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    2025年11月03日

    七人の侍 新4Kリマスター版(2025年) (TOHOシネマズ立飛)

     半世紀も前に大人向けの映画を初めて映画館で観た。それが『七人の侍』だった。以後、映画館で観る機会は訪れずテレビで放映される度に、その場で運が良ければ見る事ができた。家庭用ビデオレコーダーが普及してからは運が良ければ録画できたが、VHSテープに録画していたので画質に問題があった。TSUTAYAが登場する前のレンタルショップを探し回っては、黒澤映画とくに『七人の侍』は置いてない事を確認してガッカリした。
     やがてTSUTAYAが街のレンタルショップを駆逐して、名画の数々を品揃えするようになり、ついに4Kリマスター版が借りられるようになり、やがてはテレビでも見られるようになった。ある意味、いつでも好きな時に見られる名作の一つとなったけれど、70年代に映画の楽しさを教えてくれた「映画館で映画を観る」という体験は相変わらず訪れる事はなかった。

     週末のほとんどを映画館めぐりに費やすことができた若い日々とは違って、家族の事・体調の事で週末のほとんどが奪われてしまう現実を前にして、三時間半にもおよぶ大作を勝手気ままに観ることなどおいそれとできるものではない。今回の新4Kリマスター版も到底観ることはないと思っていたので、僕にとっては奇跡が起きたに等しい出来事だった(大げさだと思われるかもしれないが、子供の事で日々の多くの時間が埋まっていく生活をもう十年以上も続けているのだ)。
     9:00〜13:45という上映時間を大満足で過ごして立川駅に戻って自宅に電話すると、「昼食を作ってるからすぐに戻ってこい」と息子が相方の言葉を伝えた。夢のような時間は終わり、いつもの現実が待ち受けている。帰って昼食作りを引き継ぎ食べ終わったら「さすがに長すぎない?」と相方から愚痴を言われた。映画は好きだが、趣味も観てきた映画も違う相手に「三時間半の映画が決して長くはない」事を説明しても理解はしてもらえまい。ただ受け止めた。

     しかし、タイパという言葉も無ければ、コスパという言葉すら無かった時には、今のように「三時間は長すぎる」などと言われる映画など存在しなかった。あるのは「面白い映画とつまらない映画」だけで、当然ながら面白い映画は「長ければ長いほど贅沢」であって「長すぎる」事はなかったのだ。今はサブスクで映画が自由に見られ、映画以外に視聴できる選択肢が山ほどあり、なにより映画が娯楽の中のほんの一つにすぎない。そんな時代を生き延びた映画をあらためて観ることができる幸せをかみしめながら、僕等は「長くて面白い」この映画の記憶を伝えていければいい。

     今回の新4Kリマスター版はとくに音質の改善を試みたそうだ。ネットでも音質の課題についていろいろと取り沙汰されていたが、そもそも農民の嘆きがすべてクリアに聞き取れる方が望ましいのかどうかは疑問だ。不明瞭であっても状況が伝わりさえすれば、あとは悲鳴にも似た心の内が伝われば十分なのではないだろうか。そんなことを感じながら映画を観た。あえて言うと、今回の新4Kリマスター版で流れる音楽を聴くと、早坂文雄さんの音楽が例の勇壮な音楽や和のテイストの音楽を主調音としながら、モダンで現代音楽風なタッチの音楽をうまくミックスしている事にあらためて気づかされた。

     そしてなにより、半世紀前の七人の侍たちのいずれもが若い。いくさ(人生)を繰り返し、いつの間にか何一つ大願を成就せずに老いたと嘆く勘兵衛に扮する志村喬が、自分には驚くほど若く見える。侍たちの嘆きが今の自分自身の嘆きそのものになったことに気づかされるのが、今回の新4Kリマスター版を観る事の最大の意義なのかもしれない。

    (以下は2008年に書いた『七人の侍』に関する文章だ)。

    七人の侍(1954年) 〜2008年9月6日〜
    七人の侍.JPG
     先日NHK-BSで黒澤明監督の代表作「七人の侍」を放映した。DVDレコーダーに予約録画したから、後日ゆっくりと見るつもりだったのに、息子が風呂からあがるのを待っている間にふとチャンネルを合わせると、宿場町で村人が侍を探す名シーンが飛び込んできて、思わず釘付けになってしまった。おかげで、子供を寝かしつけたあとで尻切れトンボになった半端な気持ちを満足させるために、端折りながらだが最後まで見てしまった。

     映画が終わってからの解説コーナーで若い視聴者のコメントが紹介された。「私はまだ映画館で『七人の侍』を見たことがない。テレビで見ると画面の比率がテレビ用にカットされているので残念だ。」という意見だった。確かにエンディングで4人の侍が葬られた盛り土の墓が全部収まってない感じがするので、ひょっとしたら少し両端がカットされているのかもしれない。ただしシネスコで見た記憶はないので調べてみると、公開時点ではシネスコ技術自体が日本に入ってきていなかった(日本初のシネスコ映画は1957年だそうだ)。スタンダードサイズで撮影されているので、本来なら普通のアナログテレビの画面に収まると思っていたのだが、そうでもないらしい。いずれにしてもテレビでは迫力が半減するので、映画館のスクリーンで見られるに越したことはない。

     しかし如何に世界に冠たる記念碑的作品とは言え、50年以上も前の作品を「映画館」で見る事は容易ではないのが現実だ。コメントを寄せた若者にはご愁傷様と言うしかない。僕は幸いな事ながら映画館で見ている。しかも、この映画を見た事でその後の映画好きが決定的になった、文字通り記念すべき映画体験だった。

     もちろん公開当時は生まれていない。おそらくリバイバル上映ということで、当時の名画座ではなくロードショー館で上映された。記憶が定かではないが、今は無き日比谷映画かみゆき座だったと思う。小学6年の年だとすると1974年なので、20周年を記念してのリバイバルということで辻褄が合いそうな気がする。

     たまたま大阪に住む叔父さんが出張で我が家に泊まって、オフの日曜日に気まぐれに僕を映画に連れていってくれたのだろう。数年前にその思い出を本人にぶつける機会があったが、まったく記憶にないと言う。まあ、多感な少年の思い入れに叔父さんが気づいていた訳がないか。だから、どうしてこの映画だったのかはついにわからず仕舞いだが、この〈超娯楽大作〉ならば小学生の僕にも楽しめるとはずだと思ったのか。

     当然ながら今のシネコンみたいに全席予約などない時代だから行列に並んだ。通路を最高列近くの扉から入っていったが、叔父と僕が飛び込んだ時にはすでに席は埋まって立ち見は決定的だった。でも、この映画館は毛足が長い絨毯が通路に敷き詰められていたので、叔父さんは中央席の列の両側にある通路に座ってみることを選んだ。こんなところで見るなんて初めての経験でびっくりした。しかも座ってみればスクリーンは近くにあってかぶりつきの最高の席だった。

     「ド、ド、ドン、ド、ド、ドン」という低く重い太鼓とともに白く太い文字で出演者やスタッフの名前が右に、左に大胆に傾けて画面に映し出されたのを覚えている。実は映画の内容に小学6年生の子供がどう感動したか、それとも感動しなかったか、まったく記憶がない。いや面白かったのは確かだ。その記憶がなければ、さきほど言ったように映画を見ることが、言ってみれば「人生の幸せ」であるかのような日々を、その後送ることはなかったと思うからだ。でも、映画そのものの感動が封印されるよりも、「映画館で映画を観る」という体験にこめられた奇跡の方が、僕には重要だった気がする。3時間を越える大作のあいだに休憩が入るのも初めての経験だった。しかもスクリーンが「休憩」の文字を写しだして第一部が終わったのだ。

     そして、この日9月6日は黒澤監督の十回目の命日だった。十年前の今日、監督は鬼籍に入られ、十年後のこの日に僕ら親子は魚から姿を変えた女の子が少年に会いにくる映画を見ていた。津波の圧倒的なパワーにも負けない女の子と、それとは対照的な優しい心をもった少年とのドラマに胸がいっぱいになった。その夜に日本映画最高峰の映画を見た。この偶然が嬉しかった。映画は映画を呼ぶ。そして宗介少年が、少年の心を持ち続けた黒澤監督の魂を呼び寄せた。そう思いたい。
    posted by アスラン at 23:43 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 記憶の映画・ドラマを探して | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2023年02月16日

    ミッドサマー (2022年11月17日,2023年2月12日 アマゾン・プライム)

     80〜90年代にかけて、もっとも映画館に通いつめた。結婚し、子供が出来、親を介護し、様々な実生活の難問を抱え込むようになって、至福の時は過ぎた。それからは、たまに妻と映画館に見に行くか、あるいは録画した映画を時間を惜しむように自宅で観る事が多くなった。ホラーは苦手なジャンルだったので、通い詰めた時期でも後回しにしてお気に入りの映画を優先してきた。

     今、Twitterとアマプラという2つのツールを活用していると、数少ないフォロワーから「ホラーを観ないなんてもったいない」という甘い囁きを真正面から受け止めざるを得なくなった。そこでまっさきに選んだのが「ミッドサマー」だ。ホラー映画好きにはかなり高評価の映画のようだが、それなりに覚悟しないとメンタルを揺さぶられそうな内容だ。まあ、ダメなら途中で引き上げれば良いだけのこと。映画館と違って、途中退室しても誰にも迷惑をかけることはない。

     冒頭からヒロインの心のバランスがあやうい。妹が自殺をほのめかすメールを送ってきて、しかも両親を道連れにしそうな文面。妹と連絡が取れない事でさらに彼女はパニック寸前に陥るが、同棲相手を頼って電話しても「いつもの事。ただ気を引きたいだけだよ」とその場しのぎの言葉が返ってくるだけ。そして、彼女の悪い予感は最悪の現実となってしまう。雪の降り積もる静かな森と水に抱かれた街に住むダニーにとっては、妹のしでかした事さえもが、自らのまいたタネであるかのように重くのしかかってくる。開始冒頭の15分足らずで、僕ら観客はヒロインを取り囲む不穏な雰囲気にいたたまれなくなってしまう。

     家族を失って不安定きわまりないにもかかわらず、頼りにならない同棲相手のクリスの無責任な言動と自分勝手な行動に振り回されて、ダニーは、スウェーデンの奥地にある村で夏至の間に行われる祝祭に参加する旅に出かける事になる。寒さが精神的にも身に染みる都会での生活とは違って、白夜で日が落ちることのない村では、白を基調とした素朴で明るい民族衣装を身にまとった村人たちの歓迎を受ける。ダニーには精神的なダメージを癒やす絶好の環境であるはずだったが、大勢からの視線にすぐにでも過敏に反応してしまう彼女は、どうしても落ち着けない。

     現代社会から隔絶した集落で素朴な信仰と風習を守っている村だと思いきや、少しずつ彼らの異常性が明らかになっていく。ただし、70年代からホラー映画の一つのモチーフとなった「オカルト」あるいは「カルト」が描いた狂信的な異常をあからさまに描いていくのではなく、互いの信じている文明や信仰、常識が異なる2種類の集団の遭遇と、起こるべくして起きる衝突とを、悪意をもって描いていく。そんな映画に見えた。そういう映画は、突然見えないものが見えたり殺人鬼が渉猟したりする描き方以上に精神的なダメージが大きい。

     エンディングで、ダニーの精神は行くところまで行き着いてしまい、村にとりこまれる。果たしてダニーは救われたのだろうか。最後のショットが彼女の笑顔で終わるところがひたすら怖い。対位法を狙ったかのようにエンドクレジットに流れる、抜けるように明るく、そして哀愁をおびた「The Sun Ain’t Gonna Shine (Anymore)」が、作品を貫く悪意を増殖させていく。

     と、ここまでが昨年観た「ミッドサマー」の感想だった。そしてブログに感想をまとめようと、もう一度最初から観てビックリした。全然印象が違って見えるのだ。すでに何が起きてどうなるかを知ってしまっているからかもしれない。そういう意味では、これはもはやホラー映画ではない。寓話だ。最初から分かっていたではないか。映画の冒頭は、これから起きる事を予告するかのように一枚の絵から始まっているのだ。

     ダニーに感情移入するように作られた導入部によって、僕らはどうしても祝祭のおぞましさと、彼女の精神の崩壊とを受け止めながら、エンディングに悪意を感じてしまう。しかし、ちょっとだけ別の人物に感情移入するだけで、この物語はまったく別様に見えてくる。その重要な位置にいるのが、この村の出身で交換留学生としてダニーの近くにいたペレだ。彼の善意(と言ってよければ、だが)は、現在社会では報われる事のない孤独なダニーの救済へと向けられている。そして、死と生とが循環し、村人たちが個ではなく集団として共感しあう世界こそがダニーを救うと信じてやまない。逆に、彼女を救えない・救わない者は報いを受けなければならない。

