2007年12月01日

フェルマーの最終定理 サイモン・シン

 毎年このブログで〈夏の文庫フェア〉の比較記事を書いている。言うまでもなく「新町文庫の100冊」「ナツイチ」「発見。夏の百冊 角川文庫」について、それぞれ一年前のラインナップと比較検討してみるという趣向だ。今年は角川の小冊子が様変わりしておもしろかった。それに比べると〈新潮100冊〉は、ここ数年は変化に乏しくてナツイチと比べても面白味に欠ける。

 そんななかで今年2007年の〈新潮100冊〉の最大のトピックは何かと問われたらまず「本書(文庫版)が入った事」を挙げたい。一年前に文庫化されたときもうれしかったが、〈新潮100冊〉に入った事はとびきりうれしい事件だった。思えば2000年に単行本が出て何気なく買って何気なく読みだしたら、あまりの面白さに感動した。題材への関心が高かったのは確かだが、感動させられるとは予想外の出来事だった。というのも、この種の自然科学や数学の一般書というのは概して読みづらく、素人にはハードルが高いことがしばしばあるからだ。

 その理由については後で考えてみたいが、まずは読了後に本好きの知り合いに片っ端からオススメしまくった記憶がある。なにしろ読みやすくておもしろくて、その上感動できるというのだから、誰かにオススメしたくってしょうがない。オススメするポイントはこうだ。

 天才数学者フェルマーが書きあらわした草稿には、ある定理とともに「私はこれを証明できたが、余白がないのでここには書かない」という走り書きが残されていた。フェルマーの死後公表されたこの定理と走り書きをめぐって、以後300年の長きにわたって様々なドラマが生まれた。なんといっても失恋で自殺を思い立った一人のアマチュア数学者が、この定理のおかげで直前に思いとどまったとしたら、そんなドラマの数々を読んでみたくはないだろうか。

 そう煽りたてて読書仲間を巻き込んだ。別に嘘を並べたわけではない。今でも関心を持ってくれる人がいれば同じように煽りたてるつもりだ。この書評を読んだ見ず知らずの方が、知り合い同様に本書を読んでみたいと思ってくれれば、こんなにうれしいことはない。

 1993年に世界中に衝撃的なニュースが駆け巡った。あの有名な〈フェルマーの最終定理〉が証明されたという話題だ。日本は昭和から平成に変わってはや五年。そろそろ昭和生まれが旧人類扱いされだす頃の出来事だ。ところが、このフェルマーの最終定理というのは、昭和だ、大正だ、明治だなどというどころの話ではない。なにしろ300年もの時をさかのぼらねば話は始まらないのだ。

 そこまでさかのぼる前に個人的な出会いを蒸し返したい。というのもフェルマーの最終定理が専門家(数学者)以外にどの程度知られているか疑問だからだ。アマチュアを含めた数学者には超有名な定理だし、理系で数学好きの人ならば知っている確率はかなり高い。しかし数学嫌いもしくは文系の人には無縁のトピックだろう。少なくとも1993年以前には。

 僕は数学が得意だったわけではないが〈好き〉ではあった。高校の頃、そろそろ受験のために理系・文系に分かれて必要な授業を選択する時期になっていたが、僕はあまり受験に役立ちそうにない「整数」という授業を取った。これは整数の性質を様々な定理と証明で学ぶ授業で、受験のテクニックをみがくよりも数学の基礎を形作っているものの美しさに触れる時間だった。だから一生懸命学んだ記憶はない。先生の説明を聞き流しながら教材のあちこちを読みかじっていたように思う。

 教材は、かの矢野健太郎先生監修のモノグラムだ。コラムにこぼれ話として〈フェルマーの大定理〉のエピソードが載っていた。たしかフェルマーには大定理と小定理があって、大定理の方が〈最終定理〉にあたる。フェルマーは、この定理を草稿に書き記すと同時に欄外に罪作りな走り書きを残した。罪作りだというのは、その後の数学者たちの叡智を持ってしても、フェルマーが解いたと書いた証明にたどりつけなかったからだ。当然ながら僕が初めて知った当時も未解決のままで、小さなコラムの中でひときわ魅力的なエピソードとして輝いていた。そういう次第だから、地味な授業に彩りを加えようと先生がわざわざ詳しく解説してくれたはずだ。そのときから僕の記憶の片隅には〈フェルマーの大定理〉がしっかりと居座ってしまった。

 英国の数学者アンドリュー・ワイルズは僕より10歳ほど年上で、僕が生まれた翌年に数学パズルの本でこの定理と出逢っている。当然ではあるが、僕の出会いのように〈定理のドラマ〉に魅せられただけでなく、定理を証明するほうに関心を持つこととなった。こう書くと、幼いころから僕ら凡人とは違うものだという月並みな感想になってしまう。ただし、この定理そのものは素人でも解けるんじゃないかと思わせるようなシンプルな式とシンプルな言葉から形作られていると、著者のサイモン・シンは指摘している。誰にでも定理の意味は理解できる。実に分かりやすい。しかもある種の美しさが感じられる。

x^n+y^n=z^n (nは3以上の整数)

