2008年01月27日

探偵小説の論理学 ラッセル論理学とクイーン、笠井潔、西尾維新の探偵小説 小森健太朗(2007/12/28読了)

  残念ながら、この著者のほかの著作は読んだことがない。作品のタイトルなどをつらつら見ると最近流行の〈メタミステリー〉ではないかと思え、ほかの若手作家の作品同様になかなか触手が伸びない。この本にしてもタイトルは魅力的だとして、副題の仰々しさをみるとなんとなく手控えたい気になってしまう。

 著者は哲学科を専攻していて今回のタイトルの「論理学」も言葉のあやではなくて文字通りの論理学を題材にしている。しかし専攻したからといって、真の意味で哲学を物したかどうかはわからない。単なる頭でっかちの作家の戯れ言を聞くはめになるかもしれない。なにしろ「初期クイーン論」などは、読んでみて初めてバカ話だと気づかされた。用心に越したことはない。しかも著者は法月の評論に「先を越された」と正直に告白していて、先行者のインスピレーションに敬意を示している。なんだ、やはりバカ話の続きか。ところが著者は法月の目の付けどころは認めるが、柄谷行人の〈ゲーデル問題〉をクイーンの初期作品に適用する根拠については疑わしいと思ったらしい。これは筋が通っているかもしれない。

 しかもクイーンなどの作品に顕れる「探偵小説の論理学」の核心には、ゲーデルの不完全性定理を持ち出すよりも、ラッセルが大著「プリンピキア・マティマティカ」で示した7つのパラドックスの一部が、いわゆるメタミステリーに不可避的に起こりうる問題を説明するのに適切だと述べている。

 肝心のメタミステリーの分析に入るまでに、延々とラッセルが当時「数学の危機」と言われた状況を打破するために、論理学になにを導入してなにを果たそうとしたかをスケッチしていく。さらに果たせたことと果たせなかったことの境界を明らかにする。

 果たせなかった事と言えば、ゲーデルが明らかにしたように、ヒルベルトが目指した「無矛盾の数学体系が可能であり、体系内部で無矛盾であると証明できる」という計画の不可能性である。この部分が非常にクローズアップされやすいが、ラッセルが果たした〈形式的な記述による論理学の厳密化」の方法こそが顧みられてしかるべきだと著者は考える。

 そして、もしクイーンの初期作品に顕れるような形式化の問題が、論理学でいう述語論理で記述できるならば、もしかしたらラッセルが言うところのパラドックスとして扱いうる問題を露わにするかもしれないが、それにはあまりに記述が複雑すぎて論理学が扱う範囲を超えてしまうとも分析している。要は柄谷行人が主張して法月綸太郎が鵜呑みにした〈ゲーデル問題〉は、数学や論理学のような記述理論で展開できる体系にこそ本来適用されるものなのだ。「初期クイーン論」での法月の主張の根拠ばかりでなく、お手本とした柄谷の考えそのものが曖昧だということも著者は明らかにする。

 しかし、決して「初期クイーン論」の目指したところが間違っているとは著者は考えない。つまり学としての論理(ロゴス)そのものではなく、現実の社会や人間の言葉で説明されるもの・約束事などを〈ロゴスコード〉(著者の造語)と定義して、そこから引き出される矛盾がラッセルが示したパラドックスと同型になる場合に、起こりうる形式化の問題を〈比喩的〉に「探偵小説の論理学」として扱いうると主張する。あくまで比喩的というのがポイントで、厳密な論理学では解く事もかなわないし本来解くべきものでもない。

 作品に厳密な論理的枠組みを与える(もしくは与えるふりをする)クイーンのような作家の生み出すミステリーでは、以下のような公理が存在する。この公理は著者の言うところのロゴスコードでもある。

(公理1)叙述の真実性の保証
(公理2)探偵存在の保証
(公理3)犯人の行動の合理性の保証


 たとえば公理1は、形式的に〈語り手〉が登場人物(容疑者)と切り離されて真実を隠さず述べていなければ、読者は正しい謎解きを行う契機を失うと主張する。クリスティの「アクロイド殺し」が時に非難されつづけてきたのは公理1を侵しているとみなされるからだ。

