曲についてもカットなしの全曲を放送した事がわかった。

     話を岡本おさみに戻すと、2作めの表題作が象徴するように、これを境に岡本おさみの歌詞を採用する事が多くなっていく。こうせつというと自然や故郷、家族などが大きな背景となっているので、喜多条さんの生活感があって情景が浮かびやすい歌詞が非常にフィットしていたように思う。ただ、少し間違うと演歌になってしまうのではというきらいはあった。それに比べると岡本おさみの詞は、情景から観念的な心象風景へと言葉がするりと移動していく。「私の詩」では次のように歌われる。
    雨が降っていますね
    君の暮らしを癒やして
    くり返すだけが人生よと
    想いめぐらせば

    なんてしょっぱいしょっぱいこの雨
    ああ 私の詩よ
    あなたの日々の慰めとなれ

     また「ねがい」はジェリー藤尾が歌ってヒットした「遠くへ行きたい」をモチーフにした歌い出しだが、たどり着く先は具体的な場所ではなく、どこにもない心の中の拠り所だ。
    どこか遠くへ行きたいと
    懐かしい人が歌っている
    机の上の小さなラジオで
    行きたい いつか行ってみたい
    はるかな土地にねそべると
    そこから空の蒼さが始まるところに

     そもそも岡本おさみとはどんな作詞家だろう。あらためて考えたことがなかったが、まっさきに思いつくのは「襟裳岬」を作詞した人物だということだ。もちろん森進一の「襟裳岬」であり、レコード大賞受賞曲だというのが子供の頃の認識だ。後年、吉田拓郎が岡本おさみとタッグを組んで作った曲だと知った。吉田拓郎に関しては「となりの町のお嬢さん」や「明日に向って走れ」あたりからようやく遡って過去の曲を聞くようになった。岡本おさみ作詞の曲を調べてみると、「リンゴ」「落陽」「祭りのあと」「旅の宿」を含む多数の歌詞を書いている。観念的と形容したが、「リンゴ」や「落陽」には心象だけではなく作者の思想を込めたような歌詞が感じられる。
    ひとつのリンゴを君がふたつに切る
    僕の方が少し大きく切ってある
    そしてふたりで仲良くかじる
    こんなことはなかった少し前までは
    薄汚れた喫茶店のバネの壊れた椅子で
    長い話に相槌うって
    そしていつも右と左に別れて
    (リンゴ)

    女や酒よりサイコロ好きで すってんてんのあのじいさん
    あんたこそが正直ものさ
    この国ときたら 賭けるものなどないさ
    だからこうして漂うだけ
    (落陽)

     フォークソングの原点には反戦があり、60年安保闘争後には一転して「戦争を知らない世代」が何気ない日常を謳歌する歌が多数作られたが、岡本おさみの詞には、新しい時代・新しい世代への期待と幻滅がないまぜになっているように感じられる。そして、こうせつへの次の提供曲が「愛する人へ」だ。この時期、僕はラジカセでカセットテープに録音した武道館コンサートの音源を何度も何度も繰り返し聞いていた。風が生み出すセンスのいい楽曲も好きだが、こうせつの少々泥臭いが感情を揺さぶられるような楽曲も同じように好きだった。特に、この当時はスタジオライブという形で生演奏を聞ける機会が多かった。そんな中で新曲として「愛する人へ」も紹介された。シングルで発売された際のアレンジとは違って、こうせつがギターの弾き語りで歌っていた。アルペジオで始まるイントロは非常にわかりやすく、コードさえわかってしまえば当時の僕の腕前でもコピーは簡単にできた。

     シングルで発表され、アルバム「今こころのままに」にも収録された「愛する人へ」の最終的な歌詞はこうなっている。
    君のきれいな胸 とてもあったかい
    暮れ残った 日だまりみたいさ
    窓の外は冬 雪さえ降ってきた

    過去をふりかえると 恥ずかしいことでいっぱいさ
    長い眠りからさめると 生まれかわってた
    なんて言うのがいいね

    愛する人よ眠ろう 言葉は愛想なしさ
    愛する人よ眠ろう だまって眠りなさい

     この曲でも岡本の歌詞は、「愛する君」と暮らす日常の風景から語り手の心象風景にするりと移動していく。「過去をふりかえると恥ずかしいことでいっぱい」という内省は、当時の僕には思いもよらない言葉だった。単なるラブソングではない歌詞の難しさを、僕だけでなく他の人たちも感じていただろうか。ひょっとしたらこうせつ自身さえも。そして、この歌詞のもっともひっかかる部分は、なんといってもサビの「言葉は愛想なしさ」というフレーズだ。愛の言葉をどれほど尽くしてもなかなか届かないという、愛する人への想いを表現していながら、同時に「恥ずかしいことでいっぱい」だと顧みた過去から手に入れた思想の手触りが感じられる言葉でもある。傍らにまどろむ「君」に直接語りかけているのではなく、内省する心が「君」に伝えようとしているフレーズだ。

     発売前のライブバージョンで聴いた「愛する人へ」の歌詞は少しだけだが、違っていた。音源がどうやら残ってないようなので、僕の拙い記憶をたどってみると、次のようになっていたはずだ。
    君のきれいな胸 そっと耳をあてると
    暮れ残った 日だまりみたいさ
    窓の外は冬 雪さえ降ってきた

     「そっと耳をあてると」を「とてもあったかい」に変えた理由はいまならよくわかる。2連目の「日だまりみたいさ」という比喩につなげるためには「耳をあてる」という言葉は説明しすぎだという事だろう。トレバトの俳句の夏井いつき先生がよく言っているように、言わなくても伝わる事は書かないという推敲の結果だ。何よりも「とてもあったかい」の方が「日だまり」の比喩に自然とつながる工夫になっている。この「日だまりみたいさ」という部分も、ライブヴァージョンでは「春の日だまり」になっていたような記憶があるのだが、僕自身の記憶の改ざんかもしれないので変えていない。

     もう一カ所、2番の歌詞で変更があった。
    なんにもできないから 愛の唄をうたっていくよ
    ことばのままに生きてゆけたらそいつはむずかしいな
    そいつは苦しすぎるよ

     この部分の最後の「そいつは苦しすぎるよ」は、元は「僕には苦しすぎるよ」だった。語り手である「僕」の心情を唄っているので変更前と後ではなにも変わらないのではないか。一見するとそう思えるが、「僕には」と言ってしまうと「とりわけ僕には苦しい」と強調しているように感じられる。ここは「言葉は愛想なし」という思想と呼応していて、「ことばのままに生きることは難しい」という普遍的な事を「僕」が嘆いているのだと聞き手に伝わるように、変更したのだと考えられる。

     作詞・岡本おさみが行った歌詞のささやかな変更の意図を考えるだけでも、この歌詞に込められた思想の難しさに改めて気づかされるが、それと反比例するかのように歌詞そのものは「あったかい」「日だまり」「ことば」のようにひらがなが多用されていて、聞き手(読み手)に優しい。それだけでなく、変更の意図には歌い手であるこうせつや聞き手である僕らへの配慮もあったかもしれない。「そっと耳を当てると」よりも「とてもあったかい」の方が譜割りが自然だし、「そいつはむずかしい…そいつは苦しすぎる」のように「そいつ」を繰り返す方が耳触りがいい。

     もちろん、今回も僕個人の勝手な推測でしかない。でも、今どきの歌のようにきちんと完成させて、さらにはMVまで作るという事が当たり前ではなかった時代ならではのおおらかさがあったことは言っておきたい。また、フォークソング歌手特有の弾き語りのライブ感が詰まった楽曲がレコードで化ける際の落差が大きかったことも確かだった。ことに南こうせつの「武道館コンサート」を死ぬほど聴き込んで味わい尽くした僕にとって、その後に発表された「今こころのままに」に収録された「九州に帰る友へ」や「思い出にしてしまえるさ」があまりにもライブとは違った整い方をしているのにかなりとまどった事をよく覚えている。そのことについてはまた別の機会に書くとしよう。
    南こうせつの50曲 - 南 こうせつ
    南こうせつの50曲 - 南 こうせつ
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    2021年05月05日

    歌詞を変える意味とは…(さだまさし「檸檬」)

     4/18の関ジャムは「さだまさしの『今』に迫る」をテーマに、さだまさし本人を迎えて今関心のある若手アーティストなどを聞いたり、作詞や作曲の方法論を聞き出したりしていた。長年、さだまさしのファンを続けてきた自分としてはさださんの近況は確かに気になるのだが、昨今はレジェンドの一人としてこうした番組で若い世代からも支持を受けているさださんの姿を見ると、「時代が変わったなぁ」と改めて感じてしまう。

     さだまさしと言えば「『関白宣言』で女性蔑視と非難され、『防人の詩』で右翼だ、『しあわせについて』で左翼だと、事あるごとに批判されてきた」と、本人が自虐的に自らを語る事が多かった。確かにある時期の作品群では、今で言うところの「炎上」を繰り返してきたさださんだが、これはある種のイデオロギーに染まった一部の人達の心情を逆なでするようなテーマをあえて作品に盛り込み、言わずもがなの一言を言ってしまう「さだまさし」という個性ゆえの必然にほかならない。かつてはどこの町にも一人くらいはいた小言を言うおじさんのように「見て見ぬふりはできない、言わずにはいられない」事に口出しするのは、さださんの律儀さゆえの性分であって決して使命感などというつまらぬ自意識ではない。さだファンには自明な事でも、いわゆる世間の人にはなかなかに伝わらない。風向きが変わるのに数十年を要した。

