2008年02月13日

夕凪の街 桜の国 こうの史代(2008/1/26読了)

 久々に広島の原爆を取り上げたマンガに出会った。中沢啓治「はだしのゲン」以来と言っていいだろう。それだけ今では原爆を題材にする事が難しくなっているということだろう。人は自らの苦悩や悲しみを受け止める事に汲々としていて、あえて他人の分を横取りしようなど考えたりはしない。

 では僕はどうかというと、原爆との接点は中学の国語の授業にさかのぼる。それがなければひょっとしておおかたの日本人と同じように知ろうとしないで素通りして生きてきたかもしれない。

 中学の国語教師はきわめて左傾化した教師だった。教科書はめったに使わず独自のプリントを使って詩の読解を中心に授業を進めた。教材となった詩はいわゆるプロレタリア文学のジャンルが多く、たとえば国鉄職員が書いたという詩にはヘドがでるようなトイレ掃除の日課が描かれる。そして「便所を掃除する女性はよき母親になれる」という迷信を引用した作者は、「私は男だからよき伴侶に出会えるかもしれない」と穏やかで前向きな独白を漏らす。ツラい仕事を慰撫する一種の労働賛歌と言っていい。

 しかしなんといっても強烈に僕の心に焼き付いたのは、被爆詩人・峠三吉の原爆を題材にした詩だった。特に「その日はいつか」は、何時間もかけて一連一連じっくりと〈何が書かれているか〉を考えさせられたので、今になっても忘れがたい刻印を胸に刻むこととなった。

 参戦したロシアに日本の割譲権を与えたくない米国の身勝手な思惑から原爆投下が決定されたという歴史的事実を知って、僕は作者同様に日本人として憤ったし、当時の広島市内の生身の人間にどんなに理不尽でどんなに残酷な事が起こったかを、一人の若い女性の炭化した亡骸から克明に描き出していく、悲鳴にも似た詩の勢いにたじろがされた。そして恥辱にまみれた女性の魂がたとえ許しても、許し難いという怒りが日本人全体に満ちる「その日」が来ることを夢見て、原爆も戦争もないほんとうの平和を渇望する作者の結句に、楔を打ち込まれた気がした。

 当時の国語教師は、僕がそうだったように生徒がナイーブすぎる感情を抱くことには無頓着だったように思う。彼が望んでいたのは文章の上っ面だけを読んで満足するのではなく、言外の意味や複数の解釈がある事をじっくりと考える姿勢を学ばせようとしていたはずだ。しかし僕のように、題材の圧倒的な残酷さを真正直に受け止めようとしておぼれそうになった生徒がいたことも確かだ。

 深く読むことが授業のねらいだったから、作品そのものにのめり込むのは時として読解の邪魔になる。中学三年間についに僕は教師が望む読解力が身に付かなかったように思う。代わりに原爆のある確かなイメージが焼きつけられた。国語教師が希望者に貸し出したマンガ「はだしのゲン」を読んで、僕のイメージは一層コントラストが強くなった。

 あのモクモクと立ちのぼるキノコ雲は、原爆を語るにはあまりに抽象的だ。あれの意味するところは、たかだか威力が桁はずれの爆弾が落とされた事を示す空虚な記号にすぎないのだ。僕が当時ほんの一瞬でもかいま見たのは、川に死骸が山となり、死体の腹部はガスで膨れあがり、死に瀕した者は水を求めて焼けただれた手をあげ「ミズヲクダサイ」と口々に叫びをあげ、生者は死者の靴や帽子をくすねてやっとのことで生き長らえる光景だ。

 たとえいっとき生き逃れても、やがては毛が抜け落ち高熱がでて死の床につく。これが原爆を落とされた広島と長崎に共通する、具体的な死者と生者とのイメージだ。いまや広島の平和記念公園に行かないかぎり、このような具体的な〈原爆〉を想像する機会を日本人は持てなくなってしまったのかもしれない。

 あとがきで書いているように、広島生まれの著者が被爆についての無知を恥じながら、60年を経た今でも〈被爆という現実〉を生きている人々がいる事を描き出している。絵の和やかな見かけからは計り知れないほど強烈な結末に、多くの読者は不意打ちされ、たじろぐはずだ。

 もちろん、まだまだこんなもんじゃないと物足りなさを感じた人もいるかもしれない。主人公の皆実(みなみ)が戦後に生き延びて幸せを享受すればするほどに幻視してしまう〈あの日〉の地獄だけが、本書で描かれる〈ほんとうの八月六日〉の光景にすぎないからだ。要するに、彼女のナイーブな心象風景と、何事かを象徴しながら何事も語らず沈黙し続ける原爆ドームのスケッチにしか、本書の原爆の核心はない。

 結局は死にゆく運命から逃れられなかった皆実は、「今になって、また一人死なせたこと」を原爆を落とした人は「ちゃんと」喜んでいるだろうかと独白する。だがしかし、彼女の精一杯の皮肉を受け止めるのは、またしても当時中学生だった僕以上にナイーブな今の若者以外にいない。この怨嗟に満ちた言葉は原爆を落とした当事者や当時国に届くことはおそらくない。

 「夕凪の国」のラストで「まだまだこのお話は続きます」と著者がいみじくも語ったのは何故だろう。それは、八月六日の原爆の記憶を風化させない事だけが作品のモチーフではない事の意思表明に違いない。過去の記憶を再現するだけでは、原爆がもたらした〈今〉を取りこぼしてしまう。

 続編である「桜の国(一)(二)」で繰り返し描かれるように、今なお原爆の負の遺産に苦しめられ、さらには〈被爆〉によって差別されるという理不尽な現実を生きている人々がいる。ここに著者の真なるモチーフがある。これは正直僕にも意外な目新しい視点だった。

 たとえば「はだしのゲン」を僕は当時第4巻までしか読んでいない。その後、全10巻まで刊行されたようだが完結したのかすらしらない。ゲンは被爆し原爆症を発症しながらも力強く、雑草のように立ち上がる。そのたくましい力強さが、原爆を葬り去る唯一の原動力だ。しかしそのためにはゲンを少年のままに封じ込めねばならないのも必然のような気がする。ゲンは皆実同様に〈ほんとうの八月六日〉の風景と切り離しては存在できない主人公だからだ。

 だからこそ、皆実を死なせてしまった「夕凪の街」では余所に預けられて被爆をまぬがれた弟・旭とその娘の物語にこそ、被爆二世・三世が生きる現在が描かれる。それをどう受け止めるかを今の僕も新たな世代も試されているような気がする。

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posted by アスラン at 13:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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