2008年06月09日

小説の読み書き 佐藤正午(2008/5/20読了、再読)(その1)

 佐藤正午は文章の達人だ。これは「アンダーリポート」の書評で書いた出だしだ。それを実感できる本が本書だ。この本では、著者が「好ましい」と思っている、日本文学史に名を残す文豪たちの文章を取り上げて、著者なりの文章論が展開される。そこに実は、一人ひとりの作家の書いた小説の味わい方が見えてくるのではなくて、「小説家の書き方」が見えてくる。しかも著者は読者としては愛着のある作家の作品を、一同業者の立場からてごころを加えることなくズケズケと添削し、批評を加える。おのおのの作家の愛読者からは、雑誌連載中に批判的な投書が結構あったようだ。

 しかし、そんな読み方は本書の真のモチーフを読み損なっている。本書は「小説家の書き方」を分析しているけれども、分析する側の、つまりは佐藤正午の「小説の書き方」をも鏡のように映し出す趣向になっている。なによりもおもしろいのは、著者が小説についてどう考えて書いてきたのかという創作方法やモットーが透けてみえてくるところなのだ。そこを読まずに「文豪の作品をとやかく言うなんて不遜な奴だ」とケチをつけるなんてそれこそ無粋だろう。

 著者は最初に川端康成の「雪国」を取り上げる。そして「よく分からない」と書く。30年前に読んで、今また読んで、同じようによく分からない。その理由としては、「ひとことで言えば温泉地を舞台にした三十男と二十前後の女の恋愛小説」にも関わらず、川端が著者を納得させるような男女関係を描いてないことにある。

 三十男の島村は「無為徒食で、酒を飲まず、小太りで、妻子持ち」と描かれる。どうにも分からない。「このうち一枚でもカードが切られていなければ、少しは分かりよい」と考える著者の言い分は、もちろん読者の感想というより一同業者としての感想だ。なぜ川端はそう書いたのか。その裏には僕ならそうは書かないという、作家・佐藤正午の小説に対する方法論が隠されている。

 作品はよく分からないが文章は解読できると、著者は有名な出だしである「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。」を分析してみせる。そして「夜の底」は隠喩であり「地面が白くなった。」でも構わないと書く。ただし川端は「夜の底」と書いた。そこに理由はない。小説というのはそういうものだからだと著者は言う。川端だけでなくほとんどの作家が、他の様々な候補から最終的に一つの言葉を選びとって小説を書いていく。「書かれた小説とはじゅうぶんに書き直された小説である」というのが、著者自身の経験や信条からくる断定だ。

 しかし一筋縄ではいかないのが作家の不思議で、そういう断定と無縁な作家もいる。著者の断定をくつがえす例外として志賀直哉が取り上げられる。「ぱっとひらめいて、さらさらっと書いて、おしまい、ということはあり得ない。あり得ないのだが、そのあり得ないことをひょっとしたら志賀直哉はやってのけているのではないか」と著者は指摘する。例としてあげるのは次のような文章だ。

 彼はまた、反対側の書院の方へも行って見たが、荒れかたが甚だしく、周囲四、五町、人家のない森の中の淋しい所ではあるが、住めれば住んでみてもいいような気で、見に来たが、その事は断念した。


 これに「一般の小説家ならゆうべは飲みすぎたなと反省して全体をいじると思う」と批評を加えている。これを手厳しいこと言うなぁと思ってはいけない。そんなことを言ったら「雪国」の回では、「(読者は)玄人好みの、大人の小説とほめるか、モザイクのかかったAVみたいな小説とけなすか」だと、あえて物議を醸す書き方をしている。もちろん、ここは笑うところだ。志賀直哉の作品には「エクボがあり、おかしみがある」と指摘しているように、著者自身も解説に「おかしみ」を込めながら作品や作家をあげつらっているのだ。

 そして佐藤正午をこよなく愛する読者がいるとするならば(もちろん、ここに一人いることをさっそくながら表明しておくが)、読み落としてはいけないのが森鴎外の「雁」の回だ。ここに著者の小説の方法論のエッセンスが、著者自身の言葉で生々しく語られるからだ。しかも著者らしく「おかしみ」を込めた文章から始まる。キーワードは「サバの味噌煮」だ。

 著者は30年間ずっと「雁」という小説を気にかけてきた。少なくとも1年に一度ぐらい。それは一年に一度か二度、サバの味噌煮を食べるからだ。その都度思い出すのは、小説の語り手である「僕」がサバの味噌煮が嫌いだったからだ。そして「僕」のサバの味噌煮嫌いのせいで、主人公の岡田とお玉という男女の運命が大きく変わっていく。「雁」が皮肉な主題から発想して書かれた小説だと言うことが、著者の30年間絶えることのない関心だった。

 つまり僕は「雁」を小説ではなく小説の書き方の練習問題であるかのように記憶してきたのだ。

 僕は「アンダーリポート」を読んだとき、あるいはそれ以前の著者の小説を読んだとき、実験的にだれか有名な作家の文体に倣って文章を書いているのではないかと感じた。それは意識的ではないにしろ、川端なら、志賀なら、鴎外なら、こう書くかもしれないが、「僕ならこう書く」と考えあぐねた挙げ句に著者が選び取った表現だからかもしれない。著者の「じゅうぶんに書き直された小説」が抹消してきた幾多の表現が、痕跡を消しきれずに読者に訴えかけてくるのだ。

 そして、それが決して僕の思いこみでないことは、「雁」を「小説の書き方の練習問題」と見なしただけで終わらずに、具体的な解答を与えたことからも分かるだろう。「サバの味噌煮」の「おかしみ」に笑わされていたはずなのに、一瞬で僕ら読者を真顔にさせてしまう。そして次の瞬間にフフフと含み笑いをしてしまう。そういう作家なのだ、佐藤正午は。

 それは一本の雨傘を電車に置き忘れたせいで人の運命が変わってしまうという小説であり、また一個のリンゴをほしがったせいで人の運命が変わってしまうという小説である。僕は現に、森鴎外に倣って、そういう小説を書いてしまっている。僕には年に一度か二度、サバの味噌煮を食べるたびに『雁』を思い出す習慣があって、その際、必ずサバの味噌煮を何かに置き換えて小説のエクササイズに励んでいる。やはり誰にでもあることではないだろう。


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posted by アスラン at 02:30| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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