2008年01月04日

アルプスの山の娘(ハイヂ) ヨハンナ・スピリ(2007/12/31読了)

 MXテレビで再放送していた「アルプスの少女ハイジ」が年末に最終回を迎えた。NHK−BSで放映された際に保存版としてDVD−Rに焼いたので、今回の再放送は録画するつもりはなかったのだが、息子に見せたいと相方が言うので録画した。風呂からあがって寝付かせるまでの時間に見せるのに重宝なアニメではあるが、大きな問題がひとつ。親もアニメに引き込まれて手が止まってしまうのだ。

 特に僕は以前から繰り返し繰り返し見てきて全エピソードが頭に入っているので、相方からは「感情移入しすぎ」と言われるくらいドラマに入り込んで何も手につかなくなる。一方の妻はそれほどの思い入れはないので、今回の放送を見て素朴な疑問を出しては茶々を入れる。

「なぜおじいさんは山の上で一人で住んでるの?」
「ハイジのお母さんとお父さんはどうしたの?」
「あんなに人嫌いだったおじいさんはどうしてクララたちには優しいの?」
「ハイジはその後どうなったの?ペーターは?クララは?続きが知りたいね」

などと言う。挙げ句の果てに「海外旅行はスイスが良い」と言い出す始末。デルフリ村に僕ら一家が出かけるかはともかく、妻の疑問には正確に答えられない。おじいさんは確か放蕩三昧で身上をつぶしたんじゃなかったっけ?

 そもそも僕が子供の頃にはアニメは出来ていなかった。小学校の図書室で原作をリライトしたジュブナイルではじめて読んだはずだ。記憶に残るのは、やはり中盤の幽霊騒ぎ。これを読んで「夢遊病」などという不思議な病気があると知った。そしてクララが立てるようになるラスト。子供向けのお話の中でも一、二を争うドラマチックなエンディングだった。

 それからアニメにはまってレーザーディスク(いまやプレーヤーがない)のコレクターボックスを中古で購入したのが10年ぐらい前だろうか。その際に一度原作をちゃんと読みたいと思って、岩波文庫「アルプスの山の娘」(本書)を読んだ。だから今回は再読なのだ。その時は子供の頃に読んだ当時の記憶がよみがえってくる高揚感の方が大きくて、アニメと原作の違いについてはあまり気にならなかった。

 今回の再読で気づいたのは、まずアニメが原作の設定にきわめて忠実に作られている点だ。デルフリ村の様子や、アルムじいさん(おんじ)の住む山小屋、後ろにたつ3本の樅の木の様子など、ほぼ原作の描写そのままだ。しかも山小屋の中の戸棚のどの段に何がおかれているかだとか、梯子を上って丸く切り取られた窓近くにハイジのベッドを干し草でしつらえて、さあ最初の晩におじいさんがハイジが怖がってないか様子を見に来ると、スヤスヤ寝息をたてているので感心する場面などは、原作とアニメとでイメージがぴったりと重なる。

 その上で50回を越えるシリーズにするにあたって、アニメは原作の設定を膨らませたり、時に大幅に変更したりして、様々なオリジナルエピソードを作りだしている。また日本の少年少女向けにふさわしいように切り捨てたエピソードもある。

 まずは原作の冒頭でおじいさんの身の上をデーテ叔母さんに語らせているが、このシーンがアニメにはない。ここでは、おじいさんが若い頃は遊び人で、喧嘩で人を殺したこともあるという口さがない噂も語られるため、不必要と判断したのかもしれない。さらに言えば、ハイジがフランクフルトから戻ってきた際のおじいさんの改心とも呼応するために割愛されたとも言える。これは後述する。

 ハイジの父母はハイジが幼い頃に相継いで亡くなり、おじいさんは神を見限って山の中に一人で暮らし出したために、母の妹デーテと祖母がハイジを引き取った。しかし祖母も亡くなりデーテもフランクフルトで奉公先が見つかって、ハイジを是が非でもおじいさんに預けようというのが、そもそもの出だしだ。しかしアニメではその辺が曖昧なまま、ただ単にデーテの身勝手な都合でハイジが山に預けられたというように描かれている。

