2008年05月20日

アクロイド殺し アガサ・クリスティー(2008/5/14読了、再読)

(以下の文章では、アガサ・クリスティ作「アクロイド殺し」に関してネタバレを含む詳細な分析を行っていますので、未読の方は読まないようにお願いします。)

 図書館で借りたアガサ・クリスティ文庫をカバーも掛けずに電車の中で読んでると、ある妄想がわき起こってくる。隣の見知らぬ男がタイトルを確認し、からかうような意地の悪い笑みを浮かべて「犯人は誰か教えてやろうか」と不意打ちを食らわせるのだ。僕は不躾な男の突然の言葉に面食らいながらも平静を装って、「僕はかまわないが、この車内に読んでない人もいるかもしれないので、やめた方がいいんじゃないかな」と答える。「やめた方がいい」ではなくて「オススメしないな」の方がクールで、まるで伊坂幸太郎の作中のせりふみたいだと妄想は続く。要は、いまさら「アクロイド殺し」はないだろうというツッコミに対する言い訳を考えていたのだ。

 この作品をいつ頃読んだか。中学か高校か。エラリー・クイーンを読むことから始まった本格ミステリーへの愛着は、クリスティの有名な作品を何作か読ませる動機にはなった。ただし、いまだに問題作として取り上げられる本書を読む前に、本書のトリックの是非を論じた文章を先に読んでしまっていた可能性は高い。つまり犯人は知っているし、有名なトリックの核心部分も知っていて読んだかもしれない。だから、知らずに読んだときの一読者の感想がいかなるものになるかわからない。玄人による「ミステリーとしての是非」など、どうでもいいことだ。

 会社の同僚でクリスティは全作読んだという女性に聞いたら、トリックを知らずに読んだそうだ。彼女はクリスティのおもしろさはちゃんとわかった上で読んだので、とにかくおもしろかったし、結末にも驚かされたと言う。ただし、クリスティを初めて読む人にはオススメしないそうだ。確かにあまりに特殊なケース過ぎて、手品のように騙された事に快感を覚えればしめたものだが、「そりゃないよー」と突っ込まれたら最後、クリスティの他の作品を敬遠してしまうかもしれない。しかしなんでもありのエンタメ本全盛の新たな読者ならば、この作品の面白さを素直に受け入れてくれそうだ。

 ここまでグダグダ書いてきたのには理由がある。ネタを割るからだ。いまさら「アクロイド」を再読した第一の理由は〈伏線読み〉をするためだ。著者の工夫がどの部分か見ていくことになる。さらに再読のきっかけになったのは『アクロイドを殺したのはだれか』というフランスの文学理論学者が書いたテクスト論を中古で手に入れてあったので、この機会にセットで読もうと思ったのだ。この本では、アクロイド殺害の犯人はポアロが与えた解決以外の可能性を示唆している。

 アガサ・クリスティ文庫では新訳になったと同時に、解説をミステリー界きっての理論家・笠井潔が書いている。彼の文章の要旨はひとことで言うと、「一人称小説」であると思わせておいて、実はシェパード医師の「手記」だったという点にトリックの核心があるということだ。では「一人称小説」と「手記」とではどんな違いがあるのだろう。

 実は漫然と小説を読んでいるときには、著者と語り手と登場人物との関係など読者には意識されない。「語り手」というが、要は著者が語ってるのだろう、同じことじゃないかと思う人もいるだろう。それで問題があるわけではない。

 しかし小説という形式が普及し次第に複雑化していくに連れて、著者と語り手を明確に区別する事で表現範囲が広がることに意識的な作家が現れた。語り手という立場を用意すれば、全知全能の神のように違う時間・違う場所に存在するすべての登場人物を見渡すことができ、しかも彼らの考えている事を描写する事ができるのだ。著者はいちいち語り手がどこにいてなにを見てるかを説明する必要もない上に、登場人物について書きたいことが書けるし、させたい事をさせることができる。

