2008年04月17日

2010年宇宙の旅 アーサー・C・クラーク(2008/4/10読了)

 前作の9年後に新たな宇宙への旅が始まる。クラーク自身が書いた小説「2001年宇宙の旅」の9年後というのは正確な言い方ではない。スタンリー・キューブリックの映画史に残る傑作「2001年宇宙の旅」の9年後から始まるのだ。

 映画「2001年…」に脚本として参加したクラークはキューブリックから脚本ではなく小説を書くように勧められた事は「決定版 2001年…」のまえがきに書かれている。そのため、小説と映画との間にありがちな越えがたい溝はないと言う。だが、キューブリックの有無をも言わせぬ想像力や映画製作上の諸事情から、できあがった映画が原作の設定やストーリーを忠実になぞるということはあり得ない。結果としてある程度のずれが生じた。

 当初書くつもりはなかった続編を再開するにあたって、著者は映画とのずれを修正することを選択した。映画のシーンを取り込んだ上で物語を続けるのは傍目で思うほどには楽な作業ではなかったと思うのだが、長い間寝かせておいた前作を慎重の上にも慎重を重ねて、著者は丁寧にねばり強く書き進めていった。結果として、エンディングを別にすれば映画と原作のつじつまはピタリと合うようになった。著者が前作「2001年…」のストーリーをどのように修正したかを見ていこう。

 前作では月面に埋められた長方形の石板(モノリス)が発見され、調査中に〈土星〉へと信号が送信されていることを確認する。この事実は隠されたまま、数年後の2001年にディスカバリー号による土星探査の旅が始まる。乗組員はデイビッド・ボーマンとフランク・プール他3名。3名は人工冬眠によって木星到着まで覚醒しない。

 映画ではディスカバリー号は土星ではなく木星に向かう。その理由は単なる当時のSFX技術の限界によるらしい。小説で詳細に描写された土星の輪の微妙な模様は、映像で再現する事が困難だったからだ。著者は思い切って土星探査の事を記憶から葬りさることにした。元々、前作(小説)でも木星の重力を利用してディスカバリー号を加速させる〈スイングバイ〉を行う際に、木星と衛星の様子はかなり描かれているので、この変更は大胆ではあるがムリはない。

 しかも前作が書かれてから10年後の1977年にはボイジャー1号と2号が木星や土星に接近して、リアルな画像が地球に送られてきた。木星はSF作家にとって天体望遠鏡と想像力だけで描く対象ではなくなった。木星を舞台にして臨場感ある物語を紡ぎ出す事が可能になったのだ。

 もう一人の乗組員であるコンピューター・ハル9000は隠された使命によるジレンマから狂いだし、船外でしか交換不能なユニットが故障すると指摘して、交換作業中のフランク・プールを宇宙へと吹き飛ばしてしまう。映画でも有名なシーンだ。

 一連のストーリーは映画でも小説でも変わらないが、演出方法はずいぶん違う。小説では船内にいるボーマンがプールの死をモニターで確認した直後に、ハルが出入り口を開けて船内の空気を出してしまったので、人工冬眠中の3名は窒息死し、ボーマンもあやうく船外に押し出されそうなところを間一髪でシェルターに逃げ込んで助かる。気圧差によって船外に押し出されそうになるという設定は、「エイリアン2」など多数の映画で採用されたが、キューブリックは採らなかった。

 船外活動用のボッドにはじきとばされたプールを、映画のボーマンはすぐには見捨てない。別のポッドで追いかけて回収しようとする。慣性の法則によりどこまでも広大な宇宙を遠ざかっていくプールを追いかけながら母船から離れてゆく恐怖を、キューブリックは騒がしい船内ではなく無音の宇宙空間で描いた。ボーマン自らの呼吸音がさらなる恐怖を煽る。ハルのせいで船内に戻れなくなり、ポッドの扉と船の扉を向かい合わせにして手動で扉を開けて飛びうつり、次の瞬間に空気が漏れ出るすさまじい音が戻ってくるところは映像的なクライマックスのひとつだった。

 その後にハルの記憶ユニットや論理ユニットをはずしていくシーンは映画にも小説にもあるが、開発者のチャンドラー博士に教わった「デイジー、デイジー」の唄を歌うというきわめて印象的な場面が小説には無かった。ハルの能力低下とともに、「デイジー」のリフレインはゆっくりとしかも低音の恐ろしいものになっていく。

 以上はすべて、本作で映画どおりのストーリーに再構成されているので、キューブリックの映画を観た人が読んでも違和感を感じることは少なくなった。問題はエンディングの違いだ。ここは明らかに整合性をとるのが難しい。そもそも土星(小説では木星)でボーマンを待ち受けていたのは、ビクトリア調のホテルの一室に同居しているモノリスの奇妙な姿ではなかった。長辺が2kmはあろうかという巨大なモノリス(ビッグ・ブラザー)なのだ。こればっかりは記憶から葬りさるわけにはいかない。

 前作(小説)のエンディングで、ボーマンはビッグ・ブラザーを前にしてポッドごと消息不明となり、囚われ人になって知的生命体同様に肉体を持たない精神エネルギーだけの存在と化してしまう。確かにSFらしい設定ではあるが、慣れてない読者にはわかりやすいとは言えない。しかし続編を書くにあたって譲れないストーリーであるが故にエンディングは手つかずのままだ。

 ここまで来てようやく、続編で何が明らかになるかの話ができる。しかし本書では前作に残された謎はほとんど解明されないと言っていい。それだけではない。終盤の驚くべき展開をのぞけば、かなりの部分は特に何も起こらない「宇宙の旅」の描写から出来上がっている。

 いや、もちろん本当に何も起こらないわけではない。主人公ヘイウッド・フロイド博士が乗り込んだロシアの宇宙船レオーノフ号が中国のチェン号に追い抜かれ、木星の衛星エウロパ一番乗りを果たしたチェン号が破壊され、残った科学者チャン博士が「エウロパには生物がいる」という送信を送って消息を絶つ場面は前半の山場ではある。

 ただ、著者の確かな想像力は、ボイジャー計画などの最新の科学的知見を十分に参考にして、きわめて真に迫った木星への旅を構成した筆力に活かされたと言っていい。僕ら読者は乗組員の一人としてきわめて充実した「宇宙の旅」を体感する事ができるのだ。

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posted by アスラン at 20:42| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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