     僕自身、「かぐや姫」「風」と言った叙情派フォークの洗礼を受けて、いち早くたどり着いたのがフォークデュオ「グレープ」の存在で、「無縁坂」のスマッシュヒットの頃から、その後ソロになったさださんの初期の作品群に魅せられてきた一人だ。もちろん、当時はどっぷりと浸かりすぎたおかげで、「夢供養」で一段落がついたアルバムの完成度の高さゆえに、「印象派」以降のアルバムに今ひとつ満足ができず、次第にオールドファンの立ち位置に身を置くようになった。特に「印象派」の1曲め「距離(ディスタンス)」の歌詞の一節に引っかかった。故郷に住む君は「夢」や」希望」を語る青臭さを笑いはしないだろうが、都会で暮らす僕は「コップ一杯の水と引換えに『嘘』なんて言葉を飲み込める様になった」という歌の中の主人公は、
    都会はけっして 人を変えてはゆかない
    人が街を変えてゆくんだ
    「人」と「人」との距離が  心に垣根を
    静かに刻みはじめる

    と語り、「もうそろそろ帰ろう 帰らなくちゃいけない」と、君の住む故郷への郷愁をつのらせる。このとき、僕はがっかりしたのだ。東京生まれ東京育ちの僕にとって「街」も「人」も同じ意味に聞こえた。「街」が人を変えてゆくのでなければ、都会に住む人には残された道はないではないか。学生の頃に大病をして、アルバム「夢供養」の「ひき潮」に心の中のふるさとのイメージをふくらませては救われてきた自分には、「距離」の歌詞は冷たくひびいた。今から思えば若さゆえの「つまらぬ自意識」だったかもしれない。引っかかる癖に「距離」は今でも好きな作品だ。

     同じように引っかかると言えば、今やさだまさしを代表する曲に成長した「風に立つライオン」の一節。
    やはり僕たちの国は残念だけれど
    何か大切な処で道を間違えたようですね

     これも僕を含めて多くの日本人の心情を逆なでしたに違いない。「距離」の一節と同じように、日本で暮らす「人」には冷たくひびいただろう。「僕は『現在(いま)』を生きることに思い上がりたくないのです」という主人公の決意に、日本で生きる僕らの思い上がりを窘められたような気がした。当時、同じようなテーマを抱えた脚本家・山田太一は「早春スケッチブック」で、「おまえらみんなありきたりだ」と罵る男の言葉に対抗して市井の人々の暮らしの力強さを描いた。今から思えば、バブルに踊らされた日本を離れてアフリカでの僻地医療の道を選んだ若き医師の生き方に触れたさださんが、彼の人生をモチーフに作り上げた作品であったとわかる。さだまさし自身も、彼の人生、彼の決意に心に波風をかきたてられ、そしてアンサーソングを書いた。さださん自身にとっても、「いまを生きることに思い上がりたくない」という医師の決意は戒めであろう。さださん自身が高みから「おまえらみんなありきたりだ」と罵ってるわけではないのだ。そして、やはり引っかかる一節があるにもかかわらず、いや、あるからこそ、「風に立つライオン」も僕の好きな作品だ。

     さだまさしの初期の作品の中でもひときわ重要な位置を占める「檸檬」は、もちろん梶井基次郎の短編「檸檬」をモチーフにして青春の一時期に思い悩む少女を描いた作品だ。ソロ3枚めのアルバム「私花集」の中の一曲で、さだまさしの代表曲と言っていい。もっとも「私花集」には、「主人公」を始め、「案山子」「秋桜」「フェリー埠頭」なども含まれるので、同じさだファンでも何を持って代表曲とするかには異論が出てくるかもしれない。少なくとも僕にとっては青春時代に歩き回った御茶ノ水が舞台の「檸檬」は、特に思い入れの強い作品だ。
    或の日湯島聖堂の白い石の階段に腰かけて
    君は陽溜まりの中へ盗んだ檸檬細い手でかざす
      (中略)
    食べかけの檸檬聖橋から放る
    快速電車の赤い色がそれとすれ違う
    川面に波紋の拡がり数えたあと
    小さな溜息混じりに振り返り
    捨て去る時には こうして出来るだけ
    遠くへ投げ上げるものよ

     カラオケがない時代にフォークギターの弾き語りで、この曲を何度も歌ったが、驚いたのは後にシングルカットされた「檸檬」がアルバムのギターとオーケストラの落ち着いたアレンジではなく、少しミディアムロックのテイストを入れ込んだ派手めのアレンジに変わったことと、あるフレーズの歌詞が変わったことだった。変えられたのは、2番のサビの部分のほんの一節だ。一番では「食べかけの檸檬」の黄色と中央線の「快速電車の赤い色」が聖橋で交差し、二番では「食べかけの夢」と総武線の黄色(檸檬色)が交差するという色彩のイメージをまとめた見事な歌詞の直後に、一番の歌詞と呼応するように
    二人の波紋の拡がり数えたあと
    小さな溜息混じりに振り返り
    消え去る時には こうして出来るだけ
    静かに堕ちてゆくものよ

    と歌われる。この部分の「こうして出来るだけ」が、シングルバージョンでは「こうしてあっけなく」に変わっている。

     なにかにつけ文章を書いたり、コンサートでも歌唱よりも長いトークが有名なので、コアなファンには事情は伝わっているのかもしれないが、いまだに何故変えたのかは知らないままだった。番組ではおもしろエピソードとして取り上げられていて、しかも今は歌詞についてはアルバムバージョンに戻して歌っていると言う。「あっけなく」の小さな「っ」が歌いにくいというのが理由だ。いかにもさださんらしいユーモアだが、変えた理由については「よくわからないけど、変えたくなっちゃったんだろうね」と茶化していた。

     僕なりに考えると、「食べかけの檸檬(夢)」「快速電車の赤い色(各駅停車の檸檬色)」「川面に波紋の拡がり(二人の波紋の拡がり)」「捨て去る時には(消え去る時には)」と、一番と二番の歌詞を呼応させていくならば「こうして出来るだけ」で統一するのは、係り結びのならいのように必然であって、これ以外にないという選択に見える。つまり詩歌の技巧として完成度の高いのはアルバムバージョンである。ただし、一番の「こうして出来るだけ」が「遠くに投げ上げる」という部分の情景としては自然なのに比べると、二番の「こうして出来るだけ」は、「静かに堕ちてゆく」を形容するには違和感が残る。「堕ちる」という行為は自覚的に、しかも「出来るだけ」のように意識的に行うものではなく、「あっけなく堕ちる(堕ちてしまう)」ものだと感じられる。そこにこだわり始めると、アルバムバージョンの歌詞は技巧に走りすぎたのではないかと、さださん自身が感じたのかもしれない。あくまで僕の推測だが…。

     僕自身、カラオケで「檸檬」を歌う際には、一時期はシングルバージョンで歌っていた。というのも、アルバム・シングルの順で発売されているので、さださんの望んだ歌詞は「こうしてあっけなく」だと思いこんでいたからである。でも、思い入れのあるのはどちらかと言われればアルバムバージョンなので、今は「こうして出来るだけ」で統一して歌っている。それに、確かに「あっけなく」を歌う前にちょっと身構える感じがある。小さな「っ」で跳ねないといけないので、やっぱり歌いにくいのだ。今後は気兼ねなくアルバムバージョンで歌える。
    天晴~オールタイム・ベスト~ - さだまさし
    天晴~オールタイム・ベスト~ - さだまさし
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    2021年02月07日

    筒美京平 Hitstory Ultimate Collection 1967~1997(vol.1 DISC4)(その2)

     当時、日曜のお昼どきと言えば日本テレビの「スター誕生」を見るのがティーンエイジャーの当たり前だった。花の中3トリオで売り出すことになる森昌子、桜田淳子、そして山口百恵も、みんな「スター誕生」出身のアイドルだった。そして、岩崎宏美もこの番組からデビューしたアイドルの一人だ。彼女はデビュー当時からアイドルと呼ぶのが憚れるほど抜群に歌がうまかった。それだけでなく、デビュー曲から出す歌、出す歌、聞き心地がよくて歌いやすく、ヒットを連発した。Wikipediaによると同期は太田裕美、岡田奈々、片平なぎさだ。大田は一年早いデビューだと思うが、ほぼ同期と言っていいだろう。筒美さんは同時期の新人アイドル二人にデビュー曲から曲を提供し続けたわけだが、順調なスタートダッシュをきったのは岩崎宏美の方だった。彼女は、またたくまにトップアイドルに躍り出た。僕は当時、岡田奈々のファンだったのでアイドルとしての岩崎宏美には関心がなかったが、彼女の曲自体は好きだった。当時は気づいてなかったが、筒美作品だったのだから好きになるのは当然だったわけだ。そのデビュー曲から3作目までが、このDisc4に収録されている。

     デビュー曲は「二重唱(デュエット)」だ。アイドル時代の岩崎宏美の代表作と言えば2作目の「ロマンス」の方が有名だが、僕は「二重唱」の印象のほうが強い。解説にも書かれているように、筒美京平作品としては珍しく「サビから歌い出す"頭サビ"の形式がとられている」からだろう。筒美さんはサビだけが記憶に残るような曲作りを嫌ったようだが、山口百恵の「青い果実」などで都倉俊一が試みた同様の曲構成を意識したものだそうだ。相変わらずイントロも印象的だが、自然とサビにつながる構成も見事だし、パンチの効いたサビがテンポよく歌われるので、非常に疾走感が出ていて聞き心地がよい。

