そんな彼だからこそ、ミステリーと言えば殺人が起こるものというお約束とは無縁の「円紫と私」シリーズを世に送り出す事ができた。処女作である「空飛ぶ馬」がミステリーの趣向と著者の文学趣味が合体した絶妙な短編集であった事を思い出して欲しい。
そしてさらに「六の宮の姫」に至っては、ミステリーの趣向そのものが芥川龍之介と菊池寛の作品の中に発見される。ミステリーと言えばミステリー。「円紫と私」の物語といえば物語。だが同時に作品全体が文芸批評にもなり得ている。この稀有な作品は読み手を選ぶ。純粋にミステリーとしては面白くないという声も聞く。芥川と菊池をよく知らないと分からないとも。しかし当然ながら芥川も好き、ミステリーも好き、そしてなにより北村薫作品が好きな僕にとって「六の宮の姫」は珠玉の一作であった。
北村薫ファンのあなた。あなたは「円紫と私」シリーズが好きですか?ならば本作には「円紫と私」の別バージョンが存在します。
「円紫と私」シリーズが好きなあなた。あなたは特に「六の宮の姫」が好きですか?ならば本作にはクイーンの「シャム双子の謎」についての北村薫らしい深読みが存在します。
そしてクイーンファンのあなた。あなたは聖典ともいうべき彼の著作をすべて読んでいますか?ならば本作にはクイーンファン垂涎のあらゆる引用が存在します。
最低でも「シャム双子の謎」と「緋文字」は読んでいますか?ならば本作にあるこの2作のネタ明かしを気にせず読むことができます。
さらにはキリスト教のモチーフに彩られた後期クイーンの作品群、例えば「九尾の猫」や「最後の一撃」を読んでいますか?ここには後期クイーン作品に特徴的なモチーフが使用されています。
以上の要件をすべて満たす読者(それは僕の事でもあるのだが)にとっては、至福の時間が約束された作品と言っていい。こんなに楽しい読書はなかった。
本作は北村薫と今は亡きエラリー・クイーンとのコラボレートである。まず著者が東京創元社の戸川安宣からクイーンの未発表作品の翻訳を依頼されるところから話が始まる。もちろんそんなホラ話をすぐに信じられる程、クイーンファンはおめでたくはない。「カーテン」や「スリーピングマーダー」を死後発表にとっておいたクリスティに倣ってクイーンにも未発表作品があるのでないかと期待するのがファンの心情だが、そんなものはない事が「誤の悲劇」とでも訳されるだろう未刊の最新作で明かされている。そこにはマンフレッド・リーとフレデリック・ダネイの最後の作品となるはずだった長編のシノプシス(あらすじ)が含まれている。
しかし著者はホラ話を持ち前の博覧強記を利用して延々と続ける。ホラも続ければホラでなくなるかのように、周到にもクイーン作品から多数引用し、さらにいかにもクイーンが書いたかのように訳出時の苦労話を引用に織り交ぜる事でホラ話は真実味を増す。
例えば人物名にタマカとあるが読者に違和感のないように「田中」に訳者の一存で変えただとか、ウニの軍艦巻きらしきものを作中のクイーンが食べるシーンでは引用に「こう書かれるといかにもまずそうだ」との訳者としての意見を加える。
可笑しいのはミステリーファンへのサービスというか著者らしいイタズラもちらほらあって楽しい。こんな引用がぬけぬけと書かれている。
この節の文章中には、奇妙なことに現代日本の推理作家、有栖川有栖、若竹七海両氏のそれと非常に似通った箇所がある。…まことに、この世ではどんなことでも起こりうるものである。
要するに、二人に乞われたのか乞うたのかは知らないが、彼らの手になる訳文があるという趣向だろう。いやはや著書らしいレトリックだ。
探偵兼作家のクイーンは、日本の出版社の招聘に応じて日本の地に降り立つ(決してフレデリック・ダネイの訪日を想像してはいけない)。そこで日本のクイーンファンとのふれあい、観光、講演などの合間に遭遇した連続殺人事件を解決するというのがあらすじだ。ところがある大学(早稲田でしょうね)のミステリー研究会のメンバーとの懇談会で、一人の女性・小町奈々子との出会いがクイーンをいたく感激させる。
このクイーンと奈々子の関係がまさに円紫と私の関係と同形なのだ。クイーンに憧れて自らの謎をぶつける奈々子に、「円紫と私」シリーズの「私」を見ることができる。そこにはいくつかの謎があるのだが、中心となる謎は「五十円玉二十枚の謎」である。これだけとれば先のシリーズに含まれる短編のひとつになりうる。
奈々子のアルバイト先の書店のレジに毎週末両替に訪れる男は、通常とは逆に細かいお金五十円玉二十枚を千円札に両替してくれと頼む。一体どんな理由があって細かいお金からお札にまとめるのだろう。しかもなぜ繰り返し同じ行為を同じ店にしにくるのだろう。「私」が聞けばクイーンならぬ円紫は「それは見過ごせませんね」と深刻な顔つきで謎を解き明かすような気がする。
もうひとつのおおきな謎は、クイーン作品自体の謎だ。
何故「シャム双子の謎」にはクイーン国名シリーズでおなじみの「読者への挑戦」がないのか?
ミステリー研究会のメンバーとクイーンとの懇談会の席で、奈々子がクイーンに質問する内容がこれだ。というより奈々子が自説を展開してクイーンが驚嘆するというシチュエーションだ。これには実はたねあかしがあって、北村薫自身が若き日にクイーン作品の中でもとりわけ好きな「シャム双子の謎」についてのクイーン論を書いた事があった。それは未発表であり原稿もいったんは失われたらしいが、今回クイーンのパスティーシュを書くにあたって、その論文のモチーフをそのまま作中に取り込んでいる。この部分がいわばクイーン版の「六の宮の姫」なのだ。
奈々子の深読みはおよそ一介の女子大学生らしくない秀逸なもので、だからこそクイーンをうならせるのだが、通常の読者にはわかりにくいだろう。ミステリーファン、クイーンファンにとっても決してわかりやすいものではない。作品のトリックの謎についてではなく、トリックを際だたせるための、もしくは様々な形でミステリーの醍醐味を提供し続けた神様クイーンの玄人らしい仕掛けについての言及だ。
「六の宮の姫」の謎の核心が、現実の芥川と菊池の真実の物語であったかどうかは謎の面白さとは別物だったように、このクイーンの仕掛けについても真実はどうなのかは正直分からない。奈々子の深読みひいては著者・北村薫の深読みは見事だが、作中人物にも言わせているように「シャム双子の謎」の読者で、著者のような読み方をしたものはかつていない。それは著者の独創であるとも言えるし、そんな読み方が不要な程に作品そのものがよく出来ているからとも言える。本来ならば本作のように作中の一部にはめ込むのではなく、クイーン論または「シャム双子の謎」論単独の作品として読んでみたい。
いずれにしても、「シャム双子の謎」をもう一度読んだ後で再び本作に戻ってこよう。また楽しみが増えた。
もう一言。本作は「あらずもがなの序」と「訳者によるあとがき」を除くと第一部〜第四部の構成。これはまさしく「シャム双子の謎」の章立てそのもの。こんなところにも著者のこだわりがあった。お見事!
(2005/08/21読了)