     ようやく僕が感じていた「悪意」の正体がなんとなく見えてきた。クリスやジョシュに寓意が感じられるように、文化人類学の名の下に興味本位で「人の花畑を土足で踏み荒らす」現代人への嫌悪が、この映画の背景に影のように潜んでいる。もちろん、この映画はカルトを肯定している映画ではない。どんなに正当化しようと、彼らの信仰と風習、あるいはその解釈はおぞましいものには違いない。しかし、ダニーだけが現代社会ではどうしても生きづらくて、それを乗り越えた時に初めて笑顔を取り戻すことができた。だからこそ、エンドロールに流れる曲はとびきり明るい曲でなければならなかったのだ。

    ミッドサマー(字幕版) - フローレンス・ピュー, ジャック・レイナー, ウィル・ポールター, ウィリアム・ジャクソン・ハーパー, ウィルヘルム・ブロングレン, アリ・アスター, パトリック・アンディション, ラース・クヌードセン
    ミッドサマー(字幕版) - フローレンス・ピュー, ジャック・レイナー, ウィル・ポールター, ウィリアム・ジャクソン・ハーパー, ウィルヘルム・ブロングレン, アリ・アスター, パトリック・アンディション, ラース・クヌードセン
    posted by アスラン at 03:24 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 記憶の映画・ドラマを探して | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2022年11月27日

    シン・ウルトラマン (2022年11月アマゾン・プライム)

     「仮面ライダー BLACK SUN」に続いてアマゾン・プライムの恩恵を早々に実感できる映画がついにやってきた。今年の5月から夏に向けて、映画館に足を運びたくて、でも結局時間がとれずに観に行けなくてヤキモキさせられた一本だった。ウルトラマン一期生の僕にとって、「ウルトラマン」はひときわ思い入れが強い作品だった。それを「ゴジラ」のリブート映画を撮った庵野監督と、平成ガメラ三部作を撮った樋口監督との二人が、どのように料理したのかが気になった。Twitterでは続々と好評と熱狂の声が揚がっていたから、なおさらだ。期待に胸ふくらませてアマプラで観た「シン・ウルトラマン」は、しかし、想像していたのとは違って"普通"だった。「シン・ゴジラ」のような圧倒的なワクワク感とオリジナル感を、僕は感じなかった。そのうえで"普通"である事は決して本作を貶しているのではないという事を、説明しようと思う。

     実は「シン・ウルトラマン」のアマプラ公開に先駆けて、庵野秀明監督が学生時代に作った「DAICON FILM版 帰ってきたウルトラマン」が視聴可能になったので、事前に観ていた。その時にも感じたのだが、本作でも怪獣を受け止める組織と、分析装置を駆使する手順とがエヴァそのもので、いたってクールで知的に、時にユーモアをまじえて"事態"に対する対応が進められていく。アンバランスな世界が生んだ雑多な怪獣は、何者かがある意図を持って送り込んだ禍威獣として整理・分類される。ガボラの変形する頭部は、まさしく使徒のそれだ。その隙間を埋めるように、1969年に放映された「ウルトラマン」という作品が内包していたヒューマニズムやシンプルな進歩思想があらためて提示され、2022年の現代人にとっての理念と対峙される。

     現代のウルトラマンはカラータイマーを持たないだけではない。スペシウム光線は夢のような力でもなんでもなく、右手と左手をクロスする事から生じるプラズマの一種であると、ウルトラマン自身の見得を切るようなポージングが語っている。そこにファンタジーなど入る余地はないのだと。しかも、科特隊ならぬ禍特対の隊員・神永新二がウルトラマンであることは早々に明かされてしまう。オリジナルの設定は明らかにムリがあり、他の隊員に隠し通すことなど出来はしない。たとえ出来たとしても、そこにこだわるほどの面白さなどないと言っているかのようだ。

     本作に登場するメフィラスは、少年の純真な心に打たれて敗北を認めるのではなく、単にゾフィという政治力学を前にしてサッサと手を引いてしまう。いや、ゾフィはウルトラマンに光の国への帰還をうながしに来た使者であり、同胞ではなかったか。それが地球の消滅を履行する使命を帯びてやってきた"悪魔"だったとは、なんたる事か。どこからどこをとっても、これはウルトラマンではない。似て非なる物語なのだ。

     そう思いながら、地球人とは一線を画すように容易に心を開かない神永(=ウルトラマン)は、バディである浅見弘子に「バカにするな」と頬を打たれながらも、人間という奇妙で、時に理解しがたいほど愚かでちっぽけな存在が、広大な宇宙の中でも類例がないほどに希有な精神を持っている事を告白する。そして地球人に自らの命を賭ける価値を見いだすクライマックスに、僕は涙を止める事ができなくなった。これこそが我らがウルトラマンではなかったか。

     第二次大戦後のニヒリズムに陥った世代にも、科学による進歩思想が過ちだったと知ることになる世代にも、そして今やノスタルジアとしての昭和だけを享受しようとする世代にも、容易に理解しがたく、また脆弱な考え方だと嗤われようとも、科学が何かを変えてくれると信じて、それを用いて僕ら人間が自らの幸福をつかみ取る事ができると信じた、奇跡のような時代があった事をもう一度この映画は教えてくれる。そのためにウルトラマンは再び現代にやってきたのだ。

     ゼットンに立ち向かったウルトラマンは、果たしてどの"世界"に消えてしまったのだろう。そして、おそらくはウルトラマンが活動した間の記憶を持つ事のないはずの神永は、どのように他の隊員たちの呼びかけに応えたのだろう。いや、そんなことはない。記憶をもった彼であって欲しいと願いながら、僕は、いやすべての"ウルトラマンの子供たち"は、暗くなったフィルムの一瞬の闇をじっと見つめるのだ…。

    シン・ウルトラマン - 斎藤工, 長澤まさみ, 有岡大貴, 早見あかり, 田中哲司, 西島秀俊, 庵野秀明, 樋口真嗣
    シン・ウルトラマン - 斎藤工, 長澤まさみ, 有岡大貴, 早見あかり, 田中哲司, 西島秀俊, 庵野秀明, 樋口真嗣
    posted by アスラン at 12:45 | 東京 ☀ | Comment(0) | TrackBack(0) | 記憶の映画・ドラマを探して | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2022年11月18日

    仮面ライダーBLACK SUN(全10話)

     最近ようやくTwitterを使い出した。経緯については「風が吹けば桶屋が儲かる」式の話があり、それを枕にしようと思ったら書けども書けども終わらない。ようやく枕が終わって、さて本題の「仮面ライダーBLACK SUN」について書こうと思ったら、ハタと手が止まってしまった。いろいろと言いたい事、突っ込みたい事があって、事前に手帳に書き殴ったメモは結構な分量になったのだから、いくらでも書けるはずだ。でも、筆ならぬキーボードが進まない。

     これは、いざ書こうとしても半世紀以上にわたる出来事がいつ起きて、どう推移したかがハッキリしてないからかもしれないと思い、もう一度最初から見直す事にした。アマゾン・プライムのいいところは、いつでも何度でも見直す事ができるところだ。しかもDiscの入れ替えなども不要だし。ただし全10話をすべて丁寧に見直したらとんでもない事になるので、今流行のファスト動画で観た。いや、それは嘘で、だいたいストーリーは頭に入ってるので、事実関係が曖昧なところやストーリーの鍵となる部分だけを選んで、飛ばし飛ばししながら見直した。すると、意外な事がわかった。最初観た時よりも、ずっとずっと面白い。何故だろう。もちろん全体的なストーリーの綻びは変わってないのに、二度目の飛ばし観では綻びが目立たない。むしろ面白くなる。

     そうこうするうちに、Twitterでフォローしてる人たちの感想がツイートされ始めた。まだ序盤、中盤あたりだがギブアップしそうだという感想が多い。その中の一人が「思わせぶりで話がなかなか進まない」とつぶやいていた。なるほど、ようやくこの「仮面ライダー」の問題点が見えてきた。これでようやく感想が書けそうだ。

     仮面ライダーは、ウルトラマン同様、第1シリーズから見た世代なので、この「BLACK SUN」についても以前から気にかけていた。とは言え、全何話もある作品を無料ですべて見られるようになるのはいつのことかと無関心を装っていたら、会員は一気に全10話を見られると知ってビックリした。「アマプラ最高!」というツイートで溢れるのも納得だ。すぐに見始めて、わずか数日で最終回まで一気に見てしまった。

     仮面ライダー1期生だと言ったが、僕がハマっていたのは1号、2号、そしてV3までだ。その後はほぼ見なくなってしまったので、「ブラック」も「ブラックRX」も見た事もなければ、どういう話なのかも知らない。ただ、平成ライダーシリーズの「ディケイド」は見たので、主人公が南光太郎だという事は把握していた。本作の主人公も南光太郎である以上、テレビシリーズの設定をベースにしている事は間違いないようだ。その程度の知識なので、本作がどのようにベースを活かしてリブート版に仕上げているかは皆目分からない。だから、あくまで仮面ライダーの基本的な世界観に照らし合わせた感想になる。

     そういう素朴な仮面ライダーファンから見ると、悪の秘密結社VS仮面ライダーという設定ではない事にかなりの違和感を感じた。この物語は、どうやら超人的な力を持つヒーローが、やはり強力な力を秘めた怪人たちを倒していくのではなく、怪人そのものが人間と共存していく世界を描いている。そこでの怪人は矮小化され、逆に人間から「差別される側」の存在となっている。当然ながら仮面ライダーも人間にとってのヒーローではなく、怪人として差別を受ける一怪人に過ぎない。このようにヒーロー物の根幹を揺るがすような設定を持ち込んで、制作陣は何を描こうというのだろうか。少なくともBLACK SUNをヒーローとして描くつもりはなさそうだ。おそらく、何が正しくて何が間違っているかすらハッキリしない、混沌とした状況において「仮面ライダーとは何か?」を問うことに関心があるようだ。

    時は2022年。国が人間と怪人の共存を掲げてから半世紀を経た、混沌の時代。差別の撤廃を訴える若き人権活動家・和泉葵は一人の男と出会う。南光太郎──彼こそは次期創世王の候補、「ブラックサン」と呼ばれる存在であった。50年の歴史に隠された創世王と怪人の真実。そして、幽閉されしもう一人の創世王候補──シャドームーン=秋月信彦。彼らの出会いと再会は、やがて大きなうねりとなって人々を飲み込んでいく。 

     これがアマゾン・プライムの配信ページに掲げられたイントロダクションだから、ここまではネタバレにはならないだろう。問題は2022年の現在、人間と怪人が共存できるか否かを試された半世紀に何が起きて、どうしてこのような事になってしまったか、だ。当然ながら二人の男・南光太郎と秋月信彦や50年前からさらに遡って1960年代に改造手術を受け、「怪人」となった。仮面ライダーではなく怪人となったのだ。それと創世王とがいかなる関係にあるかは、ここには書かない。ただ、1960年代と言えば、戦後日本がもっとも「大きなうねり」を抱えていた頃だ。60年安保で知られる運動は、学生だけでなく日本国民全体を巻き込む運動だったが、ここでは怪人という存在を差別から解放する運動へとすり替えられる。何故、怪人解放闘争を安保闘争の歴史に見立てて描かねばならなかったのかは、監督の頭の中にしかない。たぶん、かつて日本に起きた「混沌たる状況」が、仮面ライダーの存在を問う舞台として相応しいと思ったのだろう。そこでの南と秋月はもはや怪人ですらなく、悩める一学生に過ぎない。

     さて、これ以上あらすじを追っても意味は無い。ここまでで分かるのは、圧倒的に設定が多くて何が何やら分からない状況になっているという事だ。複雑なのではない。複雑な対立構図は、あえて監督が意図して持ち込んだものだが、分かってしまえば驚くほど単純だ。複雑に見せるために監督が取った戦略が、既に書いたとおりの「思わせぶり」と「先送り」だ。奥があるように見えて何もない。奥ではなく、横へ横へとひたすら物語は移動していくに過ぎない。だからこそ、60年安保闘争に見立てた怪人の権利闘争は、現実の茶番にしか見えない。

     第一話から観る者を食傷させるほどに重いテーマを投げかけておきながら、着地点は実のところ大学紛争に明け暮れた男女の青春の日々と、その後に訪れる醜い愛憎劇だと言ったら言い過ぎだろうか。しかし、第9話で物語の主要人物の一人が問いかける「俺はどこで間違えてしまったのか」という言葉ほど、あらゆる登場人物に当てはまる言葉はないだろう。その言葉は、仮面ライダーの二人にとっても無縁ではいられない。秋月=SHADOW MOONも愛故に悲しみ、愛故に傷つき、愛故に我を失う。最終話の彼は、まるで「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」におけるシャア・アズナブルの劣化版にも見えた。南=BLACK SUNに至っては、最終話に原点回帰のヒーローとしての振る舞いが盛り込まれているのだがそれも長くは続かず、結局はヒーローになることさえも許されない。

     さらに言えば、誰かのツイートに「仮面ライダーらしさがない」と書かれていたが、まったくその通りだ。仮面ライダーが一怪人に矮小化されただけでなく、アクションも腕っ節が強い人間並みに収まった印象だ。ライダーキックもなければ愛用バイク(バトルホッパー)を戦闘に活用するシーンすらない。いや、そもそも変身前と変身後でバイクシーンのスピード感になんら違いがないのは何故だろう。西島秀俊、 中村倫也のお二人は頑張ってはいるが、特に西島さんの変身ポーズが似合わないのはどうしたことだろう。かろうじて中村さんは今風のクールな変身ポーズを採用しているというのに。監督の白石和彌を僕は存じ上げなかったのだが、若松孝二監督に師事した経歴があると知って、なるほど60年代を舞台にした青春偶像劇を撮りたかったのであって、「仮面ライダー」を描く事に関心は持てなかったのかもしれない。

     特撮物としての「仮面ライダー」を期待していた人は大いに裏切られる事になるのは確かだが、すべてを通して見た後に二度目にざっと見る事はぜひオススメしたい。なぜなら、そこには時代のうねりに翻弄されながら、愚かにも愛に迷い、溺れ、傷つき、時に救われる人間たちのドラマが描かれているのが分かるからだ。思わせぶりをとっぱらって、仮面ライダーの皮をとっぱらって、7時間弱のドラマをぎゅっと2時間程度に圧縮して観た時、この作品の真の姿が現れる。梅雀さんも羊さんも濱田さんも三浦さんも黒田さんも、その他みんな良い演技してるぜ。
    posted by アスラン at 03:55 | 東京 ☁ | Comment(0) | TrackBack(0) | 記憶の映画・ドラマを探して | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2022年09月25日

    ウルトラマン放送前の黄色いロゴの正体は何か?