     2作目の「ロマンス」はチャート1位になり、この曲でレコード大賞新人賞を獲得した。この曲は、担当ディレクターの意向で「当時流行していたヴァン・マッコイなどのディスコ・サウンドを取り入れる」ように筒美さんに依頼があったようだ。ディスコ・サウンドを取り入れているという解説を読んで、ちょっと意外だった。素人の僕が聞く限り、「ロマンス」をディスコ・サウンドだと感じた事は一度もなかったからだ。あらためて音作りに注目しながら聞いてみると、そう思えるところが確かにあった。ヴァン・マッコイというと、なんと言っても「ハッスル」だろう。「ハッスル」というのは、マンボ・ジルバなどと同様、踊るためのリズム形式の一つだと理解しているが、当時の僕にとっては、まず「ハッスル」という曲だった。僕はその頃は歌謡曲からフォークへと関心が広がりだした頃で、洋楽については疎かった。同級生にヤンキーがいて、彼の家で「ハッスル」を聴かされて、踊り方も教えてもらった。確かヴァン・マッコイの「ハッスル」のレコードに振り付け(と言っても足の運び方だけだが)が載っていたはずだ。その後、マッコイがアレンジしたスタイリスティックスの「愛がすべて(Can't Give You Anything (But My Love))」が大ヒットした時は、シングルレコードを買うほどにハマった。「愛がすべて」をよくよく聴くと、バックに「ハッスル」のメロディラインが流れている。「ロマンス」の間奏でも変奏された「ハッスル」がフレーズとして入り込んでいるのがわかる。

     3作目の「センチメンタル」は、誰が聴いてもイントロからディスコ・サウンドをベースにしていることがわかるだろう。解説にも3曲中完成度が頂点を極めていると書かれている。当時は、大ヒット曲の次の曲はなるべく前作を踏まえて似た雰囲気の曲を出すという慣習めいたものがあった。つまり、期待度が高いので、似た曲を続けて出せばそれなりにヒットするという事だったと思う。でも、筒美サウンドにそんな手抜きはなく、あくまでも新しい試みやさらなる完成度の向上を目指している。ちなみに、岩崎宏美の8作目までは阿久悠・筒美京平コンビで作られているが、阿久悠は岩崎宏美の「本格派歌手」のイメージが自分の目指すものとは違っていると感じて、最初は断っていたそうだ。当時、都倉俊一とコンビで担当することになっていた黒木真由美の方に可能性を感じていたというのも断った理由の一つだったが、結局は依頼に応えることになった。「二重奏(デュエット)」はオケ録りまで完成していた曲に数日で歌詞をつけたらしい。

    あなたがいて 私がいて
    ほかに何もない
    ただ秘密の匂い たちこめるだけ
    (二重奏(デュエット))

    あなたお願いよ 席を立たないで
    息がかかるほど そばにいてほしい
    あなたが 好きなんです
    (ロマンス)

    ときめく胸を あなたに伝えたいの
    好きよ 好きよ 好きよ
    (センチメンタル)


     ところで、Disc4にはディスコ・サウンドのインストゥルメンタル作品として「セクシー・バス・ストップ」が入っている。あの浅野ゆう子がアイドル時代に歌った曲だ。洋楽のカバーと言ってもいいくらいのノリのいいディスコ・サウンドだが、当初はヴァン・マッコイの「ハッスル」のような作品を国内で作るという企画だったらしい。しかもオリエンタル・エクスプレスという架空のグループ名を用いて、作曲者名も伏せて、あくまで洋楽として売り出した。本作に1ヶ月遅れるかたちで日本語歌詞を橋本淳に依頼して、浅野ゆう子が”カバー”した体になっている。インストの方は記憶にないが、浅野ゆう子の歌の方はとても印象に残っている。いしだあゆみと同様に、すっかり女優になってしまった彼女の生歌を聴く機会は残念ながらもう来ないだろう。

     Disc4にはアルフィー「夏しぐれ」やオフコース「忘れ雪」などの、後のビッグなアーティストたちへの提供曲も含まれているが、当時は耳にした事がなかった。まだ、ニューミュージック前夜という時期で、アルフィーにしてもオフコースにしても、歌謡曲という枠組みの中で方向性を模索していた時代だった。どちらの曲も筒美サウンドとしては名曲だが、叙情派フォーク調というところがアルフィーにもオフコースにもマッチしていなかった。もちろん、その後の彼らの活躍を知るからこそ言える話だ。アルフィーがブレイクするのは16作目「メリーアン」(1983年)からだし、オフコースは「忘れ雪」の次の7作目「眠れぬ夜」、さらに15作目「愛を止めないで」(1979年)がスマッシュヒットし、17作目「さよなら」(1979年)でようやく大ブレイクすることになる。

     台頭してきたニューミュージック勢への楽曲提供という意味では、この時期もっとも成功した例は、中原理恵「東京ららばい」と庄野真代「飛んでイスタンブール」だろう。中原理恵自身はシンガーソングライターではなく、札幌でスカウトされた「モデルみたいにトんでる女」に都会的なサウンドの曲を歌わせるというコンセプトのもと、山下達郎、吉田美奈子などによるアルバムが制作されたが、シングルカットする曲ができなかったので、松本隆・筒美京平コンビに依頼がきたそうだ。当時は「東京ららばい」を歌謡曲として普通に聴いていたが、異色作だった事は間違いない。今聴くと、都会のバーで出合った男女の掛け合いを描く前半は、夜の酒場での風景という歌謡曲にありがちなモチーフだが、後半の「東京ララバイ…」で始まる歌詞は、都会で生きる若者の孤独感や閉塞感が、「地下」や「ビル」あるいは「部屋」「窓」といった無機質なオブジェに託されていて、松本さんのセンスが光る歌詞になっている。

     「飛んでイスタンブール」は庄野真代最大のヒット曲だ。解説にはヤマハのポプコンを経ていると書かれているが、正直そのイメージはなかった。Wikiで調べるとたしかに74年、75年に入賞している。それがきっかけで76年にデビューしているが、5作目の「飛んで…」がチャート3位の大ヒットとなった。ちあき哲也の歌詞は、タイトルの「イスタンブール」に合わせて脚韻を踏む語呂合わせになっている。詞先なのかと思いきや、あの軽快なメロディは筒美さんがストックしていたモチーフをベースにした曲先によるものなのだそうだ。この曲のシングル盤は家にあった。僕が買ったのか兄が買ってきたのか記憶が定かではないが、「イスタンブール」という異国情緒が感じられる音作りにとてもハマった。あの印象的な弦楽器の音はギリシャの民族楽器ブズーキによるもので、筒美さんから「何か変わった音を入れたい」という指定があったそうだ。庄野真代さんの次のシングルは「モンテカルロで乾杯」。まさに二匹目のドジョウを狙った企画で、再びちあき・筒美コンビによる楽曲。しかも筒美さんはアレンジも担当している。こちらのシングル盤も家にあった。これは間違いなく僕が買った。二匹目狙いではあるけれど、大好きな曲だ。


    東京ララバイ
    地下がある ビルがある
    星に手が届くけど
    東京ララバイ
    ふれ合う愛がない だから朝まで
    ないものねだりの子守歌
    (東京ららばい)

    おいでイスタンブール
    うらまないのがルール
    だから愛したことも
    ひと踊り風の藻屑
    (飛んでイスタンブール)


    Disc4
    よろしく哀愁/郷ひろみ 1974
    甘い生活/野口五郎 1974
    雨だれ/太田裕美 1974
    夏しぐれ/アルフィー 1974
    忘れ雪/オフコース 1974
    にがい涙/スリー・ディグリーズ 1975
    誘われてフラメンコ/郷ひろみ 1975
    二重唱(デュエット)/岩崎宏美 1975
    ロマンス/岩崎宏美 1975
    センチメンタル/岩崎宏美 1975
    木綿のハンカチーフ/太田裕美 1975
    やさしい都会/平山三紀 1976
    セクシー・バス・ストップ/オリエンタル・エクスプレス 1976
    ラブ・ショック/川ア麻世 1977
    哀愁トゥナイト/桑名正博 1977
    しあわせ未満/太田裕美 1977
    恋愛遊戯/太田裕美 1977
    九月の雨/太田裕美 1977
    東京ららばい/中原理恵 1978
    飛んでイスタンブール/庄野真代 1978

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    2021年01月18日

    筒美京平 Hitstory Ultimate Collection 1967~1997(vol.1 DISC4)(その1)

