2008年05月14日

アンダーリポート 佐藤正午(2008/4/15読了)

 佐藤正午は文章の達人だ。作品を読む度にそう思う。「ジャンプ」を読んだときも「Y」を読んだときも、そう思わせてくれた。「小説の読み書き」で並みいる文豪たちの文章を添削するという一風変わった、しかし大胆な試みができたのも、文章を書く技術が人並み外れているからこそだろう。

 その一つの達成が前作「5」だ。いきなりいつものように読者に謎を突きつけておきながら、かなり意外性に富んだラブストーリー(あれをラブストーリーというと異論はもちろんあるだろうが)を作り上げていた。読んでいる途中から「僕はこういう小説をずっと前から読みたかったのだ」と思うくらい自分の気持ちにフィットした作品だった。「5」については別の機会に書いてみたい。

 ただ、一言言っておくと「自分の気持ちにフィットした」と感じる一番の理由は、まぎれもなく男の視線で書かれた小説だからだ。そして、たとえば川上弘美やよしもとばななや角田光代がどんなに女性らしい感性豊かな文章で驚かせてくれようと、北村薫や吉田修一や伊坂幸太郎が僕好みのドラマをあれこれと提供してくれようと、そこに男らしい感情を感じさせてはくれない。どの作者も語り手も女性に対して誠実すぎるのだ。

 佐藤正午が描く一人称男性の語り手は、独身もしくは離婚者で平凡な家庭生活には向かない資質の持ち主だ。結婚生活が続かない、もしくは結婚できない理由は主に彼自身の身勝手で自堕落な性格にあるが、それを相手のために修正しようという、いわゆる「男の優しさ」など持ち合わせていない。そこが読んでいてきわめてフィットするのだ。

 主人公に共感できるというのとは違う。どちらかというと、僕は「優しい」とか「軟弱」とか言われて久しい男たちの元祖のような世代だ。かぐや姫やさだまさしなどの叙情派フォークあるいはニューミュージックを聴いて育った世代だ。だから「5」や本書の主人公のような身勝手な男の論理に単純に共感することなどない。

 しかし一方で、強くなった女性を理解する物わかりのいい男がでてくると、それだけで小説や映画やドラマが絵空事のように、もしくは女性向けのAVのようにも感じてしまう。一時期流行った純愛物の多くが、そういった女性読者・女性視聴者のニーズから生まれている事は確かで、たとえ出来が良くても心の底では何か割り引いて勘定している。フィットしないとはそういう事だ。

 「5」の単行本の帯で、池上冬樹が「病気と涙と感動のない所で愛を語る、反『世界の中心で、愛をさけぶ』ともいうべき洗練の極致の秀作だ。」と書いていた。書店で見かけたときはピンとこなかったが、自分の「5」に対するフィット感を言葉にしてみたら一目瞭然だった。タイトルから内容の隅々まで読者に媚びを売り続ける例の作品とは、まさに対局にあることは間違いない。「5」というタイトルの素っ気なさを見てもが分かるだろう。そして確信をもって言えるが、女性読者の多くはこの作品にフィットすることはないだろう。

 こんな作品の後だから、さぞかし筆ののった同系統の作品が読めるのではと期待した。期待してもいい作家だと思っていた。しかし、そうではなかった。雑誌に連載された作品なので、ひょっとすると「5」よりも前に書かれたのかもしれない。主人公かつ一人称の語り手である「私」は、「5」とほぼ同じ資質を持った生活能力の希薄な男だ。しかも冒頭から、ある小さなバーのママを訪れ、20年前に実際に起こったはずと考える不可思議な物語を語り出す。そして、そこには、聞いてしまったが最後、後戻りができないような犯罪の真実が隠されている。

 これが道入部だ。このやり方は「Y」の時の展開と似ている。話はいきなりクライマックスの場面から入り、語り手である「私」が物語ることで時をさかのぼっていく。結末に至って必ずや冒頭の場面に戻ってくるだろう。そのときには、著者が隠している手の内のほとんどは明らかにされているはずだ。それまで、読者は作者の周到な、というよりはもったいぶった物語をだまって聞いていくしかない。バーのママが「私」の物語のもったいぶりや無神経ぶりにいらだたされるのと同じように、だ。