 ちょっと先回りして、僕は前から不思議に思っていたことがある。ハイジがフランクフルトで夢遊病になり幽霊騒ぎをおこした晩のことだ。お医者さんの助言を入れてクララの父ゼーゼマンさんはハイジを山に返すことを決めるのだが、そのシーンで下僕に「デーテを呼ぶように」と言っている。しかしその後、ハイジをアルムに送りとどけるのは執事のセバスチャンなのだ。ではデーテはどうしたのだろう。

 原作を読むとちゃんとデーテはお屋敷に来ている。ただしゼーゼマンの決定に気乗りがしない。病人のままハイジを帰したらおじいさんがなんというか分からないので、自分が付き添うには2、3日待ってくれと言って断るのだ。ゼーゼマンはデーテの心のうちを読みとって、執事に送りとどけるように命じる。ここら辺の描写は1頁にも満たないほどあっさりとしたものだ。だいたいが原作全体からしてアニメと比べると描写があっさりとしている。いかにアニメが原作のモチーフを壊すことなく、大きく膨らませたかということがわかる。

 たとえば、後半の人物の役割の変更にも原作とアニメの違いがよく見てとれる。クララのおばあさまは、フランクフルトのつらく退屈な日々をつかの間心地よくさせてくれるキーマンとしてアニメでは描かれる。勉強や規則一辺倒の家庭教師ロッテンマイヤーと好対照をなすように配置されている。原作では確かにその一面もあるのだが、おばあさまがハイジにもたらすのは教育と信仰なのだ。おばあさまの持ってきた絵本のおかげでハイジは文字を読めるようになり、泣きたくなった時に神におすがりすることで必ずや願いを聞き届けてくれると教え諭されてハイジは信仰に目覚める。

 その後フランクフルトからアルムに戻った際にも、ハイジはおじいさんに信仰をもたらす伝道師の役目を果たすことになる。おじいさんはハイジ同様に二人が再会できた奇跡を神に感謝するのだ。そして神と和解するだけでなくふもとの村の人々とも旧交を改め、あの神をもおそれぬおじいさんは人の良い穏やかな人物へと変貌する。そしてハイジのために冬の間、山を下りて村で暮らすことになるのだ。

 なぜクララを迎えるときのおじいさんは人が変わったかのように穏やかな〈いい人〉になってしまったのかという点だが、原作を読む限り理由はハッキリしている。信仰に目覚めたからだ。しかし演出の高畑勲は、このモチーフを日本版のアニメにはふさわしくないとして採用しなかった。キリスト教の信仰というテーマがわかりにくいという表面的な理由もあるだろうが、なによりハイジとクララに象徴される〈自然と文明〉の超克というのが、本作の根底にある大きなテーマだと見てとったからだろう。アニメの冒頭でおじいさんの身の上を語らなかったのも、信仰に絡んだ場面をさりげなく割愛したかったからに他ならない。その代償として、後半のおじいさんの人当たりの良さがどこかしっくりこない感じになった。

 ロッテンマイヤーさんの役割もアニメでは大きく変わっている。彼女はフランクフルトでのつらい生活の象徴的存在だ。自然とはかけ離れた文明(人工)の中で生活する人間であり、本来は山では暮らせない。そして原作ではまさにフランクフルトを離れず、クララの山行きに同行しないのだ。では誰が同行するかと言えば、クララのおばあさまなのだ。これは信仰が後半の重要なテーマであることを思えば当然なのかもしれない。しかしアニメでは自然と文明の対比を強調する必要から、ロッテンマイヤーを山に登らせている。

 もっとも、原作でおばあさんは山小屋の生活を見届けると、以後クララと再会するまで麓の温泉宿で暮らす。その間はハイジとクララ、おじいさんの三人暮らし。そこにペーターが純朴な山の少年として加わるかと思えばさにあらず。原作でのペーターの役割はあまりに愚かでささやかなものだ。クララにハイジをとられてしまったと嫉妬したペーターは、こっそりとクララの寝椅子(アニメでは車いす)を谷底に落として粉々にしてしまうのだ。

