2007年12月11日

本格小説 水村美苗(2007年10月26日読了)

 本書の冒頭に、二組の家の戦前から戦後にかけての家系図が掲げられている。一族の争いを描いた大仰なミステリーならば馴染み深いが、いまどきの小説では久しくみられない趣向だ。こんな図にどんな意味があるのだろう。図を眺めても、ミステリーの核心を封じ込めた横溝ミステリーのようには複雑な人間関係は見えてこないし、歴史上の人物を輩出した一族の歴史が立ち上がってくることもない。無名の人々の名前が、親と子・姉妹・夫と妻という関係がかろうじてわかる程度に、平板に列挙されているだけだ。しいて言えば、一カ所点線で結ばれている一組の男女については人間関係が不確かだ。

 もう一度問うてみよう。こういった無名の人々の、さして複雑でもない家系図を掲げることにどんな意味があるのだろう。読み進めるうちに、決して多くはない登場人物の人間関係はすんなり頭に入るだろう。家系図をしげしげと眺めて、確認しながら読み継ぐ読者は少ないように思える。それが僕にはずっと引っかかっていた。

  しかし本書読了後に、書店でエミリー・ブロンテの「嵐が丘」を手にとって引っかかりが氷解した。「嵐が丘」の冒頭にも本書と同様な家系図が掲げられているのだ。つまり著者が「嵐が丘」のような大河小説を書くことを目指したのは疑いない。

 では「嵐が丘」という小説を含めて、こういった趣向にどんな意味があるのかという素朴な疑問がわいてくる。「嵐が丘」にしても込み入った家系図には見えない。しかし本書を全編を通して読むにつれて、読む前とは違った意味合いが見えてきた。それは無機質な系図とか先祖の一覧といったものではなく、〈必ず死すべき運命にある人間の生々しい記憶〉という意味合いだ。と同時に、読み終わったあとに家系図を改めてたどると、生きる事の切なさと虚しさに胸ふさがれる思いがする。こんなことはもちろん、十代や二十代の時分には起こり得なかった感慨だ。それは、いままさに人生の黄昏を迎えようとする肉親を目の前にしているからこそ起こり得る感情に他ならない。

 人間が死に、一つの家族が消えることによって、この小説の主人公が暮らした軽井沢の古い日本家屋のように、一つの家が主を失って朽ち果てていく。ある一つの恋が終わりを告げて米国に隠棲しようとする男は、家屋の痕跡さえ残すのを嫌って取り壊しを望む。一年もたたずに軽井沢の閑静なイメージとは無縁の荒々しい〈自然〉に呑み込まれた野原が残されるだけだ。では一人の人間なり一つの家族なりが生きた証など、どこにあるというのだろうか。

 〈本格小説〉と名付けられたこの小説は、アメリカという異国の地で生まれ育つことを余儀なくされた著者が、長年心に育んできた〈今はなき日本〉への憧憬と、〈今ある日本〉に見いだせない日本人としてのアイデンティティを一挙にかなえようとする、やはり〈私小説〉の延長だといえる。前半にかなり長めの私小説パートが挿入されるのは、そういった事情が著者にあるからだろう。

 そしてそういうわけであるから、〈今の日本〉にさえ既に自分が生きてきた場所とは異なってしまったという疎外感を感じる人間ならば、この小説に流れる滔々とした至福の時間に心を奪われるだろう。と同時に、戦前から戦後という大きな一区切りを生きた無名の人々の行く末を、自分たちとその親・兄弟たちが生きたたかだか数十年とオーバーラップさせて読む事も可能なのだ。家系図に封じ込められた意味とは、きわめて私的な、きわめて濃密な自らの〈生きた証〉に違いない。
 
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posted by アスラン at 18:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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