2005年10月13日

徹底抗戦!文士の森 実録純文学闘争十四年史 笙野頼子

 もう読んでから2ヶ月も経つのか。書評とは読んですぐ書くべき物だとつくづく思う。細かい事を忘れてしまうのと、第一印象ばかりが強調されて固着化してしまうからだ。

 とは言え、前半部分だけ読み終わったところで感想めいた事はすでに書いている(「文士の森」は一冊ではない)。

 ただいずれちゃんと書評を書くつもりだったから、だらだらと感想だけを書きつづってしまった。改めてまとめた事を言ってみる。(でも忘れてる部分もあるから、やっぱりダラダラ感想かもしれない。)

 まず、事の発端は評論家(何の?)・大塚英志の文芸誌批判の記事だった。これは一般には「売り上げ文学論」と称される事になるらしいが、大塚はそこで売れない文芸誌が何故生き残っているのか、文芸誌の読者など数百人しかいないと断じた。その上で、「文学」などすでに終わっているという純文学批判を行なった。

 元々は漫画雑誌の編集に携わっていた大塚が、サブカルチャー論を武器に文芸評論へとシフトしていく中で、今回(といっても14年前)の記事を書いたらしい。その後、何故か批判をしていた文芸誌の一つ「群像」の文芸時評を受け持つ事になって、当時すでに群像新人文学賞でデビューして独自の文学を開拓していた著者・笙野頼子が噛みつく事になる。しかし当時の編集長が大塚寄りだった事もあって著者は逆に「群像」を追われる事になる(当時、新人文学賞の審査員をやっていたがやめさせられる)。著者はその後も徹底的に大塚批判を展開することになる。

 この辺の論争の経緯を、実は本書から理路整然とすくい上げるのは難しい。前にも書いたが、論争モードに入った著者の揶揄と諧謔全開の文章のほとんどは飛躍が多くて論旨が先走っているので、前半の150頁くらいは、そんなわけのわからん状態がひたすら続く。

 ただこんな投げやりな文章が続くのは、大塚との論争の経緯はすでに『ドン・キホーテの「論争」』という本で書いてるから繰り返しは言わないという事のようだ。つまり知ってる人は知ってるし、関心があればついてきてくれる。知らない人は遅れずついてきてね。遅れても面倒はみないよ、というまことに親切(!)な態度で書かれている。しかもご丁寧に誤植・推敲御免で初出のままの乱雑さで、ゴロッと雑文が寝かされている感じだ。

 著者曰く大塚某のいわくありげな括弧付きの「文学」が気にくわないあまりに、自らの文章では著作名に括弧を付けない。いくらなんでも手抜きじゃないですか?水晶内制度ってどんな制度だったっけ?わたくし考えこんでしまいました。

 論争であるからには、大塚の文章があり、著者の批判があり、さらに大塚の反論があり…、という構成ならばわかりやすいが、少なくとも本書には大塚の文章そのものは掲載されていない。載せたくても著作権の関係で無理なのかもしれない。新聞記事の小さなコピーが載っているだけだ。『ドン・キホーテ…』ではどうだったのかは未読なので分からない。ただ著者の言い分では、一度もまともな論争になった事はないようなので両方の批判がキャッチボールされた事はないようだ。

 大塚は逃げ回った挙句に(論争に)応じてもいいと言いだした文章が、著者の大塚批判が載った雑誌に同時掲載された。それが、著者の憶測を待つまでもなく大塚と大塚寄りの編集長の画策である事は明白で、「同時掲載」というタイミングで大塚が論争に応じたために、事情を知らない読者には逃げているのが自分の方に見えてしまうと著者はこだわる。

 論争がキャッチボールである以上、雑誌では通常1号遅れで反論が載るのが業界の常識だという主張は分かるにしても、逃げ腰に見える見えないという裏の経緯を推定する著者のこだわりはやはり一般読者には理解しにくい。

 ここまでで分かるのは、著者はパワーハラスメントにあっているという事だ。きっかけは純文学論争だったはずだが、着地点はパワハラである。つまり論争の大半は大塚への私憤に過ぎない。いや性差別の問題に還元できるはずだ、さらには明治以降の国家を背景にした日本がもつ社会構造の本質に関わる問題だと投げかける事も可能だが、そういった間接証明的な論旨のすりかえは著者がもっとも嫌うところだろう。

 だとしたら本のタイトルの大仰さはなんとした事だろう。ここに書かれている事は文学論争ではない。私闘だ。もし題名がレトリックのつもりだったとしたら迂闊な僕は著者の諧謔にまんまと引っ掛かったということになる。文学論争を期待してはいけないのだ。

