2008年05月27日

日本語のゆくえ 吉本隆明(2008/3/17読了)

 読んだ端から忘れていく癖のあるボケ頭の持ち主なので、いまさら2ヶ月前に読んだ本書の内容をすでによく思い出せない。ただしなぜ読もうと思ったかはよく覚えている。会社に向かう途中の本屋の棚で見つけて、さっと著者のまえがきを読んだら、著者の母校である東京工業大学の若き後輩からの依頼にこたえて、何回か「日本語の現状や将来」について論じた講演が採録されている。これまで母校で講演をしたとはあまり聞かないし、僕が大学生の頃には江藤淳が東工大の人文系の教授として在籍してた時期だったから、著者が請われて講演する機会はなかったに違いない。老いてようやくという事なのか。それで興味をもった。

 本書で特に印象に残ったのは「言語にとって美とは何か」で何を論じたかについて語っているところだ。有名な〈自己表出〉と〈指示表出〉という2つの軸を創出して日本語による表現の構造を分析してみせた著者が、その後「言語表現は、自己表出と指示表出とで織りあげられた織物である」と言い切れるようになったと、肩の力みを解いたように話している。これはあの大著で著者が成し遂げたことからすると小さなシフトに過ぎないように見える。実は僕自身そう思っていたらしい。

 本書を読んでから実家にある蔵書を眺める機会があった。「言語にとって美とは何か」は、角川文庫版と、「定本」と冠をつけた角川選書版と、さらに角川ソフィア文庫版の3セットを持っている。最新のソフィア文庫はおそらく定本と同じ内容だろう。その文庫版まえがきを読むと著者のファンにとってはあまりに有名な「序」にさきだって、「わたし自身の言語についての考えがすすんだ点」について申し述べておくと断った上で、さきほどの「指示表出と自己表出で織り出された織物」という表現をすでに使っている。僕はそれを見過ごしていたようだ。というか、なにをいまさら当たり前の事を言うのかと思っていた節がある。

 「言語にとって…」で著者は、人類が言語を獲得した過程を読者にまことしやかに現前化して見せた。まだ言葉を持たないかつてのヒトは、海を見て〈う〉と反射的に叫ぶ。その時、心の中に〈う〉というさわりができる。次の段階で人は海を見るたび心にさわりができ〈う〉とうめくようになる。やがてヒトは〈う〉というさわりをこめて〈海(う)〉という有節音を発するようになる。このとき、ヒトは目の前の海を直接見ないでも象徴的に海を指示できるようになる。そこに至ってヒトは最小の条件をそなえた言語を獲得した事になる。と著者は書いた。

 まるで映画「2001年宇宙の旅」で、モノリスに触発されて道具をもつことを覚えたヒトザルのシーンを彷彿させる場面だ。キューブリックがあの映画で描いてみせたのとまったく同じように、吉本が人類の決定的な瞬間を明快に描いてみせてくれた事に、ぼくはただただ感動した。そのことがまずなにより重要だ。

 この部分を含め著者の言語論は、80年代のポストモダン批評家たちに時代遅れで学術的に無意味な理論だと非難されることになる。しかし、いまやポストモダンの潮流も時代とともに流行のかなたに流れさった。残ったのはフランスの現代思想にかぶれたエセ批評家たちが好き勝手に書き散らかしたテクスト論の山だ。

 単に人間の意識や言語そのものを解明する事が著者の主眼ではない。著者にとっては、あくまで文章表現を批評するためのツールとして使える判りよさと簡便さをそなえた理論を手に入れる事が重要だった。 テクスト論の颯爽とした分析方法と比較すると、著者の言語論はあか抜けないように見えるかもしれない。〈作者〉も〈動機〉も〈歴史的必然〉も括弧に括った上で、一読者の視点から自由に〈テクスト〉として表現を展開する作法があっても構わない。しかし、それは一部の知的な批評家の想像をかき立てるにとどめておけばいい。万人が読んで万人が感じる事の中に「言語表現の核」となるものがあるのなら(また、あると著者は信じているわけだが)、それを手にとって眺めて味わえる、そういう批評の方法が必要なはずだ。

 吉本が繰り返し「言語にとって…」で声高に説明してみせたのは、2つの表出の強度の違いによって様々な文章表現が現実に現れ、それがあるときには〈意味〉に重点がおかれ、あるときには〈価値〉に重点が置かれるという分析手順だ。それによって、たとえ読点ひとつとっても表現に無駄なものはなくなる。ある意味で「日本語の作文技術」で実践的な文章の書き方をあきらかにした本多勝一のように、この本でも著者は実践的な文章表現の読み解き方を僕らに提供してくれる。

 最初に読んだ時から、自己表出と指示表出がどのようにどれだけの強度をもって組み立てられているかを、一つ一つの表現にあたってみることで、それらが「2つの表出から織りあげられた作品」であるとは自明だったように思う。そういう受け取り方をさせてくれたのは当の吉本自身だった。その理論のとどく範囲は、句点や読点、文字、単語、文節、句、文、そして文学作品まであらゆる表現を包括していた。特に日本語の品詞を2つの表出の直行するベクトルの合成で並べる事で、たとえば〈名詞〉は最も指示表出が強くて自己表出が小さく、〈助詞〉は最も自己表出が強くて指示表出が小さいと分析してみせたくれた。この時、単語や文節の構造を明らかにする従来の文法論とはまったく異質の文章表現論が可能なのだと感じた。

 もちろん、著者の意図が多くのテクスト論がそうだったように明晰な批評軸で分析すること自体で完結していたとしたら、それほど感銘は受けなかったかもしれない。著者の意図は〈自己表出〉と〈指示表出〉という物差しで表現を分析・定量化するだけではなく、それゆえに表現の持つ価値を比較可能にしたところにある。つまり著者の言語論には行きと帰りがあり、分析した上で、それらが「2つの表出が様々な強度で織り上げられた作品」として味わえる、もしくは表現としての優劣をつけられるという事が最大の強みだった。

 だからこそ、なにを今さらと僕を含めて積年の読者はそう思ったのではないか。しかしそれは僕が、著者がたどった批評的危機の時代を知らない、言わば遅れて来た読者であったからだろう。著者本人にとっては、こう言い切れるまでには様々な反発を覚悟してこなければならなかったはずだ。そして、こう肩の力を抜いて言い切ったからには、後の言語論の展開は、後進の批評家(たとえば加藤典洋とか)に託すということなのかもしれない。

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posted by アスラン at 03:10| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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