 詳しくはネタバレになるので書かないが、この物語にはミステリーではおなじみの犯罪が描かれている。特に目新しい設定ではないが、現実にそんなことが起こりうるかと言えば、ほとんどの人が絵空事だと思うようなタイプの犯罪だ。「ジャンプ」や「Y」を書いたストーリーテラーは、この〈起こり得ない犯罪〉がどうしたら〈起こり得る〉かを、一人の女性の数十年前の人生の一場面に封じ込めようとする。あるとすれば、これが著者の唯一のモチーフと言っていい。

 真実が解き明かされることで「もったいぶった語り口」に対する読者のストレスも解消されると信じて読み進めるのだが、ついに解消される事はない。ミステリーとして読めば真実は最初から分かり切ったことだ。物語として読めば、「私」が事件に関わろうとする意図が最後までよく分からない。単なる好奇心にしては、「知ってしまうことであなた自身も取り返しのつかないことになると分かっているのか」とバーのママにたしなめられて、「私」は「そういう事も考えておいた方がいいのだ」と人ごとのような独白を吐く。かといって別れたかつての恋人に対する未練でもなさそうだ。

 要は「私」の意図は不鮮明で、著者の意図は鮮明だというところに、どこか読者としてつきあいきれないものを感じてしまう。「物語のための物語」としか思えない。言い方を変えよう。著者の文体練習につきあわされているとしか思えないのだ。

 文章のほとんどがエゴイスティックな「私」の内面を通過した描写から構成されているが、読んでいくと「だから何なの?」とツッコミたくなる。例えばバーの傍らにおかれた花を「私」が描写したとする(実際に書かれてあったように思う)。何事か意味があるかのように観察する「私」の目は、目の前の「花」という対象を心理描写に変えてしまう。やっかいな事に読者は「綺麗な花がある」とは思えず、「綺麗な花が何故あるのか、何故『私』はたかが花一輪を気にとめるのか」と考える。しかし、最後まで読んでも花は花に過ぎない。伏線はない。しかも語り手が客観視せずに主観的に描く意味もまた見いだせない。

 僕が読んでいて感じたのは、文章の達人である著者が、誰か古典的な文豪の文体を真似て「文体実験」を試みているのではないかという違和感だった。古典に疎い僕には確かめようもないが、もしかしてプルーストの「失われた時を求めて」あたりが著者が狙った文体だったのではないか。だとするとなんと罪なことをしたものだ。佐藤正午の作品であってそうじゃないような感覚のおかげで、最後までのめり込む事ができなかった。今回はフィットしなかったのだ。

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posted by アスラン at 19:30| 東京 ☁| Comment(4) | TrackBack(1) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
−文章の達人である著者が、誰か古典的な文豪の文体を真似て「文体実験」を試みているのではないか−←興味深いですね。しかも、「失われた時を求めて」は何時か読もうと思っている本なので、気になります。アマゾンでのレビューを拝見すると…。文章に関して言及されている方は一名。文庫落ちしてはいない様なので、図書館で探してみます。
Posted by rago at 2008年05月16日 02:56
アンダーリポートは貸し出し中でした…。無念
Posted by Naught at 2008年05月17日 18:45
ragoさんの琴線に触れてしまいましたか。さて、大変だ(汗)。

「失われた時を求めて」などと大げさな事を言ってしまったかと恐縮しております。あくまで古典にうとい男の戯れ言ですから「眉につば」をつけて探してみてください。

ところで「小説の読み書き」という新書をもう一度読み直しています。こちらは日本の近代小説の作家たちの文章を著者らしい切り口で分析しています。と同時に、というかその切り口から著者自身の小説の書き方が見えてきて、佐藤正午の読者にとってはニヤニヤ笑いが止まらなくなる文章読本です。

こちらを読むと、もしかしたら著者の本を読みたくなるかもしれません。
Posted by アスラン at 2008年05月19日 00:48
Naughtさん、またのお越しありがとうございます。

佐藤正午は一応〈人気作家〉だったことを忘れていました。「アンダーリポート」が最新作であることも言い添えておかないと。

ちなみに立川では待ち行列なし。川崎では20人待ち、ただし12冊の蔵書あり。それほど、待たないと思われます。
Posted by アスラン at 2008年05月19日 00:52
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Excerpt: 今日読んだ本は、佐藤正午さんの『アンダーリポート』です。
Weblog: いつか どこかで
Tracked: 2008-05-19 18:32
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