    まずは、二枚のカラーグラビアを見て欲しい。
    ウルトラマングラビア(週刊TVガイド1966年6月24日199号).jpgウルトラマングラビア(週刊TVガイド1966年7月15日202号).jpg

     この二枚は、かつてはテレビがある家庭でことあるごとに購入していた週刊TVガイドのカラーページで、それぞれ別の号に掲載された「ウルトラマン」放送前の宣伝だ。
    (左)週刊TVガイド 1966年6月24日199号
    (右)週刊TVガイド 1966年7月15日202号

     右の広告を見ると「7月10前夜祭 7月17日 第一話」とある。この頃の雑誌の発行日と発売日にはズレがあるので、202号は7月10日以前に発売されていた。ただし、「ウルトラマン」放送直前であることに変わりはない。代わって199号はそれよりも三週間前の発売になる。どちらもウルトラマンと怪獣との戦闘シーンを切り取ったように見えるが、本編にはこんな場面は出てこない。あくまで宣伝用にポーズをとったものを撮影している。問題はそこではなく、タイトルロゴだ。202号は今やおなじみの個性的なロゴだ。頭に「シン・」を付ければ、最新の劇場映画にも通用するあのロゴだ。ところが199号では見慣れぬロゴが使われている。しかも黄色い。ウルトラマンと言えば銀色に赤というイメージなので、タイトルもそれに合わせて赤(もしくは赤地に白)が定番だ。黄色いロゴは初めて見た。これは一体何なんだろう?そこから、この話は始まる。

     もちろん、放送三週間前には正式なロゴが決まってなかったという事かもしれない。タイトなスケジュールをこなして放送にこぎ着けた当時のクリエーターたちの奮闘を思えば「あるかも」と思わされるが、だとするといささか疑問が残る。
    ウルトラQタイトルロゴ.jpgウルトラマンタイトルロゴ.jpg

     「ウルトラマン」は「ウルトラQ」の続編という形で、同じ時間帯・同じチャンネルで引き続き放送された。タイトルバックでは、まずおなじみのウルトラQの渦巻きが出てきて、その後に「ウルトラマン 空想特撮シリーズ」というタイトルが出現する。この二つのロゴを比べてみれば、ロゴの形からして続編である事は一目瞭然だった。つまり、三週間の間にロゴを変更したとは考えにくい。では、放送直前まで正式なロゴはマル秘扱いだったのだろうか?それも「あるかも」と思わされる。私たちの日常を怪獣が脅かすという「ウルトラQ」の世界観を、「ウルトラマン」が踏襲しているという事を象徴するロゴでありタイトルバックなのだから、それを明かすのは直前までのお楽しみにしたかったのかもしれない。ただ、タイトルロゴの成立に関する言及はネット上では見つからなかったので、あくまで僕の推測にすぎない。

     転じて、あの199号の黄色いロゴはどこから来ているのだろう。スポンサーの武田薬品を冠した宣伝用グラビアだから、当時のTBS広報が提供した資料に基づいているに違いない。いや、違いないとまで言い切っていいのかも、僕には分からない。とにかく、カクカクと角張ったデザインになっていて、勢いはあるがどことなくマンガ的な軽さも感じられる。他に手がかりはないかとネットで探すと、さらに前の時点で週刊少年マガジンに掲載されたカラーグラビアを見つけた。
    ウルトラマン黄色いロゴ(少年マガジン1966年20号5月22日).jpg

     これは1966年5月22日20号だ。TVガイド199号からさらに二ヶ月も遡る。しかも黄色いロゴだ。だが…。なんかちょっと違うなぁ。少年マガジンのロゴは「ル」の頭がそろっているし、どの文字も右に流れるヒゲのようなものが出ていてスピード感を演出している。もっと何かないかなと思って、さらに講談社のテレビ絵本というものを見つけた。
    ウルトラマン黄色いロゴ(講談社のテレビ絵本1).jpg

     こちらは発売時期がハッキリしないが、「1966(昭和41)年『ウルトラマン』本放送当時、唯一の絵本シリーズとして発行されたオリジナルイラストによる『講談社のテレビ絵本ウルトラマン』」(完全復刻BOXより)との事なので、放送開始後に発売されたらしい。この絵本のロゴと、TVガイド199号のロゴは非常に似ている。縦長の絵本なのでロゴも縦長に間延びしているが、
    「ル」の頭が不揃い
    「ラ」が長音記号+アラビア数字の7に見える
    「マ」「ン」の端の傾きが同じ(少年マガジンのロゴは明らかに違う)

    などの共通点が見られる。
     違う点を言えば、絵本は「黄色いロゴ」ではない。でも「黄色い」のはあまり重要でないのかもしれない。特に少年マガジンのグラビアは、オレンジを基調としているので、タイトルを目立たせるために黄色いロゴにしたようにも見える。そしてTVガイドの199号もウルトラマンの体表の赤を際立たせるために黄色いロゴにしたのかもしれない。「かもしれない、かもしれない」を繰り返してもらちが明かないので、書籍にあたることにした。

     図書館で「ウルトラマン研究読本」(洋泉社MOOK)を借りて、ひととおり見渡してみたが、ロゴの経緯について触れた記述は見当たらなかった。ただ、興味深いコラムを見つけた。映像・書籍の構成および文筆家の金田益美さんが書いた「ウルトラマン」の誕生当時の状況を伝える文章だ。その中で、「ウルトラQ」の放送開始が1966年1月2日で、「まだ半分しか放送されていない時期(金田)」である4月には、テレビや新聞などで「ウルトラマン」がカラー作品として放送される事が発表されていたそうだ。そして、カラーグラビアで児童誌に初掲載されたのが「少年ブック」と「小学五年生」、そして一日遅れで「週刊少年マガジン」に掲載されたと書かれていた。この少年マガジンが、さきほど紹介した黄色いロゴのグラビアになる。まとめると、こうなる。
    (1)少年ブック1966年6月号(5月6日発売)
    (2)小学五年生1966年6月号(5月6日発売?)
    (3)週刊少年マガジン1966年5月22日20号(5月7日発売)
    (4)週刊TVガイド1966年6月24日199号(6月18日ごろ発売)
    (5)週刊TVガイド 1966年7月15日202号(7月9日ごろ発売)
    (6)講談社のテレビ絵本17/ウルトラマン うちゅうかいじゅう ベムラーのまき

     そして(1)(2)のグラビアもネットで見つけることができたので、(1)〜(4)を以下に左から並べてみる。
    ウルトラマングラビア(少年ブック1966年6月号5月6日発売)2.jpgウルトラマングラビア(小学五年生1966年6月号).jpgウルトラマン黄色いロゴ(少年マガジン1966年20号5月22日).jpgウルトラマングラビア(週刊TVガイド1966年6月24日199号).jpg

     なんと、ロゴが全部違う。それに「少年ブック」も「小学五年生」もロゴは黄色ではなく赤だ。どうやら児童誌三誌はそれぞれ思い思いに自前のロゴを使っている事になる。さらに金田さんのコラムには気になる事が書かれていた。この二誌は「ウルトラQ」の漫画を当時連載中だったと言うのだ。乗りかかった舟だ。それも調べてみると、面白い事がわかった。
    ウルトラQ(少年ブック連載)2.jpgウルトラQ(少年ブック連載)3.jpgウルトラQ(小学五年生連載)2.jpg

     少年ブックに連載された「ウルトラQ」は複数の漫画家の手によるものだが、最も多いのが中城健太郎さん。一番左側の「2020年の挑戦」がそうだが、まさしくちょうど(1)1966年6月号に掲載されたものだ。そのときの「ウルトラQ」のロゴと(1)の「ウルトラマン」のロゴとを比べると、「ウルトラ」のデザインがそっくりだ。なるほど、そういう事か。では小学五年生に連載された「ウルトラQ」はどうかと言えば、こちらは江波譲二さんが担当していて、一番右側の「海底原人ラゴン」がそれだ。そしてこちらも(2)1966年6月号の別冊として付録がついてきた。ただ、このロゴと(2)のロゴとはまったく似ていない。面白いのはここからで、少年ブックで川崎のぼるさんが担当した「ガラモンの逆襲」(真ん中の右側)のロゴと(2)のロゴがそっくりなのだ。しかも少年ブックへの掲載が1966年5月号だったので、(2)の小学五年生のグラビア掲載の一月前になる。ひょっとすると、(2)の掲載にあたって少年ブック5月号の「ガラモンの逆襲」を参考にして、「ウルトラマン」のロゴを作ったのではないだろうか。もしそうだとすると、「少年ブック」が集英社、「小学五年生」が小学館で、それぞれ出版社が異なるから、変な話になってしまうのだが…。

     それで、話は最初に戻る。(4)TVガイドと(6)講談社のテレビ絵本とでロゴが似ていると言ったが、結局なんで似ているのかと言えば、おなじみのロゴが放送される前に、仮決めされたロゴがあったという事ではないだろうか。特にテレビ絵本の場合、放送に合わせて発売させるためには、ずいぶん前から絵本のタイトルロゴを決める必要があったはずだ。そして、それは講談社がデザインしたのではなく、円谷プロもしくはTBSがデザインしたものだった可能性がある。それを放送一ヶ月前の(4)で使用したのは、おなじみのロゴのお披露目をギリギリまで控えたかったという意図があったように思う。果たして、本当はどうだったのか。
    posted by アスラン at 03:20 | 東京 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | 記憶の映画・ドラマを探して | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2022年04月16日

    サンダーバードができるまで/スーパーマリオネーションの軌跡(2014年英)

    サンダーバードができるまで.jpg 最近、家のWiFi環境をJCOMからソフトバンク光に乗り換えた。在宅勤務の比率が多くなってJCOMの通信環境では仕事にならなくなったためだ。元々JCOMにしたのは、立川周辺ではアンテナによる地デジの受信はノイズが多いと聞かされていたからだ。ケーブルテレビを見るためにJCOMと契約したので、自ずと電話も通信環境もJCOMになって10年以上になる。子供がYouTubeを見る事はあっても、僕も妻もプライベートで動画などを見ることは少ないので不満はなかったが、在宅勤務ともなるとJCOMの通信環境の脆弱さは致命的だ。

     光通信になったおかげでWiFi環境はかなりよくなったが、テレビの方はCSが一切見られなくなり、JCOMがサービスで配信していたTVKやテレビ埼玉などのローカルテレビも見られなくなった。ザ・シネマが時々配信していたミニシアター系の映画が観られなくなるのが残念だが、それ以外はそれほどの痛手ではない。そう思っていたが、乗り換えからしばらくして電話があり、スカパーのキャンペーンで2ヶ月間、無料で視聴できることになった。スカパーを契約するつもりはないけれど、視聴チャンネルに東映チャンネルなどJCOMではオプション契約だったチャンネルが含まれているのは魅力だった。おかげで小学生の頃に見ていた「キーハンター」を数十年ぶりに見る事ができたのは嬉しかった。