     昨年末の29日にテレビ朝日「林先生の今でしょ2時間スペシャル」で、爆笑問題・田中がセレクトした筒美京平ベスト20を紹介していた。その中で、編曲家・武部聡志が「無駄なメロディが全くない」と絶賛していた「よろしく哀愁」を、大晦日の紅白歌合戦で郷ひろみが筒美さんを追悼して熱唱していた。このDISC4は、その曲からはじまる。「無駄なメロディが全くない」というコメントには僕も完全に同感だが、その点について補足説明があまりなかったので、発表当時の衝撃を知らない若い世代にはわかりにくいかもしれない。僕なりに噛み砕いてみる。歌には何度も味わわなければ良さが伝わってこない曲もあるし、サビ前のメロディ(Aメロディなど)は覚えてないがキャッチーなサビはいつまでも心に残る曲もある。でも、「よろしく哀愁」はイントロから間奏・エンディングに至るまですべてが一気に記憶に残る曲で、どこをとっても魅力的なメロディラインから構成されている。しかも本メロとのつながりもわざとらしいところがなく、なめらかにつながっていて、まさに「無駄なところがない完璧な曲」と言える。だから、この曲を思い出すときは、今でもかならず印象的なイントロから口ずさんでいる。この曲は、今をときめくジャニーズ事務所初のチャート1位に輝いた。

     「よろしく哀愁」も「誘われてフラメンコ」も、まずディレクターの酒井政利がタイトルを提示して歌詞が作られた。「誘われて…」の方は、作詞の橋本淳が愕然としたそうだ。無茶ぶりが過ぎたせいだろうか、歌詞にはフラメンコを想起させるものは「フラフラ」というオノマトペしかない。この頃は詞先・曲先以外に、プロデューサーからのタイトル先というのがあったのが驚きだ。
    会えない時間が
    愛 育てるのさ
    目をつぶれば 君がいる
    友だちと恋人の境を決めた以上
    もう泣くのも平気
    よろしく哀愁
    (よろしく哀愁)

    誘われてフラフラ 乱されてユラユラ
    誘われてフラフラ 乱されてユラユラ
    (誘われてフラメンコ)

     
     郷ひろみは今の男性アイドルたちにつながる直系アイドルだが、野口五郎は20代以降の若い世代のリアルな心情を叙情的に歌い上げる歌手だった。「博多みれん」から「青いリンゴ」「オレンジの雨」で演歌路線から脱却した彼が行きついた到達点が「甘い生活」「私鉄沿線」などの一連の曲だろう。「生活」「沿線」などのキーワードから、当時流行していた叙情派フォークの影響があることは一目瞭然だろう。当時ブレイクしていたかぐや姫の「神田川」「妹」「赤ちょうちん」は四畳半フォークとも呼ばれた。都会での恋人どうしの『甘い生活』は、文字通りには甘くはない。そんなリアルな生活感と切ない心情をうたった「甘い生活」や「私鉄沿線」は野口五郎の代表曲となった。
    あなたと揃いの モーニング・カップは
    このまま誰かにあげよか
    二人で暮らすと はがきで通知を
    出した日は帰らない

     当時僕の父方の叔父一家は埼玉県の春日部に住んでいた。叔父は気さくな親しみやすい性格で好きだったが、叔母はちょっと気位が高く他人を貶める毒舌の持ち主で苦手だった。春日部出身の太田裕美のことも、彼女の特徴である舌足らず、あるいは舌足りすぎの歌唱をけなしていた覚えがある。確かに特徴的な歌い方だったのだが、それが声フェチである筒美さんのお眼鏡にかなったのだろう。デビュー曲の「雨だれ」から、後年に大田がニューミュージックに路線を変更するまでの間の曲を筒美さんが提供し続けた。もちろんピアノが弾けるという才能を活かした曲作りだったのだろう。ショパンを連想させる「雨だれ」は、魅力的なピアノのイントロから始まり、ピアノの響きと呼応するかのような透き通った大田の高音の声が絶妙だった。シングル4曲目が、松本隆・筒美京平コンビによる名曲「木綿のハンカチーフ」だが、すでに「雨だれ」から、このコンビの快進撃は始まっていたのだと改めて知った。

     「木綿のハンカチーフ」は、都会に行った男性と、田舎に残された女性との間で交わされる往復書簡を基調とするストーリー性の強い作品だ。歌詞が4番まであるため、当時「長すぎて作曲できない」と筒美さんが一度は匙を投げたエピソードが有名だ。もちろん、ここで「長い」と表現しているのは、編曲までを意識した上での発言だろう。DISC4の解説にも書かれているが、当時の歌謡曲は2コーラス半の構成が当たり前で、4コーラスで男女の対話形式になっている松本隆の歌詞は異例中の異例だった。デビュー曲から3作目までは曲先で、歌詞が筒美さんの世界観に歩み寄る形だったが、松本さんには別のイメージがあったようで、新しいアルバムに松本さんのアイディアが丸ごと採用された際の1曲が「木綿の…」だった。その異例な構成の詞にどう曲をつけたらいいかわからないのには、「名職人」である筒美さんならではの悩みがあったのだろうが、凡人の僕にはわからない。ただ、言えるのは、松本隆さんの見事な起承転結のストーリーを、重くなりすぎないように支えた筒美サウンドの軽やかさが際立つ一曲となっている。

     「木綿のハンカチーフ」の次の「赤いハイヒール」では、田舎で暮らす「そばかすお嬢さん」が出てきて、前作のテーマを引き継いでいる形になっているが、今度は(都会に暮らす?)男性がお嬢さんに一目惚れする話になっていて、前作の悲恋が報われる体裁になっているのが面白い。ちなみに松本・筒美提供曲は13枚目の「振り向けばイエスタディ」まで続く(12作目「失恋魔術師」を除く)が、このDISC4には彼女の曲が5曲も入っている、太田裕美という逸材がいたからこそ、80年代のアイドルにも多くの曲を提供し続けることになる筒美さんの真価が発揮された事の証だと思う。解説には初期の曲はピアノを中心とした「ポール・モーリア風のオーケストレーション」を採用したと書かれているが、「しあわせ未満」以降はもっとポップな曲調を採用し、「恋愛遊戯」に至ってはシティ・ポップの雰囲気が出ている。そしてアルバムの中の曲としては「異質な雰囲気の曲」と解説で取り上げられた「九月の雨」がシングルカットされる。

     「九月の雨」は、言ってよければ郷ひろみの「よろしく哀愁」同様に無駄な部分がまったくない楽曲だと思う。九月に突然に降ってくる驟雨のように、少し不穏な雰囲気を伴ったアップテンポのイントロから始まり、サビでは「セプテンバー レイン レイン」のフレーズが連呼される。これまでの太田裕美にはなかった曲調、なかったサビの連呼だが、それは男女の別れの場面での女性の悲鳴のようにも聞こえる。特に後半にメロディラインが意図的に変わる部分があって、心が叫んでいるかのような表現になっている。後に「異邦人」で大ブレークする久保田早紀にも「九月の色」という雨の歌があるが、どちらもあまりに悲しい九月の雨の風景を歌っていて、連作と言っても通用する共通点を感じる。
    ひとり雨だれは淋しすぎて
    あなた呼び出したりしてみたの
    ふたりに傘がひとつ
    冬の街をはしゃぐ風のように
    (雨だれ)

    恋人よ 君を忘れて
    変わってくぼくを許して
    毎日愉快に 過ごす街角
    ぼくは ぼくは帰れない
    あなた 最後のわがまま
    贈りものをねだるわ
    ねえ 涙拭く木綿の
    ハンカチーフ下さい
    ハンカチーフ下さい
    (木綿のハンカチーフ)

    はにかみやさん ぼくの心の
    あばら屋に住む君が哀しい
    しあわせ未満 しあわせ未満
    あー君はついて来るんだね
    (しあわせ未満)

    September rain rain 九月の雨は冷たくて
    September rain rain 想い出にさえ沁みてくる

    愛がこんなに辛いものなら
    私ひとりで生きてゆけない
    September rain 九月の雨は冷たくて
    (九月の雨)


    Disc4
    よろしく哀愁/郷ひろみ 1974
    甘い生活/野口五郎 1974
    雨だれ/太田裕美 1974
    夏しぐれ/アルフィー 1974
    忘れ雪/オフコース 1974
    にがい涙/スリー・ディグリーズ 1975
    誘われてフラメンコ/郷ひろみ 1975
    二重唱(デュエット)/岩崎宏美 1975
    ロマンス/岩崎宏美 1975
    センチメンタル/岩崎宏美 1975
    木綿のハンカチーフ/太田裕美 1975
    やさしい都会/平山三紀 1976
    セクシー・バス・ストップ/オリエンタル・エクスプレス 1976
    ラブ・ショック/川ア麻世 1977
    哀愁トゥナイト/桑名正博 1977
    しあわせ未満/太田裕美 1977
    恋愛遊戯/太田裕美 1977
    九月の雨/太田裕美 1977
    東京ららばい/中原理恵 1978
    飛んでイスタンブール/庄野真代 1978

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    2020年12月30日

    筒美京平 Hitstory Ultimate Collection 1967~1997(vol.1 DISC3)(その2)

     麻丘めぐみというと、白い衣装にミニスカート、お姫様カットの清楚な女の子という印象が強く残っている。元々は中学生の頃から雑誌「セブンティーン」のモデルの仕事をしていた。そのせいだろうか、異性を魅了するアイドルという位置づけ以上に、女の子うけするキャラクターだったように思う。デビュー曲の「芽ばえ」は、チャート3位の大ヒットとなり、その年のレコード大賞最優秀新人賞に輝いた。解説には「ミディアムテンポの哀愁味を帯びたメロディ」と書かれているが、千家和也の詞は、好きな男の子に寄りかかる、しおらしい女の子を描いていて、筒美さんの曲はそれに合わせて「哀愁」は帯びているけれど、ウェットではないポップさを表現していた。