 公理2が言うところは、探偵そのものが語り手とは別の意味で真実を追究する英知であり続ける事が保証されていなければならない。読者は探偵と同じものを見聞きし、探偵と知力を競い合う事で満足のいくべき推理を展開することが可能となる。決して〈語り手=著者〉の恣意的で独善的な謎解きであってはならないのだ。

 そして当然ながら犯人にあっても探偵と呼応するかのように合理的精神による合理的犯罪を犯す存在でなければならない。それが公理3の意味するところだ。

 ところが現実の犯罪は偶然や衝動や快楽による殺人に満ちている。合理的である犯罪の方がむしろ少数だろう。そうなると探偵そのものも無用の長物になりかねない。リアルな現実を描いたミステリーに探偵は出てこないのは時代の趨勢だ。クイーンの時代であってもそれは変わらない。クイーン中期の傑作 「靴に住む老婆」では、いったんは狂人が犯人とされ、のちに合理的な行動だったとして別の犯人が提示される。これ以後、クイーンのミステリーは二段構えで犯人を提示する構成を取り続けるが、著者はここに「探偵小説の前提と現実の快楽殺人とのジレンマを見いだせる」と考える。これはまさしく卓見だ。

 もうひとつ、本書には卓見がある。炯眼と言うべきか。〈ミステリーの形式化〉を追求したクイーンの初期作品では〈メタミステリー〉の難問(アポリア)を不可避的に引き起こすという主張に対して、真っ向から否定している点だ。たとえば「シャム双子の謎」での誤った手がかりが〈メタ証拠〉であり、「ギリシア棺の謎」での探偵と同等の知能をもつ犯人が提示した疑似犯人が〈メタ犯人〉であるとして、いずれも探偵が真実に到達しえないという主張が存在する。

 しかし、著者はこう述べている。

 ある容疑者が本当に厳密に犯人であると証明されるのかと問うてみれば、論理性の高いとされる本格ミステリーの諸作でも、そういう厳密な断定には耐えられない。かと言って、それを探偵小説に内在する固有の問題であると取り違えてはならない。


 ここが本書の最も重要なところだ。もっぱら「初期クイーン論」に代表される〈メタミステリー〉による「本格ミステリーの構造的問題」をうんぬんする批評では、「論理性の高い」ミステリー作品を〈論理的体系〉と同一視することで、体系そのものが瓦解するほどの欠陥を内包していると殊更に言い立てている。しかし、そもそもが現実の社会や人間の行為に厳密な論理を適用する事などできない。著者が言いたいのは、「探偵小説」のロゴスコード(公理)が引き起こす問題は「論理学」の範囲で〈比喩的〉に扱いうるが、だからと言ってそれが探偵小説を成立させなくするほど強固な問題にはなり得ないと断言しているのだ。

 僕にとって残る問題は、やはりクイーンがどこまで意識的に「ミステリーの形式化」に取り組んだかという点だ。クイーンがというより、今やミステリーの構成を担当していたと知られているフレデリック・ダネイが、という事になる。彼がどの程度数学や論理学に関心があって、ミステリーに意図的に論理学のエッセンスを持ち込んだのかどうか。

 著者は「(クイーンは「シャム」で)ラッセルの記述理論を念頭に置いていたのではないかと思われる節がある。」と書いている。たとえばどういうところだろう。

 ダイイングメッセージを残した主体が偽である可能性と、内容が偽である可能性をわけて考え、その上でなお個別要素の対応可能性を場合分けして検討している。そのあたりの構造分析は、明らかにラッセルの論理学的成果と対応性があり、パラレルである。


 大変興味深い指摘だが、僕には手にあまる分析だ。「シャム双子」をもう一度読んだ際に、この点を意識して読んでみるとしようか。

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posted by アスラン at 05:29| Comment(0) | TrackBack(1) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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