 前にも書いたが「文士の森」のなんたるかも説明せずに「森」の環境保護を訴える著者は、さながら捕鯨船にまとわりつくどこぞの環境保護団体のような手つきで文士の代弁者を気取る。守られる森も文士も果たしてどこに存在しているのか、いつかれらは著者に守って欲しいと権利の委譲を行ったのか。やはり代弁するという行為のうさんくささはつきまとう。

 もちろん著者が代弁者を気取るのは、大塚某を末端とした西洋思想にかぶれた批評家たちから純文学という創造的営為を細々と続けている作家たちを守るという大義あっての話だ。「文学は死んだ、終わった」という声高な叫びがまかりとおる文壇で、自らを含めて著者のようなマイナーではあるがきちんと文学の明日を見据えた作家たちは今まさに作品を産み出している。そう主張する事は間違いではない。しかし、それはあくまで文学理論を振りかざす批評家と作家とのいわば身内のケンカに過ぎない。読者を道連れにするのはやめてくれと言いたい。

 売り上げ文学論が勝手に文学の始末をつけたがるのも極論だが、文学的行為は純粋に売り上げ抜きで自立していると主張するのも一読者には極論に見える。おそらく極めて頭のいい著者の事だから、「目には目を 歯には歯を」式に極論に極論をぶつけているだけかもしれないが、売り上げで作品の価値が決まるかのような現実は無視できない。「文士の森」がどこかにあるとして、そんなユートピアで書かれている文章が価値があると一般読者に説得するのは、巨大な望遠鏡や巨大な加速器を作って宇宙の謎にせまる実験物理の分野が私たちと極めて関係があると説明しようとする科学者の言動と似ている。要はわかりにくいという事だ

 さらには純文学を売り上げで評価する姿勢を批判するのに、「日本以外の国々の文化ではありえない、ドイツでは過激な右翼が文学無用論をぶち挙げる時に売り上げをうんぬんするぐらいだ」とアジっているが、それが日本国内の文学事情となんの関係がありますか?それこそ西洋のお仕着せの思想を持ち込んで「文学は死んだ」といいつのる批評家と何ら変わらないでしょう。

 思うに著者は作家と批評家の二足の草鞋をはいている事が躓きの原因になると思う。創作家としての著者は、批評家が文学を西洋思想でもてあそぶのを見過ごせない。現に今もあふれんばかりに純文学的行為は作品としてあちこちで結晶しているのに、「死んだ」との戯れ言は何事か。この言い分は大変分かりやすい。

 一方で、批評家としての彼女は他の批評家の批判に自分が隠し持っている作品への批評軸を開陳する。つまり小林秀雄や江藤淳、ひいては柄谷行人などの日本の文芸批評家たちは、明治国家を頂点とする制度としての文学という視点から抜け出せない。そうである以上、現に文学の最前線を走っている女性作家たちの革新的な創作に目を向ける事ができず、「文学は死んだ」などと口走ってしまう。ここらへんの思想的展開はもっともっと議論されてしかるべきだとは思うが、それに対置して批評家・笙野頼子は、江戸以前の「土俗」をキーワードにして、文学の現状と可能性を語る。それは作品にも如実に反映しているようだ。(ようだというのは、まだ小説を一冊も読んでないので。)

 「土俗」という視点が明治国家を頂点とする「制度としての文学」論を破壊する力を持つのか否かは大変興味があるところだが、なにより著者が柄谷などの批評家を批判する根拠は、自分はマイナーなポジションを維持しているので権威をかざした上での主張ではないという一点だと思える。つまり「土俗・土俗・土俗」という叫びが新鮮味を持つのは、「文学はいらない」「文学は死んだ」という論点がメジャーな文学論としてまかり通っている間だけだ。しかしその「文学無用論」の人気もいまや下降線をたどっているのではないか。

 とすると、今度は著者・笙野頼子がメジャーに踊り出ないとも限らない。その時「土俗」という原理で「文士の森」の文士たちを選別する姿勢が、笙野の劣化コピーたちを生み出す土壌になるのは目に見えている。柄谷の劣化コピーたちが西洋思想を使って文学をもてあそぶのを批判した笙野とその劣化コピーたちが、日本古来の思想を使って文学をもてあそぶ。そう批判される日が、そう遠くない時期に訪れるだろう。もちろんメジャーになればの話ではあるが…。
(2005/08/12読了)
posted by アスラン at 16:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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