 結果的にこれがクララを立たせるきっかけになるのだが、ペーターは最後の最後におじいさんが指摘するまでバレるのおそれて怯えて過ごす。ここにも原作のモチーフである信仰の〈罪と罰〉が描かれているわけだが、アニメでは自然のすばらしさ・尊さに荷担する人物としてペーターに重要な役割を与えている。その変更のおかげで、ハイジ・クララ・ペーターの友情とほのかな恋という非常に見通しのいいドラマが実現した。

 ハイジのその後については原作でももちろん描かれてはいないが、ハイジの行く末を暗示する重要な場面が描かれている。それはクララのお医者さんの物語だ。お医者さんはアニメでも非常に魅力的で優しい人物だが、原作ではハイジが山に帰った後に最愛の娘を亡くし、孤独ですさんだ日々を送る。ゼーゼマンの頼みもあってアルムの山に来るにいたって、ハイジの歓待に心を打たれる。そして、自分に何かあったら僕の面倒をみてほしいと頼み、ハイジも聞き入れるのだ。

 二人の唐突な心の結びつきも、キリスト教の信仰に対する理解がなければ、現代人とくに日本人には納得しがたいだろう。アニメで割愛されたのは賢明な判断と言える。ただし原作では、ハイジがその後どのような人生を送ることになるかといういらぬ詮索は無用となる。なぜならデルフリ村を訪れたお医者さんとアルムおじいさんは意気投合し、おじいさんからも「自分が亡くなったらハイジが世に出られるように面倒を見てほしい」とゼーゼマンとお医者さんに託すからだ。これはハイジが〈山の娘〉としてだけではなく、クララとの友情をさらに深め〈都会の娘〉としても生きていける可能性を示唆している。

 ハイジの行く末が分かった方がなんだか詰まらないとしたら、やはりそれは僕ら日本人には信仰を主旋律にした物語がピンとこないからだ。原作のドラマがなければアニメの豊穣な物語はもちろん存在できなかったろう。だが、アニメでは信仰にまつわるすべてのエピソードを封じ込めたがゆえに、ハイジはアルムの山々とともに永遠の輝きを放ち続けることになった。

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posted by アスラン at 02:39| Comment(6) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
こんにちは。人気ブログランキングを色々見ていたらたどり着きました。
『ハイジ』懐かしいです。アニメは子どもの時に見ました。いつの間にか両親も一生懸命見るようになっていたのを思い出しました。原作は岩波ので読んだのだったか、でもここまで深くは考えませんでした。信仰は重要なテーマだったのですね。
スピリではなく別の人が書いた「それからのハイジ」というような作品があるのですが(遺族が許可したのだったか?)、ずいぶん前にそれを読んでしまったのです。まあこうなるかなというようなストーリーだったのですが、やっぱり読まないでいろいろ想像していた方が良かったかもしれません。
なんにせよ、アニメのハイジは永遠に輝き続けるというのは本当にそうですね。
Posted by コピ・ルアック at 2008年01月21日 11:55
コピ・ルアックさん、コメントどうもありがとう。
わざわざランキングで探し当ててくれて恐縮です。

「それからのハイジ」という続編が書かれていることは聞いていました。読んでみたいような、でもやっぱり読まないで永遠の輝きを封じ込めた方がいいような複雑な気持ちがしますよね。

昨日、改めて「クララが歩いた」回を観ました。初めて自ら歩く事ができたのもつかの間、恐怖感で殻に閉じこもってしまったクララが、使わないと言った車いすを出そうとして、誤って外に出してしまって粉々にしてしまうシーンがあります。

本文で書いたように原作ではペーターが壊してしまうのですが、アニメではクララ自らが壊してしまい、自らの愚かさに涙するところは本当にドラマチックです。そしてクララの気持ちを誰よりも理解して優しい言葉を掛けるおじいさんとの信頼感が呼び水になって、山の牧場でついに歩いて美しい花を摘みます。

最終回が感動的なのは言うまでもないでしょうが、本当の山場はこの回と言ってもいいと思います。原作から宗教色を脱色しただけでなく、壮大なドラマに仕立て上げられていることに改めて感心しました。
Posted by アスラン at 2008年01月27日 03:15
こんばんは。昨日、若松孝二の映画「実録 連合赤軍」の記録(朝日新聞社)を読んで、眠れなくなり(笑)、そのときなぜか突然、アルムおじいさんの過去が気になり、どうしようもなくなって、いろいろ調べているうちに、こちらも拝見しました。
(なんという飛躍・暴走! )