 ここで言うのは三人称の「語り手」の話だが、一人称の「語り手」も同様に考えられる。「わたし」は作中の登場人物の一人であることもあるし、登場しないで外側から傍観する何者かという場合もある。いずれにしても三人称の語り手と違うのは、自在にすべてを知りうる「神」のような存在と見なすにはやや物足りないと感じられる事だ。特に登場人物の一人である場合には、知りうる事実・知りうる他者の内面については制約があると考えるべきだ。傍観者である場合にはほぼ三人称の語り手と等価と見なせる場合もある。

 三人称との一番の違いは、「わたし」の目を通した描写・心理描写だと言う点だ。つまり、「わたし」の〈主観と選択〉が働いている可能性は否定できない。「わたし」が書きたくなければ書かなくてもいいのだ。ただしミステリーという独特なジャンルでは、一人称の「わたし」は三人称のように全知全能の語り手であることが要求される。そうでなければ、読者は探偵と同じ立場で解決に至ることなど不可能になってしまうからだ。

 その点を踏まえた上で、笠井潔は本書を一人称小説ではなく単なる手記であると指摘する。手記であれば「わたし」は全知全能でもないし、たとえミステリーあっても書きたくない事は書かなくてもいいのだ。しかし手記である事は、結末近くまで作者によって周到に隠されているので、読者はまさか語り手が「書きたくない事を書いていない」とは想像しない。

 この詐術スレスレの手際が本格ミステリーのファンや専門家の賛否両論を引き起こしてきたわけだが、もちろん一読者の立場からすると、一人称小説か手記かでトリックの正当性が変わるなどとはおよそ理解しがたい。あくまで「だまされた〜、やられた〜」という快感にひたれるかどうかが分かれ道だ。

 いったい作者が仕掛けた遊び心を本当に楽しめるのか。そこがすでに遠い日に読んでいる自分には定かでない。わからない。と思ったら、身近につい最近「アクロイド殺し」を読んだ同僚を見つけた。なんたる偶然!彼はそれまでクリスティを一冊も読んでない。今回「ABC殺人事件」「オリエント急行の殺人」と本書をまとめて読んだ。確認したが結末もトリックも知らなかった。感想を聞くと、読後よく解らなかったので、犯行時の記述を読み返したと言う。そうだ、それで良いんだよ、この本は。

 つまり本格ミステリー初心者あるいはクリスティ初心者にとって正しい感想とは、「そんなこと、ありうるのかなぁ」という疑いだ。はたして犯人がそんな事やれたのだろうか。やったとしてどこにそう書いてあったのだろうか。いや、ポアロ自身が犯人の手記を読んだ上で、「ここに大胆にもほのめかしているではないか」と語っている。それを確かめない読者はいないはずだ。

 だから、この本は再読が不可欠だ。「ミステリーは、本質的に再読を要求されるジャンルだ」と、どこぞの書評家が書いていたが、そういう意味でなくても、本書は本質的に読者に読み直しを要求する。読み直さねば面白さはわからない。なぜか。語り手である「わたし」は、全知全能の語り手であれば、あるいはミステリーにとっての一人称であれば「当然書かなければならない事」を書いていないからだ。

 そして、ここが一番重要な点だが、本当に書いてなければ読者は詐欺だと言うだろう。ところがクリスティは大胆にも犯行をほのめかしている。これは手記の「わたし」が犯人であると知った後でもう一度読みなおしてみると、なんとあからさまなほのめかしなのだろうと関心するくらいにぬけぬけと書いている。今回〈伏線読み〉をしてみて思ったのは、作者の大胆な手際だ。おいおい、ここでこんな文章書いてしまってよくバレないなぁという驚きだ。それは、たとえばこんな感じだ…。

 夫を毒殺したと脅迫されて自殺したフェラーズ夫人について、脅迫相手はだれなのか、アクロイドと「わたし」が話し合う場面(P.67)で、「もしかしたら」とアクロイドの息子ラルフを疑っているように「わたし」はみせかけている。その実、自分が脅迫者であるとアクロイドにバレてないかを気にかけて「もしかしたら」と動揺している。

 アクロイドの書斎を立ち去る場面(P.74)では、「わたし」が殺したとはもちろん書かないが、「振り返って、やり残したことがないだろうかと考えた。…」とほのめかしている。では〈やり残したこと〉とは何だろう。アクロイドを殺した事ではあるまい。