     「女の子なんだもん」は朝丘めぐみの3枚目のシングルで、より男性うけする路線に転換して「意味深な歌詞」になっている。朝丘の作品はデビューから9曲連続で千家/筒美コンビによるものだが、千家は「女の子らしい女の子が、好きな男の子に意味深なそぶりをする」というテーマで、後に山口百恵にも同じような路線の楽曲を提供している(「としごろ」「青い果実」「禁じられた遊び」「ひと夏の経験」)。僕は、この曲は当時耳に入っていたような記憶はあるが、印象は薄い。朝丘めぐみと言えば、なんと言っても「芽ばえ」と「わたしの彼は左きき」の2曲だった。前にも書いたが、当時は生演奏で歌う歌番組が主流だった。ちゃんとした楽曲を味わうためには、シングルレコードを店で購入しなければならなかったから、こうして改めてCDで聴いてみると新鮮な感じがする。「わたしの彼は左きき」のイントロにはハンドクラッピングが使われていて、千家の歌詞の軽やかさととってもマッチしている。
    もしもあの日あなたに 逢わなければ
    この私はどんな女の子に なっていたでしょう
    (芽ばえ)

    口に出すのは ルル
    恥ずかしいから ルル
    やさしい心で 感じとってね
    (女の子なんだもん)

    小さく投げキッス する時もする時も
    こちらにおいでと 呼ぶ時も呼ぶ時も
    いつでもいつでも彼は 左きき
    (わたしの彼は左きき)

     このDISC3で、南沙織、麻丘めぐみについでアイドルとして特筆すべき女性は、浅田美代子だ。浅田はDISC2で取り上げた堺正章が出演していたTBSドラマ「時間ですよ」で、「松の湯」の従業員役で共演した。このドラマでは番組内で登場人物が歌を歌うシーンが挿入された。堺の「涙から明日へ」「街の灯り」、隣の真理ちゃん(天地真理)の「恋はみずいろ」「水色の恋」、そしてミヨちゃんの歌う「赤い風船」だ。おそらく「赤い風船」が挿入歌最大のヒット曲だったはずだ。安井かずみ/筒美が生み出した、ほのぼのとした童謡のようなわかりやすい歌を、田舎から上京してきたかのような素朴でかわいらしい浅田美代子が歌うことで、あっという間に国民的なヒット曲となった。ドラマの中では、ドラマの終盤に銭湯の屋根の上で、堺がギターをつま弾きながら二人で歌う場面もあったように思うが、一躍アイドルになった浅田が歌番組で一人で歌うと、たびたび音程を外すのがお約束となっていて、テレビの前で「へたくそだなぁ」と思いながらも楽しく聴いていた。それもまた、彼女の持ち味だったのだ。

     もう一曲「しあわせの一番星」は、浅田の5枚目のシングル。やはり童謡のようなわかりやすい曲で聞き覚えもある。デビュー作「赤い風船」のヒットのわずか一年後だというのに、もう5枚目だ。当時の流行歌手は2~3ヶ月に1枚の間隔でシングルを出していた。「時間ですよ」ではなく同じ枠のドラマ「寺内貫太郎一家」の挿入歌だった。前作に引き続きプロデューサーは久世光彦だ。この頃は同じプロデューサーが立て続けにドラマ製作を手掛け、同じ出演者が引き続き出演するというのも珍しくなかった。
    あの娘はどこの娘 こんな夕暮れ
    しっかり握りしめた 赤い風船よ
    なぜだかこの手を するりとぬけた
    小さな夢がしぼむ どこか遠い空
    (赤い風船)
    ルルルルル 心に光るあの人の言葉が
    明日もきっと元気でいると 胸をたたいた
    (しあわせの一番星)

     このDISC3には他に多彩なタレントへの楽曲が含まれているが、残念ながらあまり聞いた記憶がない。フォーリーブスは、今や男性アイドルグループをコンスタントに送り出すジャニーズ事務所の遠い先輩に当たるグループだ。ジャニー喜多川がメンバーだったジャニーズのバックダンサーだったジャニーズ・ジュニアから選ばれた4人組のアイドルグループだ。 「地球はひとつ」「ブルドッグ」などが代表曲だと思うが、「約束」は知らなかった。メロディは非常にオーソドックス。青春歌謡調の出だしだが、サビが凝った作りになっている。

     小林麻美といえば「雨音はショパンの調べ」が代表曲だが、デビュー作「初恋のメロディー」は聴いたことがない。そもそも小林麻美って、モデルが歌を歌って一発当たったのかなと思っていたが、結構ちゃんと歌手として活動していたようだ。「ショパンは…」はけだるいメロウな曲だったが、この曲はしっかりと歌っている。岡崎友紀は、知る人ぞ知る当時のアイドル女優。子役から始まって、ちょうど18才の頃に「おくさまは18才」「なんたって18才!」などのコメディドラマが大人気になった。石立鉄男扮する高校教師とは生徒であり夫婦でもあるという設定で、それを隠しながら甘酸っぱい新婚生活と高校生活を送る「おくさまは18才」は、よく覚えている。筒美提供の「私は忘れない」を聴くと、ドラマで見せたぶっとんだキャラをまったく感じさせない正統派の歌手という感じだ。当時はドラマの人気もあってヒットしたようだが、記憶にない。後年、安井かずみ/加藤和彦が提供した「ドゥー・ユー・リメンバー・ミー」がスマッシュヒットした。

     台湾出身の欧陽菲菲や、香港出身のアグネス・チャンが成功したので、三匹目のドジョウを狙ってデビューするアジア系の歌手にも筒美さんは楽曲を提供していたようだ。台湾からの優雅(ゆうや)「処女航海」は曲だけでなく歌手自身も覚えがないが、トップ30入りするほどのヒットだったようだ。対して香港出身の双子の姉妹リンリン・ランランが歌った「恋のインディアン人形」は同じくトップ30入りのヒットだったらしいが、子供受けするキャラ作りが受けた事もあって、非常によく覚えている。リンリン・ランランという名前は、当時中国から来て一大ブームとなっていたパンダのランランとカンカンにちなんで付けられたそうだ。中国名つながりなのだろうか「リンリン・ランランりゅうえん〜♪」という中華料理店「留園」のCMは一世を風靡した。解説にあるように「ピンク・レディの先駆け」という位置づけも納得できるが、それ以上に双子の姉妹という点で、70年代に誕生する「リリーズ」への橋渡し的存在とも言えるのではないだろうか。
    わたしはおませな インディアン人形
    おとなの真似して 今日もまた
    恋する相手を さがしてる


    17才/南沙織 1971
    青いリンゴ/野口五郎 1971
    恋する季節/西城秀樹 1972
    男の子女の子/郷ひろみ 1972
    約束/フォーリーブス 1971
    純潔/南沙織 1972
    芽ばえ/麻丘めぐみ 1972
    初恋のメロディー/小林麻美 1972
    私は忘れない/岡崎友紀 1972
    哀愁のページ/南沙織 1972
    小さな体験/郷ひろみ 1972
    女の子なんだもん/麻丘めぐみ 1973
    オレンジの雨/野口五郎 1973
    赤い風船/浅田美代子 1973
    娘ごころ/水沢アキ 1973
    わたしの彼は左きき/麻丘めぐみ 1973
    色づく街/南沙織 1973
    処女航海/優雅 1974
    恋のインディアン人形/リンリン・ランラン 1974
    しあわせの一番星/浅田美代子 1974
    ひとかけらの純情/南沙織 1973
    花とみつばち/郷ひろみ 1974

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    2020年12月19日

    筒美京平 Hitstory Ultimate Collection 1967~1997(vol.1 DISC3)(その1)

     このDISC3の一曲目が南沙織の「17才」で始まるのは、なんとも象徴的だ。どんなにいい曲であっても時代とともに忘れ去られていく。流行歌ともなるとなおさらだ。筒美作品の多くもいずれは過去のものとなる日はかならず来る。その中でも、カヴァーという形で後世に引き継がれていく強運をもつ楽曲も時に存在する。この曲もまたそういう強運を持つ歌だ。1989年に新たなアレンジで、新たなスタイルで生まれ変わった「17才」の方を記憶している人は多いだろう。しかし、この「17才」は、日本におけるアイドル黄金期のパイオニアの一人である女性のために作り出された歌である事を、ぜひとも覚えておいてほしい。

     南沙織は、先行する小柳ルミ子、天地真理と合流して、新しい「三人娘」として人気を集めた、沖縄出身のアイドルだ。沖縄は、当時まだアメリカから返還されていなかったので、沖縄出身の歌手自体が珍しい存在だった。70年代にデビューした数多くのアイドルの中でも、抜群の歌唱力と、潮風が香ってくるかのような小麦色に焼けたさわやかなイメージとが相まって、デビュー曲「17才」はヒットチャート2位になり、南沙織はレコード大賞新人賞を受賞した。僕の6才上の兄は南沙織がお気に入りで 、家に何枚かレコードもあった。デビュー作以降、有馬三恵子/筒美京平コンビによる楽曲が続くが、その中から5曲もDISC3に入っている。兄に対抗したわけではないが、当時の僕は天地真理がお気に入りだったので、南沙織に思い入れはなかったけれど、今あらためて聴くといい曲が多い。