     スターチャンネルも最初の10日ぐらい無料視聴ができた。こちらも2ヶ月見られるのかとうかうかしていたら、あっという間にスクランブルがかかってしまったが、ちょうど「サンダーバード」特集をやっていて、何本か録画する事ができた。今年は「サンダーバード」が日本でテレビ放送されてから55周年という事で、日本語劇場版「サンダーバード55/GoGo」が1月に劇場公開された。これは、当時の特撮技術を再現して作成された完全新作なのだそうだ。それがスターチャンネルでも放送されていて、即座に録画した。「エヴァンゲリオン」の庵野秀明さんもサンダーバードの影響を受けた事で知られ、1985年にはテレビ放送の名シーンを集めたダイジェスト版の編集に携わった。これを元に作られたデジタル・リマスター版「シン・コンプリート・サンダーバード」も録画できた。

     この「サンダーバードができるまで」は、本国イギリスで放送50周年を記念して作られたドキュメンタリーだ。僕は「ウルトラマン」の第一世代で、「ウルトラQ」に始まって「ウルトラマン」の本放送を毎週楽しみに見ていた。「サンダーバード」の再放送を見かけた記憶はあるし、サンダーバード2号のおもちゃを6歳上の兄が持っていた記憶はあるが、それ以上の関心は持てなかった。ウルトラマンシリーズの洗礼を受けてしまったので、あえて人形劇のもどかしさに付き合う必要はないと、当時は感じてしまったのだろう。

     「サンダーバード」は、映像プロデューサーのジェリー・アンダーソンが設立した映像製作会社「APフィルムズ」が作成した人気特撮番組だ。当初、APフィルムズは人形劇の作品を製作していた。パペットを操る技術があったわけではなく、みんな人形劇に関しては素人の集団だった。人形劇の発注があって、仕事がぜひとも欲しいアンダーソンはなんとかしてものにしようと、試行錯誤した。最初に作成した「ジ・アドヴェンチャー・オブ・トゥイズル」は、人形トゥイズルが主人公の冒険劇で、その後、西部劇を経てSF物を作るようになる。最初のうちは目も口も動かなかったが、やがて目や口も頭上にいる演者が糸で操るようになった。しかし、頭上で操るマリオネーションでは、どうしても演技に遅れが出てしまい、台詞と同期した口の動きが困難だった。

     APフィルムズが編み出したスーパーマリオネーションは、動作や表情を人間に近づけ、同時に特撮を駆使してリアルな映像を作り出す手法の事だ。初めて知ったのだが、1965年当時、すでにパペットにリップシンキングの技術が使われていた。もちろんアナログのリップシンキングだ。台詞を録音した音声に反応して人形の唇が強弱を付けながら震えるのだ。この革新的な技術が、単なる人形に命を吹き込む事になる。今でこそ「なんで人形劇なの?」と、全編CGのSFXが当たり前の若い人の声が聞こえそうだが、実写で出来ない事を人形でコマ撮りしたり、マリオネーションで表現したり、あるいは着ぐるみで表現することで、先人たちは特撮の可能性を広げてきたのだ。

     実はJCOM契約時にスーパー!ドラマTVで「サンダーバード完全版」を録画して保存版にしてある。「なんで人形なの?」とか言わないで虚心坦懐に映像とドラマを見て欲しい。本当に驚くほど本格的な脚本に仕上がっている。単なるスーパーヒーロー物ではなく、生身の人間として危機を乗り越えようとする国際救助隊による群像劇になっていると実感した。当初は30分番組として企画されたが、放送局のプロデューサーの「TV番組というより、もはや映画だ」という感想から1時間番組にするように依頼があり、製作済みの7本を再編集したというエピソードも紹介されていた。

     日本ではあまりに有名な作品なので、何年も続き、いくつものシーズンが放送されたのかと思っていたが、実際には1年間32回で終了している。かなりの人気番組になったために、翌1966年に「サンダーバード劇場版」が作られたが、これが興行的に失敗に終わった事で第2シーズンが作られずに終了してしまったようだ。当時のスタッフによると出来は決して悪くはなかったようだが、テレビ番組を映画化することが当時は珍しく、慣れていない観客は映画館に足を運ばなかったという意見があった。APフィルムズの次回作は「キャプテン・スカーレット」で、日本でも放送されていたらしいが、まったく記憶にない。次々回作の「ジョー90」の方が、子供が主人公で、しかもコンピュータサーバーと連動しているメガネをかけると、少年が天才的な知識と才能を活用できるようになるという内容で、同年代として共感が湧く作品になっていた。

     いずれにしても、スーパーマリオネーションという独自手法は時代の流れとともに消えていく運命にあった。当時の人形も設備もスタジオの倉庫に押し込められ、あるいは廃棄された。しかし、世界中に熱狂的なファンをもつ「サンダーバード」は、CGアニメ「サンダーバードARE GO」としてリブートされ、実写版がハリウッドで作られ、現代に蘇った。そして、なんと熱狂的なファンのクラウドファンディングにより、当時の技術を完全再現した形で「サンダーバード55/GoGo」が作られた。この奇跡をじっくりと味わいたい。
    posted by アスラン at 02:20 | 東京 ☔ | Comment(0) | TrackBack(0) | 記憶の映画・ドラマを探して | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2021年08月13日

    ディレクターズ・カット版とは何か?(「私の家政夫ナギサさん」の場合)

     テレビドラマのディレクターズ・カット版の意味については、すでに「恋は続くよどこまでも」を例にとってひととおり考えをまとめて記事にした。あとは「私の家政夫ナギサさん」を例にとった記事をどうしても書いておこうと、その時から思っていた。前の記事でも「緊急事態宣言下での在宅勤務のストレスを癒すために、繰り返し繰り返し見ることになった」と書いたが、「ナギサさん」の方も同じように繰り返し繰り返し見る事になったからだ。こちらもディレクターズ・カット版を見る事はないだろうと思っていたが、年末にディレクターズ・カット版が放映されたので、ちゃんと録画して整理して、またまた初回放送版とディレクターズ・カット版を交互に見る繰り返しでヘビロテを続けたので、その違いもわかった。特に今回「ナギサさん」(ではなく「わたナギ」と言うべきか)を題材にするのは、単にディレクターズ・カット版と一言で片付けるには、あまりに「恋つづ」とは編集の意味が違うように感じられたからだ。

     と、ここまで書いてきて「どうせ僕が書かなくても誰かが書いてるんだよね」と、ちょっとググってみた。確かに詳細な「まとめ記事」を書いている人が結構いる。すごいなぁと思ったのと同時にちょっとびっくりした。いわゆる動画配信サービスで見られるディレクターズ・カット版と、テレビで後々放映されたディレクターズ・カット版との間にも差分があるのだ。わざわざディレクターズ・カット版を売りにして会員になるよう促しているからには、そうそうたやすくテレビで放映する事はないと思っていたのだが、実にその通りだった。いわゆるディレクターズ・カット版には、さらに「動画配信サービスバージョン」と「テレビバージョン」とがあるという事だ。でも、これ自体はそうそう珍しい事ではないだろう。1998年に公開されたリュック・ベッソン監督の「グラン・ブル−」には数々のバージョンが存在するし、トルナトーレ監督の代表作「ニュー・シネマ・パラダイス」には、イタリアで公開された「オリジナル版」、日本で公開された「インターナショナル版」、さらには「ディレクターズ・カット版」とが存在する。

     先に挙げた「恋つづ」のまとめ記事の一つでは、作品を深く楽しむにはディレクターズ・カット版を見ないと始まらないとまで言い切っていたが、そう簡単な話ではない(と、僕は思う)。確かに劇場公開時に編集を余儀なくされた場合に、監督自身が「完全版」と称して編集前に戻したりすることはあるだろう。作り手の意図がどう作品に反映されたかを考える上での参考資料として重要な事は確かだが、ディレクターズ・カット版ありきで作品の評価が成り立っているわけではない。元々、劇場公開版で十分に評価されていた「ニュー・シネマ・パラダイス」に、監督の思い入れたっぷりのシーンが50分も追加された「ディレクターズ・カット版」はもはや別作品と言ってもいいくらいだ。「グラン・ブルー」の場合は、劇場公開版が本国フランスでは酷評され、世界中でインターナショナル版が再評価されるに至って、無編集版が「完全版」として公開される事になったが、10周年を記念して本国や日本でリバイバル上映されたのは、あの酷評された「オリジナル版」なのだ。要するに、作品ごとに「ディレクターズ・カット版」の位置づけも変わるという事だ。本当に重要なのは、どのバージョンで見ようがその作品に自分がどう感銘を受けたかであって、バージョン同士の優劣はあくまで二次的な関心にすぎない。

     だから、ここで取り上げるのは「私の家政夫ナギサさん」の初回放送版と、ディレクターズ・カット版(やはりテレビバージョン?)とを見てきた僕が、個人的な関心で比較してみた感想にすぎない。ここに「作品を深く楽しむ」ための本質があるなどとは欠片も思ってない、とだけはあらかじめ言っておこう。

     結論から言うと、「恋は続くよどこまでも」の場合はテレビ版ではカットした部分(天堂浬が、バス停の前で佐倉七瀬の父に本心を打ち明ける場面)が追加されている点にディレクターの意図が反映されていると感じられたが、今回の「私の家政夫ナギサさん」のディレクターズ・カット版には多数の追加シーン(いわゆる未公開シーン)があるものの、本質的な差分はないように感じられた。正直に言ってしまえば、追加シーンは尺稼ぎであらかじめ撮影されてはいたが、初回放送の際に余分だと判断されてカットされたシーンばかりのようだ。重要な差分は追加シーンにはなく、BGMにあるように思う。

     初回放送版を見た際に一番引っかかったのは、第5話で父の還暦祝いにメイと妹・唯の子供の頃の映像が映し出されるシーンだ。ここにBGMとして小田和正の「my home town」が流れる。小田の故郷・横浜の風景を切り取った、郷愁があふれた名曲だ。ただし、小田和正ファンにはおなじみであっても「何故、ここで?」と思った人も多いだろう。違和感ではないが意外な感じがした。もちろん、舞台が神奈川であり、横浜の赤レンガ倉庫などもすでに登場しているから、メイ一家の故郷イコール横浜という連想から「my home town」にたどり着いた可能性は否定できないが、僕は音楽担当もしくはディレクターの個人的な趣味ではないか、と思った。

     そう思った理由は別にもあって、メイが着信音や目覚ましのアラームに設定しているBGMが、いずれも洋楽ロックの名曲のイントロだという点だ。僕は洋楽の素養がないので曲名をいちいち指摘できるわけではないが、聴きなじみのあるイントロばかりが流れる。特にドラマの終盤で、メイとナギサが結婚のトライアルを始めた翌朝に目覚ましに流れるアラームは、ディープ・パープルの「スモーク・オン・ザ・ウォーター 」だった。さすがの僕でも曲名がわかる。「ここぞ」とばかりに意図的に使っているのは明らかだ。特別編でも「私は毎朝爆音でなければ起きられない」とメイに言わせているので、爆音が必要であったのは理解できるが、70〜80年代のロックの名曲を使っているのは、やはり誰かの趣味を感じさせる。

     そして、これらのBGMがディレクターズ・カット版ではすべて別の音源に置き換わっているのだ。「my home town」は主題歌「裸の心」のインストルメント(ピアノ)になり、スマホの爆音はすべてオリジナルと思われるロックテイストの音源になった。あれっ?と思ったが、もし「動画配信サービス」と同じ対応だとすると、著作権対策なのかなと思った。一回だけのテレビ放送と違って、動画配信の場合は繰り返し繰り返し視聴できるので、使用料がかさむ事を回避したのではないだろうか。その意味では、今回のディレクターズ・カット版は動画配信サービスのものと同じ可能性が出てきた。

     それでは、「初回放送版」と「ディレクターズ・カット版」との違いを以下で見ていく事にしよう。「変更」「追加」「削除」は、初回放送版から見たディレクターズ・カット版での対応を意味する。
    [第1話]
    メイの自宅マンション。ママからの着信音が変更(既存のロック曲からオリジナル音源)

    (医薬品卸売会社(通称おろしさん)の駒木坂との会話)。
    駒木坂「もっといっぱい食べてよ。あと2つあるけど」(追加)
    メイ「大丈夫です」(追加)

    (昼休みを狙った医療機関回りのシーン。)
    メイ、川沿いに車を止めて昼食を取る。(追加)
    メイ(ナレーション)「最初から話を聞いてもらえることはほとんどない。気むずかしい医者だって少なくない」(追加)

    メイの誕生会のシーン。ケーキが運ばれてくる際のBGMが変更(やはり聞き覚えある曲からオリジナル音源に)

    肥後すこやかクリニックの待合室で、肥後先生へのプレゼンに備えて練習するメイ(追加)

    (ライバル会社アーノルドに競い負けて、自宅でやけ酒するメイ。ナギサに慰められ「たった数日で、あなたに何がわかるんですか?」と怒るメイに、「わかりましたよ。他の荷物はぐちゃぐちゃなのにMR関連の本だけはちゃんと手の届く場所にありました」と話すナギサ。)
    ナギサの言葉に合わせて、MR関連の資料を手に取るナギサの回想シーン(追加)

