2005年09月13日

ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18 小森収 編(その4)

 さて、長々と続いた本書の批評も今回と次回でおしまい。ここまで引っ張ったのは、やはりミステリー好きだからだ。特に本格ミステリーが好きではあるが、学生の頃と違ってゴリゴリのパズラーは卒業した。それよりもっと幅広くミステリーの可能性に出会いたい

 それには本書のようなミステリーを論じた本に啓発されるのが手っ取り早い。問題があるとしたらこの手の本を読むと、僕の読みたい本リストがあっという間に増殖する事だ。ただでさえ読みたいリストは増える一方だと言うのに。

 ところが本書に限って言うなら増殖はほとんどなかった。北上次郎のおかげでジェイムズ・ボンドシリーズとディック・フランシスの競馬物が追加されたから冊数的には収穫は多かったと言えない事もないのだが、13人の論客を集めたわりには得るところが少なかった。

 その理由が編者の選択の偏りにあるのは確かで、それについては徹底的に言っておきたかった。なぜなら選ばれた文章をあげつらってはいるが各々の批評家をこれだけで評価するつもりはさらさらないからだ。

 当然ながら僕は各々の文章が書かれた文脈や時代を無視している。一部の論旨だけ批判して全体を見ないのはナンセンスだ。だからここでの批判の矛先は編者に向けられている。品揃えや並び、各々の文章に付けられた著者紹介から、せっかくの豪勢なバイキングも食い足らないあるいは胸やけぎみのフルコースに化けてしまうのだ。

 坂口安吾と都築道夫の双生児が編者の無意識から来る好みを反映した、言わば悪気のない選択だったとして、巻末に据えられた池上冬樹と若島正のもう一組の双生児の文章には、まぎれもなく編者の悪意が存在する。

 池上冬樹「゛清水チャンドラー゛の弊害について」はいわゆる翻訳批判である。海外ミステリーは翻訳の出来に左右されるのはよく言われるが、古典的作品ともなれば原書を吟味する読者も多いし、訳者の異なる翻訳も世に出るから、より厳しい眼に晒される。

 池上は翻訳家・清水俊二の訳からなるチャンドラー作品には欠点が多いと言う。もちろん翻訳界の大家を批判するにはそれなりの覚悟がいるが、既に故人ともなれば失礼を顧みるのも無用と言う事だろう。

 ただここで言われている事はとても重要で、訳者の違いでせっかくの名作が「心踊らない」作品になっているのなら翻訳家の力量を問われてしかるべきだ。ましてそれがその後の日本でのハードボイルドの受け止め方に影響を与えた可能性を示唆する池上の意見が事実なら由々しき事態と言える。

 ただ田中小実昌訳で全部訳されていたらどうなっていたかと夢想するのはいただけない。第一、池上の文章を信じるしかない僕ら読者にとって、致命的な誤訳がある、呼びかけの俗語が省略されている程度の分析で、清水訳を問題ありと決めつけていいか疑問だ。

 例えば「欠陥翻訳時評」でおなじみの別宮貞徳さんは、翻訳に誤訳はつきものと言っている。もちろん誤訳を肯定しているわけではなく程度を言っている。避けられない頻度の誤訳はまだタチがいい。問題は論旨が変わっていたり、書いてない事を訳者の想像で補ったりする欠陥翻訳がもっとも罪が重い

 さらにいわゆる直訳という下手な訳があるが、あれはたとえ間違いでないとしても読みづらかったりニュアンスが変わる。別宮は悪訳と名付けた。

 世に達意の訳文と言うのがある。美文を旨として時に誤訳スレスレの思い切った意訳をする。別宮はこれらも考えようによっては悪訳になりかねないと指摘をする一方、達意の翻訳家が減っていることを嘆いてもいる。

