「毎日(新聞)に毎月」。さっそくタイトルから佐藤スタイルが出ていて笑わせてくれる。中身を開くと、A4の見開きに学級新聞のような味わいの佐藤雅彦編集・レイアウトの新聞が目に入る。三コママンガまである(もちろん著者の自作だ)。
A4版の薄い見てくれと学級新聞風の素朴な手触りからはうかがえないほど、実は連載4年間分の中身がギュッと凝縮している。
記事の内容はいろいろだが、おおむね著者が日常感じてる事を著者独特の感覚と視点によってきりだしたものばかりだ。エッセイと言えば言えるが、真上から見ると四角だが真横から見るとピラミッドだったみたいに、見方を変えたらこんなに面白いのだというCMプランナーらしいアイディアにみちている。
CMプランナーらしい視点の移動を感じるのは例えば次のような記事だ。
「日常のクラクラ構造」と名付けられた現象を著者はつぎのように説明する。東京都推奨のゴミ袋20枚入りとかを買ってくると、ビニール袋から例の中身が見えない白濁したビニール袋が一枚一枚取り出せる。ところが最後の一枚を取り出して使う段になると、著者の言う「クラクラ構造」が立ち現れる。最後の一枚を取り出したゴミ袋をいれてあったビニール袋はたちまち用無しとなり、取り出したゴミ袋に入れられる。この一瞬にさっきまで入れる入れられるの関係にあったものが逆転する。別になんてことのない瞬間にもかかわらず著者はクラクラとめまいを感じてしまうのだ。
財布が壊れたので新しい財布を買う。すぐ使うからと言って包装から出してそのまま手元に貰う。お金を出してお釣りを貰う段になってやはりクラクラする。先ほどまで古い財布の中にあったお札で財布を買い、そのお釣りが新しい財布の中におさまる。お札だったものが、新しい財布とお釣りの小銭になって手元に戻ってくるのだ。しかも小銭は新しい財布の中。入れるものと入れられるものの関係、包含するものと包含されるものとの関係。地と図の交換。まるでエッシャーの描く不思議絵のような状況。それがクラクラ構造だ。面白い。
同じように「モードが違う」。易者が街角で一人の客の片手をとりながら手相を占っている。そこへ通りすがりが易者に道を尋ねる。易者は人のいい顔つきになって空いた手で向こうを指し示す。その瞬間。またしても著者は日常に立ち現れた特別な瞬間を見逃さない。易者はその一瞬に職業モードで客の片手をとり、通りすがりには親切おじさんモードで道を指し示す。違うモードを同時に体現した易者自身も気付かずに、そしておそらく客も通りすがりも気付かずに、著者だけがその面白さに気付いてしまったのだ。この視線から「スコーン」などCMが生み出されたのだと思うと興味深い。
と同時に永六輔みたいに小言幸兵衛の顔つきで世の中の行き過ぎに一言釘を刺す。「じゃないですか禁止令」がそれだ。事務所の女の子から「私って○○が好きじゃないですか?」と言われて「って言われても僕は君の趣味まで知らないよ」と心の中でつぶやく。一時期、語尾上げ口調がひとしきり取りざたされたが、今度は「〜じゃないですか」。
これを著者は個人の欲望のカモフラージュとみる。つまり「欲しい」と言えば済むものをワン・クッションおくことで自分の欲望のはしたなさを隠すわけだ。だが著者が憤るのはその先。こういう風に言われると周りの人にとってもその事が周知の事実のように見える。つまり「〜じゃないですか」一言で、あたかも既成事実となってしまう。そこがずるいというわけだ。しかもこれは非常に便利な表現であちこちで使われ出している。ひょっとして僕なんかもどこかで使ってるかもしれないと思うとちょっとへこむ。
ところで、もしかしたここまでならちょっと気のきいた頭の持ち主だねとか、トリビアな事によく目配せできるね、くらいに思う人がいるかもしれない。だが「クラクラ構造」にナイーブな感覚を持てるかどうかはまた別の話だ。そこに単に見方を変えるという技術論以前に、著者独特の感受性が現れている。
「前の駅でました」では、電車待ちのホームで、あの表示盤があることで著者のイライラが解消。その先の受け止め方が面白い。
「ということは二駅先の表示盤を見て僕と同じようにイライラを解消してる人たちがいるのか」
とイライラ解消が次々にリレーしていくイメージを描いてしまう。異常と紙一重のナイーブさが著者の天性と言っていいのかもしれない。
そのナイーブさに言葉がうまくはまりこめば、それはユニークにもユーモアにもなる。そして時に美しい思想さえ生み出す。
「オレンジの皮」では、著者はあまりの多忙さと極端なストレスから何も手につかなくなってしまう。気分転換にご無沙汰していたウォーキングを思いつく。水分補給に冷蔵庫をあさるとひからびたネーブルだけ。まるで今の自分を象徴するかのようだと著者は自嘲しながら鞄に詰め込んで出かける。久しぶりのウォーキングでひとしきり苦しんだ後に、ネーブルを試しに切ってみると見かけと違って堅い皮の中にみずみずしい果肉が詰まっていた事に著者は驚かされる。絞って飲むと喉の渇きが癒され、さらには冷蔵庫にあったネーブル2個分だけ身の回りの整理ができた事に気づく。そうして、あれほど身動きとれないと思えた状態から抜け出せた事に著者は気づくのだ。ここには著者独特の感受性がたどり着いた一つの思想が見える。それを僕は美しいと感じた。
著者がCMプランナー以外に手に入れたもうひとつの顔は慶応大学の教授だ。本書でも授業の課題に学生がどう応えたかの一例を紹介したりしている。ただ学生うんぬんは置いておくとして大学教授としての彼の考えもアプローチもそれほど面白くない。いや啓蒙的な姿勢やきまじめなモラリストぶりがかいま見えるその部分には、著者独特の感覚を硬直させる何事かが含まれているように感じられて多少の違和感があった。
学生とのコラボレートから生まれた「日本のスイッチ」というアイディアは、本書の連載終了後から携帯のウェブを利用していまだに続く人気コーナーに発展した。おそらくは著者が日頃から感じる素朴な疑問が著者だけのものではなく、携帯で繋がっている不特定の日本の読者が共有している疑問であるならば、読者の回答からきっと今の「日本」が見えてくるに違いないという趣向は面白い。面白いがひとつ間違えば設問自体がうさんくさいモラルを最初から回答者に押しつける事になりかねない。
「デパ地下の惣菜はグルメというより手抜き」という設問には日本人の多くをくすぐる絶妙なユーモアがあるが、一方で「犯罪の温床の出会い系サイトをなぜ放置するのか?」と問いただす著者の資質を反映した一元的なモラルと通底している事に気づいてしまうと、せっかくのユーモアも色あせてしまう。願わくは教授という顔つきは控えめにしてほしいと最後の最後に感じた。
(2005/11/07読了)




大きな書店で見かけた時は僕の欲しくなりました。結局買い控えましたが、あれは手元に置いて時々すきな頁を読むのが楽しみな本ですよね。