2005年09月16日

ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18 小森収 編(その5)

 若島正「明るい館の秘密―クリスティ『そして誰もいなくなった』を読む」は刺激的な文章だ。

 ミステリーファンなら一度は読んだ事があるだろう『そして誰もいなくなった』を実は誰ひとりとして正しく読んでなかったと迫るような見事な読み直しを若島は提示して見せる。

 『そして…』は外界と隔絶された孤島に集められた見ず知らずの十人が次々に殺され、最後に全員が死んでしまう。当然ながら犯人は存在するわけで、著者は流れついた瓶に入った犯人の手記から如何に犯行を実現し自らも命を絶ったかを自白させてミステリーとしての結末を着ける。

 ただ若島も指摘しているように、この結末はそれほど面白いわけではない。要は犯人が殺されたと偽装しているだけだからだ。

 だがたとえ結末がミステリーとしての体裁を整えただけに見えたとしても、十人全員が殺されてしまうという着想と、そこに至るまでのサスペンスは申し分ない。

 その後同様なテーマは様々な形で描き尽され、日本でも「嵐の山荘もの」と言うヴァリアントを生んだ。例の金田一少年の事件でもおなじみの趣向だ。いや何より「13日の金曜日」に始まるホラーの一大ジャンルにまで発展したと言っていい。

 それを思うと『そして…』はミステリーではなくサスペンスやスリラーだと勘違いしてもあながち間違いとは言えないだろう。いわゆる謎ときゲームとして読んでも手掛かりは少ないと言う印象があるからだ。だから犯人があかされると意外でもない代わりに納得もしにくい。

 それを著者クリスティの意図だとあなどった評論家・各務三郎は「クリスティ自身に、手がかりを与える気など最初からなかったからである」と例証も与えずに印象批評を展開する。(彼の本書でのスパイ小説評論も戯れ言だったとは前に書いた。)

 クリスティの意図はどうであれ多くの読者にとっても犯人当ての興味よりサスペンスの満足感がまさる事が、いまなお新たな読者を惹き付ける理由だろう。

 そして若島の関心もここにはない。犯行をどう実現したかという事よりも、どうやって犯人である事をばらさずに十人全員の心理描写を実現できたかというクリスティの叙述トリックの巧妙さこそ語られねばならないと若島は言う。

 クリスティの叙述トリックと言うと「アクロイド殺し」が引き合いに出されるが、若島は用意周到にその違いをこう説明する。

しかし、『そして誰もいなくなった』の場合は、まったく事情が異なっている。つまり『アクロイド』の一人称に対して、『そして誰もいなくなった』はいわゆる全能の話者による三人称の語りなのだ。三人称の語りにおける地の文は、読者が真実として受け取らなければしかたがない。鵜呑みにできないのは、登場人物たちの会話である。しかし、クリスティの独創性は、そこに登場人物たちすべての心理を直接に書き込んだところにあった。

 つまり、十人が全員、小説の中で心の声を独白している以上、犯人は自分が犯人である事を隠して独白できないはずだ。なのに読者は犯人だとは見破れない。これこそが、クリスティが自伝で「実現困難なアイディア」と自負した叙述トリックに他ならない。

 若島は本論の後半で、この叙述トリックが如何に巧妙かを事こまかに分析しているから、興味のある人はぜひ読んでほしい。

 簡単に要点を説明する。『そして…』には登場人物の独白が列挙される箇所がいくつかあるが、誰の独白かは明示されない。そしてどの独白も「犯人は誰だ?」と他人を疑っているように読める。

 手がかりを与える気がないと各務が難癖をつけたのはまさに「誰の独白か特定できない」こういう箇所のはずだ。ところが注意深く言葉尻を捉えると論理的に誰の独白か特定できるというのだ。

 特定できたとしてもみんな自分は犯人ではないような顔つきの独白ばかりだ。ならば犯人が嘘の独白をしている(もちろん三人称では嘘はルール違反なのだが)か、犯人と分かるような独白は一切書かれていないかのどちらかだ。もしそうならまたもや著者は手がかりを隠していると非難されるだろう。

 ところがクリスティは犯人に本当の事を独白させている。それも犯人として考えてる事を独白させるのだ。なのに読者が気づかないのは誤った解釈をさせるように表現を選んでいるからだ。

 一例は「私だって(死ぬのは)怖い」という犯人の独白が、殺されるのが怖いと読者には読めてしまうのだが、実は不治の病にかかっている犯人の気持ちを言っている。これがクリスティが仕込んだ手品のタネだった。

 面白い。面白いが何故若島が指摘するまで誰も気づかなかったのだろう。若島は言う。『アクロイド』は一人称の語りが最後にトリックを説明できる。しかし『そして…』の三人称の語りが仕掛けた叙述トリックは犯人の知るところではない。だから結末の手記には書かれないし、「実は…』と言って語りが舞台裏から姿を現すわけにはいかない。

 なるほど納得できそうだが、いや待てよ。ならばこの叙述トリックは誰のために仕掛けられたのだ?タネあかしが作中に無ければトリックが存在した事さえ読者は気づかないではないか。

 この点でも若島はソツがない。『アクロイド』で散々非難された叙述の問題点をうまく解決し、批判をあらかじめ封じておいたのだと書いている。つまり誰のためのトリックかと言えば、ミステリーのあら探しをする批評家やマニアックなミステリー研究家たちと言ってもいい。

 さてここら辺で例のセリフを入れるとしよう。これはやっぱり奇妙な話ではないだろうか?学者先生の考える事は微にいり細をうがつ細心さであるが、若島さん自身の言葉を借りて言えば、丸いものを四角いと言っているとしか思えない。何故か?

