でも件の書評は一言「退屈だ」と言うものだった。「退屈だがスゴい」と言う評判から読んでみたら「スゴい」はなく正真正銘「退屈」だったと言うのだ。最近そういう感想をどこかで見かけたが、案外こういう「扇情的な印象」のみをあげつらう流行りのライターの声を真に受けたのかもしれない。断っておくが、この本を退屈だと言う人は間違いなく読み方を間違っているのだ。
斉藤は、「鉄塔武蔵野線」の著者が鉄塔をたどるだけを延々描き、そのために中途半端に物語を導入し、しかも最後に取って付けたように「ファンタジーもどき」のオチを持ってきたと書くが、そう読めたならまず自らの読解力を疑った方がいい。例えば「ロンドン駅の何番線と何番線の間にマグル(普通の人間)には見えないホグワース行きの列車が止まっている」と明らかに現実の境目に幻想の入り口を設定するのがファンタジーにお約束の物語だろう。しかし「鉄塔武蔵野線」では、現実の鉄塔そのものがファンタジーの入り口になりうる事を著者は鮮やかに示したのだ。
この作品以後、鉄塔は単なる鉄塔ではなくなった。「まさかこんなところに鉄塔があったなんて」と、見慣れた風景の切れ目から突如として出現した鉄塔にたじろぐ。いやしくも書評を生業にした者ならば、そのことに驚かなければならないはずだ。たかだか「退屈だ」などとそれこそ退屈な感想を漏らすとは彼女らしくない。
さて、ここまで書いてきて肝心の「東京鉄塔」について一言も触れてないのはおかしいようだが、要はこう言いたいのだ。「東京鉄塔」は本当に「退屈」な本なのだと。ここに描かれるのは「鉄塔をたどる」ことそれだけだ。たかだか120ページ程度の薄っぺらな本の見かけからは想像できないほど、実は前半の鉄塔の美しい写真に比して後半の文章を読み切りことは難しい。読んでも読んでも次から次へと鉄塔と架空送電路をたどる文章が現れてくる。
そして明らかにスペースの関係だからだろうか、対象となる鉄塔を微に入り細を穿つように愛情を込めて著者が描けば描くほど、鉄塔の写真がないことや、送電路を取り巻く土地勘がないことに物足りなさを感じる。著者が鉄塔になにを幻視しているか想像力だけでは補えない。そこがなにより読書を退屈にさせる。せめてすべての鉄塔が添付されていれば、どんなにか共感できたろうに。
多少なりとも印象に残る鉄塔の写真はモノクロで文章に同居してはいるが、残念ながらどの送電路の何番鉄塔かは記載されない。これは同好の士たちへのガイドブックとしても不備ではないだろうか。
実は元々あてもない散策が好きな僕としては、こういう趣向の本が嫌いではない。「鉄塔武蔵野線」に魅せられて、自分でも〈鉄塔〉が見えるようになった今、身近な送電路をたどってみたいという欲求がある。この本で描かれた魅力的な鉄塔を探してみたいという気もないではない。しかしこの本を片手に鉄塔をたどるのはちょっと難しい。
しかし一方で著者の鉄塔をたどる旅は掛け値なしに「スゴい」。脚だけでなくバイクを使っているとは言え、東京の鉄塔をたどりつくそうというところは感動に値する。特に最後に東京都の水源でもあり、水力発電により電気の供給でも大元である大河内ダムにまで鉄塔をたどっていく文章は特に感動的だ。著者が言うとおり、まさにこれが「出発の鉄塔」なのだ。