2008年04月07日

決定版 2001年宇宙の旅 アーサー・C・クラーク(2008/4/2読了)

 以前に一度読んでいるはずだが印象が違う。「決定版」と銘打っているので内容が変わっているのかとも思ったが、訳者のあとがきによれば冒頭に作者クラークのまえがきが付け加わったことを除けば、本文が新訳になっただけの違いだそうだ。ただし前回の翻訳は「ハードコピー」という用語ひとつとってみても当時は意味不明でへんてこな訳文をあてていたと打ち明けている。試しに図書館でざっと拾い読みしてみたが、内容は同じでも人物の口調が映画のイメージに統一されたりしていて「新訳になっただけ」で片づきそうにない。

 著者のまえがきによると「語り草になるようなSF」を作りたいというスタンリー・キューブリックの要請を受けて脚本作りに参加したと言う。著者の想像力に制約を与えないようにキューブリックが脚本ではなくて小説を書くことを認めてくれたために、映画と原作にありがちな全く異質なものにはならず、互いに影響しあった作品に仕上がったそうだ。まさに今で言うコラボレーションだろう。

 訳者のあとがきでは、公開当時から難解だと言われ続けた冒頭のモノリスの謎とエンディングのスターチャイルドの唐突な終わり方が、本書を読んでようやくすべて合点がいったと書かれている。一方で、若い世代には圧倒的な好評を持って受け入れられたので、キューブリックは未来へのメッセージを確実に発信したのだとする批評家の文章も紹介されている。

 僕は当時の若い世代よりもさらに若い世代にあたる。当時の侃々諤々な議論などまったく無縁な世代だ。「2001年…」はテレビで何度となく放映されその都度見ているが、完全な形では見ていなかった。3時間近くもあるこの大作を当時のテレビでノーカットで放映したはずがないからだ。

 冒頭でヒトザルが〈ヒト〉としての叡知を授かるまでの長々としたシーンはコンパクトに圧縮され、投げ上げた骨が惑星、宇宙ステーション、シャトルへと軽やかにステップしていく画期的な映像美に魅せられた。子供の目には確かに結末が尻切れトンボのような見えたが、それが映画の出来を損ねるものではないと学んだのも「2001年…」が最初だった。「この結末で悪いか?」と…。

 1990年代に銀座シャンゼリゼでかつてのハリウッドの超大作がリバイバル上映された。特に僕が期待したのはシネスコと呼ばれた超横長画面で撮影された一連の名作映画の上映だった。「アラビアのロレンス」や「サウンド・オブ・ミュージック」、そしてこの「2001年宇宙の旅」をすべてこの映画館で〈初めて〉見た。もちろんテレビで見た回数を勘定に入れないでだ。いずれも画面が長いだけでなく作品自体も長く、中休みが入った。

 それだけではない。「2001年…」にいたっては、あの有名な「ァラトゥストラはかく語りき」の旋律が流れる冒頭に入る前に、オーケストラが奏でる不協和音にあわせて波のような雲のような暗褐色の画面が映し出られた。上映を待ち受けている観客の不安と期待を煽る演出で、まさに「語り草」になるキューブリックの手並みだった。

 映画と原作とでは極めて齟齬が少ないとは言え、見過ごせない違いもある。訳者はキューブリックの難解で詩的な映像の意味を小説が十分に補ったと持ち上げているが、僕には小説のSF臭の強いディテール部分が余分に思えてならなかった。

 例えば人類の祖先が登場したとされる300万年前の地球上で、ヒトザルがモノリスの威容や音をキッカケに叡知を授かる場面がある。映画では沈黙したまま不気味に立つモノリスから高周波ノイズが発信され、好奇心旺盛なヒトザルが驚愕する。直後にヒトザルは動物の骨を道具にすることを学ぶ。映画のモノリスはある意味で神だとも解釈できる。意味は必要ない。人類の進化の瞬間の感動だけを伝えようとしたキューブリックの演出の勝利だ。

 しかしクラークはモノリスの役目をはっきりと学習装置として描いている。モノリスは創造者の壮大な実験のための装置であり、遭遇した生命体に干渉して必要なら知能を獲得できるように学習の機会を与える。確かに謎はなくなった。でも詰まらなくなったとも言える。映画全編をつらぬく宗教や哲学の源泉を遡行するかのような壮大なドラマが消えてしまえば、それに正確に対応しているエンディングのスターチャイルドへの回帰シーンの狙いまでが台無しになってしまう。

 案の定、クラークは月面で見つかったモノリスの意味を正確に定義付け、モノリスが信号を送信した土星に地球外生命体の痕跡あるいは遭遇を期待して、ディスカバリー号のミッションが組まれたと書き、人口冬眠された三人以外のボーマンとプールにはミッションの真実は知らされないと読者にあっさり明かす。人間に反抗するコンピューター・ハルの事件の描き方も、かたや知能の源泉と未来の姿に関心がある監督と、あくまでSF的な理由と伏線にこだわる作家とのせめぎ合いが感じられる。

 ハルが殺人を犯すシーンの緊迫感の違いは、その後に「シャイニング」を撮る事になる映像作家としての面目躍如と言える。クラークのオリジナルの文章はSFとしての節度を守ったがゆえに少々精細を欠く。続編「2010年…」では小説が映画の設定を踏襲しているのが興味深いが、これは改めて触れよう。

 ビクトリア調のホテルの一室でボーマンがモノリスと邂逅する映画のラストは、もちろん辻褄などない。SFでありながら秀逸なSFとしてのロジックをキューブリックが拒否した故に多くの人の不評をかう事になったが、リアルな映像作り以上に映画には見るべきものがあると気づくべきだ。やはり映画と小説とは違う事が運命付けられたメディア同士だ。

 一方で本書では、かつて地球を訪れた知的生命体はいまや機械の体も不要となり、空間構造そのものに知識を蓄え、自らは放射線の生物になったと書かれる。このSF的な結末が分かりやすいと納得した人がどれほどいるのだろう。アインシュタインの理論を反古にしてスターゲートをくぐり抜けると遥かに終着地があり、その広大な基地の一室にあのホテルの一室が待ち受けている。これで映画の〈不可解〉が解けたと思うのならどうかしている。

 小説を貶めているつもりはない。秀逸なSFとしての辻褄を合わせたおかげで、「2001年…」を世に送り出した直後の著者にはその気はなかったとしても続編が書ける下地は十分にできた。キューブリックの映画は孤高のまま、燦然と映画史に残った。その後の彼には続編を作る気などまったくなかった。存在する続編映画「2010年…」はキューブリックとは何の関わりもない。続編はクラークの小説を基にして作られた。ただし、そこにはもはや監督とのコラボレーションはない。

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posted by アスラン at 15:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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