 さて、清水訳は池上の主張を鵜呑みにするかぎりどちらかと言うとこの悪訳に分類されそうだ。だが悪訳が欠陥翻訳に準ずるのは、まさに全体を見通した上でのニュアンスや文体の違いに他ならないからだ。この点を指して池上は清水訳の「弊害」と言っている。つまり間違いと言うよりも、ニュアンスの違いでチャンドラーを美化し、ハードボイルドをロマンティシズムに満ちたものと読者に誤解させた。その罪は重いと言う訳である。

 原文を読み比べた上で「弊害」を語っている池上に難癖をつけているようで気が引けるが、実は池上の清水訳「弊害」説には論理の飛躍がある。それは煎じ詰めれば、

 チャンドラーのハードボイルドにロマンティシズムを持ち込んだのは誰か?

という論点を曖昧なままに清水訳を非難している点だ。

 清水訳の弊害を言う以上、清水訳がチャンドラーの原作にはないロマンティシズムを持ち込んだのでなければならないが、池上は「チャンドラー作品にはロマンティックな題名が似合う雰囲気がある」と暗にチャンドラーのロマンティシズムを認めている。その上で清水訳が「チャンドラーのロマンティックな雰囲気を助長している」と一方的に責任を清水になすりつけている

 僕が考えるに池上が思わず認めた「チャンドラー作品の持つロマンティックな雰囲気」がハードボイルドの本質に関わるものなのかどうかが本来ここで問われるべき事ではないか。確かに田中小実昌訳の方が感傷を排した池上好みの訳なのだろうが、あくまでそれは好みの話にすぎない。

 もうひとつ池上の論理の飛躍がある。「チャンドラー作品の日本での受け入れ方がロマンティシズムに偏るのは清水訳の影響だ」という主張だ。まず当然ながらロマンティシズムの責任が作者にあるのか訳者にあるのかが問われるべきだが、その次に「日本の読者は何故チャンドラー作品のロマンティシズムを受け入れたか」という点も問う必要があるはずだ。ニュアンスをゆがめたことだけを執拗に池上は追求するが、そもそも日本で清水訳によるチャンドラーが人気がある点には目をつむっている。認めたくない現実だからだ。

 しかし清水訳が日本のチャンドラー作品の受け入れ方を決めたと断言するには例証が乏しい。確かに相関はあるかもしれないが、あえて言えばハードボイルドという日本文化にはなかったジャンルを受け入れるのに、ロマンティシズムがもっとも理解しやすかったとも考えられる。つまり日本人の気質にあったロマンティシズムが、まずチャンドラー作品の中で読者の目にとまったという事である。もちろんこれは仮説だ。ならば池上の主張も仮説にすぎない。

 もし清水訳でなく田中小実昌の翻訳で全作訳されてたとしたら?と問うのはいただけないと言った。もしそうなったら今ほどチャンドラー人気はなかったと答える事もできるからだ。所詮夢想だ。

 あの「タフでなければ生きていけない、優しくなければ生きていく資格はない」という有名なセリフを訳した生島治郎こそが、清水訳をチャンドラーの本質と誤解した上で自らのハードボイルドを成立させたと、池上は露骨に清水訳の影響関係を見ているが、それこそ論証の難しい仮説だろう。

 ここまで書いてきていまさら言うのもなんだが、それほど清水訳「弊害」説に異論があるわけではない。そういう事もあるかも知れないと聞き流す事もできたし、そもそも池上の主張が事実だとしても清水俊二の翻訳全部が「弊害」の一語で片づけられるものではないと思ったからだ。

 ところが編者はそうは思っていないようだ。編者は最後の最後にネガティブキャンペーンを張る。悪意ある双生児の片割れの登場である。
(続く)

参考
 ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18 小森収 編(その3)
 ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18 小森収 編(その2)
 ミステリよりおもしろいベスト・ミステリ論18 小森収 編(その1)
↓クリックの応援よろしく!
banner_04.gif
人気ブログランキング
posted by アスラン at 04:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。