    [第2話]
    ナギサの4日間のトライアルが終わった翌朝、ソファで寝ているメイが爆音で起こされるアラームが変更。

    (ナギサのアドバイスを参考に、肥後先生にもう一度天保山製薬の薬を使ってもらえるように説得するメイ。)
    肥後「考えさせてください」
    メイ「ありがとうございます」
    肥後「(喜んで立ち去ろうとするメイと瀬川の様子を見て慌てて)まだ決めたわけじゃない」(追加)

    (朝、ママから「今日18:00に忘れたストールを取りに行く」というメッセージを受け取ったメイ。)
    メイ、慌ててストールを探そうとする(追加)

     肥後先生の「まだ決めたわけじゃない」と言って慌てるシーンはちょっとだけ余分な感じがした。2度目に訪れる際、肥後は「(天保山製薬の)薬使ってもいいですか」と好意的に対応してくれるので、初回放送の流れで十分だ。
    [第3話]
    (母に家事代行がばれてしまい、メイが説明する。)
    玄関ドア正面で、唯が手を合わせて「ごめん、お姉ちゃん。帰るね」(追加)

    (ナギサ。スポットの仕事を終えて、メイの自宅を出る。)
    通路で田所と遭遇、会釈する二人(追加)

    家事に目覚めるメイが、翌朝4:30起床のために仕掛けたアラームが変更。

    (メイの同僚・須山薫のマンションで食事するメイ。)
    薫「あれからちゃんとやってる?マッチングアプリ」
    メイ「うーん」
    薫「『私たちも忙しい』なんて言ってる余裕はないよ。」(追加)

    (薬膳バーで田所と会うメイ。以下のシーンで独白のみ追加。)
    田所「そういえば、聞きました。肥後先生の事」
    メイ「えっ!」(独白「こいつ何を、何をどこまで知ってる」)
    田所「講演会の講師、ひきうけていただけたんですね」
    メイ(独白)「なんだ、そっちか」

    (NTSクリーンハウスにメイの母が来て、ナギサとの会話シーン。ナギサから「出来ないところも見てあげてください」と言われた直後。)
    母「今日私が来たことは、唯には内緒にしてくださいね」(追加)

    (新薬の講演会をなんとか乗り切ったシーン。
    薫「せっかく、一仕事おわったので、なんか食べに行きません?」
    薫「わたし、ジビエがいいです。」(追加)
    (堀「おっ、いいね」)

    (過労で倒れたメイを看病して帰る母。玄関先で。)
    母「今は仕事に集中しなさい。家のことはもう少し落ち着いてからでいいからね」(追加)
    メイ(独白)「私が寝ている間にいったい何があった?」(追加)
    (母を見送ってから)ソファに置かれた洗い立てのタオルの山に頬ずりするメイ。(追加)
    スマホに会社のみんなからメッセージが届く。「ゆっくり休んで」のいたわりの言葉に、急に思いついたようにナギサの名刺を探すメイ。(追加)

    ナギサと契約を結んだ後、帰宅時にマンションを見上げて、自室の灯りを見て、いそいそと帰るメイ。(追加)

    ナギサに教えてもらった雑炊を作って、夫に「できたわよ」と嬉しそうに声をかけるメイの母。(追加)

    (翌朝爆音なしで早起きしたメイ。)
    テーブルで優雅にティーブレイク。(追加)
    メイ(独白)「昨日はゆっくり眠れた。家事を代行してもらえば、仕事に集中できる。もしかして婚活だってできちゃうかも」(追加)
    スマホに田所からメッセージ「講演会成功したと瀬川くんから聞きました。体調は大丈夫ですか?」(追加)

     追加した方がいいと思うのは、母を見送った後の「いったい何があった?」という独白部分だけだろうか。母の様子が一変しているところから、ナギサのおかげだと気づく流れは、あればわかりやすくなるけれど、少々もたつく感じがするので初回放送版で十分。
     講演会終了後の堀の「いいね!」が薫の「なんか食べに行きません」に応えたのではなく「ジビエ」に応えたものだというのは面白い。特別編では、薫と堀が薬膳バーでそれぞれコブサラダと火鍋を注文しているシーンがあるけれど、二人はそもそも相性がよかったんだと気づかされる伏線になっている。
    [第4話]
    (駒木坂から新病院の情報を聞き出すメイと瀬川。大学病院に行くなら人事のカギを握る先生に会っておくように勧められる。)
    駒木坂「テレビでよく見かける、なんとかのなんとかのなんとかみたいな」
    駒木坂「うちのかみさんが大好きなんだよ」(追加)
    メイ「何か特徴あります? 」
    瀬川「北斗の拳で言うと?」
    駒木坂「選択肢狭くない?強いて言えばジャギかな」
    駒木坂「北斗4兄弟の三男坊。おれ、あいつ大嫌い。ジャマばっかするんだもん」(追加)

    [第5話]
    (肥後先生から告白されたメイ、田所に告白した薫が薬膳バーのカウンターでお互いの気持ちを伝え合う。)
    本編では「これが恋なのかなぁ」の後に突然興奮して大笑いする薫だが、その前に正直告白するつもりはなかったけれど、思わず告白してしまったという切羽詰まった気持ちを言葉にするシーンが追加。

    (メイが帰宅すると、母がキッチンで揚げ物と格闘中。やけどしそうになり、ナギサが助けに入る。)
    メイ「ナギサさん、今日は来る日じゃないですよね」(追加)
    母「あたしが頼んだの。料理を教えてもらおうと思って」(追加)

    (母が帰ってから、繕いものをするナギサの姿を見て、母と唯の仲直りのアイディアを思いつくメイ。)
    ナギサに耳打ちするメイ、それに耳打ちで返答するナギサ。これを繰り返す。(追加)

    ナギサの事をもっと知りたいと伝えるメイは、「次回ご用意します」とナギサに言われて一晩悶々として眠れず。その朝のアラームが変更。

    (会社のミーティング。天明大学の人事のカギを握る阪本先生の話題になる。駒木坂から「ジャギに似ている」と言われた阪本先生だが、マンガではジャギは仮面をかぶって素顔を見せないため参考にならなかった。)
    ジャギが素顔を見せるコマを発見したと得意げに披露しようとする瀬川に、メイは「それはもういいから」とたしなめる。(追加)

    ミーティングを終えた後、副支店長の松平に「もう少し戦略について相談に乗ってほしい」と頼むメイ。(追加)

    (薬膳バーで、メイは松平から福岡支店へ異動すると聞かされる。)
    メイ「まかせて下さい。この横浜で天下をとります。」(追加)
    松平「そう言うと思ったよ」(と無理して自らを鼓舞しているメイに微笑む)(追加)
    メイ「正直言うと、まだ気持ちがとっちらかってますけど。でも、私『できる女』キャラなんで…。すべりました。」(追加)

    (父の還暦パーティで、繕い物を探しに母が2階にあがる。メイに「ここから、びしっとだよ」と言われる父。)
    父「いつまでも意地張ってないで」(と、妻に向けて言うべき台詞を練習する。)(追加)
    メイ「お酒の力借りるの、ダメだからね」(追加)

    例のモノ(娘たちからの贈り物の映像)が流れるシーンでのBGMが変更(小田和正「my home town」から「裸の心」のインストルメント)

     第5話での追加シーンが特に多いが、正直言って追加する必然性を感じるものはほとんどない。薫の台詞や松平へのメイの台詞も、とってつけたような感じがする。瀬川が披露するジャギのエピソードもカットして正解だ。唯一追加してよいと思えるのは、ナギサさんとメイのコソコソ話が2回繰り返された後に「なんで私たちコソコソ話してるんだ」と気づくシーン。繰り返した方が、二人の気の置けない関係が伝わってくる。
    [第6話]
    (会社で支店長から1on1ミーティングを始めると説明がある。「傾聴」の意義は「自らの気づきと、会社への心理的安全性」を得る事だという説明の後)
    堀「心理的安全性?」(追加)
    支店長「自分をさらけだして発言しても、職場での人間関係を損なうことはないって思える雰囲気の事ね」(追加)
    薫「それが会社にとって重要な事ってことですか?」(追加)
    支店長「そう。Googleが社内で生産性の高いチームの特徴を調べたら、この心理的安全性が高いってことがわかったの」(追加)
    薫「分かる気がします。会社が私の事ちゃんと見て受け止めてくれるって事ですもんね」(追加)

    (メイの自宅。唯と母がナギサの作る夕食ねらいで突然やってくる。ナギサが用意した特製豚キムチ鍋をすぐに食べたがる3人を止めて、いちいち仕切るナギサ。)
    メイ(独白)「鍋奉行というより、もはやお母さんだ。っていうより、お母さんよりお母さんだ。」(追加)

    (駒木坂から、かみさんが作ったというクッキーを渡された瀬川。外に出てから)
    瀬川「駒木坂さん、クスリ愛に溢れていますね。味は微妙ですけど」(追加)

    (会社の休憩スペースにて。田所の事で機嫌を損ねていた薫とメイが仲直りした後、薫から「田所さんはずっとメイの事見てくれてるよ。メイがその気なら私は全力で応援するよ」と言われて、戸惑うメイ。)
    薫「明日の説明会、がんばろう。オー」(追加)

     「傾聴」は、メイがナギサのプライベートを探ろうとするシーンの伏線になっているし、「自らの気づき」は、同僚MRの天馬あかりがメイに趣味の話を聞いてもらっているうちに「このチームで結果を出したい」とやる気を出すシーンの伏線になっている。「心理的安全性」の件(くだり)も、薫が田所をあきらめる時の「私の事をちゃんと見てくれる人がいい」という考え方につながる。後々の事を考えると追加した方がいいけれど、そこに至るまでの説明がくどい。
    [第7話]
    (アンタレス総合病院での説明会が終わって、メイはナギサのキズになっていると思われる女性を見つけて後を追う。)
    ガン・腫瘍センターの待合いエリアで姿を見失い、病院の職員に聞くが「患者の個人情報に関わる」と言われて断られてしまう。(追加)

    (自宅マンションのエレベーターで田所と鉢合わせして、気まずい二人。)
    メイ「(田所の持つレジ袋に気づいて)夕食は?」(追加)
    田所「とろろそばです。相原さんは?」(追加)
    メイ「昨日の残りのとろろ汁かな」(追加)

    (メイに問い詰められて、病院で見かけた女性(箸尾)の件を話し出すナギサ。ソルマーレ製薬時代の回想シーン)
    「ナギサさん」となれなれしく呼んでしまい、突然はずかしくなってあやまる箸尾。かまわないとやさしく告げるナギサ。(追加)
    箸尾「じゃあ、いろいろ教えて下さい。」(追加)

    (アンタレス総合病院の鍋島先生に質問の回答を終えた後、オンコロジーチームの営業担当・垣内に挨拶)
    垣内「高度な専門知識は一夜漬けで身につくものではないから、日々の努力を忘れないようにして下さい。お疲れ様でした。」(追加)

    (ゴルフ練習場にて、「瀬川つきあわせてごめん」と言いながらフルスイングするメイ。)
    メイ「このままではナギサさん、前に進めない。もしかしたら余計な事をしているのかもしれないけど」(追加)

    初回放送のままでも特に問題はない。エレベーターの「とろろそば」「とろろ汁」の会話は、以前コンビニで鉢合わせた際に、食べ物の好みが一緒だと意気投合するシーンと呼応しているのかも。ただ、この会話だけだと発展性がない。
    [第8話]
    (メイとナギサの本当の関係を知った田所は改めてメイに気持ちを伝える。)
    田所「相原さんのいつも仕事熱心なところとか、何に対しても負けず嫌いなところとか。家事が苦手でも、そんな自分と向き合って、こうやって効率的に解決できちゃうところかも(好きです)」(追加)

    メイに気持ちを伝えて自室に戻った田所は、ため息をつく。(追加)

    (駒木坂からお菓子をもらって、「クッキー好きなんです」という瀬川に「それはビスケット」と告げる駒木坂。)
    瀬川「一緒じゃないんですか?」
    駒木坂「強いて言えば、クッキーはアメリカで、ビスケットはイギリス生まれ。まあ似たようなもんだけど」(追加)

    (ナギサはメイに来月からの異動の話を伝えようとするが、メイの寝室の荒れようが気になって言い出せず。食事ができたとごまかしてしまう。)
    おいしそうに食べるメイを見ながら、言いづらそうにするナギサ。(追加)

    (水漏れがきっかけで田所の部屋の惨状を目の当たりにするメイ。)
    メイ「こんな生活を続けてたら、体こわしますよ」
    田所「すみません」(追加)
    メイ「いや、私もそうだったので。食べ物だってコンビニとかカップ麺ばっかりじゃないんですか?」(追加)
    メイ(独白)「割と好みがかぶってる」(追加)
    田所「幻滅しましたよね」(追加)
    メイ(独白)「いや、むしろシンパシーっていうか」(追加)

    (アンタレス総合病院にて、鍋島とメイ)
    鍋島「例の患者さん、HAEの確定診断が出たみたいだよ。これでようやく治療が進められるって、患者さんもたいへん喜んでいたそうで、相原さんに相談してよかったです。本当にありがとうございました。」(追加)