     「17才」や「純潔」はアップテンポの曲だが、「哀愁のページ」はスローなバラードで、イントロには英語で台詞が入る。洋楽を意識した作りで、カーペンターズっぽい柔らかい曲だなぁと思ったら、ライナーノーツでは「ひとかけらの純情」の解説のところで、カーペンターズの影響について触れられていた。「ひとかけらの純情」で男女混声コーラスを起用しているのは、カーペンターズの「イエスタデイ・ワンス・モア」の大ヒットを意識したものだと書かれているが、「哀愁のページ」ですでに影響が感じられる。カーペンターズの「close to you」のヒットが1970年なので、つじつまはあう。この手の柔らかで優しいメロディラインがシンシア(南沙織の英語名)には非常に似合っている。解説では「メロウな作品」と書かれているが、当時はそんな言葉はまだ一般的ではなかった。「メロウ」という言葉を僕が初めて聞いたのはオリビア・ニュートン・ジョンの「そよ風の誘惑」からだったし、明らかにそれを意識して書かれた尾崎亜美の「春の予感 -I've been mellow- 」を南沙織が歌った時に、「メロウ」がようやく理解できた。南沙織は1978年に歌手を引退、翌1979年に写真家・篠山紀信と結婚した。残念ながら、本人の歌声を聴く事は叶わない。
    誰もいない海
    二人の愛を 確かめたくて
    あなたの腕を すりぬけてみたの
    (17才)

    変わるのよ 愛された時
    その時が はじめての恋
    私愛してる 彼も感じてる
    恋は大事ね
    (純潔)

    秋の風が吹いて舟をたたむ頃
    あんなしあわせにも別れが来るのね
    (哀愁のページ)

    街は色づくのに
    会いたい人は来ない
    母に甘えて打ち明けるには
    あゝ少し大人すぎるみたい
    (色づく街)

    あの恋のはじめの日を
    誰かここへ連れてきてほしいの
    あの燃える目をしていた熱い人に
    もう一度逢いたい
    (ひとかけらの純情)

     兄は野口五郎もお気に入りだった。何故、南沙織と野口五郎だったのか、亡くなってしまったので今となっては確かめようがない。両方とも単なるアイドルの枠に収まりきらない部分があったからかもしれない。野口五郎のデビュー作は「博多みれん」という演歌だったが、うまくいかず、2枚目から路線をポップスに変えた「青いリンゴ」がヒットした。ちなみにものまねのコロッケは、サビのロングトーンでのどを震わせる野口の歌唱法を誇張して笑わせるが、この「青いリンゴ」の時からその特徴が出ている。この歌唱法が、その後の数々の名曲に独特な情感を付け加えているのは間違いない。
    青いリンゴを 抱きしめても
    思い出さえ 帰らない
    涙 なみだの 海にいま
    ぼくは 深く沈もう

     このDISC3には、後に新御三家と呼ばれるようになる野口五郎・西城秀樹・郷ひろみの曲が入っている。「青いリンゴ」はデビュー2作目だが、西城秀樹「恋する季節」と郷ひろみ「男の子女の子」のいずれもデビュー作を筒美さんが担当している。その後の3人の活躍を考えると、すさまじいほどの勢いでトップアイドル候補たちに曲を紡いでいた事になる。

     その中でも特に郷ひろみには、デビュー曲以降も岩谷時子/筒美京平コンビが曲を提供し続けた。DISC3には、初期の3曲が入っているが、なんと言っても「男の子女の子」が衝撃的だった。僕の歌謡曲デビューは、いしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」だったが、当然ながら低学年の小学生が口ずさむにしては大人向けの曲だった。当時は家族みんなが歌える曲か、大人向けの曲がほとんどで、それは若手の歌手の持ち歌であっても同じだった。でも、この曲は、当時高校2年生だった郷ひろみが同年代のティーンたちに訴えかける歌詞だったし、なにより郷ひろみの特徴的な歌声は、目の前にいるファンの「女の子」たちに向けられたものであることは明らかだった。やがてはオタクが発信するアイドルコールにたどり着く「呼びかけ」が、この頃に始まったのは当然と言えば当然だろう。「君たち女の子(ゴーゴー)」とか西城秀樹の「君が望むなら(ヒデキー)」とかをすぐ思いつくが、野口五郎にもあっただろうか?

     デビュー曲はあまりに女の子へ寄せた歌詞だったので、小学生であり男子である僕にとって郷ひろみは関心の的ではなかったが、「花とみつばち」ぐらいになると、もう無視する事はできなくなった。解説には「ドゥワップ調のコーラスがからむオールディーズ風のナンバー」と書かれているが、正直あまり意味がわからない。ただ、とにかくイントロからノリがよく、当時爆発的な人気を獲得していたフィンガー5を「意識したものだろう」という指摘ならわかる。流れるようなメロディに合わせた、郷ひろみの伸びやかな歌唱が聴かせどころになっていて、名曲「よろしく哀愁」まであと一歩のところに来ていた。
    君たち女の子 僕たち男の子
    ヘイヘイヘイ ヘイヘイヘイ おいで遊ぼう
    僕らの世界へ 走っていこう
    (男の子 女の子)

    どうでもいいけど 帰るのいるの
    夜明けだよ まぶしいのは裸の胸さ
    どうでもいいけど そばにおいでよ
    今夜までおぼえておこう 赤いくちびる
    (花とみつばち)

    Disc3
    17才/南沙織 1971
    青いリンゴ/野口五郎 1971
    恋する季節/西城秀樹 1972
    男の子女の子/郷ひろみ 1972
    約束/フォーリーブス 1971
    純潔/南沙織 1972
    芽ばえ/麻丘めぐみ 1972
    初恋のメロディー/小林麻美 1972
    私は忘れない/岡崎友紀 1972
    哀愁のページ/南沙織 1972
    小さな体験/郷ひろみ 1972
    女の子なんだもん/麻丘めぐみ 1973
    オレンジの雨/野口五郎 1973
    赤い風船/浅田美代子 1973
    娘ごころ/水沢アキ 1973
    わたしの彼は左きき/麻丘めぐみ 1973
    色づく街/南沙織 1973
    処女航海/優雅 1974
    恋のインディアン人形/リンリン・ランラン 1974
    しあわせの一番星/浅田美代子 1974
    ひとかけらの純情/南沙織 1973
    花とみつばち/郷ひろみ 1974


    posted by アスラン at 14:25 | 東京 ☁ | Comment(0) | 僕の音楽ヒストリー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2020年12月12日

    筒美京平 Hitstory Ultimate Collection 1967~1997(vol.1 DISC2)

     「また逢う日までは」は、筒美京平の代表作というだけでなく、70年代の、ひいては昭和を代表する歌謡曲の筆頭だと言える。レコード大賞を受賞した瞬間の尾崎紀世彦が、両手を挙げてダブルピースサインのポーズをとったシーンは、いまだに記憶の片隅に残っている。筒美作品のその後の特徴にもなっていく印象的なイントロ。金管のセッションによる「タッタータタッタタン」を間髪入れずにうけるドラムの「ドォン」。そして尾崎のパワフルで自信に満ちた圧倒的な歌唱が、僕ら小学生たちを魅了した。遠足や移動教室などのバスで、イントロを含めてみんなで歌って盛り上がる曲といえば、「また逢う日まで」と水前寺清子の「365歩のマーチ」だった。

     ライナーノーツの解説によると、「また逢う日まで」誕生のいきさつは非常に紆余曲折したものだったらしい。サビのメロディはエアコンのCM用に書かれたがお蔵入りになり、そのサビのメロディは、GSグループのズー・ニー・ヴーの「ひとりの悲しみ」(作詞・阿久悠)に転用されたが、ヒットには至らず。その後、尾崎紀世彦の担当プロデューサーが阿久悠に新たな歌詞を書いてほしいと頼み込んで、「原曲のメロディーとアレンジはほとんどそのまま生かして、歌詞とタイトルを変えた」ものが、この「また逢う日まで」だった。
    ふたりでドアをしめて
    ふたりで名前消して
    その時心は何かを話すだろう

     「真夏の出来事」の平山三紀の歌い方はとてもエキゾチックで、よく言えば個性的。でも、当時の僕には歌が上手だとはとても思えなかった。だから、好きな歌だったかと言われると、そうでもなかった。それよりは当時、まだアイドル前夜だった時代の若手の女性歌手・黛ジュンの「天使の誘惑」や、中村晃子の「虹色の湖」が好きだった。でも、筒美さんは彼女の声に惚れ込んでいたようだ。サウンド的には、その後のアイドル黄金期を準備するかのような音作りになっている事は、今ならわかる。あらためてじっくりとこの曲を聴くと、松本伊代の声質と通底するところが感じられる。「センチメンタル・ジャーニー」は、「真夏の出来事」から陰りの部分を取り払って80年代の明るいアイドルの無邪気さに置き換えて出来上がっているかのようだ。
    彼の車にのって
    真夏の夜を 走りつづけた
    彼の車にのって
    さいはての町 私は着いた

     「堺校長」として某バラエティでおなじみの堺正章は、僕ら小学生にとっては銭湯「松の湯」の下働き・けんちゃんだった。僕らの世代ではザ・スパイダースとしての彼のキャリアは間に合わず、すでに役者兼歌手という存在だった。「時間ですよ」では、悠木千帆(後の樹木希林)との掛け合いが楽しく、天地真理扮する「隣の真理ちゃん」に片想いするけんちゃんに感情移入し、真理ちゃんを思いながら歌う「街の灯り」(作詞:阿久悠 作曲:浜圭介)にせつなくなった。彼の最大のヒット曲がデビュー曲でもある「さらば恋人」だ。「また逢う日まで」と同じ年に作られていて、まったく世界観が違うけれども、非常にスケールが大きいところが共通している。
    冷たい風にふかれて
    夜明けの町を 一人行く
    悪いのは僕のほうさ 君じゃない

