2008年01月09日

007/死ぬのは奴らだ イアン・フレミング(2007/12/6読了)

 シリーズ第一作「カジノ・ロワイヤル」を読んで、原作のトーンが映画とはひと味もふた味も違うことを初めて知った。と同時に、第二次大戦終結後の東西対立という舞台設定は今や古くさくなってしまったけれど、主人公ジェームズ・ボンドのヒーロー像は決して古びてはいないと感じた。愛する者を持たず何人にも頼らないクールで細心な等身大のスパイであるところに意外な新鮮味がある。

 今回のボンドは前作よりもやや心をゆるめた感じがする。なにせ「カジノ・ロワイヤル」では、頼むべきは自らのギャンブルの腕前とスパイとしての臆病すぎるくらいの気遣いだけだ。ものすごい緊張を強いられるなか、ギリギリで任務を遂行する苦悩に満ちていた。今回の出だしでボンドの気持ちにゆるみが感じられるのは、アメリカという別の意味で諜報機関が充実している異国に、いわば単身赴任したことからくる勝手違いに原因がありそうだ。何から何まで調査のお膳立てはCIAがやってくれる。服装も正装も用意してくれる。これはどうしたことかという気分になるのは当然だろう。

 ボンドを待ち受けていたFBIは、あまり面倒をおこすなと言わんばかりにやんわりと「われわれの(敵との対応の)方針は、゛われも生き、彼も生かす゛というものだ」と忠告する。すかさずボンドは、我々のモットーは「死ぬのは奴らだ」と言い放って事なかれ主義の彼らを唖然とさせる。読者からすると007の見栄の切り方が潔くて心地いい場面だ。

 その後のボンドは前作でも行動をともにしたCAIの顔見知りと再会して、今回も協力しながら敵の動向をさぐる任務につく。警察もFBIもあてにならない。最初の朝にボンドは気を取り直してホテルのルームサービスで、朝食にしてはとてつもない量の料理を食い、オレンジジュースと珈琲をがぶ飲みして、映画のエレガントなイメージとは比べものにならないくらいの食欲を見せつける。

 しかしストーリーは、ひたひたと読者の痛覚を刺激するような展開になっていく。たとえば敵のボスがいるスラム街へ二人で出かけていって敵にやすやすとつかまったボンドは、口を割らそうとする拷問で指を一本へし折られる。CIAの仲間は殴られて放り出されるだけで済む。本当はここで彼は敵と通じているんじゃないかと考えたのだが、さらに後半で彼は死に瀕するほど残虐な責め苦にあって諜報部員としての人生を終える。ボンドは同じスパイとしての連帯感から彼の身に起こった事を悼みはするが感傷的になりはしない。「死ぬのは奴らだ」という揺るぎない信条こそが、ボンドを敵へと駆り立てるのだ。

 敵のボスに囲われている一人の女性の逃亡を手助けするうちに、二人は惹かれあうようになる。前作で女性に対する嫌悪感を隠さなかったボンドにしては、あまりの惚れっぽさに女性嫌いを返上したのかと思わざるを得ない。〈不信のヒーロー〉という原作ならではのテイストから、シリーズ化を意識して著者がいくぶん路線変更したとも言える。こういう部分がずいぶんと拡大されたのが、映画のボンドの女癖の悪さなのだろう。

 映画のボンド同様、原作のボンドの惚れっぽさは幾分作品のリアリティを損ねるが、それを補って余りあるくらい全編は現実のスパイのリアリティに満ちている。映画で描かれる荒唐無稽な最新スパイグッズなというものは原作には登場しない。「夕食に行く途中で買ってきた小さなガラス切りとパテの塊で仕事にかかった。」と描写されるように、常習の泥棒が忍び込む算段をするのと何ら変わらない。が、それゆえにリアリティは格段と高まる。

 終盤で敵の潜水艇に潜入するために、ボンドは周到に潜水用具やボンベや専門の書籍などを調達させる。いわば兵站と言われることだが荒唐無稽なところは何もない。ただし何でも調達してしまう諜報機関の実力が、映画では〈最新式のスパイグッズ〉という過剰なフィクションを呼び寄せる事になったのは確かだろう。

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posted by アスラン at 02:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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