を満たすような整数の組(x,y,z)は存在しない。

というのが〈フェルマーの最終定理〉だ。これが取っつきやすく感じられるのは、nが2の場合が「ピタゴラスの定理」になるからだ。〈ピタゴラスの定理〉を知らない人はおそらくいないだろう。この定理がが分かりやすいのは、あらゆる直角三角形の3つの辺の関係を表しているからだ。そして当然ながら〈ピタゴラスの定理〉の場合は(x,y,z)が整数となる組は存在する。問題は乗数(べき数)が3以上の場合に同様な解が存在するかという事にある。

 ピタゴラスの定理が直角三角形と直接結びついていたのとは違って、フェルマーの最終定理自体は何か具体的な対象と結びついているわけではない。が、ピタゴラスの定理を満たす整数の組が特権的な美しさを持つのと同様に、べき数を3乗、4乗…と上げていった場合にも整数の組があれば美しいだろうという、数学自体の美への追求がある。それはギリシャの数学者ピタゴラスから始まった。ピタゴラスにとって数学とは数にひそむ美を追求することだったからだ。

 数年前にベストセラーになった小川洋子著「博士の愛した数式」でも、記憶が90分しかもたない数学者が愛する様々な数のひとつとして28があった。敬愛する元阪神の江夏投手の背番号であると同時に、〈完全数〉と呼ばれる特権的な数字であることが作品の重要なモチーフになりえたのも、その性質の美しさゆえだ。完全数では、自分自身をのぞいた約数を合計すると自身になるのだ(1+2+4+7+14=28)。

 そしてフェルマーの最終定理も美しさに見合ったエレガントな証明があるはずだと、数学者たちはこぞってチャレンジしたが、ことごとく挫折した。今ではフェルマーの解法は間違っていたとする説と、フェルマーの証明はワイルズの証明とは別物だとする説の両方に意見が分かれるらしい。そしていまだにフェルマー自身の証明を追い求めるアマチュア数学者は結構いるそうだ。先日読んだ「角の三等分(矢野健太郎著)」に出てくる〈角の三等分屋〉と何やら似ている。

 300年かけて証明された事で一躍有名になった〈フェルマーの最終定理〉だが、実を言えば本書を読んだところで素人が理解できる代物ではない。いや専門家と言えども簡単には読み解けない。論文にして100頁以上の量がある。数論の最新テクニックを総ざらいするかのような見事な証明は、ワイルズの丸7年もの数学者人生を賭した賜物と言えそうだ。

 あまりにビッグなトピックなので様々な啓蒙本が出版されたが、内容が内容なだけに少しでも専門的に偏れば一般人には分からないし、簡単にさらえば蘊蓄の一つには消化されるだろうが感動することはできない。素人が数学における意味を理解できて、かつ定理にまつわる人間ドラマに感動できるというまさに離れ業を、著者のサイモン・シンは実現した。一言で言えば、シンはどんなに高度で難解な問題を対象にしても、門外漢に理解させる表現や切り口を考え抜いて決してあきらめない。〈どんな偉業がなされたのか〉を間近に触れてみたいという、読者の貪欲な好奇心を確実に満足させてくれるような文章なのだ。

 なぜこんな離れ業を達成できたのかは著者の経歴と無縁ではないだろう。著者の専門は物理学であって数学ではない事が幸いした。往々にして数学の啓蒙書がつまらないのは、題材の魅力に比して一般人にはわかりにくい言葉や数式で書かれているからだ。数学者にはそれ以上分かりやすく書けないのだ。わかりやすさは時として正確さに欠けるからという言い分も成り立つが、単に分かりやすく書く文才に乏しいだけだとも言える。その点、サイモン・シンは英BBCテレビのプロデューサーの仕事についた事もあって、わかりやすく一般視聴者に伝える事に絶えず腐心してきたのだろう。

 さきほど本書では〈人間ドラマ〉に感動できると書いたが、〈数学とって今回の偉業がどんな意味をもつのか〉を正確に伝えるという事が、著者の大きな野望のように感じられる。〈数論〉という分野は数学の基礎付けには貢献したが応用に乏しく、〈フェルマーの最終定理〉を解いたところで歴史的な意義しかないと長く考えられてきた。しかしワイルズが証明に用いた数論の最新テクニックは、コンピューターを利用した数学の新たな応用に多大な貢献をしている。その一つが暗号化技術の近年の著しい進歩だ。そしてまさに次回作「暗号解読」へと著者の野望は広がっていく。ここにも様々な数学と人間とのドラマが僕らを待ち受けているのだ。それを美しくわかりやすく伝えられるのは、サイモン・シンという希有な作家をおいてはいない。

(関連記事)
  『新潮文庫の100冊2006』VS『新潮文庫の100冊2007』
  角の三等分 矢野健太郎

(関連図書)

 

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posted by アスラン at 16:14| Comment(0) | TrackBack(1) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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サイモン・シン著「フェルマーの最終定理」感想
Excerpt: ★★★★★ オススメです! 数学界最大の謎とされていた「フェルマーの最終定理」こ
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