     堺正章と同じくザ・スパイダースのボーカルだった井上順(ソロになって井上順之。後に元に戻す)。「お世話になりました」は、井上の人の良さがそのまま歌い方に表れている曲だ。井上順というと「夜のヒットスタジオ」の司会のイメージが強いが、この曲がヒットした頃はまだ司会ではなかった。でも、当時はこの曲をよくテレビで聴いていた印象がある。しゃべると駄洒落が口にでる芸風は、今で言うと高田純次あたりだろうか。ほのぼのとした味わいのメロディだが、曲の内容は慣れ親しんだ東京の生活(下宿)を引き払って、新しい目標へと旅立つという内容だ。別れの曲でありながら、じめっとした感傷を感じさせない秀作だ。
    明日の朝この街を
    ぼくは出てゆくのです
    下宿のおばさんよ
    お世話になりました

     歌謡曲とひとくくりで呼ばれていたけれども、とにかくいろんなジャンルの曲が含まれていたし、いろいろな出自を持つ歌手が歌謡曲という土壌に合流していた。僕らはそんな大人の事情を知らないで、とにかくテレビという魔法の箱から摂取できるものはなんでも吸収していた。よくよく考えれば、今のサブスク全盛の音楽状況は目新しい事ではないのかもしれない。坂本スミ子は関西で活躍していたラテン歌手だったが、朝丘雪路の「雨がやんだら」の成功以後、筒美再生工場により復活した歌手の一人だろう。「夜が明けて」も当時よく聴いたし、子供ながらに不思議な魅力に満ちた歌だと感じた。フォルクローレの郷愁に満ちたメロディを筒美さんがうまく取り込んだ楽曲だ。
    夜が明けて てさぐりをしてみた
    ぬけがらのとなりには
    誰もいない

     欧陽菲菲というとデビュー作の「雨の御堂筋」や80年代にヒットしたバラード「ラヴ・イズ・オーヴァー」が何かと取り上げられるが、デビュー第2弾以降は橋本淳/筒美京平コンビの曲が続いた。このDISC2に納められた「雨のエアポート」も「恋の追跡」も「恋の十字路」も、みんな聞き覚えがある。ヒット曲連発していて、さすが筒美さんと言いたいところだが、9作連続で作っているから、外れもあったと思う。それでも同じ歌手で3割は確実にヒットしているわけだからたいしたものだ。英語のフレーズが歌詞にうまくはまり込んでいるのも、当時としては流行を先取りしていたし、欧陽菲菲本人の資質を生かしてメロディも独特なグルーブ感があった。
    I Love You と言えないで
    I Love You と言えないで
    (雨のエアポート)

    あなたひとりにかけた恋 恋
    I want you love me tonight
    (恋の十字路)

    にげるあなたを 止めて!
    恋の終わりを とめて!
    (恋の追跡)

     このDISC2には1971〜1974年の筒美作品が収められているが、意図的にアイドル作品は除かれている。その分、バラエティに富んだ品揃えになっていて、あらためて筒美作品の奥行きが感じられる一枚となっている。その方向性のひとつとして、当時歌謡曲とは一線を画していたフォークやロックに対する目配せがあり、それがチェリッシュやかまやつひろし、朝倉理恵、ザリバなどへの楽曲提供につながっている。僕的にはチェリッシュが思い入れが深い。「なのにあなたは京都へゆくの」とか「てんとう虫のサンバ」だとか、僕にとってのチェリッシュは歌謡曲畑のデュエットだと思っていた。その後、中学生になってフォークの洗礼を受けてギターにはまったときに、最初に買ったギター弾き語り集の中にチェリッシュの曲が入っていて、ちょっと意外だった記憶が残っている。

     チェリッシュは元々、名古屋出身の5人組のフォーク・グループだったようだ。プロになる際にメンバーが絞られるというのは当時はよくあったようで、男女デュエットになった。デビュー曲「なのにあなたは京都へゆくの」は、流行していたベンチャーズ作曲の「京都の恋」の路線をまねている感じだが、「ひまわりの小径」は、当時ブレイクしていたかぐや姫や井上陽水などの新しいフォーク勢を意識した作りになっている。しかし、解説には「フォーク風」と書かれているように、いわば「なんちゃってフォーク」であり、アレンジを見る限りポップスを意識した筒美サウンドになっている。メロディアスだし、展開もドラマティックだ。いわば歌謡曲とフォークの融合と言える。その趣向は、朝倉理恵「あの場所から」にも同じように引き継がれている。実は、この曲の原曲は1970年にすでに作られていて、朝倉版自体カヴァーなのだそうだが、僕自身は朝倉版すら聴いた記憶がなく、その後80年代に柏原芳恵によって再度カヴァーされた際に初めて知った。いや、初めてという気はしなかったので、当時聴いていたのかもしれないが、少なくとも朝倉さんの記憶はない。
    あなたにとっては突然でしょう
    ひまわりの咲いてる径で
    出逢った事が
    (ひまわりの小径)

    あそこから あの場所から
    愛を始めたいの
    (あの場所から)



    Disc2
    また逢う日まで/尾崎紀世彦 1971
    真夏の出来事/平山三紀 1971
    さらば恋人/堺正章 1971
    お世話になりました/井上順之 1971
    さいはて慕情/渚ゆう子 1971
    夜が明けて/坂本スミ子 1971
    誰も知らない/伊東ゆかり 1971
    雨の日のブルース/渚ゆう子 1971
    雨のエアポート/欧陽菲菲 1971
    愛する人はひとり/尾崎紀世彦 1971
    かもめ町?みなと町/五木ひろし 1972
    フレンズ/平山三紀 1972
    恋の追跡(ラヴ・チェイス)/欧陽菲菲 1972
    ひまわりの小径/チェリッシュ 1972
    愛の挽歌/つなき&みどり 1972
    恋の十字路/欧陽菲菲 1973
    あの場所から/朝倉理恵 1973
    青春挽歌/かまやつひろし 1973
    恋の風車/チェリッシュ 1974
    今夜かしら明日かしら/テレサ・テン 1974
    恋のダウン・タウン/平山三紀 1973
    或る日/ザリバ 1974

    posted by アスラン at 12:07 | 東京 ☁ | Comment(0) | 僕の音楽ヒストリー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2020年12月09日

    筒美京平 Hitstory Ultimate Collection 1967~1997(vol.1 DISC1)

    「すごくいいナー」と思うと
    必ず筒美京平の曲である。

    「やったナー」と思うと
    やっぱり筒美京平の曲である。

    「whmm」と口ずさんでいるのは
    いつも筒美京平の曲である。

    それに何て言ったって
    「筒美京平」という名前が
    カッコいい。
    皆のアコガレなんだナ。
    (吉田拓郎)

     とうとう、伝説のヒットメーカーが亡くなってしまった。60〜70年代に若者のカリスマであったフォークシンガー吉田拓郎をすら嫉妬させる存在だった筒美京平は、ジャンルを超えた曲作りや多作やヒット曲の多さから、個人の名前ではなく複数の作曲家集団に与えられた仮称ではないかという都市伝説がまことしやかに語られてきた。そのような噂が真実味を帯びていたのは、自身が表舞台に出る事がほとんどなく、裏方に徹してきたためだろう。そんな幻のような存在が生身の人間として僕らの前に姿を現したのは、1997年に作家生活30周年を記念して作られたオムニバスアルバム「HISTORY」が発売された時だ。

     思えば、僕は物心がついた頃から、筒美京平さんの恩恵を受けて育ってきたし、青春時代も、その後も、長きにわたって筒美京平作品とともに人生を歩んできた。その歩みを振り返る事で、少しでも恩返しができたらいいなと思う。ちょうど手元には、発売当時購入したHISTORYがあり、筒美さんが最も活躍していた時代の音楽メディアだったレコード盤(LP)サイズのライナーノーツもある。それと照らしあわせながら、筒美さんを忍んでいきたい。

     歌謡曲というジャンル自体が雲散霧消してしまった現在においては、歌手がいて、プロの作詞家と作曲家がいて、という音楽状況はわかりにくいかもしれない。今のJ-POPでは歌手はみなアーティストと呼ばれるようになったが、その頃の歌手は「歌い手」であって、アーティストではなかった。その分、歌がうまいだけでなく個性的な表現力が求められ、時には出自を含めた個人の人生が歌手としての価値を高める事もあった。その価値に磨きをかけたり、新たな光を与えたりするのが、作詞家・作曲家の役目であり、プロデューサーの役目だった。今や、歌謡曲のシステムは演歌界にのみかろうじて残っているが、それも今後どうなるかわからない。

