2005年11月29日

負け犬の遠吠え 酒井順子

 3月に図書館で予約したからかれこれ8ヶ月待ちだ。「蹴りたい背中」の6ヶ月待ちを更新した。その間「負け犬」ブームはあっという間に世の中を駆け抜けて終焉を迎えた。

 いやそもそも昨年末の流行語大賞かなにかだったはずだから、おもいっきり流行をはずしている。だが佐藤雅彦が「毎月新聞」に書いていたように、話題にするには時宜を得たタイミングというのがあるそうだ。今がまさしくそうなのだ。

 流行のただなかで「凄い」とか「面白い」と言うのはニュートラルで普遍的な評価にはならない。周りの雰囲気に流されているかもしれないからだ。また何年も経った後に振り返るのもノスタルジーや美化が伴って過剰に評価してしまう事がありうる。

 だとするとひとしきり熱に浮かされほとぼりが冷めた今こそが「負け犬」現象が単なるブームだったかどうかを見定めるのに好都合な時期ではないだろうか。

 著者はいわゆる負け犬を「三十すぎ、独身、子ナシ」と定義する。さらにこの中で特に「子ナシ」に重点があるとも書いている。それは何故か?何故ならそこにこそ著者の言う負け犬の負け犬たる由縁が隠されているからだ。

 そもそも著者の定義は定義としてなりたつかどうかあやしい。冒頭で「ゲームみたいなものだ」とお遊びを強調する著者の言葉を鵜呑みにしてはいけない。その軽さとは裏腹にその後の章で執拗に「勝ち犬」を貶めているからだ。

 では勝ち犬とはなんだろう?著者は「負け犬以外の女性」という大胆な定義をしている。こう書かれると、当然ながら「三十に満たない女性」はどうなるのかとか「結婚してるが子ナシの女性」はどうなのかツッコミをいれたくなるだろう。しかし一読者の疑問に答えてくれるほど著者はお人好しではない。「いったい自分って負け犬なの?勝ち犬なの?」と女性読者に不安と不信を抱かせたまま著者はそそくさと「遠吠え」を始めてしまう。

 だからヤボを承知で再定義すると、狭義の勝ち犬とは「三十歳未満」「既婚(経験者を含む)」「子有り」のいずれか一つでも当てはまる女性の事だ。しかし重要なのは負け犬の定義で著者がこだわった「子ナシ」という条件だ。つまり広義の勝ち犬とは必然的に「子有り」の女性ということになる。

 そしてこれ以降、著者は勝ち犬を引き合いにだすとき広義の定義を縦横無尽に活用する。いわく「子育てに忙しく社会の接点が少ないため世間知らずまたは流行のファッションに無頓着」「子育てに生き甲斐を見い出して子ナシ女性に子作り信仰をこんこんと説く」などなど。勝ち犬はどんな時でも子育てが女の幸せだと主張するが故に負け犬にとって目の上のタンコブのような存在に描かれる。

 もちろん負け犬論がテーマの本だから負け犬の生態や主張をこと細かく書きつくしているのに比べると、著者はあまりに勝ち犬を矮小化している。著者の書き方からすると夫の稼ぎに安住して家事・子育てにいそしみ、合間にたまの1500円ランチを楽しみ育児話に華を咲かせ、ワイドショーや芸能誌が限られた情報源で、勉強らしい勉強もしなくなった怠惰な存在。それが著者が読者にイメージさせる勝ち犬に他ならない。

 あれ?おかしくないかと思った方も多いだろう。「自分って負け犬?勝ち犬?」と自問自答する女性読者のかなりが「自分はどちらでもないんじゃない?」と思わざるを得ない程、著者の勝ち犬の射程は狭いからだ。しかし同時に負け犬の射程も実は狭い。上記の勝ち犬の生態をいちいちひっくり返したのが負け犬の生態であり、負け犬自体の存在根拠が勝ち犬の生態そのもののアンチテーゼだと言わんばかりの書きようなのだ。

 率直に言って、負け犬と勝ち犬の二元論で世の女性すべての生き方を語るのには無理がある。どちらでもない犬が多数いるのではないか?いやあえて言えばどちらでもない女性が、狭義の負け犬と勝ち犬のにらみ合いを興味津々で見守っている。それが負け犬ブームの実情なのだと思う。

 どうしてこういう事になるかと言うと、負け犬の特徴を列挙する著者の手つきが総論と各論とでは異なるからだ。総論では負け犬を大多数の独身女性の生き方、趣味、人生論の総ざらい的に捉えている。つまり独身女性の考え方を全部あわせこんだ集合体だ。するとどこかは自分と重なる部分を独身女性は感じる。だが一方で完璧な負け犬などいないのでは?と思わせる事にもなる。

