2008年06月01日

蝶々の纏足・風葬の教室 山田詠美(2008/5/29読了)

 この新潮文庫には3つの短編が入っている。表題の2作と「こぎつねこん」だ。その中でも一番最後の「こぎつねこん」がもっとも分かりやすいし、語り手の気持ちに共感しやすい。他の2作の主人公の内面を少しだけ分かりにくくしているところがあるとすれば、僕が男性であって著者あるいは語り手が女性であることがたぶん関係している。巻末の解説で吉本由美が書いているようには「そういうことってあるよね」という身の上に照らした共感がないからだ。

 では「こぎつねこん」が何故分かりやすく共感しやすいかというと、誰にも幼い頃に訪れる死への恐怖を描いているからだ。幼い「私」の恐怖の正体は自分が死ぬ事にはない。幼い子供にとっての恐怖とは、自分を庇護する親や祖父母や兄弟といった身近な人々が突然に消えていなくなることを意味する。語り手の言葉で言えば「重要な要素を欠いた幸福は、ただの不幸よりも、はるかに不幸なのだ」。子供はそうやって孤独を手に入れる。孤独は幸せの中から忍び寄る。だから本人にしか見えないし、本人にしか飼い慣らせないやっかいな代物なのだ。この事に気づくのにおそらく性別の差はない。誰でも子供のときをナイーブにすごせば、やがては気づかされるはずだ。

 そして「風葬の教室」では、成長した「私」に訪れるのは学校という小社会の中での退屈な生活だ。主人公の「私」は父の仕事で転校を繰り返し、いつも〈水のように〉誰からも干渉されない生活を手に入れようと苦心している。しかし、無神経な体育教師の過度なひいきが他の生徒の不興を買って、イジメの対象になってしまう。昨日まではあか抜けた転校生として注目されていたのに、突然なにもかもが裏返ってしまい、あらゆる事が生まれを呪うような災厄に置きかわる。「私」はクラスに媚びる事もしなければ反抗する事も選ばない。いや、選べない。いままで水のように生きる事を選んできたからだ。そのせいで、かえってクラスメートのイジメがエスカレートする。担任さえもが教室の雰囲気に迎合する事を選択し、教室という名の〈牢獄〉で「私」の生きる道は完全に絶たれてしまう。

 ここから今風の「イジメに立ち向かう主人公」という戦闘的な場面は、この作品には訪れない。無理解な教師や学校に反発したり何も知らない親を恨んだりするような、高校生が喜びそうな結末もない。そんな子供っぽい悩みとは無縁なほどには「私」は大人なのだ。すでに他の生徒とは比べ者にならないほどの世間を転校によって経験し、親や姉が自分に与えてくれる幸福を実感し、その中にある自分だけの孤独をも飼い慣らしている。ただ、自分だけの孤独を水のようにやり過ごす自由だけが〈牢獄〉にはない。子供たちは自らの欲望のはけ口を「私」に求めるからだ。

 この「風葬の教室」はイジメを題材にとりつつもイジメ自体をテーマにしているわけではない。「私」にとっては、トイレに一緒に行ってくれると女友達がいないつらさと、誰かが使った生理用ナプキンを机に置かれる惨めさとは別のものではない。子供から大人へではなく、女生徒から女へと成長する過程で隠微に見え隠れする〈性〉の感覚を、著者は決してなおざりにしない。直視して言葉にする事が著者の独特の感性を育て、著者ならではの美しい文体を生んだ事を忘れてはならない。「私」はイジメの中に安住する彼ら〈牢獄の囚われ人〉の隠微な欲望を言葉で顕わにすることで、一人また一人と「心の中」で殺していく。
 
 この著者独特の感性は、当然ながら〈女性〉というセックスを生々しく実感するところに源がある。僕がわかりにくいと感じる理由もそこにある。理解できないわけではないが、そもそも感性は理解すべきものではないだろう。男性であるからには身体的に実感が伴わない。「私」の唯一の理解者である男子生徒アッコの、なにげない素振りや〈性〉へのとまどいが僕ら男性側の感性を代表している。やさしいと同時に傷つきやすい。その事に気づいた「私」が心の拠り所にしているところに僕ら男性読者にとっての救いがある。

 その点では「蝶々の纏足」の主人公と幼なじみ・えり子との間には、麦生(むぎお)に象徴される理解者としての男が入り込む余地はない。「私」は幼い頃からえり子に束縛されてきた。それゆえに孤独を分かち合う仲間がいたし、〈性〉の感性を無意識に共有する居心地の良さも感じた。しかし、それはやがてどこかで掛け違う。一方が束縛したいと思い、一方が束縛されたいと願う結びつきは、「私」の〈女性〉として成熟とともに壊れていく。「私」はえり子から「纏足」された心を解き放つために、麦生とのセックスに溺れていく。まだ男を知らないに違いないえり子からの「纏足」をほどくのは、男の良さを知り、男をいとおしいと思える事を身をもって感じる事以外にない。麦生は好きだけれど、それが愛でなくてもいいのだ。

 えり子から離れるためだけに麦生を選んだ「私」の決断は、孤独と性の感性を一人きりで携えて生きる人生へと「私」を導く。そのときすでに麦生はいない。彼の浮気が原因ですぐに別れてしまったからだ。そしてもう若くはないまでに年月を経て、ふと、えり子とのあの頃を振り返った「私」は彼女の叔父から聞かされた思い出話の一言にたじろぐ。二人の関係は単なる女の子どうしの束縛ではなく、男女と変わらぬ〈愛〉だった。自分が成長するために切り捨ててきたもののかけがえのなさに「私」は涙する。それは二度と帰らぬ日々だと知って…。

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posted by アスラン at 04:02| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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