 先に取り上げた「私だって(死ぬのは)怖い」という独白には犯人が不治の病だからという叙述トリックが隠されていると若島は言うが、犯人が不治の病にかかっているのは結末の手記の中でようやく明らかにされる事だ。独白を読んだ時点では読者には論理的に犯人を推定できないわけだ。

 にも関わらず若島は「小説全体は論理的に構築されている」と分かったような嘘をつく。いや曖昧な表現で誤読を誘うと言った方がいいか。こういう構成を普通「論理的」とは言わない。つじつま合わせもしくは詭弁と言うのだ。叙述トリックを成立させているのは、独白を読んだ時点で著者にしか知り得ない事実に基づいている。いわばこれは著者の「後出しジャンケン」に等しい。だとしたら何故、若島はこのクリスティの詭弁を巧妙な叙述トリックだと見たのだろう?

 それは、すべてを読み終わった後で「何故犯人が犯人と見破れなかったのか?」という素朴な疑問の答を再読に求めるあまりに、重要な因果関係の罠に落ちてしまったからだ。つまりトリックを仕掛けた時点よりも後に分かる事実は、トリックの構成要素にはできないという原則を見落としてしまったのだ。なによりこれは再読の弊害というべきだろう。

 若島は本論の冒頭で「推理小説とは、本質的に再読を要求されるジャンル」だと書いている。確かに重要な手がかりを読み損なう迂濶な読者もいれば、タネあかしの後で著者の仕込んだタネを確認してまわるマニアックな読者もいるだろう。いずれにしても結末で探偵なり犯人なりがトリックのタネあかしをするからこそ再読の欲求が生まれるのであって、前にも言ったように作中でタネあかしがされないトリックを再読で読み解こうとする読者はそうは多くないはずだ。

 ここで読み解かれた叙述トリックは再読の達人・若島の独創と執拗な分析の賜物であって、ある意味賞賛に値するが、普通の読者が容易にたどり着ける分析ではない。現に僕は『そして…』初読時に、登場人物の独白の列挙された部分をどれが誰の独白かを特定する事なく読み飛ばした。そんな手間暇かけずとも十分にサスペンスに満ちたストーリーを味わえたからだ。今まで何度となく再読しているが、相変わらず独白の人物特定などあきらめている。

 さて長々と作品論を書いてしまったが、ようやくその4で書いた「悪意ある双生児」の話をしよう。若島正の文章は、ひとつ前の池上冬樹の文章と対をなす。それは清水俊二訳批判という一点で繋がる。それが悪意あるものだという事を言っておきたい。

 その4では池上の清水訳批判は少しながら杜撰だと思って批判した。しかし清水訳に問題がないと思ってのことではない。時代とともに翻訳は古びる事はありうる。だからチャンドラー作品の清水訳は問題ありという文章はあってもいい。でもさらに別の清水訳批判が続くとなれば、これは故意としか思えない。編者の故意である。何故だろう。清水に恨みでもあるのだろうか?

 編者の悪意をなぞるかのように若島は、「本稿を書く気になった本当の理由は、実はそこにある」と言って、清水俊二のある誤訳を指摘する。それは犯人の独白の中で、別の登場人物(女性)について「怪しいのはあの娘だ」と言っている部分だ。若島は「あの女を見張っていよう」というのが正しい訳で、清水訳だと犯人が自分が犯人でないかのような独白をしている事になってつじつまが合わなくなると憤慨している。訳者ともあろうものが一読者と同じように著者の叙述トリックに引っかかって誤訳しているのは何事かという言いぐさである。

 清水俊二の訳は普通ならば誤訳と言えるものではない。意訳である。しかも犯人の独白と気づいていないために「怪しい」という犯人らしからぬ表現を加えてしまった。若島にすれば「怪しい」と書かれてしまっては、せっかくの巧妙な叙述トリックが台無しだと思ったのだろう。

 しかしこれは清水に酷な要求である。ここまで書いてきて分かるように叙述トリックは若島の独創であり、緻密な再読によりクリスティがつじつま合わせにこだわっていたと知る事なしには訳し方を工夫するのは難しい。ましてやたとえ訳者と言えどもあの独白の人物特定は若島が言うほど簡単ではない。ならば清水訳の一文をとって誤訳よばわりするのは僭越以外の何物でもない

 この最後の2つの文章の意図はどこにあるのか?清水訳批判を多少なりともとりあげた文章を並べた編者の意図はあきらかだ。片やハードボイルドの話で、こちらは本格ミステリー。話自体に繋がりはない以上、清水訳批判が編者のねらいなのだ。それは何故か?分からない。前書きには記述はなく、あとがきはない。一言もない事がかえって邪推を生む。これが極めつけの悪意だ。

 これだけ悪口書きまくったら、この本読みたくなりません?僕だったら読むかも。あれぇ、変だなぁ〜。

↓クリックの応援よろしく!
banner_04.gif
人気ブログランキング
posted by アスラン at 04:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。