 著者が自分や自分の周辺の独身女性の経験から語る各論では、とたんに著者の立場とは違う独身女性や子ナシ女性の立場・考え方は背景に追いやられる。いわく負け犬は「本当は勉強家だ」「まじめなんです」とか「子育てに追われる勝ち犬と違って使えるお金も暇も趣味も考え方も余裕がある」という言葉から浮かび上がってくる負け犬のイメージはごくごく一部の独身女性に収斂してこないだろうか?まさに著者・酒井順子本人に象徴されるような社会的にも収入的にもある程度以上の成功をおさめている一部の女性の姿が浮かび上がるのだ。

 ちょうどこの本を借りるきっかけとなった、日本テレビで昨年末か今春だったかに放映された同名のドラマが参考になるだろう。あのドラマでマチャミ演じる主人公は最近転職して流行りのウェブデザイン会社の営業(兼SEにも見える)としてバリバリ働き上司からも認められ、東京タワーが見えるマンションで一人住まいをしている。現在彼氏はいないが、同じく独身を謳歌する友人(もちろん女性)とのプライベートタイムを充実して過ごしている。テレビだからそれなりに華やかに描かないと画にならないとは言え、あのイメージは原作で描かれる負け犬像をほぼ忠実に再現している。

 一方で、勝ち犬役の鈴木杏樹演ずる専業主婦は、課長の妻、一児の母である生き方に疑問を抱くことなく充足している。勝ち犬は原作ではあまり描かれていないので原作通りというのではないが、マチャミたち負け犬と釣り合うという意味で中流家庭としては成功している勝ち犬主婦が描かれる。しかし夫の浮気や子供の親離れがきっかけで勝ち犬の人生に躓く事になる。

 驚くべき事は、というよりはドラマを見てから原作を読んで驚かされたのだが、ドラマでは負け犬も勝ち犬もひとしきり争って自分の矜持をぶつけ合った上で最後には和解する結末だったのだが、原作ではそんなぬるい和解は訪れない。そもそも著者は負け犬への理解は深いが、勝ち犬への理解も共感もない。二元論だとさきほど言ったが、実は負け犬一元論イコール著者の独善と見えなくもないのだ。

 もちろん著者はそんな事先刻承知の上で、「負け犬とあえて定義してみたらどうなるかというゲームに過ぎない」などと、本書の冒頭で世の勝ち犬たちへ毒に満ちた「遠吠え」をするための周到な準備と逃げ口上を用意している。「負け犬の遠吠え」とはよく言ったものだ。負け犬と自分を卑下してみせて相手に意趣などないと見せかけてその上で遠くから毒づく。しかも実は決して社会的にも経済的にも負けていない著者が描く負け犬の「遠吠え」は、言ってみれば男性上位を内包して今なお生き延びている社会や制度への怨嗟であり、社会に無意識に隷従している女性(=勝ち犬)への近親憎悪の変奏でもある。ならばドラマのような口当たりの良い和解などあり得るわけがないではないか。

 とはいえ、そもそもが負け犬意識を共有したい女性が読めばいい本書。これだけ話題になって流行してしまったがゆえにのこのこと覗きにきたおまえら男どもに言われる筋合いはないわ!と著者に一喝されるかもしれない。お説ごもっとも。なれど一言言わせてもらえば、コラムとして挿入された「オスの負け犬論」のうすっぺらさはなんとしたことだろう。負け犬(著者の言う負け犬は基本的にメスの事)は擁護するくせにオスの負け犬にはかなり手厳しい。しかもこれまた勝ち犬に理解がない同じ著者が書いた、理解も共感もないオスの負け犬論となっている。結局、著者は勝ち犬やオスの負け犬を差別し、勝ち犬負け犬のどちらでもない犬は無視する。ただただ自分を投影した負け犬しか擁護しない自分勝手な超選民主義。それが負け犬の正体だった。

 今やフリーターやニートと同様に負け犬は立派に市民権を得て、この世間を棲み分けている。少女売春と言わず援助交際と口当たりのいい言葉がまかり通るように、著者に名付けられた負け犬は一部の女性に圧倒的な共感を持って受け入れられ、社会制度に従順な女性に「遠吠え」を続けていく事だろう。だが負け犬はいわば星座や血液型で分類される女性のようなものだ。世の中の女性全部がたかだか4種類や12通りに分類できないように、負け犬という分類もひと通りではあるまい。
(2005/11/24読了)


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posted by アスラン at 01:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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