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    2005年11月22日

    装丁ノート 栃折久美子

     ルリユール(製本工芸)の第一人者である著者の「装丁」に関する評論やエッセイを集めた本である。このルリユールという言葉は、たぶん一般の人には耳慣れないだろうし僕自身初めて聞いた。訳語として製本工芸という言葉を充てたのも著者らしいが、これも何の事だろうと首をひねる人が多いだろう。

     ここら辺の事情というか、一般の読者の気持ちを代弁した文を著者が書いている。いわゆる「装丁」というときに、誰しもが製本する事だとは考えない。本を表から見たときの見た目・デザインを作る事だと思っている。これは「装丁」の意味として間違いではない。でも本当は製本する事も「装丁」に含まれるのだというと話がこんがらがって複雑になってしまう。実は「装丁」というのは「本をかたちづくること。その方法」を指す。だからいわゆる書籍の意匠を決めるだけでなく、どうやって本としての体裁を作り上げるかというところから関わっていく。つまりは紙に文章が印刷された後に書籍にするまでが全部「装丁」の仕事と言っていい。

     そもそもルリユールという技術は印刷技術が発達したヨーロッパで同時的に発展したものらしい。今でも高級な本はそうらしいのだが、ヨーロッパの本というのは印刷した中身だけを売っていた。それを愛蔵書とするために蔵書家たちは専門の職人に製本と装丁を依頼したのだと言う。ルリユールが製本工芸と訳されるのは、デザインのようなクリエイティブな部分だけではなくて、どのように本の強度を保つかとか、どうしたら読みやすい本になるかなどの技術も担っているからだ。

     国内で考えると巻紙に書かれた文章を巻物の体裁に整えるのは立派な和製ルリユールだと著者は素人に分かりやすく例示してくれる。当の著者は若き日にヨーロッパに渡って西洋のルリユールを直に学んできたまさにパイオニアである。

     ルリユールという仕事にこだわる著者は、だから大量印刷によってうみだされた本の中身が、無線とじという簡易的に背を糊付けする手法で製本されてしまう事に異議申し立てをする。

     無線とじはいまや文庫から単行本までありとあらゆる本に採用されている製本技術で、ページ一枚一枚が背に接着剤で張り付いている。大量生産に向いている安価で効率的な技術だが、先ほど言った強度や読みやすさに難がある。

     本は永遠に形を保つものではない。特に無線とじの場合はたかだか数十年でバラバラになってしまう。しかも直接紙の端を背がためするので本の開きが悪く読みにくい。無理に開く事で破壊を早めることにもなる。しかも無線とじは補修が不可能なのだ。修復するには本の背側を一部裁断しなければならず、ギリギリまで印刷された現代の印刷物では無理なのだそうだ。

     ではどうしたらよいか。最善の道はかがる事だ。無線とじ以前は折丁と言って見開き2ページを折ったものを4枚重ねて折り目に沿って糸をかがった。これだと折丁が各ページを支えるので強度が増し、さらに折丁の束を背がためしても各ページの開きがとてもいい。さらにはたとえバラバラになってもかがり直せばよく修復が可能な技術なのだ。

     ただ残念ながら手間がかかる事から大量生産に向かない。著者にしてほとんどが無線とじの本の装丁依頼だと嘆いている。この本が書かれたのが1987年だから現状はもっと酷い事になっているかもしれない。

     1987年と言うとPCがようやく家庭に進出しだした頃で、ましてや携帯で本を読むなど想像もできなかった。だから著者の異義申し立ては今や時代遅れの反動だと取られるかも知れない。しかし実はそうではない。

     ペーパーレスはIT業界の悲願であるが、いまだどの電機メーカーも成功していない。松下もシャープもソニーも繰り返し本に代わる電子書籍機器を世に送り出して失敗している。理由は色々あるだろうが、一番の理由はまだ電子機器が紙の利便性を超えていないからだろう。CDがアナログディスクの利便性を包含していたのとは訳が違うのだ。

     となるとまだまだ本という媒体は無くなりそうにない。だというのに出版業界にも著者の意見に耳を傾ける人は少ない。いわく「今の出版物に後世に残すべきものがどれだけあるか」といささか自嘲めいた言葉が返ってくる。

     著者の反論が奮っている。志の低い言わば同業者たちにこう言う。

     後世に残すべき本かどうかは私の決めることではない。…内容の如何にかかわらず、いま私たちのつくっている本が、百年後にも形を失なわないことを考えたい。


     けだし名言である。ルリユール職人としての気概が伝わってくる。さらに無線とじで壊れていく本に対する愛情といたわりにあふれた次の言葉には胸が突かれる想いがした。

     無線とじで背中がこわれたから捨てるというのは交通事故みたいなもので、形を失うならせめて、どの部分も同時にこわれてほしい。


     そのためのルリユールでありルリユール職人なのだ。これを単に文化という言葉で片付けたくない。だが今や文化というお題目を唱えても守れなくなる技術と職人がここにある。
    (2005/11/13読了)


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    posted by アスラン at 13:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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