     プロの作詞家や作曲家は、レコード会社や芸能事務所の意向にそって歌手に楽曲を提供するのであって、必ずしも歌手本人の気持ちを代弁する歌詞やメロディが提供されるわけではない。その分、今のJ-POPのように、歌い手本人が自分の素直な気持ちや鬱屈した感情などを表現した歌詞を歌い上げる事がほとんどという現状と比較すると、もっと時代の意識だとか普遍的な感情をこめた歌詞が多かったし、どんなに若い歌手であろうが、ずいぶんと大人びた歌詞を歌い上げる事も少なくなかった。それを、僕ら1960年代に生まれた子供は、茶の間と呼ばれる場所で父・母・祖母・兄とともにちゃぶ台を囲んで、テレビから流れる歌謡曲を聴いた。映画「三丁目の夕日」の風景そのものだった。

     僕の子供の頃は、音楽はテレビやラジオから流れてくるものだった。あるいは、6歳違いの兄が部屋で独占していたステレオでレコードをかける事でしか、音楽を聴く方法はなかった。まだ、世の中にはラジカセすらなかった。兄が従兄弟からカセットリールのレコーダーを譲ってもらって、歌声を録音して聴かせるから歌えと言われて、歌ったのが、当時大ヒットしていた「ブルー・ライト・ヨコハマ」だった。当時はもちろん誰が作っているかなんて考える必要もなかった。ただ、印象的なイントロと、当時まだ20歳だったいしだあゆみの特徴的で魅力的な歌唱に惹かれて、毎日のように口ずさんでいた。この曲が僕のお気に入りの歌謡曲第一号と言っていいだろう。そして、これがどうやら筒美京平による初のミリオンセラーのようだ。
    街の灯りがとてもきれいね ヨコハマ
    ブルー・ライト・ヨコハマ
    あなたと二人幸せよ

     作曲家・筒美京平のデビューは1966年の「黄色いレモン」だそうだ。そして1967年のヴィレッジ・シンガーズ「バラ色の雲」で初ヒットとなる。ヴィレッジ・シンガーはグループ・サウンズ(GS)のバンドの一つだ。まだアイドルという言葉がなかった時代に、アイドル的存在のバンド群によるGSサウンドが一世を風靡した。おそらく、「デイー・ドリーム・ビリーバー」でおなじみのモンキーズの人気にならって各レコード会社が競ってGSのバンドを売り出したのではないだろうか。今でいうジャニーズのグループの数々のように、年頃の女性をターゲットに生み出されたバンドだった。僕はまだ小学生だったので、このGSブームには直接の関心はなかったが、この「バラ色の雲」の出だしのフレーズは非常に心地よく聴けて、記憶に残る歌だった。
    バラ色の雲と 思い出をだいて
    僕は行きたい 君の故郷へ

     ただ、この頃のGSのヒット曲と言えば、なんといってもジャッキー吉川とブルー・コメッツの「ブルー・シャトウ」で、小学生はみんな替え歌の方を歌っていた。「森と泉に囲まれた 静かに眠る ブルー ブルー ブルー・シャトー」を「森トンカツ〜 泉ニンニク〜 かーコンニャク〜 まれテンプラ〜 静かニンジン〜 ねむルンペン〜」のように。ルンペンは死語だけどね。「ブルー・シャトウ」はもちろん、今は亡き井上忠夫(大輔)さん作曲の大ヒット曲だが、その後、「さよならのあとで」という曲で筒美さんが作曲を担当している。この曲はチャート3位のヒットとなったらしいが、当時はあまり聴いた記憶がない。

     ヴィレッジ・シンガーズのヒットを受けて、筒美さんはザ・ジャガーズ、オックス、そしてブルー・コメッツなどの作曲を担当する。オックスというと「スワンの涙」がやはり印象に残る。ボーカルの野口ヒデト(後の真木ひでと)が、ハスキーな声で歌い上げるサビが冬の北国のもの悲しい透明感を感じさせた。
    いつか君が 見たいと云った
    遠い北国の湖に
    悲しい姿 スワンの涙

     このDISCには、オックスの「ダンシング・セブンティーン」も入っている。初めて聴いたのに何故か懐かしい気がするのは、70年代のアイドルたちに曲を提供する事になる筒美さんを予感させるようなメロディだからだろう。これって、まるで「フォーリーブス」じゃないか。

     このDISC1を一通り聴いただけでも、筒美京平という人の職人の天才的な才能を感じてしまう。歌謡曲をポップスと融合させたJ-POPの先駆けのような曲から、オールディーズ、グループサウンズ、ムード歌謡、フォークソングと、求めに応じてどんなジャンルの曲でも書いてしまう。一方でサウンド面でも新しい試みを積極的に取り入れていく。西田佐知子の「くれないホテル」のサウンドは、当時としては珍しかったであろうメジャー・セブンスコードを多用していて、今聴いても新鮮だ。橋本淳が描く「傷心の女」の心模様は、今では古びてしまったとしてもだ。

     「くれないホテル」にヒデとロザンナの「粋なうわさ」が続く。これもまたサウンドが垢抜けていて、なにより彼らの歌唱力の高さが際立っている。ヒデとロザンナというと「愛の奇跡」の燃え上がるようなラブソングが、まっさきに思い浮かぶけれども、このようになんともチャーミングでぐっとくるような曲調もいい。
    粋なうわさで 粋なうわさで
    結ばれた恋は 不思議な 不思議な
    恋の出来事

     「バラ色の雲」「ブルー・ライト・ヨコハマ」の頃から橋本淳/筒美京平のコンビで多くのヒット曲が生み出されたが、なかにし礼とのコンビで生み出されるヒット曲の先駆けが、いしだあゆみ「あなたならどうする」だ。今やすっかり小説家になったなかにし礼だが、やはり当時から歌詞に登場する人物には物語が感じられた。「泣くの歩くの死んじゃうの」という衝撃的なサビではあるけれども、筒美サウンドにのせて歌われると、なんとなく軽やかさをまとうように感じられた。
    嫌われてしまったの 愛する人に
    捨てられてしまったの
    紙クズみたいに
    私のどこがいけないの
    それともあの人が変わったの

     70年代に日テレでは、深夜枠で「11PM」という大人向けのエンターテイメント番組を放送していた。今のように24時間テレビ放送があったわけではなく、12時前にはテレビ放送が終了するところがほとんどだった。「砂の嵐」と言えば、放送終了後のザーという音とともに流れる映像の事だが、とうに死語となってしまった。当然ながら11時というと子供は起きてない時間帯だったので、見てないはずだが、何故か大橋巨泉と朝丘雪路のやりとりは記憶にある。朝丘の、天然でどこか憎めない性格と無邪気なセクシーさとのアンバランスなところが番組には欠かせなかったに違いないが、もちろん当時の小学生がそんなことを考えていたはずはない。「雨がやんだら」は、なかにし/筒美コンビで「艶っぽい歌を」という発注にこたえて生み出された曲だそうだ。狙いはまんまと当たり、朝丘雪路の代表曲となった。
    雨がやんだら お別れなのね
    二人の思い出 水に流して
    二度と開けない 南の窓に
    ブルーのカーテン 引きましょう

     そして、DISC1のトリをつとめるのは、「サザエさん」だ。筒美さんがアニソンの作曲をした唯一の例だと思ったら、ライナーノーツによると「怪物くん」の主題歌「おれは怪物くんだ」の作曲も、ほぼ同時期に手がけていたと書いてあり、驚かされた。「サザエさん」は今や国民的アニメとなり、主題歌は日本人の誰しもが口ずさめるほどポピュラーな曲だ。これが筒美京平作品であるというのは、このHISTORYを購入する前から知ってはいたが、このCDで初めてフルで聴いてみて非常に驚いた。テレビでは時間の関係でカットされているイントロが「カッコいい」のだ。冒頭の吉田拓郎の言葉どおり「すごくいいナー」「やったナー」と思ってしまう。この曲をイントロを含めて聴けるだけでも、この一枚は価値がある。
    お魚くわえた ドラ猫追っかけて
    素足でかけてく 陽気なサザエさん
    みんなが笑ってる お日さまも笑ってる
    ルルルルルル 今日もいい天気

     

    Disc1
    ブルー・ライト・ヨコハマ/いしだあゆみ 1968
    太陽は泣いている/いしだあゆみ 1968
    渚のうわさ/弘田三枝子 1967
    可愛い嘘/弘田三枝子 1968
    バラ色の雲/ヴィレッジ・シンガーズ 1967
    マドモアゼル・ブルー/ザ・ジャガーズ 1968
    星空の二人/ザ・ジャガーズ 1968
    ガール・フレンド/オックス 1968
    ダンシング・セブンテーン/オックス 1968
    スワンの涙/オックス 1968
    さよならのあとで/ジャッキー吉川とブルー・コメッツ 1968
    京都・神戸・銀座/橋幸夫 1969
    ヘッド・ライト/黒沢 明とロス・プリモス 1969
    貴女がえらんだ僕だから/美樹克彦 1969
    くれないホテル/西田佐知子 1969
    粋なうわさ/ヒデとロザンナ 1969
    涙の中を歩いてる/いしだあゆみ 1969
    フランス人のように/佐川満男 1969
    傷だらけの軽井沢/ブレッド&バター 1969
    愛すべきボクたち/ブレッド&バター 1970
    悲しみのアリア/石田ゆり 1970
    あなたならどうする/いしだあゆみ 1970
    くやしいけれど幸せよ/奥村チヨ 1970
    雨がやんだら/朝丘雪路 1970
    サザエさん/宇野ゆう子 1969

    posted by アスラン at 02:40 | 東京 ☀ | Comment(0) | 僕の音楽ヒストリー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする