そもそも今回の展示に直筆原稿が何点か展示されてはいるが、「坊っちゃん」の原稿はなかった。直筆原稿はファンのなぐさみとしてただ鑑賞するだけなら、「吾輩は猫である」(以下「猫」と略す)であろうと「明暗」であろうと構わない筈だ。だが「坊っちゃん」の原稿だけは少々いわくがある。雑誌ホトトギスに掲載した「猫」が好評だったために、引き続いて高浜虚子の依頼に答えて漱石が書き上げたのが「坊っちゃん」だった。実は、掲載された号では付録として巻末に置かれ、本文の方には「猫」が連載中だった。
その辺の事情を深読みした批評家・江藤淳は漱石が日頃の鬱から解放されて、乗りに乗って「坊っちゃん」を書き上げたと分析した。その根拠のひとつが、日記や手紙から逆算した3週間たらずという日数であり、もうひとつが直筆原稿の直しの少なさである。江藤淳はさらに論を進めて、この尋常ならざる筆の速さに、鬱からの解放だけでなく自らが所属する大学への不満や、金や権力に流される世間の風潮への怒りを込めたからではないかと書いている。さらには清との心暖まる関係に、密かに思いを寄せていた嫂・登世への思慕を込めたと解釈したのは有名な話だ。
そうなると〈直しが少ない〉という直筆原稿を一度は読んでおきたいと思うのファンとしては当然だろう。ところが、これが結構大変な事だと思い知ることになる。巻頭に「直筆原稿」を読み出す素人読書家へのガイドを秋山豊が書いている。彼は岩波書店から出されている最新版の「漱石全集」の編纂に関わった人物で、まず重要な指摘をしている。それは世の誰もが原稿通りの「坊っちゃん」を読んでいないという事実である。
これはホトトギス掲載時にすでに誤字が混在していることがまずある。その上漱石死後に出版された岩波最初の「漱石全集」が、その後の「坊っちゃん」出版の際の底本になり、原稿が顧みられることが少ないということがある。現在にいたるまで状況はあまり変わっていないようだ。特に有名なのが「足駄」がホトトギス掲載時に「雪駄(せった)」に間違えられた箇所だ。直前に例のイナゴ事件の主役「バッタ」がでてくるので、「バッタ・雪駄」という軽妙な語呂合わせだと解釈されてしまった。
しかし直筆原稿にははっきりと「足駄」と書かれている。イナゴをしこんだ寄宿生たちが主人公の数学教師への嫌がらせから二階で一斉に〈足踏み〉する場面があり、それを指して漱石は「足駄」と表現したというのが正しい解釈で、最新版「漱石全集」では改められた。
こればかりではなく、今僕らが文庫本などで読める「坊っちゃん」は、漢字が旧字から現代表記に改められたり、適宜ひらがな表記に置き換えられていたりする。漱石は旧かな遣いはしていないが、たとえばタイトルの「坊っちゃん」は「坊っちやん」と書いているし、「赤シャツ」を「赤シやツ」などと書いている。「ゃゅょ」を「やゆよ」と区別しないで書くのは当時の書き方だが、カタカナにひらがなを混在させるのは漱石の書き癖のようだ。
僕自身は「坊っちゃん」を最初に読んだのはたぶん新潮文庫だったと思う。その後、大学時代に筑摩書房の「漱石全集」で改めて読んだ。ルビはついているもののおそらく文庫本とは表記の違う「坊っちゃん」に初めて触れたと記憶している。当然ながら全集ですべての小説を一通り読んだから、漱石の表現についてはかなり慣れ親しんだと思っていた。たとえば今なら「馬鹿みたいな」と書くところを「馬鹿見た様な」と書くとか、「可成」と書いて「なるべく」と読ませたり「六ツ敷い(むずかしい)」などと書いたりしている。
漱石の追っかけとして非常に穿ったこともしていて、「夏目漱石全一冊」から初期短編を拾ってひたすらテキストに起こすという苦行(いや追っかけには至福の行為)を続けて、校正してレイアウトを決めてプリントアウトし、装丁をつけて一冊の本にしてしまった。題して「漾虚集」。最初に出版された短編集のタイトルだ。「夏目漱石全一冊」は一ページ4段組で漱石の全小説が収まっている。ルビはほとんどついていない。テキストに起こすためには、かな漢字変換に頼るだけでは無理で、漢字コード表とにらめっこしては文字を探しだすという手間をかけた。当時はまだATOKに手書きパレットなどはついてなかったから大変だった。
しかしこれだけの経験ではまだ漱石の直筆原稿は読めない。まずは変体仮名に慣れることが先決だ。仮名はよく知られているように、ひらがな・カタカナそれぞれが、同音の漢字の一部から採られている。ところが漱石の時代には、日記などに変体仮名を使う人が多くみられた。要するに通常とは別の漢字の一部から作られた仮名のことだ。当然ながら形が違う。違うだけでなく見たことがない。もしくは別の漢字か仮名に見えてしまう。
加(可)-->か
波(者)-->は
仁(爾)-->に
括弧内の漢字が変体仮名の元となる漢字で、漱石の直筆原稿では「か・は・に」は「可・者・爾」をくずした表記が使われる(コードがないのでブログには書けないのが残念だ)ので、そのままでは読めない。読み進めるうちになんとか読めるようにはなるが、鰻屋の看板が「うふぎ」と読めてしまうように、意識して読んでいかないとすぐに躓く。
その他に漱石自身の誤字や崩し字などがところどころに出てきて、やはり躓く。そこで役に立ったのは「漾虚集」を自分で作った際の経験だ。なんとなく前後の文章を読めば、こういう言い回しなんだろうなと当たりがつく。そうなれば、そうは見えなくてもこの字に違いないと推理が働く。
そんなふうに躓き躓きしながらなんとか読み終えた。読み終えてみれば、やはり「坊っちゃん」だから読みとおせたという気がしないでもない。元々主人公の一人称の語りで、江戸っ子のべらんめえ調が落語のようにつるつると呑み込めて引っかかりが少ない。リズムを意識して読めば直筆の躓きなど些細なことに思えてくる。
秋山豊も指摘しているように、〈直し〉は意外に多い。ただし細々とした手直しが主で、基本的な骨格が変わるような重大な手直しは見られない。それは、非常に典型的な人物ばかりが出てくるシンプルなストーリー構成だからだと思っていたのだが、そうとばかりは言えないようだ。性格的には気に食わない赤シャツや野だの親切を鵜呑みにしてしまう主人公が、逆に気性は合いそうな山嵐の親切を誤解するところから始まって赤シャツの奸計に気づくに至るまでに、なんども心の揺れ動きがある。冒頭から中盤すぎまでは読者をじらすような心理描写が続く。先の展開が気になるような語り口は見事だ。シンプルなのは人物設定だけで、なかなか見かけほど侮れない作品だ。



