ちょうどキッチンで本を呼んでいた。その本には水とゴンドラで有名な観光都市を訪れて死に魅入られてしまう男が描かれていた。薄っぺらな文庫の見た目とは違ってなかなか頁ははかどらなかった。気晴らしになにげなくテレビをつけたらちょうど千秋楽の朝青龍対白鵬の取り組みが始まるところだった。
勝負はあっけなくつくのかと思ったら、見ごたえのある大一番となった。白鵬が渾身の力で朝青龍を投げ飛ばしたとき、世の中のおおかたの予想を裏切った気がした。誰もが白鵬に勝ってほしいと願っただろうが、勝てるとは思わなかったろう。まるで映画かドラマの結末のようだ。こんな勝負がいつでも見られれば相撲も悪くはない。
「でも外国人どうしの優勝決定戦なんだぜ」
「そんなの、面白い真剣勝負が見られればどうでもいいことだろう」
「それじゃ国技としての伝統が守れない」
「国技ってなんだい?そもそも国なんて見たことも手に触れたこともないじゃないか」
「それはそうだな」
「だろ」
どうもテレビを見ながら独り言を言っていたようだ。トーマス・マンの「ヴェネツィアに死す」に出てくる老いた作家の時代にテレビがあって、彼がこの大一番を見ながらテレビに向かって独り言を言えたなら、彼はたかがギリシア彫刻のような美少年に魅せられて〈死〉を選択することもなかったんじゃないだろうか。
「テレビは頭を腐らせると誰かが言っていたよ」
そうかもしれない。でもテレビは孤独を回収する装置でもあるんだ。アレクサンダー・グラハム・ベルが発明した電話がそうであるように。
それにしても僕は誰と話しているんだろう?
もちろん自分自身の内なる声と対話しているのだ。伊坂幸太郎のいくつかの作品では、語り手あるいは著者のモノローグの二重化によって対話が出来ている。つまり対話は対話ではなく、あらかじめ振り分けられた独り言にすぎない。当然のごとくどの登場人物も似かよった警句を吐き、似かよった同意を示す。はじめからひとりの頭の中にある考えなのだから、否やがあるわけがない。本書は特にそう感じさせる。
だが、それが欠点にならないところが著者のスタイルの独特な点だ。だれもが似た言葉を吐き、短いエピソードとして警句や寓話が積み重ねられていく。登場人物はコマに過ぎないが、最後まで読めば一つの寓意が浮かび上がるように周到に構成されている。その寓意たるや非常に爽快で著者の作品は必ずと言っていいくらい読後感がいい。
寓意には、本書で語られるように「本当に深刻なことは、陽気に伝えるべきなんだよ」のような著者の信念めいたものが込められている。それは極めて軽やかであると同時に、実にナイーブな倫理観が伴っている。
これに似たものに僕はすでに出会っている。相田みつをの詩だ。例えば「うばい合えば足らぬ わけ合えばあまる」のような、詩というよりは標語みたいな決め台詞は、多くの人間を否応なしに立ち止まらせる。それは自らの生き方をエクスキューズする強烈な倫理を一挙に突きつけられるからだ。共感がするか反発するかは読み手側の勝手だが、一つだけ確かな事は相田みつをの詩にナイーブさはないという事だ。ずけずけと人の心に土足で入り込む無神経さがある。
一方で、伊坂幸太郎の中にある倫理感も読者の生き方に訴えかける力を持っている。それは個人的な倫理感である以上、多少の疑義とうさんくささを伴わずにはいられないが、彼もしくは彼の世代が生まれもってきたナイーブな感覚にくるまれているがために、相田みつをの詩に感じるような反感は起こりにくい。
本当は、彼の倫理そのものを一度は疑ってかかるべきだ。だが、この「重力ピエロ」という作品が寓話ではあるが〈寓意〉はないのだと主張するように、著者には信念で強く自らを武装しようという頑なさはない。先に挙げた「本当に深刻なことは、陽気に伝えるべきなんだよ」という言葉は、信念というよりは祈りに近い。あえて言えば〈受動的な信念〉とでもいうものだ。そのナイーブさがある限りは、こちらも軽やかな文体にくるまれた彼の信条につきあってもいいかなという気にさせられる。
ちなみに、今さらだが本書はミステリーだ。寓話としても読めるがミステリーとしても読める。本当は区別する必要などないのだが、本格的なミステリーを期待するとちょっと肩すかしを食わされる。というのも、ミステリーとしてはケレン味に乏しく脇道に入ることなくすべて直線的に結末へとストーリーは向かってしまうからだ。途中でネタ割れしてしまったミステリーマニアも多かったのではないだろうか。とするとやはりミステリーとして読むべきではない。ミステリーとしての謎と、寓話としての謎の二重化を味わうべき作品なんだろう。
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2008年02月06日
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