わたしが先に舌を入れると、タケオがちょっと引く気配があった。
「あ、ごめん」とわたしが言うと、タケオは律儀に舌を入れなおしながら、
「だいじょうぶっす」と答えた。舌を入れているので、らいりょうるっふ、と聞こえた。
著者と作中の「わたし」を重ね合わせる事ほど単純な考えもないものだとは思うが、同僚のタケオに恋煩いしてセックスに対するタケオの淡泊さにいらだつ「わたし」の姿には、著者の近影から受ける「下半身の事など我関せず」というカマトトぶった印象(失礼!)とのギャップにドキドキしてしまう。下世話な話だろうが、男とはそういうものだと大目に見て欲しい。
何故そんな事を言うかというと、著者は一貫して女性の性を作品の中に織り込んでいる作家だからだ。「センセイの鞄」のツキコさんがセンセイへの思慕が高じるとトイレに行きたくなるのも性の表現なら、「神様」のくまに対する越えてはならない禁断の恋のひかえめな表現もそうだった。と大見得を切っておきながら本作を含めてまだ3作なのだが、そう思わせる性に対する思い入れが3作には明らかに見られる。
そして本作は特に艶っぽいのだ。ツキコさんや「神様」に出てくる「わたし」とを著者に重ね合わせるのは、どこかほのぼのとした性欲で著者にして無理がないように感じるのだが、本作の「わたし」のタケオに対するあらわな性欲は少しだけ男の読者をドキッとさせる。女性の読者にしてみれば「なんだ、そんな事。当たり前でしょ」と言われてしまうかもしれない。だが著者の描く女性がいわゆる今時の若い女性とは違って、一見すると古風で大和撫子的な感受性を持ち合わせている事を考えると、この少しだけドキッとさせるあらわな性欲は、どんなにあけすけな性表現よりもリアルさがある。
例えば「蛇にピアス」や「DeepLove」に描かれているまさに今時の女性が直面する現実の性は、露骨でドロドロとして淫靡でそれなりにショッキングではあるかもしれない。しかしどこか生身の人間が感じる性に対する感覚と遊離している。レイプだろうがSMプレイだろうが、どこか頭の中で知識としてもつ残虐さと照らし合わせた上で、女性の性が脅かさせる場面を描いている感じが残る。するとこれらの作品では、弱者である女性が受ける性体験が一種のロールプレイングゲームにようにも見えてしまう。リアルと言えばリアルだが、それもどこかニュースや記事やうわさ話などからすくい上げた情報のもつリアルさに過ぎない。身体感覚のそれではない。
一方、本作の「わたし」に限らず中野商店の主人や彼の姉や愛人に至るまで、どこか落語の登場人物のように描かれていて、同時にそれぞれが人間くさく生きていて他愛もない事に一喜一憂している。その中で男と女のそれぞれの性は生活の中にしっかりとはまりこんでいる。仕事して食べて遊んで寝て起きて出会って愛して怒って別れて、そしてまた出会ってという、とりたてて何があるわけでもない普通の人の普通の生活の中に、性がゴロッと同居している。だからこそ艶っぽい。
昔の落語には艶笑話がいっぱいあった。吉原を描くのは決して特殊な風俗への興味ではなくて、それが江戸時代の男と女の性が当たり前のように生活の中にはまりこんでいる一つの場面だったからだろう。艶笑話とはよく言ったもので、艶っぽい話はおかしみに満ちている。悠揚せまらざる口調で「だからさあ」と唐突にソース瓶を取ってくれと言うような主人が、とっくに店員にはばれているのにばれていないと信じて仕事中にせっせと愛人通いに精を出すというおかしさ。そして決して間の抜けたキャラクターというだけではなくて、一番好きな愛人と別れるのを機に古道具屋の商売にも見切りをつけて新たな人生の転機につなげるという人生の意外さや人間の面白さが、中野商店の主人やその取り巻きにある。そのなんとも言えず人間くさい生き方や性格が「わたし」やタケオを引きつける。
「わたし」がちょっとだけ性があらわだったりタケオが妙に淡泊だったりするのは、まさに艶笑話を持たない今時の男女だからとも言える。出会ってその日のうちに手をつなぐキスをするHもするという今時の男女だから、艶っぽくならない。あらわなのも淡泊なのも「艶」のなさの裏表だ。だからこそ中野商店という空間は彼らにとって人生勉強の場であり、何より男女の事が艶っぽくておかしくて面白いと知れる稀有な場であったのだ。
それを「わたし」もタケオもそして読者である僕らも、中野商店が失われた時に初めて知るのだ。
(2005/08/01読了)