アルムおじいさんとは、どういう人だったのか?

wikipedeiaでは、おじいさんは傭兵の過去があり、息子(ハイジの父)は傭兵として死んだ、という記述があり、びっくりしています!(他にはない、記述。)

いろいろ原作とアニメの比較を懇切に解いてくださり、ありがたかったです。
アニメ版の脚本が、若松孝二の映画とも関係の深い、天才的な脚本家・佐々木守さん(故人)なのも、非常に不思議な感じがしております。



Posted by チャーリー at 2008年05月27日 04:06
チャーリーさん、コメントありがとう。
若松孝二の映画、評判が良いようですね。僕も見たいとは思いつつ、その余裕がなく残念です。そこからアルムおんじへと連想が進んだのは、やはり山荘が舞台だからでしょうか(笑)。

ところで佐々木守さんと若松監督の浅からぬ関係があるとは知りませんでした。佐々木さんが亡くなった折には、実相寺監督とのつながりやハイジの脚本の事などを書いてお悔やみといたしました。その記事も良かった読んでみてください。

 ところでWikiの傭兵うんぬんの記述を読んでみましたが不可解です。原作にはそのような記述はありません。もし原作にもオリジナルと普及版との改稿などがあったのでしたらうなずけますが、そのような話は寡聞にして聞きません。
 
 おんじの過去は詳しくはわからないがとデーテは断っています。酒とばくちで身上をつぶしてしまったと書かれています。その後戦争に行ったというのも人の噂としています。故郷に14,5年ぶりに戻ったときには息子を連れてきて、大工に弟子入りさせます。一人前になった息子はハイジの母となる女性と結婚するも不慮の事故で亡くなり、悲嘆にくれた妻も後追い自殺します。残されたハイジは妻の父母に押しつけ、おんじは世を恨んで一人山の中で暮らすようになったのだと書かれています。

 「ハイジ」には続編があるそうです。もちろんヨハンナ・シュピリの死後に別の作者によって書かれたものですが、ひょっとするとそこでおんじの過去をまことしやかに説明しているのかもしれません。あくまで推測ですが。
Posted by アスラン at 2008年05月28日 03:16
ハイジの日(8月12日)にネットを巡ってここに来ました。
原作を読んでいなかったので、色々と興味深いレビューでした。ありがとうございます。
ただ私は、ハイジがフランクフルトから山に戻ってきてからのアルムおんじの人当たりの良さに違和感はありませんでしたよ。ハイジが戻ってきてくれた嬉しさで、それまでの反動として緩んじゃった?(笑)くらいに思えるんですが。私は単純ですから;人それぞれなんでしょうか。
信仰に関しても大事な文化ですしね。
うわさの「アデレート」ともども原作をそのうち読んでみたいです。もちろん日本語で。
Posted by 砂咲 at 2013年08月13日 10:16
砂咲さん、コメントをどうもありがとう。

ハイジの日なんてあるんですね。知りませんでした。
アルムおんじの件ですが、確かにハイジが戻ってくれた事で緩んだという解釈もできますね。それもこれも高畑勲さんと脚本家の佐々木守さんが苦心した結果だと思います。

ただし、一度でも原作を読んでしまうと、おんじが何者かに感謝したと思わせるシーンがアニメ版にはないという点が、原作とくらべて物足りなくなります。それほど原作のおんじの豹変ぶりは凄まじいからです。

ぜひ、原作を読んでみてください。ちなみに、まさか勘違いなさってないとは思いますが、もちろん僕も「原書」を読んだわけではありません。原作=翻訳で読みましたよ。この作品は最近ではアニメから入る児童はほとんどなのかもしれませんが、僕らの世代では、まずは学校の図書館などの児童書が先です。児童書はアニメ以上に大人の事情は語られないので、一度は原作の衝撃に触れてみるのもいいかと思います。
Posted by アスラン at 2013年08月22日 12:59
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