     「クッキーとビスケットの違い」の話が個人的には気になる。日本では糖分と脂肪分(の合計)が40%を超えるか否かでクッキーとビスケットを呼び分けているというのも、初回放送版で得られた意外な豆知識だったが、駒木坂の「日本では」という言い方がずっと気になっていた。日本ではそうだとして海外ではどうなのか、と。結局はメトロとチューブのように、アメリカとイギリスとで呼び方が違うけれども同じものを指しているようだ。「世の中には似て非なるものがいっぱいある」という流れから、子宮内膜症ではなくHAEだったという話につながっていくので、日本以外のクッキーとビスケットの話はない方がいいのかもしれない。
    [第9話(最終話)]
    メイとナギサの結婚トライアル2日目の朝、メイがソファで目覚める際のアラームが変更。

    (駒木坂とメイの会話。新病院設立の話から駒木坂の妻の話になり、駒木坂が「かみさんスイーツ」をメイに手渡すシーン。)
    駒木坂「これ、出川くんの分ね。」(追加)
    メイ「瀬川です。」(追加)
    メイ「やったぁ、マドレーヌ。」(追加)
    駒木坂「いや、これフィナンシェ。それね、かみさんが一番怒るやつ。フィナンシェ!って言われちゃうよ。」(追加)

    トライアル3日目の朝のアラームが変更。

    (瀬川、阪本先生の出禁を解決するために肥後先生にアドバイスをもらいに行くシーン。)
    別れ際に、今度は肥後先生から相談を受ける。(追加)
    肥後「マッチングアプリのマッチ率が悪いのは写真のせいだと思う」と言って、瀬川にスマホのカメラで画像を何枚も撮ってもらう。(追加)

     クッキーとビスケットに引き続き「マドレーヌとフィナンシェの違い」の件も面白いので、個人的にはあった方がいい。
    [おじキュン特別編]
    (肥後先生との慰労会。余計な事を言う瀬川に「無」のポーズを再び強要するメイ。そこに田所と薫が来る。驚くメイ。)
    瀬川の「無」のポーズカットに合わせて木魚の音が追加。
    (肥後「私、いまの病院を変わるんです」メイ「えっ」の後)
    再び瀬川の「無」ポーズカットと木魚の音が追加。

    (アンタレス総合病院にて、タブレットを忘れて困ったメイ。)
    「冷静になろう。今から帰ったら間に合わない。鍵を持ってて、ここから近くて、そんな都合のいい人…」(削除)

    (ナギサから箸尾との出会いについて聞くメイ。)
    メイ「前にナギサさん、過去に結婚を考えた人がいたって言ってましたけど。」(削除)
    ナギサ「いや、彼女はそういう対象ではありません。ただ…」(削除)
    メイ「えー。ほんとは好きだったんじゃないですか。」(削除)
    ナギサ「話を続けますね。」(削除)

    メイ(独白)「そっか、私の仕事が忙しくなってナギサさんが変になったのは、そういうことだったのか」(削除)

     「おじキュン特別編」は、結婚後のエピソードを描く事と総集編との2つの目的をもった欲張りな企画だ。新エピソードを追加したせいだろうか、総集編としては非常にカットが多くて、一度見た人にしかつながりがわからない箇所がたくさんある。それなのに、ディレクターズ・カット版ではさらにカットされている。いっそ総集編の役目はあきらめて、結婚後のエピソードをもっとふくらませてくれた方がいいかも。それくらい、新エピソードは楽しい。特に薫と堀のエピソードはもっと見てみたい気がした。
    私の家政夫ナギサさん Blu-ray BOX - 多部未華子, 瀬戸康史, 眞栄田郷敦, 高橋メアリージュン, 宮尾俊太, 平山祐介, 水澤紳吾, 岡部大, 若月佑美, 富田靖子
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    posted by アスラン at 07:23 | 東京 ☀ | Comment(0) | 記憶の映画・ドラマを探して | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2021年06月20日

    ディレクターズ・カット版とは何か?(「恋は続くよどこまでも」の場合)

     ここで取り上げるディレクターズ・カット版とはテレビドラマでの事だ。映画のディレクターズ・カットの意味ははっきりしている。商業映画の世界では、一般的に監督に編集権がないことが多い。脚本に基づいて俳優たちに演技指導をし、カメラマンに撮り方を指示したりはするけれど、ひとたびフィルムに収められたものを映画の形に仕上げる段になると、監督といえども映画会社の意向に沿った編集に甘んじなければならない。これはどんなに名匠といわれるような監督でも経験してきたことのようだ。例えば、あの黒澤明といえども4時間を超える大作「白痴」を会社から削れと言われて「だったら、いっそ縦に削ったらいいだろう」と言ったそうだが、結局は3時間弱にまで削られて上映された。いまでは興行時のオリジナルで観ることの方が難しいだろうが、当時はまだディレクターズ・カットという言葉はなかったので、今入手できる「白痴」のDVDにはディレクターズ・カット版という文言は入っていない(たぶん)。

     しかし、ひとたび言葉が流通しだすと一つの価値を生み出すことになる。今では映画会社の都合で編集されるのは当然のごとくにして、人気が出て再上映されるタイミングで、あるいは時をおいてビデオやDVDが発売されるタイミングで、監督の意図が尊重されたディレクターズ・カット版が世に出回ることは珍しくなくなったように思える。では、テレビドラマのディレクターズ・カット版とはいったい何なのだろう。テレビは映画とは違って尺(放映時間)が決まっている。連続ドラマは通常1時間枠で、そこからCMや隙間を埋めるニュースやミニ情報番組などに尺を取られるので、だいたい50分弱というのが約束事だ。つまり映画が散文であるのに対して、テレビドラマは俳句や短歌のような定型詩であるという事だ。であれば、そもそもテレビドラマのディレクターズ・カット版などは生まれてこないはずで、昭和の時代には存在しなかったし、映画にディレクターズ・カット版が登場してからもテレビドラマにはつい最近までディレクターズ・カット版はなかったはずだ。

     おそらくは、インターネットで動画配信サービスが普及したために、既存のテレビ局が生き残りをかけて各サービスと提携するようになった事がディレクターズ・カット版を生み出す土壌となったのだろう。いまやドラマの終わりに、見たばかりのドラマをもう一度見たい場合や遡って最初から見たい場合に動画配信サービスをオススメするメッセージが流れるのが普通になっている。そこで登場するのがディレクターズ・カット版で、「もう一度」「最初から」どころか、未公開シーンを含む新しい編集のドラマを見に来てほしいと視聴者を誘っている。これは動作配信サービスの会員特典ともいうべきそそられるおまけで、どうやらDVD化されてもディレクターズ・カット版は発売されないようだ。少なくとも僕が関心を持ったドラマではディレクターズ・カット版は発売されていない。定額の動画配信サービスに加入する余裕はない僕にとっては、ディレクターズ・カット版の正体を知る機会はなかなか訪れなかった。

     そもそもなんでこんな話をしてるかと言うと、コロナ禍の定番で在宅勤務が続き、自宅にいて普通にテレビを見ることが多くなった事から話は始まっている。一回目の緊急事態宣言でテレビドラマの撮影がおこなえず、各TV局は苦肉の策で過去の人気ドラマを、撮影ができない新番組の穴埋めとして放映した。「恋は続くよどこまでも」も、後続のドラマ「私の家政夫ナギサさん」のスタートを遅らせるために「胸キュン!ダイジェスト」と題して本放送に続いて再放送された。1〜7話までをダイジェストにして、その後は8〜10各話を特別編として放送された。正直、特別編の意味はわからなかったが、その頃には本放送の「胸キュン」場面が話題になるほどの人気ドラマだった事は知っていた。実は初回の放送分も録画はしてあったので、引き続きダイジェストも録画する形になったが、その時にはまだ一本も見ていない。その後レコーダーのディスク容量が逼迫したので、初回分、ダイジェストともどもブルーレイに落とした。どうせ保存版にはしないだろうからと、CM位置の修正や除去もしないでまるごとブルーレイにダビングした。のちに非常に後悔することになった。緊急事態宣言下での在宅勤務のストレスを癒すために、繰り返し繰り返し見ることになったからだ。

     ダイジェスト版の冒頭は、上白石萌音扮する佐倉七瀬のナレーションに合わせて胸キュン場面がまとめられた導入部が付け加えられていた。僕のように緊急事態宣言下で初めて見る人にもとっつきやすいように導入部が特別に用意されていたのだ。もうすでに記憶が曖昧なのだが、おそらくは「胸キュン!ダイジェスト」の初回(第1〜7話のダイジェスト)から見始めて遅ればせながらドハマりして、ならばと初回放送分を第1話から見直したのだと思う。その後、ダイジェスト版の後半(第8〜10話の特別編)も見た。その後の2ヶ月くらいは毎日のように初回放送分、ダイジェスト&特別編の順でヘビーローテーションを続けた。たぶん、短期間に日本一繰り返し見ていたのではないかと思うほど、見ていた。そのせいで第8〜10話については初回放送と特別編とでは違いがあることに気づいていた。なので、この特別編こそがディレクターズ・カット版なのだろうと思った。その後年末にディレクターズ・カット版が放映されたので、今度はきちんとCMを除去した本編をブルーレイに落とし、さらに今年に入ってCSのTBSチャンネル1で放映された初回放送分を本編のみに編集後、ブルーレイに落とした。

     このディレクターズ・カット版と初回放送分をさらに繰り返し見てわかったのは、特別編はほとんどディレクターズ・カット版だが、完全に一致してるわけではないという事だ。さらにディレクターズ・カット版と言っているが、おそらく第9話を除いて初回放送分と差分はない。確証はないが、初回放送、ディレクターズ・カット版を再び繰り返し見た印象では、第9話以外に差分からくる違和感は感じられなかった。そして第9話について初回放送、特別編、ディレクターズ・カット版を比較したところ、特別編とディレクターズ・カット版は完全に一致した。以下、第9話の差分を見ていこう。

     第9話とは、魔王・天堂浬(かいり)の窮地を救うために身を引いて故郷・鹿児島に戻った七瀬を追って、天堂が連れ戻しにやってくる回だ。冒頭のバックハグに続いて七瀬の実家での会食のシーンに移り、七瀬の母から「どんなふうに告白されたの?」と詰め寄られ、天堂がどう答えたものか困る。
    (初回放送)
    天堂が戸惑っていると、七瀬の恋人を一目見ようと近所の女性陣たちが大挙して押し寄せる。大騒ぎの中、七瀬が天堂に「先生に好きって言ってもらったことないです」と訴えると、天堂が「はぁ?」とあきれはてた返答を返してタイトルコール。
    (特別編&ディレクターズ・カット)
    天堂の戸惑う顔のアップでタイトルコール。
    変わって日浦総合病院の循環器内科ナースセンター。医師・来生(きすぎ)と看護師・酒井とが視線を合わせ、ギクシャクする。前回、「しばらくはみんな佐倉ちゃんロスだな」という来生に「私では佐倉さんの代わりは無理ですか」「来生先生のロスを埋めたいです」と告白してしまった酒井は、ナースセンターで来生の前でうろたえて手元の書類を床に落としてしまう。

     続いて、小石川先生と天堂の姉・流子とが病院のロビーのテーブルで話しているシーン。
     代わって七瀬の実家。銭湯近くのおでんの屋台で、天堂と七瀬の父とが七瀬の事を話題に酒を酌み交わす。銭湯から出てきた七瀬は天堂と家路に向かう途中で、故郷で再就職した医院に立ち寄る。その後、実家に戻ると、母の画策で天堂と一つの部屋・一つの布団で寝る羽目になり、天堂から「俺は畳で寝るから、布団はお前が使え」と言われた七瀬は「ここがいいです」と後ろから寄り添う。
    (特別編&ディレクターズ・カット版)
    翌朝、バス停のシーン。お土産を手渡しにやってきた母と兄の姿を見つけ、迎えに行く七瀬。残された天堂と七瀬の父との会話。「あんな娘ですがよろしくお願いします。」と父。「彼女は純粋でまっすぐで、そのパワーに驚かされてばっかりです。僕にはもったいない人です。」と本心を伝える天堂。

     日浦総合病院循環器内科ナースセンターのミーティング。戻ってきた七瀬がみんなにお詫びを言うが、何事もなかったかのように「ミーティングを始めます」と無視される。その後「なんてね」「戻ってきてくれてよかった」とみんなが笑顔で七瀬を温かく受け入れる。
     続いて天堂と来生との会話。「佐倉ちゃんに好きって言った。でも、すぐに振られたけど」「そういうとこ、ほんと、お前はまっすぐだな」
     外来に末期のすい臓がんの男性・菅原がやってきて、最後に妻と日本一周をしたいからアブレーションしてくれと頼む。天堂は「やりましょう」と快諾する。
    (初回放送)
    病院の廊下を歩く天堂を追って、心臓外科医師・若林みおりが声を掛ける。「私、やっぱりまだ先生の事が好きです」と再度告白するが、天堂から「あなたが見ているのは僕ではなく、お姉さんではないでしょうか。早く自由になった方がいい」と言われてしまう。