・フェラーズ夫人の手紙を持ち去る
・目覚ましに似た録音機(ディクタフォン)のスイッチをセットする
・ドアとテーブルを結ぶ線上に椅子を引き出して、テーブルに置いた録音機を見えにくくする
・外からラルフの靴跡を残すために窓を開けておく

 これだけの事を殺害後やらねばならなかったはずだ。それもアクロイドが手紙を読み出した時刻から、「わたし」が部屋を出たわずか10分でだ。「わたし」が〈やり残した事〉を気にかけて手記でふれたのはむしろ当然と言える。

 そして、偽の電話で呼び出されたと見せかけた「わたし」は、アクロイドの書斎に執事とともに入って死体を発見する。執事には警察へ電話するように命じ、自分は書斎に一人残る(P.83)。手記に「やるべきことはほとんどなかったが、わたしはそれをすませた。…」と書いている。もちろん、録音機を手持ちの診察鞄に入れて、椅子を元の位置にもどすことが「やるべきこと」のすべてだった。

 アクロイドの姪フローラがやってきて、「ポアロに捜査を依頼するのに同道して欲しい」と頼まれ躊躇していると、姉のキャロラインに何故グズグズしていると非難される(P.117)。「わたし」は「頭が働かなかったわけではない。キャロラインが、わたしの胸の内を常に察しているとは限らないのだ。」と吐露する。つまり隣人ポアロが捜査することに気が進まないわけだ。

 終盤でポアロが「わたし」の自宅を訪れ、趣味の工作の作業部屋を見せる場面(P.354)では、「わたしはさっそく手製のラジオをポアロに見せた。彼が興味を示したので、独自のちょっとした発明品もひとつ、ふたつ披露したーささやかなものだが、家庭では役に立つ。」と書いている。ここでは「わたし」にラジオなどを工作する知識と技術があることを、それとなく明かしている。録音機を仕掛ける技術があるという事だ。ただし「家庭では役に立つ。」という〈発明品〉については、ここまでほのめかしが過ぎると何のことか分からない。いや、それ以上に何か怪しいと読者に思わせてしまうのではないか。しかし、そろそろ読者に「わたし」が怪しいと気づかせようと、作者が意図して書いたとしたらどうだろう。クリスティならやりそうなので、迂闊に「苦しまぎれの表現」などとは言えない。

 ほぼ犯人を特定する証拠が出そろった時点で、ポアロは「わたし」にヘイスティング大佐(書記)がいないことを残念がってみせて、「わたし」が手記を残している事を白状させる(P.394)。「わたし」は 「そんなにすぐに見せてくれといわれても、心の準備ができていなかった。頭を絞って、ある細かい部分を思いだそうとした。」と書く。ポアロの悪口を書いていないか気にしてるようにとれるが、ほんとうはポアロに真相がばれやしないかと恐れていたのだ。それにしても、ポアロはどうして「わたし」が手記を書いていると推測したのだろうか?

 手記を読んだポアロは「すべての事実を忠実に、ありのままに記録しているーただし、あなた自身が果たした役割については、適度な沈黙を守っていらっしゃいますね」と意味ありげに語る(P.396)。今までのほのめかし同様に、ここでも二重の意味にとれる。すなわち、医師として果たした責務や捜査協力については〈謙虚にも〉書いていないという意味にもとれるし、裏の意味で「言うべきことを言って(書いて)ない」ともとれる。どちらかというとポアロは「我が友(モナミ)」と親しげに呼びかけることで「わたし」の誠実さを疑ってないかのような印象を読者に与える。

 だがいよいよ決定的な場面が近づいて、最重要容疑者と目されていたラルフ・ペイトンが姿を現し、「わたし」が彼をかくまっていた事が知れるに至って、ポアロは次のように指摘する(P.415)。

「書かれている部分は正確でしたーしかし、すべては書かれていなかった、そうでしょう、わが友よ?」

 そう、今見てきたように「手記に書かれていない」ことがトリックの核心であることは確かだ。と同時に、クリスティにとって「如何にして読者に犯行をほのめかすか」という難問こそが最大の挑戦だったと言えそうだ。

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posted by アスラン at 01:54| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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