     以上が第9話の差分のすべてだ。これでわかるのは、バス停での天堂の「僕にはもったいない人です」と言うシーンを採用すべきかどうかという点が、ディレクターの関心事であるという事だ。実は初回放送の第8話では予告に「僕にはもったいない人です」という部分が使われている。にも関わらず第9話には使われなかったのは、残すか残さないかを最後まで迷ったということではないだろうか。

     特別編&ディレクターズ・カット版では、みおりの再告白シーンと天秤にかけてバス停シーンを選んでいる。ただし、これまで七瀬の前ではツンデレで通してきた天堂が素直な気持ちを告白するこのシーンは、かなり唐突な感じがする。前の回で、恋敵として振り回された上条に「あなたはアイツの良さにいち早く気づいたじゃないですか。僕は気づくまでに時間がかかりました」と話すシーンがあったが、さらに踏み込んで「僕にはもったいない」とまで天堂に言わせるまでに至るバス停シーンは、ある意味全編を通して衝撃的とも言える。

     結局、バス停シーンは初回放送ではカットされ、実家で七瀬が「先生に好きって言ってもらったことないです」と訴えるシーンと、みおりの再告白シーンが残った。第9話の最後で、事故で3日間昏睡状態だった七瀬にようやく「お前が好きだ」と天堂が告白する事を考えると、冒頭の七瀬の「好きと言ってもらったことない」という一言がいわばエンディングを引き立たせる隠し味になっている事がわかる。また、最終話のうなぎ屋のシーンで、みおりは「佐倉さんに謝らないといけない」と言って、姉であり天堂の元カノであるみのりの残した日記の最後の言葉を伝え、「姉の望みを叶えてくれてありがとう」と佐倉に感謝する。みおりの再告白シーンがないと、ここにうまく着地しない感じがする。そういう意味では、初回放送の編集はベストな選択だったと言える。ただし、初回放送とディレクターズ・カット版とを両方とも見てしまった今となっては、初回放送だけを見つづけるとバス停シーンがないのが物足りなくなってしまう。できれば完全版と称して初回放送にバス停シーンを付け加えたバージョンを作ってくれないだろうか。

     これは蛇足だが、特別編とディレクターズ・カット版とで僕が気づいた差分は、たった一箇所だ。第7話で天堂が上条に暴力を振るったと訴えられ「ありえない」と否定する七瀬に、看護師の沼津が上条が自分で自分の肩を打ってアザをつけたと推理して「謎はすべて解けた」ときどる。その後に特別編のみ、主任の根岸の「なぜ名探偵風?」という一言が入る。
    「恋はつづくよどこまでも」DVD-BOX - 上白石萌音, 佐藤健
    「恋はつづくよどこまでも」DVD-BOX - 上白石萌音, 佐藤健
    posted by アスラン at 08:05 | 東京 ☀ | Comment(0) | 記憶の映画・ドラマを探して | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2021年01月15日

    藍色夏恋 (2001年台湾・フランス)

     「japanぐる〜ヴ」が昨年末の12/26日をもって最終回。毎回熱心に見ていたわけでもないが、音楽や映画の最新情報などがコンパクトにまとまっていて、グルメとかショッピングとか観光などの要素がなく、今どきの情報番組としては希少価値が高かった。ぴあのような情報誌を愛読していた世代にとっては非常に懐かしい構成だ。その中で、松崎健夫・添野知生両氏による映画紹介は、映画館通いが遠のいて久しい僕にとっての楽しみの一つだった。後番組はアジアを中心とした情報番組になるようだし、サイトを見るとグルメの要素も入ってくるみたいなので、もういいかなという気がしてる。

     唐突に番組が終了してしまったようだが、コロナ禍でコンサートや映画なども一部公開が延期されてきた事もあって、なかなか最新情報を届けにくいという事情も絡んでいるのかもしれない。ただし、最近は映画のコーナーが最新映画紹介だけでなく、映画評論家のお二人に番組ナレーションの芝崎典子さんを加えた三人によるオススメ映画の紹介枠が増えたりして、映画好きにとってはコロナ禍が幸いした番組構成になっていただけに、番組終了は非常に残念だ。最終回の「今こそ観るべき特選映画」では、「自転車が印象的な作品」をテーマに三人が映画を紹介した。芝崎さんのオススメは、ロバート・ベントン監督の「クレイマー・クレイマー」。いわずとしれた1979年の名作で、ダスティン・ホフマン扮する夫と、家を出て行った妻のメリル・ストリープとの間で子供の親権を争う映画だ。家庭を顧みなかったホフマンが息子と心を通わせながら、父親である事の幸せを心から実感する場面が、公園で息子と自転車の練習をするシーンだ。

     自転車というのは映画にとって欠くことのできない小道具だ。言葉はなくても、時としてきわめてエモーショナルな映像を僕らに見せてくれる。松崎さんオススメの「藍色夏恋」は、そういう映画のにおいがした。久しぶりに借りてでも見たくなった。あいにく立川駅前のTSUTAYAでは在庫がなく、取り寄せになった。主演のグイ・ルンメイは当時17才で、この作品がデビュー作。友人や相手役も含めてみんなまだ素人で、イー・ツーイェン監督が街でスカウトして配役したそうだ。監督のインタビューでは、最近の台湾映画(2001年当時)は「重くて古くて低迷している」ので、何気ない普通の高校生が登場する軽やかな映画にしようと思ったと語っていた。

     ルンメイ扮するモン・クーロウは、高校の友人から「自分の夫になる」という妄想の相手を教えられて、下校時に自転車で彼の自転車を追いかける。そのシーンが松崎さんオススメの「自転車が印象的な映画」の由縁なのだが、男子の柄物のシャツが風ではためきながら、軽やかに前を行くのを必死に追いかける。モンが必死なのは、一番大事にしている友人が「夫にしたい」というその男子学生に嫉妬しているからだが、男の方はモンが自分に気があるのだと勘違いしてしまう。しかも、友人が男子に渡してくれと頼んだ手紙には、何故かモンの名前が書かれていて、話がなおさらややこしくなっていく。少しチャラそうに見えた男の子は実はとっても誠実で、モンに対して一途に「つきあってくれ」と言ってくるに及んで、モンも次第に惹かれていく。でも、失恋した友人の手前、彼を選ぶ事はできず、最後に突き放す。そして、エンディングにもう一度、冒頭のように彼の後ろ姿を自転車で追いかけるシーンが出てくる。今度は一度目とはまったく違うまなざしが感じられる映像になっている。

     イー・ツーイェン監督のインタビューにあった「重くて古くさい」という既存の台湾映画が何を指すのかはわからないが、この何気ない風景と人物描写を見てすぐに侯 孝賢(ホウ・シャオシェン)の初期の映画を思い出した。「恋恋風塵(1987年)」の二人が、1960年代当時の重苦しい時代背景から抜け出て現代に生きれば、この「藍色夏恋」になるのだろうか。侯 孝賢は1980年代に起こった台湾ニューシネマを担った一人と言われたが、この時期の日本映画ではATG映画として相米慎二監督が「台風クラブ(1985年)」を撮っている。テーマはまったく違うにもかかわらず、ざらついた粒子の夜のシーンなどでの登場人物のリアルな描写が、妙に「台風クラブ」と共通しているように感じられた。

     さらに驚いた事には、ヒロインの恋ごころのゆれ動きがエンディングでモノローグとなって表現されるシーンは、大森一樹監督の「恋する女たち(1986年)」を思わせた。斉藤由貴扮する多佳子は、姉が好きな人をあきらめて実家の旅館を継いだり、友人が優柔不断な年上の男に振り回されたりしたことで、人生の苦さの一端に触れる。さらには片想いの沓掛勝と恋人との愁嘆場に出くわして、通過儀礼としての初恋の終わりを経験した後、多佳子の前向きなモノローグで映画は終わる。もちろん、コメディタッチの青春映画「恋する女たち」と「藍色夏恋」とは雰囲気はまったく違うが、悲しみに暮れたモンが数年後の彼と自分との姿を思うモノローグには、「恋する女たち」同様、ほろ苦さの中に未来の輝きのようなものが感じられた。

    posted by アスラン at 02:10 | 東京 ☁ | Comment(0) | 記憶の映画・ドラマを探して | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2020年12月25日

    文学処女(tvk) (2020/5/28〜2020/7/16)

     緑線社の新人編集者・月白鹿子は、担当になった人気作家・加賀屋朔を『せんせい』と呼ぶ。『せんせえ』ではなく『せんせい』と。これが意図した演出なのか、月白役の森川葵が元々「先生」を『せんせい』と発声する人なのか、本当のところはよくわからない。ただし、加賀屋に向けて「先生」と呼びかける時のみ『せんせい』と発声し、それ以外の「先生は…」とか「先生が…」というときには『せんせえ』と言っているように聞こえるので、やはり演出上の効果を狙っているのかもしれない(正確には、演出家が狙わせているというべきか)。では、演出上の効果とは果たしてなんだろう。

     現代仮名遣いに慣れ親しんだ世代にとって、エ段の音を伸ばす場合に「い」を添えて書くのは当然のことだ。仮名遣いとは何かといえば、現実に発声している音に対して、どの仮名を用いるのか(遣うのか)の方針を決めたものだ。わかりやすい例で言えば、『わたしわゆうえんちえいきます』と発声しても「私は遊園地へ行きます」のように、「は」「へ」を文字単体の発音とは違う発声に割り当てている。日本語には元々長音記号「ー」を用いる習慣がないので、「あ」を伸ばす場合は「ああ」、「い」を伸ばす場合は「いい」というように、元の文字と同じ母音を添えて書く。それ以外に、エ段の音(け,せ,て,ね,へ,め,れ)を伸ばす場合は「い」、オ段の音(こ,そ,と,の,ほ,も,よ,ろ)を伸ばす場合は「う」をそれぞれ添えるというのもお約束になっている。だから「せんせえ」ではなく「せんせい」と書く決まりになっている。

     しかし、決まりとはやっかいなもので、決まりで書いた「せい」が果たして『せえ』という発音なのか『せい』という発音なのか区別がつかなくなる。たとえば海にいる「エイ」は『ええ』とは発音せず『えい』と発音する。同様に「春めいて」や「まねいて」も『はるめえて』とか『まねえて』とは発音しないだろう。何故、こんな事になるかについては詳しくは言わないが、現代仮名遣いに歴史的仮名遣いの一部が「慣習」という名の下に残されてしまったからだ。そのため、エ段の長音は「え」を添える以外に「い」を添える用法も認めている。つまりはダブルスタンダードという事だ。「え」を添える用法では「おねえさん」の「ねえ」のように発音に迷う事はないが、「せんせい」の「せい」は『せえ』なのか『せい』なのか見た目からは区別が付かない。だから人によって発音の仕方が違うという事が起こりうる。

     また、「NHK編 日本語発音アクセント辞典」によると、共通語では「英語・警察・先生」などは『ええご・けえさつ・せんせえ』と発音する方が普通だと書かれているようだ。『えいご・けいさつ・せんせい』の発音が優勢な地域は,「九州をはじめ四国・紀伊半島などの過半や伊豆の利島などである」とも書かれている。森川葵は愛知県出身だそうだから、『せんせい』が優勢な地域とも言えない。それに今や、これらの地域でも共通語の発音に合流しつつあるそうだ。だとすると、冒頭に戻って「月白鹿子は何故、先生を『せんせい』と呼ぶか」を、もう一度考えてみなければなるまい。

     「先生」を『せんせい』と意識的に発音したとして、その意図は何かと言えば、やはり相手に対して敬意をもって丁寧な言葉使いで接しようという心遣いが感じられる。もしかしたら敬意が過ぎて、かしこまっているのかもしれない。『せんせえ』という発音は、語尾の伸ばし方によっては、媚びを売っているようにも、必要以上に甘えているようにも聞こえてしまう。そんな月白鹿子の心の声が「先生」の呼び方に表れてしまっているのかもしれない。

     月白鹿子は、「女の初恋は、小説の登場人物だった」というとおりの彼氏いない歴26年の文学処女だった。その小説とは、担当作家の加賀屋朔が書いたデビュー作「花冷えの刻」である。加賀屋朔唯一の恋愛小説にして、唯一書籍化していないといういわく付きの小説は、彼の屈折した人生をまるごと文章に吐き出した自伝的小説である事が、次第にわかってくる。わかってみれば、加賀屋朔の目の前で「花冷えの刻」の主人公に初恋をしたと告白した鹿子は、奇しくも本人に愛の告白をしたも同然であることに、その時はまだ気づいていない。 

     この、一見して少女漫画的なシチュエーションを支えているのは、文学にひたすらのめり込んで26年間を生きてきた文学青年ならぬ”文学処女"のいじらしさを描ききった脚本の力だと思う。それは、過去を引きずって自らの殻に閉じこもる加賀屋と、編集者として女として彼を愛して殻を壊そうとする鹿子との、ドキドキするような展開の描写に表れているのはもちろんだが、それ以上に、入社当時から鹿子に思いを寄せる同期の望月とのぎこちない会話にこそ、よく表れている。新人研修打ち上げの帰り道で望月は、名前もろくに覚えていない鹿子から、読んでもない本の感想を酒の席で求められて適当に話を合わせていた事をたしなめられる。「編集部配属ならば読んだ方がいい」と言う鹿子に対して、「営業部志望だったので、どうしたものかと」と甘えた事を言う望月に、鹿子はつかえたものをはき出すように「私は編集部志望だった、お小遣いは好きな本を買うのに費やしてきた、初恋の相手は小説の登場人物だった」とまで言い切った後、我に返って「いい本を作ってください」と言って去って行く。その一途な気持ちに不意打ちされた望月は「オススメの本があったら教えて」と鹿子に呼びかける。それまでの固い表情を崩して満面の笑顔で「ハイ」と答える月白鹿子に、望月は一瞬で恋に落ちてしまう。

     その後も、加賀屋と鹿子との距離がどんどん縮まって行くことにやきもきしながら「隙があったらいつでも(加賀屋から)奪い返すから」と、精一杯迫る場面を経て、加賀屋から振られて酔いつぶれた鹿子を自宅まで送って、送り狼になろうとして踏みとどまる望月と鹿子の会話が、せつない。

    「おれ、月白の事が好きだよ」「うん」「好きだから、できない」「うん」

     望月の気持ちに応える事はできない鹿子は、「うん」とうなずき返す事で望月の気持ちを精一杯受け止める。30分×8回の尺しかないのに、十分に見応えのするドラマになっている。

     原作のマンガは読んでないので、正直どの程度原作の内容がドラマに反映されているのかわからないが、短い枠の中で登場人物のエピソードもうまくほのめかされている。たとえば、大学時代からの腐れ縁で加賀屋をまるで恋人のように支える有明光稀と三島編集長との関係も、バーで「光稀、おまえは大丈夫なのか」と言う三島の一言と、帰って行く三島の後ろ姿に「ずるい」と独白する光稀の一言をすれ違わせるだけで、あとは観ている側の想像にゆだねられている。

     また、「文学処女」というタイトルの割には文学らしい小道具が多くは盛り込まれていないのだが、加賀屋から「デートで行きたい場所を決めておいて」と言われた鹿子の用意した候補が「道後温泉、旧天城トンネル、雑司ヶ谷霊園」の3つで、夏目漱石ゆかりの場所が2つも含まれている事に漱石ファンなら思わずほほえんでしまう。それだけではない。回想シーンで加賀屋と天村千夜香が夜に縁側で線香花火をするシーンで「見て、月が綺麗」と言う千夜香の言葉は、漱石が教師時代に「I love you」を「月が綺麗ですね」と翻訳したという逸話と呼応しているのは間違いない。さらに、鹿子が加賀屋に別れを告げるシーンでは、悲しみを紛らすように「三島由紀夫も初恋はうまくいかない方がいいと言っている」と、妙なたとえ話を持ち出して加賀屋を苦笑させる。

     「文学」というキーワードに引き寄せられてたまたま録画しておいたドラマだったが、お得な映画を一本観たような気分になった。「やるじゃん、tvk」と思ったが、なんだ元はTBSのドラマか。さすがです。それにしても2年前に放映されたものだったとは。



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    posted by アスラン at 07:07 | 東京 ☀ | Comment(0) | 記憶の映画・ドラマを探して | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2020年12月02日

    TENET テネット(2020年10月XX日 立川シネマ・ツー)

     なかなか説明が難しい映画だ。正直、20年近くは映画鑑賞のブランクがあるので、クリストファー・ノーランがどんな監督なのか予断はない。ただ、CS放送のザ・シネマで本作公開記念として、ノーラン監督の特集が組まれていて、かなり斬新な映像表現を好む監督である事はわかっていた。今回の時間軸が逆行するという設定も、すでに「メメント」という映画で一度取り組んでいるようだから、ミステリーのように時間の流れはそのままに謎を解き明かすのではなく、SF的手法で主人公とともに観客を謎が発生した0地点へと誘う演出には、並々ならぬ監督のこだわりがあるように感じられた。

     ただし、僕が本作を見る前に想像していたのとは時間軸の逆行(逆転)の演出方法が違っていた事は、最初に言っておかねばならない。たとえば、「バック・トゥー・ザ・フューチャー」に代表されるタイムトラベル物は、SFの設定でありながら謎解きは時間軸に沿って行われる。単に、過去や未来に時間を一気に跳躍するだけで、そこから先の主人公の視点はミステリーの手法となんら変わるところはない。だが、徐々に現在から過去に時間を逆行していくのであれば、それはタイムトラベルともミステリーとも違う新たな表現になるだろう。でも、どうやって?録画したものを逆再生したところで、ストーリーがつながるものだろうか?

     でも、そんな心配も杞憂だった。ほぼ、主人公は時間を逆にさかのぼる事はない。ただ時間が逆転していくところを目撃するだけだ。それはまず、映画の導入部からしてそうだ。コンサートホールでオーケストラによる演奏が始まろうとしていると、突然テロリストが乱入してきて、何千人という観客が人質となる。特殊部隊がテロリストを鎮圧すべく動員されるが、その中の一人の男がテロリストから仲間を助けようと身を挺して捕らわれてしまう。この導入で、主人公は不思議な事象を目撃する。座席周りの銃弾の跡が音と破片とともに消えていくというシーンだ。実は今記憶をたどって書いているが、あれよあれよという展開を追いかけるのが精一杯で、何が起きていたのかはっきりとは把握できなかった。

     だが、この手の映画のセオリーからして、きっと謎解きとして冒頭のシーンに戻ると思っていたので、いずれわかるだろうと油断していた。途中で、テロリストが乱入する前のコンサートホール周辺で、ある重要な人物に主人公が会いに行くシーンは挿入されるが、ついに冒頭の振り返りはなかった。なかなか手強い。いや、手強いというより、優しくない監督だ。

     主人公は、時間を逆行させる装置が未来から現在へと送り込まれている事実を知らされ、第三次世界大戦を防ぐために未来から装置を手に入れようとしている敵から装置を奪い返すミッションを託される。時間を逆行させる装置の働きを示すシーンが特徴的なのだが、装置に影響を受けた拳銃を的に向けて撃つと、的に埋まった銃弾が細かな破片とともに拳銃に収まる。この不思議な光景は何を意味するか?拳銃を撃つという行為は現実の時間軸に沿うのにもかかわらず、拳銃の周囲では時間軸の逆転が起こるという事だ。通常は時間の0地点から順方向の時間と逆方向の時間は交わることはなく、どんどん離れていくはずだ。でも、この装置では「挟み撃ち」が可能だ。

     つまり主人公が10分後に目撃するのは、装置に影響を受けた物や場所や空間の10分前の状況なのだ。だからか。ようやく、いま書きながら理解したのだが、映画のクライマックスで、現代にちりぢりに隠された装置の部品を集めて未来へと送ろうとする敵の行為を阻止するために、主人公たちの部隊が二班に分かれて、一方がそのまま敵にせまり、もう一方が時間を逆行して敵にせまるシーンの意味だ。あのとき、挟み撃ちをするためには、時間を逆行する部隊は、時間をずらして未来から逆行しなければ挟み撃ちできないと思ったのだが、どうやら、そうではなかったようだ。考えれば考えるほど、実にパラドックス的な状況に陥るが、これ以上考えても仕方ない。

     重要なのは映像的に面白いのかという点だ。空港に併設された秘密の商取引用の倉庫に侵入する主人公たちが遭遇する状況が、後に主人公に逆回転で目撃される事になるシーンは、スリリングでなかなかの見せ場だ。例のCMでよく使われたカーチェイスのシーンもそれなりに面白い。だが、肝心のクライマックスシーンでは2部隊の挟み撃ちの演出が、あまりうまくいっていない。2部隊が入り乱れた状態ではどちらがどちらなのか判然としないのだ。その部分がわだかまっていたせいだろうか。真のエンディングはきわめてクールな演出で、かつ、意外な内容であったにも関わらず、「ノーラン監督、よくぞやってくれました」と快哉を叫ぶところまではいかなかった。

    posted by アスラン at 01:20 | 東京 ☁ | Comment(0) | 記憶の映画・ドラマを探して | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

    2020年11月02日

    空に住む(2020年11月1日 立川シネマシティ)

     久しぶりに独身時代に戻って、一人でレイトショーの映画を見にいった。

     バランスが悪い…。

     見終わって、いや、すでに見終わる前からそんな言葉が頭に浮かんでいた。

     ヒロインの直美は交通事故で両親を亡くしたばかりで、高級マンションの高層階の一室に移り住むところから、映画ははじまる。この一室は、叔父夫婦が投資名目で買ったもので、叔父たちも別の階に住んでいる。直美の孤独は、元の住まいから連れてきた人見知りの猫にしか本心を話せないところからも見てとれる。世話好きの叔母に「両親の死に泣けなかった」と告白するも逆に慰められる事で、直美はますます孤独を深めることになる。もちろん、なぜ両親の死に涙すら流せなかったのかは終盤まで伏せられていくので、僕たち観客が感情移入しにくいことは確かだが、いびつな近親関係を余儀なくされる人生があることもまたありうべき事であるから、理解不能なままに主人公の孤独に寄り添うことができるのが映画であることも、また確かだ。

     そんな彼女がふとしたことから、同じマンションに住む人気若手俳優の森戸と出会い、かりそめの関係に堕ちていく。森戸は人間関係に地獄を見てきたので、直美の「泣けなかった負い目」を一蹴してしまうような人生観の持ち主だった。「人間関係なんてそんなもの」と言い切る森戸に、直美はいっそう引き付けられていく。

     直美の職場は一風変わった小さな出版社で、変わった社長の日本家屋の広間が職場。賞をとったばかりの小飼の作家・吉田は、大事な次回作を書き下ろしで出したいと主張し、連載で慎重に売っていこうとする社長の意向と対立している。今の担当は直美の後輩で、妊娠中の彼女は結婚を控えている。しかも、おなかにいるのは吉田の子供だと直美にだけ告白する。直美は吉田の今後を心配して担当を戻してもらうように編集長にお願いするが、編集長は吉田の意向どおり書き下ろしで出版する代わりに、雑誌が確実に売れるための企画を考えろと直美にせまる。

     この思わせ振りな設定と心象風景を抱えただけの登場人物たちが、パッチワークのように貼り合わされていくだけで、物語は進行していく。どうやら監督には、人物像や一人一人が抱える現実を立体的に映像化することには関心がないようだ。監督は青山真治。「EURIKA ユリイカ」で一躍有名になったと記憶しているが、僕の映画鑑賞は2000年には終わってしまったので、おそらく作品を一本も観ていない。このいびつな人間たちが孤独をすりあわせることなくすれ違っていくのが、青山ワールドなのだろうか。「思わせ振り」といってしまったが、それは僕の嫌いなカメオ出演にも表れている。柄本明扮するコンシェルジュや、作家・吉田を演じた大森南朋、死んだ猫の葬儀を執り行う永瀬正敏などなど。そうそうたる俳優陣が、やはりパッチワークの一片としての役割に終始している。

     直美は、最後の猫の葬儀のシーンで永瀬から「交わらない平行線であっても、宇宙ではいつか交わる」という相対性理論の時空間のメタファらしき言葉に慰められて、初めて人前で泣く事ができた。直美を演じた多部未華子は、本番では号泣する予定だったが、軽めに泣いたカメラテストのテイクが採用されてしまって今も戸惑っていると、パンフレットのインタビューで素直に告白していた。一方、青山監督の方は別のインタビューであれくらいの穏やかさが好みだったと話している。その掛け違いが如実に映像にも出ていたように思う。つまり、監督としては、最後まで観客には過剰な感情移入をしてほしくないし、直美とともに号泣もしてほしくないということだろう。

     ちなみに「バランスが悪い」と僕が言ったのは、この部分ではない。ここまでは、一人間として「泣きたいときには泣きます」と言う多部さんと同類の一観客の居心地の悪さはあっても、バランスが悪いとまでは言わない。エンドロールに突然「空が住む」のタイトルが出て、三代目J SOUL BROTHERSの歌が流れるというのは、角川商法以降のお約束ではあっても、青山ワールドの絵面には合わないのではないだろうか。少なくとも初の青山作品に期待していた自分には、「バランスが悪い」としか思えなかった。原作者が作詞家であり、そのせいで配役にもエンディング曲にもエンドロールにも紐がついたのだとすると、大変に残念だ。

    posted by アスラン at 03:10 | 東京 ☁ | Comment(0) | 記憶の映画・ドラマを探して | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする